ワイオミング生まれの宇宙飛行士

ワイオミング生まれの宇宙飛行士
THE ASTRONAUT FOR WYOMINGU AND OTHER STORIES
アンソロジー
 SFマガジン創刊50周年記念アンソロジーとしてちょっと異色の宇宙開発中短編をまとめた作品群である。アーサー・C・クラーク&スティーブン・バクスターの「電送連続体」、スティーブン・バクスターの「月その六」のほか、7編が収められている。
 宇宙開発ものの古典と言えば、ハインラインの「月を売った男」が思い出される。地球人にとって幸いなことに、夜、空を見上げれば、そこには月がある。手を伸ばせば届きそうでいて、簡単には行けない場所。人類のあこがれであり、自然にも文化にも暮らしにも大きな影響を与える衛星。アメリカのアポロ計画で人が月に行ったとき、宇宙が突然身近になった。
 しかし、残念ながら、アポロ計画後、誰ひとり、月に降りたものはおらず、月より遠くに行った人もいない。
 2010年も終わろうとしているのに。
(2010.11)

プラクティス・エフェクト

プラクティス・エフェクト
THE PRACTICE EFFECT
デイヴィッド・ブリン
1984
 コメディSFというか、スラップスティックSFなのかな。天才物理学者が、時空を超えて異世界をつなぐジーヴァトロンを開発。地球に似た世界とつながることができた。ロボット探査機を送り込んだが、異世界と地球をつなぐ帰還装置が故障。それを修理するために主人公の科学者デニスが送り込まれることとなった。
 その世界が地球と根本的に異なるのは、プラクティス・エフェクト、すなわち「訓練効果」とでも呼べる効果である。道具やモノを適切に使えば使い込むほど、その形状や機能は進化していく。逆に使わずに放置すれば、その機能は退行し、劣化し、崩壊していく。
 そのように書くとP・K・ディックの作品世界を彷彿とさせるが、ディックのように主人公らの世界が崩壊するのではなく、徐々に世界の秘密が明らかになっていくので、主人公自身はしっかりしたものである。また、異世界の人々も、プラクティス・エフェクトは「自然な物理法則」なので、何の不思議も持たない。だから笑えるのである。
 デイヴィッド・ブリンといえば、「スタータイド・ライジング」をはじめ、「知性化」シリーズで有名だが、本書は少し傾向を異にしている。「キルン・ピープル」あたり少し近いかも知れない。
 さて、プラクティス・エフェクト、これいいねえ。何世代も使い込む道具が、すばらしい機能を発揮する。扱いをおろそかにすると、だめになる。ここでは、「道具」で語られているが、本来、人間の「技能」はそういうものでなかろうか。代々知恵と技術を伝承して、その知恵と技術は深められていく。料理でも、山仕事や畑仕事でも、音楽でも、スポーツでも、毎日の継続と練習、訓練で、その技術は高まり、おろそかになれば、ダメになっていく。
 最近、冗談ではなく、やったこともないのに「できる」と思う人や、練習をしていないのに「できる」と思う人を見かけるようになった。もちろん、以前からいたのだろうし、やったこともないことを「できる」人もいるだろう。しかし、傾向として、訓練や練習、とりわけ身体を使った「身体で覚える」ことを厭ったり、ばかにする人が増えているように思えてならない。
 道具は使わなければさびるよ。ホント。
(2010.11)

天空のリング

天空のリング
SINGULARITY’S RING
ポール・メルコ
2008
 地球の周りにはリングがある。人類が建造した最大の構造物。60億人の人類がそこに暮らし、リングのインターフェースによって、人工知能とともに接続した人類全体とつながって「共同体」を形成していた。「相乗的な人間/機会知性」である。その夢のような世界は、やがて悪夢に変わる。接続していなかった地球上に住む人たちとって、リングと接続していた人類は皆死んでしまったのだ。突然に、あっという間に。残された人たちの多くは、彼らが特異点を迎え、海王星軌道のすぐ先に「裂け目」をつくり、そこからどこか遠く、時空の彼方に向かったと考えられていた。
「共同体」が行ってしまった後、世界は混乱し、立ち直るためには長い時間を要した。世界は再び立ち直るが、人工知能を含め、様々な技術が失われていた。その中で、世界の発展の中心を閉めたのが、ポッド達である。ふたりで、3人が組となり、手首のパッドから放出される化学物質の「におい」によって思考や記憶、感情を共有し、「ひとり」の思考体を形成する。ひとつの頭に2つの身体、3つの身体、である。もちろん、ひとりひとりも思考し、感情を持ち、記憶し、行動するが、彼らは近くにいてこそ、真の知性体であり、存在になれるのである。集合知性体である。
 主人公、アポロ・パパドブロスは、この世界でもめずらしい5人組のポッドである。宇宙探査のために特別に集められ、育てられた5人組ポッド達のひとつ。最終選抜期間のまっただ中にあった。
 本書「天空のリング」は、主人公、アポロを構成する5人のそれぞれの「ひとり語り」で物語が語られる。ひとりであり、5人でもあるが故の表現方法。力持ちで優しい大男のストロム、アポロの「言葉」であり、フロント役の女性メダ。世界を数学で見ている女性のクアント、宇宙空間や無重力での作業ができるよう、足が手のように身体改変して生まれた男性のマニュエル、それに、アポロの「心」というか、精神的統一を司る、メダの一卵性双生児モイラ。この5人それぞれの性格と、行動。アポロとしての行動。うーん、深い。
 よくこんなこと考えつくよな。ヴァーナー・ヴィンジの「遠き神々の炎」では、音で共同知性体を構成する犬に似た集合知性体が登場するけれど、それの人間版だ。
(2010.08.25)

ハンターズ・ラン

ハンターズ・ラン
HUNTER’S RUN
ジョージ・R・R・マーティン&ガードナー・ドゾワ&ダニエル・エイブラハム
2007
 人類は宇宙に進出した。ところがどっこい、宇宙は弱肉強食の世界。強力な異星人の助けで、人類は人類が生息可能な惑星への植民を続けてきた。そんな植民星サン・パウロは、入植2世代目に入ったばかりの辺境の惑星。厳しい自然環境の中で多くの者が命を落とし、生活は厳しい。ラモン・エスペポはフリーの探鉱師。未開の地に入って、有望な鉱脈を探すのを生業にしている。数カ月の間、辺境の中の辺境をさまよい、運が良ければ金づるを持って帰ることになる。金を持ち帰れば、王様亭で酒を飲む。喧嘩をする。暴力的な彼女と喧嘩をしては、愛し合う。シンプルかつ悩み多い人生。
 植民星サン・パウロは異様な興奮に包まれていた。人類のパートナーたる異星種族エニェが、その巨大宇宙船団の予定を繰り上げて訪問するというのだ。この植民星を去るたったひとつの手段でもあり、彼らがもたらす様々な交易品などの期待もある。
 そんな喧噪の中で、ラモン・エスペポは、エウロパ人を殺してしまう。なぜ、彼を殺したのか? それすら思い出せない酩酊状態の中で…。
 未開の山に逃亡したところで、植民星サン・パウロに潜む異星種族に捕まってしまう。彼らの秘密を持って逃亡した人類を探せ、というのだ。そのために異星種族のひとりとつながれ、サン・パウロの密林をさまようはめになる。
 ハードボイルド、逃亡劇、そして、SFならではの設定。
 それにしても痛い。作家3人がそろいもそろって主人公に冷たい。いじめて、いじめて、いじめぬく。まるで修行なのか。
 解説にも書かれていたが、マーティンの「フィーバー・ドリーム」にも似た密林の川旅が描かれる。よくよく好きなのだろう。たしかに趣深い。
 本書「ハンターズ・ラン」はもともと1977年にドゾワがアイディアを出し、それをマーティンと共著するつもりでいたが、なかなかうまくいかず、20年ほど放置、その後、エイブラハムが加わって、ようやく完成に至った作品である。30年分のエッセンスがたっぷりつまったこの作品を楽しむといい。
(2010.08.20)

量子宇宙干渉機

量子宇宙干渉機
PATHS TO OTHERWHERE
ジェイムズ・P・ホーガン
1996
 多元世界解釈に基づくパラレルワールドもののSF。と書くと、とても古典に見えるがタイトルは「量子宇宙干渉機」と20世紀後半風。読み方によってはモダンホラーにもなりそう。本書の中に書かれている「現代の21世紀」は、同じくホーガンによる「創世記機械」と同じような世界。全面戦争の危機、政治家、国家、軍による支配。科学者は、自由な科学ができず、政府や軍の指揮下に置かれる。その中で、清く、正しく、美しい、科学が科学であることを信じる主人公の科学者が登場する。正しいことに直情的なところも、「創世記機械」の主人公によく似ている。
 パラレルワールドに精神を一時的に転移できる技術が確立した。似ている世界であれば、わずかだけ違う世界に、ほんのわずかだけ異なる「自分」がいて、その「自分」と精神がすり替わってしまう。その間、「違う世界」の「自分」は存在しなくなる。押し出されるのか、押し込められるのか、転移した側が勝ってしまう。
 全然似ていない世界もある。そこでも、転移することができる。名前や姿が違っていても、「自分」である「類似体」である。もちろん、「類似体」のいない世界もある。そこには転移ができないだけだ。
 全然似ていない「遠い」世界をいくつもさまよううちに、自分の世界よりも恐ろしい世界もあれば、理想的な世界もある。科学者が、自由に自分の思う研究ができる世界。政治や軍が力を持っていない世界。隠し事のない情報がすべて公開される世界。
 もし、転移中に、転移装置に何らかのトラブルがあれば、そのまま精神は転移したままになる。つまり、世界を完全に移動することができるのだ。
 理想の世界を見つけた主人公は、その世界への「脱出」を考える。
 でも、その世界での「自分」はどうなるのだろう。そして、自分の世界を見捨てていいのだろうか。
 ホラーだ。
 相変わらずのホーガン節炸裂。軍は嫌い、秘密主義嫌い、政府の干渉嫌い、放っておいてくれたら、科学者はもっと豊かな研究ができるのに! ってなもんだ。
 そういう単純なところを押しても読ませるのがホーガンの力業。その点、さすがである。
(2010.08.06)

アッチェレランド

アッチェレランド
ACCELERANDO
チャールズ・ストロス
2005
(06年ローカス賞受賞作品)
 途中、読んでいてジョン・C・ライトの「ゴールデン・エイジ」の関連かと勘違いしちゃった。作家違うじゃん。アメリカとイギリスだし。自分に駄目出し。そうか、「シンギュラリティ・スカイ」や「アイアン・サンライズ」の人か。
 内容としては、シンギュラリティもの。インターネットの拡張とソリッドな計算能力の飛躍的向上、集積によって知性の覚醒(自意識の誕生)が起き始める。データ化されたイセエビ達にも、それは起きる。
 知性の覚醒が次々に起き、計算能力が年々飛躍的に向上していく。ある臨界点を超えると、その文明を生み出した人類が理解できない仮想上の知性達が現実に大きな影響を与え始める。それは、スローな生身の知性には理解不能な事態になるだろう。
 それが嫌なら、そして機会が与えられるのならば、あなたもアップロードされればよい。生身ではなく、仮想空間に生きるということだ。アップロードまでいかなくても、その途中段階には、脳の外部拡張など様々な手段が待っているだろう。機会が与えられれば、の話だが。
 さて、時は21世紀はじめ。ひとりのコンサルタントがいる。膨大な情報をかみ砕き、必要な人に、必要なアイディアを授ける。インターネットとリアルの世界で世界を変える結節点になる男マンフレッド・マックス。彼はそれで食べている。しかし、対価をもらうわけではない。アイディアは無償。富を授け、代わりに様々な「お礼」によって生きている。航空会社からは無料のチケット、ある団体からはホテルの宿泊代など。彼はほとんどお金を使わずに世界を旅することができる。そして、彼の動向は、世界のギーク達の知るところにある。情報相互交流こそが彼の源泉だからである。
 彼の願いは、シンギュラリティを起こすこと。世界を変えること。そのために彼は日々、世界を旅する。
 話は変わるが、先日「究極の豆腐」というものを食った。豆腐のこく、大豆の風味がしっかりしていて、実においしかった。よく見ると、豆腐といっても、植物油や大豆抽出物などが入っていて、大豆とにがりでこしらえた「豆腐」ではなかった。もちろん、大豆もにがりも使っているのだから、豆腐2.0といったところかも知れない。本当の豆腐では出せないほどのこくと風味なのである。
 確かに「究極」であろう。豆腐であって、豆腐でなく、豆腐でなくて、豆腐なのである。
 私の五感はこれを「おいしい」と感じ、「豆腐」と感じる。
 でも、この「豆腐」を自分で作ることはできない。
 豆腐の味わいとはなんだろう。品種、水、作り方、場所、気分、空気によって味わいは変わるだろう。「究極」は条件を選ばない。
 つまり、伝統や手作りに基づいた味わいとは、与えられた条件の中の感じ方である。
 2.0とは、条件を解除した場合ということになる。
 問題は、それをよしとするかどうかである。
 生身ならば、何かを食わねばならぬ。
 何かを食うためには、何かを殺す、獲る、育てる、保存するなどなどの行為が必要である。
 自然環境と、歴史と、生理条件とに育まれた文化とその文化によってつくられた自然環境、歴史、生理条件、そして文化。相互に、循環的に変化していきながら、生活文化、生活技術が蓄積される。その技術は、今日の科学技術と違って、空間的汎用性がなく、時間的汎用性はある。つまり、そこでしか使えない技、知恵である。そこまでは、1.0であり、その条件を解除すると、何でもできるようになる。
 味わいだけでない。それは、快感、感情、あるいは幸せな気分までも該当するであろう。
 シンギュラリティがもし起きるとして、私は何を選ぶことができるだろう。
 幸せになれるのに、わざわざ幸せになるかどうか分からない状態を選ぶだろうか?
 そうありたいものだが、どうしたいのだろう。
 そういうことを考えさせる作品であった。基本的には、家族の愛憎の物語なのだけれどね。
(2010年7月24日)

創世記機械

創世記機械
THE GENESIS MACHINE
ジェイムズ・P・ホーガン
1978
 2010年夏、ジェイムズ・P・ホーガンが亡くなった。69歳である。本書「創世記機械」が邦訳されたのは1981年。今から29年前である。私は16歳。ちなみに、ホーガンは40歳。本書を書いたのがそれより3年前だから、37歳。若いねえ。ということで、「創世記機械」には若さが溢れている。すぐに熱くなる青年天才科学者クリフォードが主人公だ。正義感たっぷりで、軍は嫌いで、若い奥さんにめろめろ。要領の悪さは、若い奥さんがしっかりサポート。さらに、理論家のクリフォードに、技術家の友人が登場。加えて、月の研究所にいるリベラルな大御所科学者まで加わって、クリフォードを支えていく。
 時は、21世紀初頭。1990年に大統一理論の基礎が完成する。6次元連続体を基本とするこの理論を元に、クリフォードは、物質とエネルギーの新たな様相についての理論を構築した。平時ならば、この理論は広く学会に発信され、新たな知の空間を開くはずであったが、世界は不穏な空気に満ちていた。世界は大きく西側自由主義諸国同盟と革新人民共和国大同盟に分かれ、インドや朝鮮半島を舞台に相互の緊張は高まる一方であった。
 理論は現実を動かす。秘密主義の壁の中、天才科学者クリフォードは扱いにくい人物として自らの理論から遠ざけられていく。しかし、それくらいのことであきらめるクリフォードではない。
 クリフォードは、自由な研究ができる世界をつくるため、「戦争を終わらせる」ことを決意するのであった。
 16歳の僕は、この「創世記機械」にすっかりまいってしまった。そうか、科学技術の使い方で戦争を終わらせることができるんだ。まあ、嘘ではないのだが、一面的な見方だね。それに、科学者がそれほど偉い存在でもないし。
 それから、29年が過ぎた。SFはSFである。
 気がつけば、舞台設定の21世紀最初の10年紀は過ぎてしまった。はや2010年、ふたつ目の10年紀となった。
 1970年代のような冷戦は1980年代後半に一度幕を下ろした。予想通り、中国は台頭したが、ソヴィエトは崩壊し、インドやブラジルといった新たな勢力が経済力を持っている。幸いなことに核兵器や生物兵器、化学兵器はほとんど実戦で使われていないが、そのリスクは高まっている。アフリカ、中東での地域紛争をはじめ、いくつかの紛争、戦争が起き、続いているが、我々はその事実をほとんど知らないままにいる。
 EUは政治的統一の道を模索しているが、経済的苦難がその足を引いている。ロシアは、旧ソヴィエト世界との負の遺産に悩まされている。中国は大国になることの難しさを知り、新たな拡張主義には慎重ながらも、エネルギー、食料、地政学的な視点から、アフリカや中南米などとの経済的な結びつきを注意深く、かつ積極的に取り組んでいる。
 政治的大連合は組まれていないが、経済的には新たなブロック経済的なものも見え隠れする。しかし、それ以上に「経済」の力が大きくなり、国家、政治の力が相対的に弱まり、経済対国家という図式も起きている。混沌とした21世紀初頭である。
 大統一理論はいまだ日の目を見ず、10または11次元でのひも理論が現在のところトップランナーを走っている。
 いろいろ古くなっているところはあるが、「勢い」のある作品である。その「勢い」は今読んでも褪せるところはない。書かれた時代を想像しつつ、アイディアの奔流を楽しんで欲しい。
(2010年7月24日)

シティ5からの脱出

シティ5からの脱出
THE KNIGHTS OF THE LIMITS
バリントン・J・ベイリー
1978
 ベイリーの短編集である。大学生の頃に買って、一度読んだきりであった。一気に読んでみると、地下や閉鎖された宇宙空間など狭いところにとじこもった人類の姿が浮かび上がる。読んでいて何となく息苦しい。
 私たちが生きているあたりは、渦巻き銀河のわりと端の方で、物質の量もすかすかである。宇宙のどこかには、物質の密度が大きく、空間がまれなところもあるに違いない。そういうところにおいて、知覚する生命体がいたら、空間をどのように見るのであろうか?
 たとえば、そういう思いつきを小説に仕立てる。
 それがバリントン・J・ベイリーである。
 たぶん、「笑う」というのが正しい読み方なんだろう。イギリス的な、皮肉の効いた笑い。小説ではよく分からないんだよなあ。
 たとえば、今日。首都圏は連日の猛暑に苦しんでいた。このまま毎年猛暑日が増えていったら、どうなるのだろう。ロシアでは、ウォッカを飲んで水につかり溺れる人が続出しているという。日本でも熱中症での死者が多い。昨年だったか、ヨーロッパでも同様のことがあった。私たちはこの暑さにどうやって適応していくのだろうか?
 これを、科学的な知見を加えつつ、奇想天外な解決方法を用意し、そして最後に皮肉な笑いで落とせ、と言われて、それに答えを出すのがベイリー。すごい。
(2010.7.24)

愚者の聖戦

愚者の聖戦
THE WORLDS OF CLIFFORD SIMAK
クリフォード・D・シマック
1960
 シマックの短編集である。短編集になるととたんにウィットが効く作家である。
 姿なき別次元との交易がはじまった。その秘密を握るのはほんの2家族だけ。大もうけの結末は「ほこりまみれのゼブラ」。
 不思議な不動産取引で、もうけを保障された不動産屋。しかしあまりの不思議さに、その真実を追究したところ「カーボン・コピー」。
 地球を逃亡し、新たな植民星にたどり着いた不死人に待ち構えていた真実「建国の父」。
 突然、超能力を得た知的障害児が起こしたのは「愚者の聖戦」。
 ある日人類はちょっと先の未来が予知できるようになってしまった。世界はおだやかに変わる「死の情景」。
 ぐったりとなった不思議な植物。男は、手をつくして介抱した。その植物は「緑の親指」。
 シマックらしいやさしさが、笑いにも、悲しみにもあふれている。
(2010年7月24日)

都市

都市
CITY
クリフォード・D・シマック
1952
 アーサー・C・クラークの「都市と星」は1956年。その初版ともいえる、クラーク長編処女作「銀河帝国の崩壊」が1953年。それよりも古い作品である。
 本書「都市」は、8つの連作短編から成り立ち、その間を「現代の解説者」がつなぐという、連作短編を長編化した作品に見られる典型的な構成となっている。
 傑作である。
 遠き遠き未来。犬たちの世界。古き伝承が文書化されている。多くの研究者、思想家がこの伝承の真偽に取り組み、論争を繰り広げていた。人間とは実在したのか?都市という生活形態の意味は?戦争とは、殺害とは何か? ロボットを人間が生み出したというが、犬に人間が言葉を与えたというが、人間とは神の象徴なのか?
 解説者は、時に人間の実在に与し、時に神話と判断し、読者である他の犬たちに判断をゆだねている。
 都市。
 人間は、文明の進化の中で、都市を捨てた。自動車社会の延長に、郊外型の社会が誕生し、やがて、個人、家族中心のコミュニティ不在の社会ができた。都市の存在が終わった。
 ロボットが生み出された。人間をサポートする者。人間に替わって働く者。
 人間は宇宙を見つけた。そして、新たな哲学を、存在を見つけた。
 人間はいなくなった。いなくなった。いなくなった。
 そして、犬と、犬をサポートするロボットの社会が生まれた。
 物語を一貫して通す、ウエブスター家の人々の歴史と、ウエブスター家、犬たちの歴史の間にいる、ウエブスター家の執事ロボット・ジェンキンス。ジェンキンスとウエブスター家、ジェンキンスと犬たち。
 クラークの「幼年期の終わり」「都市と星」にも勝るとも劣らない、それでいて、シマックらしい牧歌的な物語と人類史。
 私がこの作品「都市」をはじめて読んだのは、おそらく昭和52年頃。1977年あたりである。12歳の中学生になったころだと思う。奥付が昭和51年9月の初版となっているからだ。
 その幻想的なイメージと、壮大な人類史は、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」や萩尾望都・光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」などと並んで、強烈な印象を与えた。
 今、あらためて読み返してみても、すごい。未読の方のために残して置くが、多くの人間がいなくなった理由がすごい。まさしく「幼年期の終わり」である。そして、現代にも通じる「共感」というキーワード。SFが文学として目指している未来のひとつが、「共感」であることは疑いない。
 過去、未来、あるいは、新しい技術、哲学の中で、物語は現代の思想、生活、社会とは異質なものを描き出す。そこでも読者は「共感」することができ、作品の中では、異質さ同士に「共感」を生み出す。そして、「共感」が生まれないところに、絶対的な異質さが現れ、「共感」が強調される。絶対的な異質さを描かせたら、スタニスワフ・レムの右に出る者はいないだろう。「共感」を素直に書かせたら、シマックの右に出る者はいないのではないか?
 やさしい、すてきな物語である。SFとしてもおもしろいので、ぜひ。
 そうそう、訳者が「林克己・他」となっているが、「他」には、近代日本SFの父・福島正実が含まれていることを付け加えておきたい。なるほど。
(2010.07.03)