銀河帝国の興亡1

銀河帝国の興亡 1
FOUNDATION
アイザック・アシモフ
1951
 私がはじめてファウンデーションシリーズに出会ったのは、中学生の終わりか高校生のはじめの頃である。手元には、創元推理文庫SFの「銀河帝国の興亡」シリーズがある。1978年の第29版で340円であった。1983年に第四部の「ファウンデーションの彼方へ」が書かれたことで新訳の「ファウンデーション」三部作がハヤカワSF文庫から1984年に出版されるが、今を持って残念ながらこれは読んでいない。
 もちろん、第四部以降の全作品と、アジモフ没後に書かれたベンフォード、ベア、ブリンによる新三部作はきちんと読んでいる。また、関係するロボット物もほぼ読んでいる。
 このシリーズはSF史に燦然と輝く作品群であり、それ自体が壮大な宇宙史である。私個人としても印象の極めて深い作品である。
 それは、天才数学者ハリ・セルダン博士が生みだした心理歴史学(サイコヒストリー)の印象の深さである。ひとりひとりの人間の行動は予測がつかないものの、経済学と同様に極めて大きな集団に対しては、過去の歴史、人類の心理、行動などから数学的手法で統計的に予測を立てられるというものである。
 さらに、ハリ・セルダンは、心理歴史学をうまく使えば、人類の行く末を操作できる可能性を示した。
 ファウンデーションシリーズでは、強大な銀河帝国がまもなく崩壊し、その後3万年に渡る暗黒期が訪れることが予測され、その暗黒期を1千年に短縮し、ふたたび人類の繁栄を迎えられるようにするための計画が立てられ、その実行と実効性をめぐってストーリーが進む。
 これにはまったSFファンは数限りない。私もはまった。しかし、私が入学した大学の学部には、心理歴史学にはまった故にその学部を選んでやってきた人間がいた。彼は言った。「いつか心理歴史学は現実となる」と。
「宇宙船ビーグル号の冒険」(ヴォークト)の総合科学=ネクシャリズムにはまって来た人間もいた。
「総合科学部」である。感慨深い作品である。
 2006年の今、あらためて読み返してみると、ありゃ、ハリ・セルダンは最初にちょっと出てくるだけだ。後は死んで後の話で彼の「予言」は2回しかない。
そうなんだ! ちょっとびっくり。心の中ではハリ・セルダンが大活躍しているのだが、そうか、それはアジモフ晩年に書かれた「ファウンデーションへの序曲」「ファウンデーションの誕生」のことか。
 忘れているものだ。
 さて、銀河帝国の興亡史は、栄華を誇る帝国の中心トランターの「大学」にいるハリ・セルダンとその心理歴史学による帝国への反逆、追放をもってはじまる。時に帝国は銀河紀元12067年を数え、あまたの惑星に1000兆人の人類を誇り、その距離はなく、帝国の中心トランターは鋼鉄惑星として銀河系の中心に位置し、人口400億人以上のすべての物資、食糧を輸入に頼る地下都市惑星となっていた。
 第一部心理歴史学者(サイコ・ヒストリアン)では、ハリ・セルダンの抱える研究者らが辺境の惑星テルミナス(ハヤカワ版でターミナス、以下、ターミナスに統一)に追放されることが決定するまでが描かれる。ハリ・セルダンはその2年後に没。
 第二部百科辞典編集者(エンサイクロピーデイスト)では、セルダン没後50年後に迎えたはじめての「セルダン危機」をサルヴァー・ハーディンが解決し、そしてはじめてハリ・セルダンの立体映像がターミナスに現れるまでを描く。
 第三部市長はそれから30年後(没後80年)の2回目のセルダン危機を、第四部貿易商人、第五部豪商はその後75年後(没後155年頃)までを描き、初の豪商ホーバー・マロウの登場と3回目の「セルダン危機」を描き出す。
 短編形式になっており、実際に初出は短編として掲載され、それぞれを楽しく読むことができる。アジモフお得意の推理小説形式であり、読後の爽快感はたまらない。また、それぞれの冒頭にリードとして書かれる「エンサイクロビーディア・ギャラクティカ(銀河百科大事典)」の引用文も本文の解説や伏線としてうまくリンクしており、心をくすぐる。いい時代の素直な作品である。楽しいなあ。
(2006.3.18)

ニムロデ狩り

ニムロデ狩り
THE NIMROD HUNT
チャールズ・シェフィールド
1986
 本書「ニムロデ狩り」は、独特のネタが用意されている。そのネタをばらさずにおいて書くのかネタバレを前提に書くのかで書き方がずいぶん異なってしまう。
 そこで、ちょっとだけ、ネタばれなしを前提に書き、その後、思いっきり「読後」を前提に書くことにした。未読の方、注意はしたのでご注意、ご了承いただきたい。
【ネタばらさず版】
 人類は、マッティン・リンクという移動手段を得た。それは座標の数式さえ合い、双方向にリンクの装置をとりつければ瞬間的に移動できる装置である。しかし、もちろん最初は誰が行って取り付けなければならない。
 人類は、光速度の10分の1のスピードで太陽系を超え、太陽を中心に既知宇宙の球を広げては必要な場所にマッティン・リンクを設置し、双方向の交通手段を整えていった。1世紀に10光年の早さですすみ、今やその球は直径58光年となった。この既知空間のなかで、人類は3つの高度な知的生命体種族と出会い、平和裏にコミュニケーションすることができた。
 巨大な節足動物のようなパイプ=リラ、小さな虫が集合することで知性を発揮する複合体知性のティンカー、そして、植物的で巨大なメモリとコンピュータ的能力を持つ不思議なエンジェルである。これに人類を加えてステラーグループという知的生命体星系間社会が形成され、その4種族の代表で宇宙規模の重要な事項は決定されていた。しかし、人類を除くいずれの種族も「闘争」を手段として知らず、知性は非闘争的理由から発展した。
 人類は違った。常に外界に対し警戒し、自らを拡張しようとしていた。
 人類の辺境警備を担う責任者は、モーガン構造体の実験を承認した。それは、ステラーグループの知的生命体に対して敵意を持つ生物を探し求めて報告するための有機/無機融合の人工知性体である。
 しかし、そのモーガン構造体が実験中のステーションから研究者らをすべて殺害して逃走。17体のモーガン構造体”ニムロデ”は、マッティン・リンクを使って宇宙の各地に散った。ステラーグループの指導者は、この事実を人類に知らされ、彼らを探し、確保し、必要ならば破壊/殺すことを決定する。そのための組織はアナバシスといい、モーガン構造体の実験を計画した辺境保安隊の司令官と初期に取り逃がした太陽系保安隊司令官が責任を追った。そして、もうひとつステラーグループは、各種族1名からなるチームを複数訓練し、チーム単位での行動を求めた。
 アナバシス長官らは、人類間での権力闘争を繰り広げながら、ニムロデ狩りのためのチーム作りに着手する。しかし、アナバシス長官にはもうひとつの目的があった。ニムロデは辺境で人類を守るために必要な存在なのだ。殺さずに確保したい。そのアナバシス長官の動機や行為をめぐり、ステラーグループを巻き込んだ心理戦がはじまった。
 というのが前半のストーリーである。どこかで聞いたことのあるような異星人たち、知性を無理矢理向上させるトルコフ刺激装置、ヒトの遺伝子を操作して違法に知的生命体をつくるニードラー、感覚を小さなロボットに接続しシロアリやクモなどと戦闘するシュミラクラムゲームのアデスティス、オールト雲からの収穫、ヒトなどの冷凍保存と再生、おいしい肉動物だと思っていたら実は知能を持っていた異星生物…などなど、過去のSFのガジェット満載である。
 これだけ並べると、アクションSF、スペースオペラ、サイバーパンクSFかと思いきや、どっこい、数人の人類登場人物の「人間ドラマ」になっているのでとまどいを隠せない。壮大なエンターテイメントのようでいて作者が狙ったのは、人間の行為の「動機」や人類とそれ以外の「知性」のありようについての仮説だったりする。  詰め込みすぎではないだろうか。
 と思いながら、最後まで読むと、あ、なるほど、ここに持っていきたかったのか、ということが分かる。これをよしとするか、そりゃないよと思うかは、読んだ人しか判断できない。まあ間違いなく、作者のチャールズ・シェフィールドはSFファンであり、SF的ガジェットが大好きな人なのである。
 私としては、ちょっと考えすぎ、組み込みすぎの作品で、もう少し引き延ばすか、煮詰めるかして欲しかったというところであった。
【ネタバレです。未読の方、読んで怒らないように】
 融合ですか…。
 物事を即決できる行動的な人類、感情を制御し移入できるパイプ=リラ、記憶と論理と分析のエンジェル、複合体であり単体精神には理解できない思考を行うティンカーの4種類の知性が、そういう知性体でなければならなかったのは、融合ですか。
 融合知性体ですか。
 ニムロデって、そういうことでしたか。
 ティンカーが、ティンカー故に全体を包み込み、まとめるのね。そして、分析し、推論し、行動するのね。新しい存在として。
 いやあ、まいっちゃうなあ。
 そういう存在のありようの必然性を生み出すために、長官と副長官の権力闘争があり、長官の子どもの頃のトラウマの秘密があり、ニードラーによる人工生命体があるのか。
 なかでも、アデスティスという感覚移行型のシュミラクラムゲームで、人が乗り移ったシュミラクラムの破壊によって死ぬことがあることやそのシュミラクラムの「体験」と人体としての「実体験」に区別がつけられないことなどのSF的ガジェットが使われていたのである。
 すべては、「知性」のありように仮説を立てるためのもので、シェフィールドは、そこに「他者への理解と愛」を持ってきていた。そして、「他者への理解と愛」を奪われた者はその不在故に取り除くことのできない「恐怖や孤独」を持つことを描こうとした。
 残念ながら、ストーリーに含まれるこれらの伏線は、あまりにも複雑に絡まり、ストーリーの文脈の中に沈み込んでいる。それゆえに、それぞれのエピソードは結末へ向かうための読者を巻き込む物語にならず、エピソードが積み重なるうちに読者は混乱を深めていってしまう。それでも最後まで読み進めると、なんとかすべては統合されるのだが、その頃には、ちょっと疲れてしまう。
 もっとそれぞれのエピソードをていねいにしてあったらとてもとてもおもしろい作品であったのだ。読み終わった後、頭の中ですべてを補完して、なんとか納得がいった。
 SFとして読む意味は大いにある。エンターテイメントとして、あるいは文学として読めるかと言われるとちょっと辛い。
 そして、モーガン構造体は結局姿を見せないままである。
 シェフィールドが亡くなってしまった今、モーガン構造体がどんな生命体であったか知ることはできない。
 星には興味があったらしい。もしかするとちょっと楽しい存在かも…。
(2006.3.18)

スタークエイク

スタークエイク
STARQUAKE
ロバート・L・フォワード
1985
 本書「スタークエイク」は、ロバート・L・フォワードのSF作家としての出世作となる「竜の卵」の続編である。続編といっても、時間軸からすれば直後にはじまり、すぐに終わってしまう。なぜかといえば、人類がはじめて遭遇した知的生命体は中性子星上に存在するチーラであり、彼らは人類と比べれば100万倍の時間軸で生きて、死んでいるからである。チーラにとって、人類は「遅い連中」であった。「竜の卵」では、チーラが知的生命体として進化するさなかに人類がはからずも果たした貢献、人類がチーラを発見して、その知的成長を手助けした時期、さらには、とうに人類を追い越し、人類に彼らの科学をある程度教え、そしてそれぞれの道を歩むために接触を断つところで終わった。
 時に、2050年6月21日、6時13分54秒のことであった。
 ところが…、である。
 チーラはますます繁栄を極め、彼らの関心の的である他の中性子星の探検や時間操作などについての知見を深めていた。そんなとき、すなわち2050年6月21日、6時50分6秒、人類の探査船ドラゴン・スレイヤー号を中性子星の強大な潮汐力から守るための高密度補償体とのバランスを保っていたジェット装置が故障した。このままではドラゴン・スレイヤー号が破壊され、チーラと接点を保ってきた人類の探査隊がみな死んでしまう。そこで、チーラは人類を救うための手だてを講じようとしたが、彼らの官僚機構の中でなかなかうまくいかなかった。「自分も救えないような知的生命体になぜそんな多額の予算を使わなければならないのか?」というところである。
 それでも、なんとかドラゴン・スレイヤー号は救われた。
 しかし、その直後、6時58分7秒に、中性子星に巨大な地震が発生、それは地殻震から星の中心までを揺るがす星震(スタークエイク)にまで拡大した。そして、チーラの文明は崩壊し、中性子星上には4人のチーラと数個のチーラの卵、若干の生命が残るのみとなり、星に戻れなくなった宇宙基地と宇宙に散ったチーラの軍の探検隊のみが残るばかりとなった。宇宙基地のチーラ達は、地上の生き残った数名のチーラと接触し、彼らが中性子星上に降りられるようになるための文明再興に協力する。一方、地表のチーラは、繁殖し、教育し、文明を復興させるための長い長い歩みを再開する。幸いなことに、「遅い連中」である人類の所には、チーラが科学データを渡しているので、そのデータを送り返してもらい、足りないところを埋めていく作業もはじまった。
 宇宙基地からは、チーラの文明の再興をずっと見守っていた。それは順調に見えたが、やがて皇帝が生まれ、宇宙基地との接触を保っていた種族が苦況に追い込まれる。ふたたび、宇宙基地は人類に協力を求める。しかし、それは、ドラゴン・スレイヤー号の乗組員の生命を引き替えにするものであった。そして、そして、そして。
 ということで、チーラ文明の復興記なのであるが、核戦争後の地球で科学技術を守り、再興する物語である「黙示録3174年」(ウォルター・ミラー 1959)と似たような物語が一部繰り広げられたりもする。
 本書「スタークエイク」の主人公は、チーラであり、ドラゴン・スレイヤー号の面々はチーラから見た状態で登場する。前作よりもよりチーラは人間くさく、その思考、行動、社会も人類そのままである。それがいいかどうかはともかく、せっかく登場した中性子星上の異星人チーラの変わった物理宇宙を堪能できることは間違いない。
(2006.3.3)

断絶への航海

断絶への航海
VOYAGE FROM YESTERYEAR
ジェイムズ・P・ホーガン
1982
 1980年代テイストたっぷりの「播種船もの」である。本書「断絶への航海」は、いかにもホーガンといった感のある理想主義的科学技術信仰に満ちた作品で、そのあたりが今となっては読者を選んでしまう。最初から、辛口の表現をしてしまったが、どうやら高校生の時の私は、この作品にどっぷりのめり込んでいたようで、ところどころに赤鉛筆で線が引いてある。なにやら恥ずかしいところにばっかり赤線があって、読み直しながら赤面してしまった。
“人間の心は無限の資源で、本当に必要なのはそれだけなんです”とか、
“彼らがやっているのは、こっちも気づいていない頭の中の思考を引き出すことなんだな””子供の教育は、それだけで充分なのよ”とか。
 どうした、高校生の私。何があったんだ。
 それはさておき、本書「断絶の航海」の話である。
 1992年に米ソの局所的戦術核衝突が起こり、2015年には第三次世界大戦前夜の状況下にあった。しかし、核融合によるエネルギー問題解決と、経済成長がその圧力を押しとどめていた。2020年、北米宇宙開発機構と中国、日本を中心とする東亜共栄圏の同機構は共同で宇宙の避難所計画として、人間の遺伝子情報と人工知能ロボットをのせた無人船を発進させ、適当な惑星が発見されたら人間を創造し、人工知能ロボットが養育するプログラムを実施した。
 2021年には、北米、ヨーロッパが荒廃、ソヴィエト帝国が終焉する大殺戮が起こり、飢餓時代となる。アジアは、中国、インド、日本の東亜共栄圏が勢力を伸ばしていた。
 2040年、播種船から連絡が入り、アルファ・ケンタウリの惑星ケイロンに播種を開始したことが伝わる。そして、2050年代にかけて、新アメリカ、大ヨーロッパ、東亜連邦の3大超大国となり、それぞれが、ケイロンの支配権を主張し、宇宙開発に乗り出した。そして、新アメリカ、東亜連邦、大ヨーロッパの順に、恒星船をケイロンに向けてスタートさせたのである。
 2060年、新アメリカは、正規軍、特殊部隊をふくむ到着時3万人ともなる恒星移民船メイフラワー2世号を発進させた。そして、20年、9光年の旅を経て、2080年12月31日、惑星ケイロン軌道上に到着した。
 そのとき、ケイロン人は、ロボットに育てられた第一世代が30代後半から40歳ぐらい。約1万人、第二世代の10代後半以上で約3万人ともなっている。彼らは、メイフラワー2世号の指導部がいくら問いかけても、責任者も、指導者も、その社会体制も明らかにはされなかった。しかし、ケイロン人は彼ら地球人を快く受け入れるという。
 新アメリカは、後続の東亜連邦、大ヨーロッパの恒星船が来る前に、ケイロン人を制圧し、惑星を支配下に置くべく、硬軟両構えで、民間人の一部と軍の一部を惑星ケイロンに降ろした。
 しかし、ケイロン人の社会は、規律に満ちた新アメリカ人とはまるで違った社会となっていた。
 ここに、ケイロン人社会と、地球人社会の未来をかけた静かな戦いが開始された。
 いろいろ書いてあるけれども、「理想的共産主義社会」とでもいうようなのがケイロン社会である。通貨はない。エネルギーも、土地も、製品も無尽蔵に存在し、ロボットなどが労働の下支えをしている。人々は、指導体制や政治体制がないままに、自らの資質と興味に応じて、複数の仕事、芸術、文化、生活的行為を行う。「規制」という概念はなく、「他者の尊敬」のみが、ケイロン社会の価値観であり、規範である。ゆえに、そもそも他者の尊敬が得られないものは社会から消えるしかない。他者の尊厳を奪うものは殺されてもしかたがない、他者の尊敬という規範から逸脱した者は、他者とのコミュニケーションから離れ、引きこもるか、野生に出るしかない。でなければ、殺されるだけだ。しかし、その「他者の尊敬」という規範に応じて暮らす者は、自律、自主の豊かで文化的な生活を過ごしている。おべっかも、裏表も、本音と建て前も、命令も、服従も、義務や権利もない。純粋に、なすべきことを探し、なせばいいのである。
 これに、くらりと来て、「自立的」な要素を持つ者から、地球人はケイロン人に移っていく。
 翻訳者があとがきで書いていたが、「そんな社会が成立するわけがない」のである。
 それを、科学技術による社会的経済的制約条件の解決により成り立つ、あるいは、それに近い方向に行くはずだ、というのがホーガンの主張であり、理想であり、理念であり、本書「断絶への航海」は、それを素直に表現したものだ。
 もちろん、ホーガンはまったくの自由主義経済に生きる作家であり、その作品群を読む限り、社会主義や共産主義とは相反する思想信条を持っている。本書「断絶への航海」でも、ケイロン人社会を共産主義とは言っていないし、そういうものではないつもりで書いているようだ。しかし、素直に読み下せば、仮説的共産主義なんだと読めるが、どうなのだろう。
 ホーガンは、”嫉妬、不信、疑念など、人類史上その宿痾ともいうべき感情”(ハヤカワ文庫SF 11ページ)と、人間関係や因習に縛られた結果起こる人々の争い、社会の争いが引き起こす暗い現実に対して、科学技術の進歩によるあっけらかんとした明るい未来観を提示する。そのわくわく感はホーガン特有のおもしろさなのであろう。同時に、そのあっけらかんとした未来観には、20世紀前半の狂った時代に生まれた芸術運動の「未来派」に似たちょっと気持ちの悪い清潔さを感じてしまう。
(2006.2.25)

スカイラーク対デュケーヌ

スカイラーク対デュケーヌ
SKYLARK DUQUESNE
E・E・スミス
1965
 スカイラークシリーズの後、第二次世界大戦前、戦時中、戦後にかけて不朽の名シリーズ「レンズマン」を書き上げたドク・スミスは、その最後の仕事に、スカイラークシリーズ第4巻を選んだ。すでに、1960年代になり、スカイラークの設定は古くさくなっていた。もっとも、レンズマンでさえ、その設定は古くさいのだが、そういうのを黙らせてしまうのが、E・E・スミスとスペースオペラファンの力である。ドク・スミスは、最後に、スカイラークシリーズを書き、それまでの主人公シートンに対するヒーロー的愛を、デュケーヌに振り向ける。
 本書で、シートンとデュケーヌは、宇宙に広がる人類型知性の真の危機に対して一時的に手を結ぶが、そのたびにデュケーヌはシートンを裏切り続ける。
 それでも、デュケーヌを「悪」としては描かず、冷静に自らの利益を考え、その演繹として人類の危機に対処し、シートンとも手を結ぶことのある理解できる超人として描く。
 最後の最後に、デュケーヌは人類型知性を守るためにシートンに手を貸し、彼を救い、そして、銀河系をひとつ手に入れる。美しき知的なパートナーを得て、皇帝マーク1世の誕生を予感させて、本書は終わる。
 そこには、シートンやクラインの「かよわき」妻の姿はなく、冷徹なデュケーヌと対等に立つ女帝の姿がある。
 デュケーヌ、かっこいいじゃないの。
 そこに30年の「読者」の変化があるのだろう。そして、「読者」を忘れないドク・スミスの答えがあるのだろう。
 本書では、過去3巻に登場したあらゆる敵やキャラクターが登場する。また、レンズマンシリーズの後半に見られた「現在の科学では解明できない人間の精神的能力」が魔法のように登場し、物語を盛り上げる。
 本書を発表し、19世紀の1890年に生まれた稀代のSF作家、スペースオペラの大家は、75年の生涯を終え、「エーテル」と、相対論を無視した時間軸の時代は幕を降ろすのである。
(2006.2.19)

ヴァレロンのスカイラーク

ヴァレロンのスカイラーク
SKYLARK OF VALERON
E・E・スミス
1935
 スカイラークシリーズ第三弾は、ヒトラーが台頭し、スターリンが台頭するなかで発表された。アメリカは、ルーズヴェルト大統領のニュー・ディール政策の時代である。
 さて、前作ではすっかり影をひそめていたデュケーヌ博士が帰ってきた。スカイラーク3号がフェナクローン人を絶滅させる間に、彼は、フェナクローンの宇宙戦艦を奪い、その後、ノラルミン人をだまして、スカイラーク3号と同型の宇宙船をせしめる。その船を使って地球に帰り、地球で無血革命を起こし、地球の領主となった。
 一方、スカイラーク3号は、フェナクローン人最後の宇宙戦艦を破壊し、地球を含む第一銀河系から遙か遠くの銀河間宇宙空間を旅していた。そこで、シートンはかつて純粋知性体に遭遇したことを思い出し、第六次光線の可能性から彼らの危険性を知る。純粋知性体はスカイラーク3号に攻撃をしかけ、その結果、スカイラーク3号は破壊され、シートン達は中につまれていたスカイラーク2号をスピンさせて四次元世界にはいることで命からがら逃げ出す。
 四次元空間で、四次元人達とのコミュニケーションに失敗し、なんとか通常宇宙に戻ったスカイラーク2号とシートン達だが、宇宙で迷子になる。
 そこで、シートンは、手近な惑星系でスカイラーク3号の再建を考えるが、出会った人類の居住する惑星ヴァレロンは、塩素系のアメーバ異星人クローラ人に支配されていた。シートンは、その多くの惑星の人類型知性体の頭脳が統合された精神力と物理的な純粋力によってクローラ人を圧倒し、ヴァレロン人を解放する。そして、ヴァレロンのもともと優れた科学力を活用し、人工知能ともいうべき「頭脳」をそなえた、スカイラーク3号よりも大きくひとつの小惑星ほどの新しいスカイラーク号「ヴァレロンのスカイラーク」を完成させる。
 緑色太陽系人達は、シートンの宿敵デュケーヌ博士に力を与え、地球圏が彼の支配となったことに怒り、シートン不在の中でデュケーヌ征伐に乗り出すが、デュケーヌの鉄壁の守りにより敗北してしまう。
 そこに、「大宇宙空間のすべての宇宙の、すべての銀河の、すべての太陽の物質を崩壊させることによって解放される動力を用いて駆動されている」ヴァレロンのスカイラークと頭脳が帰ってくる。
 ヴァレロンのスカイラークと頭脳は、潜在的に脅威となる純粋知性体を捕捉し、ついでに、地球のデュケーヌも捕捉、彼を非物質化して純粋知性体に変え、時間を静止させて遠い宇宙の果て、「超宇宙の、大宇宙すべてをこめての、究極的に無限の言語に絶した広大無辺の彼方」へ送り込んだのであった。
 地球に平和が訪れ、シートン夫妻は安心して二世づくりに励むのであった。めでたしめでたし。
 これほどまでに、大宇宙の、超がついて、無限大の、言葉にはできない、荘厳な、形容詞の多い、作品はないのであろうか。シートンの活躍を大宇宙規模にみせるための言葉の羅列が、ちょっと、今となっては、つらいなあ。
 これにて、スカイラークシリーズは終わり、レンズマンシリーズがE・E・スミスの中心、スペースオペラの中心に移っていくのである。
(2006.2.19)

スカイラーク3号

スカイラーク3号
SKYLARK THREE
E・E・スミス
1930
1930年にアメリカで発表されたスカイラークシリーズ第2弾。アメリカは世界恐慌の引き金となる大暴落を前年に招いていた。そして、現実の世界は第二次世界大戦に向かってゆっくり、ゆっくり進んでいた。科学界は、アインシュタインの相対性理論、ハイゼンベルグの量子力学、シュレディンガーの波動理論など、その後の世界をゆるがす発見や理論が発表されていた。
 アメリカは、いや、世界はいまだ男尊女卑であり、正義は力であり、平和であった。
 前作で完成したスカイラーク2号を使って再び緑色太陽系に向かうシートン夫婦、クライン夫婦の一行。途中、宇宙制覇を狙う人類型異星人のフェナクローン人と遭遇。その恐るべき企みと兵器を知り、シートンは、彼を大君主と仰ぐオスノーム人とウルヴァニア人との間の惑星間戦争を調停し、海惑星のダゾール人、知的な老成種族のノラルミン人を巻き込み、それまでのエーテル中を伝播する第四次光線ではなく、エーテルに依存しない第五次光線の操作装置を開発。さらに、彼らの手を借り、超巨大なスカイラーク3号を完成させた。そして、緑色惑星の政治指導者達とシートンとの「平和会議」で、宇宙平和軍を組織した。フェナクローン帝国への宣戦布告が行われ、そして一方的な惑星系壊滅戦がはじまった。
 フェナクローンの惑星は完全に破壊され、フェナクローンの「延期党」と呼ばれる、宇宙征服の準備を慎重にすべきだという勢力の宇宙船だけが逃げ出した。シートン一行とスカイラーク3号は、彼らを宇宙の果てまで追いかける。そして、20万光年先の手地と星間戦争を行い、ついにはフェナクローン人を絶滅に追いやった。
 宇宙征服の陰謀は潰え、宇宙平和軍により宇宙の平和は保たれたのだ。
 悪はひとりも残すべからず、である。
 さて、この巻では、シートンの宿敵デュケーヌ博士はあまり華々しくなく、シートンの自動尾行から逃げ出し、オスノームの宇宙船を盗み、フェナクローン人を捕虜にして姿を消してしまう。
 たったひとりの悪役よりも、宇宙の平和なのであった…。
(2006.2.19)

宇宙のスカイラーク

宇宙のスカイラーク
THE SKYLARK OF SPACE
E・E・スミス
1928
 人類がついに太陽系を越えた記念すべき作品が、E・E・スミスの処女作「宇宙のスカイラーク」である。物理化学者リチャード・シートンがプラチナの精製廃溶液から発見した未知の金属Xは、世界の物理学とすべての産業や世界のあり方を変えるものであった。
特殊な機械の場の影響を受けた状態の銅と未知の金属Xが接触すると、Xを触媒として銅が100%エネルギーに転換するのである。熱なし。放射能なし。残留物なし。クリーンで史上最強のエネルギー源である。
 リチャード・シートンは親友の大金持ちでロケット研究家、技術者のレイノルズ・クレインの発案で会社を設立、宇宙船を建造する。シートンの婚約者ドロシーは、この宇宙船にスカイラークと命名。建造は順調に進んだ。
 しかし、シートンの元同僚でぬけめのない冷徹な研究者マーク・デュケーヌが、シートンの発見を察知、かねてからつるんでいた悪徳鉄鋼企業の支店長らと共謀してシートンを殺害し、金属Xと研究ノート類を奪おうとする。
 シートン殺害は失敗したものの、金属Xの一部と研究ノート類を奪い取ったデュケーヌは、スカイラーク号と同じ宇宙船を建造し、ドロシーらを誘拐したのだった。
 愛する婚約者を奪われ、デュケーヌの乗った宇宙船を追いかけようとするシートン。しかし、スカイラーク号の完成は遅れた。一方、デュケーヌやドロシーらが乗った宇宙船もまた、事故を起こし、光速をはるかに超える加速度で太陽系を超えて暴走し、死んだ太陽の重力の井戸に落ち込んでしまう。
 スカイラーク号は、その危機を乗り越え、ドロシーと、もうひとりのとらわれの美女マーガレットを救出し、デュケーヌをとらえる。
 しかし地球に帰るための銅はつきてしまった。銅を求めて宇宙をさまよい、降り立った惑星で、スカイラーク号一行は人類型異星人同士の争いに巻き込まれてしまう。
 スカイラーク号は、それまでの鉄鋼からこの惑星で作られる鉄よりも強度の高いアレナックに装甲を付け替え、この争いに加わったのだった。
 そんな話である。もちろん、みな地球に戻り、ドロシーとシートンは結ばれ、クレインは美女マーガレットと恋に落ちる。そして、デュケーヌは地球で逃亡する。次への予感を残して。
 解説によると、本書「宇宙のスカイラーク」は1920年にはほぼ完成し、8年後にようやくアメージング誌に売れ、掲載と同時に爆発的ヒットとなったようだ。本シリーズは、E・E・スミスの処女作であり、4作品が書かれている。そして、第4作は遺作でもある。
 レンズマンシリーズと並んで、スペースオペラ不朽の名作といえよう。
 もちろん、今読めば、いや、約30年前に初めて読んだときであっても、「それはないよなあ」というシーンはいくらでもある。40Gがかかっているのに死なないとか、塩がまれな呼吸可能な惑星で人類型異星人がいるとか…。でも、30年ほど前、はじめて本書「宇宙のスカイラーク」に接した私は、12歳ということもあったがそんなことにはちっとも気づかなかった。ただわくわくと大宇宙を旅していたのだった。
 奥付を見ると、1967年が初版で、私は1977年1月の第23版を買っている。当時260円。親に頼んで、田舎の本屋に4冊揃ってとりよせてもらったのだ。本屋さんが、ほかの本と一緒にこのシリーズをわざわざ家まで届けてくれた日のことは忘れない。
 まだ、「すかいらーく」という名のファミリーレストランの存在すら知らなかったころ、スカイラークといえば、雲雀(ひばり)という時代のことである…。
ところで、本書を歴史的にみれば、すでにサイクロトロンへの言及がある。しかし、まだ現実には着想段階だったのだ。今読めば荒唐無稽な話ばかりだが、1928年以前の着想であることを忘れるわけにはいくまい。
(2006.02.07)

ロシュワールド

ロシュワールド
THE FLIGHT OF THE DRAGONFLY
ロバート・L・フォワード
1984
 6光年先のバーナード星系で二重惑星が発見された。無人探査機が1998年に出され、2022年には報告が戻ってきた。2026年、16人の科学者、パイロットらがレーザーによる恒星船プロメテウス号で40年の航海に出る。それは片道切符であり、成功すれば2076年の大アメリカ300年祭には調査報告が届くことだろう。
 プロメテウス号は、それ自身が半知性をもつ人工知能が搭載され、クリスマスブッシュという分離稼働可能なロボット、および、各搭乗者にひとつずつ割り当てられた通信/補助ロボット・インプ、無人探査船、その他が連携し、自律しながら探査を支援していた。
 無事、バーナード星系に到着したプロメテウス号は、いくつかの惑星を調査し、本命のひとつ二重惑星ロシュワールドにおもむく。そこは、ロシュの限界ぎりぎりのところで相互に影響を与えながら公転する二重惑星である。ここに有人の探査船ドラゴンフライ号が着陸し、調査をはじめる。そこには、単細胞の巨大な知的生命体が、人類とは異なる世界観を持ち、数学的哲学的考証と、ロシュワールドの過激な海でのサーフィンを楽しんでいた。彼らとの接触、交流が今はじまった。
 本書「ロシュワールド」は、内容だけ抜き出すと、人類とは大きく異なる異星知的生命体との接触の物語である。異星知的生命体は、まったく人類とは世界観を異なっているのにかかわらず、人類とコミュニケーションできた。それは、もちろん、人類の手になる人工知性体のおかげである。もうひとつ、本書のテーマは、異星に行く、である。太陽系を超え、片道切符だが、実現可能な方法で6光年を旅し、研究する、夢を果たす。
 それだけならば、短編や中編でも十分な気がするが、作者ロバート・L・フォワードにとっては違う。彼は、どうやって恒星を旅するのか、ロシュワールドが存在した場合、その惑星はどうなるのかを描きたかったのだ。ハードSFの申し子であり、科学者であるフォワードにとって、SFは無限の空想の世界ではなく、ひとつの科学仮説を前提にした物語なのだ。そして、フォワードは物語よりも世界を書きたいのだ。
 だから、16人の片道切符となった登場人物が、なんのトラブルも起こさずに40年間過ごすのをおだやかな気持ちで見ておこう。だから、地球圏の政治経済状況に変化が起こり、一時は、プロメテウス号に関心をなくしたためその推進機関である太陽光を集積してレーザーとして送る装置の拡張が予定通り進まず、プロメテウス号が宇宙の迷い子になりかねない危機を描いているのに、それほど緊迫感がないのも、おだやかな気持ちで読み進めよう。不定型な異星生命体のコミュニケーションのありようについてもあまり深く突っ込まないでおこう。
 宇宙海兵隊の訓練の場で、隊員をののしる言葉として「BASICプログラムの申し子」というのも、1984年という時代が語らせているのであろう。
 ま、いいや。
 本書「ロシュワールド」は出版された翌年の1985年夏には邦訳されている。私がはじめて読んだのはおそらく1986年のことで、チャレンジャー号爆発、チェルノブイリ原発事故に象徴される年である。日本ではパソコンといえばPC-9801の時代で、MS-DOSの「DOSってなんだ??」ってな時代である。メディアにテープや5インチフロッピーを使っていたのだ。ようやく3.5インチフロッピーが普及しはじめた頃である。新聞には、人工知能やシステム工学の文字が躍り、ソフト会社が次々に生まれ、大学卒をシステムエンジニアとして大量雇用していた時代である。時代感覚には合っていた作品なのだろう。
 さて、2006年、約20年ぶりに読み返したのだが、何を感じたかと言えば、昨年から放映しているテレビアニメ「交響詩編エウレカセブン」で、不定形の知的生命体が登場しているなあとか、大気中の波であるトラパー波でサーフィンしているなあとか、そういうぼんやりとした思い出しであった。いや別に「エウレカセブン」と類似点があるというわけではなく、波乗りを通して、世界と共感し、つながり、かつ、数学的哲学的思考を得るというのは素敵なことだなあと思った次第である。
(2006.02.07)

重力の使命

重力の使命
MISSION OF GRAVITY
ハル・クレメント
1954
 人類が宇宙に出てはるか先、知的生命体とも接触し、チームを組んで様々な星を探検・調査していた。今、惑星メスクリンで調査隊は窮地に陥っていた。極地付近に着陸した無人探査船が行方不明になり、貴重な機材とデータが得られないのだ。そこで、調査隊は、惑星メスクリンに住む未開の知的生命体と接触した。メスクリン人の貿易船ブリー号の船長バーレナンは商売半分、好奇心半分からこの契約を受け入れ、冒険がはじまった。
 惑星メスクリン、それは、メタンの海、水素とメタンの大気をもち、公転周期1800日、自転周期17分と4分の3、赤道付近の重力は3G、極地付近ともなると700G、表面気温-50度~-180度の超重力の世界である。メスクリン人は、体長15インチ(約40センチ)、ムカデのような生物である。
 人類は、この惑星で自由な行動はできず、特別なとき以外は、人類がバーレナンに託したビジョン・セットと呼ばれるテレビ無線機でメスクリン人と情報を交換し、指示するだけである。
 早々に英語を覚え、人類らの科学や知識、道具の秘密を知りたくてたまらないのに、そんなそぶりをみじんも見せず、人類の友だちとしてふるまうユーモアたっぷりの商売人バーレナン船長と、船長よりも頭がよく、知的で無骨な一等航海士ドンドラグマーが、貿易船ブリー号とクルーを率い、彼らが行ったこともない赤道から極地までの長い旅に出る。
 人類が次々に繰り出す「科学」の魔法、そして、バーレナン達でさえ見たことも聞いたこともない生物、気象、別のメスクリン人たちとの出会いと冒険の末、彼らは700Gの世界にたどりつくのだった。
 本書「重力の使命」は、ハル・クレメントが、アイザック・アジモフ(アシモフ)と議論をして生みだした超重力惑星とその生命体の物語であり、ハードSFの傑作として今も評価が高い。メタンと水素に関わるエピソードも多いが、やはり特異な生物を通して、特異な惑星と重力の影響について一般の読者にもおもしろく読ませるあたりが評価される所以だろう。
 中性子星上の生命を描いたハードSF「竜の卵」(1980 ロバート・L・フォワード)は、「重力の使命」の中性子星版として評されたが、この例が示すようにSFのスタンダードとして今も本書「重力の使命」はSF界に燦然と輝いているのだ。
 ハル・クレメントは、「二十億の針」の寄生生命体とものと合わせてふたつの名作をものにしている。寡作であり、日本でもあまり翻訳されていないが、本書もまた必読の古典SFとして挙げておきたい作品だ。
(2006.1.31)