ポディの宇宙旅行

ポディの宇宙旅行
PODKAYNE OF MARS
ロバート・A・ハインライン
1958
 1971年に「ポディの宇宙旅行」として翻訳され、1985年に「天翔る少女」と改題された作品である。私は、そのはざまの1981年、第六版を手にしている。1981年といえば、高校生の頃で、ちょうど主人公のポドケイン(ポディ)と同年代の頃でもある。そのころ、どんな気持ちでこの本を読んだのか、まったく記憶にない。そして、読み直した記憶もない。実に25年以上本棚に眠っていた1冊である。
 カテゴリーはジュブナイルになるのかも知れないが、そこはハインラインである。「児童向け」ではない。あくまでも少年少女以上という作品であり、大人が読んでもきちんと読めるような作品に仕上がっている。
 ストーリーは、火星歴で8歳数カ月、火星生まれ、火星育ちのポドケイン・フリーズ嬢が主人公。地球歴では15歳ぐらい。大望は、宇宙パイロットとなり、深層宇宙探検隊隊長になることを夢見ている。もうひとつ、いつかは観光地・テラ(地球)を訪ねること。テラには今でも80億人の人達が暮らしているけれど、ポディは人類が地球発祥だとは信じていない。そのポディには弟がいて、この弟が天才的な頭脳を持ち、いたずらの才にもことかかないため、ポディはいつも苦労している。仕事に忙しい両親と地球旅行の計画があったにもかかわらず、両親の都合で計画は中止。そこに彼女の大叔父で火星共和国の上院議員であるアンクル・トムが、ポディと弟のクラークを連れて太陽系周遊のトライコーン号で地球に連れて行ってくれるということに。しかも、トライコーン号は地球に立ち寄る前に金星に降りることになっていた。有頂天のポディにとって心配なのはクラークのいたずらぐらいのこと。
 しかし、彼女はもっとよく考えておいた方がよかったのだ。ふだんは、パブに入りびたりなのに火星では高い尊敬を勝ち得ている大叔父がどうして急にふたりを連れて観光に行こうと言いだしたのか。そこには、太陽系の将来を決する大きな政治の動きがあったのである。いやおうもなく、その不穏な動きに巻き込まれていくポディ。はたしてポディの運命は?
 太陽系内周回宇宙船トライコーン号の擬似的な重力の機構、太陽嵐による災害と防御法など今読んでもなかなかにうならせる表現に加え、火星での人々の社会構造など、SFの魅力たっぷりの作品であるが、なんといっても夢見る行動派少女ポドケインの愛すべき勘違いやきまじめさ、家族への愛情、恋愛体験などが、気恥ずかしくても楽しく作品を読ませてくれる。まあ、もうおじさんだからねえ。気恥ずかしくもないんだが、昔はどうだったのだろう? 自分のことながら、本書「ポディの宇宙旅行」を読んだ高校生の頃の気持ちが気になってしまう。完全なる忘却。人間は忘れることで生きていけるのだなあ。
 ところで、本書「ポディの宇宙旅行」の最後は意外な結末で終わる。「ええっー」と取り残された気分になるところもあるのだが、これもひとえに主人公がポドケインであるが故。もし、もっとアンクル・トム的な政治ストーリーSFを読みたかったら、「月は無慈悲な夜の女王」を手にとってはいかが?
(2008.06.28)

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?
DO ANDROIDS DREAM OF ELECTRIC SHEEP?
フィリップ・K・ディック
1968
 昭和52年3月15日初版発行の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」が手元にある。1977年発行であるがおそらく購入したのは1980年以降だと思う。私にとってはじめてのディックである。映画「ブレードランナー」の原作として知られているが、私が映画を見たのは1983年以降のこと。今となっては、この映画の原作だから購入したのか、タイトルに惹かれて購入したのかさえ覚えていない。当時の表紙は中西信行氏が描いた、羊とさばくと画面の中の男というとてもシュールなものであった。映画公開後か、再評価されてブームになってからなのか、一度映画のシーンが表紙になって売られていたこともあったと記憶する。しかし、それさえも忘却のかなた。人間は忘却の生きものである。
 久しぶりに本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」を手にとって読み直してみた。おそらく3回目か4回目である。映画「ブレードランナー」も何度となく見ているが、こちらはまったく別の作品として心の引き出しの別のところにしまってある。
 ちょっとだけおさらいをしておくと、本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」が発表されたのは1968年。日本で翻訳、出版されたのが1977年。映画公開は1982年。ディックが亡くなったのは映画公開前の1982年3月。そのため、映画「ブレードランナー」には、ディックの思い出に捧ぐという献辞が添えられている。映画「ブレードランナー」が出た頃は、SF映画ブームで、サンリオSF文庫も登場しており、1980年代前半には日本でディックにある程度の注目が集まっていた。
 本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」は、数あるディックの作品の中でも比較的読みやすく、理解しやすい作品である。
 物語は、1992年の地球が舞台。最終戦争によって放射能汚染してしまった地球には、限られた人間たちが息を潜めて生きていた。動物たちはほぼ絶滅し、地球に残る人々にとっては生きた動物をペットとして飼うことが自らの存在価値にさえなっていた。
 政府は火星への移住政策を押し進め、移住者には人間そっくりのアンドロイドを無償供与していた。アンドロイドたちは、有機体でできており、その寿命が限られるほかは、まったく人間と見分けがつかない。時に、アンドロイドたちは火星を脱出し、地球に逃げ込んでくる。この逃亡したアンドロイドを殺害するのがバウンティ・ハンター(賞金かせぎ)の仕事である。警察に雇用された公務員であるが、歩合制の側面もあり、高額な賞金が保証されている。主人公リック・デッカードもそのひとり。マンションの屋上で飼っていた羊に死なれ、隣人の手前やむなく電気羊を飼っている男。妻はバスター・フレンドリーの終わりなきワイドショーと感情をコントロールする情動(ムード)オルガンにおぼれ、現実との接点を失いかけている女。
 8人のネクサス6型アンドロイドが北カリフォルニアに潜入した。デッカードの上司がふたりを片付けたものの3人目を性格テストで確認しているときに撃たれてしまう。アンドロイドを人間と見分けるには、性格テストで判断するしかない。アンドロイドには共感能力がないのである。だから、人々が他者との一体感や共感を求めて日々利用する「共感ボックス」と、その中で共感の焦点となるウィルバー・マーサーの苦悩をアンドロイドは知ることができない。
 しかし、新型アンドロイドの検査・確認法は、もしかしたら人格障害のある人をアンドロイドと誤認するのではないかとメーカーから指摘され、デッカードはメーカーであるローゼン協会を訪ねた。そこには社主の娘で美しきレイチェル・ローゼンがいた。
 彼女との出会い、そして、6人の人間そっくりなアンドロイドをしとめるという過酷なミッションの中で、デッカードは共感の行く先を見失い、そして生きるすべをあらためて見つけようとする。
 そういう物語である。人は共感なくしては生きていけない。共感は人間だけのものであろうか、共感をなくしたら人ではなくなるのであろうか。共感を持たなくても、共感を求める者は人ではないのか?
 さて、本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」には、「キップル」という概念が登場する。このキップルは「火星のタイムスリップ」では「ガブル」「ガビッシュ」と呼ばれているもので、生活における無秩序の拡大というような意味である。エントロピーの法則とも近いが、それがたとえばダイレクト・メール、ガムの包み紙、昨日の新聞、からっぽのマッチ箱として具象化される。それは自己増殖するのである。
 私の回りもキップルだらけで、キップルとの戦いは時々するだけにしている。
 怖い怖い。
 怖いついでに、告白も。高校時代前後に入手した文庫本には時々、線が引いてある。本書「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」にも、青いボールペンか万年筆のあとが1カ所あった。12ページである。リック・デッカードが妻に対して情動オルガンで気分を良くするよう働きかけたところ、妻が冷たく怒るシーンである。
「まっぴらだわ、ダイヤルを回す意欲が湧くように、大脳皮質への刺激をダイヤルするなんて!いま、なにがしたくないといって、それぐらいダイヤルしたくないものはないわ。だって、もしそうすれば、ダイヤルしたくなるにちがいないし、ダイヤルしたくなる気分というのは、いまのあたしには想像できないほど縁遠い衝動だからよ」
 なぜ、25年ほど前の僕は、ここにだけ線を引いたのだ?
 ほかに引くところはたくさんあるだろうに?
 人間は、共感の生きものである前に、残念ながら忘却の生きものでもある。
 難しいものだ。
(2008.06.13)

WORLDWIRED 黎明への使徒

WORLDWIRED 黎明への使徒
WORLDWIRED
エリザベス・ベア
2005
「サイボーグ士官ジェニー・ケイシー」は、第一作「HAMMERED 女戦士の帰還」第二作「SCARDOWN 軌道上の戦い」第三作「WORLDWIRED 黎明への使徒」と、本書をもって幕を閉じる。三部作というよりひとつの作品である。一作ごとにスケールが大きくなり、ついには…。
 っと。前2作品を読んでいない方は、ここまで。明かなネタバレを含むおそれがあります。こんな駄文を読むよりも、本書を含む三作品にお金を払って、時間をかけて読んだ方がいい。ずっといい。とはいえ、何か役に立つわけではない。楽しく時間を過ごせるというだけであるが、それでも、読んだ気になるのと実際に読むとではまったく違う体験である。人生に深みを与えてくれる作品ではないが、人生を楽しませてくれる作品である。
 だから、以降は自己責任で。怒らないこと。
 英雄として世界に知られたジェニー・ケイシーちゃん。誕生日を迎えてもますます若返っていく様子。ワールドワイヤード=人工知性体リチャードと異星人テクノロジーを応用したナノテクロボットネットワークによって生み出された新たな通信/情報/行動ネットワーク。リチャードとカナダ首相は、このネットワークの力を生かして地球のスノーボール化という最悪の気候変動だけはなんとか止めようと奮闘している。そのための世界政府樹立も念頭に置きながら動いているが、カナダと中国の対立は深まるばかり。さらに、これまでカナダを支援してきた世界企業が別の思惑を持って動き回っている。世界は取り返しのつかない戦争への道を歩んでいる。
 一方、人類が異星人技術を応用したナノテクロボットを広域に利用したことや、やはり異星人技術を利用して恒星船を太陽系内に飛ばし始めたことをきっかけとしてふたつの恒星船が地球近辺にに現われた。それは、火星で発見された2隻の恒星船遺跡とそれぞれ似ていることから、どちらも「贈り主」であると想定され、ジェニーも乗り組んでいる恒星船モントリオールが彼らとコミュニケーションをはかるためのミッションに着手する。どうやら「言語」を持たない2種属であるらしい。一体、彼らは何を目的にここに現われたのか? どんなコミュニケーション手段があるのか? そもそもコミュニケーションできるのか? そして、彼ら「贈り主」の目の前で人類はお互いを殺し合う究極の戦争をはじめてしまうのか?
 緊迫する情勢の中、鍵を握るのはやはりジェニー・ケイシー。
 地球規模の気候変動を人工知性体とそのネットワークがコントロールしようというのは、ジョン・C・ライトの「ゴールデン・エイジ」シリーズで完成された形で出てきている。「ゴールデン・エイジ」は、人類が人工知性体、有機体の区別なく、また、バーチャルとリアルの区別なく存在するようになった姿を描いているが、本書「WORLDWIRED 黎明への使徒」は、シリーズが始まった2062年から2063年の終わりまでのほぼ1年の物語である。この1年で地球と人類は大きな変化を迎えるが、これがすべての人々に浸透するまでにはまだまだ時間がかかるであろう。変化は今はじまったばかりである。
 さて、本「ジェニー・ケイシー」三部作では、地球温暖化と戦争による大規模な気候変動を直前に迎えた人類という姿が描かれる。人類社会の一勢力は早くに地球の行く末を案じ、現在の技術の延長で恒星間移住船を作り、片道切符で送り出した。
 そこまではSFではなく、未来小説の設定である。ここからが外挿。ひとつは、異星人テクノロジーによる恒星船の建造。もうひとつは、これも異星人テクノロジーであるがナノテクロボットの応用。そして、人格と知性を備えた人工知性体の誕生。この3つの外挿をふまえて中心に主人公ジェニー・ケイシーが据えられている。責任感が強く、その一方でとてもナイーブな心を持ち、芯は強いのに、弱い側面も多々見られる。誰かに頼りたいけれど、誰にも頼りたくない。頼られたいけれど、頼られたくない。大人でいたいけれど、子どもでもありたい。責任は果たしたいけれど、逃げたい。逃げたいけれど、逃げられない。感情的だけれど、冷静でもある。冷静だけれども、気持ちで動いてしまう。面倒くさいタイプである。しかも50歳。壮年のお年頃。さらにサイボーグ。強化人間としての苦悩も欠かせない。「仮面ライダー」に見られる悲劇の主人公である。
 とても現代的な主人公である。心の中の二面性、葛藤に苦しめられ続ける。こういう人が他者への共感と自らの矜恃を捨ててしまうと極悪人になってしまうのである。他者への共感と自らの矜恃を持ち続けたとき、こういう人がヒーローになる。外面からは計り知れない人格のバランスがある。それが物語を楽しく、おもしろくする。
 だからこそ、この三部作を読むと気持ちよくなる。
(2008.06.13)

人形つかい

人形つかい
THE PUPPET MASTERS
ロバート・A・ハインライン
1951
 2007年7月12日、それははじまった。冷戦下の21世紀のアメリカ。大統領以外は存在を知らない特殊情報機関がそれを察知した。未確認飛行物体の到来と住民の異常な振る舞い。それは、人の肩から背中にかけてまとわりつき、人をあやつり、意のままにする異質な生命体であった。次々と寄生されていく人類。人類と寄生体の存亡をかけた戦いがはじまった。
 侵略ものの古典的傑作として知られ、肩にまとわりついたナメクジ状の寄生生命体というカタチはその後のSFに多大な影響を与えることとなった。本書「人形つかい」では、意思の疎通ができない侵略者として描かれるが、その後、この寄生体は人類のコミュニケーションツールとなったり、機械やナノテク物質になったりしてしっかりとSF界に寄生している。
 本書「人形つかい」は、一方でハインラインのナショナリスト、右翼的発想がぎっしりつまった作品として「宇宙の戦士」と並び嫌悪の対象ともなったいわくつきのものである。アメリカを自ら体現したようなハインラインならではの視点だが、「個」と「個の意志」の発露、そのための社会的に獲得すべき「自由」という線では、ハインラインにあまりぶれはないような気がする。「個の意志」で構成された社会には「自由」があり、それを脅かすと判断したものは実力で排除してでも「自由」は守るということである。まあ、「脅かす」と判断された側にはたまったものではないだろうが。本書「人形つかい」でも、最初から対話の可能性は存在せず、その存在そのものが「悪」であるとする。寄生された方はたまったものではないのだから、そういうこともあるだろう。
 書かれた時代も時代だし。
 いろんな面でいわくつきの作品だが、SFの古典として読んでおく価値はある。ストーリーとしてはわかりやすく、読みやすく、さすが巨匠である。福島正実氏による翻訳もやさしい。
(2008.06.03)

前哨

前哨
EXPEDITION TO EARTH
アーサー・C・クラーク
1953
 先日、異星生命に出会うことのないままに現世を後にしたクラーク老の第一短編集である。日本では、1985年に「前哨」としてハヤカワ文庫SFより出版されている。後書きにもあるが、「前哨」は、映画「2001年宇宙の旅」をスタンリー・キューブリックが制作する際の最初のアイディアをなした作品である。ちょうどこの頃は、日本でもSF(映画、小説)ブームが来ていて、古典的映画の代表作である「2001年宇宙の旅」の再上映なども行われていた時期にあたる。私はちょうど大学生の頃で、とてもありがたいことに、たくさんの映画や小説に触れることができた。
 この短編集に掲載されている作品群は1946年から53年に書かれた作品であり、第二次世界大戦、冷戦の開始、核への恐怖といった社会的背景を色濃く反映しているが、今読んでも古さを感じさせない。
「前哨」(原題 THE SENTINEL)は、手元にある初版の文庫本で15ページほどの小品であり、1951年に発表されている。内容は1996年夏、月面中央基地の研究者がはじめて「危の海-マーレ・クリシウム」を踏査し、あるものを発見して起きたできごとが語られている。「2001年宇宙の旅」を知っている人ならばなんとなく想像がつくであろう。まあ、そういうようなものである。もちろん、映画とは異なっている展開であり、結末であるが、今も多くの人達に影響を与え続けている「2001年宇宙の旅」の「前哨」となった作品であることは間違いない。
 もうひとつ、短編集原題である「地球への遠征」(EXPEDITION TO EARTH)は、1953年に発表されたやや長めの短編である。恒星船で宇宙を探査する先進的な知的生命体とようやく文明の曙にたどり着いた未開の惑星の知的生命体の出会いを描いた作品でイギリス作家らしいウエットとペーソスに満ちている。この作品もまた、ある意味で「2001年宇宙の旅」につらなるアイディアをなすといってもいい。
「前哨」でも「地球への遠征」でも、どちらもふたつの宇宙文明の出会いを描いたものであり、どちらも、ふたつの文明には彼我の差が存在するため、お互いの意図を知ることはない。もし、私たちが別の宇宙文明に出会うことがあるとすれば、当分の間は、科学技術的に私たち人類よりもはるかに進んでいることであろう。そして、向こうからやってくることになるか、その痕跡を知ることになるだけだろう。
 2008年6月3日現在、月にも火星にも人類はいない。人類はかろうじて高度400kmほどの周回軌道上にあるISSに3人が滞在し、7名がスペースシャトル・ディスカバリー号で滞在中である。このSTS-124は日本のミッションであるISSでの「きぼう」船内実験室取り付けが公開されているミッションである。また、故障したトイレの部品交換なども含まれている。
 月では、日本の周回衛星「かぐや」が調査を行っているほか、今後探査機等が各国で予定されており、将来は有人探査も計画されている。1969年から1972年までアメリカによって行われたアポロ計画以来、すでに35年以上月に人類は降りていない。
 火星では、現在、NASAの周回衛星マーズ・リコナイサンス・オービタ、周回衛星2001マーズ・オデッセイ(現在は通信中継)、ESAの周回衛星マーズ・エクスプレスが調査を続けており、火星の地上では、NASAの地上探査車マーズ・エクスプロレーション・ローバ(スピリット・オポチュニティ)と、2008年5月に無事着陸した探査機フェニックスが運用されている。これまでの調査から火星表面には大量の水があるらしいことが分かっており、その実態を調査するための大型探査装置である。
 まだまだこんな状況だが、そのうちいつか誰かと出会うことができるだろうか。
 そう遠くないことを願っている。
(2008.06.03)

わが夢のリバーボート

わが夢のリバーボート
THE FABULOUS RIVERBOAT
フィリップ・ホセ・ファーマー
1971
 本書「わが夢のリバーボート」はリバーワールドシリーズの第2作にあたり、「果てしなき河よ我を誘え」の続編である。
 今回の主人公はサミュエル・クレメンズ。マーク・トウェインの本名である。「トム・ソーヤの冒険」「ハックルベリー・フィンの冒険」などで子どもの頃大変お世話になった作家である。
 第一作で、舞台設定の紹介は終えているため、本書ではたっぷりと舞台設定を活用してドラマを繰り広げることができる。見知らぬ惑星で人類の始祖から21世紀人までの主に成人3600億人が自らの記憶を持ったままに目を覚ました。ひとつの果てしなき河が流れる惑星で人々はひとりひとつずつの聖杯を手にする。この聖杯を河筋に等間隔で置かれる聖杯石に置くと1日2回、聖杯にそれぞれの人の必要に応じた生きるために必要な食事、嗜好品などが転移されてくる。人々は、同時代人、異時代人が入り乱れながらそこに生き、暮らし、愛し合い、時に争う。個人的に争い、集団で争い、奪い、奪われ、殺し、殺される。男女が愛し合っても決して子どもは生まれず、死んでも翌日には別の場所で自動的に復活させられる。壮大な何者かによる実験が行われている。
 その異星人とみられる存在の中にも、この「実験」に否定的な者がいる。人類を救うためか、はたまた彼らの権力闘争なのか、数人の選ばれた人類に秘密が明かされ、河の上流を目指すよう示唆される。
 サム・クレメンズもそのひとりである。
 彼は、巨大な鋼鉄製のリバーボートを建造し、川の源流を目指すことを決意する。
 竹と木しか原料のない世界で、唯一、鉄隕石が落ち、原料が得られる場所であらたな国を作り、社会と産業を築き、他の国と貿易しながらも国家を維持し、リバーボートを完成させ、船出すること。殺されない限りいつまでも老化せず死ぬことのない世界だからこそできる計画である。そして、最大の障害が「殺される」ことである。死ねば、翌日には復活するが、まったく違う「どこか」に復活するのである。自分のいた場所にたどり着くまで何年、何十年、何百年かかるかわからない広い世界ゆえに、彼は殺されるわけにはいかなかった。
 サムは、狡猾なジョン王や、虫の好かないシラノ・ド・ベルジュラックらと手を組みつつ、この難解な課題に取り組んでいく。
 このシリーズの魅力は、歴史上の人物が時代を超えて邂逅するところにある。近年は、ネット上の仮想社会においてAIによる仮想人格で同様の物語が作られているが、リバーワールドシリーズは、それを先取りしている。彼らはみな自分が復活され、特別な状況に置かれたことを自覚している。不老、復活、繁殖不能であることを除けば、できることはかつての生きているときと同じであり、それ以上の能力はない。この条件によって思考や行動は生きていた時とは当然変異する。
 こうやって考えてみると、仮想社会や仮想人格などが新規なものではなく、人類が考えてきた世界観をもとにつくられてきたことが分かる。リバーワールドシリーズでは「異星人の技術」だったものが、技術的裏付けを持ってきたに過ぎない。
 進んだ科学技術は魔法と区別つかない、である。
 だから、物語には意味がある。物語は人々に共通する世界観を認識させる。そして、世界観をゆるやかに変異させていく。
 そんなことをつらつら思ったりしながら、まだ手に入っていない第三作、四作目を探すのであった。
(2008.05.27)

トライアッド

トライアッド
EMPERY
マイクル・P・キューピー=マクダウエル
1987
「アースライズ」「エニグマ」「トライアッド」の三部作である。本書「トライアッド」のみ未読のままはや15年が過ぎた。古本屋に立ち寄ったところ、本書を上下巻で発見。ようやく完結をみることとなった。
 とはいえ、「アースライズ」と「エニグマ」の間には長い長い時間の経過があり、「エニグマ」も、まあ完結しているとも言えるわけで、新たな気持ちで読むことができる。とはいえ、「エニグマ」を読まずに、「アースライズ」を読むと、ちょっと入り込むのに時間がかかるかも知れない。
「アースライズ」は、荒廃した地球の復興もので、ファーストコンタクトものでもあった。
「エニグマ」では、前作から160年後、西暦で23世紀から25世紀を舞台に、地球人類は宇宙に進出し、他の人類種属とともに拡張政策をとる姿が描かれる。
 そして、本書「トライアッド」では西暦で27世紀となり、前作から150年以上が経過して幕を開ける。前2作とは異なり、今回は人類種属の真の敵であり、誰もその姿を見たことのないミザリと呼ばれる敵の存在がある。前作を通じ、この敵の存在を知ったことで、人類種属は宇宙への拡張政策を停止し、内向きになっていた。
 そんななか、統一宇宙機構防衛省長官のハルマック・ウエルズは、見えざる敵ミザリと戦い、勝利するために究極の戦闘艦隊トライアッドの配備を求めて画策していた。一方、統一宇宙機構の絶対的な権限を有する委員会議長は、ミザリにあらぬ刺激を与えることは得策でなく、また、ミザリとの平和的コンタクトが可能ならばその道を模索すべきとして、ウエルズのもくろみを封じ込めようとしていた。統一宇宙機構内部と、地球をはじめとする各惑星政府との間の政争を軸にしながら、得体の知れないミザリとの戦いか、コミュニケーションかという選択はぎりぎりのところに追い込まれていく。
 そういう話だ。
 三部作を通して考えれば、結局のところ「組織と人間」という話が大きな筋で、もうひとつが、「得体の知れない、わからない、知らない」ものを人間はどう扱うかという話である。どちらもSFの基本的なテーマであるコミュニケーションのあり方について語られたものだが、あまりにもこのふたつの本筋がストレートすぎて、少し気恥ずかしくなる。この三部作に限らず、キューピー=マクダウエルの作品はいずれもそうだ。
 それが理由かな、読みのがしていたのは。
(2008.05.05)

SCARDOWN 軌道上の戦い

SCARDOWN 軌道上の戦い
SCARDOWN
エリザベス・ベア
2005
「サイボーグ士官ジェニー・ケイシー」三部作の第2作目は、「SCARDOWN 軌道上の戦い」。この三部作は、毎月翻訳発行するということで、読み終えたところで本屋に並んでいた。早いなあ。
 さて、いつも困るのだが、こういう三部作の第2作は前作と後作の間をつなぐ重要な役割を持つ。前の作品のネタバレをすることにつながりかねないので、書きにくい。しかも、まだ後作を読んでいないので、どこまで書いていいのか、後のことを考えると、それも書きにくい。どうしよう。
 いつものことだが、前作のネタバレ前提で書くことにする。前作を読んでいないと分からない作品だし、三部作で1本と考えてもいいような内容なのである。
 第1作目を読んでいない人は、ここから先は読まない方がいい。絶対!
 軽いストーリーものだから、ネタバレはつまらないではないか。
 ネタバレしてから読んでも、楽しめるとは思うけれど。
 そうでなければ、三部作なんて販売できないのだから。
 それでも、やはり、知らない方が楽しい。
 ということで、第二作を読んだ方、および、
 絶対このシリーズは読まないという方へ。
 本書は、タイトル通り「SCARDOWN 軌道上の戦い」である。
 前作で壊れかけた初老のサイボーグ実験体だったジェニーちゃんは、ふたたび手術を受けて生まれ変わった。50歳でも新たな誕生だ。
 はるかはるか昔のこと、火星に2隻の恒星船が遺棄された。それは人類とは異なる異星知的生命体のものであり、光速を超えた空間移動が可能になる技術や、ナノロボットの技術が使用されていた。カナダ=ユニテック社と中国は、いずれもこの技術を手にし、崩壊しつつある地球生態系を放棄して、他星系への移住を考え、恒星船の建造を行った。
 中国もカナダも、両者の思想は相容れず、いずれかのみが生き残ることを模索して、両者の緊張は高まっていた。
 恒星船を飛ばすには、高度な技能と、ナノロボットや恒星船とのヴァーチャルな融合が欠かせない。サイボーグ実験体として異物との親和性をみせたジェニー・ケイシーは、異星技術を元にしたナノロボットを体内に入れ、最新の技術によって全身の手術を受け、新たな身体能力と新たな人工左腕、目を入手した。そして、恒星船のパイロットとして、軌道上に存在するカナダ軍恒星船モントリオールに乗船したのであった。
 一方、天才科学者エルスペスが生み出した全人格知能(自意識を持った人工知能)リチャード・ファインマンは、ネットの世界を駆け回り、ナノロボットネットワークの高度な機能を発見、活用し、ついにはジェニーの人工知能領域を経由して自らも恒星船に乗り込むことに成功した。
 ま、ここまでは、前作の後半のお話し。
 本作では、地球に取り残され、物語の蚊帳の外に置かれた感のあるレザーフェイスの復讐劇を幕間に起きつつ、軌道上の中国恒星船「黄帝」とカナダ軍恒星船「モントリオール」を、異星船ナノロボットネットワークのハッキングによってこっそりと動き回る人工知能リチャードの活躍や、生まれ変わったジェニーによる軌道上、地球上での身体を張った戦いが繰り広げられる。
 そして、ヴァレンズ大佐の真の目的が明かされる。
 なんと、地球の気候変動は人類が地球上でまったく住めなくなる事態に向かいつつあったのである。中国はすでに地球を見限っていた。ヴァレンズ大佐もまた。
 この物語が幕を開けたのは、2062年8月末のことであった。本書「SCARDOWN 軌道上の戦い」の開幕は同年11月。わずか3カ月の出来事である。そして、本書は2063年1月で終わる。2カ月間で世界が変わる。
 おいおい。なんてこった。本書「SCARDOWN 軌道上の戦い」でも、さらに大変なことが起こり、物語は意外な展開を見せる。
 衝撃!
 わはは。おもしろいぞ、これ。
(2008.04.23)

HAMMERED 女戦士の帰還

HAMMERED 女戦士の帰還
HAMMERED
エリザベス・ベア
2005
「サイボーグ士官ジェニー・ケイシー1」として登場したエリザベス・ベアの三部作第一弾である。私は、食わず嫌いが多くて、こういう最初からシリーズですよ。主人公がヒーローですよ、といった感じの作品はなかなか手を伸ばさない。なんかめんどくさい感じがするのだ。それでずいぶんおもしろい作品を逃しているのは間違いない。
 SF好きの食わず嫌い。困ったものである。
 で、読むことにした。
 2008年3月に出たばかりの「HAMMERED 女戦士の帰還」。
 舞台は2062年の地球。気候変動が進み、海面は上昇し、北アメリカでは夏が暑く、冬は寒くなっていた。食料や資源をめぐり各地で戦争が起き、アメリカは宗教原理主義となり世界の覇権を失い、現在はカナダが世界の警察の役割を担っていた。カナダを支えるのは、多国籍企業のユニテック社。そして、両者の最大の敵は中国。
 主人公は、もちろん「ジェニー・ケイシー」さん。当年とって50歳ちかく。以前はカナダ軍にいて、航空機でのレスキュー作業中に爆発に巻き込まれて死にかけた。半身不随になるところを、実験的手術によってサイボーグ化され、左目は人工眼、左手は金属製の義手、神経系も一部人工化されたことで日常生活は可能になっている。しかし、身体のメンテナンスは欠かせず、生活は辛い。今は、メイカーと呼ばれ、犯罪の多い小さな町でひっそりと暮らしていた。
 ところが、その町に、メイカーことジェニーが以前軍で使用していた特殊な麻薬が入り込む。少年がひとり死に、町の顔役でありメイカーには頭の上がらないステンレス歯の大男レザーフェイスが怒り狂う。麻薬を持ち込んだルートを探すうちに、メイカーが何者かに狙われていることをつきとめたレザーフェイス。どこか知らないところで、何かが起きており、それはメイカーに関わっていた。
 そう、知らないところで、何かが起きていた。
 完全な人工人格を完成させた天才科学者エルスペスは、国家軍事法違反で12年間軍刑務所に入れられていたが、釈放され、かつて彼女を裁判にかけたヴァレンス大佐のもとで働くことになった。
 ふたりの娘を抱えた元軍人で天才的ハッカーのガブ・キャステインもまた、下の娘の難病治療のため、ユニテック社と契約し、カナダ軍とユニテック社の間にいるヴァレンス大佐の指揮下におかれることになった。
 ヴァレンスこそ、メイカーがもっとも恐れ、もっとも憎み、もっとも忌み嫌う存在である。彼女を手術した軍属医学博士であったからだ。
 カナダと中国は火星を中心に宇宙開発でも熾烈な競争を続けている。
 地球は資源と土地と、安定した気候を失いつつある。
 もはやどこにも安楽な生活は、ない。
 末期的な世界で、50歳のハードボイルドな元兵士の女性が、心の中にある正義を秘めながら、世界的な出来事に巻き込まれていく。
 激しい肉弾戦、武器、新しい技術、未来へのかすかな希望と絶望、企業、宗教、世界の荒廃、生態系の荒廃。「HAMMERED 女戦士の帰還」は、満載。
 ハードボイルドアクションSFといったところである。
 さらりさらりと読める。
 何も悩まず、楽しく読める。
 娯楽SFだ。
 ちょっと宇宙をにおわせながらも、舞台はあくまで荒廃した地球。
 いいねえ。好きな設定だ。
 それにしても、舞台は2062年。あと50有余年後である。
 運がとびぬけて良かったりすると、よぼよぼで生きている可能性がある。
 この、ひとつの可能性がある地球は住みにくいなあ。
 明るい希望に満ちた未来の地球はどこに消えていったのだろう。
 ところで、何が「女戦士の帰還」だって。それは読んでからのお楽しみ。
(2008.4.15)

異郷の旅人

異郷の旅人
HOMEGOING
フレデリック・ポール
1989
 巨匠「ニュー・ポール」によるファーストコンタクトものである。先日、「マインドスター・ライジング」(ピーター・F・ハミルトン 1993)を読んだばかりでSFにおける地球温暖化後の世界の登場について考えていたところで、本書「異郷の旅人」を読み始めた。時代はちょっとだけの未来。おそらくは21世紀後半から終盤。人類はその人口を極端に減らし、国家は霧散し、人々は小さな町あるいは都市といったところに細々と暮らしていた。国連や国家に変わり最低限の世界規模警察が維持されていたが世界政府のようなものは存在していなかった。半世紀前に起きた戦術核戦争、地球温暖化による海面上昇と気候変動、さらにはエイズの蔓延により、根本的な変化を迫られたのである。
 戦争の影響によって起きた軌道上のデブリ群によって今後数百年にわたって地球人が宇宙に出ることはできない。限られた土地、限られた資源、限られた人口の中で人々は生きていくしかないのだ。
 そこに近づいてきたのが、異星種族ハクーリ人の巨大な恒星船である。3000地球年前に1兆人を超す母なる恒星系から旅立ち新たな植民地を求めたハクーリ人達は現在22000人のハクーリ人と、膨大な彼らの「卵」を抱えていた。そこにひとりの地球人が乗っており、地球への「帰還」の日を今や遅しと待ちこがれていた。彼の名はジョン・ウイリアム・ワシントン、通称「サンディー」である。彼は地球年で22歳。この恒星船で生まれ、ハクーリ達によって育てられた。半世紀ほど前に地球で戦争が起きた頃、火星軌道上でハクーリによって救出された宇宙船の乗組員夫婦が死にかけていた。妊娠していた女性乗組員はそのまま死亡したが、胎児は助けられ、ハクーリの恒星船で育ったのである。ハクーリの恒星船は、地球が戦争の後落ち着くまでの期間、アルファケンタウリ星系まで植民可能性を探るための旅に出、そして今、サンディーとともに戻ってきたのだ。
 そして、数名のハクーリ人チームとともに、サンディーは地球に降り立ち、地球人のためにいくつかの贈り物をしようとしていた。そのために、サンディーをはじめ、ハクーリ達は、地球からのラジオ、テレビを参考にしていたが、半世紀以上前から、それらの電波が届かなくなっていた。そのため、ハクーリが持っている地球人達の情報は少々古かったのである…。
 ブラックユーモアSFといってもいいかも知れない。異星人に育てられた人間という異星人でも地球人でもない存在が、ファーストコンタクトをまか不思議なものにしてしまう。
 第一、戦争を超えて必死で生き延びている地球人類にとって見たら、こっそりと入ってきた巨大な恒星船というのは明らかに「あやしい」存在である。しかも、その異星人は忘れられた地球人「サンディー」というおみやげを持って、「俺たちは高度な科学技術を持っていて、地球人に提供できるんだぞ」といった態度で迫ってくるのである。
 こりゃあ、コミュニケーションがうまくいくわけがない。
 案の定、どちらも次第に相手が信じられなくなっていく。
 ところが、22歳のサンディー君は、恋いこがれていた地球人の繁殖相手「女」の存在で頭がいっぱい。そんな複雑な2種属の確執にはなかなか頭が回らない。
 そんなサンディー君を中心に、高度な文明は持っているけれど、地球人から見るとどうにも品のない両生類とったハクーリに加え、文明が崩壊してちょっとおかしくなっている地球人が織りなすドタバタ劇である。
 それにしても世紀末だなあ。いや、今ではなく、本書「異郷の旅人」が書かれた当時だ。温暖化、エイズ、戦術核戦争とスターウォーズなどなど、当時言われていた最悪の未来がこれでもかと書かれている。
 実際、この21世紀、気候変動による被害は深刻だし、エイズをはじめとする感染症の被害やリスクも高まっている。幸い、核兵器の使用は起こっていないが、ソヴィエト崩壊後、核の拡散が言われ、いつ、どこで、どのような形で核兵器が使われてもおかしくない状況にある。また、核爆発は起こっていなくても、放射性物質を利用した劣化ウラン弾のような兵器はイラク戦争などで多く使われており、その被害もまた深刻である。
 人口問題に端を発するエネルギー、食料、水資源の奪い合いはすでに始まっており、私たちが暮らすこの日本という国は、次第に「底の浅さ」を見せている。いっそ異星人とのファーストコンタクトでもあればいいのに、と思うぐらいな閉塞感があるのは確かだ。
 確かだが、現実に生きている側はそれほど深刻ではない。なぜなら毎日を深刻に生きることは難しいからだ。悪いなりに楽しいことはある。楽しめることはある。そういうところがあるから生きられる。逆に、そういう風に楽しんでしまえるからなかなか状況を改善できないのかもしれないが、楽しく生きていないとつまらないではないか。
 本書「異郷の旅人」のサンディー君、意外と楽しそうに生きている。
 まだ存命の作者フレデリック・ポールも、人生を楽しんでいるに違いない。そう信じたい。
(2008.04.11)