テメレア戦記Ⅱ 翡翠の玉座

THRONE OF JADE

ナオミ・ノヴィク
2006

 フランス軍のイギリス本土上陸作戦を防ぎ、立派な英国のドラゴン空軍の一員として周りから受け入れられた漆黒のドラゴン・テメレアと、元海軍将校のキャプテン・ローレンス。しかしテメレアは中国皇帝がナポレオン皇帝に下賜した卵から生まれた稀少な竜。英仏の海戦による正当な略奪とはいえ、中国側が黙っているはずはなく、第二巻ではいきなり中国側が皇帝の兄ヨンシン皇子を使節団としてイギリスに派遣してきた。いわく皇帝が皇帝に贈ったものだからテメレアを返せ、戦闘に使うなど論外、さらに高貴なる人間以外がテメレアに乗るなど許されないことでありロー4レンスの搭乗は認められない…。
 英国政府は14年前に中国皇帝を怒らせてしまい、その後の貿易と関係拡大があまりうまくいっていないことからなんとか穏便にすませようとする。つまり、テメレアを返す見返りを求めることで利をとろうということ。もちろん、ローレンスが納得できるものではなく、テメレアもローレンスと離れることなど考えられない。
 さまざまな思惑の中で、ローレンスとテメレア、若き英国外交官のハモンド、中国皇子ヨンシンをはじめとする中国使節団一行は、英国海軍の巨大なドラゴン輸送船アリージャンスでとりあえず中国に向かうことになる。艦長はローレンスの画策でかつての優秀な部下トム・ライリーが再登場。一癖も二癖もある登場人物たちのなかで苦労するローレンス、アフリカの喜望峰を回り、インド洋を抜けて中国へ。途中、フランス軍との海戦があったり、巨大な「アレ」に襲われたりしながら、いよいよ中国へ。はたしてローレンスとテメレアの運命は、ローレンスとテメレアの選択は?

 いきなりの中国。いきなりローレンスを苦しめる英中外交問題。自分の運命を勝手に決めようとする人間たちにむかつくテメレア。
 おいおいナポレオンとの戦争はどうなる?
 それにしても海の旅である。テメレアは船上生まれ、海が大好きな竜だが、成長してはじめての長旅である。第一巻ではローレンスとともに空軍(空を飛ぶ竜の軍)で訓練を受ける姿が話の柱になっていたが、第二巻では海の冒険をたっぷりと味わえる。テメレアはアフリカの奴隷貿易を目の当たりにし、人間の愚かさを知る。船上では英国の竜として育てられたテメレアが、中国の様々な文化にも触れる。英国人同士も、海軍と空軍の考え方や行動規範の違いによる衝突、外交官と軍人の行動規範の違い、中国使節団との緊張含みの複雑な関わり。そこに19世紀時点での英中の階級制度による問題。
 そして中国上陸。竜が数少ない英国と違い、竜が人間と共存する中国。その姿を見たことで得られるローレンスとテメレアの新たな視座。
 はたして彼らはどんな選択をするのか。できるのか。
 結末に選択が待ち構える冒険の旅。読者としてはわくわくどきどきするじゃないか。登場人物たちはとても大変だろうけれど。
 ということで、間違いなく第一巻よりも充実し、おもしろく、わくわくして、どきどきして、そして、しっかり考えさせられる。最高のエンターテイメント歴史改変ファンタジー。

ジューマの神々<バルスームふたたび>

THE GODS OF XUMA OR BARSOOM REVISITED

デイヴィッド・J・レイク
1978

 2024年になった。私もまもなく還暦を迎える。ということは、私よりも少し年齢の高い団塊の世代の諸先輩方の中には、いわゆる終活や早逝される方々も出てくる。すると突然古書店に50年代から70年代の書籍がとても美しい状態でごっそり出てくることがある。そんな本を見かけたらなるべく確保。中身は読んでから考えよう。そうやって手にした一冊が本書「ジューマの神々」である。
「火星のプリンセス」が発表されたのは1917年。それから本書「ジューマの神々」は約60年後に発表されたインスパイア作品である。副題の「バルスームふたたび」であるが、「火星のプリンセス」で主人公ジョン・カーターが冒険した「火星」は火星人の「赤色人」たちに「バルスーム」と呼ばれていたのである。だから「バルスームふたたび」は「火星のプリンセス」の火星っぽい惑星ということになる。
 さて、ストーリーであるが、少しだけネタバレも入るけれど、ご容赦いただきたい。
 時は22世紀。地球は20世紀後半の第三次世界大戦とその後の第四次世界大戦で居住不能になり、人々は月のドームで暮らしていた。その月でも、旧超大国間の緊張は続き、人類はある意味で滅亡の危機を迎えていたのだ。
 そこで旧超大国はそれぞれ居住可能な別の星系をめざして探査を行なってきた。冷凍睡眠などをつかい探査と第1次入植を兼ねた恒星移民船である。
 人類が居住可能な惑星には人類と同様の知的生命体がいることは想定されていた。その制圧のための武器も用意して…。
 エリダヌス星系で現地では「ジューマ」と呼び表す赤い惑星の天体観測員カンヨーは惑星周囲の旋回星群のなかに異質な星をみつけた。それは神々の船ではないかと考えられた。
 その船こそ、人類の乗る星間宇宙船リバーホース号であった。時は地球歴2143年3月26日。その惑星は、21世紀初頭に書かれた小説に登場する「虚構の惑星」にとてもよく似ていた。地球より小さく、月より大きく、人類が居住可能な大気があり、やや暑く、乾燥しているが水は存在し、惑星には人類の歴史よりもはるかに長い長い時をかけて構築されたと考えられる運河がはりめぐらされていた。しかし、その惑星の月に惑星の住民が訪れた形跡もなく、宇宙開発や高度な都市開発の形跡もない。文明社会ではあるが、高度な科学社会ではない。「適切な予防措置を講ずる限り、原住民と深刻なもめごとが起きるはずはあるまい」と接触前に船長は記録に残している。

 主人公のトム・カースンはいちはやく「原住民」の言語を習得し、初期の接触要員として地上に降りる。そこで目にしたのは蒸気機関も電力もない中世さながらの王国の姿であった。地球人そっくり、いや「バルスームの赤色人」そっくりな姿である。
 船長は入植船の方針に沿って原住民を制圧、支配下に置き、人類の入植をすすめるつもりである。トム・カースンは、「武力制圧は避ける」ことをめざしながらもやはりジューマの人々から「神」と呼ばれ、人々を未開の人々のように考える傾向にもある。それでも船長の好戦的、高圧的な態度には辟易している。
 そのジューマの人々であるが、基本的には無性として生まれ、やがて男性態になり、その後に女性態を経て、最終形態として無性態に戻る人類よりも長命な種族でもある。いまだ複数の国家として紛争もあるが総じて安定した社会を保っている。
 そこに人類という異質なものたちが入ってきたのだ。
 さあ、どうする。さあ、どうなる。

 物語は主にトム・カースンの視点で描かれるが、次第に明らかになるジューマの秘密、人類の行く末、愚かさ。

 悩ましい本だった。1970年代ということを考えるとところどころに出てくる男性優位な表現はとても今日的ではない。表紙だって、「火星のプリンセス」さながらの王女の精悍なヌードである。もちろん、これは作品中の登場人物を美しく書き上げたすばらしい絵ではあるのだが、やはり今日的ではない。まあ当時であっても、当時中学生の私はこの表紙の本を手に取って本屋のレジに行く勇気はなかっただろうが。一方、成長に応じて性転換していくなかでのマイノリティの存在や扱いなどは21世紀初頭の今日的な視点も込められている。
 SFに性やセックスが、「ベムと美女」ではなくきちんと取り入れられたのは1960年代後半のロバート・シルヴァーバーグあたりからではないかと思うが、エンターテイメント重視ではあるが社会と性についても思考実験をしているあたりは新しい。
 少数でありながら強力な武力を持った宇宙からの侵略者である人類と、侵略される側になる多数を占めるジューマの人々の緊張と緩和。書かれている内容は背景にベトナム戦争や米ソ冷戦、あるいは第二次世界大戦の記憶が色濃く反映されていて強力な武器を持つこと、侵略と対話などの寓意性も込められている。主たる舞台となる国では女王は公選挙で選ばれ、女性である期間は為政者として存在するが、老成して無性に戻るときにはつぎの女王を選ぶ選挙が行なわれる。仮に他の国を武力等で支配下に置いても、その国で選挙に選ばれなければ為政者としては正当であると認められない。そういう民主主義と紛争のあり方みたいな寓意もあったりする。とはいえ、「広島」「長崎」を都市を壊滅させる用語として使うなど、軽々しい表現も多い。
「火星のプリンセス」をインスパイアしているが、アンチテーゼとも読める。
 すくなくとも、21世紀において新たに出版されることはないだろうが、時代背景を含めて考えれば軽めのエンターテイメント作品の中に人類のもつ善と悪の拮抗をうまく取り入れた挑戦的な作品であるとは思う。
「火星のプリンセス」を読んだら、派生作品として本書を楽しみ、かつ、いろいろ考えるきっかけにしてはどうだろう。

テメレア戦記Ⅰ 気高き王家の翼

HIS MAJESTY’S DRAGON

ナオミ・ノヴィク
2006

 ドラゴンが出てくる本格SFといえばアン・マキャフリイの「竜の戦士」にはじまるパーンの竜騎士シリーズが真っ先に思い起こされる。それより前に読んだジャック・ヴァンスの「竜を駆る種族も忘れてはいけない。記録を読み返してみると2005年に読み返していた。そこに「私は、ほとんどファンタジーや「剣と魔法」ものを読まないが、竜(ドラゴン)にはついつい惹かれてしまう。洋の東西を問わず、竜というのは人を魅了してやまない存在なのだ」などと書いている。それから20年近く経った。その間に、竜が登場するこんな歴史改変SFというかファンタジーが生まれていたのだ。
 海外SFばかり読んでいるといってもずぼらなことに新しいSFの動向さえもしっかり把握していないので、ファンタジー領域でヴィレッジブックスから出ていた作品のことはまったく視界に入ってなかった。反省。
 このシリーズは2016年に第9巻が出版され完結したそうだが、日本では第6巻で翻訳が中断されていたようだ。SNSで訳者の那波かおりさんが、読者の続編を求める声を丹念に拾い、その結果7巻以降も別の出版社で刊行されることになったという。そりゃあ読まねば。歴史改変ものはあまり得意ではないが、竜が主人公(?)だし、重い腰を上げることにした。
 前情報を入れずに読み始めた。
 ふむふむ、19世紀初頭、ナポレオン戦争の時代。蒸気機関が普及する直前の時代。陸上は馬、海上は帆船が主流。銃や大砲は実用化されているが、剣が何よりも大切な時代。それなのに、なんと空軍が!空軍がある。
 もちろん、航空機などではない。空軍は竜の軍隊である。さまざまな種類の巨大な竜たちが戦略上重要な要素となる。
 そう、現実世界に竜が存在し、戦争の歴史に大きな役割を果たすのである。
 しかし、竜はただの乗り物でも、空を飛ぶ家畜でも、動物でもない。
 竜は竜であり、人と竜のつながりも他の何にも比べるもののない特殊なものである。
 竜が卵から孵るとき、近くにいた人間を「竜が」選ぶ。一度選んだ人間との絆は切れることがない。ただ、基本的に竜の方が長生きであるのだが。
 そして、竜には知性がある。言葉を話し、人とのコミュニケーションも可能だ。

 さて、イギリス戦艦リライアント号の若き海軍将校・艦長ローレンスは、拿捕したフランス戦艦アミティエ号に積まれていたドラゴンの卵を確保した。この卵から孵化した竜が選んだのはこともあろうにローレンスであった。大航海時代において貴族階級である海軍将校という将来を嘱望されていたローレンスだが、やむなく評判の悪い空軍パイロットの道を歩むことになった。突然人生設計ががらりと変わってしまったローレンスは、竜にテメレアと名付ける。実際の歴史でイギリス海軍でたびたび名付けられた艦船名でもあり、最初に命名されたのは史実ではフランス海軍から鹵獲した戦艦名らしいが、本書でもローレンスが数年前に就航を目撃した艦船の名前とされる。ローレンスとしては海軍に未練たっぷりの御様子。そのローレンスの失意は、やがてテメレアによって新たな喜びへと変わる。物語を好み、数学や物理学にまで興味を持つ好奇心旺盛な唯一無二の竜、テメレアとの絆はテメレアの成長とパイロットとしての自信のうちに深まっていく。ローレンスとテメレアは知恵と勇気と優しさで、ナポレオン戦争の時代を生き抜こうとするのだった。

 まあ、よくしゃべる竜ですこと。とはいえ、生まれたての子供みたいなもので、ちょっとしたことでローレンスに甘える。ローレンスもテメレアがかわいくてかわいくてしょうがない。ふたりともでれでれである。親子とも違う、恋人とも違う、異種間共生の親友といったところだろうか。竜と人間の対等以上の関係こそ、この物語のおもしろさの鍵だと思う。
 副題にある「気高き王家の翼」とはもちろんテメレアのことを指すのだが、その理由はぜひ読んで欲しい。
 大切なことを書き添え忘れた。さすが21世紀のファンタジー。出てくる竜は、西洋だけではない。中国、日本の竜もしっかり出てくる。しかも大きい。巨大な竜にはパイロットとともに多くの兵士が乗り込んでいるのだ。想像して欲しい、巨大な竜が空を飛び交い、地上や海上の戦争に影響を与える様を。
 物語は、1805年に起きたスペイン・フランス連合艦隊とネルソン提督率いるイリギス艦隊が衝突したトラファルガー海戦の直後ぐらいまで描かれている。もちろん、どの戦場にも竜はいるのだ。歴史改変ファンタジーは荒唐無稽になりがちだが、それをしっかり読ませるナオミ・ノヴィクの力量はすごい。これから最終巻までゆっくりたっぷり楽しみたい。

スターフォース 最強の軍団、誕生


SWARM STAR FORCE SERIES #1

B・V・ラーソン
2012

 いまでも続いているのかは知らないが、聞くところによるとアメリカの長距離トラックドライバーの中には、オーディオブックでSFなどエンターテイメント小説の朗読を聞くのを楽しみにしている人たちが多くいて、一定の需要を満たすために、そのための小説などが書かれたりするという。日本ではそうでもないが、オーディオブックは海外ではそれなりの市場となっていて、近年、日本でもamazonなどが積極的に日本市場への導入を図っている。
 滅多にないことだが私も長距離ドライブの際に、落語を聞いて過ごすこともあり、また、子どもの頃寝る前にラジオドラマを聞いていたこともあって、オーディオブックに興味はある。興味はあるが、聞くタイミングが難しい。毎日数時間の手作業の時にはFMラジオを聞いているが、時折、作業音のために聞こえなかったりする。それでも構わないのは聞き流しているからだ。手を動かすことに優先順位はあり、聞く内容がどんなに重要でも、よほどのことがない限り手は止められない。
 運転中のオーディオブックは、もちろん、巻き戻したりすることはできるが、やはり基本は運転に意識を傾けつつ、小説の内容も頭に描きつつ、ということで、最優先すべきは運転であり、ただ運転は荒野のハイウエイなど状況によってある程度意識せずとも自動的に対応できるので小説の内容に意識を向けることが可能になる。
 ただ、複雑な文章や設定、構成、単語などが出てくると、「考える」必要がでてくるので、なるべく単純な文章、平易な語彙、分かりやすい設定や構成が求められる。

 たとえば、本書「スターフォース」の設定。宇宙から突然無数の宇宙船がやってきて、人を一人ずつさらっては何らかのテストをして、テストに合格して生き残った者にその宇宙船の管理権限を渡す。そして、その宇宙船と管理者となった人間は後から来た別の宇宙船と闘う運命が義務づけられる。勝たなければ人類は滅亡する…。
 主人公は従軍経験はあるが、大学でコンピュータ学を教える教授であり、田舎で趣味の農業もやっている妻を亡くし子供がふたりいる中年の男性。多くの試練を経て、やがて超人的な力を得ることになる。そばには若い美しい女性の姿。

 ペリー・ローダンかはたまた火星の王、ジョン・カーターか?
 内容は単純明快。文章も展開もステップバイステップで分かりにくいところはない。登場する軍人の性格はステレオタイプでOK。宇宙戦闘、地上戦闘、ドンパチもきちんと繰り返し登場するし、主人公は悲しんだり怒ったりと忙しいが、偶然そばにいることになった女性への欲求も欠かさない。21世紀の小説とは思えないほど、マチズモ。
 中年男性のためのライトノベルといったところかな。
 本作の作者は2000年代に登場した電子書籍専門で書き始めた新しいタイプの作家らしい。
 かつて1970年代を中心にアメリカで盛んだった抱き合わせペーパーバック小説ぐらいの勢いで次々と多彩な分野で作品を出し続けているという。たしかに、その才能はすごい。

 なお、続編は翻訳されていないが、「ヒーロー爆誕」ということで、あとは読みやすいだろう英語の原書か、オーディオブックでどうぞ。

ドラゴンの塔


UPROOTED

ナオミ・ノヴィク
2016

 SF小説とファンタジー小説の違いってなんだろう。雑に言うと、たとえばSFは科学を背景にした空想小説。ファンタジーは魔法や魔物など今日「科学」の範疇に入らない設定を背景にした空想小説。でも、どちらも現代小説にはない世界設定や現代社会への「挿入」があって「空想」「想像」「創造」を広げてくれる点では共通していると思う。
 ややこしいのは現代小説、あるいは普通の小説であっても「科学」や「ふしぎ」を取り入れた作品はたくさんあって、ホラー小説でなくても新種のウイルスや暴走するAI、幽霊や羊男や鬼や人知を超えた動物が出てくることもある。それらがファンタジー小説とかSFと呼ばれないことだってある。境界は常に曖昧で模糊としている。
 どうしていまさらこんなことを考えているかと言えば、本サイトでは海外SFを主に扱ってきたのだが、もちろんそれ以外の小説も読んでいるわけで、そのなかにはファンタジー小説だって入っている。「ゲド戦記」「指輪物語」などといった基本的な作品だって好きである。じゃあ感想を書けばいいじゃないか。あまりジャンルにこだわっていると精神衛生上よくないよ、と、ようやく心がささやいた。
 そのささやきのきっかけとなったのが本書「ドラゴンの塔」である。2016年ネビュラ賞受賞作。ヒューゴー賞最終候補作。なんだ、やっぱり海外SF読者として、そこからじゃないかと自分でも突っ込みたくなるが、2001年に「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」がヒューゴー賞をとったときにはそう思わなかったので、「ドラゴンの塔」は私の背中を押してくれた良作なのである。
 原題は訳者によると、おおよそ「根こそぎにされる」といった意味だそうだ。日本の小説のタイトルとしてはつけにくい。そこで冒頭から舞台となる「ドラゴンの塔」が邦題となった。読み始めればすぐに分かるので重要なことを書いておくが「竜(ドラゴン)」は登場しない。ちょっとびっくりするが、出てこない。ただ「ドラゴン」は主要登場人物である魔法使いなのでタイトルに嘘はない。この魔法使いのドラゴンは「森」から人々を守る辺境の領主である。ドラゴンは、10年ごとに一人、10月生まれの17歳の娘を選び、塔に連れて行く。10年後、その娘は村に帰されるが別人のようになっていてそしてやがて確実に村を出て行ってしまう。それ以外には、無理な取り立てもせず、男たちを戦士として召し上げたりもせず、危機には必ず助けに来てくれる、他の地方の領主たちよりもはるかに望ましい領主であった。
 主人公の「わたし」ことアグニシュカはその10年ごとに選ばれる候補となる数少ない娘のひとり。しかし、親友で幼なじみのカシアこそが選ばれる娘だと、ドヴェルニク村の誰もが思っていたし、ドラゴンの領地のある谷の村々でもそう思われていた。カシアは器量も良く、なんでもこなせる強く賢い娘であり、その両親もまたカシアがその運命に苦しまないよう子どものころから愛情の中にも厳しく育てていたのである。アグニシュカは自分が選ばれるとは思わず、カシアと分かれること、カシアが連れて行かれることに心が引き裂かれるような哀しみをもっていた。
 しかし、もちろん、カシアは選ばれない。主人公たる「わたし」は、ドラゴンに選ばれ、心の準備もないままにドラゴンの塔に魔法の力で連れて行かれ、新たな人生を歩むことになるのであった…。それは、「わたし」が気づきもしなかった「わたし」の能力、性質、よいところ、悪いところを見つめ、成長していく日々のはじまりでもあった。
 新しいヒーロー像が描かれる。
 少女の成長譚であるとともに、師弟の話であり、友情の話であり、家族の話であり、恋愛の話であり、冒険譚であり、王と騎士の物語であり、闘いの物語でもある。人と世界の、人と森の関わりの、土地と人との関わりの話でもある。光と闇の物語である。そんな多くの要素が「わたし」という一人称の語りで紡がれる。一人称で語りきるところが作者の力量の大きさだ。
 21世紀に求められるヒーローは強いだけではない、弱さも持ち合わせ、「自分」を学び、「己を知る」ことを望む存在である。

妖魔の潜む沼


THE FELLOWSHIP OF THE TALISMAN

クリフォード・D・シマック
1978

 原題を直訳すると「護符の仲間たち」なのかな。邦題の「妖魔の潜む沼」は、そういう話ではあるんだけど、そこ?という感じもある。ヒロイックファンタジーは個人的に苦手分野なので手を出さずにいた一冊だが、直球のファンタジーではあるもののヒロイックファンタジーではなかった。
 時は20世紀。しかし中世のまま時が止まったような世界。なぜならばこの世界は劫掠者(ハリヤーズ)によって侵略されていたからである。どこから来たのか分からないが、劫掠者は歴史の転換点となる時、場所に突如として現れては破壊の限りを尽くしてきた。そのため十字軍は出発できず、大航海時代も訪れず、文明の衝突も文化的交流もルネッサンスも産業革命も起きなかった世界。そのかわりに魔法使いや亡霊、悪魔、子鬼(ゴブリン)などが生き残っている世界となったのだ。剣と魔法の世界である。じゃあヒロイックファンタジーじゃないか!というお叱りの声が聞こえてきそうである。たしかに剣と魔法なのだけれど、釣り書きには「ヒロイック・ファンタジー巨編」と書いてあるけれど、シマックの構築する世界ではヒーローはヒーローらしくないのだ。

 物語はブリタニアの名家スタンディッシュ家で発見された1枚の手稿の真贋を見極めるためオクスンフォードに居を構える老司教の元に手稿を届けるという目的の旅を描く。手稿はキリストが確かに地上に存在していたことを証として伝えるものであった。これが本物であれば弱体化したキリスト社会が再生を遂げ、劫掠者への対抗がかなうかも知れない。
 スタンディッシュ家の若き後継者ダンカンとその親友である豚飼いで巨漢のコンラッド、賢い戦馬ダニエル、忠実なる猛犬マスチフとタイニー、それに実直な騾馬のビューティを連れとして、劫掠者により通行不能となっている苛烈な湿原を渡る旅がはじまった。
 旅の途中で隠遁生活を続ける老修道士のアンドリュー、アンドリューを困らせていた亡霊、大魔法使いヴルファートの曽孫のダイアン、元魔女の老女メグ、人間は嫌いだが劫掠者はもっと嫌いだというゴブリンのスヌーピーに、魔界を脱走して魔法使いに捕まってしまい数百年に渡って拘束されていた話し好きの悪魔スクラッチらが仲間のような仲間でないような形でパーティを形成していく。しかし、旅の目的を知るのはダンカンとコンラッドのふたりだけである。
 劫掠者たちは、執拗にダンカンを追ってくる。まるで彼らの目的を知り、彼らを妨害するかのように。ダンカンはキリスト者ではあるが亡霊とも、魔女とも、ゴブリンとも、あらゆる劫掠者以外の存在とも対話し、曇りなきまなこで彼らに接する。もちろん、嘘もつくし、嘘をついている自分を恥じたり、そんな自分を納得させたり、ダイアンに心を惹かれたりとふつうの若者でもある。確かに剣は強いのだが、万能ではない。むしろ、その開いた心で周りが勝手に助けてくれるし、運にも恵まれる。決してヒーローとは言えない。
 いや、ある意味で現代的なヒーローかも知れないが、「調整型」ではない。なんというか、「心優しい頑張り屋さん」といったところか。

 シマックが書く主人公はみんなちょっと優しい。
 シマックが書く世界はちょっと楽しい。本作は劫掠者によって時を止められ崩壊していく世界ではあるのだけれど、どことなく懐かしく、美しい気配がある。シマックの心の中にある世界はとても美しいのだろう。

ようこそ女たちの王国へ

A BROTHER’S PRICE

ウェン・スペンサー
2005

 人類社会が女性に比べ男性の出生率が極端に少ないとしたら、男女の役割はどのようになるだろうか? その設定からは今日の現代社会における女性差別をはじめとする様々な問題がみえてくるのではないだろうか?
 漫画「大奥」(2004-2021、よしながふみ)の話ではない。本書「ようこそ女たちの王国へ」の話である。
 芸術には時代の空気なのか、同じような発想や作品が同時多発的に生まれることがある。
「大奥」の発表開始は2004年。本書の発表は2005年。つまりほぼ同時期に構想され、書かれ、発表された作品である。しかも、時代設定は「大奥」が三代将軍家光のころ、すなわち1600年代半ばからの展開であるのに対し、本書「ようこそ女たちの王国へ」では1600年代後半の架空のアメリカを舞台に展開されている。
 もちろん、このふたつの作品はまったく別物であり、視点や展開も大きく異なる。だが、基本設定である男性と女性の立ち位置を入れ替えてみることで浮き彫りにされる今日的な問題はどちらの作品にもあり、それが作品の魅力ともなる。

 さて、本作の話だが、川には蒸気船が行き交い、陸上では馬と馬車が主要な交通手段である時代。剣と銃の時代。ようやく鉄製の大砲が開発されてきた時代の話である。通信手段は手紙。貨幣もあるが物々交換も成り立つ、そんな時代の話。
 時代を1667年頃と想定できるのは、159ページに、1534年に売り荷を積んで川を上り、土地を少々買って、それから店を開き133年やってきたという表現があるからだ。1667年もしくはプラスアルファという時代設定ということになる。現実の世界だとイギリスの王政復古の時代。日本だと江戸時代四代将軍家綱のころ。舞台となるアメリカ大陸では16世紀にスペイン、ポルトガルが、その後、イギリス、フランス、オランダが植民地化を進めてきた。舞台となる17世紀後半はイギリスによる植民地化の全盛期である。
 本書はアメリカっぽい自然環境だし、技術水準は現実の同時代的だが、似ているのはそこまで、あくまでも別の世界の物語である。

 主人公のジェリン・ウィスラーは、まもなく成人を迎え、結婚先を長姉によって選ばれることになっていた。辺境ではあるが元王国騎士の家として、比較的大きな土地を持ち農耕民ではあるがそれなりの暮らしをしていた。何より5人の母親たちの元、姉妹が28人もいる大家族であり、しかもジェリンを筆頭に健康な男子が5人もいるという極めてめずらしい家族でもあった。一般的に家族で健康な男子をもつのはひとりでも奇跡的なことなのだから。それだけではなくウィスラー家は、まるで軍隊のように規律正しく、文武を磨くことを怠らない変わった家でもあった。
 ジェリンは、そんな家の年長の男として、家事一般、炊事洗濯裁縫などをこなし、小さな弟妹たちの面倒を見ながら、やがて訪れるよその家に嫁ぐ恐怖におびえていた。なぜならば、ジェリンの嫁ぎ先の第1候補は近隣の家の男子との交換婚であり、それはウィスラー家に比べるだらしない家の30人の女性たちを日々相手にしなければならないことを意味していたからである。
 そこに事件が起きる。ウィスラー家の領地の中で女性が何者たちかに殺されかけ、意識を失っていたのだ。ウィスラー家は慣習法に従って女性を連れ帰り、介抱する。彼女は王室の第三王女オディーリアであった。それは、ジェリンとウィスラー家、王室の第一王女レンセラーの運命を変える出会いとなったのだ。はたしてジェリンの運命はいかに?
 ということで、女たちは外で働き、馬に乗り、闘い、交渉し、経営し、学び、そして、一家に子を増やし、繁栄することを望む。男は、生まれついた家の都合で時に交換婚として嫁ぎ、時に金銭を対価に嫁ぎ、あるいは金銭で売られる。男の仕事は家事をすること、そして、女たちの一家に健康な子をもたらすこと。できれば健康な男の子も。
 健康な男の子は一家にとっては財産であり、健康な夫は一家の繁栄に必要な存在。だから男は守られるし、文武は求められない。他の女の前に出ることは原則として許されない。

 本作を読めば、現代社会で常識とされてきた「男女の役割」というのが「出産とそれにまつわるいくつかのこと」を除けば生物的な属性ではなく社会的な規定であることを感じることができる。社会的な規定は変えられるし超えられる。そんな希望を持つことができる。現代に必要な視点のひとつだ。

 ただ、作品を読む上でひとつだけ大きな問題がある。それは日本語の問題だ。日本語の書き言葉には「子供の言葉づかい」「男性の言葉づかい」「女性の言葉づかい」の表現がある。たとえば「~ですわ。」という語尾がつけば女性だと思うし。「~だよ。」という語尾は子供っぽさを思わせる。また一人称は「私」という男女共通の[I]に相当する言葉もあるが、「わたくし」「ぼく」「おれ」「あたい」「わがはい」…。
 本作の訳者は、女性には「わたし」、男性には「ぼく」を使用しつつも、年齢や立場で語尾を工夫することでなんとか女性中心の社会的な特徴を出そうとしているが、このバランスに苦労したことであろう。実際、このあたりが原著の英語と、翻訳書の日本語で受け取るニュアンスが異なっていることは想像に難くない。この手のSFの難しいところだ。日本語話者の難しさでもある。

 最後に、いたしかたないのかも知れないが、現代「A Brother’s Price」=「兄弟の値段」あるいは「兄弟の価値」なのだが、邦題は「ようこそ女たちの王国へ」とある。イラストも、現代風な顔をした登場人物の群像である。読者層をどこに置いたのだろうかと悩んでしまう。手に取るのが遅くなってしまう傾向があるのだ。この手のタイトルや表紙のイラストは…。

フィルムマラソンの記憶

 広島市タカノ橋商店街にあった、夢売劇場サロンシネマ。1980年代当時、同所にはサロンシネマとタカノ橋日劇のふたつの映画館があり、私が広島を離れた後、1994年にタカノ橋日劇がサロンシネマ2と名称を変えたらしい。2014年には市の繁華街中心部の八丁堀に移転したという。
 だからここからはタカノ橋サロンシネマ1のことを「サロンシネマ」として話を進めることにする。

 映画館がひとつだけしかなかった町から出て、広島に来たとき、まっさきに頭に浮かんだのは「映画見放題」という言葉だった。とにかくたくさん映画を見よう、そう心に決めた。すでに「レンタルビデオ(VHS)」という商売ははじまっていたが、当然のことながら大学1年の頃はテレビもなく、2年以降もテレビはあったもののビデオデッキを持っていたのはごく少数の友人たちだけであった。そんな時代のことだ。
 大学と下宿の間にあって最も近い映画館、それがサロンシネマとその下のフロアのタカノ橋日劇である。先に話をしておくと、タカノ橋日劇は、かなりの頻度で日活ロマンポルノを上映する映画館である。樹木希林が若い頃に出ていた作品とかを流したり、マニアックな「日劇」であった。
 さて、サロンシネマという映画館は独立系で大手のロードショーはほとんどかからず、広島を素通りした作品や過去の名作を、監督や女優、あるいはその時々のテーマ設定に合わせてフィルムを仕入れて上映する「名画座系」映画館である。時には「迷画」も恐れずに上映するとてもよい映画館で、ここで過去の名作・迷作をたくさん見ることができたのはどんな学業よりもいい学びになった。
 よせばいいのにアンドレイ・タルコフスキー特集なんかもやっていて、「ストーカー」と「ノスタルジア」の豪華二本立ては最高によく眠れた。入れ替えがないのでこの2本を2回転、ほぼずーっと一日中サロンシネマにいたってこともあった。
 サロンシネマは、すべての座席がいまのシネコンのプレミアムシートよりもずっと広い革張りでカウンターテーブル付きという超豪華な映画館だったのだ。ビルは古いし、映画館としても正直少しくたびれてはいたが、支配人の映画への愛情に満ちていたのだ。

 そんなサロンシネマの一番のお楽しみが、定期的に開かれる FILM MARATHON(フィルムマラソン/フィルマラ) である。土曜日の夜遅く、21時半の開演を前にわらわらと少しゆるめの過ごしやすい格好をした若者やおじさんが灯りのほとんど消えたタカノ橋商店街に集まってくる。100席のサロンシネマには、時には当日券を求めてやってきて満席と聞き、がっくりとした人に、立ち見でよければいいよ、とささやく声も聞こえたりする(時効だからね)。立ち見と言っても通路に座布団を敷いてくれるので安心だったり。
 そして夜を徹して4本ぐらいの映画を見続けるのである。明け方にはもうろうとなり、現実と非現実の境目が分からなくなったりして…。

 学生時代の4年間を中心にかなりの回数を行ったのだが、何回行ったのかは覚えていない。ただ、先日、実家の片付けをしていたら、当時のパンフレットがいくつか出てきた。
 そう。フィルムマラソンにはパンフレットがついてきたのだ。手書きの、色上質紙に謄写版刷りの同人誌的パンフレットである。最高!
 手元にあるのは1983年の #32から、#33、#36、#37、#42、#43、#51、#54、そして1987年の#64まで9回分である。次回予告なども含まれているのでこの頃、どんなフィルムマラソンがあったのか、それからその当時どんな映画をサロンシネマが上映していたのか紹介しておきたい。個人的な備忘録でもあるのだが。

#32 1983年「SF&ホラー怪作特集」
最後の猿の惑星(1973年、J・リー・トンプスン監督)
ホラーワールド(1979年、リチャード・シッケル監督)
ロッキー・ホラー・ショー(1975年、ジム・シャーマン監督)
大好評予告編大会
?ムービー
ヘビーメタル(1981年、ジェラルド・ポタートン監督)
終了6:30

 はじめてロッキー・ホラー・ショーの洗礼を受けた記念すべき日。早くから来た常連はクラッカーをもらっていて、くだんのシーンでパパパパパン!と。映画は劇場でみんなで見るものだ。?ムービーは、…たぶん フレッシュ・ゴードン(1974年、マイケル・ベンベニステ監督)。「フラッシュ・ゴードン」のパロディポルノ映画。どの作品も最高にくだらない。

#33 1984年1月21日、28日(土)「ヒロイン特集(PART3)」
テス(1979年、ロマン・ポランスキー監督)
グッバイ・ガール(1977年、ハーバート・ロス監督)
インターミッション&好評予告編大会
夢追い(1979年、クロード・ルルーシュ監督)
ローマの休日(1953年、ウイリアム・ワイラー監督)
終了7:30

 ナスターシャ・キンスキー最高!長い長い映画です。オードリィ・ヘップパーン最高!朝5:30からオードリィの洗礼を受けると、最後には涙腺が崩壊します。

#34 1984年3月10日、17日(土)「アカデミー作品賞特集」
アラビアのロレンス(1964年、デビット・リーン監督)
炎のランナー(1981年、ヒュー・ハドソン監督)
わが命つきるとも(1967年、フレッド・ジンネマン監督)
クレイマー・クレイマー(1979年、ロバート・ベントン監督)

 この回は行っていないと思う。ちなみに全席指定券1400円だと。

#36 1984年「ヨーロッパ傑作特集PART2」
1900年(1982年、ベルナルド・ベルトリッチ監督)
インターミッション
Z(1970年、コスタ・ゴブラス監督)
大好評!予告編大会
女の都(1981年、フェデリコ・フェリーニ)
終了7:40

 ロバート・デニーロ、イブ・モンタン、マルチェロ・マストロヤンニの3連発。濃い男たちの濃い映画3本。とくに最初の「1900年」は2部構成5時間の大河ドラマ。
 ちなみに解説を読むと、「PART1」は1983年6月に「天井桟敷の人々」「恋」「ルシアンの青春」「フェリーニのアマルコルド」でやったらしい。

#37 1984年6月2日、9日(土)「ルキノ・ヴスコンティ監督特集」
郵便配達は二度ベルを鳴らす(1941年)
山猫(1963年)
インターミッション
ルードウィヒ―神々の黄昏―(1972年)
毎度おなじみ予告編大会よ!
イノセント(1976年)
終了8:40

 見たんだよなあ、たぶん。記憶にない回だがパンフレットはある。ただ同時期に日中のフェアで「ベニスに死す」「地獄に墜ちた勇者ども」もやっていて、こちらは見た記憶があるので見たのだろう。美しいけど映像がくどいのよ。

#38 1984年7月14日、21日(土)「SF傑作特集」
ダーク・クリスタル(1982年、ジム・ヘンソン監督)
博士の異常な愛情(1963年、スタンリー・キューブリック監督)
ニューヨーク1997(1981年、ジョン・カーペンター監督)
バンデットQ(1981年、テリー・ギリアム監督)
ブレード・ランナー(1982年、リドリー・スコット監督)

 パンフレットはないが、この回は見ている。記憶がはっきりある。やはりSF作品が好きなのだ。ダーク・クリスタルの人形の微妙さ加減にはじまり、暗い気持ちになる2作を経て、楽しい気持ちい切り替え、最後はじっくりとハリソン・フォードとルトガー・ハウアー、ショーン・ヤングの演技に入り込んだのであった。ブレード・ランナーは公開時に映画館では見ていないので、たぶんこの時が初回。その後何回も何回も見たけれど。

#39 1984年8月18日、25日(土)
ジャスト・ア・ジゴロ
地球に落ちてきた男
ロッキー・ホラー・ショー
冒険者たち(予定)
ミッド・ナイト・エクスプレス(予定)

 こちらは#37のパンフレットに書かれていた予定。見ていないが、日中にデビット・ボウイの2作(ジャスト・ア・ジゴロ、地球に落ちてきた男)は見ている。格好良いよ、ボウイ。

#42 1984年たぶん10月「ベトナム後遺症映画特集」
地獄の黙示録(1980年、フランシス・コッポラ監督)
ランボー(1982年、テッド・コッチェロ監督)
インターミッション・クイズ
ブルーサンダー(1983年、ジョン・バダム監督)
予告編大会
タクシー・ドライバー(1976年、マーチン・スコシージ監督)
終了6:30

 とても印象深い回。正直なところ「ブルーサンダー」の印象が残っていないのだけれど、それだけ他の3作の衝撃が大きかったのだ。監督もすごいが、マーロン・ブランド、シルベスター・スタローン、ロバート・デニーロである。3人が3人ともちょっと狂気のある主人公を演じる。明け方のデニーロは怖いよ。

#43 1984年11月10日、17日(土)「西ドイツ映画傑作特集」
フィツカラルド(1983年、ウェルナー・ヘルツォーク)
ブリキの太鼓(1981年、フォルカー・シュレンドルフ)
インターミッション
マリア・ブラウンの結婚(1980年、ライナー・ファスビンタ監督)
予告編大会だよ!
Uボート(1982年、ウルフガング・ベーターゼン監督)
終了7:50

 まだドイツが統一される前のこと。ドイツは西ドイツと東ドイツに分断されていて、東西冷戦米ソ冷戦の最前線になっていた。ナチスドイツから民主化された西ドイツには深い戦争の傷跡があり、それが新しい文化を生んでいく。2~4作目はすべて戦争映画である。そして冒頭の「フィツカラルド」の衝撃! 映画の内容も衝撃的だが、なんといってもドイツの名優、主演のクラウス・キンスキーの狂気。よくよく見れば、ナスターシャ・キンスキーにはクラウスのおもかげがある。父ちゃんだ。という衝撃。

#44 1984年12月15日、22日(土)「日本映画青春傑作特集」
さらば愛しき大地(柳町光男監督)
パンツの穴(鈴木則文監督)
家族ゲーム(森田芳光監督)
すかんぴんウォーク(大森一樹監督)
竜二(川嶋透監督)

 #43のパンフレットから。洋画館だけどこういうのも遠慮なくやるのがサロンシネマの良いところ。「家族ゲーム」と「竜二」は日中に見た記憶がある。森田監督の松田優作はすごかった。

#45 1985年1月19日、26日(土)「ヒロイン特集PART5」
テス(1980年、ロマン・ポランスキー監督)
アリスの恋(1975年、マーチン・スコシージ監督)
グッバイ・ガール(1978年、ハーバート・ロス監督)
愛と哀しみのボレロ(1981年、クロード・ルルーシュ監督)

 こちらも#43のパンフレットから。「愛と哀しみのボレロ」はとても長い映画だけど、いまでも本気で見る価値のある映画。音の良い環境で見たい。

#51 1985年7月13日、20日(土)「たまらなく好きなのヨ 映画特集」
ナチュラル(1984年、バリー・レヴィンソン監督)
ロマンシング・ストーン秘宝の谷(1984年、ロバート・ゼメキス監督)
インターミッション クイズも好きになってネ!
ハノーバー・ストリート哀愁の街かど(1979年、ピーター・ハイアムズ監督)
予告編大会
追憶(1974年、シドニー・ポラック監督)
終了6:20

 ロバート・レッドフォード作品にはさまれたマイケル・ダグラスと、ハリソン・フォード。この回、結果的には全部バーブラ・ストライサンドが持っていったと思う。

#52 1985年8月16日(金)、17日(土)「東宝アイドル映画特集」
すかんぴんウォーク(大森一樹監督)
みゆき(井筒和幸監督)
夏服のイヴ(西村潔監督)
エル・オー・ヴィ愛NG(升田利雄監督)

 #51パンフレットから。夏休みだねえ。

#53 1985年9月14日、21日(土)「ヒロイン特集PART6(女優賞編)
トッツィ
プレイス・イン・ザ・ハート
(以下から2、3本)
ジュリア/結婚しない女/9時から5時まで/ひまわり
    /愛と喝采の日々/ローズ・グロリアほか

 #51パンフレットから。

#54 1985年12月14日、21日(土)「ホラー!見てごらんPART4SFXファンタジー編」
ヴィデオ・ドローム(1982年、デヴィッド・クローネンバーグ監督)
イレイザー・ヘッド(1977年、デヴィッド・リンチ監督)
インターミッション クイズ
スキャナーズ(1981年、デヴィッド・クローネンバーグ監督)
ファンタスティック・プラネット(1973年、ルネ・ラルー監督)
予告編大会
未知との遭遇特別編(1980年、スティーヴン・スピルバーグ監督)
終了6:45

 私はホラーが苦手だ。SFは好きだが。リンチのイレイザー・ヘッドで出てくるビルのつくりつけスチームヒーター(デロンギの電気のような形状のやつ)のシューシューいう音が耳について、いやあ怖かった。ほかの印象を払拭するぐらい怖かった。ちなみに、私は後にフィレンツェでモデルとなった「赤ん坊」のオリジナルの彫刻をみることになる。

#55 1986年1月11日、18日(土)「ごちそうさま!のフルコース 映画特集」
時計仕掛けのオレンジ(スタンリー・キューブリック監督)
スプラッシュ(ロン・ハワード監督)
愛と哀しみのボレロ(クロード・ルルーシュ監督)
アウトサイダー(フランシス・コッポラ監督)

 #54のパンフレットからだけれど、この回見てる。

#56 1986年2月15日、22日(土、予定)「ヒロイン特集PART8 ナスターシャ・キンスキー特集」
テス(ロマン・ポランスキー監督)
殺したいほど愛されて(ハワード・ジーフ監督)
今のままでいて(アルベルト・ラットゥアーダ監督)
パリ、テキサス(ヴィム・ヴェンダース監督)

 #54のパンフレットから。見てないな。でも、「パリ、テキサス」はよかった。

#64 1987年1月31日、2月7日(土)「青春映画特集」
ファンダンゴ(1984年、ケヴィン・レイノルズ監督)
ストレンジャー・ザン・パラダイス(1984年、ジム・ジャームッシュ監督)
インターミッション クイズで息抜き
?ムービー
予告編大会
ホテル・ニューハンプシャー(1984年、トニー・リチャードソン監督)

 良かった!たぶん大学生最後の頃、見るべき映画を見たという感じ。この回はほぼロードムービー特集だったと思う。ファンダンゴはいまでも定期的に見たくなるし、ジム・ジャームッシュ監督を知ったのも嬉しい。スタイリッシュで良かった。でも?ムービーはなんだったっけ。

#65 「ウディ・アレン・フィルム・フェスティバルPART2」プラス1
サマーナイト
カイロの紫のバラ
ブレードウェイのダニー・ローズ
?ムービー
カメレオンマン

 #64のパンフレットから。

ここからは、この期間にサロンシネマで上映されていた映画のうち、手元にあるパンフレットに載っている作品のリスト。
フランス・シネマ・フェア
気狂いピエロ
彼女について私が知ってる二・三の事柄
ゲームの規則
抵抗
去年マリエンバードで
24時間の情事
ヴィスコンティ・フェア
山猫
熊座の淡き星影
ルードウィヒ
夏の嵐
ベニスに死す
地獄に墜ちた勇者ども
広島初公開
ガープの世界
時計じかけのオレンジ
新作予定
ディーバ
パッション
8 1/2
ノスタルジア
カルメンという名の女
サン・スーシーの女
大魔神広島リバイバル公開
大魔神
大魔神怒る
大魔神の逆襲
広大生協主催広島初公開
サンロレンツォの夜
暗殺のオペラ
ジェームズ・ディーン特集
エデンの東
理由なき反抗

マイ・フェア・レディ
パリの恋人
ローマの休日

 こうやってみると私の映画鑑賞人生の大きな要素を占めている。タルコフスキーに浸れたのもここのおかげ。いまだに「ノスタルジア」は見てしまう。
「ファンダンゴ」「ディーバ」「ストレンジャー・ザン・パラダイス」は私のオールタイムベストに入っている。戦争映画では「サンロレンツォの夜」「ブリキの太鼓」ここには出ていないが「ミツバチのささやき」。「ロッキー・ホラー・ショー」も衝撃だった。「1900年」や「テス」「愛と哀しみのボレロ」のような長編のおもしろさも映画館ならではである。
 もちろん他の映画館で80年代の多くの映画も見ている。「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」「ベルリン天使の詩」「ブラック・レイン」。長じてなかなか映画館には行かなくなったが、やはり映画は映画館で見たい。
 近年見たIMAXでの「AKIRA」や「2001年宇宙の旅」は実に良かった。
 余談ついでに下高井戸に住んでいた頃、下高井戸シネマにもたまに行っていた。こちらも名画座。よい作品を教えてくれる。いま住んでいる湘南だと、藤沢にシネコヤという小さな映画館がある。シネコヤが固定館になる前に2本ほどいい映画を見た。なかなかタイミングが合わずに行けないでいるが、作品ラインナップは注目している。ネット配信時代、こういう映画館は大切にしたい。

宇宙からの訪問者(再)


THE VISITORS
クリフォード・D・シマック
1980

 50歳代も終わりに近づき、短期記憶の能力低下は著しく感じていたが、長期記憶も実にあやしくなっていくのを実感した。
 先頃、シマックの本が古書店に並んでいるのをみかけ、おそらく読んでいないと思うものを数冊入手。まずは「超越の儀式」を読んで80年代の「ニューシマック」を初体験したつもりになっていた。
 そして、本書「宇宙からの訪問者」を2022年12月から1月頭まで、数章ずつ読みついでようやく読み終わり、オチに感心して本を閉じたのだった。なるほどシマックらしいきれいな終わり方であったし、なんともいえない不思議な読後感を得て、さて、シマックの本、どれくらい持っていたかと自分の本棚を眺めてみると、おやおや「宇宙からの訪問者」が並んでいるではないか。そうか、読書ブログをはじめる前に読んでいたんだなと得心し、ではシマックのどの本を読書歴に残しているかと調べてみたら、おやおやおや、「宇宙からの訪問者」を読んで、書いているではないか。記録によれば2005年3月に読書録を書いている。
 ここだ。宇宙からの訪問者

 まったく記憶にございません。

 驚くべきことである。新年早々、自分自身に大笑いし、家族や周りの人間にも、笑えるエピソードとしてさっそく自虐ネタにして披露した次第である。人生はおもしろい。

 ところで本書の内容だが、宇宙からの「訪問者」の物語である。この訪問者、真っ黒いすごく大きな立方体である。少し宙に浮いているから重力の制御ができる。木を食ってセルロースのふわふわ塊を排出する。途中からはちょっとだけど自動車まで食べる。最初に降りてきたとき、かっとなって銃を撃った男は一瞬にして死んでしまったが、それ以外、基本的に攻撃はしていない。近くにいた人間一人と動物数種類を一度中に取り込んだが、しばらくして全部外に出してしまう。取り込まれた人間は樹木専門の植物学の若い研究者で、その「訪問者」の思念のようなものを感じ取ったが決して双方向のコミュニケーションが取れたわけではないらしい。主要な登場人物は、この青年、その彼女の新聞記者と、新聞社の同僚や上司、それとは別フェーズで大統領と首席報道官とその彼女と彼女の父親の大統領とは敵対する上院議員。それらに関わる人々。
「訪問者」は小さな立方体の「子」を生み、育ち、広がる。また、他の仲間の「訪問者」も次々と地球に降りていくが、木を食べることと、少々の自動車を食べたほかは、特に何もしない。最初に起きたパニックはやがて収まり、「訪問者」のいる世界に慣れるしかないかなあという感じになっていく。
 ドンパチなし。しかも「訪問者」はなぜだかアメリカのみに降りてくるので、ソ連をはじめ対立国も同盟国も様子見、国連が国際管理にしようと提案するが、アメリカとしては「訪問者」からの科学技術軍事的おこぼれを期待してやっぱり様子見。
 深刻な国際対立は起きそうで起きなかったりする。
 深刻な国内対立も起きそうで起きなかったりする。
 経済は大混乱、政治家は困惑。新聞記者はスクープ求めてはいるが、一方で「侵略」とか「秘密」とか、人々のパニックを起こさせるような、あるいは売るために煽るようなことは行なわず、冷静に、自制的に、倫理的に立ち入る振る舞う。報道者の鑑である。
 一番迷惑なのは宗教家とそれに集まる人々という書き方だが、これもシマックらしい。
 解説に書かれていたが、シマックは長く新聞記者や新聞社での仕事を続けていたから、その時の経験が生きているのだろう。
 シマックの人や生命に対する目線は暖かい。でも、それだけでもない。

 古い作品だが、今読んでも実におもしろい。
 もし、今、現実に同じことが起きたら政府は、軍は、報道者は、そして、人々はどう振る舞うだろう。
 そして、20年ぶりに読み直して、本筋とは直接関係ないが、一番心に残ったのは35章の最後の一文である。
 それは報道官と大統領の会話で、エネルギー危機について脱石油し太陽エネルギーとロスのない貯蔵、分配システムへの投資に理解が得られないことに対し、大統領が、「議員の半分は大エネルギー企業のいいなりだし、あとの半分は、国会議事堂を出たあと、よくぞ家までたどりつけるもんだといいたいほどのあほうども」とくさし、続けて、「そのうちにな、そのうちとはいつなのか、教えようかね。ガソリンが一ガロン五ドルにもなり、配給切符で買えるだけの三ガロンを手に入れるために、並んで何時間も待たなきゃならなくなる時だよ。冬のさなかに暖かくしておくだけの天然ガスが使えないため、寒い思いをするようになる時だよ。電気代をきりつめるために、二十五ワットの電球を使うようになる時だよ…」
 ちなみに解説すると、1980年代から2000年代頃、アメリカのガソリン価格はだいたい1ガロン1ドル前後。そして、2000年代に入ると全般には上昇局面に入る。2009年のリーマンショック直前には1ガロン4ドルあたりまで上昇したがその後2~4ドルで推移。2022年にはロシアのウクライナ侵攻の影響もあり一時、本書で書かれている1ガロン5ドルを地域によっては上回る瞬間があった。もちろん、まだ配給切符はないし、白熱電球は廃れ、25ワットもあればすごく明るいLEDライトが輝く未来に生きているが、シマックの指摘通り、目の前にあるエネルギー危機、気候変動危機については、本当にどうしようもなくなるまで政治も、国際社会も、そして、人々も大きく動かないだろう。でも、それではどうしようもないのだから、変わる、変えるしかないのだけれど。
 20年前は読み飛ばしてきたこの一文のところにひっかかるのは、それだけ自分の中でも事態の深刻さが身に沁みてきたからだろう。

超越の儀式


SPECIAL DELIVERRANCE

クリフォード・D・シマック
1982

 40年ぶりにシマックを読んでいる(気がする)。王道文学的SFの大作家である。当時読んでいたのは「都市」(1952)「中継ステーション」(1963)「子鬼の居留地」(1968)と、私が生まれる前後のSF黄金期の作品群である。だいたい高校時代に読んでいたのだが、その後1970年代終わりから1890年代の作品については大学時代、読みそびれていた。
 80年代は、50、60年代に活躍したベテランSF作家が新たな装いで作品を発表しており、シマックも「ニュー・シマック」となって再注目を集めたのだ。
 本書「超越の儀式」は80年代らしい味付けで、それでいてシマックらしい文学的、幻想小説的作品となっている。
 主人公は中年の大学教授エドワード・ランシング。あるとき学生の一人のレポートが妙に上出来であるのに引用されている論文等が存在しない不思議なできごとが起きた。その学生に問いただすと、ある部屋の中にあるスロットマシンが願いを叶えてくれるのだという。半信半疑ながら、ランシングがそのスロットマシンを回すと、マシンはランシングにある場所を訪問するように促す。そして、気がついたときランシングは別の世界に放り込まれていた。そこに別の世界線を持つ世界から来た将軍、牧師、技師、詩人、ロボットがランシングを待ち受けており、この6人(5人とロボット)のパーティで、放り込まれた世界を冒険することになったのだ。
 あとがきにあるが、当時(1970年代終わりから80年代)、RPG(ロール・プレイング・ゲーム)がはやり始めていた。まだ家庭用ゲームマシンやパソコンでのRPGが始まる前、「ゲームブック」と呼ばれる複数選択可能な小説がはやり始めていた。RPGはコンピュータゲームとして花開く訳だが、その直前に、紙の本ではやっていたことは実に興味深い話である。
 本作はゲームブックではないが、のちのコンピュータゲーム型のRPGに似て、それぞれの特徴を持つ人たちがチームとなって冒険していく。すでに老境の域にあったシマックが最先端の動向にも敏感であったことに驚く。
 ストーリーとしては、6人の思考や行動が、その出自の世界の世界観によって左右されていること、そして、異世界においては簡単に世界観を裏切られることを、美しくも残酷に描き出す。パーティの出立にはひとつの宿屋があり、宿の主人がいて、そこで食料や道具を調達できる。そして旅する場所で人間をみかけることはない。遺跡のような構造物やかつて賑わっていたであろう都市の残骸、そして、同じように旅したであろうパーティの痕跡があるだけなのだ。そのなかで、世界の謎、自分達がこの世界に送られた謎、求められているタスクを探していく。そんな乾いた風が吹きつけるような灰色の世界をシマックはみごとに書き上げる。
 そのなかでシマックは問いかける。人はどう生きるべきか。
 なんだか先日見た映画「君たちはどう生きるか(The Boy and the Heron)」で宮崎駿監督が言いたかったこととおんなじではないかと感じてしまった。