テレポートされざる者

テレポートされざる者
THE UNTELEPORTED MAN
フィリップ・K・ディック
1966
 ここに2冊のディックの小説がある。1冊は、本書「テレポートされざる者」でサンリオSF文庫から鈴木聡訳、1985年8月に発行されている。現在は、もちろん絶版。入手も困難であろう。もう一冊は「ライズ民間警察機構」で創元SF文庫から森下弓子訳、1998年1月に発行されている。東京創元社のWEBによるとこちらも在庫はないようである(2006年7月現在)。この「ライズ民間警察機構」には副題がついていて「テレポートされざる者・完全版」となっている。実は、「ライズ民間警察機構」と「テレポートされざる者」は同じ作品をルーツとする異本である。このあたりについては、「ライズ」の方の解説で牧眞司氏が詳細な解説をつけており、いきさつや、どこがどう違っているのかを明らかにしている。かいつまんでまとめておくと、1964年に”THE UNTELEPORTED MAN”が雑誌で掲載される。単行本化向けに1966年にディックが主に後半部分を書き足すが、お蔵入りになり64年版だけで発行される。その後、ディックは完全版をつくる契約を出版社と結ぶ。しかし、1982年にディックが死ぬ。そこで、代理人らは1983年に、1966年までに書かれた”THE UNTELEPORTED MAN”をアメリカで出版するがそのうち3カ所の原稿が欠落していた。それが、本書「テレポートされざる者」(原題”THE UNTELEPORTED MAN”)である。
 一方、イギリス版として出版準備をしているところで、ディックが大幅に改稿し、タイトルも予定されていた”LIES,INC”としていた原稿が発見される。これにも欠落があったため、ジョン・スラデックが2カ所補筆した。それが、創元の「ライズ民間警察機構」である。ところが、その後ディックの遺稿の中の別の原稿中に4枚の原稿が見つかり、それが、「テレポートされざる者」の欠落3カ所に該当することが判明し、1985年にディックの研究レターに発表された。
 そこで、「ライズ民間警察機構」には、この欠落部分も訳出されている。
 なんともややこしい話ではないか。
 そして、ディックらしい逸話ではないか。
 ディックは、読むたびに、あるいは開くたびに内容の変わるテキストをたびたび小説の中に登場させ、それを読む登場人物に、なんらかの影響を与えている。本書「テレポートされざる者」にもそんなテキストが登場する。「ブラッド博士の、真実にして完全なる、ニューコロナイズドランドの経済と政治の歴史」である。まるでこのテキストのように、ディックの小説もまた変容し、読む者に影響を与えていく。
 結局私は、80年代に「テレポートされざる者」を読み、その後90年代に「ライズ民間警察機構」を読んだが、その際には「テレポートされざる者」が実家の本棚に眠っていたため、その違いを思い出すことができず、今、ようやく、この2冊を並べて順番に読み始めたところである。しかも、私のざる頭は、まず、「テレポートされざる者」を読み始め、途中まで読んだところで、「ライズ民間警察機構」のことを思いだし、ひっぱりだして、このいきさつをようやく思い出した次第。そうして、訳者は異なるものの、まず、欠落部分のある状態でサンリオ版を読み、その後、創元の「ライズ」のおまけについていた欠落部分を補って読み直し、そうして、この原稿を書いてから、「ライズ民間警察機構」を再読しようと計画している。きっと、「ライズ」の方を読んでしまうと、今のような原稿は書けなくなるだろうから、今、書いておくのだ。
 まったくややこしい。
 さて、「テレポートされざる者」だが、地球は国連(UN)に支配され、大きな企業群が勢力をほこっている。2014年、星間運輸会社を所有するラクマエル・ベン・アップルボームは、商売敵のTHLが父親に貸した借金の取り立てに追われていた。THLは、フォーマルハウト系第九惑星「鯨の口」への片道テレポーテーション技術により、70億人にもなって人口のあふれる地球からの移民を行う事業で潤っていた。鯨の口は豊かな土地と動植物にあふれる魅力ある土地であると宣伝されていた。しかし、誰も帰ってきたものはいない。テレポー技術は地球から鯨の口への一方通行なのだから。THLは、アップルボームが持つ唯一の恒星間宇宙船を借金の弁済にするようラクマエルに迫る。しかし、ラクマエルは、鯨の口の豊かさは偽物ではないかとにらみ、宇宙船でひとり片道18年の旅に出て、真実を探そうとした。そのために、私設警察代理店ライズ株式会社に保護と援助を依頼する。UNの横暴に悩んでいたライズの経営者マットソン・グレイザー=ホリデイは、このラクマエルの申し出を受け、自らも部隊を出して鯨の口に潜入しようとする。
 そして、彼らが鯨の口で見た真実とは?
 読者が読み取った真実とは?
 何が起こっていたのだろうか?
 それは、読んでもらうしかない。なぜならば、ラクマエルは”敵”の罠にかかり、LSDのトリップやパラレルワールドへの移転、タイムスリップ、さらには、ブラッド博士のテキストなどにより得た情報しか体験できないからだ。そして、読者も、ラクマエルや数人の登場人物の混乱した情報しか読むことはできない。
 ひきずりこまれるディックワールド。
 ただ、本書「テレポートされざる者」のラストシーンには、同時期の「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」や「最後から二番目の真実」「火星のタイムスリップ」に見られる絶望の中の希望や、絶望の中でみる人間の弱さの中のたくましさ、無駄だと分かっていてもやるべきことをやろうとする力を読み取ることができる。ラストシーンは、「ライズ民間警察機構」とは大きく異なっている。
 さて、では、「ライズ民間警察機構」に手を付けることとしよう。
(2006.7.18)

ニューロマンサー

ニューロマンサー
NEUROMANCER
ウィリアム・ギブスン
1984
 1984年発表、1986年に黒丸尚訳にてハヤカワSF文庫に登場した「ニューロマンサー」は、「サイバーパンクSF」を象徴する作品である。ギブスンの文体と作風は、黒丸訳によって「ああ、これがサイバーパンクなんだ」と思わせるにいたる。翻訳の力はすごい。
 ところで、1984年~86年といえばMS-DOSの時代であり、ハードディスクなんて高嶺の花で、フロッピー全盛時代、いや、5インチフロッピーだけど。ひょっとするとカセットテープにプログラムを入れ込んでいたりしていた。通信はカプラ、指でジーコロとダイヤルして、受話器から通信を音で送っていた。大学にある端末はキーボード入力もできたけど、プログラムやデータを紙パンチで送っていたりして。あ、漢字ROMって知ってるか? 当時のMS-DOSはソフトウエアとして2バイト文字を扱えなかったのだ。
 MS-DOSの概念が分からなくて、ブルーバックスの入門書を読んだりしたなあ。
 それでもね、ちょっと未来って感じだったさ。だって、お金さえ出せば、自分の家にパソコンを導入することが不可能ではなくなったんだから。
 私の指導教官(社会科学系)は、NECの8801系パソコンに、ワープロソフトをプログラムから組み込み、特殊な漢字を作字して登録していたっけ。
 私も、DOSの入ったNECの文豪miniシリーズを持っていて、特殊漢字を作字して作ったなあ。今になっては何にもならないけれど。当時は時間をかけたものだ。
 そんな時代の、といっても、たかだが20年前なのだが、もっと「未来」を予感させた作品が本書「ニューロマンサー」である。
 戦争があって、ヴァーチャルリアリティの技術、コンピュータの技術が進歩して、コンピュータ空間(マトリックス)に、人格ごと入り込み、データを操作したり、盗み出したりする。そのために、ウイルスプログラムを開発し、注入する。
 人体は、パーツとして改造可能になり、コンピュータ技術によるマン・マシンインターフェースも実用化されている。
 AI(人工知能)も厳重な管理下でコンピュータ空間の中に存在する。
 かつて、カウボーイとして電脳空間のマトリックスに没入しては企業などのデータ空間に入り込み仕事をこなしていた主人公のケイスは、一度の大きな失策でインターフェースとなる神経系を損傷されてしまい、職を失っていた。
 このケイスの神経系を修復し、ある作戦に参加させた元軍人か諜報員と思われるアーミテージは、作戦の物理的行動要員として、モリイという女も雇う。モリイは両目の周囲をミラーシェードで覆い、神経系の反応を高め、人体に武器を仕込ませた生きた兵器である。
 アーミテージの指揮を受けながら、ケイスとモリイは正体の分からない作戦、そして、大きな陰謀の中心軸になっていく。それぞれの生命をかけながら。
 未来都市の千葉、工業エリアのボストン・アトランタ・メトロポリタン軸帯、イスタンブール、そして、高軌道上と、舞台を移しながら、語られることのない悲惨な戦争の後に繁栄した社会を歩いていく。
 本書「ニューロマンサー」に書かれている未来像は、その後のSFや映画「マトリックス」をはじめとする作品群に大きな影響を与えた。そして、サイバーパンク運動というSFの潮流を起こし、今もその影は残っている。
 統制されない科学技術の無制限で欲と利害に方向付けられた発展と、その中での個人、企業、社会の変化が描かれはじめる。それは、明るい未来ではないが、絶望する未来でもない。なっちゃったところで人は生きるしかないという、諦念に似た感覚、空気、においである。そういう感じが、80年代から90年代にかけてSFやそれ以外の作品を支配していた。実際のところ、日本でもバブルやバブル後の社会の中で、変化そのものに対しての抵抗を失い、変化に対応することだけを人々が模索するようになった。流れを変えるのではなく、流れにいかに乗るかという考え方だ。
 もちろん、ギブスンがそういう考え方を持っているわけでなく、本書の中でも、人間兵器であるモリイの言動の中にモラルについての考え方が繰り返して語られている。
 本書「ニューロマンサー」で書かれている技術は、現在のところ完成していないものが多い。高軌道社会や人体融合型のマン・マシンインターフェース、冷凍睡眠技術、マトリックスのようなバーチャルリアリティ、あるいは、厳重な管理下におかなければならないような人工知能…。
 一方で、このころからは考えられないような事態も起きている。コンピュータウイルスや関連する負のソフトウエア技術、ネットワーク攻撃技術である。もちろん、コンピュータウイルスと同様なものは1980年代には登場しているが、これほどまでに爆発的な発展を遂げるとはさすがのギブスンも予想していなかったであろう。
 これこそ、統制されない科学技術の無制限で、欲と利害に方向付けられた発展、であるのだが。
 いずれにせよ、本書「ニューロマンサー」は、80年代を代表し、20世紀末を象徴するSF作品であり、将来にわたって評価され続ける作品であることは間違いない。ぜひ、ご一読を。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞作品
(2006.7.15)

異星の客

異星の客
STRANGER IN STRANGE LAND
ロバート・A・ハインライン
1961
 1969年2月に東京創元社から文庫で登場。私が持っているのは1979年6月の第24版。10年で24刷を重ねている。本文、あとがきをあわせて781ページと、今でこそ、これほど厚い文庫は数多いが、当時とすれば極端に目立つ1冊であった。
 持っているのは、1979年版で、価格は600円。古本ではなく、本屋で購入したものだが、私が14歳のときに買ったわけではない。いつ買ったのかと聞かれると困るのだが、高校か大学入った頃のことであるのは間違いない。間違いないのだが、正直なところ、あとがきしか読んでいない気がする。買ってから確実に20年は自分のアパートや実家の本棚、箱の中に眠っていたことになる。
 あとがきの最後には、「本書は、ヒッピー族の教典としてアメリカにおいて、昨年度より爆発的な売れ行きをみせていることを付記しておきます」とある。「昨年度」とは、1968年のことだろう。冷戦、ベトナム戦争…ウッドストック・フェスティバルが1969年8月。
 日本でも、70年安保闘争、全共闘の時代である。
 おや、今、2007年問題で騒がれているベビーブーマーの大量退職の人たちって、70年安保闘争、全共闘の主役の世代ではないか。
 時代は流れゆく。
 本書「異星の客」の主たる読者であっただろう当時大学生だった人たちが、今本書を読み直したら、どんな思いを持つのだろうか? 私には分からない。
 さて、本書「異星の客」の簡単なおさらいをしておこう。
「むかしむかしあるところに、ヴァレンタイン・マイケル・スミスという火星人がいた」との書き出しではじまる「異星の客」は、マイケル・スミスが地球に来て、そして去るまでの物語である。マイケル・スミスは、火星探査隊のクルーが火星で産み落とした子どもで、火星人によって育てられ、次の火星探査隊によって地球に連れ帰ってこられた。彼は、不思議な生理、思考、心理、能力を持ち、そして、地球連邦の判例では火星の所有者であった。同時に、先の火星探査隊の持っていたすべての財産を継承する大金持ちでもあった。
 彼をめぐる地球政府の陰謀に彼の地球での最初の水兄弟で看護婦のジルが彼を逃がし、老いてなお生を楽しむ作家であり、弁護士であり、医師であり、金持ちであり、自由主義者で、個人主義者であるジュバル・ハーショーのもとにかくまわれる。
 マイケル・スミスは、そこで、火星人と地球人の違いを知り、回りの人たちを水兄弟にしながら、彼らに火星的なものの見方、考え方、能力を知らず知らずに伝えはじめる。そして、彼は宗教の衣をかぶりながら、新しい価値観、社会、能力を目覚める潜在能力を持つ地球人にもたらそうとする。
 まあ、そんな話である。
 当時は、自由なセックス観や徹底した個人主義の上に成り立つ共同の社会観、人肉の共食儀式、政治や既存宗教への皮肉などが大きなインパクトを与え、SF以外の人々に読まれ、影響を与えたのであろう。
 ちょっとまて、ちょっとまて。ハインラインは、別に新しい宗教や新しい価値観をここで提示したわけではないし、新たなバイブルを作る気はさらさらなかったと思うぞ。
 ハインラインの化身とも言えるジュバル・ハーショーの自由でちょっぴりうらやましい生き方にしても、それまでのハインラインの作品やその後のハインラインの作品に出てくる登場人物によく似ているし、その自由や個人に対する考え方はほとんど変わらない。
 徹底した個人主義は社会的義務も同時に、自発的に、自然に生まれるべきであり、それを持ち得ない個人主義とは他者の個人主義をも尊重しうる真の個人主義ではないのだから、そんなやつは社会から排除してもかまわないといった考え方は、本書「異星の客」で出てきたわけではない。
 じゃあ、この本はなんだろう?
 私は思うに、ハインラインの一流のジョークではないかと。
 彼は、本書「異星の客」で、笑いをとろうとしたのではないだろうか?
 笑い、ジョーク、あるいは、それとは異なるユーモアについて、ハインライン流に考え、政治、宗教、生活、セックス、死など、タブーとされるものを引き合いにだしながら、笑いをとろうとしたのではないだろうか。笑いをとると同時に、笑いのもつ意味、ジョークやユーモアの持つよい意味でも悪い意味でも言える人間性について追求しただけではないだろうか。
 だから、素直な気持ちで読んで、笑えばいいだけではないだろうか。
 この本をありがたがる者こそ、笑い者である、と、私は、断言する。
 だから、みんなちょっと長いけれど、読んで笑おう。
 楽しいよ。
 ライトユーモア、ジョーク、ブラックユーモアなどなど、笑いの要素は満載だから。
 それでいいんですよね、大天使ハインライン様。
ヒューゴー賞受賞作品
(2006.07.09)

銀河市民

銀河市民
CITIZEN OF THE GARAXY
ロバート・A・ハインライン
1957
 遠い未来、人類は地球を中心にたくさんの星々に広がっていた。宇宙は、自由商人、海賊、そして、海賊を取り締まろうとする銀河連邦宇宙軍のものだった。
 惑星サーゴンでは、奴隷市が開かれていた。密輸船で運ばれてきた「奴隷」たちを人身売買するのである。惑星サーゴンをはじめいくつもの惑星や星系では違法な奴隷制がはびこっていた。
 惑星サーゴンの奴隷市で最低価格にもならずに「乞食のバスリム」によって買われた少年ソービーは、幾人の主人を経て手に負えない少年として売られたのであった。しかし、ソービーはバスリムに出会うことで、彼の未来を手に入れる。
 秘密の仕事をしていたバスリムによって人間の尊厳を教えられ、高等教育をほどこされたソービーは、惑星サーゴンを離れ、自由商人の「一族」世界や、銀河連邦軍の規律の世界を知り、そして、ついに彼自身の出自を知るのであった。
 これぞジュブナイルであるという本。まず、少年は最低の状態で最悪の状況に置かれる。しかし、彼が出会った大人によって彼は導かれ、新しい運命を自らの手で切り開く。その運命は、彼の選択によって次々に変わり、ついには、彼は自ら世界をつかみ、役割を知るのであった。
 拾われた少年が実は王の失われた息子であるというのは、物語の典型であり、そのパターンに沿って書かれている。だからといって本書の魅力が減じるわけではなく、惑星サーゴンの風景、自由商人の一族のルールなど、今読んでもおもしろいこと請け合いである。
 本書「銀河市民」は、野田昌宏氏の訳により、文庫では昭和47年10月(1972年)に発行され、手元にあるのが昭和55年の第9刷。カバーイラストは、斎藤和明氏の手によるもので、アメリカンコミック風宇宙戦争といった感じである。「ハヤカワ名作セレクション」で新装販売されているが、こちらは日本のコミック風のイラストで少年と少女の絵が描かれている。時代の差だなあ。
 昭和55年といえば、私は高校生になりたての頃で訳者あとがきの「野田昌宏先生のローティーンのための特別巻末解説」とぴったり合う年齢であった。残念ながら、野田先生がすすめているようにSFを英語で読むようになるにはそれから20年が必要で、しかもSFではなくもっと低年齢でも読める「ハリー・ポッター」からはじまるのであった。
 野田先生によれば、中学校3年生程度の実力で読める作品であるという。そうか、今度、原文を読んでみようかな。
(2006.6.27)

リングワールドの玉座

リングワールドの玉座
THE RINGWORLD THRONE
ラリイ・ニーヴン
1996
ようやく文庫化された「リングワールドの玉座」を買って読む。「リングワールド」「リングワールドふたたび」に続く、ニーヴンのノウンスペース・シリーズ「リングワールド」の3冊目である。話は、「リングワールドふたたび」に続き、主人公も変わらずルイス・ウーである。
1冊目の「リングワールド」で、想像を絶する世界を提示したニーヴン。その後、「リングワールド」と「ノウンスペース・シリーズ」をめぐっては、世界中で様々な角度から論じられ、科学的欠陥の指摘も多くあった。それを解決したのが「リングワールドふたたび」である。
さて、前著でリングワールド最大の危機を脱した「リングワールド」だが、そのために選択した1兆の人々の犠牲の重みに、ルイス・ウーは押しつぶされていた。まあ、この人は、最初からずっと何かに押しつぶされていたような人なので、それほど同情的な感じではない。
今回リングワールドに押し寄せてきた危機は、外部の侵略者である。人類、クジン人などがリングワールドをめざして艦隊を出してきた。しかし、その先遣隊はことごとくリングワールドからの攻撃にさらされる。一体誰が攻撃しているのか?
一方、危機を脱したリングワールドの一部では、リングワールドに広く適応放散した人類種の末裔の一種属で知性を持たない「吸血鬼」が爆発的に増えつつあった。これに危機を感じた機械人種、草食巨人人種、農業人種、腐肉食人種、狩猟人種、水中人種などがこれまでにない協力関係を結び、吸血鬼人種との闘いを開始した。
てな感じなのだが、今回のキモは、人類種の適応放散の姿である。高い知性を持ちながらも夜に行動し、リングワールドの生態系の底辺を維持する腐肉食の人種にはじまり、川の上から高い山の上まで、さまざまな人類系統が見られる。「指輪物語」に出てくる様々な人間ではない者たちを彷彿とさせるファンタジーワールドである。
そのイメージの世界を楽しるならば、とてもおもしろい作品である。
(2006.06.21)

火星縦断

火星縦断
MARS CROSSING
ジェフリー・A・ランディス
2000
 レイ・ブラッドベリの「火星年代記」から半世紀余、20世紀最後の年、そして、ミレニアム最初の年に生まれた「火星」の物語である。
「火星年代記」のはじまりを覚えているだろうか? 1999年1月「ロケットの夏」がオハイオ州の冬にやってくる。宇宙に飛び立つロケットのもたらした一瞬の夏の華やかで、美しく、そこはかとなく哀しい、わずか1ページの物語。
 ずっと人は空を見つめ、赤い星を見上げ、何かを、できることならば自分を空に打ち上げて、あの赤い星にたどり着きたいと夢見ていた。今も、そんな「夢想家」たちが、夢を少しでも現実に近づけようとありとあらゆる手段を使って努力を続けている。
 本書「火星縦断」の作家、ジェフリー・A・ランディスもまた、そんなものたちのひとりである。SF作家であると同時に、「本職」はNASAの火星探査プロジェクトに携わる研究者・技術者である。同時代に生きる人間たちの中でも、ひときわ火星に焦がれているひとりだと言えよう。
 本書「火星縦断」には、そんなジェフリー・A・ランディスの火星への渇望と知識と夢があふれている。
 物語は2028年、火星の第三次探査隊6名が火星の南半球に降り立ったところではじまる。アメリカ人3名、カナダ人1名、ブラジル人1名、タイ人1名のチーム。第一次探査隊は、北極点に降り立ったブラジルの探査隊2名、第二次探査隊はアメリカを中心としたチーム、いずれも、火星に到着したが、探査そのものは不成功に終わり、全員が火星あるいは帰還途中に死亡。地球への帰還は果たせなかった。世界は不況のただなかにあり、アメリカ政府もまた凋落にあって、第三次探査隊は民間の力を借りてなんとか火星にたどり着いた。しかし、第三次探査隊を待っていたのも、失敗であった。地球への帰還のためには、北極点に降りたブラジルの帰還船を使うしかない。彼らが降り立ったのは、南半球である。限られた時間、限られた設備、限られた帰還船の定員という悪条件の中で、地球への帰還を果たすべく、彼らは火星を縦断する旅に出た。  簡単にまとめるとそういう物語である。火星人なし、異星文明なし、人工知能の反乱なし、地球からの援助なし、特別な解決方法なし、スーパーヒーローなし。現在の火星データと宇宙ミッションの実情を踏まえて、冷静に、冷徹に、物語は進む。ある者は途中で怪我をし、ある者は精神的におかしくなり、ある者は死ぬ。
 もうひとつの物語は、第三次探査隊クルーの人生の物語である。ひとりひとりのクルーに、秘められた過去があり、人に言えない秘密がある。ある者は火星そのものが目的であり、ある者は贖罪であり、ある者は鎮魂である。旅の間に、それぞれのクルーの過去のエピソードをはさみこむことで、長く辛い、そして単調な旅のすき間を埋めていく。まるで火星の砂のように。
 今分かっている火星像が、たっぷりと盛り込まれている。本書「火星縦断」で、クルーと一緒に火星を旅する気持ちになれるといいだろう。
ローカス賞受賞作品
(2006.06.15)

天の声

天の声
GLOS PANA
スタニスワフ・レム
1968
 1996年、トーマス・V・ウォーレン教授は、高名な数学者ピョートル・E・ホーガス教授の遺稿中から発見された未完成の原稿をまとめ、1冊の書とした。それが、本書「天の声」である。ホーガス教授も深く関わった、天の声(マスターズ・ヴォイス)計画については、膨大な文献があり、また、ホーガス教授についてもいくつもの伝記などがまとめられているが、本書は、ホーガス教授自らが、天の声計画のいきさつや加わった科学者らのうち主要な数人と、天の声計画が中止されるまでのいきさつを、ホーガス教授の視点から書きつづった「自伝」である。そもそも、天の声計画とはなんだったのか? 小熊座方向から届いたニュートリノによる信号の解読をめぐる計画である。それは、遠い異星人からのメッセージなのか、それとも、単なる偶然の産物なのか、そのメッセージにはどんな意味が隠されているのか? その言葉を理解することができるのか? そして、何かに役立てることができるのか? 戦後の冷戦下で、アメリカの古い核兵器実験施設に隔離された2500人の研究者らが、テープに記録された信号を解読するために働いていた。ホーガス教授は、その成果がほとんど見られないなかで、1年後に呼ばれ、計画の中心人物のひとりとして取り組むこととなった。
 宇宙からの顔の見えない「信号」とその「解読」、そして軍事目的を含めた「有効利用」の可能性はあるのか?
 同じテーマでは、本書から遅れること9年、ジョン・ヴァーリイの「へびつかい座ホットライン」がある。こちらはへびつかい座からのデータで、そのうちのいくつかを解読し、科学技術として有効に活用していたが、そこはそれ、「ソラリス」「砂漠の惑星」「エデン」のスタニスワフ・レムである。一筋縄ではいかない。
 たとえば、いったい「人工」と「自然」の区別はどうやってつけるのだ? と、レムは問いかける。
 たとえば、メッセージだとして、それが他の知的生命体にあてた「手紙」だということが言えるのか? と、レムは指摘する。
 そして、レムは言う。「何百万年も前から宇宙の深淵を満たしているものを秘匿し隠蔽しようとしているのだ。
 もしそれが狂気でなかったら、狂気など存在しないし、狂気と呼べるものが存在するはずがない」と、受ける側の人間たちの愚かさを言う。
 そして、レムは振り返る。第二次世界大戦中のナチスドイツで繰り広げられたユダヤ人虐殺について、それを実行した者たちにとっての「認識」と「疎外」を。
 レムは、コミュニケーションと認識、疎外について常に考えてきた。
 本書は、そんなレムの哲学、考え方、そこから見えてくる世界が比較的素直に著述されている。故に、本書は、未来予測に満ちており、また、SFの将来を暗示し、SFで取り上げられるべきテーマを次々と提示している。
 現実の世界は、コミュニケーションのあり方、認識と疎外によって成り立っている。SFもまた、多くの作品がコミュニケーションのあり方、認識と疎外について語るジャンルである。
 その意味で、本書はメタSFであると言ってもいい。
 さて、ロバート・シュルツによる黒を基調とした美しくシンプルな表紙は、今はなきサンリオSF文庫である。私の手元には、深見弾氏の訳になる1982年6月発行の「天の声」がある。定価480円。買ったのは、おそらくそれから1年後か2年後のことである。当時は読んでいないか流し読みをしただけではないかと思う。
 この頃のサンリオSF文庫は、誤植が多くあった。また、私にはよく分からないが、文章を読むと意味が通じない誤訳のようなものが多くあった。発行予定が発行予定通りではないというやきもきするような状況もあり、当時として価格は高めで悩ましいところであったが、いくつかの作品をえいやっという気持ちで買っていたように思う。しかし、買ったものの読んでいない本が多いのも事実で、何で買ってしまったのだろうと思う作品も多い。レムは好きな作家なので、おそらくは読んでいると思うのだが、本書についての記憶がない。しょうがないなあ。
 近年、レムの作品が国書刊行会から出版されている。レムについては亡くなられたこともあってか、復刊や新訳、初訳の作品も出ている。情報化、インターネットによってコミュニケーション手段が整ったがゆえに、同じ人間同士であっても「認識」と「疎外」の問題が深刻であること、つまりは、言葉が通じているようで通じていないとか、会話が成立しているようで実はまったく成立していないといったことが問題になってきた。こういうときこそ、レムの作品は貴重である。ぜひ読んで欲しい。
(2006.06.13)

星海の楽園

星海の楽園
HEAVEN’S REACH
デイヴィッド・ブリン
1998
「知性化シリーズ」としてはじまった「サンダイバー」「スタータイド・ライジング」「知性化戦争」に続く、「知性化の嵐」3部作を締めくくるのが、本書「星海の楽園」である。第四銀河系そのものが酸素呼吸種属に対して休閑されていたなか、惑星ジージョには、数千年に渡って次々と酸素呼吸種属たちが、同族から、あるいは敵種属から、あるいはそれぞれの目的のために逃げ、隠れて暮らしていた。謀略と同盟、陰謀と裏切りの渦巻き、その種属と知性化で成り立つ種属系列の存続と強大化をすべてに対して優先する銀河社会から逃れた彼らは、様々な紛争と憎しみを乗り越え、大いなる平和と休閑惑星の生態系に対する配慮に満ちたつつましい生活を是としていた。
 しかし、彼らはいつか銀河社会に見つかり、銀河社会による公平で冷酷な裁きがあることを心得ていた。そして、かつて先達の種属によって知性化された彼らが自ら知性を放棄していく道をたどることで、その祖先と自らの罪の贖罪を果たそうと考えていた。しかし、そんな彼らを突然襲ったのは、違法遺伝子略取者や横暴な軍船によっての蹂躙であった。彼らのねらいは、「スタータイド・ライジング」で登場した地球のネオ・ドルフィンによる探査船ストーリーカーであった。ストーリーカーが、銀河の辺境で発見した「秘密」を求めて、銀河列強がストーリーカーを目指す。そして、この発見が、緊張状況にあった銀河社会の崩壊を招こうとしていた。
 第二部「戦乱の大地」で惑星ジージョを脱出したストーリーカーは、惑星ジージョの種族の若い代表達を乗せて、惑星ジージョを守るべく敵艦を引き連れ星系と第四銀河系からの離脱を図る。果たして、この決死の試みは成功するのだろうか?
 一方、ネオ・チンプで最初の航法協会監視員となったハリー・ハームズは、5銀河系が変革の時を迎えていることを知る。5つの銀河系をつなぐ遷移点が混乱しはじめたのだ。
 銀河系全体が混乱と危機と死を迎える中で、これまでに登場してきた惑星ジージョの若い成員達、それぞれに違うきっかけで宇宙に出ることとなったジージョの3兄姉、ラーク、サラ、ドワー、ストーリーカーのクルー達が、危機の中で、知的生命体同士のつながりを知り、生きる道、死ぬ道を知り、選択を行っていく。
 あるものは、同族に道を指し示すものとして暮らす道を。
 あるものは、残された唯一の希望としての道を。
 あるものは、生命系列を超えてつながり、融合し、生きる道を。
 あるものは、遠き離別をつなぐものとして旅する道を。
 あるものは、新たな生命の世界を拓くものとして離別と希望の道を。
 そして、あるものは、自らが本来いる場所で、本来すべきことをするために帰る道を。
 その次々に訪れるいくつもの選択の道に、長い長い小説の旅を続けたカタルシスが訪れる。
 この1カ月余り、「知性化」シリーズを順番に読み、その登場人物や種属の特徴、エピソードを記憶しているままに本書「星海の楽園」を読むことができた。それゆえのおもしろさ、感動を味わうことができた。出版されるたびに読んでいたが、こうしてまとめて読み返すと、忘れていたり、分からなかったりすることもなく、多くのキャラクターとともに楽しむことができた。
 実は、「知性化」シリーズはまだ続きを書くと作者は言っている。そうなったらまた読み返すことになるのだろうか? 困った。
 とりあえず、今は、「知性化」シリーズの短編で、唯一文庫本に収められている「誘惑」(『SFの殿堂 遥かなる地平1』ハヤカワ)を読んで、余韻を楽しんでおこう。
(2006.6.8)

戦乱の嵐

戦乱の嵐
INFINITY’S SHORE
デイヴィッド・ブリン
1996
 本書「戦乱の嵐」はデイヴィッド・ブリンによる「知性化の嵐」三部作2作目である。原題は、「無限の岸辺」とでも言おうか。邦題でも原題でもどちらでもかまわない。つまりは、三部作の真ん中である。
 あえて章立て風に言えば、第一部「変革への序章」が「人の章」、本書「戦乱の大地」が「地の章」そして、第三部「星海の楽園」は「天の章」とでも名付けたくなる。
 まったくもって、「変革への序章」に続く物語であり、第一部の最後に登場した巨大な宇宙戦艦が、銀河の大種属でももっとも冷酷な存在と目されているジョファーのものであることが明らかにされる。それと同時に、第一部でそれとなく存在をにおわされていた秘密があっけなく明らかにされる。それは、デイヴィッド・ブリンの「知性化シリーズ」の中核をなす「スタータイド・ライジング」に登場し、全銀河系の諸種属系列から追われるネオ・ドルフィンの探査船「ストーリーカー」である。なぜか、ストーリーカーは「スタータイド・ライジング」で危機を脱した後、さらにいくつかの危機を超えて、舞台となる惑星ジージョの海の底深くに隠れていたのである。
 かくして、第一部で6種属を苦しめた宇宙種属ローセンを蹴散らしてあっという間に惑星ジージョに支配と恐怖をもたらしたジョファー、ジョファーの従兄弟種属でありジョファーから逃げ出して惑星ジージョに暮らしていたおだやかな種属である嚢環種属トレーキの賢者アスクスがジョファー化させられたユウアスクス、そして、いまだに6種属には知られていない「ストーリーカー」に乗る、ネオ・ドルフィン、ヒトと預かっている人工知性体、ストーリーカーに乗った両生類型準知性体のキークィーが新たな登場人物として登場し、6種属のみならず、知性を放棄した種属グレイバー、あるいは、惑星ジージョに原住した賢い動物として知られるヌールに加え、惑星そのものまでもが「主要登場人物」となって、物語は、惑星ジージョの各地、ジョファーの巨大戦艦、深海、宇宙を舞台に激しく絡み合い、ドラマティックになっていく。
 この第二部「戦乱の嵐」に比べれば、第一部は登場人物と種属の紹介編でなかったかと思うばかりである。とにかく、一気に読み終えられるであろう。
 第一部で活躍したフーンの子どもでアーサー・C・クラークの名著「都市と星」の主人公の名前を持つアルヴィンと仲間達や、蟹型の種属ケウエンの「刀」、あるいは、嚢環種属トレーキの賢者アスクスがジョファーのユウアスクスとなって物語を引き立てる。
 そして、最初から登場している紙漉師ネロの3人の子どもたちの物語も見逃せない。異端思想の若き賢者ラークは宇宙種属ローセンとともに宇宙から来たヒトのランとともに、数学者のサラは、宇宙から降ってきた言葉を失った賓(まれびと)=エマースンとともに、超常的な共感能力を持つ猟師で旅人のドワーは、一度はローセンの船に乗った辺境出身のレティとその小さな夫となったウルのイーとともに、それぞれが3つのペアとなりながら、すべての登場人物とからまり、物語を導いていく。
 もちろん、ストーリーカーのネオ・ドルフィンや事実上の指導者となっているジリアン・バスキンの物語も見逃せない。
 とにかく楽しめること請け合いである。
 異端であり滅びの道を探していたラークが「おれはほんとうは死にたくないんだ」と自らの生への執着を認識し、個=孤に固執する他種属のありようが理解できないアスクスは個であるヒトの「勇気」という根源的な原動力について洞察する。
 とにかく、登場人物のみんなが「生きること」と仲間を「生かすこと」のために全力をつくし物語がつっぱしっている。そこがいい。そこが物語を一気に読ませる。
 内容については、語ることはない。さあ、第三部「星海の楽園」だ。
(2006.6.3)

変革への序章

変革への序章
BRIGHTNESS REEF
デイヴィッド・ブリン
1995
「サンダイバー」「スタータイド・ライジング」「知性化戦争」に続く、デイヴィッド・ブリンの「知性化」シリーズであり、「知性化の嵐」3部作の第一作にあたるのが、本書「変革への序章」である。これに「戦乱の大地」「星海の楽園」が続く。
 さて、この三部作は、だいたい1~2年の間隔で出版され、日本でも2001年から2003年にかけて年1作ペースで翻訳出版された。私はリアルタイムで翻訳書を購入、読んでいたが、正直なところ1年も経つと話の筋や登場人物の特徴、過去を忘れてしまう。私はもともとがざる頭で、読んだはしから忘れることにしているため、覚えてない。そこでそのたびに、前著を引っぱりだして、なんとか自分の中でつじつまがあっているような気持ちになるのだが、本シリーズでは、ていねいに用語とキャラクターの解説がついているので、それを読めばだいたいのところはなんとかなる。同じことが、フランク・ハーバートの大作「デューン」シリーズにも言えるのだが、とにかく読むのにも根性と記憶力が試される。
 万人にはおすすめはできない。いや、万人におすすめできても、私にはもしかしたらむいていない。それでも、時折果敢に挑戦したくなる。
 もし、「スタータイド・ライジング」の世界に惹かれ、銀河の列強種族に追われる探査船ストーリーカーの行方が気になっているならば、そして、「知性化戦争」での惑星ガースをめぐる人類、チンパンジー、異星人種たちの闘いと知恵比べの物語を楽しんだならば、「知性化の嵐」三部作に手を出すとよいだろう。なお、本書「変革への序章」は、ハヤカワ文庫SFで、上下巻約1100ページ。「戦乱の大地」もほぼ同じ、上下巻約1200ページ弱、「星海の楽園」も、上下巻約1100ページである。つまりは、約3400ページ。6冊ならべると13cmの幅があなたを待っている。しかも、途中でやめようと思ってはならない。なぜならば、「知性化の嵐」三部作は、独立していないからだ。1作品ごとに完結していない。「知性化の嵐」で1作品とみてもいいかもしれない。最初に3部作6冊(ハヤカワで)を手元に用意し、読み始めた方がいい。古本などで部分的に入手したり、本書「変革への序章」だけを手に入れたりすると、続きが気になって夜も眠れなくなってしまう。時間はつぶれる。頭は多数の人類・非人類を含む登場キャラクターの前にこんがらかり、こき使われてしまう。さあ、どうする。
 さて、よけいな話はさておき、本編の内容である。時期は、「スタータイド・ライジング」や「知性化戦争」の少し後と考えればわかりやすい。それほど遠くない先で、直接前二作には関係なく、物語がはじまる。
 場所は、惑星ジージョ。休閑惑星である。休閑惑星とは、知的種属が惑星を利用した後、生態系の回復と次の準知性化種族の誕生まで長期にわたって惑星を立ち入り禁止にする、銀河社会のルールである。惑星ジージョのある星系は、酸素呼吸生物ではなく、水素呼吸型の生物による管轄権があり、酸素呼吸生物はめったなことでは訪れない。それゆえ惑星ジージョは長い休閑の歴史に静かにたたずんでいるはずであった。
 しかし、酸素呼吸型の知的種属のひとめにつきにくいことから、いくつかの知的種属のグループが、それぞれの理由から惑星ジージョに逃げ、不法入植をしていた。その数は7つを数える。あるものは、銀河社会から追われ、あるものは同種族から追われ、あるものは同種族の異端として、それぞれの理想を胸に、不法入植してきた。そして、1種属は、彼らの望み通り、「下への道」すなわち知性を放棄し、準知性体に戻る道を達し、かつては宇宙航行種属だったことも忘れ、言葉の多くを失っていた。のこりの5種属も、同様の道を求め、彼らが乗ってきた宇宙船を棄て、その技術を棄てて、惑星の一部分「斜面」のみにつつましく暮らしていた。彼らもまた、最初の1種属と同様の道をたどり、遠い将来に彼らの不法入植が許され、もう一度「知性化」される日が来ることを願って。そして、もう1種属、孤児種属として銀河社会の仲間入りをした新参の人類のグループも惑星ジージョにいた。彼らは銀河社会に属して間もない頃、人類社会に追われる者たちとして、惑星ジージョに逃れてきた。人類もまた彼らの宇宙船を棄てたが、銀河社会にはない「紙」でできた「本」を大量に持ち込んだ。すでに、「記録」を失っていた先入5種属は、「記録」する技術を手に入れ、そのことから、知性を残していた5種属と人類は、新たな「歴史」を刻みはじめる。当初の不信と戦争を乗り越え、現在は、6種属がともに同じ場所で暮らし、それぞれの種族的特徴や文化を生かしながら、新たなジージョの斜面文化と言えるような共生の道を見つけていた。これを「大いなる平和」と呼ぶ。
「斜面」とは、地殻の動きによって、遠い未来に惑星からマグマの海にすがたを消す部分である。彼ら6種属は、自らが不法入植した先祖の罪をつぐなうため、自らの生存のための行為が、惑星ジージョに将来痕跡を残さないよう、最大限の注意を払い、その行動に規制をかけていた。6種属は、先に脱知性化した1種属を理想としながら、ひそやかに、そして、仲良く暮らしていた。  それは、生き馬の目を抜くような緊張と競争とかけひきにあけくれる銀河社会の知的種属のありようとはかけはなれた光景である。
 しかし、この平和が今崩れようとしている。
 突然、巨大な宇宙船が惑星ジージョに降り立つ。奇しくも、彼ら6種属の祭りであり、決定の場でもある「集い」の日に、その場所に。そして、中からでてきたのは…。
 6種属の間に亀裂が入り、大いなる平和の日々にくさびが打ち込まれる。はたして、6種属は生き残ることができるのか? それとも、彼らの不法入植の罪を問われるのか? それとも、何か別のトラブルに巻き込まれるのか?
 銀河社会からやってきた宇宙船は、この惑星ジージョと、6種属に何を望むのか? 物語の幕が開き、壮大なドラマがはじまる。
 ってな感じである。
 いくつものドラマが、いくつかの視点でそれぞれに語られ、それぞれのエピソードが絡み合いながら、ひとつの大河ドラマを構成していく。そして、それは人類の物語だけではない。嚢環種属トレーキの賢者アスクスによる賢者たちと異星人の物語であり、フーンの少年アルヴィンによる、ヒトを除く5種属の少年少女の冒険の物語であり、紙漉師ネロの子どもであり、物語の主人公ともいえる、サラ、ドワー、ラークの異端の物語でもある。サラは、宇宙から大けがをして落ちてきた賓(まれびと)とともに旅をすることになった数学者で言語学者。ドワーは、斜面の外を旅しながら賢者の依頼で調査と、探査を行う孤独な猟師。ラークは、銀河社会から降りてきた征服者の案内役兼、彼らの意図を探るスパイ役となった男。彼は、ジージョの種属が自然にまかせるのではなくすみやかに自らの脱知性化させるべきと唱える異端の博物学者でもある。惑星ジージョの特異な生態世界を背景に、いくつもの物語が流れていく。そして、積み上がられる疑問の数々。
 惑星ジージョで6種属を結びつけた聖なる卵とは?
 アルヴィンたちは海の底に何を求められ、何にめぐりあうのか?
 惑星ジージョに降り立った異星人の目的は? 彼らは何を探しているのか?
 本書の最後に登場した巨大な宇宙船とは何者か?
 賓はなぜ惑星ジージョに落ちてきたのか? どうして大けがをしているのか?
 ところで、「スタータイド・ライジング」で、再び逃走に成功したネオ・ドルフィンによる探査船ストーリーカーの行方は??
 もったいをつけながら、話はどのエピソードにもなんら結末をつけることなく、「戦乱の大地」へと続く。
 忘れないうちに、次を読まなきゃ。
(2006.05.28)