宇宙の一匹狼

宇宙の一匹狼
ROGUE IN SPACE
フレドリック・ブラウン
1957
 ブラウンの長編小説「宇宙の一匹狼」である。初読。古本屋さんで500円で買った。定価は200円。1966年初版で、74年に13版を数えている。古き良き時代。
 元宇宙飛行士のクラッグは、犯罪歴のある男。地球の第二の都市で麻薬所持の疑いによって逮捕され、精神改良所送りの刑になるところを、太陽系調整官の職を狙う大政党のリーダーによって解放された。その引き替え条件が、彼の仕事を手伝うこと。あるものを火星の発明工場から盗み出して欲しいという。それは、クラッグほどの能力と知性と強い意志力を持った男にしかできないことであった。
 一方、大宇宙では人類が誕生するはるか以前にひとつの知性が誕生していた。それは一個の小岩石であり、長い時間をかけて知性を、思考力を、様々な能力を獲得した独立した存在である。それは、宇宙を渡り歩き、他の「知性」を探していたが、そのようなものは見つからず、宇宙に存在する知性体は自分のみであると判断していた。それが、ちょうど太陽系に入ろうとしていた。
 やがて、ある事件が起き、女と出会い、女と別れ、クラッグと岩石が出会い、別れ、そして、太陽系に新しい惑星が誕生する。クラッグの惑星である。
 まあ、安心して読んでください。古きハードボイルドな「男のための」SFである。
 入手困難だが、最近フレドリック・ブラウンを見直す動きがあるので、そのうち読めるかもしれないよ。
(2009.09.02)

フラックス

フラックス
FLUX
スティーヴン・バクスター
1993
 中性子星にある目的を持って送り込まれた、改造された人類。身長(体長?)わずか10ミクロン程度。中性子星のある部分で、人は生まれ、育ち、子を産み、そして、死んでいった。目的は記憶され、やがて忘れられ、あるものは記憶し、口述し、あるものは記録を捨て、新たな都市を築き、追放し、追放され、辺境でかつかつの暮らしをし、時に都市に回帰し、都市はさびれ、復興する。
 その日が来るまでは。
 突然、中性子星に異変が頻発するようになった。
 その異変が原因で、ひとつの部族が崩壊の危機に見舞われ、若きリーダーとなった女性は、部族を救うべく弟、長老らと旅に出る。しかし、連れのひとりの長老が怪我を負い、通りかかった初めて見る「都会人」に救われ、弟ともども都市の中で暮らすはめになる。都市でも異変は起きており、世界が変化の予感を秘めていた。
「ジーリー」年代記の中でも異色中の異色、中性子内部に生きる人類の末裔の物語である。ジーリーの物語を知っていようが知っていまいが、それはかまわない。中性子内部に生きるというのはどういうことか、見てきたように語られる。すごいなあ、頭いいんだなあ。びっくりしちゃうよ。ホント。
 おもしろいなあ、よくこんなこと考えつくよなあ。楽しいな。
(2009.08.22)

無限記憶

無限記憶
AXIS
ロバート・チャールズ・ウィルスン
2007
「時間封鎖」の続編である「無限記憶」。前作から30年が過ぎた…。幼い頃、「新世界」でともに暮らした研究者の父が失踪した。少女は母に連れられ「旧世界」に戻っていたが、やがて結婚して「新世界」へ戻る。夫とのすれちがい、そして、父の失踪の真実を知りたいという願い。彼女の行動は、ひとりの男との出会いを生む。混沌とした「新世界」でフリーランスのパイロットをしている男。女と男は、ちょっとしたアクシデントで恋に落ち、やがて事件に巻き込まれていく。そして、ふたりは世界の真実を探す旅に出る。
 人類が発見した、いや、人類に与えられた「新世界」は、変化の時を迎えていた。突然の砂嵐の細かな砂は、まるで微少機械の部品のような様々な形をしていた。砂の中から一時的に表れる異形の「花」や「虫」は何を意味するのか?
「新世界」で生まれた一人の少年は、どこかで、誰かが呼ぶ声に悩まされていた。それは砂嵐以降に彼をますます頻繁に呼ぶ。その少年の周りに子どもはおらず、いるのは大人の研究者ばかり。そして、彼らは少年の一挙手一投足に神経を尖らせる。そこに、ひとりの女が訪ねてきた。彼女は「火星」で生まれ育った老女である。彼女と少年こそ、世界の真実を解き明かす鍵であった。
 彼らと、彼らをとりまく人たちに、探求への喜びはない。
 生命が生命であることを大切にしたいだけだから。
 うーん、おもしろい。
 第1作の「時間封鎖」ほどではないが、いろんなSFのオマージュが込められている。
 そして、21世紀的な作品である。
 世界にとって何が大切なことなのか? 思考と記憶と行動のどれが大切なのか?
 宇宙にとっての生命とは、見るとは、知るとは、記憶する、とは。
 自己とは、他者とは。
 いずれも、古典的な哲学、宗教が問い続けてきた命題であり、同時に科学が追究してきた課題である。科学の追究の先に収斂してきた課題といってもいい。
 本書「無限記憶」を読みながら、アニメ「交響詩篇エウレカセブン」(TV版)を思い出していた。グレッグ・ベアの「ブラッド・ミュージック」のアイディアをふくらませ、少年の記憶と行動の、自己と他者の物語として描いた作品だが、本「無限記憶」は、とても良く似ている。どこが…と聞かれると、ネタバレになるので書きにくいのだが、以下にネタバレを承知で書く。申し訳ない。未読の方は、まず「時間封鎖」「無限記憶」を読んでからにして欲しい。また、「交響詩篇エウレカセブン」のネタバレも含むので、未見の方は、こちらもご容赦願いたい。
 アニメ「交響詩篇エウレカセブン」(以下、エウレカセブン)と、本書「無限記憶」は、いずれも人知を超えた「存在」と人類の関係性を描く。「存在」は人類にとっての世界であり、「存在」に人類の生存やあり方が規定されている。「存在」には認識能力や記憶能力があると見られるが、人類にとって理解可能なコミュニケーションはとれていない。故に人類は「存在」を、「敵」と見なし、あるいは「神のような存在」と見なす。「善悪」を憶測し、人類の理解可能な領域に入れようとする。しかし、人類には理解不能である。
「存在」は高い能力を示し、世界に様々な姿を顕在化させる。それが、「存在」そのものなのか、ただの「道具」や「表現」なのかは分からないが、人類にとって認識可能だが理解不能な「生きもの」や「物体」などとして現れる。
 人類の一部は、「存在」とコミュニケーションを図ろうとする。また、「存在」も時に人類と関わりを持とうとしているのではないかと考えられる行動を行う。
 エウレカセブンでは、少女エウレカを存在が送り出した「メッセンジャー」として語り、エウレカが心に(記憶として)書き込む感情を含む情報を求める。
 本書「無限記憶」では、このエウレカと逆の役割、すなわち、存在へ人類が送り出す「メッセンジャー」が生み出される。エウレカの場合と同様に、メッセンジャーは、メッセンジャーと知的生命体として心を通わせる者と親しくなり、情報を密に交わす。それが物語となり、物語をつくる。
 私たちの行為は、思惟は、世界に書き込まれ、世界の記憶となる。しかし、すべてが記憶されるわけではないのか? 記憶は、記録する者がいてはじめて記憶となるのか?
 私は、あなたは、過去、現在、未来を通じて記憶されているのだろうか?
 誰の、何の記憶になるのだろうか?
 かつて、それは神の役割であった。
 神は死んだのだろうか?
 21世紀の神は、機械の神、または、異形の神なのであろうか?
 うーん、私の頭ではぐるぐるするだけだ。
 一流のエンターテイメントであることだけは間違いない。必読。
(2009.08.20)

時間的無限大

時間的無限大
TIMELIKE INFINITY
スティーヴン・バクスター
1992
 この宇宙にはジーリーという超種属がいる。ジーリーを除いては、人類のほか、あまたの知的種属があり、支配、侵略、通商、友好、同盟など、お互いの様々な関係を構築し、ある種属は滅ぼされ、ある種属は忘れ去られていた。
 宇宙に進出した人類は、あっというまに、スクィームという先進種族に発見され、支配されるが、スクィームの支配は長く続かず、人類はスクィームの支配から抜け出し、新たにクワックスに出会う。当初友好と見られていたクワックスだが、再び人類はクワックスに支配され、長きの支配下種属として苦渋の日々を続けていた。
 あるとき、クワックスの目をかいくぐって、一群の人間たちが逃亡する。
 1500年前、宇宙に進出し始めたばかりの人類は、ある実験を行った。それは、ふたつのつながりをもつワームホールのひとつを相対効果が出るように加速し、ひとつを1500年の先に運ぶことで、1500年の時空を結ぶという計画であった。
 その1500年後のワームホールを待って、クワックスもスクィームも、宇宙の牙を何も知らない人類の元に逃亡した未来の人類。しかし、彼らは過去の人類にクワックスの危機を伝えることもせず、木星近傍で独自の計画を持って何かを行っていた。
 はたして彼らの目的は? そして、クワックスは過去の人類まで支配しようと来るのであろうか? ワームホールタイムマシンを計画した天才科学者マイケル・プールが、この謎を解きほぐすために未来の人類に接近する。そこには…。
 ジーリー・クロニクルのはじまり、はじまり、である。マイケル・プールの名前ぐらい覚えて帰ってください。
 本書「時間的無限大」は、当時の最新宇宙論をたっぷりとちりばめたハードSFである。
 宇宙は何次元? ワームホールを使ったタイムマシンは可能? ブラックホールを操れたら何ができる? 観察者問題をつきつめていったら、宇宙はどうなる? みたいなガジェットが満載。楽しいよ。
 それにしても、ジーリーだのヒーチーだの、宇宙には超種属が居て、人類には想像もつかない何かをするのだね。
(2009.08.09)

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを
GOD BLESS YOU, MR.ROSEWATER
カート・ヴォネガット・ジュニア
1965
 そうかあ、本書「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」が書かれたのは私が生まれた年かあ。つまり、今から44年前。読んだのが二十歳の時、1985年。バブル経済直前の大学生である。「逃走論」とか、「ニューアカ」とか、「新人類」とか、なんだか社会全体が浮かれていて、学術方面もかなり浮き浮きしていた、そんな時代である。
 そうすると、こういう作品がもてはやされて、読むことになる。村上春樹や村上龍の時代でもある。ところで、本書にはSF作家「キルゴア・トラウト」が初登場する。キルゴア・トラウトの作品がいくつか紹介されたり、主人公のエリオット・ローズウォーターが、SF大会に酔っぱらって登場し、演説するシーンがある。それをもってSFとすれば、本書はSFであるが、どう考えても、本書「ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを」はSFではない。でも、早川文庫SFから出ている。なぜなら、カート・ヴォネガット・ジュニアの読者は、カート・ヴォネガット・ジュニアをSF作家として読み、日本ではSF作家として評価されているからである。もし、SF作家として、早川文庫SFから出ていなかったら、本書を読むことはなかったであろう。よかったのか、悪かったのか。
 SFでなければ、ここでいろいろ書き連ねることは、おかしいのだが、カート・ヴォネガット・ジュニアをSF作家として位置づければ、SF作家の作品として書いてもおかしくはない。書かないのも変になるから。
 まあ、そういうことはどうでもいいことに分類されるわけだが、世の中のたいていのことは、どうでもいいことに位置づけられる。たとえば、いま、私は、自宅のメインパソコンがクラッシュしてしまい、なんとかOSを復旧させようとあの手この手を試しつつ、サブのノートパソコンでこれを書いているのだが、もし、パソコンがクラッシュしていなければ、別の仕事をしていたであろうし、別の気分でいられただろう。さらに、どうもハードディスクがクラッシュしているようで、復旧がうまくいかず、OSをクリーンインストールして再構築するか、今はあきらめて新しいハードディスクを購入するかの選択が近づいているような気がしている。
 こんなことは、世の中よく起きていることで、便利になったのだか、不便になったのだか分からない気持ちになるが、総じて言えば便利になったのかも知れない。便利になったからと言って幸福になったのかと言えば、必ずしもそうは言えないわけで、豊かな国日本の国民の何割かは確実に生活が苦しくなっており、あまり日々幸せとは言えない人もいる。それでも、日々笑ったり、泣いたりはしているわけで、人間はどんな状態でも生きていける(はずだ)。
 持つもの、持たざるものに関わりなく、他者と関わりを持つことで、生きていける。大金持ちのエリオット・ローズウォーターは、他者と関わりを持つ何かになりたかった。そういう物語である。SF。ローズウォーター財団というものはおそらく架空の存在だし、SF作家キルゴア・トラウトが誕生した意味では、本書はSFである。そういうことにしておこう。
(2009.08.09)

デューン 砂漠の異端者

デューン 砂漠の異端者
HERETICS OF DUNE
フランク・ハーバート
1984
 1985年、冬。前作「砂丘の神皇帝」が出てから1年後に、デューンシリーズ6編目となる「砂漠の異端者」が翻訳された。レト神皇帝が崩御してから1500年が過ぎた。デューン「砂の惑星」から約5000年の歳月が流れた。既知宇宙の人々は、暴君レトのくびきが取れたかのように広く未知の宇宙を開拓する大離散と、社会的混乱による大飢饉の時代を経ていた。砂の惑星アラキスは、ラキスと呼ばれ、かつてハルコンネン家の惑星であったジェディ・プライムはガムーと呼ばれていた。
 協会(ギルド)、ベネ・ゲゼリット、トライラックス、イックスは健在であり、既知宇宙にはさらに新たな勢力が進出し始めていた。それが、「誇りある女たち」である。彼女らは、大離散から戻ってきた勢力のひとつで、ベネ・ゲゼリットとトライラックスの技術を併せ持つような勢力であった。ラキスの香料メランジを凌駕するトライラックスの人工メランジの存在と、誇りある女たちへの恐怖が、ベネ・ゲゼリットとトライラックスを近づける結果となる。
 一方、ラキスは再び砂の惑星へと戻り、暴君レトのかけらを内包した砂虫がかつてのように砂の海に生きていた。そこに、ひとりの少女が現れる。砂虫とのコミュニケーションを図ることができる娘シーアナである。それはラキスの僧侶たちにより、また、ベネ・ゲゼリットによって予言されていた娘。神の復活の兆しとなる娘であった。
 一方、ベネ・ゲゼリットは暴君レトと同様に、トライラックスよりダンカン・アイダホのゴーラ(クローン)を買い入れ、彼を育てていた。ダンカン・アイダホのゴーラがかつての自らの精神と記憶を取り戻すには、先代レト侯爵とのある会話と緊張状態が必要となる。ベネ・ゲゼリットは、アトレイデの血筋をしっかりと取り入れ、そのための人材までも育てていた。
 暴君レトとベネ・ゲゼリットによって多くの人々の身体、精神能力は5000年前の人たちが想像しないほどに向上し、一部は超人と呼べるほどになっていた。ダンカン・アイダホをめざめさせ、シーアナとつがわせることこそが、ベネ・ゲゼリットの復興の次の目標となっていた。
 そこに立ちはだかる誇りある女たち、さらには、同盟者でもあるトライラックスとの緊張。
 これまでとは異なる物語が、5000年の歴史を背景に今はじまる。
 ということで、前作「砂漠の神皇帝」に続き翻訳され、買って読んだのだが「ふーん、これ誰だっけ? 何が起きていたんだっけ」といった感じで大河ドラマの前を思い出せずに、ダンカン・アイダホの苦悩がよく分からず、出てくる登場人物の位置づけも見えず、放りだした記憶がある。そのためか、自作であり、フランク・ハーバートの最後のデューンシリーズとなった「砂丘の大聖堂」を買うことはなかった。「砂丘の大聖堂」が出た頃は、すでに社会人になっていて、日々ものすごく忙しく、たまに本屋に行っても、その日の気持ち次第でSFを買わずにいることもあった。「砂丘の大聖堂」を見かけたのは、当時広島のバスセンターに併設していたそごうか、バスセンターの中にあった紀伊国屋で、手にとってあらすじを読み、「ま、いいか、前のを読み返さないと分からないし」とそっと戻したのを覚えている。後悔。大後悔。今となってはどうしようもない。
 さらに、「砂丘の大聖堂」後、フランク・ハーバートは亡くなり、息子のブライアンが、今、この続編を書いたそうであるが、日本で翻訳される見込みはない。デューンシリーズを訳していた矢野徹も亡くなり、このまま日本では「デューン」が再評価される日はこないのであろうか。
 もったいない。今読んでもおもしろいのに。
 5000年だよ! しかも、デューンの宇宙史には、書かれていない1万年以上の人類の歴史があるというのに。あああ、誰でもいいからブライアンの続編を訳して。そして、デューンシリーズを一度全部再版して、ね、早川書房様。
 SF滅亡の危機だけど、こういう作品は残していってもらいたいものである。
(2009.08.09)

デューン 砂漠の神皇帝

デューン 砂漠の神皇帝
GOD EMPEROR OF DUNE
フランク・ハーバート
1981
 それが出たとき、私は目を疑った。大学生協の書店にデューンシリーズの第4部となる「砂漠の神皇帝」が並べられていた。それは、慣れ親しんだ石森正太郎のイラストではなく、新しい体裁となっていた。大学1年の冬。ちょうど車の免許を取ろうと教習所に通っていた頃のことである。寒い冬で、私は体調を崩し気味だった。
 当時はまだ下宿していたので、本も実家からそれほど持ってきてはおらず、デューンの1~3部は忘却の彼方にあった。そもそもざる頭の私である。
 おそるおそるページをめくると、そこにはまったく私の知らない砂の惑星が横たわっていた。3500年の時が過ぎ、しかし変わらずレトが皇帝であった。その姿はもはや人間とは言えず、そこに知った顔はいなかった。いや、ただひとり、猜疑心に満ちたダンカン・アイダホだけが時代を超えて、かつてのデューンの記憶をつないでいた。
 読んで、狐につままれたような気分になったことを覚えている。「砂漠の神皇帝」を正当に評価し、楽しく読めるようになったのは、すべてが私の手元にそろい、心落ち着けて「砂の惑星」から順番に読んでからであった。それまでには長い時間が流れた。せいぜい10年か15年ぐらいのことである。
 3500年の未来。そこには緑豊かで、水に困らない、川さえ流れているアラキスがあった。前作「砂丘の子供たち」の最後で、砂鱒との共生を果たし、超人的な能力を得たレトは、正しくポウルの跡を継ぎ皇帝となった。それから3500年。レトは、水の惑星に変わりつつあるアラキスの湿気を厭う砂虫に近づいていた。彼は、ポウルが成し遂げられなかった長期の平和「レトの平和」を作り出し、完璧な神聖独裁を既知宇宙に敷いていた。その権力の柱は、やはり香料メランジである。砂漠をほとんど失ったアラキスで、レト神皇帝が保管し、大公家をはじめ、それぞれの勢力が隠し持っていたメランジを没収し、その分配を行うことによって絶対的な権力を持っていた。同時にレト神皇帝の未来を見る力、レトを神とする女性のみで成り立つ親衛軍フィッシュ・スピーカーの存在が、かつての皇帝軍であるサルダウカーや、ポウルのジハドを起こしたフレーメンをしのぐ恐ろしさがあった。女性ゆえの絶対的帰依と精神的な強さが発揮され、その頂点としてダンカン・アイダホが掲げられていた。何度もゴーラ(クローン)として再生させられ、最初の死の記憶を思い出させられるダンカン・アイダホの存在は、デューン世界へのアンカーとも言える。愛と死と、正義とアトレイデへの忠誠。それこそがダンカン・アイダホ。
 そしてアトレイデ家。神皇帝は、ベネ・ゲゼリット以上に慎重に血統を強化し、アトレイデ家、コリノ家、ハルコンネン家、さらにはダンカン・アイダホの血を混ぜてきた。そうして生まれたアトレイデの官僚こそが、レト神皇帝のもうひとつの力でもあった。
 レトはなぜ3500年もの間、大規模紛争の抑制と人の移動の制約、文化・文明の拡張の規制を続けてきたのか。その偽りの平和をレトは喜んでいたのか? レトは、数々の予言を残す。遠い未来の人類の子孫に対しての言葉を残す。それは、「レトの平和」後に広がる人類の力を予言したものであった。
 レト神皇帝の治世を描く、異色の物語、それが「砂漠の神皇帝」である。
 それにしても、驚いた。
 まあ、注意深く「砂丘の子供たち」を読んでおけば、こうなることは予言されていたのだが、フランク・ハーバートは最初からこういう物語を考えていたのだろうか? フレーメンの聖なる希望であった緑と水の惑星となったアラキスは、しかし、フレーメンにとってのユートピアとはならなかった。もはやフレーメンすら死語であり、レト神皇帝によって「博物館フレーメン」としてその形をわずかに残すのみである。変わり果てた登場人物たち。しかし、それぞれに動機があり、愛があり、死がある。世界と個人の関わりがある。やはりデューンである。
(2009.08.05)

デューン砂丘の子供たち

デューン砂丘の子供たち
CHILDREN OF DUNE
フランク・ハーバート
1976
「デューン」初期3部作の第3作目である「砂丘の子供たち」。そのタイトル通り、ムアドディブのふたりの子どもが主人公となる。父レトの名をもらったレトと、双子の娘ガニア。物語は、前作から9年が過ぎた。ふたりの子どもたちは9歳となるが、生まれながらに過去の彼らの血統にいるすべての人たちの人生と記憶を持つベネ・ゲゼリットの言う「忌まわしき者」またはレトをしてクイサッツ・ハデラッハ、ガニマをして生まれながらの教母としていた。砂漠へ去り、死んだと思われるムアドディブに変わって、折衝として統治を行うのは、ムアドディブの妹であるエイリア。クローンとして生まれ変わるとともに、ある特殊なきっかけによって死までの記憶を取り戻したゴーラであり、メンタートであるダンカン・アイダホを夫とし、古き良きフレーメンの指導者であるスティルガーを側近としながらエイリアは統治者として振る舞っていた。
 しかし、エイリアは、魔女集団ベネ・ゲゼリットが恐れていたとおりの「忌まわしき者」となりつつあった。「忌まわしき者」それは、過去の記憶的存在であるものに支配された肉体のこと。過去の血統の記憶的存在を、その声を、叫びを、ささやきをコントロールし、自らを律することができなくなったもの。そんな「忌まわしき者」の統治をベネ・ゲゼリットは恐怖していた。ベネ・ゲゼリットだけではない。フレーメンだった者たちが、フレーメンのジハドにより信仰と服従を求められた既知宇宙の者たちが、アトレイデ家に恨みを抱き、その治世の転覆を願っていた。そして、追放された皇帝シャッダムの孫ファラドウンをしてコリノ家の復活を、ベネ・ゲゼリットの復興を、旧体制を取り戻す陰謀が進行していた。
 一方、エイリアもまた、自らの内なる声により子どもたちを使っての陰謀を企んでいた。
 スティルガーは、フレーメンの誇りとムアドディブへの誓約をもって、ダンカン・アイダホはアトレイデ家に対する忠誠をもって、すべての陰謀からふたりの子どもたちを守ろうとしていた。
 だが、誰も、レトとガニマを真に理解してはいなかった。彼らは、彼らを利用しよう、守ろう、殺そうとする人々とは違う、彼ら自身の計画を持っていた。それは、ムアドディブがなそうとしてできなかったことであり、人類の未来を賭したものであった。
 かくして、デューン「砂の惑星」「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」は、ポウル・ムアドディブ・アトレイデの父レト公爵の死にはじまり、息子レトの決断によって幕を下ろす。ハルコンネン男爵の陰謀によって幕を開け、ハルコンネンの陰をもって幕が下りる。
 3つの作品のうちで、ダンカン・アイダホの死と再生と再びの死が語られる。
 数多くの複線を残しながら、物語はここでひとつの終結を見た。
「砂丘の子供たち」三部作の最後は、昭和54年1月に10日違いで連続して刊行されている。1979年のことである。中学校2年生から3年生になるころのことであった。当時は、もう何のことやらである。あらすじを追っていたに過ぎないような気がする。最後の方は、何が起きているのかさっぱりである。買ったけど、「砂の惑星」のようなインパクトはなかった。ひとつ言えるとすれば、「あ、ムアドディブ、死んでいなかったんだ」ぐらいのものである。まだ、愛憎のなんたるかも知らない14歳の冬であった。
 その後、おそらく高校生の頃に1度読み直しているはずである。
 次に「デューン」に再開するのは、大学1年生の冬。「砂漠の神皇帝」が突如目の前に表れた時である。学生ぼけですっかり「デューン三部作」のストーリーを忘れていた私の前に、皇帝レトが姿を見せ、三部作でなじんでいた石森章太郎(当時ノは入っていない)イラストではないことに驚かされた。その話は、「神皇帝」にて。
(2009.08.02)

デューン 砂漠の救世主

デューン 砂漠の救世主
DUNE MESSIAH
フランク・ハーバート
1969
「デューン」シリーズの初期3部作第2作目である。前作を読んでいない人には申し訳ないが、前作の結末を最初に書くことになる。とはいえ、本シリーズは結末が分かっているからと言って魅力が損なわれるものではない。その点は、「伝記小説」に似たところがある。豊臣秀吉が天下を取り、やがて徳川家康が長い徳川時代を迎えることを知っていても、人は豊臣秀吉の物語を読む。
 もちろん、デューンは空想小説であり、すべての人が結論を知るわけではない。知らずにいる方がより楽しいだろう。そういう人は、ここから先を読まないで欲しい。
 まあ、想像はつくだろうが。
 前作より12年が過ぎた。ムアドディブは皇帝として惑星アラキスから既知宇宙を統治していた。その過酷な統治は、フレーメンを世界中に送り込み、暴力と信仰と、そして既知宇宙に欠かせない長寿薬である香料メランジの供給によって行われていた。ムアドディブはアトレイデ家の正義と公正を失ったのか? そして、ベネ・ゲゼリットから「忌まわしき者」と呼ばれれる妹のエイリアは何を考えているのか? ポウルを助けるために死んだはずのダンカン・アイダホのクローン(ゴーラ)が登場し、フレーメンのスティルガーは実態としての首相となる。変わりゆく役割、変わりゆく世界、変わりゆく人たち。陰謀の中の陰謀。ポウルは自らが見つめ、動かし始めた「未来」に縛られ、その細い道に揺らぎ続ける。未来の希望を、彼は誰にゆだねるのか…。
 前作「砂の惑星」で、主人公のポウル・アトレイデは、砂漠の民フレーメンの信仰と希望を自らが引き受けた。父の公爵レトを殺し、アトレイデ家を失墜させたハルコンネン家とコリノ家をフレーメンとともに打ち砕き、自らを皇帝の地位につけ、フレーメンの未来を約束した。
 皇帝という地位は、あらゆるものを引きつける。野望、欲望、策略、謀略、嫉妬、倦怠、妥協…。ポウルはすべてを知り、そして道だけをみつめた。人類が続くための唯一の道。しかし、それはポウルには苦痛であり、抱えるにはつらい道でもあった。
 大人になったポウル。大人になるというのは大変なことなのだなあ。
 予知がなくても、皇帝でなくても、大人になるというのは大変なことなのだ。
 生きていくことは大変なことなのだ。
 でも、そこには現在でしかあり得ない喜びがある。それが生きていくことだったりする。
 たとえ、めしいても、裏切られても、今には必ず喜びがある。
 それにしても、よくよく読むと、フランク・ハーバートが描くデューンの世界に登場する人たちはすごく変である。服装が奇抜、態度が変。どこかおどろおどろしさがつきまとう。前作では、ハルコンネン男爵という暴力に満ちた変態男色サディストが際立っていたから感じなかったのだが、本作ではそういう意味での「敵」がいないだけに、全員の変さ加減が気になってくる。一番態度や行動が普通なのは、ポウルの妻のチャニではなかろうか。ということは、チャニを基点として本作「砂漠の救世主」を読めばいいのかな。ポウルが救世主であるとしたら、ポウルの救世主はチャニだということだ。
 ポウルの喜びは、ひとえにチャニだったのだろう。
 そういう物語だと思えば、救いがある。
 そして、物語はいよいよ「砂丘の子供たち」へ続くことになる。
(2009.8.2)

デューン 砂の惑星

デューン 砂の惑星
DUNE
フランク・ハーバート
1965
 少年期に読んだ小説は、どうしても思い入れの強い作品になってしまう。主人公への感情移入だけではなく、そこに書かれる曖昧で、神秘的な言葉の数々、異世界の独特の環境、生物、人々の生き方…。私にとってデューンは少年期を代表する大河ドラマであった。中学生の終わり頃、初期3部作の「砂丘の子供たち」が翻訳され、シリーズの完結として本屋で並べられたときに、「デューン」と出会ったのである。まさに僥倖であった。
「砂の惑星」が書かれたのは、私が生まれた1965年。もはや44年も昔のことである。最初に読んだのが1978年頃である。以来現在まで何度か再読をしている。
 子どもの頃、とりわけ気に入ったのが例の「恐怖に対する祈り」というやつだ。「恐怖は心を殺すもの。恐怖は全面的な忘却をもたらす小さな死。ぼくは自分の恐怖を直視しよう。それがぼくの上にも中にも通過してゆくことを許してやろう。そして通りすぎてしまったあと、ぼくは内なる目をまわして、そいつの通った跡を見るんだ。恐怖が去ってしまえば、そこにはなにもない。ぼくだけが残っていることになるんだ」、である。第13版では26ページ目に登場する。その後も、訳文は違えど何度も何度も登場する名文である。恐がりの私が人生の柱としているひとつでもある。もちろん、できてはいないが。
 映画化やアメリカでのテレビドラマ化もされ、今でも時折ケーブルテレビなどで放映されているのだが、やはりここはひとつ作品にあたってほしい。第一部「砂の惑星」は、数年前に再販されているので入手可能ではないかと思う。
 話は…遠き遠き未来、人類は機械知性による長き支配をブレトリアン・ジハドによって脱却し、大王皇帝コリノ家のもと80代以上、1万標準年に渡って既知宇宙に広がっていた。宇宙協会が香料(スパイス)メランジと呼ばれる天然の薬物の力によって宇宙を折りたたみ宇宙の道筋を見据える航法士をかかえ、航法によって居住可能星系をつなぐ独占的な位置を占めていた。各星系は皇帝コリノ家と大公家、中小公家によって統治されていた。皇帝の力は宇宙協会と宇宙開発公社であるCHOAM、さらには、不思議な力を持つ「魔女」と呼ばれる修道士会ベネ・ゲゼリットなどの勢力とのバランスによって成り立っていた。
 古き大公家のひとつ、アトレイデ家は「正義」をもって知られていたが、やはり古きハルコンネン家とは世代を超えて深い対立と抗争を続けていた。アトレイデ家の拠点惑星は、水と緑に満ちたカラダン。農産物の豊かさで知られる穏やかな惑星である。人々はアトレイデ公爵を敬愛し、アトレイデ家もカラダンの人々に尽くしていた。一方のハルコンネン家の拠点惑星はジェディ・プライム。鉱山と鯨の毛皮で知られる暴力と恐怖統治の惑星である。ハルコンネン男爵は、恐怖を持って人々を統治することで知られていた。
 物語は、80年に渡ってハルコンネン家が皇帝より統治をまかされていた惑星アラキスを追放され、アトレイデ家が惑星カラダンから移るところから始まる。惑星アラキス、原住民フレーメンがデューンと呼ぶ、砂の惑星。そこでは1杯の水が何よりも貴重な乾燥した星。しかし、アラキスは、宇宙でもっとも価値の高い惑星でもあった。長寿薬であり、宇宙協会やベネ・ゲゼリットの意識拡張に欠かせない香料メランジが採取できる唯一の星であるからだ。化学合成できない香料メランジは、砂の惑星アラキスのみでしか産出しない。アラキスには、ほとんど生物はいないが、砂虫とよばれる、砂の中を水のように動く巨大な動物を見ることができる。砂虫はメランジの香りがする酸素をはき出すのだ。メランジと砂虫に関係があることは知られていたが、そのつながりについては誰も解明できたものはいなかった。
 さて、アトレイデ家の当主はレト・アトレイデ公。宮廷政治の結果、誰とも結婚することはなく、ベネ・ゲゼリットのレイディ・ジェシカを愛人としてひとり息子ポウルを跡取りと決めていた。ポウルは15歳。生まれながらに高い知能や精神的能力を持つだけでなく、公爵レトの側近、人間計算機で暗殺者として知られるスフィル・ハワトや、武術師範のダンカン・アイダホ、吟遊詩人かつ戦士のガーニイ・ハレック、さらには、魔女である母ジェシカにより、知力、精神力、戦士としての技芸を身につけていた。
 公爵レトも、ジェシカも、ポウルも、側近たちも、アラキスを得たことはハルコンネン家や宮廷政治での大いなる勝利であるとともに、アラキスに移ることはハルコンネン家の罠に入ることであり、大いなる危機であることを感じていた。
 アラキスに移り、ほどなく、公爵レトはハルコンネン家と皇帝シャッダムの陰謀によって殺される。そして、ポウルとジェシカはなんとかその危機を脱出し、砂漠の民フレーメンの中へと入りゆく。ところが、フレーメンたちは、ジェシカとポウルを待ち望んでいたのだ。ポウルはフレーメンの究極の夢である緑豊かで水に溢れたデューンの未来をもたらす救世主であると信じられていた。ポウルは、メランジによって新たな能力に目覚め、自らをムアドディブ(砂漠の鼠)と名乗る。それもまた、フレーメンの伝説通りであった。
 未来の一端を見通す能力を持ったポウルは、フレーメンという狂信的な力を得て、彼らの夢を実現し、同時に、ハルコンネン家、コリノ家への復讐と世界と人類を根底から変える道を歩き始めるのであった。
 壮大な未来史がここに幕を開ける。
「砂の惑星」「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」の主人公は、ポウルとその母ジェシカ、妹と子供たちの物語である。同時に、砂の惑星デューンの生態系の物語であり、宮廷政治、宗教の物語であり、それぞれの立場にいる者たちの大河ドラマである。SF的な要素は、未来、予知、地球ではない独自の生態系、メランジという薬物の効果に、砂虫や羽ばたき式飛行機のソプター、宇宙を折りたたんで航行するワープみたいな航法、反重力装置のサスペンサーなどであり、今日から見てすごく特異なわけではない。とくに、砂虫とソプターは、その後、宮崎駿によって、(そのままではないが)王蠱的なもの羽ばたき式飛行機としてビジュアル化され、違和感なくイメージが頭の中に成立している。今の方がより読みやすくなったと言えるだろう。もちろん、最初の「砂の惑星」が世に出たのは1965年だから、表現にはいろいろ難点がある。しかし、バロック的な未来であり、古くさい感じはない。むしろ、今だからこそ読みとれる部分も多い。
 すでに「古典」となって久しいが、SF受難の今日、日本では目に触れる機会が少ないのが残念でならない。シリーズの前史や続きも登場していることでもあり、一度全シリーズを再版してもらえないものだろうか。
(2009.08.01)