ユダヤ警官同盟

ユダヤ警官同盟
THE YIDDISH POLICEMEN’S UNION
マイケル・シェイボン
2007
 ミステリ作品である。ハードボイルド作品かもしれない。しかし、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞を受賞しているから、アメリカではSFとして高く評価されている。
 舞台は、2007年、アラスカ・シトカ特別区である。1940年、アラスカ移民法で、ユダヤ人の移住がはじまり、1948年には200万人にまでふくれあがっていた。1948年に建国3カ月のイスラエルが崩壊し、シトカはユダヤ人最大の居留地となった。アメリカは暫定的に1998年1月1日までの60年間を連邦特別区として認めた。そして、人口320万人が暮らす特別区ができた。当然のように先住民族であるトリンギット族との間の対立も起きる。世界の中で微妙な立場に置かれ続けたシトカ特別区は、あと数カ月後にはアラスカ州に返還される。ユダヤ人にとっておかしな時代であった。
 主人公は、マイヤー・ランツマン刑事。シトカ特別区警察殺人課所属。安ホテル暮らしで、毎日アルコールに溺れる、不眠で、抜群の記憶力を持つ男。同僚の警官との離婚歴あり。前年ただひとりの肉親である妹を事故で亡くす。
 事件はランツマンが暮らすホテルで起きる。ひとりの青年がプロの手によって暗殺される。なぜ、彼は殺されたのか? 彼は一体何物なのか? ただの殺人事件の捜査のはずだった。しかし、事件は思わぬ方向に向かう。
 殺人課には、別れた妻が上司として帰ってきて、連邦返還に向けての捜査の縮小といくつかの成果を求められる。ただの男の殺人事件は放っておけという訳である。ランツマンは、自分の近くで殺された男のことを忘れられない。元妻で上司の命令を無視して勝手に捜査をはじめる。
 そして、彼は、返還間際のシトカをめぐる様々な陰謀に巻き込まれてしまう。
 自分の回りで何が起きているのか分からないままに、右往左往するランツマン。それこそがハードボイルドの主人公である。撃たれ、だまされ、欺かれ、監禁され、それでも、ランツマンはあきらめない。もはやこだわる理由などない。ただ、シトカの警官として、彼はたったひとりでも戦う。何か分からないものに向かって。
 架空の舞台をもとに、もうひとつのユダヤ人の世界を描き、大離散を民族として心に持ち続けるユダヤ人の姿をステレオタイプではなく描いた作品である。歴史改変SFとして、ハードボイルド作品として、それぞれに良質の作品である。巻き帯の釣り書きではBookrist誌が村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を引き合いに出していることを紹介している。
 なるほど。
「ここではない」という違和感は、20世紀の終わりから21世紀のはじめの私達の多くが共有している感覚ではないだろうか。とりわけ近年の日本に暮らす人達においては焦燥にも近い違和感を漠然と持つ人が多いのではなかろうか。何かが違う、どこか間違っている、ここではない、こんな風ではない、どこが違うとは言えないが、生命体としての人間と現実のありようのずれ、ここに属していながらも属しているとは思えない感覚、関係性の喪失なのかもしれない。なんだろう、この感覚は。世界観の根底にある共通するもの、イデア、ユングの言う集合的無意識、それらが崩壊していくような感覚。神話や物語の崩壊。
 一方で、「ハリー・ポッター」や「指輪物語」などのファンタジーが、原型としての神話や物語の代りとして受け入れられているが、同時にそれらは商品として消費され、償却されていく。読みながら、あるいは映画を見ながら、それらが失われていく。
 どこにその違和感の根源があるのだろうか?
 違和感を持つことそのものが根源的な問題なのだろうか?
 そんなことを読み終わった後に考えさせてくれる。
 その後には希望がある。希望とは再生である。再構築である。
 読者を崩壊したままにはしないこと。それが良質の物語である。
 本書「ユダヤ人警官同盟」は、良質の物語である。
 SFファンにも、ミステリファンにも、ハードボイルドファンにも、あるいは、現代文学を愛好する人にもお勧めしたい、エンターテイメント文学作品である。
(2009.6.20)

スパイダー・スター

スパイダー・スター
SPIDER
マイク・ブラザートン
2008
 西暦2433年にはじまり、西暦2494年に終わる物語である。今から4世紀後、舞台はポルックス星系惑星アルゴにはじまる。人類は、地球から遠く別の星系に移住を開始していた。ポルックス星系惑星アルゴには、すでに滅んでしまったと思われる知的生命体文明の遺跡があった。1千万年前から高度な科学技術を持ち、宇宙時代を築いていたアルゴノート文明は25世紀の人類にとっても新たな科学技術を知る遺跡として注目されていた。高度な科学技術には「パンドラの箱」が隠されていることがある。いくら慎重にしていても、いくつもの罠があり、気がつかないうちに、地雷を踏んでいることになる。アルゴに移住した人類は、その地雷を踏んでしまった。突然アルゴの太陽であるポルックスが惑星アルゴの衛星に向けて光のパルスを放ち、攻撃をはじめたのである。
 古代異星種族の兵器になすすべもないアルゴの地球人類。この武器の秘密を解明し、惑星アルゴの人類破滅を防ぐため、アルゴノート文明の記録にあるスパイダー・スターを探し、そこにいると言われている超古代からの「存在」にアクセスする必要があるのだ。
 かつて一度だけ、生きた人類外の知的生命体と接触したことのある男を中心に、新たな探検隊が組まれ、伝説のスパイダー・スターを目指す。家族とアルゴの人類を救うために!
 キーワードは「暗黒物質」である。暗黒物質からエネルギーを取り出すのだ。暗黒物質とは何か、が、ひとつの鍵となる。
 一方で、ストーリーはあくまで人間中心。ちょっと変わっているのは、登場人物の「ひとりごと」が多いのである。ぶつぶつ言っているわけではない。作者のブラザートンは、主人公だけでなく主要登場人物全員について、頭の中で考えていることを細かく書き記す。主に、行動の動機につながるものだが、「私はこう考える、故に、こう行動する」「こういう行動をした結果、私はこのように次の行動を考える」をしつこく書いているのだ。ストーリーは冒険あり、宇宙戦争あり、肉弾戦戦闘あり、未知との遭遇あり、ウラシマ効果による別離ありと波瀾万丈なのだが、そういう感じを受けないのは、作者が登場人物の内実にこだわるからだろう。ちなみに、作者は現役の天文学者で専門はクエーサーと活動銀河核の観測研究だそうである。その知識と最新の宇宙論が十分に反映されている。科学者で、専門の知識を活かしてSFを書いているといえば、ロバート・L・フォワードが思い浮かぶ。やはり、登場人物の表現にはやや難があったが、科学的な表現では楽しく読むことができる。同じような感じだ。
「暗黒物質」「暗黒エネルギー」については、今ホットな話題がある。もしかしたら「暗黒物質」や「暗黒エネルギー」を宇宙論に導入しなくてもいいのではないか?という理論である(日経サイエンス09年7月「暗黒エネルギーは幻か?」)。もちろん、ひとつの説であり、どっちがどうだという考証ができるような専門家ではないのだが、外野にいる科学の話題ファンとしては、楽しい限りである。
 そういう点から、本書「スパイダー・スター」は楽しい。
(2009.06.15)

犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎

犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎
TO SAY NOTHING OF THE DOG
コニー・ウィリス
1998
「神は細部に宿る」という言葉を知ったのはいつのことだっただろう。「雑事に手抜きをしてはいい仕事はできない」というのは、高校1年生のときに先輩に聞かされた言葉である。大局で仕事をしたかったら、小さな雑事をおろそかにしてはいけないし、人任せにしてばかりではいけないということだ。だからかも知れないが、いまだに私は雪かきのような仕事をしている。ついつい小さな雑事に目が行ってしまい、そっちを片付けないと大局に行けない癖がついてしまったようである。そういうときの言い訳が「神は細部に宿る」なのである。本来の意味とは違っているのだけれどね。そうそう「雪かき」というのは、村上春樹の「ダンス・ダンス・ダンス」で主人公が自分の仕事について語る言葉である。なかなかによい。そういえば、村上春樹の「1Q84」という作品が発売されて、ものすごく売れているらしい。読もうと思って本屋さんに行ったけれど、完売していた。すごいものである。そう思いながらうふと目の前の本棚に目をやると「89」という作品が目に入った。こちらは橋本治のエッセイ。結構分厚い本である。1980年代後半というのはいろんなことが起きた頃であるが、自分がちょうど大学生であったり、社会人になったりと変化の大きい時期だったので、よけいにそう思うのかもしれない。そういえば「バブルへGO!」というタイムスリップものの映画があった。21世紀冒頭に、バブルの崩壊を止めようと、偶然80年代に発明されたタイムマシンを使ってバブル全盛期に戻るという映画である。まあ、あほな映画なんだが、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のパロディ的な要素もあるという。でも私は「バック・トゥ・ザ・フューチャー」を見ていないので、どこがパロディだか分からない。ということで、「犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎」の話である。2057年のイギリスの大学では、第二次世界大戦で消失したコヴェントリー大聖堂を復元させる計画でてんやわんやの状態であった。主人公のネッド・ヘンリー君は行方不明の「主教の鳥株」のゆくえを求めて、過去を何度も飛ばされる。このタイムトラベルは、過去から空気や微生物程度のもの以外持ち帰れないようになっているだけでなく、時空が崩壊しないようなしくみが科学者と時空そのものの仕組みによってできているのだけれど、なぜだか歴史が改変され時空が崩壊しかねないできごとが起きてしまう。その重要なポイントが1888年。ヴィクトリア朝のオックスフォード近郊である。時代差ぼけのネッド・ヘンリー君、ぼんやりした状態のままに、世界を崩壊から守るため何とかしたいと必死であっちこっちをさまようはめに。木を見て森を見ず、森を見て木を見ず…。どうして犬は勘定に入らないのか、犬について語ることは何もないのだけれど、犬と猫も大活躍。笑いあり、涙あり、歴史あり、パロディあり。パロディって元ネタを知らないと楽しさ半減なのだ。だから、どうして犬は勘定に入らないのかが分からなかったりするけれど、そういう難しいところは読み飛ばしても大丈夫。それなりの楽しみ方はできるから。後半になるにつれ「推理小説」的要素も出てきて、謎は最後に解かれるのだけれど、犯人はおまえだ!というあたりは、あまり期待できないのである。大団円になることは請け合い。でも、読み飛ばすにしても、目は通してね。「神は細部に宿る」のだから。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞作品
(2009.06.05)

レインボーズ・エンド

レインボーズ・エンド
RAINBOWS END
ヴァーナー・ヴィンジ
2006
「電脳コイル」が放映されたのは2007年である。ちょっと懐かしい感じの町で小学校に通う少女を主人公にした、この作品では、メガネというウェアラブルコンピュータを身につけることで、現実の空間と仮想空間を重ね合わせ、現実と仮想空間を自由に切り替えながら生活し、学校に通い、遊ぶことができた。「電脳コイル」では、この仮想空間のバージョンの違いやデータのほころびから新たな「都市伝説」が生まれ、それが物語の柱となっていった。ウェラブルコンピュータと現実空間の仮想化(マッピング)による新しい世界について分かりやすく描いた点で、この作品はきわめて象徴的で衝撃的な作品である。もちろん、それ以前にも「攻殻機動隊」で近未来の、現実と仮想空間の入り乱れた姿を描いているが、電脳コイルには日常感が存在していたのである。
 さて、本作「レインボーズ・エンド」は2006年に発表された作品で、舞台は21世紀前半。人々は、コンタクトレンズとシャツでできたウェラブルコンピュータを身につけ、「電脳コイル」をしのぐ現実感で現実空間が仮想化された世界に生きるときの人の変化を活写する。
 さすが、ヴァーナー・ヴィンジである。
「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」で遠未来の世界を描いたヴィンジが、1981年に発表したのが「マイクロチップの魔術師」。インターネットでのヴァーチャルリアリティーについて、インターネット創生期の頃に書かれた作品であり、大きな衝撃を与えている。「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」では、特異点を超えた知能の存在が描かれている。人工知能がある時点で人間の知能を上回り、それがさらに知能を上回る存在を生み出し、加速度的に知能が発達、成長し、その結果として、人類(や、それらを生み出した種属)は、終焉、大変動、本質的変化を受けることになるというものである。
 本書「レインボーズ・エンド」では、特異点的な存在は出てこない(ようである)。人々は、ウェラブルコンピュータを身につけ、リアルとバーチャルを自由に切り替えながら生活や仕事をしていた。時に場所は意味を持ち、時に場所は意味を持たない。距離も、時間も、立場も、時には制約を失い、時には制約にしばられる。すべてのものがデータ化され、マッピングされようとしている時代のはじまり。
 それは、特異点につながる自然発生的なネットの中の人工知能の誕生を迎える前夜のような世界。
 それでも、戦争があり、貧困があり、苦痛がある。幸せの数と同等に。
 子どもたちは新たな遊びを覚え、開発し、そして、罠にはまる。
 大人たちは新しいおもちゃに興奮し、支配を考え、失敗し、破綻する。
 人間がすることは変わらない。たぶん。
 世界は拡張され、人の認識も拡張されるが、私達は食べ、飲み、眠らなければならない。そして、誰かとふれあい、認知され、存在を許容されなければならない。
 そうしたい。
 おそらく、本書「レインボーズ・エンド」は、2006年の「マイクロチップの魔術師」なのだろう。だから、あと20年ほどして読むと、なるほどねえ、とか、あはは、とか思えるのだろうと思う。ちょっとリアルすぎて困ってしまう。少し未来を見たいという人にはお勧めしたい作品である。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞作品
(2009.06.01)

反逆者の月3 皇子と皇女

反逆者の月3 皇子と皇女
HEIRS OF EMPIRE
デイヴィッド・ウェーバー
2003
 ペリー・ローダンにはじまった「反逆者の月」は、「反逆者の月2 帝国の遺産」でスター・ウォーズに変わると同時に「王の誕生」物語となり、本書「皇子と皇女」は予定調和的に「王の子どもたち」の物語となって終息に向かうのであった。
 今回の主役は、皇帝コリンの双子の皇子と皇女であるショーンとイシス。帝国中枢ですくすくと育ったふたりは、帝国海軍に入り、特別扱いされることなく、軍人として育っていった。帝国は順調に体制を整えられていたが、有無を言わせず帝国の進んだ科学力と独自の文明に取り込まれてしまった地球と地球人たちには、不満を持つ者も少なくなかったのである。ひそかに陰謀がたくらまれていた。それはあまりにも周到で密やかだったため、誰にも気づかれることなく進んでいた。その最初のターゲットは、ショーンとイシス。彼らを葬るための陰謀は成功したかに見えたのだが…。
 ということで、若い皇子、皇女と、その友人たちがある惑星で戦争を行うはめになったのだった。すべては「生き残り、帝国に復帰する」ため。そこは、産業革命直前の状態が長く続く宗教的国家体制の国。鉄砲はあれど、戦車はない。主な武器は騎馬と刃物。古典的な陸上戦である。戦争オタクの作者デイヴィッド・ウェーバーが、宇宙船ではなかなか描けない陸上戦を激しく活写する。
 さて、ふたりの運命はいかに。そして、帝国の運命はいかに。
 ということで、本作では、皇帝となってしまったコリンの活躍が見られない。皇帝になるとそうそう気楽に動けないのである。残念! ペリー・ローダンならば、いつも前線にいそうなのに。その代りに子どもたちが頑張る。このあたりは、レンズマンシリーズの終盤に近いかもしれない。スター・ウォーズも、よく考えれば「子どもたちの物語」だしなあ。
 何も言うことはありません。前作を読まれた方はそのまま最後まで読み通しましょう!
(2009.05.20)

スターシップ-反乱-

スターシップ-反乱-
STARSHIP:MUTINY
マイク・レズニック
2005
 本書「スターシップ-反乱-」は、マイク・レズニックによるパースライト・ユニバースに属する作品であり、本書の舞台は銀河暦1966年、人類が主に共和制の政治体制にいた時代の最後の頃である。ちなみに、「サンティアゴ」は銀河暦3286年の民主制、「ソウルイーターを追え」は銀河暦3324年の民主制だそうである。本書「スターシップ-反乱-」には年表がついているのである。「キリンヤガ」はパースライト・ユニバースに属していないとのことだ。
 便利だ。
 本書の主人公はコール・ウィルソン中佐。老朽艦セオドア・ルーズベルトに左遷配属された共和宙域の航宙軍士官である。過去に3つの勇敢勲章とふたつの功労感状を持ちながら、何度も降格されているが、そのことを知る民間人は少ない。共和宙域のヒーローであり、敵方のテロニ連邦軍からは目の敵にされている。彼は、ついに全員が左遷組であり、最前線とはほど遠い宙域の警備のみを命じられている老朽艦に送られた。コール中佐曰く「官僚主義の結果」であり、軍の立場としては「命令不服従の結果」だという。
 コール中佐は、11年続いている戦争を終わらせることが自分の軍人としての役目だと固く信じており、その自由な発想で自ら課したミッションに取り組んでいく。本人も大変だが、回りも大変だ。しかし、すでに有名人としての知名度と信頼を活かし、コールがいるところに「最前線」を作り出し、勝利を導き出す。
 本書はタイトル「スターシップ-反乱-」や、宇宙戦争という古典的な設定では収まらない、マイク・レズニックらしいウィットと人間描写に富んだ作品である。「キリンヤガ」とはまた違った爽快感が得られることであろう。
(2009.5.10)

久遠

久遠
ETERNITY
グレッグ・ベア
1988
 グレッグ・ベア「永劫」の続編である。「永劫」を再読したのは2004年7月。それから約5年が過ぎた。そして、「久遠」を初読である。古本店で見つけたのだ。見つけてから1年ほど放置。人間とは忘却する生きものである。すっかり「永劫」の筋を忘れてしまった。自分で書いた「永劫」についてのメモを読み直し、なんとなく分かったような気がしたが、やはり忘れている。前作から40年後の地球。荒廃した地球には、彼らを救う別の時空の未来の地球から来た人達がいた。小惑星の内部には、超時空構造物「道」がつながっており、無限に近い空間や世界とつながっていた。そのつながりが切れ、荒廃した地球を救う側も資源不足に悩まされていた。まして、「世話をされる」側の地球人にとっては、いつも頭の上から礼儀正しく頭が良くてスポーツもできる優等生が学級委員長が面倒をみてくれるわけで、どうにも落ち着かない。そんななか、前作で別の時空に旅立った男が、ひょっこりと帰ってきた。宇宙の「終極精神」の遣いとして。出迎えるはめになったのは、若返りの技術を拒否し、晩年を迎えかけた主人公のひとりギャニー・ライアー。その妻、カレン・ファーリーは若返り技術を受け、地球行政官として活躍していた。ギャニーは、多くの救われない人々とともに死を迎えようとしていたのだ。しかし、そこに「終極精神」の遣いたるミルスキーがやってきてしまう。ひとりの人間と宇宙の死と再生を対比させながら…。
 一方で、前作の主人公のひとりだったパトリシア・ルイーザ・ヴァスケスは、やはり別の時空の過去の地球上で天才科学者として人々の科学力向上を手伝いつつ、年を取り、孫娘に彼女の秘密を伝授し、そして死んでいった。
 残された孫娘のリタは、別の時空の窓を開けることを希求するようになった。それが世界を変えることになるとしても…。
 ということで、途中まで何がなにやらと思いつつ読んでいたのである。
 私というざる頭の人間には、「永劫」も「久遠」も縁遠いのであろう。
 もう一度続けて読まない限り、何を書いていいやら分からない。
「永劫」をはじめて読んだ1987年頃は、とても忙しい新入社員だった。
「久遠」をはじめて読んだ2009年は、とても忙しい中年の一社会人である。会社勤めではないが、あれをしたり、これをしたり、あっちに行ったり、こっちに行ったり、なかなか一筋縄ではいかない。いろいろやりつつひとつの仕事を終え、新しいプロジェクトの準備をするさなか、頭に入らないなあ。しばらく休むか。
(2009.04.30)

ベガーズ・イン・スペース

ベガーズ・イン・スペース
BEGGARS IN SPAIN AND OTHER STORIES
ナンシー・クレス
2009
「プロバビリティ」シリーズ三部作が一気に翻訳されたナンシー・クレスの短編集である。「プロバビリティ」シリーズで登場した「共有世界」のアイディアが登場した「密告者」をはじめ、7作品が掲載されている。このうち、表題作「ベガーズ・イン・スペース」と「眠る犬」は、ナンシー・クレスを有名にした無眠人シリーズである。表題作は、その後長編化され、三部作となっているようだ。
 無眠人とは、眠ることのない人のこと。遺伝子操作で生まれた眠る必要のない子どもたち。知性に恵まれ、健康で、精神的にも安定し、極めて高い生産性を持つ。それゆえに、普通の人たちからのねたみを買い、やがて迫害されていく。ミュータント、超能力者迫害ものの変奏曲である。不老不死、超能力など、理由なき超人に変わって、遺伝子操作という「科学」が導入されてSFの中心に戻ってくることとなった。
「ダンシング・オン・エア」もまた、遺伝子組み換えによる能力改編をベースにした作品。クラシックバレエが、その舞台となる。
 個人的に好きなのは「戦争と芸術」。異星人との戦争を続ける人類。敵の基地を確保した人類の軍は、芸術に詳しい専門家を敵の基地に送り込む。異星人が人類の居住エリアを襲って収集した物品の中から貴重な芸術品を回収するためである。芸術作品だけでなく、バスタブや子どもの靴など様々なものが収集され、異星人にしか分からない方法で配列されていた。人間の専門家は、そこから何かを読み取ろうとする。なぜ、異星人はこれらを集め、このように並べたのか…。
 とても短い作品から、中編といえる作品までいずれも読みやすく、満足できる。「プロバビリティ・ムーン」の最初のとっつきにくさに比べれば、最初に短編集を読むのはクレスを知るのにいいかもしれない。
本短編集は、日本独自編集だそうだ。表題作「ベガーズ・イン・スペース」は、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、アシモフ誌読者賞、SFクロニクル読者賞受賞作品。つまり傑作である。
(2009.04)

太陽の中の太陽

太陽の中の太陽
SUN OF SUNS
カール・シュレイダー
2006
 気球世界ヴァーガシリーズの第一作目である。帯の釣書は「リングワールド以来の破天荒な世界」である。まさしく。時は遠い未来。何らかの泡というか、膜というかに包まれて外の宇宙と隔絶した世界が用意されている。そこには人工の太陽がある。大きな重力を生み出すほどの質量はない人工の核融合太陽である。ひとつではなく、たくさんの太陽がある。大きな太陽がある中心の世界はキャンデスと呼ばれているが、このヴァーガの世界にはたくさんの小さな太陽があり、その光の周囲に小さなコロニーや衛星の居住地がある。ヴァーガの世界には空気があり、窒息して死ぬことはない。重力はとても微少。太陽の大きさやコロニー群の軌道によって世界の勢力分布は変わる。中心世界キャンデスは、その光の大きさ、安定性によって強国となり、世界を統べる。しかし、周辺にはそれぞれに太陽があり、その恩恵で生きる人々がおり、国が成立する。太陽を持つものが国を興し、世界の中の勢力となることができる。しかし、時に世界はきまぐれである。それぞれのもつ軌道によって他の世界と近づき、分かれる。そのたびに、侵略や併合が起き、力関係は変わっていく。光の届かない場所は、冬空間と呼ばれる。人が住むには厳しい世界だ。そして、ほとんどの空間が冬空間である。
 さて、内側の世界があるということは外の世界もある。間違いなく。どうやれば外に出られるのか、そもそも外の世界がどういう世界なのか知るものは少ない。気にしていないともいえる。
 太陽など一部の技術を除けば、この世界は大航海時代や第一次世界大戦前の世界に似ている。
 群雄割拠の世界である。
 ここにひとりの少年ヘイデンがいる。ヘイデンの母は太陽技術者だった。父は小国エアリーの独立を望んでいた。エアリーは太陽を作ろうと画策していた。支配者である大国スリップストリームから独立するために。しかし、その独立は果たされず、両親は殺され、ヘイデンは孤独のままに生きていくこととなった。両親を殺したスリップストリームの提督への復讐を誓って。
 そのヘイデンが、スリップストリームの提督の妻に雇われ、提督が率いる艦隊に乗りこんで冒険の旅に出ることとなった。スリップストリームを守るためか、提督を殺す機会をうかがうためか、それとも、同行することになった外世界から来た美女と一緒にいたいためか、ヘイデンは悩みながらも戦い、生きのび、成長していく。そして、何かを得、何かを失う。大人になっていくのだ。
 まさしく破天荒な世界を舞台に、バロック調のストーリー展開。フィリップ・リーブの「移動都市」シリーズなどが好きな人にはおすすめな一冊である。
(2009.03)

プロバビリティ・スペース

プロバビリティ・スペース
PROBABILITY SPACE
ナンシー・クレス
2002
 ナンシー・クレスの「プロバビリティ」シリーズ第三弾で完結編である。人類とフォーラーの戦争は宇宙を崩壊させる究極兵器をお互いが持ってしまい膠着状態。人類側は軍内部でクーデターが勃発。前作で新たな物理学の地平線を開いた物理学者カペロは誘拐され、娘のアマンダは誘拐現場を目撃してしまったために「誰も信用できない」状態で、一緒に「ワールド」に旅をしたマーベットを探して流浪の旅に出る。一方、マーベットは、前作で中間管理職のパワー全開だったカウフマン君と一緒。カウフマン君は、ワールドの共有世界を崩壊に追い込んだことについて自責の念でいっぱい。なんとかワールドに行こうとする。行ってどうなるものでもないだろうが…。
 さらに、誘拐されたカペロの幽閉先にたまたま遭遇してしまった少年は殺され、その母で大金持ちの策士、女スパイにして男たらしのマグダレナは、息子がカペロとともに誘拐されたままであると確信してカペロを追い求める。
 父カペロを案じ、カペロを探すためにマーベットを求めて地球、月、火星での様々な事件に巻き込まれるアマンダ。
 息子を捜すためにカペロの居場所を求めるマグダレナ。
 さらに、何かを求めるカウフマンと、現実をしっかり把握しているマーベットのカップル。
 クーデターを起こしたピアース大将は、宇宙が崩壊する可能性を理解する能力がなく、究極兵器をフォーラーの母星に近づけようとする。
 軍を退職し、中年の自分探しの旅に出るカウフマン君パート。典型的な少女巻き込まれ旅と事件の成長期ものとなったアマンダのパート。そして、背景に横たわる宇宙崩壊の可能性。
 果たして、どうなる、この宇宙。
 前作2作は「ワールド」のおもしろさが際だっていた。本作は、世界観もキャラクターも頭に入っていることだから、素直に楽しめばよろしい。
 それにしてもナンシー・クレスは登場人物に愛着がない。平気でいじめていく。その典型がカウフマン君である。前作では、ちょっとしたヒーローだったのに、軍を辞めたとたん、役立たずの、自分で何をしていいのかわからない大人になりきれていなかったおじさんの扱いである。かわいそう、と思うあたり、筆者もおじさんだからか。
 もちろん、前作と違って、本作では少女アマンダの成長の旅がある。出会いあり、別れあり、裏切りあり、信頼あり、冒険あり、機転あり、恋愛ありの、これぞ少女成長ものといったところである。
 中年のおじさんも安心して読んで欲しい。
キャンベル記念賞受賞作品
(2009.03)