イシャーの武器店

イシャーの武器店
THE WEAPON SHOPS OF ISHER
A・E・ヴァン・ヴォークト
1951
 えっと、1966年に翻訳出版され、2010年9月に復刊した24版である。復刊してくれてありがとう! 読んでいなかった作品のひとつだから。「武器製造業者」の前日譚となるのかな。「人類補完機構」の流れで読んでよかった。こちらは、7000年未来。地球は、イシャー王朝が支配し、安定した社会を続けている。しかし、そのイシャー王朝に対立しているのは、3000年前に創立された武器製造者ギルド。イシャー王朝を監視する社会の影の装置である。武器製造業者ギルドは帝国により攻撃を受け、それによって時間のゆがみが生まれ、1951年のミドル・シティーで、ひとりの新聞記者マカリスターが、7000年先の未来に飛ばされてしまった。時間エネルギーを身体にため込み、生きた究極兵器となってしまったマカリスター。イシャー王朝とギルドの間に挟まれて時間をさまようことになる。
 そして、イシャー王朝とギルドの間の様々な策略。ギルドの中の影となる不死者の存在。
「人類補完機構」のような存在が「ギルド」である。おもしろいねえ。
 SFの古典として、一度は読んでおきたい。
 すっとんでいるから。
(2010.11)

第81Q戦争

第81Q戦争
INSTRUMENTALITY OF MANKIND
コードウェイナー・スミス
1979
 人類補完機構ができる以前の地球、それ以前の第一次宇宙時代、そして、人類補完機構の創出期などが掲載されている、コードウェイナー・スミスの短編集である。これをもってほぼすべての「人類補完機構」ものが翻訳されたこととなる。翻訳出版されたのは1997年。アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」が放映され、話題になった翌年のことである。
 1982年に「鼠と竜のゲーム」が人類補完機構の短編集「THE BEST OF CORDWAINER SMITH」の約半分を翻訳出版された。その後、5年開いて1987年に長編「ノーストリリア」が翻訳出版。予定より10年遅れて1994年に、短編集「THE BEST OF CORDWAINER SMITH」の残りが「シェイヨルという名の星」として翻訳出版された。それでも、初期の作品などが残されていたが、「エヴァンゲリオン」が「人類補完機構」という名称を使ったものだから、コードウェイナー・スミスに注目が集まり、おかげで、1997年に本書が登場することとなる。
 表紙には大々的に「人類補完機構」の文字が躍り、タイトルも「第81Q戦争」と、「エヴァンゲリオン」を彷彿とさせるところもある。
 いやいやいやいや。ま、売れる分はいいけれど。
 ちなみに、「第81Q戦争」はスミスが14歳の頃に書いた作品だそうである。「人類補完機構」前史も前史。かけらもないストーリーである。おもしろいけれど。
 翻訳してくれてありがとう、である。なんと言っても、作品数が極端に少ないので、できるだけたくさん読みたいのだ。
 でも、「人類補完機構」シリーズや、コードウェイナー・スミスのすごさを知りたい向きに、本書を1冊目としてはおすすめできない。やはり、「鼠と竜のゲーム」「シェイヨルという名の星」の短編集を読み、「ノーストリリア」を読まれるのがよかろう。
 他のシリーズなら、どれから、というおすすめはしないが、コードウェイナー・スミスに関してだけは、掛け値なしに、この順番である。
 私は、日本の翻訳出版順で読んだが、今ならば、この順番をおすすめしたい。もちろん、今回の再読では、その順番で読んだ。よかった。
 あ、もちろん、その後で、本書「第81Q戦争」をお忘れなく。
(2010.11)

ノーストリリア

ノーストリリア
NORSTRILLIA
コードウェイナー・スミス
1975
 惑星ノーストリリア。砂漠の、羊の星。人類世界にとって欠かすことのできない不老長寿薬サンタクララ薬、またはストルーンと呼ばれる薬物は、ノーストリリアの病気にかかった羊だけから産出される。故に、ノーストリリアは宇宙一裕福な星。故に、ノーストリリアは他のどのような星よりも防衛に長けた星。ひとりひとりが厳格に育てられ、自立し、生き残ることを求められる星。すでに無き女王陛下を戴く星、オールド・ノース・オーストラリア。
 ひとりの少年がいた。長い名前を持つが、簡単に言えば、ロッド・マクバン。彼は生き延びたそして、生き延び続けるために、地球を買った。古い、古い惑星。人類が生まれた惑星であること、人類補完機構の本部であることを除けば、それほど価値のない惑星。ロッドが地球を買ったことで、地球とノーストリリアと人類補完機構はそれぞれに困惑し、事物の収束を願った。地球を買った男がいることを、耳ざとい者たちは知った。彼らは、ロッドに期待を寄せた。いや、ロッドの立場や地位や権力や金に、ということだが。
 さて、自覚のないままに地球を買ったロッドは、地球に行くこととなる。
 もちろん、いろんなことが起る。
 猫娘ク・メルも登場する。
 人類補完機構で「人間の再発見」を推し進めるのロード・ジェストコーストも登場する。
 コードウェイナー・スミスの、人類補完機構シリーズの唯一の長編である。
 最初に、短編集「鼠と竜のゲーム」「シェイヨルという名の星」を読み、それから、心落ち着けて、わくわくしながら、一気に読むといい。ここにすべてが結集する。
 しばらくの間、今が21世紀程度ではなく、数万年先の世界で、ここは地球か、それ以外のどこかの星で生きているような気持ちになれる。
 あー、幸せ。
(2010.11)

シェイヨルという名の星

シェイヨルという名の星
THE BEST OF CORDWAINER SMITH
コードウェイナー・スミス
1975
「鼠と竜のゲーム」と対をなす、スミスの短編集であり、「人類補完機構」シリーズをまとめた本である。4作品が収められており、いずれも傑作と言える。
「クラウン・タウンの死婦人」で、犬娘ド・ショーンの真の物語を知ることができる。それは、私たちの知る人類創世記の歴史で言えば、フランスにおけるジャンヌ・ダルクを思わせる存在。人間に似せて作られた下級民たちにとっての自由のシンボルとなる。
「帰らぬク・メルのバラッド」では、猫娘ク・メルが描かれる。「ノーストリリア」でも登場するク・メル、その人である。ク・メルの物語は数限りない。真の愛はどこにあったのか、それを知るものはいない。
表題作「シェイヨルという名の星」は、手塚治虫の火の鳥宇宙編を思わせる。もしくは地獄。それを地獄と呼ばずして、何を地獄と呼ぶのだろう、という物語。
真実は伝説となり、伝説は物語を、詩を、歌を生む。
伝説も、物語も、詩も、歌も生まれないような出来事は、時代は、真に殺伐とした時代に相違ない。ある男の、ある女の、ある存在の伝説が生まれてこその同時代である。
小惑星イトカワを探索した無人小惑星探査機「はやぶさ」の物語は美しい。はやぶさは、現代の日本の伝説となり、物語を、詩を、歌を生む。しかし、それは人ではない。
伝説の人が生まれないものか。
(2010.11)

鼠と竜のゲーム

鼠と竜のゲーム
THE BEST OF CORDWAINER SMITH
コードウェイナー・スミス
1975
「人類補完機構」である。アニメ「エヴァンゲリオン」でこの表現が有名になり、釣られてコードウェイナー・スミスの作品にも注目が集まったり、集まらなかったりした。「ノーストリリア」を除いては基本的に短編作品群であり、長編を選んで読んでいて関係で、再読し、感想を書くのを延ばし延ばしにしてしまった。とても好きな作家であり、今も比較的入手性が良いことは嬉しい限りである。
 作品だけでなく、作者としてもエピソードに満ちており、女性であるジェイムズ・ティプトリーと並んで、特異な作品世界と魅力的な作者としてSFの歴史には欠かすことができない。
 本書「鼠と竜のゲーム」は、8つの作品の短編集であり、「人類補完機構」ものとして知られる。作品は、1950年から64年に書かれたものであり、まだ、ニューウェーブやサイバーパンクが登場する前である。
 内容だが、「エヴァンゲリオン」を彷彿するところはひとつもない、ということを強調しておきたい。いや、ないわけではない。共通するところと言えば、説明もなしに、特異な単語が飛び交うところぐらいか。ただし、アニメと違い小説であり、長い長い宇宙史、人類史として書かれているので、その歴史の中で「伝説」が生まれ、歪曲され、「歌」や「詩」や「物語」として描かれているため、「エヴァンゲリオン」の「謎解き」とは違っている。
 コードウェイナー・スミスの「人類補完機構」のすごさは、別の世界の別の歴史の物語を、あたかも同時代小説であるように書き、かつ、別の世界の住人である我々(読者)に、読ませる力を持つことである。作者が独自の世界観を作り上げ、独自の用語、独自の歴史、エピソードを作品中に書くことはよくある。これはとても難しいことで、ちょっとでも書きすぎると、作者のひとりよがりで、読者を置き去りにするか、まったくの駄作となってしまう。作者が、独自の世界観を確固たるものとして自分の身につけ、そして、別世界の住人である我々への翻訳者として作品をしたためる。すごい力量である。
「星の海に魂の帆をかけた女」で、主人公ヘレン・アメリカの真実のエピソードを知る喜び。
「ママ・ヒットンのかわゆいキットンたち」で、ノーストリリアの防衛の真の秘密を知る喜び。
「アルファ・ラルファ大通り」で、ク・メルに出会える喜び。
 他の作品群と続けて読むことで、コードウェイナー・スミスが住む世界を知ることができる。だから、まとめて「シェイヨルという名の星」「ノーストリリア」「第81Q戦争」を読むことをおすすめしたい。強く。
(2010.11)

ゾーイの物語 老人と宇宙4

ゾーイの物語 老人と宇宙4
ZOE’S TALE
ジョン・スコルジー
2008
 作者のあとがきにも書いてあったが、オースン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」に対する「エンダーズ・シャドウ」にあたる作品である。老人と宇宙シリーズの第3作「最後の聖戦」を、主人公の娘「ゾーイ」の視点で再構成し、その解題を果たす。
「エンダーズ・シャドウ」同様に、視点を変え、再構成することで、まったく違う物語が生まれる。それでいて、前作で世界観を共有しているので、ささやかな「ずれ」が、物語に深みを与える。
 同時に「老人と宇宙」のシリーズだが、本作品は、10代の少女の恋と、冒険と、成長のストーリーである。ここにきて、これですか? いや、いい意味で。
 いくつになっても、「青春」ものっていいね。わくわくする。いやあ、ゾーイも大人になったもんだ。
 この作品を読むために、最初の3作を読む価値がある。おもしろいよ。
 さて、話だが、「最後の聖戦」と同じであるが、本書は主人公がゾーイである。ゾーイは、かつて人類を滅亡のふちまで追い込んだ男の娘であり、現在は人類の属するコロニー連合との協定を結んでいるオービン族の女神としてその人生のすべてをオービン族のふたりの特使により記録され続けている特異な存在である。オービン族の姿は、人類には一見して恐怖をもたらすもので、そのふたりがほぼ常にゾーイに付き添っているのだから、それはそれは大変である。しかも、父親も母親も元軍人であり、指導者でもある。立場としても特殊である。ゾーイ自身は、10代、多感で賢く、責任感の強い少女であり、両親らとともに、新たな植民星に入り、友を得、ボーイフレンドを得、そして、人生を形作っていく。「最後の聖戦」では描かれなかった、植民星の知的生命体の姿、そして、決して描かれることのなかった最強種属オービン族の姿、敵であるコンクラーベとガウ将軍の姿が、ゾーイによって活写される。いやあ、青春だねえ。怖いもの知らず、いや、怖いものを知っていく過程のすごさ、青春っていいね。
(2010.11)

ワイオミング生まれの宇宙飛行士

ワイオミング生まれの宇宙飛行士
THE ASTRONAUT FOR WYOMINGU AND OTHER STORIES
アンソロジー
 SFマガジン創刊50周年記念アンソロジーとしてちょっと異色の宇宙開発中短編をまとめた作品群である。アーサー・C・クラーク&スティーブン・バクスターの「電送連続体」、スティーブン・バクスターの「月その六」のほか、7編が収められている。
 宇宙開発ものの古典と言えば、ハインラインの「月を売った男」が思い出される。地球人にとって幸いなことに、夜、空を見上げれば、そこには月がある。手を伸ばせば届きそうでいて、簡単には行けない場所。人類のあこがれであり、自然にも文化にも暮らしにも大きな影響を与える衛星。アメリカのアポロ計画で人が月に行ったとき、宇宙が突然身近になった。
 しかし、残念ながら、アポロ計画後、誰ひとり、月に降りたものはおらず、月より遠くに行った人もいない。
 2010年も終わろうとしているのに。
(2010.11)

プラクティス・エフェクト

プラクティス・エフェクト
THE PRACTICE EFFECT
デイヴィッド・ブリン
1984
 コメディSFというか、スラップスティックSFなのかな。天才物理学者が、時空を超えて異世界をつなぐジーヴァトロンを開発。地球に似た世界とつながることができた。ロボット探査機を送り込んだが、異世界と地球をつなぐ帰還装置が故障。それを修理するために主人公の科学者デニスが送り込まれることとなった。
 その世界が地球と根本的に異なるのは、プラクティス・エフェクト、すなわち「訓練効果」とでも呼べる効果である。道具やモノを適切に使えば使い込むほど、その形状や機能は進化していく。逆に使わずに放置すれば、その機能は退行し、劣化し、崩壊していく。
 そのように書くとP・K・ディックの作品世界を彷彿とさせるが、ディックのように主人公らの世界が崩壊するのではなく、徐々に世界の秘密が明らかになっていくので、主人公自身はしっかりしたものである。また、異世界の人々も、プラクティス・エフェクトは「自然な物理法則」なので、何の不思議も持たない。だから笑えるのである。
 デイヴィッド・ブリンといえば、「スタータイド・ライジング」をはじめ、「知性化」シリーズで有名だが、本書は少し傾向を異にしている。「キルン・ピープル」あたり少し近いかも知れない。
 さて、プラクティス・エフェクト、これいいねえ。何世代も使い込む道具が、すばらしい機能を発揮する。扱いをおろそかにすると、だめになる。ここでは、「道具」で語られているが、本来、人間の「技能」はそういうものでなかろうか。代々知恵と技術を伝承して、その知恵と技術は深められていく。料理でも、山仕事や畑仕事でも、音楽でも、スポーツでも、毎日の継続と練習、訓練で、その技術は高まり、おろそかになれば、ダメになっていく。
 最近、冗談ではなく、やったこともないのに「できる」と思う人や、練習をしていないのに「できる」と思う人を見かけるようになった。もちろん、以前からいたのだろうし、やったこともないことを「できる」人もいるだろう。しかし、傾向として、訓練や練習、とりわけ身体を使った「身体で覚える」ことを厭ったり、ばかにする人が増えているように思えてならない。
 道具は使わなければさびるよ。ホント。
(2010.11)

天空のリング

天空のリング
SINGULARITY’S RING
ポール・メルコ
2008
 地球の周りにはリングがある。人類が建造した最大の構造物。60億人の人類がそこに暮らし、リングのインターフェースによって、人工知能とともに接続した人類全体とつながって「共同体」を形成していた。「相乗的な人間/機会知性」である。その夢のような世界は、やがて悪夢に変わる。接続していなかった地球上に住む人たちとって、リングと接続していた人類は皆死んでしまったのだ。突然に、あっという間に。残された人たちの多くは、彼らが特異点を迎え、海王星軌道のすぐ先に「裂け目」をつくり、そこからどこか遠く、時空の彼方に向かったと考えられていた。
「共同体」が行ってしまった後、世界は混乱し、立ち直るためには長い時間を要した。世界は再び立ち直るが、人工知能を含め、様々な技術が失われていた。その中で、世界の発展の中心を閉めたのが、ポッド達である。ふたりで、3人が組となり、手首のパッドから放出される化学物質の「におい」によって思考や記憶、感情を共有し、「ひとり」の思考体を形成する。ひとつの頭に2つの身体、3つの身体、である。もちろん、ひとりひとりも思考し、感情を持ち、記憶し、行動するが、彼らは近くにいてこそ、真の知性体であり、存在になれるのである。集合知性体である。
 主人公、アポロ・パパドブロスは、この世界でもめずらしい5人組のポッドである。宇宙探査のために特別に集められ、育てられた5人組ポッド達のひとつ。最終選抜期間のまっただ中にあった。
 本書「天空のリング」は、主人公、アポロを構成する5人のそれぞれの「ひとり語り」で物語が語られる。ひとりであり、5人でもあるが故の表現方法。力持ちで優しい大男のストロム、アポロの「言葉」であり、フロント役の女性メダ。世界を数学で見ている女性のクアント、宇宙空間や無重力での作業ができるよう、足が手のように身体改変して生まれた男性のマニュエル、それに、アポロの「心」というか、精神的統一を司る、メダの一卵性双生児モイラ。この5人それぞれの性格と、行動。アポロとしての行動。うーん、深い。
 よくこんなこと考えつくよな。ヴァーナー・ヴィンジの「遠き神々の炎」では、音で共同知性体を構成する犬に似た集合知性体が登場するけれど、それの人間版だ。
(2010.08.25)

ハンターズ・ラン

ハンターズ・ラン
HUNTER’S RUN
ジョージ・R・R・マーティン&ガードナー・ドゾワ&ダニエル・エイブラハム
2007
 人類は宇宙に進出した。ところがどっこい、宇宙は弱肉強食の世界。強力な異星人の助けで、人類は人類が生息可能な惑星への植民を続けてきた。そんな植民星サン・パウロは、入植2世代目に入ったばかりの辺境の惑星。厳しい自然環境の中で多くの者が命を落とし、生活は厳しい。ラモン・エスペポはフリーの探鉱師。未開の地に入って、有望な鉱脈を探すのを生業にしている。数カ月の間、辺境の中の辺境をさまよい、運が良ければ金づるを持って帰ることになる。金を持ち帰れば、王様亭で酒を飲む。喧嘩をする。暴力的な彼女と喧嘩をしては、愛し合う。シンプルかつ悩み多い人生。
 植民星サン・パウロは異様な興奮に包まれていた。人類のパートナーたる異星種族エニェが、その巨大宇宙船団の予定を繰り上げて訪問するというのだ。この植民星を去るたったひとつの手段でもあり、彼らがもたらす様々な交易品などの期待もある。
 そんな喧噪の中で、ラモン・エスペポは、エウロパ人を殺してしまう。なぜ、彼を殺したのか? それすら思い出せない酩酊状態の中で…。
 未開の山に逃亡したところで、植民星サン・パウロに潜む異星種族に捕まってしまう。彼らの秘密を持って逃亡した人類を探せ、というのだ。そのために異星種族のひとりとつながれ、サン・パウロの密林をさまようはめになる。
 ハードボイルド、逃亡劇、そして、SFならではの設定。
 それにしても痛い。作家3人がそろいもそろって主人公に冷たい。いじめて、いじめて、いじめぬく。まるで修行なのか。
 解説にも書かれていたが、マーティンの「フィーバー・ドリーム」にも似た密林の川旅が描かれる。よくよく好きなのだろう。たしかに趣深い。
 本書「ハンターズ・ラン」はもともと1977年にドゾワがアイディアを出し、それをマーティンと共著するつもりでいたが、なかなかうまくいかず、20年ほど放置、その後、エイブラハムが加わって、ようやく完成に至った作品である。30年分のエッセンスがたっぷりつまったこの作品を楽しむといい。
(2010.08.20)