老人と宇宙

老人と宇宙
OLD MAN’S WAR
ジョン・スコルジー
2005
 21世紀の戦争SFがやってきた。
「宇宙の戦士」(ロバート・A・ハインライン 1959)、「宇宙兵ブルース」(ハリイ・ハリスン 1965)、「終わりなき戦い」(ジョー・ホールドマン 1974)、「エンダーのゲーム」(オースン・スコット・カード 1977,1985)
 いずれも、代表的な戦争SFであり、新兵の成長を通じて宇宙の戦争の姿を描き出す名作ばかりである。そもそもは、ハインラインの「宇宙の戦士」によってこのカテゴリーが築かれ、それを、ハリイ・ハリスンがみごとにパロディ化して「宇宙兵ブルース」をしたためた。その後、第二次世界大戦よりもベトナム戦争に影響を受けたであろう「終わりなき戦い」や「エンダーのゲーム」を生み出すこととなる。
 そして、21世紀。911以前に主なプロットは書き上げられていたという、ブログ発のSF「老人と宇宙」が登場する。著者も表明しているように「宇宙の戦士」の21世紀版である。というよりも、老人版というべきか。
 宇宙に進出した人類は、宇宙がすでに多くの異星種族によって支配され、激しい紛争が続いていることを知る。人類もコロニー連合をつくり、植民を開始した。しかし、それは、人類もコロニー獲得と人類と他の異星種族との椅子とりゲームに参加したことでもある。
 コロニー連合は、人口過剰な貧困国から植民者を受け付けた。条件は一方通行。つまり、二度と地球に帰ることはできない。それでも、貧困国にとってみれば口減らしができるのだから否応もない。
 そして、もうひとつコロニー連合が、地球に求めたことがある。
 それが、コロニー防衛軍への志願兵である。
 地球はコロニー連合によって封鎖状態に置かれており、地球人はコロニー連合が異星種族との競合の中で得た高度な宇宙技術によって宇宙から閉め出されていた。
 今、宇宙やコロニー連合がどうなっているか、地球人たちには知るよしもない。
 地球は停滞していたのだ。
 そんななかで、すべての人に宇宙への機会が与えられていた。
 それこそが、コロニー防衛軍への志願である。
 コロニー防衛軍の志願死角はただひとつ。75歳以上であること。健康状態不問、本人の意志で志願すれば、75歳の誕生日に入隊することができる。登録の受け付けは65歳からだが、75歳になり自ら申し込めばそれだけで入隊完了。もちろん、本人が入隊手続きまでに辞退すれば、それはそれで認められる。特に罰則もない。ただし、入隊手続きは生涯1度だけしか認められない。1度辞退すれば、2度目はない。
 コロニー防衛軍に入隊すれば、地球人としては当該政府の市民権がなくなり、死亡したとしてすべての保険なども含む財産は、死者と同様に相続等の処分がなされる。コロニーの植民者同様、地球に帰ることはできない片道切符となる。兵役は2年だが、最長10年とされている。人生経験を積んだ大人ならば誰でも分かる。10年の兵役が予定されているということを。
 しかし、それでも、75歳以上の志願兵は後を絶たない。なぜならば、「戦闘即応性の向上のために防衛軍が必要とみなす、あらゆる内科的、外科的、治療的療法および処置を受け入れる」という項目があるから。75歳以上の人間にとって残る人生は数えるほどしかない。この時代になっても90歳を超えて生きるのは容易ではない。地球では得られない技術によって宇宙の苛酷な条件でも軍人として戦えるほどの治療が施されるのである。もちろん、誰も実例を見た者はいない。なぜならば、地球はコロニー連合から隔離されているから。地球上にはコロニー連合の市民やコロニー防衛軍の軍人はひとりもおらず、エージェントがいるだけである。彼らは、国連や各国政府から認められてリクルート活動を行う。少しあやしいが、宇宙にいるコロニー連合や異星種族の持つ高い技術力は地球人は誰でも知っている。だから、75歳以上の人たちは思うのだ。賭けてみよう、と。どうせ、そのままでも数年から十数年で死ぬのだから、と。
 ジョン・ペリーの最愛の妻は8年前に死んだ。そして、75歳の誕生日を迎えた。生前、妻とともにコロニー防衛軍の説明を聞き、事前登録を済ませていた。だから、ペリーは、コロニー防衛軍に入隊した。ほかに思い残すことはなかったから。
 そして、ジョン・ペリーは、二等兵として宇宙に跋扈する地球人よりもはるかに優れた技術やまったく異なる宗教、文化、社会、生理、生態を持つ異星種族たちと闘うことになる。なぜ闘うのか、それは命令を受けたからである。二等兵は、なぜ、を考えてはいけない。それを考えるのはもっと上のものだから。闘うこと、従うこと、そして、生き残ること。少しでも気を抜いたりすれば、せっかく長らえた命を無駄に散らすことになるのだから。
 本書「老人と宇宙」は、75歳という設定を除けば、「宇宙の戦士」そのものである。しかし、75歳なのである。私にはまだ30年以上もある存在である。もしかしたら耄碌したり、身体が動かなかったりするかも知れないが、間違いなく75年分の経験を積んだ存在である。
 頭の回転や記憶や体力はともかくとして、75年分の経験を存分に活かすことができれば、それはすごいことになるだろう。老齢にして健啖な政治家を見ればいい。その知略は、経験がものを言う。40代、50代ではできないことができるようになるのだ。
 ということで、おもしろい。
 いやあ久しぶりに一気読みしてしまった。
 入隊条件75歳以上で、老人を主人公にするだけでこれほどおもしろくなるとは。ハリイ・ハリスン真っ青である。しかもパロディ作品ではなく、正統なミリタリーSFであり、「宇宙の戦士」の直系後継者である。
 恐れ入りました。
 そうそう、老齢での変化といえば、ニーヴンの「プロテクター」なんていうのもあるが、そっち方面ではないのでご安心を。
(2007.04.02)

銀河パトロール隊

銀河パトロール隊
GALACTIC PATROL
E・E・スミス
1937(1950)
 レンズマン。その言葉の響きは、ウルトラマンやウルトラセブン、マグマ大使、キャプテンウルトラ、仮面ライダー、鉄腕アトムや宇宙戦艦ヤマトを何よりも楽しみにしていた少年にとって、名前だけでもどきどきするフレーズであった。
 私が最初にSFと出会ったのは、おそらく「ぽんこつロボット」(古田足日)で、その後、「宇宙ねこの火星たんけん」(ルースブン・トッド)あたりだと思う。その後、田舎の城跡公園の中にあった小さな公立図書館や古い小学校の図書室で岩崎書店やあかね書房、ポプラ社、講談社などのジュブナイルを読みあさり、SFに耽溺していった。
 このときに、レンズマンシリーズには出会っている。ただ、「三惑星連合軍」と、レンズマンシリーズのストーリーがごちゃごちゃになっており、何種類かあったが、何となく似ているけれど違うストーリーであった。それでも、探し回っては読んでいたのだから、レンズマンの語は心にしっかりと刻み込まれていた。
 そして、小学校5年生の時に転機が訪れる。はじめて文庫本という存在を知ったのだ。大人向けの文庫本というジャンルに、SFがあるではないか。しかもたくさん。そのことを知ったときには興奮で眠れなかったほどだ。
 そうして、親に頼んで注文してもらったのが、本書「銀河パトロール隊」にはじまるレンズマン・シリーズである。当時は、「三惑星連合軍」までしか出ておらず、シリーズ6冊であった。田舎の本屋には在庫はほとんどなく、この6冊が2回か3回に分けて、順番ももばらばらに届いたことを覚えている。そう、我が家まで本屋が本を届けてくれていた時代である。古いなあ。届く度に、その間のストーリーに思いをめぐらせながらも間が届くのを待ちきれずに読んでいた。墓場に面した2階の自分の部屋で繰り返し読んでいた。全巻揃ったときには、朝まで一気読みをして翌朝辛かったことを覚えている。
 そういえばこの頃から、授業中に寝て、夜更かしをするようになったなあ。その癖は、大学を卒業するまで抜けなかった。今でも明け方まで本を読んでいることがある。
 最初に読書で徹夜したのも、このシリーズだった。
 もし、小学生のうちにこのシリーズを読むことがなかったら、これほどまでにSF漬けの人生にはならなかったであろう。
 当時の私は今よりももっと馬鹿だから、なぜか知らないが表紙をはがしてノートに貼りつけたりしており、最初期に購入した文庫本に表紙は残っていない。そして、よせばいいのに、内表紙にSFの購入通し番号を振ろうとしていた形跡がある。ちなみに、本書「銀河パトロール隊」は栄えある1番が万年筆によって振られている。もちろん、本はぼろぼろ、手あかと染みのついたおどろおどろしい紙の束になっている。
 1966年5月に、小西宏訳によって完訳された創元版は、その後確実に版を重ね、私の手元にある1976年版は29版となっている。また、2002年には、小隅黎訳による新訳シリーズとして同じ創元より発行されている。このほかにも、シリーズ1巻の「銀河パトロール隊」は、ハヤカワで井上一夫、角川で小笠原豊樹訳があるという。
 私は、小西訳のシリーズを何度となく読み返している。おそらく10回はくだらないのではないだろうか。馬鹿である。
 実は、4年ほど前にも1度全シリーズを小西訳で読み返していた。そのときには、感想を書き連ねる「行」を自分に課していなかったのだが、その後、何を思ったか、この海外SF感想を書くようになってしまった。読み返したばかりだったので、なかなか手が伸びない。そこで、小隅黎訳の新シリーズを読むことにした。
 やはりいい。レンズマン。どっちの訳も好きです。
 キムボール・キニスン、レンズマン候補生学校をかつてない成績で首席卒業し、レンズマンになったばかりのルーキーである。
 レンズマンが身につけるレンズとは、誰も姿を見たことのないアリシア人により与えられるもので、人類や宇宙の宇宙の通常の知性体の理解が及ばない物質でできており、身につけたものが生きている限り輝き続けるが、死んだり、別の者が着用しようとすると完全に分解し、着用しようとした者を殺してしまう存在である。認識票であり、レンズマン同士が思念で通信を送る、どんな言語も自動翻訳するなど「思考」に関わる存在でもある。
 アリシア人にレンズをレンズを与えられたものは、人類、非人類に関わらず銀河社会の正義と公正の執行者である銀河パトロール隊の中心的存在として宇宙海賊や麻薬商人たちと闘うのである。
 宇宙は広い。しかし、無慣性航法(自由航行)によって光速の壁は簡単に超え、銀河中を飛び回ることができる。しかし、自由航行ができるのは銀河パトロール隊だけではない。謎の宇宙海賊ボスコーンもまた、強大な軍事力を持ち、銀河社会を脅かしていた。
 そして、今、ボスコーンは銀河パトロール隊をしのぐ力を持ち、銀河社会の宇宙貿易は壊滅の危機にあった。キムボール・キニスンは特命を受け、ボスコーンの宇宙海賊船の力の秘密を解き明かすために、新造戦艦ブリタニア号を発進させた。
 謎が謎を呼ぶ強大な敵、キニスンが遭遇する苛酷で奇妙な惑星と、そこに住む異星人の特徴ある姿や行動は、スペースオペラならでは。さらには、光年単位で行われる激烈な宇宙戦、敵の基地に単身乗り込み活躍するキニスンの知略、そして、大河小説につきものの美しく力強い美女。主人公のキニスンも、ただ頭がよく、力が強く、かっこいいだけではない。あるときは、命からがら脱出し、入院先では暴れ回り、人間くささを見せつける。
 だからこそ、彼が単身、命がけで銀河社会のために、無謀とも思える作戦を展開するときに、読者はキニスンに肩入れをすることになる。
 永遠のヒーロー。
 あら探しをする小説ではない。1930年代に、銀河を駆け回ることができたのだ。
 その想像の羽に感謝である。
 ちなみに、80年代に日本ではアニメ化されているらしい(見てない)が、どうして、ハリウッドが映画化しないのだろう? シリーズ後半の思念戦などもあるから、映像化しにくいのかなあ。「指輪物語」も映画化したことだし、そろそろ誰か挑戦しないかなあ。
 このシリーズばかりは、ぜひハリウッドで、監督にも俳優にもCGにも巨額を投じて無茶苦茶やってくださいな。
 QX?
(2007.04.01)

アイアン・サンライズ

アイアン・サンライズ
IRON SUNRISE
チャールズ・ストロス
2004
 人類文明からシンギュラリティ(特異点)を迎え、エシャトンが誕生した。生みだした人類には計り知れない知性を持つ存在エシャトンは、人類の存在する宇宙で時間・空間を超えて自らの目的を持った作為を行う。シンギュラリティを迎えたとき100億人いた人類の90億人は、時空を超えた宇宙の荒っぽいテラフォーミングされた世界にばらばらに放逐された。そして、姿なきエシャトンの統べる世界で、それぞれに独自の世界を作り、やがて地球の人類と再び遭遇した。人類はエシャトンによって短い期間で宇宙の多くに存在する生命体となっていたのだ。
 前作「シンギュラリティ・スカイ」では、多くの人類世界の中でも超保守・封建的な世界が軍事的な暴走をはじめ、それを主人公・地球国際連合多星間軍縮常設委員会の特別査察官・大使館づき武官のレイチェル・マンスール大佐がなんとか解決しようとするアクションハードSFである。さらに、もうひとり、誰かの指揮の下に動いているとみられるマーティン・スプリングフィールド技師とレイチェルの不思議な恋愛ストーリーでもあった。
 本作「アイアン・サンライズ」は、レイチェルとマーティンの時間軸で前作「シンギュラリティ・スカイ」の直後に幕を開ける。レイチェルが前作で使った多額の費用が違法ではないかという監査が入ってしまったのだ。
 ということで、続編のような趣だが、独立した作品でもある。
 何人かの主要登場人物の中で、主人公と言えるのは、ウェンズディこと、16歳のちょっと切れ気味な女の子。黒ずくめ、無造作な黒髪、青白い顔、親も学校も退屈も嫌いな独立独歩が信条。いじめられても、嫌われても、親に文句を言われても、自分がやりたいことをやる。ま、協調性っていうのはゼロだけど。
 4年前に惑星モスコウの太陽が突然暴発し、モスコウは一瞬にして崩壊。4光年先のコロニーにもその衝撃波面が近づきつつあった。ウェンズディが育ったコロニーは全員が避難を開始。ところが、ウェンズディはとんでもないトラブルに巻き込まれてしまう。
 そのトラブルは、人類世界の新たな脅威のはじまりでもあった。
 太陽の中心部に鉄のコアが人工的に作り出され、それにより太陽が暴発する。その科学的な表現と、それによって起こる星系の崩壊、人類の受難。
 その筆力と想像力には舌を巻いてしまう。
 そこだけでもおもしろいのだが、ウェンズディやレイチェル、あるいは、フリーの戦争ブロガーやウェンズディにとっての「敵」であるリマスタードの変な社会など、その世界設定やキャラクターもおもしろい。さらに、ネズミ型の旅行チケットが案内役兼セールスマンとなって喋りまくるなど、小物にも凝っている。前作「シンギュラリティ・スカイ」では、ハードな宇宙アクションと唐突な専門用語で読む方も大変だったが、今作「アイアン・サンライズ」は、ウェンズディという少女が主人公ということもあってとても読みやすくなっている。
 とにかく、本書はおもしろい。おすすめ。
 それにしても、エシャトンという超知性体のいる存在は、読みようによっては顕在化した神の世界である。この神は、自分の都合を忘れない。エシャトンの禁忌を犯すものには、その世界を崩壊させるという罰さえも与えかねない。エシャトンが選び、エシャトンのために働いたものには、現世的な利得を与える。小さな奇跡である。エシャトンをたたえる必要はないが、エシャトンとともに宇宙に存在することは、エシャトンがいないよりもまあよい世界であることもある。難しい問題だが、エシャトンは人類を嫌ってはいない。むしろ、人類を助けている。それも、実はエシャトンの都合でもあるのだが。
 神が顕在化したハードSF。
 人工知性体の超越的存在化というのは、SFに神が宿る作品群を生み出すことになるのだろうか。
 そういえば、ヴァーナー・ヴィンジの「遠き神々の炎」「最果ての銀河船団」には超越的存在が出てくるし、「マイクロチップの魔術師」も特異点ものだなあ。「マイクロチップの魔術師」って1981年かあ。
 アーサー・C・クラークは、「高度に発達した科学は魔法と見わけがつかない」って言ってたけれど、特異点を迎えた存在は、神と区別できないのかなあ。
 あ、本書はエンターテイメント作品です。難しいこと考えずに、SFの醍醐味を味わえる楽しい作品。長くても、長さを感じさせません。
(2007.03.31)

去年を待ちながら

去年を待ちながら
NOW WAIT FOR LAST YEAR
フィリップ・K・ディック
1966
 戦争、ドラッグ、時間と空間の混乱という舞台設定。人工知能を積んだタクシーが主人公たちととんちんかんながら人間くさい会話を交わし、スクラップにされるべき不良品として選別された疑似生命体が、技術者によって救われ、カートとして動くだけの能力を与えられ、都市にはなたれ生きていく様…。混沌としたいかにもディックワールドらしい作品である。名作とは言えない。駄作ではない。作者名を伏せて書かれていても、それがディックの作品であることは間違いなくわかる、そういう作品である。
「去年を待ちながら」
 簡単にストーリーをまとめておくと、西暦2055年、地球は星間戦争に巻き込まれていた。恒星間探査の結果、人間に良く似たリリスター星人と出会い、同盟関係になったところで、リリスター星人の宿敵で昆虫に似たリーグ星人との星間戦争に荷担することとなってしまったのだ。国連事務総長のジーノ・モリナーリは、巨大企業TF&D社の支援を受けてリリスター星人の法外な要求をはねのけながら、なんとか地球を守ろうとしていた。しかし、彼の体調は思わしくなく、TF&D社の社長の専属人工移植医のエリック・スイートセントは国連事務総長の治療のために派遣されることとなる。
 一方、エリックの妻でアンティーク・デザイナーのキャシーは、エリックとの不和もあり、極秘のドラッグJJ180を体験してしまう。JJ180は、この戦争を終わらせるために開発された致死的な幻覚ドラッグだったのだ。そして、人によっては、パラレルワールドの別の時間軸を体験する力を一時的に与えることのできるドラッグでもあった。少しだけ歴史の違う過去や未来を体験するドラッグは、1回の服用で確実に中毒させ、連続服用しなければ死を、連続服用してもいずれは死をもたらす毒薬でもあった。
 果たして、この戦争は終わるのか。地球人は生きのびることができるのか。キャシーの命は救われるのか。
 ということで、世界は多重性を持ち、人はそもそも多重性に生きていくなかで、主人公の人工移植医は、その多重的な生き方に絶望しつつ、簡単で大切なことを学ぶのだった。
 別に、啓蒙されるようなないようではない。
 あいかわらず、主人公は状況に振り回されるだけで、状況そのものではない。
 失敗もする。挫折もする。うかれもする。
 それでも、読み終わったとき、何かに涙する。
 ああ、ややこしい。
(2007.03.26)

ザップ・ガン

ザップ・ガン
THE ZAP GUN
フィリップ・K・ディック
1965
 西暦2004年。地球はふたつの勢力に二分されていた。西側陣営であるウエス・ブロックと、東側陣営である人民東側(ピープ・イースト)。相互の戦争は終わることなく、人々は、自陣の勝利を確信して日々を暮らしていた。
 それぞれの陣営には、兵器ファッション・デザイナーとなる霊媒(ミーデイアム)がひとりずつおり、常に画期的な兵器のモチーフを、トランス状態による「どこかから」読み取り、それを実際の兵器にしていた。西側陣営の人々は、自陣の兵器ファッション・デザイナーをヒーローとあがめ、彼が生み出す究極兵器に心を躍らせた。ラーズ・パウダードライは、そんな西側陣営唯一の兵器ファッション・デザイナーである。少なくとも、彼が死ぬか能力を失うまでは、唯一無二の存在である。
 しかし、世界には秘密があった。
 世界は、絶滅兵器を知っていた。そこで、1992年に両陣営は秘密会合を開き、その後は本物の絶滅兵器が作り出されることはなかったのである。人類は絶滅を回避し、それは兵器ファッション・デザイナーとそれに連なるものたち、軍などの一部の秘密として保持されていた。
 そんな世界に危機が訪れる。本当のエイリアンとおぼしき衛星が地球に登場したのである。もはや究極兵器をつくる能力を持たない人類は、この危機に愕然とする。そして、兵器ファッション・デザイナーへの期待を人々は寄せる。
 ラーズ・パウダードライは、このまがいものに満ちた世界で、まがい物の頂点として君臨しながら、どこかでまがい物ではない自分を求めている。
 はたして、ラーズ・パウダードライは自分自身が本物だと言えるトランス状態を迎え、エイリアンに対抗することができるのだろうか。
 本書「ザップ・ガン」を簡単にまとめるとそういう話である。ディックの世界ではよくある設定で本当は戦争は終わっているのに、体制を維持するために2大勢力が戦争は続いているかのように人々をたぶらかしているあたりは「最後から二番目の真実」と共通する要素である。そのたぶらかしには、広告や映像などメディアが十分に使われている。「最後から二番目の真実」では、そのあたりが中心軸に置かれていたが、本書「ザップ・ガン」では、あんまりそういう中心軸はない。訳者の大森望氏もあとがきで書いているが、なんと言っても「兵器ファッション・デザイナー」であり、トランス状態でどこからか兵器のネタを拾ってきて、現実にするというのだから、出てくる兵器がすごい。「ゴミ缶爆竹」「洗羊液隔離剤」「市民情報歪曲弾」「精神剥奪ビーム」。もうアメリカンコミックの世界でしょ。
 でもって、ちゃんとそれぞれの武器としての設定が書いてあったりする。
 で、ちゃーんと、そういう兵器でいい理由も登場する。
 そして、最後に登場する究極兵器は、ディックならではの兵器である。
 もう、これは書きたくて書きたくてしょうがないのだけれど、人間の共感能力を信じながらも、世界が真実の姿をなかなか表さないことを知っているディックらしい兵器が出てくる。
 同じようなアイディアは、ディックの短編でも出てきているし、長編でも見られる。
 いわゆる、視点の遷移というやつだ。
 夢を見ている自分を見ている自分、とか。
 何者かに追いかけられて逃げているつもりが、いつの間にかおいかける側になっている、とか。
 今ならばグーグルアースみたいなもので、地球全景からずずーっと自分の住んでいる場所まで縮尺を拡大していって、ついには、今自分が座ってパソコンを見ているその背中まで見てしまっていて、両方の視点に入ってしまう、とか。
 ディックの作品にはこういう視点の遷移が多い。
 くるよ、ぐっと。
 この作品が1965年に書かれているのか。42年前ですよ。皆様。私が生まれた頃ですが、そんな頃から、そういう視点の遷移を、現実の世界のこととして書いてきたのが、ディックなのだ。
 コンピュータ、インターネットによって、グーグルアースだけでなく、シミュレーションゲームや、今度PS3で発表されるというHOMEのような仮想現実社会みたいなのが実現する前から、ディックはその奇妙さ、楽しさと忌まわしさを知っていたのである。
 2004年に、戦争は終わっておらず、陣営も崩れてしまったけれど、ディックの世界から私たちが脱しているとは言えない。
 くわばら、くわばら。
(2007.03.21)

宇宙の操り人形

宇宙の操り人形
THE COSMIC PUPPETS
フィリップ・K・ディック
1956
 ディック最初期の作品「宇宙の操り人形」である。執筆されたのは、1953年とされており、最初のSF作品のひとつである。作品としては、長編というよりも中編といった方がいいぐらいで、私の手元にある朝日ソノラマ版、ちくま文庫版のいずれも他の短編を合わせて所収している。
 朝日ソノラマ版は1984年「地球乗っ取り計画」を同時所収して発刊された。ちくま文庫版は、1992年、朝日ソノラマ版に「地底からの侵略」と「奇妙なエデン」を加えて復刊されたものである。
 子どもの頃、引越してしまった故郷の小さな町ミルゲイトに妻を連れて帰郷しようとしたテッド・バートンが主人公。ところが、彼の記憶にある公園も通りも店もない。彼の両親を知っているものもいない。過去のことを聞いても、誰も彼の記憶を共有するものはいない。過去の新聞を開いたとき、彼は衝撃を受けた。テッド・バートンは子どもの頃、感染症で死亡していることになっていた。彼は自分の記憶が偽物なのか、この町がおかしいのか、真実を求めてひとりミルゲイトにひとつだけの下宿屋に投宿することとした。
 やがて、彼は、自分の記憶が正しく、この町の真の姿が隠されていることを知る。そして、彼の記憶の力が真の姿を現実にとどめる力となることを知り、真の世界を現実に呼び戻そうとする。
 しかし、どんな存在が、ミルゲイトの真の姿を隠し、にせのミルゲイトを作ったのか、その理由をテッド・バートンは知らなかった。
 ディックは、晩年に向かうにつれ「宗教色」を強めていくのだが、最初期の本書「宇宙の操り人形」で、すでに、ゾロアスター教が登場し、善なる神と悪なる神の終わりなき永遠の戦いを作品化している。また、ストーリー紹介したように、現実と記憶の違い、真実の世界と隠された世界など、ディックワールドとも言うべき世界が展開され、そのなかで主人公が「よりどころ」を求めてあがく姿が描かれている。
 そういうディックの世界観が荒々しく、かつ素直に書かれている作品である。
 本書「宇宙の操り人形」を単独の作品として読めば、雑なホラー作品となるのかも知れない。ただ、ディックの作品を多く読んで、ディックの世界と、私たちが住む現実について考えたいと思ったとき、本書はよい道しるべになるであろう。
(2007.03.20)

虚空の眼

虚空の眼
EYE IN THE SKY
フィリップ・K・ディック
1957
 1959年、ベヴァトロン陽子ビーム偏向装置が故障し、電子工学者のハミルトンは妻のマーシャをはじめ、他の7人の見学者らとともに、磁場と放射線のエリアへと投げ出されてしまった。
 そうして、8人は1959年の別の世界で目覚めることになる。そこは、第二バーブ教の神が支配する世界だった。この神は怒りの神であり、呪いの神でもある。同時に、救済の神であり、奇跡の神である。呪いはただちに現実となり、天罰はすぐに現世にもたらされる。怪我をすれば奇跡によって直すこともできる。神は現実に存在し、人々を見ているのだ。当然、異教は呪われる。
 第二バーブ教の世界であることを除けば、ハミルトンがそれまで生きてきた現実のアメリカ社会であることに変わりない。同じ同僚がいて、飲み屋があり、家がある。ただ、仕事の内容は変わり、世界の価値観は変わっていた。
 その世界の原因は? それをつきとめ、ハミルトンたちが第二バーブ教の世界を脱したあとに、また別の世界が広がっていた。どうやったら本当の現実に戻れるのか? 本当の現実に戻るまでにはどれだけの別の世界を過ぎなければならないのか?
 誰かの妄想のような世界であっても、ハミルトンはごく普通の人間として、愚かであると同時に賢い。人間として守りたいこと、守りたい考え、守りたいものを失うまいと絶望的な戦いを続ける。なぜ。なぜならば、それがハミルトンだから。普通の人間だから。
 本書「虚空の眼」では、第二バーブ教の世界を含む3つの忌まわしく、おどろおどろしく、そして、滑稽な世界が描かれ、同時に、「現実の世界」も描かれる。その「現実の世界」は、1950年代のアメリカの姿である。第二次世界大戦後、アメリカと旧ロシアであるソ連(ソヴィエト社会主義人民共和国連邦)による冷戦は、1950年の朝鮮戦争に発展し、核開発競争へとつながった。これと平行する形でアメリカ国内は、赤狩りが横行し、「共産主義者」「共産主義シンパ」に対してアメリカ中で密告と不信がうずまく事態を生んだ。
 誰も信じることのできない世界、真の裏切り者を捜すことができず、裏切らない裏切り者を捜し出しては告発する魔女狩りの世界である。
 ディックは、現実の世界と3つの妄想的な滑稽な世界を描くことで、現実の世界が行き着く先をあばきだし、同時に人間の希望を書き出した。
 笑いながら哀しくなり、恐怖を覚えながら笑うことができる。
 それが、ディックのすごさである。
 ディックが意識しているかどうかは別として、誰もがディックのこの才能を疑わない。
 初期作品として、本書「虚空の眼」は、いかにもディックらしい傑作である。本書はもっともっと高く評価されてもよい作品だ。そう、書かれて半世紀が過ぎ、しかも、作品の舞台は1959年という大いなる過去であるのに、この作品はまったく古くさくないのだ。
 傑作である。
 さて、私の手元にある「虚空の眼」は大瀧啓裕訳のサンリオSF文庫版。1986年7月が発行日になっている。本書「EYE IN THE SKY」は、1957年にアメリカで発表され、その2年後の1959年にはハヤカワSFシリーズで「宇宙の眼」として、中田耕治訳で出版され、その後、1970年のハヤカワ書房世界SF全集に収められていたという。なんとも早い翻訳である。それだけ本書はSFとしてインパクトの大きな作品と言うことであろう。
 ディックの長編では日本にはじめて紹介された作品でもある。早くから注目されていたということで、80年代のディックブーム以前にディックは日本でも読者を得ていたということか。
 その後、サンリオSF文庫が絶版になり、1991年に創元SF文庫で大瀧訳のものが再掲されている。しかし、このサンリオ版には、創元版には掲載されていない「解説」がある。それは、ブライアン・W・オールディスによる1982年に発表されたディック追悼文「フィリップ・K・ディック まったく新しい未解決の問題」である。”今宵わたしたちはよろこび祝うために集まっています。嘆き悲しむ理由はありません……あまり沈みこむ必要はないでしょう。死ぬというようなことは人間にはありふれたことなのですから。”の一文ではじまるオールディスのディックという存在への80年代らしい総括は、今読んでも泣ける。そう、その通り。ディックが見極め、私たちに警告し続けたように世界は進んでいる。ディックはこの現実の世界の恐怖を味わうことなく、無限の世界に行ったのである。
 そして、現実の世界に生きる者たちは、ディックの警句に時折目を覚ましながら、目を覚ましたままで生きるのは辛いと、目を閉じて日々を過ごすのであった。
 読まない方が幸せかも知れないが、読んで生きる方がずっと楽しいから。
 だから、傑作である。
(2007.03.14)

いたずらの問題

いたずらの問題
THE MAN WHO JAPED
フィリップ・K・ディック
1956
 ディック3作目は、1956年発表の「いたずらの問題」。1992年に創元SF文庫より大森望氏による翻訳として登場。名作である。この時分、サンリオSF文庫の再刊や新訳が創元、ハヤカワによってなされていた。いい時代である。
 この未来。
 1972年に戦争が終わる。
 1985年革命が道徳再生運動の創始者ストレイター大佐によって起こり、世界がモレク(道徳再生)の世界と化していく。
 1990年、ストレイター大佐のモニュメントの型ができる。
 2085年、革命後100年に主人公アレン・パーセルが生まれる。
 そして、舞台は2114年。アレン・パーセル29歳。地球。モレクの社会で、アレン・パーセルは妻とともにベッドを広げたらそれだけで一杯になる狭い部屋に暮らしていた。職業、新興調査代理店の創業者社長。彼が暮らす部屋は、彼の両親らが積み重ねてきた地位の結果として得たものであり、この道徳的な世界では高い地位を占める証でもあった。朝になればベッドは消えて、キッチンが自動的に壁からあらわれる。最小の空間、最小の生活。機能性と道徳的行動だけが求められる社会。広告も、看板もない。
 調査代理店は、パケットと呼ばれるモレク企画をテレメディア局に提出し採用してもらう会社である。新たな道徳的価値を映像やコピー、イベントとして社会に導入することを生業にしていた。アレン・パーセルは、その中でも最後発であり、大手とは違って自らのアイディア=新しいモレクの新しい形での提案を強みにしていた。それこそが、アレンの持つ「特殊能力」でもあったのだ。
 しかし、アレンには悩みがあった。ある日、気がつけば、ストレイター大佐の歴史的モニュメントに赤いペンキと電動ノコギリのようなものを使っていたずらをしかけていたらしいのである。なぜ、自分はそのようなことを行ったのか? 自分自身に自信を持てなくなっていくアレン。まして、そのことがばれれば、非道徳的存在として彼の親から積み上げてきた今の地位をすべて失うことになる。
 一方で、アレンには、新たな社会的地位が政府機関より提示される。
 これを受けるべきか? しかし、自分の精神には不安がある。
 彼は、この社会に暮らせず、外の植民星に向かうような人たちに向けて開業している精神医のもとを訪ねることにした。そして、そこでアレン…。
 本書「いたずらの問題」は、初期の作品の中でも、もっとも分かりやすい筋立てかもしれない。そして、もっともディックの理想的な人間像がはっきり出ている作品かも知れない。ディックは、このアレン・パーセルのような人物でありたかったのではなかろうか?
 トラブルもない代わりに楽しみもない、人々への配慮が行き届く代わりに生き生きとした活動もない、そんな道徳的社会。この社会に適応できなければ、地球を離れて植民星に行けばいい。そこには、道徳にしばられない「自由」な世界が待っている。しかし、道徳的生活は望めない。道徳的世界はつまらない。何かが足りない。なんだろう。
 そう、アレン・パーセルのような存在である。「いたずらの問題」なのだ。
 ディックは喝破する。
「いたずら」、つまりは、社会的な価値観とのずれの表出は、ユーモアを生む。いや、ユーモアを持つものこそがいたずらを演出することができる。
 トリックスターの存在。
 それが道徳的な社会に欠けた存在である。
 トリックスターでありたい。
 強い意志を持ち、人間くさく、他人と自分のことを考えることができ、それでいて社会に対しては大胆なトリックスターでありたい。
 それが、ディックなのではなかろうか。
 晩年(50代だったが)のディックは宗教的な物言いに転じていくが、この初期の作品群を読むと、ディックの小説家としての視点のおもしろさがよく見えてくる。
 ディックの作品群の中で、「いたずらの問題」は素直でストレートな作品である。
 名作だと思う。
 ま、大森望訳も読みやすさの理由のひとつなのだけれど。
(2007.03.08)

ジョーンズの世界

ジョーンズの世界
THE WORLD JONES MADE
フィリップ・K・ディック
1956
 2002年、世界はジョーンズの時空に飲み込まれた。1994年、戦争が終わり、世界は相対主義のもとに平穏に過ごすこととなった。戦時中、世界は大きくふたつの勢力に別れ、互いに核を使用していた。破壊と主義のぶつかり合い。その果てに、相対主義が生まれた。「真実」を声高に押しつけてはいけない。核戦争によるミュータントも含めて誰もがそれぞれに生きていくことを認めなければならない。しかし、その相対主義を守るために秘密警察が連邦世界政府の元に置かれ、絶対的真実を人に訴えるものを取り締まり、強制労働させていた。
 1995年、若き秘密捜査官ダグ・カシックが、カーニバルで「個人の占いはお断り」と看板を出した男を発見する。その男こそ、ジョーンズである。
 ジョーンズは、戦時中の1977年、アメリカ中西部で生まれた。1年先を常に経験し、同じ体験を2回繰り返さなければならない運命の元にある唯一の男である。彼は、未来をすでに起こったこととして語る。連邦政府が秘密にしていた「漂流者」という宇宙生命体についても警告したのがジョーンズである。
 未来の真実を語るジョーンズであったが、秘密警察は彼を逮捕したままにおくことはできなかった。なぜならば、それは事実であり、事実を語ることを法律で禁じることはできなかったからである。
 ジョーンズは、自ら定められた時の流れに沿って、教会をつくり、勢力を広げ、ついには、連邦世界政府を倒して自らが権力者となっていく。ジョーンズは常に1年先までを知っていたから、彼にとっては困難なことではなかったのだ。そう決まっていただけのこと。
 ジョーンズの存在を「発見」した、ダグ・カシックは、その後も、ジョーンズの勢力に取り込まれていく妻のニーナとともにジョーンズの世界に翻弄されていく。
 もうひとグループ、ジョーンズの世界に翻弄されそうになっていた存在がいた。7人の地球の生態系では暮らすことができず、政府の研究機関がつくった「避難所」と呼ばれる独自の大気、状況の中だけで生きることのできる「新人類」である。彼らはひとつの希望でもあった。
 ディックの長編には、登場人物にとって当たり前だと思っていた世界/生活が実はまがいもので、本当の世界は違ったものという図式を持つものが多い。シミュラクラ、擬態、まがいもの、にせものに汚染されていき、本物だと、真実だと思っていることが、次第にゆらいでいく。そのなかで、登場人物の幾人かは、時に自分でもおもいもよらない勇気というか、人間らしさを発揮し、そのときできることを、ただ行う。なぜそれをやったのか、自覚のない登場人物も多いが、それによって物語は展開し、それまでのシミュラクラ、擬態、にせもの、まがいもの、あるいは世界は一変する。それは物語上の本当の世界かもしれないし、物語上のもうひとつのシミュラクラ、擬態、にせもの、まがいものかも知れないが、間違いなく、世界はそのありようを変える。
 本書「ジョーンズの世界」は、1年先を体験し続けるジョーンズという存在によって、1年先の未来が「確定する」ことにより、「今」が揺らいでしまう。わからないはずの「今」と「次の瞬間」が、ジョーンズという存在によって当然起こるべき1年前のできごとになってしまうのだ。しかし、ジョーンズ以外の人々にとって、1年先は未来であり、今と次の瞬間は不安定なままである。だから、ジョーンズ以外の人々にとって、ジョーンズの存在を知ること、関わることは、安定した世界の崩壊となる。
 なんとまあ。
 もちろん、ジョーンズにとっても、1年先より「先」は分からない。だから、本当は、世界は大きく変わっていないのだが、人々はそれでも大きな影響を受けるのだ。
 本作「ジョーンズの世界」は、1956年に発表されたもので、ディックの長編としては第2作という位置づけになっている。初期の作品は、物語に文章的破綻や論理的破綻が少なく、その分だけ理解しやすい。特に本書は、1年間の先を知ることができるジョーンズという座標があるだけに、とても分かりやすく、また、その周辺で繰り広げられる物語も比較的単純である。
 それだけに、ディックの世界に対する怒りや不安とともに、人や人類に対する希望がはっきりと書かれていて、ディック入門書としてはおすすめの作品である。
 そうそう、体制や人々の思想の流行なんて、10年も時間をおけば簡単に変わるのだ。
 だから、もし、今、辛い時期であるとしても、じっと我慢することも大事だ。
 もし、今、すてきな社会だと思っていたら、どこかに「まがいもの」が潜んでいるに違いない。そのことは自覚しておいた方がいい。
 ま、そういうことで。
(2007.03.04)

星からの帰還

星からの帰還
POWROT Z GWIAZD
スタニスワフ・レム
1961
 フォーマルハウトへの宇宙探査隊が地球に帰還した。ハル・ブレッグ、パイロット。30歳のときに探査隊に参加し、現在、40歳。しかし、地球では127年が過ぎていた。
 世界は一変していた。
 もはやだれも宇宙に関心を持つものはいない。
 平和で、豊かで、誰も何も傷つけず、おだやかで、恐怖を味わうこともない新たな社会、新たな人間、あらたな地球がハル・ブレッグの前にあった。
 彼は旧人であり、野蛮人であり、猛獣か珍獣であった。そして、おだやかでやさしい社会においては、彼は自由でもあった。
 宇宙は厳しいところだった。生と死は常に隣り合わせ、多くの乗組員を目の前で失った。友人を、仲間を、厳然とした宇宙の厳しさの中であきらめ、捨てなければならなかった。そうして、彼は生きて帰ってきた。しかし、そのことを悲しむ人も、喜ぶ人もいない。ただ、彼らは迎えられ、この社会にとけ込むよう手助けされるだけの存在に過ぎなかった。
 失った仲間への漠然とした罪悪感は、この新しい人々と接するほどに深まり、顕在化していく。なんのために旅立ったのか? なんのために死んだのか? なんのために帰ってきたのか?
 彼は生を女に求め、同じく帰還した友は宇宙に求めた。
 スタニスワフ・レムは、本作「星からの帰還」で、現在に内包される未来の形を鮮やかに描き出し、現在の社会の方向性に内包する人間の変質の問題を鋭く切っていく。1961年、冷戦にともなう米ソ宇宙開発競争のまっただ中で「東側」のポーランドに住むレムが、米ソという体制の違いに関わらず共通して持っている社会の問題を喝破した作品である。当時の延長上には主人公のハル・ブレッグが参加したような宇宙探査計画があった。より遠くに人類の(あるいは体制の)版図を広げること、そのためにはより大きな計画、より深い科学、より高度で重大な技術と重厚な産業が必要とされていた。
 この延長上に、星から帰還したハル・ブレッグたちがいる。
 そして、科学、技術の急速な発展は、思わぬ方向に人類を導く。個人と社会の安全への志向、個人と社会の安定の追求…、本作品では生物学的解決による人類の攻撃性/恐怖の除去と、旧世代との世代交代、安全技術の高度化による安心できる社会の達成によって安全と安定による社会を築き上げた。それが、ハル・ブレッグたちが帰ってきた社会である。
 それは、人間や社会に対する価値観を変えるものとなる。
 宇宙に行くことが、論理的に理解できない社会。
 人や自分を殺したり傷つけることがないかわりに、リスクを冒さない社会。
 または、限られた人やロボットにのみ、リスクを冒させる社会。
 はて、どうだろう。本作「星からの帰還」が書かれてまもなく半世紀、世界はどうなっているだろうか? 科学は、技術は、そして、社会は。
 レムの洞察力には恐れ入る。
 あと50年したら、もう一度読んでみたい。
 って、生きていないか?
(2007.03.01)