竜の夜明け

DRAGONSDAWN

アン・マキャフリイ
1988

 パーンの竜騎士シリーズの外伝1として邦訳された作品である。シリーズ中、もっとも「ふつうのSF」している作品だ。そしてさまざまな謎が解き明かされる物語でもある。
 時は本編シリーズをさかのぼること2400年の昔。人類の植民船3隻がルクバト星系第三惑星に辿り着き、人類が生存可能な惑星での新たな生活をはじめる。その惑星はパーンと名付けられ、独自の生態系を持っていたが、高度な知的生命体はなく、海も大陸もある人類にとっては理想的な新天地であった。長い戦争に疲れた人々、高度な科学文明に人間性を失うことを嫌う人々、そんな人々が大いなる希望と成功への期待、失敗への不安をもって惑星に降り立ち、新たな暮らしを築こうとした。人々は知らなかった、その地に200年に1度、糸胞の雨が降り、あらゆる生命体、有機物を襲っていることを。

 この物語は、SFの定番のひとつ、新たな植民星への移住をめぐる人々の物語である。まったく新しい世界で起きる様々なできごと、そこに人間同士のいさかいや出会い、喜び。新たな社会形成に向かうための苦労、苦難、そして、やはり喜びもある。
 ただ、違うのは、読者のほとんどは、この惑星パーンとそこに生きる人類であるパーン人の未来を知っているということである。竜とともに糸胞と戦い、惑星に順応してたくましく生きる人々の姿を、その物語を。しかし、本書の登場人物たちはその未来を知らない。その未来のスタート地点の物語なのだから。だから、謎解きの物語なのだ。
 なるほどー、そういうことだったのか、そうきたか。一方でそんな感想を持ちながら、他方では、純粋に「今」の物語として新たな植民星で生きる人々の姿を楽しむことができる。1回の読書で二重にも三重にも楽しめる、実によくできた前日譚なのだ。

 そして、マキャフリイは本編シリーズの「読み替え」をも迫る。それは「竜の貴婦人」「ネリルカ物語」でも意図的に書かれていたことだが、「竜の夜明け」ではより具体的に書かれることとなる。それはとくに「女性」の扱いについてである。
 そもそも本書「竜の夜明け」では3人の女性が物語の主導権を握っている。

 ソルカは両親に連れられてやってきた子供である。彼女は火蜥蜴をはじめて見つけ、感合した女性だ。物語とともに成長し、大きな役割を担うことになる。
 サラは操縦士だ。慎重で、優秀な操縦士であるとともに、植民地の生活が本格的になれば自分のいまの仕事がなくなり生き方が変わることを自覚し、積極的に動いている。
 エイヴリルはシャトル操縦士である。片道切符の植民星だが、彼女は違った。ある目的を持ってやってきたのだ。
 この3人の考えや行動が物語の鍵なのだが、同時に、彼女たちの恋愛観、結婚観、性愛観は力強く、かよわいところはみじんもない。本編シリーズにあるような男たちの影に隠れる要素はまったくといっていいほどない。きわめつけは、次の台詞だ。

「性による限界よ…女王は産卵だけで、闘うのは他の色ってわけ!」ソルカはむかつく思いだった。

 これは、竜を生み出すための遺伝子操作をした老女性科学者(故人)について夫に向かって言った言葉である。その直前には「(竜の遺伝子に)性差別を組み込んでたの?」と無関係だが情報を持っている夫に詰め寄る。
 そして、その言葉に反応し、

 他の女王竜の騎士が寄ってくるのに対し、青年たちはそれとなく後ずさりしだした。

 と表現されている。
 まさしく、それは1960年代の時代背景の上で書かれた「竜の戦士」の設定を、読者がジェンダー目線で読み替えるための設定であり、「竜の夜明け」の女性たちを通して、過去のマキャフリイ自身と読者に対して突きつけるための言葉なのだ。
 作品は、書かれた時代の影響を必ず受ける。その時代に受け入れられなければ作品自体が存在し得ないのだから。しかし、価値観は変わり、人類の進化にともなって見直されていく。マキャフリイは過去の自分の作品そのものを否定せず、その前日譚を通して、今日の価値観に読み替えさせるというテクニックを使ったのである。

 そういうことって実は大切なことなのだと思う。
 ちょっと思い出したのは、大和和紀の「はいからさんが通る」を新装版として出版するときに大和和紀自身が出版社とともに巻末に「読者の皆様へ」と題して、大正時代を舞台にした作品を1970年代に書いたことによる大正時代の差別のありよう、70年代の認識のありようの問題点を指摘した上で「差別の歴史と人権意識の変化」という視点を持って読んで欲しいことを明示したことだ。

 作品には時代性がつきまとい、それ故に後に改変されたり、再版されず消えていくものも多い。ただ「なかったことにする」のではなく、作者や死後はのちの権利者、あるいは出版社などが、「差別の歴史と人権意識の変化」という視点とそのためのヒントを提示することで作品を残すことは必要ではないだろうか。差別に限ったことだけではない、飲酒や喫煙といった生活習慣や社会制度などもある。

 パーンの竜騎士シリーズでは、SFというフィールドで、現役の作家であったからこそできたのだ。物語のファンタジーやSFの可能性はこういうところにもあるのだ。

ネリルカ物語

NERILKA’S STORY

アン・マキャフリイ
1986

 パーンの竜騎士シリーズ外伝3として邦訳された「ネリルカ物語」である。竜騎士でありフォート大巌洞の洞母であるモレタの飛翔を描いた「竜の貴婦人」と対となる作品である。いや、むしろ「竜の貴婦人」の長い長い物語は「ネリルカ物語」を読ませるためにあったのか、と思わせるような珠玉の作品である。
 本書の主人公ネリルカは竜騎士ではない。伝統あるフォート城砦の太守トロカンプのたくさんいる娘の一人である。背は高く、身体はしっかりとし、薬草集めや家の様々なことをこなすが、時には自立心ゆえにトロカンプ太守にたてつくこともあり、容姿にめぐまれているとはいえないこともあって、娘の中では不遇の暮らしをしていた。ネリルカは城砦の下働きの人たちとともに働くのは苦ではないが、適齢期でもあり、はやくフォート城砦を出たいと思っていたが、一度定められた婚約者との結婚も破談となり、出るすべを失っていた。そして、「竜の貴婦人」で描かれたパンデミックの引き金となる祭りに参加することも父トロカンプ太守に止められ、その結果、彼女は感染することなく生き残るのであった。
 そして、ネリルカの目でモレタの物語では語られなかった人々の日常の苦難、パンデミックを生き抜こうとする人々の努力が、ネリルカ自身の行動も含めて語られていくのである。それはネリルカがネリルカそのものとして生きる道を探す旅ともなる。女性ならではの苦難のなかでネリルカは戦い続けるのだ。それは武器を取る戦いではないが、まさしく生きるための、そして人々を生かすための戦いだったのだ。
 この物語で竜や竜騎士、パーンの世界はネリルカを焦点とした自然な背景に変わる。
 なぜならば、これは現代の女性の物語、人間の物語でもあるからだ。
 力強い物語がここにある。
 パーンの竜騎士の世界を読んできて、実に良かった。

竜の貴婦人

MORETA:DRAGONLADY OF PERN

アン・マキャフリイ
1983

 出版された頃に読んで以来の再読である。
 強調したいことがある。
 2019年終わり頃からはじまった新型コロナウイルス感染症パンデミックという21世紀最初の世界的パンデミックを経験したあとだからこそ、この物語は読まれるべき作品となった。パンデミックを知っているからこそ、身につまされ、心をえぐる物語となる。
 そう、この物語はパンデミックに直面したときの人々の物語なのだ。

 「竜の貴婦人」は、パーンの竜騎士の外伝2として邦訳出版された作品である。
 本編シリーズは人類がパーンとよぶ惑星に入植した後、想定していなかった惑星規模の災害である「糸胞降り」に直面し、パーンの生物から人類が生み出した「竜」とともに生き残るための戦いを繰り広げる物語である。長い年月のうちに「糸胞降り」によって入植者らは人類の科学文明を忘れ、独自の農耕・狩猟型の文明・文化、社会形態をゆっくりと発展させていた。電気や機械動力などの技術はほぼ失われた、地球でいえば中世の終わり、産業革命前の手工業時代のレベルであり、領主(太守)と領民、竜騎士と各ギルド(職能集団)を中心にした社会である。
 歴史や記録、文化の継承、社会規範や生存のための知識などは「竪琴師」による音楽と歌の形で人々に伝えられてきた。
 本編は人類がパーンに入植して2400年ほど経った第9次(糸胞)接近期を舞台として繰り広げられる。

 そのなかでパーンの人々に愛され続け、竜騎士の献身と誇り、パーンに生きる人間としての理想の姿として歌われ続けてきたのが「モレタの飛翔」の物語である。本編でもいくたびか「モレタの飛翔」については語られているが、その具体的内容は記されていなかった。
 実はモレタの飛翔は、本編から1000年ほど昔、第六次接近期の終わり頃の物語であったのだ。そして本書「竜の貴婦人」はこのモレタの物語である。
 本編を読んでいれば分かることだが、モレタは女王竜オルリスと感合したフォート大巌洞の洞母であり、それはつまりすべての竜騎士のリーダーたるフォート大巌洞の統領の妻という重要な職責者であることを意味する。そして、本編を読んでいるならば自明のことだが、モレタの飛翔とは、モレタがパーンの竜騎士と人々を守るために力尽きるまでパーン中を飛び回った、その勇気と献身を讃える歌なのである。
 実際には何が起きたのか、モレタとはどのような人であったのか、伝承となっているモレタの飛翔の物語が、「今」のできごととして語られる。
 ここで忘れてはならないのが、パーン人はそもそも高度な科学文明を持つ人類の末裔であり、比較的早くにパーンの実情に合わせた社会形成が行なわれたということである。だから本編と1000年も遡るモレタの世界であるが、この1000年に本質的な変化は起きていない。

 物語は、「糸胞降り」の期間が終わりを迎える直前の時期、領主の代替わりを祝うかのような大きな祭りの準備にはじまる。ふたつの大きなイベントがパーンの別々の場所で同時期に開催され、パーン中が沸き立っていた。人々は祭りやイベントの会場に遠くからも長い時間をかけて集まってきた。竜騎士もまた糸胞降りの間を狙って行なわれるイベントを楽しみにしていた。しかし、この2カ所への人の集まりは、ちょうどその時にはじまった人と地球由来の動物のどちらにも死をもたらす感染症の流行、パンデミックのきっかけとなってしまう。突然始まり、次々と倒れていく人々、それをなんとか治療しようと取り組む療法師たちとまだ元気な人々。竜騎士さえも倒れていく。そうしている間にも、次の糸胞ふりははじまる。わが身可愛さにとらわれ太守としての役目さえ放棄する男もいれば、パーン全体に心を配り、目の前の人たちを助けるために力を尽くす人々もいる。
 このパンデミックと糸胞降りという未曾有の危機を前に、重要な立場を理解して適切なふるまいを見せる表のモレタと、自分の気持ちに素直に従うひとりの女性としてのモレタの姿が描かれる。それは歌に歌われるようにただただ崇高な天使のような人物ではない。悩み、苦しみ、喜び、愛し、愛されるひとりの人間の姿である。

 さて、「パーンの竜騎士」の本編3部作は1968年から1978年に発表されている。第一作「竜の戦士」は1968年なのだ。作家のアン・マキャフリイといえば、強く、自立心があり、恋愛にも積極的な女性を主人公として描くことでも知られているが、この第1作ではどちらかといえば、女性は活躍するけれど「受け身」であったり「シンデレラ」であったりする。これは想像だが、マキャフリイは後にこのあたりの設定には腹を立てているのではなかろうか。とはいえ自分が書いた作品であり、多くのファンもいる。そうそう設定を大きく変えることはできない。できないけれど、その枠組みの中で、今日的な価値観をもって女性像を描き直すことはできるはずだし、それをやれるのはマキャフリイ自身だと考えたのではなかろうか。
 モレタの女性像や人間観、恋愛観、行動には初期作品にはなかった点が多く、それを作品世界の枠組みにはめこみ、教条的ではないファンタジーとしても感動させる物語に仕立て上げるのがマキャフリイの力である。
 パンデミックや大災害の時、人はどう動くのか、動けば良いのか。考えさせられる作品であった。

 そして、本作で何度かさりげなく登場してくる「ネリルカ」は、さらにマキャフリイが一歩も二歩も踏み込んでくる。合わせて必ず読みたい作品だ。

竜の太鼓


DRAGONDRUMS

アン・マキャフリイ
1979

 パーンの竜騎士シリーズ邦訳第6巻は「竪琴師編」3作目、「竜の太鼓」の主人公は前2作の主要サブキャラであり、「白い竜」では南ノ大陸で冒険を続けていた少年ピイマアである。竪琴師の徒弟で高音のソプラノの美しさで知られるピイマアは、一方で、竪琴師ノ主工舎の厄介者でもあった。はしっこく、いたずら好きのピイマアには誰もが手を焼いていたが、師補となったメノリにはよくなついていた。ピイマアは次の祭りのために彼の声に当て書きされた歌を歌うため猛練習を続けていた。しかし、こともあろうにその直前、彼は声変わりをはじめてしまったのである。
 もう歌は歌えない。もしかすると竪琴師ノ工舎を追い出されるかも知れない。しかし、竪琴師ノ長ロビントンは、ピイマアの情報収集能力と機転に目をつけ、一縷の不安を持ちつつも、彼をロビントンの影の徒弟とすることにした。表向きは太鼓師ノ徒弟として情報伝達手段である太鼓を学ぶこととなった。太鼓師はパーンの世界では通信士の役割を果たしていたのである。太鼓のビートで情報を伝え、それをのろしのように必要なところに送るのである。城砦間の緊急事態や医師の派遣など情報は様々であった。もちろん、竜騎士が情報を伝達する方が早く確実であるが、本来糸胞からパーンの大地と人々を守るのが竜騎士の仕事であり、日常では太鼓師の情報伝達が欠かせないのである。もっとも、ごく最近では火蜥蜴が竜と同じようにある程度人の指示を理解し行動することが分かってきたので、ごく一部であるが火蜥蜴が情報を運ぶことも起きるようになった。しかし、やはりやはり太鼓による情報伝達はパーンの中近距離通信手段であるのだ。それもまた情報伝達者である竪琴師の仕事のひとつであった。
 いたずら者として知られてきたピイマアは、太鼓師ノ徒弟となり、他の徒弟たちと新たな訓練を受け始める。ロビントン師の期待もあり、新たな道として真剣に取り組むピイマア、しかし、ピイマア本人が築いてきた悪名が彼を苦しめる。ピイマアははげしいいじめに会うことになる。
 少年から青年に変わるとき、生活の場が不安定になるとき、少年は道を間違う。その時、身近な大人や年上たちの存在と対応、信頼こそが鍵だ。

 さて、物語は「白い竜」の頃と並行して進むので、「白い竜」では語り尽くされなかった出来事が種明かしのように明かされていく。ジュブナイルと位置づけられているけれど、ぜんぜんそんなことなくって、主人公が少年から青年期である物語というだけで、立派に大人も読めるエンターテイメントSFファンタジーである。かつて植民され、苦難の時とともに人類社会から隔絶し、技術を失い、その地パーンの生態系とともに独自の文化、文明社会を築いてきたパーンの人々の暮らしを少年ピイマアの目を通して楽しめる作品である。

 さて、この後は邦訳されている
 竜の貴婦人 (1983)
 ネリルカ物語 (1986)
 竜の夜明け (1988)
 竜の反逆者 (1989)
 竜の挑戦 (1991)
 竜とイルカたち (1994)
 竜と竪琴師 (1998)
 最年少のドラゴンボーイ (1973)「塔のなかの姫君」所収
 パーンの走り屋 (1973)「ファンタジイの殿堂 伝説は永遠に 2」所収
 を読むことにしよう。
 長編「Red Star Rising」(1996)「The Skies of Pern(2001)」はこのまま訳されることはないのだろうなあ。英語かあ。

竜の歌い手

DRAGONSINGER

アン・マキャフリイ
1977

 パーンの竜騎士シリーズ邦訳5作目、「竪琴師編」第2作は、前作「竜の歌」に続いて、半円海ノ城砦太守の娘であったメノリの物語である。様々な出来事の末に竪琴師ノ主工舎で竪琴師の徒弟として暮らし、修行することになったメノリ。はじめての女性の徒弟、皆が憧れる火蜥蜴を7匹も連れている惑星パーンでも特別な女性。しかも竪琴師ノ長ロビントン直属の徒弟として特別視される存在。目立つことといったらない。竪琴師ノ主工舎にも女性がいないわけではない。女人ノ長のシルビナ、厨房の料理人アブナ、女性寮の管理人である小舎ノ長のダンカといった大人の女性のほかに、各地の城砦から音楽の基礎を学びに来た女性の学生たちもいる。また、同じ徒弟として学んでいる同世代の少年、青年たちもいる。
 もともと各城砦は支配階級と労働者階級の構図が固まっており、また、各工舎は専門職のギルドとして厳格な専門性に基づく徒弟制度が確立していた。そこに突然「異物」が入ってきたのである。早速悪質ないじめや妬み、さらには竪琴師の専門家(工師)、竪琴師として各地に派遣されることも多い師補たちからも決していい顔はされない。
 メノリも自分が子どもの頃から教わってきた技術や自分がつくった歌などが果たしてこの主工舎でどのレベルのものか計りかね、不安でしょうがない。しかし、実際に各工師の試験を受けてみると、メノリが持つ技能と才能の特異な高さは誰にも疑いようのないものであった。
 ますます妬み、そねみ、いじめはひどくなっていく。
 メノリが最初に友人になったのは年下の少年で徒弟であり、いたずら者のピイマアと、厨房の下働きのカモのふたりである。かれらはメノリの火蜥蜴にあこがれ、火蜥蜴に餌をやる手伝いができるのがなにより嬉しく、とくにピイマアはメノリの才能も素直に認め、メノリの親友となっていく。しかし、メノリは、火蜥蜴の(専門家?)として、火蜥蜴の卵をもらい受け孵化と感合をいまかいまかと待ち望むロビントン師と、師補のセベルの卵の世話をやきながら、はじめての場所ではじめての専門教育を次々とこなさなければならない。やはり苦悩は終わらないのだ。しかし、前作とは違う。メノリはいまようやく心の中の頑丈な蓋を開き、希望を確信にしようとしているのだ。不安のなかから覚醒する物語なのだ。これなら前作より気持ちよく読める。
 そして同時に、「竜騎士3部作」では分からなかったパーンの人々の暮らしや社会、問題が徐々に明らかになっていく。世界が複層化してみえてくる。これがシリーズものの楽しみでもある。いいぞ、いいぞ。

竜の歌

DRAGONSONG

アン・マキャフリイ
1976

 パーンの竜騎士シリーズの邦訳4作目である。邦訳1~3作を「アダルト版」、4~6作を「ジュブナイル版」として紹介しているが、思うに1~3作は「竜騎士編」4~6作は「竪琴師」編と呼んでもいいのではなかろうか。
 発表順では「竜の戦士」(1968)「竜の探索」(1971)「竜の歌」(1976)「竜の歌い手」(1977)「白い竜」(1978)「竜の太鼓」(1979)となっているのでこの順でも良かったのではないかとも思うが、特に不都合はない。
 さて、本作の主人公は半円海ノ城砦の太守の娘メノリである。すでに「白い竜」を読んでいると分かるのだが、メノリが「竪琴師」になるまでの、そして、他に例のない7匹の火蜥蜴と感合するに至るまでの物語である。
 厳しい漁労を生業とする海の城砦でメノリは老竪琴師ペティロンにその才能を見いだされ、歌、楽器、さらには作詞作曲の才を磨いていたが、女性が竪琴師になった例は過去になく、また、あくまでも老いたペティロンの補佐として暗黙の了解を得ていただけだったメノリはペティロンの死と、新たな竪琴師エルギオンの派遣によって、太守たる両親から音楽に携わること、歌うこと、まして自分で歌を作り歌うことを厳禁され、本来行なうべき下働きに出され、エルギオンの目から遠ざけられていた。一方のエルギオンはペティロンが生前送って来た若き才能への手紙やその歌の才能により竪琴師ノ長ロビントン師から、その者を見いだし、才を確認し、竪琴師となるべく連れてくるように厳命を受けていた。
 メノリは自らの心の底から湧き出る音楽への渇望と、それを禁じられている絶望の中で苦悩の日々を送っているのであった…。

 還暦も近くなると、こういう物語に弱いのだ。子供や成長期の青年が家族や社会の軋轢の中で苦悩し、逃げる場もなく追い詰められる物語は読むのが辛い。たとえその先に希望の未来が開けるとしても、だ。しかし小説だから自分のペースで読める。1章読んでは、主人公の苦悩に身もだえし、本を閉じたりできる。これが映像だと最後まで受動的に見ることになるのだが、小説は頭の中での言葉の再構成なのだから、ゆっくり構成し、心を落ち着けてから先に行けるのだ。そこが、小説という芸術形態の良いところだ。
 ということで、じっくりじっくりメノリの苦悩とつきあうことになる。大丈夫、結論は分かっている。それまでの様々なメノリの思考、行動とゆっくり付き合うのだ。
 がんばれ、メノリ。
 幸いなことに、この時代、惑星パーンの人々にとって忘れられていた糸胞の恐怖と、それを防ぐ竜騎士への尊敬が復活し、数世代にわたって固定化してきた社会構造が急速に変わろうとしていた。そして、その変化が騒乱につながるのを避けさせ、過去に失われたものを再発見し、新たなよりよき未来のために力を注ごうとする人物がいた。それが竪琴師ノ長ロビントンである。ただ歌や音楽を奏でるだけでない、情報と文化と文明を収拾し、保存し、伝達し、コミュニケーションを活発にする、それこそが「竪琴師ノ工舎」の仕事だと心得、変化の時を上手に導こうとしていたのである。そのロビントンが探していた鍵のひとりが、辺境の半円海ノ城砦に生まれた才だったのである。
 そう、メノリに道は開かれているのだ。
 そして彼女は動くことを恐れない、待つだけではないシンデレラなのである。
 いいねえ、いい物語だ。
 いい歌は、生活の中から生まれてくるのだ。

テメレア戦記7 黄金のるつぼ

CRUCIBLE OF GOLD

ナオミ・ノヴィク
2012

テメレア戦記」を読むきっかけは、実は本作、第7作である。ナオミ・ノヴィクは「ドラゴンの塔」を読んでいたので、「テメレア戦記」の存在は知っていたが、どうしてもファンタジー系はハードSFなどの二の次になってしまう傾向があるので放置状態になっていた。ところが、近年SNSで、前作第6巻以降長く翻訳されていないこと、前作までを翻訳出版していた企業が出版事業から撤退していたことや、それに対して読者の声が翻訳者の那波かおり氏に寄せられていること、翻訳者も続編の翻訳継続に向けてできることを行なっていることなどが伝わってきて、その行く末を不安8割で見守っていた。
 なぜ不安8割か。海外SFをよく読んでいる人ならば続編未訳で行き場のない気持ちを抱えたことが何度もあるだろう。出版社側としてもあまり売れなかったら、続編の翻訳には二の足を踏むだろうし、翻訳者側の都合で翻訳が中座することもあるだろう。とりわけ紙の本が売れなくなり、出版不況が続く中では、そもそも翻訳作品はコストがかかってしまう。原著の翻訳許諾をとり、使用料がかかり、さらに翻訳者への翻訳料も必要となる。翻訳者への翻訳料が安いことは長く言われているが、それでも日本語の作品を出版するのに対して、コスト面で海外翻訳作品は不利なのだ。すでに映画化やテレビドラマ化が決まっているとか、世界的に話題となっていて国内でもそれなりの部数が見込めるかと、そういうことでもないと、わざわざ翻訳しようということにはなりにくいのである。
 だから、これだけ間が空いて、新たな出版社を探し、旧著の翻訳版権を含め、新しい出版社から出し直し、新訳を出すという作業と手間と苦労と思いの深さを考えると、その貴重さは奇跡と言ってもいいと思う。すごいことだよ、これは。
 読者と翻訳者と出版社のその熱量がなければなせなかった奇跡なんだよ。
 そりゃあ、読むでしょう。読まないと損だ。

 ちょっとだけ続けておくと、円安、人口減少…、考えれば考えるほど、年を追うごとに翻訳作品の出版は難しくなる。AIによる機械翻訳が増えれば、近い将来、原著をデジタルで購入し、そこに機械翻訳を入れて大意をつかむという読み方も増えてきそうだ。日本の教育制度の中で、英語だったらある程度の読解力があれば、機械翻訳のサポートで読み進めることは可能だろう。
 しかし、それでも物語の翻訳には意味がある。原著言語の文化的、社会的、歴史的背景を踏まえ、翻訳言語(日本語)の文化的、社会的、歴史的背景から単語を選び、文を整え、読みやすく表現する。物語の翻訳は逐語翻訳ではないのだ。
 そして、翻訳者の協力を得て、海外の作者の視点、思考、想像力を読書という楽しみとともに学び取ることができるのだ。

 翻訳作品愛を語ってしまった。

 さて、第7巻「黄金のるつぼ」ではオーストラリアにいるドラゴンのテメレアと、そのパートナーである元英国軍人のローレンスが南アメリカのインカ帝国に向かうことになる。第7巻では南米、第8巻では日本も出てくるらしくふたたび東アジア、そして第9巻がヨーロッパでのナポレオン戦争の決着ということだけはなんとなく知っているのだが、そんな大あらすじでは語れないのが「テメレア戦記」のおもしろさである。
 軍籍を失い、オーストラリアでテメレアと争いのない生活に溶け込んでいたローレンスに、ふたたび英国から要請が届く。フランス・ナポレオンと第4巻で登場したアフリカのツワナ王国が同盟を結び、南米ブラジルに拠点を移しているポルトガル王国を攻め、なおかつインカ帝国とも同盟を結ぼうとしている。これを防いで欲しいと。また無茶な要求である。「テメレア戦記」の歴史はすでに実際の歴史からは離れており、いまだインカ帝国は健在なのだ。
 読む前は、早々にオーストラリアから南アメリカに向かい、そこからの冒険譚がはじまると思っていたが、おいおいおいおい、そう簡単にことは進まない。進まない。オーストラリアは無事出航できたのだが、いやあ、またまたローレンスの苦労が続く。
 テメレアとローレンスというふたりの主人公のうち、ローレンスは決して「特別」な人間ではない。テメレアは特別な竜だが、ローレンスは大航海時代の貴族出身者であり誇り高き軍人であり、どちらかといえば堅物である。知的でまっすぐな心を持つテメレアのパートナーとなったことで、次々と「目からうろこ」を剥がしていくことになるのだが、人間そう簡単に変わるものではない。変わるものではなくても、変わることもできる。
 テメレアを通して、ローレンスは変わっていく。
 本作にも、現代的な視点や価値観がそこかしこにていねいに織り込まれている
 ドラゴンと人、結びつきの強いパートナーシップだが、ローレンスはあるとき気がつく、対等な関係だと言っているが、ときにテメレアを対等にしてあげているという上位者としての視点で見ているのではないかと。そういう気づきの大切さが物語に織り込まれ、深みを与えている。これぞ物語の力だ。
 それにしても、インカ帝国、ナポレオンの帝国、ツワナ王国、ポルトガル王国、それに、英国、中国、それらの影になっているがトルコ、プロイセン、アメリカ、日本…。「テメレア」世界の歴史が大きく動き出した。はたしてどうなる。ローレンスの、テメレアの行く末は。
 なぜか次はふたたびの東アジアだ。楽しみ。

パーンの竜騎士3部作(再読)

竜の戦士(1968)
竜の探索(1971)
白い竜(1978)

アン・マキャフリイ

 約20年前に感想を書いている本編3部作である。その際も再読だったのだが、あらためて本シリーズを読み直したくなった。理由は「テメレア戦記」を読んだからだ。作者のナオミ・ノヴィクも言及している通り、「テメレア戦記」に登場する竜は「パーンの竜騎士」の竜によく似ている。テメレアの竜は竜があたりまえに存在する世界において人が人の役に立つように品種改良したものだが、言語を持ち、人の言語を介し、まだ航空機のない時代に空を飛べない人を乗せて飛ぶ戦闘機でもあり、火を噴いたり、酸を吹いたり、巨大な空中戦艦のような種であったり、身軽な小型種など多様な種がいる。
一方、「パーン」の竜は、そもそもパーンが別の惑星であり、人類は遠い昔に入植し、その現地にいた竜に似た生きもの(火蜥蜴)を人が目的を持って品種改良した生命体である。その目的とは、変動する軌道を持つ別の惑星から不定期に降ってくる糸胞と呼ばれる悪性の侵略物を焼き払うためである。瞬間移動の能力と火を噴く能力を使って人を乗せ、糸胞が地上に落ちるのを防ぐのである。人の言葉を直接しゃべる能力はないが、テレパシーのように特定の人間や竜同士で意志を交わすことができる。
 このどちらの竜も、卵が割れて孵化するタイミングで近くに居て、なおかつ交感できる人間とつながることで、唯一無二のつながりを持つことになる。その関係性は異種間の共生のようなものであり、パートナーシップであり、優劣のない互恵関係でもある。そしてどちらの物語の魅力も、この人間と竜の関係性の深さが中心となる。
 もちろん、人間にも竜にも人間同士、竜同士の関わりがあり、人間と人間、人間と竜、竜と人間の関係性の複雑さが生まれる。この複雑さが物語に最大限に活かされている。読む方もちょっと大変である。人間の名前、竜の名前、それに地名や出来事の名前など把握するのが大変だからだ。特に私のように固有名詞を覚えられない人間にはやっかいだ。還暦近くなると忘却力がさらに増してしまう。おもしろいのにもどかしい。
 それでも、竜に浸りたい。そう思わせてくれたのが「テメレア」であり、あらためて日本で翻訳されている「竜騎士」シリーズをすべて読み直したいと思ったのである。翻訳されている「竜騎士」シリーズは手元にある。「テメレア」も続巻の7巻を入手してある。これからしばらく竜三昧ができそうだ。うれしい。

 さて、パーンの竜騎士であるが、本編3部作は遠い未来、居住可能な惑星パーンに入植した人類が、当初知られていなかった危機である他惑星からの糸胞による生命の破壊と大地の汚染への対応のうちに文明世界との接触を失い、技術や文明を失い、その中で生き延びるために新たな文明、社会を再構築する物語である。人々を守る竜騎士、土地を統べる領主、領地同士の関係性とは独立した立場を持つ職種集団で構成された中世的社会である。しかも前の糸胞の襲来から400年の時が経ち、人々の記憶から危機は薄れ、竜騎士も衰退する中で竜騎士の特権に対する不満が高まる状況において、糸胞が襲来するという物語であった。その解決を図りながら、徐々に世界の実相、失われた世界の秘密が明らかにされ、登場人物は生まれ、成長し、年を取っていく。成長譚としての物語、ファンタジーとしての驚くべき世界の魅力、SFとしての上手な謎解き、どの視点からも読める時を超える作品である。

 今回読み直して、2作、3作目で登場する「火蜥蜴」が実によい働きをしていることに気づかされるとともに、かわいいものだとほのぼのした。肉食の動物だからペットとして飼うのは現代日本では少々難しいが、猫ぐらいの知性と自由を持ち、犬ぐらいの従順さと働きを見せるのである。竜とつながるのはその食事の準備だけでも大変だが、火蜥蜴ならね。

 三部作の感想の詳しくは以前書いた通り。

竜の戦士
https://inawara.sakura.ne.jp/halm/2007/08/26/dragonflight/
竜の探索
https://inawara.sakura.ne.jp/halm/2007/09/20/dragonquest/
白い竜
https://inawara.sakura.ne.jp/halm/2007/09/20/the-house-dragon/

テメレア戦記Ⅵ 大海蛇の舌

TONGUES OF SERPENTS

ナオミ・ノヴィク
2010

 黒き気高きドラゴン・テメレアとその乗り手であるローレンスの旅は、ついに北半球を離れ、オーストラリア大陸へ。シドニー、そこは英国が開拓をはじめてそう長くないすさんだ開拓の町である。開拓者とは名ばかりで英国から送られてきた囚人たち。ある意味で島流し的な海兵たち、そこを取り仕切る植民地総督、あまりのひどい扱いに反旗を翻し、事実上統治しているニューサウスウェールズ軍団…。
 軍籍を剥奪されたローレンスと事実上厄介者扱いされたテメレアは、ドラゴンのいない植民地にドラゴンを導入する目的と称して3つのドラゴンの卵を渡され、それを守り孵すという仕事を与えられる。送迎の警備役のドラゴンとなじみ深いドラゴン輸送船に乗ってやってきたのは、そんなシドニー。
 そしてここでもいろいろあってドラゴンの卵のひとつを奪われてしまい、シドニーから大陸を縦断するはめに。広大な乾燥した大陸を、生まれたばかりのふたりの変わったドラゴンとともに旅するテメレアとローレンス。自然の中の新たな脅威、オーストラリアの先住民たち、そして意外な人物たち。ユーラシア大陸でも砂漠を経験し、アフリカ大陸でも果てのない旅を経験しているテメレアたちであるが、人が少なく、集落もほとんどないオーストラリアの地での経験はこれまでにはなかったものだった。

 もちろんナポレオン戦争はまだ続いているし、大航海時代において新天地オーストラリアはヨーロッパ人にも中国人にも、そして独立して間のないアメリカ人にとっても「開拓」すべき土地である。しかしもちろんそこには先住民がいて、さまざまな暮らし方や文化を持つ民族があるのである。
 軍籍はないが、軍にとっては欠かせないドラゴンの乗り手であるローレンスは、不遇の扱いを受けながら、「いま自分にできること」「いま自分がやるべきこと」「いま自分がやりたいこと」を考え、テメレアとともに行動するのであった。
 主戦場から離れたことで、テメレア戦記はまた違った「戦記」となっていく。前作に続き、後半の大きなターニングポイントとなる巻であった。

 それにしても、ローレンスもテメレアも休ませてくれないね。わくわくするけどちょっとかわいそうな気持ちにもなる。

テメレア戦記Ⅴ 鷲の勝利

VICTORY OF EAGLES

ナオミ・ノヴィク
2008

 19世紀初頭、蒸気機関は誕生したもののまだ帆船の時代。ナポレオンがヨーロッパを席巻しようとしていた時代のおはなし。この物語の世界では、ドラゴンが当たり前に存在し、思考し、話し、人とともに生きている。そんな戦争の時代のひとりの竜とその乗り手の物語
 第1巻でフランス軍から奪った竜の卵から孵ったのは中国皇帝ががフランスのナポレオンに贈呈した特別なドラゴンであった。英国海軍士官のローレンスはその竜に選ばれ、テメレアと名付けて空軍のパイロットとして転籍し、海軍と空軍の違いに戸惑いながらも、テメレアとの絆を深めた。第2巻では、その中国に海路で向かうこととなり、中国の竜事情に加え、中国、フランス、英国の大国間の騒動にも巻き込まれる。そして、第3巻では帰路を陸路でトルコ帝国をまずめざすことになる。ユーラシア大陸を西へ西へ。苦難の旅の物語。さらに第4巻では英国に戻ったものの仲間のドラゴンたちを助けるためにアフリカ大陸に渡ることになり、そこで奴隷制について深く怒りを覚えるテメレアであった。
 アフリカ大陸から英国に帰国したテメレアとローレンスの物語は、苦難の幕開けとなる。
 前作のとある事情からローレンスとテメレアは離ればなれとなる。そしてここからは、ローレンスの視点の物語から、ローレンスの視点、テメレアの視点と、人とドラゴンのそれぞれの視点から語られることになる。
 前作までの長い旅を通じて、ローレンスとテメレアの深い絆はより強固になった。それは、ローレンスの思考や行動を大きく変えるものとなる。もともとローレンスは有力な英国貴族の家に生まれ、本来ならば貴族としての道を選ぶべきであったが、生粋の真面目な性格と「国家に尽くしたい」という強い思い、さらには広い世界を見たいという冒険家的な一面から海軍士官となっていた。真面目で優秀かつ有能な青年士官はその出自もあり出世も早く有力艦の艦長となり、厳格かつ公正な上官として部下にも慕われる存在であった。一方で、貴族議員の父とは奴隷制廃止など政治的姿勢は共通するものの、貴族としてのあり方故に衝突していた。似たもの同士でもある。そんなローレンスが、ドラゴンのテメレアのパートナーとなり、世間的には低く見られる空軍の士官に転籍した。空軍とはドラゴンの軍であり、ドラゴンに選ばれた者がキャプテンパイロットであり、そのほかにはドラゴンに乗ってキャプテンを補佐する者、ドラゴンと人の世話をする者たちで構成される軍である。故に、ドラゴンの側に常に居ることとなり世間一般とは離れた存在になる。キャプテン候補は幼少期から空軍で将来のパイロット候補として訓練を受ける。そこに、海軍から突如キャプテンとなって転籍したのがローレンスである。そりゃあ風当たりも強くなろう。
 一方テメレアは生まれついての語学の天才であり、策略家であり、読書家であり、自由を最大の価値と知る、若く正義感あふれる王の風格を持つドラゴンである。他のドラゴンとの関係性、人間社会のありようをまっすぐなまなざしで見続ける。奴隷制を知り、中国でのドラゴンの扱いを知り、野生のドラゴンを知り、国家と法と「基本的人権」を知る。そんなテメレアとのつながりは、ローレンスを少しずつある意味で「解放」していくことになる。それはテメレアも望んだことであったが、それ故に、ローレンスは戦時下の英国軍人、貴族という社会から徐々に乖離してしまう。
 その結果が、第五巻の冒頭である。ローレンスとテメレアは離ればなれ。テメレアはひとり苦悩と寂しさの中にある。一方のローレンスもテメレアのことを思いながらも、せいせいと国家が自分に与えた状況を甘んじて受け入れようとしていた。
 折しも、そのような状況下、フランスのナポレオン軍が英国本土上陸急襲作戦を開始した。ローレンスの身を案じ、英国への忠誠の意義を失いつつある中でも、自分がいまいる場所である英国を守るため戦いをはじめるキャプテンなきテメレア。キャプテンの任を解かれ、テメレアの未来を案じながら英国にある意味で捨てられたのに英国への忠誠故に奮闘するローレンス。それぞれの絶望的な英国防衛戦争が幕を開けるのだった。

 いよいよ「テメレア」戦記である。テメレアの視点の物語描写によって物語は壮大になりアクション感も増し、「戦記」感も増す。ローレンスが悪いわけではないのだが、やはりこのシリーズはテメレアの物語なのだ。それは人間にもうひとつの視点を与える。人間はすぐに「他者」をこしらえる。そして「他者」には自分とは違う思考、行動、心があることを忘れてしまう。しかし、どんなに姿形が違っても、出自が、言葉が違っても、あるいは同じであっても、尊重されるべき存在なのだ。その尊重や尊厳を否定する者や枠組みこそが問題なのだ。テメレアははっきりとそれに気がつきはじめる。そして読者もテメレアの視点に考えさせられるのだ。