デューン砂丘の子供たち

デューン砂丘の子供たち
CHILDREN OF DUNE
フランク・ハーバート
1976
「デューン」初期3部作の第3作目である「砂丘の子供たち」。そのタイトル通り、ムアドディブのふたりの子どもが主人公となる。父レトの名をもらったレトと、双子の娘ガニア。物語は、前作から9年が過ぎた。ふたりの子どもたちは9歳となるが、生まれながらに過去の彼らの血統にいるすべての人たちの人生と記憶を持つベネ・ゲゼリットの言う「忌まわしき者」またはレトをしてクイサッツ・ハデラッハ、ガニマをして生まれながらの教母としていた。砂漠へ去り、死んだと思われるムアドディブに変わって、折衝として統治を行うのは、ムアドディブの妹であるエイリア。クローンとして生まれ変わるとともに、ある特殊なきっかけによって死までの記憶を取り戻したゴーラであり、メンタートであるダンカン・アイダホを夫とし、古き良きフレーメンの指導者であるスティルガーを側近としながらエイリアは統治者として振る舞っていた。
 しかし、エイリアは、魔女集団ベネ・ゲゼリットが恐れていたとおりの「忌まわしき者」となりつつあった。「忌まわしき者」それは、過去の記憶的存在であるものに支配された肉体のこと。過去の血統の記憶的存在を、その声を、叫びを、ささやきをコントロールし、自らを律することができなくなったもの。そんな「忌まわしき者」の統治をベネ・ゲゼリットは恐怖していた。ベネ・ゲゼリットだけではない。フレーメンだった者たちが、フレーメンのジハドにより信仰と服従を求められた既知宇宙の者たちが、アトレイデ家に恨みを抱き、その治世の転覆を願っていた。そして、追放された皇帝シャッダムの孫ファラドウンをしてコリノ家の復活を、ベネ・ゲゼリットの復興を、旧体制を取り戻す陰謀が進行していた。
 一方、エイリアもまた、自らの内なる声により子どもたちを使っての陰謀を企んでいた。
 スティルガーは、フレーメンの誇りとムアドディブへの誓約をもって、ダンカン・アイダホはアトレイデ家に対する忠誠をもって、すべての陰謀からふたりの子どもたちを守ろうとしていた。
 だが、誰も、レトとガニマを真に理解してはいなかった。彼らは、彼らを利用しよう、守ろう、殺そうとする人々とは違う、彼ら自身の計画を持っていた。それは、ムアドディブがなそうとしてできなかったことであり、人類の未来を賭したものであった。
 かくして、デューン「砂の惑星」「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」は、ポウル・ムアドディブ・アトレイデの父レト公爵の死にはじまり、息子レトの決断によって幕を下ろす。ハルコンネン男爵の陰謀によって幕を開け、ハルコンネンの陰をもって幕が下りる。
 3つの作品のうちで、ダンカン・アイダホの死と再生と再びの死が語られる。
 数多くの複線を残しながら、物語はここでひとつの終結を見た。
「砂丘の子供たち」三部作の最後は、昭和54年1月に10日違いで連続して刊行されている。1979年のことである。中学校2年生から3年生になるころのことであった。当時は、もう何のことやらである。あらすじを追っていたに過ぎないような気がする。最後の方は、何が起きているのかさっぱりである。買ったけど、「砂の惑星」のようなインパクトはなかった。ひとつ言えるとすれば、「あ、ムアドディブ、死んでいなかったんだ」ぐらいのものである。まだ、愛憎のなんたるかも知らない14歳の冬であった。
 その後、おそらく高校生の頃に1度読み直しているはずである。
 次に「デューン」に再開するのは、大学1年生の冬。「砂漠の神皇帝」が突如目の前に表れた時である。学生ぼけですっかり「デューン三部作」のストーリーを忘れていた私の前に、皇帝レトが姿を見せ、三部作でなじんでいた石森章太郎(当時ノは入っていない)イラストではないことに驚かされた。その話は、「神皇帝」にて。
(2009.08.02)

デューン 砂漠の救世主

デューン 砂漠の救世主
DUNE MESSIAH
フランク・ハーバート
1969
「デューン」シリーズの初期3部作第2作目である。前作を読んでいない人には申し訳ないが、前作の結末を最初に書くことになる。とはいえ、本シリーズは結末が分かっているからと言って魅力が損なわれるものではない。その点は、「伝記小説」に似たところがある。豊臣秀吉が天下を取り、やがて徳川家康が長い徳川時代を迎えることを知っていても、人は豊臣秀吉の物語を読む。
 もちろん、デューンは空想小説であり、すべての人が結論を知るわけではない。知らずにいる方がより楽しいだろう。そういう人は、ここから先を読まないで欲しい。
 まあ、想像はつくだろうが。
 前作より12年が過ぎた。ムアドディブは皇帝として惑星アラキスから既知宇宙を統治していた。その過酷な統治は、フレーメンを世界中に送り込み、暴力と信仰と、そして既知宇宙に欠かせない長寿薬である香料メランジの供給によって行われていた。ムアドディブはアトレイデ家の正義と公正を失ったのか? そして、ベネ・ゲゼリットから「忌まわしき者」と呼ばれれる妹のエイリアは何を考えているのか? ポウルを助けるために死んだはずのダンカン・アイダホのクローン(ゴーラ)が登場し、フレーメンのスティルガーは実態としての首相となる。変わりゆく役割、変わりゆく世界、変わりゆく人たち。陰謀の中の陰謀。ポウルは自らが見つめ、動かし始めた「未来」に縛られ、その細い道に揺らぎ続ける。未来の希望を、彼は誰にゆだねるのか…。
 前作「砂の惑星」で、主人公のポウル・アトレイデは、砂漠の民フレーメンの信仰と希望を自らが引き受けた。父の公爵レトを殺し、アトレイデ家を失墜させたハルコンネン家とコリノ家をフレーメンとともに打ち砕き、自らを皇帝の地位につけ、フレーメンの未来を約束した。
 皇帝という地位は、あらゆるものを引きつける。野望、欲望、策略、謀略、嫉妬、倦怠、妥協…。ポウルはすべてを知り、そして道だけをみつめた。人類が続くための唯一の道。しかし、それはポウルには苦痛であり、抱えるにはつらい道でもあった。
 大人になったポウル。大人になるというのは大変なことなのだなあ。
 予知がなくても、皇帝でなくても、大人になるというのは大変なことなのだ。
 生きていくことは大変なことなのだ。
 でも、そこには現在でしかあり得ない喜びがある。それが生きていくことだったりする。
 たとえ、めしいても、裏切られても、今には必ず喜びがある。
 それにしても、よくよく読むと、フランク・ハーバートが描くデューンの世界に登場する人たちはすごく変である。服装が奇抜、態度が変。どこかおどろおどろしさがつきまとう。前作では、ハルコンネン男爵という暴力に満ちた変態男色サディストが際立っていたから感じなかったのだが、本作ではそういう意味での「敵」がいないだけに、全員の変さ加減が気になってくる。一番態度や行動が普通なのは、ポウルの妻のチャニではなかろうか。ということは、チャニを基点として本作「砂漠の救世主」を読めばいいのかな。ポウルが救世主であるとしたら、ポウルの救世主はチャニだということだ。
 ポウルの喜びは、ひとえにチャニだったのだろう。
 そういう物語だと思えば、救いがある。
 そして、物語はいよいよ「砂丘の子供たち」へ続くことになる。
(2009.8.2)

デューン 砂の惑星

デューン 砂の惑星
DUNE
フランク・ハーバート
1965
 少年期に読んだ小説は、どうしても思い入れの強い作品になってしまう。主人公への感情移入だけではなく、そこに書かれる曖昧で、神秘的な言葉の数々、異世界の独特の環境、生物、人々の生き方…。私にとってデューンは少年期を代表する大河ドラマであった。中学生の終わり頃、初期3部作の「砂丘の子供たち」が翻訳され、シリーズの完結として本屋で並べられたときに、「デューン」と出会ったのである。まさに僥倖であった。
「砂の惑星」が書かれたのは、私が生まれた1965年。もはや44年も昔のことである。最初に読んだのが1978年頃である。以来現在まで何度か再読をしている。
 子どもの頃、とりわけ気に入ったのが例の「恐怖に対する祈り」というやつだ。「恐怖は心を殺すもの。恐怖は全面的な忘却をもたらす小さな死。ぼくは自分の恐怖を直視しよう。それがぼくの上にも中にも通過してゆくことを許してやろう。そして通りすぎてしまったあと、ぼくは内なる目をまわして、そいつの通った跡を見るんだ。恐怖が去ってしまえば、そこにはなにもない。ぼくだけが残っていることになるんだ」、である。第13版では26ページ目に登場する。その後も、訳文は違えど何度も何度も登場する名文である。恐がりの私が人生の柱としているひとつでもある。もちろん、できてはいないが。
 映画化やアメリカでのテレビドラマ化もされ、今でも時折ケーブルテレビなどで放映されているのだが、やはりここはひとつ作品にあたってほしい。第一部「砂の惑星」は、数年前に再販されているので入手可能ではないかと思う。
 話は…遠き遠き未来、人類は機械知性による長き支配をブレトリアン・ジハドによって脱却し、大王皇帝コリノ家のもと80代以上、1万標準年に渡って既知宇宙に広がっていた。宇宙協会が香料(スパイス)メランジと呼ばれる天然の薬物の力によって宇宙を折りたたみ宇宙の道筋を見据える航法士をかかえ、航法によって居住可能星系をつなぐ独占的な位置を占めていた。各星系は皇帝コリノ家と大公家、中小公家によって統治されていた。皇帝の力は宇宙協会と宇宙開発公社であるCHOAM、さらには、不思議な力を持つ「魔女」と呼ばれる修道士会ベネ・ゲゼリットなどの勢力とのバランスによって成り立っていた。
 古き大公家のひとつ、アトレイデ家は「正義」をもって知られていたが、やはり古きハルコンネン家とは世代を超えて深い対立と抗争を続けていた。アトレイデ家の拠点惑星は、水と緑に満ちたカラダン。農産物の豊かさで知られる穏やかな惑星である。人々はアトレイデ公爵を敬愛し、アトレイデ家もカラダンの人々に尽くしていた。一方のハルコンネン家の拠点惑星はジェディ・プライム。鉱山と鯨の毛皮で知られる暴力と恐怖統治の惑星である。ハルコンネン男爵は、恐怖を持って人々を統治することで知られていた。
 物語は、80年に渡ってハルコンネン家が皇帝より統治をまかされていた惑星アラキスを追放され、アトレイデ家が惑星カラダンから移るところから始まる。惑星アラキス、原住民フレーメンがデューンと呼ぶ、砂の惑星。そこでは1杯の水が何よりも貴重な乾燥した星。しかし、アラキスは、宇宙でもっとも価値の高い惑星でもあった。長寿薬であり、宇宙協会やベネ・ゲゼリットの意識拡張に欠かせない香料メランジが採取できる唯一の星であるからだ。化学合成できない香料メランジは、砂の惑星アラキスのみでしか産出しない。アラキスには、ほとんど生物はいないが、砂虫とよばれる、砂の中を水のように動く巨大な動物を見ることができる。砂虫はメランジの香りがする酸素をはき出すのだ。メランジと砂虫に関係があることは知られていたが、そのつながりについては誰も解明できたものはいなかった。
 さて、アトレイデ家の当主はレト・アトレイデ公。宮廷政治の結果、誰とも結婚することはなく、ベネ・ゲゼリットのレイディ・ジェシカを愛人としてひとり息子ポウルを跡取りと決めていた。ポウルは15歳。生まれながらに高い知能や精神的能力を持つだけでなく、公爵レトの側近、人間計算機で暗殺者として知られるスフィル・ハワトや、武術師範のダンカン・アイダホ、吟遊詩人かつ戦士のガーニイ・ハレック、さらには、魔女である母ジェシカにより、知力、精神力、戦士としての技芸を身につけていた。
 公爵レトも、ジェシカも、ポウルも、側近たちも、アラキスを得たことはハルコンネン家や宮廷政治での大いなる勝利であるとともに、アラキスに移ることはハルコンネン家の罠に入ることであり、大いなる危機であることを感じていた。
 アラキスに移り、ほどなく、公爵レトはハルコンネン家と皇帝シャッダムの陰謀によって殺される。そして、ポウルとジェシカはなんとかその危機を脱出し、砂漠の民フレーメンの中へと入りゆく。ところが、フレーメンたちは、ジェシカとポウルを待ち望んでいたのだ。ポウルはフレーメンの究極の夢である緑豊かで水に溢れたデューンの未来をもたらす救世主であると信じられていた。ポウルは、メランジによって新たな能力に目覚め、自らをムアドディブ(砂漠の鼠)と名乗る。それもまた、フレーメンの伝説通りであった。
 未来の一端を見通す能力を持ったポウルは、フレーメンという狂信的な力を得て、彼らの夢を実現し、同時に、ハルコンネン家、コリノ家への復讐と世界と人類を根底から変える道を歩き始めるのであった。
 壮大な未来史がここに幕を開ける。
「砂の惑星」「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」の主人公は、ポウルとその母ジェシカ、妹と子供たちの物語である。同時に、砂の惑星デューンの生態系の物語であり、宮廷政治、宗教の物語であり、それぞれの立場にいる者たちの大河ドラマである。SF的な要素は、未来、予知、地球ではない独自の生態系、メランジという薬物の効果に、砂虫や羽ばたき式飛行機のソプター、宇宙を折りたたんで航行するワープみたいな航法、反重力装置のサスペンサーなどであり、今日から見てすごく特異なわけではない。とくに、砂虫とソプターは、その後、宮崎駿によって、(そのままではないが)王蠱的なもの羽ばたき式飛行機としてビジュアル化され、違和感なくイメージが頭の中に成立している。今の方がより読みやすくなったと言えるだろう。もちろん、最初の「砂の惑星」が世に出たのは1965年だから、表現にはいろいろ難点がある。しかし、バロック的な未来であり、古くさい感じはない。むしろ、今だからこそ読みとれる部分も多い。
 すでに「古典」となって久しいが、SF受難の今日、日本では目に触れる機会が少ないのが残念でならない。シリーズの前史や続きも登場していることでもあり、一度全シリーズを再版してもらえないものだろうか。
(2009.08.01)

(再)デューンへの道 公家コリノ

デューンへの道 公家コリノ
DUNE HOUSE CORRINO
ブライアン・ハーバート、ケヴィン・J・アンダースン
2001
本書「デューンへの道 公家コリノ」の紹介は2004年12月8日に終えている。10月に訳者の矢野徹氏が亡くなり、ちょうど読みそびれていた本書を手にとったので先行して書いたのである。5年ぶりに読み直して、やはり私のざる頭に自分で感動する。お得である。軽く忘れることができるというのはいいことだ。「ああ、そうそう、そんな感じの話だったよね」ぐらいは覚えているのだが、細かいストーリーや展開などはすっかり頭から抜け落ちている。だから、こういうメモを書くようになったのだが。
さて、デューンへの道第1部「公家アトレイデ」と第2部「公家ハルコンネン」の間には12年の歳月があるが、「公家ハルコンネン」では、それなりの時間が流れるが、第3部「公家コリノ」は「公家ハルコンネン」が終わった直後にはじまり、ほぼ10カ月で幕を下ろす。それは、ジェシカがレトの子どもを身ごもり、ベネ・ゲゼリットの指令に反して娘ではなく息子を出産するまでの10カ月である。「砂の惑星」の主人公であるポウルが生まれるまでに、レトはロンバールを手助けして惑星イックスを解放し、皇帝シャッダムは恐怖政治を敷き、ハルコンネン男爵はあやうくアラキスを失いかけ、チャニが生まれ、イルーランが生まれたばかりのポウルとすれ違うのである。そして、レトは名声を上げ、シャッダムは正義の人レトを疎むようになる。そういう物語である。
よし、「砂の惑星」を読むぞ。ええい、楽しみだなあ。前回「デューンへの道」を読んだ後に、「デューン」の再読はしていない。今回がはじめての再読になる。もちろん、「デューン」シリーズそのものは、主に前半の作品群を中心に何度となく読み返している。前回は、2001年の終わりか2002年のはじめ頃に通して読んでいるのだが、まだ「SF魂」でメモ書きを始めていなかった頃である。ということで、いよいろ「砂の惑星」、人生の転機に読むのにすぐれた作品なのだ。
(2009.07.01)

デューンへの道公家ハルコンネン

デューンへの道公家ハルコンネン
DUNE HOUSE HARKONNEN
ブライアン・ハーバート、ケヴィン・J・アンダースン
2000
12年振りに通勤している。前の会社を辞めた後、12年ほど、フリーランスの仕事を中心としていたのだが、ここに来て通勤するはめになってしまった。片道2時間、往復4時間。過去1年、好きな読書を中断して籠もって仕事に追われていたことからすると、この通勤時間は読書タイムとしてのご褒美かもしれない。どうにも移動時間というのは無駄であるのだが、読書タイムだと思えばよい。ということで、いろいろ読み始めたのだが、久しぶりにデューンシリーズにも手を染めてみることにした。「デューンへの道」から順番に読んでいる。第2弾は「公家ハルコンネン」の3冊。
 物語の中では、第1弾「公家アトレイデ」から12年が過ぎた。前作で生まれたばかりのジェシカは12歳になり、ベネ・ゲゼリットで訓練中。惑星学者パードット・カインズと砂漠の民フレーメンとの間に生まれたリエト・カインズも12歳になり、アラキスで帝国の惑星学者として、そして、ハルコンネンと戦うフレーメンとして訓練中。皇帝シャッダムのところでは、イルーラン姫をはじめ次々と女の子ばかりが生まれていた。アトレイデ家に迎えられたダンカン・アイダホは21歳になり、剣術教師ソードマスターの訓練惑星への入学が認められた。そして、われらがレト・アトレイデ侯爵は26歳になり、惑星カラダンに賓客として滞在する失墜した公家ヴェルニウスの息子ロンバールとともに過ごし、ヴェルニウスの娘カイレアへの恋慕だけは収まる気配が見えなかった。しかし、侯爵として、結婚すべきは力のある公家。かといって、カイレアほどの女性を妾妃とするのも悩ましいのである。
 一方、ウラディミール・ハルコンネン男爵。アトレイデ家の若き侯爵レトを失墜させるたくらみが失敗に終わる中、スパイスをめぐり皇帝の監視も厳しくなっていく。皇帝らの目をそらすために、ふたたびアトレイデ家をおとしめる作戦をスタートさせる。
 時が経ち、悩んだ末に、ついにカイレアと結ばれたレト。それは、不幸の始まりであった。それはできないと知っていながらも正妻を望むカイレアと、常に「公正」であろうとするレトの不仲は深まり、その溝は、ふたりの間に生まれた息子ヴィクターの存在でも埋めることはできなかった。やがて、ベネ・ゲゼリットは、ジェシカをレトの元に送り込む。陰謀の中の陰謀。レトはジェシカを拒否しながらも、カイレアとの間が修復する気配はない。やがてカイレアの心の闇は広がっていくのであった…。
 ということで、「公家ハルコンネン」では、このほか、将来大きな役割を担う医師のユエ、戦う吟遊詩人ガーニー・ハレックも初登場。ほぼ、「砂の惑星」の主役級は出そろった。あとは、主人公ポウルの誕生を待つばかりなのだが、というところまでが本書。独自の設定で語られる惑星イックスと失われた公家ヴェルニウス家の復讐劇を中心に、帝国とベネ・ゲゼリット、スペース・ギルド、通商協会といった帝国政治、アラキスをめぐるフレーメンとハルコンネンの戦いなどが描かれていく。1.5日で1冊。ちょうど1週間で3冊ぐらい。ほどよいスピードで読めるところもまたよし。
(2009.07.01)

デューンへの道公家アトレイデ

デューンへの道公家アトレイデ
DUNE HOUSE ATREIDES
ブライアン・ハーバート、ケヴィン・J・アンダースン
1999
 フランク・ハーバートによる「デューン 砂の惑星」は、SF史に残る名作である。映画化やテレビドラマ化もされている。この「デューン」シリーズは、初期の3作品のあと、後期の3作品が書かれ、さらにもう少し続くはずであったが、作者のフランク・ハーバートが亡くなったことで、後期の作品はやや物足りないところで終わってしまったようである。ようであるというのは、最後の作品でシリーズ第6作「デューン 砂漠の大聖堂」を読んでいないからであり、読んでもいないのに「物足りない」と書くのは申し訳ないのだが、世の評価を見てもそう違いはあるまい。だからといって「砂漠の大聖堂」を読む気がないわけではなく、いつ、どうやって手に入れようかといまだ迷っているのである。そうこうするうちに、デューンの続編が出されたという。作者は息子のブライアン・ハーバートと、ケヴィン・J・アンダースン。聞けば、父親のメモやプロットなども見つかっており続編を書くことは可能だという。そこで、彼らが続編に取りかかる前の準備として手がけたのが、「デューンへの道」シリーズである。「デューン」では、既知宇宙を統べる帝国にとって欠かせない天然物質(香料)メランジを産出する砂の惑星アラキスの支配者が変わるところから物語がはじまる。暴力と恐怖政治で知られるハルコンネン家が失墜し、海の惑星カラダンを治めていたアトレイデ家が、変わってアラキスを統べることとなった。アトレイデ家の当主は侯爵レト。彼は息子のポウル、母で妾妃のジェシカ、側近らとともに砂の惑星アラキスに到着する。しかし、そこにはアトレイデ家の何世代にも及ぶ宿敵ハルコンネン家の当主、男爵ウラディミールの罠がしかけれらていた。皇帝、アトレイデ家、ハルコンネン家を中心に、皇帝に匹敵する権力や経済力を持つ女性宗教団体、通商団体、さらには、多くの公家らによる議会などの複雑な権力闘争が繰り広げられる。その一方、砂の惑星アラキスでは、原住民であるフレーメンが、そんな「政権交代」の陰で彼らの希望が近づいてくるのを感じていた。フレーメンには夢があった。砂の惑星が緑に覆われ、水をたたえる美しい星に変わること。
 そもそも、なぜ香料メランジはアラキスにしか産出しないのか? 海がなく露出した水が極地方を除いてほとんどない惑星で、どうして酸素があり、人が住めるのか? そして、砂の中に住むサンドウォームと呼ばれる巨大な生きものは、何を食べ、どうやって生きているのか?
 砂の惑星という特異な環境と、その生態系を描き出しながら、世代を超えた人間ドラマ、人類史を描こうとしたフランク・ハーバード。「砂の惑星」は今も色あせることのない作品である。
 さて、その前史が、本書「デューンへの道」であり、その三部作のはじめが「公家アトレイデ」である。アトレイデ家。「デューン」では厳格な正義の人として知られた侯爵レト。舞台は、まず惑星カラダンではじまる。レトはまだ10代の青年。彼は、父である侯爵ポウルス公より、惑星イックスに留学し、科学技術を中心としたヴェルニウス家と、その経済を学んでくるよう命ぜられる。ヴェルニウス家は、アトレイデ家と懇意であり、当主の息子ロンバールはレトと同年代、そして、妹のカイレアは将来の結婚相手としても考えられる相手であった。
 しかし、レトが留学中に、惑星イックスは皇帝も関わる陰謀によって侵略され、ヴェルニウス家は帝国から反逆者としての汚名を着せられる。レトは、ロンバールとカイレアをともなって惑星カラダンに戻るが、そこで、父ポウルス公を失ってしまう。
 若くしてアトレイデ家を継ぐことになったレト。しかし、レトの前に、ハルコンネン家の陰謀が立ちふさがる。
「スター・ウォーズ」と一緒にするのはいかがなものかと思うけれど、スター・ウォーズを見るならば、最初にエピソード4~6を見て、それから1~3を見た方が楽しい。
 それと同じで、やはり最初に「砂の惑星」を読む方が楽しい。まずは、「砂の惑星」「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」あたりまで読んでおいてから、この三部作を読むと、「なるほどねえ」という気持ちになってすっきり楽しく読める。なぜなら、世界観は、フランク・ハーバードが敷いているからである。もちろん、「デューンの道」でも、アラキスの不思議な生態系などについて丁寧に書き記されているけれど、どうしても「ねえ、みんな読んでいるよね。ファンだから、デューンへの道にも手を出してくれたんだよね」感がつきまとってしまうのである。
 だからといっておもしろくない作品ではない。少なくとも私はとても楽しく読んでいる。読みやすさの点では、ケヴィン・J・アンダースンの力量が発揮されており、とてもスムースである。その分、ミステリアスなところや、哲学的なところが欠けてしまうのはいたしかたない。エンターテイメントとして読めばいいのである。
 さて、「公家アトレイデ」では、父ポウルスが死に、レトが若き侯爵として危機を乗り越え、帝国の評議会で名声を成し遂げるまでが描かれる。同時に、皇帝エルルッドが死に、息子のシャッダムが皇帝になり、側近だったフェンリングがアラキスに流されるまでが描かれる。さらに、アラキスを統べるウラディミール・ハルコンネン男爵が精悍な肉体美を誇る男として登場する。彼が、「砂の惑星」に登場するまでにどうして肥満し、病に悩むようになるのかが描かれる。そして、少年ダンカン・アイダホがアトレイデ家に忠誠を尽くすまでの旅が描かれ、惑星学者パードット・カインズがアラキスに魅入られ、フレーメンがカインズに魅入られるまでが描かれる。物語ははじまったばかりである。
(2009.07.01)

ユダヤ警官同盟

ユダヤ警官同盟
THE YIDDISH POLICEMEN’S UNION
マイケル・シェイボン
2007
 ミステリ作品である。ハードボイルド作品かもしれない。しかし、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞を受賞しているから、アメリカではSFとして高く評価されている。
 舞台は、2007年、アラスカ・シトカ特別区である。1940年、アラスカ移民法で、ユダヤ人の移住がはじまり、1948年には200万人にまでふくれあがっていた。1948年に建国3カ月のイスラエルが崩壊し、シトカはユダヤ人最大の居留地となった。アメリカは暫定的に1998年1月1日までの60年間を連邦特別区として認めた。そして、人口320万人が暮らす特別区ができた。当然のように先住民族であるトリンギット族との間の対立も起きる。世界の中で微妙な立場に置かれ続けたシトカ特別区は、あと数カ月後にはアラスカ州に返還される。ユダヤ人にとっておかしな時代であった。
 主人公は、マイヤー・ランツマン刑事。シトカ特別区警察殺人課所属。安ホテル暮らしで、毎日アルコールに溺れる、不眠で、抜群の記憶力を持つ男。同僚の警官との離婚歴あり。前年ただひとりの肉親である妹を事故で亡くす。
 事件はランツマンが暮らすホテルで起きる。ひとりの青年がプロの手によって暗殺される。なぜ、彼は殺されたのか? 彼は一体何物なのか? ただの殺人事件の捜査のはずだった。しかし、事件は思わぬ方向に向かう。
 殺人課には、別れた妻が上司として帰ってきて、連邦返還に向けての捜査の縮小といくつかの成果を求められる。ただの男の殺人事件は放っておけという訳である。ランツマンは、自分の近くで殺された男のことを忘れられない。元妻で上司の命令を無視して勝手に捜査をはじめる。
 そして、彼は、返還間際のシトカをめぐる様々な陰謀に巻き込まれてしまう。
 自分の回りで何が起きているのか分からないままに、右往左往するランツマン。それこそがハードボイルドの主人公である。撃たれ、だまされ、欺かれ、監禁され、それでも、ランツマンはあきらめない。もはやこだわる理由などない。ただ、シトカの警官として、彼はたったひとりでも戦う。何か分からないものに向かって。
 架空の舞台をもとに、もうひとつのユダヤ人の世界を描き、大離散を民族として心に持ち続けるユダヤ人の姿をステレオタイプではなく描いた作品である。歴史改変SFとして、ハードボイルド作品として、それぞれに良質の作品である。巻き帯の釣り書きではBookrist誌が村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を引き合いに出していることを紹介している。
 なるほど。
「ここではない」という違和感は、20世紀の終わりから21世紀のはじめの私達の多くが共有している感覚ではないだろうか。とりわけ近年の日本に暮らす人達においては焦燥にも近い違和感を漠然と持つ人が多いのではなかろうか。何かが違う、どこか間違っている、ここではない、こんな風ではない、どこが違うとは言えないが、生命体としての人間と現実のありようのずれ、ここに属していながらも属しているとは思えない感覚、関係性の喪失なのかもしれない。なんだろう、この感覚は。世界観の根底にある共通するもの、イデア、ユングの言う集合的無意識、それらが崩壊していくような感覚。神話や物語の崩壊。
 一方で、「ハリー・ポッター」や「指輪物語」などのファンタジーが、原型としての神話や物語の代りとして受け入れられているが、同時にそれらは商品として消費され、償却されていく。読みながら、あるいは映画を見ながら、それらが失われていく。
 どこにその違和感の根源があるのだろうか?
 違和感を持つことそのものが根源的な問題なのだろうか?
 そんなことを読み終わった後に考えさせてくれる。
 その後には希望がある。希望とは再生である。再構築である。
 読者を崩壊したままにはしないこと。それが良質の物語である。
 本書「ユダヤ人警官同盟」は、良質の物語である。
 SFファンにも、ミステリファンにも、ハードボイルドファンにも、あるいは、現代文学を愛好する人にもお勧めしたい、エンターテイメント文学作品である。
(2009.6.20)

スパイダー・スター

スパイダー・スター
SPIDER
マイク・ブラザートン
2008
 西暦2433年にはじまり、西暦2494年に終わる物語である。今から4世紀後、舞台はポルックス星系惑星アルゴにはじまる。人類は、地球から遠く別の星系に移住を開始していた。ポルックス星系惑星アルゴには、すでに滅んでしまったと思われる知的生命体文明の遺跡があった。1千万年前から高度な科学技術を持ち、宇宙時代を築いていたアルゴノート文明は25世紀の人類にとっても新たな科学技術を知る遺跡として注目されていた。高度な科学技術には「パンドラの箱」が隠されていることがある。いくら慎重にしていても、いくつもの罠があり、気がつかないうちに、地雷を踏んでいることになる。アルゴに移住した人類は、その地雷を踏んでしまった。突然アルゴの太陽であるポルックスが惑星アルゴの衛星に向けて光のパルスを放ち、攻撃をはじめたのである。
 古代異星種族の兵器になすすべもないアルゴの地球人類。この武器の秘密を解明し、惑星アルゴの人類破滅を防ぐため、アルゴノート文明の記録にあるスパイダー・スターを探し、そこにいると言われている超古代からの「存在」にアクセスする必要があるのだ。
 かつて一度だけ、生きた人類外の知的生命体と接触したことのある男を中心に、新たな探検隊が組まれ、伝説のスパイダー・スターを目指す。家族とアルゴの人類を救うために!
 キーワードは「暗黒物質」である。暗黒物質からエネルギーを取り出すのだ。暗黒物質とは何か、が、ひとつの鍵となる。
 一方で、ストーリーはあくまで人間中心。ちょっと変わっているのは、登場人物の「ひとりごと」が多いのである。ぶつぶつ言っているわけではない。作者のブラザートンは、主人公だけでなく主要登場人物全員について、頭の中で考えていることを細かく書き記す。主に、行動の動機につながるものだが、「私はこう考える、故に、こう行動する」「こういう行動をした結果、私はこのように次の行動を考える」をしつこく書いているのだ。ストーリーは冒険あり、宇宙戦争あり、肉弾戦戦闘あり、未知との遭遇あり、ウラシマ効果による別離ありと波瀾万丈なのだが、そういう感じを受けないのは、作者が登場人物の内実にこだわるからだろう。ちなみに、作者は現役の天文学者で専門はクエーサーと活動銀河核の観測研究だそうである。その知識と最新の宇宙論が十分に反映されている。科学者で、専門の知識を活かしてSFを書いているといえば、ロバート・L・フォワードが思い浮かぶ。やはり、登場人物の表現にはやや難があったが、科学的な表現では楽しく読むことができる。同じような感じだ。
「暗黒物質」「暗黒エネルギー」については、今ホットな話題がある。もしかしたら「暗黒物質」や「暗黒エネルギー」を宇宙論に導入しなくてもいいのではないか?という理論である(日経サイエンス09年7月「暗黒エネルギーは幻か?」)。もちろん、ひとつの説であり、どっちがどうだという考証ができるような専門家ではないのだが、外野にいる科学の話題ファンとしては、楽しい限りである。
 そういう点から、本書「スパイダー・スター」は楽しい。
(2009.06.15)

犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎

犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎
TO SAY NOTHING OF THE DOG
コニー・ウィリス
1998
「神は細部に宿る」という言葉を知ったのはいつのことだっただろう。「雑事に手抜きをしてはいい仕事はできない」というのは、高校1年生のときに先輩に聞かされた言葉である。大局で仕事をしたかったら、小さな雑事をおろそかにしてはいけないし、人任せにしてばかりではいけないということだ。だからかも知れないが、いまだに私は雪かきのような仕事をしている。ついつい小さな雑事に目が行ってしまい、そっちを片付けないと大局に行けない癖がついてしまったようである。そういうときの言い訳が「神は細部に宿る」なのである。本来の意味とは違っているのだけれどね。そうそう「雪かき」というのは、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」で主人公が自分の仕事について語る言葉である。なかなかによい。そういえば、村上春樹の「1Q84」という作品が発売されて、ものすごく売れているらしい。読もうと思って本屋さんに行ったけれど、完売していた。すごいものである。そう思いながらうふと目の前の本棚に目をやると「89」という作品が目に入った。こちらは橋本治のエッセイ。結構分厚い本である。1980年代後半というのはいろんなことが起きた頃であるが、自分がちょうど大学生であったり、社会人になったりと変化の大きい時期だったので、よけいにそう思うのかもしれない。そういえば「バブルへGO!」というタイムスリップものの映画があった。21世紀冒頭に、バブルの崩壊を止めようと、偶然80年代に発明されたタイムマシンを使ってバブル全盛期に戻るという映画である。まあ、あほな映画なんだが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のパロディ的な要素もあるという。でも私は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見ていないので、どこがパロディだか分からない。ということで、「犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎」の話である。2057年のイギリスの大学では、第二次世界大戦で消失したコヴェントリー大聖堂を復元させる計画でてんやわんやの状態であった。主人公のネッド・ヘンリー君は行方不明の「主教の鳥株」のゆくえを求めて、過去を何度も飛ばされる。このタイムトラベルは、過去から空気や微生物程度のもの以外持ち帰れないようになっているだけでなく、時空が崩壊しないようなしくみが科学者と時空そのものの仕組みによってできているのだけれど、なぜだか歴史が改変され時空が崩壊しかねないできごとが起きてしまう。その重要なポイントが1888年。ヴィクトリア朝のオックスフォード近郊である。時代差ぼけのネッド・ヘンリー君、ぼんやりした状態のままに、世界を崩壊から守るため何とかしたいと必死であっちこっちをさまようはめに。木を見て森を見ず、森を見て木を見ず…。どうして犬は勘定に入らないのか、犬について語ることは何もないのだけれど、犬と猫も大活躍。笑いあり、涙あり、歴史あり、パロディあり。パロディって元ネタを知らないと楽しさ半減なのだ。だから、どうして犬は勘定に入らないのかが分からなかったりするけれど、そういう難しいところは読み飛ばしても大丈夫。それなりの楽しみ方はできるから。後半になるにつれ「推理小説」的要素も出てきて、謎は最後に解かれるのだけれど、犯人はおまえだ!というあたりは、あまり期待できないのである。大団円になることは請け合い。でも、読み飛ばすにしても、目は通してね。「神は細部に宿る」のだから。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞作品
(2009.06.05)

レインボーズ・エンド

レインボーズ・エンド
RAINBOWS END
ヴァーナー・ヴィンジ
2006
「電脳コイル」が放映されたのは2007年である。ちょっと懐かしい感じの町で小学校に通う少女を主人公にした、この作品では、メガネというウェアラブルコンピュータを身につけることで、現実の空間と仮想空間を重ね合わせ、現実と仮想空間を自由に切り替えながら生活し、学校に通い、遊ぶことができた。「電脳コイル」では、この仮想空間のバージョンの違いやデータのほころびから新たな「都市伝説」が生まれ、それが物語の柱となっていった。ウェラブルコンピュータと現実空間の仮想化(マッピング)による新しい世界について分かりやすく描いた点で、この作品はきわめて象徴的で衝撃的な作品である。もちろん、それ以前にも「攻殻機動隊」で近未来の、現実と仮想空間の入り乱れた姿を描いているが、電脳コイルには日常感が存在していたのである。
 さて、本作「レインボーズ・エンド」は2006年に発表された作品で、舞台は21世紀前半。人々は、コンタクトレンズとシャツでできたウェラブルコンピュータを身につけ、「電脳コイル」をしのぐ現実感で現実空間が仮想化された世界に生きるときの人の変化を活写する。
 さすが、ヴァーナー・ヴィンジである。
「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」で遠未来の世界を描いたヴィンジが、1981年に発表したのが「マイクロチップの魔術師」。インターネットでのヴァーチャルリアリティーについて、インターネット創生期の頃に書かれた作品であり、大きな衝撃を与えている。「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」では、特異点を超えた知能の存在が描かれている。人工知能がある時点で人間の知能を上回り、それがさらに知能を上回る存在を生み出し、加速度的に知能が発達、成長し、その結果として、人類(や、それらを生み出した種属)は、終焉、大変動、本質的変化を受けることになるというものである。
 本書「レインボーズ・エンド」では、特異点的な存在は出てこない(ようである)。人々は、ウェラブルコンピュータを身につけ、リアルとバーチャルを自由に切り替えながら生活や仕事をしていた。時に場所は意味を持ち、時に場所は意味を持たない。距離も、時間も、立場も、時には制約を失い、時には制約にしばられる。すべてのものがデータ化され、マッピングされようとしている時代のはじまり。
 それは、特異点につながる自然発生的なネットの中の人工知能の誕生を迎える前夜のような世界。
 それでも、戦争があり、貧困があり、苦痛がある。幸せの数と同等に。
 子どもたちは新たな遊びを覚え、開発し、そして、罠にはまる。
 大人たちは新しいおもちゃに興奮し、支配を考え、失敗し、破綻する。
 人間がすることは変わらない。たぶん。
 世界は拡張され、人の認識も拡張されるが、私達は食べ、飲み、眠らなければならない。そして、誰かとふれあい、認知され、存在を許容されなければならない。
 そうしたい。
 おそらく、本書「レインボーズ・エンド」は、2006年の「マイクロチップの魔術師」なのだろう。だから、あと20年ほどして読むと、なるほどねえ、とか、あはは、とか思えるのだろうと思う。ちょっとリアルすぎて困ってしまう。少し未来を見たいという人にはお勧めしたい作品である。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞作品
(2009.06.01)