虚空の眼

虚空の眼
EYE IN THE SKY
フィリップ・K・ディック
1957
 1959年、ベヴァトロン陽子ビーム偏向装置が故障し、電子工学者のハミルトンは妻のマーシャをはじめ、他の7人の見学者らとともに、磁場と放射線のエリアへと投げ出されてしまった。
 そうして、8人は1959年の別の世界で目覚めることになる。そこは、第二バーブ教の神が支配する世界だった。この神は怒りの神であり、呪いの神でもある。同時に、救済の神であり、奇跡の神である。呪いはただちに現実となり、天罰はすぐに現世にもたらされる。怪我をすれば奇跡によって直すこともできる。神は現実に存在し、人々を見ているのだ。当然、異教は呪われる。
 第二バーブ教の世界であることを除けば、ハミルトンがそれまで生きてきた現実のアメリカ社会であることに変わりない。同じ同僚がいて、飲み屋があり、家がある。ただ、仕事の内容は変わり、世界の価値観は変わっていた。
 その世界の原因は? それをつきとめ、ハミルトンたちが第二バーブ教の世界を脱したあとに、また別の世界が広がっていた。どうやったら本当の現実に戻れるのか? 本当の現実に戻るまでにはどれだけの別の世界を過ぎなければならないのか?
 誰かの妄想のような世界であっても、ハミルトンはごく普通の人間として、愚かであると同時に賢い。人間として守りたいこと、守りたい考え、守りたいものを失うまいと絶望的な戦いを続ける。なぜ。なぜならば、それがハミルトンだから。普通の人間だから。
 本書「虚空の眼」では、第二バーブ教の世界を含む3つの忌まわしく、おどろおどろしく、そして、滑稽な世界が描かれ、同時に、「現実の世界」も描かれる。その「現実の世界」は、1950年代のアメリカの姿である。第二次世界大戦後、アメリカと旧ロシアであるソ連(ソヴィエト社会主義人民共和国連邦)による冷戦は、1950年の朝鮮戦争に発展し、核開発競争へとつながった。これと平行する形でアメリカ国内は、赤狩りが横行し、「共産主義者」「共産主義シンパ」に対してアメリカ中で密告と不信がうずまく事態を生んだ。
 誰も信じることのできない世界、真の裏切り者を捜すことができず、裏切らない裏切り者を捜し出しては告発する魔女狩りの世界である。
 ディックは、現実の世界と3つの妄想的な滑稽な世界を描くことで、現実の世界が行き着く先をあばきだし、同時に人間の希望を書き出した。
 笑いながら哀しくなり、恐怖を覚えながら笑うことができる。
 それが、ディックのすごさである。
 ディックが意識しているかどうかは別として、誰もがディックのこの才能を疑わない。
 初期作品として、本書「虚空の眼」は、いかにもディックらしい傑作である。本書はもっともっと高く評価されてもよい作品だ。そう、書かれて半世紀が過ぎ、しかも、作品の舞台は1959年という大いなる過去であるのに、この作品はまったく古くさくないのだ。
 傑作である。
 さて、私の手元にある「虚空の眼」は大瀧啓裕訳のサンリオSF文庫版。1986年7月が発行日になっている。本書「EYE IN THE SKY」は、1957年にアメリカで発表され、その2年後の1959年にはハヤカワSFシリーズで「宇宙の眼」として、中田耕治訳で出版され、その後、1970年のハヤカワ書房世界SF全集に収められていたという。なんとも早い翻訳である。それだけ本書はSFとしてインパクトの大きな作品と言うことであろう。
 ディックの長編では日本にはじめて紹介された作品でもある。早くから注目されていたということで、80年代のディックブーム以前にディックは日本でも読者を得ていたということか。
 その後、サンリオSF文庫が絶版になり、1991年に創元SF文庫で大瀧訳のものが再掲されている。しかし、このサンリオ版には、創元版には掲載されていない「解説」がある。それは、ブライアン・W・オールディスによる1982年に発表されたディック追悼文「フィリップ・K・ディック まったく新しい未解決の問題」である。”今宵わたしたちはよろこび祝うために集まっています。嘆き悲しむ理由はありません……あまり沈みこむ必要はないでしょう。死ぬというようなことは人間にはありふれたことなのですから。”の一文ではじまるオールディスのディックという存在への80年代らしい総括は、今読んでも泣ける。そう、その通り。ディックが見極め、私たちに警告し続けたように世界は進んでいる。ディックはこの現実の世界の恐怖を味わうことなく、無限の世界に行ったのである。
 そして、現実の世界に生きる者たちは、ディックの警句に時折目を覚ましながら、目を覚ましたままで生きるのは辛いと、目を閉じて日々を過ごすのであった。
 読まない方が幸せかも知れないが、読んで生きる方がずっと楽しいから。
 だから、傑作である。
(2007.03.14)

いたずらの問題

いたずらの問題
THE MAN WHO JAPED
フィリップ・K・ディック
1956
 ディック3作目は、1956年発表の「いたずらの問題」。1992年に創元SF文庫より大森望氏による翻訳として登場。名作である。この時分、サンリオSF文庫の再刊や新訳が創元、ハヤカワによってなされていた。いい時代である。
 この未来。
 1972年に戦争が終わる。
 1985年革命が道徳再生運動の創始者ストレイター大佐によって起こり、世界がモレク(道徳再生)の世界と化していく。
 1990年、ストレイター大佐のモニュメントの型ができる。
 2085年、革命後100年に主人公アレン・パーセルが生まれる。
 そして、舞台は2114年。アレン・パーセル29歳。地球。モレクの社会で、アレン・パーセルは妻とともにベッドを広げたらそれだけで一杯になる狭い部屋に暮らしていた。職業、新興調査代理店の創業者社長。彼が暮らす部屋は、彼の両親らが積み重ねてきた地位の結果として得たものであり、この道徳的な世界では高い地位を占める証でもあった。朝になればベッドは消えて、キッチンが自動的に壁からあらわれる。最小の空間、最小の生活。機能性と道徳的行動だけが求められる社会。広告も、看板もない。
 調査代理店は、パケットと呼ばれるモレク企画をテレメディア局に提出し採用してもらう会社である。新たな道徳的価値を映像やコピー、イベントとして社会に導入することを生業にしていた。アレン・パーセルは、その中でも最後発であり、大手とは違って自らのアイディア=新しいモレクの新しい形での提案を強みにしていた。それこそが、アレンの持つ「特殊能力」でもあったのだ。
 しかし、アレンには悩みがあった。ある日、気がつけば、ストレイター大佐の歴史的モニュメントに赤いペンキと電動ノコギリのようなものを使っていたずらをしかけていたらしいのである。なぜ、自分はそのようなことを行ったのか? 自分自身に自信を持てなくなっていくアレン。まして、そのことがばれれば、非道徳的存在として彼の親から積み上げてきた今の地位をすべて失うことになる。
 一方で、アレンには、新たな社会的地位が政府機関より提示される。
 これを受けるべきか? しかし、自分の精神には不安がある。
 彼は、この社会に暮らせず、外の植民星に向かうような人たちに向けて開業している精神医のもとを訪ねることにした。そして、そこでアレン…。
 本書「いたずらの問題」は、初期の作品の中でも、もっとも分かりやすい筋立てかもしれない。そして、もっともディックの理想的な人間像がはっきり出ている作品かも知れない。ディックは、このアレン・パーセルのような人物でありたかったのではなかろうか?
 トラブルもない代わりに楽しみもない、人々への配慮が行き届く代わりに生き生きとした活動もない、そんな道徳的社会。この社会に適応できなければ、地球を離れて植民星に行けばいい。そこには、道徳にしばられない「自由」な世界が待っている。しかし、道徳的生活は望めない。道徳的世界はつまらない。何かが足りない。なんだろう。
 そう、アレン・パーセルのような存在である。「いたずらの問題」なのだ。
 ディックは喝破する。
「いたずら」、つまりは、社会的な価値観とのずれの表出は、ユーモアを生む。いや、ユーモアを持つものこそがいたずらを演出することができる。
 トリックスターの存在。
 それが道徳的な社会に欠けた存在である。
 トリックスターでありたい。
 強い意志を持ち、人間くさく、他人と自分のことを考えることができ、それでいて社会に対しては大胆なトリックスターでありたい。
 それが、ディックなのではなかろうか。
 晩年(50代だったが)のディックは宗教的な物言いに転じていくが、この初期の作品群を読むと、ディックの小説家としての視点のおもしろさがよく見えてくる。
 ディックの作品群の中で、「いたずらの問題」は素直でストレートな作品である。
 名作だと思う。
 ま、大森望訳も読みやすさの理由のひとつなのだけれど。
(2007.03.08)

ジョーンズの世界

ジョーンズの世界
THE WORLD JONES MADE
フィリップ・K・ディック
1956
 2002年、世界はジョーンズの時空に飲み込まれた。1994年、戦争が終わり、世界は相対主義のもとに平穏に過ごすこととなった。戦時中、世界は大きくふたつの勢力に別れ、互いに核を使用していた。破壊と主義のぶつかり合い。その果てに、相対主義が生まれた。「真実」を声高に押しつけてはいけない。核戦争によるミュータントも含めて誰もがそれぞれに生きていくことを認めなければならない。しかし、その相対主義を守るために秘密警察が連邦世界政府の元に置かれ、絶対的真実を人に訴えるものを取り締まり、強制労働させていた。
 1995年、若き秘密捜査官ダグ・カシックが、カーニバルで「個人の占いはお断り」と看板を出した男を発見する。その男こそ、ジョーンズである。
 ジョーンズは、戦時中の1977年、アメリカ中西部で生まれた。1年先を常に経験し、同じ体験を2回繰り返さなければならない運命の元にある唯一の男である。彼は、未来をすでに起こったこととして語る。連邦政府が秘密にしていた「漂流者」という宇宙生命体についても警告したのがジョーンズである。
 未来の真実を語るジョーンズであったが、秘密警察は彼を逮捕したままにおくことはできなかった。なぜならば、それは事実であり、事実を語ることを法律で禁じることはできなかったからである。
 ジョーンズは、自ら定められた時の流れに沿って、教会をつくり、勢力を広げ、ついには、連邦世界政府を倒して自らが権力者となっていく。ジョーンズは常に1年先までを知っていたから、彼にとっては困難なことではなかったのだ。そう決まっていただけのこと。
 ジョーンズの存在を「発見」した、ダグ・カシックは、その後も、ジョーンズの勢力に取り込まれていく妻のニーナとともにジョーンズの世界に翻弄されていく。
 もうひとグループ、ジョーンズの世界に翻弄されそうになっていた存在がいた。7人の地球の生態系では暮らすことができず、政府の研究機関がつくった「避難所」と呼ばれる独自の大気、状況の中だけで生きることのできる「新人類」である。彼らはひとつの希望でもあった。
 ディックの長編には、登場人物にとって当たり前だと思っていた世界/生活が実はまがいもので、本当の世界は違ったものという図式を持つものが多い。シミュラクラ、擬態、まがいもの、にせものに汚染されていき、本物だと、真実だと思っていることが、次第にゆらいでいく。そのなかで、登場人物の幾人かは、時に自分でもおもいもよらない勇気というか、人間らしさを発揮し、そのときできることを、ただ行う。なぜそれをやったのか、自覚のない登場人物も多いが、それによって物語は展開し、それまでのシミュラクラ、擬態、にせもの、まがいもの、あるいは世界は一変する。それは物語上の本当の世界かもしれないし、物語上のもうひとつのシミュラクラ、擬態、にせもの、まがいものかも知れないが、間違いなく、世界はそのありようを変える。
 本書「ジョーンズの世界」は、1年先を体験し続けるジョーンズという存在によって、1年先の未来が「確定する」ことにより、「今」が揺らいでしまう。わからないはずの「今」と「次の瞬間」が、ジョーンズという存在によって当然起こるべき1年前のできごとになってしまうのだ。しかし、ジョーンズ以外の人々にとって、1年先は未来であり、今と次の瞬間は不安定なままである。だから、ジョーンズ以外の人々にとって、ジョーンズの存在を知ること、関わることは、安定した世界の崩壊となる。
 なんとまあ。
 もちろん、ジョーンズにとっても、1年先より「先」は分からない。だから、本当は、世界は大きく変わっていないのだが、人々はそれでも大きな影響を受けるのだ。
 本作「ジョーンズの世界」は、1956年に発表されたもので、ディックの長編としては第2作という位置づけになっている。初期の作品は、物語に文章的破綻や論理的破綻が少なく、その分だけ理解しやすい。特に本書は、1年間の先を知ることができるジョーンズという座標があるだけに、とても分かりやすく、また、その周辺で繰り広げられる物語も比較的単純である。
 それだけに、ディックの世界に対する怒りや不安とともに、人や人類に対する希望がはっきりと書かれていて、ディック入門書としてはおすすめの作品である。
 そうそう、体制や人々の思想の流行なんて、10年も時間をおけば簡単に変わるのだ。
 だから、もし、今、辛い時期であるとしても、じっと我慢することも大事だ。
 もし、今、すてきな社会だと思っていたら、どこかに「まがいもの」が潜んでいるに違いない。そのことは自覚しておいた方がいい。
 ま、そういうことで。
(2007.03.04)

星からの帰還

星からの帰還
POWROT Z GWIAZD
スタニスワフ・レム
1961
 フォーマルハウトへの宇宙探査隊が地球に帰還した。ハル・ブレッグ、パイロット。30歳のときに探査隊に参加し、現在、40歳。しかし、地球では127年が過ぎていた。
 世界は一変していた。
 もはやだれも宇宙に関心を持つものはいない。
 平和で、豊かで、誰も何も傷つけず、おだやかで、恐怖を味わうこともない新たな社会、新たな人間、あらたな地球がハル・ブレッグの前にあった。
 彼は旧人であり、野蛮人であり、猛獣か珍獣であった。そして、おだやかでやさしい社会においては、彼は自由でもあった。
 宇宙は厳しいところだった。生と死は常に隣り合わせ、多くの乗組員を目の前で失った。友人を、仲間を、厳然とした宇宙の厳しさの中であきらめ、捨てなければならなかった。そうして、彼は生きて帰ってきた。しかし、そのことを悲しむ人も、喜ぶ人もいない。ただ、彼らは迎えられ、この社会にとけ込むよう手助けされるだけの存在に過ぎなかった。
 失った仲間への漠然とした罪悪感は、この新しい人々と接するほどに深まり、顕在化していく。なんのために旅立ったのか? なんのために死んだのか? なんのために帰ってきたのか?
 彼は生を女に求め、同じく帰還した友は宇宙に求めた。
 スタニスワフ・レムは、本作「星からの帰還」で、現在に内包される未来の形を鮮やかに描き出し、現在の社会の方向性に内包する人間の変質の問題を鋭く切っていく。1961年、冷戦にともなう米ソ宇宙開発競争のまっただ中で「東側」のポーランドに住むレムが、米ソという体制の違いに関わらず共通して持っている社会の問題を喝破した作品である。当時の延長上には主人公のハル・ブレッグが参加したような宇宙探査計画があった。より遠くに人類の(あるいは体制の)版図を広げること、そのためにはより大きな計画、より深い科学、より高度で重大な技術と重厚な産業が必要とされていた。
 この延長上に、星から帰還したハル・ブレッグたちがいる。
 そして、科学、技術の急速な発展は、思わぬ方向に人類を導く。個人と社会の安全への志向、個人と社会の安定の追求…、本作品では生物学的解決による人類の攻撃性/恐怖の除去と、旧世代との世代交代、安全技術の高度化による安心できる社会の達成によって安全と安定による社会を築き上げた。それが、ハル・ブレッグたちが帰ってきた社会である。
 それは、人間や社会に対する価値観を変えるものとなる。
 宇宙に行くことが、論理的に理解できない社会。
 人や自分を殺したり傷つけることがないかわりに、リスクを冒さない社会。
 または、限られた人やロボットにのみ、リスクを冒させる社会。
 はて、どうだろう。本作「星からの帰還」が書かれてまもなく半世紀、世界はどうなっているだろうか? 科学は、技術は、そして、社会は。
 レムの洞察力には恐れ入る。
 あと50年したら、もう一度読んでみたい。
 って、生きていないか?
(2007.03.01)

時は乱れて

時は乱れて
TIME OUT OF JOINT
フィリップ・K・ディック
1959
“男の名はレイグル・ガム。独身、46歳。アメリカの一地方都市で、この男のことを知らぬものはいない。新聞の懸賞クイズ『小さな緑の男は次にどこへ行くか?』に毎日毎日勝ち続けている男なのだ。時は、1959年。(中略)そこで見た新聞の日付は1997年5月10日、なんと彼レイグルに関する記事が載っていたのだ(後略)”今はなきサンリオSF文庫の裏表紙に書かれている紹介文の冒頭である。
 本書「時は乱れて」は1959年に発表され、日本には1978年の夏にサンリオSF文庫から翻訳出版された。最初に読んだのは、おそらく1980年から83年にかけてのどこか。まだ、21世紀は未来だと信じていた頃のどこか。そうして、作品の舞台となっている1997年を10年過ぎてしまった2007年になって再読している。そうして、本作品のなかにあるような1997年は訪れていないようだが、別の1997年があり、今がある。あああ、自分の中の時が乱れている。
 いや、そんな話ではない。
 ん? そんな話なのか?
 自分が1959年に生きているのに、どこか、何かがずれている。そのずれ=違和感を持つようになってしまった。主人公だけでなく、居候先の妹夫婦とその子どもも、違和感を感じる。何か、本物ではない感じ。それは自分がおかしくなっているからなのか、それとも、世界がおかしいのか? 彼には分からない。ただ間違った感覚だけが自分を責める。自分がおかしいのか、世界がおかしいのか、それを確かめたいと、レイグル・ガムは切に願うようになる。もし、世界がおかしいのならば、なぜ、世界はおかしいのか? だれが世界をおかしくしているのか、本当の世界はどこかにあるのか?
 悩み、苦しみ、そして、動き出す。
 自分が何者かを知るために、自分が狂っていないことを信じるために、自分を信じるために。
 自分が存在している世界に違和感を持つということは、そして、その違和感を持つ自分を信じるということは、世界の方が間違っているということなのだ。自分が本来属しているところは別にあるということなのだ。
 その悩み、苦しみ、行動は、滑稽であり、哀しく、そして、身につまされる。
 そんなずれや違和感を持ったことはないだろうか?
 そうして、自分自身がおかしくなったのでは、いや、ただ疲れているだけだと思ったことはないだろうか?
 もしかすると、自分は何かの舞台の上に立ち、その脚本に沿って、定められた演出通りに演技をしている存在ではないかと感じることはないか?
 そして、あなたは望んで、その舞台に立ったのではないか? ただ、そのことを思い出せないほど演技に魂を入れ込んでいるだけではないのか?
 初期のストーリー展開に破綻がなく、「わかりやすい」結末、筋立ての作品群の中でも、本書「時は乱れて」は、群を抜くわかりやすさでディックらしい世界を描き出す。1950年代の現実の世界やその不安を背景に、目に見える形の世界戦争、最終戦争、核戦争が物語の底流にある。その恐怖感、不安感は、現在の我々にはもはや理解できないかも知れない。しかし、目に見えない形で、戦争は進行し、人は死に、生きながらに殺され、そして存在に対する不安は増していく。それは変わらない。
 残念ながら、21世紀の今なお、ディックの作品が持つ意義は失われず、より増している。その意義とは、私たちが生きている世界の真実をかいま見る方法の提示と、希望の持ち方への提示である。
 聞けば、本書「時は乱れて」は、サンリオSF文庫のディック作品の中で、他出版社からの復刊(再訳)が行われていない数少ない作品のひとつだそうである。
 一日も早く早く復刊し、多くの方に読んでいただきたい。
(2007.02.28)

高い城の男

高い城の男
THE MAN IN THE HIGH CASTLE
フィリップ・K・ディック
1962
 時は1962年。第二次世界大戦後15年後のサンフランシスコ。先の大戦は1947年、アメリカに分割協定線が引かれ、幕を閉じた。アメリカの太平洋側諸州は日本、大西洋側はドイツが実効支配するもうひとつの1962年。サンフランシスコには輪タクが走り、日本人の趣味はアメリカの戦前の文化物を収集することであった。
 ドイツは、化学重工業を発展させ、アフリカでの大量虐殺を覆い隠すかのように、月、火星、金星へと宇宙開発の道を突き進んでいた。しかし、ボルマン首相の健康不安説がささやかれ、ゲッベルス博士が首相になるのではないかと、政争の予感に満ちていた。一方、日本はドイツとの間の緊張の高まりを感じながらも「大東亜共栄圏」建設のために彼らなりの論理を押しすすめていた。
 サンフランシスコ第一通商使節団代表の田上信輔は、ドイツの同盟国スエーデンからプラスチック事業の交渉という名目で来訪するバイネス氏をつつがなく迎えるべく心を砕いていた。彼は、言葉通りの人間ではなく、なんらかのスパイであり、日本とドイツの関係にとって重要な情報をもたらす人物かも知れないのだ。田上は易教の易を立てて道を占った。
 ロバート・チルダンはアメリカ美術工芸品商会を経営し、アメリカの古物を日本人に売りさばいていた。田上氏は上顧客のひとり。そして今、若い日本人の夫婦を客として迎え入れることができ、新たな商機が開かれようとしていた。一方で、彼は自分が取り扱っていた商品の一部が「まがいもの」であることを知り、驚愕する。
 フランク・フリンクは仕事を失った。妻に逃げられ、仕事を失ったが、サンフランシスコを離れるわけにはいかない。彼はユダヤ人であることを隠して生きているから。もし、ユダヤ人であることが分かれば彼はドイツに引き渡され、そして殺される。それを防げるのは日本政府だけなのだ。フランクは易を立てて道を占った。
 ジュリアナ・フリンクは柔道の教師としてコロラド州キャノン・シティでささやかに、しかし、時にゆきずりの男に身を委ねながら生きていた。今、トラックドライバーの助手でイタリア系のジョー・チナデーラと出会い、彼と新たな旅に出ることにした。彼は手元に「イナゴの身重く横たわる」という一冊の発禁書を持っていた。著者はホーソーン・アベンゼン。高い城に住む男である。発禁にしたのはドイツ政府。なぜならば、その本はドイツと日本が敗戦した世界を書いているからだ。日本では話題になっただけだが、ドイツ政府はアメリカの北部、日本側に住む作者を殺そうとやっきになっていた。この本の作者に会いに行こうかと、ジュリアナは易を立てて道を占った。
 もし、日本とドイツが支配する世界になっていたとして、世界は今よりもよくなっていただろうか? 人々は今よりも幸せで、賢く生きていただろうか。
 もし、クリントン政権のあと、2000年の大統領選挙で民主党のアル・ゴアと、共和党のジョージ・ブッシュ(Jr)のフロリダ州の選挙結果の不透明な結果がゴアに傾いていたら、2001年の「911」は起こらなかっただろうか。そして、アフガニスタン、イラクを巻き込み、対立を表面化、激化させた「テロとの戦い」は起こらなかっただろうか。
 起こらない21世紀を迎えたからといって、人々は互いに争わず、幸せに、賢くなっていっただろうか。
 答えはない。
 決定稿もない。
 ただ、今を生きるのみである。
 さて、本書「高い城の男」は1962年に発表され、もうひとつの1962年を舞台にした作品である。そのため、当時の米ソ冷戦状況、宇宙競争、核軍拡といった政治状況や、プラスチック産業など石油化学産業、自動車産業の急速な発展などの時代的な背景を受けて書かれている。そのことを理解しながら読むのと、時代性を話して読むのでは受ける印象は大きく異なるであろう。
 また、本書では、ドイツはあいかわらずユダヤ人虐殺、アフリカ人虐殺など人種的な差別と圧政を敷き、一方日本は人種的な差別がありながらもそこまではひどくなく、一種の公正さを持っているように書いてある。この本を読む際に、日本人である「私」が陥りやすい罠がそこにある。本書「高い城の男」は、ひとつの小説に過ぎず、たまたま設定として日本とドイツという戦勝支配国の中での人々の生き方を書くために両者を誇張しているに過ぎない。本書の中のドイツの位置づけを容易に日本に置き換えることは可能である。ただ、本書「高い城の男」は、アメリカ人であるディックが、第二次世界大戦中のアメリカ国内での日本人に対する人種差別政策があり、敵国であるドイツ人と日本人に対する扱いの差があったことを受けて本書のような位置づけをつけていることに注意しなければならない。
 それらを踏まえた上で、幾人かの登場人物がそれぞれの価値観から、「徳を積む」としかいいようのない行為をしていることに注目したい。人種でもなく、身分でもなく、地位でもなく、ただ人間としてできうる自分のためだけでない行為をするのだ。それがまがいものの世界に住んでいることを自覚していたディックが終生持ち続けた希望である。
 初期の作品には、ディック作品独特のめまいに似た世界観を堪能することはできないが、素直に書かれている分だけ、ディックが書きつづる「希望」のありようが分かりやすい。
 もっとも、まがいものに満ちためまいに似た世界を提示する中期、後期の作品の方が、よりささやかな「希望」に対する感動は生まれるのだが。
 疲れているときに、ディックはよく効く。
ヒューゴー賞受賞作品
(2007.02.23)

偶然世界

偶然世界
SOLAR LOTTERY
フィリップ・K・ディック
1955
 ディックの処女長編で、ハヤカワSF文庫には昭和52年、1977年に「偶然世界」として登場している。あとがきによると、いわゆる銀背と呼ばれるハヤカワSFシリーズで「太陽クイズ」として訳されていたものを改題したものである。私は、銀背とは縁がない世代で、ちょうど銀背が終わり、ハヤカワのSF文庫が白背と青背の入り交じっていた時代に海外SFの文庫を読みあさりはじめた。ディックは、私が高校生になり、高学年の頃から本格的に読み始めたのだが、それはそのまま1980年代であった。そして、ディックの死の直前であった。私はディックの死と前後して、ディックにはまっていった。80年代を通して、ディックの作品は次々と翻訳され、私はその流れのままに読み続けてきた。ハヤカワ、創元、サンリオ、あるいは筑摩、晶文社…。次々と出版され、次々と読み下していった。
 いつ本書を読んだのだろうか。忘却の彼方だが、高校の終わり頃だろうか。以来、少なくとも1度以上再読している。
 処女作には、作家のすべてが込められているという。ディックの場合はどうだろう。ディック独特の破綻したかのようなストーリー展開はなく、つじつまのあった作品である。後の作品に見られる主人公や読者が底を抜けたような世界のずれに落ち込むような感覚は、まだ、ない。それをディックの最大の特徴であるとすれば、この処女作はディックらしくない。しかし、主人公が、混乱した状況の中で、人間としてできる最大の勇気あるいは決断、あるいは、公正さ、あるいは定義のしにくい「人間らしさ」を発揮するときに見せる姿は、まさしくディックの作品である。ディックが書きたいことが、本書にはいかんなく、素直に発揮されている。そして、ディックの恐るべき世界を見通す能力も、この作品にいかんなく発揮されている。
 簡単にストーリーを紹介しよう。
 舞台は2203年、地球の人口は60億人。インドネシア帝国のバタビアに世界政府の執政庁があり、執政庁とヒル・システムと呼ばれる大企業グループによってコントロールされていた。人々は、能力に応じて階級が与えられ、ヒル・システムや執政庁と誓約し、システムに従属することで階級に見合った仕事を得ることができる。このほか、世界は無数の無級人によって成り立っていた。さらに、執政庁には、執政庁のシステムを守るテレパスたちがいた。執政庁の長はクイズ・マスターと呼ばれる。クイズマスターは60億の人々からランダムに選ばれるのだ。ただし、クイズマスターは選ばれた瞬間から、次々に公的に選抜された暗殺者に狙われ続けることになる。それを交わしながら、世界を統治するのである。この仕組みこそが、世界を安定させてきた。
 長年、世界を牛耳っていたベリックが失脚し、新たなリーダーが無級者から選ばれた。ベリックは、権力を取り戻そうと策略を講じる。その策略に巻き込まれたテッド・ベントレイは、自らの欲と世界の公平さの間で揺れ動いていく。
 本書「偶然世界」は、1950年代の作品で、2200年代までにいくつかの世界戦争があったことを押さえながらも、60億人という人口を提示している。
 また、1950年代以降の消費社会の延長として、1980年代に、大量の生産物を、経済システムを維持するために破壊、焼却する事態を招くことも予見している。正しい予見である。
 そして、本書の中心的なアイディアである、ゲームによる社会という外挿につながる。消費のシステムとしてクイズ=抽選による商品のプレゼントの仕組みができ、それが自律的に拡大、発展した結果として、権力も抽選の対象となり、社会や経済が根本的に大きな変動を招くという外挿である。これは、現実の世界ではそのままには起こっていないが、十分に読者を考えさせることのできる設定である。
 そして、どんな社会、経済システムであっても、世界は公正ではなく、人間は自己の欲のなかでうごめき、システムの裏をかこうとしつづけるのだ。
 どんな普通の人でも、どんな人生であっても、その人生の中で、人はときに自分自身でもびっくりするような「なにか」を行う。しかも、自分の意志で。そして、他の誰かに、「なにか」を与えることがあるのだ。そうやって、危うい人間たちの世界は、危ういながらもなんとかなってきたのだ。その「なにか」がディックの作品に描かれており、疲れたときや、落ち込んだときに、私をはげましてくれるのである。
 ありがとう。
(2007.2.15)

火星のプリンセス

火星のプリンセス
A PRINCESS OF MARS
エドガー・ライス・バロウズ
1917
 時は1866年、バージニアの元南軍騎兵隊大尉ジョン・カーターはアパッチ族に追われてとある洞窟に入り、そこで深い眠りに落ちてしまう。そして、目覚めるとそこは火星であった。四本の腕を持つ緑色人の戦士タルス・タルカスと、地球人そっくりの赤色人で絶世の美女のデジャー・ソリスとともに果てしない冒険の物語がいま幕を開く。史上初、地球を離れ、火星に旅をした男が登場した。SFの創世記を飾るバロウズによる火星シリーズである。
 1917年! 翻訳の初版は東京創元社版で1965年! 私の手元にあるのが1978年の第41版! すごい。もう90年も前の作品なのだ。それでも、火星のジョン・カーターという名前に聞き覚えのある人はSFファンでなくても多いだろう。
 本シリーズを最初に読んだのは、ジュブナイル版であるが、岩崎書店や偕成社などさまざまなところから出されているためどれだったかは記憶にない。おそらく小学校中学年か低学年であるから、1970年代前半のことであろう。遠いなあ。
 今回約25~30年ぶりに再読してみて、その設定である時代の遠さに気が遠くなった。1860年代だって、車もない、アメリカも南北戦争がようやく終わった頃ではないか。悪いインディアン、あたりまえの奴隷制度…、くらくらする。そんな時代に、不死者であるジョン・カーターが瞬間移動して火星に行くのだ。本人の意志ではなく、危機的状況で意識を失うことで行くことになるらしい。まだ、第一次世界大戦すらはじまっていないのだ、ほかにどうやって火星に行けばいいというのだ。
 火星は、地球人類よりもはるか先の文明を持っていたが、すでに盛りを過ぎ、資源を使い果たし、大気と水も不足する中で、緑色人同士が戦争を行い、赤色人同士も戦争を行い、さらに、緑色人は赤色人を攻撃するという滅び行く中の群雄割拠の時代となっていた。そこにあらわれた超人ジョン・カーターが火星に平和をもたらし、自らは盟友タルス・タルカスや王女デジャー・ソロスの愛を得るのであった。
 なんと心を躍らせたことだったか。
 21世紀になり、本書「火星のプリンセス」は歴史的な価値をもつ「古典」となった。分析や評価の対象なのである。たとえば、物語のパターンは、不老不死のヒーローが、争いの絶えない異人種の中に愛を見いだし、平和をもたらす話であり、これはファンタジーの典型的なパターンで、のちの名作「指輪物語」(J・R・R・トールキン)の中にも同じような構図がみられる。
 その構図のままに舞台設定を宇宙に広げたことで、アメリカにおいてSFは開花する。それは、ベム&美女&ヒーローというスペース・オペラの典型を生むことになった。華やかでどぎつい表紙、単純な勧善懲悪のストーリー、そこから小説や映画のマーケットが生まれ、そのマーケットのおかげでSFはたくさんの作家を生み、内容を深めていく。
 その流れを生み出したのが本書「火星のプリンセス」である。
 一方、本作品には、20世紀初頭の複雑な人種的視点も見られる。作品の頭では、アメリカの奴隷制や(ジョン・カーターは南軍なのだ)、インディアン=悪といった現在では書かれることのない典型的な二元論と差別が表現されているが、その一方で、バロウズの生みだした火星では、主人公のジョン・カーターは緑色人と対等につきあい、お互いにその力を認め合い、有色人種の「赤色人」の美女に恋をして結ばれるのである。
 当時の価値観やそれに対するバロウズの視点が見受けられるが、このあたりも、歴史的な背景が分からなければ意味を成さないか、理解しにくいであろう。
 ファンタジーとは異なり、初期のSFは一般読者に荒唐無稽さを受け入れさせるために、伝聞や聞き語り、日記や記述の発見と掲載といった文学でも見られた形態をとることが多い。それゆえに、発表時よりもやや過去から物語がはじめられる傾向を持つ。現実の人間社会の様子を記述することになり、それが物語に時代性を残すことになる。
 そのおかげで、当時の考え方や風潮をかいま見ることができるのだが、長期に作品が残り続けるためには、このあたりが障害になることもあろう。難しい問題だ。
 ただ、1999年から2002年にかけて創元SF文庫が合本形式で再版しており、21世紀に確実に本シリーズが残ることとなったのはうれしい限りである。
 私は、火星シリーズ、金星シリーズ、地底シリーズ(ペルシダー)を揃えて持っていたはずなのだが、手元には欠番が多い。火星シリーズも半分ほどしか手元にない。やはり、合本を手に入れておくべきだろうか。
(2007.2.7)

ネットの中の島々

ネットの中の島々
ISLANDS IN THE NET
ブルース・スターリング
1988
 1990年11月にハヤカワ文庫SFとして邦訳出版された作品である。タイトルはもちろん、A・ヘミングウエイの「海流の中の島々」からのオマージュであろう。訳者あとがき「おまたせしました」と書いてあるところが、時代の空気を映し出す。本書は「ネットの中の島々」は1988年にアメリカで出版されており、約2年経たずに邦訳されたのだが、サイバーパンク・ムーブメントのひとりとして、また、コンピュータやコンピューターネットワークに対する造詣の深さや、日本の作家などとの交流の深さから知名度の高かったスターリングの作品故に「おまたせしました」だったのである。
 本作「ネットの中の島々」は当時からすれば35年ほどの近未来小説である。2023年、20世紀の遺物である大量破壊兵器や大規模な政府軍を根絶させた世界規模の軍廃後、人々が核の恐怖におびえなくてよくなった世界が舞台である。アメリカは衰退し、世界的な通貨はヨーロッパのエキュー(ECU)となっていた。ソヴィエト連邦は存続していたが、消費社会主義化し、もはや超大国ではなかった。石油資源が底をつき、原子力も規制された世界で、あらゆる通信・情報の技術複合体である「ネット」が世界を「ひとつ」にし、そのネットのおかげで世界は企業経済社会と化していた。情報が世界の真の通貨であり、多国籍企業がそれを動かしていた。そんな多国籍企業のひとつライゾームは経済民主主義にのっとった共同体多国籍企業である、利益集団ではなく個人の能力の発揮と共同体意識によって「なすべきことをなす」社員(アソシエーツ)によって成り立つ新千年期の思想に基づく企業である。
 しかし、世界には影がある。ネットを悪用し、小規模な国家を事実上乗っ取り、麻薬や薬物、通貨、情報の避難所として世界で蠢くネット海賊たちである。そして、もうひとつの影はアフリカ。前世紀から続く混乱と内戦と飢餓と破壊。ネットから切り離され、新しいことではなくなり、「ひとつ」の枠外にある大陸。
 ライゾームは、ネット海賊を崩壊させる手段として、彼らを共同させ、組織化し、表のネット社会に入ることを提起する。大きくし、システム化=官僚化することによって彼らの裏の面を失わせようというのだ。  ライゾームの社員、ローラ・ウェブスターは、夫のデイヴィッド、生まれたばかりの娘を抱えてアメリカ合衆国テキサス州ガルヴェストンの浜辺でロッジの支配人を務めていた。ロッジはライゾームのプロジェクトで、人的ネットワークの場である。彼女のロッジが、データ海賊の会議の場となった。しかし、グラナダの指導者が暗殺される。目の前で人が兵器によって殺されたことに衝撃を受けたローラは、データ海賊との調整に本気で乗り出していく。それは、グラナダ、シンガポール、そして、アフリカ大陸への真実を求める苛酷な旅の始まりであった。いや、真実が苛酷だったのだ。
 はじめて読んだときから17年が過ぎた。1988年から2023年のちょうど真ん中まで来たところでの再読である。それゆえの古さと新しさの入り交じった作品として読める。
 1988年に発表ということで、本書の1990年の訳者あとがき時点でさえ、ドイツの東西統一やソヴィエト連邦の崩壊によって、世界の設定が「古く」なってしまっている。ECU(エキュー)も、もう覚えている人、知っている人が少なくなったのではないか。通貨としてのユーロが登場する前に各国の通貨から移行するための暫定的な通貨単位(兌換基準単位)としてたしかにECUというのがあった。
「ネット」についても同様で、テレックス、ファックス、電話、ビデオ電話、録画ビデオ通信、などの渾然となったものを「ネット」としている。方向としては、コンピュータ技術による通信と放送の垣根が消え、情報の流通が簡単になった社会ということでインターネットに近いのだが、そこまでのビジョンではない。だって、1988年だもん。光ファイバーや衛星回線を活用したり、ビデオグラス(サングラス状の即時通信型ビデオカム)が出てきたり、情報端末兼電話としての腕電話が出てくるなど、現在や近未来と近いものもある。腕電話なんて、今の日本の携帯電話上位機種とそっくりで、ID確認用などの機能も持っている。
 しかし、細菌培養による単細胞タンパク質の食料「スコップ」が健康食品として普及しつつあり、健康食品マニアにとっては農業によって生産される穀物や野菜が地球環境に悪影響を与え、なおかつ、自然毒(アルカロイドなどだ)いっぱいの危険な食品であると見なされていることや、肉食への忌避感など、現実には起きていない状況も語られる。
 スコップ中心の食生活…、いやだなあ。単調だろうなあ。いや、きのこや発酵食品は大好きだが、工業的生産だと衛生管理などといって、味が単調になるだろうから。私は、自然環境から生み出されるぜいたくな動植物菌類の食品が好きだ。おいしかったり、そうではなかったり、その間の様々な味と香りと色と食感のバリエーションが好きだ。グルソーや加工食品を使えば、毎回同じ味を出すことができるが、そんなものを食べたいわけではない。同じような調理でも、少しずつ違う味、それが楽しいのだ。
 っと、食論ではなく、SF論だった。
 もちろん、過去17年の変化を見れば、これから17年の変化で何が起こるかは分からない。
 石油の高騰、バイオエタノールやバイオディーゼルに対する「地球温暖化防止、二酸化炭素削減のための」志向などをみれば、グルタミン酸ナトリウムなどを生産している多国籍化学企業が単細胞タンパク質を健康食品として出しかねない勢いであることは確かだ。
 本書「ネットの中の島々」は、データ海賊という形で、様々なものが情報化されることで、個人情報、コンテンツ、経済情報が簡単に盗まれ、悪用され、闇の流通に化することを喝破している。また、情報過多の結果として、情報対象でなくなることで、現実が「ないこと」になってしまう恐れや、情報アクセスから遮断されることで、さらなる窮地に追い込まれる地域の人々が出るという危険性も予見している。それは、新たな戦争を生むのである。
 2007年の今、まさにそういう新たな戦争に満ちた社会にいる。この新たな戦争の形態は、表面に見える軍隊の派遣やテロ、戦闘行為よりも恐ろしいことかもしれない。
 ちょっとした過去を振り返り、ちょっとしたあったかも知れない少しずれた未来を見ることで、今と、少し先を考えることができる。その原動力になる力をSFという小説ジャンルは持っている。
 登場時に物議をかもした本作品、設定が現実の歴史の動きとは異なっているが、決してその価値が失われた訳ではない。
 もし、2023年に読むことができたら、もう一度、ちょっと過去を振り返り、ちょっと未来を見てみたいと、思う。
キャンベル記念賞受賞作品
(2007.1.31)

星々へのキャラバン

星々へのキャラバン
THE QUIET POOLS
マイクル・P・キュービー=マクダウエル
1990
 2083年に初の恒星間世代船ウル号がイプシロン・エリダニへ旅立った。そして、11年後、2094年が本書「星々へのキャラバン」の舞台である。2隻目の恒星間世代船メンフィス号のタウ・セチへの出発を前に、世界は二分されていた。宇宙へ行きたいものと、留まりたいもの、に。
 宇宙時代、人類は、衛星軌道上などに一部の者たちが居を構えていた。
 地球上の人類は80億人。
 恒星間世代船で人類を太陽系外に広めようという壮大な計画「ディアスポラ事業」を立て、実現に向けて資源を注ぎ込んでいるのは超巨大多国籍企業のアライド・トランスコンである。どうやらロックウェル、エクソン、三菱などの多国籍企業がが合併してできた企業らしい。今を持って世界には国があり、国境があり、政治による統治が行われているようだが、アライド・トランスコンと例えばアメリカ政府との関係などはよくみえない。
 さて、アライド・トランスコンがその財を尽くして宇宙船を建造し、物資を送り込み、人を選び、旅立たせるのだが、その理由は不明である。
 メンフィス号に乗れるのは10000人。優先権を持っていても、選ばれるとは限らない。どうしても行きたいものたち。そして、行けないことが分かっていても、行きたくてしかたがないものたち。その一方で、行きたくないものたち、その計画自体を否定する者たちもいる。ディアスポラ事業に対し、地球の資源が収奪されていると訴える団体ホームワールドの首領エレミアは正体不明、神出鬼没の存在であるが、ディアスポラ事業に大きな打撃を与えてきた。
 エレミアを追いつめたいと望むアライド・トランスコンの警備局長ドライクの執念、ディアスポラ事業を何があろうと成功させようと全勢力を注ぎ込む長官のヒロコ・ササキ。そして、何とか失墜させたい正体不明のエレミア。さて、メンフィス号は無事に出発できるのか?
 そして、なぜ、人はしゃにむに「外」へ行きたがるのか?
 実は、そこには人類の奥底に秘められたある秘密があった。
まあ、それはともかく、20世紀の終わりにエイズによって世界の性と倫理は打撃を受け、保守化し、そして性と倫理の揺り戻しが起きた。それと呼応するかのように、経済的な理由もあって大家族=複数婚の歴史が始まる。男性2人と女性1人、あるいは2つのカップルなどが「結婚」することがおかしいことではなくなった世界である。
 主要登場人物のひとりクリスは、ふたりの女性と同居していたが、疎外感を味わいながら仕事を続けていた。田舎の父親ともそりが合わず、常に自分自身に居心地の悪さを感じている。
 クリスの心の奥を探すことで、外を求める人の業と、内へ留まる人の業、そして、人の心の闇を知り、物語に深みを増すことができる、かもね。
 本書「星々へのキャラバン」は、さらりと読める作品だけど、よくわからないんだ。いや、ストーリーや、人類の「謎」は、はっきりと書いてあるので、作品として破綻しているわけではない。おもしろいと思うよ。ただ、この作品、いや、作者のキュービー=マクダウエルの持っている理想主義というか、楽観主義みたいなものがどうにもよく分からない。
 企業の自然や環境に対する収奪行為を責めているようでいて、一方で、それが結果的に人類の必然であるといった見方もしている。エレミア側にも共感しつつ、しゃにむに宇宙に出ようとする魂にも共感する。もちろん、人間なんだからそう割り切る必要はないけれど、何が書きたいの? ってちょっと突っ込みたくもなる。とりわけ後半になると、クリス君の心の闇と葛藤みたいなものが全体をつなぐ糸になってきて、軽いのか重いのか分からなくなる。作者の持ち味なんだけど…。
 ああ、すごくリアルっぽく書いてあるのに、リアリティ感がないんだ。
 それは、2007年に再読しているからだろうか。最初に読んだのは1991年。エイズが騒がれ、インターネットはまだ普及しておらず、パソコンもスタンドアローンか、せいぜいパソコン通信の時代であり、日本はバブル経済後の円高バブルの時代で、世界的企業は環境問題や人権問題で悪とされた、善悪がかろうじてはっきりしていたものの、そろそろ崩れかけてきた時代である。
 いまもエイズは深刻だが、インフルエンザのパンデミックにおびえ、世界経済の変調におびえ、地球規模の気候変動におびえている状況下で、本書「星々へのキャラバン」のような楽観的技術論や世界観がちょっと読んでいてつらいのかもしれない。
 うーん。あと10年したら、また違った風に読めるのだろうか。
(2007.1.27)