2001年宇宙の旅

2001年宇宙の旅
2001: A SPACE ODYSSEY
アーサー・C・クラーク
1968
「決定版2001年宇宙の旅」とある1993年に新訳された「2001」である。本書「2001年宇宙の旅」については、映画「2001年宇宙の旅」との関係について整理しておく必要がある。映画「2001」はスタンリー・キューブリック監督による作品である。この映画「2001」は、キューブリックが宇宙SFを企画し、クラークのいくつかの短編を軸に作品を考えていた。そこで、クラークにキューブリックから脚本のオファーがあり、脚本を書く前に、クラークが、映画の原作になりうる長編小説を書き、それをもとに脚本を作成するという段取りになった。クラークがアメリカでキューブリックと議論をしながら、映画用、小説用にアイディアを出し合い、それを積み上げて、本書「2001年宇宙の旅」が書かれ、平行して映画「2001年宇宙の旅」が制作された。この制作の過程で、キューブリックとクラークの関係は悪化し、後日様々な発言があり、また、周囲もそれぞれの立場で映画と小説について意見を述べている。
 ただ、誰もが認めるのは、映画「2001年宇宙の旅」は、映画史上に残る名作であり、SF映画の中では最高傑作のひとつであるということだ。それは、2001年を通過してしまった現在でも変わることはない。小説「2001年宇宙の旅」もまた、SF史上に残る傑作のひとつであり、欠かすことのできない作品である。この映画と小説は、キューブリックとクラークというふたりの天才的クリエイターが共同作業をすることによってはじめて生み出されたのである。
 映画も小説も、人類が月に降り立つ以前に発表され、そして、SF小説、特撮、SF映画、文化、科学、宇宙開発に対して大きな影響を与えた作品である。
 さて、キューブリックが死に、クラークは21世紀の今もいまだ生きている。クラークは、生きているものの強みとして、「2001」について様々なことを書き、「2010」「2061」「3001」をしたためた。その点で、クラークの勝利である。生きているものは何でも言えるのだ。
 小説としての「2001年宇宙の旅」は、とてもわかりやすい作品である。
 20世紀末、月の裏側で異常な磁気を観測、その地点を掘ってみたら、黒いモノリスが出てきた。調査によれば300万年前に埋められたものらしい。モノリスは、太陽の光を浴び、太陽系全体をゆるがす信号を発信した。それは、土星方向に向かっていた。数年後、初の太陽系探査船ディスカバリー号が本来の目的であった木星から予定を変更して土星に向けて旅立つ。起きている乗員はふたり。そして、人工知能HAL9000。冷凍睡眠しているのは3人。無事スイングバイによって木星を通過したところで、HAL9000は乗務員に告げる。「お祝いの邪魔をして申し訳ないが、問題が起こった」。そして、事件が起こる。
 なぜ、HAL9000は狂ったのか? ボーマンは、土星の衛星上にあった巨大なモノリスを通してどこに行き、どうやってスターチャイルドになったのか? スターチャイルドは地球に帰ってきて、何をしようとしたのか? そして、モノリスを設置し、ボーマンをスターチャイルドにした宇宙種属の目的は何か? 彼らはどこにいったのか? そういったことに一定の答えが書かれている。
 映画を見て、それから、本書を読むとよい。ひとつの解釈として、整理されるはずだ。そして、映画を見ていなくても、本書を読むとよい。どちらも独立した作品であるからだ。
 ただ、間違えてはいけない。本書は映画のノベライズではない。また、純粋なクラークの作品でもない。
 やはり、本書はクラークの色の濃い、クラークとキューブリックの作品であり、映画は、キューブリックの色の濃い、キューブリックとクラークの作品なのである。  どちらも尊重し、楽しんでほしい。
 映画しか見ていないのならば、ぜひ、本書を読んでほしい。いつまでも絶版することはないだろうから。
 それにしても、クラークじいさんはすごい。ハインライン、アジモフ、クラークと三大巨頭といわれたSF界の去勢の中で、最後まで生き残り、巨頭中の巨頭として、今もSF界に君臨しているのである。
(2006.11.12)

ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス

ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス
THE GOLDEN AGE : A ROMANCE OF THE FAR FUTURE
ジョン・C・ライト
2002
 解説によると、本書「ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス」は三部作の1作で、そもそもは3作品あわせて1作品として執筆されたそうである。昨今の文庫は、以前に比べて文字が大きくなり、行間も広くなっているので一概には言えないが、本書で約630ページ。3作品が同じくらいの量だとすると2000ページ近くになるのである。ぐはっ。
 ということで、現在のところ、第一作しかでていないので、あまり感想などを書くべきではないのかもしれない。とりあえず読んだので、ほどほどにしておこう。
 遠い未来、主人公の「ファエトン・プライム・ラダマンテュス・ヒューモディファイド(オーグメント)・アンコンポーズド、インディプコンシャスネス、ベーシック・ニューロフォーム、シルヴァーグレイ・マノリアル派、エラ七〇四三(ザ・リアウェイクニング)」は約3000歳になり、新たな千年紀のはじまりを祝う祭りの中にいた。そのヴァーチャルな仮面舞踏会では、通常当然とされる相手の属性を示す識別のコードが使えない。ファエトンはハーレクインの格好をして舞踏会会場を離れ、小さな森と庭園を散策していた。そこに、不思議な老人、本来そこにいるはずのない海王星人、世界唯一の軍人が次々に彼の前にあらわれ、フェアトンと知ってか知らずか、彼に言葉をかける。
 フェアトンは、以前、この世界を危機に陥れるような重大な事態を引き起こしたという。それにより非難され、それにより英雄視される。しかし、フェアトンにはその記憶はない。自らの記憶を探せば、そこに大いなる欠落を見いだした。かれこれ250年ほどの記憶に欠落がある。この、すべてを記録し、データ化し、自由を謳歌する時代にそんなはずはない。この、超機械知性体に守られ、自らも超知性体となり、不死を獲得し、それぞれに独自の行動規範を持つ知性体で構成された社会に、誰かが誰かの記憶を削除することは許されないはずである。なぜ、彼には記憶の欠落があるのか? もし、それを起こしたとすれば、それは自身が決断したはずである。なぜ。そして、この不思議な件を追求するうちに、彼は、自身とその妻が一文無しであることを知らされる。世界でも有数の古く、有名で、かつ、大いなる資産を持つ父の息子である彼が持っていたはずの資産はすべて失われ、父の援助のみで生きていたのである。あったはずの彼の資産はどこにいったのか?
 フェアトンは知る。彼が記憶を取り戻すということは、彼自身にも、世界にも大きな影響を与えるということを。そして、彼は記憶を取り戻す代わりに、すべてを失うということを。
 フェアトンは、記憶を取り戻すのか? そして、フェアトンが起こした事件の真相とはなにか?
 3000歳の青年であるフェアトンの自分探しの旅を通して、私たちは遠い未来のまか不思議なありようを知る。それは、もはや人類とは言えないのかも知れない。しかし、人類的な思想や行動規範を持つ知性体であることは間違いない。
 この高慢で、自己満足で、自意識過剰で、自己愛に満ちたフェアトンの旅を、読者は好感を持って読むだろうか? それとも、フェアトンという主人公を卑下しながらも、この世界に引きつけられていくだろうか?
 もはや、この遠い未来の世界では、ひとりのフェアトンという属性に対する感情移入さえ許さないのだろうか。そんな小説が成り立つのだろうか?
 そもそも、このフェアトンの正式名称にみられる名前の長さと、それに込められる属性と意味をみよ。これは、英語であればおおよそ、なんとなく、雰囲気がつかめるであろうが、日本語で名前を書くわけにもいかなかったのだろう。カタカナ表記にしてある。本書「ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス」は、久しぶりに英語と日本語の言語的プロトコルの違いを意識させられる作品である。そして、アメリカSFらしい作品である。
 さて、あと2冊。私は読むのか? 読まないのか? どうする?
 一応、これは全部読んだけれども。そして、それなりにおもしろかったけれども。何より長いからなあ。
(2006.11.12)

殺意の惑星

殺意の惑星
PLANET OF THE DAMNED
ハリイ・ハリスン
1962
 人類は宇宙に拡散し、それぞれの植民惑星で繁栄した。しかし、その後、人類は大崩壊の時を迎え、各植民惑星はそれぞれの力で命と文明を維持するほかなかった。へびつかい座七十番星の惑星アンヴァールは幸いなことに自立できる食料を調達できた。辺境のあったため、もともと星間貿易にも恵まれず自給自足ができていたからである。しかし、惑星アンヴァールは厳しい惑星でもあった。780日の1年の大半は太陽から離れた厳しい冬の季節を過ごし、わずか80日ほどの短い夏にすべての動植物が活動し、繁殖する。アンヴァールの人類、アンヴァール人もまた、この自然にあわせて適応進化した。冬の時期は厚い皮下脂肪層と長い睡眠で耐え、急激な夏に代謝を上げ、汗腺を活発にし、そして、睡眠中枢が抑制されて、短い夏に狩りをし、作物を収穫し、そして、長い冬に向けて保存するのだ。そのため、アンヴァール人は夏と冬では性格も大きく異なる。そして、退屈な冬の間、アンヴァールの文化は、二十種競技という妙案を編み出し、それに向けてすべての人々が熱中する。二十種競技は、スポーツと知的ゲームを組み合わせた競技会で、毎年ひとりの優勝者を選ぶ。それこそが、700日におよぶ長い冬の退屈と精神の防いできたのだ。そして、知的にも肉体的にも優れ、エンパシー能力さえも持った超人を生み出すことにもなった。
 今年の優勝者ブライオンは、元優勝者イージェルによって惑星外に連れ出される。エリダヌス座イプシロンの第三惑星ディスと惑星ニーヨルドの惑星間戦争の危機を防ぐためである。ディスの人類は、コミュニケーションを失い暴力に満ちたディス人となり、一方、ニーヨルドの人類は、争いを知らず知的精神を拡大させたニーヨルド人となっていた。本来なら相まみえることのない2種属だが、ディス人が惑星を崩壊させる力を持つ兵器を入手し、ニーヨルドへの侵攻を求めたため、ニーヨルド人は、冷静に対応し、その結果、ディス人を滅ぼすという決定を下したのである。いくら暴力的なディス人といっても、彼らもまた人類の末裔であり、惑星ディスに適応した知的生命体でもある。このどちらであっても大虐殺になる事態を止めるため、イージェルは、超人であるブライオンと、地球人の宇宙生物学者兼人類学者の女性であるリーの3人が惑星ディスに乗り込んだ。ニーヨルド人によるディス人の全滅兵器の使用まで残り時間は数日。果たして彼らはこの危機を回避できるのか?
 本書「殺意の惑星」は、エコロジーテーマの作品とされる。アンヴァール人、ディス人、ニーヨルド人、そして、地球人。いずれも、同じ人類であるが、数世紀を経てそれぞれの惑星に適応し、独自の文化、心理、身体状況をつくりだしている。まあ、数世紀でそんなに変わるものではないが、そこのところはご愛敬。その中で生まれた超人と、地球人のヒロインが惑星間戦争の危機を止めようとするのである。ディス人はどうして暴力的なのか? アンヴァール人はどうやって長い冬を耐える二十種競技を生み出したのか? ニーヨルド人はどうして暴力的な意識を捨てることができ、そのニーヨルド人にして論理の末にディス人を絶滅させるべきという恐ろしい発想に立つことができたのか?
 1960年代のSFであり、その科学的なつっこみは弱いが、生存に欠かせない環境条件が、人間の精神や社会、行動、身体に大きく影響を与えるという視点で書かれている点が「エコロジーテーマ」であり、本書のおもしろさである。もちろん、超人と暴力的な人類が出てくるわけで、そのアクションシーンも欠かせない。往年のアーノルド・シュワルツネッガーに配役したいような主人公のブライオンである。その点で楽しく軽く読むことができる。
 本書「殺意の惑星」は、1978年6月にハヤカワ文庫で登場している。私は古本で、1974年に発行されたハヤカワSFシリーズ(銀背)を手に入れている。もちろん、どちらも絶版であるが、最近はこういう軽く読めるSFが減っており、重厚長大作品ばかりになっているので、今再版する価値はあると思う。設定などは古くさいが、映画のシナリオといってもおかしくないぐらい、バランスのとれたよくできた作品である。
(2006.11.12)

この人を見よ

この人を見よ
BEHOLD THE MAN
マイクル・ムアコック
1968
 1940年に男は生まれ、1970年に男はタイムマシンに乗って紀元28年にたどり着いた。男の名はカール・グロガウアー。幼い頃に父と別れ、母とともにロンドンで暮らしていた。カールは、いつも「自我」に悩まされていた。自分と他人との関係、自分と世界との関係、自分と自分との関係。自分を見つけることは、なにか深く暗い穴を見つめることだったのかも知れない。他人と関係することで、自分がその相手によって変わることにとまどいを覚え、自分とは何かについて悩み続けていた。男は、精神医になりそこね、ユングの研究に希望を持っていた。男は、十字架に異常な執着を覚えていた。キリストが磔とされた十字架。だから、彼は、それほど深く考えずに、紀元29年のキリストの磔刑を見ようと、すすんでタイムマシンの試作品に乗り込んだのだった。そして、1年前の紀元28年にたどりつく。タイムマシンは壊れ、二度と帰れない未来が1940年分待ちかまえる。
 もし、現代にイエス・キリストが生を受けたら、彼はどのように育ち、どのように生きるのだろうか? 彼は、たとえ彼が神の子であるとしても、現代の預言者であることができるだろうか?
 本書「この人を見よ」では、1945年に神が死んだと、神の子としての啓示を受ける男が心の内で叫ぶ。
 1945年、原爆が投下され、大きな戦争が終わった年である。
 ところが、神はどうやら生きていたらしい。
 21世紀を迎え、世界は神の名の下に人が行う争いに満ちている。つきつめれば、同じ神を信仰しているにもかかわらず、その信仰のしかたが気に入らないのか、相手を憎み、殺し、憎み、殺している。
 私には、神のことはわからない。神が生きているか、死んでいるかも分からない。
 しかし、この国でさえも、いまをもって「現人神」が「人間」としてたたえられているのである。そして、それへの傾倒は以前よりも高まっている。公然と、「人間」を「神」とたたえる者が増えている。
 もし、現代に、神の使いが生を受けたら、彼ないし彼女は、あるいは「それ」は、どのように育ち、生きるのだろうか。神の使いとして受け入れられるのだろうか。現代において、神の代弁者として生き、死に、そして、新たな聖なる書が生まれるのだろうか。
 21世紀と言っても、いまも、2千年前と変わらないのだろうか?
 本書「この人を見よ」は、SFとしてはシンプルな作品である。現代人(といっても1970年に30歳を迎える男であるが)が、イエス・キリストの生きた時代に飛び、歴史の中に埋もれていく物語である。
 ムアコックは、死んだはずの「神」を殺したのでも、キリスト教を冒涜したのでもないだろう。現代人という精神のありようについて、イエス・キリストの時代に焦点を当てることで、逆に描き出そうとしているのであろう。この作品が書かれてからまもなく40年になろうとしている。はたして、ムアコックが描こうとした現代社会の病理は治癒したのだろうか、深まったのだろうか? 政治に再び神の名が介在している現在、本書「この人を見よ」を読む価値はある。
 といっても、本書「この人を見よ」を再読しようと思ったのは、「アークエンジェル・プロトコル」を読んで、ちょっと呆然としてしまったからであった。あちらは、とても現代的なSFの衣をかぶったファンタジーで、こちらは、古色蒼然としたSFの衣をかぶった王道のSFである。宗教をモチーフにしたSFは数知れないが、三大宗教、とりわけキリスト教をモチーフにしたものならば、私は王道が好きだ。神に出てこられてもねえ、困っちゃうから。
(2006.11.6)

移動都市

移動都市
MORTAL ENGINES
フィリップ・リーヴ
2001
「古代人が対地表軌道上原子爆弾と変性ウィルス爆弾の悲惨な嵐で自滅」した六十分戦争から千年が過ぎた。
 移動都市ロンドン、無数のキャタピラの上にそびえる階層都市は、他の都市同様に都市ダーウィニズムの世界で、他の都市を狩りながら生きていた。しかし、次第に獲物は減り、地面をはいつくばる反移動都市同盟の力も増していた。
 両親を事故で失い、ロンドンの史学ギルドの三級見習いとして雑用ばかりをやらされているトム・ナッツワーシーのあこがれは、ギルド長のサディアス・ヴァレンタイン。かつては、飛行船に乗って世界中を旅し、遺跡から古代の科学技術品を収集してきた行動する男である。
 そのヴァレンタインを殺害しようと襲った少女がいた。顔に深い傷を持つ少女ヘスター・ショウ。なぜ、冒険家のヴァレンタインを殺そうとするのか? 少女の傷の理由は? ひょんなことから、ロンドンから置き去りにされ、へスターとふたりでロンドンを追うはめになったトムは、へスターとともに旅をする中で、個性的な人々に出会い、世界の真実に気がつきはじめる。
 最終戦争と地殻変動によって荒廃した地球上を住民を乗せて疾走する巨大移動都市。地上で暮らす人々、飛行船に乗って冒険する男たち、女たち。そして、無敵の兵器人間「シュライク」が、トムとへスターをつけねらう。
 日本のアニメの原作です、と言われてもおかしくないほどに、頭の中で映像化しやすい作品である。宮崎駿の絵で、「ナウシカ」や「ラピュタ」のような世界だったら最高じゃないかな。
 また、この主人公のトムが素直でよい。世界のことを何も知らず、知らないが故のあこがれを抱きながらも、素直な目で世界を見ようとし続ける。幼い頃、両親を事故で失ったトムと、幼い頃、両親を殺害され、顔に傷を負ったへスターのふたりの、かようようで、かよわない心。それでも旅を続けるうちに、ふたりの間には「信頼」が生まれる。それは、顔と心の傷のせいで屈折したへスターが、自分の心を取り戻す旅でもあった。
 アニメつながりで言えば、私が好きな「交響詩篇エウレカセブン」の主人公レントン・サーストンにも似ている。とにかく世界を知らず、そして、まっすぐに育とうとしている。
 読む側はちょっと気恥ずかしいが、成長とはそういうものである。
 もっとも、ただのジュブナイル冒険活劇ではない。とにかく登場人物がよく死ぬ。そんなに殺さなくてもいいじゃないかと思うぐらいに死ぬ。長生きするのがむつかしい世界なのである。だからこそ、輝くものもある。だからこそ、人は一生懸命早く成長しようとするのかも知れない。
 さて、本書「移動都市」もまた、最近、日本に紹介されることの多いイギリスSFである。人工知能による新たな世界への旅立ちは迎えていないが、本書も「最終戦争後の世界」ものである。ベースの技術がスチームエンジンだったり飛行船だったりするが、桁違いに発展している。そして、剣と銃の世界でもある。また、「遺跡」に伝説となっている恐るべき戦争兵器があって、その復活をもくろむ者がいたりする。そういう世界的な背景も、「ナウシカ」や「ラピュタ」と共通するのかも知れない。
 どうしてもそこに戻ってしまうが、宮崎駿監督、どうです、映画にしてみませんか? 息子さんにまかせておかないで、こういうしっかりしたジュブナイルSFで、少年少女の成長と世界の変化を撮りませんか? 見たいなあ。この作品のアニメ化。実写もいいけど、アニメ向きだと思うけどなあ。
 本書「移動都市」は四部作だという。楽しみ。
(2006.11.4)

ほとんど無害

ほとんど無害
MOSTLY HARMLESS
ダグラス・アダムス
1992
 3本の素晴らしいナイフと1本のそうでもないナイフを活用してこの上ないハムサンドイッチをつくる方法を知りたかったら本書「ほとんど無害」をお勧めする。
 ちなみに、本書は、「銀河ヒッチハイク・ガイド」の5冊目にして、最終巻である。
 そこで、サンドイッチの作り方について、どのように素晴らしいかを語るのは保留して、「銀河ヒッチハイク・ガイド」シリーズと、その有終の美を飾る本書「ほとんど無害」について触れておこう。
 このシリーズは、以下の通りとなっている。
 銀河ヒッチハイク・ガイド(1979)
 宇宙の果てのレストラン(1980)
 宇宙クリケット大戦争(1982)
 さようなら、いままで魚をありがとう(1984)
 ほとんど無害(1992)
 本書「ほとんど無害」(河出文庫)は、2006年8月に発行されており、訳者あとがきと解説の両方がついているとてもお得な版である。解説は大森望氏。日本のSF読みならば解説者の解説は不要であろう。本書解説によると、新潮文庫版の「銀河ヒッチハイク・ガイド」は1982年に邦訳発行され、1983年に「宇宙の果てのレストラン」が邦訳発行、そして、1985年に邦訳発行された「宇宙クリケット大戦争」邦訳はなんとこの大森望氏が新潮文庫で担当編集であったという。残念ながら、その後の2冊については新潮文庫から邦訳発行されることはなく、その後、河出書房から「銀河ヒッチハイク・ガイド」が新訳として邦訳され、ついにシリーズ全巻が完訳されたのである。ありがたや、ありがたや。
 新潮文庫版は、私の高校、大学の頃ということだが、まったく気がつきもせず通り過ぎてしまった。新潮文庫や角川文庫などのSFって見逃すことが多いんだよなあ。
 解説にも書かれているとおり、このシリーズが改めて翻訳されたのは、映画化され、公開されたことが大きい。映画自体はそれほどヒットしなかったようだが、決しておもしろくなかったわけではない。ちょっとしたタイミングの問題だ。
 さて、発表年を見れば分かるとおり、本書はちょっと他の4冊と時間的に離れている。
 読む側からすると、4冊目と5冊目に心理的な大きな差はないのだが、作者側からするとずいぶんと長い時間である。
 ということなのか、「さようなら、いままで魚をありがとう」でアーサー・デントが出会った真の恋人は、あっという間に次元の彼方に消えてしまっていた。どこかに壊れずにあるはずの地球や消えてしまった恋人を探していくうちに、アーサー・デントは、サンドイッチマスターとなってある惑星に腰を据えていた。そこに現れたのが、最初にアーサーが壊れた地球から逃げ出して出会った唯一の地球人トリリアンである。彼女は、唯一の地球人の女性だったが、アーサーではなく、異星人を選んだのであった。相手がアーサーだから、それもしかたのないことであるが、地球人にとっては誠に不幸な出来事である。
 それはともかく、かつてアーサーを地球から連れ出した「銀河ヒッチハイク・ガイド」の記者、フォード・プリーフェクトは、銀河ヒッチハイク・ガイドの発行出版社が買収され、新たな危機に陥っていることに気がつき、それに乗じてある策を練る。
 鬱ロボットのマーヴィンは出ないが、マーヴィンもうんざりするようなかんしゃく持ちの少女ランダムが登場し、物語に厚みを加えてくれる。もちろん、ヴォゴン人も登場し、物語に起承転結を与えてくれる。
 もしかしたら、ヴォゴン人が登場するのに、マーヴィンが登場しないことで、ちょっと笑いの神様がそっぽを向いたかも知れないが、イギリス流の皮肉あふれるユーモアは居座っているので安心してよい。結論には怒らないで欲しい。続編を書く前に作者が死んでしまったのだから。
 ところで、本書では、巨大化してしまい、買収された「ガイド」出版社が登場する。そして、あのフォードが遠い目をして、小さくとも夢があった頃の思い出にひたる。
 ふと思い出したのだが、かれこれ16年ほど前、今は大企業となった旅行代理店の小さな地方のオフィスを訪ねて、ヨーロッパとの半年オープンのチケットを買った。暗い感じの兄ちゃんに、「安いチケットで、南回りで、ストップオーバーできそうなもの」とリクエストしたら、エジプト航空やパキスタン航空のチケットを提示して、「面倒だったら、途中でチケットを捨てちゃえばいいんです。向こうで買えますよ」と言って、ヨーロッパに入り、帰路がアテネ→カラチ→バンコク→マニラ→成田というチケットを売ってくれた。ついでにヨーロッパの鉄道パスもそこで買った。無愛想だったが、安かった。
 そんな会社が、今や大企業である。あの兄ちゃんは今も勤めているのだろうか。いや、どこかの小さなネット専業の旅行代理店でやはりバックパッカー相手に格安チケットを売っているのかも知れない。あまりにこやかに格安パックツアーを売っているようには思えないからだ。
 そんなことを思い出したり、おいしいサンドイッチが食べたくなる。それが、「ほとんど無害」な地球に今も暮らしながら、「ほとんど無害」を読んだ者の感想である。
 さて、サンドイッチでも食べながら、「宇宙船レッド・ドワーフ」のDVDボックスでも再見するか。
(2006.10.30)

アークエンジェル・プロトコル

アークエンジェル・プロトコル
ARCHANGEL PROTOCOL
ライダ・モアハウス
2001
 アメリカ私立探偵作家クラブ賞受賞! バーン。ハヤカワSF文庫! ドーン。「大戦後の荒廃したニューヨーク。電脳空間に突如現れた天使たち。彼らの目的は!? もと敏腕刑事の美貌の女私立探偵がその謎を追う!」帯の釣り文句で、ガーン。
 ということで、女性のハードボイルド・サスペンスSFを期待し、電脳空間と宗教とハードボイルドといえば、「重力が衰えるとき」(ジョージ・アレック・エフィンジャー)があったなあ、とか、女性の探偵でハードボイルドSFといえば、「ナイトサイド・シティ」(ローレンス・ワット=エヴァンズ)があったなあ、なんて思ってページをめくった。
 お定まりの大戦後のアメリカ。お約束の人格移転するリンクでの存在と、それを絶たれた電脳空間の捜査官。しかも、この世界は、宗教世界と化していて、なんらかの一神教に属していなければ人並みの生活が保障されない状況で、自然科学は放逐され、テクノロジーのみが存在を許されている不思議な状況にあった。2076年、アメリカ大統領選は、グレイ律法博士(ラビ)上院議員と、ルトゥノー尊師(レヴァランド)上院議員との間で争われていた。ルトゥノー上院議員は、リンク上に現れたネット天使の支持を受けた第二のキリストであるとして大いなる支持を集め、リンク世界中心のアメリカ宗教国家への道を指し示す。前年に起きたローマ教皇訪米の際に起きた警官による教皇暗殺事件の影響も受けている。教皇を暗殺した警官とパートナーだったのが、主人公ディードリ。修道士を兄に持ち、女性のテロリスト指導者を幼なじみにする、今や家賃の支払いにも困る私立探偵である。リンクから物理的に遮断され、ロマンス小説を読みながら来るはずのない顧客を待つ女。リンク界ではファンサイトもたくさんある、ヴァチカンに破門された女。その女の前に、ひとりのハンサムな男が訪ねてきて、仕事を依頼する。「リンク天使が偽物であることをあばいて欲しい」と。なぜならば、彼こそが本物の天使なのだから。
 そして、物語がはじまり、ディードリが望むまもなく、彼女の回りで世界が動き始めた。
 最後まで読んで、気がついた。
 しまった。
 最初から、気がついて読めば別の読み方があったのに。
 あとがきを読んでから、読めばよかったのか?
 もっと素直に読めばよかったのか?
 アメリカ私立探偵作家クラブ賞なんてついているから、結末のどんでん返しを想像して、うがった読み方をしてしまったではないか。
 そりゃあね。「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(J・K・ローリング)が2001年のヒューゴー賞をとっているわけで、ファンタジーとSFの垣根が低くなっていることは気がついていたさ。サイバーパンク的なファンタジーがあってもおかしくないさ。
 ただ、「アメリカ私立探偵作家クラブ賞」に、私が勝手にだまされていただけで、この「アークエンジェル・プロトコル」は、まさしくファンタジーなのであった。
 アークエンジェル=大天使は、まさしく大天使であり、ネット天使が偽物であることをあばけと迫るのは当然、本物なのか偽物なのかはともかく天使的存在なのである。
 まあ、ここでSF的であり、ハードボイルド小説的であるのだから、当然「天使」とはなんぞやみたいな迫り方もあるわけで、だからといって、やはり人間でないものが登場し、それが、「異星人」ではない「人間のようなもの」であれば、P・K・ディックの作品ようなシミュラクラでないとすれば、「天使」であってもおかしくはない。だいたい、ディックの名前を出したついでに書いておけば、ディックだって、「ヴァリス」三部作は、読み方によってはファンタジーである。宗教書としても読めるが。しかし、カテゴリーとしてはSFの扱いになっている。それに比べれば、っと、比べる必要はないが、本書は、れっきとしたファンタジーであり、SF的要素も、ハードボイルド小説的要素もたっぷりと仕込まれている。
 最初から、SF&ハードボイルド小説要素たっぷりのファンタジーとして読めば、大正解である。
 それを、「ファンタジーであるわけがない」という頭で読むから、最後の最後まで、「この天使のような存在は何者だろう?」と、非キリスト教、非一神教である私は、頭をひねりながら、そして途中からは「まさか、まさかね」と思いながら読む羽目になったのである。
 ファンタジーならば、ファンタジーらしい楽しみ方はある。
 ファンタジーといっても、たとえば、「ハリー・ポッター」シリーズを読めば分かるとおり、最近のファンタジーは、現代社会とは切り離された「おとぎ話」ではない。本書「アークエンジェル・プロトコル」も、現代社会のありようと密接に結びつき、ファンタジーの形で、その社会のいびつさと、そこで生きる人間のありようを描いている。本書のまじめな方のテーマは、「宗教」と現代社会である。遊んでいる方のテーマも、「宗教」と現代社会である。
 今の宗教の形、関係性、人と人との関わりってこれでいいの? っていう空気が、本書を、非宗教の私でも読めるものにしている。ただ、これを、キリスト教が政治、経済社会の中心を占めているアメリカの人たちが読んだとき、どう思うかは、分からない。なぜなら、私が、その中心的宗教観を理解していないから。だから、本当のおもしろさは分からないのかも知れない。直接的に、「天使」や「神」や「預言者」や「悪魔」や「聖書」が出てくるから、その言葉の力を受け止めきれないのだ。
 しかし、それを置いても、ファンタジーとしての本書は、異色であり、おもしろさがある。なんといっても、2075年という想像可能な近未来が設定されており、しかも、最終兵器による破壊された社会であり、電脳社会であり、その未来像は、サイバーパンク運動を読者として通過してきたものにとってはあたりまえのものだからだ。映画「マトリックス」同様のなじみ深くなってしまった未来像だからだ。
 だからこそ、私は、「天使なんて」という罠にはまったのだが、最初から、ファンタジーだとの理解で、本書の設定を読めば、とてもおもしろい。
 そんななじみ深い近未来像でのファンタジーである。魔法使いは出てこないが、その代わり、電脳の魔法使いはしっかりと出てくる。そして、魔法使い以上の存在である「天使」たちの魅力的なこと。「ハリー・ポッター」や、それ以前からのファンタジーで魔法使いも人間同様の存在に過ぎない位置までひきずりおろされたが、本書では天使を我々と近しい存在にしている。それでも、やはり天使は天使なのだが。
 読み終わって、あとがきを読んで、本書が911以前に書かれ、発表されていたことを知る。そして、本書には、シリーズ作がその後書かれていることも。あとがきでも書かれていたが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という同じ神の系譜を持つ宗教が、911以降それまで以上に、具体的な人間の争いの源となっているなかで、本書のような宗教を平たく見る作品が書かれ、発表され、一定以上の評価が与えられていることに、アメリカ社会に含まれている健全さを見る思いもする。
 いろんな読み方ができる「ファンタジー」である。
 SFのカテゴリーに入れるのはどうかと思うが、SFとして読んでしまった以上、ここに掲載しておきたい。
 余談だが、ハリー・ポッターシリーズは、これまでの全作を日本語と英語で読んでいる。「炎のゴブレット」がヒューゴー賞をとっていることで、いずれは少なくとも「炎のゴブレット」ぐらいは、ここで取り上げようかと思っていたので、本書「アークエンジェル・プロトコル」はいいさきがけになってくれたようだ。
(2006.10.27)

アルファ系衛星の氏族たち

アルファ系衛星の氏族たち
CLANS OF THE ALPHANE MOON
フィリップ・K・ディック
1964
 1986年の12月にサンリオSF文庫で登場し、1992年に、サンリオと同じ友枝康子訳で創元SSF文庫として再版された「アルファ系衛星衛星の氏族たち」である。創元の方は手元にないので分からないが、サンリオでは池澤夏樹氏が「ディック・ワールドの基本構造」と題して、初期作品群の分析をしている。
 まあ、それはともかく。
 本書は、ディックの作品の中では比較的読みやすく理解しやすい、そして、破綻が「少ない」作品である。もちろん、ディックの作品には欠かせない、つじつまの合わない記述があり、これをどう読むかによってストーリーはいくようにでも変化するのだが、その点は気にしないでおこう。無理につじつまを合わせようとすると、作者の意図しない術中にはまってしまう。つじつまが合わない部分は、適当に読み飛ばすか、適当に自分の中で読み替えるか、適当に補完するしかないのだ。それがディックの作品である。
 訳者はかわいそうだが。
 それでなくても、ディックの作品にはディックが意図して込めた主人公や登場人物に対する「混乱」が用意されており、現実なのか、幻覚なのか、真実なのか、ごまかしなのか、意図的なのか、偶然なのか、主人公や登場人物は、疑心暗鬼になったり、果敢に立ち向かったりするのである。それを読者として共感したり反発したり、通り過ぎたりしているところで、つじつまが合わないくらいのことにつまっていては、読んでいる側がおかしくなるではないか。
 地球とアルファ星系人との戦争が終わり、相互の通商も元に戻った。地球にもガニメデの粘菌生命体などの非地球人が暮らすようになった。しかし、アルファ星の衛星のひとつには、人類が孤立して生きていた。彼らは、いずれも精神異常によってその衛星の病院に入れられていた人々である。彼らは、病院を出て、7つの氏族としてそれぞれの暮らしを行い、独自の社会を構築していた。
 地球は、この「精神異常」の人々を分析、治療し、衛星を地球人の地歩として確立すべく、精神カウンセラーとCIAが操作するシュミラクラを送り込んだ。
 一方、地球では、精神カウンセラーの妻から離婚を言い渡されたCIAのシュミラクラプログラマーが、自殺願望、妻への殺害願望をいだきつつ、ガニメデのテレパシー能力を持つ粘菌生命体や地球人の5分だけ時間をさかのぼらせることができる少女、有名なコメディアンなどと出会い、新たな仕事を得る。しかし、それは大いなる陰謀と争乱につながるものであった。
 そんな話である。
 はたして、アルファ系衛星の氏族たちは、治療させられるのか? それとも、そのまま自らの生き方を連ねられるのか?
 精神カウンセラーの妻とCIAシュミラクラプログラマーの主人公の関係はどうなるのか?
 主人公をとりまく何人かの女性と主人公の関係は?
 そして、本当の陰謀はどこにあるのか?
 すべてがCIAの陰謀か? アルファ人の策略か?
 それとも…。
 出来事の翻弄されながら、主人公は「なにか」を見つけていく。
 ディックの作品としてはめずらしく、確実な「なにか」を。
 そこには、「希望」が含まれている。
 本当は、いつでもディックの作品に込められていたであろう「希望」が。
(2006.10.25)

さようなら、いままで魚をありがとう

さようなら、いままで魚をありがとう
SO LONG, AND THANKS FOR ALL THE FISH
ダグラス・アダムス
1984
「銀河ヒッチハイク・ガイド」シリーズの第四弾である。壊れたはずの地球に帰ってきたアーサー・デントは、そこで懐かしい人、はじめてであった愛しい人、はじめて出会う変わった人に出会う。ちょっとした一言が壊れたはずの地球をゆるがし、ちょっとした出会いで恋に落ちて、でれでれしてしまう。その頃、かつてアーサー・デントを爆発する直前の地球から連れ出したフォード・プリーフェクトはちょっとした危機に落ちていた。その危機から脱したとき、ふとアーサー・デントのことを思い出したのだった。
 ふたたび地球を舞台に、アーサー・デントの冒険がはじまった、のかなあ。
 そして、その地球には大いなる秘密が、ある、の、かなあ。
 宇宙の究極の問いへの答えである「42」について、進展は、ある、の、か。
 ところで、この原稿なのですが、
 ただいま工事中につき、
 ごめいわくを、おかけします。
 あ、鬱のロボット、マーヴィンは、どこ、か、に、いるの、かなあ。
 ダグラス・アダムスが描く、究極の「イルカ」小説が、参上! した、かあ。
(2006.10.25)

シミュラクラ

シミュラクラ
THE SIMULACRA
フィリップ・K・ディック
1964
 1964年に、ディックが2040年を見通した作品。サンリオSF文庫60ページに衝撃的な一文がある。やや長文だが、引用しよう。
“…愚劣このうえないテオドラス・ニッツ社製作のコマーシャルがチックの車にへばりついている。
「うせろ」チックは警告を与えた。しかしコマーシャルはしっかりくっついており、もぞもぞと動き出すと、風に押しまくられながらもドアのすき間へじりじりと進んだ。やがてむりやり入りこみ、ニッツ広告社特有のくだらない話を一席ぶちはじめるにちがいない。
 チックとしては、そいつがすきまから入ってくるときに殺すこともできた。そいつは生きており、やはり死から免れられないのである。広告会社は自然そのものと同じく、それらを浪費するのだ。
 ハエほどの大きさのコマーシャルは力ずくでやっとこさ入り込むと、さっそくぶんぶんうなりだした…中略…
 チックはそいつを足で踏みつぶした。”
 生きて自律的に動き回る広告である。同じようなものは椎名誠の「アド・バード」などでも出てくるし、ディックの「ユービック」でも出てくるが、この「ハエほどの大きさのコマーシャル」という言葉の醸し出すイメージは、衝撃的である。ディックの小説は、まるで夢を見ているかのように次々とシーンが切り替わり、関係あるのかないのかが分からないうちに話が進んでいくため、時々表れる具体的なはっとするイメージに、突然目が覚めさせられる。
 ディックの小説ではいろんなものがよく言葉を紡ぐ。コマーシャルが、シミュラクラが、あらゆるものがしゃべりだし、文章を読ませる。そのたびに、登場人物はとまどい、怒り、まよい、悩み、うんざりし、無視したり、やむなく相手をする。
 ふと気がつくと、私が生きている現実世界でもそういうことがよくあることに気がつく。
 若い頃、といっても、1990年のことだが、私は4カ月ほど海外をバックパックしょってぶらぶらしていた。帰国して、東京の電車に乗ったとき、絶え間なく駅では案内や注意が流され、あらゆるところに広告がつり下がり、私に読めと迫ってきた。考えるいとまもなく、耳から目から私には必要のない言葉が入り込み、私に変わっていく。
 このとき、はじめてディックが見ていた世界を実感したような気持ちになった。
 それ以前から、そういう状況はあったのだが、日常を離れるまではっきりとは分からなかったのだ。
 今も状況は変わっていない。
 さて、本書「シミュラクラ」であるが、2040年、米欧合衆国(USEA)が舞台となる。
 1980年から90年にかけてオレゴンから北カリフォルニア一帯は争乱と中国によるミサイル攻撃のあとの放射性降下物により汚染地域となった。1985年頃、民主共和党が生まれ、1990年には、ファーストレディが権力の実権を握り、ホワイトハウスの主であるデル・アルテの選挙選出は、ファーストレディの期限付きお相手選びと化した。
 いつも若い、いつまでも若いファーストレディのニコルはTVを通して人々の理想であり、憧れであり、母であり指導者である。
 2040年、マクファーソン法が通過し、精神分析医は違法とされた。これからは、A・G化学の医薬品による薬物療法のみが認められるのだ。
 念動者のピアニストは、コマーシャルがきっかけで重度の精神障害となり、唯一残された精神分析医を頼る。
 ピアニストの音楽を録音すべく、レコード会社のスタッフは、放射性降下物に汚染された熱帯的地帯に入り込む。
 巨大な共同住宅に住み続けるため、人々はテストを受け、仕事を失うまいと働く。
 小さなエピソードが積み重なりながら、擬装された世界が明かされていく。
 火星への移住、ガニメデの精神感応生物、多元的未来…。ディック的ガジェットも満載。
 どうして、本書がハヤカワや創元から再刊されないのだろうか?
 そのうち、映画化されたら、ふたたび見られるのかも。
 この世界だから。
(2006.10.21)