光のロボット

光のロボット
THE ROD OF LIGHT
バリントン・J・ベイリー
1985
 1974年に発表された「ロボットの魂」の続編が11年後の1985年に発表される。主人公は、世界で唯一、意識を持つロボット・ジェスペロダス。かつては新帝国の要職を務めた身であるが、現在はロボットを排斥するボルゴル陣営を避けながら自由ロボットの世界を築きつつ、考古学者として過去の歴史や技術を発掘、研究している。
 そこに、世界最高の知性を持ち、ロボットに意識を持たせることができるであろうと宣言するロボット・ガーガンがあらわれる。ガーガンは、ロボットこそが世界を引き継ぐものであり、物質と意識を統合することができる存在であると確信している。
 果たして、ロボットに意識を持たせることができるのか? そして、人間はロボットによって支配される存在になるのか?
 自分に意識が備わっていることを隠しながら、ロボット・ジェスペロダスは人類とロボットの間で苦しむ。
 前作では、ロボットを用いて意識とは何かを問いかけたが、本書のテーマは明確に書かれている。
「ロボットたちは人間の魂を盗みはじめるだろう…人類が超意識を持つ機械システムの奴隷となった未来を想像することができる。人間の魂を収穫するためのみに生かされている未来」(180ページ)
 80年代を象徴するようなテーマである。人工知能についての関心が高まり、研究されることで、人間の「意識」についての科学的研究や大脳の働きについての研究も深まった。そして、人工知能に「意識」がやどる可能性について多くの人たちが関心を寄せ、それが芸術、文化にも影響を与えはじめた時期である。日本で言えば、これよりさかのぼるが漫画や映画で一大ブームとなった「銀河鉄道999」は、「機械人」対虐げられる「生身の人間」の対立軸として描かれていたし、何度も書いているが映画「ターミネーター」は人工知能による「マシン」の「人間」への殲滅戦であり、映画「マトリックス」は人工知能により「マシン」が「人間」を収穫するものとされている。
 本書「光のロボット」では、遠い未来の設定としてロボットと人間の対立が描かれ、そこに「意識」が重要な要素となっている。それを、ベイリーは、ゾロアスター教の光と闇の対立に重ね合わせ、精神と物質の戦い、終わりなき戦い、世界の二元的戦いとして描こうとする。このあたりに無理はあるのだが、時代の空気を感じる表現である。
 もちろん、本書「光のロボット」は、前作同様、物語は楽しく、おもしろい。今回は対人間ではないが、ロボット・ジェスペロダスが戦いの中でいくつもの旅をして、いろんなロボットと出会い、会話し、考えていく。その様がよい。ジェスペロダスはこの世界には他に存在しない意識を持つロボット、すなわち人間的要素とロボット的要素を兼ね備えた存在であり、その意味で影の王と言ってもいい。その永遠の生命を持ち、人間とロボットの将来を憂う王が、旅をして世界を少しずつ変えていくのである。これこそ物語の王道、ファンタジーで語られる王道ではないか。安心して読める作品である。
(2007.1.5)

ロボットの魂

ロボットの魂
THE SOUL OF ROBOT
バリントン・J・ベイリー
1974
 2006年最後に読了したのは、本書「ロボットの魂」で、12月31日現在、続編の「光のロボット」を再読中。いずれも、創元SF文庫から1990年代前半に邦訳出版されたものである。ロボットと言えばアシモフ、ロボットと言えば三原則という時代を抜けて、いよいよロボットが様々な形をとりはじめてきた21世紀初頭。ホンダのASIMOは着実に進化し、ロボットバトルやロボットコンテストの技術レベルは上がり、Impress社のIT関係のニュースサイトでは、Robot Watch が創刊され、日本におけるロボットは研究対象、ホビー対象から、徐々に実用に向けてビジネスの領域になってきている。
 そこで、今から30年前に執筆された本書「ロボットの魂」である。
 高度に「知性」を有したロボットには「意識」が芽生えるのであろうか? それとも、その知性に基づく判断や行動の背景に「意識」は存在せず、ただシミュラクラでしか過ぎないのだろうか?
 1体のロボット・ジェスペロダスは、生まれながらにして自分に「意識」があることを自覚し、それが本当の「意識」なのか、それとも、それすら思考ゲームとしてのシミュラクラに過ぎないのかを悩む。ひたすら悩み、問いかけ、自問自答する。
 そんな風に書くと、何か小難しい哲学めいた作品のようである。
 実際、訳者あとがきと別に東大の哲学科助教授が解説をつけているような作品である。
 しかーし。かーし、かーし、かーし。
 作者は、バリントン・J・ベイリーである。
 エンターテイメント色あるストーリーをきっちりと仕込んである。
 時は未来、一度人類の文明が崩壊した遠い未来である。旧帝国であるテルゴフ治世の崩壊から8世紀が過ぎ、その間、地球規模の組織された政治的秩序は存在しなかった。今また、失われた技術のかけらから、小さな新帝国が勃興し、「大小さまざまの国家、王国、公国、君主領、荘園があちこちに点在するパッチワーク」(13ページ)を治めようとシャレーヌ大帝が野望をいだいていた。
 ジェスペロダスは、農地に恵まれた片田舎で高名な師に学んだロボット師とその妻により、生み出されたカスタムメイドの人間型高性能ロボットである。スイッチを入れられるとすぐに状況を把握し、産みの親のロボット師から離れて、ひとり世界に旅立つ。そして、彼の知性と魅力で権力を握っていくのであった。
 このジェスペラダスってば、もちろん、冒頭に述べたように自分は何者か、意識を持つのか持たないのかにずっと悩んでいるのだが、同時に、権力欲に満ち、性欲におぼれ、世界を救いたいという欲と自らの欲の間で蠢くマキャベリストであったりもするのだ。
 ということで、ストーリーは、「ロボット」でなく「超人」や「超能力者」「ヒーロー」ものの典型である。その傍流として、ロボットが存在する人間社会の状況というテーマが展開する。ベイリーのロボットは、三原則なんて積んでいない。あっさりと殺人を犯したりする。ロボットへの命令やロボットが持つ論理が適切ならば、当然殺人は起こりうる。ロボットは罪の意識を持つわけではないからだ。アシモフのロボットのように楽天的なロボットたちではないし、人間たちでもない。世界は崩壊し、人々は日々の暮らしに苦労しているのだから。
 この1974年に発表された「ロボットの魂」、続編として1985年に書かれた「光のロボット」の間に、1984年公開の映画「ターミネーター」(ジェームス・キャメロン)があり、その後の1999年公開の映画「マトリックス」(ウォシャウスキー兄弟)がある。
 詳しくは「光のロボット」再読後に書いてみたいと思うが、この4作品には共通するものがあり、それは、人間と機械の支配権争いという構図である。「ロボットの魂」では、その危険性や可能性について触れられているだけであるが、「光のロボット」になると、その対立構図は明確になる。これらの作品の背景にある社会的な心理というものは実に興味深い。
 哲学入門としても、軽いロボット物エンターテイメントとしても、それから、人間と機械との関係について考える作品のひとつとしても、おすすめしたい良品のSFである。
(2006.12.31)

大いなる復活のとき

大いなる復活のとき
RECLAMATION
サラ・ゼッテル
1996
 遠い遠い未来の物語である。
 すくなくとも百万年以上未来の話である。
 宇宙船の船長エリク・ボーンは、ヴィタイ属の大使から緊急の呼び出しを受けた。ヴィタイ属は、コンピュータシステム技術や遺伝子操作技術などの高度な科学技術によって他の人類種属などに欠かせない存在であると同時に、自らの社会を秘密にし、他種属との接触を極力避ける一大勢力種属であった。そして、ヴィタイの大使の奸計で、エリク・ボーンは、自らがかつて逃げ出した世界である「無名秘力の施界」(MG49サブ1)の不触の女に会うこととなる。自分以外出るはずのない世界から来たこの女は、なぜ連れてこられたのか? 彼女の意志なのか? それとも陰謀なのか?
 エリク・ボーンと不触の女アーラの存在は、ヴィタイ属、ヒト科再統一同盟、非ヒト科であるシセル異属、そして、世界から隠されていた施界の人々をも巻き込んでいく。
 ヴィタイ属が求める失われた故郷は、施界のことなのか? 施界の人々と施界にはどのような力があるというのか? 宇宙の権力争いも相まって、争乱に巻き込まれていく人たち、異星人たちの姿を描く。
 ちょっと変わったロボットやAI、世界に適応するよう、あるいは、いくつかの目的で遺伝子操作されたヒトの末裔、独自の言葉と宗教と世界観を持つ社会(惑星)と、宇宙に進出した社会の規範の違い、ネットワークとハッキング、超能力、ファンタジーと見まがうばかりの独自の用語体系の数々。そして、処女作特有の「でこぼこ感」がいい感じにまざりあい、さらに邦訳時の言葉の置き換えによる意味の変化の問題も重なって、おもしろさを実感するための苦労が欠かせない。できれば、数日間心を落ち着けて、余裕をもって読み進めるのがよい。毎日ちょっとずつ、電車の中で読んだり、数日あけて再開していると、何が何だか分からなくなってくるからだ。もちろん、記憶力のしっかりした人ならば問題ないだろうが。
 とにかくとっつきにくい。どこに視点を置けばいいのか、それすら定まらないからである。本書「大いなる復活のとき」の帯の釣り文では、「ヴィタイ属の陰謀を阻止せよ」(下巻の初版帯)なんて書いてあり、最初からヴィタイ属=悪なんて読めなくもないし、実際、結構種属としてはあくどいのだが、本当に「悪」なのかは、読み手の判断によるだろう。
 壮大な宇宙史的物語であることは間違いない。
 なんといっても、みんな変化してしまっていて、感情移入がしにくいのである。
 それでも、おもしろいと言えるのは、その設定の緻密さによるところが大きい。
 なかでも、ヴィタイ属の社会や、施界の環境、社会、人々などは、きちんと構成してあり、それだけでも大したものである。主人公のトラウマや行動の背景もていねいにしようと心がけている。
 壮大な宇宙史的物語を読みたいという方や、独自の用語がいくら登場しても記憶力の面では困らないという方にはおすすめの作品「大いなる復活のとき」である。
 ローカス賞受賞作品
(2006.12.23)

明日への誓い

明日への誓い
ENGAGING THE ENEMY
エリザベス・ムーン
2006
「栄光の飛翔」「復讐への航路」に続く、「若き女船長カイの挑戦」シリーズ第3作である。2006年に発表され、11月には邦訳されて店頭に並べられた。本文が650ページ近い大作を発表と同じ年に日本語で読めるのだからたいしたものである。
 さて、惑星スロッター・キーに本拠を置く宇宙運送会社の経営一族であるヴァッタ家は何者かに襲撃され壊滅的な打撃を受けた。一方、宇宙では惑星間の同時通信を可能とするアンシブル通信施設が各星系で破壊され、宙賊が宇宙航路の平和だけでなく、各星系の平和をも乱しはじめていた。アンシブルが不通となった星系の情報は錯綜し、本当に宙賊に襲われているのか、それとも星系が無事なのかさえもわからない。比較的平穏な星系の人たちも疑心暗鬼にかられている。そんな時代の変化を予感させるときが訪れていた。
 ヴァッタ家の生き残りである若き女船長カイ・ヴァッタは、宙賊の連合体に対抗し、ヴァッタ家を再興させるために奮闘をはじめる。一方、カイの従兄弟のステラは、美貌と天性の交渉能力を生かして、彼女なりにヴァッタ家の再興に力を注ぐ。アンシブルが不通となり、攻撃を受け続けるスロッター・キーのヴァッタ家を支えるのは、グレイシーおばさん。昔とった杵柄で、孤軍奮闘をはじめるが…。ということで、3人のヴァッタ家の女たちがそれぞれの性格と能力と知恵を生かして生き残りのための戦いをはじめるのであった。
 本書「明日への誓い」のような正統なスペース・オペラを読むと、ときどき、「舞台を未来の宇宙に移しただけじゃないか!」と思うときがある。なぜかといえば、人間そのものは変化していないからである。このシリーズでもサイボーグが出てきたり、主要人物は脳の機能を拡張させるインプラントを装着しているが、それで人間の質が変わるわけではない。現代の人間と価値観を変えているわけではない。三国志などと変わりはない。
 もちろん、それはそれでいいのだ。
 今の人間とあまりにかけはなれた精神や行動では、読者は限られてしまうからである。だから、そういう存在を出す場合には、対象として現在の人間の行動規範と同じような存在を出し、その存在を通じて物語との接点を持たせることになる。
 物語としては、基盤となる行動規範は現在の人間と共通の方が分かりやすい。分かりやすい物語は受け入れやすくなる。ということで、この手の物語が受け入れやすいのだから。
 そして、受け入れやすい物語を通じて、いくつかの技術や新しい知見を読者に拡張させることができるのである。それが物語の役割であり、機能でもある。
 と、突然物語論をはじめてしまったが、それほど高尚な話ではない。
 本書「明日への誓い」は、楽しく、心躍る、ミリタリーSFである。ミリタリーと書くと何か好戦的なようだが、三国志と同じような「国盗り」物語である。宙賊という「敵」に一族を滅ぼされた主人公が仲間を募りながら、乱世を乗り越え、敵を追いつめるとともに、世界を変えていく物語である。そして、予定では本編が5冊となっており、その3冊目にあたる本書は、ちょうど真ん中、起承転結でいえば、承と転の間にあたる。そういう気持ちで読めば、いよいよ物語が壮大になってきたことをうかがわせる。
 ここまで勢いで読んできたので、引き続き、コンスタントに発表していただき、翻訳していただき、安心して読み終えることを期待する。
 カイ、がんばれ! ってなもんだ。
(2006.12.23)

タイタンの妖女

タイタンの妖女
THE SIRENS OF TITAN
カート・ヴォネガット・ジュニア
1959
 ウインストン・ナイルス・ラムファードが愛犬カザックとともに火星にほどちかい時間等曲率漏斗に飛び込んだ。そして、火星人は地球に攻め入り、地球人は涙した。タイタンに不時着したトラルファマドール星の機械人サロは二十万年以上タイタンにいた。
 本書「タイタンの妖女」は、ヴォネガットの第2長編であり、トラルファマドール人がいよいよ登場する作品である。
 まあ、そんなことはどうでもよい。
 ヴォネガットらしい作品だ。
 明るいフィリップ・K・ディックと言えばいいのだろうか。不条理感はあふれ、登場人物はひどい目に遭いながらも、ディックほどせつなくはない。
 ありゃまあ。
 などとつぶやいて、から笑いしながら読んでいたことに気がつき、読み終えたらちょっと周りを見回して、もう少し気楽にやるか、と、肩の力を抜きながらも、ふと気がつくとちょっと目から涙がこぼれていたりする。そういう作品である。
 これをSFなのか? と問う人も多い。
 SFでなくても書けるかも知れないが、SF的設定、宇宙とか、宇宙人とか、「時間等曲率漏斗」なんて「専門用語」をちらばせることで、私たちは、「己を知る」ことができるのだ。
 人間よ、おのれを知ったらいいんじゃないのかなあ。
 というのが、本書「タイタンの妖女」に限らず、ヴォネガットのどの作品を読んでも感じることである。
(2006.12.14)

3001年終局への旅

3001年終局への旅
3001: THE FINAL ODYSSEY
アーサー・C・クラーク
1997
 1997年に発表され、同年7月には翻訳し、販売された「3001年終局への旅」。早川書房の海外SFノヴェルズとしてハードカヴァーで出され、けっこう売れたらしく私の手元にあるのは1カ月後の第三版である。
 むつかしいことは言うまい。「2001」「2010」「2061」ときて、「3001」である。未来だ。まぎれもない未来である。人類は人類で、地球は地球だが、その様はずいぶん変わっている。しかし、そこはクラークであり、理解不能な人類でも、理解不能な地球でもない。
 そこに登場するのは、「2001年宇宙の旅」で死んだフランク・プール中佐である。ハルの裏切りにより、ディスカバリー号での船外活動で事故にあい、そのまま宇宙空間に放り出された、あのフランク・プール中佐である。彼が太陽系の片鱗で見つけられ、回収され、そして、組成された。その年こそが3001年であった。
 1000年の未来に再生したプールは、私たち20世紀人に31世紀の科学、生活、思考について自らの体験をもってガイドしてくれる。
 この1000年に何が起こり、国家は、宗教は、戦争はどうなったのか? 科学は、何を見つけ、技術は何を可能にしたのか。人々は、何を食べ、何を楽しみ、どう生きているのか。
 もちろん、太陽系の謎、モノリスの謎も忘れてはいない。
 モノリスに取り込まれたボーマンは、どうなったのか。
 太陽系はどうなるのか。
 モノリスを作った存在は、その後、人類と接触するのか、それとも人類をこのまま見守るだけなのか?
 本書「3001年終局への旅」は、老齢となったクラークが、他の作品とは異なり、この作品だけは自分の手で書き上げると宣言し、書ききった作品である。それは、科学と人類に対するクラークの希望であり、メッセージである。
 おそらく執筆中に起きたであろう「オウム真理教の地下鉄サリン事件」も、作品には20世紀の宗教という恐るべき愚行のひとつとして直接的ではないが言及され、現実世界と小説との接点をクラークが見つめていることをうかがわせる。と同時に、さりげなく、スーザン・キャルヴィン博士がマシンプログラマーとして言及されているあたり、遊び心も失っていない。(そう、クラークは、ハインラインよりも、アシモフよりも長生きしている。それゆえの役得である)
 2006年12月現在、クラーク氏は、スリランカにて健在である。2006年12月、スティーヴン・ホーキング博士が人類は、地球での人為的、偶然的な壊滅的出来事による絶滅を避けるため、宇宙旅行と他の惑星の植民地化が必要と、インタビューに答えている。
 クラークの強い意志は、20世紀後半の科学、技術者に動機と意志を与え続けている。
(2006.12.6)

黄金の幻影都市

黄金の幻影都市
OTHERLAND vol.1 CITY OF GOLDEN SHADOW
タッド・ウィリアムズ
1996
 いやあ、長い。長いよ。アザーランドシリーズの第一弾「黄金の幻影都市」は、ハヤカワSF文庫から2001年に5冊立て続けに出されたのだが、これで1冊の内容だという約350ページが5冊だから、ざっと1700ページ。5年ぶりに読み返してみたが、やはり長い。時々疲れながらも、しっかりといくつかのストーリーを追いかけてみた。
 話は、ちょっとした未来。それほど遠いわけではない。生活もそれほど今とは変わっていない。戦争があったり、大変動があったりしたが、それでも金持ちは金持ちだし、貧乏人は貧乏のままだ。
 そこそこ学と金のあるものは、情報のアクセス力を持ち、生活を向上させることができる。どちらかひとつが欠けるものは、生活を変えることもままならない。
 物語は、5つの小枝を交互に飛び移りながら、少しずつ世界をかいまみせる。
 5つの小枝。
 第一次世界大戦の兵士として悪夢の中にいるポール・ジョーナスは、やがてジャックと豆の木のような世界へと誘われる。失った記憶の中で、次々に変わる世界。ポールを追う者がいて、ポールは逃げなければならない。なぜかは知らぬが。
 レニー・スラウェヨは、カレッジの教員として3次元のネットワーク・プログラムを教えている。電脳仮想空間に移入して、その世界での行動やシステム設計を行うのだ。!Xザップは彼女の最も新しい学生で、サン族、ブッシュマンのひとりである。レニーには、働かない父と、電脳ゲームや軽いハッキングにあけくれる弟がいて、彼女が働くことで彼らはなんとか人並みの生活をしていた。しかし、弟が、電脳空間にいる間に植物人間となってしまう。ネットと切り離しても意識が還ってこなかったのである。本来あり得ない事故に、レニーは深い陰謀の影をみつけ、!Xザップとともに、弟を救うための調査をはじめ、そして、事件に巻き込まれていく。
 軍の住居区で暮らすクリスタベルは、好奇心と想像力豊かな少女。大きな事故で部屋から動けないのに訪問を禁じられているミスタ・セラーズのもとを訪ねるのが密やかな彼女の冒険となっている。ミスタ・セラーズにはなにか大きな秘密があるのだ。そして、大人達は、彼を恐れているらしい。
“恐怖”と自らを名乗る変質者は、隠された電脳空間では、オリシスの神にアヌビスとして仕えさせられている。いつかは神の座を狙いながら、も、神の力の大きさの前に、電脳空間でも現実でも、彼は”恐怖”に怒り、恐怖をまき散らす。
 オーランドとフレデリックは、電脳空間で知り合った友人同士。おたがいの住所も、年齢も、家族背景も知らない。しかし、現実以上に彼らは友情を結んでいた。オーランドの化身たる伝説のサルゴーは剣士として、フレデリックの化身たるピスリットは盗賊として、ゲーム界に尊敬され、君臨していた。しかし、サルゴーは、ありえないできごとで殺されてしまう。オーランドは、フレデリックとともに、電脳空間で起きている「何か」を探し始める。まるで、それが生きる証につながるかのように。
 「黄金の幻影都市」では、この5つの物語が流れながら、やがてひとつの大きな物語に結びつこうとする。
 レニーやオーランドが見た黄金の都市の立体映像は真実なのか?
 あるとすればどこにあるのか?
 現実と区別のつかないような電脳空間は存在可能なのか?
 もし、存在するとして、それは、何のため、誰のためのものなのか?
 5つの物語それぞれに、魅力あふれる登場人物が出て、ていねいに書き込まれている。それゆえに長いのだが。
 そして、5冊目を読み終わったところで、叫ぶしかない。
「続きは?」
 あんまりだ。第一部は、第一部に過ぎないのか。
 そりゃあ、そこまででもRPGのように遊ばせてもらったけれど、1700ページを読んできて、そこで終わるの?
 1~5冊の間に、たくさんの伏線がはられ、そのいくつかが現れ、そして大きな伏線を作っておいて、第一部のご購読ありがとうございました。引き続き第二部をお楽しみください。ですか。
 いや、第二部以降、翻訳されているのなら、こんな風には書きませぬ。
 それから5年。放置しっぱなしですか。
 売れなかったのかなあ。
 おもしろいのか、おもしろくないのかさえ、まだ言えない…。
 長い。いろんな意味で。
ちなみに、第一部「黄金の幻影都市」の各巻の副題
1 電脳世界の罠
2 赤き王の夢
3 青い犬の導師
4 闇の中の宇宙
5 仮想都市テミルン
(2006.12.6)

宇宙零年

宇宙零年
THEY SHALL HAVE STARS(YEAR 2018)
ジェイムズ・ブリッシュ
1956(1970)
 宇宙都市シリーズの第一弾である。1981年にタイタン基地が設立された歴史の人類史である。2013年に物語はスタートする。20世紀後半に人類は宇宙開発に着手したものの、21世紀初頭にかけてその取り組みは芳しくなく予算も削られていった。
 そんななかで、ひとりのアメリカ合衆国議員が途方もない計画を打ち上げ、それはいつの間にか予算化され、実行に移されていた。木星での「橋」の建設である。何のための「橋」なのか? 軍事目的なのか? 単なる研究なのか? それを知るものはほとんどいない。
 一方、宇宙の各地の土をサンプルとして集め、そこに含まれる微生物の生成物を研究している製薬会社があった。そこには、軍人や政治家の影がある。その企業の目的は? 何を研究しているのか? 誰のために? 何のために?
 ひとりの木星の研究者が、ひとりの宇宙パイロットが、それぞれに「謎」をかかえ、謎に迫ろうとする。
 人類が太陽系を超えてゆく未来史の前史を語る作品が登場した。
 それが、本書「宇宙零年」である。
 壮大な木星を舞台にした「橋」の光景を想像できるだろうか?
 1950年代の知識をもとに、木星を描いたジェイムズ・ブリッシュの意欲作と言ってもいい。  ちなみに、本シリーズは、「宇宙零年」「星屑のかなたへ」「地球人よ、故郷へ還れ」「時の凱歌」の4作品があり、1955年から62年に発表された、SF黄金時代のシリーズである。それゆえに、設定や内容はたいへんに古い。たいへんに古いが、当時としては、「ハード」なSFであったのである。
 なんといっても50年前のSFである。
 まだ、抗生物質によって微生物による感染症は壊滅できると信じられていたし、宇宙は目の前に広がっていたのである。
 今や、生物の適応力のすごさをあらためて知らされ、宇宙の広さの前にあたかもおびえるかのように開発の手は止まっている。
 50年前のような底抜けの明るい科学技術展望は必要ないにしても、その希望に裏打ちされたエネルギーは見習いたいものである。
 ちなみに、私の手元には、「宇宙零年」と「星屑のかなたへ」だけが残っている。高校生の当時、読んでつまらなかったのかなあ。
 古いハードSFだものね。
(2006.11.29)

2061年宇宙の旅

2061年宇宙の旅
2061:odyssey three
アーサー・C・クラーク
1987
 2061年。今から55年後。むうう。生きているかなあ。不可能ではないが可能性は低い未来だなあ。どんなことになっているのだろう。想像もつかない事態、社会、状況だろうなあ。
 さて、2001年宇宙の旅で、20世紀最後の歴史的イベント、月のモノリスの発見と、太陽系を巻き込む「目覚め」に立ち会ったヘイウッド・フロイド博士は103歳になっている。現住所は、月。つまり、フロイド博士は、1958年生まれで、私より7歳年上ということである。
 ところで、2001、2010ときて、「2061年宇宙の旅」なのだが、どうして2061なのだろうか?
 それは、ハレー彗星が再訪するからである。1986年より数年前までに生まれた人ならば、ハレー彗星のことを覚えているだろう。本書は、その翌年に発表されている。むざむざと通り過ぎるのを見過ごしたクラークは、次のハレー彗星到来というイベントを、3番目の「宇宙の旅」に選んだ。主人公は、103歳になっても矍鑠たるフロイド博士を選び、低重力下に置くことで、老化を遅らせるというテクニックで読者にフロイド博士のその後を楽しませてくれることとなった。
 ところで、ハレー彗星は、公転周期75.3年で、2回見るためには76歳以上生きることと、タイミングよく若い内に1回目を見ることが欠かせない。幸い、私はすでに1回目を体験しているわけだが、2回目となるとどうだろう。厳しいかなあ。なんとなく見たいなあ。
 さて、「宇宙の旅」の世界では、2000年12月31日に、長距離通話料金の廃止により、全世界が低料金でコミュニケートできるようになり、2006年の今年は、月のモノリスが掘り起こされて国連広場に置かれることとなった。その後、エネルギーが原因と見られる戦争が起こるが、世界大戦に広がることはなく、2033年、東京大地震、2045年、ロサンゼルス大地震を経て、世界は平和な時代を迎えていた。
 宇宙では、前作「2011年宇宙の旅」にあるとおり、太陽系が激変を迎え、それに合わせたかのように人類は火星や木星近辺を中心に宇宙開発や探索を続けていた。
 本書「2061年宇宙の旅」は、そんなときの太陽系イベントであるハレー彗星回帰である。中国系の企業グループのオーナーが高速豪華客船を建造し、ハレー彗星研究と訪問を計画、フロイド博士もゲストとして呼ばれることとなったのである。
 一方、木星をめぐる衛星では、驚くべき発見がなされ、密やかに陰謀が起こりつつあった。
 モノリスの発見と、宇宙における人類を遙かに凌駕した知性体の存在に気がついた人類は、いまだ他の知性体にめぐり会うこともなく、太陽系に世界を広げつつある。  果たして、モノリスを生んだ存在は何者なのか? そして、太陽系では何が起こりつつあるのか?
「2001年宇宙の旅」の世界で、新しい発見と冒険がはじまる!
 ということで、今回は、楽しいエンターテイメントSFである。懐かしい登場人物、新しい登場人物が宇宙船内部や新たな場となった木星の各衛星などを舞台に人間らしくドラマを繰り広げる。
 2061年…見ることができるかも知れない可能性のある未来である。
 私はどうかわからないが、人類が極度に激しい変化に見舞われない限り、この数字は意味をなすであろうし、現時点で生きていてそこまで生きるものも多くいるだろう。
 50年前のSFを読むと現在とのギャップが痛いほどに目につく。進みすぎた未来、古すぎる未来である。本書「2061年宇宙の旅」もまた、2061年になったら、荒唐無稽なものとして見られるとともに、20世紀後半の人の想像する未来を振り返ってみるという楽しみができるのであろう。
 クラークのすごさは、可能性のすごさである。21世紀になって、長距離電話はあくまでも長距離電話だが、IP電話の普及によって、クラークが書いた「長距離通話料金の廃止」と同様の事態が起きている。
 東京やロスの地震も起こるであろうし、エネルギーが原因の戦争も起きている。残念ながら、簡単には終息する気配はないが。それらを踏まえた上で、クラークは希望を込めて平和の時代を予言する。この予言を実現するのは、その時代時代に生きている人間の力である。未来を描くSF作家は、その作品を通じて、読者に未来を決める動機を与えているのだ。
(2006.11.29)

2010年宇宙の旅

2010年宇宙の旅
2010:ODYSSEY TWO
アーサー・C・クラーク
1982
 1968年、アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリック(クーブリック)は、映画と小説で「2001年宇宙の旅」を公開し、世界に衝撃を与えた。この映画と小説は、2001年を過ぎた今でも色あせることはない。
 しかし、クラークにとって、キューブリックとの共同作業は、かなり神経に応える作業であったらしい。小説版も発表までにはキューブリックとの権利関係等もあり、内容の確認を得るまでに時間がかかったという。それでも、小説版はクラークの小説らしく、映画版はキューブリックの映画らしく仕上がり、どちらもすばらしい作品であった。
 さて、そのキューブリックはとうにこの世を去り、一方、巨匠クラークは、本人の予想以上に長生きしている。
 本書「2010年宇宙の旅」は、そのクラークが、1982年に発表した「続編」である。さて、この「続編」であるが、何の続編かというところがまず、第一のポイントである。本書「2010年宇宙の旅」は、映画「2001年宇宙の旅」のシナリオを受けた形で、その「続編」的な作品となっている。小説版「2001」の最終目的地は土星の衛星であり、映画版は木星の衛星であった。また、小説版では、スターチャイルドになったボーマンについて詳しく書かれており、ディスカバリー号の人工知能HAL9000についても、なぜ「狂った」のかについて書かれていたが、映画版では、その性質上、そのあたりはつまびらかにされていなかった。
 そこで、クラークは、読者の要請を受けるという形で、本書「2010年宇宙の旅」をしたためることになったのだ。しかし、そこはそれ、クラークである。「2010年宇宙の旅」は、小説版、映画版「2001年宇宙の旅」との多少の齟齬や設定の違いがあると、「はじめに」で明言している。それは、1968年から1981年までの科学的な発見や技術的な変化を受けて書かれているからである。
 クラークいわく「もちろん、それも二〇〇一年にはふたたび時代遅れになってしまうのだろうが…」と書いているが、なかなかどうして、読み応えのあるものであった。
 2006年の今日は、2001年を過ぎ、2010年には届かない微妙な時期である。ところどころに古くなった技術や社会があり、そして、あいかわらず「うらやましい」宇宙像が描かれている。
 さて、本書「2010年宇宙の旅」であるが、主人公は「2001」で最初に登場したヘイウッド・フロイド博士である。2001年の出来事で乗務員を全員失ったことへの失意の内に、最前線を引退し、ハワイ大学学長としてゆったりと過ごしていたフロイド博士は、予定されているアメリカのディスカバリー号サルベージ計画を遠い関心事にしていた。しかし、ロシア(ソ連?)側が、木星衛星軌道上のディスカバリー号が予想外の動きをして、衛星に墜落する可能性を示唆、アメリカ側の計画では間に合わないことを明らかにするとともに、ロシアが建造した宇宙船アレクセイ・レオーノフ号にアメリカのフロイド博士ら3人を乗船させ、共同でサルベージする計画を提案した。その提案をうけてフロイド博士らはロシア船に乗り込み、木星をめざす。途中、科学技術的鎖国を続ける中国の宇宙船の追い上げなどもあり、緊迫するが、結果的にはレオーノフ号がディスカバリー号に到着、HAL9000を再起動、再教育していくとともに、ボーマン失踪の原因となった巨大なモノリスの探査をはじめる。
 しかし、彼らが想像も絶するような出来事が起こり、地球、地球人は、自分たちの宇宙観を変える事態になったことを知らされるのであった。
 そして、エピローグは20001年。人類はいまだ存続しているようである。
「2001年宇宙の旅」も壮大なお話しだったが、この「2010年宇宙の旅」も壮大なお話しである。今回の主役はなんといっても「木星」だ。木星の大きさ、偉大さ、想像を絶する世界が見事に書き描かれている。このクラークの想像力、描写力に乗って、宇宙の大きさや不思議さを楽しむことができるだろう。
 すくなくとも、いまだ木星は未知の領域にあるのだから。
 ところで、クラークと「予言」はいまだ縁が切れない。本書では、2005年に大きな津波があり、ハワイ諸島にもおしよせたらしい。このあたり、2004年末のスマトラ沖の大地震と津波を思わせる。こういうエピソードの予言力もまた、クラークのすごさを物語る。
(2006.11.18)