旅立つ船

旅立つ船
THE SHIP WHO SEARCHED
アン・マキャフリー&マーセデス・ラッキー
1992
1994年11月に翻訳された「旅立つ船」。アン・マキャフリーの「歌う船」シリーズ第2弾として発表され、期待を持って購入。さっそく楽しく読んだ記憶がある。実は、シリーズとしては、後に翻訳された「友なる船」の方が先で、シリーズ第3弾となるのだが、「歌う船」シリーズは、最初の「歌う船」を除いては、どこから読んでも何となく分かるようになっている。いや、どの作品から読んでも大丈夫かも知れない。ただ、オリジナルの作品である「歌う船」は1960年代と古い作品だが、ぜひ最初に読んで欲しいものである。
さて、「歌う船」シリーズは、マキャフリーが若手の共作者を迎えてアイディアを広げ、自らのプロットを作品化している。おかげでマキャフリーの世界観の作品がたくさん読めるのだからラッキーである。
本作「旅立つ船」は、最初からシェルパーソンの常識をくつがえす。本来新生児やせいぜい幼児までしか適合されないとされてきた。主人公ヒュパティア・ケイドは、その知性とユーモア、人間性に加え、出会った人たちの機転によって7歳と不適合であるにもかかわらずシェルパーソンとなり生きる道を開いた。他の頭脳船とは異なり、非殻人としての肉体の記憶も持っていた。それは彼女を一風変わった頭脳船にした。同じ趣味をもつパートナーとなる筋肉(プローン)を得て、彼女はミッションの合間を縫って独自の調査をはじめる。異星遺跡での知られていないウイルスによって全身麻痺となった彼女は、自分を苦しめた異星遺跡の謎をつきとめることを心の中で決意していたのだ。
「歌う船」の変奏曲である。主人公は、頭脳船の少女。恋のお相手は、プローンとなる青年。いくつもの冒険、ハプニングに次ぐハプニング。それを乗り越える知恵と勇気と機転。そして、触れあえない相手同士の触れあえないが故に盛り上がる恋。
甘酸っぱいねえ。
(2010.12)

歌う船

歌う船
THE SHIP WHO SANG
アン・マキャフリー
1969
人工的な装置なしに成長が見込めない新生児。脳波計によって可能性が見いだされたら生き延びることが許される社会。ヘルヴァは、その適合力、知力をもって中央諸世界における特別な存在「殻人間」として育てられた。殻におさめられ、宇宙船のあらゆるセンサーやコンピュータと接合された「頭脳船(ブレインシップ)」として訓練された。頭脳船は宇宙空間を自由に航行することができる、その権限は、後ろ盾となる中央諸世界そのものによる。管理された殻に収まることで、非殻人には考えられない長命ともなった。しかし、脳たる彼らは動くことができない。故に、中央諸世界は、ブレインに筋肉(プローン)を用意した。頭脳船のブレインのパートナーとなり、彼らの手足となってともにミッションをこなす存在。選択権はブレインにあるが、一度決めたら、罰金を払わない限り、解消することができない存在。夫婦にも似た、家族にも似た、親子にも似た、互いに互いを必要とする存在。そして、物理的に触れあうことの許されない存在。
ヘルヴァは優秀な頭脳船となり、最高の相性のプローンを得た。もうひとつ、ヘルヴァは、中央諸世界に早々に名をとどろかせた。「歌う船」として。ただの音声器官であるスピーカーを使い、古典から創作まで彼女は美しく、人の心を打つ歌を歌い、音楽を奏でた。
歌と、プローンとともに、ヘルヴァは成長し、喜び、傷つき、悲しみ、そして、生きる。
本書「歌う船」は1961年に最初の短編が発表され、その後、1966年に2本、1969年に3本の短編が発表、6本がオムニバス短編として1冊の長編となっている。「歌う船」である少女ヘルヴァの成長と恋の物語である。肉体的なふれあいはなくても、そこには確かな恋があり、愛がある。恋と愛には歌がつきものである。もちろん、冒険も。
「歌う船」で生み出された殻人間(シェルパーソン)と筋肉(プローン)のパートナーという設定は、たくさんの作家を魅了した。そして、「歌う船」はシリーズとなり、若手の作家達が共作の形で作品に深みを添えていく。そんなSF界にとっても記念すべき作品である。
(2010.12)

フライデイ

フライデイ
FRIDAY
ロバート・A・ハインライン
1982
 たしか読み返すのははじめてなのだが、最近どっかでこれと似たような話を読んだ記憶がある。いや、似ているけれどあきらかに違っていたのだが、主人公の女性戦士のノリが近かったのだ。誰だっけ? なんだっけ? こういうときに、自分で書いているメモが役に立つ。エリザベス・ベア「サイボーグ士官ジェニー・ケイシー」シリーズ「女戦士の帰還」「軌道上の戦い」「黎明への使途」の三部作だ。この三部作は、2000年代最初の作品群。一方、こちらは巨匠ハインラインの晩年の作品である。
 主人公は、フライデイ。遺伝子操作によって生み出された人工人間である。記憶力、計算能力、身体能力に優れ、戦闘伝書使としてプロフェッショナルな仕事をしている。独立した女である一方で、ボス、組織、家族といった帰属できる人や場所を常に求めている。それはばれると人格を否定される人工人間だから、それとも、フライデイだから?
 旧体制である国家と実質的な体制となっている多国籍企業に支配された国家、あるいは、企業間の世界的な争いに巻き込まれてしまったフライデイ。ボスとは連絡がつかず、組織との接触も難しくなり、そして、できたばかりの家族との絆も切れてしまった。
 それでも、助けてくれる人はいる。友人になれる人もいる。世界とはつながっていられる。だから戦うことができる。組織と、ボスと再会し、新しい恋人たちとふれあうために。
 なぜなら、フライデイだから。
 自立した信念の人が大好きなハインライン。実は徹底した個人主義で、それ故に、個人と組織、国家、企業などとの関わりを考えていたハインライン。個人主義を徹底させることはそれはそれで大変なのである。個人主義故に、フリーセックスや拡大家族といった保守的常識にはこだわりを持たない。むしろ個人の自由を尊重する立場に立つ。
 あまりにも個人主義を尊重するが故に、信念を持たないものを軽蔑するのはどうかとも思うところはあるが、保守だとかリベラルだとか気にしていないところがよろしい。
 おとな向けのジュブナイルとして、気楽に、楽しく読めばいいじゃないか。
 文庫版の帯にあるとおり、「恋あり、謎あり、陰謀あり、ハインライン会心の冒険SF!」なのだ。楽しもう。
(2010.11)

幻影の都市

幻影の都市
CITY OF ILLUSIONS
アーシュラ・K・ル・グィン
1967
 ル・グィンのハイニッシュ・ユニバースに属する作品群のひとつ。「辺境の惑星」の続編と言ってもいい。しかし、舞台は地球。アンシブルが事実上失われた世界。地球には1200年も、異世界からの訪問者はいないとされている。地球は、シングと呼ばれる存在に支配され、人々は、武器を奪われ、通信手段を奪われ、小さな集落単位で、ヨソモノを嫌って生きている。シングが地球人なのか、それとも、世界を崩壊に陥れた異星人なのかさえも分からない。いくつかの科学技術は残り、いくつもの技術が失われ、再発見されていた。彼らは口伝でシングの悪意を伝え、シングの目を逃れつつ、世界のかつての栄華を伝承していた。
 そこに、異星からの大人が落ちてきた。黄色い目をした人である。
 記憶を失い、言葉を失って。
 誰もシングを見たものはいない。彼はシングの種属なのか、単に異星の人なのか。
 それは分からなかったが、死を与えることはしなかった。
 異邦人を助けた種族は、彼を赤子のように教育することとした。
 しかし、5年が過ぎ、精神的に赤子から「大人」になった男を、そのまま土地に残して置くわけには行かなかった。男は、世界の中心をめざして旅に出ることとなる。その過程で、真の自分を探しながら…。
 世界と自分を探す物語である。「ゲド戦記」にも似た、しかし、ハイニッシュ・ユニバースに属する正統的なSFである。ル・グィンは、世界と精神を再構築する力に長けている。
 それにしても、今回、初読みなのだが、宇宙から記憶を失って男が落ちてくる。辺境の未来世界…、どこかで読んだなあと思って記憶をたどったら、デイヴィッド・ブリンの知性化の嵐シリーズ第1弾「変革への序章」でほぼ同じ状況が出てきた。こちらは1995年の作品である。
 空から異人が落ちてくる。物語の基本である。
 そして、「辺境の惑星」を読んでいると、ちょっと楽しいオチがある。
 読んでいなくても、十分楽しめるが。
(2010.11)

イシャーの武器店

イシャーの武器店
THE WEAPON SHOPS OF ISHER
A・E・ヴァン・ヴォークト
1951
 えっと、1966年に翻訳出版され、2010年9月に復刊した24版である。復刊してくれてありがとう! 読んでいなかった作品のひとつだから。「武器製造業者」の前日譚となるのかな。「人類補完機構」の流れで読んでよかった。こちらは、7000年未来。地球は、イシャー王朝が支配し、安定した社会を続けている。しかし、そのイシャー王朝に対立しているのは、3000年前に創立された武器製造者ギルド。イシャー王朝を監視する社会の影の装置である。武器製造業者ギルドは帝国により攻撃を受け、それによって時間のゆがみが生まれ、1951年のミドル・シティーで、ひとりの新聞記者マカリスターが、7000年先の未来に飛ばされてしまった。時間エネルギーを身体にため込み、生きた究極兵器となってしまったマカリスター。イシャー王朝とギルドの間に挟まれて時間をさまようことになる。
 そして、イシャー王朝とギルドの間の様々な策略。ギルドの中の影となる不死者の存在。
「人類補完機構」のような存在が「ギルド」である。おもしろいねえ。
 SFの古典として、一度は読んでおきたい。
 すっとんでいるから。
(2010.11)

第81Q戦争

第81Q戦争
INSTRUMENTALITY OF MANKIND
コードウェイナー・スミス
1979
 人類補完機構ができる以前の地球、それ以前の第一次宇宙時代、そして、人類補完機構の創出期などが掲載されている、コードウェイナー・スミスの短編集である。これをもってほぼすべての「人類補完機構」ものが翻訳されたこととなる。翻訳出版されたのは1997年。アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が放映され、話題になった翌年のことである。
 1982年に「鼠と竜のゲーム」が人類補完機構の短編集「THE BEST OF CORDWAINER SMITH」の約半分を翻訳出版された。その後、5年開いて1987年に長編「ノーストリリア」が翻訳出版。予定より10年遅れて1994年に、短編集「THE BEST OF CORDWAINER SMITH」の残りが「シェイヨルという名の星」として翻訳出版された。それでも、初期の作品などが残されていたが、「エヴァンゲリオン」が「人類補完機構」という名称を使ったものだから、コードウェイナー・スミスに注目が集まり、おかげで、1997年に本書が登場することとなる。
 表紙には大々的に「人類補完機構」の文字が躍り、タイトルも「第81Q戦争」と、「エヴァンゲリオン」を彷彿とさせるところもある。
 いやいやいやいや。ま、売れる分はいいけれど。
 ちなみに、「第81Q戦争」はスミスが14歳の頃に書いた作品だそうである。「人類補完機構」前史も前史。かけらもないストーリーである。おもしろいけれど。
 翻訳してくれてありがとう、である。なんと言っても、作品数が極端に少ないので、できるだけたくさん読みたいのだ。
 でも、「人類補完機構」シリーズや、コードウェイナー・スミスのすごさを知りたい向きに、本書を1冊目としてはおすすめできない。やはり、「鼠と竜のゲーム」「シェイヨルという名の星」の短編集を読み、「ノーストリリア」を読まれるのがよかろう。
 他のシリーズなら、どれから、というおすすめはしないが、コードウェイナー・スミスに関してだけは、掛け値なしに、この順番である。
 私は、日本の翻訳出版順で読んだが、今ならば、この順番をおすすめしたい。もちろん、今回の再読では、その順番で読んだ。よかった。
 あ、もちろん、その後で、本書「第81Q戦争」をお忘れなく。
(2010.11)

ノーストリリア

ノーストリリア
NORSTRILLIA
コードウェイナー・スミス
1975
 惑星ノーストリリア。砂漠の、羊の星。人類世界にとって欠かすことのできない不老長寿薬サンタクララ薬、またはストルーンと呼ばれる薬物は、ノーストリリアの病気にかかった羊だけから産出される。故に、ノーストリリアは宇宙一裕福な星。故に、ノーストリリアは他のどのような星よりも防衛に長けた星。ひとりひとりが厳格に育てられ、自立し、生き残ることを求められる星。すでに無き女王陛下を戴く星、オールド・ノース・オーストラリア。
 ひとりの少年がいた。長い名前を持つが、簡単に言えば、ロッド・マクバン。彼は生き延びたそして、生き延び続けるために、地球を買った。古い、古い惑星。人類が生まれた惑星であること、人類補完機構の本部であることを除けば、それほど価値のない惑星。ロッドが地球を買ったことで、地球とノーストリリアと人類補完機構はそれぞれに困惑し、事物の収束を願った。地球を買った男がいることを、耳ざとい者たちは知った。彼らは、ロッドに期待を寄せた。いや、ロッドの立場や地位や権力や金に、ということだが。
 さて、自覚のないままに地球を買ったロッドは、地球に行くこととなる。
 もちろん、いろんなことが起る。
 猫娘ク・メルも登場する。
 人類補完機構で「人間の再発見」を推し進めるのロード・ジェストコーストも登場する。
 コードウェイナー・スミスの、人類補完機構シリーズの唯一の長編である。
 最初に、短編集「鼠と竜のゲーム」「シェイヨルという名の星」を読み、それから、心落ち着けて、わくわくしながら、一気に読むといい。ここにすべてが結集する。
 しばらくの間、今が21世紀程度ではなく、数万年先の世界で、ここは地球か、それ以外のどこかの星で生きているような気持ちになれる。
 あー、幸せ。
(2010.11)

シェイヨルという名の星

シェイヨルという名の星
THE BEST OF CORDWAINER SMITH
コードウェイナー・スミス
1975
「鼠と竜のゲーム」と対をなす、スミスの短編集であり、「人類補完機構」シリーズをまとめた本である。4作品が収められており、いずれも傑作と言える。
「クラウン・タウンの死婦人」で、犬娘ド・ショーンの真の物語を知ることができる。それは、私たちの知る人類創世記の歴史で言えば、フランスにおけるジャンヌ・ダルクを思わせる存在。人間に似せて作られた下級民たちにとっての自由のシンボルとなる。
「帰らぬク・メルのバラッド」では、猫娘ク・メルが描かれる。「ノーストリリア」でも登場するク・メル、その人である。ク・メルの物語は数限りない。真の愛はどこにあったのか、それを知るものはいない。
表題作「シェイヨルという名の星」は、手塚治虫の火の鳥宇宙編を思わせる。もしくは地獄。それを地獄と呼ばずして、何を地獄と呼ぶのだろう、という物語。
真実は伝説となり、伝説は物語を、詩を、歌を生む。
伝説も、物語も、詩も、歌も生まれないような出来事は、時代は、真に殺伐とした時代に相違ない。ある男の、ある女の、ある存在の伝説が生まれてこその同時代である。
小惑星イトカワを探索した無人小惑星探査機「はやぶさ」の物語は美しい。はやぶさは、現代の日本の伝説となり、物語を、詩を、歌を生む。しかし、それは人ではない。
伝説の人が生まれないものか。
(2010.11)

鼠と竜のゲーム

鼠と竜のゲーム
THE BEST OF CORDWAINER SMITH
コードウェイナー・スミス
1975
「人類補完機構」である。アニメ「エヴァンゲリオン」でこの表現が有名になり、釣られてコードウェイナー・スミスの作品にも注目が集まったり、集まらなかったりした。「ノーストリリア」を除いては基本的に短編作品群であり、長編を選んで読んでいて関係で、再読し、感想を書くのを延ばし延ばしにしてしまった。とても好きな作家であり、今も比較的入手性が良いことは嬉しい限りである。
 作品だけでなく、作者としてもエピソードに満ちており、女性であるジェイムズ・ティプトリーと並んで、特異な作品世界と魅力的な作者としてSFの歴史には欠かすことができない。
 本書「鼠と竜のゲーム」は、8つの作品の短編集であり、「人類補完機構」ものとして知られる。作品は、1950年から64年に書かれたものであり、まだ、ニューウェーブやサイバーパンクが登場する前である。
 内容だが、「エヴァンゲリオン」を彷彿するところはひとつもない、ということを強調しておきたい。いや、ないわけではない。共通するところと言えば、説明もなしに、特異な単語が飛び交うところぐらいか。ただし、アニメと違い小説であり、長い長い宇宙史、人類史として書かれているので、その歴史の中で「伝説」が生まれ、歪曲され、「歌」や「詩」や「物語」として描かれているため、「エヴァンゲリオン」の「謎解き」とは違っている。
 コードウェイナー・スミスの「人類補完機構」のすごさは、別の世界の別の歴史の物語を、あたかも同時代小説であるように書き、かつ、別の世界の住人である我々(読者)に、読ませる力を持つことである。作者が独自の世界観を作り上げ、独自の用語、独自の歴史、エピソードを作品中に書くことはよくある。これはとても難しいことで、ちょっとでも書きすぎると、作者のひとりよがりで、読者を置き去りにするか、まったくの駄作となってしまう。作者が、独自の世界観を確固たるものとして自分の身につけ、そして、別世界の住人である我々への翻訳者として作品をしたためる。すごい力量である。
「星の海に魂の帆をかけた女」で、主人公ヘレン・アメリカの真実のエピソードを知る喜び。
「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」で、ノーストリリアの防衛の真の秘密を知る喜び。
「アルファ・ラルファ大通り」で、ク・メルに出会える喜び。
 他の作品群と続けて読むことで、コードウェイナー・スミスが住む世界を知ることができる。だから、まとめて「シェイヨルという名の星」「ノーストリリア」「第81Q戦争」を読むことをおすすめしたい。強く。
(2010.11)

ゾーイの物語 老人と宇宙4

ゾーイの物語 老人と宇宙4
ZOE’S TALE
ジョン・スコルジー
2008
 作者のあとがきにも書いてあったが、オースン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」に対する「エンダーズ・シャドウ」にあたる作品である。老人と宇宙シリーズの第3作「最後の聖戦」を、主人公の娘「ゾーイ」の視点で再構成し、その解題を果たす。
「エンダーズ・シャドウ」同様に、視点を変え、再構成することで、まったく違う物語が生まれる。それでいて、前作で世界観を共有しているので、ささやかな「ずれ」が、物語に深みを与える。
 同時に「老人と宇宙」のシリーズだが、本作品は、10代の少女の恋と、冒険と、成長のストーリーである。ここにきて、これですか? いや、いい意味で。
 いくつになっても、「青春」ものっていいね。わくわくする。いやあ、ゾーイも大人になったもんだ。
 この作品を読むために、最初の3作を読む価値がある。おもしろいよ。
 さて、話だが、「最後の聖戦」と同じであるが、本書は主人公がゾーイである。ゾーイは、かつて人類を滅亡のふちまで追い込んだ男の娘であり、現在は人類の属するコロニー連合との協定を結んでいるオービン族の女神としてその人生のすべてをオービン族のふたりの特使により記録され続けている特異な存在である。オービン族の姿は、人類には一見して恐怖をもたらすもので、そのふたりがほぼ常にゾーイに付き添っているのだから、それはそれは大変である。しかも、父親も母親も元軍人であり、指導者でもある。立場としても特殊である。ゾーイ自身は、10代、多感で賢く、責任感の強い少女であり、両親らとともに、新たな植民星に入り、友を得、ボーイフレンドを得、そして、人生を形作っていく。「最後の聖戦」では描かれなかった、植民星の知的生命体の姿、そして、決して描かれることのなかった最強種属オービン族の姿、敵であるコンクラーベとガウ将軍の姿が、ゾーイによって活写される。いやあ、青春だねえ。怖いもの知らず、いや、怖いものを知っていく過程のすごさ、青春っていいね。
(2010.11)