スターバースト

スターバースト
FROM A CHANGELING STAR
ジェフリー・A・カーヴァー
1988
 ナノテクものである。ひとりの科学者が、記憶喪失で自分自身を発見する。どうやら殺されても、死んでも、生き返る再生能力を身につけている。変身もするらしい。なんで? どーして? そして、自分は誰? 何?
 どうやら、自分自身の考えと、いくつかの勢力のたくらみによって、彼は、身体にナノマシンを感染させ、それによってある目的のために動かされているようである。
 どんな目的?
 それを探るために、サイバー空間に隠棲している天才科学者の力を借りて、別の対話型人工知性ナノマシンを導入し、すでに入っているナノマシンを押さえ込もうとする。
 人体の中での複数の意図。
 主人公の彼は、宇宙物理の数学者。死に絶え超新星と化そうとしているある恒星を使って、途方もない実験をしようとしていたらしい。
 恒星の中には、すでに研究用のポッドが仕込まれ、恒星の死は意図的に早められていた。
 そこにからむ陰謀。
 そして、恒星の生命。
 なにぶんにも、主人公が記憶喪失で、記憶が混乱し、肉体が混乱しているのである。
 ストーリーもいささか混乱気味になろうというものだ。
 そこに、恒星の生命が登場したり、恒星の生命と意志を予言する宗教哲学が登場したりと、話はややこしくなる。
 たぶん、書きたかったことは、人工知性ナノマシン、人類、恒星の知性と規模によって大きく異なる知性の相互理解やあり方の可能性なのだろう。
 この時期のSFは、ハード的なストーリーに科学と関連するような新興宗教を織り交ぜることで作品に深みを出そうとするものが多い。
 成功していると、哲学的になれてよいのだろうが。
 ナノテク、ナノロボットのひとつの途方もない可能性や知性・生命の途方もない可能性について考えるのにはよい作品かも知れない。
(2006.7.26)

スターシップと俳句

スターシップと俳句
STARSHIP & HAIKU
ソムトウ・スチャリトクル
1981
 昭和59年というから、1984年に翻訳出版されていて、古本として購入した1冊。
 新刊が出たときに、なんとなく触手が伸びなかった1冊。
 たしか、途中まで読んで放りだしていた1冊。
 2006年の今年の7月は、とにかく湿度の高い月で、気温は高かったり低かったりしたのだが、日照が少なくて、湿っていた。あちこちにカビが生え、私は喉を痛めて熱を出し、朦朧としながら、この本を手に取ったのだった。
 本物の鯨が泳いでいるのは見たことがない。
 鯨を食べたことはある。子どもの頃、家でも、学校給食でも出ていた。
 小型ハクジラ(歯鯨)のイルカ類ならば、海で泳いでいるのを見たことがある。
 鯨…ややこしい動物である。いや、鯨がややこしいのではなく、人と鯨の関わりがややこしいのである。
 第一次世界大戦から第二次世界大戦、そして戦後にかけての20世紀前半、鯨は世界中の捕鯨船団によって捕らえられていた。その主たる目的は油であったが、日本では主たる目的が肉の食用であった。いずれにせよ、日本が大きな船団を持ち、かつ、各国が捕鯨船団を放棄していく中で、引き続き、商業捕鯨を続けていたことは間違いない。それは、目的の違いによるものでもあったろう。安い油が手にはいるのならば、わざわざ捕鯨船団を出さなくても引き合うのだが、安い肉としての価値は代替されなかったからだ。
 このあたりが、現在も鯨と人との関わりを、とりわけ日本と鯨の関わりをややこしくしている。
 実は、私はある年のIWC総会に行ったことがある。IWC、すなわち国際捕鯨委員会である。毎年、各地で開かれ、商業捕鯨問題について国際的な決定をする国際会議である。
 主に、日本を中心とする商業捕鯨再開国と、商業捕鯨再開を認めないとする諸国、それに、主に捕鯨禁止を訴える国際NGOがその国に参集して、それぞれの主張のPR合戦をする。会議場の中でも外でも、国際NGOの反捕鯨アピールが繰り広げられる。
 ちなみに、2006年現在、伝統的、儀礼的な手法による一部の捕鯨を除いては、沿岸小型鯨類を除く商業捕鯨は再開を認められていない。それは、日本以外の国も同様である。
 日本は、1987年より商業捕鯨を中止しており、その再開を求めている。
 一方、日本は南氷洋や北西太平洋でミンククジラを中心にマッコウクジラ、ニタリクジラ、イワシクジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラなどを調査捕鯨として捕獲している。沿岸小型鯨類の捕鯨はツチクジラ、ゴンドウクジラ、ハナゴンドウクジラで水産庁が規制している。
 話がややこしいのは、日本側も、反捕鯨国、保護団体側の溝の深さから、論点の整理や議論ができる国際会議になっていないということである。
 ちなみに、ちょっとインターネット上で、web検索をかけてみれば、日本語で、様々な立場、視点から様々な主張やデータが出てくるであろう。
 今、私がそれに付け加える意見はない。
 その反捕鯨の議論が資源規制から環境保護などの視点から盛り上がったのが1970年代後半であり、本書「スターシップと俳句」もまた、その時期に書かれた作品として、色濃くある。
 ざっとストーリーをまとめると、近未来に核による世界大戦が起こり、地球は激しく汚染され、人類は滅亡の危機を迎える。そんななか、日本では、日本を舞台にしたハリウッド映画のような価値観での古典回帰が起こり、美しい自殺をすることが自らの誇りであるとの風潮が生まれていた。そんななか、ひとりの政治的リーダーの娘が、クジラとの交感を果たし、日本人は遠い祖先にクジラによってクジラの精神を受け継ぐ遺伝子操作的なものを加えられた「クジラの子孫」の要素を持つ人種であることを明らかにされる。
 そのことを知った日本人たちは自らの先祖殺しの不明を恥、せめてもの誇りをいだきながら死を迎えようとする。
 一方、人間と同様に滅亡を迎えようとするクジラに、クジラと人の未来を託された少女は、自らの死を願う意志を抑えて、残された星間宇宙船に乗り込むことを決意する。
 みたいな話だ。
 ハリウッド映画的日本像を、ハリウッド映画として、どんなに戯画化されていても楽しめるようになった21世紀の現在、本書「スターシップと俳句」の戯画的風景も、別に目新しくはなく、そういうものとして読むことができる。
 だからおもしろいかというと、ひとつひとつのシーンのおかしさは、ある。
 ただ、SFなのか? それとも、クジラは人類とは別種の高等知性体だという、反捕鯨論の中でも、反捕鯨を主張する人たちでも苦笑するような説のためのおとぎ話なのか?
 困ったものだ。
 作者ソムトウ・スチャリトクルは、タイ人であるが主にイギリスで教育を受け、英語が第一国語で、タイ語はのちに学んだ。東京を含む世界各国で暮らし、本書を書いた時期はアメリカを中心に暮らしていたらしい。
 単純に、ジャパネスクパロディとして、げらげら笑うのもよいだろう。
 なんだこれは! と怒るのもよいかもしれない。
 読み手によって、解釈はどうにでもとれる。
 作者は今、本書をどのように受け止めているだろうか。ちょっと聞いてみたい気もする。
(2006.7.24)

ライズ民間警察機構

ライズ民間警察機構
LIES, INC.
フィリップ・K・ディック
1983
 現実は脳の中にあり、真実はただそこにある。
 もし、私だけが体験する現実であり他者とその現実を共有できないならば、私の脳に何か問題があるのだろう。多数の他者と現実を共有したとき、そのすき間に真実の片鱗を見ることができ、そして同じ世界を生きているという実感を得ることができる。
 しかし、それがたったふたりしか共有するものがない現実だったらどうなのだろう。
 そこに真実はあるのか、そして、同じ世界で生きていけるのか。
 フィリップ・K・ディックは、現実がいくつもあることを知っていた作家である。
 共有できない現実におびえ、共有できる現実も、真実ではないかも知れないことにおびえ、真実すら多岐に渡って遷移していくものではないかとおびえていた。
 その世界の不安定さと、現実の不安定さ、同じ世界に生きるということの不安定さを、作品に書き続けた。
 ここにふたつのテキストがある。ひとつは、ネズミが登場し、主人公に多大な示唆を与える。もうひとつには、ネズミが登場しない。
 私の同居人がこのふたつのテキストを手に取ったら、前者は読むべき1冊となり、後者は読むかどうか分からない1冊となる。なぜならば、前者にはネズミが登場しているかで、同居人はネズミが大好きだからだ。あの丸3つでも権利を主張するネズミではない。生きた、動くネズミである。
 ネズミが出てくるテキストは、本書「ライズ民間警察機構」のことであり、ネズミが出てこないテキストとは、同じディックの作品「テレポートされざる者」である。
 ここにふたつのテキストがある。どちらも同じ舞台、同じ登場人物、そして、多くの同じ文章で構成されている。
 話はこうだ。
 2014年、世界は統一ドイツを中心にした国連によって牛耳られている。人口は70億で、人であふれている。過去、いくつかの惑星や他の太陽系が探検され、移住も行われたが、過酷な環境で「もうひとつの地球」とはなっていなかった。
 フォーマルハウトの第九惑星「鯨の口」は、人類がそのまま生存できる希有な惑星として発見された。それとほぼ同時期に、ドイツのTHL社がテルポー技術を発明する。送信、受信の設備を設置すれば瞬時に人や物を移動できるテレポーテーション技術である。しかし、その技術は、宇宙の膨張方向によって一定の方向にのみ作用した。すなわち、地球から鯨の口への道であり、その逆はなかった。THL社は、惑星への移民と開発を含むすべての権利を持ち、これまでに4000万人を受け入れていた。
 地球では、もうひとつライズ民間警察機構という私企業が、国連統治の地球で情報操作を専門にした警察力を行使し、国連に対置する大企業となっていた。
 そして、いま、恒星間宇宙船を有する唯一の民間企業はTHLによって倒産の危機にあり、企業の所有者であるラクマエル・ベン・アップルボーム、THLに対抗するためだけに恒星間宇宙船で片道18年もかかる鯨の口への旅に出ようとしていた。彼は、鯨の口から届く美しい情報のすべてが嘘ではないかと疑っていたのだった。
 そうして、ライズ民間警察機構の主なメンバー、ラクマエルらが鯨の口に行く。
 そうして、現実が遷移していく。
 軍事国家的収容所、異星人の統べる世界、美しい豊かなもうひとつの理想の地球、機械仕掛けの世界…。
 真実はどこにあるのか。そして、人類と「鯨の口」に希望はあるのか…。
 ふたつのテキストのうち、ひとつは、本書「ライズ民間警察機構」であり、もうひとつは、「テレポートされざる者」である。どちらも、ディックが執筆した作品だが、どちらも、作品として完成していたかどうか不明なところがある作品でもある。そして、どちらも、ディックの死後に発表された、同じテキストを元にする異本である。
 そもそも、この変容する作品は、まず、「テレポートされざる者」の前半部分の形で雑誌に掲載された。それを単行本とする際に書き足し修正された原稿ができたものの結果的に雑誌掲載のまま出版されてしまう。そうして増補した作品は出版されないままに放置され、その後、出版社と完全版を書く約束になったままディックの死を迎えた。
「テレポートされざる者」(1966、サンリオSF文庫、鈴木聡訳、1985年8月)は、1966年頃までに書き足しと修正され、出版されることのなかった原稿をベースに1983年に出版された。その際、3カ所の原稿欠落があり、そのまま出版されている。
 一方、本書「ライズ民間警察機構」(1983、創元SF文庫、森下弓子訳、1998年1月)は、ディックの死後発見された原稿で、「テレポートされざる者」を書き直していたものらしい。1979年頃までに執筆したものであるとされるが、1983年に欠落部分をジョン・スラデックが補筆して出版されたものである。
 本書のあとがきに牧眞司氏が詳しく整理しているが、「テレポートされざる者」と「ライズ民間警察機構」では、同じ原稿が使われている部分と、書き足された部分があり、同じ原稿部分も構成を変えてあるために、物語も物語から受ける印象も大きく異なっている。
 作品の中で、前提となるであろう現実が変わっているのだ。そのため、まったく別の世界、まったく別の結末を迎える。
 本書「ライズ民間警察機構」の方が、より深い混乱をもたらすであろう。
 まったくディックらしいではないか。
 しかし、ここで疑問が残る。はたして、「ライズ民間警察機構」は、そもそもディックが構想した通りの完全版なのだろうか? そうであれば、ディックは原稿を編集サイドに引き渡していてもよかったはずである。
 さらに、「テレポートされざる者」の欠落部分が後日発見され、「テレポートされざる者」はそれで一応の完結を見せるのだが、「ライズ民間警察機構」には、「テレポートされざる者」の3カ所4枚の欠落部分のうち、「ライズ」でも使用された2カ所の欠落がそのまま残っていた。それを、スラデックが補筆したのだが、欠落がそのままであったということは、ディックの書き直しは終わっていなかったことを意味するのではないだろうか。
 ということは、「ライズ民間警察機構」はディックの考える完全版ではなかったかもしれない。「ライズ民間警察機構」のディックらしい現実の混乱は、ディックが意図した部分と意図しない部分があったのかも知れない。それすら、今となっては分からない。
 ただ、異本として1966年までには完成していた「テレポートされざる者」と、1979年までにディック自身によって構成を変えられ、手を入れられた「ライズ民間警察機構」というテキストが我々の前に置かれているだけである。
(2006.7.19)

テレポートされざる者

テレポートされざる者
THE UNTELEPORTED MAN
フィリップ・K・ディック
1966
 ここに2冊のディックの小説がある。1冊は、本書「テレポートされざる者」でサンリオSF文庫から鈴木聡訳、1985年8月に発行されている。現在は、もちろん絶版。入手も困難であろう。もう一冊は「ライズ民間警察機構」で創元SF文庫から森下弓子訳、1998年1月に発行されている。東京創元社のWEBによるとこちらも在庫はないようである(2006年7月現在)。この「ライズ民間警察機構」には副題がついていて「テレポートされざる者・完全版」となっている。実は、「ライズ民間警察機構」と「テレポートされざる者」は同じ作品をルーツとする異本である。このあたりについては、「ライズ」の方の解説で牧眞司氏が詳細な解説をつけており、いきさつや、どこがどう違っているのかを明らかにしている。かいつまんでまとめておくと、1964年に”THE UNTELEPORTED MAN”が雑誌で掲載される。単行本化向けに1966年にディックが主に後半部分を書き足すが、お蔵入りになり64年版だけで発行される。その後、ディックは完全版をつくる契約を出版社と結ぶ。しかし、1982年にディックが死ぬ。そこで、代理人らは1983年に、1966年までに書かれた”THE UNTELEPORTED MAN”をアメリカで出版するがそのうち3カ所の原稿が欠落していた。それが、本書「テレポートされざる者」(原題”THE UNTELEPORTED MAN”)である。
 一方、イギリス版として出版準備をしているところで、ディックが大幅に改稿し、タイトルも予定されていた”LIES,INC”としていた原稿が発見される。これにも欠落があったため、ジョン・スラデックが2カ所補筆した。それが、創元の「ライズ民間警察機構」である。ところが、その後ディックの遺稿の中の別の原稿中に4枚の原稿が見つかり、それが、「テレポートされざる者」の欠落3カ所に該当することが判明し、1985年にディックの研究レターに発表された。
 そこで、「ライズ民間警察機構」には、この欠落部分も訳出されている。
 なんともややこしい話ではないか。
 そして、ディックらしい逸話ではないか。
 ディックは、読むたびに、あるいは開くたびに内容の変わるテキストをたびたび小説の中に登場させ、それを読む登場人物に、なんらかの影響を与えている。本書「テレポートされざる者」にもそんなテキストが登場する。「ブラッド博士の、真実にして完全なる、ニューコロナイズドランドの経済と政治の歴史」である。まるでこのテキストのように、ディックの小説もまた変容し、読む者に影響を与えていく。
 結局私は、80年代に「テレポートされざる者」を読み、その後90年代に「ライズ民間警察機構」を読んだが、その際には「テレポートされざる者」が実家の本棚に眠っていたため、その違いを思い出すことができず、今、ようやく、この2冊を並べて順番に読み始めたところである。しかも、私のざる頭は、まず、「テレポートされざる者」を読み始め、途中まで読んだところで、「ライズ民間警察機構」のことを思いだし、ひっぱりだして、このいきさつをようやく思い出した次第。そうして、訳者は異なるものの、まず、欠落部分のある状態でサンリオ版を読み、その後、創元の「ライズ」のおまけについていた欠落部分を補って読み直し、そうして、この原稿を書いてから、「ライズ民間警察機構」を再読しようと計画している。きっと、「ライズ」の方を読んでしまうと、今のような原稿は書けなくなるだろうから、今、書いておくのだ。
 まったくややこしい。
 さて、「テレポートされざる者」だが、地球は国連(UN)に支配され、大きな企業群が勢力をほこっている。2014年、星間運輸会社を所有するラクマエル・ベン・アップルボームは、商売敵のTHLが父親に貸した借金の取り立てに追われていた。THLは、フォーマルハウト系第九惑星「鯨の口」への片道テレポーテーション技術により、70億人にもなって人口のあふれる地球からの移民を行う事業で潤っていた。鯨の口は豊かな土地と動植物にあふれる魅力ある土地であると宣伝されていた。しかし、誰も帰ってきたものはいない。テレポー技術は地球から鯨の口への一方通行なのだから。THLは、アップルボームが持つ唯一の恒星間宇宙船を借金の弁済にするようラクマエルに迫る。しかし、ラクマエルは、鯨の口の豊かさは偽物ではないかとにらみ、宇宙船でひとり片道18年の旅に出て、真実を探そうとした。そのために、私設警察代理店ライズ株式会社に保護と援助を依頼する。UNの横暴に悩んでいたライズの経営者マットソン・グレイザー=ホリデイは、このラクマエルの申し出を受け、自らも部隊を出して鯨の口に潜入しようとする。
 そして、彼らが鯨の口で見た真実とは?
 読者が読み取った真実とは?
 何が起こっていたのだろうか?
 それは、読んでもらうしかない。なぜならば、ラクマエルは”敵”の罠にかかり、LSDのトリップやパラレルワールドへの移転、タイムスリップ、さらには、ブラッド博士のテキストなどにより得た情報しか体験できないからだ。そして、読者も、ラクマエルや数人の登場人物の混乱した情報しか読むことはできない。
 ひきずりこまれるディックワールド。
 ただ、本書「テレポートされざる者」のラストシーンには、同時期の「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」や「最後から二番目の真実」「火星のタイムスリップ」に見られる絶望の中の希望や、絶望の中でみる人間の弱さの中のたくましさ、無駄だと分かっていてもやるべきことをやろうとする力を読み取ることができる。ラストシーンは、「ライズ民間警察機構」とは大きく異なっている。
 さて、では、「ライズ民間警察機構」に手を付けることとしよう。
(2006.7.18)

ニューロマンサー

ニューロマンサー
NEUROMANCER
ウィリアム・ギブスン
1984
 1984年発表、1986年に黒丸尚訳にてハヤカワSF文庫に登場した「ニューロマンサー」は、「サイバーパンクSF」を象徴する作品である。ギブスンの文体と作風は、黒丸訳によって「ああ、これがサイバーパンクなんだ」と思わせるにいたる。翻訳の力はすごい。
 ところで、1984年~86年といえばMS-DOSの時代であり、ハードディスクなんて高嶺の花で、フロッピー全盛時代、いや、5インチフロッピーだけど。ひょっとするとカセットテープにプログラムを入れ込んでいたりしていた。通信はカプラ、指でジーコロとダイヤルして、受話器から通信を音で送っていた。大学にある端末はキーボード入力もできたけど、プログラムやデータを紙パンチで送っていたりして。あ、漢字ROMって知ってるか? 当時のMS-DOSはソフトウエアとして2バイト文字を扱えなかったのだ。
 MS-DOSの概念が分からなくて、ブルーバックスの入門書を読んだりしたなあ。
 それでもね、ちょっと未来って感じだったさ。だって、お金さえ出せば、自分の家にパソコンを導入することが不可能ではなくなったんだから。
 私の指導教官(社会科学系)は、NECの8801系パソコンに、ワープロソフトをプログラムから組み込み、特殊な漢字を作字して登録していたっけ。
 私も、DOSの入ったNECの文豪miniシリーズを持っていて、特殊漢字を作字して作ったなあ。今になっては何にもならないけれど。当時は時間をかけたものだ。
 そんな時代の、といっても、たかだが20年前なのだが、もっと「未来」を予感させた作品が本書「ニューロマンサー」である。
 戦争があって、ヴァーチャルリアリティの技術、コンピュータの技術が進歩して、コンピュータ空間(マトリックス)に、人格ごと入り込み、データを操作したり、盗み出したりする。そのために、ウイルスプログラムを開発し、注入する。
 人体は、パーツとして改造可能になり、コンピュータ技術によるマン・マシンインターフェースも実用化されている。
 AI(人工知能)も厳重な管理下でコンピュータ空間の中に存在する。
 かつて、カウボーイとして電脳空間のマトリックスに没入しては企業などのデータ空間に入り込み仕事をこなしていた主人公のケイスは、一度の大きな失策でインターフェースとなる神経系を損傷されてしまい、職を失っていた。
 このケイスの神経系を修復し、ある作戦に参加させた元軍人か諜報員と思われるアーミテージは、作戦の物理的行動要員として、モリイという女も雇う。モリイは両目の周囲をミラーシェードで覆い、神経系の反応を高め、人体に武器を仕込ませた生きた兵器である。
 アーミテージの指揮を受けながら、ケイスとモリイは正体の分からない作戦、そして、大きな陰謀の中心軸になっていく。それぞれの生命をかけながら。
 未来都市の千葉、工業エリアのボストン・アトランタ・メトロポリタン軸帯、イスタンブール、そして、高軌道上と、舞台を移しながら、語られることのない悲惨な戦争の後に繁栄した社会を歩いていく。
 本書「ニューロマンサー」に書かれている未来像は、その後のSFや映画「マトリックス」をはじめとする作品群に大きな影響を与えた。そして、サイバーパンク運動というSFの潮流を起こし、今もその影は残っている。
 統制されない科学技術の無制限で欲と利害に方向付けられた発展と、その中での個人、企業、社会の変化が描かれはじめる。それは、明るい未来ではないが、絶望する未来でもない。なっちゃったところで人は生きるしかないという、諦念に似た感覚、空気、においである。そういう感じが、80年代から90年代にかけてSFやそれ以外の作品を支配していた。実際のところ、日本でもバブルやバブル後の社会の中で、変化そのものに対しての抵抗を失い、変化に対応することだけを人々が模索するようになった。流れを変えるのではなく、流れにいかに乗るかという考え方だ。
 もちろん、ギブスンがそういう考え方を持っているわけでなく、本書の中でも、人間兵器であるモリイの言動の中にモラルについての考え方が繰り返して語られている。
 本書「ニューロマンサー」で書かれている技術は、現在のところ完成していないものが多い。高軌道社会や人体融合型のマン・マシンインターフェース、冷凍睡眠技術、マトリックスのようなバーチャルリアリティ、あるいは、厳重な管理下におかなければならないような人工知能…。
 一方で、このころからは考えられないような事態も起きている。コンピュータウイルスや関連する負のソフトウエア技術、ネットワーク攻撃技術である。もちろん、コンピュータウイルスと同様なものは1980年代には登場しているが、これほどまでに爆発的な発展を遂げるとはさすがのギブスンも予想していなかったであろう。
 これこそ、統制されない科学技術の無制限で、欲と利害に方向付けられた発展、であるのだが。
 いずれにせよ、本書「ニューロマンサー」は、80年代を代表し、20世紀末を象徴するSF作品であり、将来にわたって評価され続ける作品であることは間違いない。ぜひ、ご一読を。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞作品
(2006.7.15)

異星の客

異星の客
STRANGER IN STRANGE LAND
ロバート・A・ハインライン
1961
 1969年2月に東京創元社から文庫で登場。私が持っているのは1979年6月の第24版。10年で24刷を重ねている。本文、あとがきをあわせて781ページと、今でこそ、これほど厚い文庫は数多いが、当時とすれば極端に目立つ1冊であった。
 持っているのは、1979年版で、価格は600円。古本ではなく、本屋で購入したものだが、私が14歳のときに買ったわけではない。いつ買ったのかと聞かれると困るのだが、高校か大学入った頃のことであるのは間違いない。間違いないのだが、正直なところ、あとがきしか読んでいない気がする。買ってから確実に20年は自分のアパートや実家の本棚、箱の中に眠っていたことになる。
 あとがきの最後には、「本書は、ヒッピー族の教典としてアメリカにおいて、昨年度より爆発的な売れ行きをみせていることを付記しておきます」とある。「昨年度」とは、1968年のことだろう。冷戦、ベトナム戦争…ウッドストック・フェスティバルが1969年8月。
 日本でも、70年安保闘争、全共闘の時代である。
 おや、今、2007年問題で騒がれているベビーブーマーの大量退職の人たちって、70年安保闘争、全共闘の主役の世代ではないか。
 時代は流れゆく。
 本書「異星の客」の主たる読者であっただろう当時大学生だった人たちが、今本書を読み直したら、どんな思いを持つのだろうか? 私には分からない。
 さて、本書「異星の客」の簡単なおさらいをしておこう。
「むかしむかしあるところに、ヴァレンタイン・マイケル・スミスという火星人がいた」との書き出しではじまる「異星の客」は、マイケル・スミスが地球に来て、そして去るまでの物語である。マイケル・スミスは、火星探査隊のクルーが火星で産み落とした子どもで、火星人によって育てられ、次の火星探査隊によって地球に連れ帰ってこられた。彼は、不思議な生理、思考、心理、能力を持ち、そして、地球連邦の判例では火星の所有者であった。同時に、先の火星探査隊の持っていたすべての財産を継承する大金持ちでもあった。
 彼をめぐる地球政府の陰謀に彼の地球での最初の水兄弟で看護婦のジルが彼を逃がし、老いてなお生を楽しむ作家であり、弁護士であり、医師であり、金持ちであり、自由主義者で、個人主義者であるジュバル・ハーショーのもとにかくまわれる。
 マイケル・スミスは、そこで、火星人と地球人の違いを知り、回りの人たちを水兄弟にしながら、彼らに火星的なものの見方、考え方、能力を知らず知らずに伝えはじめる。そして、彼は宗教の衣をかぶりながら、新しい価値観、社会、能力を目覚める潜在能力を持つ地球人にもたらそうとする。
 まあ、そんな話である。
 当時は、自由なセックス観や徹底した個人主義の上に成り立つ共同の社会観、人肉の共食儀式、政治や既存宗教への皮肉などが大きなインパクトを与え、SF以外の人々に読まれ、影響を与えたのであろう。
 ちょっとまて、ちょっとまて。ハインラインは、別に新しい宗教や新しい価値観をここで提示したわけではないし、新たなバイブルを作る気はさらさらなかったと思うぞ。
 ハインラインの化身とも言えるジュバル・ハーショーの自由でちょっぴりうらやましい生き方にしても、それまでのハインラインの作品やその後のハインラインの作品に出てくる登場人物によく似ているし、その自由や個人に対する考え方はほとんど変わらない。
 徹底した個人主義は社会的義務も同時に、自発的に、自然に生まれるべきであり、それを持ち得ない個人主義とは他者の個人主義をも尊重しうる真の個人主義ではないのだから、そんなやつは社会から排除してもかまわないといった考え方は、本書「異星の客」で出てきたわけではない。
 じゃあ、この本はなんだろう?
 私は思うに、ハインラインの一流のジョークではないかと。
 彼は、本書「異星の客」で、笑いをとろうとしたのではないだろうか?
 笑い、ジョーク、あるいは、それとは異なるユーモアについて、ハインライン流に考え、政治、宗教、生活、セックス、死など、タブーとされるものを引き合いにだしながら、笑いをとろうとしたのではないだろうか。笑いをとると同時に、笑いのもつ意味、ジョークやユーモアの持つよい意味でも悪い意味でも言える人間性について追求しただけではないだろうか。
 だから、素直な気持ちで読んで、笑えばいいだけではないだろうか。
 この本をありがたがる者こそ、笑い者である、と、私は、断言する。
 だから、みんなちょっと長いけれど、読んで笑おう。
 楽しいよ。
 ライトユーモア、ジョーク、ブラックユーモアなどなど、笑いの要素は満載だから。
 それでいいんですよね、大天使ハインライン様。
ヒューゴー賞受賞作品
(2006.07.09)

銀河市民

銀河市民
CITIZEN OF THE GARAXY
ロバート・A・ハインライン
1957
 遠い未来、人類は地球を中心にたくさんの星々に広がっていた。宇宙は、自由商人、海賊、そして、海賊を取り締まろうとする銀河連邦宇宙軍のものだった。
 惑星サーゴンでは、奴隷市が開かれていた。密輸船で運ばれてきた「奴隷」たちを人身売買するのである。惑星サーゴンをはじめいくつもの惑星や星系では違法な奴隷制がはびこっていた。
 惑星サーゴンの奴隷市で最低価格にもならずに「乞食のバスリム」によって買われた少年ソービーは、幾人の主人を経て手に負えない少年として売られたのであった。しかし、ソービーはバスリムに出会うことで、彼の未来を手に入れる。
 秘密の仕事をしていたバスリムによって人間の尊厳を教えられ、高等教育をほどこされたソービーは、惑星サーゴンを離れ、自由商人の「一族」世界や、銀河連邦軍の規律の世界を知り、そして、ついに彼自身の出自を知るのであった。
 これぞジュブナイルであるという本。まず、少年は最低の状態で最悪の状況に置かれる。しかし、彼が出会った大人によって彼は導かれ、新しい運命を自らの手で切り開く。その運命は、彼の選択によって次々に変わり、ついには、彼は自ら世界をつかみ、役割を知るのであった。
 拾われた少年が実は王の失われた息子であるというのは、物語の典型であり、そのパターンに沿って書かれている。だからといって本書の魅力が減じるわけではなく、惑星サーゴンの風景、自由商人の一族のルールなど、今読んでもおもしろいこと請け合いである。
 本書「銀河市民」は、野田昌宏氏の訳により、文庫では昭和47年10月(1972年)に発行され、手元にあるのが昭和55年の第9刷。カバーイラストは、斎藤和明氏の手によるもので、アメリカンコミック風宇宙戦争といった感じである。「ハヤカワ名作セレクション」で新装販売されているが、こちらは日本のコミック風のイラストで少年と少女の絵が描かれている。時代の差だなあ。
 昭和55年といえば、私は高校生になりたての頃で訳者あとがきの「野田昌宏先生のローティーンのための特別巻末解説」とぴったり合う年齢であった。残念ながら、野田先生がすすめているようにSFを英語で読むようになるにはそれから20年が必要で、しかもSFではなくもっと低年齢でも読める「ハリー・ポッター」からはじまるのであった。
 野田先生によれば、中学校3年生程度の実力で読める作品であるという。そうか、今度、原文を読んでみようかな。
(2006.6.27)

リングワールドの玉座

リングワールドの玉座
THE RINGWORLD THRONE
ラリイ・ニーヴン
1996
ようやく文庫化された「リングワールドの玉座」を買って読む。「リングワールド」「リングワールドふたたび」に続く、ニーヴンのノウンスペース・シリーズ「リングワールド」の3冊目である。話は、「リングワールドふたたび」に続き、主人公も変わらずルイス・ウーである。
1冊目の「リングワールド」で、想像を絶する世界を提示したニーヴン。その後、「リングワールド」と「ノウンスペース・シリーズ」をめぐっては、世界中で様々な角度から論じられ、科学的欠陥の指摘も多くあった。それを解決したのが「リングワールドふたたび」である。
さて、前著でリングワールド最大の危機を脱した「リングワールド」だが、そのために選択した1兆の人々の犠牲の重みに、ルイス・ウーは押しつぶされていた。まあ、この人は、最初からずっと何かに押しつぶされていたような人なので、それほど同情的な感じではない。
今回リングワールドに押し寄せてきた危機は、外部の侵略者である。人類、クジン人などがリングワールドをめざして艦隊を出してきた。しかし、その先遣隊はことごとくリングワールドからの攻撃にさらされる。一体誰が攻撃しているのか?
一方、危機を脱したリングワールドの一部では、リングワールドに広く適応放散した人類種の末裔の一種属で知性を持たない「吸血鬼」が爆発的に増えつつあった。これに危機を感じた機械人種、草食巨人人種、農業人種、腐肉食人種、狩猟人種、水中人種などがこれまでにない協力関係を結び、吸血鬼人種との闘いを開始した。
てな感じなのだが、今回のキモは、人類種の適応放散の姿である。高い知性を持ちながらも夜に行動し、リングワールドの生態系の底辺を維持する腐肉食の人種にはじまり、川の上から高い山の上まで、さまざまな人類系統が見られる。「指輪物語」に出てくる様々な人間ではない者たちを彷彿とさせるファンタジーワールドである。
そのイメージの世界を楽しるならば、とてもおもしろい作品である。
(2006.06.21)

火星縦断

火星縦断
MARS CROSSING
ジェフリー・A・ランディス
2000
 レイ・ブラッドベリの「火星年代記」から半世紀余、20世紀最後の年、そして、ミレニアム最初の年に生まれた「火星」の物語である。
「火星年代記」のはじまりを覚えているだろうか? 1999年1月「ロケットの夏」がオハイオ州の冬にやってくる。宇宙に飛び立つロケットのもたらした一瞬の夏の華やかで、美しく、そこはかとなく哀しい、わずか1ページの物語。
 ずっと人は空を見つめ、赤い星を見上げ、何かを、できることならば自分を空に打ち上げて、あの赤い星にたどり着きたいと夢見ていた。今も、そんな「夢想家」たちが、夢を少しでも現実に近づけようとありとあらゆる手段を使って努力を続けている。
 本書「火星縦断」の作家、ジェフリー・A・ランディスもまた、そんなものたちのひとりである。SF作家であると同時に、「本職」はNASAの火星探査プロジェクトに携わる研究者・技術者である。同時代に生きる人間たちの中でも、ひときわ火星に焦がれているひとりだと言えよう。
 本書「火星縦断」には、そんなジェフリー・A・ランディスの火星への渇望と知識と夢があふれている。
 物語は2028年、火星の第三次探査隊6名が火星の南半球に降り立ったところではじまる。アメリカ人3名、カナダ人1名、ブラジル人1名、タイ人1名のチーム。第一次探査隊は、北極点に降り立ったブラジルの探査隊2名、第二次探査隊はアメリカを中心としたチーム、いずれも、火星に到着したが、探査そのものは不成功に終わり、全員が火星あるいは帰還途中に死亡。地球への帰還は果たせなかった。世界は不況のただなかにあり、アメリカ政府もまた凋落にあって、第三次探査隊は民間の力を借りてなんとか火星にたどり着いた。しかし、第三次探査隊を待っていたのも、失敗であった。地球への帰還のためには、北極点に降りたブラジルの帰還船を使うしかない。彼らが降り立ったのは、南半球である。限られた時間、限られた設備、限られた帰還船の定員という悪条件の中で、地球への帰還を果たすべく、彼らは火星を縦断する旅に出た。  簡単にまとめるとそういう物語である。火星人なし、異星文明なし、人工知能の反乱なし、地球からの援助なし、特別な解決方法なし、スーパーヒーローなし。現在の火星データと宇宙ミッションの実情を踏まえて、冷静に、冷徹に、物語は進む。ある者は途中で怪我をし、ある者は精神的におかしくなり、ある者は死ぬ。
 もうひとつの物語は、第三次探査隊クルーの人生の物語である。ひとりひとりのクルーに、秘められた過去があり、人に言えない秘密がある。ある者は火星そのものが目的であり、ある者は贖罪であり、ある者は鎮魂である。旅の間に、それぞれのクルーの過去のエピソードをはさみこむことで、長く辛い、そして単調な旅のすき間を埋めていく。まるで火星の砂のように。
 今分かっている火星像が、たっぷりと盛り込まれている。本書「火星縦断」で、クルーと一緒に火星を旅する気持ちになれるといいだろう。
ローカス賞受賞作品
(2006.06.15)

天の声

天の声
GLOS PANA
スタニスワフ・レム
1968
 1996年、トーマス・V・ウォーレン教授は、高名な数学者ピョートル・E・ホーガス教授の遺稿中から発見された未完成の原稿をまとめ、1冊の書とした。それが、本書「天の声」である。ホーガス教授も深く関わった、天の声(マスターズ・ヴォイス)計画については、膨大な文献があり、また、ホーガス教授についてもいくつもの伝記などがまとめられているが、本書は、ホーガス教授自らが、天の声計画のいきさつや加わった科学者らのうち主要な数人と、天の声計画が中止されるまでのいきさつを、ホーガス教授の視点から書きつづった「自伝」である。そもそも、天の声計画とはなんだったのか? 小熊座方向から届いたニュートリノによる信号の解読をめぐる計画である。それは、遠い異星人からのメッセージなのか、それとも、単なる偶然の産物なのか、そのメッセージにはどんな意味が隠されているのか? その言葉を理解することができるのか? そして、何かに役立てることができるのか? 戦後の冷戦下で、アメリカの古い核兵器実験施設に隔離された2500人の研究者らが、テープに記録された信号を解読するために働いていた。ホーガス教授は、その成果がほとんど見られないなかで、1年後に呼ばれ、計画の中心人物のひとりとして取り組むこととなった。
 宇宙からの顔の見えない「信号」とその「解読」、そして軍事目的を含めた「有効利用」の可能性はあるのか?
 同じテーマでは、本書から遅れること9年、ジョン・ヴァーリイの「へびつかい座ホットライン」がある。こちらはへびつかい座からのデータで、そのうちのいくつかを解読し、科学技術として有効に活用していたが、そこはそれ、「ソラリス」「砂漠の惑星」「エデン」のスタニスワフ・レムである。一筋縄ではいかない。
 たとえば、いったい「人工」と「自然」の区別はどうやってつけるのだ? と、レムは問いかける。
 たとえば、メッセージだとして、それが他の知的生命体にあてた「手紙」だということが言えるのか? と、レムは指摘する。
 そして、レムは言う。「何百万年も前から宇宙の深淵を満たしているものを秘匿し隠蔽しようとしているのだ。
 もしそれが狂気でなかったら、狂気など存在しないし、狂気と呼べるものが存在するはずがない」と、受ける側の人間たちの愚かさを言う。
 そして、レムは振り返る。第二次世界大戦中のナチスドイツで繰り広げられたユダヤ人虐殺について、それを実行した者たちにとっての「認識」と「疎外」を。
 レムは、コミュニケーションと認識、疎外について常に考えてきた。
 本書は、そんなレムの哲学、考え方、そこから見えてくる世界が比較的素直に著述されている。故に、本書は、未来予測に満ちており、また、SFの将来を暗示し、SFで取り上げられるべきテーマを次々と提示している。
 現実の世界は、コミュニケーションのあり方、認識と疎外によって成り立っている。SFもまた、多くの作品がコミュニケーションのあり方、認識と疎外について語るジャンルである。
 その意味で、本書はメタSFであると言ってもいい。
 さて、ロバート・シュルツによる黒を基調とした美しくシンプルな表紙は、今はなきサンリオSF文庫である。私の手元には、深見弾氏の訳になる1982年6月発行の「天の声」がある。定価480円。買ったのは、おそらくそれから1年後か2年後のことである。当時は読んでいないか流し読みをしただけではないかと思う。
 この頃のサンリオSF文庫は、誤植が多くあった。また、私にはよく分からないが、文章を読むと意味が通じない誤訳のようなものが多くあった。発行予定が発行予定通りではないというやきもきするような状況もあり、当時として価格は高めで悩ましいところであったが、いくつかの作品をえいやっという気持ちで買っていたように思う。しかし、買ったものの読んでいない本が多いのも事実で、何で買ってしまったのだろうと思う作品も多い。レムは好きな作家なので、おそらくは読んでいると思うのだが、本書についての記憶がない。しょうがないなあ。
 近年、レムの作品が国書刊行会から出版されている。レムについては亡くなられたこともあってか、復刊や新訳、初訳の作品も出ている。情報化、インターネットによってコミュニケーション手段が整ったがゆえに、同じ人間同士であっても「認識」と「疎外」の問題が深刻であること、つまりは、言葉が通じているようで通じていないとか、会話が成立しているようで実はまったく成立していないといったことが問題になってきた。こういうときこそ、レムの作品は貴重である。ぜひ読んで欲しい。
(2006.06.13)