TVアニメ 交響詩篇エウレカセブン

交響詩篇エウレカセブン
監督 京田知己 構成・脚本 佐藤大 音楽 佐藤直紀 キャラクターデザイン 吉田健一
2005-2006
2005年4月から1年間に渡って日曜日の午前7時から30分のアニメ番組として放映されたSFアニメーション「交響詩篇エウレカセブン」について書いてみたい。(2006.04.30に初稿発表、同06.03改稿)
この「エウレカセブン」は、テレビアニメを軸として、コミック、小説、ウェブサイト、ゲーム、ラジオ番組、音楽、グッズなど様々なメディアを活用して最初からメディアミックスで展開することを想定して企画された極めて21世紀的なプロジェクトであった。
このプロジェクトの成否あるいは、意義については、ここでは話題にしない。
また、物語としても、本編であるアニメーションの「交響詩篇エウレカセブン」で描かれたことについてのみ触れ、他のメディアや、そこで明らかにされている(かもしれない)世界のことはあえてないものとして触れる。理由として、コミック、小説などでは、主人公のキャラクターや物語の進め方、設定などがそれぞれ異なっており、話がややこしくなることと、すべてに目を通している訳ではないからである。そこで、中心軸であり、全話を見ることができたアニメーション本編のみについての話である。
本コーナーは、基本的に海外SFについて書いているわけで、「交響詩篇エウレカセブン」が、日本の作品であることと、小説ではないことから、2つの逸脱をしている。
それでも書きたいと思ったのは、1年間、とても楽しませてもらった作品に対する感謝の意味であり、他意はない。
海外SFのいくつかの作品や作者の名前が出てくること、明らかにそれらの作品と関連する世界観を持っていることなどから、いくつかの海外SF作品を挙げながら「交響詩篇エウレカセブン(以下エウレカセブン)」について語ってみたい。
なお、「エウレカセブン」の世界は、最後にすべてが明らかにされているため、ネタバレの論となってしまう。あらかじめ了解いただきたい。
「エウレカセブン」の主人公は、14歳の少年レントン・サーストン。彼が、ひとりの不思議な少女に出会い、あこがれていたヒーローであるホランドが率いる月光号に乗り込むところから物語がはじまる。そして、「何も知らない」14歳の少年の視点で、世界は少しずつその姿を明らかにしていく。50話、トータル1000分以上の物語を通して、視聴者はレントンとともに少しずつ世界の真実を知り、レントンの成長とともに、この世界での成長をとげる。
「エウレカセブン」という物語のテーマは、コミュニケーションと理解、信頼である。大人と子ども、親と子ども、子どもと子ども、他者(異人)間、宗教と科学、男と女、世界と人間…。様々な関係が描かれ、そのコミュニケーション能力の高まりを成長として描いていく。
外部のすべてのコミュニケーションを絶った状態で生き続ける「絶望病」が、コミュニケーションの断絶の象徴として描かれ、実は絶望病もまた、別の形の別の存在とのコミュニケーションであったことが、最後に明らかにされる。
「エウレカセブン」の世界(スカブコーラル)は、人類とのコミュニケーションを求めており、人類もまた、スカブコーラルとのコミュニケーションの可能性を模索していた。
しかし、スカブコーラルとのコミュニケーションを否定するものもいる。最後までスカブコーラルと人類のコミュニケーションの「敵」であったノヴァク・デューイ大佐がその代表として描かれる。
しかし、「エウレカセブン」の世界では、人は多面的な姿を見せる。
物語を通して「敵」役であったノヴァク・デューイは、同時に戦争で生まれた「望まれない子どもたち」の唯一の庇護者でもあった。
レントンの成長に大きな影響を与え、第二の両親ともなるビームス夫妻は、その一方でエウレカの存在を許さない妻と、その妻を無条件に支持する夫の一面を見せ、レントンに対して無限の愛をみせるとともに、エウレカをめぐってレントンとのコミュニケーションの不成立をみせる。
レントンもまた、成長期の中で、エウレカ、ホランド、あるいは子どもたちに対して理解・信頼と、疎外・不信の間で揺れ続ける。
そのような形で、コミュニケーション、理解、信頼、世界との対話、他者との対話という多くのSFが追求するテーマを追い続けたのが、「エウレカセブン」である。
人間を含め、知性体の成長とは、認識の深まりとコミュニケーションの深まりであると言ってもいいかもしれない。認識の深まりとは、「世界をみる目」の深まりであり、同じ世界が成長するにつれ、単純な世界から、次第に複雑な世界に変貌していく。単純なコミュニケーションは次第に複雑なコミュニケーションに変貌していく。同じ言葉であっても、その意味は深まり、変化する。同時に、その言葉を発し、受け取るものの関係=世界も変化する。テキストとコンテキストの理解と変容(進化)こそが成長である。
「エウレカセブン」の視聴者は、1話から50話にいたる過程で、前半の世界が後半に断続的に変化し、前半の物語で発せられた言葉が、後半に意味を変えていくことに気がつかされる。よくできたしかけであり、一般的に「物語」とは世界の認識を変える手段として使われていることにあらためて気がつかされる。私の愛好するSF小説というジャンルは「世界の認識を変える(=センス・オブ・ワンダー)」ことを先鋭的に志向する物語であることが多く、その意味で、「エウレカセブン」は登場するガジェットだけでなく、物語の組み立てとしてもよくできたSF作品である。
多くの指摘があるように、「エウレカセブン」では、音楽やサーフィンなどの分野でもサブカルチャー領域にあるものをうかがわせる言葉やガジェット、ギミックが登場する。その遊びの謎解きも作品の魅力となった。
SFの領域でも、明かな遊びがみられた。
特に、3人のSF作家の名前が登場人物に命名され、明らかに、その作品との関与をうかがわせる存在として描かれていた。
そこで、ここからは、この3人のSF作家と「エウレカセブン」の世界について触れたい。
「エウレカセブン」で直接触れられたSF作家は3人。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、グレッグ・ベア、グレッグ・イーガンである。
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアについては、「ティプトリー」の名前で第8話「グロリアス・ブリリアンス」から登場する。作品中の「ティプトリー」は、ヴォダラクという宗教集団に属する逃亡中の反政府組織リーダーである老女の役割であった。
彼女は、その後、エウレカが「覚醒」するにいたる過程やエウレカの「変化」の過程で数回登場することになる。そして、道を暗示する者としての役割を演じる。40話「コズミック・トリガー」でエウレカと再会したティプトリーは、エウレカに対し「それがあなたの選択なのね」と、エウレカに理解を示す。また、8話では、彼女に与えられた行動に対して「たったひとつの冴えたやりかた」という言葉を発し、レントンとエウレカ、あるいは登場人物たちに対して、世界と対話するには自ら「選択すること」の必要があることを繰り返し示唆する。
そして、この言葉、「たったひとつの冴えたやりかた」こそ、SF作家ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの代表作のひとつである。
ハヤカワ文庫SFで「たったひとつの冴えたやりかた」として1987年に邦訳出版された作品は、3つの中編からなりたつ連作で、表題作は第一話のタイトルである。
SF界ではあまりに有名で、せつない泣ける名作としてSF読みでない人たちにもファンが多い作品である。
内容は、ひとりの少女が自分の宇宙船で冒険に出かけ、そこで、異星の知的生命体とファースト・コンタクトする。その異星人は、少女の身体の分子間に結合することで、はじめてコミュニケーションをとれたのだ。不思議な友情を結ぶことに成功した少女と異星生命体。しかし、やがて少女は、彼女より先にファースト・コンタクトを遂げた調査隊の運命を知る。そして、少女と異星生命体で少女のひとつの肉体を共有したふたりは、人類や他の知的生命体への災厄を避けるために「たったひとつの冴えたやりかた」を選ぶ。
エウレカが、レントンや子どもたちを守るために選択したように。レントンが、彼の愛するすべてを守るために選択したように。
この第一話「たったひとつの冴えたやりかた」とは違った形であるが、同じようにコミュニケーションと選択の物語が、「たったひとつの冴えたやりかた」第三話「衝突」にもみられる。こちらは、人類と似た存在である知的生命体と人類が最初の出会いのまずさから戦争の危機を迎えながらも、その接点に立った人類の調査船クルーと、異星の知的生命体の若い通訳が最後まであきらめず「相互理解」「信頼」の道を模索したどり続けた物語である。ここでは、いくつかの「死」がコミュニケーションを導く。
「死」をもってしか、真のコミュニケーションが得られなかった不幸と、その選択、悲劇、そして、未来が語られる。
ストーリーの前提は異なるが、「エウレカセブン」にも通じるテーマである。
「エウレカセブン」でも、いくつかの選択が、選択した者たちの「死」につながる出来事となった。「死」しか解決の道がなかったのか? その問いに対し、「エウレカセブン」は、新しい物語を提示する。それが、「エウレカセブン」の選択であった。
次は、グレッグ・ベア、グレッグ・イーガンである。31話「アニマル・アタック」で登場したのが、グレッグ・イーガン教授。通称ドクター・ベアである。「エウレカセブン」で登場する巨大人型搭乗型戦闘マシーン(モビルスーツ)のLFOは、地下のスカブコーラルから発掘された遺跡物にインターフェースや機械部分を装着したものであり、ドクター・ベアはこの遺跡物の原型=アーキタイプの専門家として登場する。彼は、理論物理学や「情報力学」を中心に「先を行きすぎていて、誰も真の理解はできない」論文を発表する洞察力を持つ天才科学者である。彼は、物語の謎の核心である「スカブコーラル・知的生命体仮説」の有力な提唱者であり、スカブコーラルから「発掘」されたエウレカや、アーキタイプから作られた最初のLFOニルヴァーシュが、人類がはじめて宇宙に送り出したメッセージである「ボイジャー」と同じような意味を持ったスカブコーラルからのメッセージであり、探査隊であり、コミュニケーターではないかとの説を展開する。また、グレッグ・イーガン教授は、休眠しているスカブコーラルがすべて覚醒して知的活動を再開すれば、惑星は「クダンの限界」を迎え、物理宇宙が崩壊することが情報力学によって予想され、それを防ぐためにスカブコーラルは自ら休眠しているのだとの説も披露する。それは、ヴォダラクが教義として持つ理論と双璧をなすものだった。
ベアとイーガン、このふたりのSF作家のうち、SF作家として先輩なのがグレッグ・ベアである。
グレッグ・ベアの作品で最初に邦訳され、1987年3月にハヤカワ文庫SFとして登場した「ブラッド・ミュージック」は、「エウレカセブン」が大きく影響を受けている作品であろう。「ブラッド・ミュージック」は80年代の「幼年期の終わり」(アーサー・C・クラーク)と呼ばれ、人類の進化の形、次のステージの形を示した傑作とされた作品である。
ウェブサイトでも、「エウレカセブン」と「ブラッド・ミュージック」の関係や「エウレカセブン」監督の京田知己氏が「ブラッド・ミュージック」を人に勧めていたとのエピソードが見受けられるが、確かにいくつかの設定に似たところがある。
「ブラッド・ミュージック」は、主人公が自らの血液の中に、開発中の自律有機型コンピュータ(バイオチップ)を入れたことから事件が起こる。彼らは血液の中で独自の進化を遂げ、群体としての知的生命体となる。そして、地球上のすべての有機物や無機物を飲み込みながら、生命活動をデータ化していく。人々は、群体生命体の情報の海の中で情報知性体としてヴァーチャルリアリティ的に存在し続けることができる。しかし、微細な知的活動が物理空間に極端に偏在したため、「情報物理学」上の限界が来て、既存宇宙の物理法則が乱れ、新たな変容を迎えてしまう。 「エウレカセブン」で登場するスカブコーラルは、「ブラッド・ミュージック」で登場したヌーサイトと相関し、情報力学から導かれたクダンの限界は、情報物理学から導かれる「ブラッド・ミュージック」のエンディングと相関、そして、ともに「司令クラスター」がキーワードとなる。
もちろん、「エウレカセブン」と「ブラッド・ミュージック」はまったく違う物語であり、その世界観は異なる。「ブラッド・ミュージック」は、わずか数カ月の間にすべてのできごとが起こるが、「エウレカセブン」では、人類とスカブコーラルは長い月日を経てお互いを知るにいたる。
なにより、「エウレカセブン」では、最後の数話の間に、いくつかの「結論の提示」が行われ、それぞれにの主人公達の「選択」があった上で、50話「星に願いを」において、第三の道を指し示す。その第三の道、「進化の方向はひとつである必要はない」ことこそが、「エウレカセブン」の選んだ結論であった。この結論は、「ブラッド・ミュージック」では持ち得なかったものである。もちろん、どちらが優れているという話ではない。21世紀的なコンテクストで「エウレカセブン」の結論が生まれ、80年代のコンテクストで「ブラッド・ミュージック」の結論が生まれたのだから。
「エウレカセブン」は、レントンという何も知らない14歳の少年の目で世界を知り、学び、考え、行動していくために、最後まで真の世界は明らかにされない。そもそも、世界そのものの真実がほとんどすべての人たちに隠されていたからでもある。そして、世界の真実が物語の結論とも結びついているため、「エウレカセブン」の世界を理解するのはとても難しい。ていねいに過去の物語を理解しなければならない。いや、理解したところで、世界の理解は難しいであろう。
その点で、「ブラッド・ミュージック」は、類似の世界を提示しており、「エウレカセブン」を理解する上でのひとつの参考書になる。
「ブラッド・ミュージック」は、今も色あせない、SFの名作であり、「エウレカセブン」を見た上で読めばまた違った面白さを発見できるであろう。
最後は、グレッグ・イーガン。「エウレカセブン」で唯一フルネームがそのまま使われているSF作家である。「エウレカセブン」でグレッグ・イーガンのことを、「先を行きすぎて誰も真の理解ができない」天才と紹介しているが、現実のSF作家であるグレッグ・イーガンも、「先を行きすぎて真の理解ができない」テーマを、SFとして表現し、難解ながらも高い評価を得ている。近年、イーガンの作品は続けて翻訳されており、「エウレカセブン」放映中の2005年9月にも1997年に原著発表された「ディアスポラ」が翻訳出版(ハヤカワ文庫SF)されている。グレッグ・イーガンの特徴として、多くの作品が「観察者問題」をテーマとしている。
「観察者問題」とは、私が「要するに」とまとめられるような簡単なテーマではなく、理論物理学あるいは宇宙論の基盤をなす難解な問題である。「見る者」=観察者がいなければ、現実は確定しない。みたいなことを含むなにかなのだが、正直なところよく分からない。詳しく知りたい人は、有名な「シュレディンガーの猫」のエピソードでも調べて欲しい。正直なところよくわからない先端的な理論を、SFとして人間の物語にするところがグレッグ・イーガンの力量で、わからなくてもなんとなくわかったような気持ちになる。なぜならば、物語は、人間の行動や思いで成り立っているからだ。グレッグ・イーガンの観察者問題の代表作として「宇宙消失」(1992・邦訳1999 創元)、「順列都市」(1994・邦訳1999 ハヤカワ)、「万物理論」(1995・邦訳2004 創元)がある。
「宇宙消失」は「エウレカセブン」のテーマのひとつである「人間の意志」が大きなテーマを占める。「順列都市」もコンテクストは異なるが「エウレカセブン」で登場するヴァーチャルリアリティ空間での存在と世界が語られる。最後に「万物理論」だが、この作品は、「ブラッド・ミュージック」にならんで「エウレカセブン」に近いかも知れない。ただ、「ブラッド・ミュージック」ほど直接的なつながりはない。それに、なんといっても難しい。しかし、難しさを無視して読み進めれば、「エウレカセブン」におけるレントンと同様に、主人公のジャーナリストが、自分のことに悩みながらも、現実に起こるできごとにとまどい、知り、学びながら、最後には選択する物語になっている。そして、その選択こそが、宇宙に大きな影響を与えることになる。もし、「エウレカセブン」を見て、「たったひとつの冴えたやりかた」や「ブラッド・ミュージック」を読み終えたならば、次に、玉砕覚悟で「万物理論」に手を出して欲しい。半分以上わからなくても大丈夫。私も本当のところわかっちゃいない。なんといっても「先を進みすぎている」のだから。それでも、きっと、そこに書かれている人々の行動や心理に共感することだろう。そして、主人公達に、レントンやエウレカの影をみることができるかもしれない。
「エウレカセブン」に驚かされたのは、道が数多く提示されたことである。
ヴァーチャルリアリティでの情報体として永遠の生、お互いに嘘のないすべての情報を共有できる、合一できる存在を提示されながらも、レントンとエウレカが、物質的存在としての限られた生の価値を理解し、その道を第一の道として選択した。そして、他者の物質的存在を守る道が、レントンとエウレカが情報体になることしかないとなったら、それを「死」ではなく別の「生」として第二の道を選択する。さらに、その道すら閉ざされたときに訪れた「別離」をともなう第三の道の選択に対しても、別の共に生きる道を探そうとする。最後には、これらをすべて含む道が提示されて物語を終える。
未来はひとつではなく、選択もひとつではないが、選択しなければ道は拓けず、共感と理解、コミュニケーションのもとにしか、存続の未来はないことを提示する。
それを、物語として破綻なく見せ続けた力量にはただただ感服する。
今後、「エウレカセブン」がメディアミックスの中でどのような展開を見せ、どのような評価や歴史的位置づけをたどるかは知らないが、私は1年の間、謎解きを楽しみ、登場人物に感動することができた。そして、50話を終え、できればもう一度、全体を理解した上で、最初からレントンとエウレカの1年間をたどってみたいと思う。
補記:実はもうひとりSF作家が登場していた。25話の「ワールド・エンド・ガーデン」で絶望病と人、大地と人、人と人の関係について主人公のレントンに深い印象を与えたウイリアム・B・バクスターが、ジーリーシリーズで有名なハードSF作家のスティーヴン・バクスターからとった名前だという。登場した人物とバクスターのSFの内容に関係をみつけられなかったので見逃していた。このほかにもファンタジー作家のロアルド・ダールがそのまま軍人(州軍指揮官)として出てきたりもしているので、先の3人(ティプトリー、ベア、イーガン)を除いては、必ずしも元ネタの作家や人物と内容に関係はないのであろう。
補記2:本稿では、作家に焦点を置いてその作品と「エウレカセブン」との関わりについて述べていたが、「エウレカセブン」のテーマである共感や愛については、デイヴィッド・ブリンの「知性化」シリーズ「知性化の嵐」やダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズなどにも見られる。
「知性化の嵐」シリーズは、人類だけでなく様々な知性体が出てくるが、惑星への移住と共生、惑星自体が過去の生命系に影響を受けた共感能力を持ち、結論でも共生や選択の道の多様性が提示される。
再読して、類似性が深いと思ったのは「ハイペリオン」シリーズであり、とりわけ、後半の「エンディミオン」「エンディミオンの覚醒」である。主人公のロールとアイネイアーの旅と相互の関係の変化、アイネイアーとロールの位置づけをはじめ、イメージとしてもエウレカセブンでたびたび登場する世界と一体となって移動する(空をトラパーの波に乗って移動するなど)と同じような情景がいくども描かれる。テーマも、「愛は物理的な宇宙の力である」と、これだけ書くといかがわしく感じられるような大テーマを体現している。「エウレカセブン」がそうであるように、宗教と科学の対話、仏教の考え方、キリスト教の視点なども丁寧に描かれている。「エウレカセブン」の元ネタのひとつと言っても過言ではないだろう。
「ハイペリオン」シリーズは四部作といっても、それぞれが文庫で2分冊になっていて、合計8冊、しかもその1冊ずつが普通の文庫の2~3作分ぐらいある大作である。20世紀末までのすべてのSFの集大成と言っても過言ではない作品で、数多くのSFのテーマや小道具、設定などが縦横無尽に使われ、しかも、そのひとつずつをシモンズ流に解釈し、提示している。小説としてのSFだけでなく、「スター・ウォーズ」のような映画の領域にも踏み込んでおり、それでいてそれらの作品をまったく読んでいなくても楽しめる作品になっている。
「エウレカセブン」が終わって1年余、もう一度、あの心地よさを体験したい方は、この四部作を手に取ってみてはいかがだろう。
(2006.4.30 改稿 2006.6.3 追補2 2007.7.31)

たったひとつの冴えたやりかた

たったひとつの冴えたやりかた
THE STARRY RIFT
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
1986
 本書「たったひとつの冴えたやりかた」は、邦題の表題作をふくむ3つの独立した中編をまとめた本であり、作者の遺作となった作品である。
 原題は、THE STARRY RIFT。銀河系の人類を含む連邦宇宙領域で便宜的な北の境界となる星の少ない未踏の領域「リフト」を意味する。このリフトの向こうにどんな星々があり、どんな知的生命体がいるのか、人類がまだ知らなかった頃の物語がみっつ納められている。そのうちふたつはファースト・コンタクトの物語。そして、この物語を紹介し、読むのはリフトの向こう側にいるコメノ族の学生カップル。彼らは異種である人類の事実を含むみっつの物語を読む。そして、共感する。理解する。それこそが、知的生命体の証だから。
 多くを言うことはないだろう。SF史に残る宝石である。
 SFは時として珠玉の作品を生む。その作品に共通する特徴こそが、「The Only Neat Thing To Do = たったひとつの冴えたやりかた」の一言に凝縮されていると言っても過言ではない。人は弱いと同時に弱くない。人はおろかだ。同時に人は思わぬ時に思わぬ強さを発揮する。そのおろかさと強さの同居に、人は感動を覚え、涙する。
 そうありたい。そうあれるだろうか。
 その行為を、理解し、共感する。
 この3編のうちの表題作となる「たったひとつの冴えたやりかた」こそ、トム・ゴドウィンの「冷たい方程式」を凌駕する美しく切ない物語である。
 この物語の特徴を文学的に、あるいは、心理的に分析することは容易に可能である。
 難しい構成をしているわけではない。
 必ず泣けるようにできている。
 しかし、そんな分析は意味をなさない。
 本書には「たったひとつの冴えたやりかた」の次に「グッドナイト、スイートハーツ」、そして「衝突」がおさめられている。「グッドナイト、スイートハーツ」は、ひとりの記憶を失った男の物語である。「衝突」は、リフトの先の知的種族と人類のもうひとつのファースト・コンタクトの物語である。こちらもせつなく悲しい物語であるが、残念なことに「たったひとつの冴えたやりかた」の影にかすんでいる感がある。この物語のテーマは「信じる」という言葉である。コミュニケーションとはつまるところ、理解と共感であり、それは「信じる」という言葉に集約することもできる。
 そして、この「衝突」は、現代史を肌で見つめ続けてきた作者が残した人類への率直なメッセージである。
(2006.4.30)

ファウンデーションの勝利

ファウンデーションの勝利
FOUNDATIN’S TRIUMPH
デイヴィッド・ブリン
1999
グレゴリイ・ベンフォード、グレッグ・ベア、デイヴィッド・ブリンの3人による公式の銀河帝国興亡史新3部作を締めくくるのが、本書「ファウンデーションの勝利」である。
 前2作品で、アイザック・アシモフによる正統ファウンデーション・シリーズのミッシングリングを違和感なく埋め、物語は大きな円環を描いた。それは、半世紀におよぶひとつのSF史の完結でもあった。そして、未来への予兆を描き出したのが、「ファンデーションの勝利」である。
 もっとも、銀河帝国史の中では、ハリ・セルダンの最晩年を描いたものであり、ターミナスに銀河百科事典編集を目的とした科学者達が移住を行っていた時期である。ほぼすべての役割を終えたハリ・セルダンは、ごく少数の人たちからの世話を受けながら、自らの死期を待っていた。そこに、荒唐無稽な統計を持った無名人が登場する。土壌の専門家という彼は、帝国の星々の土壌の中に、別の進化を遂げていた生物の化石が見つかるなど、奇異な事実があるというのである。それらの惑星には、ハリ・セルダンを悩ませ続けた「混沌」世界の誕生がみられ、土壌の特徴と有意な関連があった。この事実を知ったハリ・セルダンは、軟禁状態の惑星トランターを抜け出し、混沌の原因を探るべく調査に出る。
 そこには、2万年にわたる人類とロボットの歴史の闇が潜んでいた。
 果たして、心理歴史学とファウンデーションは、R・ダニール・オリヴォーが画策する未来の人類像であるガイアやガラクシアのためのつなぎにしか過ぎないのか? それとも、第三の道があるのか? 「ファウンデーションの彼方に」以降の人類の方向性について、新たな視点で未来を語るのが本書である。
 そして、なぜアシモフの宇宙に人類以外の知性体がほとんど見られないのかも明らかにされる。
 本書もまた他の2作品同様、アシモフ世界の忠実な物語であると同様に、デイヴィッド・ブリンの作品でもある。ただ、先のふたりと異なるのは、デイヴィッド・ブリンは、自らの作品世界を確立している一方で、様々な作家と共作あるいは、作家の意志を受けての作品を書いている実績を持っている。そのためよりアシモフ的である。それこそが、三部作の最後に選ばれた理由でもあるのだろう。
 と同時に、ブリンの代表的シリーズである「知性化」シリーズを彷彿とさせるようなくだりもある。まったく違う世界でありながら、接点が生まれるところに、シェアワールドもののおもしろさがある。
 本書に限って言えば、せめていくつかのアシモフ作品、あるいは、ファウンデーションシリーズをある程度読んでいなければ真のおもしろさはない。数々のアシモフ作品がぎっしりと詰め込まれた、楽屋落ち的な作品だからだ。
 逆に本書を読むと、ファウンデーションシリーズ以外のアシモフ作品が読みたくなる。
 そんな気持ちにさせてくれるあたりが、デイヴィッド・ブリンの力量なのだろう。
(2006.4.30)

愛はさだめ、さだめは死

愛はさだめ、さだめは死
WORM WORLDS AND OTHERWISE
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
1975
 私が、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアに出会ったのは1986年の夏のことだった。サンリオSF文庫で「老いたる霊長類の星への賛歌」が邦訳発行された。大学4年の夏で、当時は就職活動中であったと思う。暑い夏で、あらゆることにうんざりしていた。
 大学の生協では、グループを作って共同購入すると安くなるシステムがあって、私は同級生らのグループにはいり、SFや漫画の単行本、あるいは目にとまった様々な一般向き科学書などを購入していた。大抵は予約注文で、インターネットもない当時は、本屋にならぶ新刊案内や予約案内をみては、これぞという本を注文したり、あるいは、本屋であとがきを読んで、それを注文していた。注文してから届くまでに1~2週間、ときには1カ月かかることもあり、何を注文していたか忘れることも多かった。たしか月に1~2万円ほどは本を購入していたように思う。もっとも、今でもそのくらいは購入しているのでそれほど変わりないわけだが。
 この短編集は衝撃だった。それについては、「老いたる霊長類の星への賛歌」を再読する際にあらためて書きたいと思う。だから、その翌年、作者が夫を殺し、自ら自殺した報を聞き、再び深い衝撃を受けたことを覚えている。
 その衝撃の中で、本書「愛はさだめ、さだめは死」を入手し、動揺したままに読んだ記憶がある。
 いまも、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアは私にとって特別な作家であり、性別で作品を語ることは無意味であることを教えてくれた作家である。同時に、いまも、もっとも好きな女性のSF作家である。
 なんてかっこいい作家であり、美しい作品だろう。
 作者がいかなる最後をとげたか、どのような人生を歩んだかは、関係ない。
 なんとかっこいい作風、なんと繊細かつ大胆な作品。
 本書「愛はさだめ、さだめは死」は、他の作品群とともに短編集であり、12の短編がおさめられている。
 邦訳のタイトルとなった「愛はさだめ、さだめは死」(Love Is the Plan the Plan Is Death)は1973年のヒューゴー賞を受賞、「接続された女」(The Girl Who Was Plugged in)は1974年ネビュラ賞を受賞している。
 ここでは、短編集を取り扱うときの例にならい、「接続された女」について取り上げたい。
 若い不細工な娘がある組織にスカウトされる。彼女は手術され、訓練される。有名人になるために。ここに、生物工学的に生み出された美しい少女が登場する。若い不細工な娘は、この美しい少女になるのだ。美しい少女にはまったく知能がない。そこで、彼女の肉体を遠隔ロボットとして操作する「脳」になるのである。美しい少女は、笑い、語り、ためいきをつき、男達を、女達を、マスメディアを魅了する。ある目的のために。「脳」となった女は、美しい少女となり、夢見ていた生活をはじめる。ただ、嗅覚と味覚と性機能の感覚までは遠隔操作のデータとしてフィードバックされない。そして、夜には接続をはずされ、自らの肉体に戻り、その肉体が必要とする様々な生理的行為、食べる、排泄する…を行う。
 権力者の息子が彼女に恋をした。彼女も彼に恋をした。
 彼女は、一体、どの彼女なのだろう。
 物語は、現実世界ではありがちな皮相さをもって幕を引く。
 サイバーパンク運動がはじまる以前1970年代頭の作品である。
 ヴァーチャルリアリティという言葉がない時代の作品である。
 邦訳されたのは昭和62年。すなわち1987年。
 日本ではサイバーパンクSFが次々に翻訳され、新井素子や大原まり子が、日本におけるSFの新たな境地を開いていた時代である。
 ようやく、80年代後半になって、ティプトリーの作品群が1冊にまとまって販売されたのは、これらの時代に並ぶ作品群として認知されたからであろう。
 私もまた、サイバーパンクSFなどの80年代作品群をすでに読み始めていた。
 しかし、それらとは違う「新しさ」と「衝撃」をこの当時でさえ一昔前に書かれた作品群から受けたのだ。
 美しくロマンティックな設定を読者に納得させた上で、最後に現実に対する冷徹な目で読者を突き放す。放り投げられる。物語ごと、読者に引き渡される。それが現実の世界だから。ティプトリーの物語に衝撃を受けるのは、SF的仮説を現実として描きだす能力の高さと、その視点の豊かさ、人間味あふれる冷たさがあるからだ。
 なんといったらいいのだろう。
 私たちは…、
 しかたない。引用しよう。
--…自分の脳がサウナ部屋にあるとは感じていない。あのかわいい肉体の中にあると感じてるんだ。オタク、手を洗うときにさ、自分の脳みそに水がかかってると感じるかい? むろん、ちがうよな。両手に水がかかってると感じるだろう? その”感覚”なるもの、実はオタクの両耳のあいだに詰まった電子化学的ゼリーの中で、チカチカまたたくポテンシャル・パターンにすぎない。しかもそいつは、オタクの両手の先から、ながーい回路をとおって脳に届いたわけさ。ちょうどそれと同じ理屈で、--
--神経系を体の外にぶらさげているようなものだ。かりに、だれかがオタクの脊髄をつかんで、ぐいっとひっぱったとしてみなよ--
(ハヤカワ文庫SF版 昭和62年発行の浅倉久志訳)
 2006年のいまなら誰でも理解できるだろう。
 理解できなければ、映画「マトリックス」でも見ておけばいい。
 この状況の皮相さ、哀しさ、おかしさ、現実味を描き、それを超えることに、まだ、どのSF作家も成功していない。
(2006.4.25)

ファウンデーションと混沌

ファウンデーションと混沌
FOUNDATION AND CHAOS
グレッグ・ベア
1998
 アイザック・アシモフがSF史に残した偉大な宇宙史「銀河帝国史」の中心をなすファウンデーションシリーズについて、グレゴリイ・ベンフォード、グレッグ・ベア、デイヴィッド・ブリンの3人による公式の新3部作が書かれた。それぞれ、邦訳で「ファウンデーションの危機」「ファウンデーションと混沌」「ファウンデーションの勝利」として書かれ、もはや重鎮となった3人のSF作家がベンフォードの指揮の下に新たな歴史の闇を描き、1冊ずつを分担して書いた。それはアシモフが産みだした世界の歴史であると同時に、3人の作家のそれぞれの独立したSFでもある。本書「ファウンデーションと混沌」でもベアはベアらしく作品をまとめている。あきらかにグレッグ・ベアの1冊である。
 アシモフが「ファウンデーションの誕生」で描き出した、最初の作品への導入部分の最後を占めるのが本作「ファウンデーションと混沌」であり、「銀河帝国の興亡=ファウンデーション」の冒頭へとつながっていく。
 すなわち、帝国の公安委員長リンジ・チェンと心理歴史学者ハリ・セルダンの対決である。銀河百科辞典を編纂するためのファウンデーションが惑星ターミナスであることを、チェンによって言い渡されるようになるまでのわずかな期間、セルダンに対する裁判はどのように行われたのか、その期間、セルダンと心理歴史学には何が起きたのか? 本当に、セルダンはミュールをはじめとする心理歴史学によるセルダン・プランの崩壊を予見できていたのか? 第二ファウンデーションはどのようにしてその種をまかれたのか?
 銀河帝国史の中でも、極めて重要な事件であり、極めて限られた設定条件の中に、グレッグ・ベアは物語を紡ぎ出し、アシモフが持ち続けた「問い」への問答をベアらしく問い直す。
 その物語は、自由意志を持ったように見えるダニール・オリヴォーを含むロボット達の人類への奉仕のありように対する対立であり、人類がロボットの影響下で進化してきた結果として得た特殊能力によるロボットと人類の対立であり、銀河帝国の影であったロボットの存在がいよいよ時の権力者たちに知られはじめたことによる、ダニール・オリヴォーらの存在意義の破綻であり、ハリ・セルダン自身による心理歴史学への疑問である。
 そして、問いは繰り返される。
 自由意志とは何であろうか?
 進化とは何であろうか?
 ロボットであり、永遠の存在であるダニール・オリヴォーは自由意志を持った存在なのであろうか?
 究極の対話とは、合一=統一した生命体の自覚=ガイアのようなもの/グレッグ・ベアの「ブラッド・ミュージック」における結末のようなものなのであろうか?
 この新・銀河帝国興亡史3部作は、いずれもアクションがあり、対話があり、新たな魅力的人間やロボット、存在に満ちたエンターテイメント作品群である。それと同時に、アシモフが提示し、SFのもつ「問い」、人間が持つ問いに対する自問自答の作品でもある。
 歴史の中の個人の役割とは、個と集団の意志の違いとは、どちらを重んじるべきなのか? 個の命と集団の存在は、どちらを重んじるべきなのか? 果たして、これらに答えはあるのか?
 そして、人間とは、知性とはなにか?
 なにをもって「人間」あるいは、問いに対する矛盾した表現になるが「自由意志を持った」知的存在と認知するのか? それは誰によって?
 SFは、「神」の不在の仮定、あるいは「神」の役割/機能への仮説など、科学と宗教、文明と文化、存在と対話について、その内容の深浅はあれども常に問いを持ち、仮説を立て、検証をしてきた。
 それはSFのもつ文学的機能である。
 SFのエンターテイメント性と文学性を学ぶ上で、この銀河帝国の興亡史はとてもよい入門書シリーズとなっている。
 なんといっても、アシモフ的手法である、結論に留保や別の可能性、話の余韻を残す作法は、読者に自由な物語を紡ぐ余地を残すからである。
 そして、この新三部作の作者達は、アシモフのこの手法をいかんなく発揮し、物語に潜在的可能性を残す。
 いよいよ、銀河帝国正史を描く最後の作品「ファウンデーションの勝利」が待っている。
 最終回を目前にしたはやる気持ちと、一抹の寂寥感の中で、ページをめくりたいと思う。
 もっとも、いずれも再読なのだが…。
(2006.4.25)

新・銀河帝国興亡史1 ファウンデーションの危機

新・銀河帝国興亡史1 ファウンデーションの危機
FOUNDATION’S FEAR
グレゴリイ・ベンフォード
1997
 アイザック・アシモフが「ファウンデーションの誕生」を残しこの世を去って後、アシモフの遺族らは、グレゴリイ・ベンフォードに目を付け、3人の80年代を代表するSF作家が、その世界を引き継ぐことになった。
 グレゴリイ・ベンフォードを軸に、グレッグ・ベア、デイヴィッド・ブリンの3人による公式の新3部作が書かれることとなった。それぞれの作品は、すべて「銀河帝国の興亡」=「ファウンデーション」として知られる1951年に書かれた第一作品の主人公であるハリ・セルダンの物語である。
 ハリ・セルダンについては、初期三部作ではほとんど生きた姿では出てこない。心理歴史学の始祖として、ファウンデーションをつくり、新たな銀河帝国設立と人類の再興を導く者として伝説の人物的扱いである。アシモフは、1982年に再開したファウンデーションシリーズで、初期三部作の未来を描いた。「ファウンデーションの彼方へ」と「ファウンデーションと地球」がそれである。と同時に、アシモフのロボットシリーズとの接点を明確にするため「夜明けのロボット」「ロボットと帝国」をしたためた。そうして一応の世界形成を行ったあと、アシモフは、再び、ハリ・セルダンに戻る。「ファウンデーションの序曲」で若き日のハリ・セルダンが心理歴史学を生み出すきっかけとロボットとの接点を描き、「ファウンデーションの誕生」では、ハリ・セルダンの40歳、50歳、60歳、70歳の事件を描き、セルダンの死をもってアシモフの語る年代記を終えた。
 新・三部作は、この隙間を埋める作品群である。
 アシモフ自信が「ファウンデーションの誕生」で語っていたように、銀河帝国の歴史はどこまででも書く余地が残っているのだ。
 本書「ファウンデーションの危機」は、40歳で皇帝クレオン一世より首相指名を受けたばかりのハリ・セルダンを描く。首相就任をしぶるセルダンだが、セルダン以上に、若き数学者が政治の世界に来たことを嫌う議会の政治家達がいた。次々にセルダンの命を狙って刺客が送られる。セルダンは、心理歴史学の研究を続けながら、危機を次々としりぞけていく。時には、首都惑星トランターを離れ、新たな研究対象を見つける。そして、心理歴史学の将来のイメージと首相としての責任と自覚を得ることになるまでを描く。
 本書は、まさしく、ファウンデーション・シリーズの1冊であり、アシモフの後継となる作品であるが、同時に、グレゴリイ・ベンフォードの作品である。まさしくベンフォードなのだ。文章といい、展開といい。翻訳文であるにもかかわらず、ベンフォードくささがこびりついている。
 本書「ファウンデーションの危機」では新たな存在が登場する。まずは、模造人格である。もはや違法とされる過去の技術で、歴史上の人物をコンピュータ空間上に仮想的に作り上げた知性体である。登場するのは、ヴォルテールとジャンヌ・ダルク。フランス史に残るふたりの模造人格が発掘され、プログラムを修復し、知性体として甦らせられた。彼らはヴァーチャルリアリティの世界に住み、現実の人間ともヴァーチャルリアリティとしてコミュニケートすることができた。さて、このフランス史に残りながらも時代も価値観も異なるふたりを対話させ、人工知能に知性が産まれうるかどうかを議論させるのがねらいであったが、このふたりの仮想的な再生が惑星トランターの危機を招くことになる。
 一方、ハリ・セルダンは、かつて多少「知性化」させられたチンパンジーへの人格ダウンロードを体験する。ヴァーチャルリアリティの究極であるすべての感覚入力を一時的に別の存在にダウンロードさせる技術が帝国にはあったのだ。この体験を通じて、ハリ・セルダンは新たな知見を得ることになる。
 また、このチンパンジーに限らず、犬族に対しても一定の「知性化」は遠い過去に行われていたことがうかがわれる。
 ロボットについても新たな設定が行われた。人工知性が禁忌とされた帝国では、チクタク(からくり)と呼ばれる、「心理的機能を低水準に設定された機械」がコンピュータとともに帝国を支えていたが、このチクタクが知性を備えた存在になりうる可能性を示したのだ。
 結局、本書では、様々な形の知性体、前知性体が登場し、その属性と知性であることの意味について考え続ける。それこそベンフォードらしいところであるが、同時に、アシモフがファウンデーション・シリーズを通して考え続けたことでもある。
 本書では、人類、人類のふりをしているロボット、2万年にわたって人類を庇護しているロボット・ダニール・オリヴォー、模造人格として甦ったヴォルテールとジャンヌ・ダルク、少しだけ知性化された犬、チンパンジー、チクタク、そしてコンピュータ・リソースの中に潜む謎の存在が、知性をめぐる議論に登場する。
 そして、もうひとつ本書では、アシモフの銀河帝国の世界が持つ不思議さに対しても、いくつかの答えを予感させる。
 その最大の謎は、「なぜこの銀河系には人類以外の異星知性が見あたらないのか」である。本書で、この答えは出されないが、その恐るべき理由の予感がなされる。
 さて、これを受けて、グレッグ・ベアはどのような答えを出すのか。
 楽しみである。
 ちなみに、この3部作はついついハードカバーで買ってしまった。本書「ファウンデーションの危機」は1999年に邦訳出版されている。わくわくしながら、続編が登場するのを待ったものである。こういう「待つ」時はとても楽しい。
(2006.4.18)

ファウンデーションの誕生

ファウンデーションの誕生
FORWARD THE FAUNDATION
アイザック・アシモフ
1993
 アイザック・アシモフは、1992年、72歳でこの世を去った。1920年に生まれ、19歳でSFを書き始めたアシモフは、1942年に「ファウンデーション」のもととなる作品を書き始め、1951年に「銀河帝国の興亡1」=「ファウンデーション」としてまとめられた。SF長編だけみていけば、「ファウンデーション」三部作をはさむように、銀河帝国関係の作品がならび、その後1954年には、それまで短編ばかりであったロボット物が「鋼鉄都市」の形で昇華する。そこには、宇宙時代を迎え、保守化した地球と、宇宙の長命族の争いがあり、イライジャ・ベイリとR・ダニール・オリヴォーが登場する。やがて、読者や出版社の圧力に負け、アシモフは80年代に入ってからふたたびファウンデーションシリーズを書き始め、そこにロボットシリーズとの融合をもたらした。それは賛否両論を招いたが、それでも、「出ないよりも出た方がいい」との声なき声に押されて、アシモフは書き続けた。
 そして、1986年の「ファウンデーションと地球」でひとまずの未来を書き終えた後、再び、過去へと転じ、銀河帝国が衰亡し、ハリ・セルダンが心理歴史学を誕生させるまでを描く「ファウンデーションへの序曲」が書かれた。
 そして、ここに、アシモフの遺作となった「ファウンデーションの誕生」がある。出版されたのは1993年。彼の死後となった。
 本書「ファウンデーションの誕生」では、前作で32歳だったハリ・セルダンの後半の生涯が語られる。40歳のハリ・セルダンは、ストリーリング大学の数学部長として、皇帝クレオン一世と、首相エトー・デマーゼルの庇護のもと、ユーゴ・アマリルとともに、心理歴史学の基礎研究に没頭していた。しかし、8年経ってもいまだ光明さえ見えない。
 しかし、脂ののりきった40歳である。いまだ芽のでない心理歴史学が思わぬ形で、帝国の崩壊を救ったのだった。
 それから10年後。かつての危機を救ったことで、クレオン一世によって首相に指名されてしまったハリ・セルダン教授は、心理歴史学の発展と、ますます衰退する帝国の運営に奔走し、50歳を迎えて疲れ切っていた。セルダンの心理歴史学はユーゴ・アマリルとセルダンの弟子達によって少しずつ形を見せていたが、当のセルダンにとっては歯がゆい限りである。
 そして、再びの陰謀。かつてハリ・セルダンを首相にさせるきっかけとなった事件の首謀者らがトランターの中枢を狙ってテロを起こしはじめた。はたして、セルダンはこの危機を首相として乗り越えられるのか。それは思わぬ結末を迎えてしまった。
 さらに10年後。10年前の事件により首相を辞し、ストリーリング大学セルダン心理歴史学プロジェクトの長として心理歴史学の発展を続けてきたハリ・セルダンは自らの老いを感じていた。心理歴史学の核となるプライム・レイディアントも発明されたが、その実績はすでに30代の若い心理歴史学研究者や技術者の手によるものであった。自分の手で心理歴史学を完成させたいと、老境のハリ・セルダンは失われつつある残り時間の中であせりと絶望を感じる。その一方、養子夫妻の子どもでハリ・セルダンにとっては実質的な孫娘のウォンダ・セルダンは8歳になり、ますます利発さをみせていた。次世代への焦りと怒り、そして、次世代への希望を抱きながらハリ・セルダンは生きていた。しかし、彼を支え続けた愛すべきドース・ヴェナビリ博士が死んだ。彼にはどうすることもできなかった。最愛の人を失い、絶望する。
 そして、10年後。70歳となったハリ・セルダンとその心理歴史学は、人々にとって不吉な証となっていた。銀河帝国の中心トランターには、明らかに荒廃の影が色濃く及んでいた。機械が壊れ、医師が技術を失い、人々がモラルを失っていた。ハリ・セルダンは、心理歴史学の大きな山を越え、今や、銀河帝国の崩壊は止められないながらも、その後の長きにわたる荒廃を少しでも短くするための構想を練っていた。しかし、予算も人材も限られるなかで、すべては手遅れだと、彼は確信した。そんなハリ・セルダンを支えたのが、孫娘のウォンダである。彼女の隠された能力こそが、すべての鍵になったのだ。
 そして、ハリ・セルダンは、美しい未来と、すばらしい過去を覚えて、失ったものの大きさ、寂しさの中に、得たものの大きさ、すばらしさを知る。たくさんの人に出会い、愛し、働き、悩み、苦しみ、そして、喜んだ。その結果としての未来への希望がある。見ることのできない未来だが、識ることはできた。未来に、未来の人類に道を開いたハリ・セルダンの姿。それは、死ぬ最後まで、SFを通して人々に科学の良い面を、人間の良い面を訴え続けてきたアシモフの心境であろう。
 前著「ファウンデーションへの序曲」の冒頭にある作者ノートで、アシモフは「いくらでも、わたしの好きなだけ、続篇を書くことができる。
 もちろん、どこかに限界があるはずだ--永久に生きることはできないのだから。しかし、できるだけ長く書き続ける決意でいる」と述べている。
 その言葉通り、彼は、最後まで書き続けた。そして、メッセージを残した。
 すべてのSF者たちに。
 道をつくった、道を拓け、と。
 合掌。
(2006.4.8)

ファウンデーションへの序曲

ファウンデーションへの序曲
PRELUDE TO FAUNDATION
アイザック・アシモフ
1988
どんな偉人にも、年寄りにも、子どもの頃、あるいは若い頃というのがある。たとえばその人が年をとってから有名になり、その姿だけを長く見ていると、あたかもその人の若い頃なんてないような、その人はずっと同じ姿をしているかのような気になってしまう。
 だから、父母や祖父母の若い頃の写真を見たり、彼らの若い頃の文章を読む機会があると、ちょっととまどい、気恥ずかしいような気持ちにさえなってしまうことがある。
 もし、その人が不老不死だったら、逆にびっくりしてしまうだろう。
 10年前も、20年前も、30年前も、ひょっとすると100年前も同じ顔姿だったりするのだ。
 本書は「ファウンデーションへの序曲」は、ファウンデーション・シリーズの6作品目であり、タイトル通りに銀河帝国の興亡初期3部作より以前を描く作品である。
 ハリ・セルダンは32歳。学会のためトランターにやってきたばかりの「若者」であり、数学的仮説としての「心理歴史学」を提示してしまったために、皇帝を含むいくつかの権力者の注目を集めてしまった。
 折しも時の皇帝は、セルダンと同じ32歳のクレオン一世。先帝に引き続き、影のように帝国を支えるエトー・デマーゼルによって、数学的ゲームであり、仮説であり、成立するはずがないとセルダンが確信する心理歴史学は、権力の道具になってしまうのか? そして、すべての読者がすでに知っているとおりの歴史をたどるとすれば、一体いつ、ハリ・セルダンは心理歴史学を架空のものでなく、実現するのか。それが可能だと彼は一体いつ確信し、いつ、どこで生み出すのか?
 さらには、前作「ファウンデーションと地球」で登場したR・ダニール・オリヴォーは、一体いつからハリ・セルダンに目を付けていたのか? 心理歴史学とダニール・オリヴォーの関係はどんなものがあるのか?
 いかにもアシモフ的なハリ・セルダンである。ハリ・セルダンは、アシモフのひとつの理想像なのではなかろうか。もうひとつの理想像は、イライジャ・ベイリか。いずれにしても、アシモフは「追求する人」が好きなのである。何にでも首を突っ込む、人類の行く末を真剣に考えつつも、目の前の人にすっかり感情移入したり、感傷的になったりする。
 まさしく、人間である。
 アシモフのロボットも人間くさいが、アシモフに出てくる人間は、まさしくアシモフ的人間である。
 そして、それゆえに、教えたがる。自分で調べて、できれば考えて欲しくて、教える。手を変え品を変えて、教えようとする。アシモフだから。
 本書を発表した1988年、アシモフは68歳である。
 それでもなお、アシモフは、「ファウンデーションをロボットシリーズと統合して、アシモフの宇宙を開拓する」ことに全力を注いだ。遠い未来の中の過去へ、また、未来へ、また過去へ。時を自由にかけ、20世紀後半を自在に駆けめぐり、若き日のハリ・セルダンを通して、銀河帝国末期の姿を描き、同時に80年代後半の世界を描いたのだった。
 そこでは、未来であるファウンデーションのハリ・セルダンの姿はない。
 没落していく世界で、遠い未来の希望を切り開こうとする生き生きとした人間の姿がある。また、没落していく世界であっても、トランターという惑星にいる多種多様な人々の生き方がある。
 50年代のファウンデーションに書かれたトランターとはなんという違いだろう。
 作品もまた、その時代から離れることはできないのだ。
 人は年をとる。年齢ごとに経験を重ね、覚え、忘れ、恥ずかしがり、厚顔にもなる。
 そのすべてが、人の歴史になる。
 私は、意外と、この前・ファウンデーションシリーズが好きなのだ。
 安心して読めるからかな。
(2006.04.08)

ファウンデーションと地球

ファウンデーションと地球
FAUNDATION AND EARTH
アイザック・アシモフ
1986
 アシモフによる銀河帝国/ファウンデーション歴史にひとつのトリを飾るのが本書「ファウンデーションと地球」である。ファウンデーション・シリーズとしては5作目にあたり、時系列としてもその順番通りである。前作「ファウンデーションの彼方へ」が三部作から29年の時を経て、1982年に登場し、セルダン計画そのものに対してアシモフからの疑義が唱えられる。そこに登場したのは「ガイア」超知性体であった。
 前作では、ファウンデーション人のゴラン・トレヴィズが、スーパー・コンピュータを搭載した重力操作宇宙船に乗り、考古学者ジャノヴ・ペロラットとともに壊滅したはずの第二ファウンデーションを探す旅に出た。ペロラットは、「地球」とも「ガイア」とも呼ばれる人類の始祖惑星を探し求めており、それを隠れ蓑にしたのだ。そして、最後には「ガイア」にたどり着き、トレヴィズはある「決断」を迫られる。
 そして、本書「ファウンデーションと地球」では、トレヴィズ自身がこの「決断」の意味と決定について悩み、その解決には「地球」を探すしかないと決意する。トレヴィズとペロラットの「地球探し」が再開された。今回は、ガイアであるペロラットの伴侶ブリスも一緒であり、初老のペロラットとブリスは新婚気分でいちゃついている。
 そんななか、「決断」による責任を感じているトレヴィズは、いらいらするのを避けるため、重力船のコンピュータとますます融合を深めていく。それは、有機/無機融合知性体のようでもあった。
 本書は、1986年に発表されているが、前作「ファウンデーションの彼方へ」と本書「ファウンデーションと地球」と間には、ロボット物の「夜明けのロボット」「ロボットと帝国」が挟まっている。
 それは、つまり、「ロボットと帝国」なしに、本書「ファウンデーションと地球」は成立しないし、「夜明けのロボット」なしに「ロボットと帝国」は成立しないからである。
 いや、もちろん、それは言い過ぎであり、この2冊を読まずしても、ファウンデーション五部作として読むことに問題はない。しかし、ファウンデーション・シリーズファンとロボット・シリーズファンの双方がある程度であれこの両シリーズの接点を納得するためには、アシモフは間に2作品を発表する必要があったのだ。
 本書「ファウンデーションと地球」は、2万年後の未来から見た帝国創生史めぐりである。トレヴィズは、彼の心の命じるままに、帝国の母体となったセツラー・ワールドの古い植民惑星を訪ね、廃墟と化したスペーサーの惑星を訪ね、地球の秘密を知る。
 そこには、人類の極端な未来がいくつも提示され、過去のファウンデーションシリーズに見られた第一ファウンデーション、第二ファウンデーション、セルダン計画と対比させていく。
「ロボットと帝国」で残された謎を読者に解き明かし、トレヴィズはついにほとんどすべての秘密を知る。
 アシモフはトレヴィズとブリスの絶え間ない議論と、最後に登場する影の人類史に欠かせないロボットとなったダニール・オリヴォーとの会話を通じて、人類のありようにひとつのテーマを示す。
 それは、アシモフのこれまでの苦悩と同様に、留保条件付きのままであった。
「決断」者、トレヴィズさえも新たな留保条件を物語の中で示す。個の自立性、独立性、孤立性を大切にするトレヴィズは、重力船のコンピュータとときおり一体化する。重力船のコンピュータはロボットではなく、トレヴィズに直接「語りかけ」てはこない。しかし、トレヴィズは、次第に重力船のコンピュータと融合することを望むようになる。
 それも、アシモフが本書「ファウンデーションと地球」で繰り返し悩み続ける人類のありようのひとつの答えであり、彼が出した結論への留保条件にしかならない。  ぶっちゃけよう。
 生命を大切にし、平和と平穏と幸福に満ちた社会/生命圏はすばらしく理想的である。
 そんな社会/生命圏はつまらないじゃないか。たとえ、無用な争いがあっても、生命は多様に躍動し続けるほうがいい。
 あなたならどちらをとるだろうか。
 アシモフは、前作で「ガイア」を選んだ。しかし、その結論の「正しさ」に答えは出ていない。
 今もなお、この留保条件は解除されていない。
 いつか、誰かがこの留保条件を解くのであろうか。
 ただ私は「神」への信仰と否定しないが、人が作りしものであっても人を導くための「神」は必要としていない。
 ごめん、ダニール・オリヴォー。
(06.3.29)

ロボットと帝国

ロボットと帝国
ROBOTS AND EMPIRE
アイザック・アシモフ
1985
「鋼鉄都市」「はだかの太陽」「夜明けのロボット」のロボットSFミステリ3部作に続き書かれた最後のロボットもの長編である。
 アシモフのもうひとつの宇宙史ファウンデーション・シリーズ三部作が、1982年に「ファウンデーションの彼方へ」で続編の登場となる。その後半に、失われた「ロボット」についての記述があり、「地球」についての記述がある。
 この「ファウンデーションの彼方へ」が人気を博した直後、アシモフは1983年に「夜明けのロボット」をしたためた。この作品は、まさしくSFミステリであり、地球人イライジャ・ベイリと、人間そっくりのロボット、ダニール・オリヴォーによる「殺人事件」の犯人と動機探しの作品である。
 ここでふたつの大きな未来への可能性が語られる。それは、心理歴史学の可能性であり、ロボット三原則の見直しであった。そのために、心を読むロボット・ジスカルドが登場する。この「心を読む」ロボットがはじめて登場したのならば、ファウンデーション・シリーズとロボット・シリーズを合流させるためにアシモフが考えついた都合のいい話になるのだが、さすがアシモフである。すでに、初期のロボットもの作品で、スーザン・キャルビン博士が心を読むロボットに出会っていた。これならば文句は言えまい。
 さて、この「夜明けのロボット」に引き続いて書かれたのが、本作、その名も「ロボットと帝国」である。「帝国」とはもちろんファウンデーション・シリーズで崩壊した「帝国」のことであるが、舞台の時は「夜明けのロボット」から2世紀も経っていない前・帝国紀、場所は長命種スペーサーの惑星オーロラ、ソラリアという、ロボット三部作でおなじみの星に、短命種の星・地球、そして、ベイリワールドである。
 ベイリワールド。イライジャ・ベイリは160年前に死んだが、彼の望み通り、地球人は再び宇宙に目を向け、植民地を広げ、彼らは自らを長命のスペーサー(宇宙人)に対してセツラー(植民者)と呼び、そのもっとも古いひとつはベイリワールドであった。わずかな期間にセツラーは勢力を伸ばし、スペーサーとセツラーの緊張は高まっていた。
 そんな時代の惑星オーロラには、ベイリが2度に渡って危機を助けたグレディアが、イライジャ・ベイリのパートナーであり友であるダニール・オリヴォーと、ジスカルドとともに暮らしていた。
 本書「ロボットと帝国」では、いくつかの殺人が起こるものの、ミステリではないので、その動機や犯人を捜す必要はない。では、本書は何なのだろうか。
「ファウンデーションの彼方へ」で、アシモフは遠い未来の人類のあり方について悩み、解釈するが、本書「ロボットと帝国」では、その「心理歴史学」と「ロボット三原則」のあり方について悩み、解釈する。
 ダニール・オリヴォーとジスカルドの会話は、堂々めぐりを続けながら、「人類」「人間」「ロボット」について悩み、悩みながらも「三原則」に従って行動を続ける。
 そして、イライジャ・ベイリによって異色のスペーサーとなったグレディアは、その異色さ、ユニークさ故に、伝説となり、歴史となる。彼女の旅の過程で未来の「帝国」の道が開かれる。2万年後のファウンデーションで探索の対象となった「地球はどこにあるのか」「なぜロボットはいないのか」「なぜ長命種はいないのか」「どうやって地球の短命種は帝国を築くまでになったのか」が語られる。
 本書は、アシモフのロボットものの集大成であり、アシモフが生みだしたロボット三原則のひとり歩きに対して、アシモフがつきつけたひとつの答えでもある。
 ダニール・オリヴォーとジスカルドの対話は、まるで、哲学者とその弟子か、高僧同士の対話である。
 いや、もしかすると「神」の対話だったのかも知れない。
 アシモフは、神を否定しながらも人類を導くものの存在を無意識に作り出したのではなかろうか。それが、ダニール・オリヴォーという人の姿に似せて作られた形をしたものではなかろうか。
 人が神を作り、神が人を導く。そんな風にさえも思えてしまう。
 そして、ダニールとジスカルドの結論と結末は、人類に対するサクリファイス(聖なる犠牲)ではないかとさえ思えてしまう。
 正直に言おう。しかし、それ故に、古き良き時代の読者である私としては、最初本書を読んだ際に、とまどい、不満を感じた。なにも、ロボットものでまで、人類の未来を語らなくてもいいではないか、と。しかし、その後あらためて「鋼鉄都市」(1953)を読み返したときに、アシモフの心の中には常に一貫性があったことを感じた。
 それは、人の、知性の可能性である。
 彼は、人の、知性のつくる奔放で活気ある世界を信じるとともに、秩序ある穏やかな世界も同時に希求し、その反映としてロボットを生みだしたのだ。
 ロボットと帝国。
 アシモフの「希求」するSFと世界は「ファウンデーションと地球」でクライマックスへと向かう。
(2006.3.28)