グローリー・シーズン

グローリー・シーズン
GLORY SEASON
デイヴィッド・ブリン
1993
 惑星ストラトス。公転周期約3年。地球をはじめ人類の母集団がいるヒューマン・ファイラムから見つかりにくい星域で、科学者であり哲学者であるライソスらが創設した人類社会である。濃い大気と高い二酸化炭素濃度を難なく呼吸し、真水が少ないため少々の海水でも飲める代謝を持つよう調整された植民者たち。しかし、それら適応のための調整以上に大きな変革がストラトス人にはもたらされていた。
 きわめて男性が少ない社会。女性が自然に単為生殖で生まれる社会。
 しくみはこうだ。
 約3年の長い公転周期の冬が来て、特殊な霜が降りるとそれをきっかけに女性達は発情し、男性を求めるようになる。このとき、男性は発情期ではないが女性の様々な接触や社会的圧力などで応じることができる。女性は男性の精子によって胎盤形成が誘引され、単為生殖、すなわち自らのクローンを産むようになる。一方、夏には決まってオーロラが出て、それをきっかけに男性達が発情する。このとき女性が妊娠するとそれは変異子となり、男女の遺伝子を引き継いだ男性または女性が生まれる。
 すなわち、男性にとっては、夏の子が重要であり、女性にとっては、個としては冬の子(クローン)が重要で、夏の子(男女)も利用価値はある。
 同時に、男性は基本的に闘争能力を削がれ、争いや戦いは女性のものという社会が構築された。
 力のある女性の氏族とはたくさんのクローン氏族であり、歴史を重ねたクローン氏族として家系が続き、反映することをこの世界でのひとつの到達目標となっていた。夏生まれの女性にとっては、5歳(地球年で15、16歳)になれば、育てのクローン氏族(母方)を離れ、独り立ちをすることになる。なぜならば、夏の子は、その氏族の真の子どもではないからだ。自らの知恵と才覚に頼って生きていき、運にも恵まれれば、彼女らは新たな氏族の最初のひとりとなることができるかもしれない。
 きわめてめずらしい双子の夏の子、マイアとライアは、5歳となって厳格な母氏族から離れ、仕事を求めて船に乗り込んだ。
 世間では、「夏の子が増えている」「ヒューマン・ファイラムから異星人(人類だが)が来ているらしい」「海賊の動きがおかしい」「夏でもないのに男が女に色目を使う」「男なしでも維持できる社会を目指す者たちの動きが広がっている」「母なるライソス主義を疑う人が増えている」など様々な噂が流れ、変革の予感が広がっていた。
 しかし、夢と野望に満ちたマイアとライアの耳には入らない。彼女らには彼女らの計画があるのだ。「自分たちふたりを母とする氏族をつくること」である。双子として、黙っていれば夏の子(変異子)ではなくクローン氏族に間違えられるかも知れないという特性を生かして世間を渡ろうと考えていた。
 しかし、そんなマイアとライアを引き裂く事件が起き、マイアは想像もつかない陰謀と事件に巻き込まれ、幾度もとらえられ、傷を負い、裏切られ、成長していくのだった。
 ブリンは、わざわざ本書の最後に「あとがき」を残し、この女性中心社会や田園回帰社会を書いた動機について説明(または弁明)している。なるほど読みようによっては、眉をひそめることになるのかもしれない。「あとがき」を読んだから、その結果としてブリンに対して眉をひそめてしまったが、こんなこと書かなければいいのに。70年代のル=グィンならば、フェニミズムに対する作品の位置づけを書かざるを得なかったろうが、反感が生まれようと多様な主張を許すようになっていて、なおかつSFという社会実験作品であるのだから、そこにわざわざ動機はいらないだろう。
 まあ、あとがきの感想を書いていてもしょうがないので、ここまでにしておこう。
 さてさて、本作「グローリー・シーズン」の話に戻ろう。
 最初に説明したようなことを、そういう「説明」ではなくストーリーの中で読み解かせていくのだから、自然に長くなる。それでも前半に飽きずに読ませるあたり、ブリンの作家としての本領が発揮される。大人になりかけた少女マイアを主人公にして、ちょっとひどいぐらいの冒険につぐ冒険を用意し、謎解きあり、少し異質だが恋心ありで、ぐいぐいと読ませてくれた。とりわけ、ヒューマン・ファイラムの男性レナとの出会いと、心理の変化はなかなかに楽しい展開である。
 最後まで、どたばたと冒険や謎解きを用意し、同時に世界の図式や歴史も読み解くことができ、パターンではあるが楽しい作品であった。
 ただ、最後の方に行くに従って、「あとがき」でわざわざ別立てしてある「ブリンの主張」が、本文にも同じように書いてある。それで少し興が醒めてしまった。しかも、「主張」が増えるにつれ、ストーリーがまだるっこしくなる。
 どうにもブリンらしいのだが、ちょっと教条的すぎないか?
 ま、とにかく、そういうことはよくあることで、気にしないっと。
 物語の舞台設定とストーリー展開はおもしろいのだから。
(2007.06.20)

奇人宮の宴

奇人宮の宴
DINNER AT DEVIANT’S PALACE
ティム・パワーズ
1985
 グレゴリオ・リーヴァス、31歳。いまだ18歳の時の初恋の人が忘れられない純な心を持つ男。今や有名なシンガーソングライターとして少しは名を知られ、浮き名も流していた。そして、3年前に引退したもうひとつの商売「奪還」の第一人者としても、彼はその筋から知られていた。
 未来のアメリカ。核戦争などで地球は荒れ果て、アメリカもまた荒廃し、住めるところは限られていた。資源も少なく、馬車や自転車が主要な陸上交通機関になってしまった社会。人々は失われた過去と悲惨な戦後をおぼろげに口承しつつも、今に生きていた。
 この世界に、異教のジェイバードが広がっていた。救世主ノートン・ジェイブッシュの分身であり司祭となるジェイブッシュたちによる聖餐を受け、主体を失い、時には異言をつぶやくようになる。数人のジェイバードが常に勧誘を行っている。それは、勧誘というよりも短時間の洗脳といってもいい。ジェイバードに拐かされた後、ほとんどの場合、二度と家族や友人の元に帰ることはない。
「奪還」。それは、ジェイバードたちにもぐりこみ、さらわれた息子や娘、恋人を連れ帰り、そして、脱洗脳まで行う能力を持つ者。行動力、意志力、自らがジェイバードにならずに済む、なっても元に戻るための力を持つ者。戦える者。
 自らの命をすり減らす者。
 だから、リーヴァスは引退した。
 しかし、連れて行かれたのが、初恋の人だと知ったとき、彼は、法外なお金を要求し、その仕事を受けた。
 そして、すぐにジェイバードに取り込まれそうになる。自分の弱さを思い知るリーヴァス。そこから、戦いと長い旅がはじまる。
 とにかく弱い、31歳である。なにしろ途中からは、虫を殺すのさえ嫌になってしまうような男である。引退して、引き受けたはいいが、失敗続き。それでも、最後までやめない。
 どうしても、彼女を連れ戻したい。いやそれ以上に、自分の回りの者たちを殺し、苦しめ続けているノートン・ジェイブッシュが許せない。いや、自分で自分が許せないのだ。
 この弱い主人公が、意外と憎めない。それは、回りに出てくる自転車版マッドマックスのような連中や、ジェイバードの若い女をさらっては、売りさばく男達など、登場人物のあくの強さのおかげだ。弱いのがいいことのように思えてしまう。
 きわめつけは、荒野にいた、血を吸う雲のような幽霊のような存在だ。
 それは、血を吸うごとに、本人に近くなっていく。そして、次第にリーヴァスそっくりになって、彼を追い回すようになる。
 それは、核戦争によって生み出された新たな生きものなのか?
 いや、そんなことはない。この世界は、何かがおかしいのだ。
 その元凶に、ノートン・ジェイブッシュがいた。
 彼の正体は。ジェイバードが簡単に洗脳される訳は。
 そして、世界の快楽と豪華さのすべてがある奇人宮の秘密とは。
 実は、本書「奇人宮の宴」が出たときに「ディック記念賞受賞」という言葉に釣られて購入したものの、今の今まで読まずにいた。奥付をみると昭和63年8月となっているので、1988年。バブルがはじける直前、最初に勤めた会社で休む間もなく働いていたときである。その後、会社を辞め、全部ではないがある程度の本を実家に戻し、東京に落ち着いてから5回引っ越しした。実家からいつ引き上げてきたか覚えてはいないが、約20年間寝かせていた本である。もう少し、ミュータントや核戦争後の退廃が書かれていると勝手に思いこみ、手が伸びなかったようだ。
 ディックのような読んでいて自分の頭の中が現実の世界と「ずれ」ていくような感覚になる作品ではない。しかし、とにかく弱い主人公が、弱いながらも人間として譲れない矜恃といったものを発揮するときの強さは、ディックの書く主人公と似ているかも知れない。
 読まないままに終わらなくてよかった。
 意志を持って生き続けることって大切だ。
(2007.06.20)

必殺の冥路

必殺の冥路
VOICE OF THE WHIRLWIND
ウォルター・ジョン・ウィリアムズ
1987
 クローン保険をかける。記憶を含む脳のバックアップを定期的にとっておく。それだけで大丈夫。あなたが死んでも、あなたはバックアップされた最後の記憶のままに若い身体で目覚めることだろう。お金さえあれば、そんなことが難しいことではない遠い未来。企業社会は、地球を単なる実験場とみなし、恒星間を旅し、自らの拡大と利益追求を模索して、時には連携し、時には激しい戦闘も辞さなかった。
 ある企業国家の社会実験によって壊滅的に破壊されたヨーロッパでスチュワールは生まれ、そして、成長し、企業の傭兵として専門教育を受けた。そして、どこかで戦い、死んだ。15年の記憶の欠落のままスチュワールのクローンは地球上で目覚めることになった。彼を知り、近づいてくる者がいる。彼の記憶にある者とである。15年前の記憶と現実の間には深い溝がある。彼は、その溝を埋めるためにもう一度宇宙に出ようとする。そのためには、企業に雇われなければならない。しかし、彼を傭兵として育てた会社はもはや存在せず、彼はなんとか機関士助手として地球を脱する。
 スチュワール(ベータ)の頭の中は、疑問で一杯である。なぜオリジナル(アルファ)は、15年の記憶の欠落を残したのか。何をベータに引き継ぎたくなかったのか。なぜアルファは死んだのか。死ぬとしたら、誰に殺されたのか? 何の仕事をしていたのか?
 スチュワールは、15年の記憶の欠落を少しずつ埋めていき、アルファが背負っていた業を、事件を、アルファを殺した者を探し出していく。それは、企業国家群と企業、そして、現在の大きな社会変動のもととなっている人類より遙かに古く高い能力を持つ恒星間種属をめぐる大きな出来事につながっていく。
 企業国家による宇宙開発と通商の寡占、企業国家間の争いによる戦争、宇宙船やコロニー、小惑星、地球を部隊にしたクローンの主人公の活躍。宇宙に適合した亜種的人類の存在。反応速度を高め、脳の機能を増大させるためのインプラント。
「ダウンビロウ・ステーション」(1981)、「サイティーン」(1988)などC・J・チェリイの作品を彷彿とさせる設定である。80年代は、クローンなどのバイオ技術、脳機能の理解、コンピュータと脳の融合、企業の国家化による宇宙開発と戦争などのテーマが次々と作品化された時期である。同じ路線にあるのが本書「必殺の冥路」である。
 同時に、この時期は、日本の経済が絶頂期にあり、アメリカではあらゆるものが日本に支配されるのではないかと驚嘆と驚異の両方を感じ、日本への愛憎まざった関心が寄せられていた。企業国家のイメージ構築に、当時の日本企業も一役買っているであろう。日本への関心は文化的側面にもおよび、本書でも、ゼンや「葉隠」の引用など日本的要素がちりばめられている。このあたりも、80年代後半からの傾向である。
 まあ、こういう分析めいた話はどうでもいいことである。
 エンターテイメント作品なのだから。
 地球をはじめいくつかの惑星や宇宙船などを舞台に、サスペンス仕立ての謎解きと、肉体、武器、知略をめぐらせての激しい戦闘。それでいい作品である。
 チェリイのような「クローンのアイデンティティは」とか、ある特定の状況で人間の心理はどうなるのか、といった要素はない。
 安心して読みたい作品である。
 余談だが、2003年から主に再読の海外SF長編の感想/評論/メモを続けて300冊を超えた。傾向として、読む内容に波と流れのようなものを感じる。
 つい先日、「ブラック・カラー」(ティモシー・ザーン)を読んだが、これは日本的な要素をふんだんに取り入れた宇宙の特殊部隊ものであった。敵は異星人である。「必殺の冥路」も同じような傾向の作品である。違いはクローンが主人公であるところか。やはり、最後は異星人が敵対対象になる。「必殺の冥路」のあとに読んだのが、「奇人宮の宴」(ティム・パワーズ)で、こちらは核戦争後の地球を舞台にした意志の強い主人公が痛めつけられ続けながらも旅をして、その過程で世界の成り立ちを紹介し、強大な敵に立ち向かう物語だが、なんとなく「必殺の冥路」と同じような気配がする。ラスボスがいるあたりがそうだ。その次は「グローリー・シーズン」(デイヴィッド・ブリン)で、こっちはクローン社会の話だが、「奇人宮の宴」のように意志の強い主人公が痛めつけられ続けながらも旅をして、世界の成り立ちを紹介しつつ、強大な(こちらは社会だが)に立ち向かう物語である。
 どれも、複雑な世界設定を少しずつ主人公が「学んでいく、知っていく」ことを通じて読者に分からせようとしている。そういう物語パターンの作品である。多くの物語、とりわけSFやファンタジーが、新たな世界を構築し、読者に展開するために、こんな技法をとるから、同じような傾向に思えてくるのは当たり前のことなのだが、こう続くとちょっと笑える。特に意識している訳ではないのだが、ちょっと考えて手に取るとこうだ。
(2007.06.20)

発狂した宇宙

発狂した宇宙
WHAT MAS UNIVERSE
フレドリック・ブラウン
1949
 時は1954年のアメリカ。いよいよ宇宙時代に入ろうとしていた。まずは、ロケットを月に送り込み、月にぶつけて「バートン式電位差発生装置」により、静電気発光をさせて地球から光を観察しようという実験が行われた。それを眺めようと思っていたSFパルプ雑誌編集長のキース・ウィンストンは、社長の邸宅に招かれていた。
 ところが、実験は大失敗したらしい。
 気がつくと、彼は爆発に巻き込まれ、違う地球にたどりついていた。
 1954年のアメリカだが、宇宙旅行はあたりまえ、月や金星、火星に植民し、月人が地球に訪ねてきたり、アルクトゥールス星とは戦争をしているらしい。ドルは使えず、クレジットという単位が流通する世界。そう、そこは無限にあるパラレルワールドのひとつ。そして、SFパルプ雑誌が現実となったような世界であった。
 知っているようでまったく異なる世界に放り込まれたキースは、自分が狂っているのか、世界が狂っているのかを悩みつつ、アルクトゥールス星のスパイと間違われ殺されかかったり、濃霧管制が敷かれているニューヨークで追いはぎに殺されそうになったりしながらも、なんとかこの世界で生きていかなければとパニクりながらも努力をはじめる。
 しかし、そうそうやさしい世界ではない。
 帰りたいよお。ってなものだ。
 1940年代パルプマガジンのくだらなさを逆手に取ったSFパロディ作品であり、永遠の名作である。日本では元々社が最初に翻訳し、その後ハヤカワSFシリーズ入り、そして、1977年に筒井康隆のあとがき付きでハヤカワSF文庫化され、途中、入手しづらい時期もあったが、2005年で21刷を数えるまでになっている。というか、私はこの2005年の表紙新装版を持っているわけだ。
 はずかしながら初読みである。
 この名作「発狂した宇宙」を読んでいなかったのだから、SF読みとしてはなかなか「読んでません」と言えなかったのだが、読んだので言う。「読んでませんでしたー」
 出版されたのが1949年である。まだ、テレビはない。ラジオの時代だ。車だって、いろんなメーカーが出てきたがフォードの時代は続いている。そんな時代背景の中で、エイリアンが美女を襲い、ヒーローが美女を救い、地球を危機から守るのだ。
 そんな世界に放り込まれたら、どうなるか。
 今読んでも古くない。ぜんぜん古くない。いや、古いか。古くて新しい。うーん。
 パラレルワールドのユーモアSFとしては超一流である。
 古いSF小説や映画を見たことのある人ならば、楽しめること請け合い。読んだり見たりしていなくても、なんとなくわかっちゃう雰囲気がある。
 あとがきの筒井康隆が高く評価しているのは、80年代風に言えばメタSFだからだ。筒井康隆も同じ路線をずっと目指していた作家の1人なのであろう。それはのちの作品を読めば分かる。分かるけれど、本書「発狂した宇宙」には負けているよなあ。時代の力かも知れないが。
(2007.05.31)

ブラックカラー

ブラックカラー
THE BLACKCOLLAR
ティモシイ・ザーン
1983
 西暦2370年代初頭、地球民主帝国の植民星系近くでライクリル星人と最初の接触があった。当初は交易関係にあったが、その間にライクリル星人は地球民主帝国侵攻を計画し、40年後に彼らは地球民主帝国を攻撃した。地球側は惑星26の版図を持っていたが、ライクリル星系は150の惑星世界を治めていた。その圧倒的な力の差の前に抵抗むなしく人類はライクリル星人に支配されることとなった。ライクリル星人は、人類の裏切り者を忠誠審査にかけ、再教育して各人類惑星を支配させた。各惑星の抵抗勢力は連絡を絶たれ、人類の裏切り者政府によって弾圧を受け、地下に潜っていた。戦後約30年。ライクリル星人は別の星系と新たな戦端を開き、その拡張政策を進めていた。
 そして地球の地下組織は、新たな戦いをはじめようとしていた。35年前に占領されたプリンリー星系には、人類の希望となる秘密が残されており、その情報を得ればライクリル星人に戦いを挑むことができる軍事力を手に入れられるかも知れない。さらに、プリンリー星系には、名将がおり、人類の特殊部隊ブラックカラー軍団が生き残っているかもしれない。地球の地下組織は、ひとりの若者アレン・ケインを訓練し、なんとか地球を脱出させプリンリー星系に潜入させることに成功した。そして、ブラックカラー軍団とケインが出会ったことで事態は急展開する。
 ブラックカラー軍団。手裏剣やマキビシを使いこなし、ヌンチャクと自らの肉体を武器に戦う人類最強の兵士達。肉体の強靱さだけでなく、精神的な強さ、戦略、戦術、兵器操作に優れた特殊部隊。黒装束に身を包んで闇夜に紛れて行動することから、ブラックカラー軍団と呼ばれていた。
 そして彼らは、地球以上に厳しい占領統治下のもと、まるで赤穂浪士のように自らを老いた思い出にひたる元軍人の老人たちとして振る舞い続けていた。30年以上に渡って、時が来るのをただひたすら待ち続けてきた。必ずいつか、戦いを挑むべきタイミングが来るはずだと。
 それが、アレン・ケインの持ってきた情報であったのだ。
 ついに、ブラックカラー軍団が立ち上がる。
 じゃじゃーん。どどーん。ばばーん。
 カラテ・ニンジャである。無口で、ブラックカラーである上司の命令には絶対の男の集団。彼らは目的を果たすためには手段を厭わない。しかし、仲間を守る意識はなみなみならぬものがある。その帰属意識こそが、彼らの強さの秘密でもあったのだ。
 プリンリー星系、アルジェント星系と、真のブラックカラー軍団の行くところに事件あり! いざ、人類の復興をめざして究極の兵士達は戦うのである。
 赤穂浪士のエピソードが語られるあたり、しっかりとした日本かぶれである。ヌンチャクを使って戦ってはいるが、別に「武士道」をひけらかすわけでもなく、変な日本語や日本式がでるわけではないので、安心して読める。作品としては、ミリタリーSFの範疇に入るであろう。笑えるのは、ブラックカラー軍団を設立する前に、アーマースーツ軍団も作られたようで、これが見事に失敗した様が語られる。あれ、とか、あの、作品とは違うのだよと、楽屋落ちとして遊んでいるのだろう。そのあたりのサービス精神が旺盛な作家である。
 調べてみると、スターウォーズの外伝小説や「超戦士コブラ」シリーズを書いている作家であった。読んでないなあ。
(2007.05.31)

プラネットハザード惑星探査員帰還せず

プラネットハザード 惑星探査員帰還せず
EXPENDABLE
ジェイムズ・アラン・ガードナー
1997
 惑星探査員、別名消耗品扱い要員。先天的に外見に障害を持ち、たとえ失われても他の宇宙軍クルーが心に傷を深く負わず、忘れることができるとして治療可能な外見の障害をそのままにされ、高度な惑星探査のための訓練を幼少の頃から受けた特殊エリート集団。未探査惑星に乗り込み、調査および、知性生命体がいた場合のファーストコンタクトを行うため、彼らの帰還率はとても低い。故に消耗品扱い。
 人類は宇宙に広がった。それは、先行する宇宙航行種属たちによる種属同盟の援助によるものであった。種属同盟は、疲弊したオールド・アースにかえてニュー・アースを用意し、そして、人類に宇宙航行技術を与えた。人類は競合する異星知的生命体たちと競いつつもたくさんの惑星に居を構えた。その先端にいるのが宇宙軍の惑星探査員である。
 種属同盟は、すべての宇宙航行種属に対し、ある規制をかけている。それは、殺人のような知性生命体の生命に対し悪意を持って攻撃し、生命を奪う行為をする知性生命体は、その惑星から出ることを許さないというルールと、そのような知性生命体にあるまじき行為を行ったり、放置するような宇宙航行種属の存在を許さないというルールである。
 だから、惑星探査員をはじめ、宇宙軍は常に慎重でなければならない。
 恒星間歴で25世紀が過ぎていた。
 顔に深いあざを持つフェスティナ・ラモスは、第一級惑星探査要員として宇宙艦ジャガランダに乗り込んでいた。
 彼女と属官のヤーランは、長命措置が効かなくなり、ぼけはじめたチー提督とともに惑星メラクィンの探査を命じられる。惑星メラクィン…その存在は秘密にされていたが、惑星探査員はだれもが知っていた。地球そっくりの惑星でありながら、幾多の惑星探査員が派遣され、一組も帰ってはこない未調査状態のままの惑星であることを。
 なぜ、そのような危険な惑星に提督を連れて行かなければならないのか?
 これは事実上の追放なのか?
 そうであれば、殺人と同様の知性生命体にあるまじき行為ではないのか。
 それよりも、私、ことフェスティナ・ラモスは生き延びることができるのか?
 ということで、未知の惑星メラクィンに降りざるを得なくなったフェスティナ・ラモスが一人称でお送りする冒険物語が本書「プラネットハザード 惑星探査員帰還せず」である。何が特徴かって、もちろん「一人称」である。もともと英米文学には一人称作品は少ない。しかも、未知の惑星に降り立ち、そこでの様々な事件や地球そっくりの惑星であることの謎解きなどを、語り手である主人公が、自ら大立ち回りをしつつこなさなければならないのである。大変だ。
 一人称に慣れている日本の読者にとっては、スムーズに読める軽いストーリーである。
 しかも、最後まで息を抜くことのできないどんでん返しの連続。オチだけはどことなくハリウッド映画風だけど、それを除くととても楽しく読める。
 たとえば地球そっくりの惑星にいた、人間そっくりだけれどもガラスでできている現地人。
 ガラスでできている裸の美人といえば、思い出すのは「銀河鉄道999」(松本零士)の「ガラスのクレア」である。頭の中を松本零士絵にして作品を読むとおもしろいかもしれない。宇宙船にはメーターがいっぱいついていたりして。
 それはさておき、本書「プラネットハザード 惑星探査員帰還せず」は、純粋なエンターテイメントSFなのだが、その設定はなかなか骨太である。
「二世紀前、宇宙軍本部最高会議は、ある者の死がほかの者よりも艦隊の士気に大きな影響をおよぼすという事実を確認した。評判がよく人望があり、とりわけ肉体的に魅力のある者が命を落とした場合、同僚要員たちは、その死を深刻に受けとめた。そのため任務遂行率が三十パーセントほど落ちたのだ。(中略)だが、さほどの評判も人望もなく、とりわけ醜い人物が犠牲者となった場合、多少の支障は生じはしたものの、任務の遂行にたいした影響はなかった。(中略)いつからか惑星探査要員部隊は、明るい目をした健康的な要員ではなく、いうならばあまり写真うつりのよくない者たちで編成されるようになったのだ」(13ページ)
 美人コンテストがあり、雑誌のグラビアには美人が写り、美の基準が(時代的な変化はあれど)共通認識としてもたれている、ということは、その逆もあるということである。しかし、そのことは語られることはあまりない。それを語ることは、そういう人を傷つけることになるに「違いなく」、だから「タブー」であり、だったら最初から「語らない」という選択をして、なかったことにしよう。と、してしまう。しかし、その風潮こそが、陰湿な価値観や差別的思想を生むことにつながる。
 本作品は一人称にすることで、この語られない違和感を克服し、すっきりした読後感を与えてくれる。
(2007.05.31)

サンドキングズ

サンドキングズ
SANDKINGS
ジョージ・R・R・マーティン
1981
 ジョージ・R・R・マーティンの短編集「サンドキングズ」である。私がマーティンの作品に出会ったのは、彼が編者兼作者を務める「ワイルド・カード」シリーズである。いわゆるアメリカンコミックヒーローもののSFであり、ミュータント化した人類のうち、一部が特殊能力をもったヒーローとなり、特殊能力を持った敵や一般の人類との関係、確執、戦いを行うストーリーである。ストーリー上、差別的な表現も入ってくるためなのか、途中で翻訳出版されなくなっている。最近では「タフの方舟」シリーズや、ファンタジー「七王国の玉座」シリーズなどが翻訳され、ちょっとしたブームになっている。そこで、新装版として1984年にハヤカワSF文庫から出されていた本書「サンドキングズ」が再版されたというわけであろう。私は、1984年時点のものは購入していないため、今回はじめて読んだ。
 本書「サンドキングズ」の作品の多くは、舞台の雰囲気がどことなく「タフの方舟」に似たような世界。
 表題作「サンドキングズ」の舞台は未来のとある惑星。異星人との交流も進み、人類も宇宙に進出して各地に散っているらしい。主人公のサイモン・クレスは独り者の大地主。趣味は変わった生物をペットとして飼い、それを友人達にみせびらかすこと。ハゲタカ、ヨロヨロ、地球産ピラニアを飼っていたが、ちょっとした遠出の仕事が長引き、ペットが死んでしまった。そこで、彼は新しいペットを探しに宇宙港付近の市場に行く。そこで、変わった虫を紹介される。サンドキングズ。アリのような社会性異星生命体で大きな同じガラスケージに入れておくと、群れと群れが戦争をはじめるという、凶暴な性質を持っている。しかも、わずかな精神感応力があるらしく、支配者=飼い主を神ととらえて巣に飼い主の似姿を彫刻するというのだ。
 いくつかの「絶対に守って欲しい」という約束を了解し、サイモン・クレスは4組のサンドキングズを自分の家に据え付けた。そして、ある程度育ててから、友人達に見せびらかし、十分にうらやましがらせることができた。
 しかし、彼は「約束」の重要性が分かっていなかったのだ。
 という、まあ、SFホラーチックな作品であり、お約束なストーリーであるのだが、お約束なだけに、どのように物語を展開するのかでおもしろさがぐっと違ってくる。
 ヒューゴー賞・ネビュラ賞をとっている作品だけに、この「サンドキングズ」はおもしろい。つぼを心得ていて、短編ながらサンドキングズという社会性のある異星生命体をうまく描いている。いや、説明しきるのではなく、ちょっとずつその姿をかいまみせるあたりが、SFホラー映画そのままである。「エイリアン」とかね。
 オチもぴしっとお約束通りに決まっていて、すっと腑に落ちる。私は本来ホラー系の作品は大嫌いであり、ホラー映画は、どんなにSF設定がしっかりしていてもあまりみたいとは思わない。まして、日本のSFホラー小説や映画の多くは、途中からSFであることを忘れて最初の設定を無視したり台無しにしたりすることがあり、小説などは半分以上読んだところでうんざりした気持ちになることがある。そこで放り出すわけにもいかず、作品とおつきあいするのだが、最後の方には「金返せ」という気持ちになり、作品に入り込むことができない。それなのに売れたりするから腹が立つ。人ごとだけど。
 それに比べて、本書「サンドキングズ」の引き締まっていることよ。
 こういう作品こそ、お金を払う価値があろうというものだ。
 もちろん、ただのエンターテイメントだけどね。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞作品
(2007.05.31)

宇宙の小石

宇宙の小石
GALAXY OF THE LOST
アイザック・アシモフ
1950
 本書「宇宙の小石」は、アイザック・アシモフの未来史の中で、トランターものとして位置づけられている作品であり、銀河帝国=トランターの歴史としては最初期のものと位置づけられている。
「銀河帝国の興亡」(創元、ハヤカワでは原題通り「ファウンデーション」)シリーズは長く、続編が書かれることはなく、1880年代に入ってから、アシモフ自身によって続編やロボットシリーズとの融合が行われ、アシモフの死後、公式に新三部作がBのつく3人のSF作家によって書かれ、その際に、過去の作品群の矛盾を回避するための工夫がされていた。
 そういうこともあって、本書「宇宙の小石」もまた、銀河帝国の歴史の一こまとなっている。特に、主人公の1949年というはるか過去から来た男であり、仕立屋のご隠居ジョゼフ・シュワーツが、未来で開花させた能力である読心力と精神操作能力は、ファウンデーションのミュールやその後登場する能力者たちの先駆けとして位置づけられる。また、地球がかつて核戦争によって汚染されていたことなども「地球」をめぐる未来の物語の大きな鍵となっている。
 本書「宇宙の小石」を、独立した作品ではなく、ファウンデーションシリーズに位置づけて読むと、そういうところばかりに目がいってしまう。
 しかし、独立した作品として読むと、1949年、50年当時のSFの姿が見えてくる。  1949年から主人公の知るよしもない核関連実験によって遠い未来に飛ばされ、言葉も通じず、自暴自棄になって、未来の地球での科学実験材料になり、その結果、比類なき能力を発揮する。その未来の地球と地球人は、銀河帝国の中で差別され、厭われていた存在であった。あまねく広がり、2億の有人惑星と約50万兆人の人口を持つ銀河帝国にあって、唯一放射線に汚染された惑星が地球であり、地球人は他の銀河帝国人とは混血することはできない亜人間だと思われていた。もちろん、地球が人類発祥の地であるという説は異端であり、主流は惑星ごとに汎発生した結果であるとされていた。地球人は、銀河帝国と帝国群の支配のもとで、わずか2千万人の人口を維持するのも容易ではない状態であった。人口を維持するために、60歳になったら人々は死ななければならない。地球人の寿命は60歳であったのだ。それは、銀河帝国では考えられないことであったが、地球の常識であった。地球政府の総理大臣は地球こそが人類の発祥であるという古代教団の大僧正であり、銀河帝国の支配から逃れるための秘策を考えていた。
 ひょんなことから、過去からやってきたシュワーツは、未来の地球が核戦争の結果衰退し、地球人の誇りすら失われていることを知る。
 異端の人類地球発祥説を唱える銀河帝国の科学者と地球人の利発な娘の恋や、銀河帝国政治家と地球の政治家たちの丁々発止のやりとりを目の当たりにしながら、シュワーツは、銀河帝国と地球の未来に関わる大きな決断をする。
 そう、彼は懐かしき1949年に帰ることができないのだから、未来を選択するしかないのである。
 核戦争の恐怖、宗教的な偏った思想が政治力を持つときに現われる凶器、無知と偏見による差別と迫害など、当時のアメリカや世界の政治状況、軍事状況を色濃く反映した作品である。
 アシモフはほとんど政治的な発言をしなかったし、本書も「政治色」はない。しかし、時代背景が第二次世界大戦の終わった安心感よりも、次の戦争への不安感に満ちていたことを感じる作品となっている。軽い絶望といってもいいかもしれない。
 そして、絶望で終わらないのがアシモフである。必ず最後に、ちょっと楽天的な落ちをつけて読者を安心させる。
 アイディアよりも、むしろアシモフのこういった楽天的なところが長く人気を博していた理由かも知れない。
 とりわけ、初期の作品群は読んでいてほっとするところがある。まだ、アシモフが若かったからかも知れないが。
ところで、本書「宇宙の小石」は創元推理文庫SFとして1972年に邦訳出版され、手元には1976年の第9版がある。表紙は司修氏による赤い背景にロケットが飛んでいるイラストであった。その後、新装版としてイラストも現代風になり出版されている。また絶版になっているようだが。
(2007.05.11)

焦熱期

焦熱期
FIRE TIME
ポール・アンダースン
1974
 遠い未来、地球人類は他の惑星に移住していた。異星種属ナクサ星人が入植しているムンドマル星では、地球人がナクサ星人入植地以外に入植することで棲み分けしていたが、やがて地球人とムンドマル星のナクサ人との間に戦争が起こり、それまで良好な交易関係を続けてきた地球とナクサ星はムンドマル星をはさんで戦争状態にあった。
 人類は好戦的であるばかりではない。
 アヌ、ベル、エアと3つの太陽によって複雑な軌道を描く惑星イシュタルでは、地球人は長きにわたってイシュタル人の異星文明調査を続け、地球人のコロニーを形成していた。
 イシュタル星は地球とよく似ており、おおむね人類が生存に適する星である。イシュタル人も人類によく似ており、違いは2腕4足のケンタウロス型であるということである。イシュタル人は、植物や昆虫と共生関係にあり、そのたてがみや体毛は植物からできている。その共生関係のせいか、イシュタル人は社会的に64歳で成人し、300~500歳と長命である。それは、イシュタル星の特異な気候変動がもたらした独特の生態系に由来するのかも知れない。1000年に一度、3つのうちのひとつの太陽アヌがイシュタルに近づくのである。焦熱期が訪れ、干ばつと気候変動によって多くの個体が死に、イシュタル人の文明が崩壊する。それゆえにイシュタルでは科学文明が長期に発展してこなかったのかも知れない。そして、今、新たな焦熱期が近づきつつあり、本来無益な争いを避けるイシュタル人たちの生き残りをかけた闘争がはじまっていた。
 イシュタルの人類は、統括領と呼ばれるイシュタルでもっとも文明的な地域と人々とその文明を守ろうと手を貸すことを決意していた。そこに、地球の宇宙軍がナクサ星との戦争の一拠点としてイシュタル星に基地を建設するとやってきて、イシュタルの地球人の資材を徴発してしまった。  地球人とイシュタルの人類、統括領のイシュタル人と統括領を落とそうとする蛮族の戦い、そして、宇宙規模の戦い…。
 そんななかで描き出される人間・イシュタル人の物語…。
 そして、もうひとつ、イシュタル星に潜んでいた古代文明の跡…。
 ポール・アンダースンがハル・クレメントへのオマージュとして描いた異世界の生態系の物語である。
 ポール・アンダースンは、本格的なSFも書けば、ファンタジー、ファンタジーを背景に置いたSFもうまく書ける器用な作家である。
 1000年に1度、焦熱期が来て生態系と文明が大きな変動を迎える星…。
 1度夜を迎える惑星のお話であるアイザック・アシモフの「夜来る」(1941)を彷彿とさせる設定。
 作者が書いているようにハル・クレメントの「重力の使命」(1954)を彷彿とさせる、魅力あるイシュタル人。
 ファンタジーでおなじみの半人半馬型のイシュタル人が、「三国志」ばりの陸戦、海戦を繰り広げ、さらには、イシュタル人の独特の共生体とエコロジーに加え、古代異星文明、宇宙戦争、戦争と平和、さらには愛と性まで加わってもうなにがなにやらの詰め込みようである。
 脂がのっているとも言えるし、もったいないとも言える。
 これだけの内容を1冊に詰め込みながらも、読みにくくないようにストーリー立てはシンプルであり、読みづらいことはない。
 登場してくるガジェットが少々古くさいが、1974年の作品であり翻訳も1983年ということでそのあたりは頭の中で現代風に翻訳して読めばよい。それ以外は、今でも楽しく読める作品である。
 絶版なのがちょっと残念。
(2007.05.09)

メテラーゼの邪神

メテラーゼの邪神
MONSTER OF METELAZE
グレゴリイ・カーン
1973
「異次元の陥穽」「サーガンの奴隷船」に続く、キャプテン・ケネディ・シリーズの第三弾。作者はグレゴリイ・カーンことE・C・タブ。
 2巻では早々に主要登場人物であるケネディの3人のクルーが登場しなかったためちょっと不安であったが、幸い3巻では3人とも再登場し、それぞれの特質を活かしてケネディを助けていく。
 今回の舞台は惑星メテラーゼ。独裁者と異質な新興宗教で社会不安が巻き起こっていた。独裁者は議会を事実上制圧し、人民を動員して何か特殊な設備を惑星中に張り巡らせようとしていた。一方新興宗教の指導者は、これまた古代超文明の影響を受けたような信仰で人々を虜にしている。この非科学的、非民主的な状況に、惑星メテラーゼを版図に持つ地球政府と地球軍は、キャプテン・ケネディらによる特殊工作を命じた。
 他の惑星や宇宙政治に影響を与える前に、独裁政治を崩壊させ、同時に新興宗教を収めようという作戦で、ケネディとそのクルーたちがメテラーゼに乗り込み、スパイ工作を行うのであった。
 惑星メテラーゼは、まるで大戦前夜のナチスドイツのような状況であった。
 しかし、その陰には、やはり古代超文明の科学力の陰があり、ケネディは、独裁者の背後にいる真の命令者の存在を見つけたのであった。
 それは…。
 ということで、宇宙スパイ大作戦である。
 このあと、2作品が翻訳されたし、アメリカではシリーズが合計17作品あるというが、私の力はここで尽きるのであった。
 ひとつの時代を物語る、スペースオペラである。
 ただ、タイトルの「異次元の陥穽」「サーガンの奴隷船」「メテラーゼの邪神」というのは、とても頭にこびりついていて、いまだに時折、口について出ることがある。このタイトルのコピーのよさは、翻訳の小隅黎氏の本領発揮というところであろうか。
(2007.04.21)