インテグラル・ツリー

インテグラル・ツリー
THE INTEGRAL TREES
ラリイ・ニーヴン
1983
 スティーブン・バクスターの「天の筏」流れでの、「インテグラル・ツリー」再読。再読のはずだけど、忘却のかなたで、新鮮な気持ちになって読む。
 スモーク・リングと呼ばれる大気の輪が古い中性子星の周囲をめぐっている。宇宙の物理学のちょっとして、途方もない偶然の結果生まれた空間。それは惑星よりも広大な生命と生態系の空間の存在できる空間を生んだ。植物があり、水と空気が存在する世界。数百年前、そこに恒星船から人類が降り立った。彼らは、インテグラル・ツリーとよばれる、ちょうどS字を引き延ばした積分記号のような木の端と端のまがった部分で、自らの出自や技術を失いながら生きていた。
 主人公の若者ギャヴィングが生まれた頃には、彼が暮らすインテグラル・ツリーの端っこは、干ばつに悩まされていた。作物ができず、食料となる動物も、木の葉も穫れなくなってきたのだ。このまま、死を待つのか。
 議長は、彼の息子の死に間接的な責任をおったギャヴィングをはじめ、議長の意に染まない数人を、食料探しの旅に向かわせた。それは、ギャヴィングと一行にとって長い長い、世界の変化を見る旅になるのであった。
 インテグラル・ツリーの潮汐力による変わった空間認識。呼吸可能な宇宙。つるぎ鳥、はなうで(鼻腕)、扇子茸、ジェット莢といった変わった動植物の数々。そして、過去の科学文明をおぼろげに覚え、使いつつも、生態系に合わせて変わっていく人類の姿。
 旅をしながら成長する青年。
 さらに、全体を通じて観察者であり、解説者だが、実際には、元乗組員である人類と接触を果たそうとするちょっと惚けてしまったAIの存在。
 これぞ、エンターテイメントSF。変わった世界、変わった生きもの、変わっていても、共感可能な人類の旅と成長の物語。
 続編の「スモークリング」は未読だなあ。読もう。
(2011.06)

輝く永遠への航海

輝く永遠への航海
SAILING BRIGT ETERNITY
グレゴリイ・ベンフォード
1995
「木星プロジェクト」「星々の海をこえて」地球時代。ナイジェル・ウォームズリー。
「大いなる天上の河」「光の潮流」遠未来。キリーン、トビー。ビショップ族。
「荒れ狂う深淵」「輝く永遠への航海」時間の果て。ナイジェル・ウォームズリー、トビー。
 壮大な旅もようやく終わりとなる。トビーは、時間の河を下り、そして上る。それは、「ハックルベリー・フィンの冒険」につながる優雅で不思議な旅。その旅を通じて、機械知性と有機知性の戦いもひとつの終わりを告げる。それは終わりなき終わりである。和解でもない、解決でもない、終結でもない。
 最後に、年表がつけられている。西暦で言えば37000年を過ぎていた。35000年にも及ぶ、人類の宇宙での旅が終わる。それをずっと見続けることとなった古代人ナイジェル・ウォームズリー。彼は、何を、思う。
 このシリーズを読んでいたのは、2011年2月から4月の間。3月11日は、「光の潮流」あたりを読んでいたような気がする。地球がぐらりと揺れて、海の水が陸に溢れてきて、たくさんの人が死んだ。私は東京にいて、ラジオを聞きながら、原発事故の発生に恐怖していた。まだ、水素爆発も、ベントもされていなかったが、全電源停止の意味は、すぐに理解した。世界はあっという間に変わる。もし、この震災に原発事故の影響がなかったら、どうだったろう。もちろん、それでも3万人近い人たちが亡くなったことは変わるまい。しかし、もっともっと救援の手も早く、政府も、民間も、個人も、被災者も、ボランティアも動きが早かったに違いない。原発事故によって、人の手が、頭が、取られてしまった。地震は、いくつかの大きな余震と、それから、今後、各地で大規模な地震が起きる可能性を高めたが、ひとつひとつには対応できる。しかし、原発事故は、50日以上経った今でさえ、綱渡りであり、放射性物質の放出は止らず、地球の海を、空を、土を汚し続け、私たちを汚染し続けている。まだ、直接放射性物質の影響で死んではないが、「確率的」に未来の誰かを殺し続ける。終わらない恐怖。正しく恐れるのは難しい。とても、難しい。
 今も、地震と津波の被災者は避難者だけで12万人を超えている。
 原発事故による避難者は、これからも増える可能性がある。
 できることをするしかない。まず、生きること。そして、共に生きること。
 未来を残すこと。自分のためだけでなく、未来をつくること。
 宇宙の果てまで、うんざりしながら、ナイジェル・ウォームズリーは、未来をつくったのだ。という物語であった。
(2011.5)

荒れ狂う深淵

荒れ狂う深淵
FURIOUS GULF
グレゴリイ・ベンフォード
1994
 さて、「星々の海をこえて」から10年。前作「光の潮流」からも5年が過ぎて、発表されたのが「荒れ狂う深淵」。いよいよ、キリーン、トビーらビショップ族と、伝説の男ナイジェル・ウォームズリーが、同じ舞台に登場する。どうしてそんなことが可能になるのか? 宇宙の中心、ブラックホールの辺縁、時間と空間が意味を持たなくなる領域に、有機生命体らがなんとか生きていける作られた「エルゴ空間」があった。恒星船アルゴは、機械知性の攻撃に追われ、ポッド族の後方支援によって、なんとかエルゴ空間に逃げ込むことができた。
 ブラックホールの辺縁の世界を描き出す。これこそベンフォードがやりたかったことなのか? そして、そんなところで繰り広げられる機械知性と有機知性、それに磁気精神をはじめとするより上位の存在たちの理解しがたい戦い、生存。長く読んできたごほうびだ。でも、中途半端に終わっちゃう。やっぱり2冊セットなんだ。続編かつシリーズ最終の「輝く永遠への航海」を用意しておかないと後悔しちゃう。
(2011.4)

光の潮流

光の潮流
TIDES OF LIGHT
グレゴリイ・ベンフォード
1989
 ああ、これを書きたかったのか。「大いなる天上の河」の続編。惑星スノーグレイドを、過去の人類が生み出した恒星船アルゴに乗って脱出したキリーン率いるビショップ族。半分機械と同化して、機械を使いこなすのが得意なビショップ族たちだが、所詮「使う」であって、理解しているわけではない。恒星船アルゴは、基礎的な言語、文化、知識があることを前提に、できるだけ自動化してできた恒星船だが、惑星生まれ、惑星育ちのビショップ達は、中で火を焚く、メンテナンスを理解できない…。まあ大変なことに。率いるキリーンも大変なことに。遊牧民が恒星船という内部空間的には定住民、農耕民に変わった訳である。それでも、恒星船は設定された目的地へ進み、キリーンがニュービショップと名付けた惑星系にたどり着いた。そこで、メカの軌道基地を発見。それを奪取。しかし、その後アルゴはコントロールを失い、ビショップ族は惑星へ降り立つ。キリーンは、別行動をしており、事実上、その惑星でメカ、人類と異なる第三勢力として、メカ、人類を圧倒しているサイボーグ有機知性体に捕獲される。巨大な蜘蛛型の彼らポッド種属は、その惑星を出自とせず、とある目的でその惑星を使っていたのだ。ポッド種属は、宇宙創生期に宇宙にできた「宇宙ひも」を道具として使うほどの驚くべき科学技術を持っていた。その技術故に、惑星系でのメカとの戦いにも優勢を保つことができているのだ。クゥアートとよばれるポッド種属のひとりとキリーンが交感し、やがてポッド種属はキリーンらが、磁気知性と接触のある存在であり、ポッド種属が有機知性体の側として求めてきた秘密の鍵となる存在であることを知る。
 いよいよ物語は、ハードSFの本領を発揮する。やっぱり、宇宙にでなきゃ。宇宙ひもをコントロールして、道具として使う、なんて。うおお、と思うか、思わないか、が鍵だね。
 そのほか、宗教と科学、機械、有機、ハイブリッドの知性を通じて、知性とは、宇宙における知性の意味とは、他種族とのコミュニケーションとは、を語る。「大いなる天上の河」と「光の潮流」の2冊でセットだね。ああ、こりゃこりゃ。
(2011.4)

大いなる天上の河

大いなる天上の河
GREAT SKY RIVER
グレゴリイ・ベンフォード
1987
「夜の大海の中で」「星々の海をこえて」に続く作品。前作から遠く、遠い未来。機械知性と有機知性の銀河系をめぐる静かな、凄烈な戦いは、圧倒的に機械知性が勝利を飾っていた。有機知性は、機械知性にとっては面倒な害虫程度に過ぎなくなっていた。地球に源を発する人類は、有機知性の中では頑張っていた。一時は、シャンデリアと呼ばれる宇宙空間での大規模な人工物を建築し、機械知性と相対し、一次的な勝利を何度も得ていた。しかし、その後、人類は撤退をよぎなくされる。機械知性が見逃すと想定されるいくつかの惑星に降り、機械知性の目を避けながら、そして、機械知性と戦いながら、惑星の上で生きていた。彼ら人類は、人類であるが大きく変わっていた。人類が生み出したインターフェース、機械知性が作った工作物をまとい、遺伝子的にも改変を加えられた強力な生命力を持つ存在となっていた。可視光だけでなく、様々な波長の電磁波を見、化学物質を嗅ぎ、磁力線を感じることができ、独自のコミュニケーション能力を持つものたち。もはや、新しい工作物を生み出すことはできないが、持ち運ぶ「ご先祖」たちの知識によって「使う」ことができる存在。少しずつ知識は失われるが、生きていくことに必死なものたち。
彼らは、自らが属するグループに名を持っていた。本書「大いなる天上の河」の主人公となるキリーンが属すのはビショップ族。惑星の名は、スノーグレイド。かつては、緑と水に包まれていたが、機械知性が惑星を改変しはじめ、乾燥し、寒冷化していた。キング族やルーク族もいる。なぜ、その名がついているか、彼らは知らない。ただ、部族が集まって生きることこそが、喜びである。
 キリーンは、偉大なるリーダーであったアブラハムの息子。アブラハムは機械知性(メカ)によるビショップ族の城塞に対する攻撃で死に、キリーンは、息子のトビーと、他のビショップ族とともに、長い長い戦いと生き延びるための逃避行を続けている。トビーにとっては、物心ついてからずっと逃走と戦いしか知らない。
 メカは、執拗に人類を追い詰める。殺す、そして、時には人類の記憶や思考パターンを抽出する。メカにとっても、スノーグレイドは、豊かな星ではない。わずかな資源をめぐっての生存闘争はメカにもある。理由はない。知性と知性の、相容れない戦いが続くだけである。キリーンは、いつしかビショップ族を率いる役割を得、そして、トビーとビショップ族を生き延びさせるために自らを成長させていく。
 そして、メカの中に、マンティスという特異な存在がいることを知る。マンティスこそが、キリーンの仇敵となった。メカの中でも独自の動きをするマンティスは、何を考え、何を望み、惑星スノーグレイドの人類をどうしようとしているのか? キリーンに接触してきた磁気生命は、何で、何を目的にしているのか?
 ベンフォードは、何を書きたかったのかな? 人類の変容? 宇宙規模の戦い。知性のありよう? 生命のありよう。 うーん。ハードSFエンターテイメント?
 主人公がひたすら移動しているという点では、ロードムービー的なところもある。惑星の中だけだが、とにかく動き回っている。追われながら、追いながら。そして成長し、代わり、世界をつまびらかにする。エンターテイメントの鏡ではある。
 壮大ではあるし、80年代SFとしてはとてもおもしろいのだ。が、シリーズを通して読まないと、この本当のおもしろさが分からない。長い長いつきあいをしなければならない。
(2011.4)

星々の海をこえて

星々の海をこえて
ACROSS THE SEA OF SUNS
グレゴリイ・ベンフォード
1984
 機械知性が宇宙を支配しており、有機知性体がほとんどいない、それは、有機生命体が時間・空間に制約を受けるのに対し、機械知性体は、制約が少ない故の必然なのかも知れない。「夜の大海の中で」では1999年から2019年にかけて、ナイジェル・ウォームズリーが直面した機械知性との邂逅を描いた。同時に、人類社会の退廃も描いている。
 本書は、2056年から2061年の、やはりナイジェル・ウォームズリーの物語である。
 狂った機械知性の情報を得て、恒星間ラムスクープ船ランサー号を建造し、人類は、有機知性体の存在を求めて宇宙に出た。そこで、滅び、あるいは後退した有機知性体の存在に接することとなるが、同時に、機械知性体の存在を深く感じる旅となった。
 一方、地球上では、地球外の有機生命体が海に入り込み、海を危険な場所と変えていた。前世紀からの人類の後退は、海という共通の場を奪われることでますますその速度を高めていた。
 危機と退廃は、遠く旅立ったランサー号にも影響する。その中での、「古老」となってしまったナイジェル・ウォームズリーは、延命措置を受けながらも、宇宙の真実を求めて、ひたすらつきすすむ。人間とは、有機知性体とは、生殖とは、生命とは、そして、機械知性体とは…。
 正直、イギリス的な暗さがある。よくよく考えてみると、地球外知性体とのコンタクト物語なのである。ちょっとだけネタバレにもなるが、地球でも、恒星船がたどり着いたいくつかの星でも、有機知性体同士のコミュニケーションが成立するかどうか、というテーマが頭をもたげてくる。もっとうきうきわくわくしてもよさそうだが、有機知性体が追い詰められる宇宙という状況が、全体を暗くしてしまう。
 翻訳なのか、原文なのか分からないが、文体に癖があるので、その点は好き嫌いがはっきりしそう。
 さて、同シリーズの「大いなる天上の河」「荒れ狂う深淵」「輝く永遠への航海」「光の潮流」を、このまま一気に通して読んでみよう。
 そうそう、大切なことを忘れていた。本書のラストは結構暗いのだが、実は続きがちょっとだけある。続編?「大いなる天上の河」の下巻最後に「星々の海をこえて増補」がついているのだ。1987年のペーパーバック版が出版される際に、第10部に第8章が書き足されているのである。気になる?
(2011.2.27)

木星プロジェクト

木星プロジェクト
JUPITER PROJECT
グレゴリイ・ベンフォード
1980
 木星の惑星ガニメデのテラフォーミングがはじまった。そして、ガニメデと同じ軌道上には「ブリキ缶」が浮いていた。木星天文生物軌道研究所(JABOL)が正式名称の数百人が暮らし、研究する宇宙の孤島である。木星にいると推定される生命を探すこと、それがこの研究所の目的。長期にわたる研究活動のために、家族連れが多い。主人公のマット・ボウレスも子どもの頃地球から家族とともにやってきて、まもなく18歳となる、「ブリキ缶」しか知らない男の子。
 地球は、人口増加が止らず、飢餓と配給の世界へ。仕事が少なく、危機的な状況になっていた。そんな中で、食べ物には(それほど)困らず、全員に仕事があり、人類の夢を乗せた辺境の「ブリキ缶」。しかし、実際には、単調な宇宙空間の日々が続くだけである。
 人は、慣れるのだ。どんな環境でも。
 そして、人は育つのだ。どんな環境でも。
 環境が人を作る。人が環境を作る。
 ところで、ガニメデに生命がいるかなあ。
 火星にもいそうだよね。
 意外と生命って、氾宇宙的かも。
 早く、木星プロジェクトでも立ち上がらないかしらん。
(2011.2.14)

天の筏

天の筏
RAFT
スティーヴン・バクスター
1991
 わーい、SFだ、SFだ。これぞSFだ。おもしろいぞう。背表紙の釣書を見ると「重力定数が10億倍の宇宙に迷いこんだ宇宙船乗組員の末裔たちは、呼吸可能な大気に満たされた<星雲>で生き延びていた」とある。「重力定数が10億倍」なんて、もう、いけず、である。でも、難しいことが分からなくても大丈夫。次第に、この世界に慣れるから。小さな小さなこの宇宙の、この星雲に。そして、主人公のリースとともに、この滅び行く星雲の、滅び行く人類のコロニーの中で、夢と希望を求めて冒険し、成長し、そして旅立つのだ。
 光を求めて動く木を光をうまく遮ることでコントロールして呼吸可能な宇宙を飛ぶなんて、まるでおとぎ話ではないか。しかも、ハードSF。しっかりした宇宙ができあがり、人が生まれ、育ち、そして死んでいくのであった。
 ところで、最初に主人公が厳しい生活状況から密航し、都市に入る設定って、どこかで最近読んだような気がする。よくあるパターンではあるのだが、同じようなSFだった。最近といっても5年、10年あっという間だしなあ。それを調べ直す余裕がなくて、なあ。
 本書「天の筏」は今回、古本として購入したのだが、もしかして読んでいたのかも知れない。
 作者のバクスターが書いている通り、ニーヴンの「インテグラル・ツリー」とも設定が似ている。「インテグラル・ツリー」も遠い昔に読んでいるのだが…。覚えがない。少なくとも言えることは「天の筏」は手元になく、「インテグラル・ツリー」は手元にある。
 記憶とはおぼつかないものだ。
 おかげで、何度でも楽しめるのだが。
 さて、飢餓が迫る鉱山星のリース君、頭がよくて好奇心も旺盛。学問は体系だって受けていないけれど、科学的思考は備わっていて、原因と結果を追求する。そうして彼がたどり着いた疑問はひとつ「なぜ、この星雲は死にかけているのか」「生きる道はないのか?」その答えを知りたくて、密航し、世界を統べる天の筏へ行くのだった。
 こういう作品を若い頃に読みたいね。年を取ってくるとどうにも夢、とか、希望とかではなく、終わり、とか、悪くなる、といったことを考えがちになる。超高齢社会が近くなると、社会全体が終わりかけるような気持ちになる。それはよろしくない。どんな世界でも、若い人には夢や希望がある。世界はまだ開けていない。だから、夢や希望が必要だ。年を重ねても、夢や希望を失ってはいけない。
(2011.02.10)

デューン 砂丘の大聖堂1・2

デューン 砂丘の大聖堂1・2
CHAPTERHOUSE:DUNE 1
フランク・ハーバート
1985
 フランク・ハーバートによる「デューン」シリーズ正編の第6部、1985年にアメリカで発表され、1986年12月に日本で矢野徹により翻訳出版された。同年2月にフランク・ハーバートが亡くなったため、「砂丘の大聖堂」が最後の作品となった。日本では、それ以前の後半2作品と同様に3分冊となって発表されている。
 1986年12月といえば、私が卒論を書いていた頃である。卒論を書き、4年間過ごした都市から離れる準備を行い、就職した企業の最初の研修を受けるために一時的な引っ越しを行い、東京、大阪の研修を経て、ふたたび卒業して、離れたばかりの都市へ戻ることとなった。別れを告げたはずの友人、知人達への少し恥ずかしい再開、慣れ親しんだ都市での新しい立場、環境、生活。時代はバブル経済のまっただ中に突入していた。
 その都市の書店で本書「砂丘の大聖堂」が並んでいて、一度手に取ったのを覚えている。しかし、そのときに買わなかった。前作があまりにもややこしくなってしまっていて、追いかけるのが精神的に難しくなっていたのだ。そのことを後になって後悔することになる。
 さて、前作にて大離散を経て帰ってきたのは「偉大な誇りある女」たち。ベネ・ゲゼリットと似ているようでまったく異なる世界観を持つ女たちは、徹底的に攻撃的で功利的で破壊的な存在。いやあ怖い。ついに、デューンの舞台であり、かつてアラキスと呼ばれた惑星さえも破壊されてしまう。その破壊の中で、ベネ・ゲゼリットたちは、別の惑星に隠れ、アトレイデ家の血と、最後の砂虫を移し、新たなスパイス供給源をつくろうとする。
 激化するふたつの女たちの戦い。
 このあとどうなるのだろう。
 そして、ここにきて、地球の近現代にある「ユダヤ経」という言葉が実名で出てくる。たしかに、これまでもいろんな思想が出てきてはいたが…。ふうむ。
 希少となった「砂丘の大聖堂」は、内容よりも希少故に高くなった。数年間悩んだ末、心を決して第1巻をほどほどの値段で購入。未読・未入手は2巻、3巻。さて、どうする私。
(2010.09.10)
砂丘の大聖堂2
 ということで、買いました。amazonの中古ショップで。2巻がちょっと安くなっていたので買いましたとも。3巻は高いねえ。最後だもん、しかたないねえ。
 内容については、うーん、会話劇です。
 同時に、大聖堂の「砂丘化」も進んできます。
 以上、かな。
 果たして3巻を読む機会は来るのか?
 そして、フランクの息子は、この続編をどう書くのか?
(2011.02.01)

復讐の船

復讐の船
THE SHIP AVENGED
S・M・スターリング(アン・マキャフリー原案)
1997
「歌う船」シリーズ第7弾。「戦う船」に続く、スターリングの手による作品の主人公は、前作で晴れて宇宙ステーション頭脳シメオン・ハップと、彼のプローン・シャンナの正式な養子となったジョート・シメオン=ハップちゃん。いや、もう子どもではない。かつての天才ハッカーは、商船ワイアルの船長として、1人のクルーと、様々なプログラムを追加したAIとともに、「まっとうな」自由貿易船長をやっていた。とはいえ、そこは、シメオンとシャンナの子、中央諸世界の保安局の覚えめでたく、時には、貴重な「情報」を運ぶ仕事も請け負っていた。
さて、「戦う船」でこてんぱんにやられてしまったコルナー人宇宙海賊の生き残り。復讐と再興を誓ってふたたび中央諸世界と、彼らが敗北するきっかけとなったベセル人のリーダーを狙っていた。そのベセル人のリーダー、アモス・ベン・シエラ・ヌエヴァがコルナー人に誘拐されてしまう。この秘密奪回作戦に巻き込まれることになったジョートは、さらなる大きなトラブルに見舞われ、大借金の末、愛船ワイアルを借金の形にとられかねない事態に。さあ、どうする、どうなる。
「歌う船」シリーズの世界で、主人公がついに頭脳船でも宇宙ステーション頭脳でもなくなり、マキャフリーの世界で出てくるような若い「これから」の女性となった。この中央諸世界には頭脳船があり、植民星があり、異星社会があり、変容した人類社会がある。どれだけでも話を広げられるのである。
が、本書を最後に「歌う船」シリーズは終了したようである。うーん、残念。
(2011.2.1)