明日への誓い

明日への誓い
ENGAGING THE ENEMY
エリザベス・ムーン
2006
「栄光の飛翔」「復讐への航路」に続く、「若き女船長カイの挑戦」シリーズ第3作である。2006年に発表され、11月には邦訳されて店頭に並べられた。本文が650ページ近い大作を発表と同じ年に日本語で読めるのだからたいしたものである。
 さて、惑星スロッター・キーに本拠を置く宇宙運送会社の経営一族であるヴァッタ家は何者かに襲撃され壊滅的な打撃を受けた。一方、宇宙では惑星間の同時通信を可能とするアンシブル通信施設が各星系で破壊され、宙賊が宇宙航路の平和だけでなく、各星系の平和をも乱しはじめていた。アンシブルが不通となった星系の情報は錯綜し、本当に宙賊に襲われているのか、それとも星系が無事なのかさえもわからない。比較的平穏な星系の人たちも疑心暗鬼にかられている。そんな時代の変化を予感させるときが訪れていた。
 ヴァッタ家の生き残りである若き女船長カイ・ヴァッタは、宙賊の連合体に対抗し、ヴァッタ家を再興させるために奮闘をはじめる。一方、カイの従兄弟のステラは、美貌と天性の交渉能力を生かして、彼女なりにヴァッタ家の再興に力を注ぐ。アンシブルが不通となり、攻撃を受け続けるスロッター・キーのヴァッタ家を支えるのは、グレイシーおばさん。昔とった杵柄で、孤軍奮闘をはじめるが…。ということで、3人のヴァッタ家の女たちがそれぞれの性格と能力と知恵を生かして生き残りのための戦いをはじめるのであった。
 本書「明日への誓い」のような正統なスペース・オペラを読むと、ときどき、「舞台を未来の宇宙に移しただけじゃないか!」と思うときがある。なぜかといえば、人間そのものは変化していないからである。このシリーズでもサイボーグが出てきたり、主要人物は脳の機能を拡張させるインプラントを装着しているが、それで人間の質が変わるわけではない。現代の人間と価値観を変えているわけではない。三国志などと変わりはない。
 もちろん、それはそれでいいのだ。
 今の人間とあまりにかけはなれた精神や行動では、読者は限られてしまうからである。だから、そういう存在を出す場合には、対象として現在の人間の行動規範と同じような存在を出し、その存在を通じて物語との接点を持たせることになる。
 物語としては、基盤となる行動規範は現在の人間と共通の方が分かりやすい。分かりやすい物語は受け入れやすくなる。ということで、この手の物語が受け入れやすいのだから。
 そして、受け入れやすい物語を通じて、いくつかの技術や新しい知見を読者に拡張させることができるのである。それが物語の役割であり、機能でもある。
 と、突然物語論をはじめてしまったが、それほど高尚な話ではない。
 本書「明日への誓い」は、楽しく、心躍る、ミリタリーSFである。ミリタリーと書くと何か好戦的なようだが、三国志と同じような「国盗り」物語である。宙賊という「敵」に一族を滅ぼされた主人公が仲間を募りながら、乱世を乗り越え、敵を追いつめるとともに、世界を変えていく物語である。そして、予定では本編が5冊となっており、その3冊目にあたる本書は、ちょうど真ん中、起承転結でいえば、承と転の間にあたる。そういう気持ちで読めば、いよいよ物語が壮大になってきたことをうかがわせる。
 ここまで勢いで読んできたので、引き続き、コンスタントに発表していただき、翻訳していただき、安心して読み終えることを期待する。
 カイ、がんばれ! ってなもんだ。
(2006.12.23)

タイタンの妖女

タイタンの妖女
THE SIRENS OF TITAN
カート・ヴォネガット・ジュニア
1959
 ウインストン・ナイルス・ラムファードが愛犬カザックとともに火星にほどちかい時間等曲率漏斗に飛び込んだ。そして、火星人は地球に攻め入り、地球人は涙した。タイタンに不時着したトラルファマドール星の機械人サロは二十万年以上タイタンにいた。
 本書「タイタンの妖女」は、ヴォネガットの第2長編であり、トラルファマドール人がいよいよ登場する作品である。
 まあ、そんなことはどうでもよい。
 ヴォネガットらしい作品だ。
 明るいフィリップ・K・ディックと言えばいいのだろうか。不条理感はあふれ、登場人物はひどい目に遭いながらも、ディックほどせつなくはない。
 ありゃまあ。
 などとつぶやいて、から笑いしながら読んでいたことに気がつき、読み終えたらちょっと周りを見回して、もう少し気楽にやるか、と、肩の力を抜きながらも、ふと気がつくとちょっと目から涙がこぼれていたりする。そういう作品である。
 これをSFなのか? と問う人も多い。
 SFでなくても書けるかも知れないが、SF的設定、宇宙とか、宇宙人とか、「時間等曲率漏斗」なんて「専門用語」をちらばせることで、私たちは、「己を知る」ことができるのだ。
 人間よ、おのれを知ったらいいんじゃないのかなあ。
 というのが、本書「タイタンの妖女」に限らず、ヴォネガットのどの作品を読んでも感じることである。
(2006.12.14)

3001年終局への旅

3001年終局への旅
3001: THE FINAL ODYSSEY
アーサー・C・クラーク
1997
 1997年に発表され、同年7月には翻訳し、販売された「3001年終局への旅」。早川書房の海外SFノヴェルズとしてハードカヴァーで出され、けっこう売れたらしく私の手元にあるのは1カ月後の第三版である。
 むつかしいことは言うまい。「2001」「2010」「2061」ときて、「3001」である。未来だ。まぎれもない未来である。人類は人類で、地球は地球だが、その様はずいぶん変わっている。しかし、そこはクラークであり、理解不能な人類でも、理解不能な地球でもない。
 そこに登場するのは、「2001年宇宙の旅」で死んだフランク・プール中佐である。ハルの裏切りにより、ディスカバリー号での船外活動で事故にあい、そのまま宇宙空間に放り出された、あのフランク・プール中佐である。彼が太陽系の片鱗で見つけられ、回収され、そして、組成された。その年こそが3001年であった。
 1000年の未来に再生したプールは、私たち20世紀人に31世紀の科学、生活、思考について自らの体験をもってガイドしてくれる。
 この1000年に何が起こり、国家は、宗教は、戦争はどうなったのか? 科学は、何を見つけ、技術は何を可能にしたのか。人々は、何を食べ、何を楽しみ、どう生きているのか。
 もちろん、太陽系の謎、モノリスの謎も忘れてはいない。
 モノリスに取り込まれたボーマンは、どうなったのか。
 太陽系はどうなるのか。
 モノリスを作った存在は、その後、人類と接触するのか、それとも人類をこのまま見守るだけなのか?
 本書「3001年終局への旅」は、老齢となったクラークが、他の作品とは異なり、この作品だけは自分の手で書き上げると宣言し、書ききった作品である。それは、科学と人類に対するクラークの希望であり、メッセージである。
 おそらく執筆中に起きたであろう「オウム真理教の地下鉄サリン事件」も、作品には20世紀の宗教という恐るべき愚行のひとつとして直接的ではないが言及され、現実世界と小説との接点をクラークが見つめていることをうかがわせる。と同時に、さりげなく、スーザン・キャルヴィン博士がマシンプログラマーとして言及されているあたり、遊び心も失っていない。(そう、クラークは、ハインラインよりも、アシモフよりも長生きしている。それゆえの役得である)
 2006年12月現在、クラーク氏は、スリランカにて健在である。2006年12月、スティーヴン・ホーキング博士が人類は、地球での人為的、偶然的な壊滅的出来事による絶滅を避けるため、宇宙旅行と他の惑星の植民地化が必要と、インタビューに答えている。
 クラークの強い意志は、20世紀後半の科学、技術者に動機と意志を与え続けている。
(2006.12.6)

黄金の幻影都市

黄金の幻影都市
OTHERLAND vol.1 CITY OF GOLDEN SHADOW
タッド・ウィリアムズ
1996
 いやあ、長い。長いよ。アザーランドシリーズの第一弾「黄金の幻影都市」は、ハヤカワSF文庫から2001年に5冊立て続けに出されたのだが、これで1冊の内容だという約350ページが5冊だから、ざっと1700ページ。5年ぶりに読み返してみたが、やはり長い。時々疲れながらも、しっかりといくつかのストーリーを追いかけてみた。
 話は、ちょっとした未来。それほど遠いわけではない。生活もそれほど今とは変わっていない。戦争があったり、大変動があったりしたが、それでも金持ちは金持ちだし、貧乏人は貧乏のままだ。
 そこそこ学と金のあるものは、情報のアクセス力を持ち、生活を向上させることができる。どちらかひとつが欠けるものは、生活を変えることもままならない。
 物語は、5つの小枝を交互に飛び移りながら、少しずつ世界をかいまみせる。
 5つの小枝。
 第一次世界大戦の兵士として悪夢の中にいるポール・ジョーナスは、やがてジャックと豆の木のような世界へと誘われる。失った記憶の中で、次々に変わる世界。ポールを追う者がいて、ポールは逃げなければならない。なぜかは知らぬが。
 レニー・スラウェヨは、カレッジの教員として3次元のネットワーク・プログラムを教えている。電脳仮想空間に移入して、その世界での行動やシステム設計を行うのだ。!Xザップは彼女の最も新しい学生で、サン族、ブッシュマンのひとりである。レニーには、働かない父と、電脳ゲームや軽いハッキングにあけくれる弟がいて、彼女が働くことで彼らはなんとか人並みの生活をしていた。しかし、弟が、電脳空間にいる間に植物人間となってしまう。ネットと切り離しても意識が還ってこなかったのである。本来あり得ない事故に、レニーは深い陰謀の影をみつけ、!Xザップとともに、弟を救うための調査をはじめ、そして、事件に巻き込まれていく。
 軍の住居区で暮らすクリスタベルは、好奇心と想像力豊かな少女。大きな事故で部屋から動けないのに訪問を禁じられているミスタ・セラーズのもとを訪ねるのが密やかな彼女の冒険となっている。ミスタ・セラーズにはなにか大きな秘密があるのだ。そして、大人達は、彼を恐れているらしい。
“恐怖”と自らを名乗る変質者は、隠された電脳空間では、オリシスの神にアヌビスとして仕えさせられている。いつかは神の座を狙いながら、も、神の力の大きさの前に、電脳空間でも現実でも、彼は”恐怖”に怒り、恐怖をまき散らす。
 オーランドとフレデリックは、電脳空間で知り合った友人同士。おたがいの住所も、年齢も、家族背景も知らない。しかし、現実以上に彼らは友情を結んでいた。オーランドの化身たる伝説のサルゴーは剣士として、フレデリックの化身たるピスリットは盗賊として、ゲーム界に尊敬され、君臨していた。しかし、サルゴーは、ありえないできごとで殺されてしまう。オーランドは、フレデリックとともに、電脳空間で起きている「何か」を探し始める。まるで、それが生きる証につながるかのように。
 「黄金の幻影都市」では、この5つの物語が流れながら、やがてひとつの大きな物語に結びつこうとする。
 レニーやオーランドが見た黄金の都市の立体映像は真実なのか?
 あるとすればどこにあるのか?
 現実と区別のつかないような電脳空間は存在可能なのか?
 もし、存在するとして、それは、何のため、誰のためのものなのか?
 5つの物語それぞれに、魅力あふれる登場人物が出て、ていねいに書き込まれている。それゆえに長いのだが。
 そして、5冊目を読み終わったところで、叫ぶしかない。
「続きは?」
 あんまりだ。第一部は、第一部に過ぎないのか。
 そりゃあ、そこまででもRPGのように遊ばせてもらったけれど、1700ページを読んできて、そこで終わるの?
 1~5冊の間に、たくさんの伏線がはられ、そのいくつかが現れ、そして大きな伏線を作っておいて、第一部のご購読ありがとうございました。引き続き第二部をお楽しみください。ですか。
 いや、第二部以降、翻訳されているのなら、こんな風には書きませぬ。
 それから5年。放置しっぱなしですか。
 売れなかったのかなあ。
 おもしろいのか、おもしろくないのかさえ、まだ言えない…。
 長い。いろんな意味で。
ちなみに、第一部「黄金の幻影都市」の各巻の副題
1 電脳世界の罠
2 赤き王の夢
3 青い犬の導師
4 闇の中の宇宙
5 仮想都市テミルン
(2006.12.6)

宇宙零年

宇宙零年
THEY SHALL HAVE STARS(YEAR 2018)
ジェイムズ・ブリッシュ
1956(1970)
 宇宙都市シリーズの第一弾である。1981年にタイタン基地が設立された歴史の人類史である。2013年に物語はスタートする。20世紀後半に人類は宇宙開発に着手したものの、21世紀初頭にかけてその取り組みは芳しくなく予算も削られていった。
 そんななかで、ひとりのアメリカ合衆国議員が途方もない計画を打ち上げ、それはいつの間にか予算化され、実行に移されていた。木星での「橋」の建設である。何のための「橋」なのか? 軍事目的なのか? 単なる研究なのか? それを知るものはほとんどいない。
 一方、宇宙の各地の土をサンプルとして集め、そこに含まれる微生物の生成物を研究している製薬会社があった。そこには、軍人や政治家の影がある。その企業の目的は? 何を研究しているのか? 誰のために? 何のために?
 ひとりの木星の研究者が、ひとりの宇宙パイロットが、それぞれに「謎」をかかえ、謎に迫ろうとする。
 人類が太陽系を超えてゆく未来史の前史を語る作品が登場した。
 それが、本書「宇宙零年」である。
 壮大な木星を舞台にした「橋」の光景を想像できるだろうか?
 1950年代の知識をもとに、木星を描いたジェイムズ・ブリッシュの意欲作と言ってもいい。  ちなみに、本シリーズは、「宇宙零年」「星屑のかなたへ」「地球人よ、故郷へ還れ」「時の凱歌」の4作品があり、1955年から62年に発表された、SF黄金時代のシリーズである。それゆえに、設定や内容はたいへんに古い。たいへんに古いが、当時としては、「ハード」なSFであったのである。
 なんといっても50年前のSFである。
 まだ、抗生物質によって微生物による感染症は壊滅できると信じられていたし、宇宙は目の前に広がっていたのである。
 今や、生物の適応力のすごさをあらためて知らされ、宇宙の広さの前にあたかもおびえるかのように開発の手は止まっている。
 50年前のような底抜けの明るい科学技術展望は必要ないにしても、その希望に裏打ちされたエネルギーは見習いたいものである。
 ちなみに、私の手元には、「宇宙零年」と「星屑のかなたへ」だけが残っている。高校生の当時、読んでつまらなかったのかなあ。
 古いハードSFだものね。
(2006.11.29)

2061年宇宙の旅

2061年宇宙の旅
2061:odyssey three
アーサー・C・クラーク
1987
 2061年。今から55年後。むうう。生きているかなあ。不可能ではないが可能性は低い未来だなあ。どんなことになっているのだろう。想像もつかない事態、社会、状況だろうなあ。
 さて、2001年宇宙の旅で、20世紀最後の歴史的イベント、月のモノリスの発見と、太陽系を巻き込む「目覚め」に立ち会ったヘイウッド・フロイド博士は103歳になっている。現住所は、月。つまり、フロイド博士は、1958年生まれで、私より7歳年上ということである。
 ところで、2001、2010ときて、「2061年宇宙の旅」なのだが、どうして2061なのだろうか?
 それは、ハレー彗星が再訪するからである。1986年より数年前までに生まれた人ならば、ハレー彗星のことを覚えているだろう。本書は、その翌年に発表されている。むざむざと通り過ぎるのを見過ごしたクラークは、次のハレー彗星到来というイベントを、3番目の「宇宙の旅」に選んだ。主人公は、103歳になっても矍鑠たるフロイド博士を選び、低重力下に置くことで、老化を遅らせるというテクニックで読者にフロイド博士のその後を楽しませてくれることとなった。
 ところで、ハレー彗星は、公転周期75.3年で、2回見るためには76歳以上生きることと、タイミングよく若い内に1回目を見ることが欠かせない。幸い、私はすでに1回目を体験しているわけだが、2回目となるとどうだろう。厳しいかなあ。なんとなく見たいなあ。
 さて、「宇宙の旅」の世界では、2000年12月31日に、長距離通話料金の廃止により、全世界が低料金でコミュニケートできるようになり、2006年の今年は、月のモノリスが掘り起こされて国連広場に置かれることとなった。その後、エネルギーが原因と見られる戦争が起こるが、世界大戦に広がることはなく、2033年、東京大地震、2045年、ロサンゼルス大地震を経て、世界は平和な時代を迎えていた。
 宇宙では、前作「2011年宇宙の旅」にあるとおり、太陽系が激変を迎え、それに合わせたかのように人類は火星や木星近辺を中心に宇宙開発や探索を続けていた。
 本書「2061年宇宙の旅」は、そんなときの太陽系イベントであるハレー彗星回帰である。中国系の企業グループのオーナーが高速豪華客船を建造し、ハレー彗星研究と訪問を計画、フロイド博士もゲストとして呼ばれることとなったのである。
 一方、木星をめぐる衛星では、驚くべき発見がなされ、密やかに陰謀が起こりつつあった。
 モノリスの発見と、宇宙における人類を遙かに凌駕した知性体の存在に気がついた人類は、いまだ他の知性体にめぐり会うこともなく、太陽系に世界を広げつつある。  果たして、モノリスを生んだ存在は何者なのか? そして、太陽系では何が起こりつつあるのか?
「2001年宇宙の旅」の世界で、新しい発見と冒険がはじまる!
 ということで、今回は、楽しいエンターテイメントSFである。懐かしい登場人物、新しい登場人物が宇宙船内部や新たな場となった木星の各衛星などを舞台に人間らしくドラマを繰り広げる。
 2061年…見ることができるかも知れない可能性のある未来である。
 私はどうかわからないが、人類が極度に激しい変化に見舞われない限り、この数字は意味をなすであろうし、現時点で生きていてそこまで生きるものも多くいるだろう。
 50年前のSFを読むと現在とのギャップが痛いほどに目につく。進みすぎた未来、古すぎる未来である。本書「2061年宇宙の旅」もまた、2061年になったら、荒唐無稽なものとして見られるとともに、20世紀後半の人の想像する未来を振り返ってみるという楽しみができるのであろう。
 クラークのすごさは、可能性のすごさである。21世紀になって、長距離電話はあくまでも長距離電話だが、IP電話の普及によって、クラークが書いた「長距離通話料金の廃止」と同様の事態が起きている。
 東京やロスの地震も起こるであろうし、エネルギーが原因の戦争も起きている。残念ながら、簡単には終息する気配はないが。それらを踏まえた上で、クラークは希望を込めて平和の時代を予言する。この予言を実現するのは、その時代時代に生きている人間の力である。未来を描くSF作家は、その作品を通じて、読者に未来を決める動機を与えているのだ。
(2006.11.29)

2010年宇宙の旅

2010年宇宙の旅
2010:ODYSSEY TWO
アーサー・C・クラーク
1982
 1968年、アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリック(クーブリック)は、映画と小説で「2001年宇宙の旅」を公開し、世界に衝撃を与えた。この映画と小説は、2001年を過ぎた今でも色あせることはない。
 しかし、クラークにとって、キューブリックとの共同作業は、かなり神経に応える作業であったらしい。小説版も発表までにはキューブリックとの権利関係等もあり、内容の確認を得るまでに時間がかかったという。それでも、小説版はクラークの小説らしく、映画版はキューブリックの映画らしく仕上がり、どちらもすばらしい作品であった。
 さて、そのキューブリックはとうにこの世を去り、一方、巨匠クラークは、本人の予想以上に長生きしている。
 本書「2010年宇宙の旅」は、そのクラークが、1982年に発表した「続編」である。さて、この「続編」であるが、何の続編かというところがまず、第一のポイントである。本書「2010年宇宙の旅」は、映画「2001年宇宙の旅」のシナリオを受けた形で、その「続編」的な作品となっている。小説版「2001」の最終目的地は土星の衛星であり、映画版は木星の衛星であった。また、小説版では、スターチャイルドになったボーマンについて詳しく書かれており、ディスカバリー号の人工知能HAL9000についても、なぜ「狂った」のかについて書かれていたが、映画版では、その性質上、そのあたりはつまびらかにされていなかった。
 そこで、クラークは、読者の要請を受けるという形で、本書「2010年宇宙の旅」をしたためることになったのだ。しかし、そこはそれ、クラークである。「2010年宇宙の旅」は、小説版、映画版「2001年宇宙の旅」との多少の齟齬や設定の違いがあると、「はじめに」で明言している。それは、1968年から1981年までの科学的な発見や技術的な変化を受けて書かれているからである。
 クラークいわく「もちろん、それも二〇〇一年にはふたたび時代遅れになってしまうのだろうが…」と書いているが、なかなかどうして、読み応えのあるものであった。
 2006年の今日は、2001年を過ぎ、2010年には届かない微妙な時期である。ところどころに古くなった技術や社会があり、そして、あいかわらず「うらやましい」宇宙像が描かれている。
 さて、本書「2010年宇宙の旅」であるが、主人公は「2001」で最初に登場したヘイウッド・フロイド博士である。2001年の出来事で乗務員を全員失ったことへの失意の内に、最前線を引退し、ハワイ大学学長としてゆったりと過ごしていたフロイド博士は、予定されているアメリカのディスカバリー号サルベージ計画を遠い関心事にしていた。しかし、ロシア(ソ連?)側が、木星衛星軌道上のディスカバリー号が予想外の動きをして、衛星に墜落する可能性を示唆、アメリカ側の計画では間に合わないことを明らかにするとともに、ロシアが建造した宇宙船アレクセイ・レオーノフ号にアメリカのフロイド博士ら3人を乗船させ、共同でサルベージする計画を提案した。その提案をうけてフロイド博士らはロシア船に乗り込み、木星をめざす。途中、科学技術的鎖国を続ける中国の宇宙船の追い上げなどもあり、緊迫するが、結果的にはレオーノフ号がディスカバリー号に到着、HAL9000を再起動、再教育していくとともに、ボーマン失踪の原因となった巨大なモノリスの探査をはじめる。
 しかし、彼らが想像も絶するような出来事が起こり、地球、地球人は、自分たちの宇宙観を変える事態になったことを知らされるのであった。
 そして、エピローグは20001年。人類はいまだ存続しているようである。
「2001年宇宙の旅」も壮大なお話しだったが、この「2010年宇宙の旅」も壮大なお話しである。今回の主役はなんといっても「木星」だ。木星の大きさ、偉大さ、想像を絶する世界が見事に書き描かれている。このクラークの想像力、描写力に乗って、宇宙の大きさや不思議さを楽しむことができるだろう。
 すくなくとも、いまだ木星は未知の領域にあるのだから。
 ところで、クラークと「予言」はいまだ縁が切れない。本書では、2005年に大きな津波があり、ハワイ諸島にもおしよせたらしい。このあたり、2004年末のスマトラ沖の大地震と津波を思わせる。こういうエピソードの予言力もまた、クラークのすごさを物語る。
(2006.11.18)

2001年宇宙の旅

2001年宇宙の旅
2001: A SPACE ODYSSEY
アーサー・C・クラーク
1968
「決定版2001年宇宙の旅」とある1993年に新訳された「2001」である。本書「2001年宇宙の旅」については、映画「2001年宇宙の旅」との関係について整理しておく必要がある。映画「2001」はスタンリー・キューブリック監督による作品である。この映画「2001」は、キューブリックが宇宙SFを企画し、クラークのいくつかの短編を軸に作品を考えていた。そこで、クラークにキューブリックから脚本のオファーがあり、脚本を書く前に、クラークが、映画の原作になりうる長編小説を書き、それをもとに脚本を作成するという段取りになった。クラークがアメリカでキューブリックと議論をしながら、映画用、小説用にアイディアを出し合い、それを積み上げて、本書「2001年宇宙の旅」が書かれ、平行して映画「2001年宇宙の旅」が制作された。この制作の過程で、キューブリックとクラークの関係は悪化し、後日様々な発言があり、また、周囲もそれぞれの立場で映画と小説について意見を述べている。
 ただ、誰もが認めるのは、映画「2001年宇宙の旅」は、映画史上に残る名作であり、SF映画の中では最高傑作のひとつであるということだ。それは、2001年を通過してしまった現在でも変わることはない。小説「2001年宇宙の旅」もまた、SF史上に残る傑作のひとつであり、欠かすことのできない作品である。この映画と小説は、キューブリックとクラークというふたりの天才的クリエイターが共同作業をすることによってはじめて生み出されたのである。
 映画も小説も、人類が月に降り立つ以前に発表され、そして、SF小説、特撮、SF映画、文化、科学、宇宙開発に対して大きな影響を与えた作品である。
 さて、キューブリックが死に、クラークは21世紀の今もいまだ生きている。クラークは、生きているものの強みとして、「2001」について様々なことを書き、「2010」「2061」「3001」をしたためた。その点で、クラークの勝利である。生きているものは何でも言えるのだ。
 小説としての「2001年宇宙の旅」は、とてもわかりやすい作品である。
 20世紀末、月の裏側で異常な磁気を観測、その地点を掘ってみたら、黒いモノリスが出てきた。調査によれば300万年前に埋められたものらしい。モノリスは、太陽の光を浴び、太陽系全体をゆるがす信号を発信した。それは、土星方向に向かっていた。数年後、初の太陽系探査船ディスカバリー号が本来の目的であった木星から予定を変更して土星に向けて旅立つ。起きている乗員はふたり。そして、人工知能HAL9000。冷凍睡眠しているのは3人。無事スイングバイによって木星を通過したところで、HAL9000は乗務員に告げる。「お祝いの邪魔をして申し訳ないが、問題が起こった」。そして、事件が起こる。
 なぜ、HAL9000は狂ったのか? ボーマンは、土星の衛星上にあった巨大なモノリスを通してどこに行き、どうやってスターチャイルドになったのか? スターチャイルドは地球に帰ってきて、何をしようとしたのか? そして、モノリスを設置し、ボーマンをスターチャイルドにした宇宙種属の目的は何か? 彼らはどこにいったのか? そういったことに一定の答えが書かれている。
 映画を見て、それから、本書を読むとよい。ひとつの解釈として、整理されるはずだ。そして、映画を見ていなくても、本書を読むとよい。どちらも独立した作品であるからだ。
 ただ、間違えてはいけない。本書は映画のノベライズではない。また、純粋なクラークの作品でもない。
 やはり、本書はクラークの色の濃い、クラークとキューブリックの作品であり、映画は、キューブリックの色の濃い、キューブリックとクラークの作品なのである。  どちらも尊重し、楽しんでほしい。
 映画しか見ていないのならば、ぜひ、本書を読んでほしい。いつまでも絶版することはないだろうから。
 それにしても、クラークじいさんはすごい。ハインライン、アジモフ、クラークと三大巨頭といわれたSF界の去勢の中で、最後まで生き残り、巨頭中の巨頭として、今もSF界に君臨しているのである。
(2006.11.12)

ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス

ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス
THE GOLDEN AGE : A ROMANCE OF THE FAR FUTURE
ジョン・C・ライト
2002
 解説によると、本書「ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス」は三部作の1作で、そもそもは3作品あわせて1作品として執筆されたそうである。昨今の文庫は、以前に比べて文字が大きくなり、行間も広くなっているので一概には言えないが、本書で約630ページ。3作品が同じくらいの量だとすると2000ページ近くになるのである。ぐはっ。
 ということで、現在のところ、第一作しかでていないので、あまり感想などを書くべきではないのかもしれない。とりあえず読んだので、ほどほどにしておこう。
 遠い未来、主人公の「ファエトン・プライム・ラダマンテュス・ヒューモディファイド(オーグメント)・アンコンポーズド、インディプコンシャスネス、ベーシック・ニューロフォーム、シルヴァーグレイ・マノリアル派、エラ七〇四三(ザ・リアウェイクニング)」は約3000歳になり、新たな千年紀のはじまりを祝う祭りの中にいた。そのヴァーチャルな仮面舞踏会では、通常当然とされる相手の属性を示す識別のコードが使えない。ファエトンはハーレクインの格好をして舞踏会会場を離れ、小さな森と庭園を散策していた。そこに、不思議な老人、本来そこにいるはずのない海王星人、世界唯一の軍人が次々に彼の前にあらわれ、フェアトンと知ってか知らずか、彼に言葉をかける。
 フェアトンは、以前、この世界を危機に陥れるような重大な事態を引き起こしたという。それにより非難され、それにより英雄視される。しかし、フェアトンにはその記憶はない。自らの記憶を探せば、そこに大いなる欠落を見いだした。かれこれ250年ほどの記憶に欠落がある。この、すべてを記録し、データ化し、自由を謳歌する時代にそんなはずはない。この、超機械知性体に守られ、自らも超知性体となり、不死を獲得し、それぞれに独自の行動規範を持つ知性体で構成された社会に、誰かが誰かの記憶を削除することは許されないはずである。なぜ、彼には記憶の欠落があるのか? もし、それを起こしたとすれば、それは自身が決断したはずである。なぜ。そして、この不思議な件を追求するうちに、彼は、自身とその妻が一文無しであることを知らされる。世界でも有数の古く、有名で、かつ、大いなる資産を持つ父の息子である彼が持っていたはずの資産はすべて失われ、父の援助のみで生きていたのである。あったはずの彼の資産はどこにいったのか?
 フェアトンは知る。彼が記憶を取り戻すということは、彼自身にも、世界にも大きな影響を与えるということを。そして、彼は記憶を取り戻す代わりに、すべてを失うということを。
 フェアトンは、記憶を取り戻すのか? そして、フェアトンが起こした事件の真相とはなにか?
 3000歳の青年であるフェアトンの自分探しの旅を通して、私たちは遠い未来のまか不思議なありようを知る。それは、もはや人類とは言えないのかも知れない。しかし、人類的な思想や行動規範を持つ知性体であることは間違いない。
 この高慢で、自己満足で、自意識過剰で、自己愛に満ちたフェアトンの旅を、読者は好感を持って読むだろうか? それとも、フェアトンという主人公を卑下しながらも、この世界に引きつけられていくだろうか?
 もはや、この遠い未来の世界では、ひとりのフェアトンという属性に対する感情移入さえ許さないのだろうか。そんな小説が成り立つのだろうか?
 そもそも、このフェアトンの正式名称にみられる名前の長さと、それに込められる属性と意味をみよ。これは、英語であればおおよそ、なんとなく、雰囲気がつかめるであろうが、日本語で名前を書くわけにもいかなかったのだろう。カタカナ表記にしてある。本書「ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス」は、久しぶりに英語と日本語の言語的プロトコルの違いを意識させられる作品である。そして、アメリカSFらしい作品である。
 さて、あと2冊。私は読むのか? 読まないのか? どうする?
 一応、これは全部読んだけれども。そして、それなりにおもしろかったけれども。何より長いからなあ。
(2006.11.12)

殺意の惑星

殺意の惑星
PLANET OF THE DAMNED
ハリイ・ハリスン
1962
 人類は宇宙に拡散し、それぞれの植民惑星で繁栄した。しかし、その後、人類は大崩壊の時を迎え、各植民惑星はそれぞれの力で命と文明を維持するほかなかった。へびつかい座七十番星の惑星アンヴァールは幸いなことに自立できる食料を調達できた。辺境のあったため、もともと星間貿易にも恵まれず自給自足ができていたからである。しかし、惑星アンヴァールは厳しい惑星でもあった。780日の1年の大半は太陽から離れた厳しい冬の季節を過ごし、わずか80日ほどの短い夏にすべての動植物が活動し、繁殖する。アンヴァールの人類、アンヴァール人もまた、この自然にあわせて適応進化した。冬の時期は厚い皮下脂肪層と長い睡眠で耐え、急激な夏に代謝を上げ、汗腺を活発にし、そして、睡眠中枢が抑制されて、短い夏に狩りをし、作物を収穫し、そして、長い冬に向けて保存するのだ。そのため、アンヴァール人は夏と冬では性格も大きく異なる。そして、退屈な冬の間、アンヴァールの文化は、二十種競技という妙案を編み出し、それに向けてすべての人々が熱中する。二十種競技は、スポーツと知的ゲームを組み合わせた競技会で、毎年ひとりの優勝者を選ぶ。それこそが、700日におよぶ長い冬の退屈と精神の防いできたのだ。そして、知的にも肉体的にも優れ、エンパシー能力さえも持った超人を生み出すことにもなった。
 今年の優勝者ブライオンは、元優勝者イージェルによって惑星外に連れ出される。エリダヌス座イプシロンの第三惑星ディスと惑星ニーヨルドの惑星間戦争の危機を防ぐためである。ディスの人類は、コミュニケーションを失い暴力に満ちたディス人となり、一方、ニーヨルドの人類は、争いを知らず知的精神を拡大させたニーヨルド人となっていた。本来なら相まみえることのない2種属だが、ディス人が惑星を崩壊させる力を持つ兵器を入手し、ニーヨルドへの侵攻を求めたため、ニーヨルド人は、冷静に対応し、その結果、ディス人を滅ぼすという決定を下したのである。いくら暴力的なディス人といっても、彼らもまた人類の末裔であり、惑星ディスに適応した知的生命体でもある。このどちらであっても大虐殺になる事態を止めるため、イージェルは、超人であるブライオンと、地球人の宇宙生物学者兼人類学者の女性であるリーの3人が惑星ディスに乗り込んだ。ニーヨルド人によるディス人の全滅兵器の使用まで残り時間は数日。果たして彼らはこの危機を回避できるのか?
 本書「殺意の惑星」は、エコロジーテーマの作品とされる。アンヴァール人、ディス人、ニーヨルド人、そして、地球人。いずれも、同じ人類であるが、数世紀を経てそれぞれの惑星に適応し、独自の文化、心理、身体状況をつくりだしている。まあ、数世紀でそんなに変わるものではないが、そこのところはご愛敬。その中で生まれた超人と、地球人のヒロインが惑星間戦争の危機を止めようとするのである。ディス人はどうして暴力的なのか? アンヴァール人はどうやって長い冬を耐える二十種競技を生み出したのか? ニーヨルド人はどうして暴力的な意識を捨てることができ、そのニーヨルド人にして論理の末にディス人を絶滅させるべきという恐ろしい発想に立つことができたのか?
 1960年代のSFであり、その科学的なつっこみは弱いが、生存に欠かせない環境条件が、人間の精神や社会、行動、身体に大きく影響を与えるという視点で書かれている点が「エコロジーテーマ」であり、本書のおもしろさである。もちろん、超人と暴力的な人類が出てくるわけで、そのアクションシーンも欠かせない。往年のアーノルド・シュワルツネッガーに配役したいような主人公のブライオンである。その点で楽しく軽く読むことができる。
 本書「殺意の惑星」は、1978年6月にハヤカワ文庫で登場している。私は古本で、1974年に発行されたハヤカワSFシリーズ(銀背)を手に入れている。もちろん、どちらも絶版であるが、最近はこういう軽く読めるSFが減っており、重厚長大作品ばかりになっているので、今再版する価値はあると思う。設定などは古くさいが、映画のシナリオといってもおかしくないぐらい、バランスのとれたよくできた作品である。
(2006.11.12)