(再)デューンへの道 公家コリノ

デューンへの道 公家コリノ
DUNE HOUSE CORRINO
ブライアン・ハーバート、ケヴィン・J・アンダースン
2001
本書「デューンへの道 公家コリノ」の紹介は2004年12月8日に終えている。10月に訳者の矢野徹氏が亡くなり、ちょうど読みそびれていた本書を手にとったので先行して書いたのである。5年ぶりに読み直して、やはり私のざる頭に自分で感動する。お得である。軽く忘れることができるというのはいいことだ。「ああ、そうそう、そんな感じの話だったよね」ぐらいは覚えているのだが、細かいストーリーや展開などはすっかり頭から抜け落ちている。だから、こういうメモを書くようになったのだが。
さて、デューンへの道第1部「公家アトレイデ」と第2部「公家ハルコンネン」の間には12年の歳月があるが、「公家ハルコンネン」では、それなりの時間が流れるが、第3部「公家コリノ」は「公家ハルコンネン」が終わった直後にはじまり、ほぼ10カ月で幕を下ろす。それは、ジェシカがレトの子どもを身ごもり、ベネ・ゲゼリットの指令に反して娘ではなく息子を出産するまでの10カ月である。「砂の惑星」の主人公であるポウルが生まれるまでに、レトはロンバールを手助けして惑星イックスを解放し、皇帝シャッダムは恐怖政治を敷き、ハルコンネン男爵はあやうくアラキスを失いかけ、チャニが生まれ、イルーランが生まれたばかりのポウルとすれ違うのである。そして、レトは名声を上げ、シャッダムは正義の人レトを疎むようになる。そういう物語である。
よし、「砂の惑星」を読むぞ。ええい、楽しみだなあ。前回「デューンへの道」を読んだ後に、「デューン」の再読はしていない。今回がはじめての再読になる。もちろん、「デューン」シリーズそのものは、主に前半の作品群を中心に何度となく読み返している。前回は、2001年の終わりか2002年のはじめ頃に通して読んでいるのだが、まだ「SF魂」でメモ書きを始めていなかった頃である。ということで、いよいろ「砂の惑星」、人生の転機に読むのにすぐれた作品なのだ。
(2009.07.01)

デューンへの道公家ハルコンネン

デューンへの道公家ハルコンネン
DUNE HOUSE HARKONNEN
ブライアン・ハーバート、ケヴィン・J・アンダースン
2000
12年振りに通勤している。前の会社を辞めた後、12年ほど、フリーランスの仕事を中心としていたのだが、ここに来て通勤するはめになってしまった。片道2時間、往復4時間。過去1年、好きな読書を中断して籠もって仕事に追われていたことからすると、この通勤時間は読書タイムとしてのご褒美かもしれない。どうにも移動時間というのは無駄であるのだが、読書タイムだと思えばよい。ということで、いろいろ読み始めたのだが、久しぶりにデューンシリーズにも手を染めてみることにした。「デューンへの道」から順番に読んでいる。第2弾は「公家ハルコンネン」の3冊。
 物語の中では、第1弾「公家アトレイデ」から12年が過ぎた。前作で生まれたばかりのジェシカは12歳になり、ベネ・ゲゼリットで訓練中。惑星学者パードット・カインズと砂漠の民フレーメンとの間に生まれたリエト・カインズも12歳になり、アラキスで帝国の惑星学者として、そして、ハルコンネンと戦うフレーメンとして訓練中。皇帝シャッダムのところでは、イルーラン姫をはじめ次々と女の子ばかりが生まれていた。アトレイデ家に迎えられたダンカン・アイダホは21歳になり、剣術教師ソードマスターの訓練惑星への入学が認められた。そして、われらがレト・アトレイデ侯爵は26歳になり、惑星カラダンに賓客として滞在する失墜した公家ヴェルニウスの息子ロンバールとともに過ごし、ヴェルニウスの娘カイレアへの恋慕だけは収まる気配が見えなかった。しかし、侯爵として、結婚すべきは力のある公家。かといって、カイレアほどの女性を妾妃とするのも悩ましいのである。
 一方、ウラディミール・ハルコンネン男爵。アトレイデ家の若き侯爵レトを失墜させるたくらみが失敗に終わる中、スパイスをめぐり皇帝の監視も厳しくなっていく。皇帝らの目をそらすために、ふたたびアトレイデ家をおとしめる作戦をスタートさせる。
 時が経ち、悩んだ末に、ついにカイレアと結ばれたレト。それは、不幸の始まりであった。それはできないと知っていながらも正妻を望むカイレアと、常に「公正」であろうとするレトの不仲は深まり、その溝は、ふたりの間に生まれた息子ヴィクターの存在でも埋めることはできなかった。やがて、ベネ・ゲゼリットは、ジェシカをレトの元に送り込む。陰謀の中の陰謀。レトはジェシカを拒否しながらも、カイレアとの間が修復する気配はない。やがてカイレアの心の闇は広がっていくのであった…。
 ということで、「公家ハルコンネン」では、このほか、将来大きな役割を担う医師のユエ、戦う吟遊詩人ガーニー・ハレックも初登場。ほぼ、「砂の惑星」の主役級は出そろった。あとは、主人公ポウルの誕生を待つばかりなのだが、というところまでが本書。独自の設定で語られる惑星イックスと失われた公家ヴェルニウス家の復讐劇を中心に、帝国とベネ・ゲゼリット、スペース・ギルド、通商協会といった帝国政治、アラキスをめぐるフレーメンとハルコンネンの戦いなどが描かれていく。1.5日で1冊。ちょうど1週間で3冊ぐらい。ほどよいスピードで読めるところもまたよし。
(2009.07.01)

デューンへの道公家アトレイデ

デューンへの道公家アトレイデ
DUNE HOUSE ATREIDES
ブライアン・ハーバート、ケヴィン・J・アンダースン
1999
 フランク・ハーバートによる「デューン 砂の惑星」は、SF史に残る名作である。映画化やテレビドラマ化もされている。この「デューン」シリーズは、初期の3作品のあと、後期の3作品が書かれ、さらにもう少し続くはずであったが、作者のフランク・ハーバートが亡くなったことで、後期の作品はやや物足りないところで終わってしまったようである。ようであるというのは、最後の作品でシリーズ第6作「デューン 砂漠の大聖堂」を読んでいないからであり、読んでもいないのに「物足りない」と書くのは申し訳ないのだが、世の評価を見てもそう違いはあるまい。だからといって「砂漠の大聖堂」を読む気がないわけではなく、いつ、どうやって手に入れようかといまだ迷っているのである。そうこうするうちに、デューンの続編が出されたという。作者は息子のブライアン・ハーバートと、ケヴィン・J・アンダースン。聞けば、父親のメモやプロットなども見つかっており続編を書くことは可能だという。そこで、彼らが続編に取りかかる前の準備として手がけたのが、「デューンへの道」シリーズである。「デューン」では、既知宇宙を統べる帝国にとって欠かせない天然物質(香料)メランジを産出する砂の惑星アラキスの支配者が変わるところから物語がはじまる。暴力と恐怖政治で知られるハルコンネン家が失墜し、海の惑星カラダンを治めていたアトレイデ家が、変わってアラキスを統べることとなった。アトレイデ家の当主は侯爵レト。彼は息子のポウル、母で妾妃のジェシカ、側近らとともに砂の惑星アラキスに到着する。しかし、そこにはアトレイデ家の何世代にも及ぶ宿敵ハルコンネン家の当主、男爵ウラディミールの罠がしかけれらていた。皇帝、アトレイデ家、ハルコンネン家を中心に、皇帝に匹敵する権力や経済力を持つ女性宗教団体、通商団体、さらには、多くの公家らによる議会などの複雑な権力闘争が繰り広げられる。その一方、砂の惑星アラキスでは、原住民であるフレーメンが、そんな「政権交代」の陰で彼らの希望が近づいてくるのを感じていた。フレーメンには夢があった。砂の惑星が緑に覆われ、水をたたえる美しい星に変わること。
 そもそも、なぜ香料メランジはアラキスにしか産出しないのか? 海がなく露出した水が極地方を除いてほとんどない惑星で、どうして酸素があり、人が住めるのか? そして、砂の中に住むサンドウォームと呼ばれる巨大な生きものは、何を食べ、どうやって生きているのか?
 砂の惑星という特異な環境と、その生態系を描き出しながら、世代を超えた人間ドラマ、人類史を描こうとしたフランク・ハーバード。「砂の惑星」は今も色あせることのない作品である。
 さて、その前史が、本書「デューンへの道」であり、その三部作のはじめが「公家アトレイデ」である。アトレイデ家。「デューン」では厳格な正義の人として知られた侯爵レト。舞台は、まず惑星カラダンではじまる。レトはまだ10代の青年。彼は、父である侯爵ポウルス公より、惑星イックスに留学し、科学技術を中心としたヴェルニウス家と、その経済を学んでくるよう命ぜられる。ヴェルニウス家は、アトレイデ家と懇意であり、当主の息子ロンバールはレトと同年代、そして、妹のカイレアは将来の結婚相手としても考えられる相手であった。
 しかし、レトが留学中に、惑星イックスは皇帝も関わる陰謀によって侵略され、ヴェルニウス家は帝国から反逆者としての汚名を着せられる。レトは、ロンバールとカイレアをともなって惑星カラダンに戻るが、そこで、父ポウルス公を失ってしまう。
 若くしてアトレイデ家を継ぐことになったレト。しかし、レトの前に、ハルコンネン家の陰謀が立ちふさがる。
「スター・ウォーズ」と一緒にするのはいかがなものかと思うけれど、スター・ウォーズを見るならば、最初にエピソード4~6を見て、それから1~3を見た方が楽しい。
 それと同じで、やはり最初に「砂の惑星」を読む方が楽しい。まずは、「砂の惑星」「砂漠の救世主」「砂丘の子供たち」あたりまで読んでおいてから、この三部作を読むと、「なるほどねえ」という気持ちになってすっきり楽しく読める。なぜなら、世界観は、フランク・ハーバードが敷いているからである。もちろん、「デューンの道」でも、アラキスの不思議な生態系などについて丁寧に書き記されているけれど、どうしても「ねえ、みんな読んでいるよね。ファンだから、デューンへの道にも手を出してくれたんだよね」感がつきまとってしまうのである。
 だからといっておもしろくない作品ではない。少なくとも私はとても楽しく読んでいる。読みやすさの点では、ケヴィン・J・アンダースンの力量が発揮されており、とてもスムースである。その分、ミステリアスなところや、哲学的なところが欠けてしまうのはいたしかたない。エンターテイメントとして読めばいいのである。
 さて、「公家アトレイデ」では、父ポウルスが死に、レトが若き侯爵として危機を乗り越え、帝国の評議会で名声を成し遂げるまでが描かれる。同時に、皇帝エルルッドが死に、息子のシャッダムが皇帝になり、側近だったフェンリングがアラキスに流されるまでが描かれる。さらに、アラキスを統べるウラディミール・ハルコンネン男爵が精悍な肉体美を誇る男として登場する。彼が、「砂の惑星」に登場するまでにどうして肥満し、病に悩むようになるのかが描かれる。そして、少年ダンカン・アイダホがアトレイデ家に忠誠を尽くすまでの旅が描かれ、惑星学者パードット・カインズがアラキスに魅入られ、フレーメンがカインズに魅入られるまでが描かれる。物語ははじまったばかりである。
(2009.07.01)

ユダヤ警官同盟

ユダヤ警官同盟
THE YIDDISH POLICEMEN’S UNION
マイケル・シェイボン
2007
 ミステリ作品である。ハードボイルド作品かもしれない。しかし、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞を受賞しているから、アメリカではSFとして高く評価されている。
 舞台は、2007年、アラスカ・シトカ特別区である。1940年、アラスカ移民法で、ユダヤ人の移住がはじまり、1948年には200万人にまでふくれあがっていた。1948年に建国3カ月のイスラエルが崩壊し、シトカはユダヤ人最大の居留地となった。アメリカは暫定的に1998年1月1日までの60年間を連邦特別区として認めた。そして、人口320万人が暮らす特別区ができた。当然のように先住民族であるトリンギット族との間の対立も起きる。世界の中で微妙な立場に置かれ続けたシトカ特別区は、あと数カ月後にはアラスカ州に返還される。ユダヤ人にとっておかしな時代であった。
 主人公は、マイヤー・ランツマン刑事。シトカ特別区警察殺人課所属。安ホテル暮らしで、毎日アルコールに溺れる、不眠で、抜群の記憶力を持つ男。同僚の警官との離婚歴あり。前年ただひとりの肉親である妹を事故で亡くす。
 事件はランツマンが暮らすホテルで起きる。ひとりの青年がプロの手によって暗殺される。なぜ、彼は殺されたのか? 彼は一体何物なのか? ただの殺人事件の捜査のはずだった。しかし、事件は思わぬ方向に向かう。
 殺人課には、別れた妻が上司として帰ってきて、連邦返還に向けての捜査の縮小といくつかの成果を求められる。ただの男の殺人事件は放っておけという訳である。ランツマンは、自分の近くで殺された男のことを忘れられない。元妻で上司の命令を無視して勝手に捜査をはじめる。
 そして、彼は、返還間際のシトカをめぐる様々な陰謀に巻き込まれてしまう。
 自分の回りで何が起きているのか分からないままに、右往左往するランツマン。それこそがハードボイルドの主人公である。撃たれ、だまされ、欺かれ、監禁され、それでも、ランツマンはあきらめない。もはやこだわる理由などない。ただ、シトカの警官として、彼はたったひとりでも戦う。何か分からないものに向かって。
 架空の舞台をもとに、もうひとつのユダヤ人の世界を描き、大離散を民族として心に持ち続けるユダヤ人の姿をステレオタイプではなく描いた作品である。歴史改変SFとして、ハードボイルド作品として、それぞれに良質の作品である。巻き帯の釣り書きではBookrist誌が村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を引き合いに出していることを紹介している。
 なるほど。
「ここではない」という違和感は、20世紀の終わりから21世紀のはじめの私達の多くが共有している感覚ではないだろうか。とりわけ近年の日本に暮らす人達においては焦燥にも近い違和感を漠然と持つ人が多いのではなかろうか。何かが違う、どこか間違っている、ここではない、こんな風ではない、どこが違うとは言えないが、生命体としての人間と現実のありようのずれ、ここに属していながらも属しているとは思えない感覚、関係性の喪失なのかもしれない。なんだろう、この感覚は。世界観の根底にある共通するもの、イデア、ユングの言う集合的無意識、それらが崩壊していくような感覚。神話や物語の崩壊。
 一方で、「ハリー・ポッター」や「指輪物語」などのファンタジーが、原型としての神話や物語の代りとして受け入れられているが、同時にそれらは商品として消費され、償却されていく。読みながら、あるいは映画を見ながら、それらが失われていく。
 どこにその違和感の根源があるのだろうか?
 違和感を持つことそのものが根源的な問題なのだろうか?
 そんなことを読み終わった後に考えさせてくれる。
 その後には希望がある。希望とは再生である。再構築である。
 読者を崩壊したままにはしないこと。それが良質の物語である。
 本書「ユダヤ人警官同盟」は、良質の物語である。
 SFファンにも、ミステリファンにも、ハードボイルドファンにも、あるいは、現代文学を愛好する人にもお勧めしたい、エンターテイメント文学作品である。
(2009.6.20)

スパイダー・スター

スパイダー・スター
SPIDER
マイク・ブラザートン
2008
 西暦2433年にはじまり、西暦2494年に終わる物語である。今から4世紀後、舞台はポルックス星系惑星アルゴにはじまる。人類は、地球から遠く別の星系に移住を開始していた。ポルックス星系惑星アルゴには、すでに滅んでしまったと思われる知的生命体文明の遺跡があった。1千万年前から高度な科学技術を持ち、宇宙時代を築いていたアルゴノート文明は25世紀の人類にとっても新たな科学技術を知る遺跡として注目されていた。高度な科学技術には「パンドラの箱」が隠されていることがある。いくら慎重にしていても、いくつもの罠があり、気がつかないうちに、地雷を踏んでいることになる。アルゴに移住した人類は、その地雷を踏んでしまった。突然アルゴの太陽であるポルックスが惑星アルゴの衛星に向けて光のパルスを放ち、攻撃をはじめたのである。
 古代異星種族の兵器になすすべもないアルゴの地球人類。この武器の秘密を解明し、惑星アルゴの人類破滅を防ぐため、アルゴノート文明の記録にあるスパイダー・スターを探し、そこにいると言われている超古代からの「存在」にアクセスする必要があるのだ。
 かつて一度だけ、生きた人類外の知的生命体と接触したことのある男を中心に、新たな探検隊が組まれ、伝説のスパイダー・スターを目指す。家族とアルゴの人類を救うために!
 キーワードは「暗黒物質」である。暗黒物質からエネルギーを取り出すのだ。暗黒物質とは何か、が、ひとつの鍵となる。
 一方で、ストーリーはあくまで人間中心。ちょっと変わっているのは、登場人物の「ひとりごと」が多いのである。ぶつぶつ言っているわけではない。作者のブラザートンは、主人公だけでなく主要登場人物全員について、頭の中で考えていることを細かく書き記す。主に、行動の動機につながるものだが、「私はこう考える、故に、こう行動する」「こういう行動をした結果、私はこのように次の行動を考える」をしつこく書いているのだ。ストーリーは冒険あり、宇宙戦争あり、肉弾戦戦闘あり、未知との遭遇あり、ウラシマ効果による別離ありと波瀾万丈なのだが、そういう感じを受けないのは、作者が登場人物の内実にこだわるからだろう。ちなみに、作者は現役の天文学者で専門はクエーサーと活動銀河核の観測研究だそうである。その知識と最新の宇宙論が十分に反映されている。科学者で、専門の知識を活かしてSFを書いているといえば、ロバート・L・フォワードが思い浮かぶ。やはり、登場人物の表現にはやや難があったが、科学的な表現では楽しく読むことができる。同じような感じだ。
「暗黒物質」「暗黒エネルギー」については、今ホットな話題がある。もしかしたら「暗黒物質」や「暗黒エネルギー」を宇宙論に導入しなくてもいいのではないか?という理論である(日経サイエンス09年7月「暗黒エネルギーは幻か?」)。もちろん、ひとつの説であり、どっちがどうだという考証ができるような専門家ではないのだが、外野にいる科学の話題ファンとしては、楽しい限りである。
 そういう点から、本書「スパイダー・スター」は楽しい。
(2009.06.15)

犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎

犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎
TO SAY NOTHING OF THE DOG
コニー・ウィリス
1998
「神は細部に宿る」という言葉を知ったのはいつのことだっただろう。「雑事に手抜きをしてはいい仕事はできない」というのは、高校1年生のときに先輩に聞かされた言葉である。大局で仕事をしたかったら、小さな雑事をおろそかにしてはいけないし、人任せにしてばかりではいけないということだ。だからかも知れないが、いまだに私は雪かきのような仕事をしている。ついつい小さな雑事に目が行ってしまい、そっちを片付けないと大局に行けない癖がついてしまったようである。そういうときの言い訳が「神は細部に宿る」なのである。本来の意味とは違っているのだけれどね。そうそう「雪かき」というのは、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」で主人公が自分の仕事について語る言葉である。なかなかによい。そういえば、村上春樹の「1Q84」という作品が発売されて、ものすごく売れているらしい。読もうと思って本屋さんに行ったけれど、完売していた。すごいものである。そう思いながらうふと目の前の本棚に目をやると「89」という作品が目に入った。こちらは橋本治のエッセイ。結構分厚い本である。1980年代後半というのはいろんなことが起きた頃であるが、自分がちょうど大学生であったり、社会人になったりと変化の大きい時期だったので、よけいにそう思うのかもしれない。そういえば「バブルへGO!」というタイムスリップものの映画があった。21世紀冒頭に、バブルの崩壊を止めようと、偶然80年代に発明されたタイムマシンを使ってバブル全盛期に戻るという映画である。まあ、あほな映画なんだが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のパロディ的な要素もあるという。でも私は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見ていないので、どこがパロディだか分からない。ということで、「犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎」の話である。2057年のイギリスの大学では、第二次世界大戦で消失したコヴェントリー大聖堂を復元させる計画でてんやわんやの状態であった。主人公のネッド・ヘンリー君は行方不明の「主教の鳥株」のゆくえを求めて、過去を何度も飛ばされる。このタイムトラベルは、過去から空気や微生物程度のもの以外持ち帰れないようになっているだけでなく、時空が崩壊しないようなしくみが科学者と時空そのものの仕組みによってできているのだけれど、なぜだか歴史が改変され時空が崩壊しかねないできごとが起きてしまう。その重要なポイントが1888年。ヴィクトリア朝のオックスフォード近郊である。時代差ぼけのネッド・ヘンリー君、ぼんやりした状態のままに、世界を崩壊から守るため何とかしたいと必死であっちこっちをさまようはめに。木を見て森を見ず、森を見て木を見ず…。どうして犬は勘定に入らないのか、犬について語ることは何もないのだけれど、犬と猫も大活躍。笑いあり、涙あり、歴史あり、パロディあり。パロディって元ネタを知らないと楽しさ半減なのだ。だから、どうして犬は勘定に入らないのかが分からなかったりするけれど、そういう難しいところは読み飛ばしても大丈夫。それなりの楽しみ方はできるから。後半になるにつれ「推理小説」的要素も出てきて、謎は最後に解かれるのだけれど、犯人はおまえだ!というあたりは、あまり期待できないのである。大団円になることは請け合い。でも、読み飛ばすにしても、目は通してね。「神は細部に宿る」のだから。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞作品
(2009.06.05)

レインボーズ・エンド

レインボーズ・エンド
RAINBOWS END
ヴァーナー・ヴィンジ
2006
「電脳コイル」が放映されたのは2007年である。ちょっと懐かしい感じの町で小学校に通う少女を主人公にした、この作品では、メガネというウェアラブルコンピュータを身につけることで、現実の空間と仮想空間を重ね合わせ、現実と仮想空間を自由に切り替えながら生活し、学校に通い、遊ぶことができた。「電脳コイル」では、この仮想空間のバージョンの違いやデータのほころびから新たな「都市伝説」が生まれ、それが物語の柱となっていった。ウェラブルコンピュータと現実空間の仮想化(マッピング)による新しい世界について分かりやすく描いた点で、この作品はきわめて象徴的で衝撃的な作品である。もちろん、それ以前にも「攻殻機動隊」で近未来の、現実と仮想空間の入り乱れた姿を描いているが、電脳コイルには日常感が存在していたのである。
 さて、本作「レインボーズ・エンド」は2006年に発表された作品で、舞台は21世紀前半。人々は、コンタクトレンズとシャツでできたウェラブルコンピュータを身につけ、「電脳コイル」をしのぐ現実感で現実空間が仮想化された世界に生きるときの人の変化を活写する。
 さすが、ヴァーナー・ヴィンジである。
「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」で遠未来の世界を描いたヴィンジが、1981年に発表したのが「マイクロチップの魔術師」。インターネットでのヴァーチャルリアリティーについて、インターネット創生期の頃に書かれた作品であり、大きな衝撃を与えている。「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」では、特異点を超えた知能の存在が描かれている。人工知能がある時点で人間の知能を上回り、それがさらに知能を上回る存在を生み出し、加速度的に知能が発達、成長し、その結果として、人類(や、それらを生み出した種属)は、終焉、大変動、本質的変化を受けることになるというものである。
 本書「レインボーズ・エンド」では、特異点的な存在は出てこない(ようである)。人々は、ウェラブルコンピュータを身につけ、リアルとバーチャルを自由に切り替えながら生活や仕事をしていた。時に場所は意味を持ち、時に場所は意味を持たない。距離も、時間も、立場も、時には制約を失い、時には制約にしばられる。すべてのものがデータ化され、マッピングされようとしている時代のはじまり。
 それは、特異点につながる自然発生的なネットの中の人工知能の誕生を迎える前夜のような世界。
 それでも、戦争があり、貧困があり、苦痛がある。幸せの数と同等に。
 子どもたちは新たな遊びを覚え、開発し、そして、罠にはまる。
 大人たちは新しいおもちゃに興奮し、支配を考え、失敗し、破綻する。
 人間がすることは変わらない。たぶん。
 世界は拡張され、人の認識も拡張されるが、私達は食べ、飲み、眠らなければならない。そして、誰かとふれあい、認知され、存在を許容されなければならない。
 そうしたい。
 おそらく、本書「レインボーズ・エンド」は、2006年の「マイクロチップの魔術師」なのだろう。だから、あと20年ほどして読むと、なるほどねえ、とか、あはは、とか思えるのだろうと思う。ちょっとリアルすぎて困ってしまう。少し未来を見たいという人にはお勧めしたい作品である。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞作品
(2009.06.01)

反逆者の月3 皇子と皇女

反逆者の月3 皇子と皇女
HEIRS OF EMPIRE
デイヴィッド・ウェーバー
2003
 ペリー・ローダンにはじまった「反逆者の月」は、「反逆者の月2 帝国の遺産」でスター・ウォーズに変わると同時に「王の誕生」物語となり、本書「皇子と皇女」は予定調和的に「王の子どもたち」の物語となって終息に向かうのであった。
 今回の主役は、皇帝コリンの双子の皇子と皇女であるショーンとイシス。帝国中枢ですくすくと育ったふたりは、帝国海軍に入り、特別扱いされることなく、軍人として育っていった。帝国は順調に体制を整えられていたが、有無を言わせず帝国の進んだ科学力と独自の文明に取り込まれてしまった地球と地球人たちには、不満を持つ者も少なくなかったのである。ひそかに陰謀がたくらまれていた。それはあまりにも周到で密やかだったため、誰にも気づかれることなく進んでいた。その最初のターゲットは、ショーンとイシス。彼らを葬るための陰謀は成功したかに見えたのだが…。
 ということで、若い皇子、皇女と、その友人たちがある惑星で戦争を行うはめになったのだった。すべては「生き残り、帝国に復帰する」ため。そこは、産業革命直前の状態が長く続く宗教的国家体制の国。鉄砲はあれど、戦車はない。主な武器は騎馬と刃物。古典的な陸上戦である。戦争オタクの作者デイヴィッド・ウェーバーが、宇宙船ではなかなか描けない陸上戦を激しく活写する。
 さて、ふたりの運命はいかに。そして、帝国の運命はいかに。
 ということで、本作では、皇帝となってしまったコリンの活躍が見られない。皇帝になるとそうそう気楽に動けないのである。残念! ペリー・ローダンならば、いつも前線にいそうなのに。その代りに子どもたちが頑張る。このあたりは、レンズマンシリーズの終盤に近いかもしれない。スター・ウォーズも、よく考えれば「子どもたちの物語」だしなあ。
 何も言うことはありません。前作を読まれた方はそのまま最後まで読み通しましょう!
(2009.05.20)

スターシップ-反乱-

スターシップ-反乱-
STARSHIP:MUTINY
マイク・レズニック
2005
 本書「スターシップ-反乱-」は、マイク・レズニックによるパースライト・ユニバースに属する作品であり、本書の舞台は銀河暦1966年、人類が主に共和制の政治体制にいた時代の最後の頃である。ちなみに、「サンティアゴ」は銀河暦3286年の民主制、「ソウルイーターを追え」は銀河暦3324年の民主制だそうである。本書「スターシップ-反乱-」には年表がついているのである。「キリンヤガ」はパースライト・ユニバースに属していないとのことだ。
 便利だ。
 本書の主人公はコール・ウィルソン中佐。老朽艦セオドア・ルーズベルトに左遷配属された共和宙域の航宙軍士官である。過去に3つの勇敢勲章とふたつの功労感状を持ちながら、何度も降格されているが、そのことを知る民間人は少ない。共和宙域のヒーローであり、敵方のテロニ連邦軍からは目の敵にされている。彼は、ついに全員が左遷組であり、最前線とはほど遠い宙域の警備のみを命じられている老朽艦に送られた。コール中佐曰く「官僚主義の結果」であり、軍の立場としては「命令不服従の結果」だという。
 コール中佐は、11年続いている戦争を終わらせることが自分の軍人としての役目だと固く信じており、その自由な発想で自ら課したミッションに取り組んでいく。本人も大変だが、回りも大変だ。しかし、すでに有名人としての知名度と信頼を活かし、コールがいるところに「最前線」を作り出し、勝利を導き出す。
 本書はタイトル「スターシップ-反乱-」や、宇宙戦争という古典的な設定では収まらない、マイク・レズニックらしいウィットと人間描写に富んだ作品である。「キリンヤガ」とはまた違った爽快感が得られることであろう。
(2009.5.10)

久遠

久遠
ETERNITY
グレッグ・ベア
1988
 グレッグ・ベア「永劫」の続編である。「永劫」を再読したのは2004年7月。それから約5年が過ぎた。そして、「久遠」を初読である。古本店で見つけたのだ。見つけてから1年ほど放置。人間とは忘却する生きものである。すっかり「永劫」の筋を忘れてしまった。自分で書いた「永劫」についてのメモを読み直し、なんとなく分かったような気がしたが、やはり忘れている。前作から40年後の地球。荒廃した地球には、彼らを救う別の時空の未来の地球から来た人達がいた。小惑星の内部には、超時空構造物「道」がつながっており、無限に近い空間や世界とつながっていた。そのつながりが切れ、荒廃した地球を救う側も資源不足に悩まされていた。まして、「世話をされる」側の地球人にとっては、いつも頭の上から礼儀正しく頭が良くてスポーツもできる優等生が学級委員長が面倒をみてくれるわけで、どうにも落ち着かない。そんななか、前作で別の時空に旅立った男が、ひょっこりと帰ってきた。宇宙の「終極精神」の遣いとして。出迎えるはめになったのは、若返りの技術を拒否し、晩年を迎えかけた主人公のひとりギャニー・ライアー。その妻、カレン・ファーリーは若返り技術を受け、地球行政官として活躍していた。ギャニーは、多くの救われない人々とともに死を迎えようとしていたのだ。しかし、そこに「終極精神」の遣いたるミルスキーがやってきてしまう。ひとりの人間と宇宙の死と再生を対比させながら…。
 一方で、前作の主人公のひとりだったパトリシア・ルイーザ・ヴァスケスは、やはり別の時空の過去の地球上で天才科学者として人々の科学力向上を手伝いつつ、年を取り、孫娘に彼女の秘密を伝授し、そして死んでいった。
 残された孫娘のリタは、別の時空の窓を開けることを希求するようになった。それが世界を変えることになるとしても…。
 ということで、途中まで何がなにやらと思いつつ読んでいたのである。
 私というざる頭の人間には、「永劫」も「久遠」も縁遠いのであろう。
 もう一度続けて読まない限り、何を書いていいやら分からない。
「永劫」をはじめて読んだ1987年頃は、とても忙しい新入社員だった。
「久遠」をはじめて読んだ2009年は、とても忙しい中年の一社会人である。会社勤めではないが、あれをしたり、これをしたり、あっちに行ったり、こっちに行ったり、なかなか一筋縄ではいかない。いろいろやりつつひとつの仕事を終え、新しいプロジェクトの準備をするさなか、頭に入らないなあ。しばらく休むか。
(2009.04.30)