小鬼の居留地

小鬼の居留地
THE GOBLIN RESERVATION
クリフォード・D・シマック
1968
 好きな作家なのだが、本書「小鬼の居留地」は初読。たぶん。たぶん、古本屋で入手。たぶん。ぼんやりしている。
 超自然現象学部のマックスウェル教授は、物質転送機での異星への調査旅行から地球に戻ってきた。しかし、教授は物質転送機の問題なのか、予定していた目的地ではない星に到着し、そこで、秘密のミッションを与えられてきたのである。帰ってきた教授は、自分がひとりではないことを知らされる。先に、もうひとりのマックスウェル教授が地球に帰ってきていたのだ。当初の予定通りの目的地に行き、そして帰ってきた。自分がふたり! しかも、その先に帰ってきたマックスウェル教授は事故で死に、結果的に、マックスウェル教授はひとりとなっていた。物質転送機がこのようなトラブルを起こしたことはかつてない。保安局も調査に乗り出した。
 もちろん、マックスウェル教授に咎がある訳ではない。彼は自分の部屋、自分の大学に戻ることにした。過去からやってきた穴居人や「おばけ」の友人たち、新しくできた女友達とともに、マックスウェル教授のなぞを解こうとするマックスウェル教授。エールビール好きの小鬼の友人をはじめ、古い時代には幻想と思われていた地球上の存在、異星の存在が混在する世界で起きる、牧歌的なほんわかしたどたばたコメディー。
 ファンタジーとSFの中間領域にあるような作品である。
「居留地」におしこめられた小鬼=ゴブリンというのはちょっと哀しい。
 気のいい、かつ、気の短いゴブリンがつくるエールビールっておいしそうだな。
(2010.07.01)

未来医師

未来医師
DR.FUTURITY
フィリップ・K・ディック
1960
 まだ、未訳の作品が翻訳されるのだ。2010年になって、50年前のSF作品が初訳される。すごいことだ。さすがはディック。ありがとう、創元社! さっそく買って読みました。
 作品が発表された1960年からすると50年後の未来に話がはじまる。2010年代の医師パーソンズが、突然、2405年にタイム・スリップしてしまう。そこは、混血が進み、人種の差がなく、戦争がない社会。そして、寿命がとても短く、医療というものがまったく存在しない世界であった。科学技術はそれなりに進んでいるのに、なぜ、寿命が短いのか、なぜ、医療が存在しないのか? パーソンズは困惑する。しかし、その困惑をよそに、パーソンズはさまざまな事件に巻き込まれる。それは、25世紀の人々の哲学と覇権をかけた戦いであった。なぜ、パーソンズはタイム・スリップしたのか、そして、帰ることはできるのか、時を超えた長い旅がはじまる。
 破綻のあまりない作品である。ディックにつきものの、物語や意識のスリップはない。タイム・スリップものだから、きれいな作品に仕上がっているのだろうか。では、そういうディック特有のアクがないからといって駄作かといえば、そうではない。やはり、そこはディックである。「おばあさんのジレンマ」をうまく使って、変容する世界をうまく整えている。ディック初心者にはおすすめの作品。
 1960年の作品であるが故に、古い「今」、古い「未来」となっているが、作品そのものは決して古くない。古典的だが、ディック的であり、出てくるガジェットを読み替えれば、十分今日でも通用する作品である。
 さすがディック。
 ディックをとっつきにくい作家だと思っている方は、この「気楽」な作品をぜひ読んで欲しい。
(2010.06.30)

結晶世界

結晶世界
THE CRYSTAL WORLD
J・G・バラード
1966
 鬼門の作家というのがいる。日本の作家だと、夏目漱石が鬼門である。いくつかの作品は読んでいるのだが、「猫」だけは読み通せていない。小学校5年生だか6年生だかにはじめて手を出そうとして、それ以来何度か読もうとしているのだが、最初の数十ページで挫折している。
 SFの中にも、鬼門の作家がいる。私にとってのそれは、バラードである。中学生の頃に一度手を出しかけて、その後20代にかけて数冊を購入しているのだが、一度もページを開いていない。そういう作家である。なぜかは分からない。読んでいないのだから。読もうとするたびに、読みたくなくなるのだ。不思議なものである。
 そんなバラードをはじめて読み通したのが、古本屋で買った「結晶世界」である。1966年の作品。タイトルは、30年前から知っていたが、中身についてはまったく存じ上げなかったのである。すいません、バラード。亡くなったけれど。
 あらゆるものが結晶化していく現象が起きていた。原因も、広がる要因も、なにも分からない。無力の中で広げられる人間模様。そこに、主人公のらい病専門医師の治療や患者との関わりも描かれる。
 人も、森も、風景も飲み込んでいく結晶の波。不吉であるとともにきらびやかな結晶の世界。その強烈な光と異質性が強調される故に、反面として強調される闇や影がある。生と死、性と死、表現される世界よりも、それを受け止める人間の思想や観念を描こうとしてる。
 気候変動が現実の問題になりつつあり、見えないままに肌で変化を感じるようになった今日。本書のような目に見える極端な異変というのが、リアリティを持ち得なくなった。気候変動は、たとえば、毎日、北極圏の海氷の状況や地球環境などのデータがインターネットに公開され、誰でも目で見ることはできるが、「結晶」のような特異な変化ではない。気づかないうちに、茹でられ、焼かれているのである。「結晶化の不安」は60年代~80年代の不安であり、90年代~00年代の不安とは本質的に異なる。10年代は、さらに、より即物的な不安になるだろう。
 当時「ニューウエーブ」と呼ばれ、その内面的志向や文学的志向には衝撃と批判が寄せられたという。それ故に、書かれた時代を反映した作品である。
 私にとっては、読むのが遅すぎた、としか言いようがない。
注:らい病については、本書訳語でらい病(やまいだれに頼)となっている。内容的にはハンセン病のことを指すと思われるが、当時使われていた病名での記載であり、差別表記として、今日では使われない。
(2010.06.30)

TAP

TAP
TAP AND OTHER STORIES
グレッグ・イーガン
1995
 日本オリジナルの中短編集である。作品は、1986年から1995年に書かれたもので、「難解で、最新の科学理論を縦横に駆使した」グレッグ・イーガンらしい作品もあれば、SFらしからぬホラー作品もある。
 現代的な作品は、パンデミックを題材にした「銀炎」と、情報化社会の先を描いた「TAP」であろう。個人的に印象に残ったのは、「自警団」と「森の奥」である。「自警団」はまったくのモダンホラー。「森の奥」はインプラントを使うなどSF的要素もあるが、こちらは現代文学の一作品という趣。「自警団」はある契約によって縛られた「悪魔」のお話し。「森の奥」は、失策をして、殺し屋につかまり、森の奥に連れ込まれながら命乞いをする男の話。
 イーガンの短編を読んでいて安心なのは、長編にありがちな「どこに連れて行かれるのか、読者として立ち位置が分からない」状態がないということだ。この先に落ちがあるという安心感で読める。そういうのって、大切だ。小説を読むという行為は、作者と読者の協働作業なのである。
 ただし、作者は、すでに、テキストを世にさらした時点で作業を完結しており、読者はその後さまざまな状況に応じて、テキストを再解釈することになり、物語は読者によって変容する。読書がそういう作業であることを、イーガンの短編は思い出させてくれる。
(2010.05.20)

アードマン連結体

アードマン連結体
THE ERDMANN NEXUS AND OTHER STORIES
ナンシー・クレス
2010
 ナンシー・クレスの短編集である。書かれているのは、ナノテクによる物質製造器がもたらした社会の混乱と変化、ちょっとしたタイムスリップ小咄、21世紀スタイル「幼年期の終わり」、軍に入った少年の成長譚、耐性菌によるパンデミック、子どもの虐待と精神、人工生命体の進化、そして、老化と死をテーマにした「齢の泉」。
 人は何に執着して生きるのか? なぜ生きのびたいと思うのか、死にたくないと思うのか、幸せに生きるとはどういうことなのか?
 ひとつひとつ、SFとしてのガジェット、プロットは異なり、連作的な要素はまったくない。本当の「短編集」である。
 表題作「アードマン連結体」を除けば、SFとして「難しさ」を感じさせる要素もない。SF的要素がほとんどない作品もある。共通することといえば、「現代」の問題であるということだ。虐待、パンデミック、高齢化社会、技術による急激な社会の変化と混乱など、同時代的なテーマをSFとして外挿し、語っている。
 どの作品も、小説として起承転結が効いていて、とても読みやすくおもしろい。
 私は、「齢の泉」を気に入っている。主人公が生涯を振り返りながら、かつ、「最後の」一仕事に邁進する、その過程で出てくる友人、パートナー、敵、その知人、パートナー。中編にも関わらず、ひとりひとりの個性が生きていて、登場人物の「行動」に感銘を受けたりする。主人公だけが小説の登場人物ではないことを教えてくれるいい小説である。
「プロバビリティ」シリーズでは、登場人物のおもしろさが長編故に目立たなかった。また、筋立ても難しかったのだが、短編集になるとがぜん、登場人物の描写が生きている。
 SFが嫌いな人でも読んで欲しい、いい小説集である。
(2010年5月16日)

スターシップ2 海賊

スターシップ2 海賊
STARSHIP:PIRATE BOOK TWO
マイク・レズニック
2006
 元共和宙域軍艦にて、現在逃亡中の老朽艦セオドア・ルーズベルト、通称テディ・Rは、元中佐にて、敵味方ともに知らぬ者はなき軍功をなしとげ、さらには、逃亡兵として名高いコール船長により、辺境宙域をのんびりと航行していた。クルーのほぼすべては元航宙軍兵士であり、規律も、コール船長への帰属意識も高く、申し分ない。
 問題はただひとつ、「海賊」のやり方である。
 船を動かすにも、停泊するにも、クルーに食べさせるにも、給料を払うにも、病院に運び込むにも、必要なのは金。これまでは、軍人として、軍艦として、金の心配をすることはなかった。しかし、なんとかして金は必要である。
 コールにとって、大切なのは、生きのびること、多くの血が流れる戦争を終わらせることであって、結果的に逃亡することになった共和制政府を倒すことでも、敵であるテロニ連邦を破滅させることでもない。
 だから、金のために海賊になるからといって、誰でも襲うという訳にはいかない。
 どの勢力や種属であれ、一般市民は襲えない。軍艦や商船などの艦艇も襲えない。むやみな略奪はしたくない。
 どうすればいい? 答えはひとつ。海賊は一般市民でも、軍艦や商船などのまじめな仕事をしているわけでもないし、積んでいる財産は略奪品だから、海賊を襲えばいいんだ!
 でも、海賊のやり方って、どんなんだっけ?
 そこで、これまで航宙軍でトリッキーな作戦をこなしてきたコール中佐がとった手は?
 今度の交渉相手は、軍人ではない。海千山千の「裏稼業」の人間たちである。海賊、故買商、賞金稼ぎ、保険会社などなど、経験や対応方法も豊富な人間や異星人たちを相手に、コール中佐は、前作にもましてトリッキーな手を打ってくる。
 さすが、マイク・レズニックである。
 楽しく読める。
 ロイス・マクマスター・ビショルドのヴォルコシガン・シリーズを思わせる、コール中佐の口八丁手八丁。違うのは、「かっこよく」である。現代のヒーローかくありき、という感じかも。
(2010.05.15)

氷上都市の秘宝

氷上都市の秘宝
INFERNAL DEVICES
フィリップ・リーヴ
2005
「移動都市」「略奪都市の黄金」に続く、移動都市シリーズの第三弾。遙かな未来、最終戦争の後、世界は姿を変えてしまった。都市は無数のキャタピラによって移動するようになった。移動都市に変わった理由はひとつ。巨大な都市が、小さな都市を「食い」その資源を奪って都市を維持するようになったからである。
 前作から15年、「氷上都市の秘宝」は、前作までの主人公トムとヘスターの娘レン・ナッツワーシーに話を移す。時は流れ、世代は変わる。トムもヘスターも15年分年を取り、生活も、性格も、心配事も、楽しみも変わっていく。ロストボーイも、15年経てば、15年分年をとる。変わらないものもある、ヘスターのトムへの執着は変わらない。ペニーロイヤルのいい加減さも、もちろん変わらない。
 レン・ナッツワーシーは、世界のことなど知らない。人が15年すると変わり、また、変わらないことも知らない。彼女が知っているのは、自分が住んでいる場所のこと。短い夏、長い冬、せまい世界、世界のすべての人がレンを知っており、世界のすべての人をレンは知っている。小さな小さなコミュニティー都市。動かない都市。アンカレジ。
 学んだ歴史は、言葉だけのこと。世界が争いの絶えない故に、都市が移動している、そんな単純なことも体験に基づかない知識でしかない。だから、知らない。  レンは、知ることになる。
 世界の厳しさを、父と母の物語を。
 レンの物語が、今からはじまる。
 そして、トムとヘスターのもうひとつの物語も。
 21世紀のジュブナイルは、こんな感じなのだろう。
 インターネットや携帯電話といった情報ツールが当たり前になり、地球規模の環境問題や政治、経済問題が、生活に直結することを「実感」できるようになった現在、子どもたちはどこかで一気に世界を知ることが必要になる。物語としてではなく、体験として。
 もちろん、人間の成長とは、知識を得、体験し、経験を蓄え、知恵に転じていくことであり、成長過程で、世界観を変える、あるいは、世界を認識する時期がある。自分と身の回りだけで世界が成り立っているのではなく、世界には、受け手にとって無条件の悪意としか見えない存在や状況も存在する。それを受け止めつつ、世界の一部として存在することを把握する。これは、20世紀でも、19世紀でも変わらない。
 21世紀のジュブナイルの違いはひとつ。確固たる守り手の不在である。主人公である子ども(たち)が、世界観を大きく変えるとき、そこには確固たる守り手が存在する。たいていは大人であり、親であったり、被後見人であることが多い。大人は、その世界にすでに位置を確立しており、ぶれることがない。ゆえに、主人公である子ども(たち)は、物語の最初と最後で自分の変化を確認することができる。しかし、今日の物語では、確固たる守り手すら相対化されてしまう。彼らもまた、変化し、成長し、ぶれ、悩み、決断を繰り返すのだ。主人公である子ども(たち)と何ら変わることはない。年を取り、経験を積んでいるだけで。
 現代の子どもは大変だよなあ。 (2010.05.15)

白鹿亭綺譚

白鹿亭綺譚
TALES FROM THE WHITE HART
アーサー・C・クラーク
1957
 霧の都ロンドン、その裏通り、テームズ川が少しだけ見える場所にパブ白鹿亭がある。毎週水曜日になると常連の科学者や編集者、作家のたぐいが集まり、いつものように誰かの話に耳を傾ける。それは世界中にいるマッドサイエンティストのとっておきのエピソード。音を完璧に消す装置を発明した結果は…、動物の行動をコントロールできるようになると…、脳波を記録する装置は…、究極の軍事コンピュータは…、世界制覇を妄想した科学者は…、熱帯で見つかった奇妙な植物の正体は…などなど。
 歴史の陰に失われていく変わり者の科学者と、その驚くべき発明の数々。
 クラークだけが知っている、地球の科学界の真実。
 SFがユーモアやウィットなどと両立する訳がない!
 だからここに書かれていることは、掛け値なしの真実だ。
 でなければ、SFが荒唐無稽さと両立することを、あのまじめなクラークが証明することになってしまうではないか!
 そんなはずはない。
 断じてない。
 高校の頃だなあ。洗練された連作短編というものを読んで、ため息をついたのは。
 今読んでも、まだおもしろい。
(2010.05.15)

第五惑星の娘たち

第五惑星の娘たち
THE GIRLS FROM PLANET 5
リチャード・ウィルスン
1955
 マレイ・ラインスターの「第五惑星から来た4人」(1959)は、子どもの頃読んだのだが、こちらの「第五惑星の娘たち」は初読である。古本屋さんで入手したのである。読みたかった1冊であった。「第五惑星から来た4人」の方は、未来からの訪問者が、冷戦状況の世界に波紋を投げかける物語であったが、「第五惑星の娘たち」は、宇宙からの来訪者であり、女性の社会進出を「風刺」する物語である。
 舞台は20世紀末、政治、経済をはじめ、あらゆるところで女性が権力を握り、男性の力は衰えていた。そんな風潮を嫌った男たちの一部は、テキサス州を「男の州」として、古き良き、男の時代を生きていた。そこにやってきたのが、「宇宙から来た美女たち」である。
 今、こんな本を出したら、えらいことになるだろうなあ。
 笑えるのが、解説の最後である。翻訳・出版されたのは、1965年。私が生まれた年、45年前。あくまでその当時の話であることを斟酌いただきたいのだが、「考現学的にいうと、日本はだいたい10年遅れてアメリカの流行に追従しているそうだが、もしそうだとすれば、21世紀の初めには、日本にも女性支配の時代、男性の女性か時代が到来するかも知れない。SFファンのみならず、邦家の行く末を案ずる憂国の士にも本書をすすめるゆえんである」とある。そういう時代であった。
(2010.05.10)

宝石世界へ

宝石世界へ
THE JEWELS OF ELSEWHEN
テッド・ホワイト
1967
 中学生の頃に買ったSFのうちの1冊である。
 長時間勤務を終えて家に帰るため地下鉄に乗った中年警官アーサー・フィカラと、傷つき疲れ切った若い娘のキムは、ひょんなことから、別世界の地球に放り込まれる。生き残り、謎を解き、元の世界に帰る。冒険はふたりの間に恋を芽生えさせるには十分であった。
 疲れたとき、傷ついたとき、ここではないどこかへ行きたいと思うことはないだろうか。そういう思いが現実になったとき、人はどうするだろう。ファンタジーの定番なのだが、主人公が中年警官というところがよい。中年と言っても、今の私よりも10歳は年下なのだ。中学生の頃は、この主人公が20歳も年上だったというのにね。
 私はどこを旅しているのだろう。
(2010.05.02)