黄金の幻影都市

黄金の幻影都市
OTHERLAND vol.1 CITY OF GOLDEN SHADOW
タッド・ウィリアムズ
1996
 いやあ、長い。長いよ。アザーランドシリーズの第一弾「黄金の幻影都市」は、ハヤカワSF文庫から2001年に5冊立て続けに出されたのだが、これで1冊の内容だという約350ページが5冊だから、ざっと1700ページ。5年ぶりに読み返してみたが、やはり長い。時々疲れながらも、しっかりといくつかのストーリーを追いかけてみた。
 話は、ちょっとした未来。それほど遠いわけではない。生活もそれほど今とは変わっていない。戦争があったり、大変動があったりしたが、それでも金持ちは金持ちだし、貧乏人は貧乏のままだ。
 そこそこ学と金のあるものは、情報のアクセス力を持ち、生活を向上させることができる。どちらかひとつが欠けるものは、生活を変えることもままならない。
 物語は、5つの小枝を交互に飛び移りながら、少しずつ世界をかいまみせる。
 5つの小枝。
 第一次世界大戦の兵士として悪夢の中にいるポール・ジョーナスは、やがてジャックと豆の木のような世界へと誘われる。失った記憶の中で、次々に変わる世界。ポールを追う者がいて、ポールは逃げなければならない。なぜかは知らぬが。
 レニー・スラウェヨは、カレッジの教員として3次元のネットワーク・プログラムを教えている。電脳仮想空間に移入して、その世界での行動やシステム設計を行うのだ。!Xザップは彼女の最も新しい学生で、サン族、ブッシュマンのひとりである。レニーには、働かない父と、電脳ゲームや軽いハッキングにあけくれる弟がいて、彼女が働くことで彼らはなんとか人並みの生活をしていた。しかし、弟が、電脳空間にいる間に植物人間となってしまう。ネットと切り離しても意識が還ってこなかったのである。本来あり得ない事故に、レニーは深い陰謀の影をみつけ、!Xザップとともに、弟を救うための調査をはじめ、そして、事件に巻き込まれていく。
 軍の住居区で暮らすクリスタベルは、好奇心と想像力豊かな少女。大きな事故で部屋から動けないのに訪問を禁じられているミスタ・セラーズのもとを訪ねるのが密やかな彼女の冒険となっている。ミスタ・セラーズにはなにか大きな秘密があるのだ。そして、大人達は、彼を恐れているらしい。
“恐怖”と自らを名乗る変質者は、隠された電脳空間では、オリシスの神にアヌビスとして仕えさせられている。いつかは神の座を狙いながら、も、神の力の大きさの前に、電脳空間でも現実でも、彼は”恐怖”に怒り、恐怖をまき散らす。
 オーランドとフレデリックは、電脳空間で知り合った友人同士。おたがいの住所も、年齢も、家族背景も知らない。しかし、現実以上に彼らは友情を結んでいた。オーランドの化身たる伝説のサルゴーは剣士として、フレデリックの化身たるピスリットは盗賊として、ゲーム界に尊敬され、君臨していた。しかし、サルゴーは、ありえないできごとで殺されてしまう。オーランドは、フレデリックとともに、電脳空間で起きている「何か」を探し始める。まるで、それが生きる証につながるかのように。
 「黄金の幻影都市」では、この5つの物語が流れながら、やがてひとつの大きな物語に結びつこうとする。
 レニーやオーランドが見た黄金の都市の立体映像は真実なのか?
 あるとすればどこにあるのか?
 現実と区別のつかないような電脳空間は存在可能なのか?
 もし、存在するとして、それは、何のため、誰のためのものなのか?
 5つの物語それぞれに、魅力あふれる登場人物が出て、ていねいに書き込まれている。それゆえに長いのだが。
 そして、5冊目を読み終わったところで、叫ぶしかない。
「続きは?」
 あんまりだ。第一部は、第一部に過ぎないのか。
 そりゃあ、そこまででもRPGのように遊ばせてもらったけれど、1700ページを読んできて、そこで終わるの?
 1~5冊の間に、たくさんの伏線がはられ、そのいくつかが現れ、そして大きな伏線を作っておいて、第一部のご購読ありがとうございました。引き続き第二部をお楽しみください。ですか。
 いや、第二部以降、翻訳されているのなら、こんな風には書きませぬ。
 それから5年。放置しっぱなしですか。
 売れなかったのかなあ。
 おもしろいのか、おもしろくないのかさえ、まだ言えない…。
 長い。いろんな意味で。
ちなみに、第一部「黄金の幻影都市」の各巻の副題
1 電脳世界の罠
2 赤き王の夢
3 青い犬の導師
4 闇の中の宇宙
5 仮想都市テミルン
(2006.12.6)

宇宙零年

宇宙零年
THEY SHALL HAVE STARS(YEAR 2018)
ジェイムズ・ブリッシュ
1956(1970)
 宇宙都市シリーズの第一弾である。1981年にタイタン基地が設立された歴史の人類史である。2013年に物語はスタートする。20世紀後半に人類は宇宙開発に着手したものの、21世紀初頭にかけてその取り組みは芳しくなく予算も削られていった。
 そんななかで、ひとりのアメリカ合衆国議員が途方もない計画を打ち上げ、それはいつの間にか予算化され、実行に移されていた。木星での「橋」の建設である。何のための「橋」なのか? 軍事目的なのか? 単なる研究なのか? それを知るものはほとんどいない。
 一方、宇宙の各地の土をサンプルとして集め、そこに含まれる微生物の生成物を研究している製薬会社があった。そこには、軍人や政治家の影がある。その企業の目的は? 何を研究しているのか? 誰のために? 何のために?
 ひとりの木星の研究者が、ひとりの宇宙パイロットが、それぞれに「謎」をかかえ、謎に迫ろうとする。
 人類が太陽系を超えてゆく未来史の前史を語る作品が登場した。
 それが、本書「宇宙零年」である。
 壮大な木星を舞台にした「橋」の光景を想像できるだろうか?
 1950年代の知識をもとに、木星を描いたジェイムズ・ブリッシュの意欲作と言ってもいい。  ちなみに、本シリーズは、「宇宙零年」「星屑のかなたへ」「地球人よ、故郷へ還れ」「時の凱歌」の4作品があり、1955年から62年に発表された、SF黄金時代のシリーズである。それゆえに、設定や内容はたいへんに古い。たいへんに古いが、当時としては、「ハード」なSFであったのである。
 なんといっても50年前のSFである。
 まだ、抗生物質によって微生物による感染症は壊滅できると信じられていたし、宇宙は目の前に広がっていたのである。
 今や、生物の適応力のすごさをあらためて知らされ、宇宙の広さの前にあたかもおびえるかのように開発の手は止まっている。
 50年前のような底抜けの明るい科学技術展望は必要ないにしても、その希望に裏打ちされたエネルギーは見習いたいものである。
 ちなみに、私の手元には、「宇宙零年」と「星屑のかなたへ」だけが残っている。高校生の当時、読んでつまらなかったのかなあ。
 古いハードSFだものね。
(2006.11.29)

2061年宇宙の旅

2061年宇宙の旅
2061:odyssey three
アーサー・C・クラーク
1987
 2061年。今から55年後。むうう。生きているかなあ。不可能ではないが可能性は低い未来だなあ。どんなことになっているのだろう。想像もつかない事態、社会、状況だろうなあ。
 さて、2001年宇宙の旅で、20世紀最後の歴史的イベント、月のモノリスの発見と、太陽系を巻き込む「目覚め」に立ち会ったヘイウッド・フロイド博士は103歳になっている。現住所は、月。つまり、フロイド博士は、1958年生まれで、私より7歳年上ということである。
 ところで、2001、2010ときて、「2061年宇宙の旅」なのだが、どうして2061なのだろうか?
 それは、ハレー彗星が再訪するからである。1986年より数年前までに生まれた人ならば、ハレー彗星のことを覚えているだろう。本書は、その翌年に発表されている。むざむざと通り過ぎるのを見過ごしたクラークは、次のハレー彗星到来というイベントを、3番目の「宇宙の旅」に選んだ。主人公は、103歳になっても矍鑠たるフロイド博士を選び、低重力下に置くことで、老化を遅らせるというテクニックで読者にフロイド博士のその後を楽しませてくれることとなった。
 ところで、ハレー彗星は、公転周期75.3年で、2回見るためには76歳以上生きることと、タイミングよく若い内に1回目を見ることが欠かせない。幸い、私はすでに1回目を体験しているわけだが、2回目となるとどうだろう。厳しいかなあ。なんとなく見たいなあ。
 さて、「宇宙の旅」の世界では、2000年12月31日に、長距離通話料金の廃止により、全世界が低料金でコミュニケートできるようになり、2006年の今年は、月のモノリスが掘り起こされて国連広場に置かれることとなった。その後、エネルギーが原因と見られる戦争が起こるが、世界大戦に広がることはなく、2033年、東京大地震、2045年、ロサンゼルス大地震を経て、世界は平和な時代を迎えていた。
 宇宙では、前作「2011年宇宙の旅」にあるとおり、太陽系が激変を迎え、それに合わせたかのように人類は火星や木星近辺を中心に宇宙開発や探索を続けていた。
 本書「2061年宇宙の旅」は、そんなときの太陽系イベントであるハレー彗星回帰である。中国系の企業グループのオーナーが高速豪華客船を建造し、ハレー彗星研究と訪問を計画、フロイド博士もゲストとして呼ばれることとなったのである。
 一方、木星をめぐる衛星では、驚くべき発見がなされ、密やかに陰謀が起こりつつあった。
 モノリスの発見と、宇宙における人類を遙かに凌駕した知性体の存在に気がついた人類は、いまだ他の知性体にめぐり会うこともなく、太陽系に世界を広げつつある。  果たして、モノリスを生んだ存在は何者なのか? そして、太陽系では何が起こりつつあるのか?
「2001年宇宙の旅」の世界で、新しい発見と冒険がはじまる!
 ということで、今回は、楽しいエンターテイメントSFである。懐かしい登場人物、新しい登場人物が宇宙船内部や新たな場となった木星の各衛星などを舞台に人間らしくドラマを繰り広げる。
 2061年…見ることができるかも知れない可能性のある未来である。
 私はどうかわからないが、人類が極度に激しい変化に見舞われない限り、この数字は意味をなすであろうし、現時点で生きていてそこまで生きるものも多くいるだろう。
 50年前のSFを読むと現在とのギャップが痛いほどに目につく。進みすぎた未来、古すぎる未来である。本書「2061年宇宙の旅」もまた、2061年になったら、荒唐無稽なものとして見られるとともに、20世紀後半の人の想像する未来を振り返ってみるという楽しみができるのであろう。
 クラークのすごさは、可能性のすごさである。21世紀になって、長距離電話はあくまでも長距離電話だが、IP電話の普及によって、クラークが書いた「長距離通話料金の廃止」と同様の事態が起きている。
 東京やロスの地震も起こるであろうし、エネルギーが原因の戦争も起きている。残念ながら、簡単には終息する気配はないが。それらを踏まえた上で、クラークは希望を込めて平和の時代を予言する。この予言を実現するのは、その時代時代に生きている人間の力である。未来を描くSF作家は、その作品を通じて、読者に未来を決める動機を与えているのだ。
(2006.11.29)

2010年宇宙の旅

2010年宇宙の旅
2010:ODYSSEY TWO
アーサー・C・クラーク
1982
 1968年、アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリック(クーブリック)は、映画と小説で「2001年宇宙の旅」を公開し、世界に衝撃を与えた。この映画と小説は、2001年を過ぎた今でも色あせることはない。
 しかし、クラークにとって、キューブリックとの共同作業は、かなり神経に応える作業であったらしい。小説版も発表までにはキューブリックとの権利関係等もあり、内容の確認を得るまでに時間がかかったという。それでも、小説版はクラークの小説らしく、映画版はキューブリックの映画らしく仕上がり、どちらもすばらしい作品であった。
 さて、そのキューブリックはとうにこの世を去り、一方、巨匠クラークは、本人の予想以上に長生きしている。
 本書「2010年宇宙の旅」は、そのクラークが、1982年に発表した「続編」である。さて、この「続編」であるが、何の続編かというところがまず、第一のポイントである。本書「2010年宇宙の旅」は、映画「2001年宇宙の旅」のシナリオを受けた形で、その「続編」的な作品となっている。小説版「2001」の最終目的地は土星の衛星であり、映画版は木星の衛星であった。また、小説版では、スターチャイルドになったボーマンについて詳しく書かれており、ディスカバリー号の人工知能HAL9000についても、なぜ「狂った」のかについて書かれていたが、映画版では、その性質上、そのあたりはつまびらかにされていなかった。
 そこで、クラークは、読者の要請を受けるという形で、本書「2010年宇宙の旅」をしたためることになったのだ。しかし、そこはそれ、クラークである。「2010年宇宙の旅」は、小説版、映画版「2001年宇宙の旅」との多少の齟齬や設定の違いがあると、「はじめに」で明言している。それは、1968年から1981年までの科学的な発見や技術的な変化を受けて書かれているからである。
 クラークいわく「もちろん、それも二〇〇一年にはふたたび時代遅れになってしまうのだろうが…」と書いているが、なかなかどうして、読み応えのあるものであった。
 2006年の今日は、2001年を過ぎ、2010年には届かない微妙な時期である。ところどころに古くなった技術や社会があり、そして、あいかわらず「うらやましい」宇宙像が描かれている。
 さて、本書「2010年宇宙の旅」であるが、主人公は「2001」で最初に登場したヘイウッド・フロイド博士である。2001年の出来事で乗務員を全員失ったことへの失意の内に、最前線を引退し、ハワイ大学学長としてゆったりと過ごしていたフロイド博士は、予定されているアメリカのディスカバリー号サルベージ計画を遠い関心事にしていた。しかし、ロシア(ソ連?)側が、木星衛星軌道上のディスカバリー号が予想外の動きをして、衛星に墜落する可能性を示唆、アメリカ側の計画では間に合わないことを明らかにするとともに、ロシアが建造した宇宙船アレクセイ・レオーノフ号にアメリカのフロイド博士ら3人を乗船させ、共同でサルベージする計画を提案した。その提案をうけてフロイド博士らはロシア船に乗り込み、木星をめざす。途中、科学技術的鎖国を続ける中国の宇宙船の追い上げなどもあり、緊迫するが、結果的にはレオーノフ号がディスカバリー号に到着、HAL9000を再起動、再教育していくとともに、ボーマン失踪の原因となった巨大なモノリスの探査をはじめる。
 しかし、彼らが想像も絶するような出来事が起こり、地球、地球人は、自分たちの宇宙観を変える事態になったことを知らされるのであった。
 そして、エピローグは20001年。人類はいまだ存続しているようである。
「2001年宇宙の旅」も壮大なお話しだったが、この「2010年宇宙の旅」も壮大なお話しである。今回の主役はなんといっても「木星」だ。木星の大きさ、偉大さ、想像を絶する世界が見事に書き描かれている。このクラークの想像力、描写力に乗って、宇宙の大きさや不思議さを楽しむことができるだろう。
 すくなくとも、いまだ木星は未知の領域にあるのだから。
 ところで、クラークと「予言」はいまだ縁が切れない。本書では、2005年に大きな津波があり、ハワイ諸島にもおしよせたらしい。このあたり、2004年末のスマトラ沖の大地震と津波を思わせる。こういうエピソードの予言力もまた、クラークのすごさを物語る。
(2006.11.18)

2001年宇宙の旅

2001年宇宙の旅
2001: A SPACE ODYSSEY
アーサー・C・クラーク
1968
「決定版2001年宇宙の旅」とある1993年に新訳された「2001」である。本書「2001年宇宙の旅」については、映画「2001年宇宙の旅」との関係について整理しておく必要がある。映画「2001」はスタンリー・キューブリック監督による作品である。この映画「2001」は、キューブリックが宇宙SFを企画し、クラークのいくつかの短編を軸に作品を考えていた。そこで、クラークにキューブリックから脚本のオファーがあり、脚本を書く前に、クラークが、映画の原作になりうる長編小説を書き、それをもとに脚本を作成するという段取りになった。クラークがアメリカでキューブリックと議論をしながら、映画用、小説用にアイディアを出し合い、それを積み上げて、本書「2001年宇宙の旅」が書かれ、平行して映画「2001年宇宙の旅」が制作された。この制作の過程で、キューブリックとクラークの関係は悪化し、後日様々な発言があり、また、周囲もそれぞれの立場で映画と小説について意見を述べている。
 ただ、誰もが認めるのは、映画「2001年宇宙の旅」は、映画史上に残る名作であり、SF映画の中では最高傑作のひとつであるということだ。それは、2001年を通過してしまった現在でも変わることはない。小説「2001年宇宙の旅」もまた、SF史上に残る傑作のひとつであり、欠かすことのできない作品である。この映画と小説は、キューブリックとクラークというふたりの天才的クリエイターが共同作業をすることによってはじめて生み出されたのである。
 映画も小説も、人類が月に降り立つ以前に発表され、そして、SF小説、特撮、SF映画、文化、科学、宇宙開発に対して大きな影響を与えた作品である。
 さて、キューブリックが死に、クラークは21世紀の今もいまだ生きている。クラークは、生きているものの強みとして、「2001」について様々なことを書き、「2010」「2061」「3001」をしたためた。その点で、クラークの勝利である。生きているものは何でも言えるのだ。
 小説としての「2001年宇宙の旅」は、とてもわかりやすい作品である。
 20世紀末、月の裏側で異常な磁気を観測、その地点を掘ってみたら、黒いモノリスが出てきた。調査によれば300万年前に埋められたものらしい。モノリスは、太陽の光を浴び、太陽系全体をゆるがす信号を発信した。それは、土星方向に向かっていた。数年後、初の太陽系探査船ディスカバリー号が本来の目的であった木星から予定を変更して土星に向けて旅立つ。起きている乗員はふたり。そして、人工知能HAL9000。冷凍睡眠しているのは3人。無事スイングバイによって木星を通過したところで、HAL9000は乗務員に告げる。「お祝いの邪魔をして申し訳ないが、問題が起こった」。そして、事件が起こる。
 なぜ、HAL9000は狂ったのか? ボーマンは、土星の衛星上にあった巨大なモノリスを通してどこに行き、どうやってスターチャイルドになったのか? スターチャイルドは地球に帰ってきて、何をしようとしたのか? そして、モノリスを設置し、ボーマンをスターチャイルドにした宇宙種属の目的は何か? 彼らはどこにいったのか? そういったことに一定の答えが書かれている。
 映画を見て、それから、本書を読むとよい。ひとつの解釈として、整理されるはずだ。そして、映画を見ていなくても、本書を読むとよい。どちらも独立した作品であるからだ。
 ただ、間違えてはいけない。本書は映画のノベライズではない。また、純粋なクラークの作品でもない。
 やはり、本書はクラークの色の濃い、クラークとキューブリックの作品であり、映画は、キューブリックの色の濃い、キューブリックとクラークの作品なのである。  どちらも尊重し、楽しんでほしい。
 映画しか見ていないのならば、ぜひ、本書を読んでほしい。いつまでも絶版することはないだろうから。
 それにしても、クラークじいさんはすごい。ハインライン、アジモフ、クラークと三大巨頭といわれたSF界の去勢の中で、最後まで生き残り、巨頭中の巨頭として、今もSF界に君臨しているのである。
(2006.11.12)

ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス

ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス
THE GOLDEN AGE : A ROMANCE OF THE FAR FUTURE
ジョン・C・ライト
2002
 解説によると、本書「ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス」は三部作の1作で、そもそもは3作品あわせて1作品として執筆されたそうである。昨今の文庫は、以前に比べて文字が大きくなり、行間も広くなっているので一概には言えないが、本書で約630ページ。3作品が同じくらいの量だとすると2000ページ近くになるのである。ぐはっ。
 ということで、現在のところ、第一作しかでていないので、あまり感想などを書くべきではないのかもしれない。とりあえず読んだので、ほどほどにしておこう。
 遠い未来、主人公の「ファエトン・プライム・ラダマンテュス・ヒューモディファイド(オーグメント)・アンコンポーズド、インディプコンシャスネス、ベーシック・ニューロフォーム、シルヴァーグレイ・マノリアル派、エラ七〇四三(ザ・リアウェイクニング)」は約3000歳になり、新たな千年紀のはじまりを祝う祭りの中にいた。そのヴァーチャルな仮面舞踏会では、通常当然とされる相手の属性を示す識別のコードが使えない。ファエトンはハーレクインの格好をして舞踏会会場を離れ、小さな森と庭園を散策していた。そこに、不思議な老人、本来そこにいるはずのない海王星人、世界唯一の軍人が次々に彼の前にあらわれ、フェアトンと知ってか知らずか、彼に言葉をかける。
 フェアトンは、以前、この世界を危機に陥れるような重大な事態を引き起こしたという。それにより非難され、それにより英雄視される。しかし、フェアトンにはその記憶はない。自らの記憶を探せば、そこに大いなる欠落を見いだした。かれこれ250年ほどの記憶に欠落がある。この、すべてを記録し、データ化し、自由を謳歌する時代にそんなはずはない。この、超機械知性体に守られ、自らも超知性体となり、不死を獲得し、それぞれに独自の行動規範を持つ知性体で構成された社会に、誰かが誰かの記憶を削除することは許されないはずである。なぜ、彼には記憶の欠落があるのか? もし、それを起こしたとすれば、それは自身が決断したはずである。なぜ。そして、この不思議な件を追求するうちに、彼は、自身とその妻が一文無しであることを知らされる。世界でも有数の古く、有名で、かつ、大いなる資産を持つ父の息子である彼が持っていたはずの資産はすべて失われ、父の援助のみで生きていたのである。あったはずの彼の資産はどこにいったのか?
 フェアトンは知る。彼が記憶を取り戻すということは、彼自身にも、世界にも大きな影響を与えるということを。そして、彼は記憶を取り戻す代わりに、すべてを失うということを。
 フェアトンは、記憶を取り戻すのか? そして、フェアトンが起こした事件の真相とはなにか?
 3000歳の青年であるフェアトンの自分探しの旅を通して、私たちは遠い未来のまか不思議なありようを知る。それは、もはや人類とは言えないのかも知れない。しかし、人類的な思想や行動規範を持つ知性体であることは間違いない。
 この高慢で、自己満足で、自意識過剰で、自己愛に満ちたフェアトンの旅を、読者は好感を持って読むだろうか? それとも、フェアトンという主人公を卑下しながらも、この世界に引きつけられていくだろうか?
 もはや、この遠い未来の世界では、ひとりのフェアトンという属性に対する感情移入さえ許さないのだろうか。そんな小説が成り立つのだろうか?
 そもそも、このフェアトンの正式名称にみられる名前の長さと、それに込められる属性と意味をみよ。これは、英語であればおおよそ、なんとなく、雰囲気がつかめるであろうが、日本語で名前を書くわけにもいかなかったのだろう。カタカナ表記にしてある。本書「ゴールデン・エイジ1 幻覚のラビリンス」は、久しぶりに英語と日本語の言語的プロトコルの違いを意識させられる作品である。そして、アメリカSFらしい作品である。
 さて、あと2冊。私は読むのか? 読まないのか? どうする?
 一応、これは全部読んだけれども。そして、それなりにおもしろかったけれども。何より長いからなあ。
(2006.11.12)

殺意の惑星

殺意の惑星
PLANET OF THE DAMNED
ハリイ・ハリスン
1962
 人類は宇宙に拡散し、それぞれの植民惑星で繁栄した。しかし、その後、人類は大崩壊の時を迎え、各植民惑星はそれぞれの力で命と文明を維持するほかなかった。へびつかい座七十番星の惑星アンヴァールは幸いなことに自立できる食料を調達できた。辺境のあったため、もともと星間貿易にも恵まれず自給自足ができていたからである。しかし、惑星アンヴァールは厳しい惑星でもあった。780日の1年の大半は太陽から離れた厳しい冬の季節を過ごし、わずか80日ほどの短い夏にすべての動植物が活動し、繁殖する。アンヴァールの人類、アンヴァール人もまた、この自然にあわせて適応進化した。冬の時期は厚い皮下脂肪層と長い睡眠で耐え、急激な夏に代謝を上げ、汗腺を活発にし、そして、睡眠中枢が抑制されて、短い夏に狩りをし、作物を収穫し、そして、長い冬に向けて保存するのだ。そのため、アンヴァール人は夏と冬では性格も大きく異なる。そして、退屈な冬の間、アンヴァールの文化は、二十種競技という妙案を編み出し、それに向けてすべての人々が熱中する。二十種競技は、スポーツと知的ゲームを組み合わせた競技会で、毎年ひとりの優勝者を選ぶ。それこそが、700日におよぶ長い冬の退屈と精神の防いできたのだ。そして、知的にも肉体的にも優れ、エンパシー能力さえも持った超人を生み出すことにもなった。
 今年の優勝者ブライオンは、元優勝者イージェルによって惑星外に連れ出される。エリダヌス座イプシロンの第三惑星ディスと惑星ニーヨルドの惑星間戦争の危機を防ぐためである。ディスの人類は、コミュニケーションを失い暴力に満ちたディス人となり、一方、ニーヨルドの人類は、争いを知らず知的精神を拡大させたニーヨルド人となっていた。本来なら相まみえることのない2種属だが、ディス人が惑星を崩壊させる力を持つ兵器を入手し、ニーヨルドへの侵攻を求めたため、ニーヨルド人は、冷静に対応し、その結果、ディス人を滅ぼすという決定を下したのである。いくら暴力的なディス人といっても、彼らもまた人類の末裔であり、惑星ディスに適応した知的生命体でもある。このどちらであっても大虐殺になる事態を止めるため、イージェルは、超人であるブライオンと、地球人の宇宙生物学者兼人類学者の女性であるリーの3人が惑星ディスに乗り込んだ。ニーヨルド人によるディス人の全滅兵器の使用まで残り時間は数日。果たして彼らはこの危機を回避できるのか?
 本書「殺意の惑星」は、エコロジーテーマの作品とされる。アンヴァール人、ディス人、ニーヨルド人、そして、地球人。いずれも、同じ人類であるが、数世紀を経てそれぞれの惑星に適応し、独自の文化、心理、身体状況をつくりだしている。まあ、数世紀でそんなに変わるものではないが、そこのところはご愛敬。その中で生まれた超人と、地球人のヒロインが惑星間戦争の危機を止めようとするのである。ディス人はどうして暴力的なのか? アンヴァール人はどうやって長い冬を耐える二十種競技を生み出したのか? ニーヨルド人はどうして暴力的な意識を捨てることができ、そのニーヨルド人にして論理の末にディス人を絶滅させるべきという恐ろしい発想に立つことができたのか?
 1960年代のSFであり、その科学的なつっこみは弱いが、生存に欠かせない環境条件が、人間の精神や社会、行動、身体に大きく影響を与えるという視点で書かれている点が「エコロジーテーマ」であり、本書のおもしろさである。もちろん、超人と暴力的な人類が出てくるわけで、そのアクションシーンも欠かせない。往年のアーノルド・シュワルツネッガーに配役したいような主人公のブライオンである。その点で楽しく軽く読むことができる。
 本書「殺意の惑星」は、1978年6月にハヤカワ文庫で登場している。私は古本で、1974年に発行されたハヤカワSFシリーズ(銀背)を手に入れている。もちろん、どちらも絶版であるが、最近はこういう軽く読めるSFが減っており、重厚長大作品ばかりになっているので、今再版する価値はあると思う。設定などは古くさいが、映画のシナリオといってもおかしくないぐらい、バランスのとれたよくできた作品である。
(2006.11.12)

この人を見よ

この人を見よ
BEHOLD THE MAN
マイクル・ムアコック
1968
 1940年に男は生まれ、1970年に男はタイムマシンに乗って紀元28年にたどり着いた。男の名はカール・グロガウアー。幼い頃に父と別れ、母とともにロンドンで暮らしていた。カールは、いつも「自我」に悩まされていた。自分と他人との関係、自分と世界との関係、自分と自分との関係。自分を見つけることは、なにか深く暗い穴を見つめることだったのかも知れない。他人と関係することで、自分がその相手によって変わることにとまどいを覚え、自分とは何かについて悩み続けていた。男は、精神医になりそこね、ユングの研究に希望を持っていた。男は、十字架に異常な執着を覚えていた。キリストが磔とされた十字架。だから、彼は、それほど深く考えずに、紀元29年のキリストの磔刑を見ようと、すすんでタイムマシンの試作品に乗り込んだのだった。そして、1年前の紀元28年にたどりつく。タイムマシンは壊れ、二度と帰れない未来が1940年分待ちかまえる。
 もし、現代にイエス・キリストが生を受けたら、彼はどのように育ち、どのように生きるのだろうか? 彼は、たとえ彼が神の子であるとしても、現代の預言者であることができるだろうか?
 本書「この人を見よ」では、1945年に神が死んだと、神の子としての啓示を受ける男が心の内で叫ぶ。
 1945年、原爆が投下され、大きな戦争が終わった年である。
 ところが、神はどうやら生きていたらしい。
 21世紀を迎え、世界は神の名の下に人が行う争いに満ちている。つきつめれば、同じ神を信仰しているにもかかわらず、その信仰のしかたが気に入らないのか、相手を憎み、殺し、憎み、殺している。
 私には、神のことはわからない。神が生きているか、死んでいるかも分からない。
 しかし、この国でさえも、いまをもって「現人神」が「人間」としてたたえられているのである。そして、それへの傾倒は以前よりも高まっている。公然と、「人間」を「神」とたたえる者が増えている。
 もし、現代に、神の使いが生を受けたら、彼ないし彼女は、あるいは「それ」は、どのように育ち、生きるのだろうか。神の使いとして受け入れられるのだろうか。現代において、神の代弁者として生き、死に、そして、新たな聖なる書が生まれるのだろうか。
 21世紀と言っても、いまも、2千年前と変わらないのだろうか?
 本書「この人を見よ」は、SFとしてはシンプルな作品である。現代人(といっても1970年に30歳を迎える男であるが)が、イエス・キリストの生きた時代に飛び、歴史の中に埋もれていく物語である。
 ムアコックは、死んだはずの「神」を殺したのでも、キリスト教を冒涜したのでもないだろう。現代人という精神のありようについて、イエス・キリストの時代に焦点を当てることで、逆に描き出そうとしているのであろう。この作品が書かれてからまもなく40年になろうとしている。はたして、ムアコックが描こうとした現代社会の病理は治癒したのだろうか、深まったのだろうか? 政治に再び神の名が介在している現在、本書「この人を見よ」を読む価値はある。
 といっても、本書「この人を見よ」を再読しようと思ったのは、「アークエンジェル・プロトコル」を読んで、ちょっと呆然としてしまったからであった。あちらは、とても現代的なSFの衣をかぶったファンタジーで、こちらは、古色蒼然としたSFの衣をかぶった王道のSFである。宗教をモチーフにしたSFは数知れないが、三大宗教、とりわけキリスト教をモチーフにしたものならば、私は王道が好きだ。神に出てこられてもねえ、困っちゃうから。
(2006.11.6)

移動都市

移動都市
MORTAL ENGINES
フィリップ・リーヴ
2001
「古代人が対地表軌道上原子爆弾と変性ウィルス爆弾の悲惨な嵐で自滅」した六十分戦争から千年が過ぎた。
 移動都市ロンドン、無数のキャタピラの上にそびえる階層都市は、他の都市同様に都市ダーウィニズムの世界で、他の都市を狩りながら生きていた。しかし、次第に獲物は減り、地面をはいつくばる反移動都市同盟の力も増していた。
 両親を事故で失い、ロンドンの史学ギルドの三級見習いとして雑用ばかりをやらされているトム・ナッツワーシーのあこがれは、ギルド長のサディアス・ヴァレンタイン。かつては、飛行船に乗って世界中を旅し、遺跡から古代の科学技術品を収集してきた行動する男である。
 そのヴァレンタインを殺害しようと襲った少女がいた。顔に深い傷を持つ少女ヘスター・ショウ。なぜ、冒険家のヴァレンタインを殺そうとするのか? 少女の傷の理由は? ひょんなことから、ロンドンから置き去りにされ、へスターとふたりでロンドンを追うはめになったトムは、へスターとともに旅をする中で、個性的な人々に出会い、世界の真実に気がつきはじめる。
 最終戦争と地殻変動によって荒廃した地球上を住民を乗せて疾走する巨大移動都市。地上で暮らす人々、飛行船に乗って冒険する男たち、女たち。そして、無敵の兵器人間「シュライク」が、トムとへスターをつけねらう。
 日本のアニメの原作です、と言われてもおかしくないほどに、頭の中で映像化しやすい作品である。宮崎駿の絵で、「ナウシカ」や「ラピュタ」のような世界だったら最高じゃないかな。
 また、この主人公のトムが素直でよい。世界のことを何も知らず、知らないが故のあこがれを抱きながらも、素直な目で世界を見ようとし続ける。幼い頃、両親を事故で失ったトムと、幼い頃、両親を殺害され、顔に傷を負ったへスターのふたりの、かようようで、かよわない心。それでも旅を続けるうちに、ふたりの間には「信頼」が生まれる。それは、顔と心の傷のせいで屈折したへスターが、自分の心を取り戻す旅でもあった。
 アニメつながりで言えば、私が好きな「交響詩篇エウレカセブン」の主人公レントン・サーストンにも似ている。とにかく世界を知らず、そして、まっすぐに育とうとしている。
 読む側はちょっと気恥ずかしいが、成長とはそういうものである。
 もっとも、ただのジュブナイル冒険活劇ではない。とにかく登場人物がよく死ぬ。そんなに殺さなくてもいいじゃないかと思うぐらいに死ぬ。長生きするのがむつかしい世界なのである。だからこそ、輝くものもある。だからこそ、人は一生懸命早く成長しようとするのかも知れない。
 さて、本書「移動都市」もまた、最近、日本に紹介されることの多いイギリスSFである。人工知能による新たな世界への旅立ちは迎えていないが、本書も「最終戦争後の世界」ものである。ベースの技術がスチームエンジンだったり飛行船だったりするが、桁違いに発展している。そして、剣と銃の世界でもある。また、「遺跡」に伝説となっている恐るべき戦争兵器があって、その復活をもくろむ者がいたりする。そういう世界的な背景も、「ナウシカ」や「ラピュタ」と共通するのかも知れない。
 どうしてもそこに戻ってしまうが、宮崎駿監督、どうです、映画にしてみませんか? 息子さんにまかせておかないで、こういうしっかりしたジュブナイルSFで、少年少女の成長と世界の変化を撮りませんか? 見たいなあ。この作品のアニメ化。実写もいいけど、アニメ向きだと思うけどなあ。
 本書「移動都市」は四部作だという。楽しみ。
(2006.11.4)

ほとんど無害

ほとんど無害
MOSTLY HARMLESS
ダグラス・アダムス
1992
 3本の素晴らしいナイフと1本のそうでもないナイフを活用してこの上ないハムサンドイッチをつくる方法を知りたかったら本書「ほとんど無害」をお勧めする。
 ちなみに、本書は、「銀河ヒッチハイク・ガイド」の5冊目にして、最終巻である。
 そこで、サンドイッチの作り方について、どのように素晴らしいかを語るのは保留して、「銀河ヒッチハイク・ガイド」シリーズと、その有終の美を飾る本書「ほとんど無害」について触れておこう。
 このシリーズは、以下の通りとなっている。
 銀河ヒッチハイク・ガイド(1979)
 宇宙の果てのレストラン(1980)
 宇宙クリケット大戦争(1982)
 さようなら、いままで魚をありがとう(1984)
 ほとんど無害(1992)
 本書「ほとんど無害」(河出文庫)は、2006年8月に発行されており、訳者あとがきと解説の両方がついているとてもお得な版である。解説は大森望氏。日本のSF読みならば解説者の解説は不要であろう。本書解説によると、新潮文庫版の「銀河ヒッチハイク・ガイド」は1982年に邦訳発行され、1983年に「宇宙の果てのレストラン」が邦訳発行、そして、1985年に邦訳発行された「宇宙クリケット大戦争」邦訳はなんとこの大森望氏が新潮文庫で担当編集であったという。残念ながら、その後の2冊については新潮文庫から邦訳発行されることはなく、その後、河出書房から「銀河ヒッチハイク・ガイド」が新訳として邦訳され、ついにシリーズ全巻が完訳されたのである。ありがたや、ありがたや。
 新潮文庫版は、私の高校、大学の頃ということだが、まったく気がつきもせず通り過ぎてしまった。新潮文庫や角川文庫などのSFって見逃すことが多いんだよなあ。
 解説にも書かれているとおり、このシリーズが改めて翻訳されたのは、映画化され、公開されたことが大きい。映画自体はそれほどヒットしなかったようだが、決しておもしろくなかったわけではない。ちょっとしたタイミングの問題だ。
 さて、発表年を見れば分かるとおり、本書はちょっと他の4冊と時間的に離れている。
 読む側からすると、4冊目と5冊目に心理的な大きな差はないのだが、作者側からするとずいぶんと長い時間である。
 ということなのか、「さようなら、いままで魚をありがとう」でアーサー・デントが出会った真の恋人は、あっという間に次元の彼方に消えてしまっていた。どこかに壊れずにあるはずの地球や消えてしまった恋人を探していくうちに、アーサー・デントは、サンドイッチマスターとなってある惑星に腰を据えていた。そこに現れたのが、最初にアーサーが壊れた地球から逃げ出して出会った唯一の地球人トリリアンである。彼女は、唯一の地球人の女性だったが、アーサーではなく、異星人を選んだのであった。相手がアーサーだから、それもしかたのないことであるが、地球人にとっては誠に不幸な出来事である。
 それはともかく、かつてアーサーを地球から連れ出した「銀河ヒッチハイク・ガイド」の記者、フォード・プリーフェクトは、銀河ヒッチハイク・ガイドの発行出版社が買収され、新たな危機に陥っていることに気がつき、それに乗じてある策を練る。
 鬱ロボットのマーヴィンは出ないが、マーヴィンもうんざりするようなかんしゃく持ちの少女ランダムが登場し、物語に厚みを加えてくれる。もちろん、ヴォゴン人も登場し、物語に起承転結を与えてくれる。
 もしかしたら、ヴォゴン人が登場するのに、マーヴィンが登場しないことで、ちょっと笑いの神様がそっぽを向いたかも知れないが、イギリス流の皮肉あふれるユーモアは居座っているので安心してよい。結論には怒らないで欲しい。続編を書く前に作者が死んでしまったのだから。
 ところで、本書では、巨大化してしまい、買収された「ガイド」出版社が登場する。そして、あのフォードが遠い目をして、小さくとも夢があった頃の思い出にひたる。
 ふと思い出したのだが、かれこれ16年ほど前、今は大企業となった旅行代理店の小さな地方のオフィスを訪ねて、ヨーロッパとの半年オープンのチケットを買った。暗い感じの兄ちゃんに、「安いチケットで、南回りで、ストップオーバーできそうなもの」とリクエストしたら、エジプト航空やパキスタン航空のチケットを提示して、「面倒だったら、途中でチケットを捨てちゃえばいいんです。向こうで買えますよ」と言って、ヨーロッパに入り、帰路がアテネ→カラチ→バンコク→マニラ→成田というチケットを売ってくれた。ついでにヨーロッパの鉄道パスもそこで買った。無愛想だったが、安かった。
 そんな会社が、今や大企業である。あの兄ちゃんは今も勤めているのだろうか。いや、どこかの小さなネット専業の旅行代理店でやはりバックパッカー相手に格安チケットを売っているのかも知れない。あまりにこやかに格安パックツアーを売っているようには思えないからだ。
 そんなことを思い出したり、おいしいサンドイッチが食べたくなる。それが、「ほとんど無害」な地球に今も暮らしながら、「ほとんど無害」を読んだ者の感想である。
 さて、サンドイッチでも食べながら、「宇宙船レッド・ドワーフ」のDVDボックスでも再見するか。
(2006.10.30)