墓標都市

THE BURIED LIFE

キャリー・パテル
2014

 ミステリーSF三部作の第一作目。おもしろいじゃないか。
 なにか理由は知らないが、遠い昔に地上で人類は絶滅寸前の最終戦争を起こしたらしい。人々は地下に逃れ、地下に都市を築いて新たな繁栄を模索していた。すでに地上に生きることはできていたのだが、多くの人たちは地下を安住の地と定め、都市国家として他の地域や地上の村などとつながっていた。
 舞台となるのはそんな地下都市リコレッタ市。階級社会であり、市の運営は特権階級の「評議会」によって行なわれていた。評議員をはじめ「持てる」者たちはヴィニヤードと呼ばれる高級住宅エリアで貴族のようにたくさんの召使いを抱え、優雅に特権者ならではの権謀数術の暮らしを楽しんでいた。
 この世界において過去の歴史、文化、技術を調べ、学ぶことは禁忌となっていた。また同じような文明的発展をして最終戦争を起こすことを何より恐れた。それが理由であった。しかし、その禁忌たる情報や異物は評議会の下で「保存理事会」が独占していたとも言える。
 事件が起こる。保存委員会の歴史学者がヴィニヤードの自宅で何者かに殺害されたのだ。ヴィニヤードで犯罪が起きることはまれであり、殺人などかねてなかったことである。
 市警察のリーズル・マローン捜査官は新人捜査官のレイフ・サンダーとともにこの捜査にあたることとなった。しかしそれはすぐに横やりが入る。評議会が独自の捜査を禁じたのである。
 そうこうしているうちに次の殺人事件が発生する。今度は有力な評議員である…。

 さて、もうひとりの主人公はジェーン・リン。洗濯女である。ヴィニヤードに多くの顧客を抱えるフリーの洗濯女。洗濯とつくろいの確かな技術、注意深い観察眼と必要な秘密保持で信頼を得て口コミで顧客を増やしていったのである。そしてジェーンはふたつめの殺人事件に巻き込まれてしまう。潜在的目撃者としてのジェーンと禁じられても捜査を続けるリーズルのふたりは微妙な接点を持ちながら事件に深く関わっていく。
 果たして殺人事件の背景にあるのはなにか。
 それは地下都市全体の未来に関わるできごととつながりがありそうである。
 ふたりの主人公の周りには分かりやすい人、複雑な顔を持つ人、裏の顔が得体の知れない人、個性豊かな登場人物がいて、ミステリーに深みを与えてくれる。

 ミステリー作品だから、本作1作で殺人事件の犯人と謎解きは完結されるが、その背景にある大きなできごとは次の作品以降を待たなければならない。
 はたしてかつて人類に何が起きたのか。この社会の、現在の地球の全体像は。
 現在の地下都市と地上の暮らしは、基本的に産業革命以前のようであるが、どうしてそこまで後退したのか?
 世界の謎は深まるばかり。
 だって第一部だもん。
 ミステリーとしては1冊で完結しているけれど、SFとしてはここからはじまる。

 んだけどね。

 どうやら第二部、第三部が翻訳される気配がない。
「本書だけでは、わたしたちはまだこの世界のとば口に立ったにすぎない。このあとに広がるさらなる驚きの世界を日本の読者諸氏にも旅していただきたいというのが訳者の切なる願いだが、それができるかどうかは本書の売れ行きしだい…」と翻訳者の畑美遥子氏がしたためている。一読者として、本当にそれを望んでいるのだが。

火星へ


THE FATED SKY

メアリ・ロビネット・コワル
2018

「宇宙へ」の続編であり、第二部といったところ。1961年8月16日の月基地から物語は再開する。主人公の宇宙飛行士であり天才数学者のエルマ・ヨークは、月面の小型連絡船操縦士の定期任務についていた。この日、初の無人火星着陸機が火星に降り立つ。この成功は有人火星探査計画の先駆けであった。すでに月には200人の滞在者がいて様々な調査や月面開発に従事していたのだ。人類の生存をかけた星への旅の次の目標は火星に定められた。大気がなく重力も小さな月に比べ火星には薄いとはいえ大気があり、重力もある。人類の生存は火星開発が現実的と考えられていた。
 片道約1年、往復約3年におよぶ第一次火星探査隊は2隻の有人船と1隻の無人バックアップ船の3船による船団で未知の星に向かうことになる。
 物語は火星に旅立つまでの宇宙飛行士候補と周りの人々の様々なできごと、そして、火星探査船の船内での様々なできごとで展開していく。その中心には前作と同様にエルマがいる。そう、エルマは愛しの夫ナサニエルに背中を押されて火星に向かうことになるのだ。しかし、エルマが選ばれた理由はただひとつ彼女が地球の人々にレディ・アストロノートとして知られ、支持されるからである。広報的な理由である。そして、その結果、計算者時代の同僚であり、台湾系アメリカ人のヘレンが探査チームからはずされることになった。すでに訓練は長く続いていて、エルマが入ることで探査チーム内には不和が生じてしまう。当然、それは「割り込んだ」エルマに向かう。四面楚歌のエルマは、それでも火星に向かうのであった。
 前作に続き、1950年代の技術で人類は火星に到達できるのか、その可能性を徹底して追求し描き出した究極のハードSFである。同時に前作と同様に女性差別、黒人差別、マイノリティ差別の問題に正面から向かい合った作品である。著者のあとがきにも書かれているが、本作ではさらにLGBTの位置づけについても間接的ではあるが触れられている。なぜ間接的かというと、1950年代、60年代にLGBTのカミングアウトは同時に軍人としてあるいは宇宙飛行士としての道を断たれることを意味していたからである。同時代の技術、社会背景を損なわずに、その中で生きる人たちの苦悩や人間としての闘い、関わりを描き出すのはとても難しいことである。それに成功した21世紀的な優れた文学作品であると同時に、優れたエンターテイメント作品である。

 私は火星に目がない。
 だから本書を読みたいがために前作から読んだという気持ちもある。だが残念ながらこの物語の主眼は「火星に行くまで」にあるのだ。
 しかし、本書が「火星もの」ではないにしても、とても心に残る傑作小説であることは間違いない。
 私のSF歴の中でも上位に位置づけたい作品である。

 ところで、昨日、将棋の竜王戦第四局が行なわれ、藤井聡太竜王(名人・八冠)が同学年の伊藤七段に勝って防衛を果たした。藤井聡太竜王名人は対局中先を読むのに「2八歩」といった符号の連続のみで思考しているという。他のプロ棋士はたいていが将棋盤を頭に浮かべているが、そういう頭の中の将棋盤はないというそうだ。本書の下巻287ページにエルマの言葉として「ほかのひとたちがわたしと同じ形で数字を把握できないと知ったのは、それなりの年齢に達してからのことである。ふつうの人にとって、数字とは紙に記された抽象的記号であり、どれほど理解力があっても、対象となる物体の物理的な数値を表すものでしかない。ところが、わたしの場合、数字を見れば、対象の形状、質量、質感、色彩までもが、鮮明にわかる。したがって、宇宙船、S-ⅣB、火星、地球の位置関係を頭の中で把握し、無用の要素を取り除けば、そこに残るのは純然たる空間の計算要素だけだ」という文章が書かれている。
 天才たる藤井聡太さんは、このエルマと同じように他のプロ棋士をはじめとする「ほかのひとたち」とは異なる形で将棋の位置と動きを把握しているのではないかと、ときおりそう思うのであった。関係ないけど、本書を読んでいるのと藤井さんの将棋を見ているのがおんなじような気持ちになったのはここだけの話。

宇宙へ


THE CALCULATING STARS

メアリ・ロビネット・コワル
2018

 現代版「月を売った男」、あるいは「地球最後の日」。懐かしくも新しい21世紀ならではの価値観で緻密に構成された本格的ハードSFの登場である。
 ハードSFであると同時に、今日の社会的問題である差別と格差について、主に女性差別、黒人差別、マイノリティ差別に対し正面から描いた作品でもある。
 その意味で文学のサブジャンルとしてのSFというカテゴリーに入れなくてもいいかもしれないが、本筋はハードSFであり、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞をとったのも頷ける。しかし、SFを離れてもっとひろく読まれて欲しい作品でもある。

 SFのジャンルとしては歴史改変になるのだが、初期設定の導入だけで「歴史」がテーマになるわけではない。
 1952年3月3日、巨大隕石が地球に衝突した。この日から、私たちの知る時間軸とは異なる歴史が流れていく。衝突の衝撃によって起きたのは落下地点エリアの破滅、全地球規模での大きな津波…、そして予想される一時的な寒冷化後の急激な温暖化。その予想ではそう遠くない時期に地上で人類が暮らすことはできなくなる。地球を脱出して、宇宙に生存を求めなければならないだろう。
 1952年といえば第二次世界大戦が終わってすぐ、たとえば日本はまだGHQによる占領下にあり、朝鮮戦争があり、米ソ冷戦と核開発競争の時代である。宇宙開発競争はまだ緒についたばかりであり、初めての人工衛星は1957年のソ連によるスプートニク1号を待たなければならなかった。そんな時代である。
 コンピュータでいえばIBMが初の科学技術計算用コンピュータを納入した年が1952年。まだ安定性も信頼性もこれからという時代である。
 そんななかで人類の生き残りをかけて宇宙をめざすのだ。

 主人公はエルマ・ヨーク。ユダヤ系アメリカ人。新婚の女性。天才数学者であり、第二次世界大戦では陸軍航空軍婦人操縦士隊でパイロットを務めていた経験を持つ。夫のナサニエル・ヨークはロケット技術開発の科学者。エルマは夫とともにロケット開発に欠かせない「計算者」として働いていた。

 ここでちょっと背景的に「計算者」を説明しておくと、コンピュータが本格的に実用されるまで弾道計算をはじめ様々な科学技術に欠かせない数学・計算は人の手で行なわれていました。もちろん電卓などはありません。あるのは「計算尺」ぐらいであとは手書きです。ロケットを飛ばすためにはこの「計算者」のチームの能力が問われます。そしてこれを担ったのは女性数学者たちでした。現実の世界では1953年にアメリカ航空諮問委員会(NACA)に黒人で天才数学者のキャサリン・ジョンソンが計算者として参加し、その後の宇宙開発を支えます。
 本書のエルマ・ヨークの数学的天才っぷりはキャサリン・ジョンソンを彷彿とさせます。
 ちなみに、映画「ドリーム」(2016)はキャサリンをはじめとする計算者をテーマにした映画です。

 本書に話を戻すと、NACAに所属していたナサニエルとエルマはたまたま休暇で本部を離れており、九死に一生を得る。NACAが壊滅したためナサニエルは生き残った専任技術者となりその後の宇宙開発の統括責任者として働くこととなった。エルマは計算者として宇宙開発を支えるとともに自らも宇宙飛行士になりたいという夢を内に抱いていた。しかしエルマには大きな問題があった。子どもの頃から数学の天才だった彼女は飛び級で大学に進学し、その過程で激しい女性差別とパワーハラスメントに遭い、パニック症候群を内に秘めていたのだ。それでもエルマは宇宙を目指したかった…。
 物語の本筋は1950年代の技術で宇宙開発がどこまで進められたかをリアルに描き出すことである。これはもう最高にわくわくする話であり、冷戦とは異なる宇宙開発の可能性を感じさせてくれる。
 同時に、ユダヤ系アメリカ人という視点、女性の天才科学者という視点、まわりにいるアフリカ系男性、アフリカ系女性、アジア系女性、あるいは上院議員の妻である女性といった立場をみることで現代にも直結する女性差別、黒人差別、マイノリティ差別の問題が物語をすすめていく。
 エルマは様々な点で宇宙開発に不可欠な存在となるが、「女性がパイロットなど認められない」という女性差別者の上官に個人的にも忌み嫌われる。アフリカ系の人たちと交流を持ち、支えられることもあるが、、時に差別する側にいる者として非難の対象ともなる。あるいは差別者ではなくても「恵まれた者」として非難され、疎まれる。
 それでもエルマはあきらめない。
 ナサニエルとの深い結びつきのなかでひとつずつ障害を乗り越え、人類を生き残らせ、宇宙に旅立つという目標と、自らが宇宙に行きたいという情熱で道を切り開いていく。

 ハードSFとしても21世紀の人間ドラマとしても傑作である。
 21世紀のこんにち、避けては通れない「人権の尊重」という問題をエンターテイメント小説の中にしっかりと取り組み視点を提示すること、それがエンターテイメントとしての質を落とさず、むしろ読者に前向きに考えさせる力を持つこと、それを成し遂げている作品である。

 おりしも、いま、イスラエル政府・軍は、パレスチナのガザ地区において民族浄化(ジェノサイド、虐殺)を行ないつつある。きっかけはパレスチナの軍事組織ハマスによる攻撃であるが、それを理由に大半が若年層の子供を含む民間人、医療関係者、報道関係者、国連関係者をほぼ無差別に殺害し、パレスチナを完全に排除しようとしている。
 イスラエルとパレスチナ・アラブの土地をめぐる問題は第二次世界大戦を経てイギリスの失政により戦乱の火種を広げてしまった。20世紀を通して幾度も戦争が起き、徐々にパレスチナは追い詰められてきたが、今回のイスラエルの動きはパレスチナを地図から消すための行為である。おおくのユダヤ人をはじめ世界中が非難しているがイスラエル政府・軍、それを支持するシオニスト、さらにはアメリカ政府や日本を含む西側の政府は事実上黙認している。人類のもっとも悪辣でみにくい部分が表にでている。
 そんなときにユダヤ人を主人公にした作品を読めて良かったと思っている。
 ユダヤ人が悪いわけではない、しかし、ガザ侵攻は間違っている。ホロコーストを起こしたナチス・ドイツを歴史に持つドイツに限らず、いまのイスラエルに停戦を求めない政府は間違っている。ちゃんと声を上げないと、向き合わないと。時間はない。

消えたサンフランシスコ

PRISONERS OF ARIONN

ブライアン・ハーバート
1987

 海外SFを読んでいると、ごくたまに、「これはSFなのか?」とか、「どういう気持ちで読めばいいんだろうか」と読み進めながら頭にクエスチョンマークが次々と出てくる作品がある。たいていがシリアスなドラマ展開なのだが、たとえば前提となっている宗教観の違いとかそれに伴う知識の違いが背景にあって、突然天使が出てきたり、亡霊が出てきたりすると、笑ってよいのか、比喩なのか、「天使」や「亡霊」がなんらかの科学(疑似科学)的な背景を持っていてシリアスなドラマに組み込まれていくのか、分からなかったりするからだ。
 これがP・K・ディックの作品ならば、ドラマの整合性に破綻があっても展開が変でも、それ自体がディック的世界を表現してしまい、その「目に見える現象」と「真の世界の実相」との間で揺れ動く登場人物を受け入れることができるのだが、これはひとえにディックという「作者への信用=ブランド」があってのことなのだ。ディックは生涯をかけてこの世界を書き続けてきたのだからよいのだ。
 でも、ごく普通の思考を持つ作家が真面目にディック的な世界を書き上げようとすると、「目に見える現象」の異様さだけが表に出てきてしまい、いったい作者は何を書きたかったのかさえも分からなくなってしまう。

 さて、前置きはともかく、本書「消えたサンフランシスコ」はブライアン・ハーバートの著作の中でもっとも早く翻訳された作品である。原題は「アリオンの囚人たち」ということで、ストーリーは科学的に発達したアリオン星系の大学生グループが地球のサンフランシスコを含むあるエリアをそっくりそのまま球形に地球からえぐり出し、ドームにしてアリオン星系へ連れ出してしまうところからはじまる。このパターン、すなわち知的生命体の住む惑星の一部をドーム型の宇宙船にして移動するというやつは1950年代からのSFにはなんども出てくる設定であり、宇宙人に生活空間そのままとらわれて連れ去られるというのもよくあるパターンである。
 一夜にして地球から離れてしまったサンフランシスコの人たち、域外には出ることも通信することもできず、アリオン人による「通常通りの生活ができるから、通常通りの生活をするように」という声明のみで、不安はあっても通常通りに暮らすしかない状況に置かれてしまう。
 そうなると非常事態の政治体制の確立や残された軍組織等によるアリオン人との対決や地球に戻る方法の模索など様々な事態の展開が考えられる。またアリオン人側も、学生グループが許可を得て行なった行為ではないためいくつかの問題を抱えており、そういう展開も考えられる。
 しかし、ブライアン・ハーバートは違うね。主人公は苦労の多い家族の中でなんとか家族をまとめたいと奮闘する少女、元軍人で配達員を掛け持ちしながら家計を守る父、精神を病んだ詩人の母、母を嫌うぐうたらな兄、手のかかる下の弟と妹。騒動が起きたその日に父を訪ねてきた異母兄。さらに別に暮らす父の祖父母も主要登場人物で、祖父は主人公の少女に優しく、祖母は厳格な市議であり後の代理市長、彼女が母を精神的に追い詰めたひとりでもある。そんな家族の日々の惨憺たる物語が延々と繰り広げられる。その背景に地球を離れアリオン星系へと向かうドーム型のサンフランシスコ周辺という状況が存在するのだ。もちろん、無関係ではあり得ない。だいいち祖母はこの混乱の中で代理市長の座を務め、対策の中心人物になるのである。しかものちにぐうたらな兄も重要な役割を占める。
 さらにはこの家族が生み出してきたクローゼットに住む南北戦争の南軍の将軍でいまは巨大な蚤の姿をした亡霊の存在もある。
 なんだろう。家族の物語であることは間違いないのだけれど。

 訳者は関口幸男氏。関口氏が翻訳を希望したのか、ハヤカワ書房が作品に目をつけたのか。もしかしたら父のフランク・ハーバートが「デューン」シリーズの完結をみずに1986年に亡くなってしまい、その翌年に発表された息子のブライアンの作品をいち早く出すことでちょっとした売上を目指したのか、それとも、すごい名作だと誰かが思ったのか。

 私にとって長年の課題図書でもあった本書、最後まで読み通して、大森望さんの解説を読んでほのぼのとした。解説というお仕事は大変なのだなあ。なんといっても、「売れる」ように作品を紹介しなければならない。もちろん、どんな作品にも良い点もあれば悪い点もあるだろう。だからといって悪いところばかり書き連ねては「売れる」解説にはならない。だから買って読んでみようという気持ちにさせなければならない。
 すこしだけ解説を引用しよう。
「本書は前代未聞のサイエンス・フィクションである。あなたが海千山千のSFマニアであればあるほど、この本に対する驚きは大きくなるだろう。中途半端なマニアであれば、驚愕のあまり本を燃えるゴミの日に出してしまうかもしれない。このショックを減殺するような真似はなるべくならしたくないが、疑り深い読者もいるだろうし、中身にいっさい触れないわけにもいかないから、この解説の後半部では、本書の革命的価値について言及することとなる」
 言い得て妙である。

 いまはブライアン・ハーバートといえば、父の名作シリーズ「デューン」を終わらせるべく、前日譚、後日譚を共著で書き記している(惜しむらくは後日譚は翻訳の予定すらなさそうであるが)。しかも、ドゥニ・ビルヌーブ監督作品の映画「デューン」では製作総指揮にも名前を連ねており、SF界には欠かせないひとりでもある。
 だから年を取ってから読んで良かった。もし若い頃だったら私も…。

タイム・シップ

THE TIME SHIPS

スティーヴン・バクスター
1995

 H・G・ウェルズが1895年に発表した「タイム・マシン」の続編である。「タイム・マシン」は日本でも古くから翻訳されており、たくさんの訳者がそれぞれの言葉を紡いでこの物語を伝えている。時間旅行SFの古典中の古典であり、元祖といってもよい。すでにパブリックドメインになっているので青空文庫などでも読める。まず、オリジナルを読んでから、本書「タイム・シップ」を読もうかのう。
 19世紀の小説である「タイム・マシン」では主人公は80万年後の世界を訪れ、そこで人類の末裔の姿を知り、一時的に暮らした後、さらなる未来の地球と人類の姿を確認してから元いた19世紀末のイギリスに戻り、そしてふたたび旅立つ。そこまでの物語である。

 その後の時間旅行者(タイムトラベラー)はどうなったのであろうか。

 20世紀、ウェルズが明確に存在させたタイムマシンは時代の進歩、科学の進歩、文学の進歩とともに花開き、様々な小説、映画、コミックなどとして、子供向けから大人向け、玄人向けまで無数の作品を生み出してきた。時間、空間の概念や理論が深まるにつれ、時間旅行におけるパラドクスがテーマとなり、パラドクス回避のための架空理論から、多元宇宙、並行宇宙論まで議論は深まり、登場する作品も様々な展開を見せるようになる。
 また、時間旅行というシステムを廃し、そもそもから歴史を改編する、「もうひとつの歴史」というジャンルも生まれておりこれもまた「タイム・マシン」の甥や姪といったところかも知れない。

「タイム・マシン」刊行から100年後、それら1世紀にわたる蓄積を経て、本書「タイム・シップ」では、時間旅行者がふたたび旅立つそのシーンから物語が再開するのだ。
 作者はスティーヴン・バクスター。イギリスの正統なハードSF作家であり、緻密に話を膨らませるのが大の得意とする、続編執筆にうってつけの人物である。
 おもしろくならない訳がない。

 バクスターは、タイム・パラドクスをもっとも分かりやすく多世界解釈で整理した。つまりある時点での選択は別の世界の分岐点となるというあれである。そしてタイム・マシンは世界の分岐を生み出す装置として解釈した。
 主人公の時間旅行者は、ふたたび未来をめざすが、そこに前回行ったはずの80万年後の未来は存在していない。すでに分岐は行なわれたのだ。その新たな未来で旅の連れとなった未来種族のネボジプフェルとともに、過去、19世紀という現在、遠い過去、遠い未来、はるかな世界に旅をすることになる。ひとたびタイム・マシンを動かすごとに世界はさらなる分岐をするのだからストーリーは複雑さを増していくのだが、希代のストーリーテーラーでもあるバクスターに破綻の心配はない。ぐいぐいと読ませていく。
 しかも、主人公は19世紀の人間である。まだ第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、あたりまえだが核兵器もない時代の人間である。飛行機だってまだだ。医療技術も、生物学から物理学まで、その理解もまだだ。そんな19世紀の価値観、知識が前提の主人公である。ネボジプフェルがそれを補う未来の知識を持っているのだが、人類とは遠く離れてしまった人類の末裔でもあり、相互の精神的理解はなかなか果たされることはない。価値観が違いすぎるのである。
 この19世紀の価値観と、バクスターが生み出した未来人の価値観、それぞれの科学的、あるいは、SF的理解こそが、本書をおもしろくしてくれる。
 なにせ主人公は明かりが必要になればマッチを擦ることぐらいしか思いつかない存在なのである。そこに、多元宇宙論とか量子論とか言われても、だ。
 しかも、ここだけはネタばらしになってしまうが、途中から、別の時間線のドイツと果てしない戦争をしていてタイム・マシンを開発しているイギリス軍の軍人というのが登場してきて話がさらにややこしくなる。
 最後は、バクスターならではの究極の世界改変である。すごいよ。ほんとすごいよ。
 最後まで、主人公の19世紀人時間旅行者は、19世紀人のままであるのだけれど、だからこそその目から見る世界の変化は実におもしろいよ。
 日本で翻訳されているバクスターといえば「ジーリー・シリーズ」だが宇宙の究極の姿が描かれていてわくわくする。本作はそのバクスターが人類を基軸にした変奏曲といってもよいと思う。もっと早く読めばよかったよ。
 もちろん、原作「タイム・マシン」の伏線回収もちゃんと用意されている。
 原作者H・G・ウェルズへの敬意あふれる一作。
 
 そうそう、原題は THE TIME SHIPS で複数形となっている。ここが肝心。

銀河帝国を継ぐ者

A CONFUSION OF PRINCES

ガース・ニクス
2012

「選ばれた少年」が軍隊や政治機構の中で様々なミッションや事件の中で人々と出会い、昇進し、人間的にも成長する。ひとつの物語のパターンであり、ミリタリーSFなどでもよく見る光景である。
 原題は「プリンスたちの混乱」、邦題は「銀河帝国を継ぐ者」。タイトルからしても主人公がどんな目に合うのかなんとなく想像つくので、ある意味安心して読み進められる。
 ほっとするきれいな作品であった。

 遙かな未来、人類は銀河系に広がった。1700万の星系、何千万もの植民星に何兆という人類と非人類の知的生命体が銀河帝国の支配下にあった。銀河帝国は3つの技術の上に成り立っている。メカ技術、バイオ技術、そして、サイコ技術である。帝国には敵もいる。帝国に与しない人類・人類派生種族、異星生命体のサッド・アイやデッダーたちである。絶えず危機にさらされながら帝国の版図を守り、広げていく。そのために、皇帝の下に帝国頭脳中枢があり、1千万人の「プリンス」たちがこの帝国頭脳中枢と常につながりながら、実質的な統治をしていた。そして、プリンスを支えるのが様々な特殊技能を持つ奉仕者(プリースト)たちである。とりわけ暗殺のマスターはプリンスの生命を救う上で重要な存在である。
 プリンスは、サイコ能力などを帝国から見いだされ幼い頃に臣民から選抜されていく。選抜された時点で実の親との関係は完全に途絶する。
 プリンスは、元々の能力の強化に加え、帝国頭脳中枢との常時接続をはじめ様々な人体改造を受けたハイブリッドの支配者として育てられ、教育を受ける。そして16歳になるとプリンス候補から正式なプリンスとして統治の道を歩み始める。あるものは宇宙軍に、あるものは植民星の統治機構に…。
 主人公のケムリは、16歳の誕生日の今日、正式なプリンスになった。その直後から他のプリンスたちに暗殺されかける。プリンスたちは派閥を作り、邪魔なプリンスを殺そうとするのだ。もっとも、プリンスは正統な理由がある限り、帝国頭脳中枢によって再生される。実質的な不死でもあるのだ。しかし、皇帝は20年に1度退位し、別のプリンスたちが皇帝候補となって皇帝に変わる。その時期が迫っていた。
 ケムリは、プリンスになり、銀河帝国の虚実を目の当たりにしていく。秘密の試練を与えられ、戸惑いながらもプリンスとして「上」をめざすために帝国の義務につくしていく。
 しかし、やがて、ケムリは「知的存在」として「人間」として様々なことに気がついていく。プリンスという精神的、身体的、社会的特権が犠牲にすることに気がついていく。

 この作品の背景に流れているのは、社会機構の中での人間性の問題である。学校を卒業し、社会に出た途端、多くの人々は自分が社会機構のひとつの役割を果たすことを求められていることに気がつく。ある者はその機構の中でうまく立ち回ろうとするし、ある者はほどほどに自分の落とし所を考える。ある者は機構の中で支配的立場を目指し、ある者は機構の中でたとえば経済的自由を得ることで機構から自由になったと思い込もうとする、ある者は機構の中に組み込まれていることを考えないように生きる。しかし、社会機構の中で生きている限り、そこには個人としての人間性との矛盾が常に発生する。
 超特権階級であるプリンス・ケムリが成長する過程でそのことに気がつき、それぞれの場面で「選択」する物語である。
 どんな選択をするのか、あなただったらどうするだろう、私だったらどうするだろう。
 とはいえ教訓的、教条的な作品ではない。純粋なエンターテイメントライトノベルでもある。だから若い人に読んで欲しい作品だ。

転位宇宙


THE ATLANTIS WORLD

A・G・リドル
2014

「第二進化」「人類再生戦線」に続く第3部、完結編である。タイトルがいいね。「転位宇宙」原題は「アトランティスの世界」である。
 パンデミックで世界が崩壊しつつあるなか、プエルトリコのアレシポ天文台では残って研究を続けていた天文学者が人工的な信号をキャッチしていた。明らかに異星のの知性体からの信号である。
 ところで、地球はアトランティス人が調査対象にした時点でアトランティス人の技術によって地球内部からも外宇宙からも相互にあらゆる信号が出入りしないように管理されていたのである。なぜどんなに調べても地球外の文明の信号が受信できなかったのか、それはアトランティス人が地球を封鎖していたからなのだ。
 実はすでにアトランティス人の母星は「敵」の攻撃によって破壊されていた。銀河の先史文明であるアトランティス人たちもかなわない「敵」。「敵」はアトランティス人に関わるすべての知的種族を滅ぼしに来る。やがては地球にも。そして「信号」は罠に違いなかった…。
 さて、ケイトとデヴィッドの地球人は地球人として生きていこうチームと地球人を制圧して闘う存在に仕立て上げたいイマリグループ・ドリアンの戦いは泥仕合の様相を呈していた。再生したアトランティス人の軍人、ケイトの中の過去の記憶、実は生きていて人類のひとりとしてケイトたちの近くにいたアトランティス人の研究者、それぞれの思惑が人類の危機を前に錯綜する。
 さあ、地球を離れ、飛び出し、アトランティス人と地球人の危機をなんとか救おうじゃないか。ここまで大変だった地球人、そろそろ物語も大団円を迎えて良いじゃないか。ここまで読んできたのだから。
 やっと冒険SFらしくなってきやがったぜ。主人公は変わらないけれど、なんだかずいぶん立場や考え方が変わったような気もするが、それが人生というもんだ。

人類再生戦線


THE ATLANTIS PLAGUE

A・G・リドル
2013

「第二進化」に続く3部作の第2部。原題は、ん?「アトランティスのペスト(疫病)」。まあぶっちゃけるが「第二進化」でストーリーの後半の中心であった敵の「人類にパンデミックばらまいておおむね殺しちゃえ、でもって生き残ったやつは進化するぜ」作戦はみごとに発動してしまうのだった。すまん、ネタバレだ。まあだいたいのところ分かっているから気にすんな。
 あともうひとつ。アトランティス人とは人間とそっくりだけど人類ではなくて高度な文明を持つ異星人だった。アトランティス人が7万年前に人類を滅亡から救い人類の進化を結果的に助けてしまったのだ。
 さて、人類は侵略の危機にあるからそれに対抗するためには人類を強制進化させなければいけないと考え、そのために多くの人を急速に死を招く疫病をまきちらしたイマリとリーダーのドリアン。パンデミックによる混乱に乗じて世界征服にも乗り出した。
 一方、なんとか疫病を食い止めたいと研究を続けるケイトと、ケイトのために命を張るデヴィッドの主人公チーム。情勢は刻々と悪化するなかでケイトは自らの秘密を知り、デヴィッドは死んだり生き返ったりしながら、徐々に真相に近づいていく。
 ケイトは自らの記憶の中に数万年前のアトランティス人の記憶が存在しており、それが徐々にケイトを蝕んでいくことを自覚していたが、その記憶の中に疫病を治療し、人類の生存の道があるのではないかと記憶の中に入っていくのだった。ケイト命のデヴィッドはそんなケイトをなんとか助けたいと思うのだが…。
 世界を着実に征服下に置きはじめたイマリと、イマリの思うとおりにはさせまいとする人たちの戦い、アトランティス人と人類の間の真実、数万年に渡って存在してきたアトランティス人の探査船の中の様々な装置…。
 果たしてアトランティス人は人類の支配者なのか、殺戮者なのか、救世主なのか、それとも…。
 まったくの続編である。というより大長編の第2部なので、ここだけ読んでもあんまりな感じがする。間違って本書を手に取ったら、ページを開かず第1部の「第二進化」を読むべし。本書までくるとちょっとアクションが派手になっていく。ちょっと人間離れしてくると言ってもいい。でも舞台は地球だ。いいか、みんな、舞台は「まだ」地球なのだ。
 刮目して第3部を読むべし。

第二進化


THE ATLANTIS GENE

A・G・リドル
2013

 原題「アトランティス遺伝子」の名の通り、プラトンが記述した「アトランティス」をモチーフにした作品である。アトランティス(アトランティス大陸、アトランティス島)は、ジューヌ・ヴェルヌをはじめ多くの小説、言説、オカルト、疑似科学などで取り上げられている。楽しく遊んでいる範囲ではいいのだが、「ほんとうの歴史」「隠された真実」のような反知性主義の象徴的存在にもなっているので、アトランティスをモチーフにしている作品にはどうしても警戒感がある。とはいえ3部作まで翻訳されているのだし、ハヤカワさんが文庫SFに並べるのだからそこは信頼して読むことにした。釣り書きには「全米100万部突破」とあるが、日本での100万部とアメリカでの100万部ではずいぶん意味が違ってくるよなあ、と、読む前から眉につばをつけてしまいそうになる。

 さて内容だが、多発する多国籍テロリズムに対抗するため、世界規模での対テロリズム組織が秘密裏に構築されていた。各国の限られた要人などにしか知られていないその組織の名はクロックタワー。デヴィッド・ヴェイルはそのインドネシア・ジャカルタの支局長である。いま、クロックタワーは謎の組織から攻撃を受けていた。しかも、クロックタワーのメンバーに謎の組織は浸透しており、クロックタワーの組織そのものが謎の組織に乗っ取られようとしている。ヴェイルは早々にその危険を察知したが、敵の動きは速く、ただ逃げるしかなかった。
 一方、ケイト・ワーナーはインドネシアで自閉症研究センターの主任研究員として症状を持つ子供たちを被験者とした研究を続けていたが、謎の組織に被験者のふたりの子供をさらわれ、逆に警察に嫌疑をかけられてしまう。
 やがてデヴィッドによってケイトは救出されるが、それがふたりの長い果てしない物語のはじまりであった。
 南極ではナチス時代に一度発見された巨大な構造物が再発見され、突入がもくろまれていた。
 チベットではケイトの元から誘拐された子供たちを含め、多くの人たちがベルと呼ばれる装置にかけられ命を削っていた。生き残ったのはふたりの子供たち。それは「アトランティス遺伝子」が活性化したせいではないかと謎の組織は考えた。いったいキャサリンはどんな治療を行なったのか?
 クロックタワーを襲った組織、子供たちを誘拐し、南極での構造物調査を行なっていた組織、それこそが世界規模での民間警備(軍事)会社を経営し、様々な多国籍事業を行なっているイマリグループであった。その代表のドリアン・スローンがすべての中心にいたのである。
 そして、ドリアンは今まさに「人類を救うため」という名目で感染症による人類の大量虐殺をもくろんでいるのだった。それは生き残った者の「アトランティス遺伝子」を活性化させ、人類をもう一段進化させるとドリアンは考えていた。

 デヴィッドとケイトは様々な危機に遭遇しながら少しずつその謎に近づいていく。果たしてドリアンの陰謀は止められるのか。
 南極にある構造物とはなにか? 人類の隠された真実の歴史とは。
 アトランティスとはいったいなんだったのか? さらに約7万年前に起きたとされる大規模噴火による気候変動(寒冷化)と人類絶滅の危機、いわゆるトバ事変をどうやって人類は乗り越えたのか、いまその秘密が明らかになる!
 ということで、アクションと謎解きの第一部である。
 2013年の物語を軸に、数万年前、1万年前、1917年、1938年、1985年と過去と現在が錯綜しながら人類とアトランティス遺伝子の秘密が明らかになっていく。

 SFではある。パンデミック、人類の進化の秘密、歴史の背景にある秘密組織の存在…。サスペンス要素たっぷりだが、疑似歴史や疑似科学、陰謀説、陰謀論など、ネット時代に表面化した「それを真実と思い込む人たちと、そういう人たちを利用する人たち」とは一線を画そうという抑制的努力は感じる。それでぎりぎり読める作品に仕上がっている。そういう危なっかしさは感じるのだが、そのあたりが作品の魅力でもあるのだろう。
 少なくともデヴィッドとケイトはそれぞれに特殊能力的なものは持っているが、ある意味でごく普通の人として描かれており、主人公に権力志向がないことも、この作品のバランスの良さだと思う。
 すでに3部作は完結しているので、話はここまで。
 第2部、第3部は主人公は変わらないもののおもいっきりぶっとんでいくので、第1部を読んだならこの先まで読むことを強くお勧めしたい。

最終人類


THE LAST HUMAN

ザック・ジョーダン
2020

 読み始めて真っ先に思ったのは、シュライクに育てられている人類の娘、というもの。シュライクは「ハイペリオン」(ダン・シモンズ、1989)に登場する時を超越する殺戮者。真っ黒い外骨格を持つカマキリのような異星生命である。主人公のサーヤは、異星種族のウィドウ類のシェンヤによって育てられている人類の娘。ウィドウ類はシュライクにそっくりなのだ。もちろん、殺戮者ではなく、ネットワークを形成する知的種族のひとつであるが、その闘争本能は強力である。このウィドウ類のシェンヤが人類であることを隠すため希少なスパール類として登録し、守り育っているのがサーヤである。

 読み進めるうちに感じたのは「百億の昼と千億の夜」。光瀬龍が1965年~1966年に雑誌連載し1967年に単行本化されたSF小説である。そして萩尾望都が光瀬作品を原作に1977年~1978年に雑誌連載した同名の漫画作品である。
 本作「最終人類」には「神」は出てこないが、その世界観や雰囲気は萩尾版ときわめて似ていると感じたのだ。生命の躍動と空しさ、仏教用語的には色即是空空即是色のようなことだ。

 読み終わってよくよく思い返してみると、後半に出てくる主人公サーヤの「仲間たち」の構成が「オズの魔法使い」(ライアン・フランク・ボーム、1900)の主人公ドロシーの仲間たちとそっくりだということに気づく。すなわち、ブリキの木こり、臆病なライオン、案山子である。気がついてちょっとほのぼのする。サーヤもドロシーがそうであったように魔法使いではないが高次の存在にだまされたり、裏切られたりしながら選択するしかなかったのだ。

 さて、印象はともかく、作品についてまとめていこう。本作「最終人類」はザック・ジョーダンのデビュー作であり、最終刊行まで4年半、執筆数250万語を経て約13万語の作品として発表されるに至った。
 物語の世界は銀河系のネットワーク世界。10億以上の星系、140万以上の知的種族のほとんどすべてが参加している巨大な社会である。第二階層以上の知性があれば法的人格権が認められ、それ以下であれば法定外の人格となる。それは自然生物、人工物に関わらず、知的レベルのみで判断される。運搬ドローンにも衛生施設にも知性はあるが法定外、というわけだ。そして、この世界で人類はネットワーク世界の許されざる敵であり、遠い昔に絶滅した種族である。
 しかし、人類にも生き残りがいて、主人公のサーヤは自分が人類であることを知っていた。人類だと知られた途端に狩られる存在になることも。そのために、ネットワーク社会の基本であるネットワークに全感覚で入るためのインプラントも入れられず、間接的なコミュニケーションツールでの限定的ネットワーク利用しかできずにいた。知的にも法定人格は認められても最底辺の仕事しか与えられない、そんな未来がすぐそこにあった。仲間を探したい、自由にネットワークにアクセスしたい、人類と名乗りたい、サーヤの思いは募る。
 母であるシェンヤはサーヤを娘として認識し、そのすべてをかけて守ることを本能的に誓っていた。
 やがて事件は起こる。そして人類としてのサーヤが発見され、彼女は生きるための戦いに巻き込まれるが、それは大きな大きな大きな壮大な陰謀の幕開けでもあったのだ。
 このネットワーク社会は、階層社会である。サーヤを含む第二階層の知的存在には第三階層の思考の早さ、深さは想像も付かず、ネットワークでの「みえる」「できる」レベルも格段に異なっている。ましてその上の第四階層、ネットワークそのものは時空への操作も含めてその能力や行動の意味は第二階層にとって想像することさえ難しい。外で走り回る蟻は気にならないが、家の中でうろうろしてきたら殺すか外に出してしまう。その蟻にとっては人間のそういう気まぐれは理解も想像もできないだろう。そういうことだ。
 そして、サーヤはネットワーク宇宙のひとつの役割を負わせられる。報酬は「人類」。

 ヴァーナー・ヴィンジの「遠き神々の炎」にも似ているかな。
 好きです、こういう話。でてくる集合知性オブザーバ類にはちょっと閉口するけれど、どこかで似たようなやつ(ら)を見たり読んだりした記憶があるのだけれど、オリジナルがどれか分からないので、これは実際に読んだ人への宿題ということで。