クリスタル・レイン

クリスタル・レイン
CRYSTAL RAIN
トバイアス・S・バッケル
2006
 惑星ナナガダ。農業と漁業と手工業が中心の人類の惑星。ジョン・デブルンは記憶喪失の男。どこから来たのか、何をしていたのか、知るものもおらず、自らも知らず、ただ、特殊な技能を持っていた。彼は、土地の者となり、かつて北に行き、腕を失った。そして、妻と息子と鋼鉄の鉤の左手を得、漁師となり、絵をたしなみ、日々を過ごしていた。この惑星の中心はキャピトルシティ。市長がおり、ラガマフィン隊が町を守っている。敵はウィキッドハイ山脈の向こうにいるアステカ人たち。アステカの生きた神の下、生けにえとなる人間の生きた心臓を捧げる儀式を行う。そのアステカ人の侵入を防いでいるのはマングース隊。戦いは剣と銃と大砲と、船と飛行船。19世紀である。
 カーニバル当日、アステカ人たちが史上空前の大襲撃をはじめた。ジョンははからずも無事だったが、妻子はそれぞれにアステカ人の襲撃に合う。アステカ人たちは首都キャピトルシティをめざして大軍を進める。圧倒的な兵力差と、生きたまま心臓をえぐる残虐さになすすべもないキャピトルシティの人たち…。
 惑星ナナガダにいるのはれっきとした人類。彼らは植民者たちである。アステカの神々は、同じ惑星ナナガダに来た異星人であろう。アステカの神々は、ジョン・デブルンの持つ秘密を持ち帰るよう二重スパイのオアシクトルに命じる。どこからともなく現れ特殊能力を持ったペッパーと名乗る人間もジョンのゆくえを追っている。ペッパーは、ジョンの息子をアステカの侵略から守り、ジョンのゆくえを知る。
 そして、妻子をアステカに殺されたと信じたジョンは、アステカ人に一矢を報いるため、マングース隊隊長で旧知のハイダンに頼まれ、父祖の時代の兵器を求めてふたたび北への船旅に出る。そこには、オアシクトルとペッパーの姿も。
 首都に迫るアステカ軍、ジョンを巡る不可解な動き、父祖の兵器の正体とは。
 ゴシック・スペースオペラというか、破滅後の世界物語というか、新手のスペースファンタジーというか。
フィリップ・リーヴの「移動都市」シリーズや、カール・シュレイダーの「気球世界ヴァーガ」シリーズを思わせる巧妙な設定の世界である。ヴァーチャル世界ではなく、リアル世界設定というところがいいね。
(2009.10.31)

最後の星戦 老人と宇宙3

最後の星戦 老人と宇宙3
THE LAST COLONY
ジョン・スコルジー
2007
 第1作、「老人と宇宙」のジョンが帰ってきた。しかし、彼は緑色をしていない。新しいコロニーで、妻と子とともに平和な日常を送っている。仕事は小さな村の監査官。まあ、もめごとの調整役といったところ。口の汚い秘書のサルヴィトリとのかけあいと、面倒な村人の対応を除けば何事もない。その彼の元に、元の上司がやってきて、別のコロニー開拓を率いて欲しいという。これまで、植民はすべて地球から送られてきた。しかし、植民星が二次植民の権利を求めてきたのだ。とはいえ宇宙の植民星はほぼすべてどこかの異星種族に押さえられており、新たな植民星の発掘や譲渡(奪い取り)は容易ではない。ある異星種族より「譲られた」植民星に10の人類植民星からそれぞれ同数ずつを出してこの譲られた星「ロアノーク」を開拓することとなった。文化も、価値観も、歴史的背景も異なる10の植民星出身者をたばね、成功させること、この政治的にも困難な課題を最高責任者である「行政官」として引き受けさせられ、妻、子とともに、第二のふるさとを離れることになった。
 そうして、頭を痛めながらも移民船に乗ってロアノークに到着したが、そこは、予定されていた「ロアノーク」ではなかった。
 偽ロアノークは、宇宙規模の陰謀、策謀、作戦に巻き込まれ、すべての電子機器を使用禁止に追い込まれる。偽ロアノークの植民者たちとジョンの家族は、偽ロアノークの自然環境、人類の属するコロニー連合、さらには、コロニー連合よりもはるかに強力な異星種族連合であるコンクラーベを相手に生き残ることができるのか?
 ということで、今度は「三国志」みたいなものである。「三国志」のおもしろさは、司令官(王)と将軍たちの個性と知恵比べたる戦略にあるといってもいいだろう。二者関係ならばたいていの場合は大が勝つ。しかし、三者関係になると、一番弱いはずのものが大を覆すことも可能になる。だから「三国」を語る必要があるのだ。コロニー連合とコンクラーベの戦いとして語ればじつにつまらないものになるだろう。力の差が歴然で、お話しにならないのだ。しかし、ジョンとロアノークの存在がそのすべてを変える。
 第1作は、老人版「宇宙の戦士」、第2作は「フランケンシュタイン」というか、SF、怪獣、特撮映画と小説のオンパレード、そうして、第3作は「三国志」。絶妙のストーリー展開、博学、博識、かつマニアックな作者の力量に感銘。
(2009.10.31)

マラコット深海

マラコット深海
THE MARACOT DEEP
コナン・ドイル
1929
 先日、本屋で「マラコット深海」が売られているのを見かけた。手元にあるのは1976年の第38版。初版が1963年である。まだ売り続けられているとすると、いったい第何版なのだろうか。手元の本は、表紙さえないので、いったいいくらで買ったかさえ分からない。薄い本なのでたぶん、200円前後ではなかろうか。中学生の頃だから、安かったから買ったというのが本当のところだろう。コナン・ドイルといえば、シャーロック・ホームズシリーズだが、私はアルセーヌ・ルパン派であったので、読んではいたけれど、ホームズはあまり好きではなかった。そのドイルの作品である。いま、あらためてあとがきを読むと、この「マラコット深海」がドイルの遺作であるという。彼は4冊の空想科学小説を書き残し、このうち「マラコット深海」以外は同じ主人公の作品群である。
 ストーリーは簡単で、未知の世界である深海にマラコット博士と「ぼく」サイアラス・ジェイ・ヘッドリー、それにメカニックのビル・スキャンランの3人が、深海探査船に乗りこんで調査に向かう。巨大なカニのような生物に襲われ、あえなく深海に落ち行く3人。しかし、そこには、かつてアトランティス文明を築いた人たちが生き残って暮らしていたのだ! そこで出会った数々の驚異。そして、その顛末は地上にも伝えられることとなった。
 コナン・ドイルは、第二次世界大戦前夜、大恐慌前夜に亡くなったのだな。夢と希望にあふれている。地球に「未知」があふれていた時代の作品である。
 しかし、本作品が発表されてから80年、私たちは地球のことを分かったような気になっているが、実は深海はまだまだ未知の世界である。海だけでない、月だって知らないことだらけだ。月の裏側に「水」があることはつい先頃確認されたばかりである。簡単に「冒険」はできないけれど、フロンティアはまだあるのだ、そんな気持ちにさせられた。
(2009.10.10)

フロリクス8から来た友人

フロリクス8から来た友人
OUR FRIENDS FROM FRORIX8
フィリップ・K・ディック
1970
 疲れたときは、ディックである。すさんだときは、ディックに限る。泣くわけではない。笑うわけではない。心の隙間に闇を感じたとき、泣きつつ、笑いつつ、静かな気持ちで読む。それが、ディックの作品である。
 2226年。60億人の人類は、「旧人」となっていた。ごく一部の天才たち「新人」と、超能力を持つ「異人」が世界を統治し、管理し、運営する世界。
 試験を受けなければ、国家の仕事は得られない。国家の仕事以外にはろくな仕事はない。その試験は新人か異人しか受かることはない。受ける資格だけは旧人にもある。絶望的な希望。
 旧人たちにとっての望みは、ひとり宇宙に逃亡し、旧人を救うべく異星人を捜しに出かけたトース・プロヴォーニの存在と、その帰還までの期間に旧人への希望を与え続けるエリック・コードンの言葉だけであった。
 主人公のニック・アップルトンは、古タイヤの溝掘り職人。息子を試験に通すことだけを願っている、典型の中の典型的な旧人。彼の望みは叶うことなく、そして、ニックは世界を帰るできごとに巻き込まれていく。希望する、しないにかかわらず、たった一度の意志の発露によって。
 宇宙に救いを求めつつも、何が救いなのかを理解していない救世主。
 最高の権力を持ちながらも、日常のささいなできごとに苦しみ、そこから逃れようとする権力者。
 誰でもなく、何でもない、ただの人間であるニックだけが、自分の望みを知り、世界を感じ、考え、苦しみ、生きることができる。最初から最後まで、彼はただのふつうの、一般的な、どこにでもいる、人間である。そこそこの欲望、そこそこの希望、平穏な日常への渇望。しかし、彼には意志がある。そして、他者への共感がある。それが、異人であれ、新人であり、理解できないものであれ、彼は共感しようとする。
 辛い目に遭う、ひどい目に遭う、追われ、迫害され、虐げられ、馬鹿にされる。
 繰り返されるディックの主題。
 神や本当の世界を求めていたディックは、同時に、人間のはかなさと、はかなさゆえの共感にもっとも心を注いでいた希有な作家である。
(2009.10.8)

コンラッド消耗部隊 タンタロスの輪

コンラッド消耗部隊 タンタロスの輪
THE EXPENDABLES THE RINGS OF TANTALUS
リチャード・エイヴァリー
1975
 21世紀後半、人口増加に対して、国連はエクスペンド計画を実行。クレイトス計画によって植民星を確保、コンラッド消耗部隊が確保した星には物質移送機によって新たな植民者が送られた。そして、消耗部隊は新たな植民星候補地に送られた。彼らを送った後に、責任者は部隊にテロリストが紛れている可能性を発見。隊長であるコンラッドにその情報を伝える。冷凍睡眠から目覚めたコンラッドは、副官とともに対策を考えつつも、本来の目的である植民星の調査と、植民可能な場合の惑星確保のための行動をはじめた。
 コンラッド消耗部隊の第二作である。ついこの前に、古本屋さんで買った。第一作は読んでいない。ネットで調べると、「クレイトスの巨大生物」「タンタロスの輪」「ゼロスの戦争ゲーム」「アルゴスの有毒世界」が翻訳されているらしい。エドマンド・クーパーが本名で、リチャード・エイヴァリーは別名義のようである。
 70年代のヒーローものである。
 軽く、楽しく読める作品。
 人類に都合のいい植民星が見つかることについては、ま、あまり気にせずに、楽しく読みたい作品である。「キャプテンフューチャー」などもそうだが、第二作から読んでも何の不都合もない。すばらしい。
(2009.10.01)

フィーバードリーム

フィーバードリーム
FEVRE DREAM
ジョージ・R・R・マーティン
1982
 SFマガジンベストSF1990(海外編)1位の作品である。ということはSFであろう。ま、ファンタジーですけど。
 19世紀アメリカ。薪を燃やして蒸気機関を動かす時代のミシシッピ川。あまたの蒸気船が川を上り、下り、人や荷物や情報を伝えていた時代。今風に言うならば、木質バイオマスの時代から化石燃料の時代に移る直前の時代。蒸気船の船長が力を持っていた時代。そして、闇の異種族である吸血鬼が人々を恐怖に陥れる時代。まだ南北戦争が始まる前、州によっては奴隷制が強く、州によっては奴隷制を否定し始めていた時代。醜く、運のない元船長アブナー・マーシュは、新造船の共同経営者にならないかと見知らぬ男に話を持ちかけられる。ジョシュア・ヨーク。色白で、夜の闇の中でしか行動しない男。金を出し、新たな船を作り、運行を任せるという。その条件は奇妙なものだった。共同船長にすること、自分の行動に疑義をはさまないこと、ミシシッピ川で運行すること。
 アブナー・マーシュは、約束と義理を果たす男だった。奇妙ながらも信用のおける人間として、ジョシュア・ヨークを受け入れ、彼とともに船を作り、ミシシッピ川で最高のデザインと速度を持つ新造船の船長になる夢を選んだ。
 それは、アブナーに、人間とは違う種族との不思議な友情と、語ることのできない希有な人生をもたらすことになった。
 そうかあ。木が燃やされていた時代かあ。同じように煙が出ていても、石炭とはずいぶん違ったのだろう。
 そうだよなあ。吸血鬼って長寿なのだからメトセラの種族だよなあ。
 なるほどなあ。ジョージ・R・R・マーティンの書く「境界線で力を持つ人たち」には迫力があるよなあ。
 アブナー・マーシュ船長って、結構いいもの食べてるなあ。
 フライドチキンにカブと玉ねぎを添えた皿と、チーズを乗せたアップルパイ。
 フライドチキンと、トウモロコシパンと、スイートピーと、ジャガイモ。
 ローストダックとサツマイモとスナップビーンズと、熱々のパンかあ。
 人口も少なく、土地も肥え、農薬も化学肥料もない時代。食材がおいしそう。
 っと、血も濃かったのだろうか。
(2009.10.01)

ノパルガース

ノパルガース
NOPALGARTH
ジャック・ヴァンス
1966
 地球とは違う星系で、地球とは違う進化を経て、人類よりも早く星の世界を手に入れ、そして、ノパルによって果てなき戦争に追い込まれ、星を荒廃してしまったザックス人。戦争を終わらせた彼らは、ノパルを追ってある星の攻略を計画する。その星は地球。地球人ポール・バークは、ザックス人によって拉致され、宇宙の真実を知らされる。地球での使命を与えられ、地球に戻ることになる。たったひとり、人類とは違う世界を知った男、バークの行動は、人類とザックス人、そして宇宙に大きな影響を与えることになるのだ。
 ジャック・ヴァンス「竜を駆る種族」以来の翻訳である。作品は1966年に発表。古き良き時代のパルプ雑誌SFであるが、ストーリー展開と結末は時代背景を感じさせる皮肉に満ちたものである。テーマをあえて考えれば「善と悪の二面性」といってもいい。ある側面から善に見えたものがある側面からは悪になる。つきつめていけば絶対的な善と悪にたどり着くのかも知れないが、そのオセロゲームはどこで終わるのかが分からない。フランスとベトナムの泥沼の中に仲裁者として入っていったはずのアメリカがいつの間にかベトナム戦争の主役となり、やがて正義が悪になるその過程。アメリカ人の苦悩、そんな世相が反映しているような作品であった。
 そう書くと難しそうだが、パルプ雑誌SFである。軽い娯楽ものとして読めることは間違いない。おもしろいのも確かだ。しかし、40年以上前の作品を今頃翻訳する意図は分からない。あれも、これも読みたい作品はあるのに。映画化でもされるのかしらん。
(2009.09.25)

真空ダイヤグラム

真空ダイヤグラム
VACUUM DIAGRAMS(THE XEELEE CHRONICLE 2 VACUUM DIAGRAMS)
スティーヴン・バクスター
1997
「プランク・ゼロ」と「真空ダイヤグラム」の2冊を合わせてジーリー年代記を縦断する短編集が配列される。物語をつなぐ語り手は、イブ。異種族シルヴァー・ゴーストへの人類大使ジャック・ラウールの死んだ妻である。語り手の時間軸は5664年。前半の「プランク・ゼロ」は、すでに起こった過去の物語である。しかし、後半の「真空ダイヤグラム」はいきなり、語り手の時間軸の未来を舞台にする。10515年の「ゲーデルのひまわり」にはじまり、4101284年の「バリオンの支配者たち」に終わる。9作品、1万年先から400万年先までの未来である。途中には、長編「天の筏」の舞台と重なる「密航者」なども描かれる。
 ぶっちゃけて言えば、ジーリー年代記における人類は、ジーリーにとってはネズミのような位置づけである。そのほとんどは不快害獣や実際に家をかじり、食料を引き、病気を運ぶ迷惑で駆除しなければならない存在である。ただ、時には愛くるしいペットとして温情をかけたりもする。そういう存在。ジーリーの宇宙で人類は、ジーリーに次ぐ位置を占め、ジーリーに戦いを挑むが当然相手にならない。ならなくても戦う。どうしようもない存在である。ジーリーには真の敵がおり、究極の目的があった。そっちがジーリーにとってのすべてであり、人類との戦いはめんどくさい障害であったに違いない。やれやれ。結局人類はジーリーとの戦いで宇宙の資源を使い果たし、自らも変化、退廃していく。やれやれ。
 本書「真空ダイヤグラム」の解説で林譲治氏は、ベンフォードのユニバースシリーズとの比較をして、ベンフォードの宇宙では機械知性と人類の戦いの宇宙で人類が大きな役割を持つのに対し、バクスターでは人類の存在に皮相的なのは、ベンフォードがアメリカ人で、バクスターがイギリス人だからかもしれないとまとめている。たしかに、ベンフォードの機械知性の作品群と、バクスターのジーリー年代記は重なるところを感じる。さらに、超知性という点では、ブリンの知性化シリーズや、フレデリック・ポールの「ゲートウエイ」シリーズ(ヒーチーが登場するのだ!)などと重なってしまう。これは私が馬鹿で、物忘れがはげしいからだというのもあるが、どうにも、この手の超知性体シリーズものは感覚が似てしまうのだ。
 そんなことってありませんか?
 ところで、どこかに「天の筏」が転がっていないかなあ。これだけが未読。
(2009.09.05)

プランク・ゼロ

プランク・ゼロ
VACUUM DIAGRAMS(THE XEELEE CHRONICLE 1 PLANCK ZERO)
スティーヴン・バクスター
1997
 スティーヴン・バクスターの代表的シリーズ、ジーリー年代記は、長編の「天の筏」「時間的無限大」「フラックス」「虚空のリング」と、複数の短編で構成されている。本書「プランク・ゼロ」と「真空ダイヤグラム」は、短編を年代記別に並べ、間をつなぐ物語を置いた「真空ダイヤグラム」を日本で二分冊にしたものである。短編集のはじまりは、3672年の「太陽人」にはじまる。太陽人と言っても、太陽の中に住む人のことではない。太陽人とは、ある知的生命体が我々を呼ぶ言葉である。そのある知的生命体とは…。  この短編集には、「虚空のリング」に登場する「人の心を持った人工知能」リゼールが登場する。この短編が「虚空のリング」の一部の下敷きでもある。その後、本書「プランク・ゼロ」に記述はないが、「虚空のリング」の主人公たちが未来への旅に出かけ、時間軸に残った多くの人類は、未来からの予告通り、スクィームに侵略される。4874年の「パイロット」は、スクィームに侵略されはじめたばかりの太陽系での逃亡者を描く。その後、スクィームの支配に打ち勝ち、再び人類は拡張、そうしてクワックスに出会い、軽々と支配されてしまう。クワックスの支配については、「時間的無限大」で描かれているが、そこではクワックスを滅亡に近い状態に追い込んだ人間の物語に触れられている。それこそが、5406年の「青方変異」である。
 クワックスの支配を逃れた人類は、拡張の時代を迎え、やがてジーリー以外の知的生命体の頂点に立っていく。
 その過程で出会ったのがシルヴァー・ゴーストと人類が呼ぶ種属である。彼らは、彼ら独自の理論でジーリーの干渉を受けかねない宇宙規模の実験を繰り返していた。この短編集の作品をつなぐのが、シルヴァー・ゴーストに対しての人類側大使ジャック・ラウールと、その死んだ妻イブの物語である。それは、5664年にはじまる。「プランク・ゼロ」は、その物語の直前、5654年の表題作「プランク・ゼロ」で終わる。
 この短編集は、「時間的無限大」や「虚空のリング」を読んでいるとジーリー年代記宇宙の背景をすんなり受け入れられる。もちろん読んでいなくてもひとつひとつの物語が充実している。その作品も「宇宙」と「生命」を感じさせる壮大な物語を予感させる。
(2009.09.05)

虚空のリング

虚空のリング
RING
スティーヴン・バクスター
1994
「時間的無限大」に続き、ジーリー年代記の長編にあたるのが本書「虚空のリング」である。宇宙論の仮説を大胆に活用して、宇宙のはじまりから終わりまでを、まるでゾロアスター教における光と闇の戦いのように描ききるバクスターの意欲作である。「時間的無限大」でも、本書「虚空のリング」でも、結局はこの宇宙の終わり(の方)が描かれている。
 最初から宇宙が終わっているわけではなく、結局のところ、宇宙の終わりにつながっているということで、これは、「すべての人間は必ず死ぬ」とか、「致死率100%の病気は死だ」というのと同じくらい意味のない説明でもある。
 時間軸は、まだ、スクィームにもクワックスにも出会っていない、太陽系からほとんど外に飛び出していない、前著「時間的無限大」のマイケル・プールがいなくなってから150年後の太陽系にはじまる。「時間的無限大」で起きた未来からの侵略から伝えられた情報は、その後、聖スーパーレット光教会を生み出し、一部のものがある程度深刻に宇宙の未来を考えていた。現実に、我らが太陽系の太陽に変化が起きている可能性があった。宇宙の恒星が本来のしかるべき寿命より年を取っているのだ。太陽もまた、早くに老化し、赤色巨星化する可能性がある。そこで、太陽内部の調査を行うため、あるAIが生み出され、ワームホール技術を応用して太陽に送り込まれた。
 そしてもうひとつ、聖スーパーレット光教会は、本来ならば100億年も先と予想される宇宙の晩年が500万年程度で訪れると予想した。そこでGUT船を1000主観年亜光速で加速させ、その500万年先の未来にワームホールを運び、過去と未来をつなごうと計画する。しかし、1000年も続く目的を持った小社会を継続することは難しい。様々な議論と計画を経て、3953年、GUT船グレート・ノーザンが亜光速飛行で未来への旅をはじめた。
 この物語は、太陽に送り込まれたAIと1000主観年、500万年先の未来に行こうとする人々の話をクロスさせながら、人類が真に知ることのなかった超種属ジーリーと、暗黒物質界の生命体フォティーノ・バードの宇宙規模の戦いの姿を知ることになる。
 時間と空間は絡み合いながら、物語の間を展開し、読者はめまいに満ちた時空の広がりを感じることができる。
「想像もつかないものを書きたい」と、作者のバクスターが思ったのかどうかは分からないが、とにかく壮大である。数千光年、数百光年といった規模の話が軽々と出てくる。地球から一番近い恒星まで4.37光年。それでも、空を見上げるとその恒星は点にしか見えない。宇宙は広く、その規模は想像を絶する。すごいなあ、バクスター。
 すっとするぜ。
 そうそう、グレート・ノーザン内の社会は、ハインラインの「宇宙の孤児」を思わせるところもあってほほえましい。
(2009.09.05)