この人を見よ

この人を見よ
BEHOLD THE MAN
マイクル・ムアコック
1968
 1940年に男は生まれ、1970年に男はタイムマシンに乗って紀元28年にたどり着いた。男の名はカール・グロガウアー。幼い頃に父と別れ、母とともにロンドンで暮らしていた。カールは、いつも「自我」に悩まされていた。自分と他人との関係、自分と世界との関係、自分と自分との関係。自分を見つけることは、なにか深く暗い穴を見つめることだったのかも知れない。他人と関係することで、自分がその相手によって変わることにとまどいを覚え、自分とは何かについて悩み続けていた。男は、精神医になりそこね、ユングの研究に希望を持っていた。男は、十字架に異常な執着を覚えていた。キリストが磔とされた十字架。だから、彼は、それほど深く考えずに、紀元29年のキリストの磔刑を見ようと、すすんでタイムマシンの試作品に乗り込んだのだった。そして、1年前の紀元28年にたどりつく。タイムマシンは壊れ、二度と帰れない未来が1940年分待ちかまえる。
 もし、現代にイエス・キリストが生を受けたら、彼はどのように育ち、どのように生きるのだろうか? 彼は、たとえ彼が神の子であるとしても、現代の預言者であることができるだろうか?
 本書「この人を見よ」では、1945年に神が死んだと、神の子としての啓示を受ける男が心の内で叫ぶ。
 1945年、原爆が投下され、大きな戦争が終わった年である。
 ところが、神はどうやら生きていたらしい。
 21世紀を迎え、世界は神の名の下に人が行う争いに満ちている。つきつめれば、同じ神を信仰しているにもかかわらず、その信仰のしかたが気に入らないのか、相手を憎み、殺し、憎み、殺している。
 私には、神のことはわからない。神が生きているか、死んでいるかも分からない。
 しかし、この国でさえも、いまをもって「現人神」が「人間」としてたたえられているのである。そして、それへの傾倒は以前よりも高まっている。公然と、「人間」を「神」とたたえる者が増えている。
 もし、現代に、神の使いが生を受けたら、彼ないし彼女は、あるいは「それ」は、どのように育ち、生きるのだろうか。神の使いとして受け入れられるのだろうか。現代において、神の代弁者として生き、死に、そして、新たな聖なる書が生まれるのだろうか。
 21世紀と言っても、いまも、2千年前と変わらないのだろうか?
 本書「この人を見よ」は、SFとしてはシンプルな作品である。現代人(といっても1970年に30歳を迎える男であるが)が、イエス・キリストの生きた時代に飛び、歴史の中に埋もれていく物語である。
 ムアコックは、死んだはずの「神」を殺したのでも、キリスト教を冒涜したのでもないだろう。現代人という精神のありようについて、イエス・キリストの時代に焦点を当てることで、逆に描き出そうとしているのであろう。この作品が書かれてからまもなく40年になろうとしている。はたして、ムアコックが描こうとした現代社会の病理は治癒したのだろうか、深まったのだろうか? 政治に再び神の名が介在している現在、本書「この人を見よ」を読む価値はある。
 といっても、本書「この人を見よ」を再読しようと思ったのは、「アークエンジェル・プロトコル」を読んで、ちょっと呆然としてしまったからであった。あちらは、とても現代的なSFの衣をかぶったファンタジーで、こちらは、古色蒼然としたSFの衣をかぶった王道のSFである。宗教をモチーフにしたSFは数知れないが、三大宗教、とりわけキリスト教をモチーフにしたものならば、私は王道が好きだ。神に出てこられてもねえ、困っちゃうから。
(2006.11.6)

移動都市

移動都市
MORTAL ENGINES
フィリップ・リーヴ
2001
「古代人が対地表軌道上原子爆弾と変性ウィルス爆弾の悲惨な嵐で自滅」した六十分戦争から千年が過ぎた。
 移動都市ロンドン、無数のキャタピラの上にそびえる階層都市は、他の都市同様に都市ダーウィニズムの世界で、他の都市を狩りながら生きていた。しかし、次第に獲物は減り、地面をはいつくばる反移動都市同盟の力も増していた。
 両親を事故で失い、ロンドンの史学ギルドの三級見習いとして雑用ばかりをやらされているトム・ナッツワーシーのあこがれは、ギルド長のサディアス・ヴァレンタイン。かつては、飛行船に乗って世界中を旅し、遺跡から古代の科学技術品を収集してきた行動する男である。
 そのヴァレンタインを殺害しようと襲った少女がいた。顔に深い傷を持つ少女ヘスター・ショウ。なぜ、冒険家のヴァレンタインを殺そうとするのか? 少女の傷の理由は? ひょんなことから、ロンドンから置き去りにされ、へスターとふたりでロンドンを追うはめになったトムは、へスターとともに旅をする中で、個性的な人々に出会い、世界の真実に気がつきはじめる。
 最終戦争と地殻変動によって荒廃した地球上を住民を乗せて疾走する巨大移動都市。地上で暮らす人々、飛行船に乗って冒険する男たち、女たち。そして、無敵の兵器人間「シュライク」が、トムとへスターをつけねらう。
 日本のアニメの原作です、と言われてもおかしくないほどに、頭の中で映像化しやすい作品である。宮崎駿の絵で、「ナウシカ」や「ラピュタ」のような世界だったら最高じゃないかな。
 また、この主人公のトムが素直でよい。世界のことを何も知らず、知らないが故のあこがれを抱きながらも、素直な目で世界を見ようとし続ける。幼い頃、両親を事故で失ったトムと、幼い頃、両親を殺害され、顔に傷を負ったへスターのふたりの、かようようで、かよわない心。それでも旅を続けるうちに、ふたりの間には「信頼」が生まれる。それは、顔と心の傷のせいで屈折したへスターが、自分の心を取り戻す旅でもあった。
 アニメつながりで言えば、私が好きな「交響詩篇エウレカセブン」の主人公レントン・サーストンにも似ている。とにかく世界を知らず、そして、まっすぐに育とうとしている。
 読む側はちょっと気恥ずかしいが、成長とはそういうものである。
 もっとも、ただのジュブナイル冒険活劇ではない。とにかく登場人物がよく死ぬ。そんなに殺さなくてもいいじゃないかと思うぐらいに死ぬ。長生きするのがむつかしい世界なのである。だからこそ、輝くものもある。だからこそ、人は一生懸命早く成長しようとするのかも知れない。
 さて、本書「移動都市」もまた、最近、日本に紹介されることの多いイギリスSFである。人工知能による新たな世界への旅立ちは迎えていないが、本書も「最終戦争後の世界」ものである。ベースの技術がスチームエンジンだったり飛行船だったりするが、桁違いに発展している。そして、剣と銃の世界でもある。また、「遺跡」に伝説となっている恐るべき戦争兵器があって、その復活をもくろむ者がいたりする。そういう世界的な背景も、「ナウシカ」や「ラピュタ」と共通するのかも知れない。
 どうしてもそこに戻ってしまうが、宮崎駿監督、どうです、映画にしてみませんか? 息子さんにまかせておかないで、こういうしっかりしたジュブナイルSFで、少年少女の成長と世界の変化を撮りませんか? 見たいなあ。この作品のアニメ化。実写もいいけど、アニメ向きだと思うけどなあ。
 本書「移動都市」は四部作だという。楽しみ。
(2006.11.4)

ほとんど無害

ほとんど無害
MOSTLY HARMLESS
ダグラス・アダムス
1992
 3本の素晴らしいナイフと1本のそうでもないナイフを活用してこの上ないハムサンドイッチをつくる方法を知りたかったら本書「ほとんど無害」をお勧めする。
 ちなみに、本書は、「銀河ヒッチハイク・ガイド」の5冊目にして、最終巻である。
 そこで、サンドイッチの作り方について、どのように素晴らしいかを語るのは保留して、「銀河ヒッチハイク・ガイド」シリーズと、その有終の美を飾る本書「ほとんど無害」について触れておこう。
 このシリーズは、以下の通りとなっている。
 銀河ヒッチハイク・ガイド(1979)
 宇宙の果てのレストラン(1980)
 宇宙クリケット大戦争(1982)
 さようなら、いままで魚をありがとう(1984)
 ほとんど無害(1992)
 本書「ほとんど無害」(河出文庫)は、2006年8月に発行されており、訳者あとがきと解説の両方がついているとてもお得な版である。解説は大森望氏。日本のSF読みならば解説者の解説は不要であろう。本書解説によると、新潮文庫版の「銀河ヒッチハイク・ガイド」は1982年に邦訳発行され、1983年に「宇宙の果てのレストラン」が邦訳発行、そして、1985年に邦訳発行された「宇宙クリケット大戦争」邦訳はなんとこの大森望氏が新潮文庫で担当編集であったという。残念ながら、その後の2冊については新潮文庫から邦訳発行されることはなく、その後、河出書房から「銀河ヒッチハイク・ガイド」が新訳として邦訳され、ついにシリーズ全巻が完訳されたのである。ありがたや、ありがたや。
 新潮文庫版は、私の高校、大学の頃ということだが、まったく気がつきもせず通り過ぎてしまった。新潮文庫や角川文庫などのSFって見逃すことが多いんだよなあ。
 解説にも書かれているとおり、このシリーズが改めて翻訳されたのは、映画化され、公開されたことが大きい。映画自体はそれほどヒットしなかったようだが、決しておもしろくなかったわけではない。ちょっとしたタイミングの問題だ。
 さて、発表年を見れば分かるとおり、本書はちょっと他の4冊と時間的に離れている。
 読む側からすると、4冊目と5冊目に心理的な大きな差はないのだが、作者側からするとずいぶんと長い時間である。
 ということなのか、「さようなら、いままで魚をありがとう」でアーサー・デントが出会った真の恋人は、あっという間に次元の彼方に消えてしまっていた。どこかに壊れずにあるはずの地球や消えてしまった恋人を探していくうちに、アーサー・デントは、サンドイッチマスターとなってある惑星に腰を据えていた。そこに現れたのが、最初にアーサーが壊れた地球から逃げ出して出会った唯一の地球人トリリアンである。彼女は、唯一の地球人の女性だったが、アーサーではなく、異星人を選んだのであった。相手がアーサーだから、それもしかたのないことであるが、地球人にとっては誠に不幸な出来事である。
 それはともかく、かつてアーサーを地球から連れ出した「銀河ヒッチハイク・ガイド」の記者、フォード・プリーフェクトは、銀河ヒッチハイク・ガイドの発行出版社が買収され、新たな危機に陥っていることに気がつき、それに乗じてある策を練る。
 鬱ロボットのマーヴィンは出ないが、マーヴィンもうんざりするようなかんしゃく持ちの少女ランダムが登場し、物語に厚みを加えてくれる。もちろん、ヴォゴン人も登場し、物語に起承転結を与えてくれる。
 もしかしたら、ヴォゴン人が登場するのに、マーヴィンが登場しないことで、ちょっと笑いの神様がそっぽを向いたかも知れないが、イギリス流の皮肉あふれるユーモアは居座っているので安心してよい。結論には怒らないで欲しい。続編を書く前に作者が死んでしまったのだから。
 ところで、本書では、巨大化してしまい、買収された「ガイド」出版社が登場する。そして、あのフォードが遠い目をして、小さくとも夢があった頃の思い出にひたる。
 ふと思い出したのだが、かれこれ16年ほど前、今は大企業となった旅行代理店の小さな地方のオフィスを訪ねて、ヨーロッパとの半年オープンのチケットを買った。暗い感じの兄ちゃんに、「安いチケットで、南回りで、ストップオーバーできそうなもの」とリクエストしたら、エジプト航空やパキスタン航空のチケットを提示して、「面倒だったら、途中でチケットを捨てちゃえばいいんです。向こうで買えますよ」と言って、ヨーロッパに入り、帰路がアテネ→カラチ→バンコク→マニラ→成田というチケットを売ってくれた。ついでにヨーロッパの鉄道パスもそこで買った。無愛想だったが、安かった。
 そんな会社が、今や大企業である。あの兄ちゃんは今も勤めているのだろうか。いや、どこかの小さなネット専業の旅行代理店でやはりバックパッカー相手に格安チケットを売っているのかも知れない。あまりにこやかに格安パックツアーを売っているようには思えないからだ。
 そんなことを思い出したり、おいしいサンドイッチが食べたくなる。それが、「ほとんど無害」な地球に今も暮らしながら、「ほとんど無害」を読んだ者の感想である。
 さて、サンドイッチでも食べながら、「宇宙船レッド・ドワーフ」のDVDボックスでも再見するか。
(2006.10.30)

アークエンジェル・プロトコル

アークエンジェル・プロトコル
ARCHANGEL PROTOCOL
ライダ・モアハウス
2001
 アメリカ私立探偵作家クラブ賞受賞! バーン。ハヤカワSF文庫! ドーン。「大戦後の荒廃したニューヨーク。電脳空間に突如現れた天使たち。彼らの目的は!? もと敏腕刑事の美貌の女私立探偵がその謎を追う!」帯の釣り文句で、ガーン。
 ということで、女性のハードボイルド・サスペンスSFを期待し、電脳空間と宗教とハードボイルドといえば、「重力が衰えるとき」(ジョージ・アレック・エフィンジャー)があったなあ、とか、女性の探偵でハードボイルドSFといえば、「ナイトサイド・シティ」(ローレンス・ワット=エヴァンズ)があったなあ、なんて思ってページをめくった。
 お定まりの大戦後のアメリカ。お約束の人格移転するリンクでの存在と、それを絶たれた電脳空間の捜査官。しかも、この世界は、宗教世界と化していて、なんらかの一神教に属していなければ人並みの生活が保障されない状況で、自然科学は放逐され、テクノロジーのみが存在を許されている不思議な状況にあった。2076年、アメリカ大統領選は、グレイ律法博士(ラビ)上院議員と、ルトゥノー尊師(レヴァランド)上院議員との間で争われていた。ルトゥノー上院議員は、リンク上に現れたネット天使の支持を受けた第二のキリストであるとして大いなる支持を集め、リンク世界中心のアメリカ宗教国家への道を指し示す。前年に起きたローマ教皇訪米の際に起きた警官による教皇暗殺事件の影響も受けている。教皇を暗殺した警官とパートナーだったのが、主人公ディードリ。修道士を兄に持ち、女性のテロリスト指導者を幼なじみにする、今や家賃の支払いにも困る私立探偵である。リンクから物理的に遮断され、ロマンス小説を読みながら来るはずのない顧客を待つ女。リンク界ではファンサイトもたくさんある、ヴァチカンに破門された女。その女の前に、ひとりのハンサムな男が訪ねてきて、仕事を依頼する。「リンク天使が偽物であることをあばいて欲しい」と。なぜならば、彼こそが本物の天使なのだから。
 そして、物語がはじまり、ディードリが望むまもなく、彼女の回りで世界が動き始めた。
 最後まで読んで、気がついた。
 しまった。
 最初から、気がついて読めば別の読み方があったのに。
 あとがきを読んでから、読めばよかったのか?
 もっと素直に読めばよかったのか?
 アメリカ私立探偵作家クラブ賞なんてついているから、結末のどんでん返しを想像して、うがった読み方をしてしまったではないか。
 そりゃあね。「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」(J・K・ローリング)が2001年のヒューゴー賞をとっているわけで、ファンタジーとSFの垣根が低くなっていることは気がついていたさ。サイバーパンク的なファンタジーがあってもおかしくないさ。
 ただ、「アメリカ私立探偵作家クラブ賞」に、私が勝手にだまされていただけで、この「アークエンジェル・プロトコル」は、まさしくファンタジーなのであった。
 アークエンジェル=大天使は、まさしく大天使であり、ネット天使が偽物であることをあばけと迫るのは当然、本物なのか偽物なのかはともかく天使的存在なのである。
 まあ、ここでSF的であり、ハードボイルド小説的であるのだから、当然「天使」とはなんぞやみたいな迫り方もあるわけで、だからといって、やはり人間でないものが登場し、それが、「異星人」ではない「人間のようなもの」であれば、P・K・ディックの作品ようなシミュラクラでないとすれば、「天使」であってもおかしくはない。だいたい、ディックの名前を出したついでに書いておけば、ディックだって、「ヴァリス」三部作は、読み方によってはファンタジーである。宗教書としても読めるが。しかし、カテゴリーとしてはSFの扱いになっている。それに比べれば、っと、比べる必要はないが、本書は、れっきとしたファンタジーであり、SF的要素も、ハードボイルド小説的要素もたっぷりと仕込まれている。
 最初から、SF&ハードボイルド小説要素たっぷりのファンタジーとして読めば、大正解である。
 それを、「ファンタジーであるわけがない」という頭で読むから、最後の最後まで、「この天使のような存在は何者だろう?」と、非キリスト教、非一神教である私は、頭をひねりながら、そして途中からは「まさか、まさかね」と思いながら読む羽目になったのである。
 ファンタジーならば、ファンタジーらしい楽しみ方はある。
 ファンタジーといっても、たとえば、「ハリー・ポッター」シリーズを読めば分かるとおり、最近のファンタジーは、現代社会とは切り離された「おとぎ話」ではない。本書「アークエンジェル・プロトコル」も、現代社会のありようと密接に結びつき、ファンタジーの形で、その社会のいびつさと、そこで生きる人間のありようを描いている。本書のまじめな方のテーマは、「宗教」と現代社会である。遊んでいる方のテーマも、「宗教」と現代社会である。
 今の宗教の形、関係性、人と人との関わりってこれでいいの? っていう空気が、本書を、非宗教の私でも読めるものにしている。ただ、これを、キリスト教が政治、経済社会の中心を占めているアメリカの人たちが読んだとき、どう思うかは、分からない。なぜなら、私が、その中心的宗教観を理解していないから。だから、本当のおもしろさは分からないのかも知れない。直接的に、「天使」や「神」や「預言者」や「悪魔」や「聖書」が出てくるから、その言葉の力を受け止めきれないのだ。
 しかし、それを置いても、ファンタジーとしての本書は、異色であり、おもしろさがある。なんといっても、2075年という想像可能な近未来が設定されており、しかも、最終兵器による破壊された社会であり、電脳社会であり、その未来像は、サイバーパンク運動を読者として通過してきたものにとってはあたりまえのものだからだ。映画「マトリックス」同様のなじみ深くなってしまった未来像だからだ。
 だからこそ、私は、「天使なんて」という罠にはまったのだが、最初から、ファンタジーだとの理解で、本書の設定を読めば、とてもおもしろい。
 そんななじみ深い近未来像でのファンタジーである。魔法使いは出てこないが、その代わり、電脳の魔法使いはしっかりと出てくる。そして、魔法使い以上の存在である「天使」たちの魅力的なこと。「ハリー・ポッター」や、それ以前からのファンタジーで魔法使いも人間同様の存在に過ぎない位置までひきずりおろされたが、本書では天使を我々と近しい存在にしている。それでも、やはり天使は天使なのだが。
 読み終わって、あとがきを読んで、本書が911以前に書かれ、発表されていたことを知る。そして、本書には、シリーズ作がその後書かれていることも。あとがきでも書かれていたが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という同じ神の系譜を持つ宗教が、911以降それまで以上に、具体的な人間の争いの源となっているなかで、本書のような宗教を平たく見る作品が書かれ、発表され、一定以上の評価が与えられていることに、アメリカ社会に含まれている健全さを見る思いもする。
 いろんな読み方ができる「ファンタジー」である。
 SFのカテゴリーに入れるのはどうかと思うが、SFとして読んでしまった以上、ここに掲載しておきたい。
 余談だが、ハリー・ポッターシリーズは、これまでの全作を日本語と英語で読んでいる。「炎のゴブレット」がヒューゴー賞をとっていることで、いずれは少なくとも「炎のゴブレット」ぐらいは、ここで取り上げようかと思っていたので、本書「アークエンジェル・プロトコル」はいいさきがけになってくれたようだ。
(2006.10.27)

アルファ系衛星の氏族たち

アルファ系衛星の氏族たち
CLANS OF THE ALPHANE MOON
フィリップ・K・ディック
1964
 1986年の12月にサンリオSF文庫で登場し、1992年に、サンリオと同じ友枝康子訳で創元SSF文庫として再版された「アルファ系衛星衛星の氏族たち」である。創元の方は手元にないので分からないが、サンリオでは池澤夏樹氏が「ディック・ワールドの基本構造」と題して、初期作品群の分析をしている。
 まあ、それはともかく。
 本書は、ディックの作品の中では比較的読みやすく理解しやすい、そして、破綻が「少ない」作品である。もちろん、ディックの作品には欠かせない、つじつまの合わない記述があり、これをどう読むかによってストーリーはいくようにでも変化するのだが、その点は気にしないでおこう。無理につじつまを合わせようとすると、作者の意図しない術中にはまってしまう。つじつまが合わない部分は、適当に読み飛ばすか、適当に自分の中で読み替えるか、適当に補完するしかないのだ。それがディックの作品である。
 訳者はかわいそうだが。
 それでなくても、ディックの作品にはディックが意図して込めた主人公や登場人物に対する「混乱」が用意されており、現実なのか、幻覚なのか、真実なのか、ごまかしなのか、意図的なのか、偶然なのか、主人公や登場人物は、疑心暗鬼になったり、果敢に立ち向かったりするのである。それを読者として共感したり反発したり、通り過ぎたりしているところで、つじつまが合わないくらいのことにつまっていては、読んでいる側がおかしくなるではないか。
 地球とアルファ星系人との戦争が終わり、相互の通商も元に戻った。地球にもガニメデの粘菌生命体などの非地球人が暮らすようになった。しかし、アルファ星の衛星のひとつには、人類が孤立して生きていた。彼らは、いずれも精神異常によってその衛星の病院に入れられていた人々である。彼らは、病院を出て、7つの氏族としてそれぞれの暮らしを行い、独自の社会を構築していた。
 地球は、この「精神異常」の人々を分析、治療し、衛星を地球人の地歩として確立すべく、精神カウンセラーとCIAが操作するシュミラクラを送り込んだ。
 一方、地球では、精神カウンセラーの妻から離婚を言い渡されたCIAのシュミラクラプログラマーが、自殺願望、妻への殺害願望をいだきつつ、ガニメデのテレパシー能力を持つ粘菌生命体や地球人の5分だけ時間をさかのぼらせることができる少女、有名なコメディアンなどと出会い、新たな仕事を得る。しかし、それは大いなる陰謀と争乱につながるものであった。
 そんな話である。
 はたして、アルファ系衛星の氏族たちは、治療させられるのか? それとも、そのまま自らの生き方を連ねられるのか?
 精神カウンセラーの妻とCIAシュミラクラプログラマーの主人公の関係はどうなるのか?
 主人公をとりまく何人かの女性と主人公の関係は?
 そして、本当の陰謀はどこにあるのか?
 すべてがCIAの陰謀か? アルファ人の策略か?
 それとも…。
 出来事の翻弄されながら、主人公は「なにか」を見つけていく。
 ディックの作品としてはめずらしく、確実な「なにか」を。
 そこには、「希望」が含まれている。
 本当は、いつでもディックの作品に込められていたであろう「希望」が。
(2006.10.25)

さようなら、いままで魚をありがとう

さようなら、いままで魚をありがとう
SO LONG, AND THANKS FOR ALL THE FISH
ダグラス・アダムス
1984
「銀河ヒッチハイク・ガイド」シリーズの第四弾である。壊れたはずの地球に帰ってきたアーサー・デントは、そこで懐かしい人、はじめてであった愛しい人、はじめて出会う変わった人に出会う。ちょっとした一言が壊れたはずの地球をゆるがし、ちょっとした出会いで恋に落ちて、でれでれしてしまう。その頃、かつてアーサー・デントを爆発する直前の地球から連れ出したフォード・プリーフェクトはちょっとした危機に落ちていた。その危機から脱したとき、ふとアーサー・デントのことを思い出したのだった。
 ふたたび地球を舞台に、アーサー・デントの冒険がはじまった、のかなあ。
 そして、その地球には大いなる秘密が、ある、の、かなあ。
 宇宙の究極の問いへの答えである「42」について、進展は、ある、の、か。
 ところで、この原稿なのですが、
 ただいま工事中につき、
 ごめいわくを、おかけします。
 あ、鬱のロボット、マーヴィンは、どこ、か、に、いるの、かなあ。
 ダグラス・アダムスが描く、究極の「イルカ」小説が、参上! した、かあ。
(2006.10.25)

シミュラクラ

シミュラクラ
THE SIMULACRA
フィリップ・K・ディック
1964
 1964年に、ディックが2040年を見通した作品。サンリオSF文庫60ページに衝撃的な一文がある。やや長文だが、引用しよう。
“…愚劣このうえないテオドラス・ニッツ社製作のコマーシャルがチックの車にへばりついている。
「うせろ」チックは警告を与えた。しかしコマーシャルはしっかりくっついており、もぞもぞと動き出すと、風に押しまくられながらもドアのすき間へじりじりと進んだ。やがてむりやり入りこみ、ニッツ広告社特有のくだらない話を一席ぶちはじめるにちがいない。
 チックとしては、そいつがすきまから入ってくるときに殺すこともできた。そいつは生きており、やはり死から免れられないのである。広告会社は自然そのものと同じく、それらを浪費するのだ。
 ハエほどの大きさのコマーシャルは力ずくでやっとこさ入り込むと、さっそくぶんぶんうなりだした…中略…
 チックはそいつを足で踏みつぶした。”
 生きて自律的に動き回る広告である。同じようなものは椎名誠の「アド・バード」などでも出てくるし、ディックの「ユービック」でも出てくるが、この「ハエほどの大きさのコマーシャル」という言葉の醸し出すイメージは、衝撃的である。ディックの小説は、まるで夢を見ているかのように次々とシーンが切り替わり、関係あるのかないのかが分からないうちに話が進んでいくため、時々表れる具体的なはっとするイメージに、突然目が覚めさせられる。
 ディックの小説ではいろんなものがよく言葉を紡ぐ。コマーシャルが、シミュラクラが、あらゆるものがしゃべりだし、文章を読ませる。そのたびに、登場人物はとまどい、怒り、まよい、悩み、うんざりし、無視したり、やむなく相手をする。
 ふと気がつくと、私が生きている現実世界でもそういうことがよくあることに気がつく。
 若い頃、といっても、1990年のことだが、私は4カ月ほど海外をバックパックしょってぶらぶらしていた。帰国して、東京の電車に乗ったとき、絶え間なく駅では案内や注意が流され、あらゆるところに広告がつり下がり、私に読めと迫ってきた。考えるいとまもなく、耳から目から私には必要のない言葉が入り込み、私に変わっていく。
 このとき、はじめてディックが見ていた世界を実感したような気持ちになった。
 それ以前から、そういう状況はあったのだが、日常を離れるまではっきりとは分からなかったのだ。
 今も状況は変わっていない。
 さて、本書「シミュラクラ」であるが、2040年、米欧合衆国(USEA)が舞台となる。
 1980年から90年にかけてオレゴンから北カリフォルニア一帯は争乱と中国によるミサイル攻撃のあとの放射性降下物により汚染地域となった。1985年頃、民主共和党が生まれ、1990年には、ファーストレディが権力の実権を握り、ホワイトハウスの主であるデル・アルテの選挙選出は、ファーストレディの期限付きお相手選びと化した。
 いつも若い、いつまでも若いファーストレディのニコルはTVを通して人々の理想であり、憧れであり、母であり指導者である。
 2040年、マクファーソン法が通過し、精神分析医は違法とされた。これからは、A・G化学の医薬品による薬物療法のみが認められるのだ。
 念動者のピアニストは、コマーシャルがきっかけで重度の精神障害となり、唯一残された精神分析医を頼る。
 ピアニストの音楽を録音すべく、レコード会社のスタッフは、放射性降下物に汚染された熱帯的地帯に入り込む。
 巨大な共同住宅に住み続けるため、人々はテストを受け、仕事を失うまいと働く。
 小さなエピソードが積み重なりながら、擬装された世界が明かされていく。
 火星への移住、ガニメデの精神感応生物、多元的未来…。ディック的ガジェットも満載。
 どうして、本書がハヤカワや創元から再刊されないのだろうか?
 そのうち、映画化されたら、ふたたび見られるのかも。
 この世界だから。
(2006.10.21)

闇の左手

闇の左手
THE LEFT HAND OF DARKNESS
アーシュラ・K・ル・グィン
1969
 ハイニッシュ・ユニバースに属する作品群のひとつであり、あまりにも有名な作品であり、古典であり、現代的価値を失っていない作品が、本書「闇の左手」である。高校の頃にこの作品に接した記憶がある。今、手元にある文庫もそのときのもの。以来、1度は読み直していると思うが、最後に読んでから20年は経っているだろう。
 人類連合体エクーメンにより惑星「冬」と名付けられた惑星ゲセンは、寒く凍てついた惑星である。そこには、遺伝子改変された人類が独特の社会をつくって生きていた。
 ゲセンには争いはあっても戦争はなく、政争はあっても虐殺はない。ゲセンの人々にはそのような考えは思いもよらない。完全な両性体であるゲセンの人類は、26日周期のゲセンの新月の頃だけ、ケメル、すなわち性分化する。先にケメルに入った者が男性となり、相手が急速に女性化する。もちろん、次のケメルのときに、逆になることもありうる。女性化したときに受胎すれば、妊娠し、出産する。ケメルの時以外は性衝動とは縁のない存在として惑星「冬」の厳しい寒さの中で、厳しさに耐えつつ、おだやかな生をすごす。
 大国であるカルハイドは、王政をとり、絶対的な権力を王が握るが、すべての情報は開かれている。もうひとつの大国オルゴレインは共産主義的共和制をとり、すべての人が平等だが、情報は閉ざされている。暦上、毎年が「一の年」として繰り返されるこの地に、エクーメンから使節であるゲイリー・アイが、惑星ゲセンがエクーメンに加盟するよう勧めるためにカルハイドに逗留している。両性体のなかに、常にケメルでいる変態者であり、異星人であり、異人として。
 ル・グィンの作品に登場する主人公達は、旅をする。厳しく、辛く、肉体的に困難な旅をする。そうして、そのなかで自分を見つめ、新たな自分を発見する。それは、誰かとの関係性であったり、自然との関係性であったりする。闇の左手は、光。光の右手は、闇。私の左手は、他者。他者の右手は、私。
 本書に出てくる両性体社会の構造や精神、あるいは、カルハイド国とオルゴレイン国の社会体制、愛国心という考え方についての議論などは、本書が書かれた時期を考えると、ル・グィンにしてはめずらしく時節を色濃く反映しているように思える。
 発表されたのは1969年であるから、その数年前からの国際状況やアメリカの国内状況を考えれば、暗喩として本作品があるという読み方ができるだろう。
 アメリカとソ連の冷戦。ベトナム戦争。赤狩り。ウーマンリヴ。ヒッピー。
 そんな生々しい1960年代の現実のなかから、ル・グィンは人間に信を置いた物語を紡ぎ、人々に驚きと希望、すなわち「闇の左手=光」を与えたのである。
 もはや表面的には世界は組み変わった。しかし、惑星ゲセンと同様にこの惑星「地球」でも毎年「一の年」が訪れていると考えれば、本当に世界は組み変わったのであろうか?
 仮に2006年の今本書が発表されたとしたら、本書は古い時代遅れの作品だと評価されず、人々の手に届かないだろうか。そんなことはあるまい。ル・グィンの、あるいは、他の新人作家の衝撃的な作品となったのではなかろうか。
 それは、世界は表面的には変わっても、約40年前と本質的には変わっていないことを示しているのではなかろうか。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞作品
(2006.10.19)

宇宙クリケット大戦争

宇宙クリケット大戦争
LIFE,THE UNIVERSE AND EVERYTHING
ダグラス・アダムス
1982
「銀河ヒッチハイクガイド」の続編の続編。つまり第三作である。ということは、まずは、「銀河ヒッチハイクガイド」を読み、ついでに映画「銀河ヒッチハイクガイド」をDVDあたりで見て、それで、「宇宙の果てのレストラン」を読み、「しょうがねえなあ」とか言いながら、河出文庫の黄色と白の背表紙のコーナーに行って、「宇宙クリケット大戦争」なんていうふざけたタイトルの本を探すということである。もし、あなたが今読んでいるのが2006年からそう遠くない未来であれば、「銀河ヒッチハイクガイド」はそこそこの本屋さんで手にはいるだろう。大きな本屋さんだったらこの後に続く第五部までそろっているかもしれない。もし、もう入手できなくなった未来にこの文を読むとしたら、まあ、それが人生である。どうしても読みたかったら、図書館に行ってみる、古本屋さんをあさる、ネットのオークションをチェックしたり、検索してみたり、売ります買いますコーナーで高値を付けてよびかけてみたりしてみればよい。もし、あなたが知的好奇心にあふれ、それに見合うだけの才能があり、野望があれば、タイムマシン的なものを開発し、タイムパラドックスを起こさない程度の方法で、過去から入手することもできるだろう。まあ、そこまでしなくても、ちょっとした未来には、電子化されて、絶版なんて言葉が死後になっているかも知れない。そしたら、それに対するアクセス手段と、必要な対価を稼げばいいだけのことだ。
 第一作では、地球が爆発した。前作では、宇宙の終わりに立ち会うことができた。今作は、それほど大層なことではない。なんといっても、クリケットである。クリケットって知っていますか? 見たことありますか? 北半球で日本と一番遠いあたりにある島国で行われているんだか、行われたことがあるんだかっていうスポーツで、ボールを投げたり、飛んできたボールを打ったり、それから、走ったりするらしい。もちろん、チームがあって、チームが勝ったり、負けたり、得点が入るらしい。
 これが、銀河系規模の知的生命体虐殺に関わっているのである。その歴史の名残なのである。記憶の残滓なのである。ほら、第一作、第二作に比べるとスケールが小さいでしょ。だいたい、第二作で宇宙の終わりを目撃したんだから、それ以上すごいことなんてありゃしないんです。それなのに、主人公のアーサー・デント君は、あいかわらず、やっちゃいけないことをやったり、やらなくていいことをやったり、やらずにすめばいいにこしたことはないことをやらなければいいのにやってしまってしまったりしていたりするのである。その結果はたいていやらなかったときよりも悪くなるのだが、そうでなければ笑いがとれないのだからしかたがない。笑いをとるのはたいへんである。
 読むのはあっという間なのにね。
(2006.10.14)

エニグマ

エニグマ
ENIGMA
マイクル・P・キューピー=マクダウエル
1986
 謎解きのSFといえば、すぐに思い出されるのが「星を継ぐもの」(J・P・ホーガン)にはじまるシリーズ作品である。作品ごとに、新たな謎が生まれ、仮説がひっくりがえったりする。こういう謎解きSFの場合、それが単独作品ならば、最後のネタをばらさずに感想や評論やもろもろを書くことは容易だが、シリーズ物となっている場合、2作目以降、どうするか考えさせられる。
 本書もまた、前作「アースライズ」に続く三部作の二作目にあたり、当然ながら第一作目である「アースライズ」のネタは割れた状態で物語がはじまる。本書「エニグマ」の解説にあたった大野万紀氏は、「アースライズ」へのネタ晴らしになるということを警告し、できれば先に「アースライズ」を読むことを勧め、その上で、独立しても読める作品であることを伝え、そして、「アースライズ」のネタを解説の中ではばらさないという離れ業をなされている。さすが、プロである。  誠に申し訳ないが、「アースライズ」を未読の方は、大野氏の例にならい、同じように判断をしていただくしかない。  一、「アースライズ」を読んでいないので、ここから先を読まない。
 二、「アースライズ」を読んでいないが、入手困難だし、「エニグマ」も読むかどうか分からないから、「アースライズ」のネタ晴らしは気にせずに読む。
 ということで、私は、「アースライズ」のネタバレを前提に以下を書きたいと思う。しかし、「エニグマ」のネタバレはしないでおく。だから、「エニグマ」だけを読もうという方はご安心を。
 以下、「アースライズ」のネタバレが含まれます。ご容赦ください。
 宇宙技術を再び手に入れ、人類社会のおおよその統一を果たした地球は、ファーストコンタクト後、世界評議会が地球上の政府となって豊かで安定的な保守社会を構築していた。人口は90億人となり、太陽系の各地から届けられるエネルギーと資源によって経済も産業も、人々の生活も満たされていたのである。一方、ファーストコンタクトに向けて世界政府的機構(コンソーシアム)によって作られた宇宙機関は、統一宇宙機構となり、地球の外側での力を増していた。統一宇宙機構は、地球への貿易とともに、惑星探査に力を入れていた。
 今、ひとりの若者が世界評議会官僚の卵としてエリートコースにのった大学生活を送っていた。彼の名は、メリット・ザッカリー。しかし、彼が運命のいたずらで太陽系クルーズに乗り、木星を間近に見たことで、彼の人生は180度転換した。エリートコースをはずれ、宇宙技術系の大学に移籍し、宇宙を目指しはじめたのである。何かにとりつかれたかのように。
 時に、おおよそ西暦で2200年前後、ファーストコンタクトから地球上で160年が過ぎようとしていた。
 ファーストコンタクトの結果、人類は宇宙の探査にとりかかった。いくつかの拠点を設け、そこを経由して、調査船が人類が抱え込んだ謎を解くために、時間と空間を超える旅を続けていた。時間を超えてしまうのは、クレイズ…超光速航行技術のせいである。光速の壁による時空の制約はなくなったが、一度のクレイズでも、座標となる地球や拠点との時間軸は大きくなり、ウラシマ効果を生んでしまうからである。
 人類が抱え込んだ謎、それは、宇宙には人類と出自を同じくする人類の植民地やその廃墟がいくつか残されており、そのどれもが基本的な宇宙航行技術を失っており、地球よりも退行していることである。そして、おそらくは地球が彼らの出自であることは間違いないものの、地球そのものに、かつて宇宙航行技術を持った人類がいたとは確認されていないことである。いくつかの仮説が立てられ、それを証明するための証拠を求めていたのだ。
 若きメリット・ザッカリーは、この謎に立ち向かうべく、まずは、言語学者兼資源地質学者として調査船コンタクト・チームの一員となる。いくつかの異星の人類に出会い、遺跡を調査しながら、彼は成長し、そして、謎への仮説を新たにしていく。
 長期にわたる宇宙船内の人間関係と時間の経過による人類社会の変化、そして、謎そのものが本書「エニグマ」の魅力である。
 結論については、うーん…とうなってしまうところもあるが、あたかも宇宙が人類中心であるような設定でありながら、それを感じさせない物語に仕立てているところが本書のおもしろさであろう。
 以前書いたかも知れないが、地球がひとつというのは人類にとっても、その生命・生態系システムにとってもとても危ういことである。人類の不始末で、生命・生態系システムそのものが消滅することは今のところ考えられないが、大きな傷を負わすことぐらいはできる力を持ち、実際に結構な変化を与えている。早いところ、まずは、惑星軌道コロニーなりをつくり、居住可能な惑星を見つけるか、火星のような見込みのある星をテラフォーミングして、地球の有機的再生産に入らなければ、人類という種に、長期的なリスクが募るばかりである。科学技術を最優先する気持ちはないが、人類という種の視点で考えれば、地球が人類にとって持続的に再生産できる場であるよう努力する必要があると同時に、人類という種にとってのリスク分散を果たすために人類が宇宙に出て自立的に生活できる空間を持つことは望ましい。それは、同時に、地球という生命・生態系システムを増殖させることにつながる。わざわざガイア仮説を持ち出すこともなく、生命とはそういうものである。
 さて、本書「エニグマ」では、いつ、どこの誰の手によって、どのようにして、そして、なぜ、人類種が他の惑星に植民地をいくつも持つにいたったのか? という問いと、なぜ、その植民地と地球の人類は、長い間、この事実と、宇宙航行技術を失ってしまったのか? というふたつの謎が試される。
 メリット・ザッカリーとともに、この謎を楽しみたい。
 そして、一緒に、結末について「えーっ」と叫ぼう。(いや、良い意味で)
(2006.10.14)