言の葉の樹

言の葉の樹
THE TELLING
アーシュラ・K・ル・グィン
2000
 美しい物語である。ル・グィンの「ハイニッシュユニバース」シリーズに属し、2000年に発表された「言の葉の樹」は、文化/言語をテーマにした文化人類学的考察に満ちた作品であり、心洗われる佳作である。
 舞台は、惑星アカと惑星地球。主人公はインド系カナダ人で宇宙連合体エクーメンの調査員として惑星アカに滞在する女性サティ。
 サティが育った頃、地球では神政主義政府ユニオンによる全地球規模の思想統制の時代が続いてきた。エクーメンから地球育ちの使節ダルズルが送られ、ダルズルを神聖視したユニオンの指導者たちは、ダルズル=神の命を受けてユニオンを解体しかつてのような地域ごとの民主主義的政治体制に戻ったが、ダルズルを神聖視する限り、世界にはダルズル/反ダルズルの争いが終わることはなかった。それは、思想統制の反動であるかも知れない。そんな混沌の地球で生まれ育ったサティは、エクーメンの調査員/使節として宇宙を飛び回ることを夢見て育ち、それを現実にした。
 そうして、惑星アカに派遣された。しかし、その惑星アカは、エクーメンとの接触によって、それまでの言語、文化、習俗をすべて否定し、アカ人たちが宇宙に進出することだけを至上命題とする科学技術信奉の独裁企業的政治体制となっていた。サティにとって、それはユニオンを彷彿とさせるものであったが、より徹底し、アカ人は本を焼き、言語を変えていた。
 エクーメンの教育機関から惑星アカまでの旅の間にサティは惑星アカの言葉、文化を、文献ベースで覚え、話すことができるようになっていた。しかし、その言葉を話す者はおらず、その習俗を体験することさえできない。「こんにちは」「ありがとう」さえも違うのである。あたかも、異星人であるサティだけがもともとの惑星アカの言葉や文化を知る唯一の存在であるかのような気持ちにさえさせられる。
 そのサティに、それまで許されなかった高地源流地域オクザト-オズカトでの調査が許されることになった。辺境にいけば、もしかするとかつての言葉や文化の片鱗を知ることができるかもしれない。サティの心は躍った。
 そうして、サティはオクザト-オズカトの人々に出会い、白く塗りつぶされた壁の下に浮かぶ象形文字を発見し、それを読める自分に気づき、出会った人々の導きによって惑星アカの「語り」の秘密を少しずつ学ぶことになる。それは、サティのそれまでの人生とそれからの人生を変えていった。
 私たちは道具としての言葉を使う。日本語、英語、中国語、スペイン語、ポルトガル語、トルコ語、ドイツ語、ヒンドゥー語、ウルドゥー語、韓国語、朝鮮語、インドネシア語、マレー語、フィリピノ語、タガログ語、イロンゴ語…。言葉は単独では生じない。たとえば、インドネシア語とマレー語はきわめて近い類縁関係にある。インドネシア語は、マレー語をベースにして建国時に作られた言葉である。フィリピノ語もそうである。スペイン、アメリカの影響を受け、地理的には中国、マレー系の影響を受けた諸島国家フィリピンは、ルソン島のタガログ語をベースにフィリピノ語を共通語にしているが、島ごとにさまざまな言葉がある。国に共通語があったとしても、山ごと、集落ごと、あるいは地域ごとに言葉が異なり、意思の疎通を難しくしている「国」はたくさんある。日本国では日本語が共通語となっているが、それも、中国、朝鮮、東南アジア等の影響を受けながら独自に発展し、形成されてきた言葉であり、歴史の中で汎用化されてきた言葉である。現在でも、地方ごとに「方言」があり、単語の意味や用途はそれぞれの文化で違いを持つ。
 言葉はコミュニケーションの道具であると同時に、思考の前提となる。思考の限界を形作るものと言ってもいい。使う人がいなければ言葉は死ぬが、言葉を使う相手がいなければ言葉は意味をなさなくなる。言葉とははかなく、美しく、恐ろしく、大切なものである。
 ル・グィンは言葉とその背景にある人/文化/社会のあり方についてSFやファンタジーの手法を使って人々に視点や視座を提示してきたが、本書「言の葉の樹」はタイトルそのままにテーマを取り上げ、わかりやすく解きほぐしている。
 よくわからないままの憎しみや断絶ばかりを経験している現代において、本書の提示する意味はとても大きい。人は、言葉を交わす限り、コミュニケーションできるのである。相手の言葉を知る、そこからしかコミュニケーションは進まないのである。
 多くの人に読んで欲しい作品である。
ローカス賞受賞
(2007.12.24)

銀河遊撃隊

銀河遊撃隊
STAR SMASHERS OF THE GALAXY RANGERS
ハリイ・ハリスン
1973
「宇宙兵ブルース」のハリイ・ハリスンがお送りする、スペースオペラの一大傑作が、本書「銀河遊撃隊」である。「スカイラークシリーズ」をしのぐ知性と行動力に満ちた主人公たち! 信じられないほどの新たな発見で宇宙に飛び出し、ベムを退治し、美女を救い、虐げられた異星人を救出する正義! 「レンズマンシリーズ」をしのぐ宇宙戦争の数々。正義と悪の真の決着をつけるときが来た! 宇宙に生まれたのは「銀河遊撃隊」。その驚くべき兵力、戦力をもっても戦えないほどの強大な力に、宇宙的知性が、宇宙的能力を使って銀河遊撃隊をサポート、そして悪は葬り去られるのである!
 わずか1冊で、スカイラークシリーズ、レンズマンシリーズばかりではなく、あらゆるスペースオペラのすべてを読み通すことができるすばらしい作品が、本書「銀河遊撃隊」である。
 それだけではない。今まで秘密とされていたスペースオペラの真実がすべて明らかにされている。なぜ、異星人は英語を話すことができるのか? どうやって氷詰めになった美女は復活するのか? 大発見はどうやって行われるのか! 業界がこれまで明かさなかった真実がそこにある。
 1973年、ウォーターゲート事件に代表されるように、世界の真実を暴くことが求められていた時代だからこそ世に出ることができた作品である。
 あまりにもすごい作品であるが故に、そのほかのスペースオペラ作品群が売れなくなることを危惧し、出版社は絶版を決意! それでも、昭和55年に初版を発行し、昭和60年には6刷を数えてしまった。今や、まぼろしの作品として手に取るのも危険視されている禁断の書でもある。
 私はある収集家が誤って氏の収集作品(整理番号がマジックで記入されていた)ものが、大手の古書店に流れ、あまつさえその危険性に気づかなかった古書店員が100円+消費税にて放出していたのを発見し、震える手で購入したのである。
 ところが、である。2005年に、表紙を変えて再版されているのである。表紙には現代的な若い娘さんの絵が描かれている。作品紹介は、「傑作ユーモア・スペースオペラ」としている。なるほど、そういうかわしかたがあったか。真実を冗談として隠す手法は今に始まったことではない。まして、時代は1970年代以上に真実を隠しやすくなっている。大量の情報を流すことによって、情報の質を相対的に低下させ、散逸させるのである。
 危険な作品である。心して手にするように。
(2007.12.8)

所有せざる人々

所有せざる人々
THE DISPOSSESSED
アーシュラ・K・ル・グィン
1974
 ハイニッシュ・ユニバース。ル・グィンが紡ぎ出した宇宙。かつて宇宙航行種属だったハイン人は様々な惑星に植民していた。しかし、ハイン人は一度衰退し、その間に植民惑星の種族達は惑星に適応し、それぞれの歴史を紡いでいた。地球人もまたハイン人の末裔であった。やがてハイン人は復興し、ゆるやかな貿易と種族間の交流がはじまる。そうしているうちにハイニッシュ・ユニバースを特徴づける新たな技術が誕生する。その名はアンシブル通信。どんなに物理的に離れていても即時に通信できるシステムである。
 本書「所有せざる人々」は、そのアンシブル通信が生まれる前の時代、恒星タウ・セティの二重惑星ウラスとアナレスを舞台にした物語である。
 ウラス人たちは、ちょうど20世紀の地球と同じような社会体制にあった。超大国と小国、資本主義を中心とした貧富の格差の大きな社会である。それを嫌い、限りない自由を求めた人達は、オドー主義者としてアナーキスト革命を起こし、荒涼とし、わずかな食料生産方法と鉱物資源しかもたない月「アナレス」への移住を達成した。言語を変え、貨幣を捨て、政府を認めず、厳しい生活環境の中で独自の社会を作った。そうして世代が過ぎ、ひとりの男が生まれた。
 その男、アナレス人物理学者シェヴェックが「所有せざる人々」の主人公である。彼は、若い頃から時間と空間に関する物理学について天才的な才能とカリスマ的な人間的魅力を持ち育ってきた。しかし、アナレスが当初目的としたオドー主義から離れつつあることに危機感を持ち、また、自らの理論を完成させるための研究資料を求めて、彼はアナレス人としてははじめてウラスを訪問することとなった。アナレス人シェヴェックの目からみるウラスの社会、人の異質さと共通点。そして、アナレスで感じ続けてきた違和感と安心感。時間軸をウラスの今と、ウラスに至るまでのアナレスでのシェヴェックの幼少からの歴史を交互に描きながら、ふたつの社会とひとりの人間を描き出そうとする。
 シェヴェックの哲学を一言で表するならば「苦悩こそが人々を結束させる」である。愛ではない、苦悩である。愛は憎しみに変わることもあるが、苦悩は、苦痛は人々にあまねく共通する。
 本書「所有せざる人々」は、ベトナム戦争でアメリカが撤退し(1973)、第四次中東戦争などでオイルショックが起こり、ウォーターゲート事件でニクソン大統領が退陣(1974)の時代に書かれ、発表されている。二十世紀社会の価値観がゆらぎ、第二次世界大戦を通じて確立したかのように思われた社会のあり方、家族のあり方、性のあり方が、もう一度ゆらぎはじめたときに発表された作品である。その視点の鋭さゆえに、各方面から批評され、深読みされたという。本書「所有せざる人々」は、SFというジャンルの持つ力を存分に発揮し、社会に影響を与えた作品のひとつであろう。それが作者の意図であろうとなかろうと、この作品は一人歩きをした。
 さて、二十一世紀を迎え、本書が発表されてから30年以上経った。
 シェヴェックが喝破した苦悩を人々は見ないようするふりが得意になったようである。結束したくないから見ないようにしているのか、苦悩そのものを否定したいのか。そう言っている私も苦悩から逃れよう、逃れようという意識ばかりが先に立つようになっているのだが。
 本書「所有せざる人々」で描かれるシェヴェックの物語は、共感する、しないにかかわらず、なにがしかの影響を読む者に与えるであろう。その物語の力は、今も決して古くない。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞作品
(2007.12.8)

火星の長城

火星の長城
GALACTIC NORTH and DIAMOND DOGS, TURQUOISE DAYS
アレステア・レナルズ
2002,2006
アレステア・レナルズの短編集、「レヴェレーション・スペース1 火星の長城」である。レナルズといえば、「啓示空間」「カズムシティ」の、長大長編2作品が先に翻訳され、弁当箱SF作家としてSF読みの手首を鍛えてくれている。とにかく長くて本筋を忘れそうになる長編であり、プロットやアイディアはおもしろいのに読み通すのが大変という困ったエンターテイメントSF作品である。なにぶんにも、終わり近くなるまでどこにストーリーを持って行こうとしているのかが分からないのである。どう読んだらいいのかが分からないのだ。きっと単純に字面を頭の中で絵に変えて楽しめばいいのだろう。評価はまっぷたつに分かれ、かのSF読みである吾妻ひでお氏は一刀両断に切り捨てておられた。私は時間つぶし作品としてそこそこの評価をしているが、正直なところ、本書「火星の長城」は買うまでに時間がかかり、買ってから読むまでも時間がかかってしまった。レナルズにおびえていたのかも知れない。
 ところが、である。レナルズは短編向きの作家ではないのか? おもしろいじゃないか。
「啓示空間」「カズムシティ」と同じ宇宙史であるが、本作品の最後(時系列としても最後)に収録されている「ダイヤモンドの犬」(2001.08)がイエローストーン星の融合疫前後の時代を扱っていることをのぞけば、上記2作品と直接のつながりはない。登場人物も別である。ひとつひとつの作品は、限られた登場人物で主人公もはっきりしており、主人公の苦難や報われぬ想いなどをそれぞれの宇宙史的舞台の上でていねいに書いている。しかも、中短編なのでぶれがない。導入でいきなり舞台設定に飲み込まれ、展開に次ぐ展開の上で最後にきれいな、時に悲しいオチがある。すっと物語の終わりと予感を感じさせてくれる。読んでいて気持ちがいい。この短編を一通り読んでから、短編の宇宙史の延長上にある長編として「啓示空間」や「カズムシティ」を読めば、もっと読み手としての視点も定まってこれら作品を読めたかも知れない。それくらい、短編としておもしろいのである。
 人類は、宇宙進出の過程で3つの大きな種属に分かれつつある。連接脳派、ウルトラ族、無政府民主主義者である。まず、脳にインプラントを埋め込み、埋め込んだ人々の間で精神をネットワークさせて超精神の大きなひとつの生命体のような生き方を選んだ連接脳派が生まれる。それに対し、地球では保守的な純粋精神連合が彼らと対立し一度は連接脳派が火星の居留地に行動を制限されてしまう。一方、サイボーグ技術とバイオエンジニア技術により、脳へのインプラントを使用しながらも連接脳派のように個を否定することはせず個は個として生きる道を選んだのが無政府民主主義者である。彼らの中で商人として星間船に乗り込み、身体を機械化し変化していったのがウルトラ族である。純粋精神連合は歴史の舞台から姿を消し、これら変容した人類が宇宙で新たな人類の歴史を築いていく、そのはじまりの物語群でもある。
 どの作品でも、主人公は自分の価値観や行動規範と異なるものを目の前にして「とまどう」。この異質な価値、規範、状況との出会いとそれによるとまどいこそがSFのおもしろさにつながるものである。SFの王道を行くような作品群。とりたてて新しいプロットなどはなくても、円熟した物語として純粋に楽しむことができる。
 どれかひとつを上げることも難しい。
 本短編集のために書き下ろされた「ウェザー」(2006)は、ウルトラ族の「若い」星間船船員と、仲間からはぐれてしまった連接脳派の「少女」の種属を超えたものたちの心の交感を描いた佳作である。
 アレステア・レナルズをはじめて読むならば、短編集から手をつけることを強くお勧めしたい。
(2007.12.01)

ゴールデン・エイジ3 マスカレードの終焉

ゴールデン・エイジ3 マスカレードの終焉
THE GOLDEN TRANSCENDENCE
ジョン・C・ライト
2003
「E・E・スミスをめざしたのだが、哲学的思考がつい入り込んで脱線してしまった」との作者のコメントが訳者あとがきに載っていた。まったくである。舞台装置をよく考えると、その通りであった。かたや太陽系においては戦争が存在せずありとあらゆる存在形態が許され、その存在と知的活動を謳歌する第七精神構造期「黄金の普遍」があり、かたや白鳥座X-1においては、第五精神構造期に植民し、銀河中心ブラックホールの無尽蔵なエネルギーをもって独自の豊かな世界を構成していたはずがあるときにそのすべての活動が停止したとしかみえなくなった「沈黙の普遍」があった。「黄金の普遍」は、次の千年期に向けてほぼすべての知的活動体がそのリソースを一時的に集結する「超越」の時期となっていたが、その陰に「沈黙の普遍」の密やかな侵略の陰があった。主人公のフェアトンのみがその存在を確信し、自らが作り上げた宇宙を股にかけることが可能な宇宙船「喜びのフェニックス」を取り戻し、「黄金の普遍」からも「沈黙の普遍」からも逃れて新たな旅立ちを模索する。しかし…。
「ゴールデン・エイジ」の第3巻は、1巻、2巻では見られなかった想像を絶する宇宙規模の戦いが繰り広げられる。それは精神と精神の戦いであり(アリシアとエッドールを思えばいい)、宇宙のエネルギーとエネルギーの戦いでもある。まさしく、E・E・スミスの「レンズマン」シリーズを彷彿とさせる。
 ただ、作者が自らコメントしたように、そこに「哲学的思考」が入り込み、話をややこしくする。ただでさえ、「人間」の定義が難しく、「死」の定義が難しい未来の話である。「現実」とか「仮想」といったことさえ、本書の定義によるところの「第三精神構造期」にある我々とはまったく異なる概念となっている。そこに「善」とか「戦争」といった概念が入り込むのである。もう、こりゃ、何が何だかの世界である。
 とにかくややこしい。
 もしかするとあと10年もすると、この「ゴールデン・エイジ」に書かれていることが軽く理解できる程度になるのかもしれないが。
 さて、ストーリーは、第1巻、第2巻を読み続けてきて「よかった」と思える内容である。もちろん最後はハッピーエンドが待っている。そこのところは間違いなくハッピーエンドである。アメリカ人らしい終わり方である。アメリカ人らしいというのは、ハリウッド映画的と言ってもいいけれど。
 とにかくシーンはさらに派手になるし、より人間くさくなる。もし、第1巻、第2巻を読んでいるのならば、ぜひ懲りずに読んで欲しいまとめかたである。
 それにしても、読む方も大変な作品だった。こういうことを書けるってすごいなあ。そして、こういうのを出版するアメリカって国もすごいなあ。素直にそう思う。
(2007.11.11)

ポストマン

ポストマン
THE POSTMAN
デイヴィッド・ブリン
1985
 我が家には「ポストマン」がたくさんある。別に望んで増えたわけではない。いつの間にかこうなってしまった。最初は「ポストマン」である。次は「ポストマン」(改訳版)で、最後はDVDの「ポストマン」となる。
 小説の「ポストマン」は、どちらも同じハヤカワSF文庫で、翻訳者も同じ方であるが、映画化を期に表紙が映画とタイアップしたものとなり、内容も「改訳」された。
 改訳の理由は定かではないが、たしかに旧訳のものと比べると言葉が変わっている。まあ、誤訳なども減ったのだろうし、訳もこなれたのだろうと思う。今回は、「改訳版」の方を再読した。
 内容は、破局後の人類再生ものである。ラリイ・ニーヴン&ジェリイ・パーネルの「悪魔のハンマー」や、ウォルター・ミラーの「黙示録3174年」などに見られる、人類が破局的な状況を迎えてしまい、科学技術や文明が崩壊した中で、少しずつ再生にむかって行くという中の物語である。
 本書「ポストマン」の舞台は北アメリカ。破局の原因は世界戦争。核を中心にした世界戦争とその後の暴力的な集団破壊行為により、アメリカの文明は完全に崩壊した。核の冬とまではいかないまでも気象は激変し、電力、通信などのインフラと航空機、自動車、鉄道などの輸送は途絶、多くの生物と人命が失われ、人々は小さな集落ごとに自給的な生活を送っていた。破局から13年が過ぎ、人々は生きていくのに必死だった。文化も文明も失われたままである。
 ひとりの放浪者がいた。集落に行き、ひとり芝居をしながらなんとか糊口をぬぐっている男である。崩壊前の世界を夢見、秩序ある世界の再生を誰かが実現しないかと願う男であった。男は、盗賊集団に狙われ、持ち物をほぼすべて失う。そして、山の中で、一台の朽ちた車とミイラ化した運転手を見つける。その運転手が着ていた服は、合衆国の公務員、郵便配達夫の制服であった。彼は、戦後に殺されたようである。戦後数年たってからも、離れて存続する人々の間を結び唯一の連絡手段である郵便を届け続けていたのだ。
 彼は、その郵便配達夫の制服と残された郵便物を手に、生き延びるため、別の集落を訪ねた。そこで、彼は歓迎を受ける。「郵便配達夫」の制服と帽子の故に。それは、文明再生の夢と希望の象徴でもあった。秩序社会の象徴となった。
 そして、男は生きていくために壮大な嘘をつきはじめ、嘘は徐々に世界を変えはじめた。
「悪魔のハンマー」が1977年で、本書が1985年。偶然かも知れないが、「悪魔のハンマー」でも、郵便配達夫が重要な役回りをする。インフラが崩壊したとき、「通信の自由」を保証するもっとも素朴な公共サービスである郵便はその意味を問われるのではなかろうか。
 郵便。それは、人と人とをつなぐメッセンジャーである。公共性の高い仕事として、世界中どんな場所でも、たとえ紛争の場所であっても、その意味と価値は高いとされる。実際の歴史や世界の中では賄賂や汚職、あるいは、戦時下での検閲など暗部も多いが、「通信の自由」の確保は、人類の社会的な知恵として、あるいは、その社会の成熟度を示すものとして大きな指標となる。たとえば、今のアメリカでの盗聴法やエシュロンシステムなどは、「通信の自由」を大きく阻害するものであるし、インターネットの普及による紙の郵便の必要性の低下などは今日的なインフラの質の変化を示すものであろう。しかし、それでも、「郵便」には、何かがある。それは、第三者を介して間接的に届けられるメッセージという意味であろう。この第三者を信用していること、これが郵便に込められた意味である。郵便は社会が安定している、信用に足ることを図らずも伝えているのだ。
 実は、「ポストマン」を再読したのは、「キルン・ピープル」を読んで、デイビッド・ブリンという作家は、よくよく主人公を苦しめ、いじめ、迫害し、贖罪させようとするなあ、と思ったためであった。本書「ポストマン」の主人公ゴードンが結構ひどい目に遭いながらも決してあきらめないキャラクターであったことを思い出し、「キルン・ピープル」の主人公である私立探偵と比べたくて読んだのであった。
 ところが、読み始めてすぐ、社会の変化に気がついた。そう、2007年10月1日より、日本の郵便制度は大きく変わったのである。公共サービスとして公務員が行っていた郵便サービスがなくなり、民間事業者のサービスと変わったのである。
 本書「ポストマン」はアメリカの公務員である郵便配達夫の物語であるが、そのまま日本に当てはめてもよかった。しかし、今の日本ではもはや「ポストマン」に書かれているような公共サービスは望めない。同じようなサービスでも、責任の所在が異なることは大きな意味を持つのである。公共サービスから私的企業の公的サービスに変わったということは、公共を支える人々の手から、私的企業を支える市場の手に、権限が移ったことを意味する。人々の手と市場の手は似ているようだが異なるのだ。
 再読しながら、時代の変化を感じるのは今に始まったことではないが、しみじみと、郵政民営化の持つ本質的な意味について考え、今の社会のひとつの側面に恐怖するのであった。
(ローカス賞受賞作品)
(2007.10.7)

果てしなき河よ我を誘え

果てしなき河よ我を誘え
TO YOUE SCATTERD BODIES GO
フィリップ・ホセ・ファーマー
1971
 1970年代に翻訳されたSFって、タイトルが凝っている。原題を忘れて、作品のイメージや文中の言葉を使ってすばらしいタイトルを生み出す。本書「果てしなき河よ我を誘え」もそんな作品のひとつである。まるで文学作品かいといった感じである。そのせいか、私は買わなかったんだよなあ。ハヤカワSF文庫で1978年に出されているのだから、中学生。そのころにはちょっと早かったし、高校になったときに限りある財政力では本書を選ぶことはなかった。残念。ということで、2007年になって、ようやく古本屋にて出会うことになったのだ。まったく、こちとらもう40歳をとうに過ぎてしまったよ。
 さて、主人公は、1890年に死んだリチャード・F・バートン。「千夜一夜物語=アラビアン・ナイト」の翻訳者として知られる冒険家である。このほか、2008年に死んだアメリカ人の作家や、ずっと昔に死んだネアンダール人やナチス・ドイツの大物や、人類がはじめて出会った異星人まで登場する。
 目が覚めたら、そこは知らない惑星。人類の始祖から、21世紀初頭に滅ぶまでのうち360億人以上が、ひとつの惑星のひとつの果てしなき川のそばで目を覚ました。みなすべて裸で無毛。そして手首には特殊なカップがあった。このカップを川のそばに設置されている岩のような装置に置けば、1日の必要な食料などが物質移動か生成によって中に入っている。だから食に困ることはない。そして、その惑星で一度死んでも、ふたたびよみがえらされ、真の死を迎えることもないようである。
 はたして、ここは天国か、地獄か。あるいは、なんらかの実験なのか?
 死んだはずが目覚めさせられたバートンは、地球に似ていて、地球とは違う世界であらゆる時と場所の人類達とは果てしなき世界で生き抜き、旅をし、そして、自分がよみがえらされたこの世界の正体をあばこうとひとり戦いをはじめた。
 壮大なリバーワールドシリーズの幕開けである。
 本当に壮大。ラリー・ニーブンの「リングワールド」やダン・シモンズの「ハイペリオン」に連なるような壮大な物語である。なるほどねえ。こういう作品だったんだ。
 この世界では死ぬことができない。いや、死ぬことはできても、必ず翌日には目覚めさせられる。そして、目覚める場所は、死んだ場所ではない。リバーワールドの別の場所である。ネタバレになるが、そこで主人公のバートンは、てっとりばやく世界を旅する方法として、「死ぬ」ことを思いつく。死ねば、別の場所で目覚めるからである。なんとまあ、辛い移動手段であろうか。本作「果てしなき河よ我を誘え」を読んだのは、デイビッド・ブリンの「キルン・ピープル」を読んだ直後だったので、死を記憶する生のあり方というものについて考えさせられることとなった。
 一般的に、死は不可避なものであり、恐怖の対象であり、同時に、憧憬の対象でもある。「死んでしまえばおしまい」というのは、恐ろしさでもあり、救済ともなるからだ。その両者が共存するのは、生者が自らの死を知ることができないからである。死は常に他者に起こるものであり、自らの死を知ることはできない。死ぬまでの苦しみや、死ぬような恐ろしさは味わえるかも知れないが、死は不可知である。自らの死は不可知でも、他者の死を知ることはできる。なんと死とは不思議なものであろうか。  しかし、フィリップ・ホセ・ファーマーの「果てしなき河よ我を誘え」やデイヴィッド・ブリンの「キルン・ピープル」では、自らの死を知ることができる。記憶することができる。そして、何度も違う死を迎えることができる。いや、できると書いたが、したい/したくないという意志によっても可能であり、事故や殺害など自らの意志によらない死も含まれる。いったい、人は死の記憶に耐えられるものだろうか? いくつまで耐えられるのだろうか? 自らの生の継続がかなうと知っていても、死を恐れずにすむのだろうか。
 うーん、わくわくするような怖さがあるなあ。
(ヒューゴー賞受賞作品)
(2007.10.02)

キルン・ピープル

キルン・ピープル
KILN PEOPLE
デイヴィッド・ブリン
2002
 近未来。人々は、アバターを世に送り出し、仕事をさせ、用事を済まし、自分は真にやりたいことだけに集中して生きていた。アバターを送り出すのはインターネットの仮想世界ではない。現実の世界である。そのアバターは手軽なクローン。1日限りの命を持つクローンである。クローンは陶土でできていて、命を吹き込まれ、焼かれてエネルギーを注ぎ込まれる…。
 近未来、科学的・技術的ブレークスルーが訪れた。人間には固有の定常波があり、その定常波が世界に対する認識や記憶、人格を統合しているのである。定常波を正しくコピーすることができれば、あとは生きるためのエネルギーを持ち、筋肉と脳に該当する機構性を持つ人型をこしらえればよい。ユニバーサルキルン社は、特殊な陶土を使って人型を安価にこしらえ、定常波をコピーしてその波とともに陶土をかちかちではなくふっくらと焼き上げることでエネルギーを注ぎ込み、1日の命と、原型たる人間の記憶、知識、人格を一定程度持った複製が誕生する。彼らは1日の命を与えられた複製の身体で過ごし、そして、その経験や記憶は原型に書き戻すことができる。つまり、人間は1日で2日分、あるいは、複数の複製人間をこしらえれば、何日分もの経験を行うことができる。たいくつなことでも、危険きわまりないことでも、原型の人間自身は何をしなくても経験することができるのだ。もちろん、忌まわしい記憶やあまりにも退屈な記憶は統合する必要もない。複製人間の記憶を併合しなければいいだけである。そして、複製になった側も、目覚めるとともに命令を受ける必要もない。なぜならば、複製もまた本人の定常波を受け継ぐものであるからだ。本人そのものの人格であると言っていい。問題は、どっちで目覚めるか、だけだ。原型か、複製か。そして、どちらも本人であるのだ。ただ、複製は1日限りの命であるというだけ。
 この技術的ブレークスルーは社会を根本から変えた。たとえば、インターネットは「通信」「データベース」など、21世紀初頭の使われ方を超えることがなくなった。本物の人格のままに、仮想人格と同様の経験ができ、それを自分のものとして記憶できるのならば、なぜ、わざわざ仮想人格をこしらえる必要がある? どんな過激な体験も、どんな演劇的体験でも、現実に味わうことができるのに。そこで、インターネットの仮想人格は一部のネットオタクのものとなった。同時にロボット技術も廃れてしまう。面倒な命令や指示とメンテナンスが必要なロボットに対して、複製は命令も指示もいらない。放射能汚染のエリアでも、火災の現場でも、戦争でさえも、恐れずに(スリルと興奮はそのままに)飛び込んでいけるのだ。しかも、複製体は自分自身の姿である必要もない。それぞれのシーンに適応した姿や能力を持つ複製体に自分を焼くことができるのだ。
 肉体労働は複製体の仕事となり、犯罪集団は、少数の原型が焼いた複数の「自分」を使って犯罪を行うことに慣れ、警察や私立探偵の仕事は変わっていく。警察は、原型たる人間への傷害や殺人しか扱わなくなる。複製同士の犯罪行為は、もはや公的社会管理の範囲を超えてしまったのだ。そこで、私立探偵の仕事が増えることになる。また、面倒にもなる。現実の世界に複製体、しかも、1日しか命をもたない複製体があふれているのである。
 そんな社会で起こるまか不思議な犯罪に対して、私立探偵アルバート・モリスは自らの高い複製生成能力を活用し、高性能な複製をいくつも使いながら違法複製業者らを追いつめていく。その能力から注目をあつめ、ユニバーサルキルンの創設者らがアルバート・モリスに接触してきた。行方不明になった天才研究者を捜して欲しいという。その陰には重大な陰謀と犯罪があったのだ。いくつもの危機にさらされながらアルバート・モリスは真実を突き止めていく。
 小器用なSFストーリーテーラーであるデイヴィッド・ブリンが、「人形」使いの社会を描き出した画期的な作品である。ジャンルとしては、SF・ハードボイルドになるだろうか。また、クローンや仮想人格など「もうひとつの自分」をテーマにしたものと言ってもいいだろう。さらに、ネタバレの要素が含まれるが、ちょっと「人類の変革」ものも入っている。「幼年期の終わり」や「ブラッド・ミュージック」にみられる、あれ、である。といっても、本筋はあくまでSF・ハードボイルド。主人公の私立探偵が痛めつけられても、痛めつけられても、くらいつき、だまされ、それでも真実を追求しようという作品である。なにせ、複製と原型含めて、何度も殺され、苦しめられ、苦しみ、痛み、死ぬような目にあうのである。ふつうの私立探偵よりももっともっと高い「耐久性」が求められる主人公である。痛いなあ、辛いなあ。えらいぞモリス君。
 ブリンは、主人公を苦しめて、苦しめて、苦しめぬく傾向がある。無宗教だといいつつも、キリスト教における救世主の苦しみを主人公に体現させているかのようである。
 その苦しみの分だけ、主人公が超人化してくるから、やはり救世主願望があるのだろう。
 そのアイディアと展開力に脱帽。一読の価値はある。
 ところで、自分がこの時代に生まれ、複製を使いこなす能力があったら、何をしていますか?
(2007.09.28)

白い竜

白い竜
THE HOUSE DRAGON
アン・マキャフリイ
1978
 パーンの竜騎士シリーズの初期3部作のトリを飾るのが本書「白い竜」である。惑星パーンには色とりどりの竜がいる。しかし、白い竜はただ1匹しかいない。しかも、この白い竜と感合した竜騎士は、ルアサ城砦の若い太守ジャクソムであった。竜騎士は竜とともに大巌洞に暮らし、竜騎士としての訓練を受けなければならない。それが掟であった。そして、城砦は太守を抱かなければならない。太守のいない城砦は別の城砦の太守が子息らを送り込むことになる。前作で困った立場になった少年ジャクソムは、周囲の画策の末に、太守のまま竜を自らの城砦に迎えてともに育つことが許された。それは白い竜が長く生きながらえないと思われていたからである。また、太守ジャクソムの後見人として元竜騎士で竜を死によって失い、その後、ギルド織物ノ長まで努めたリトルがいたことも要因のひとつであった。さらに、ジャクソムは、もっとも名誉あるベンデン大巌洞の洞母レサが指名したルアサ城砦の正当な跡継ぎでもあったからである。レサは、本来は唯一の正当なルアサ城砦の後継者であったが、竜騎士になる条件として誕生したばかりのジャクソムに太守を譲ることを求めたのである。
 さまざまな重荷と力関係の中で育たなければならないジャクソムと白い竜ルース。周囲の思惑をよそに、白い竜ルースは小柄ながらも立派に成長し、ジャクソムもまた若き太守として立派な青年になりつつあった。もちろん、ジャクソムにとっても竜ルースにとっても、竜騎士として惑星パーンを襲う糸胞との戦いを望んでいたが、太守としての役目がそれを阻んでいた。青年特有のはやる気持ちと自尊心がジャクソムを突き動かしていた。
 そこに、大事件が起こる。ベンデン大巌洞の洞母レサの女王竜が産んだ女王竜の卵が何者かに盗まれたのだ。
 中世的世界からの脱却を目指しつつあった世界は、想像もできない犯罪が行われたことに震撼し、その動きを止めた。
 そんななか、青年ジャクソムは白い竜ルースとともに活躍し、そして、成長していくのであった。
 青年成長物語であるとともに、いよいよ惑星パーンの竜騎士、領主、ギルドという中世的社会体制と科学技術の停滞が壊れようとしはじめる。世界は変わり始める。そのことに深い不安を持つもの、伝統が壊れるからと怒りを持つものがいる。また、その変革に期待し、未来を見据えて動き始めるものもいる。白い竜を持ち、太守となったジャクソムは、その変革期を象徴する存在である。だから、うとまれる。だから、きつく扱われる。彼だってひとりの若者であり、悩める青年に過ぎないのだが、人々はそれを許さない。人々は、それぞれの視点でジャクソムを見る。あるものは友人として、あるものは育てなければならない愚かな若者として、あるものは伝統破壊を象徴する敵として、あるものは子として、あるものは自分では果たせなかった思いを果たすものとして…、大変な重荷の中で、それなりに成長するジャクソム君。なかなか、作者の愛が込められていてよい。
 それに、なるほど、1巻から2巻、2巻から3巻と竪琴師ノ長ロビントンの存在が大きくなることがわかってくる。これはその後の巻の楽しみである。
(2007.09.20)

竜の探索

竜の探索
DRAGONQUEST
アン・マキャフリイ
1971
 たった今まで気がつかなかったのだが、この原題って「ドラゴンクエスト」なんだ。おおお。ドラクエだ。私はやらなかったのだが、友人がはまっていたなあ。1986年にドラクエがファミコン用ソフトとして発売され、ドラクエ2が1987年1月なので、ちょうど大学4年の頃である。友人が社会人になって1年目の多忙な時期にふらふらになりながら復活の呪文をメモで書き留めていたのを覚えている。
 っと、そういう話ではなかった。こちらは、パーンの竜騎士シリーズの2作目「竜の探索」である。数百年前に人類は惑星パーンに入植した。しかし、その後、星系を楕円に回る惑星が近接すると、その惑星から糸胞と呼ばれる有機物を食い尽くす生体が雨のように惑星パーンに降り注ぎ、人々とその植民地を焼き始めた。植民者達は、彼らの科学技術を使っていこれに対処。テレポーテーション能力を持ち、鉱石を口に含むことで火を噴くことができる竜に似たパーンの生物を遺伝子操作によって巨大化させ、空に糸胞があるうちに焼きつくすようにした。この「竜」を操るのが竜騎士達である。竜騎士は、植民者のうち、共感能力やテレパシー能力を持つものが選抜され、訓練されたものたちであった。また、そのほかにもいくつかの対策をとっていたが、長年の糸胞との戦いと、惑星がパーンを離れた後の平穏な時代の繰り返しのうちに、人類の科学技術は忘れ去られ、中世のような領主とギルドと騎士による社会ができていた。
 前作「竜の戦士」では、400年ぶりに起こった糸胞の襲来に、わずかに残っていた竜騎士や、400年の長きにわたって伝説や掟を信じてきた一部の領主、ギルドの長らによって、初期の対応がはかられるまでの非常時の歴史が語られた。
 本作は、それから7巡年(惑星パーンの公転周期)後の世界が語られる。7巡年前、竜騎士の名声と名誉は最高潮に高まり、竜騎士は自信と誇りを持って糸胞との際限なき危険な戦いに挑んでいった。しかし、危機が日常になれば、状況は変わってくる。竜騎士と領主、ギルド間の不満、竜騎士間の不満や意見の齟齬は高まり、ついには、竜騎士同士の刃傷沙汰が起こってしまう。そのことに衝撃を受けたリーダー達は、なんらかの対応に迫られる。時同じくして、糸胞の来襲が予想した周期と異なりはじめた。パターンを読めないなかで、竜騎士は疲れ、領主達はさらに不満を募らせる。そこに、大昔の伝説の技術の一部が発見された。危機の中の安定が不安定へとかわり、やがて変革の時を迎える。
 アン・マキャフリイの中で、本作は大きな転換点になったと思われる。パーンの竜騎士は、本作の発表をもって本格的なシリーズとなり、壮大な惑星パーンの人間と竜の物語となった。SFであると同時に、ファンタジーであり、どちらから見てもおもしろく、かつ、奥行きを感じさせる物語のタペストリーが編まれることになったのである。いわゆる大河ドラマである。マキャフリイには、「歌う船」シリーズや「九星系連盟」シリーズなどがあるが、この「パーンの竜騎士」シリーズほど長く、思い入れ深く描かれている作品群はない。もちろん、第一作の「竜の戦士」の元となった中編がなければ本シリーズは誕生しないわけだが、これがひとりの主人公を超えて多くの登場人物達が複雑に絡み合いながら物語を織るのは本書からであると言ってもいい。感慨深い作品である。
(2007.9.20)