テメレア戦記Ⅳ 象牙の帝国


EMPIRE OF IVORY

ナオミ・ノヴィク
2007

 漆黒のドラゴン・テメレアと、その乗り手であるローレンスの物語も4巻目に入った。第3巻では中国からトルコ、プロイセンとユーラシア大陸を西へ西へと旅した一行であった。幾多の出会いと冒険と闘いとそして死と別れ。中国に行く間、ナポレオン戦争といわれるヨーロッパ中を巻き込んだ長い大戦からは少しだけ距離を置いていたテメレアとローレンスであったが、ヨーロッパに近づくにつれ、再びナポレオンの濃い影を見る。そしてそこには思わぬ強敵の姿もあった。苦しみの中でようやくローレンスにとっての故郷である英国に帰還したものの、時をおかずにアフリカ大陸をめざすことになる。
 イギリスをはじめヨーロッパにとってのアフリカとは奴隷貿易の地であった。すでに第2巻で中国に向かう途上、テメレアは奴隷貿易で奴隷船に乗せられるアフリカ人たちの姿を見て、自分達英国におけるドラゴンの位置づけや人間が人間を支配する姿に疑問をもっていた。今度はそのアフリカである治療薬を探すために率先してアフリカに入ることになる。それはローレンスにとっては辛く厳しい旅になり、テメレアにとっては闘うことの意味や竜の基本的権利、人間社会や国家との関係性などについて深く考える機会ともなる。

 父親は国会議員として奴隷制廃止に尽力するも貴族として英国の格式を重んじる存在。その父に反発するように海軍士官を経て軍の中ではもっとも下に見られる空軍士官となった息子のローレンス。しかし、そのローレンスも父親譲りの格式を重んじ、法や作法に厳格であることは変わらない。ゆるい規範の空軍の実務重視の姿勢に慣れつつも、ときおりみせる堅苦しさは隠しようがない。一方、テメレアは天才である。生まれて数年だが、知的にも身体能力的にも、人間よりも他の竜よりも飛び抜けて優れている存在になっていた。
 ただローレンスというパートナーのことになると、見境がなくなってしまう。それは竜の属性でもあるから。ゆえに、たとえ納得がいかなくてもローレンスのために働くこともある。しかし、本質のところではやはり譲れないものもある。
 戦争という殺すことを賞賛される愚かな時代に、生きた究極兵器として扱われる竜たち。そこで生命の尊厳について思考をめぐらすテメレア。
 華やかなアクションと息もつかせぬ展開の物語の影でテメレアの成長とともに思考は深くなっていく。
 それと同時に、21世紀の作品として、奴隷制の時代を描く作者ナオミ・ノヴィクの視点も忘れてはいけない。
 人間は何をしてきたのか、そしてこれから何をするのか。エンターテイメントであっても物語には常に時代と人間のあり方が書かれているものだ。

 もちろん、テメレアかわいい! でも、一向に構わないのだが、このシリーズの魅力はそういう重層的な深みにあることも間違いない。

 さて、アフリカの後はどこにいくのだろうか。次が(ちょっとどきどきしながら)楽しみである。

さよならダイノサウルス

ロバート・J・ソウヤー
1994

 90年代から00年代にまとめて翻訳された人気作家ロバート・J・ソウヤーの初期作品である。「星雲賞」もとっている佳作。タイトルは日本の後付けで、まあしかたないが、タイトルで手を出さないこともある。読むまでに30年ほどかかってしまった。
 時間旅行ものである。時は2013年、約6500万年前の中生代白亜紀が終わりに差しかかかるタイミングに向けてはじめての超過去調査が行なわれようとしていた。搭乗するのはふたりの古生物学者。主人公のブランドン・サッカレー44歳、離婚歴あり。もうひとりはクリックス。サッカレーにとっては古くからの元親友であり、学問上のライバルであり、そして、やはり学友だったサッカレーの元妻と付き合っているとサッカレーは思っている。実に不幸な組み合わせである。
 さてさて、タイムマシンの理論が発見されたのは2005年、2007年に発見者のチン=メイ・ファン教授はノーベル賞が授与され、そして2013年にはタイムマシンが完成したのである。驚くべきことだ。
 さてさてさて、約6500万年前の問題とはなにか。それは中生代から新生代に入る際に起きた恐竜などの大量絶滅問題である。現在では巨大隕石衝突とそれにつづく気候変動が主な原因と考えられているが、火山活動説やそのほかの説もまだ生き残っているようだ。
 ということで、古生物学者にとっては、絶滅直前の進化の頂点にあった恐竜や生態系をこの目で確かめ、可能ならば恐竜を持ち帰ることが使命として与えられていた。
 そして無事過去に「行った」ふたりは、そこで意外な事実を目の当たりにする。いまさらではあるがネタバレになるので細かくは書かないが、ひとつだけ書いておくと重力が小さいのだ。恐竜がなぜ巨大化したのか、それは重力が小さかったからなのだ。いやいや待て待て、重力は質量によって決まるのではないか? どーゆーことよ。いやいやそーゆーことよ。ゼリー状の生物?隊列を作る恐竜? いやいやいやいや、まてまてまてまて。
 しかもタイムトラベルものだから当然タイムパラドックスというものがつきまとう。
 恐竜絶滅直前の恐竜の姿、地球の秘密、さらには過去と現在をむすぶタイムパラドックス。サッカレーとクリックスのからむ三角関係もあって、とにかく話を詰め込みましたよ、ソウヤーさん。でも軽い気持ちでふふふんと読めるザ・エンタメ作品だ。

テメレア戦記Ⅲ 黒雲の彼方へ

ナオミ・ノヴィク
2006

 中国でいろんなことがあった黒く誇り高き竜のテメレアとその担い手であるキャプテン・ローレンス。いよいよ英国に向けて帰ることになるのだが、そこで急報が入る。トルコ皇帝から竜の卵を譲り受け英国に持ち帰るように、と。しかし、とある事情で海路をとることができなくなってしまう。竜の卵がいつ孵化するのか分からない以上、最短ルートで向かうしかない。つまり陸路。幾多の砂漠や山脈を抜けていくほかない。元・海軍士官で海のことならば何でも知り尽くしているローレンスも、陸、しかも砂漠や高山はさっぱりである。幸いテメレアは大きく、必要なスタッフを乗せて遠くまで飛ぶことは可能だが、食料や水の不安もあるし、地図の不安もある。そこで英国からの急使としてやはり陸路をやってきた孤高の男・サルカイに道案内を頼むことになった。どこか得体の知れないサルカイ。不慣れな砂漠や砂漠の町で起きる事件。たどりついたトルコでの暗澹たる出来事。さらには、トルコからヨーロッパに入り、ふたたびナポレオン戦争のまっただ中へ。はたしてローレンスとテメレアは無事竜の卵をもって英国にたどり着けるのか?
 喉の渇くような旅と闘いが続く。

 私的な話で恐縮だが若い頃パキスタンを縦断したことがある。特になにか思い入れがあったわけではなく、たまたま手に入れた航空券がパキスタンの南の商業都市カラチに立ち寄るオープンチケットで、それならばとカラチからペシャーワル、ギルギット、そして、フンザまで鉄道やバスを乗り継いで行ってみることにした。どこまでもどこまでもどこまでも遠くまで見渡せる果てしない乾燥した大地、はるかに脈々とそびえる7000メートル級の山々。厳しい太陽の光。貴重な水。いや若気の至りであるが、後悔はない。まあ多少危ないこともあったが、幸いにしてこうして思い出話にすることができる。
 そうそう、この舞台のトルコにも滞在したことがあって、イスタンブールにものべ10日以上居たし、アジアサイドのアンカラやシノッブ、ギョレメ(カッパドキア)などにも行ったものだ。その旅の記憶を思い起こしてくれた。

 竜は大食漢だし、お世話は大変だけど、パートナーとして馬よりもずっといいなあ。なんといっても飛べる。飛べて話し相手になる。最高。しかもテメレアは頭良いし。まだ若いから思考がまっすぐで猪突猛進なところはあるけれど、多言語を簡単に覚えて使いこなし、数学にも長けているなんて、すばらしい。
 一緒に砂漠の旅を楽しもう。(大変だけど)。

テメレア戦記Ⅱ 翡翠の玉座

THRONE OF JADE

ナオミ・ノヴィク
2006

 フランス軍のイギリス本土上陸作戦を防ぎ、立派な英国のドラゴン空軍の一員として周りから受け入れられた漆黒のドラゴン・テメレアと、元海軍将校のキャプテン・ローレンス。しかしテメレアは中国皇帝がナポレオン皇帝に下賜した卵から生まれた稀少な竜。英仏の海戦による正当な略奪とはいえ、中国側が黙っているはずはなく、第二巻ではいきなり中国側が皇帝の兄ヨンシン皇子を使節団としてイギリスに派遣してきた。いわく皇帝が皇帝に贈ったものだからテメレアを返せ、戦闘に使うなど論外、さらに高貴なる人間以外がテメレアに乗るなど許されないことでありロー4レンスの搭乗は認められない…。
 英国政府は14年前に中国皇帝を怒らせてしまい、その後の貿易と関係拡大があまりうまくいっていないことからなんとか穏便にすませようとする。つまり、テメレアを返す見返りを求めることで利をとろうということ。もちろん、ローレンスが納得できるものではなく、テメレアもローレンスと離れることなど考えられない。
 さまざまな思惑の中で、ローレンスとテメレア、若き英国外交官のハモンド、中国皇子ヨンシンをはじめとする中国使節団一行は、英国海軍の巨大なドラゴン輸送船アリージャンスでとりあえず中国に向かうことになる。艦長はローレンスの画策でかつての優秀な部下トム・ライリーが再登場。一癖も二癖もある登場人物たちのなかで苦労するローレンス、アフリカの喜望峰を回り、インド洋を抜けて中国へ。途中、フランス軍との海戦があったり、巨大な「アレ」に襲われたりしながら、いよいよ中国へ。はたしてローレンスとテメレアの運命は、ローレンスとテメレアの選択は?

 いきなりの中国。いきなりローレンスを苦しめる英中外交問題。自分の運命を勝手に決めようとする人間たちにむかつくテメレア。
 おいおいナポレオンとの戦争はどうなる?
 それにしても海の旅である。テメレアは船上生まれ、海が大好きな竜だが、成長してはじめての長旅である。第一巻ではローレンスとともに空軍(空を飛ぶ竜の軍)で訓練を受ける姿が話の柱になっていたが、第二巻では海の冒険をたっぷりと味わえる。テメレアはアフリカの奴隷貿易を目の当たりにし、人間の愚かさを知る。船上では英国の竜として育てられたテメレアが、中国の様々な文化にも触れる。英国人同士も、海軍と空軍の考え方や行動規範の違いによる衝突、外交官と軍人の行動規範の違い、中国使節団との緊張含みの複雑な関わり。そこに19世紀時点での英中の階級制度による問題。
 そして中国上陸。竜が数少ない英国と違い、竜が人間と共存する中国。その姿を見たことで得られるローレンスとテメレアの新たな視座。
 はたして彼らはどんな選択をするのか。できるのか。
 結末に選択が待ち構える冒険の旅。読者としてはわくわくどきどきするじゃないか。登場人物たちはとても大変だろうけれど。
 ということで、間違いなく第一巻よりも充実し、おもしろく、わくわくして、どきどきして、そして、しっかり考えさせられる。最高のエンターテイメント歴史改変ファンタジー。

ジューマの神々<バルスームふたたび>

THE GODS OF XUMA OR BARSOOM REVISITED

デイヴィッド・J・レイク
1978

 2024年になった。私もまもなく還暦を迎える。ということは、私よりも少し年齢の高い団塊の世代の諸先輩方の中には、いわゆる終活や早逝される方々も出てくる。すると突然古書店に50年代から70年代の書籍がとても美しい状態でごっそり出てくることがある。そんな本を見かけたらなるべく確保。中身は読んでから考えよう。そうやって手にした一冊が本書「ジューマの神々」である。
「火星のプリンセス」が発表されたのは1917年。それから本書「ジューマの神々」は約60年後に発表されたインスパイア作品である。副題の「バルスームふたたび」であるが、「火星のプリンセス」で主人公ジョン・カーターが冒険した「火星」は火星人の「赤色人」たちに「バルスーム」と呼ばれていたのである。だから「バルスームふたたび」は「火星のプリンセス」の火星っぽい惑星ということになる。
 さて、ストーリーであるが、少しだけネタバレも入るけれど、ご容赦いただきたい。
 時は22世紀。地球は20世紀後半の第三次世界大戦とその後の第四次世界大戦で居住不能になり、人々は月のドームで暮らしていた。その月でも、旧超大国間の緊張は続き、人類はある意味で滅亡の危機を迎えていたのだ。
 そこで旧超大国はそれぞれ居住可能な別の星系をめざして探査を行なってきた。冷凍睡眠などをつかい探査と第1次入植を兼ねた恒星移民船である。
 人類が居住可能な惑星には人類と同様の知的生命体がいることは想定されていた。その制圧のための武器も用意して…。
 エリダヌス星系で現地では「ジューマ」と呼び表す赤い惑星の天体観測員カンヨーは惑星周囲の旋回星群のなかに異質な星をみつけた。それは神々の船ではないかと考えられた。
 その船こそ、人類の乗る星間宇宙船リバーホース号であった。時は地球歴2143年3月26日。その惑星は、21世紀初頭に書かれた小説に登場する「虚構の惑星」にとてもよく似ていた。地球より小さく、月より大きく、人類が居住可能な大気があり、やや暑く、乾燥しているが水は存在し、惑星には人類の歴史よりもはるかに長い長い時をかけて構築されたと考えられる運河がはりめぐらされていた。しかし、その惑星の月に惑星の住民が訪れた形跡もなく、宇宙開発や高度な都市開発の形跡もない。文明社会ではあるが、高度な科学社会ではない。「適切な予防措置を講ずる限り、原住民と深刻なもめごとが起きるはずはあるまい」と接触前に船長は記録に残している。

 主人公のトム・カースンはいちはやく「原住民」の言語を習得し、初期の接触要員として地上に降りる。そこで目にしたのは蒸気機関も電力もない中世さながらの王国の姿であった。地球人そっくり、いや「バルスームの赤色人」そっくりな姿である。
 船長は入植船の方針に沿って原住民を制圧、支配下に置き、人類の入植をすすめるつもりである。トム・カースンは、「武力制圧は避ける」ことをめざしながらもやはりジューマの人々から「神」と呼ばれ、人々を未開の人々のように考える傾向にもある。それでも船長の好戦的、高圧的な態度には辟易している。
 そのジューマの人々であるが、基本的には無性として生まれ、やがて男性態になり、その後に女性態を経て、最終形態として無性態に戻る人類よりも長命な種族でもある。いまだ複数の国家として紛争もあるが総じて安定した社会を保っている。
 そこに人類という異質なものたちが入ってきたのだ。
 さあ、どうする。さあ、どうなる。

 物語は主にトム・カースンの視点で描かれるが、次第に明らかになるジューマの秘密、人類の行く末、愚かさ。

 悩ましい本だった。1970年代ということを考えるとところどころに出てくる男性優位な表現はとても今日的ではない。表紙だって、「火星のプリンセス」さながらの王女の精悍なヌードである。もちろん、これは作品中の登場人物を美しく書き上げたすばらしい絵ではあるのだが、やはり今日的ではない。まあ当時であっても、当時中学生の私はこの表紙の本を手に取って本屋のレジに行く勇気はなかっただろうが。一方、成長に応じて性転換していくなかでのマイノリティの存在や扱いなどは21世紀初頭の今日的な視点も込められている。
 SFに性やセックスが、「ベムと美女」ではなくきちんと取り入れられたのは1960年代後半のロバート・シルヴァーバーグあたりからではないかと思うが、エンターテイメント重視ではあるが社会と性についても思考実験をしているあたりは新しい。
 少数でありながら強力な武力を持った宇宙からの侵略者である人類と、侵略される側になる多数を占めるジューマの人々の緊張と緩和。書かれている内容は背景にベトナム戦争や米ソ冷戦、あるいは第二次世界大戦の記憶が色濃く反映されていて強力な武器を持つこと、侵略と対話などの寓意性も込められている。主たる舞台となる国では女王は公選挙で選ばれ、女性である期間は為政者として存在するが、老成して無性に戻るときにはつぎの女王を選ぶ選挙が行なわれる。仮に他の国を武力等で支配下に置いても、その国で選挙に選ばれなければ為政者としては正当であると認められない。そういう民主主義と紛争のあり方みたいな寓意もあったりする。とはいえ、「広島」「長崎」を都市を壊滅させる用語として使うなど、軽々しい表現も多い。
「火星のプリンセス」をインスパイアしているが、アンチテーゼとも読める。
 すくなくとも、21世紀において新たに出版されることはないだろうが、時代背景を含めて考えれば軽めのエンターテイメント作品の中に人類のもつ善と悪の拮抗をうまく取り入れた挑戦的な作品であるとは思う。
「火星のプリンセス」を読んだら、派生作品として本書を楽しみ、かつ、いろいろ考えるきっかけにしてはどうだろう。

テメレア戦記Ⅰ 気高き王家の翼

HIS MAJESTY’S DRAGON

ナオミ・ノヴィク
2006

 ドラゴンが出てくる本格SFといえばアン・マキャフリイの「竜の戦士」にはじまるパーンの竜騎士シリーズが真っ先に思い起こされる。それより前に読んだジャック・ヴァンスの「竜を駆る種族も忘れてはいけない。記録を読み返してみると2005年に読み返していた。そこに「私は、ほとんどファンタジーや「剣と魔法」ものを読まないが、竜(ドラゴン)にはついつい惹かれてしまう。洋の東西を問わず、竜というのは人を魅了してやまない存在なのだ」などと書いている。それから20年近く経った。その間に、竜が登場するこんな歴史改変SFというかファンタジーが生まれていたのだ。
 海外SFばかり読んでいるといってもずぼらなことに新しいSFの動向さえもしっかり把握していないので、ファンタジー領域でヴィレッジブックスから出ていた作品のことはまったく視界に入ってなかった。反省。
 このシリーズは2016年に第9巻が出版され完結したそうだが、日本では第6巻で翻訳が中断されていたようだ。SNSで訳者の那波かおりさんが、読者の続編を求める声を丹念に拾い、その結果7巻以降も別の出版社で刊行されることになったという。そりゃあ読まねば。歴史改変ものはあまり得意ではないが、竜が主人公(?)だし、重い腰を上げることにした。
 前情報を入れずに読み始めた。
 ふむふむ、19世紀初頭、ナポレオン戦争の時代。蒸気機関が普及する直前の時代。陸上は馬、海上は帆船が主流。銃や大砲は実用化されているが、剣が何よりも大切な時代。それなのに、なんと空軍が!空軍がある。
 もちろん、航空機などではない。空軍は竜の軍隊である。さまざまな種類の巨大な竜たちが戦略上重要な要素となる。
 そう、現実世界に竜が存在し、戦争の歴史に大きな役割を果たすのである。
 しかし、竜はただの乗り物でも、空を飛ぶ家畜でも、動物でもない。
 竜は竜であり、人と竜のつながりも他の何にも比べるもののない特殊なものである。
 竜が卵から孵るとき、近くにいた人間を「竜が」選ぶ。一度選んだ人間との絆は切れることがない。ただ、基本的に竜の方が長生きであるのだが。
 そして、竜には知性がある。言葉を話し、人とのコミュニケーションも可能だ。

 さて、イギリス戦艦リライアント号の若き海軍将校・艦長ローレンスは、拿捕したフランス戦艦アミティエ号に積まれていたドラゴンの卵を確保した。この卵から孵化した竜が選んだのはこともあろうにローレンスであった。大航海時代において貴族階級である海軍将校という将来を嘱望されていたローレンスだが、やむなく評判の悪い空軍パイロットの道を歩むことになった。突然人生設計ががらりと変わってしまったローレンスは、竜にテメレアと名付ける。実際の歴史でイギリス海軍でたびたび名付けられた艦船名でもあり、最初に命名されたのは史実ではフランス海軍から鹵獲した戦艦名らしいが、本書でもローレンスが数年前に就航を目撃した艦船の名前とされる。ローレンスとしては海軍に未練たっぷりの御様子。そのローレンスの失意は、やがてテメレアによって新たな喜びへと変わる。物語を好み、数学や物理学にまで興味を持つ好奇心旺盛な唯一無二の竜、テメレアとの絆はテメレアの成長とパイロットとしての自信のうちに深まっていく。ローレンスとテメレアは知恵と勇気と優しさで、ナポレオン戦争の時代を生き抜こうとするのだった。

 まあ、よくしゃべる竜ですこと。とはいえ、生まれたての子供みたいなもので、ちょっとしたことでローレンスに甘える。ローレンスもテメレアがかわいくてかわいくてしょうがない。ふたりともでれでれである。親子とも違う、恋人とも違う、異種間共生の親友といったところだろうか。竜と人間の対等以上の関係こそ、この物語のおもしろさの鍵だと思う。
 副題にある「気高き王家の翼」とはもちろんテメレアのことを指すのだが、その理由はぜひ読んで欲しい。
 大切なことを書き添え忘れた。さすが21世紀のファンタジー。出てくる竜は、西洋だけではない。中国、日本の竜もしっかり出てくる。しかも大きい。巨大な竜にはパイロットとともに多くの兵士が乗り込んでいるのだ。想像して欲しい、巨大な竜が空を飛び交い、地上や海上の戦争に影響を与える様を。
 物語は、1805年に起きたスペイン・フランス連合艦隊とネルソン提督率いるイリギス艦隊が衝突したトラファルガー海戦の直後ぐらいまで描かれている。もちろん、どの戦場にも竜はいるのだ。歴史改変ファンタジーは荒唐無稽になりがちだが、それをしっかり読ませるナオミ・ノヴィクの力量はすごい。これから最終巻までゆっくりたっぷり楽しみたい。

スターフォース 最強の軍団、誕生


SWARM STAR FORCE SERIES #1

B・V・ラーソン
2012

 いまでも続いているのかは知らないが、聞くところによるとアメリカの長距離トラックドライバーの中には、オーディオブックでSFなどエンターテイメント小説の朗読を聞くのを楽しみにしている人たちが多くいて、一定の需要を満たすために、そのための小説などが書かれたりするという。日本ではそうでもないが、オーディオブックは海外ではそれなりの市場となっていて、近年、日本でもamazonなどが積極的に日本市場への導入を図っている。
 滅多にないことだが私も長距離ドライブの際に、落語を聞いて過ごすこともあり、また、子どもの頃寝る前にラジオドラマを聞いていたこともあって、オーディオブックに興味はある。興味はあるが、聞くタイミングが難しい。毎日数時間の手作業の時にはFMラジオを聞いているが、時折、作業音のために聞こえなかったりする。それでも構わないのは聞き流しているからだ。手を動かすことに優先順位はあり、聞く内容がどんなに重要でも、よほどのことがない限り手は止められない。
 運転中のオーディオブックは、もちろん、巻き戻したりすることはできるが、やはり基本は運転に意識を傾けつつ、小説の内容も頭に描きつつ、ということで、最優先すべきは運転であり、ただ運転は荒野のハイウエイなど状況によってある程度意識せずとも自動的に対応できるので小説の内容に意識を向けることが可能になる。
 ただ、複雑な文章や設定、構成、単語などが出てくると、「考える」必要がでてくるので、なるべく単純な文章、平易な語彙、分かりやすい設定や構成が求められる。

 たとえば、本書「スターフォース」の設定。宇宙から突然無数の宇宙船がやってきて、人を一人ずつさらっては何らかのテストをして、テストに合格して生き残った者にその宇宙船の管理権限を渡す。そして、その宇宙船と管理者となった人間は後から来た別の宇宙船と闘う運命が義務づけられる。勝たなければ人類は滅亡する…。
 主人公は従軍経験はあるが、大学でコンピュータ学を教える教授であり、田舎で趣味の農業もやっている妻を亡くし子供がふたりいる中年の男性。多くの試練を経て、やがて超人的な力を得ることになる。そばには若い美しい女性の姿。

 ペリー・ローダンかはたまた火星の王、ジョン・カーターか?
 内容は単純明快。文章も展開もステップバイステップで分かりにくいところはない。登場する軍人の性格はステレオタイプでOK。宇宙戦闘、地上戦闘、ドンパチもきちんと繰り返し登場するし、主人公は悲しんだり怒ったりと忙しいが、偶然そばにいることになった女性への欲求も欠かさない。21世紀の小説とは思えないほど、マチズモ。
 中年男性のためのライトノベルといったところかな。
 本作の作者は2000年代に登場した電子書籍専門で書き始めた新しいタイプの作家らしい。
 かつて1970年代を中心にアメリカで盛んだった抱き合わせペーパーバック小説ぐらいの勢いで次々と多彩な分野で作品を出し続けているという。たしかに、その才能はすごい。

 なお、続編は翻訳されていないが、「ヒーロー爆誕」ということで、あとは読みやすいだろう英語の原書か、オーディオブックでどうぞ。

ドラゴンの塔


UPROOTED

ナオミ・ノヴィク
2016

 SF小説とファンタジー小説の違いってなんだろう。雑に言うと、たとえばSFは科学を背景にした空想小説。ファンタジーは魔法や魔物など今日「科学」の範疇に入らない設定を背景にした空想小説。でも、どちらも現代小説にはない世界設定や現代社会への「挿入」があって「空想」「想像」「創造」を広げてくれる点では共通していると思う。
 ややこしいのは現代小説、あるいは普通の小説であっても「科学」や「ふしぎ」を取り入れた作品はたくさんあって、ホラー小説でなくても新種のウイルスや暴走するAI、幽霊や羊男や鬼や人知を超えた動物が出てくることもある。それらがファンタジー小説とかSFと呼ばれないことだってある。境界は常に曖昧で模糊としている。
 どうしていまさらこんなことを考えているかと言えば、本サイトでは海外SFを主に扱ってきたのだが、もちろんそれ以外の小説も読んでいるわけで、そのなかにはファンタジー小説だって入っている。「ゲド戦記」「指輪物語」などといった基本的な作品だって好きである。じゃあ感想を書けばいいじゃないか。あまりジャンルにこだわっていると精神衛生上よくないよ、と、ようやく心がささやいた。
 そのささやきのきっかけとなったのが本書「ドラゴンの塔」である。2016年ネビュラ賞受賞作。ヒューゴー賞最終候補作。なんだ、やっぱり海外SF読者として、そこからじゃないかと自分でも突っ込みたくなるが、2001年に「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」がヒューゴー賞をとったときにはそう思わなかったので、「ドラゴンの塔」は私の背中を押してくれた良作なのである。
 原題は訳者によると、おおよそ「根こそぎにされる」といった意味だそうだ。日本の小説のタイトルとしてはつけにくい。そこで冒頭から舞台となる「ドラゴンの塔」が邦題となった。読み始めればすぐに分かるので重要なことを書いておくが「竜(ドラゴン)」は登場しない。ちょっとびっくりするが、出てこない。ただ「ドラゴン」は主要登場人物である魔法使いなのでタイトルに嘘はない。この魔法使いのドラゴンは「森」から人々を守る辺境の領主である。ドラゴンは、10年ごとに一人、10月生まれの17歳の娘を選び、塔に連れて行く。10年後、その娘は村に帰されるが別人のようになっていてそしてやがて確実に村を出て行ってしまう。それ以外には、無理な取り立てもせず、男たちを戦士として召し上げたりもせず、危機には必ず助けに来てくれる、他の地方の領主たちよりもはるかに望ましい領主であった。
 主人公の「わたし」ことアグニシュカはその10年ごとに選ばれる候補となる数少ない娘のひとり。しかし、親友で幼なじみのカシアこそが選ばれる娘だと、ドヴェルニク村の誰もが思っていたし、ドラゴンの領地のある谷の村々でもそう思われていた。カシアは器量も良く、なんでもこなせる強く賢い娘であり、その両親もまたカシアがその運命に苦しまないよう子どものころから愛情の中にも厳しく育てていたのである。アグニシュカは自分が選ばれるとは思わず、カシアと分かれること、カシアが連れて行かれることに心が引き裂かれるような哀しみをもっていた。
 しかし、もちろん、カシアは選ばれない。主人公たる「わたし」は、ドラゴンに選ばれ、心の準備もないままにドラゴンの塔に魔法の力で連れて行かれ、新たな人生を歩むことになるのであった…。それは、「わたし」が気づきもしなかった「わたし」の能力、性質、よいところ、悪いところを見つめ、成長していく日々のはじまりでもあった。
 新しいヒーロー像が描かれる。
 少女の成長譚であるとともに、師弟の話であり、友情の話であり、家族の話であり、恋愛の話であり、冒険譚であり、王と騎士の物語であり、闘いの物語でもある。人と世界の、人と森の関わりの、土地と人との関わりの話でもある。光と闇の物語である。そんな多くの要素が「わたし」という一人称の語りで紡がれる。一人称で語りきるところが作者の力量の大きさだ。
 21世紀に求められるヒーローは強いだけではない、弱さも持ち合わせ、「自分」を学び、「己を知る」ことを望む存在である。

妖魔の潜む沼


THE FELLOWSHIP OF THE TALISMAN

クリフォード・D・シマック
1978

 原題を直訳すると「護符の仲間たち」なのかな。邦題の「妖魔の潜む沼」は、そういう話ではあるんだけど、そこ?という感じもある。ヒロイックファンタジーは個人的に苦手分野なので手を出さずにいた一冊だが、直球のファンタジーではあるもののヒロイックファンタジーではなかった。
 時は20世紀。しかし中世のまま時が止まったような世界。なぜならばこの世界は劫掠者(ハリヤーズ)によって侵略されていたからである。どこから来たのか分からないが、劫掠者は歴史の転換点となる時、場所に突如として現れては破壊の限りを尽くしてきた。そのため十字軍は出発できず、大航海時代も訪れず、文明の衝突も文化的交流もルネッサンスも産業革命も起きなかった世界。そのかわりに魔法使いや亡霊、悪魔、子鬼(ゴブリン)などが生き残っている世界となったのだ。剣と魔法の世界である。じゃあヒロイックファンタジーじゃないか!というお叱りの声が聞こえてきそうである。たしかに剣と魔法なのだけれど、釣り書きには「ヒロイック・ファンタジー巨編」と書いてあるけれど、シマックの構築する世界ではヒーローはヒーローらしくないのだ。

 物語はブリタニアの名家スタンディッシュ家で発見された1枚の手稿の真贋を見極めるためオクスンフォードに居を構える老司教の元に手稿を届けるという目的の旅を描く。手稿はキリストが確かに地上に存在していたことを証として伝えるものであった。これが本物であれば弱体化したキリスト社会が再生を遂げ、劫掠者への対抗がかなうかも知れない。
 スタンディッシュ家の若き後継者ダンカンとその親友である豚飼いで巨漢のコンラッド、賢い戦馬ダニエル、忠実なる猛犬マスチフとタイニー、それに実直な騾馬のビューティを連れとして、劫掠者により通行不能となっている苛烈な湿原を渡る旅がはじまった。
 旅の途中で隠遁生活を続ける老修道士のアンドリュー、アンドリューを困らせていた亡霊、大魔法使いヴルファートの曽孫のダイアン、元魔女の老女メグ、人間は嫌いだが劫掠者はもっと嫌いだというゴブリンのスヌーピーに、魔界を脱走して魔法使いに捕まってしまい数百年に渡って拘束されていた話し好きの悪魔スクラッチらが仲間のような仲間でないような形でパーティを形成していく。しかし、旅の目的を知るのはダンカンとコンラッドのふたりだけである。
 劫掠者たちは、執拗にダンカンを追ってくる。まるで彼らの目的を知り、彼らを妨害するかのように。ダンカンはキリスト者ではあるが亡霊とも、魔女とも、ゴブリンとも、あらゆる劫掠者以外の存在とも対話し、曇りなきまなこで彼らに接する。もちろん、嘘もつくし、嘘をついている自分を恥じたり、そんな自分を納得させたり、ダイアンに心を惹かれたりとふつうの若者でもある。確かに剣は強いのだが、万能ではない。むしろ、その開いた心で周りが勝手に助けてくれるし、運にも恵まれる。決してヒーローとは言えない。
 いや、ある意味で現代的なヒーローかも知れないが、「調整型」ではない。なんというか、「心優しい頑張り屋さん」といったところか。

 シマックが書く主人公はみんなちょっと優しい。
 シマックが書く世界はちょっと楽しい。本作は劫掠者によって時を止められ崩壊していく世界ではあるのだけれど、どことなく懐かしく、美しい気配がある。シマックの心の中にある世界はとても美しいのだろう。

ようこそ女たちの王国へ

A BROTHER’S PRICE

ウェン・スペンサー
2005

 人類社会が女性に比べ男性の出生率が極端に少ないとしたら、男女の役割はどのようになるだろうか? その設定からは今日の現代社会における女性差別をはじめとする様々な問題がみえてくるのではないだろうか?
 漫画「大奥」(2004-2021、よしながふみ)の話ではない。本書「ようこそ女たちの王国へ」の話である。
 芸術には時代の空気なのか、同じような発想や作品が同時多発的に生まれることがある。
「大奥」の発表開始は2004年。本書の発表は2005年。つまりほぼ同時期に構想され、書かれ、発表された作品である。しかも、時代設定は「大奥」が三代将軍家光のころ、すなわち1600年代半ばからの展開であるのに対し、本書「ようこそ女たちの王国へ」では1600年代後半の架空のアメリカを舞台に展開されている。
 もちろん、このふたつの作品はまったく別物であり、視点や展開も大きく異なる。だが、基本設定である男性と女性の立ち位置を入れ替えてみることで浮き彫りにされる今日的な問題はどちらの作品にもあり、それが作品の魅力ともなる。

 さて、本作の話だが、川には蒸気船が行き交い、陸上では馬と馬車が主要な交通手段である時代。剣と銃の時代。ようやく鉄製の大砲が開発されてきた時代の話である。通信手段は手紙。貨幣もあるが物々交換も成り立つ、そんな時代の話。
 時代を1667年頃と想定できるのは、159ページに、1534年に売り荷を積んで川を上り、土地を少々買って、それから店を開き133年やってきたという表現があるからだ。1667年もしくはプラスアルファという時代設定ということになる。現実の世界だとイギリスの王政復古の時代。日本だと江戸時代四代将軍家綱のころ。舞台となるアメリカ大陸では16世紀にスペイン、ポルトガルが、その後、イギリス、フランス、オランダが植民地化を進めてきた。舞台となる17世紀後半はイギリスによる植民地化の全盛期である。
 本書はアメリカっぽい自然環境だし、技術水準は現実の同時代的だが、似ているのはそこまで、あくまでも別の世界の物語である。

 主人公のジェリン・ウィスラーは、まもなく成人を迎え、結婚先を長姉によって選ばれることになっていた。辺境ではあるが元王国騎士の家として、比較的大きな土地を持ち農耕民ではあるがそれなりの暮らしをしていた。何より5人の母親たちの元、姉妹が28人もいる大家族であり、しかもジェリンを筆頭に健康な男子が5人もいるという極めてめずらしい家族でもあった。一般的に家族で健康な男子をもつのはひとりでも奇跡的なことなのだから。それだけではなくウィスラー家は、まるで軍隊のように規律正しく、文武を磨くことを怠らない変わった家でもあった。
 ジェリンは、そんな家の年長の男として、家事一般、炊事洗濯裁縫などをこなし、小さな弟妹たちの面倒を見ながら、やがて訪れるよその家に嫁ぐ恐怖におびえていた。なぜならば、ジェリンの嫁ぎ先の第1候補は近隣の家の男子との交換婚であり、それはウィスラー家に比べるだらしない家の30人の女性たちを日々相手にしなければならないことを意味していたからである。
 そこに事件が起きる。ウィスラー家の領地の中で女性が何者たちかに殺されかけ、意識を失っていたのだ。ウィスラー家は慣習法に従って女性を連れ帰り、介抱する。彼女は王室の第三王女オディーリアであった。それは、ジェリンとウィスラー家、王室の第一王女レンセラーの運命を変える出会いとなったのだ。はたしてジェリンの運命はいかに?
 ということで、女たちは外で働き、馬に乗り、闘い、交渉し、経営し、学び、そして、一家に子を増やし、繁栄することを望む。男は、生まれついた家の都合で時に交換婚として嫁ぎ、時に金銭を対価に嫁ぎ、あるいは金銭で売られる。男の仕事は家事をすること、そして、女たちの一家に健康な子をもたらすこと。できれば健康な男の子も。
 健康な男の子は一家にとっては財産であり、健康な夫は一家の繁栄に必要な存在。だから男は守られるし、文武は求められない。他の女の前に出ることは原則として許されない。

 本作を読めば、現代社会で常識とされてきた「男女の役割」というのが「出産とそれにまつわるいくつかのこと」を除けば生物的な属性ではなく社会的な規定であることを感じることができる。社会的な規定は変えられるし超えられる。そんな希望を持つことができる。現代に必要な視点のひとつだ。

 ただ、作品を読む上でひとつだけ大きな問題がある。それは日本語の問題だ。日本語の書き言葉には「子供の言葉づかい」「男性の言葉づかい」「女性の言葉づかい」の表現がある。たとえば「~ですわ。」という語尾がつけば女性だと思うし。「~だよ。」という語尾は子供っぽさを思わせる。また一人称は「私」という男女共通の[I]に相当する言葉もあるが、「わたくし」「ぼく」「おれ」「あたい」「わがはい」…。
 本作の訳者は、女性には「わたし」、男性には「ぼく」を使用しつつも、年齢や立場で語尾を工夫することでなんとか女性中心の社会的な特徴を出そうとしているが、このバランスに苦労したことであろう。実際、このあたりが原著の英語と、翻訳書の日本語で受け取るニュアンスが異なっていることは想像に難くない。この手のSFの難しいところだ。日本語話者の難しさでもある。

 最後に、いたしかたないのかも知れないが、現代「A Brother’s Price」=「兄弟の値段」あるいは「兄弟の価値」なのだが、邦題は「ようこそ女たちの王国へ」とある。イラストも、現代風な顔をした登場人物の群像である。読者層をどこに置いたのだろうかと悩んでしまう。手に取るのが遅くなってしまう傾向があるのだ。この手のタイトルや表紙のイラストは…。