73光年の妖怪

73光年の妖怪
THE MIND THING
フレドリック・ブラウン
1961
 本書「73光年の妖怪」は、1961年に発表され、日本では1963年に井上一夫氏の翻訳によって創元推理文庫SFから出版された。原題と大きくかけ離れた「妖怪」であるが、この「妖怪」は73光年離れた惑星から追放されて瞬間的に地球に到着した異星の犯罪者である。なにゆえに「妖怪」かといえば、それは「人にとりつく」からである。ということで、本書の解説では、ブラウンをSFの中のファンタジー作家と断じて評している。人それぞれの見方である。
 この異星の知性体は、近くにいる動物の精神に入り込み、乗っ取って、その知識や経験を習得し、自由に行動させることができる。ただし、一度入り込むと、自殺またはなんらかの手段で死ぬしか、その精神から抜け出し、自らの肉体に戻ることができない。また、動物が眠っているときに限られる。そして、入り込むためにはある程度近づく必要があるものの、地球上ではほとんど移動手段を持たない。さらに、知性体の肉体は数カ月ごとに栄養補給する必要がある。それは、たんぱく質のスープであればなんでもいい。
 異星の知性体は、もちろん人間にとりつくこともできる。知性を持っている対象の場合、相手が眠っていてもそれなりの抵抗を受けるが、それでも乗っ取りは難しくない。
 知性体は犯罪者であり、たまたま運良く動物のいる惑星に放出されたが、もし彼が自らの惑星に無事戻ることさえできれば、地球という新たな植民地を見つけたということで評価され、身分を回復することが可能になる。故に知性体は地球の科学者に入り込み、知性体を送り込んだ高度な技術を伝え、それによって自ら帰る必要があった。
 知性体は、まずネズミに入り込み、そして、ひとりの青年を乗っ取った。知性体にとって計画は簡単にいくような気がしていたが、思わぬ敵が現われる。
 人間や動物の不審な死が続くことに関連があると感じたひとりの科学者が、独自に調査をはじめた。今、ここに知性体と人間の科学者の知恵比べがはじまる!
 SFスリラーという感じでもある。
 見えない精神の乗っ取り。SFでいえば、「20億の針」(ハル・クレメント 1950)や、「人形つかい」(ロバート・A・ハインライン 1951)を思い起こす。それらよりも10年後の作品であり、当然、本書「73光年の妖怪」は「20億の針」「人形つかい」を受けて書かれた作品だと思っていいであろう。
 内容としてはとても楽しくおもしろく読めるのだが、タイトルがなあ。もう少し考えなかったのだろうか? タイトルだけでずいぶん損をしていると思うのだ。本書は。ということで、ずっと読まずにいたのだが、手元には1989年の第33版がある。よく売れていたんだなあ。同居人が買って読んでいたものらしい。同居人はおそらく「妖怪」の方に釣られたのだと思われる。それぞれである。
(2008.10.05)

楽園の泉

楽園の泉
THE FOUNTAINS OF PARADISE
アーサー・C・クラーク
1979
「軌道エレベーター」を地球上につくるためには何が必要だろう。もし、事故があったとき、その事故を最小に防ぐにはどうしたらいいだろう。果たして、地球に軌道エレベーターをつくることは価値があるのだろうか?
 すでにSFの基本アイテムとなった「軌道エレベーター」について、そのアイディアと現実感をはじめてきちんと形にしたのが本書「楽園の泉」である。もうひとつ、チャールズ・シェフィールドの「星ぼしに架ける橋」が同じ年に発表され、邦訳もされているが残念ながら私は読んでいない。
 もはや日本のアニメでもおなじみになっており、多くの人に概念だけは知られるようになったと思う。現実には、素材だけでなく、軌道上の人工衛星の問題や設置場所、環境影響、事故などのリスクの大きさから「近未来」というわけにはいかないであろう。ただ、重力の井戸の底から毎度毎度大きなエネルギーをかけて大気圏外の軌道上に出るというのは実にしんどい話であり、理屈としてはスマートである。
 さて、本書「楽園の泉」は、まさしく軌道エレベーターをつくるだけの作品である。主な舞台は22世紀中葉。建設場所は、現実よりはちょっと位置が変わっているスリランカの霊峰である。本書では、クラークらしく科学と宗教について語られたり、地球外文明との接触、地球温暖化による影響なども盛り込まれ、楽しく読めるよう工夫が凝らされている。
 本書「楽園の泉」の舞台となるスリパーダ、ヤッカガラの山肌を僧侶が裸足で歩く姿は、とても美しい。クラークはこの美しさと破壊の美しさをどのように頭の中で整理しているのだろう。
 それにしても、軌道エレベーター物語は、それで完結してもよかったのではないかと思う。どうして、地球外文明との接触についても語ってしまったのだろう。クラークだからとしか言いようがない。
(2008.09.30)

ディファレンス・エンジン

ディファレンス・エンジン
THE DIFFERENCE ENGINE
ウィリアム・ギブスン&ブルース・スターリング
1991
 霧の都・ロンドン。産業革命によって生まれ変わったロンドンは、世界の中心として科学技術と陰謀と希望と絶望のうずまく街であった。私たちが知っている歴史の教科書とは違う、もうひとつのロンドン。私たちが思っている以上に現代に近く、現代に連なる過去。本書「ディファレンス・エンジン」は1855年の回想にはじまり、出版された1991年に真の幕を開ける作品である。  スチーム・パンク。
 80年代、SFはサイバーパンクの時代を迎えた。インターネット社会の先にある外挿された未来をサイバーパンクの旗手たちは縦横無尽に旅し、我々読者の前に提示した。人が、社会が、世界が変容する近未来。現在の延長上にある理解しやすく、想像しがたい世界。その提示に、人々は熱狂し、やがて来るべき、明るくも暗くもないただの世界をかいま見た。しかし、サイバーパンクの旗手たちは、それで満足してはいなかった。むしろ、不満だったのだろう。提示された人と社会の変容について、読者は深く考えず、むしろガジェットや文体に魅力を感じているのではないかと。
 そうして、ギブスンとスターリングは、もうひとつのサイバーパンクを思いつく。それが、スチーム・パンクである。
 人と社会の変容とは、実は現在の現実のことなのである。それは組み換えられ、再構成され、分解され、よどみ、流れつつ、そこにある。そのことを知らしめるべく、彼らは過去に介入をはじめた。
 蒸気機関でできたコンピュータが紡ぎ出す私たちの社会と良く似た違っている世界。
 私は、そこでどんな生活をしているだろうか?
 私は、イギリスやヨーロッパの近代史をよく知らない。そのために、どこまでが私たちの知る歴史で、どこからがもうひとつの歴史なのかが分からない。それだけに、おもしろさは半減しているのだろう。本書「ディファレンス・エンジン」をちゃんと読もうと思うならば、まず、ヨーロッパ産業革命期の歴史を学ぶところからはじめなければならない。
 迫ってくるなあ。だから避けていたんだ。スチーム・パンクを読むのは。
(2008.09.28)

過ぎ去りし日々の光

過ぎ去りし日々の光
THE LIGHT OF OTHER DAYS
アーサー・C・クラーク&スティーヴン・バクスター
2000
 ISS(国際宇宙ステーション)は、老朽化したスペースシャトルと衝突したあと2010年に放棄された。宇宙開発は停滞していた。2033年、小惑星にがよもぎが発見される。同時に500年後、地球に衝突することが確認された。すでに、地球温暖化による気候変動がはじまっており、人類は不安とあきらめと、雑然とした享楽の中に生きていた。
 数年後、アワワールド社社主のハイラム・パターソンはそんな時代に画期的な発明を行った。ワームホールによる遠隔地の映像情報の取得である。タイムラグなし、相手側の送信装置なし。ただ「ワームカム」装置に向かい、座標を検索し、特定し、追尾するだけ。秘密やプライバシー、かくしごと、はかりごとのすべてがこのときより無と化した。
 その情報を最初にかぎつけたのがFBIであり、最初の大口顧客となったのがアメリカ政府であることは何の不思議もない。
 やがて、ワームカムは人々に知られることとなり、装置は小型化し、パーソナルコンピュータのように普及していく。世界が、人類の価値観が変わっていく。
 そうして、ワームホールとワームカムの技術開発はよりすすめられ、やがては「過去」を見ることが可能になっていく。時間と空間はワームホールにとっては特に差のあるものではない。未来を見ることはできなくとも、過去を見ることは可能になっていく。それもまた世界を、人類の価値観を変えるものになる。
 あらゆることが観察可能になったら?
 あらゆることが現在および過去に向かって観察可能になったら?
 このふたつの技術的外挿と、「500年後に地球がなくなるとわかったら」という社会条件の外挿。
 それが、本書「過ぎ去りし日々の光」である。
 アーサー・C・クラークらしい、率直な技術の革新と社会の変化。
 スティーヴン・バクスターらしい、壮大な人類の変化。
 まったくの古典SFである。だから、安心して読める。そして、安心していろんなことを考えることができる。
 サイバーパンクではなくても、近未来の人類の変化を書くことができるのである。
 あらゆることが観察可能になったら?
 あらゆることが現在および過去に向かって観察可能になったら?
 さて、あなたは何を見つけに行くだろうか?
 500年後、あなたが死んだ後のそう遠くない未来に地球の生態系が完全に破滅すると分かったら?
 さて、あなたは何をするだろうか?
 インターネットや携帯電話(情報端末)の普及による過去10年の変化と、今行っていることをふまえながら、想像してみたい。
(2008.09.08)

第七の封印

第七の封印
WYRMS
オースン・スコット・カード
1987
 昔ながらの古本屋さんを見かけると、ちょっとだけ立ち寄って、何か掘り出し物がないかどうか探してみる。3冊100円というコーナーに古びた本書「第七の封印」をみつけた。カードの作品は「エンダーのゲーム」シリーズのほかは、一部しか読んでいない。オースン・スコット・カードの宗教観が強く出てくると読みづらい気持ちになるからである。本書の邦題は「第七の封印」。もろ宗教的タイトルである。そこで敬遠していたのだが、1冊だけハヤカワSF文庫が棚で日に当たっていたので、ついつい救済してしまった。ほかに選ぶものもなく、1冊だけを買い求めると、「1冊でも100円」とのこと。黙って100円を支払う。
 さて、原題は「WYRMS」。読み終わってから調べてみたのだが、古い言葉で、虫、大きな芋虫のような虫、ドラゴン、大きな蛇みたいな意味があるらしい。「ワーム」の古い綴りのようなものかもしれないが、ドラゴンと訳してある物もあった。このあたり、語感と語彙に日本語とのずれがあって悩ましい。「WYRMS」が訳しにくい単語でもあるし、邦題を「第七の封印」とつけた気持ちは分かるのだが、もし、「WYRMS」に該当する日本語があって、それが邦題になっていたら、もっと理解しやすい作品であっただろうし、宗教的だ!と構えることもなかったかもしれない。私がタイトルに先入観を持ちすぎるのかも知れないが。実際、カードの宗教観がたっぷり入っている作品であることは間違いないが、読んでおもしろかったのも事実。
 さて、昔々遠い昔のこと、宇宙船コンケプトアン号に乗った人類が惑星イマキュラータに降り立った。伝説によると、船長が狂ってしまったという。惑星イマキュラータはとても変わった惑星であったが、鉄などの金属がほとんど採れなかった。人類はそこで生き延び、国をなし、古来人類の宗教が移ろいながらも、人々は宗教心篤く生き、惑星の生態系を変え、繁栄していった。
 国は王国となり、あるときは統一され、あるときはいくつもの国に分かれ、それでも人々は生きていた。ピース卿は大国・七国王のオルクに仕える外交官/暗殺者である。しかし、彼の父はかつての王であり、オルク王はピース卿の父を暗殺して王になった男であった。オルク王は、その才覚によりピース卿を殺すより手元に置いておく方が国の安定になることを知っていた。ピース卿には、13歳の娘ペイシェンスがいた。ペイシェンスもまた、その忠誠を常に疑われながらも、父のピース卿とともに外交官/暗殺者としてオルク王に仕えていた。
 しかし、ペイシェンスは、正当な王の後継として、また、伝説の宗教的救い主であるクリストスを生むべく約束された「第七かける七かける七代の娘」として多くの人々の隠れた信仰と敬愛の対象でもあった。
 ピース卿の死によって、ペイシェンスは自らの運命と立ち向かうこととなる。343世代前に予言された彼女の運命とはなんなのか?真実なのか? オルク王の刺客から逃れ、ペイシェンスは自らの運命と立ち向かうために惑星イマキュラータを旅し、すべての秘密の源であるクラニングスに向かうこととなる。旅の途中で人間や亜人間の連れを見つけ、やがて彼女は惑星に隠された大きな秘密と罪に向き合うこととなった。
 この惑星イマキュラータは実に不思議な惑星である。人類が持ち込んだ動植物やもともとイマキュラータにいたと目される動植物は、その動植物を研究し、観察するものの意志によって自ら品種改良していくのである。その不思議な交感の原因は不明なままに、まるで人類をイマキュラータが迎え入れてくれるような状況に人々は慣れていた。すでに、343世代、数千年が過ぎており、人類の知恵や知識は惑星イマキュラータの現実に沿った形で変わっていたのである。しかし、この惑星イマキュラータの生態系と動植物の変異こそが、大いなる秘密であった。
 ペイシェンスの旅は、この秘密を解き明かし、人類と惑星イマキュラータが真に合一するためのものであった。惑星イマキュラータの秘密とは、人類が抱えてしまった業とは?
 本書「第七の封印」と同時期に書かれたカードの作品に「死者の代弁者」(1986)がある。「エンダーのゲーム」の直接の続編であり、エンダーが成長し、生きるために必要な場所を探す旅に出る。ここで、カードは惑星ルジタニアを登場させ、そこのきわめて種類の少ない生物群でできた惑星生態系と、その惑星の生命と人類のコミュニケーションについての物語を書き表した。
 本書「第七の封印」はもうひとつの「死者の代弁者」である。もしかしたら、惑星イマキュラータにエンダーが行くことになったかも知れない。もちろん、惑星ルジタニアの生命や生態系と、惑星イマキュラータのそれは大きく異なっているが、人類と非人類および惑星生態系との対話=コミュニケーションのあり方はとても近いものを感じる。
 そこで語られているのは、人類と他の生命体や生態系との対話の可能性である。
 このふたつの作品「死者の代弁者」と「第七の封印」はいずれもカードの倫理観、宗教観が強く出ている作品である。しかし、だからといって作品としての価値を減じるものではない。ここに描かれたふたつの惑星のふたつの生命のあり方は、まさしくセンス・オブ・ワンダーである。「エンダーのゲーム」を読み、「死者の代弁者」「ゼノサイド」と進んだ人は、私のように先入観で敬遠することなく本書「第七の封印」にも手を伸ばしてみて欲しい。
(2008.09.08)

遙かなる地球の歌

遙かなる地球の歌
THE SONGS OF DISTANT EARTH
アーサー・C・クラーク
1986
 2008年、地球上のすべての政府に渡された「太陽系内反応についての若干の覚え書」は、太陽系の終わりを予言する科学報告であった。太陽の内部に変調があるという。世界の終わりは、すくなくとも1000年後と予想された。
2553年、人類は最初の播種宇宙船を宇宙に出す。ロボットと凍結胎児、慎重に選択された人類のライブラリや生物を乗せた船である。2786年、アルファ・ケンタウリAの惑星から最初の播種計画から成功のシグナルが到着する。20隻以上の播種船が様々な太陽系を目指していった。その後、2700年には凍結胎児ではなく遺伝情報と各種装置、ロボットを運ぶようになった。その惑星のひとつ水と島の惑星サラッサでは、人類の末裔たちが自ら新たな社会を築き日々の暮らしを過ごしていた。限られた陸地を最大限有効に活用するため、自ら人口規制を敷いて人類の生存を確実にするため生きる人々。その歴史は700年になる。
 その惑星サラッサに、恒星船が到着する。知的生命体とのファーストコンタクトの相手は、地球からやってきた人類であった。
 3500年、太陽系最後の日を近くに迎え、人類は最後の科学技術的ブレークスルーに間に合い、量子駆動を実現し、近光速船の実用化と冷凍睡眠の技術を手に入れた。
 3600年代になり、恒星船による人類の最後の大移住がはじまる。それは本当になんとか間に合ったのであった。彼らは、太陽系外から太陽系の最後の日を目にし、新たな惑星を目指してサラッサに立ち寄ったのである。
 同じ人類でありながら、ふたつの異なる道を歩んできたサラッサ人と最後の地球人たちの日々が、クラークの優しい筆致で描かれる。
 美しい海を生きるサラッサ人は、クラークにとっての理想の人々なのかも知れない。
 クラークが、チャールズ・シェフィールドの「マッカンドルー航宙記」(1983)で登場した量子駆動を受けて、恒星間ラムシップの可能性を広げたのが本書「遙かなる地球の歌」である。いよいよ、人類は科学的な理論をベースにして限りなく光速に近づくアイディアを手に入れたのである。
 そうそう、先頃読んだ「量子真空」(アレステア・レナルズ 2002)も、ほぼ光速まで近づいていた。「第二創世記」(ドナルド・モフィット 1986)も、同じ方法で銀河系をまたいでいたなあ。
 私たちの細部には、私たちが制御できない信じられないエネルギーが波打っているのだ。
 そして、私たちのはるかに広く大きな時空では信じられないエネルギーが激しくうごめいている。
 その間にいる私たち。そして物質の構造体としての人間。不思議ねえ。
 海の波音でも聞きに行こうかしら。
(2008.08.24)

量子真空

量子真空
REDEMPTION ARK
アレステア・レナルズ
2002
 アレステア・レナルズのレヴェレーション・スペース(宇宙史)に属する超長大長編「量子空間」の登場である。ハヤカワSF文庫。文庫で1200ページ越え。値段も当然1600円+税(2008年現在、消費税5%)。「啓示空間」「カズムシティ」をしのぐ分厚さである。もうそれだけでお腹いっぱい。本屋さんでも何冊も置けないだろう。
 ハヤカワSF文庫は怒濤のレナルズ翻訳出版である。長編「啓示空間」「カズムシティ」短編集「火星の長城」「銀河北極」のいずれも分厚く、いずれもレヴェレーション・スペースの宇宙史に属している。簡単に言えば、光速に規定されながら人類が太陽系外宇宙に生存域を広げていく宇宙である。人類は、いくつかの分派に分かれ、その分派間の戦争と貿易を行いながら、版図を広げようとしていた。宇宙には、知的生命体の痕跡や遺跡、異星生命体の存在は発見されていたが、コミュニケーション可能な知的生命体の存在は知られていなかった。「啓示空間」では、その非人類知的生命体の遺跡の研究に情熱を燃やすひとりの男が主人公となり、遠く離れたふたつの星系とその間を航行する恒星間人類船を舞台に終盤に向かって長い長い物語が続いた。
 本書は、この「啓示空間」の直接の続編にあたる。であるからして、「啓示空間」は読んでおいた方がよろしい。しかし、「啓示空間」はとても、とても読みにくかった。途中、何度も放り投げようかと思った。いや、読みにくいというのは、文章が悪いとか、構成が悪いということではなく、「どんな気持ちで読めばいいのかが分からないままに連れて行かれた」ということなのだ。なんと言っても長く、まじめそうなストーリーである。本格ハードSF的なにおいもする。そこが間違いだった。これは、長い長いエンターテイメント小説なのだ。言ってみれば、スペースオペラ映画のようなものだ。そうそう、「スターウォーズ」である。戦争と人々の伝説なのである。最初からそう思えば、「啓示空間」ももっと楽しめたろうに。
 ということで、まず、本書「量子空間」とも関わりのある、短編集「火星の長城」「銀河北極」を読んでから、次に、心を決めて「啓示空間」を読み干し、それから、ついでに「カズムシティ」でも読んで、ちょっと一息ついてから本書「量子空間」にたどり着くのがよろしいかと思われる。
 さて、舞台は2605年のささいなできごとをプロローグに幕を開ける。どうやらこの銀河系には、一定の水準に達した知的生命体を絶滅させる機械が遠い昔に放たれているらしいのである。人類の活動は、ついに機械を人類の版図に呼び寄せてしまったようである。
 人類の主要な植民星のひとつイエローストーン星は「カズムシティ」で主要な舞台となった惑星である。融合疫によってナノマシンが暴走し、生物と鉱物とコンピュータ類を融合させ、変形させてしまった星は、激しい戦争の渦中にあった。人類の一派である連接脳派と無政府民主主義者の戦争は、やがて連接脳派が圧倒的な勝利となることが明らかになりつつあった。ここにひとりの無鉄砲な星系内運送業者アントワネット・バックスが登場する。彼女にしかわからない理由によって巨大なガス惑星に向かう彼女。しかし、そこはまさに無政府民主主義者と連接脳派が交戦している現場であった。重力にとらえられ、自力で脱出できなくなったアントワネットは、連接脳派に救いを求めるという意外な行動に出て一命を取り留めるが、それが彼女の人生を大きく変えていく。連接脳派は、その名の通り、脳の神経を増強し、ネットワークで結ぶことで常時つながり大きな知的活動を行う人類一派を指す。そのため、他の人類からは「クモ公」と呼ばれていた。ちなみに、無政府民主主義派の悪口は「ゾンビ」である。アントワネットは、かつて人類の他の派を裏切り、連接脳派に寝返ったネビル・クラバインの気まぐれによって救われ、やがてクラバインとの関わりを持っていくことになる。クラバインは、連接脳派の研究と調査によって人類に知的生命体抹殺の機械が迫っていること、そこからは逃れることが難しいことを知り、連接脳派だけでなく他の人類も救おうと動き始めたのである。
 一方、「啓示空間」で主要な舞台になったのがリサーガム星。「啓示空間」は融合疫以前のイエローストーン星からわざわざ過去の知的生命体文明が滅んだ理由を探しにやってきたダン・シルベステの物語であった。それから60年以上の歳月が過ぎた。
 当時、近光速船ノスタルジア・フォー・インフィニティ号でイエローストーン星からリサーガム星にやってきたイリア・ボリョーワとアナ・クーリは、その間、冷凍睡眠をはさみながら星系内に残っていた。なぜならば、ノスタルジア・フォー・インフィニティ号は動きたがらないからである。しかし、機械がリサーガム星の近くで動きを見せていることはふたりの共通の懸念であった。いよいよ知的生命体を絶滅においやる機械がリサーガム星にねらいをつけているようである。時間の猶予はない。
 ここに、抹殺機械(ウルフ、インヒビター)との絶望的な戦いがはじまる。
 はたして人類は生き残れるのか?
 どの人類が生き残れるのか?
 宇宙船同士の戦闘、宇宙船内での激しい戦闘、さらにレンズマンもびっくりと宇宙規模の兵器が登場しての大戦。派手なアクションはこれまでのシリーズ最高。
 とにかく楽しく読もう。
 個人的に一番好きなのは、連接脳派の「悪役」スケイドちゃんの頭。鼻梁の少し上、額の中央から、頭頂に向かって正中線に沿って後頭部まで弧を描く突起。これって、ウルトラマンの頭だよなあ。この側面はちょっとした動きや心理状態で七色に変化するのである。かっこいい!これだけでも、本書「量子真空」が楽しむための一冊である裏付けになる。
 ま、とにかく読んでみて。
(2008.08.24)

木星強奪

木星強奪
THE JUPITER THEFT
ドナルド・モフィット
1977
 21世紀中旬、人類はいよいよ木星探索に向けて準備を進めていた。木星探査船は、世界の二大勢力となったアメリカと中国の共同によって進められている。国際協力と言えば聞こえはいいが、協力の理由は、アメリカと中国それぞれが持っている技術がブラックボックスになっており、そのどちらも探査船のエンジンには必要だったからだ。つまり、どちらの勢力も単独では木星探査が可能なエンジンをつくることができなかったのである。
 時のアメリカと中国は社会体制が違うものの市民・人民にとっては同じような存在となっていた。アメリカには強力な「信頼性委員会」が市民の思想を管理しており、中国でも同様であった。
 さて、まもなく迫り来る木星探査船の出発を前に、月の裏側の宇宙観測所では、異常事態をとらえていた。破滅的なX線源が高速で太陽系に突入しようとしていたのだ。このままでは人類は絶滅してしまう。しかし、そのX線源はやがて速度を落とし、太陽系にとどまろうとしていることが判明した。目的地は「木星」。そのX線源であった飛行物体に知的生命体が乗っているとは考えにくいが、可能性は捨てきれない。明らかに人類よりもはるかに進んだ科学技術による飛行物体であることは間違いない。
 突然、木星探査船の目的はまったく違うものとなってしまった。
 しかし、地球の官僚主義的統制社会は、この太陽系規模の突発的できごとに対応できるような状況にはなかった。疑心暗鬼が統制の根底にある社会では、異質なもの=排除するものとなってしまう。もし、知的生命体と遭遇できたり、その技術の一端に触れることができれば限りない技術的発展があるだろう。しかし、それ以上に、片方の勢力がそれに触れることの危機、自らの現状を変えてしまうことの危機が存在した。  人類は、そして、太陽系はどうなってしまうのか?
 そして、タイトルにある「木星強奪」の意味は?
 もうずいぶんと古い作品であり、今は絶版になっているから、少しだけ種明かしをしても許されるだろう。もちろん、白鳥座X-1方面からやってきたこの飛行体には知的生命体が乗っていた。本書では、便宜的に「白鳥座人」と呼ばれる。そして、都合のよいタイミングの木星探査船は、もちろん、ファーストコンタクトを果たす。
 ということで、ファーストコンタクトものである。
 1973年にアーサー・C・クラークが「宇宙のランデブー」を発表しているが、こちらは、太陽系に飛んできて、スピードも落とさずに去っていってしまった。一方、「木星強奪」の方は、「宇宙のランデブー」の小惑星ラーマよりも限りなく早い速度で太陽系に飛び込んできて、そこにとどまり、あまつさえ「木星強奪」してしまう。ストーリーや展開は大きく異なるが、「宇宙のランデブー」の影響も随所に見られる。
 本書「木星強奪」が発表された1977年は、映画「未知との遭遇」が発表された年でもある。アメリカでは1974年に辞任したニクソン大統領のウォーターゲート事件の余波が残っており、ベトナム戦争の終結とともに心を病んだベトナム帰還兵の問題が深刻化していた。中国では文化大革命が1977年に終結されるまで吹き荒れていた。
 そういう時代の空気が素直に反映された作品である。
 時代背景を知らずに読むと、911以降の世界を描いた作品化と思える部分も出てくるが、あくまで70年代が時代背景にあることをふまえておく必要がある。現在と70年代後半がどことなく似ているのは、それはそれで恐ろしいことなのだが、人類はそうそう成長しないのである。
 さて、ドナルド・モフィットについてなのだが、90年~91年にかけて、本書「木星強奪」に続き「創世伝説」「第二創世記」と3冊の長編作品がいずれも2分冊で翻訳出版されている。そのときに続けて買って読んだことを覚えている。その後、私は引っ越しを決め、袋2つ分の本を古本屋に持って行った記憶がある。SFも何冊か混ざっていて、この作者のものも出そうかどうか迷ったという記憶がはっきりとある。つまり、その際に「これは再読しねーな」と思ったのである。
 本書「木星強奪」を18年ぶりに読んで、どうだったか。
 実は、解説の中でも書かれているが、前半がのたのたしているのである。それに、ハードSFであるのだが、人物描写や社会描写に力を入れているところがあって、とりわけその人物描写に時々突っ込みたくなってしまうところがある。それがのたのた感を出してしまうのかもしれない。
 ハードSFとしてのアイディアやまとめかたはさすがであるが、人物描写や社会描写をどう読むかである。これは、同じハードSF作家であるJ・P・ホーガンなどでも見られることで、私がホーガン作品を最近読まないのもそのあたりに理由があるのだろう。
 難しいね。このあたりの評価って。
 結局のところ、自分で判断するしかないのだし。
(2008.8.11)

第二創世記

第二創世記
SECOND GENESIS
ドナルド・モフィット
1986
 ドナルド・モフィットが1986年に発表した「創世伝説」の続編が本書「第二創世記」である。1986年に発表されていることから、一連の作品として書かれていることが分かる。実際のところ「第二創世記」は「創世伝説」の後半部分と言ってもいい。もちろん、「創世伝説」はきちんと結末を迎えている。ここまでで満足してもまったく問題ない。一方、「第二創世記」の方は、もし、「創世伝説」を読んでいなければ、いまひとつストーリーに入り込むのに時間がかかるかもしれない。そういう言葉があるとすれば「続編感」に満ちているのだ。だから、「第二創世記」をこれから読もうという人は、古本屋さんで、「創世伝説」を探して読んでからの方がより楽しめる。まあ、そこまで力を入れて探すほどのこともないかかもしれない。
 ということで、いつものことだが、ここからは前作のネタバレ満載である。
 間違って来た人には申し訳ない。即刻このサイトを離れ、3700万光年の果てまで旅をしてきて欲しい。
 まあ、正直なところネタバレしても困らない感じもするのだが、やはり、新鮮な気持ちで読みたいではないか。
 前作「創世伝説」で、原人間のデータの中に潜んでいて不死化ウイルスを再発見して実用化したブラム。それだけではない。前作でナーとの間に新たな関係を構築し、ハドロン光子!によるラムスクープエンジンと生きている真空ポプラ宇宙船イグドラシルの連結恒星船に乗って3700万光年離れた人類の故郷を目指すことになった。ナー社会の人類15000人のうち実に5000人がイグドラシルに乗り込み、光速に限りなく近い速度を出し、ナーの銀河中心部にあるブラックホールを利用してさらに加速し、人類の銀河をめざすのである。その過程で、かつて原人類がそうであったように、ナーの生命と生態系、文明のデータをイグドラシルから送信し、ナーが宇宙に広がるのを手助けすることとなった。
 舞台の前半はイグドラシルとイグドラシルの搭乗者にとっては時間が早回りしている外の宇宙世界の物語であり、後半は、原人類が滅んだ後の7400万年後の銀河の姿が描かれる。
 相対論的時間効果が激しいので、ちょっとだけメモしておこう。
 物語は、イグドラシルがナーの銀河中心部を目指して、主観時間で20年後にはじまる。もうまもなく銀河中心部である。外では5万年の時間が過ぎている。このナーの銀河中心部で、不死となったブラムほかの人間たちは、この銀河に迫り来る危機を知る。しかし、それをナーに伝える方法はもはやない。そして、それは彼らとは違う時間軸でのできごとでもあった。
 それから3年後、イグドラシルは銀河と銀河の間の何もない空間をほぼ光速で疾走していた。外の世界では20万年が過ぎ、ナーと、彼らを送り出した人間の文明も滅んだようであった。
 そして、500年後。3700万年後の未来である。実に、原人類の送り出したデータが別の銀河の知的生命体ナーによって受信され、人間が復元されてから7400万年が過ぎていた。
 もちろん、原人類の姿はないが、そこには原人類が残した宇宙規模の構造物が遺跡として残っていた。そして、新たな生命体の姿が…。
 いくつかの出来事を経て、イグドラシルは、人類の銀河を離れ、大マゼラン星雲を目指すことになる。それはさらに数十年後のこと。つまりは、100万年後の世界である。
 途方のない未来である。途方もない時間経過である。
 もうびっくり。
 それを見据える不死となった人々。不死であるとはいえ、若返りも含むことから、生殖能力は継続する。つまり、人口が増え、みな一定の青年的容姿で維持される社会が誕生する。イグドラシルの内部は2万人を受け入れても余裕のある空間と能力を持つ。500年の間に、少しずつ人口は増え、事故や不死ウイルスに抗体のある一部の人を除き、死は縁遠いものとなる。そういう社会で、主人公たちはあまり変わらない。おいおい。いろいろ突っ込みたいところはあるが、まあ、遺伝子改変された人類であるし、そういうものだと割り切ればいいのか。
 ストーリーとしては、前作「創世伝説」からの仕込みも含めて、なるほどね、という感じで、とくに驚くようなことはない。設定が途方もないと、驚く気もなくなるのかも。主人公のブラムたちはよく驚いたりしているけれど、代わりに驚いてくれている感じがする。
 そうそう、宇宙で誕生する真空ポプラ宇宙船である。これにブラムたちは「イグドラシル」という名前を付けたが、生命樹のことであるな。20世紀のSFの集大成と言われる「ハイペリオン」(1989 ダン・シモンズ)にも出てくるねえ。本作が元ネタだろうか??
(2008.08.10)

創世伝説

創世伝説
THE GENESIS QUEST
ドナルド・モフィット
1986
 昔、一時期であったが初期のSETI@homeに参加していた。参加していたといっても、自宅で動かしていたサーバ用パソコンにクライアントソフトをインストールし、スクリーンセイバーでコンピュータ時間をささやかに捧げていただけである。その後、自宅内サーバは家庭用NASに置き換わり、FAXサーバもプリンタサーバも、パソコンサーバの必要はなくなり、WEBサーバも安いホスティングサービスが普及したことから、その役目を終えた。古いPENTIUM(クラシック)クラスの自作パソコンが、残骸となって家の押し入れに数台眠っている。電力消費量は減り、メンテナンスの心配も減り、一時期の趣味と消えてしまった。
 本書「創世伝説」の冒頭は、宇宙からのメッセージを月の電波観測所で受信したところからはじまる。ただし、ここからがドナルド・モフィットの見せ場である。今回の電波を受信したのは、宇宙時代をはじめたばかりのナーと呼ばれる種属。そして、電波はナーの父星のある銀河から37000000光年離れた別の銀河から届いた通信であった。それを送ったのは「人類」。1周期50年に渡る膨大なデータを、銀河を渡って届けられるような莫大なエネルギーを浪費して送ってきたのである。そのデータは、ナーが受信をはじめたとき周期の半分ぐらいとなっており、その後1周期が完全に受信され、次の追加データを伴う周期の途中で電波は届かなくなった。以来数百年、電波は再開されていない。そして、別の知的生命体を示す受信は、ナーの銀河からも、どの銀河からも届いてはいなかった。
 おだやかな知的生命体であるナーは、届けられたデータを解析し、科学技術の急速な進歩を果たし、宇宙進出の速度も速まった。それと同時に、生命科学も発展させ、ついには送られたデータから「人間」を生み出し、ナーの社会の中に人間を少しずつ受け入れ始めていた。人間はナーの庇護の元、原人類が送ってきたデータの中から芸術を復興し、社会を少しずつ築こうとしていた。
 しかし、人間の数が1万を超え、人間は再び「政治」を生み出す。ナーから独立し、人類だけの世界をつくり、やがてはこの銀河で優先的に繁栄することを望むものもではじめた。
 主人公の人間ブラムは、幼いころからナーとのコミュニケーション能力に長けた天才的科学者の素養を持つ男の子であった。幼いころには、いつか人類の故郷を目指したいと夢想し、長じてからは、育ての親でありナーの社会でも高い尊敬を集めているヴォスの職業であるバイオサイエンスの分野で働き始めていた。
 その才能に目をつけられ、ブラムは人類の独立を目指す革命的秘密結社に巻き込まれていく。人間とナーとの間に隠し事も、秘密もないと確信していたブラムは、人類の独立を否定しながらも、対処できないままに事態は進展していった…。そして、ついに。
 本書「創世伝説」の中で出てくるガジェットのうち一番壮大で楽しいのが地球のポプラを原人類が改変してつくった真空ポプラである。彗星の巣と太陽の光を求めて宇宙を自ら動き、種を蒔き、育つ生きた宇宙船である。宇宙船というよりも、自立移動のコロニーといってもいい。彗星から水をベースに酸素、水、そのほかの物質を取り入れ、光(X線も含む)を吸収して、エネルギーとする。ナーは、この真空ポプラが自由に繁殖できるよう改変を加え、すでにナーの宇宙進出と合わせて星系外縁部にはこの生きた宇宙船の森ができている。必要に応じて、収穫してくるだけでいいのだ。すごーい。
 本作とは関係ないがモフィットの前作「木星強奪」と本書「創世伝説」の冒頭は良く似ている。前者は太陽系に侵入してきた謎のX線源を月の科学者が発見するところからはじまる。本書「創世伝説」ではナーの科学者が人類の電波を発見するところからはじまる。いずれも、ファーストコンタクトの影を思わせる宇宙的イベントで幕を開け、その世界が変わる様を描いている。ひとつのパターンであるといえる。また、どちらの異星人も重力的に人類とそう変わらない世界の出身であり、相互の接触が可能となっている。
 まあ、ある意味で意外性のない、ご都合主義なのだが、ハードSF作家としてアイディアを読ませるためにストーリーを紡いでいる感じなので、あまり気にしないことである。
 それにしても、3700万光年の果ての人類かあ。なかなか呆然とする壮大さですな。
(2008.08.10)