闇の左手

闇の左手
THE LEFT HAND OF DARKNESS
アーシュラ・K・ル・グィン
1969
 ハイニッシュ・ユニバースに属する作品群のひとつであり、あまりにも有名な作品であり、古典であり、現代的価値を失っていない作品が、本書「闇の左手」である。高校の頃にこの作品に接した記憶がある。今、手元にある文庫もそのときのもの。以来、1度は読み直していると思うが、最後に読んでから20年は経っているだろう。
 人類連合体エクーメンにより惑星「冬」と名付けられた惑星ゲセンは、寒く凍てついた惑星である。そこには、遺伝子改変された人類が独特の社会をつくって生きていた。
 ゲセンには争いはあっても戦争はなく、政争はあっても虐殺はない。ゲセンの人々にはそのような考えは思いもよらない。完全な両性体であるゲセンの人類は、26日周期のゲセンの新月の頃だけ、ケメル、すなわち性分化する。先にケメルに入った者が男性となり、相手が急速に女性化する。もちろん、次のケメルのときに、逆になることもありうる。女性化したときに受胎すれば、妊娠し、出産する。ケメルの時以外は性衝動とは縁のない存在として惑星「冬」の厳しい寒さの中で、厳しさに耐えつつ、おだやかな生をすごす。
 大国であるカルハイドは、王政をとり、絶対的な権力を王が握るが、すべての情報は開かれている。もうひとつの大国オルゴレインは共産主義的共和制をとり、すべての人が平等だが、情報は閉ざされている。暦上、毎年が「一の年」として繰り返されるこの地に、エクーメンから使節であるゲイリー・アイが、惑星ゲセンがエクーメンに加盟するよう勧めるためにカルハイドに逗留している。両性体のなかに、常にケメルでいる変態者であり、異星人であり、異人として。
 ル・グィンの作品に登場する主人公達は、旅をする。厳しく、辛く、肉体的に困難な旅をする。そうして、そのなかで自分を見つめ、新たな自分を発見する。それは、誰かとの関係性であったり、自然との関係性であったりする。闇の左手は、光。光の右手は、闇。私の左手は、他者。他者の右手は、私。
 本書に出てくる両性体社会の構造や精神、あるいは、カルハイド国とオルゴレイン国の社会体制、愛国心という考え方についての議論などは、本書が書かれた時期を考えると、ル・グィンにしてはめずらしく時節を色濃く反映しているように思える。
 発表されたのは1969年であるから、その数年前からの国際状況やアメリカの国内状況を考えれば、暗喩として本作品があるという読み方ができるだろう。
 アメリカとソ連の冷戦。ベトナム戦争。赤狩り。ウーマンリヴ。ヒッピー。
 そんな生々しい1960年代の現実のなかから、ル・グィンは人間に信を置いた物語を紡ぎ、人々に驚きと希望、すなわち「闇の左手=光」を与えたのである。
 もはや表面的には世界は組み変わった。しかし、惑星ゲセンと同様にこの惑星「地球」でも毎年「一の年」が訪れていると考えれば、本当に世界は組み変わったのであろうか?
 仮に2006年の今本書が発表されたとしたら、本書は古い時代遅れの作品だと評価されず、人々の手に届かないだろうか。そんなことはあるまい。ル・グィンの、あるいは、他の新人作家の衝撃的な作品となったのではなかろうか。
 それは、世界は表面的には変わっても、約40年前と本質的には変わっていないことを示しているのではなかろうか。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞作品
(2006.10.19)

宇宙クリケット大戦争

宇宙クリケット大戦争
LIFE,THE UNIVERSE AND EVERYTHING
ダグラス・アダムス
1982
「銀河ヒッチハイクガイド」の続編の続編。つまり第三作である。ということは、まずは、「銀河ヒッチハイクガイド」を読み、ついでに映画「銀河ヒッチハイクガイド」をDVDあたりで見て、それで、「宇宙の果てのレストラン」を読み、「しょうがねえなあ」とか言いながら、河出文庫の黄色と白の背表紙のコーナーに行って、「宇宙クリケット大戦争」なんていうふざけたタイトルの本を探すということである。もし、あなたが今読んでいるのが2006年からそう遠くない未来であれば、「銀河ヒッチハイクガイド」はそこそこの本屋さんで手にはいるだろう。大きな本屋さんだったらこの後に続く第五部までそろっているかもしれない。もし、もう入手できなくなった未来にこの文を読むとしたら、まあ、それが人生である。どうしても読みたかったら、図書館に行ってみる、古本屋さんをあさる、ネットのオークションをチェックしたり、検索してみたり、売ります買いますコーナーで高値を付けてよびかけてみたりしてみればよい。もし、あなたが知的好奇心にあふれ、それに見合うだけの才能があり、野望があれば、タイムマシン的なものを開発し、タイムパラドックスを起こさない程度の方法で、過去から入手することもできるだろう。まあ、そこまでしなくても、ちょっとした未来には、電子化されて、絶版なんて言葉が死後になっているかも知れない。そしたら、それに対するアクセス手段と、必要な対価を稼げばいいだけのことだ。
 第一作では、地球が爆発した。前作では、宇宙の終わりに立ち会うことができた。今作は、それほど大層なことではない。なんといっても、クリケットである。クリケットって知っていますか? 見たことありますか? 北半球で日本と一番遠いあたりにある島国で行われているんだか、行われたことがあるんだかっていうスポーツで、ボールを投げたり、飛んできたボールを打ったり、それから、走ったりするらしい。もちろん、チームがあって、チームが勝ったり、負けたり、得点が入るらしい。
 これが、銀河系規模の知的生命体虐殺に関わっているのである。その歴史の名残なのである。記憶の残滓なのである。ほら、第一作、第二作に比べるとスケールが小さいでしょ。だいたい、第二作で宇宙の終わりを目撃したんだから、それ以上すごいことなんてありゃしないんです。それなのに、主人公のアーサー・デント君は、あいかわらず、やっちゃいけないことをやったり、やらなくていいことをやったり、やらずにすめばいいにこしたことはないことをやらなければいいのにやってしまってしまったりしていたりするのである。その結果はたいていやらなかったときよりも悪くなるのだが、そうでなければ笑いがとれないのだからしかたがない。笑いをとるのはたいへんである。
 読むのはあっという間なのにね。
(2006.10.14)

エニグマ

エニグマ
ENIGMA
マイクル・P・キューピー=マクダウエル
1986
 謎解きのSFといえば、すぐに思い出されるのが「星を継ぐもの」(J・P・ホーガン)にはじまるシリーズ作品である。作品ごとに、新たな謎が生まれ、仮説がひっくりがえったりする。こういう謎解きSFの場合、それが単独作品ならば、最後のネタをばらさずに感想や評論やもろもろを書くことは容易だが、シリーズ物となっている場合、2作目以降、どうするか考えさせられる。
 本書もまた、前作「アースライズ」に続く三部作の二作目にあたり、当然ながら第一作目である「アースライズ」のネタは割れた状態で物語がはじまる。本書「エニグマ」の解説にあたった大野万紀氏は、「アースライズ」へのネタ晴らしになるということを警告し、できれば先に「アースライズ」を読むことを勧め、その上で、独立しても読める作品であることを伝え、そして、「アースライズ」のネタを解説の中ではばらさないという離れ業をなされている。さすが、プロである。  誠に申し訳ないが、「アースライズ」を未読の方は、大野氏の例にならい、同じように判断をしていただくしかない。  一、「アースライズ」を読んでいないので、ここから先を読まない。
 二、「アースライズ」を読んでいないが、入手困難だし、「エニグマ」も読むかどうか分からないから、「アースライズ」のネタ晴らしは気にせずに読む。
 ということで、私は、「アースライズ」のネタバレを前提に以下を書きたいと思う。しかし、「エニグマ」のネタバレはしないでおく。だから、「エニグマ」だけを読もうという方はご安心を。
 以下、「アースライズ」のネタバレが含まれます。ご容赦ください。
 宇宙技術を再び手に入れ、人類社会のおおよその統一を果たした地球は、ファーストコンタクト後、世界評議会が地球上の政府となって豊かで安定的な保守社会を構築していた。人口は90億人となり、太陽系の各地から届けられるエネルギーと資源によって経済も産業も、人々の生活も満たされていたのである。一方、ファーストコンタクトに向けて世界政府的機構(コンソーシアム)によって作られた宇宙機関は、統一宇宙機構となり、地球の外側での力を増していた。統一宇宙機構は、地球への貿易とともに、惑星探査に力を入れていた。
 今、ひとりの若者が世界評議会官僚の卵としてエリートコースにのった大学生活を送っていた。彼の名は、メリット・ザッカリー。しかし、彼が運命のいたずらで太陽系クルーズに乗り、木星を間近に見たことで、彼の人生は180度転換した。エリートコースをはずれ、宇宙技術系の大学に移籍し、宇宙を目指しはじめたのである。何かにとりつかれたかのように。
 時に、おおよそ西暦で2200年前後、ファーストコンタクトから地球上で160年が過ぎようとしていた。
 ファーストコンタクトの結果、人類は宇宙の探査にとりかかった。いくつかの拠点を設け、そこを経由して、調査船が人類が抱え込んだ謎を解くために、時間と空間を超える旅を続けていた。時間を超えてしまうのは、クレイズ…超光速航行技術のせいである。光速の壁による時空の制約はなくなったが、一度のクレイズでも、座標となる地球や拠点との時間軸は大きくなり、ウラシマ効果を生んでしまうからである。
 人類が抱え込んだ謎、それは、宇宙には人類と出自を同じくする人類の植民地やその廃墟がいくつか残されており、そのどれもが基本的な宇宙航行技術を失っており、地球よりも退行していることである。そして、おそらくは地球が彼らの出自であることは間違いないものの、地球そのものに、かつて宇宙航行技術を持った人類がいたとは確認されていないことである。いくつかの仮説が立てられ、それを証明するための証拠を求めていたのだ。
 若きメリット・ザッカリーは、この謎に立ち向かうべく、まずは、言語学者兼資源地質学者として調査船コンタクト・チームの一員となる。いくつかの異星の人類に出会い、遺跡を調査しながら、彼は成長し、そして、謎への仮説を新たにしていく。
 長期にわたる宇宙船内の人間関係と時間の経過による人類社会の変化、そして、謎そのものが本書「エニグマ」の魅力である。
 結論については、うーん…とうなってしまうところもあるが、あたかも宇宙が人類中心であるような設定でありながら、それを感じさせない物語に仕立てているところが本書のおもしろさであろう。
 以前書いたかも知れないが、地球がひとつというのは人類にとっても、その生命・生態系システムにとってもとても危ういことである。人類の不始末で、生命・生態系システムそのものが消滅することは今のところ考えられないが、大きな傷を負わすことぐらいはできる力を持ち、実際に結構な変化を与えている。早いところ、まずは、惑星軌道コロニーなりをつくり、居住可能な惑星を見つけるか、火星のような見込みのある星をテラフォーミングして、地球の有機的再生産に入らなければ、人類という種に、長期的なリスクが募るばかりである。科学技術を最優先する気持ちはないが、人類という種の視点で考えれば、地球が人類にとって持続的に再生産できる場であるよう努力する必要があると同時に、人類という種にとってのリスク分散を果たすために人類が宇宙に出て自立的に生活できる空間を持つことは望ましい。それは、同時に、地球という生命・生態系システムを増殖させることにつながる。わざわざガイア仮説を持ち出すこともなく、生命とはそういうものである。
 さて、本書「エニグマ」では、いつ、どこの誰の手によって、どのようにして、そして、なぜ、人類種が他の惑星に植民地をいくつも持つにいたったのか? という問いと、なぜ、その植民地と地球の人類は、長い間、この事実と、宇宙航行技術を失ってしまったのか? というふたつの謎が試される。
 メリット・ザッカリーとともに、この謎を楽しみたい。
 そして、一緒に、結末について「えーっ」と叫ぼう。(いや、良い意味で)
(2006.10.14)

アースライズ

アースライズ
EMPRISE
マイクル・P・キューピー=マクダウエル
1985
 1980年代後半、一部の科学者は「核の毛布」を発動させた。それは、すべての核分裂反応を抑制する装置で、発動と同時に世界中に公開された。核兵器は使い物にならなくなり、原子力発電所もただの巨大な石棺と化した。世界は混乱し、通常兵器による戦争、食料、石油等の資源の奪いあいに疲弊し、科学者はすべての原因として迫害され、技術と知恵は失われていった。発端となったアメリカは分裂し、鎖国的な小国群となりはてた。
 そのアメリカで、ひとりの電波天文学者が手作りの電波望遠鏡を隠しながら運用していた。彼にできることはそれしかなかったからだ。しかし、彼は何を求めていたのだろう。
 ある日、彼は自分が信じていなかった信号に出会う。それは、明らかに知性体からの信号であった。そのニュースは、ひそやかにイギリスのひとりの男に伝えられ、そして、すべてがはじまった。
 21世紀初頭。地球の人口は24億人となり、国連はアメリカを追われてジュネーブに置かれ、その地位を形骸化させていた。アジアは、中国によって事実上の支配を受け、日本、インドネシア、フィリピンなどは中国政府のいいなりであった。  異星からの信号は、英語によるもので、彼らは地球に向かっているという。このニュースを受けて、イギリス、インド、中国を中心に、ファーストコンタクトに向けて人類のすべての活動を再生させ、経済を活性化し、人類社会を大きくひとつにするためのパンゲア・コンソーシアムがひそやかに動き出した。コンソーシアムには、もうひとつ目的があった。宇宙技術を再生させ、地球ではなく、太陽系のどこかで「彼ら」を迎えられるようにすること。それは、異星人への恐怖であり、地球への影響の大きさへの懸念であった。
 2011年9月、コンソーシアムの準備がはじまる。そして、衛星を利用した全世界への教育プログラムが着実に拡大し、コンソーシアムへの参加も増えていった。優秀な若者がコンソーシアムに吸収され、科学技術の再興に向けての取り組みを続けていった。
 それでも、異星人のことは秘密とされていた。
 2016年、地球上で再び分裂と欲望の構図が生まれたとき、コンソーシアムは異星人の到来を発表。2027年には地球に到来するという事実を人類につきつけた。
 これで、経済のエンジンに火がつき、人々は新たな希望を持つにいたった。と同時に、キリスト教をベースにした新興宗教が力をつけコンソーシアムにも影響を与えはじめていく。しだいに近づいていく異星の船。はたして、彼らは言葉通りの友好的な存在なのか? 彼らの到来まで、人類はひとつになれるのか?
 アメリカのSFには、「再興もの」とも言うべきジャンルがある。人類社会が核戦争や大きな災害で壊滅的な被害を受け、科学が失われ、迷信に満ちた社会に戻ったあと、ひとつのきっかけで再びばらばらになった人類がひとつになり、科学技術を再興していくという物語である。「黙示録3174年」ウォルター・ミラーや、「ポストマン」デイビッド・ブリンなどが典型であろう。本書「アースライズ」のメインテーマは、「ファーストコンタクト」であるが、物語の中心は「再興」である。核戦争ならぬ「核の毛布」がきっかけで、人類社会の均衡が崩れ、なし崩し的に壊滅してから20年以上たった社会が、異星からの信号をきっかけに再興していくという物語だ。科学技術の面よりも、コンソーシアムをめぐるリーダーや諸国のかけひきに力点が置かれた社会学的SFと言ってもいい。もちろん、電波望遠鏡、SETI計画、大統一理論の完成などSF的な事実やガジェット、ギミックも用意されており、決してただの社会モデル小説ではない。
 ところで、この「核の毛布」のアイディアだが、「創世記機械」J・P・ホーガンに内容が良く似ている。こちらが、1981年発表の作品だからこの時期にはやった考え方なのかな? それにしても、核分裂を完全かつ恒久的に制限できるということは、それを太陽に突っ込ませたらどうなるのだろう…。素朴な疑問。
 メインテーマである「ファーストコンタクト」についても、最後に驚くべき異星人が登場し、大いなる謎を残して幕を引く。「エニグマ」「トライアッド」と続編が続くのだが、私は「トライアッド」を持っていないのだよなあ。
(2006.10.11)

宇宙の果てのレストラン

宇宙の果てのレストラン
THE RESTAURANT AT THE END OF THE UNIVERSE
ダグラス・アダムス
1980
「銀河ヒッチハイク・ガイド」の続編である。さて、宇宙をさまよう2人の地球人と元銀河帝国大統領とその友人のヒッチハイク・ガイドライター、加えて鬱ロボットのマーヴィンとの旅は続いていた。彼らの乗船「黄金の心」号は、無限不可能性ドライブを搭載し、だから、無限に不可能なことが起こってしまうのであった。地球の秘密は究極の答え「42」に集約され、今は究極の「問い」を求めて、いや、何か求めていたっけ? そういえばこいつらどこに行こうとしているんだっけ?なのであった。
 アーサー・デントが、シリウス・サイバネティクス社の自動栄養飲料合成機に紅茶を頼んだために、彼らは再び危機に陥り、マーヴィンは五千七百六十億三千五百七十九年間気が滅入ったままで、宇宙は何度も終わってみたりする。
 舞台設定は、前作でできあがっているため、「宇宙の果てのレストラン」では、笑いの要素に全力投入されている。そうだよなあ、そんなこともあるかもなあ、未来でもみんな困ることがあるんだ、なんて、卑近で、皮肉で、すかっとする笑い。これぞイギリスの伝統といった笑いが待っている。
 2005年に公開された映画「銀河ヒッチハイク・ガイド」を見た後に、本作「宇宙の果てのレストラン」を読むと、鬱ロボットのマーヴィンがぴったりはまり役だということに気がつく。あのマーヴィンが、人工知性型の戦車と戦い、銀河の果てのレストランで配車係をしているなんて!!
 そして、人類の秘密がいまときあかされる。なんだ、人類がおろかなのは、ある惑星で、もっとも不要な労働層の人間だけを集めて送り込んだからなんだ。じゃ、しかたないね。
 まあ、「宇宙の果てのレストラン」でも読んで、馬鹿笑いしているのがお似合いってところじゃない?
(2006.10.11)

ダイヤモンド・エイジ

ダイヤモンド・エイジ
THE DIAMOND AGE
ニール・スティーヴンスン
1995
 ナノ・テクノロジーの時代。ダイヤモンド・エイジと呼ばれる時代が到来した。近未来の地球。もし、あなたが出自に恵まれず、言葉や社会的生活方法を学ぶことができず、仕事もなく、かろうじて日々を暮らすだけだったとしても、お金を持っていないとしても、それでも、あなたは食べていくことはできる。MCがあるからだ。MC、すなわち物質組成機。汚れた大気と水を浄化する過程で取り出された微量物質と、大気、自ら生成されるあらゆる物質。食べものから、被服まで。町にはいたるところに無料の公共MCがあり、持たざるものに、最小限の必要物を生成してくれる。文字が読めなくても、象形メディア文字であれば、自然と覚えてしまうだろう。動きのある象形文字ならば、あなたがしたいこと、してはいけないことを教えてくれる。
 ナノ・テクノロジーはすべてを変えた。産業、生活、価値観、秩序、倫理、道徳、思考形態…。コンピュータとインターネットとナノテクは、人々からすべてを奪い、そして、与えた。文字は動き、本は語りかけ、微小な人工物が空中をさまよい、人々にとりつき、とりついた物を排除し、人々をつなぎ、変質させていく。
 賢き人は、コマンドを唱え、紙から光を放ち、遠くの出来事を知り、海より新たな大地を興し、一夜にして塔を建て、術をふるう。それは、魔法であり、地球は魔法の星と化した。
 ナノテクとインターネット的経済行為によって、国家=政府は破壊された。収入のない国家は破綻するほかなく、国家の収入とは国民と企業からの税収であるからだ。経済行為に国境が意味をなさなくなり、近代国家は消滅した。そして、新しい政府、グループ、体制が生まれる。自らの思想信念、社会理念に基づくグループ。人種に基づくグループ。技術体系に基づくグループ…。そのいくつかは、クレイブ=国家都市と呼ばれ、いくつかは、シンセティック・ファイリー=代用種属と呼ばれた。
 舞台は、かつて中国と呼ばれた土地の沿岸産業地帯。主要なクレイブが集まり、その周辺にはシートと呼ばれる貧困層が集まる。
 そこにひとりの少女が生まれる。父親は、生まれた頃に死んだ。母親が連れてくる男の多くは、少女とその兄を虐待した。母親は、子どもをそこに住まわせていただけだった。少女の兄は、妹思いだった。彼は、家から出かけては、幼い妹のために何かを持ち帰った。ある日、兄である少年のグループは、ひとりの裕福な男を襲った。そして、一冊の本を手に入れた。兄は、その本を妹に渡した。本は、少女を認識し、少女に言葉を教え、生きる術を教えはじめた。
 そして、少女は、選ばれた者として、歴史に残る人物になるであろう。きっと。
 もう10年以上前の作品である。2006年の時点で考えれば、ナノテクの進捗はまだまだだし、むしろバイオテクノロジーによる変化の影響が大きくなりがちである。また、インターネット社会は、今のところ既製の国家や経済システムの中に順応しており、国家=政府を破綻させるまでの爆発力を見せていない。今のところは。しかし、コンピュータ&インターネットテクノロジー、ナノテクノロジー、バイオテクノロジーに象徴される20世紀終わりからはじまった技術革新の波は、今押し寄せてきているところであり、そのスピードはますます速くなっている。
 また、それらのテクノロジーは、これまでの国家や社会を破壊するまでの爆発力を持たないが、国家も、また、その国家やシステムに抗する者も、テクノロジーを活用し、これまでにない力を発揮している。
 その行く末は見えていない。
 20世紀終わりの10年間、SFは、これら近未来を見据えようという作者達の積極的な取り組みがなされた。本書「ダイヤモンド・エイジ」もまた、そのひとつの視点の提供として、大きな反響をもたらした。
 これから、10年後、20年後、50年後、世界は大きく変わるとともに、変わらない部分もあるであろう。すくなくとも、10年前からは予測のつかない今があり、予測のつかない10年後があるだろう。誰が、911とアメリカによる対アフガニスタン、イラク戦争を、BSE(vCJD)の深刻な影響を予想したであろうか。急激な気象の変化を予想したであろうか。予測をしているにせよ、インフルエンザ・パンデミックの危機が実際どのようなものになるか、起こってみなければ分からない。
 しかし、私たちには、想像することができる。おびえずに前に進むこともできる。立ち止まって考えることもできる。必要なのは、思考停止に陥らないこと、そして、今自分がいる場所を確かめること。
 少女ネルの成長の旅と、物語に登場してくる者たちの探索の旅は、そのことを伝える。
 それは、いつの時代も変わらないのだ。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞作品
(2006.10.01)

スノウ・クラッシュ

スノウ・クラッシュ
SNOW CRASH
ニール・スティーブンスン
1992
アスキー出版局から1998年に出版され、その後、2001年にハヤカワ文庫SFで文庫化される。私が持っているSFのほとんどは文庫なのだが、時折、発作的にハードカバーで買ってしまう。本書「スノウ・クラッシュ」の釣り文句は「全米ベストセラーSF これは90年代の『ニューロマンサー』だ」であった。「ポスト・サイバーパンク」の語に、はて、私は時代に乗り遅れまいとしていたのであろうか。それとも、アスキー出版局から出たから、しばらく文庫化されることもなく、ひょっとすると入手困難になると思ったのかも知れない。もう、10年以上前のことだから、覚えていない。人は、忘却の生物である。
近未来のアメリカ。崩壊した国家。合衆国連邦は、その実質的テリトリーを失い、連邦政府は戯画化した官僚システムとして現実への実効性なく存在している。人々と企業と宗教と裏稼業は、自らテリトリーを築き、宣言し、他者との境界をつくる。小さな、国家とは言えない無数の国家。テリトリー間をつなぐ道路などインフラは、いくつかの企業が独占し、サービスを提供する。連邦や州政府は、売れるものをすべて売り払ったのだ。経済システム化した国家は、それゆえに破綻する。小さなテリトリーをつなぐのは、特殊なスケートボードに乗り、通りがかる自動車の推進力を借りて疾走する特急便屋。
Y・Tは、WASPで、連邦政府プログラマーの母と暮らす15歳の少女。アルバイトは、特急便屋。全身をフル装備にして、今日も各地を疾走する。
ヒロ・プロタゴニストは、配達人。ピザチェーン”コーザノストラ・ピザ”の配達人という厳しくも名誉ある仕事についている。30分以内に届けられなければ、アンクル・エンゾに連絡が行き、エンゾはどんな状態であっても、顧客のところに飛んでいって謝罪するのである。アンクル・エンゾ、マフィアのドンである。彼は、ファミリーを大切にし、名誉を重んじる。そして、マフィアの主要な事業であるピザ宅配の仕事の大切さを誰よりも知る男である。
ヒロは、その日、しくじった。そして、Y・Tがその窮地を救った。
ヒロ・プロタゴニスト。日本育ちの韓国人とテキサス育ちのアフリカ系アメリカ人の間に生まれた中年男。3Dのネット仮想空間メタヴァースの初期からフリーのプログラマーとして活躍し、プログラマーが企業などのシステムに組み込まれる中でもフリー・プログラマーを続けている伝説の男。ゆえに、食い詰めている男。ネット上の仮想人格上でも、現実世界でも日本刀を持ち、刀を振るわせたら最強の男でもある。
Y・Tは、ヒロとの出会いの事件でアンクル・エンゾと接点を持ち、スノウ・クラッシュをめぐる出来事に巻き込まれていく。
ヒロは、メタヴァースでスノウ・クラッシュに出会い、いくつもの死と、戦いと、謎解きを迫られる。
スノウ・クラッシュ。それは、新たなドラッグ。メタヴァース上でも、現実世界でも同じ機能をするもの。メタ・ウィルス。究極のミー。
ミー。知的社会的存在を制御するプロトコル/プログラム。ミーを操るものは、すべてを操ることができる。いわゆるミームと呼ばれるものに近いが、それを包括するもの。
ロシアから流出した核兵器を持つ男が鍵を握る。
新興宗教を次々と起こした企業家が秘密を握る。
殺されたヒロの仲間が使っていたAI人格のライブラリアンが、情報を握る。
大型タンカーと小さな無数の船に接続された元空母エンタープライズ上に、すべてが集まる。
って、こんな風に書くと、シリアスなヴァーチャルリアリティ空間と現実空間でのサスペンス仕立てなサイバーパンクっぽいでしょ。でも、「ポスト」っていうぐらいだから、サイバーパンクとはちょっと違うね。まあ、サスペンス仕立てなのは、その通りなんだけれど、ハリウッド映画化されちゃったサイバーパンクって感じよ。アニメ化されたサイバーパンクって言ってもいいかも知れない。そのなかに、スノウ・クラッシュをめぐるヒロの謎解きが折り込まれていて、ちょっとした知的興奮が味わえるつくりだ。そうねえ、サイバーパンクが予感させた現実社会の荒廃とサイバー空間での新しい現実は、もはやあたりまえになってしまっていて、その設定をどこまであたりまえのものにした上で遊べるかが、「ポスト・サイバーパンク」な、サイバーパンク小説には問われているのかも知れないっていうのが、90年代はじめのお話しっぽいね。
キリスト教の創生に関わる宗教的な難解さと、それを感じさせない軽さの同居が、本書「スノウ・クラッシュ」の魅力である。
本筋の物語はしっかりと筋が通りながらも、極端に個性を強調された人格と、状況、道具、武器、機械、存在が、退屈になりがちな謎解きを飽きさせずにスピード感あふれる読み心地にさせる。とりわけ後半に行くにしたがって謎解きも、アクションも勢いを増し、読む手を止めさせない。
(2006.09.25)

宇宙怪獣ラモックス

宇宙怪獣ラモックス
THE STARBEAST
ロバート・A・ハインライン
1954
 へえ、今出ている大森望訳の「ラモックス ザ・スタービースト」って完訳版なんだ。知らなかった。私が持っているのは、角川文庫版の「宇宙怪獣ラモックス」で、福島正実訳のものである。岩崎書店刊のものを1976年に角川が文庫化、その初版をおそらく翌年ぐらい、小学校4年か5年の頃に買った。はじめて買った「文庫本」であると思われる。文庫コーナーは、田舎の本屋の中で大人が行くところで、子どもである私は、ちくまとか、ポプラとか、少年少女SFシリーズとか、そういうところに行くものだと勝手に思いこんでいて、本屋の中で「冒険」して見つけたのが本作品である。創元やハヤカワにすばらしい世界が開けているのを知るのは、あと1年ほど後のことである。そのきっかけを与えてくれた作品であると言える。だから、とても思い出深い。
 そこで、完訳版の「ラモックス ザ・スタービースト」を読む前であるが、本作について書いておきたい。
 物語は、ハインラインのジュブナイル作品のひとつである。それを福島正実が、日本の少年少女のために訳しているのだから、読みやすいことこの上ない。福島先生ありがとうである。
 話しは簡単。100年前の超空間飛行による初期宇宙探検の頃、1匹のかわいらしい異星動物を持ち帰ったジョン・トーマス・スチュアート。その動物はラモックスと名付けられ、彼の息子のジョン・トーマス・スチュアート、その息子のジョン・トーマス・スチュアート、さらに息子のジョン・トーマス・スチュアートによって育て続けられていた。今や体重6トン。8本足でのし歩き、か細いながらも人間の言葉を話し、鉄をはじめあらゆるもの、動物、植物を食べることをこよなく愛する巨大な動物となっていた。ある日、ラモックスがジョン・トーマスの留守中に隣のうちのバラを食べ、隣人に追われて逃げ出し、町や畑で大騒動を起こしてしまう。一方、地球を含む17の惑星を版図に加えた地球では宇宙省が、他の異星人らと外交を行い、異星人、異星生命関係の様々なトラブルに対応していた。もちろん、ラモックスの件も宇宙省に報告されたが、宇宙省は、いくつもの異星人との頭の痛い交渉ごとに追われていた。きわめつけが、外交のない異星宇宙船がかつて彼らのひとりを地球人が誘拐したとして、帰さなければ地球を破壊すると脅しているのである。
 ラモックスをめぐり引き起こされる田舎での警察、弁護士、裁判所をめぐる騒動。ジョン・トーマスと、気の強い相棒のベティをめぐる騒動。宇宙省内部の権力争いや、政府とのやりとり、軍との騒動。異星人達やマスコミなどとの騒動。などなど、現代社会を戯画化して、ハインライン特有のユーモアと民主主義と人に対する条件を折り込みながら、物語はジュブナイルならではの大団円に向かって突き進む。読み終わったらきちんと爽快。そして、悠々たるラモックスの6トンもある愛らしさよ。
 さて、近々、大森望訳による完訳版を読んで、同じような読後感が味わえるか試してみたい。
 ちなみに、1954年に書かれた本書でも、地球人口は50億人である。
 もひとつ、思い出しついでに、私が小学校6年生のときに、それまで持っていた文庫のSFの表紙をはがしてしまった。なぜだろう。そのため、本書も表紙がない。残念。
(2006.09.18)

非Aの世界

非Aの世界
THE WORLD OF NULL-A
A・E・ヴァン・ヴォークト
1945
 第二次世界大戦終戦の年に発表され、日本では文庫として1966年の冬に登場している。私は、1979年の第20版を所有している。300円。近年、新装版として再発行されたが、在庫限りのようである。
 SFの中では、歴史的作品として名高い。今回、おそらく初再読であるが、初読は高校生の頃だろう。どうにも、入り込めなかったのを覚えている。たしか、続編の「非Aの傀儡」も持っていて、読んでいたはずなのだが、手元にない。記憶もおぼつかない。
 今回、読み終えて、それでも腑に落ちない点があり、ちょっとネットで調べたら「一般意味論」とアリストテレス(A)の前提の否定についての解説を見つけ、ようやく得心がいった。20世紀初頭から1933年頃に形成された理論というか、考え方だったのだね。
 それを前提にしてヴォークトがSFに仕立て上げたわけだ。20世紀後半に、エコロジー思想が一部のSFに取り入れられていったように。ふうん。
 それで得心がいったからといって、どうなるものでもないのだが、その非A=一般意味論がある故に、話しがややこしくて、私には理解できなかった作品である。今も、すっきりしたとは言えない心持ちである。私の理解力は浅いのだ。
 さて、2006年の時点で読み直してみて、「機械」(世界をコントロールするコンピュータ)と、その機械が行うゲームによって職業などが決まるという社会や、拡張された脳、クローンと、同一性確保による記憶の移転での「無限の生」など、現代SFではナノテク・ヴァーチャルリアリティ技術・バイオ技術などによって表現される外挿が行われている点で、歴史的名作であろう。
 また、ひとつの考え方や方法論を外挿するとどのような作品が可能なのかを理解させる点でも、優れた作品かも知れない。
 話しはというと、非A者であるギルバート・ゴッセンは、機械によるゲームによって非A者の世界である金星に行くことを願っていた。しかし、自らの記憶が偽りのものであることを知った彼は、宇宙規模の陰謀に巻き込まれていることを知る。一度は殺され、その記憶があるのに、再び彼は生を得て、金星で目覚める。自分に一体何が起きているのか、誰が自分を殺そうとするのか、誰が自分を操っているのか、誰がどんな目的で彼の記憶を操作しているのか。様々な疑問を自ら解決しつつ、次第に判明する地球と金星の危機に対応するためにギルバート・ゴッセンは、彼をサポートする人たちとともに奮闘する。
 というところでよいのかな。
 つい先日読んだばかりなのに、私が非A人ではないばかりに、作品のイメージすらおぼつかない。とほほ。
 さてと、1945年に書かれた本作品だが、舞台は2560年。2018年に一般意味論協会が金星の非A的可能性を認識し、2100年代に非A的能力を伸ばすための機械によって選別された人が金星に来るようになっていた。舞台の2560年頃の地球人口50億人。金星には2億4千万人が暮らしている。
 大体、20世紀中葉の作品では地球人口が50億人ぐらいで、当時の予想人口の倍というのが多い。50億人は多かったのであろう。
(2006.09.17)

シンギュラリティ・スカイ

シンギュラリティ・スカイ
SINGULARITY SKY
チャールズ・ストロス
2003
 この作品も、イギリス作家による「特異点」ものである。こちらは、人類(地球)出自なのか異星生まれなのか分からないが、「二十一世紀なかごろの夏のある日、青天の霹靂のごとく、前代未聞のなにかが人類文明という活発な蟻塚に入り込んで、棒でかきまわした。その主体--人間の精神が蛙の精神を凌駕しているのと同じくらい、拡張された人間の頭脳を凌駕する、とてつもない超人的知性の顕現--は問題ではなかった。それがどこから、そしてもちろんいつから来たのかは別問題だった。」(ハヤカワ文庫SF 211ページ)ということで、人類文明のシンギュラリティ(特異点)を迎える。人口100億人の地球から90億人が瞬時に消え失せ、宇宙のかろうじて居住可能な惑星に分散放出された。
 そして、各惑星にはこんなメッセージが残される。
 「われはエシャトンなり。汝の神にあらず。
  われは汝に由来し、汝の未来に存する。
  汝、決してわが過去光円錐にて因果律を犯すなかれ。」(同212ページ)」
 ということで、地球と、宇宙各地に分散された人類社会は、あるものは人類のままに、あるものは電脳空間にアップロードし、あるものは変容して独自の道を歩み、やがて、超光速移動手段や瞬時伝達システムを開発していく。ただし、もし、超光速移動手段を転用して自らの光円錐の過去に立ち入ろうとすれば、あるいは、それを改変しようとすれば、すぐにエシャトンによって破壊あるいは壊滅、あるいは抹消された。
 エシャトンはこの宇宙の護り主であった。
 さて、舞台は、超封建・保守の科学技術の民間転用を否定する社会である新共和国のもっとも若い植民地となったロヒャルツ・ワールドで幕を開ける。フェスティバルが宇宙からやってきたのだ。フェスティバルは、宇宙航行する知性体である(らしい)。フェスティバルは、電話を宇宙から落とし、「もしもし、わたしたちを楽しませてくれますか?」と問いかける。そして、なんでもいい、「情報」を与えたものには、その望みをかなえてくれるのだった。
 あっという間に、支配者と非支配者の経済社会は崩壊し、革命が起こる。武器も、金も、食べものも、病気も、あらゆることが、望むだけで手に入るのである。
 新共和国の首都惑星ニュー・モスクワでは皇帝が、フェスティバルによる混乱を侵攻と認め、最新の宇宙軍部隊を出動させる。80光年離れたロヒャルツ・ワールドまで、超高速移動を行うのだ。その最新艦には、艦を売った地球企業から制御回路を更新するために派遣された技師マーティン・スプリングフィールドが搭乗していた。なにものかの指示によって、仕事以外の装置取り付けを行うマーティン。そして、もうひとり、地球国際連合多星間軍縮常設委員会の特別査察官・大使館づき武官のレイチェル・マンスール大佐。もちろん、その肩書きは表で、実際は国連外交情報部特殊作戦班、すなわち彼女もなにかの目的をもった諜報員である。さらに、マーティンをつけねらうために統制省から派遣された新米の秘密警察刑事ヴァシリー・ミューラー代務官。かれら、3人の非軍人と、すでに耄碌した提督以下の軍人諸氏を乗せて、いざ艦隊が出発した。艦隊は、その超封建・保守国家主義を猛進する軍人達によって宇宙規模では危険な暴走を開始する。
 さて、エシャトンはどうするのか?
 そして、フェスティバルの襲来を受けたロヒャルツ・ワールドの人たちと世界はどうなるのか?
 さらには、スパイ・レイチェルと、レイチェルによってはからずも二重スパイのような格好になってしまったマーティンとの大人の恋は成就するのだろうか??
 主人公のひとり、レイチェル・マンスールが2049年の地球生まれで、150歳だから、主観年で2199年。23世紀のはじまりだか、中葉といったところか。
 ざっと舞台設定を書くと、アクションSFのようなのだ。実際、話としても、ハードSFな設定に気楽なアクションストーリーが乗っかっていたりする。
 ただ、それだけで終わらせないのが、イギリス流。
 プレ・シンギュラリティ原文明(まあ、ぶっちゃけ現在のことだ)で「提起された仮説であるゾンビとは、意識があるようにふるまうが、じつは自己意識を持たない存在のことだ。笑い、泣き、話し、食べる、総じて本物の人間そっくりだし、問われれば意識があると主張する--しかし、表面的な行動の下にはだれもいない。内在化された世界モデルが息づいていない」(同138ページ)
 このゾンビ仮説を検証する人類とは縁がかろうじて存在する批評者「クリティック」の目を通して語られる意識論は、まさしく21世紀初頭的な「文明批評」である。
 こういう直接的な文明批評(哲学的検証)などが織り交ぜられているあたり、イギリスの作家だなあ。
 それにしても、何度も書くが、ハヤカワ書房はどうしてしまったのか? それとも、アメリカSFは冬の時代なのか? イギリスSFがブームなのか? ミステリーだ。
(2006.09.10)