量子宇宙干渉機

量子宇宙干渉機
PATHS TO OTHERWHERE
ジェイムズ・P・ホーガン
1996
 多元世界解釈に基づくパラレルワールドもののSF。と書くと、とても古典に見えるがタイトルは「量子宇宙干渉機」と20世紀後半風。読み方によってはモダンホラーにもなりそう。本書の中に書かれている「現代の21世紀」は、同じくホーガンによる「創世記機械」と同じような世界。全面戦争の危機、政治家、国家、軍による支配。科学者は、自由な科学ができず、政府や軍の指揮下に置かれる。その中で、清く、正しく、美しい、科学が科学であることを信じる主人公の科学者が登場する。正しいことに直情的なところも、「創世記機械」の主人公によく似ている。
 パラレルワールドに精神を一時的に転移できる技術が確立した。似ている世界であれば、わずかだけ違う世界に、ほんのわずかだけ異なる「自分」がいて、その「自分」と精神がすり替わってしまう。その間、「違う世界」の「自分」は存在しなくなる。押し出されるのか、押し込められるのか、転移した側が勝ってしまう。
 全然似ていない世界もある。そこでも、転移することができる。名前や姿が違っていても、「自分」である「類似体」である。もちろん、「類似体」のいない世界もある。そこには転移ができないだけだ。
 全然似ていない「遠い」世界をいくつもさまよううちに、自分の世界よりも恐ろしい世界もあれば、理想的な世界もある。科学者が、自由に自分の思う研究ができる世界。政治や軍が力を持っていない世界。隠し事のない情報がすべて公開される世界。
 もし、転移中に、転移装置に何らかのトラブルがあれば、そのまま精神は転移したままになる。つまり、世界を完全に移動することができるのだ。
 理想の世界を見つけた主人公は、その世界への「脱出」を考える。
 でも、その世界での「自分」はどうなるのだろう。そして、自分の世界を見捨てていいのだろうか。
 ホラーだ。
 相変わらずのホーガン節炸裂。軍は嫌い、秘密主義嫌い、政府の干渉嫌い、放っておいてくれたら、科学者はもっと豊かな研究ができるのに! ってなもんだ。
 そういう単純なところを押しても読ませるのがホーガンの力業。その点、さすがである。
(2010.08.06)

アッチェレランド

アッチェレランド
ACCELERANDO
チャールズ・ストロス
2005
(06年ローカス賞受賞作品)
 途中、読んでいてジョン・C・ライトの「ゴールデン・エイジ」の関連かと勘違いしちゃった。作家違うじゃん。アメリカとイギリスだし。自分に駄目出し。そうか、「シンギュラリティ・スカイ」や「アイアン・サンライズ」の人か。
 内容としては、シンギュラリティもの。インターネットの拡張とソリッドな計算能力の飛躍的向上、集積によって知性の覚醒(自意識の誕生)が起き始める。データ化されたイセエビ達にも、それは起きる。
 知性の覚醒が次々に起き、計算能力が年々飛躍的に向上していく。ある臨界点を超えると、その文明を生み出した人類が理解できない仮想上の知性達が現実に大きな影響を与え始める。それは、スローな生身の知性には理解不能な事態になるだろう。
 それが嫌なら、そして機会が与えられるのならば、あなたもアップロードされればよい。生身ではなく、仮想空間に生きるということだ。アップロードまでいかなくても、その途中段階には、脳の外部拡張など様々な手段が待っているだろう。機会が与えられれば、の話だが。
 さて、時は21世紀はじめ。ひとりのコンサルタントがいる。膨大な情報をかみ砕き、必要な人に、必要なアイディアを授ける。インターネットとリアルの世界で世界を変える結節点になる男マンフレッド・マックス。彼はそれで食べている。しかし、対価をもらうわけではない。アイディアは無償。富を授け、代わりに様々な「お礼」によって生きている。航空会社からは無料のチケット、ある団体からはホテルの宿泊代など。彼はほとんどお金を使わずに世界を旅することができる。そして、彼の動向は、世界のギーク達の知るところにある。情報相互交流こそが彼の源泉だからである。
 彼の願いは、シンギュラリティを起こすこと。世界を変えること。そのために彼は日々、世界を旅する。
 話は変わるが、先日「究極の豆腐」というものを食った。豆腐のこく、大豆の風味がしっかりしていて、実においしかった。よく見ると、豆腐といっても、植物油や大豆抽出物などが入っていて、大豆とにがりでこしらえた「豆腐」ではなかった。もちろん、大豆もにがりも使っているのだから、豆腐2.0といったところかも知れない。本当の豆腐では出せないほどのこくと風味なのである。
 確かに「究極」であろう。豆腐であって、豆腐でなく、豆腐でなくて、豆腐なのである。
 私の五感はこれを「おいしい」と感じ、「豆腐」と感じる。
 でも、この「豆腐」を自分で作ることはできない。
 豆腐の味わいとはなんだろう。品種、水、作り方、場所、気分、空気によって味わいは変わるだろう。「究極」は条件を選ばない。
 つまり、伝統や手作りに基づいた味わいとは、与えられた条件の中の感じ方である。
 2.0とは、条件を解除した場合ということになる。
 問題は、それをよしとするかどうかである。
 生身ならば、何かを食わねばならぬ。
 何かを食うためには、何かを殺す、獲る、育てる、保存するなどなどの行為が必要である。
 自然環境と、歴史と、生理条件とに育まれた文化とその文化によってつくられた自然環境、歴史、生理条件、そして文化。相互に、循環的に変化していきながら、生活文化、生活技術が蓄積される。その技術は、今日の科学技術と違って、空間的汎用性がなく、時間的汎用性はある。つまり、そこでしか使えない技、知恵である。そこまでは、1.0であり、その条件を解除すると、何でもできるようになる。
 味わいだけでない。それは、快感、感情、あるいは幸せな気分までも該当するであろう。
 シンギュラリティがもし起きるとして、私は何を選ぶことができるだろう。
 幸せになれるのに、わざわざ幸せになるかどうか分からない状態を選ぶだろうか?
 そうありたいものだが、どうしたいのだろう。
 そういうことを考えさせる作品であった。基本的には、家族の愛憎の物語なのだけれどね。
(2010年7月24日)

創世記機械

創世記機械
THE GENESIS MACHINE
ジェイムズ・P・ホーガン
1978
 2010年夏、ジェイムズ・P・ホーガンが亡くなった。69歳である。本書「創世記機械」が邦訳されたのは1981年。今から29年前である。私は16歳。ちなみに、ホーガンは40歳。本書を書いたのがそれより3年前だから、37歳。若いねえ。ということで、「創世記機械」には若さが溢れている。すぐに熱くなる青年天才科学者クリフォードが主人公だ。正義感たっぷりで、軍は嫌いで、若い奥さんにめろめろ。要領の悪さは、若い奥さんがしっかりサポート。さらに、理論家のクリフォードに、技術家の友人が登場。加えて、月の研究所にいるリベラルな大御所科学者まで加わって、クリフォードを支えていく。
 時は、21世紀初頭。1990年に大統一理論の基礎が完成する。6次元連続体を基本とするこの理論を元に、クリフォードは、物質とエネルギーの新たな様相についての理論を構築した。平時ならば、この理論は広く学会に発信され、新たな知の空間を開くはずであったが、世界は不穏な空気に満ちていた。世界は大きく西側自由主義諸国同盟と革新人民共和国大同盟に分かれ、インドや朝鮮半島を舞台に相互の緊張は高まる一方であった。
 理論は現実を動かす。秘密主義の壁の中、天才科学者クリフォードは扱いにくい人物として自らの理論から遠ざけられていく。しかし、それくらいのことであきらめるクリフォードではない。
 クリフォードは、自由な研究ができる世界をつくるため、「戦争を終わらせる」ことを決意するのであった。
 16歳の僕は、この「創世記機械」にすっかりまいってしまった。そうか、科学技術の使い方で戦争を終わらせることができるんだ。まあ、嘘ではないのだが、一面的な見方だね。それに、科学者がそれほど偉い存在でもないし。
 それから、29年が過ぎた。SFはSFである。
 気がつけば、舞台設定の21世紀最初の10年紀は過ぎてしまった。はや2010年、ふたつ目の10年紀となった。
 1970年代のような冷戦は1980年代後半に一度幕を下ろした。予想通り、中国は台頭したが、ソヴィエトは崩壊し、インドやブラジルといった新たな勢力が経済力を持っている。幸いなことに核兵器や生物兵器、化学兵器はほとんど実戦で使われていないが、そのリスクは高まっている。アフリカ、中東での地域紛争をはじめ、いくつかの紛争、戦争が起き、続いているが、我々はその事実をほとんど知らないままにいる。
 EUは政治的統一の道を模索しているが、経済的苦難がその足を引いている。ロシアは、旧ソヴィエト世界との負の遺産に悩まされている。中国は大国になることの難しさを知り、新たな拡張主義には慎重ながらも、エネルギー、食料、地政学的な視点から、アフリカや中南米などとの経済的な結びつきを注意深く、かつ積極的に取り組んでいる。
 政治的大連合は組まれていないが、経済的には新たなブロック経済的なものも見え隠れする。しかし、それ以上に「経済」の力が大きくなり、国家、政治の力が相対的に弱まり、経済対国家という図式も起きている。混沌とした21世紀初頭である。
 大統一理論はいまだ日の目を見ず、10または11次元でのひも理論が現在のところトップランナーを走っている。
 いろいろ古くなっているところはあるが、「勢い」のある作品である。その「勢い」は今読んでも褪せるところはない。書かれた時代を想像しつつ、アイディアの奔流を楽しんで欲しい。
(2010年7月24日)

シティ5からの脱出

シティ5からの脱出
THE KNIGHTS OF THE LIMITS
バリントン・J・ベイリー
1978
 ベイリーの短編集である。大学生の頃に買って、一度読んだきりであった。一気に読んでみると、地下や閉鎖された宇宙空間など狭いところにとじこもった人類の姿が浮かび上がる。読んでいて何となく息苦しい。
 私たちが生きているあたりは、渦巻き銀河のわりと端の方で、物質の量もすかすかである。宇宙のどこかには、物質の密度が大きく、空間がまれなところもあるに違いない。そういうところにおいて、知覚する生命体がいたら、空間をどのように見るのであろうか?
 たとえば、そういう思いつきを小説に仕立てる。
 それがバリントン・J・ベイリーである。
 たぶん、「笑う」というのが正しい読み方なんだろう。イギリス的な、皮肉の効いた笑い。小説ではよく分からないんだよなあ。
 たとえば、今日。首都圏は連日の猛暑に苦しんでいた。このまま毎年猛暑日が増えていったら、どうなるのだろう。ロシアでは、ウォッカを飲んで水につかり溺れる人が続出しているという。日本でも熱中症での死者が多い。昨年だったか、ヨーロッパでも同様のことがあった。私たちはこの暑さにどうやって適応していくのだろうか?
 これを、科学的な知見を加えつつ、奇想天外な解決方法を用意し、そして最後に皮肉な笑いで落とせ、と言われて、それに答えを出すのがベイリー。すごい。
(2010.7.24)

愚者の聖戦

愚者の聖戦
THE WORLDS OF CLIFFORD SIMAK
クリフォード・D・シマック
1960
 シマックの短編集である。短編集になるととたんにウィットが効く作家である。
 姿なき別次元との交易がはじまった。その秘密を握るのはほんの2家族だけ。大もうけの結末は「ほこりまみれのゼブラ」。
 不思議な不動産取引で、もうけを保障された不動産屋。しかしあまりの不思議さに、その真実を追究したところ「カーボン・コピー」。
 地球を逃亡し、新たな植民星にたどり着いた不死人に待ち構えていた真実「建国の父」。
 突然、超能力を得た知的障害児が起こしたのは「愚者の聖戦」。
 ある日人類はちょっと先の未来が予知できるようになってしまった。世界はおだやかに変わる「死の情景」。
 ぐったりとなった不思議な植物。男は、手をつくして介抱した。その植物は「緑の親指」。
 シマックらしいやさしさが、笑いにも、悲しみにもあふれている。
(2010年7月24日)

都市

都市
CITY
クリフォード・D・シマック
1952
 アーサー・C・クラークの「都市と星」は1956年。その初版ともいえる、クラーク長編処女作「銀河帝国の崩壊」が1953年。それよりも古い作品である。
 本書「都市」は、8つの連作短編から成り立ち、その間を「現代の解説者」がつなぐという、連作短編を長編化した作品に見られる典型的な構成となっている。
 傑作である。
 遠き遠き未来。犬たちの世界。古き伝承が文書化されている。多くの研究者、思想家がこの伝承の真偽に取り組み、論争を繰り広げていた。人間とは実在したのか?都市という生活形態の意味は?戦争とは、殺害とは何か? ロボットを人間が生み出したというが、犬に人間が言葉を与えたというが、人間とは神の象徴なのか?
 解説者は、時に人間の実在に与し、時に神話と判断し、読者である他の犬たちに判断をゆだねている。
 都市。
 人間は、文明の進化の中で、都市を捨てた。自動車社会の延長に、郊外型の社会が誕生し、やがて、個人、家族中心のコミュニティ不在の社会ができた。都市の存在が終わった。
 ロボットが生み出された。人間をサポートする者。人間に替わって働く者。
 人間は宇宙を見つけた。そして、新たな哲学を、存在を見つけた。
 人間はいなくなった。いなくなった。いなくなった。
 そして、犬と、犬をサポートするロボットの社会が生まれた。
 物語を一貫して通す、ウエブスター家の人々の歴史と、ウエブスター家、犬たちの歴史の間にいる、ウエブスター家の執事ロボット・ジェンキンス。ジェンキンスとウエブスター家、ジェンキンスと犬たち。
 クラークの「幼年期の終わり」「都市と星」にも勝るとも劣らない、それでいて、シマックらしい牧歌的な物語と人類史。
 私がこの作品「都市」をはじめて読んだのは、おそらく昭和52年頃。1977年あたりである。12歳の中学生になったころだと思う。奥付が昭和51年9月の初版となっているからだ。
 その幻想的なイメージと、壮大な人類史は、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」や萩尾望都・光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」などと並んで、強烈な印象を与えた。
 今、あらためて読み返してみても、すごい。未読の方のために残して置くが、多くの人間がいなくなった理由がすごい。まさしく「幼年期の終わり」である。そして、現代にも通じる「共感」というキーワード。SFが文学として目指している未来のひとつが、「共感」であることは疑いない。
 過去、未来、あるいは、新しい技術、哲学の中で、物語は現代の思想、生活、社会とは異質なものを描き出す。そこでも読者は「共感」することができ、作品の中では、異質さ同士に「共感」を生み出す。そして、「共感」が生まれないところに、絶対的な異質さが現れ、「共感」が強調される。絶対的な異質さを描かせたら、スタニスワフ・レムの右に出る者はいないだろう。「共感」を素直に書かせたら、シマックの右に出る者はいないのではないか?
 やさしい、すてきな物語である。SFとしてもおもしろいので、ぜひ。
 そうそう、訳者が「林克己・他」となっているが、「他」には、近代日本SFの父・福島正実が含まれていることを付け加えておきたい。なるほど。
(2010.07.03)

小鬼の居留地

小鬼の居留地
THE GOBLIN RESERVATION
クリフォード・D・シマック
1968
 好きな作家なのだが、本書「小鬼の居留地」は初読。たぶん。たぶん、古本屋で入手。たぶん。ぼんやりしている。
 超自然現象学部のマックスウェル教授は、物質転送機での異星への調査旅行から地球に戻ってきた。しかし、教授は物質転送機の問題なのか、予定していた目的地ではない星に到着し、そこで、秘密のミッションを与えられてきたのである。帰ってきた教授は、自分がひとりではないことを知らされる。先に、もうひとりのマックスウェル教授が地球に帰ってきていたのだ。当初の予定通りの目的地に行き、そして帰ってきた。自分がふたり! しかも、その先に帰ってきたマックスウェル教授は事故で死に、結果的に、マックスウェル教授はひとりとなっていた。物質転送機がこのようなトラブルを起こしたことはかつてない。保安局も調査に乗り出した。
 もちろん、マックスウェル教授に咎がある訳ではない。彼は自分の部屋、自分の大学に戻ることにした。過去からやってきた穴居人や「おばけ」の友人たち、新しくできた女友達とともに、マックスウェル教授のなぞを解こうとするマックスウェル教授。エールビール好きの小鬼の友人をはじめ、古い時代には幻想と思われていた地球上の存在、異星の存在が混在する世界で起きる、牧歌的なほんわかしたどたばたコメディー。
 ファンタジーとSFの中間領域にあるような作品である。
「居留地」におしこめられた小鬼=ゴブリンというのはちょっと哀しい。
 気のいい、かつ、気の短いゴブリンがつくるエールビールっておいしそうだな。
(2010.07.01)

未来医師

未来医師
DR.FUTURITY
フィリップ・K・ディック
1960
 まだ、未訳の作品が翻訳されるのだ。2010年になって、50年前のSF作品が初訳される。すごいことだ。さすがはディック。ありがとう、創元社! さっそく買って読みました。
 作品が発表された1960年からすると50年後の未来に話がはじまる。2010年代の医師パーソンズが、突然、2405年にタイム・スリップしてしまう。そこは、混血が進み、人種の差がなく、戦争がない社会。そして、寿命がとても短く、医療というものがまったく存在しない世界であった。科学技術はそれなりに進んでいるのに、なぜ、寿命が短いのか、なぜ、医療が存在しないのか? パーソンズは困惑する。しかし、その困惑をよそに、パーソンズはさまざまな事件に巻き込まれる。それは、25世紀の人々の哲学と覇権をかけた戦いであった。なぜ、パーソンズはタイム・スリップしたのか、そして、帰ることはできるのか、時を超えた長い旅がはじまる。
 破綻のあまりない作品である。ディックにつきものの、物語や意識のスリップはない。タイム・スリップものだから、きれいな作品に仕上がっているのだろうか。では、そういうディック特有のアクがないからといって駄作かといえば、そうではない。やはり、そこはディックである。「おばあさんのジレンマ」をうまく使って、変容する世界をうまく整えている。ディック初心者にはおすすめの作品。
 1960年の作品であるが故に、古い「今」、古い「未来」となっているが、作品そのものは決して古くない。古典的だが、ディック的であり、出てくるガジェットを読み替えれば、十分今日でも通用する作品である。
 さすがディック。
 ディックをとっつきにくい作家だと思っている方は、この「気楽」な作品をぜひ読んで欲しい。
(2010.06.30)

結晶世界

結晶世界
THE CRYSTAL WORLD
J・G・バラード
1966
 鬼門の作家というのがいる。日本の作家だと、夏目漱石が鬼門である。いくつかの作品は読んでいるのだが、「猫」だけは読み通せていない。小学校5年生だか6年生だかにはじめて手を出そうとして、それ以来何度か読もうとしているのだが、最初の数十ページで挫折している。
 SFの中にも、鬼門の作家がいる。私にとってのそれは、バラードである。中学生の頃に一度手を出しかけて、その後20代にかけて数冊を購入しているのだが、一度もページを開いていない。そういう作家である。なぜかは分からない。読んでいないのだから。読もうとするたびに、読みたくなくなるのだ。不思議なものである。
 そんなバラードをはじめて読み通したのが、古本屋で買った「結晶世界」である。1966年の作品。タイトルは、30年前から知っていたが、中身についてはまったく存じ上げなかったのである。すいません、バラード。亡くなったけれど。
 あらゆるものが結晶化していく現象が起きていた。原因も、広がる要因も、なにも分からない。無力の中で広げられる人間模様。そこに、主人公のらい病専門医師の治療や患者との関わりも描かれる。
 人も、森も、風景も飲み込んでいく結晶の波。不吉であるとともにきらびやかな結晶の世界。その強烈な光と異質性が強調される故に、反面として強調される闇や影がある。生と死、性と死、表現される世界よりも、それを受け止める人間の思想や観念を描こうとしてる。
 気候変動が現実の問題になりつつあり、見えないままに肌で変化を感じるようになった今日。本書のような目に見える極端な異変というのが、リアリティを持ち得なくなった。気候変動は、たとえば、毎日、北極圏の海氷の状況や地球環境などのデータがインターネットに公開され、誰でも目で見ることはできるが、「結晶」のような特異な変化ではない。気づかないうちに、茹でられ、焼かれているのである。「結晶化の不安」は60年代~80年代の不安であり、90年代~00年代の不安とは本質的に異なる。10年代は、さらに、より即物的な不安になるだろう。
 当時「ニューウエーブ」と呼ばれ、その内面的志向や文学的志向には衝撃と批判が寄せられたという。それ故に、書かれた時代を反映した作品である。
 私にとっては、読むのが遅すぎた、としか言いようがない。
注:らい病については、本書訳語でらい病(やまいだれに頼)となっている。内容的にはハンセン病のことを指すと思われるが、当時使われていた病名での記載であり、差別表記として、今日では使われない。
(2010.06.30)

TAP

TAP
TAP AND OTHER STORIES
グレッグ・イーガン
1995
 日本オリジナルの中短編集である。作品は、1986年から1995年に書かれたもので、「難解で、最新の科学理論を縦横に駆使した」グレッグ・イーガンらしい作品もあれば、SFらしからぬホラー作品もある。
 現代的な作品は、パンデミックを題材にした「銀炎」と、情報化社会の先を描いた「TAP」であろう。個人的に印象に残ったのは、「自警団」と「森の奥」である。「自警団」はまったくのモダンホラー。「森の奥」はインプラントを使うなどSF的要素もあるが、こちらは現代文学の一作品という趣。「自警団」はある契約によって縛られた「悪魔」のお話し。「森の奥」は、失策をして、殺し屋につかまり、森の奥に連れ込まれながら命乞いをする男の話。
 イーガンの短編を読んでいて安心なのは、長編にありがちな「どこに連れて行かれるのか、読者として立ち位置が分からない」状態がないということだ。この先に落ちがあるという安心感で読める。そういうのって、大切だ。小説を読むという行為は、作者と読者の協働作業なのである。
 ただし、作者は、すでに、テキストを世にさらした時点で作業を完結しており、読者はその後さまざまな状況に応じて、テキストを再解釈することになり、物語は読者によって変容する。読書がそういう作業であることを、イーガンの短編は思い出させてくれる。
(2010.05.20)