デューン 砂丘の大聖堂1・2

デューン 砂丘の大聖堂1・2
CHAPTERHOUSE:DUNE 1
フランク・ハーバート
1985
 フランク・ハーバートによる「デューン」シリーズ正編の第6部、1985年にアメリカで発表され、1986年12月に日本で矢野徹により翻訳出版された。同年2月にフランク・ハーバートが亡くなったため、「砂丘の大聖堂」が最後の作品となった。日本では、それ以前の後半2作品と同様に3分冊となって発表されている。
 1986年12月といえば、私が卒論を書いていた頃である。卒論を書き、4年間過ごした都市から離れる準備を行い、就職した企業の最初の研修を受けるために一時的な引っ越しを行い、東京、大阪の研修を経て、ふたたび卒業して、離れたばかりの都市へ戻ることとなった。別れを告げたはずの友人、知人達への少し恥ずかしい再開、慣れ親しんだ都市での新しい立場、環境、生活。時代はバブル経済のまっただ中に突入していた。
 その都市の書店で本書「砂丘の大聖堂」が並んでいて、一度手に取ったのを覚えている。しかし、そのときに買わなかった。前作があまりにもややこしくなってしまっていて、追いかけるのが精神的に難しくなっていたのだ。そのことを後になって後悔することになる。
 さて、前作にて大離散を経て帰ってきたのは「偉大な誇りある女」たち。ベネ・ゲゼリットと似ているようでまったく異なる世界観を持つ女たちは、徹底的に攻撃的で功利的で破壊的な存在。いやあ怖い。ついに、デューンの舞台であり、かつてアラキスと呼ばれた惑星さえも破壊されてしまう。その破壊の中で、ベネ・ゲゼリットたちは、別の惑星に隠れ、アトレイデ家の血と、最後の砂虫を移し、新たなスパイス供給源をつくろうとする。
 激化するふたつの女たちの戦い。
 このあとどうなるのだろう。
 そして、ここにきて、地球の近現代にある「ユダヤ経」という言葉が実名で出てくる。たしかに、これまでもいろんな思想が出てきてはいたが…。ふうむ。
 希少となった「砂丘の大聖堂」は、内容よりも希少故に高くなった。数年間悩んだ末、心を決して第1巻をほどほどの値段で購入。未読・未入手は2巻、3巻。さて、どうする私。
(2010.09.10)
砂丘の大聖堂2
 ということで、買いました。amazonの中古ショップで。2巻がちょっと安くなっていたので買いましたとも。3巻は高いねえ。最後だもん、しかたないねえ。
 内容については、うーん、会話劇です。
 同時に、大聖堂の「砂丘化」も進んできます。
 以上、かな。
 果たして3巻を読む機会は来るのか?
 そして、フランクの息子は、この続編をどう書くのか?
(2011.02.01)

復讐の船

復讐の船
THE SHIP AVENGED
S・M・スターリング(アン・マキャフリー原案)
1997
「歌う船」シリーズ第7弾。「戦う船」に続く、スターリングの手による作品の主人公は、前作で晴れて宇宙ステーション頭脳シメオン・ハップと、彼のプローン・シャンナの正式な養子となったジョート・シメオン=ハップちゃん。いや、もう子どもではない。かつての天才ハッカーは、商船ワイアルの船長として、1人のクルーと、様々なプログラムを追加したAIとともに、「まっとうな」自由貿易船長をやっていた。とはいえ、そこは、シメオンとシャンナの子、中央諸世界の保安局の覚えめでたく、時には、貴重な「情報」を運ぶ仕事も請け負っていた。
さて、「戦う船」でこてんぱんにやられてしまったコルナー人宇宙海賊の生き残り。復讐と再興を誓ってふたたび中央諸世界と、彼らが敗北するきっかけとなったベセル人のリーダーを狙っていた。そのベセル人のリーダー、アモス・ベン・シエラ・ヌエヴァがコルナー人に誘拐されてしまう。この秘密奪回作戦に巻き込まれることになったジョートは、さらなる大きなトラブルに見舞われ、大借金の末、愛船ワイアルを借金の形にとられかねない事態に。さあ、どうする、どうなる。
「歌う船」シリーズの世界で、主人公がついに頭脳船でも宇宙ステーション頭脳でもなくなり、マキャフリーの世界で出てくるような若い「これから」の女性となった。この中央諸世界には頭脳船があり、植民星があり、異星社会があり、変容した人類社会がある。どれだけでも話を広げられるのである。
が、本書を最後に「歌う船」シリーズは終了したようである。うーん、残念。
(2011.2.1)

伝説の船

伝説の船
THE SHIP ERRANT
ジョディ・リン・ナイ(アン・マキャフリー原案)
1996
マキャフリーの「歌う船」シリーズが、ついにマキャフリーの手を離れた第6弾である。「魔法の船」の続編として、頭脳船キャリエルとケフのコンビが大活躍。しかも、登場人物は「魔法の船」で出会った異星の知的種属。それだけではない、彼らの真の母星がもうひとつの舞台。さらに、別の知的種属、もうひとつおまけに宇宙海賊と、新たな魅力ある登場人物が続々。そして、伏線にはかつてキャリエルが事故にあったときに起きた出来事の真実を探す旅も。 「魔法の船」とあわせて前後編と言ってもいい感じである。すべての謎解きがここにある。おもしろいじゃないか。この「伝説の船」を読むために「魔法の船」のちょっとしたまどろっこしさを乗り越えたような気がする。
ジョディ・リン・ナイと言えば、ロバート・アスプリンの魔法世界シリーズ「マジカルランド」を後半の共著者として書き綴っている人でもある。乗り移り系ライターなのだな。
ところで、私はロールプレイングゲームが苦手だ。ほとんどやったこともない。まだコンピュータゲームが始まる前に、ロールプレイングゲームブックをぱらぱら見てみたり、初期の海外版PC用RPGをやってみて、すぐに飽きてしまった。任天堂のファミコンはちょうどはざまで、友人がドラゴンクエストにはまっていたが、横目で見ているだけで、せいぜい、スポーツゲームかスーパーマリオブラザーズぐらいしかやらなかった。
その後も、パズル、シューティングなどをやることはあっても、RPGはない。同居人は、若い頃RPGをよくやっていたが、さすがに最近は手を出さないようである。
それで困ることもたまにある。RPGで登場する世界のルールや魔法の用語が分からないのだ。もちろん、調べられるのだが、身につかない。こればかりはいかんともしがたい。
その替わりに、「歌う船」シリーズなどを読むのだ、と思っているが、両方やる方、どうなんですかね?
(2011.2.1)

魔法の船

魔法の船
THE SHIP WHO WON
アン・マキャフリー&ジョディ・リン・ナイ
1994
歌う船シリーズの第5弾は、キャリエルとケフのコンビ。キャリエルはかつて事故に巻き込まれ、宇宙空間で隔絶された経験を持ち、それゆえに大監察官によって心理的に不安定であるとして、「船」勤務からの解除を迫られ続けてきた。キャリエルはリハビリ期間中に「絵を描く」ことを覚え、その絵は高く評価されていた。キャリエルとケフは、異星探検局に属し、新たな知的生命体を探す長期探査を仕事としている。筋肉(プローン)のケフの趣味は、「神話と伝説」。ぶっちゃけて言えば「剣と魔法」のロールプレイングゲーム。長期の航行中、キャリエルが作り出すゲーム空間で冒険し、戦い、勇者となる。
そのふたりが探索した新たな星系の惑星には、ほぼ人類型の知的生命体が暮らしていた。しかも、類縁と見られる2種類。なんと支配種属は、「魔法」を使うのだ。
「魔法」の力に翻弄されるキャリエルとケフ。絶体絶命!
「パーンの竜騎士」のマキャフリーである。「魔法」が出てきても、それはファンタジーの魔法とは異なる。必ず「科学的な根拠」があるはずだ。たとえ魔法使い側が、自分たちがふるう力は魔法だと信じていても。
かのアーサー・C・クラーク氏は言った「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない」と。まさに、まさに。GPSを利用したカーナビや位置情報確認システム。SUICAなどの電子記録式のプリペイド決済システム。インターネットによる放送、通信、無線が統合された情報記録、伝達システム。太陽光発電、高断熱窓、ヒートポンプなどの新エネルギーシステム。ちょっと前の私にさえ、魔法と区別がつかない。ただ、時系列的につきあっているので「驚き」が少ないだけである。
それにしても、絨毯が飛び、杖から火花を飛び出させ、テレポーテーションまでされれば、それは理屈はともあれ魔法でしょう。ということで、頭脳船&筋肉のリアル世界と魔法使いの支配するおとぎの国という不思議な組み合わせでキツネにつままれた気分を味わえる作品となっている。
これも「歌う船」シリーズの世界設定がしっかりしているからこそできるのだろうなあ。
(2011.2.1)

友なる船

友なる船
PARTNERSHIP
アン・マキャフリー&マーガレット・ベル
1992
アン・マキャフリーの代表作のひとつ「歌う船」が共作者を迎えて還ってきた。その第一弾となるのが本書「友なる船」である。時は「歌う船」ヘルヴァから200年。主人公のナンシアも、ヘルヴァ同様、16歳を迎え、実験学校を卒業し、中央諸世界の頭脳船をコントロールする殻人(シェルパーソン)となって、初ミッションを待つ立場となっていた。まだ、非殻人の筋肉(プローン)も選んでいないのに、異例の初飛行をすることになった。乗客は5人。いずれも華族(ハイファミリー)の子弟達。新卒で、新しい仕事に就くところであり、彼らを送る仕事が割り当てられたのだ。ナンシアもまた、生まれは華族。ただ、身体に不具合があり、そのままでは生きられなかったため殻人への道を生きることになったが、ナンシアの父は、ナンシアを見捨てることなく、華族の一員としてナンシアに接してきた。
女性2人、男性3人のナンシアよりは数歳年上の華族が、ナンシアの船に乗り込んできた。いずれも名門の出なのに、いずれも辺境に着任することとなった。その理由は? 出発して早々に、ナンシアは彼ら5人の忌まわしい秘密と忌まわしい約束の一端を知る。しかし、事もなく、5人を送り出し、そして初めてのプローンを得た。ナンシアの日常、仕事がはじまる。
やがて、辺境で事件が起き始める。
ナンシアは初飛行の5人の華族を忘れられない。彼らが事件の裏にいる。しかし、航行中のプライベートな事実を人に伝えるわけにはいかない。華族としての責任感、頭脳船としての倫理観、悩みながら、ナンシアはミッションに立ち向っていく。
これもまた、船の成長譚である。他の作品に比べれば「恋愛」色は薄い。すなおな少女成長譚という感じである。それだけにストーリー展開がポイントである。主人公が動ける人間ならばハードボイルドものになりそうだが、主人公が「船」であるところに、ひねりの妙味がある。
「歌う船」シリーズの設定のおもしろさである。
(2010.12)

戦う都市

戦う都市
THE CITY WHO FOUGHT
アン・マキャフリー&S・M・スターリング
1993
「歌う船」シリーズ第3弾、原書発表順では、「歌う船」「友なる船」「旅立つ船」に続く第4弾となる本作「戦う都市」は、その名の通り頭脳船が主人公ではなく、辺境のスペースステーションSSS-900の頭脳であるシェルパーソンのシメオンが主人公となる。「友なる船」「旅立つ船」でもちょっとだけ登場していたが、初の男性である。しかも、若々しい新人ではなく、何十年もキャリアを積んだちょっと気難しい軍事戦略ゲームおたくのおっさんである。長年連れ添ったパートナーの男性を亡くし、新たに若いパートナーがプローン(筋肉)としてやってきた。どうにも相性が合いそうにないが、そこはそれ、経験を積み、ステーションを切り回すという人間関係にも長けたブレインである。うまくやっていこうと、それなりの努力をはじめた矢先、身動きの効かないスペースステーションSSS-900に事件が起った。深辺境の空間より非道な海賊船団が迫ってきたのだ。中央諸世界の軍が救出に来るまでは長い時間が必要になる。それまでステーションのクルーや滞在者が殺されず、かつ、ステーションを破壊されないようにしなければならない。まして、ステーションがシェルパーソンによってコントロールされていることを知られれば、シメオンそのものが格好の略奪品となりかねない。
シメオンとプローンの史上最大の作戦がはじまった。
マキャフリーの作品の主人公はたいていの場合、女性であることが多い。「パーンの竜騎士」シリーズでは時々男性が主人公になるが、それ以外は、元気で、自立して、ちょっと気の強い、そして、時にはファザコンみたいな女性が出てきて、活躍する。大人の女もいれば、少女もいる。少女から大人までの成長譚もある。「歌う船」シリーズでも、主人公のシェルパーソンは女性のことが多い。しかも少女。成長譚である。ところが、本書「戦う都市」の主人公はおっさん。若い仕事上のパートナーに手を焼き、やんちゃな子どもにも手を焼く。手を焼くけれど、このおっさんのいいところは、基本的に落ち込まないところ。いつも明るく、何とかしようとする。基本的に前向き。社交的。
私ももはや日本の古典で言うところの「初老」。おっさん視点に学ぶところは多い。
「歌う船」シリーズでは異色中の異色だが、個人的なおもしろさでは随一かもしれない。
(2010.12)

旅立つ船

旅立つ船
THE SHIP WHO SEARCHED
アン・マキャフリー&マーセデス・ラッキー
1992
1994年11月に翻訳された「旅立つ船」。アン・マキャフリーの「歌う船」シリーズ第2弾として発表され、期待を持って購入。さっそく楽しく読んだ記憶がある。実は、シリーズとしては、後に翻訳された「友なる船」の方が先で、シリーズ第3弾となるのだが、「歌う船」シリーズは、最初の「歌う船」を除いては、どこから読んでも何となく分かるようになっている。いや、どの作品から読んでも大丈夫かも知れない。ただ、オリジナルの作品である「歌う船」は1960年代と古い作品だが、ぜひ最初に読んで欲しいものである。
さて、「歌う船」シリーズは、マキャフリーが若手の共作者を迎えてアイディアを広げ、自らのプロットを作品化している。おかげでマキャフリーの世界観の作品がたくさん読めるのだからラッキーである。
本作「旅立つ船」は、最初からシェルパーソンの常識をくつがえす。本来新生児やせいぜい幼児までしか適合されないとされてきた。主人公ヒュパティア・ケイドは、その知性とユーモア、人間性に加え、出会った人たちの機転によって7歳と不適合であるにもかかわらずシェルパーソンとなり生きる道を開いた。他の頭脳船とは異なり、非殻人としての肉体の記憶も持っていた。それは彼女を一風変わった頭脳船にした。同じ趣味をもつパートナーとなる筋肉(プローン)を得て、彼女はミッションの合間を縫って独自の調査をはじめる。異星遺跡での知られていないウイルスによって全身麻痺となった彼女は、自分を苦しめた異星遺跡の謎をつきとめることを心の中で決意していたのだ。
「歌う船」の変奏曲である。主人公は、頭脳船の少女。恋のお相手は、プローンとなる青年。いくつもの冒険、ハプニングに次ぐハプニング。それを乗り越える知恵と勇気と機転。そして、触れあえない相手同士の触れあえないが故に盛り上がる恋。
甘酸っぱいねえ。
(2010.12)

歌う船

歌う船
THE SHIP WHO SANG
アン・マキャフリー
1969
人工的な装置なしに成長が見込めない新生児。脳波計によって可能性が見いだされたら生き延びることが許される社会。ヘルヴァは、その適合力、知力をもって中央諸世界における特別な存在「殻人間」として育てられた。殻におさめられ、宇宙船のあらゆるセンサーやコンピュータと接合された「頭脳船(ブレインシップ)」として訓練された。頭脳船は宇宙空間を自由に航行することができる、その権限は、後ろ盾となる中央諸世界そのものによる。管理された殻に収まることで、非殻人には考えられない長命ともなった。しかし、脳たる彼らは動くことができない。故に、中央諸世界は、ブレインに筋肉(プローン)を用意した。頭脳船のブレインのパートナーとなり、彼らの手足となってともにミッションをこなす存在。選択権はブレインにあるが、一度決めたら、罰金を払わない限り、解消することができない存在。夫婦にも似た、家族にも似た、親子にも似た、互いに互いを必要とする存在。そして、物理的に触れあうことの許されない存在。
ヘルヴァは優秀な頭脳船となり、最高の相性のプローンを得た。もうひとつ、ヘルヴァは、中央諸世界に早々に名をとどろかせた。「歌う船」として。ただの音声器官であるスピーカーを使い、古典から創作まで彼女は美しく、人の心を打つ歌を歌い、音楽を奏でた。
歌と、プローンとともに、ヘルヴァは成長し、喜び、傷つき、悲しみ、そして、生きる。
本書「歌う船」は1961年に最初の短編が発表され、その後、1966年に2本、1969年に3本の短編が発表、6本がオムニバス短編として1冊の長編となっている。「歌う船」である少女ヘルヴァの成長と恋の物語である。肉体的なふれあいはなくても、そこには確かな恋があり、愛がある。恋と愛には歌がつきものである。もちろん、冒険も。
「歌う船」で生み出された殻人間(シェルパーソン)と筋肉(プローン)のパートナーという設定は、たくさんの作家を魅了した。そして、「歌う船」はシリーズとなり、若手の作家達が共作の形で作品に深みを添えていく。そんなSF界にとっても記念すべき作品である。
(2010.12)

フライデイ

フライデイ
FRIDAY
ロバート・A・ハインライン
1982
 たしか読み返すのははじめてなのだが、最近どっかでこれと似たような話を読んだ記憶がある。いや、似ているけれどあきらかに違っていたのだが、主人公の女性戦士のノリが近かったのだ。誰だっけ? なんだっけ? こういうときに、自分で書いているメモが役に立つ。エリザベス・ベア「サイボーグ士官ジェニー・ケイシー」シリーズ「女戦士の帰還」「軌道上の戦い」「黎明への使途」の三部作だ。この三部作は、2000年代最初の作品群。一方、こちらは巨匠ハインラインの晩年の作品である。
 主人公は、フライデイ。遺伝子操作によって生み出された人工人間である。記憶力、計算能力、身体能力に優れ、戦闘伝書使としてプロフェッショナルな仕事をしている。独立した女である一方で、ボス、組織、家族といった帰属できる人や場所を常に求めている。それはばれると人格を否定される人工人間だから、それとも、フライデイだから?
 旧体制である国家と実質的な体制となっている多国籍企業に支配された国家、あるいは、企業間の世界的な争いに巻き込まれてしまったフライデイ。ボスとは連絡がつかず、組織との接触も難しくなり、そして、できたばかりの家族との絆も切れてしまった。
 それでも、助けてくれる人はいる。友人になれる人もいる。世界とはつながっていられる。だから戦うことができる。組織と、ボスと再会し、新しい恋人たちとふれあうために。
 なぜなら、フライデイだから。
 自立した信念の人が大好きなハインライン。実は徹底した個人主義で、それ故に、個人と組織、国家、企業などとの関わりを考えていたハインライン。個人主義を徹底させることはそれはそれで大変なのである。個人主義故に、フリーセックスや拡大家族といった保守的常識にはこだわりを持たない。むしろ個人の自由を尊重する立場に立つ。
 あまりにも個人主義を尊重するが故に、信念を持たないものを軽蔑するのはどうかとも思うところはあるが、保守だとかリベラルだとか気にしていないところがよろしい。
 おとな向けのジュブナイルとして、気楽に、楽しく読めばいいじゃないか。
 文庫版の帯にあるとおり、「恋あり、謎あり、陰謀あり、ハインライン会心の冒険SF!」なのだ。楽しもう。
(2010.11)

幻影の都市

幻影の都市
CITY OF ILLUSIONS
アーシュラ・K・ル・グィン
1967
 ル・グィンのハイニッシュ・ユニバースに属する作品群のひとつ。「辺境の惑星」の続編と言ってもいい。しかし、舞台は地球。アンシブルが事実上失われた世界。地球には1200年も、異世界からの訪問者はいないとされている。地球は、シングと呼ばれる存在に支配され、人々は、武器を奪われ、通信手段を奪われ、小さな集落単位で、ヨソモノを嫌って生きている。シングが地球人なのか、それとも、世界を崩壊に陥れた異星人なのかさえも分からない。いくつかの科学技術は残り、いくつもの技術が失われ、再発見されていた。彼らは口伝でシングの悪意を伝え、シングの目を逃れつつ、世界のかつての栄華を伝承していた。
 そこに、異星からの大人が落ちてきた。黄色い目をした人である。
 記憶を失い、言葉を失って。
 誰もシングを見たものはいない。彼はシングの種属なのか、単に異星の人なのか。
 それは分からなかったが、死を与えることはしなかった。
 異邦人を助けた種族は、彼を赤子のように教育することとした。
 しかし、5年が過ぎ、精神的に赤子から「大人」になった男を、そのまま土地に残して置くわけには行かなかった。男は、世界の中心をめざして旅に出ることとなる。その過程で、真の自分を探しながら…。
 世界と自分を探す物語である。「ゲド戦記」にも似た、しかし、ハイニッシュ・ユニバースに属する正統的なSFである。ル・グィンは、世界と精神を再構築する力に長けている。
 それにしても、今回、初読みなのだが、宇宙から記憶を失って男が落ちてくる。辺境の未来世界…、どこかで読んだなあと思って記憶をたどったら、デイヴィッド・ブリンの知性化の嵐シリーズ第1弾「変革への序章」でほぼ同じ状況が出てきた。こちらは1995年の作品である。
 空から異人が落ちてくる。物語の基本である。
 そして、「辺境の惑星」を読んでいると、ちょっと楽しいオチがある。
 読んでいなくても、十分楽しめるが。
(2010.11)