火星人の方法

火星人の方法
THE MARTIAN WAY AND OTHER STORIES
アイザック・アシモフ
1955
 表題作の他、「若い種族」「精神接触」「まぬけの餌」の4編が収められた中編作品集である。
 表題作「火星人の方法」は、私が好きな「火星」ものである。火星を舞台にした作品は、あまたある。異星人としての火星人ものもあるが、人類が新たな生活の場として選んだ火星での生き方、地球と火星の対立などがテーマとなっているものも多い。私は、人類が火星という新たな土地を得て、その苦労を惜しまずに生活を築き、生きていく話が好きだ。月もいいけど、火星はいい。ほどよく地球から近く、そして遠い。地球からみる火星は一点の明るい赤い星である。火星からみる地球もまた一点の明るい青い星にすぎないであろう。月ではこうはいかない。地球が空にいる。地球と火星ほどに離れていれば、人々の意識が変わる。もっと外を見るようになる。そうなるといい。
表題作「火星人の方法」は人間の移住先としての火星と、その地球との対立を描いた作品である。1950年代の作品であり、同様のテーマではかなり先行している。  火星に人が定住を始めてから三代、5万人の人口を数えるようになった。火星の大気は呼吸不能であり、人は地下に町を作った。火星人たちにとって、火星で入手不能なのは水である。火星は、鉱物を地球に送り、地球から水を得た。しかし、地球では、宇宙進出反対者たちを中心に、火星に水を送ることに批判的な勢力が力を増していた。火星人たちが選んだ方法は…。
(2010.05.02)

ロボットの時代

ロボットの時代
THE REST OF ROBOTS
アイザック・アシモフ
1964
 原題通り、「わたしはロボット」(ハヤカワ版では「われはロボット」)の残りの短編を集めた1冊である。スーザン・キャルビン博士(創元版ではスーザン・カルヴィン)が登場する作品も4編あり、まとめて読むととても楽しい。
 このなかに、とても短い「第一条」という短編が掲載されている。キャルビン博士は出てこない、例のドノバンが一人で登場する作品である。もちろん、「第一条」とはロボット三原則の第一条である。アシモフがのちに「第〇条」を生み出すまで、この第一条がロボットの陽電子回路に刻まれた至高の命令であった。
「ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない」である。
 どうやってこれを命令するのかは不明であるが、そんなことを考える時代ではない。後に問題になったのは「人間」の定義であったりもする。
 そういう難しい話ではなく、ドノバンの「与太話」として三原則に問題を投げかけたのが「第一条」である。
(2010.05.02)

地球は空地でいっぱい

地球は空地でいっぱい
EARTH IS ROOM ENOUGH
アイザック・アシモフ
1957
 アシモフの初期短編を集めた作品集である。日本で邦訳されたのが昭和63年、1988年。バブル真っ盛り。SFも真っ盛りの季節である。次々に邦訳される作品たち。仕事が忙しく、インターネットはまだで、ついつい買い忘れることも多かった。そんな時代。
 作品は50年代のもので、アシモフが若かりし頃の短編がずらりと並んでいる。SFあり、ロボットあり、ファンタジーあり、ユーモアありと、アシモフのカタログといった趣がある。
 そのなかで、今回読んで楽しかったのは「投票資格」。広義のロボットもので、動かない地球の為政者「マルチヴァク」の物語である。アメリカで4年に一度行使される、アメリカ国民の最大の権利である大統領選挙。「マルチヴァクの時代」であっても、アメリカ大統領は選出しなければならない。果たして、どのようにすればいいのか? アシモフが考えたちょっとウィットの効いた結論とは?
 インターネットが普及し、匿名の大衆の発する声の情報ラインと、よくわからない「マスメディア」という情報ラインが交錯し、正義とか公正といったものが、なんだかよく分からないことになってしまった現在の対極の回答がここにあると言ってもよい。どっちもいびつで変で、笑えるのだが、現実というのは笑えないところもあるので、こういう作品を読んで笑っておいた方がいい。
(2010.05.02)

聖者の行進

聖者の行進
THE BICENTENNIAL MAN AND OTHER STORIES
アイザック・アシモフ
1976
 創元推理文庫SFより1979年3月に初版が出ている。中学校3年生が終わる頃である。高校に上がる前の春休みに読んだ記憶がおぼろげながらある。
 とても気に入っている短編集である。受験が終わってほっとした時期に読んだということもあろうし、当時としてはアメリカでの初出からあまり日をおかずに出版されていることから、「古さ」を感じさせない作品群であったことも、強く印象付いているのだろう。
 1975年に書かれた「篩い分け」では、2005年に、「地球の人口は六十億に達していた。飢饉がなければ七十億を数えていたに違いない」と記されている。時は、「公害」から「環境」に問題意識が移り始めた時期であり、「環境」問題の中心に人口爆発があることが意識された。同時に、1974年の第一次オイルショックと同年に起きた地球規模の穀物不作による食糧危機と飢餓の発生が、アシモフにこの作品を書かせたのかも知れない。
 さて、私がもっとも気に入っているのは「バイセンテニアル・マン」である。1993年にロバート・シルヴァーバーグが長編化し、1999年には映画化された「アンドリューNDR114」の元となった短編である。あるロボットの200年に渡る「人間になりたい」を描いた作品として、「人間とは」「人間ではないとは」を考えさせた作品である。
 この作品は、ロボットものとしてアシモフにヒューゴー賞、ネビュラ賞をもたらしたが、ロボットシリーズの集大成とも言っていい。
 もうひとつ、「三百年祭事件」も捨てがたい。こちらは、アメリカ建国300年での記念式典をテーマにしたロボットものである。1976年は、アメリカ建国200年であり、その前年に発表されたミステリ作品でもある。こちらもある意味で、「人間とは」「人間ではないとは」を問うた作品である。
 ロボットが、ロボットであることの意義や意味を考える。このような作品群を見ると、その後、アシモフがロボットものを、ファウンデーションシリーズに統合していくことも納得がいく。
(2010.05.02)

わたしはロボット

わたしはロボット
I,ROBOT
アイザック・アシモフ
1950
 手元にあるSFの文庫の中でもかなりぼろぼろの1冊となっている。中学の頃に買ったSFの文庫本には、何を思ったのか、いずれも表紙がない。どこかに別にファイルしたような記憶もあるのだが、もはや忘却の彼方、遠い時空の果てにある。奥付には破れたところを修復したセロハンテープが茶色く残っている。その奥付を見れば1976年4月に初版が出され、1979年2月の6版を購入している。やはり中学生のときだ。そう、私の手元にあるのはハヤカワSF文庫版ではなく、創元推理文庫版の方である。ハヤカワ版も出ているが、こちらは読んでいない。
 レンズマンシリーズと並んで、私に大きな影響を与えたのがアシモフのロボットシリーズである。ポプラ社や岩崎書店などが、今思うと不思議な選択での少年少女向けSFシリーズを出していた。その中にアシモフのロボットシリーズもあったようである。
 1940年代に書かれた「わたしはロボット」をあらためて読み返してみると、若き日のアシモフの意気込みが感じられる。
 アシモフの短編のおもしろさは、各短編をつなぐ小咄にある。もちろん、個々の作品はおもしろいのだが、それをつなぐアシモフ本人の「解説」であったり、あるいはつなぐためのストーリーであったり。本書「わたしはロボット」では、USロボット社の偉大なるロボット心理学者スーザン・カルヴィンを取材するライターという立場で「わたしはロボット」に登場するロボット、人、物語をつないでいる。
 アシモフは80年代後半になって「ファウンデーション」シリーズと「鋼鉄都市」にはじまる宇宙時代のロボットのシリーズを統合し、その宇宙史をできるだけひとつにまとめようとした。宇宙史と言えば、ハインラインははじめから系統だっていたようだが、アシモフは「なんとなくかき集めている内に近寄ってきたから統合してしまえ」という感じである。だから宇宙史に沿ったものもあれば、近くても沿わないものもあり、無理矢理合わせたものもある。宇宙史には関心がないのかと思っていたが、短編集を読むと、「流れを作る」ことが好きな作家であったことが見て取れる。
 そして、「流れを作る」ための小咄がおもしろい。ひとつひとつの作品では完結しない何かを「スーザン・カルヴィン」の小咄が大きな流れに仕立て上げてくれる。だから、私は、スーザン・カルヴィンが大好きだ。偏屈なロボット偏愛の人だけど。
 ところで、設定によると、スーザン・カルヴィンは1982年生まれ、2064年に84歳で亡くなっている。ああ、私より若いんだ。2010年現在、まだ28歳。USロボット社に入って3年目の若いロボット心理学者であった。うーん感慨深い。
「私はロボット」の最終話「避けられた抗争」の舞台は、2052年、地球は「動かないロボット」であるマシーンが人類を庇護する施政を行っていた。いわゆる「マザーコンピュータ」である。小説の中の人口は33億人。少ないなあ。
(2010.05.02)

ユービック スクリーンプレイ

ユービック スクリーンプレイ
UBIK THE SCREENPLAY
フィリップ・K・ディック
1985
 1969年に出された「ユービック」に、映画化の話が持ち上がり、ディックが一気に書き上げた「もうひとつのユービック」あるいは、「解題:ユービック」が本書である。ディックの作品は、初期にはストーリー立てが破綻して読みにくく、後期には哲学や精神世界すぎて読みにくいのだが、ちょうどその間に、ちょっと肩の力を抜いて書いてくれると凡人にとてもわかりやすくなる。
 なるほど、こういうことを言いたかったんだ。
 ぜひ、「ユービック」と並べて読みたい1冊である。
 さて、2010年の年末年始に、まとめて「ユービック」「ユービック スクリーンプレイ」を読んだのだが、今はもう3月も半ばである。とても忙しくて「読書感想文」を書く暇がとれなかったのだ。反省。
「ユービック」が邦訳されたのが、昭和53年、1978年。私が買ったのは第4刷で1984年である。人生で一番SFを読んでいた時期かも知れない。「ユービック スクリーンプレイ」は2003年4月に邦訳出版されている。この「読書感想文」をはじめる以前のことである。訳者はどちらも浅倉久志氏。さる2月14日に79歳で亡くなられている。
 早川書房、創元社ともに社告を出し、多くのSF者がブログなどで追悼しているように、浅倉氏の訳がなければ、日本のSFの中興はなかっただろう。読みやすく、翻訳を感じさせない訳。理想である。私の日本語脳の構造に少なからず影響を与えた方である。
 人は死ぬ。しかし、何らかの形で生き続ける。
 ユービック。
 合掌。
(2010.3.22)

ユービック

ユービック
UBIK
フィリップ・K・ディック
1969
「みなさん、一掃セールの時期となりました。当社では、無音、電動のユービック全車を、こんなに大幅に値引きです。そうです、定価表はこの際うっちゃることにしました。そして-忘れないでください。当展示場にあるユービックはすべて、取り扱い上の注意を守って使用された車ばかりです」
 というリードからはじまる本書「ユービック」。
 舞台は、「1992年6月5日の夜」にはじまる。登場人物は、ホリス異能プロダクション所属の超能力者による企業などの被害を防ぐ、ランシター合作社のメンバーたち。超能力を無能力化したり、反能力で防ぐことができるのだ。そして、もうひとつの舞台は、安息所の半生者たち。死んですぐ、冷凍し適切な処置をすることでその脳活動を残すことができる。長いゆるやかな夢のような世界に存在し、時折、現実の遺族から呼び出されてはコミュニケーションをとる。
 ランシター合作社のメンバーは、ある策謀によって事故に巻き込まれる。社長のランシターが死に、メンバーたちは不可解な現象に遭遇する。硬貨の顔がランシターに代わり、タバコが、エレベーターが、どんどん古い物に変わっていく。急速に時代をさかのぼるかのような動きが起きる。現実が、現実を失い、時間をさかのぼっていく。
 そして、ユービック。それは、薬? それはスプレー缶? 何?
 果たして、ランシターは生きているのか? 死んでいるのか?
 果たして、自分たちは生きているのか? 死んでいるのか?
 安息所の半生者というシステムが、彼らに混乱を与えていく。
 疲れ切ったときに読むといい。現実感を失いかけているときに読むといい。今の時代のように、人間のミスや余裕、あそびを許さない中で、殺伐としているときに読むといい。
 現実のあやうさを思い知ることができるから。一度思いっきり現実を解体し、そうして、もう一度現実に戻ってきて、足を地面に踏みしめるといいのだ。
 ユービックは意外と身近なところにころがっている。
(2010.01.14 )

クリスタル・レイン

クリスタル・レイン
CRYSTAL RAIN
トバイアス・S・バッケル
2006
 惑星ナナガダ。農業と漁業と手工業が中心の人類の惑星。ジョン・デブルンは記憶喪失の男。どこから来たのか、何をしていたのか、知るものもおらず、自らも知らず、ただ、特殊な技能を持っていた。彼は、土地の者となり、かつて北に行き、腕を失った。そして、妻と息子と鋼鉄の鉤の左手を得、漁師となり、絵をたしなみ、日々を過ごしていた。この惑星の中心はキャピトルシティ。市長がおり、ラガマフィン隊が町を守っている。敵はウィキッドハイ山脈の向こうにいるアステカ人たち。アステカの生きた神の下、生けにえとなる人間の生きた心臓を捧げる儀式を行う。そのアステカ人の侵入を防いでいるのはマングース隊。戦いは剣と銃と大砲と、船と飛行船。19世紀である。
 カーニバル当日、アステカ人たちが史上空前の大襲撃をはじめた。ジョンははからずも無事だったが、妻子はそれぞれにアステカ人の襲撃に合う。アステカ人たちは首都キャピトルシティをめざして大軍を進める。圧倒的な兵力差と、生きたまま心臓をえぐる残虐さになすすべもないキャピトルシティの人たち…。
 惑星ナナガダにいるのはれっきとした人類。彼らは植民者たちである。アステカの神々は、同じ惑星ナナガダに来た異星人であろう。アステカの神々は、ジョン・デブルンの持つ秘密を持ち帰るよう二重スパイのオアシクトルに命じる。どこからともなく現れ特殊能力を持ったペッパーと名乗る人間もジョンのゆくえを追っている。ペッパーは、ジョンの息子をアステカの侵略から守り、ジョンのゆくえを知る。
 そして、妻子をアステカに殺されたと信じたジョンは、アステカ人に一矢を報いるため、マングース隊隊長で旧知のハイダンに頼まれ、父祖の時代の兵器を求めてふたたび北への船旅に出る。そこには、オアシクトルとペッパーの姿も。
 首都に迫るアステカ軍、ジョンを巡る不可解な動き、父祖の兵器の正体とは。
 ゴシック・スペースオペラというか、破滅後の世界物語というか、新手のスペースファンタジーというか。
フィリップ・リーヴの「移動都市」シリーズや、カール・シュレイダーの「気球世界ヴァーガ」シリーズを思わせる巧妙な設定の世界である。ヴァーチャル世界ではなく、リアル世界設定というところがいいね。
(2009.10.31)

最後の星戦 老人と宇宙3

最後の星戦 老人と宇宙3
THE LAST COLONY
ジョン・スコルジー
2007
 第1作、「老人と宇宙」のジョンが帰ってきた。しかし、彼は緑色をしていない。新しいコロニーで、妻と子とともに平和な日常を送っている。仕事は小さな村の監査官。まあ、もめごとの調整役といったところ。口の汚い秘書のサルヴィトリとのかけあいと、面倒な村人の対応を除けば何事もない。その彼の元に、元の上司がやってきて、別のコロニー開拓を率いて欲しいという。これまで、植民はすべて地球から送られてきた。しかし、植民星が二次植民の権利を求めてきたのだ。とはいえ宇宙の植民星はほぼすべてどこかの異星種族に押さえられており、新たな植民星の発掘や譲渡(奪い取り)は容易ではない。ある異星種族より「譲られた」植民星に10の人類植民星からそれぞれ同数ずつを出してこの譲られた星「ロアノーク」を開拓することとなった。文化も、価値観も、歴史的背景も異なる10の植民星出身者をたばね、成功させること、この政治的にも困難な課題を最高責任者である「行政官」として引き受けさせられ、妻、子とともに、第二のふるさとを離れることになった。
 そうして、頭を痛めながらも移民船に乗ってロアノークに到着したが、そこは、予定されていた「ロアノーク」ではなかった。
 偽ロアノークは、宇宙規模の陰謀、策謀、作戦に巻き込まれ、すべての電子機器を使用禁止に追い込まれる。偽ロアノークの植民者たちとジョンの家族は、偽ロアノークの自然環境、人類の属するコロニー連合、さらには、コロニー連合よりもはるかに強力な異星種族連合であるコンクラーベを相手に生き残ることができるのか?
 ということで、今度は「三国志」みたいなものである。「三国志」のおもしろさは、司令官(王)と将軍たちの個性と知恵比べたる戦略にあるといってもいいだろう。二者関係ならばたいていの場合は大が勝つ。しかし、三者関係になると、一番弱いはずのものが大を覆すことも可能になる。だから「三国」を語る必要があるのだ。コロニー連合とコンクラーベの戦いとして語ればじつにつまらないものになるだろう。力の差が歴然で、お話しにならないのだ。しかし、ジョンとロアノークの存在がそのすべてを変える。
 第1作は、老人版「宇宙の戦士」、第2作は「フランケンシュタイン」というか、SF、怪獣、特撮映画と小説のオンパレード、そうして、第3作は「三国志」。絶妙のストーリー展開、博学、博識、かつマニアックな作者の力量に感銘。
(2009.10.31)

マラコット深海

マラコット深海
THE MARACOT DEEP
コナン・ドイル
1929
 先日、本屋で「マラコット深海」が売られているのを見かけた。手元にあるのは1976年の第38版。初版が1963年である。まだ売り続けられているとすると、いったい第何版なのだろうか。手元の本は、表紙さえないので、いったいいくらで買ったかさえ分からない。薄い本なのでたぶん、200円前後ではなかろうか。中学生の頃だから、安かったから買ったというのが本当のところだろう。コナン・ドイルといえば、シャーロック・ホームズシリーズだが、私はアルセーヌ・ルパン派であったので、読んではいたけれど、ホームズはあまり好きではなかった。そのドイルの作品である。いま、あらためてあとがきを読むと、この「マラコット深海」がドイルの遺作であるという。彼は4冊の空想科学小説を書き残し、このうち「マラコット深海」以外は同じ主人公の作品群である。
 ストーリーは簡単で、未知の世界である深海にマラコット博士と「ぼく」サイアラス・ジェイ・ヘッドリー、それにメカニックのビル・スキャンランの3人が、深海探査船に乗りこんで調査に向かう。巨大なカニのような生物に襲われ、あえなく深海に落ち行く3人。しかし、そこには、かつてアトランティス文明を築いた人たちが生き残って暮らしていたのだ! そこで出会った数々の驚異。そして、その顛末は地上にも伝えられることとなった。
 コナン・ドイルは、第二次世界大戦前夜、大恐慌前夜に亡くなったのだな。夢と希望にあふれている。地球に「未知」があふれていた時代の作品である。
 しかし、本作品が発表されてから80年、私たちは地球のことを分かったような気になっているが、実は深海はまだまだ未知の世界である。海だけでない、月だって知らないことだらけだ。月の裏側に「水」があることはつい先頃確認されたばかりである。簡単に「冒険」はできないけれど、フロンティアはまだあるのだ、そんな気持ちにさせられた。
(2009.10.10)