愛はさだめ、さだめは死

愛はさだめ、さだめは死
WORM WORLDS AND OTHERWISE
ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア
1975
 私が、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアに出会ったのは1986年の夏のことだった。サンリオSF文庫で「老いたる霊長類の星への賛歌」が邦訳発行された。大学4年の夏で、当時は就職活動中であったと思う。暑い夏で、あらゆることにうんざりしていた。
 大学の生協では、グループを作って共同購入すると安くなるシステムがあって、私は同級生らのグループにはいり、SFや漫画の単行本、あるいは目にとまった様々な一般向き科学書などを購入していた。大抵は予約注文で、インターネットもない当時は、本屋にならぶ新刊案内や予約案内をみては、これぞという本を注文したり、あるいは、本屋であとがきを読んで、それを注文していた。注文してから届くまでに1~2週間、ときには1カ月かかることもあり、何を注文していたか忘れることも多かった。たしか月に1~2万円ほどは本を購入していたように思う。もっとも、今でもそのくらいは購入しているのでそれほど変わりないわけだが。
 この短編集は衝撃だった。それについては、「老いたる霊長類の星への賛歌」を再読する際にあらためて書きたいと思う。だから、その翌年、作者が夫を殺し、自ら自殺した報を聞き、再び深い衝撃を受けたことを覚えている。
 その衝撃の中で、本書「愛はさだめ、さだめは死」を入手し、動揺したままに読んだ記憶がある。
 いまも、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアは私にとって特別な作家であり、性別で作品を語ることは無意味であることを教えてくれた作家である。同時に、いまも、もっとも好きな女性のSF作家である。
 なんてかっこいい作家であり、美しい作品だろう。
 作者がいかなる最後をとげたか、どのような人生を歩んだかは、関係ない。
 なんとかっこいい作風、なんと繊細かつ大胆な作品。
 本書「愛はさだめ、さだめは死」は、他の作品群とともに短編集であり、12の短編がおさめられている。
 邦訳のタイトルとなった「愛はさだめ、さだめは死」(Love Is the Plan the Plan Is Death)は1973年のヒューゴー賞を受賞、「接続された女」(The Girl Who Was Plugged in)は1974年ネビュラ賞を受賞している。
 ここでは、短編集を取り扱うときの例にならい、「接続された女」について取り上げたい。
 若い不細工な娘がある組織にスカウトされる。彼女は手術され、訓練される。有名人になるために。ここに、生物工学的に生み出された美しい少女が登場する。若い不細工な娘は、この美しい少女になるのだ。美しい少女にはまったく知能がない。そこで、彼女の肉体を遠隔ロボットとして操作する「脳」になるのである。美しい少女は、笑い、語り、ためいきをつき、男達を、女達を、マスメディアを魅了する。ある目的のために。「脳」となった女は、美しい少女となり、夢見ていた生活をはじめる。ただ、嗅覚と味覚と性機能の感覚までは遠隔操作のデータとしてフィードバックされない。そして、夜には接続をはずされ、自らの肉体に戻り、その肉体が必要とする様々な生理的行為、食べる、排泄する…を行う。
 権力者の息子が彼女に恋をした。彼女も彼に恋をした。
 彼女は、一体、どの彼女なのだろう。
 物語は、現実世界ではありがちな皮相さをもって幕を引く。
 サイバーパンク運動がはじまる以前1970年代頭の作品である。
 ヴァーチャルリアリティという言葉がない時代の作品である。
 邦訳されたのは昭和62年。すなわち1987年。
 日本ではサイバーパンクSFが次々に翻訳され、新井素子や大原まり子が、日本におけるSFの新たな境地を開いていた時代である。
 ようやく、80年代後半になって、ティプトリーの作品群が1冊にまとまって販売されたのは、これらの時代に並ぶ作品群として認知されたからであろう。
 私もまた、サイバーパンクSFなどの80年代作品群をすでに読み始めていた。
 しかし、それらとは違う「新しさ」と「衝撃」をこの当時でさえ一昔前に書かれた作品群から受けたのだ。
 美しくロマンティックな設定を読者に納得させた上で、最後に現実に対する冷徹な目で読者を突き放す。放り投げられる。物語ごと、読者に引き渡される。それが現実の世界だから。ティプトリーの物語に衝撃を受けるのは、SF的仮説を現実として描きだす能力の高さと、その視点の豊かさ、人間味あふれる冷たさがあるからだ。
 なんといったらいいのだろう。
 私たちは…、
 しかたない。引用しよう。
--…自分の脳がサウナ部屋にあるとは感じていない。あのかわいい肉体の中にあると感じてるんだ。オタク、手を洗うときにさ、自分の脳みそに水がかかってると感じるかい? むろん、ちがうよな。両手に水がかかってると感じるだろう? その”感覚”なるもの、実はオタクの両耳のあいだに詰まった電子化学的ゼリーの中で、チカチカまたたくポテンシャル・パターンにすぎない。しかもそいつは、オタクの両手の先から、ながーい回路をとおって脳に届いたわけさ。ちょうどそれと同じ理屈で、--
--神経系を体の外にぶらさげているようなものだ。かりに、だれかがオタクの脊髄をつかんで、ぐいっとひっぱったとしてみなよ--
(ハヤカワ文庫SF版 昭和62年発行の浅倉久志訳)
 2006年のいまなら誰でも理解できるだろう。
 理解できなければ、映画「マトリックス」でも見ておけばいい。
 この状況の皮相さ、哀しさ、おかしさ、現実味を描き、それを超えることに、まだ、どのSF作家も成功していない。
(2006.4.25)

ファウンデーションと混沌

ファウンデーションと混沌
FOUNDATION AND CHAOS
グレッグ・ベア
1998
 アイザック・アシモフがSF史に残した偉大な宇宙史「銀河帝国史」の中心をなすファウンデーションシリーズについて、グレゴリイ・ベンフォード、グレッグ・ベア、デイヴィッド・ブリンの3人による公式の新3部作が書かれた。それぞれ、邦訳で「ファウンデーションの危機」「ファウンデーションと混沌」「ファウンデーションの勝利」として書かれ、もはや重鎮となった3人のSF作家がベンフォードの指揮の下に新たな歴史の闇を描き、1冊ずつを分担して書いた。それはアシモフが産みだした世界の歴史であると同時に、3人の作家のそれぞれの独立したSFでもある。本書「ファウンデーションと混沌」でもベアはベアらしく作品をまとめている。あきらかにグレッグ・ベアの1冊である。
 アシモフが「ファウンデーションの誕生」で描き出した、最初の作品への導入部分の最後を占めるのが本作「ファウンデーションと混沌」であり、「銀河帝国の興亡=ファウンデーション」の冒頭へとつながっていく。
 すなわち、帝国の公安委員長リンジ・チェンと心理歴史学者ハリ・セルダンの対決である。銀河百科辞典を編纂するためのファウンデーションが惑星ターミナスであることを、チェンによって言い渡されるようになるまでのわずかな期間、セルダンに対する裁判はどのように行われたのか、その期間、セルダンと心理歴史学には何が起きたのか? 本当に、セルダンはミュールをはじめとする心理歴史学によるセルダン・プランの崩壊を予見できていたのか? 第二ファウンデーションはどのようにしてその種をまかれたのか?
 銀河帝国史の中でも、極めて重要な事件であり、極めて限られた設定条件の中に、グレッグ・ベアは物語を紡ぎ出し、アシモフが持ち続けた「問い」への問答をベアらしく問い直す。
 その物語は、自由意志を持ったように見えるダニール・オリヴォーを含むロボット達の人類への奉仕のありように対する対立であり、人類がロボットの影響下で進化してきた結果として得た特殊能力によるロボットと人類の対立であり、銀河帝国の影であったロボットの存在がいよいよ時の権力者たちに知られはじめたことによる、ダニール・オリヴォーらの存在意義の破綻であり、ハリ・セルダン自身による心理歴史学への疑問である。
 そして、問いは繰り返される。
 自由意志とは何であろうか?
 進化とは何であろうか?
 ロボットであり、永遠の存在であるダニール・オリヴォーは自由意志を持った存在なのであろうか?
 究極の対話とは、合一=統一した生命体の自覚=ガイアのようなもの/グレッグ・ベアの「ブラッド・ミュージック」における結末のようなものなのであろうか?
 この新・銀河帝国興亡史3部作は、いずれもアクションがあり、対話があり、新たな魅力的人間やロボット、存在に満ちたエンターテイメント作品群である。それと同時に、アシモフが提示し、SFのもつ「問い」、人間が持つ問いに対する自問自答の作品でもある。
 歴史の中の個人の役割とは、個と集団の意志の違いとは、どちらを重んじるべきなのか? 個の命と集団の存在は、どちらを重んじるべきなのか? 果たして、これらに答えはあるのか?
 そして、人間とは、知性とはなにか?
 なにをもって「人間」あるいは、問いに対する矛盾した表現になるが「自由意志を持った」知的存在と認知するのか? それは誰によって?
 SFは、「神」の不在の仮定、あるいは「神」の役割/機能への仮説など、科学と宗教、文明と文化、存在と対話について、その内容の深浅はあれども常に問いを持ち、仮説を立て、検証をしてきた。
 それはSFのもつ文学的機能である。
 SFのエンターテイメント性と文学性を学ぶ上で、この銀河帝国の興亡史はとてもよい入門書シリーズとなっている。
 なんといっても、アシモフ的手法である、結論に留保や別の可能性、話の余韻を残す作法は、読者に自由な物語を紡ぐ余地を残すからである。
 そして、この新三部作の作者達は、アシモフのこの手法をいかんなく発揮し、物語に潜在的可能性を残す。
 いよいよ、銀河帝国正史を描く最後の作品「ファウンデーションの勝利」が待っている。
 最終回を目前にしたはやる気持ちと、一抹の寂寥感の中で、ページをめくりたいと思う。
 もっとも、いずれも再読なのだが…。
(2006.4.25)

新・銀河帝国興亡史1 ファウンデーションの危機

新・銀河帝国興亡史1 ファウンデーションの危機
FOUNDATION’S FEAR
グレゴリイ・ベンフォード
1997
 アイザック・アシモフが「ファウンデーションの誕生」を残しこの世を去って後、アシモフの遺族らは、グレゴリイ・ベンフォードに目を付け、3人の80年代を代表するSF作家が、その世界を引き継ぐことになった。
 グレゴリイ・ベンフォードを軸に、グレッグ・ベア、デイヴィッド・ブリンの3人による公式の新3部作が書かれることとなった。それぞれの作品は、すべて「銀河帝国の興亡」=「ファウンデーション」として知られる1951年に書かれた第一作品の主人公であるハリ・セルダンの物語である。
 ハリ・セルダンについては、初期三部作ではほとんど生きた姿では出てこない。心理歴史学の始祖として、ファウンデーションをつくり、新たな銀河帝国設立と人類の再興を導く者として伝説の人物的扱いである。アシモフは、1982年に再開したファウンデーションシリーズで、初期三部作の未来を描いた。「ファウンデーションの彼方へ」と「ファウンデーションと地球」がそれである。と同時に、アシモフのロボットシリーズとの接点を明確にするため「夜明けのロボット」「ロボットと帝国」をしたためた。そうして一応の世界形成を行ったあと、アシモフは、再び、ハリ・セルダンに戻る。「ファウンデーションの序曲」で若き日のハリ・セルダンが心理歴史学を生み出すきっかけとロボットとの接点を描き、「ファウンデーションの誕生」では、ハリ・セルダンの40歳、50歳、60歳、70歳の事件を描き、セルダンの死をもってアシモフの語る年代記を終えた。
 新・三部作は、この隙間を埋める作品群である。
 アシモフ自信が「ファウンデーションの誕生」で語っていたように、銀河帝国の歴史はどこまででも書く余地が残っているのだ。
 本書「ファウンデーションの危機」は、40歳で皇帝クレオン一世より首相指名を受けたばかりのハリ・セルダンを描く。首相就任をしぶるセルダンだが、セルダン以上に、若き数学者が政治の世界に来たことを嫌う議会の政治家達がいた。次々にセルダンの命を狙って刺客が送られる。セルダンは、心理歴史学の研究を続けながら、危機を次々としりぞけていく。時には、首都惑星トランターを離れ、新たな研究対象を見つける。そして、心理歴史学の将来のイメージと首相としての責任と自覚を得ることになるまでを描く。
 本書は、まさしく、ファウンデーション・シリーズの1冊であり、アシモフの後継となる作品であるが、同時に、グレゴリイ・ベンフォードの作品である。まさしくベンフォードなのだ。文章といい、展開といい。翻訳文であるにもかかわらず、ベンフォードくささがこびりついている。
 本書「ファウンデーションの危機」では新たな存在が登場する。まずは、模造人格である。もはや違法とされる過去の技術で、歴史上の人物をコンピュータ空間上に仮想的に作り上げた知性体である。登場するのは、ヴォルテールとジャンヌ・ダルク。フランス史に残るふたりの模造人格が発掘され、プログラムを修復し、知性体として甦らせられた。彼らはヴァーチャルリアリティの世界に住み、現実の人間ともヴァーチャルリアリティとしてコミュニケートすることができた。さて、このフランス史に残りながらも時代も価値観も異なるふたりを対話させ、人工知能に知性が産まれうるかどうかを議論させるのがねらいであったが、このふたりの仮想的な再生が惑星トランターの危機を招くことになる。
 一方、ハリ・セルダンは、かつて多少「知性化」させられたチンパンジーへの人格ダウンロードを体験する。ヴァーチャルリアリティの究極であるすべての感覚入力を一時的に別の存在にダウンロードさせる技術が帝国にはあったのだ。この体験を通じて、ハリ・セルダンは新たな知見を得ることになる。
 また、このチンパンジーに限らず、犬族に対しても一定の「知性化」は遠い過去に行われていたことがうかがわれる。
 ロボットについても新たな設定が行われた。人工知性が禁忌とされた帝国では、チクタク(からくり)と呼ばれる、「心理的機能を低水準に設定された機械」がコンピュータとともに帝国を支えていたが、このチクタクが知性を備えた存在になりうる可能性を示したのだ。
 結局、本書では、様々な形の知性体、前知性体が登場し、その属性と知性であることの意味について考え続ける。それこそベンフォードらしいところであるが、同時に、アシモフがファウンデーション・シリーズを通して考え続けたことでもある。
 本書では、人類、人類のふりをしているロボット、2万年にわたって人類を庇護しているロボット・ダニール・オリヴォー、模造人格として甦ったヴォルテールとジャンヌ・ダルク、少しだけ知性化された犬、チンパンジー、チクタク、そしてコンピュータ・リソースの中に潜む謎の存在が、知性をめぐる議論に登場する。
 そして、もうひとつ本書では、アシモフの銀河帝国の世界が持つ不思議さに対しても、いくつかの答えを予感させる。
 その最大の謎は、「なぜこの銀河系には人類以外の異星知性が見あたらないのか」である。本書で、この答えは出されないが、その恐るべき理由の予感がなされる。
 さて、これを受けて、グレッグ・ベアはどのような答えを出すのか。
 楽しみである。
 ちなみに、この3部作はついついハードカバーで買ってしまった。本書「ファウンデーションの危機」は1999年に邦訳出版されている。わくわくしながら、続編が登場するのを待ったものである。こういう「待つ」時はとても楽しい。
(2006.4.18)

ファウンデーションの誕生

ファウンデーションの誕生
FORWARD THE FAUNDATION
アイザック・アシモフ
1993
 アイザック・アシモフは、1992年、72歳でこの世を去った。1920年に生まれ、19歳でSFを書き始めたアシモフは、1942年に「ファウンデーション」のもととなる作品を書き始め、1951年に「銀河帝国の興亡1」=「ファウンデーション」としてまとめられた。SF長編だけみていけば、「ファウンデーション」三部作をはさむように、銀河帝国関係の作品がならび、その後1954年には、それまで短編ばかりであったロボット物が「鋼鉄都市」の形で昇華する。そこには、宇宙時代を迎え、保守化した地球と、宇宙の長命族の争いがあり、イライジャ・ベイリとR・ダニール・オリヴォーが登場する。やがて、読者や出版社の圧力に負け、アシモフは80年代に入ってからふたたびファウンデーションシリーズを書き始め、そこにロボットシリーズとの融合をもたらした。それは賛否両論を招いたが、それでも、「出ないよりも出た方がいい」との声なき声に押されて、アシモフは書き続けた。
 そして、1986年の「ファウンデーションと地球」でひとまずの未来を書き終えた後、再び、過去へと転じ、銀河帝国が衰亡し、ハリ・セルダンが心理歴史学を誕生させるまでを描く「ファウンデーションへの序曲」が書かれた。
 そして、ここに、アシモフの遺作となった「ファウンデーションの誕生」がある。出版されたのは1993年。彼の死後となった。
 本書「ファウンデーションの誕生」では、前作で32歳だったハリ・セルダンの後半の生涯が語られる。40歳のハリ・セルダンは、ストリーリング大学の数学部長として、皇帝クレオン一世と、首相エトー・デマーゼルの庇護のもと、ユーゴ・アマリルとともに、心理歴史学の基礎研究に没頭していた。しかし、8年経ってもいまだ光明さえ見えない。
 しかし、脂ののりきった40歳である。いまだ芽のでない心理歴史学が思わぬ形で、帝国の崩壊を救ったのだった。
 それから10年後。かつての危機を救ったことで、クレオン一世によって首相に指名されてしまったハリ・セルダン教授は、心理歴史学の発展と、ますます衰退する帝国の運営に奔走し、50歳を迎えて疲れ切っていた。セルダンの心理歴史学はユーゴ・アマリルとセルダンの弟子達によって少しずつ形を見せていたが、当のセルダンにとっては歯がゆい限りである。
 そして、再びの陰謀。かつてハリ・セルダンを首相にさせるきっかけとなった事件の首謀者らがトランターの中枢を狙ってテロを起こしはじめた。はたして、セルダンはこの危機を首相として乗り越えられるのか。それは思わぬ結末を迎えてしまった。
 さらに10年後。10年前の事件により首相を辞し、ストリーリング大学セルダン心理歴史学プロジェクトの長として心理歴史学の発展を続けてきたハリ・セルダンは自らの老いを感じていた。心理歴史学の核となるプライム・レイディアントも発明されたが、その実績はすでに30代の若い心理歴史学研究者や技術者の手によるものであった。自分の手で心理歴史学を完成させたいと、老境のハリ・セルダンは失われつつある残り時間の中であせりと絶望を感じる。その一方、養子夫妻の子どもでハリ・セルダンにとっては実質的な孫娘のウォンダ・セルダンは8歳になり、ますます利発さをみせていた。次世代への焦りと怒り、そして、次世代への希望を抱きながらハリ・セルダンは生きていた。しかし、彼を支え続けた愛すべきドース・ヴェナビリ博士が死んだ。彼にはどうすることもできなかった。最愛の人を失い、絶望する。
 そして、10年後。70歳となったハリ・セルダンとその心理歴史学は、人々にとって不吉な証となっていた。銀河帝国の中心トランターには、明らかに荒廃の影が色濃く及んでいた。機械が壊れ、医師が技術を失い、人々がモラルを失っていた。ハリ・セルダンは、心理歴史学の大きな山を越え、今や、銀河帝国の崩壊は止められないながらも、その後の長きにわたる荒廃を少しでも短くするための構想を練っていた。しかし、予算も人材も限られるなかで、すべては手遅れだと、彼は確信した。そんなハリ・セルダンを支えたのが、孫娘のウォンダである。彼女の隠された能力こそが、すべての鍵になったのだ。
 そして、ハリ・セルダンは、美しい未来と、すばらしい過去を覚えて、失ったものの大きさ、寂しさの中に、得たものの大きさ、すばらしさを知る。たくさんの人に出会い、愛し、働き、悩み、苦しみ、そして、喜んだ。その結果としての未来への希望がある。見ることのできない未来だが、識ることはできた。未来に、未来の人類に道を開いたハリ・セルダンの姿。それは、死ぬ最後まで、SFを通して人々に科学の良い面を、人間の良い面を訴え続けてきたアシモフの心境であろう。
 前著「ファウンデーションへの序曲」の冒頭にある作者ノートで、アシモフは「いくらでも、わたしの好きなだけ、続篇を書くことができる。
 もちろん、どこかに限界があるはずだ--永久に生きることはできないのだから。しかし、できるだけ長く書き続ける決意でいる」と述べている。
 その言葉通り、彼は、最後まで書き続けた。そして、メッセージを残した。
 すべてのSF者たちに。
 道をつくった、道を拓け、と。
 合掌。
(2006.4.8)

ファウンデーションへの序曲

ファウンデーションへの序曲
PRELUDE TO FAUNDATION
アイザック・アシモフ
1988
どんな偉人にも、年寄りにも、子どもの頃、あるいは若い頃というのがある。たとえばその人が年をとってから有名になり、その姿だけを長く見ていると、あたかもその人の若い頃なんてないような、その人はずっと同じ姿をしているかのような気になってしまう。
 だから、父母や祖父母の若い頃の写真を見たり、彼らの若い頃の文章を読む機会があると、ちょっととまどい、気恥ずかしいような気持ちにさえなってしまうことがある。
 もし、その人が不老不死だったら、逆にびっくりしてしまうだろう。
 10年前も、20年前も、30年前も、ひょっとすると100年前も同じ顔姿だったりするのだ。
 本書は「ファウンデーションへの序曲」は、ファウンデーション・シリーズの6作品目であり、タイトル通りに銀河帝国の興亡初期3部作より以前を描く作品である。
 ハリ・セルダンは32歳。学会のためトランターにやってきたばかりの「若者」であり、数学的仮説としての「心理歴史学」を提示してしまったために、皇帝を含むいくつかの権力者の注目を集めてしまった。
 折しも時の皇帝は、セルダンと同じ32歳のクレオン一世。先帝に引き続き、影のように帝国を支えるエトー・デマーゼルによって、数学的ゲームであり、仮説であり、成立するはずがないとセルダンが確信する心理歴史学は、権力の道具になってしまうのか? そして、すべての読者がすでに知っているとおりの歴史をたどるとすれば、一体いつ、ハリ・セルダンは心理歴史学を架空のものでなく、実現するのか。それが可能だと彼は一体いつ確信し、いつ、どこで生み出すのか?
 さらには、前作「ファウンデーションと地球」で登場したR・ダニール・オリヴォーは、一体いつからハリ・セルダンに目を付けていたのか? 心理歴史学とダニール・オリヴォーの関係はどんなものがあるのか?
 いかにもアシモフ的なハリ・セルダンである。ハリ・セルダンは、アシモフのひとつの理想像なのではなかろうか。もうひとつの理想像は、イライジャ・ベイリか。いずれにしても、アシモフは「追求する人」が好きなのである。何にでも首を突っ込む、人類の行く末を真剣に考えつつも、目の前の人にすっかり感情移入したり、感傷的になったりする。
 まさしく、人間である。
 アシモフのロボットも人間くさいが、アシモフに出てくる人間は、まさしくアシモフ的人間である。
 そして、それゆえに、教えたがる。自分で調べて、できれば考えて欲しくて、教える。手を変え品を変えて、教えようとする。アシモフだから。
 本書を発表した1988年、アシモフは68歳である。
 それでもなお、アシモフは、「ファウンデーションをロボットシリーズと統合して、アシモフの宇宙を開拓する」ことに全力を注いだ。遠い未来の中の過去へ、また、未来へ、また過去へ。時を自由にかけ、20世紀後半を自在に駆けめぐり、若き日のハリ・セルダンを通して、銀河帝国末期の姿を描き、同時に80年代後半の世界を描いたのだった。
 そこでは、未来であるファウンデーションのハリ・セルダンの姿はない。
 没落していく世界で、遠い未来の希望を切り開こうとする生き生きとした人間の姿がある。また、没落していく世界であっても、トランターという惑星にいる多種多様な人々の生き方がある。
 50年代のファウンデーションに書かれたトランターとはなんという違いだろう。
 作品もまた、その時代から離れることはできないのだ。
 人は年をとる。年齢ごとに経験を重ね、覚え、忘れ、恥ずかしがり、厚顔にもなる。
 そのすべてが、人の歴史になる。
 私は、意外と、この前・ファウンデーションシリーズが好きなのだ。
 安心して読めるからかな。
(2006.04.08)

ファウンデーションと地球

ファウンデーションと地球
FAUNDATION AND EARTH
アイザック・アシモフ
1986
 アシモフによる銀河帝国/ファウンデーション歴史にひとつのトリを飾るのが本書「ファウンデーションと地球」である。ファウンデーション・シリーズとしては5作目にあたり、時系列としてもその順番通りである。前作「ファウンデーションの彼方へ」が三部作から29年の時を経て、1982年に登場し、セルダン計画そのものに対してアシモフからの疑義が唱えられる。そこに登場したのは「ガイア」超知性体であった。
 前作では、ファウンデーション人のゴラン・トレヴィズが、スーパー・コンピュータを搭載した重力操作宇宙船に乗り、考古学者ジャノヴ・ペロラットとともに壊滅したはずの第二ファウンデーションを探す旅に出た。ペロラットは、「地球」とも「ガイア」とも呼ばれる人類の始祖惑星を探し求めており、それを隠れ蓑にしたのだ。そして、最後には「ガイア」にたどり着き、トレヴィズはある「決断」を迫られる。
 そして、本書「ファウンデーションと地球」では、トレヴィズ自身がこの「決断」の意味と決定について悩み、その解決には「地球」を探すしかないと決意する。トレヴィズとペロラットの「地球探し」が再開された。今回は、ガイアであるペロラットの伴侶ブリスも一緒であり、初老のペロラットとブリスは新婚気分でいちゃついている。
 そんななか、「決断」による責任を感じているトレヴィズは、いらいらするのを避けるため、重力船のコンピュータとますます融合を深めていく。それは、有機/無機融合知性体のようでもあった。
 本書は、1986年に発表されているが、前作「ファウンデーションの彼方へ」と本書「ファウンデーションと地球」と間には、ロボット物の「夜明けのロボット」「ロボットと帝国」が挟まっている。
 それは、つまり、「ロボットと帝国」なしに、本書「ファウンデーションと地球」は成立しないし、「夜明けのロボット」なしに「ロボットと帝国」は成立しないからである。
 いや、もちろん、それは言い過ぎであり、この2冊を読まずしても、ファウンデーション五部作として読むことに問題はない。しかし、ファウンデーション・シリーズファンとロボット・シリーズファンの双方がある程度であれこの両シリーズの接点を納得するためには、アシモフは間に2作品を発表する必要があったのだ。
 本書「ファウンデーションと地球」は、2万年後の未来から見た帝国創生史めぐりである。トレヴィズは、彼の心の命じるままに、帝国の母体となったセツラー・ワールドの古い植民惑星を訪ね、廃墟と化したスペーサーの惑星を訪ね、地球の秘密を知る。
 そこには、人類の極端な未来がいくつも提示され、過去のファウンデーションシリーズに見られた第一ファウンデーション、第二ファウンデーション、セルダン計画と対比させていく。
「ロボットと帝国」で残された謎を読者に解き明かし、トレヴィズはついにほとんどすべての秘密を知る。
 アシモフはトレヴィズとブリスの絶え間ない議論と、最後に登場する影の人類史に欠かせないロボットとなったダニール・オリヴォーとの会話を通じて、人類のありようにひとつのテーマを示す。
 それは、アシモフのこれまでの苦悩と同様に、留保条件付きのままであった。
「決断」者、トレヴィズさえも新たな留保条件を物語の中で示す。個の自立性、独立性、孤立性を大切にするトレヴィズは、重力船のコンピュータとときおり一体化する。重力船のコンピュータはロボットではなく、トレヴィズに直接「語りかけ」てはこない。しかし、トレヴィズは、次第に重力船のコンピュータと融合することを望むようになる。
 それも、アシモフが本書「ファウンデーションと地球」で繰り返し悩み続ける人類のありようのひとつの答えであり、彼が出した結論への留保条件にしかならない。  ぶっちゃけよう。
 生命を大切にし、平和と平穏と幸福に満ちた社会/生命圏はすばらしく理想的である。
 そんな社会/生命圏はつまらないじゃないか。たとえ、無用な争いがあっても、生命は多様に躍動し続けるほうがいい。
 あなたならどちらをとるだろうか。
 アシモフは、前作で「ガイア」を選んだ。しかし、その結論の「正しさ」に答えは出ていない。
 今もなお、この留保条件は解除されていない。
 いつか、誰かがこの留保条件を解くのであろうか。
 ただ私は「神」への信仰と否定しないが、人が作りしものであっても人を導くための「神」は必要としていない。
 ごめん、ダニール・オリヴォー。
(06.3.29)

ロボットと帝国

ロボットと帝国
ROBOTS AND EMPIRE
アイザック・アシモフ
1985
「鋼鉄都市」「はだかの太陽」「夜明けのロボット」のロボットSFミステリ3部作に続き書かれた最後のロボットもの長編である。
 アシモフのもうひとつの宇宙史ファウンデーション・シリーズ三部作が、1982年に「ファウンデーションの彼方へ」で続編の登場となる。その後半に、失われた「ロボット」についての記述があり、「地球」についての記述がある。
 この「ファウンデーションの彼方へ」が人気を博した直後、アシモフは1983年に「夜明けのロボット」をしたためた。この作品は、まさしくSFミステリであり、地球人イライジャ・ベイリと、人間そっくりのロボット、ダニール・オリヴォーによる「殺人事件」の犯人と動機探しの作品である。
 ここでふたつの大きな未来への可能性が語られる。それは、心理歴史学の可能性であり、ロボット三原則の見直しであった。そのために、心を読むロボット・ジスカルドが登場する。この「心を読む」ロボットがはじめて登場したのならば、ファウンデーション・シリーズとロボット・シリーズを合流させるためにアシモフが考えついた都合のいい話になるのだが、さすがアシモフである。すでに、初期のロボットもの作品で、スーザン・キャルビン博士が心を読むロボットに出会っていた。これならば文句は言えまい。
 さて、この「夜明けのロボット」に引き続いて書かれたのが、本作、その名も「ロボットと帝国」である。「帝国」とはもちろんファウンデーション・シリーズで崩壊した「帝国」のことであるが、舞台の時は「夜明けのロボット」から2世紀も経っていない前・帝国紀、場所は長命種スペーサーの惑星オーロラ、ソラリアという、ロボット三部作でおなじみの星に、短命種の星・地球、そして、ベイリワールドである。
 ベイリワールド。イライジャ・ベイリは160年前に死んだが、彼の望み通り、地球人は再び宇宙に目を向け、植民地を広げ、彼らは自らを長命のスペーサー(宇宙人)に対してセツラー(植民者)と呼び、そのもっとも古いひとつはベイリワールドであった。わずかな期間にセツラーは勢力を伸ばし、スペーサーとセツラーの緊張は高まっていた。
 そんな時代の惑星オーロラには、ベイリが2度に渡って危機を助けたグレディアが、イライジャ・ベイリのパートナーであり友であるダニール・オリヴォーと、ジスカルドとともに暮らしていた。
 本書「ロボットと帝国」では、いくつかの殺人が起こるものの、ミステリではないので、その動機や犯人を捜す必要はない。では、本書は何なのだろうか。
「ファウンデーションの彼方へ」で、アシモフは遠い未来の人類のあり方について悩み、解釈するが、本書「ロボットと帝国」では、その「心理歴史学」と「ロボット三原則」のあり方について悩み、解釈する。
 ダニール・オリヴォーとジスカルドの会話は、堂々めぐりを続けながら、「人類」「人間」「ロボット」について悩み、悩みながらも「三原則」に従って行動を続ける。
 そして、イライジャ・ベイリによって異色のスペーサーとなったグレディアは、その異色さ、ユニークさ故に、伝説となり、歴史となる。彼女の旅の過程で未来の「帝国」の道が開かれる。2万年後のファウンデーションで探索の対象となった「地球はどこにあるのか」「なぜロボットはいないのか」「なぜ長命種はいないのか」「どうやって地球の短命種は帝国を築くまでになったのか」が語られる。
 本書は、アシモフのロボットものの集大成であり、アシモフが生みだしたロボット三原則のひとり歩きに対して、アシモフがつきつけたひとつの答えでもある。
 ダニール・オリヴォーとジスカルドの対話は、まるで、哲学者とその弟子か、高僧同士の対話である。
 いや、もしかすると「神」の対話だったのかも知れない。
 アシモフは、神を否定しながらも人類を導くものの存在を無意識に作り出したのではなかろうか。それが、ダニール・オリヴォーという人の姿に似せて作られた形をしたものではなかろうか。
 人が神を作り、神が人を導く。そんな風にさえも思えてしまう。
 そして、ダニールとジスカルドの結論と結末は、人類に対するサクリファイス(聖なる犠牲)ではないかとさえ思えてしまう。
 正直に言おう。しかし、それ故に、古き良き時代の読者である私としては、最初本書を読んだ際に、とまどい、不満を感じた。なにも、ロボットものでまで、人類の未来を語らなくてもいいではないか、と。しかし、その後あらためて「鋼鉄都市」(1953)を読み返したときに、アシモフの心の中には常に一貫性があったことを感じた。
 それは、人の、知性の可能性である。
 彼は、人の、知性のつくる奔放で活気ある世界を信じるとともに、秩序ある穏やかな世界も同時に希求し、その反映としてロボットを生みだしたのだ。
 ロボットと帝国。
 アシモフの「希求」するSFと世界は「ファウンデーションと地球」でクライマックスへと向かう。
(2006.3.28)

ファウンデーションの彼方へ

ファウンデーションの彼方へ
FOUNDATION’S EDGE
アイザック・アシモフ
1982
 銀河帝国の興亡・ファウンデーションシリーズは3部作で終わり、アシモフのロボットものと並んでふたつの大きなジャンルを構成していたはずだった。アシモフも、SFへの興味を失ったのか、科学エッセイなどの執筆が多くなっていた。しかし、1980年代は巨星の復活の時代であった。3巨頭ハインライン、クラーク、そしてアシモフが、過去の自らの作品と現実の80年代の科学、社会、SF界に触発されて再び力作を発表しはじめる。そのなかでも、アシモフのファウンデーションシリーズ続編はSF界に驚きと喜びをもって迎えられた。さらに、読んだ者から「ロボットが銀河帝国に登場した!」と、ふたつの世界が統合されそうだと、伝え聞くにつれ、読者はその方向性に期待と、そして、一抹の不安を持っていた。
 その不安は、本書「ファウンデーションの彼方へ」の直後に発表された「夜明けのロボット」でイライジャ・ベイリとR・ダニール・オリヴォーのコンビがみごとに復活したことで払拭された。「夜明けのロボット」では「鋼鉄都市」「はだかの太陽」と同様に、ロボット三原則を軸にした殺人事件の解決が行われ、安心して読むことができた。そして、「夜明けのロボット」の中から、遠い将来の銀河帝国と心理歴史学、それにロボットの関わりの予感を受けることができ、心の準備は整った。
 本書「ファウンデーションの彼方へ」は、第三部から1世紀以上を経てファウンデーション歴ほぼ500年を迎えて幕を開ける。ターミナスのファウンデーションは、ますます科学を発展させ、軍事力、経済力、科学力を持って旧帝国にならびかねない全銀河の3分の1ほどの支配力を有していた。
 その支配力の頂点にはターミナスの「市長」がおり、議会もまた力を盛り返していた。
 今ここに、ひとりの若いターミナス議員が登場する。名前はゴラン・トレヴィズ。彼は、滅ぼしたはずの第二ファウンデーションがいまだに存在すると確信していた。  そしてもうひとり。初老の考古学者ジャノヴ・ペロラットが登場する。彼は、今では誰も気にしなくなった人類の起源問題を追い求め、伝説の「地球」あるいは「ガイア」と呼ばれる惑星を探すため、旧帝国の首都トランターにある帝国図書館への訪問を熱望していた。
 そして、第三部で明かされた真の第二ファウンデーションでもまた、新たな「発言者」が登場し、その野望を胸に抱いていた。
 第三部に続き、今度はトレヴィズとペロラットによる「第二ファウンデーション」「地球」「ガイア」探しがはじまった。
 その一方で、第二ファウンデーションでは、「第二ファウンデーションを操っているもの」の存在が疑われ、その追求がはじまった。
 はたして、「地球」はどこに存在しているのか、「ガイア」とは単に「地球」の別名なのか? 第一ファウンデーションはふたたび第二ファウンデーションの存在に気がつくのか? そして、第二ファウンデーションは第一ファウンデーションに滅ぼされるのか、それとも、第二ファウンデーションは「謎の操作する存在」によって操られ続けるのか?
 1980年代、ラヴロックによって「ガイア仮説」が唱えられ、SFでは惑星規模の高次生命体や融合生命体の「外挿」が行われるようになり、アシモフは、自らのSF世界に「ガイア」という言葉を導入することで、SFの古典である「銀河帝国・ファウンデーション」シリーズを80年代のSFとして昇華しようとした。
 そこには、人はどのような生き方が望ましいのか、人類はどのようなあり方が望ましいのかを問うアシモフの苦悩が見られる。
 考えてみれば、ファウンデーション三部作の後半では科学技術と物質主義の第一ファウンデーションと、それを裏で操作する精神科学の第二ファウンデーションが超能力者ミュールをはさんで対立的に描かれ、どちらの側もその正当性を表現しながらも、最後は第二ファウンデーションとセルダン計画が勝利した。
 しかし、アシモフは、この終わり方に対して自ら「疑問」を持っていたのかも知れない。彼は、本書「ファウンデーションの彼方へ」で、この疑問を読者にぶつける。そして、第三の道を提示する。しかし、はたしてそれでよいのか、晩年のアシモフの苦悩は本書をもってはじまり、読者は、その苦悩の道を共に歩み、ファウンデーションとロボットの世界のつながりを、人類の行く末を、そして物語の再生と再構築を体験することになる。
 もちろん、読者のひとりとしての私もまた。
 もう、ロボットものだけを読んで楽しんでいた自分や銀河帝国三部作を読んで楽しんでいた自分には戻れないのだ。物語は書き手と読み手によって同じ文章であっても変化することを知らされる。
 しかし、それは必ずしも不幸なことではない。新しい解釈もまた「アシモフ的」であり、おもしろさでもあるのだ。
ヒューゴー賞
(2006.3.22)

銀河帝国の興亡3

銀河帝国の興亡 3
THE SECOND FOUNDATION
アイザック・アシモフ
1953
 いよいよ銀河帝国の興亡三部作の締めくくりである。ファウンデーションシリーズは、本来ここで終わると思われていた。また、アジモフ自身もそう考えていた節がある。しかし、1983年、多くのファンと編集者の圧力に負け、ついに「ファウンデーションの彼方へ」で続編が書かれ、シリーズはアジモフのロボット物まで巻き込んで別の次元へと向かった。
 手元にあるのは創元版で1979年の22版340円。ちなみに、ハヤカワからは「ファウンデーションの彼方へ」が登場し版権を押さえたことから1984年に「第二ファウンデーション」として新訳が出ている。
 はじめて三部作を読んだのが中学校の終わりか高校のはじめで、大学に入ってから「彼方へ」が出たものの、なんとなくしばらくは読まずにいた。三部作の思い入れが深かったからである。それでも結局文庫版になったところで1996年には第四部を読み始めてしまった。そうして、大いなる世界の変転を知ることになるのだが、それはまた別の話であり、「銀河帝国の興亡3」には、三部作完結版としての壮大なドラマが用意されている。
 第三部は、原題やハヤカワ版タイトルにある通り、第二ファウンデーションの物語である。前半は、今や宇宙の支配者となったミュールによる探索であり、ミュールの死後、再び力を取り戻した惑星テルミナス(ハヤカワ版ではターミナス、以下統一)の第一ファウンデーションによる探索である。
 ミュールにとって、第二ファウンデーションは潜在的な脅威であり、第二ファウンデーションにとってミュールはセルダン計画が予期しなかった「非人類」による歴史への介入であり、なんとしても排除し、修正しなければならない存在だった。
 そこで、第二ファウンデーションはミュールに壮大な罠をしかける。しかし、それは、第二ファウンデーションの存在と気配を第一ファウンデーションに気づかせてしまい、セルダン計画を危機に陥れる危険性を秘めたものだった。
 第二ファウンデーションの計画は功を奏し、ミュールの危機は去り、ファウンデーションが力を取り戻して約半世紀が過ぎた。ファウンデーションはその物理的な科学力を背景に、心理学も発展していた。そして、心理的な分析を行う機械を発明し、数人のターミナスの研究者らがファウンデーションの主要な何人かの大脳が操作を受けていることに気がつく。それは、第二ファウンデーションによる第一ファウンデーションへの介入と思われた。第二ファウンデーションに気がつかれることなく、第一ファウンデーションが「独立」するためには、第二ファウンデーションの野望を打ち砕かなければならない。そうでなければ、セルダン計画で6世紀後に来たるべき「第二帝国」の実権を第二ファウンデーションに奪われるであろうからだ。
 この密やかな第二ファウンデーション探査計画はミュールが首都としていた惑星カルガンから行われた。しかし、それとほぼ同時に、ミュール没後のカルガンでミュールの後継者であるステティン太守がファウンデーションとターミナスに戦争をしかけた。
 第二ファウンデーションの秘密の鍵を握ったのは、14歳の好奇心旺盛な女の子アーケイディア・ダレル。ベイタの孫娘である。彼女は、彼女の好奇心と不思議な縁でカルガンを経てかつて祖母や父母が過ごし、自身が生まれた惑星トランター、かつての帝国の中心にたどり着き、そこで「真実」に気がつく。第二ファウンデーションの所在と、その野望を。
 ついに第一ファウンデーションは、第二ファウンデーションを今度こそ壊滅させ、唯一のファウンデーションとして自力で第二帝国の構築への道のりを歩き始めた。  しかし、もちろん、第二ファウンデーションは滅んではいなかった。それは最後に場所を明らかにされる。第二ファウンデーションは、ふたたび歴史の背景に消え、ファウンデーションとセルダンの計画はミュールの影響で受けた傷を修正し、ふたたびその未来に向かって進み始めるのであった。
 大団円である。
「星々の果て(スターズ・エンド)」にあるとされた第二ファウンデーションは一体どこにあるのか、が、第三部の主題であり、もうひとつ、セルダン計画は終わったのかという主題がその回りを踊っていた。
 そのわかりやすくも奥深いドラマは、初期三部作ならではのものである。
 なんといっても、本書を一貫して流れる「星々の果て(スター・エンド)」とはどこなのか、第二ファウンデーションは実在するのか、そして、どんな役割を持つのかの謎は、この前作第二部を含めて読者の心をつかんで離さない「謎」であった。この謎解きが、ひとりの探偵によって行われるのではなく、歴史的な事件の中で行われる。その謎解きの手法と、明らかにされた「真実」に驚喜してしまう。
 ファウンデーションシリーズがその後の新たな展開と視点を見せたとしても、ハリ・セルダンの心理歴史学とファウンデーションの初期400年の歴史は今もなおそれだけで読み応えのある宇宙史である。
ヒューゴー賞(1966年ベストオールタイムシリーズ部門)受賞作品
(2006.03.18)

銀河帝国の興亡2

銀河帝国の興亡 2
FOUNDATION AND EMPIRE
アイザック・アシモフ
1952
 ファウンデーションシリーズの第二部であり、いよいよミュールが登場する。私の手元にあるのは創元版の「銀河帝国の興亡 2」1979年24版である。ハヤカワ文庫からも1984年に「ファウンデーション対帝国」として出版されている。
 前半は帝国の清廉潔白な将軍ベル・リオーズによるファウンデーションの惑星テルミナス(ハヤカワ版ではターミナス、以下統一)への攻撃と、それに対するファウンデーションの反撃を描く。セルダン没後2世紀となり、ファウンデーションは貿易商人たちが力を持ちながらも政府は硬直化していた。そんななか、若き商人ラサン・ディヴァーズが活躍し一時は危機に陥ったファウンデーションは帝国との直接対決に勝利する。
 そして、それから1世紀が過ぎ、ファウンデーションは官僚主義と権威主義がはびこり「市長」は世襲となって三世代を迎えていた。
 一方、かつての帝国の中心惑星トランターは40年前に大略奪が起こり、人口は1億程度の農業とくず鉄輸出惑星になりつつあった。帝国の残滓は農業惑星にネオトランターを設立しわずか20程度の惑星を支配するのみと化していた。
 いましも、かつての貿易商人の息子フランとターミナス人で豪商ホーバー・マロウの子孫ベイタが結婚し、ターミナスからフランの故郷・ヘイブン第二惑星へと引越ししてきた。ちょうどそのころ、ミュールと呼ばれる不思議な男が、歓楽の惑星カルガンをあっという間に征服した。ミュールはあっという間に強力な宇宙軍事力を手にして、ほとんど闘わずしてファウンデーションの支配する星系を併合していった。その勢いは止まらず、ターミナスを取り囲む4星系にまで迫った。一方のターミナスでは、内乱の危機が迫りつつあったが、この外圧の前にその勢いは消えていた。そして、セルダン記念日を迎え、ハリ・セルダンが予言を行うが、それは現状とはまったく関係ない言葉の羅列であった。明らかにセルダン危機であるのに、セルダンの計画は狂ったのか? その衝撃の内に、ターミナスはミュールに征服されてしまう。ミュールは、新帝国の創造主となるべく残る潜在的な危険である第二ファウンデーションの捜索に乗り出す。
 フランとベイタは、ターミナス、ヘイブンがミュールに征服される際に辛くもミュールの手を逃れファウンデーション一の心理学者エプリング・ミスとともに第二ファウンデーションを探し、ミュールに対抗するためにトランターに着いた。
 はたして、彼らはミュールより先に第二ファウンデーションを探し、ミュールの危機に対抗できるのだろうか? そして、セルダンの計画はミュールによって水泡に帰したのだろうか? はたまた、第二ファウンデーションはどこにあり、何をしているのだろうか?
 いよいよ謎が謎を呼び、物語は最高潮の元に、第三部へと続く。
 本シリーズなんといっても異色のミュールの登場である。このミュータントは、すごい超能力の持ち主だ。近くの人を心理操作するだけでなく、惑星規模、星系規模で心理的な影響を与えることができる力を持つ。その心理操作は恒久的なものであり、だからこそミュールには誰も勝てないのだ。
 強い、すごい、そして、超能力まで登場してしまったぞ、銀河帝国。どうするんだ!
(2006.3.18)