火星のプリンセス

火星のプリンセス
A PRINCESS OF MARS
エドガー・ライス・バロウズ
1917
 時は1866年、バージニアの元南軍騎兵隊大尉ジョン・カーターはアパッチ族に追われてとある洞窟に入り、そこで深い眠りに落ちてしまう。そして、目覚めるとそこは火星であった。四本の腕を持つ緑色人の戦士タルス・タルカスと、地球人そっくりの赤色人で絶世の美女のデジャー・ソリスとともに果てしない冒険の物語がいま幕を開く。史上初、地球を離れ、火星に旅をした男が登場した。SFの創世記を飾るバロウズによる火星シリーズである。
 1917年! 翻訳の初版は東京創元社版で1965年! 私の手元にあるのが1978年の第41版! すごい。もう90年も前の作品なのだ。それでも、火星のジョン・カーターという名前に聞き覚えのある人はSFファンでなくても多いだろう。
 本シリーズを最初に読んだのは、ジュブナイル版であるが、岩崎書店や偕成社などさまざまなところから出されているためどれだったかは記憶にない。おそらく小学校中学年か低学年であるから、1970年代前半のことであろう。遠いなあ。
 今回約25~30年ぶりに再読してみて、その設定である時代の遠さに気が遠くなった。1860年代だって、車もない、アメリカも南北戦争がようやく終わった頃ではないか。悪いインディアン、あたりまえの奴隷制度…、くらくらする。そんな時代に、不死者であるジョン・カーターが瞬間移動して火星に行くのだ。本人の意志ではなく、危機的状況で意識を失うことで行くことになるらしい。まだ、第一次世界大戦すらはじまっていないのだ、ほかにどうやって火星に行けばいいというのだ。
 火星は、地球人類よりもはるか先の文明を持っていたが、すでに盛りを過ぎ、資源を使い果たし、大気と水も不足する中で、緑色人同士が戦争を行い、赤色人同士も戦争を行い、さらに、緑色人は赤色人を攻撃するという滅び行く中の群雄割拠の時代となっていた。そこにあらわれた超人ジョン・カーターが火星に平和をもたらし、自らは盟友タルス・タルカスや王女デジャー・ソロスの愛を得るのであった。
 なんと心を躍らせたことだったか。
 21世紀になり、本書「火星のプリンセス」は歴史的な価値をもつ「古典」となった。分析や評価の対象なのである。たとえば、物語のパターンは、不老不死のヒーローが、争いの絶えない異人種の中に愛を見いだし、平和をもたらす話であり、これはファンタジーの典型的なパターンで、のちの名作「指輪物語」(J・R・R・トールキン)の中にも同じような構図がみられる。
 その構図のままに舞台設定を宇宙に広げたことで、アメリカにおいてSFは開花する。それは、ベム&美女&ヒーローというスペース・オペラの典型を生むことになった。華やかでどぎつい表紙、単純な勧善懲悪のストーリー、そこから小説や映画のマーケットが生まれ、そのマーケットのおかげでSFはたくさんの作家を生み、内容を深めていく。
 その流れを生み出したのが本書「火星のプリンセス」である。
 一方、本作品には、20世紀初頭の複雑な人種的視点も見られる。作品の頭では、アメリカの奴隷制や(ジョン・カーターは南軍なのだ)、インディアン=悪といった現在では書かれることのない典型的な二元論と差別が表現されているが、その一方で、バロウズの生みだした火星では、主人公のジョン・カーターは緑色人と対等につきあい、お互いにその力を認め合い、有色人種の「赤色人」の美女に恋をして結ばれるのである。
 当時の価値観やそれに対するバロウズの視点が見受けられるが、このあたりも、歴史的な背景が分からなければ意味を成さないか、理解しにくいであろう。
 ファンタジーとは異なり、初期のSFは一般読者に荒唐無稽さを受け入れさせるために、伝聞や聞き語り、日記や記述の発見と掲載といった文学でも見られた形態をとることが多い。それゆえに、発表時よりもやや過去から物語がはじめられる傾向を持つ。現実の人間社会の様子を記述することになり、それが物語に時代性を残すことになる。
 そのおかげで、当時の考え方や風潮をかいま見ることができるのだが、長期に作品が残り続けるためには、このあたりが障害になることもあろう。難しい問題だ。
 ただ、1999年から2002年にかけて創元SF文庫が合本形式で再版しており、21世紀に確実に本シリーズが残ることとなったのはうれしい限りである。
 私は、火星シリーズ、金星シリーズ、地底シリーズ(ペルシダー)を揃えて持っていたはずなのだが、手元には欠番が多い。火星シリーズも半分ほどしか手元にない。やはり、合本を手に入れておくべきだろうか。
(2007.2.7)

ネットの中の島々

ネットの中の島々
ISLANDS IN THE NET
ブルース・スターリング
1988
 1990年11月にハヤカワ文庫SFとして邦訳出版された作品である。タイトルはもちろん、A・ヘミングウエイの「海流の中の島々」からのオマージュであろう。訳者あとがき「おまたせしました」と書いてあるところが、時代の空気を映し出す。本書は「ネットの中の島々」は1988年にアメリカで出版されており、約2年経たずに邦訳されたのだが、サイバーパンク・ムーブメントのひとりとして、また、コンピュータやコンピューターネットワークに対する造詣の深さや、日本の作家などとの交流の深さから知名度の高かったスターリングの作品故に「おまたせしました」だったのである。
 本作「ネットの中の島々」は当時からすれば35年ほどの近未来小説である。2023年、20世紀の遺物である大量破壊兵器や大規模な政府軍を根絶させた世界規模の軍廃後、人々が核の恐怖におびえなくてよくなった世界が舞台である。アメリカは衰退し、世界的な通貨はヨーロッパのエキュー(ECU)となっていた。ソヴィエト連邦は存続していたが、消費社会主義化し、もはや超大国ではなかった。石油資源が底をつき、原子力も規制された世界で、あらゆる通信・情報の技術複合体である「ネット」が世界を「ひとつ」にし、そのネットのおかげで世界は企業経済社会と化していた。情報が世界の真の通貨であり、多国籍企業がそれを動かしていた。そんな多国籍企業のひとつライゾームは経済民主主義にのっとった共同体多国籍企業である、利益集団ではなく個人の能力の発揮と共同体意識によって「なすべきことをなす」社員(アソシエーツ)によって成り立つ新千年期の思想に基づく企業である。
 しかし、世界には影がある。ネットを悪用し、小規模な国家を事実上乗っ取り、麻薬や薬物、通貨、情報の避難所として世界で蠢くネット海賊たちである。そして、もうひとつの影はアフリカ。前世紀から続く混乱と内戦と飢餓と破壊。ネットから切り離され、新しいことではなくなり、「ひとつ」の枠外にある大陸。
 ライゾームは、ネット海賊を崩壊させる手段として、彼らを共同させ、組織化し、表のネット社会に入ることを提起する。大きくし、システム化=官僚化することによって彼らの裏の面を失わせようというのだ。  ライゾームの社員、ローラ・ウェブスターは、夫のデイヴィッド、生まれたばかりの娘を抱えてアメリカ合衆国テキサス州ガルヴェストンの浜辺でロッジの支配人を務めていた。ロッジはライゾームのプロジェクトで、人的ネットワークの場である。彼女のロッジが、データ海賊の会議の場となった。しかし、グラナダの指導者が暗殺される。目の前で人が兵器によって殺されたことに衝撃を受けたローラは、データ海賊との調整に本気で乗り出していく。それは、グラナダ、シンガポール、そして、アフリカ大陸への真実を求める苛酷な旅の始まりであった。いや、真実が苛酷だったのだ。
 はじめて読んだときから17年が過ぎた。1988年から2023年のちょうど真ん中まで来たところでの再読である。それゆえの古さと新しさの入り交じった作品として読める。
 1988年に発表ということで、本書の1990年の訳者あとがき時点でさえ、ドイツの東西統一やソヴィエト連邦の崩壊によって、世界の設定が「古く」なってしまっている。ECU(エキュー)も、もう覚えている人、知っている人が少なくなったのではないか。通貨としてのユーロが登場する前に各国の通貨から移行するための暫定的な通貨単位(兌換基準単位)としてたしかにECUというのがあった。
「ネット」についても同様で、テレックス、ファックス、電話、ビデオ電話、録画ビデオ通信、などの渾然となったものを「ネット」としている。方向としては、コンピュータ技術による通信と放送の垣根が消え、情報の流通が簡単になった社会ということでインターネットに近いのだが、そこまでのビジョンではない。だって、1988年だもん。光ファイバーや衛星回線を活用したり、ビデオグラス(サングラス状の即時通信型ビデオカム)が出てきたり、情報端末兼電話としての腕電話が出てくるなど、現在や近未来と近いものもある。腕電話なんて、今の日本の携帯電話上位機種とそっくりで、ID確認用などの機能も持っている。
 しかし、細菌培養による単細胞タンパク質の食料「スコップ」が健康食品として普及しつつあり、健康食品マニアにとっては農業によって生産される穀物や野菜が地球環境に悪影響を与え、なおかつ、自然毒(アルカロイドなどだ)いっぱいの危険な食品であると見なされていることや、肉食への忌避感など、現実には起きていない状況も語られる。
 スコップ中心の食生活…、いやだなあ。単調だろうなあ。いや、きのこや発酵食品は大好きだが、工業的生産だと衛生管理などといって、味が単調になるだろうから。私は、自然環境から生み出されるぜいたくな動植物菌類の食品が好きだ。おいしかったり、そうではなかったり、その間の様々な味と香りと色と食感のバリエーションが好きだ。グルソーや加工食品を使えば、毎回同じ味を出すことができるが、そんなものを食べたいわけではない。同じような調理でも、少しずつ違う味、それが楽しいのだ。
 っと、食論ではなく、SF論だった。
 もちろん、過去17年の変化を見れば、これから17年の変化で何が起こるかは分からない。
 石油の高騰、バイオエタノールやバイオディーゼルに対する「地球温暖化防止、二酸化炭素削減のための」志向などをみれば、グルタミン酸ナトリウムなどを生産している多国籍化学企業が単細胞タンパク質を健康食品として出しかねない勢いであることは確かだ。
 本書「ネットの中の島々」は、データ海賊という形で、様々なものが情報化されることで、個人情報、コンテンツ、経済情報が簡単に盗まれ、悪用され、闇の流通に化することを喝破している。また、情報過多の結果として、情報対象でなくなることで、現実が「ないこと」になってしまう恐れや、情報アクセスから遮断されることで、さらなる窮地に追い込まれる地域の人々が出るという危険性も予見している。それは、新たな戦争を生むのである。
 2007年の今、まさにそういう新たな戦争に満ちた社会にいる。この新たな戦争の形態は、表面に見える軍隊の派遣やテロ、戦闘行為よりも恐ろしいことかもしれない。
 ちょっとした過去を振り返り、ちょっとしたあったかも知れない少しずれた未来を見ることで、今と、少し先を考えることができる。その原動力になる力をSFという小説ジャンルは持っている。
 登場時に物議をかもした本作品、設定が現実の歴史の動きとは異なっているが、決してその価値が失われた訳ではない。
 もし、2023年に読むことができたら、もう一度、ちょっと過去を振り返り、ちょっと未来を見てみたいと、思う。
キャンベル記念賞受賞作品
(2007.1.31)

星々へのキャラバン

星々へのキャラバン
THE QUIET POOLS
マイクル・P・キュービー=マクダウエル
1990
 2083年に初の恒星間世代船ウル号がイプシロン・エリダニへ旅立った。そして、11年後、2094年が本書「星々へのキャラバン」の舞台である。2隻目の恒星間世代船メンフィス号のタウ・セチへの出発を前に、世界は二分されていた。宇宙へ行きたいものと、留まりたいもの、に。
 宇宙時代、人類は、衛星軌道上などに一部の者たちが居を構えていた。
 地球上の人類は80億人。
 恒星間世代船で人類を太陽系外に広めようという壮大な計画「ディアスポラ事業」を立て、実現に向けて資源を注ぎ込んでいるのは超巨大多国籍企業のアライド・トランスコンである。どうやらロックウェル、エクソン、三菱などの多国籍企業がが合併してできた企業らしい。今を持って世界には国があり、国境があり、政治による統治が行われているようだが、アライド・トランスコンと例えばアメリカ政府との関係などはよくみえない。
 さて、アライド・トランスコンがその財を尽くして宇宙船を建造し、物資を送り込み、人を選び、旅立たせるのだが、その理由は不明である。
 メンフィス号に乗れるのは10000人。優先権を持っていても、選ばれるとは限らない。どうしても行きたいものたち。そして、行けないことが分かっていても、行きたくてしかたがないものたち。その一方で、行きたくないものたち、その計画自体を否定する者たちもいる。ディアスポラ事業に対し、地球の資源が収奪されていると訴える団体ホームワールドの首領エレミアは正体不明、神出鬼没の存在であるが、ディアスポラ事業に大きな打撃を与えてきた。
 エレミアを追いつめたいと望むアライド・トランスコンの警備局長ドライクの執念、ディアスポラ事業を何があろうと成功させようと全勢力を注ぎ込む長官のヒロコ・ササキ。そして、何とか失墜させたい正体不明のエレミア。さて、メンフィス号は無事に出発できるのか?
 そして、なぜ、人はしゃにむに「外」へ行きたがるのか?
 実は、そこには人類の奥底に秘められたある秘密があった。
まあ、それはともかく、20世紀の終わりにエイズによって世界の性と倫理は打撃を受け、保守化し、そして性と倫理の揺り戻しが起きた。それと呼応するかのように、経済的な理由もあって大家族=複数婚の歴史が始まる。男性2人と女性1人、あるいは2つのカップルなどが「結婚」することがおかしいことではなくなった世界である。
 主要登場人物のひとりクリスは、ふたりの女性と同居していたが、疎外感を味わいながら仕事を続けていた。田舎の父親ともそりが合わず、常に自分自身に居心地の悪さを感じている。
 クリスの心の奥を探すことで、外を求める人の業と、内へ留まる人の業、そして、人の心の闇を知り、物語に深みを増すことができる、かもね。
 本書「星々へのキャラバン」は、さらりと読める作品だけど、よくわからないんだ。いや、ストーリーや、人類の「謎」は、はっきりと書いてあるので、作品として破綻しているわけではない。おもしろいと思うよ。ただ、この作品、いや、作者のキュービー=マクダウエルの持っている理想主義というか、楽観主義みたいなものがどうにもよく分からない。
 企業の自然や環境に対する収奪行為を責めているようでいて、一方で、それが結果的に人類の必然であるといった見方もしている。エレミア側にも共感しつつ、しゃにむに宇宙に出ようとする魂にも共感する。もちろん、人間なんだからそう割り切る必要はないけれど、何が書きたいの? ってちょっと突っ込みたくもなる。とりわけ後半になると、クリス君の心の闇と葛藤みたいなものが全体をつなぐ糸になってきて、軽いのか重いのか分からなくなる。作者の持ち味なんだけど…。
 ああ、すごくリアルっぽく書いてあるのに、リアリティ感がないんだ。
 それは、2007年に再読しているからだろうか。最初に読んだのは1991年。エイズが騒がれ、インターネットはまだ普及しておらず、パソコンもスタンドアローンか、せいぜいパソコン通信の時代であり、日本はバブル経済後の円高バブルの時代で、世界的企業は環境問題や人権問題で悪とされた、善悪がかろうじてはっきりしていたものの、そろそろ崩れかけてきた時代である。
 いまもエイズは深刻だが、インフルエンザのパンデミックにおびえ、世界経済の変調におびえ、地球規模の気候変動におびえている状況下で、本書「星々へのキャラバン」のような楽観的技術論や世界観がちょっと読んでいてつらいのかもしれない。
 うーん。あと10年したら、また違った風に読めるのだろうか。
(2007.1.27)

ホワイト・ライト

ホワイト・ライト
WHITE LIGHT
ルーディ・ラッカー
1980
 りんりん。ラッカーのデビュー長編だぜい。原題は、「ホワイト・ライト、あるいはカントルの連続体問題とは何か?」だってさ。処女長編は「時空ドーナツ」なんだけど、出版されたのはこっちのが先だ。舞台は1973年10月31日、ニューヨーク州バーンコ。主人公は、ある世界ではルーディ・ラッカーかもしれない州立大学数学講師のフィリークス・レイマン。幼い娘と愛しいが喧嘩ばかりの妻、高等数学にはまったく興味のない学生、何の楽しみもない田舎町…。彼は無限について考えていた。
 無限には何種類もある、らしい。
 私が住んでいる狭い世界観の中では無限は無限にすぎないのだが、もっと大きく(あるいは小さく)世界を広く広くとらえていくと、無限は様々な顔を見せはじめる。
 無限のありさまについてカントルの連続体問題は何かを言っているらしいよ。
 そのことを解き明かしたいレイマン君は、ちょっとぼんやりさん。
 ある日、墓場で軽くあっちの世界に行ってしまう。
 そこでゴキブリのような別世界人を道連れに旅をしたり、アインシュタインやカントルやヒルベルトにも出会ったりする。そうして、なんとかこっちの世界に帰ってきた彼は、あっちの世界で得た無限の操作によって、世界を変える超物質を生み出す力を得たのだった。って、こう書くとなんかテクノSFっぽいでしょう。んなわけあるかい。
 ま、とにかく無限だよ。
 なんとなく、無限ってすごいなあ、とか、数学って変なことやっているなあ、とか、そういうことがわかったような気になるところが、ラッカーのおもしろさ、さ。
 そうそう、家族はやっぱり大切だよね、っていう話でもあったりする。
 べいべい。
 追記 ラッカーはスタニスワフ・レムの「泰平ヨン」シリーズがお気に入りだったようです。本書「ホワイト・ライト」文中にちょっとだけ出てくるのだ。
(2007.1.27)

宇宙創世記ロボットの旅

宇宙創世記ロボットの旅
CYBERIADA
スタニスワフ・レム
1967
 本書「宇宙創世記ロボットの旅」は「今はむかし、宇宙にはまださしたる乱れもなく、星はみな、満点に整然とならんで」いたころ、全能の資格を持った宙道士クラバウチュスとトルルが宇宙を旅して世界の諸問題を解決する物語である。「今はむかし」といっても、現世の我々人間にとっては遠い未来。すでに有機体の生命はなく、機械知性が進化の後に宇宙に満ちている時代のことである。
 機械知性=ロボットの星々、国々にもさまざまな王がおり、さまざまな問題を抱えている。戦いにあけくれる王、敵国の皇女に恋をした王子、かくれんぼに凝ってしまった王に、強力な獲物を狩ることばかりを追求する王、存在が高度に数学的な竜に悩む国もあれば、革命で星を追われた王もいる。この難題に取り組み、あれよあれよと解決するのがこのふたりの全能なるところである。
 1976年にハヤカワSF文庫となった短編集。
 私がもっとも好きなのは、「番外の旅」のひとつ「コンサルタント・トルルの腕前」である。平和に暮らしていた鋼眼機族のもとに機械獣がいすわってしまう。どんな兵器でも追い払うことができない機械獣を倒すのにトルルが所望したものは「紙とインク、スタンプ、丸い印章、封蝋、クリップと画鋲は入り用なだけ、受け皿とスプーン--というのは、お茶はもうもってきていただきましたからね--それから郵便配達人、それだけです」ときたもんだ。
 このロボットたちのおとぎ話から、社会批判などを読み取るのもよい。あまりに人間くさい機械たちを楽しむのもよい。とにかく、おもしろいことだけは請け合える。
 スタニスワフ・レムは、難しい作品ばかりを書いているわけではない、軽いタッチのコミカルな作品も数多くある。しかも、しっかりSFしている。
 古いからと忘れ去るにはもったいない作品である。
 ぜひ。
(2007.1.26)

悠久の銀河帝国

悠久の銀河帝国
BEYOND THE FALL OF NIGHT
アーサー・C・クラーク & グレゴリイ・ベンフォード
1990
 アーサー・C・クラークの処女長編「銀河帝国の崩壊(AGAINST THE FALL OF NIGHT)」の「続編」をグレゴリイ・ベンフォードが共著という形で発表したのが本書「悠久の銀河帝国」である。「銀河帝国の崩壊」は、その後、アーサー・C・クラーク自身の手によって「都市と星」として生まれ変わった作品であるが、名作として名高い「都市と星」以降も「銀河帝国の崩壊」は売れ続けた。そして、「続編王」ベンフォードがクラークを口説き落とし、この処女作「銀河帝国の崩壊」の続編が発表されるに至ったのだ。本書は、前半が「銀河帝国の崩壊」そのもので、後半がベンフォードによる「続編」部分である。
 前半の「銀河帝国の崩壊」については、すでに再読しているが、今回ももちろん読み直した。奇しくも2年前の1月頭に読んでおり、2年ぶりの再読であるが、ざる頭の私は翻訳者が違うこともあり新鮮な気持ちで読むことができた。
 そうして気持ちをクラークの世界に入れておいての続編である。
 遠い遠い未来、変わり果てた人類、変わり果てた宇宙。人類を中心とした未来の知性たちが黒い太陽に狂った頭脳を閉じこめていたのだが、アルヴィンが警告を無視して宇宙に飛び立ったことが影響して、狂った頭脳がいましめを解き放ち、再びこの宇宙に還ってきた。地球というほろびゆく星に自ら閉じこもり、永遠の生命を細々とつないできた人類に反して、宇宙は生命に満ちていた。アルヴィンの手によって復活させられた旧人類の女性クレイと、やはりアルヴィンの手によって復活させられたもののアルヴィンには計り知れない世界を知るアライグマ型の知性動物シーカーが、狂った頭脳による未曾有の生命の危機の鍵を握る存在として命をかけた戦いに赴くのであった。
 地球にはびこる不思議な生き物たち、様々な知性体、半知性体、宇宙空間に満ちた不思議な生き物たち。動物、植物、移動能力を持った植物、菌類、電磁的な生命、壮大な生態系を持つ群体的生命…これでもか、これでもか、とベンフォードが自由に筆を走らせている。
 重力のくびきを逃れ、空間的な制約のくびきを逃れた生命が、どのような発展をとげることができたのか、さあ、あなたも、遠い、遠い、人類中心主義とはほど遠い世界に足を運んでみてはいかが。
 と、ここからは深いネタバレを含む話になるので注意。
 アイザック・アジモフがファウンデーションシリーズで、究極の知性体として「ガイア」的なものを示したが、ベンフォードも、本書「悠久の銀河帝国」において、「ガイア」的な統合的知的生命体による宇宙の姿を示す。これは、80年代後半からのSFのひとつの特徴である。カール・セーガンによる「コスモス」おける核の冬仮説や、ジェームズ・ラヴロックによる「地球生命圏」のガイア仮説、あるいはそれ以外の地球規模の環境変動や生態系の関係性への理解によって世界や生命への視点が変わり、このようなSFがしきりと書かれるようになった。
 90年代後半以降は、地球環境問題が現実の政治・経済・科学における重要な課題となり、SFでは一定の位置づけを残しながら情報の集積と知性の位置づけに関心が寄せられるようになった。エコロジーSFは、「うんざり」されるようになったのである。
 本書もまたそんな80年代末に書かれた作品ではあるが、そこに展開される具体的で不思議な魅力あふれる生命たちの活写が、エコロジーSFとは一線を画したものとなっている。
 考えてみれば、クラークの「銀河委帝国の崩壊」は「都市と星」よりも率直に人類のあり方に対して哲学的な視点をみせた作品であった。ベンフォードは、その「人類のあり方」を「生命のあり方」にまで拡張し、思考実験をした。それこそが、クラークが続編として望み、認めた理由ではなかろうか。
(2007.1.15)

星屑のかなたへ

星屑のかなたへ
ALIFE FOR THE STARS
ジェイムズ・ブリッシュ
1970
 ジェイムズ・ブリッシュの「宇宙都市」シリーズ第2弾で、唯一のジュブナイル作品。しかも、「宇宙都市」4作品のうち最後に書かれた作品で、3作品をつなぐファンにはたまらない作品、らしい。
 いや、私はここまでしか買っていなかったのだ。本書は、ハヤカワ文庫SFとして、昭和53年(1978年)に邦訳出版されている。13歳の秋、中学生だなあ。貴重なおこづかいを使っていたので、1冊1冊吟味して買っていたのである。ということで、本書「星屑のかなたへ」を読んだ後、次を買うことができなかったのだ。当時の私のランキングとしては。
 しかし、今、歴史的に振り返ってみて、この「宇宙都市」シリーズは、SFに大きな影響を与えている。先日読んだ「移動都市」(フィリップ・リーヴ 2001)などは、都市がエンジンとキャタピラをのせて走り回り、都市を食い合うのだが、本書では、地球の都市が次々と宇宙に出て行き、宇宙に広がっていく物語である。宇宙人に都市ごととらえられる「マンハッタン強奪」(ジョン・E・スティス 1993)なんていうのもある。都市ごと移動するというのはすごいイメージなのだ。宇宙戦艦ヤマトでも第二作の「さらば宇宙戦艦ヤマト」の白色彗星都市なんていうのもこのイメージだなあ。  ところで本書「星屑のかなたへ」だが、紀元3千年代、地球に大きな都市は残っていなかった。今や数少なくなった小さな都市も、地球を去り、放浪都市になろうとしていた。ペンシルバニア州スクラントン市も加工する資源を失い、宇宙に活路を求めて地面ごと旅立とうとしていた。その旅立ちを眺めていた16歳の少年クリスピン(クリス)・ディフォードは、境界を越えたところでスクラントン市のパトロールにつかまり、強制収容される。元経済学者の父を持ちながらも十分な教育を受けることができなかったクリスは、趣味の天文学を生かし、なんとかスクラントン市で学者の助手としてもぐりこむことができた。そして宇宙で、巨大都市ニューヨークとスクラントン市が邂逅し、クリスはニューヨーク市に引き渡されてしまう。そこでクリスは新たな冒険を経て成長していくのであった。
 典型的な少年成長の物語であり、まさしくジュブナイルである。
 壮大な未来史、壮大なイメージ、鶴田一郎による表紙は、青い地球の空を背景に、都市が地面から空に向かって今にも浮かぼうとしている。その異様さ。おもしろいのになあ。
「地球人よ、故郷に還れ」「時の凱歌」をどこかで探して読んでみたいなあ。

光のロボット

光のロボット
THE ROD OF LIGHT
バリントン・J・ベイリー
1985
 1974年に発表された「ロボットの魂」の続編が11年後の1985年に発表される。主人公は、世界で唯一、意識を持つロボット・ジェスペロダス。かつては新帝国の要職を務めた身であるが、現在はロボットを排斥するボルゴル陣営を避けながら自由ロボットの世界を築きつつ、考古学者として過去の歴史や技術を発掘、研究している。
 そこに、世界最高の知性を持ち、ロボットに意識を持たせることができるであろうと宣言するロボット・ガーガンがあらわれる。ガーガンは、ロボットこそが世界を引き継ぐものであり、物質と意識を統合することができる存在であると確信している。
 果たして、ロボットに意識を持たせることができるのか? そして、人間はロボットによって支配される存在になるのか?
 自分に意識が備わっていることを隠しながら、ロボット・ジェスペロダスは人類とロボットの間で苦しむ。
 前作では、ロボットを用いて意識とは何かを問いかけたが、本書のテーマは明確に書かれている。
「ロボットたちは人間の魂を盗みはじめるだろう…人類が超意識を持つ機械システムの奴隷となった未来を想像することができる。人間の魂を収穫するためのみに生かされている未来」(180ページ)
 80年代を象徴するようなテーマである。人工知能についての関心が高まり、研究されることで、人間の「意識」についての科学的研究や大脳の働きについての研究も深まった。そして、人工知能に「意識」がやどる可能性について多くの人たちが関心を寄せ、それが芸術、文化にも影響を与えはじめた時期である。日本で言えば、これよりさかのぼるが漫画や映画で一大ブームとなった「銀河鉄道999」は、「機械人」対虐げられる「生身の人間」の対立軸として描かれていたし、何度も書いているが映画「ターミネーター」は人工知能による「マシン」の「人間」への殲滅戦であり、映画「マトリックス」は人工知能により「マシン」が「人間」を収穫するものとされている。
 本書「光のロボット」では、遠い未来の設定としてロボットと人間の対立が描かれ、そこに「意識」が重要な要素となっている。それを、ベイリーは、ゾロアスター教の光と闇の対立に重ね合わせ、精神と物質の戦い、終わりなき戦い、世界の二元的戦いとして描こうとする。このあたりに無理はあるのだが、時代の空気を感じる表現である。
 もちろん、本書「光のロボット」は、前作同様、物語は楽しく、おもしろい。今回は対人間ではないが、ロボット・ジェスペロダスが戦いの中でいくつもの旅をして、いろんなロボットと出会い、会話し、考えていく。その様がよい。ジェスペロダスはこの世界には他に存在しない意識を持つロボット、すなわち人間的要素とロボット的要素を兼ね備えた存在であり、その意味で影の王と言ってもいい。その永遠の生命を持ち、人間とロボットの将来を憂う王が、旅をして世界を少しずつ変えていくのである。これこそ物語の王道、ファンタジーで語られる王道ではないか。安心して読める作品である。
(2007.1.5)

ロボットの魂

ロボットの魂
THE SOUL OF ROBOT
バリントン・J・ベイリー
1974
 2006年最後に読了したのは、本書「ロボットの魂」で、12月31日現在、続編の「光のロボット」を再読中。いずれも、創元SF文庫から1990年代前半に邦訳出版されたものである。ロボットと言えばアシモフ、ロボットと言えば三原則という時代を抜けて、いよいよロボットが様々な形をとりはじめてきた21世紀初頭。ホンダのASIMOは着実に進化し、ロボットバトルやロボットコンテストの技術レベルは上がり、Impress社のIT関係のニュースサイトでは、Robot Watch が創刊され、日本におけるロボットは研究対象、ホビー対象から、徐々に実用に向けてビジネスの領域になってきている。
 そこで、今から30年前に執筆された本書「ロボットの魂」である。
 高度に「知性」を有したロボットには「意識」が芽生えるのであろうか? それとも、その知性に基づく判断や行動の背景に「意識」は存在せず、ただシミュラクラでしか過ぎないのだろうか?
 1体のロボット・ジェスペロダスは、生まれながらにして自分に「意識」があることを自覚し、それが本当の「意識」なのか、それとも、それすら思考ゲームとしてのシミュラクラに過ぎないのかを悩む。ひたすら悩み、問いかけ、自問自答する。
 そんな風に書くと、何か小難しい哲学めいた作品のようである。
 実際、訳者あとがきと別に東大の哲学科助教授が解説をつけているような作品である。
 しかーし。かーし、かーし、かーし。
 作者は、バリントン・J・ベイリーである。
 エンターテイメント色あるストーリーをきっちりと仕込んである。
 時は未来、一度人類の文明が崩壊した遠い未来である。旧帝国であるテルゴフ治世の崩壊から8世紀が過ぎ、その間、地球規模の組織された政治的秩序は存在しなかった。今また、失われた技術のかけらから、小さな新帝国が勃興し、「大小さまざまの国家、王国、公国、君主領、荘園があちこちに点在するパッチワーク」(13ページ)を治めようとシャレーヌ大帝が野望をいだいていた。
 ジェスペロダスは、農地に恵まれた片田舎で高名な師に学んだロボット師とその妻により、生み出されたカスタムメイドの人間型高性能ロボットである。スイッチを入れられるとすぐに状況を把握し、産みの親のロボット師から離れて、ひとり世界に旅立つ。そして、彼の知性と魅力で権力を握っていくのであった。
 このジェスペラダスってば、もちろん、冒頭に述べたように自分は何者か、意識を持つのか持たないのかにずっと悩んでいるのだが、同時に、権力欲に満ち、性欲におぼれ、世界を救いたいという欲と自らの欲の間で蠢くマキャベリストであったりもするのだ。
 ということで、ストーリーは、「ロボット」でなく「超人」や「超能力者」「ヒーロー」ものの典型である。その傍流として、ロボットが存在する人間社会の状況というテーマが展開する。ベイリーのロボットは、三原則なんて積んでいない。あっさりと殺人を犯したりする。ロボットへの命令やロボットが持つ論理が適切ならば、当然殺人は起こりうる。ロボットは罪の意識を持つわけではないからだ。アシモフのロボットのように楽天的なロボットたちではないし、人間たちでもない。世界は崩壊し、人々は日々の暮らしに苦労しているのだから。
 この1974年に発表された「ロボットの魂」、続編として1985年に書かれた「光のロボット」の間に、1984年公開の映画「ターミネーター」(ジェームス・キャメロン)があり、その後の1999年公開の映画「マトリックス」(ウォシャウスキー兄弟)がある。
 詳しくは「光のロボット」再読後に書いてみたいと思うが、この4作品には共通するものがあり、それは、人間と機械の支配権争いという構図である。「ロボットの魂」では、その危険性や可能性について触れられているだけであるが、「光のロボット」になると、その対立構図は明確になる。これらの作品の背景にある社会的な心理というものは実に興味深い。
 哲学入門としても、軽いロボット物エンターテイメントとしても、それから、人間と機械との関係について考える作品のひとつとしても、おすすめしたい良品のSFである。
(2006.12.31)

大いなる復活のとき

大いなる復活のとき
RECLAMATION
サラ・ゼッテル
1996
 遠い遠い未来の物語である。
 すくなくとも百万年以上未来の話である。
 宇宙船の船長エリク・ボーンは、ヴィタイ属の大使から緊急の呼び出しを受けた。ヴィタイ属は、コンピュータシステム技術や遺伝子操作技術などの高度な科学技術によって他の人類種属などに欠かせない存在であると同時に、自らの社会を秘密にし、他種属との接触を極力避ける一大勢力種属であった。そして、ヴィタイの大使の奸計で、エリク・ボーンは、自らがかつて逃げ出した世界である「無名秘力の施界」(MG49サブ1)の不触の女に会うこととなる。自分以外出るはずのない世界から来たこの女は、なぜ連れてこられたのか? 彼女の意志なのか? それとも陰謀なのか?
 エリク・ボーンと不触の女アーラの存在は、ヴィタイ属、ヒト科再統一同盟、非ヒト科であるシセル異属、そして、世界から隠されていた施界の人々をも巻き込んでいく。
 ヴィタイ属が求める失われた故郷は、施界のことなのか? 施界の人々と施界にはどのような力があるというのか? 宇宙の権力争いも相まって、争乱に巻き込まれていく人たち、異星人たちの姿を描く。
 ちょっと変わったロボットやAI、世界に適応するよう、あるいは、いくつかの目的で遺伝子操作されたヒトの末裔、独自の言葉と宗教と世界観を持つ社会(惑星)と、宇宙に進出した社会の規範の違い、ネットワークとハッキング、超能力、ファンタジーと見まがうばかりの独自の用語体系の数々。そして、処女作特有の「でこぼこ感」がいい感じにまざりあい、さらに邦訳時の言葉の置き換えによる意味の変化の問題も重なって、おもしろさを実感するための苦労が欠かせない。できれば、数日間心を落ち着けて、余裕をもって読み進めるのがよい。毎日ちょっとずつ、電車の中で読んだり、数日あけて再開していると、何が何だか分からなくなってくるからだ。もちろん、記憶力のしっかりした人ならば問題ないだろうが。
 とにかくとっつきにくい。どこに視点を置けばいいのか、それすら定まらないからである。本書「大いなる復活のとき」の帯の釣り文では、「ヴィタイ属の陰謀を阻止せよ」(下巻の初版帯)なんて書いてあり、最初からヴィタイ属=悪なんて読めなくもないし、実際、結構種属としてはあくどいのだが、本当に「悪」なのかは、読み手の判断によるだろう。
 壮大な宇宙史的物語であることは間違いない。
 なんといっても、みんな変化してしまっていて、感情移入がしにくいのである。
 それでも、おもしろいと言えるのは、その設定の緻密さによるところが大きい。
 なかでも、ヴィタイ属の社会や、施界の環境、社会、人々などは、きちんと構成してあり、それだけでも大したものである。主人公のトラウマや行動の背景もていねいにしようと心がけている。
 壮大な宇宙史的物語を読みたいという方や、独自の用語がいくら登場しても記憶力の面では困らないという方にはおすすめの作品「大いなる復活のとき」である。
 ローカス賞受賞作品
(2006.12.23)