蝉の女王

蝉の女王
BRUCE STERLING’S SHORT STORY COLLECTION
ブルース・スターリング
1988
 日本版オリジナルの工作者シリーズ短編集であり、ウィリアム・ギブスンが序文を、著者のブルース・スターリングがあとがきを短編集用に寄せている。1980年代、サイバーパンクが日本を重要なマーケットにしていたことを物語る出来事である。
 テクノロジーの暴走によって人は変質を求められる。それは、人間性や社会性、あるいは、地球的生命からの脱皮であり、生命は宇宙という広大な舞台の中で広がり、無機物を生命化して広がっていくもので、それこそが物質的知的生命体の究極の目的であり、優先される行為である、といったテクノロジーの延長にある「哲学」に支配された世界である。
 知性すらも、その哲学の前にひれ伏す。それをスターリングは、「巣」に登場する異星生命体を通じて提示する。そして、その異星生命体を「研究」するふたりの人類出自の者を通じて、生命とは何かを問いかける。
 サイバーパンクの中でも、きわめて異質なビジョンを提示するのがブルース・スターリングなのであろう。
「蝉の女王」での、人工的に作られ、火星のテラフォーミングを進めるための地衣類への偏愛、「火星の紙の庭」でのテラフォーミング過程にある厳しい環境で生きる原住民への冷たいまなざし。
 理解と拒絶のすれすれのところに物語を紡いでいくスターリングは、短編向きの作家なのだろうか。同じ工作者シリーズの「スキズマトリックス」に比べれば、短編の方がはるかに読みやすい。また、各短編ともきちんと「オチ」を用意してあり、その「オチ」の意外性とおもしろさで、どんなに異質な作品であっても楽しく読むことができる。「スキズマトリックス」では得られなかったすっきり感が、本書「蝉の女王」にはある。
(2006.8.17)
あはは。蝿じゃなくて、蝉だ。
蝿って書いてた。ばっかだね、私。

スキズマトリックス

スキズマトリックス
SCHISMATRIX
ブルース・スターリング
1985
 格好いい名前のSF作家投票だったら名前で1票入れたくなるような「ブルース・スターリング」の長編第一作である。
 月を回る環月軌道上のコロニー「晴れの海環月企業共和国」から物語はじまる。小惑星帯、土星のリング帯などの宇宙都市世界の力が強くなり、その大きくふたつの勢力マシンテクノロジーによって進化を遂げようとする「機械主義者」とバイオテクノロジー技術によって進化を遂げようとする「生体工作者」の勢力である。古い環月コロニーでも、彼らの影響を受け、人々と社会は変遷していく。
 共和国の貴族の子息であったリンジーと、平民のコンスタンティンは工作者の元で教育と生体的な強化を受け、潜在的な外交官として育っていた。しかし、彼らの思想や行動は、共和国にとっては害悪であり、リンジーは静かの海環月人民財閥に追われ、そこで新たな工作者に出会い、そして、海賊船のフォルツナ鉱夫民主国へ、さらに次へと変革を起こしながら流れていく。そうして、異星人交易船との出会いと人類の大きな変化の中で、リンジーは、いくつかの流れを形作っていく。人類は変わり続ける。それは、もはや人類と言えないのかも知れない。いくつかの流れとはコミュニケーションすらとれないだろう。むしろ異星人との方がコミュニケーションがとれるのかもしれない。
 それほどまでに変わりゆく人類の末裔たち。
 リンジーの長い人生という旅を通じて、人類と太陽系の変革の過程をたどる。
 1985年である。サイバーパンクである。ウイリアム・ギブスンと並び称されたブルース・スターリングの作品である。いやあ、はでだねえ。それにしても、詰め込んである。まるで歴史の概要を読んでいるような錯覚に陥る。リンジーの人生で何人かのキーとなる人との出会いと別れと再会があるのだが、そこに感情的に移入はできない。そこでの感情移入を作者が排除しているのだ。それとも、翻訳の問題か?
 世界は、ガンダムである。
 つまりは、重力から脱した人たちが新たな思想や意識を持ち、その思想や意識に従いながら生きていく。しかし、その思想や意識、行動規範には時の状況によってはやりすたりがあり、永遠に続くようなものではない。万物は流転するのだ。
 このあたりは、ガンダム世界と良く似ている。
 本書は、長い歴史を描いているので、ガンダムよりももっともっと複雑で変化が激しいのだが、時期的には1970年代末から80年代にかけて、こういう人類を超えた、今の人類には理解できない思想、行動といったものを描く動きがあったのだ。
 その大きなエンジンとなったのが、サンバーパンクムーブメントであったのだろう。
 ところで、個人的にはすっかり忘れていた話で、新鮮な気持ちで読めたのはよかったが、訳がしっくりしないのか、原文が読みにくいのか、どうにもつまりつまりとなって、思ったよりも読むのに時間がかかってしまった。
 一度同じ世界空間を把握してから読み直すとよりおもしろく読めるのかも知れない。
 ということで、さっそく同じ世界の短編集「蠅の女王」を読むことにする。
(2006.08.17)

カズムシティ

カズムシティ
CHASM CITY
アレステア・レナルズ
2001
「啓示空間」(2000)と同じ宇宙史に属するレナルズの作品である。「啓示空間」に負けず劣らず、本書「カズムシティ」も1200ページ近い大作というか長大作品。どうしてこう長くなってしまうのかは分からないが、解説などを読むと、イギリスの出版事情が絡んでいるとか。ハリー・ポッターシリーズの影響だろうか??
 舞台は、スカイズエッジ星とイエローストーン星。カズムシティはイエローストーンの都市である。入植時以来の戦争に明け暮れるスカイズエッジ星で、武器密輸を行う黒幕とその妻が殺される。ボディーガードをしていた元兵士で天才スナイパーのタナー・ミラベルは、自分のプライドをかけて復讐を誓い、ボスと妻を殺したアルゼント・レイビッチを追った。
 そして舞台は変わり、イエローストーン星へ。人類の一派であるウルトラ属の近光速船に乗り冷凍睡眠でイエローストーン星軌道上のハビタットで目覚めたタナー・ミラベルは、記憶に混乱をきたし、スカイ・オスマンの夢に悩まされていた。
 スカイ・オスマンは、スカイズエッジ星に入植したときの英雄であり、犯罪者として追われた者の名である。彼は、今やスカイズエッジ星の一部の新興宗教で殉教者としてあがめられ、スカイ・オスマンウイルスが作られて、ばらまかれた。感染した者は、磔刑された彼と同じように右手から血を流し、スカイ・オスマンの夢を見せられる。タナー・ミラベルは、どこかで感染してしまったらしい。そして、イエローストーン星に来たのは、もちろん、逃げたレイビッチを追いかけるためである。イエローストーン星には、レイビッチの家系が力を成しているという。しかし、タナー・ミラベルには自身があった。数日以内にはしとめると。スカイ・オスマンの生涯を追いかける変わった夢に悩まされながらも、タナー・ミラベルはレイビッチを追い求める。
 そして、イエローストーン星。融合疫という、ナノマシンを含むコンピュータ類と鉱物、生物を巻き込んで変形していくおそらくは過去の異星人によると思われる疫病が、栄華を誇るイエローストーン星を襲っていた。何もかも変形し、機能を失った土地で、人々は、自らの身体の中のナノマシンと、移植物を捨て、古い蒸気機関などを「再発見」し、かつての高度な科学技術の遺物と融合させながら、富める者は富めるままに、貧しい者は貧しいままに生きていた。
 物語は、イエローストーン星でのタナー・ミラベルの物語と、タナー・ミラベルが見るスカイ・オスマンがたどる生涯の物語のふたつがもつれ合いながら進む。
 そう書くと、なんだかとても文学的な感じもするが、そうではない。
 特殊効果が最初から最後まで盛りだくさんのハリウッド映画かフルCGアニメといった感じの作品である。
 変形するビルの部屋には、融合疫で飲み込まれた人々が生えている。
 長命化、不死化した人々は、人生に飽きて、マンハンティングを行い、姿形を自由に変えていく。シマウマのように黒と白の模様をつけ、自らを「ゼブラ」と名乗る現在は女性の人間。豚に人の遺伝子を加えているうちに知性を獲得してしまった豚人間。身体中を機械化した人間。ナノテクとバイオテクノロジーの技術の究極は、どんな魔法も、ファンタジー世界も、または、天国や地獄も実現可能にしてしまった。そして、その崩壊も。
 とにかくアクションと異質な光景に満ちた21世紀最初のSF作品のひとつである。
 楽しめ。
 それにしても日本だったら、○○文庫や○○新書のような形で、1時間もあれば読める作品になっているだろうに。そうして、売れたらシリーズ化して、50話くらいのアニメ化して、実写映画化して、キャラクターにして儲けるだろうに。何もかも1冊に突っ込んで、これでもか、これでもか、と、読ませ続けるあたりが、イギリスなのだろうか。
 気軽に読むような娯楽作品なのに、この長さと厚さはなに??
 本書「カズムシティ」と「啓示空間」は、同じ宇宙史で時期的にも重なっているところはあるが、内容には重なるところがないので、独立して読める。「啓示空間」のように、移動中の近光速船、ふたつの惑星の物語が入り組んでいるのと違って、ふたつの物語が時系列でそれぞれ語られるので、「カズムシティ」の方がはるかに読みやすい。内容としても、「カズムシティ」の方がアクション、ビジュアル的であり、最初に読むなら、「啓示空間」よりもとっつきやすいだろう。
英国SF協会賞受賞作品
(2006.08.12)

空飛び猫

空飛び猫
CATWINGS
アーシュラ・K・ル=グウィン
1988
SFか? と、聞かれるとつらいのだが、ル=グウィンだから許して欲しい。
猫ばなしである。猫とイルカはどうにもSFの相性がよいらしく、いろんな作品に登場する。とりわけ猫は愛されている。「夏への扉」(ハインライン)を出すまでもない。猫にはSF魂をゆさぶる何かがあるのだろう。
さて、ル=グウィンの猫好きはSF界ではよく知られた話である。
そこで、「空飛び猫」である。絵本で、日本では村上春樹が翻訳している。
村上春樹も猫好きな作家のひとりであり、英文の好みがはっきりしている作家である。
そして、ル=グウィンの文章が好きなのだ。
評論するような内容ではない。
あるとき、羽の生えた猫が4匹生まれたのだ。羽は飾りではなく、空を飛ぶことができた。だから、羽のない母猫は、4匹の子猫たちに語りかける。「飛びなさい」。
そして、冒険がはじまる。
それだけ。
十分じゃないか。
どこかには、いるのである。
羽の生えた猫や、犬や、ねずみが。
空を飛んでいるのである。きっと、間違いなく。
それを知っている方が、知らないでいるよりもずっと幸せになれる。
そう、思いませんか?
(2006.08.03)

モナリザ・オーヴァドライブ

モナリザ・オーヴァドライブ
MONA LISA OVERDRIVE
ウィリアム・ギブスン
1988
 解説の山岸真氏が、1986年から本書「モナリザ・オーヴァドライブ」発行までの時代の雰囲気を伝えている。「とくに日本では、人々は競ってギブスンのことを語った。パソコン雑誌やロック雑誌、ビデオ雑誌、文芸誌、一般週刊誌、美術雑誌、広告会社の社内報、カルチャー講座…」「やがて、本書の抜粋が雑誌に掲載されはじめた。まず本書第十五章がアメリカのライフスタイル雑誌High Time八七年十一月号に。あけて八八年初頭、世界のどこよりも早くこの日本で、第一章の翻訳が資生堂のPR誌<花椿>八八年三月号に」
 1988年6月にイギリスで発行、11月にアメリカで発行、そして、翌89年2月10日付けで、本書「モナリザ・オーヴァドライブ」がハヤカワ文庫SFより、黒丸尚訳で邦訳出版された。
 このスピード感、この喧噪と興奮を見よ。
 80年代前半からの知的冒険の季節の最後を盛り上げるかのような事態である。知的スノッブはこぞって「サイバーパンク」の語を使いたがり、時代の空気はここにあるとうそぶいていた。SFが今よりはるかに一般的で、世界は未来を夢見ていた時代である。
 テキストの意味なんて、みんながひとりひとり勝手なことを語り、コンテクストが自由に書き換えられていた時代の話だ。
 主人公のひとりは、やくざの大親分の娘・久美子。安定していた日本の裏社会で抗争が勃発し、彼女はロンドンに避難させられる。しかし、ロンドンで別の騒動に巻き込まれてしまう…。
「ニューロマンサー」「カウント・ゼロ」に続く、三部作最終章である。
 舞台は、「ニューロマンサー」が未来の千葉シティにはじまるのと同様に、成田空港からはじまる。「カウント・ゼロ」から7年後。「ニューロマンサー」から数えて、ほぼ15年後のできごとである。
「カウント・ゼロ」の、ボビイやアンジィが登場する。それぞれ7歳年をとって、もう少年少女ではない。 「ニューロマンサー」のミラーシェード・モリイも登場する。こちらは15年経って、少々くたびれているようだが、あいかわらず格好いい。ケイスの未来も分かる。
 三部作にすべて登場するのは、フィン。まさかこの人が全部に登場するとは思わなかったけれども、そういうものなのだろう。人生って。
 もちろん、新たな登場人物にはことかかない。
 タイトルの名前を持つ少女モナ。バイオAIのコリン。ジェントリイ、スリック、チェリイのでこぼこトリオ。そして、久美子、アンジィ、モナの3人を取り囲むそれぞれの個性的な男達。恋愛なし、ビズあり、たくらみあり、死体あり、だ。
 今読んでも古くはない。
 ぜんぜん。
 当時よりはるかにビジュアル化しやすいね。
「マトリックス」とか「攻殻機動隊」とかあるしね。
「サイバーパンク」って言葉は、手あかがついたけれども、そして、「サイバーパンク」の代表的な三部作と言われているけれども、そんなこと関係ない。
 ビジュアルなドラマとして頭の中で映像やアニメにして読んで欲しい。楽しいよ。
 21世紀初頭らしい読み方ができる。
 あと20年経ったら、どんな風に読めるだろうか??
 それも、生きていたらの楽しみにしておこう。
(2006.08.03)

カウント・ゼロ

カウント・ゼロ
COUNT ZERO
ウィリアム・ギブスン
1986
「ニューロマンサー」を再読したついでに、ギブスンの三部作を読み直そうと思って探したみたが本書「カウント・ゼロ」が私の手元になかった。「ニューロマンサー」も、本書の続編「モナリザ・オーヴァドライブ」も初版であるのに、だ。
 日付と記憶をたどってみる。
「ニューロマンサー」は、1986年7月に邦訳初版がでている。大学生である。なるほど。
「モナリザ・オーヴァドライブ」は、1989年2月に邦訳初版がでている。ちょうど、最初の就職先を退職した直後のことである。なるほど。
 本書「カウント・ゼロ」の邦訳は1987年9月。原著から1年少々で翻訳出版されている。そうかあ、最初の就職先でとても忙しかった頃じゃないか。
 買って読んで、その後、どこかにやってしまったのか、それとも読んでいないのか…。
 今となってはどうしようもない忘却の彼方である。20年前の話だ。
 しかたがないので、900円+消費税5%を払って、「カウント・ゼロ」を購入。2003年6月の第10刷となっていた。あの当時は、消費税もなかったし、ISBNコードはついていたが、バーコードなんて無粋なものはついていなかった。
 80年代のことである。
 1987年9月といえば、バブルの絶頂期である。忙しかったなあ。
 ブラックマンデーで株式が暴落するのはこの年の10月である。その後もバブルの余韻は続いたが、次第に円高ドル安が進み、日本は株式/不動産バブルから、世界の円高バブルに取り込まれることになっていく。
 ま、いいか。
 本書「カウント・ゼロ」は、「ニューロマンサー」から7年後の世界と電脳世界を描く。下層の希望もない町バリタウンに生まれカウント(伯爵)ゼロのハンドルを自称するカウボーイに憧れる少年ボビイ・ニューマーク。今風に言えば、ハッカー(クラッカー)に憧れてる厨房といった風。ある不正ソフトを入手し、電脳空間に没入するが、すぐに大きなシステムにつかまって死にかける。それを救った電脳の中の不思議な少女。ボーイ・ミーツ・ガールである。
 電脳空間はいまや不思議な存在の噂に事欠かず、神々の存在さえ噂されていた。
 そして、少女。
 生体チップの独占的企業マース=ネオテクの研究者の娘、アンジェラ・ミッチェル。接続しなくても電脳空間を夢としてとらえることのできる少女。
 彼女がマース=ネオテクから離れ、そして、事件が起こる。
 一方、マース=ネオテクの買収に失敗し、永遠の電脳的生を望む企業オーナーと、彼の網の中に巻き込まれた美術評論家の女がいる。
 電脳空間のなにか、をめぐって、それとは関係なく動いているはずの登場人物達がそれぞれの意志となりゆきで物語が進む。中心が見えないままに、中心に向かって人々が動く。
 現実ってそうじゃないか?
 あとになり、別の枠から見れば、どこに中心があって、それに向かって人々が渦を巻くように動いていたことに気づく。でも、その渦の中で動いているときには、どこに向かっていこうとしているのかを知ることができない。
 ときには、大きな渦の中にいることを、気配として知るものがいる。
 そんな気配。
 ウィリアム・ギブスンは「気配」の作家である。
 80年代に見つけた、かぎとった「気配」が、本書にはある。
 本文に入る前の扉で、ギブスンはテクニカルに説明する。
 「カウント・ゼロ・インタラプト
  割り込みを受けたら、計数器の値を
  ゼロまで減少させる」
 コンピュータの基本的な命令のひとつである。
 私たちも、もしかしたら基本的な命令(動作仕様)によって渦から逃れられないのかも知れないじゃないか。
(2006.08.01)

夜の大海の中で

夜の大海の中で
IN THE OCEAN OF NIGHT
グレゴリイ・ベンフォード
1977
 グレゴリイ・ベンフォードという作家は、ひとりの主人公の年代記的な宇宙作品が好きである。それと宇宙の異種との遭遇をモチーフとした宇宙のSF。本書もまた、1999年にはじまり、2019年にかけて、宇宙飛行士で科学者のナイジェル・ウォームズリーの物語である。
 1999年、小惑星イカルスが軌道を変え、地球に衝突するコースをとった。これに対処するために、ナイジェルらが核爆弾を積んでコースを変えるためにイカルスに飛ぶ。ところが、ナイジェルは、中空のイカルスが廃棄された異星の宇宙船であることを発見した。地上からの指示に背いて、ぎりぎりまで中を調査し、はじめて地球以外の文明に触れたのであった。
 それから、15年後、2014年。ジェット推進研究所に職を得たナイジェルは、木星から火星、金星へと軌道を移す太陽系外の飛行物体スナークを確認した。それは、人工知性を持ったコンピュータで、人類文明と交信を果たした。ナイジェルは、ふたたび機会を得て、この飛行物体に接近、場合によっては破壊する司令を出されていたが、それを果たすことなく、飛行物体は去ってしまう。
 そして、月で新たに古い破損した宇宙船が発見され、その調査がはじめられた。そこにもまた、ナイジェルの姿があった。
 地球は、戦争と環境汚染、経済的混乱により荒廃し、キリスト教系の新興宗教が力を得ていく。そして、その新興宗教は、ナイジェルが体験した宇宙の異種との出会いに触発され、科学分野、政治分野にも力を入れ、ついには、宇宙開発に対しても大きな影響力を見せる。
 にがにがしく思いながらも、科学の開かれた民主的な可能性を信じるナイジェルであった。
 宇宙は、機械知性に満ちていた。そして、機械知性を生みだした有機体知性は、宇宙の中ではまれな存在で、機械知性によって滅ぼされていた。
 はたして、人類と地球の運命は? その複雑な未来を予感させて、物語が繰り広げられる。
 一度読んでいるのだからあたりまえなのだが、既読観の高い作品である。
 天然の小惑星だと思っていたものが実は異星の高度な文明種属による宇宙船であった。
 機械知性と有機知性の戦争。
 ひとりの宇宙飛行士科学者の信念。
 新興宗教の台頭と地球および人類社会の疲弊。
 モチーフは、繰り返される。
 だから、安心して読めるのかも知れない。
 続編「星々の海をこえて」は未読。同じシリーズに属する「大いなる天上の河」「荒れ狂う深淵」「輝く永遠への航海」は読んでいるのだが、「光の潮流」はおそらく未読。どうもグレゴリイ・ベンフォードの作品は、タイトルが似ていて、シリーズとして出されているわけではないので、きちんと買って、通して読んでいない。
 なんとか入手して読んでみたい。
(2006.7.29)

スターバースト

スターバースト
FROM A CHANGELING STAR
ジェフリー・A・カーヴァー
1988
 ナノテクものである。ひとりの科学者が、記憶喪失で自分自身を発見する。どうやら殺されても、死んでも、生き返る再生能力を身につけている。変身もするらしい。なんで? どーして? そして、自分は誰? 何?
 どうやら、自分自身の考えと、いくつかの勢力のたくらみによって、彼は、身体にナノマシンを感染させ、それによってある目的のために動かされているようである。
 どんな目的?
 それを探るために、サイバー空間に隠棲している天才科学者の力を借りて、別の対話型人工知性ナノマシンを導入し、すでに入っているナノマシンを押さえ込もうとする。
 人体の中での複数の意図。
 主人公の彼は、宇宙物理の数学者。死に絶え超新星と化そうとしているある恒星を使って、途方もない実験をしようとしていたらしい。
 恒星の中には、すでに研究用のポッドが仕込まれ、恒星の死は意図的に早められていた。
 そこにからむ陰謀。
 そして、恒星の生命。
 なにぶんにも、主人公が記憶喪失で、記憶が混乱し、肉体が混乱しているのである。
 ストーリーもいささか混乱気味になろうというものだ。
 そこに、恒星の生命が登場したり、恒星の生命と意志を予言する宗教哲学が登場したりと、話はややこしくなる。
 たぶん、書きたかったことは、人工知性ナノマシン、人類、恒星の知性と規模によって大きく異なる知性の相互理解やあり方の可能性なのだろう。
 この時期のSFは、ハード的なストーリーに科学と関連するような新興宗教を織り交ぜることで作品に深みを出そうとするものが多い。
 成功していると、哲学的になれてよいのだろうが。
 ナノテク、ナノロボットのひとつの途方もない可能性や知性・生命の途方もない可能性について考えるのにはよい作品かも知れない。
(2006.7.26)

スターシップと俳句

スターシップと俳句
STARSHIP & HAIKU
ソムトウ・スチャリトクル
1981
 昭和59年というから、1984年に翻訳出版されていて、古本として購入した1冊。
 新刊が出たときに、なんとなく触手が伸びなかった1冊。
 たしか、途中まで読んで放りだしていた1冊。
 2006年の今年の7月は、とにかく湿度の高い月で、気温は高かったり低かったりしたのだが、日照が少なくて、湿っていた。あちこちにカビが生え、私は喉を痛めて熱を出し、朦朧としながら、この本を手に取ったのだった。
 本物の鯨が泳いでいるのは見たことがない。
 鯨を食べたことはある。子どもの頃、家でも、学校給食でも出ていた。
 小型ハクジラ(歯鯨)のイルカ類ならば、海で泳いでいるのを見たことがある。
 鯨…ややこしい動物である。いや、鯨がややこしいのではなく、人と鯨の関わりがややこしいのである。
 第一次世界大戦から第二次世界大戦、そして戦後にかけての20世紀前半、鯨は世界中の捕鯨船団によって捕らえられていた。その主たる目的は油であったが、日本では主たる目的が肉の食用であった。いずれにせよ、日本が大きな船団を持ち、かつ、各国が捕鯨船団を放棄していく中で、引き続き、商業捕鯨を続けていたことは間違いない。それは、目的の違いによるものでもあったろう。安い油が手にはいるのならば、わざわざ捕鯨船団を出さなくても引き合うのだが、安い肉としての価値は代替されなかったからだ。
 このあたりが、現在も鯨と人との関わりを、とりわけ日本と鯨の関わりをややこしくしている。
 実は、私はある年のIWC総会に行ったことがある。IWC、すなわち国際捕鯨委員会である。毎年、各地で開かれ、商業捕鯨問題について国際的な決定をする国際会議である。
 主に、日本を中心とする商業捕鯨再開国と、商業捕鯨再開を認めないとする諸国、それに、主に捕鯨禁止を訴える国際NGOがその国に参集して、それぞれの主張のPR合戦をする。会議場の中でも外でも、国際NGOの反捕鯨アピールが繰り広げられる。
 ちなみに、2006年現在、伝統的、儀礼的な手法による一部の捕鯨を除いては、沿岸小型鯨類を除く商業捕鯨は再開を認められていない。それは、日本以外の国も同様である。
 日本は、1987年より商業捕鯨を中止しており、その再開を求めている。
 一方、日本は南氷洋や北西太平洋でミンククジラを中心にマッコウクジラ、ニタリクジラ、イワシクジラ、ナガスクジラ、ザトウクジラなどを調査捕鯨として捕獲している。沿岸小型鯨類の捕鯨はツチクジラ、ゴンドウクジラ、ハナゴンドウクジラで水産庁が規制している。
 話がややこしいのは、日本側も、反捕鯨国、保護団体側の溝の深さから、論点の整理や議論ができる国際会議になっていないということである。
 ちなみに、ちょっとインターネット上で、web検索をかけてみれば、日本語で、様々な立場、視点から様々な主張やデータが出てくるであろう。
 今、私がそれに付け加える意見はない。
 その反捕鯨の議論が資源規制から環境保護などの視点から盛り上がったのが1970年代後半であり、本書「スターシップと俳句」もまた、その時期に書かれた作品として、色濃くある。
 ざっとストーリーをまとめると、近未来に核による世界大戦が起こり、地球は激しく汚染され、人類は滅亡の危機を迎える。そんななか、日本では、日本を舞台にしたハリウッド映画のような価値観での古典回帰が起こり、美しい自殺をすることが自らの誇りであるとの風潮が生まれていた。そんななか、ひとりの政治的リーダーの娘が、クジラとの交感を果たし、日本人は遠い祖先にクジラによってクジラの精神を受け継ぐ遺伝子操作的なものを加えられた「クジラの子孫」の要素を持つ人種であることを明らかにされる。
 そのことを知った日本人たちは自らの先祖殺しの不明を恥、せめてもの誇りをいだきながら死を迎えようとする。
 一方、人間と同様に滅亡を迎えようとするクジラに、クジラと人の未来を託された少女は、自らの死を願う意志を抑えて、残された星間宇宙船に乗り込むことを決意する。
 みたいな話だ。
 ハリウッド映画的日本像を、ハリウッド映画として、どんなに戯画化されていても楽しめるようになった21世紀の現在、本書「スターシップと俳句」の戯画的風景も、別に目新しくはなく、そういうものとして読むことができる。
 だからおもしろいかというと、ひとつひとつのシーンのおかしさは、ある。
 ただ、SFなのか? それとも、クジラは人類とは別種の高等知性体だという、反捕鯨論の中でも、反捕鯨を主張する人たちでも苦笑するような説のためのおとぎ話なのか?
 困ったものだ。
 作者ソムトウ・スチャリトクルは、タイ人であるが主にイギリスで教育を受け、英語が第一国語で、タイ語はのちに学んだ。東京を含む世界各国で暮らし、本書を書いた時期はアメリカを中心に暮らしていたらしい。
 単純に、ジャパネスクパロディとして、げらげら笑うのもよいだろう。
 なんだこれは! と怒るのもよいかもしれない。
 読み手によって、解釈はどうにでもとれる。
 作者は今、本書をどのように受け止めているだろうか。ちょっと聞いてみたい気もする。
(2006.7.24)

ライズ民間警察機構

ライズ民間警察機構
LIES, INC.
フィリップ・K・ディック
1983
 現実は脳の中にあり、真実はただそこにある。
 もし、私だけが体験する現実であり他者とその現実を共有できないならば、私の脳に何か問題があるのだろう。多数の他者と現実を共有したとき、そのすき間に真実の片鱗を見ることができ、そして同じ世界を生きているという実感を得ることができる。
 しかし、それがたったふたりしか共有するものがない現実だったらどうなのだろう。
 そこに真実はあるのか、そして、同じ世界で生きていけるのか。
 フィリップ・K・ディックは、現実がいくつもあることを知っていた作家である。
 共有できない現実におびえ、共有できる現実も、真実ではないかも知れないことにおびえ、真実すら多岐に渡って遷移していくものではないかとおびえていた。
 その世界の不安定さと、現実の不安定さ、同じ世界に生きるということの不安定さを、作品に書き続けた。
 ここにふたつのテキストがある。ひとつは、ネズミが登場し、主人公に多大な示唆を与える。もうひとつには、ネズミが登場しない。
 私の同居人がこのふたつのテキストを手に取ったら、前者は読むべき1冊となり、後者は読むかどうか分からない1冊となる。なぜならば、前者にはネズミが登場しているかで、同居人はネズミが大好きだからだ。あの丸3つでも権利を主張するネズミではない。生きた、動くネズミである。
 ネズミが出てくるテキストは、本書「ライズ民間警察機構」のことであり、ネズミが出てこないテキストとは、同じディックの作品「テレポートされざる者」である。
 ここにふたつのテキストがある。どちらも同じ舞台、同じ登場人物、そして、多くの同じ文章で構成されている。
 話はこうだ。
 2014年、世界は統一ドイツを中心にした国連によって牛耳られている。人口は70億で、人であふれている。過去、いくつかの惑星や他の太陽系が探検され、移住も行われたが、過酷な環境で「もうひとつの地球」とはなっていなかった。
 フォーマルハウトの第九惑星「鯨の口」は、人類がそのまま生存できる希有な惑星として発見された。それとほぼ同時期に、ドイツのTHL社がテルポー技術を発明する。送信、受信の設備を設置すれば瞬時に人や物を移動できるテレポーテーション技術である。しかし、その技術は、宇宙の膨張方向によって一定の方向にのみ作用した。すなわち、地球から鯨の口への道であり、その逆はなかった。THL社は、惑星への移民と開発を含むすべての権利を持ち、これまでに4000万人を受け入れていた。
 地球では、もうひとつライズ民間警察機構という私企業が、国連統治の地球で情報操作を専門にした警察力を行使し、国連に対置する大企業となっていた。
 そして、いま、恒星間宇宙船を有する唯一の民間企業はTHLによって倒産の危機にあり、企業の所有者であるラクマエル・ベン・アップルボーム、THLに対抗するためだけに恒星間宇宙船で片道18年もかかる鯨の口への旅に出ようとしていた。彼は、鯨の口から届く美しい情報のすべてが嘘ではないかと疑っていたのだった。
 そうして、ライズ民間警察機構の主なメンバー、ラクマエルらが鯨の口に行く。
 そうして、現実が遷移していく。
 軍事国家的収容所、異星人の統べる世界、美しい豊かなもうひとつの理想の地球、機械仕掛けの世界…。
 真実はどこにあるのか。そして、人類と「鯨の口」に希望はあるのか…。
 ふたつのテキストのうち、ひとつは、本書「ライズ民間警察機構」であり、もうひとつは、「テレポートされざる者」である。どちらも、ディックが執筆した作品だが、どちらも、作品として完成していたかどうか不明なところがある作品でもある。そして、どちらも、ディックの死後に発表された、同じテキストを元にする異本である。
 そもそも、この変容する作品は、まず、「テレポートされざる者」の前半部分の形で雑誌に掲載された。それを単行本とする際に書き足し修正された原稿ができたものの結果的に雑誌掲載のまま出版されてしまう。そうして増補した作品は出版されないままに放置され、その後、出版社と完全版を書く約束になったままディックの死を迎えた。
「テレポートされざる者」(1966、サンリオSF文庫、鈴木聡訳、1985年8月)は、1966年頃までに書き足しと修正され、出版されることのなかった原稿をベースに1983年に出版された。その際、3カ所の原稿欠落があり、そのまま出版されている。
 一方、本書「ライズ民間警察機構」(1983、創元SF文庫、森下弓子訳、1998年1月)は、ディックの死後発見された原稿で、「テレポートされざる者」を書き直していたものらしい。1979年頃までに執筆したものであるとされるが、1983年に欠落部分をジョン・スラデックが補筆して出版されたものである。
 本書のあとがきに牧眞司氏が詳しく整理しているが、「テレポートされざる者」と「ライズ民間警察機構」では、同じ原稿が使われている部分と、書き足された部分があり、同じ原稿部分も構成を変えてあるために、物語も物語から受ける印象も大きく異なっている。
 作品の中で、前提となるであろう現実が変わっているのだ。そのため、まったく別の世界、まったく別の結末を迎える。
 本書「ライズ民間警察機構」の方が、より深い混乱をもたらすであろう。
 まったくディックらしいではないか。
 しかし、ここで疑問が残る。はたして、「ライズ民間警察機構」は、そもそもディックが構想した通りの完全版なのだろうか? そうであれば、ディックは原稿を編集サイドに引き渡していてもよかったはずである。
 さらに、「テレポートされざる者」の欠落部分が後日発見され、「テレポートされざる者」はそれで一応の完結を見せるのだが、「ライズ民間警察機構」には、「テレポートされざる者」の3カ所4枚の欠落部分のうち、「ライズ」でも使用された2カ所の欠落がそのまま残っていた。それを、スラデックが補筆したのだが、欠落がそのままであったということは、ディックの書き直しは終わっていなかったことを意味するのではないだろうか。
 ということは、「ライズ民間警察機構」はディックの考える完全版ではなかったかもしれない。「ライズ民間警察機構」のディックらしい現実の混乱は、ディックが意図した部分と意図しない部分があったのかも知れない。それすら、今となっては分からない。
 ただ、異本として1966年までには完成していた「テレポートされざる者」と、1979年までにディック自身によって構成を変えられ、手を入れられた「ライズ民間警察機構」というテキストが我々の前に置かれているだけである。
(2006.7.19)