スカイラーク3号

スカイラーク3号
SKYLARK THREE
E・E・スミス
1930
1930年にアメリカで発表されたスカイラークシリーズ第2弾。アメリカは世界恐慌の引き金となる大暴落を前年に招いていた。そして、現実の世界は第二次世界大戦に向かってゆっくり、ゆっくり進んでいた。科学界は、アインシュタインの相対性理論、ハイゼンベルグの量子力学、シュレディンガーの波動理論など、その後の世界をゆるがす発見や理論が発表されていた。
 アメリカは、いや、世界はいまだ男尊女卑であり、正義は力であり、平和であった。
 前作で完成したスカイラーク2号を使って再び緑色太陽系に向かうシートン夫婦、クライン夫婦の一行。途中、宇宙制覇を狙う人類型異星人のフェナクローン人と遭遇。その恐るべき企みと兵器を知り、シートンは、彼を大君主と仰ぐオスノーム人とウルヴァニア人との間の惑星間戦争を調停し、海惑星のダゾール人、知的な老成種族のノラルミン人を巻き込み、それまでのエーテル中を伝播する第四次光線ではなく、エーテルに依存しない第五次光線の操作装置を開発。さらに、彼らの手を借り、超巨大なスカイラーク3号を完成させた。そして、緑色惑星の政治指導者達とシートンとの「平和会議」で、宇宙平和軍を組織した。フェナクローン帝国への宣戦布告が行われ、そして一方的な惑星系壊滅戦がはじまった。
 フェナクローンの惑星は完全に破壊され、フェナクローンの「延期党」と呼ばれる、宇宙征服の準備を慎重にすべきだという勢力の宇宙船だけが逃げ出した。シートン一行とスカイラーク3号は、彼らを宇宙の果てまで追いかける。そして、20万光年先の手地と星間戦争を行い、ついにはフェナクローン人を絶滅に追いやった。
 宇宙征服の陰謀は潰え、宇宙平和軍により宇宙の平和は保たれたのだ。
 悪はひとりも残すべからず、である。
 さて、この巻では、シートンの宿敵デュケーヌ博士はあまり華々しくなく、シートンの自動尾行から逃げ出し、オスノームの宇宙船を盗み、フェナクローン人を捕虜にして姿を消してしまう。
 たったひとりの悪役よりも、宇宙の平和なのであった…。
(2006.2.19)

宇宙のスカイラーク

宇宙のスカイラーク
THE SKYLARK OF SPACE
E・E・スミス
1928
 人類がついに太陽系を越えた記念すべき作品が、E・E・スミスの処女作「宇宙のスカイラーク」である。物理化学者リチャード・シートンがプラチナの精製廃溶液から発見した未知の金属Xは、世界の物理学とすべての産業や世界のあり方を変えるものであった。
特殊な機械の場の影響を受けた状態の銅と未知の金属Xが接触すると、Xを触媒として銅が100%エネルギーに転換するのである。熱なし。放射能なし。残留物なし。クリーンで史上最強のエネルギー源である。
 リチャード・シートンは親友の大金持ちでロケット研究家、技術者のレイノルズ・クレインの発案で会社を設立、宇宙船を建造する。シートンの婚約者ドロシーは、この宇宙船にスカイラークと命名。建造は順調に進んだ。
 しかし、シートンの元同僚でぬけめのない冷徹な研究者マーク・デュケーヌが、シートンの発見を察知、かねてからつるんでいた悪徳鉄鋼企業の支店長らと共謀してシートンを殺害し、金属Xと研究ノート類を奪おうとする。
 シートン殺害は失敗したものの、金属Xの一部と研究ノート類を奪い取ったデュケーヌは、スカイラーク号と同じ宇宙船を建造し、ドロシーらを誘拐したのだった。
 愛する婚約者を奪われ、デュケーヌの乗った宇宙船を追いかけようとするシートン。しかし、スカイラーク号の完成は遅れた。一方、デュケーヌやドロシーらが乗った宇宙船もまた、事故を起こし、光速をはるかに超える加速度で太陽系を超えて暴走し、死んだ太陽の重力の井戸に落ち込んでしまう。
 スカイラーク号は、その危機を乗り越え、ドロシーと、もうひとりのとらわれの美女マーガレットを救出し、デュケーヌをとらえる。
 しかし地球に帰るための銅はつきてしまった。銅を求めて宇宙をさまよい、降り立った惑星で、スカイラーク号一行は人類型異星人同士の争いに巻き込まれてしまう。
 スカイラーク号は、それまでの鉄鋼からこの惑星で作られる鉄よりも強度の高いアレナックに装甲を付け替え、この争いに加わったのだった。
 そんな話である。もちろん、みな地球に戻り、ドロシーとシートンは結ばれ、クレインは美女マーガレットと恋に落ちる。そして、デュケーヌは地球で逃亡する。次への予感を残して。
 解説によると、本書「宇宙のスカイラーク」は1920年にはほぼ完成し、8年後にようやくアメージング誌に売れ、掲載と同時に爆発的ヒットとなったようだ。本シリーズは、E・E・スミスの処女作であり、4作品が書かれている。そして、第4作は遺作でもある。
 レンズマンシリーズと並んで、スペースオペラ不朽の名作といえよう。
 もちろん、今読めば、いや、約30年前に初めて読んだときであっても、「それはないよなあ」というシーンはいくらでもある。40Gがかかっているのに死なないとか、塩がまれな呼吸可能な惑星で人類型異星人がいるとか…。でも、30年ほど前、はじめて本書「宇宙のスカイラーク」に接した私は、12歳ということもあったがそんなことにはちっとも気づかなかった。ただわくわくと大宇宙を旅していたのだった。
 奥付を見ると、1967年が初版で、私は1977年1月の第23版を買っている。当時260円。親に頼んで、田舎の本屋に4冊揃ってとりよせてもらったのだ。本屋さんが、ほかの本と一緒にこのシリーズをわざわざ家まで届けてくれた日のことは忘れない。
 まだ、「すかいらーく」という名のファミリーレストランの存在すら知らなかったころ、スカイラークといえば、雲雀(ひばり)という時代のことである…。
ところで、本書を歴史的にみれば、すでにサイクロトロンへの言及がある。しかし、まだ現実には着想段階だったのだ。今読めば荒唐無稽な話ばかりだが、1928年以前の着想であることを忘れるわけにはいくまい。
(2006.02.07)

ロシュワールド

ロシュワールド
THE FLIGHT OF THE DRAGONFLY
ロバート・L・フォワード
1984
 6光年先のバーナード星系で二重惑星が発見された。無人探査機が1998年に出され、2022年には報告が戻ってきた。2026年、16人の科学者、パイロットらがレーザーによる恒星船プロメテウス号で40年の航海に出る。それは片道切符であり、成功すれば2076年の大アメリカ300年祭には調査報告が届くことだろう。
 プロメテウス号は、それ自身が半知性をもつ人工知能が搭載され、クリスマスブッシュという分離稼働可能なロボット、および、各搭乗者にひとつずつ割り当てられた通信/補助ロボット・インプ、無人探査船、その他が連携し、自律しながら探査を支援していた。
 無事、バーナード星系に到着したプロメテウス号は、いくつかの惑星を調査し、本命のひとつ二重惑星ロシュワールドにおもむく。そこは、ロシュの限界ぎりぎりのところで相互に影響を与えながら公転する二重惑星である。ここに有人の探査船ドラゴンフライ号が着陸し、調査をはじめる。そこには、単細胞の巨大な知的生命体が、人類とは異なる世界観を持ち、数学的哲学的考証と、ロシュワールドの過激な海でのサーフィンを楽しんでいた。彼らとの接触、交流が今はじまった。
 本書「ロシュワールド」は、内容だけ抜き出すと、人類とは大きく異なる異星知的生命体との接触の物語である。異星知的生命体は、まったく人類とは世界観を異なっているのにかかわらず、人類とコミュニケーションできた。それは、もちろん、人類の手になる人工知性体のおかげである。もうひとつ、本書のテーマは、異星に行く、である。太陽系を超え、片道切符だが、実現可能な方法で6光年を旅し、研究する、夢を果たす。
 それだけならば、短編や中編でも十分な気がするが、作者ロバート・L・フォワードにとっては違う。彼は、どうやって恒星を旅するのか、ロシュワールドが存在した場合、その惑星はどうなるのかを描きたかったのだ。ハードSFの申し子であり、科学者であるフォワードにとって、SFは無限の空想の世界ではなく、ひとつの科学仮説を前提にした物語なのだ。そして、フォワードは物語よりも世界を書きたいのだ。
 だから、16人の片道切符となった登場人物が、なんのトラブルも起こさずに40年間過ごすのをおだやかな気持ちで見ておこう。だから、地球圏の政治経済状況に変化が起こり、一時は、プロメテウス号に関心をなくしたためその推進機関である太陽光を集積してレーザーとして送る装置の拡張が予定通り進まず、プロメテウス号が宇宙の迷い子になりかねない危機を描いているのに、それほど緊迫感がないのも、おだやかな気持ちで読み進めよう。不定型な異星生命体のコミュニケーションのありようについてもあまり深く突っ込まないでおこう。
 宇宙海兵隊の訓練の場で、隊員をののしる言葉として「BASICプログラムの申し子」というのも、1984年という時代が語らせているのであろう。
 ま、いいや。
 本書「ロシュワールド」は出版された翌年の1985年夏には邦訳されている。私がはじめて読んだのはおそらく1986年のことで、チャレンジャー号爆発、チェルノブイリ原発事故に象徴される年である。日本ではパソコンといえばPC-9801の時代で、MS-DOSの「DOSってなんだ??」ってな時代である。メディアにテープや5インチフロッピーを使っていたのだ。ようやく3.5インチフロッピーが普及しはじめた頃である。新聞には、人工知能やシステム工学の文字が躍り、ソフト会社が次々に生まれ、大学卒をシステムエンジニアとして大量雇用していた時代である。時代感覚には合っていた作品なのだろう。
 さて、2006年、約20年ぶりに読み返したのだが、何を感じたかと言えば、昨年から放映しているテレビアニメ「交響詩編エウレカセブン」で、不定形の知的生命体が登場しているなあとか、大気中の波であるトラパー波でサーフィンしているなあとか、そういうぼんやりとした思い出しであった。いや別に「エウレカセブン」と類似点があるというわけではなく、波乗りを通して、世界と共感し、つながり、かつ、数学的哲学的思考を得るというのは素敵なことだなあと思った次第である。
(2006.02.07)

重力の使命

重力の使命
MISSION OF GRAVITY
ハル・クレメント
1954
 人類が宇宙に出てはるか先、知的生命体とも接触し、チームを組んで様々な星を探検・調査していた。今、惑星メスクリンで調査隊は窮地に陥っていた。極地付近に着陸した無人探査船が行方不明になり、貴重な機材とデータが得られないのだ。そこで、調査隊は、惑星メスクリンに住む未開の知的生命体と接触した。メスクリン人の貿易船ブリー号の船長バーレナンは商売半分、好奇心半分からこの契約を受け入れ、冒険がはじまった。
 惑星メスクリン、それは、メタンの海、水素とメタンの大気をもち、公転周期1800日、自転周期17分と4分の3、赤道付近の重力は3G、極地付近ともなると700G、表面気温-50度~-180度の超重力の世界である。メスクリン人は、体長15インチ(約40センチ)、ムカデのような生物である。
 人類は、この惑星で自由な行動はできず、特別なとき以外は、人類がバーレナンに託したビジョン・セットと呼ばれるテレビ無線機でメスクリン人と情報を交換し、指示するだけである。
 早々に英語を覚え、人類らの科学や知識、道具の秘密を知りたくてたまらないのに、そんなそぶりをみじんも見せず、人類の友だちとしてふるまうユーモアたっぷりの商売人バーレナン船長と、船長よりも頭がよく、知的で無骨な一等航海士ドンドラグマーが、貿易船ブリー号とクルーを率い、彼らが行ったこともない赤道から極地までの長い旅に出る。
 人類が次々に繰り出す「科学」の魔法、そして、バーレナン達でさえ見たことも聞いたこともない生物、気象、別のメスクリン人たちとの出会いと冒険の末、彼らは700Gの世界にたどりつくのだった。
 本書「重力の使命」は、ハル・クレメントが、アイザック・アジモフ(アシモフ)と議論をして生みだした超重力惑星とその生命体の物語であり、ハードSFの傑作として今も評価が高い。メタンと水素に関わるエピソードも多いが、やはり特異な生物を通して、特異な惑星と重力の影響について一般の読者にもおもしろく読ませるあたりが評価される所以だろう。
 中性子星上の生命を描いたハードSF「竜の卵」(1980 ロバート・L・フォワード)は、「重力の使命」の中性子星版として評されたが、この例が示すようにSFのスタンダードとして今も本書「重力の使命」はSF界に燦然と輝いているのだ。
 ハル・クレメントは、「二十億の針」の寄生生命体とものと合わせてふたつの名作をものにしている。寡作であり、日本でもあまり翻訳されていないが、本書もまた必読の古典SFとして挙げておきたい作品だ。
(2006.1.31)

竜の卵

竜の卵
DRAGON’S EGG
ロバート・L・フォワード
1980
 SFにくくられる作品群の中には、分かりにくい科学的な知識や発見、理論を物語に変えることで分かりやすく伝えるという分類ができる作品がある。
 本書「竜の卵」は、まさしく、科学的な理論を読者にできるかぎり分かりやすく、感覚的につかみやすくするために考え出された作品である。
 重力理論の科学者として、中性子星上に生命ができる環境を設定し、その進化と挙動を通じて、重力、時間、物質のふるまいのおもしろさを理解させてくれる。もちろん、小説だけでなく、著者による科学的解説「専門的補遺」も巻末に添えられており、単なる科学解説だけでなくお遊びを入れながら科学的な知識を得させようとしている。この中には、「ノーベル賞、ピューリッツァ賞、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、メビウス賞を同一年内(2053年)に獲得した唯一の書物」についての言及もある。そいつはすごい。
 もちろん、本書「竜の卵」がただの科学解説物語と違うのは、作者ロバート・L・フォワードが、科学者であると同時にアメリカSF界を支えてきた積極的ファンであったということだ。作品冒頭の感謝分の中には、ラリー・ニーヴンの名前があり、「彼らに何をさせるかを考えた」とある。そう、ニーブンらしい異星知性生命体が登場する。
 紀元前50万年前、50光年先の連星が超新星となった。その影響で直径20kmの中性子星が太陽系方向にはじきとばされた。そして、50年後、地球に超新星の光が届き、地球の気候も変動し、人類の進化がはじまった。中性子星は、50万年かけて太陽系に近づきつつあった。西暦2000年には、670億G、自転速度毎秒5回の中性子星は、太陽の0.1光年まで近づき、まもなく通り過ぎようとしていた。そして、その星の表面では、液体中性子の中心核の上に中性子に富む原子核の結晶格子地殻ができ、鉄の蒸気の大気の中で原子核化合物による生命が誕生し、知的生命体へと進化をはじめていた。彼らは、人類と比べ100万倍の相対的時間で生き、進化し続けていた。
 そこに人類の探査船が近づき、人類は中性子星の上の知的生命体チーラに接触し、大いなる変化が始まった。
 本書は2020年4月23日にはじまり、2050年6月21日に終わる異星知性生命体との接近遭遇物語である。実際の接触は2050年6月14日に、チーラが天界の変化に気がつき宗教的変化を起こし、6月20日の人類によるレーザー探査がチーラの宗教に新たな変化をもたらし、それにより人類が中性子星上の変異に気がつき、パターン信号を送り、それにチーラが答えたことで人類とチーラとの接触がはじまる。それは、人類にとってはわずか24時間の接触だが、人類より100万倍の時間的早さで生きるチーラにとっては数千年、数万年に相当する期間であり、まばたきする間に、チーラは進化し、進化し、進化するのだ。人類から送信された人類の科学、歴史、文化の情報を飲み込みながら、彼らは、中性子星人としての存在と視点から進化する。そして、人類よりも遠くへと進んでいく。
 その人類との接触による進化の動きは読むものに軽い時間的めまいを与え、それが感動につながる。
 悪い言い方をすれば、きわめて人類的な知的生命体であったり、ちょうど人類と接触する頃に、科学的進化の時期をチーラが迎えるなどご都合主義の鏡のような作品である。
 異星生命とのコミュニケーションのありようについて真剣に考え、作品化したスタニスワフ・レム(「ソラリスの陽のもとに」など)が読んだら、「まったくアメリカ人ってやつは」と言いそうなステレオタイプ異星人である。  しかし、まあ、だからこそ大衆文化としてのSFであり、大衆文化が生んだ中性子星人チーラは他にはない魅力ある存在なのだ。
(2006.1.27)

フェアリイ・ランド

フェアリイ・ランド
FAIRYLAND
ポール・J・マコーリイ
1995
 680ページにおよぶ豪華絢爛のSFであり、SFファン向けのファンタジーである。長すぎないか? ちょっと疲れた。
 本書「フェアリイ・ランド」は、1999年に早川書房の単行本として出版され、2006年に文庫化された。文庫版として私は初読である。
 90年代のキーワードをみごとに散りばめた作品は、舞台が21世紀前半のイギリス、ヨーロッパ。異常気象や大震災で混乱し、復興し、貧富の差が激しくなる世界が華々しいストーリーの舞台となっている。主人公は、デブで衣装センスのない遺伝子ハッカー・アレックス。登場時はまだ若くて血気盛んなのだが、だんだん年をとって丸くなり、狡猾にもなるのがなんともよい味を出している。
 登場するのは、ドール。どうやらヒヒから遺伝子改造してつくった人工生命。その脳にチップを入れて人間の命令を理解し、行動するようにできている。性はない。韓国のバイオテクノ企業が独占的に開発、供給している。
 中国系マフィアが、ドールに違法に性を与え、改造し、繁殖力をつけて、闘争用、性産業用などに使おうとする。その遺伝子ハックのために主人公のアレックスが使われる。性分化をすすめる人工ホルモンを開発させられるのだ。
 アレックスはかつて精神活性ウイルスを製造するチームにいて逮捕歴がある。彼はウェブに入り浸り、視覚系を混乱させ実在しないゴーストを見えるようにする精神活性RNAウイルスを開発して、ウェブや裏世界では名の知れた存在だった。まあ、今風にいうと「神」といったところだ。
 そこに登場するのは、ある企業が人工的に知性を向上させるプログラムで誕生し、唯一成功したミレーナという美少女。金属添加の超伝導球状炭素分子(バッキーボール)でナノロボット(フェムボット)をつくり、人工の細菌、ファージなどとして世界に放っている。そのあるものは精神活性ウイルスのように人に現実のような幻覚を見せ、そして、会社はそれらを駆逐するユニバーサル・ファージを売って利益を得ている。ユニバーサル・ファージが買えないものたちは、次第にさまざまなフェムボットに感染し、無理矢理に広告を、宗教を、思想を感染させられる。
 ミレーナの願いは、ドールの「解放」と、新たな存在の確立。人間を超えた知性体の世界だという。ミレーナは、ドールのチップを取り外し、人工ホルモンを与え、ドール用のフェムボットに感染させ、手術して「解放」する。それはフェアリイと呼ばれた。
 ミレーナはアレックスの前から姿を消し、アレックスはミレーナに何かを感染させられ、ミレーナを追い続ける。何年も、何十年も。その時の流れで世界は変わり、金を持った人々は完全環境計画都市群に暮らすようになり、都市とそれ以外の世界になりつつあった。
 そして、人類は有人火星探査船を送り、120億人の人類とそれ以外のものたちからなる世界は新たな予感を感じていた。
 世界は、ドールと、フェアリイたちが住むフェアリイランドと、完全環境計画都市群に住み、ウェブに依存する人類と、それ以外の人類、そして、さまざまなミームに感染した生命で成り立っていた。フェムボットや精神活性ウイルスにより宗教観や行動を植え付けられたものたちである。
 やがて、フェアリイランドからは新たなフェムが次々に生まれ、さらに異質な生命達が生まれ、ウェブは拡張し、大きな戦いと変化を迎えようとする。
 本書「フェアリイ・ランド」には、1990年代に予感されたあらゆる危険が詰め込まれている。遺伝子汚染、ミーム汚染、核燃料再処理施設事故、クロイツフェルト・ヤコブ病(狂牛病の人版)、大天変とよばれる異常気象により地中海地方に雨の降り続いた3年、アルバニアなどの大震災、環境難民、経済格差、スラム、飢餓…。
 その中で、主人公は変わった形であれ「愛」を追い求め、人と地球の生命のあり方は変わろうとする。
 それは、まるでトールキンの「指輪物語」の続編である。
「指輪物語」では、エルフやホビット、オークやトロール、狼男や鳥人が消え、人間の時代のはじまる「第三紀」の終わりを書いている。その最後にすべての種族による大きな悪との戦いがあった。
 本書「フェアリイ・ランド」では、人間の時代の終わりを予感させ、多くの存在の登場と、新たな種族の時代の始まりを予感させる。それは「第四紀」の終わりの物語といってもいいかも知れない。そして、「指輪物語」と同様に、大いなる戦いをもって本書は終わる。
 そう読むと、本書の主人公デブで服装のセンスのないアレックスは、「指輪物語」におけるホビットのフロドの役割を担っているのかも知れない。
 本書「フェアリイ・ランド」については、テクノゴシックの大作として位置づけられ、火星探査と月探査の位置づけなどから60年代後半の世界との対比をされているようだが、イギリスのファンタジーの系譜からも注目してみてはいかがだろうか。
 もちろん、本作のタイトルが「フェアリイ・ランド」で「指輪物語」との関連があると思われるからと言っても、ファンタジーファンでSF嫌いの方に本作品はお薦めできない。
 なにぶんにも、生命科学技術、極微分子技術、情報科学技術に加え、近未来の気象学、社会学、地政学、経済学などの背景があって書かれている作品である。一筋縄ではいかないし、読み飛ばすには重すぎる、分厚すぎる。
 心して読んで欲しい。おもしろいけれど、ああ疲れた。
 ところで、主人公が汎用している「クールZ」って、ディックの「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」に登場する「チューZ」「キャンD」を思わせる。そういうSF的お遊びにもあふれている。
(2006.1.22)

ソラリスの陽のもとに

ソラリスの陽のもとに
SOLARIS
スタニスワフ・レム
1961
 スタニスワフ・レムの異質知的生命遭遇三部作「エデン」「ソラリス」「砂漠の惑星」のなかでももっとも知られ、読み続けられているのが本書「ソラリスの陽のもとに」である。ロシア人の映画監督アンドレイ・タルコスフスキーを西洋世界に広く知らしめたのも、本書を下敷きにしたSF映画「惑星ソラリス」(1972)であった。
 レムはポーランドの作家であり、ポーランドは過去数百年にわたって国家を喪失し、分裂し、支配され、奪われ、争い、弾圧され、現在にいたる国である。ヨーロッパと世界の歴史に翻弄され続けた国であり、レムが活躍し、本書「ソラリスの陽のもとに」が書かれた時期はソヴィエトの指導下にあった東欧諸国のひとつである。
 まず、はじめに、映画「惑星ソラリス」とタルコフスキーについて触れておきたい。
 本書「ソラリスの陽のもとに」は、ロシア語に訳され、おそらくそれがロシアに住むロシア人のアンドレイ・タルコスフスキーの目にとまったのであろう。1972年に「惑星ソラリス」を公開し、世界的なヒット作となった。その後、タルコフスキーは「鏡」を経て、A&B・ストルガツキーのSF「ストーカー」を題材に「ストーカー」をつくり、「ノスタルジア」でソ連、イタリア、フランスの合作、その後亡命し「サクリファイス」を作成、そして死去した。タルコフスキーは、ソヴィエトのロシア人でありながら、その内にいたときから常に「疎外」「喪失」をテーマにし続けていた。
 この映画と原作であるレムの小説との間に、深い関連はない。なぜならば、タルコフスキーは独自の解釈としてこの映画をつくったのであり、それはレムが思う「ソラリス」ではなく、SFと言えるものでもなかった。また、タルコフスキー自身がこの映画を失敗作とみなしているようである。
 それでも、この映画の映像は美しく、また、ソラリスを幻想的に見せ、映画中で使われているバッハのBWV639「我汝に呼ばわる、主キリストよ」とあいまって深い印象を与えている。
 タルコフスキー自身の解釈や解説がいかなるものであれ、タルコフスキー自身の生涯とその後の映画作品を見れば、「惑星ソラリス」の中にも、「失われたもの」「伝わらないこと」への時空を超えた思いを感じとることができる。
 次に、冷戦時の小咄をひとつ。アメリカとソヴィエトの冷戦時、月のあとに宇宙開発をするならばアメリカは火星を目指し、ソヴィエトは金星を目指すだろうと言われた。その理由に、ロシア人には内側へ内側へと向かう指向性があり、そもそも移民社会のアメリカ人には外へ外へと向かう指向性があるからだとされた。また、ソヴィエトは北極から地球儀をみると「敵」に国の周辺すべてをとりまかれているが、アメリカは開かれている。さらには、ソヴィエトでは精神科学が発展し、アメリカでは物質科学が発展しているとも言われた。
 地政学や科学の発展の歴史をみるとそうかなと思うところもあるが、ステレオタイプな分類による小咄だと受け取っておこう。しかし、そういう小咄がまことしやかに語られるのが冷戦時代だったのだ。
 現在は西側諸国に位置づけられるポーランドであるが、冒頭述べたように、その歴史は蹂躙と弾圧と反発の歴史であった。そして、冷戦下、ソヴィエトの事実上の支配下にあり、国家そのものが鬱屈していた頃に三部作は書かれている。  レムは、SFに政治的意図はないとするし、事実、それを離れたところで、本書や他の作品はSFとして高く評価されるべきだ。
 しかし、それでも、たとえば、本書「ソラリスの陽のもとに」の訳者あとがきで翻訳者の飯田規和氏が、本書のロシア語訳にはめずらしくレム自身が内容の解説とも言える「前書き」をつけていると、その全文を紹介しており、「ロシア語」版の「前書き」に説明を加えるあたりにSFを超えた「意図」を感じざるを得ない。
 その一部を引用しよう。
“その「未知のもの」との出会いは、人間に対して、一連の認識的、哲学的、心理的、倫理的性格の問題を提起するに違いない。その問題を、暴力によって、たとえば、未知の惑星を爆破するというような方法によって解決しようとすることは無意味である。それは単位現象の破壊であって、その「未知のもの」を理解しようとする努力の集中ではない。「未知のもの」に遭遇した人間は、かならずや、それを理解することに全力を傾けるであろう。場合によっては、そのことにはすぐには成功しないかも知れないし、さらに、場合によっては、多くの辛苦、犠牲、誤解、ことによって、敗北さえも必要とするかも知れない。しかし、それはすでに別の問題である。”
 としている。さて、本書「ソラリスの陽のもとに」ではどうだったのだろうか。
 本書「ソラリスの陽のもとに」は、惑星ソラリスが発見されて百数十年後のソラリス・ステーションを舞台にする。惑星ソラリスは、二重太陽を回る惑星で、発見当初は注目されなかったが、その後、惑星が自立的に軌道を安定させていることが発見され、それを何が行っているのかに注目が集まった。惑星ソラリスは海がほとんどをしめており、その性質を調べるうちに惑星ソラリスの海こそが軌道を安定させている存在であり、おそらく知的生命体であり、人間以上の高度な知性を有していることが仮説として挙げられた。惑星ソラリスは、様々な「形」を海に生み出し、それは単なる物理現象とは言えないからだ。しかし、ソラリスの海との意思の疎通はまったくできず、仮説もつきはて、惑星ソラリスの海に反重力的に浮かぶソラリス・ステーションには3人のスタッフが常住して研究を続けるのみだった。いま、心理学専門のクリス・ケルビン博士が新規スタッフとして、ソラリス・ステーションに到着した。しかし、出てくるはずの他のスタッフの姿はなく、補助をするアンドロイドの姿もない。所長は自殺し、ひとりはまったく部屋から出てこず、唯一なんとか正気に近いと思われるスナウト博士の様子もおかしい。そして、3人しかいないはずのソラリス・ステーションには、黒人の女の影や子どもの影がある。スナウトはケルビンに「やがて君にも分かる」と言う。
 そして、分かるときがやってきた。かつてクリス・ケルビンが冷たくして自殺してしまった恋人のハリーが、そのときの姿のままに実体をもってあらわれたのだ。
 それは、ソラリスの海がケルビンの脳を読み取って生みだした存在だった。ハリーは決してクリス・ケルビンから離れない。かつての罪の意識と、目の前のハリーの存在に動揺し、恐怖し、渇望し、混乱するケルビン。やがて、ハリーは自意識さえも持ちはじめた…。
 本書の中で、レムはコミュニケーションと認識について語る。そして、それは、「疎外」と「喪失」の裏返しでもある。コミュニケーションが成立しなければ、それが対象のせいであれ、主体(わたし)のせいであれ、どちらのせいでなかろうと、主体であるわたしにとっては「疎外」となる。そして、「喪失」は「疎外」そのものであり、「喪失」を認識することで主体は「疎外」される。
 もっとも深い心の傷が「疎外」を生み出すのだ。ソラリスの海を介して、ケルビンがハリーを得るように。
 現代において「疎外」は深刻な問題となっている。多くの人が、コミュニケーションする機会をもちながらもコミュニケーションができず、失っていない「喪失」を認識し、たえず「疎外」された主体だと感じている。それは、主体(わたし)が覚える勝手な「疎外」であるが、「疎外」に真実も仮想もない。
 不幸な時代である。私は、異質な私たちに取り囲まれ、「疎外」されているのだ。
 それは、レムがもっとも恐れていたできごとではなかろうか。
 そして、タルコフスキーが未来に感じていたことではなかろうか。
 ゆえに、レムとタルコフスキーが表裏一体のテーマを解釈していたと私は理解している。
 もちろん、そう深読みする必要はないのかも知れない。
 この作品は、他の2作品と同様に、真に異質なものとの関係性について語られたSFとして読めばいいのかも知れない。しかし、深読みしたいような気持ちになるのが、レムの、そして、タルコフスキーの作品群なのだ。
おまけ
 漫画家で、現在は作品の再版さえ断り続けている内田善美が「星の時計のリドル」の物語の終盤で、主人公のロシア帝国時代の貴族の孫である流浪のロシア系アメリカ人に「内なるロシアの発見」を美しく描いている。彼女もまた、作品の中で、コミュニケーションと認識、そして、疎外と喪失を追求し続ける作家である。すでに稀少な本であるが、機会があればぜひ手にして欲しい作品である。
おまけ2
 スティーヴン・ソダーバーグ版映画「ソラリス」(2002)はまだみていない。それから、 国書刊行会から2004年11月に「ソラリス」として、ポーランド語版(オリジナル)からの翻訳が出されている。これは読んでみたい。
(2006.1.22)

最後から二番目の真実

最後から二番目の真実
THE PENULTIMATE TRUTH
フィリップ・K・ディック
1964
 私は、フィリップ・K・ディックほど、首尾一貫した作家を知らない。彼は、ほぼすべての作品で同じテーマを扱い、同じことを主張しつづけた。
 世界はすぐに虚構となり、嘘の本当を語る者が権力者・支配者となる。その虚構は恐怖であり、私たちは虚構の中であえぎながら生きている。同時にそれを切り抜け、生き抜いてもきた。その力も持っている。
 パソコンが普及し、映画「マトリックス」のようなバーチャルリアリティを、エンターテイメントとしてあたりまえに受け入れることができるようになった21世紀初頭。ようやくディックが味わい続けてきた恐怖を私たちは理解することができるようになった。
 ディックは、1928年から1982年までの生涯を通じて、現実の虚構を身体で味わい、理解し、見続け、人々に伝えようとし続けてきた。それこそが彼の生きるための現実であったのかも知れない。
 本書「最後から二番目の真実」は1964年に出版され、日本ではサンリオSF文庫より1984年に翻訳発行されている。サンリオSFでの11冊目となる。2005年現在、他の出版社より復刊されていない作品であり、入手は極めて困難となっている。
 私は、この作品が大好きである。はじめて読んだのが大学生のときで、その後少なくとも1度以上読み返し、今回久しぶりに読み返してみた。
「最後から二番目の真実」の舞台は2025年。今から約20年後、執筆時から42年後の世界。
 第三次世界大戦は終わることを知らず、2010年から多くの人々が地下の耐細菌性地下共同生活タンクで暮らし、地上の政府の指令に基づき、レディと呼ばれる人型人工知性体兵器を生産し、送り出していた。地上は、核兵器による放射能と生物兵器の細菌に覆われ、敵・味方を問わず、レディが生命体を発見したら殺戮を繰り広げていた。今、地上からの報道によると防衛戦が突破され、デトロイトが壊滅してしまった。
 戦争は、西部民主圏と太平洋人民圏で行われ、地上では死を覚悟した軍人とヤンスマンと呼ばれる政府高官たちが統治していた。各タンクにはヤンスマンが派遣され、タンクの自治体と地上の政府を結んでいた。
 しかし、地下の多くのタンクに住む数百万人の人々はだまされていたのだ。
 戦争は、火星で1年、地球では2年で終了していた。西部民主圏と太平洋人民圏のそれぞれのレディは、高度な知性を発揮し、戦争の終了をもたらした。地上の多くは核兵器による残留放射線で汚染されていたが、地上は緑を取り戻していた。両政治圏のヤンスマン達は、それぞれが広い土地を占有し、レディ達を管理者として数の限られた豊かな生活を送っていた。
 そして、地下のタンクに対しては、精神的政治的軍事的指導者タルボット・ヤンシーというカリスマを創造し、彼が語りかけることで戦争の遂行、レディの生産を求めるのであった。そのヤンシーさえも、シュミラクラに過ぎず、ヤンスマンの広報担当者がシナリオを書き、それをヴァックと呼ばれるコンピュータが処理してシュミラクラに話をさせているに過ぎない。地上のヤンスマン達の最大の仕事は、西部民主圏と太平洋人民圏のそれぞれのタンカー(地下の人々)をだますための映像、音声、架空の歴史を作り続けることである。
 人々への歴史のねつ造は、第三次世界大戦がはじまる前、1982年にはじまっていた。国連を解体させ西側諸国の中心になりつつあったドイツは西部民主圏を構成していく中で、第二次世界大戦の歴史を改変していく。同時に、太平洋人民圏を構成したソヴィエトもまた、第二次世界大戦の歴史を改変していった。映像のねつ造の正規の中で、第二次世界大戦の真実は変えられ、それがのちの第三次世界大戦へとつながっていったのだった。
 あるタンクで必要に迫られてひとりの代表者が地上にと出る。彼はそこで真実に出会う。
 一方、情報のねつ造担当者であったひとりのヤンスマンが権力を追われつつあった。
 という設定である。ディックの「目」がわかりやすく描かれている。1964年という冷戦下の世界と、その後の欺瞞に満ちた世界の予感が書かれている。
 私たち、今、現実に生きているはずの私たちは、最後から二番目の真実が明らかにされようとも、その欺瞞の中にいることをよしとする。
 なぜだ。
 その答えを、ディックは未来を見通して書いている。
 私は、その答えに恐怖する。そしてあたりをきょろきょろと見回すのだ。
(2006.1.18)

テラの秘密調査官

テラの秘密調査官
SEACRET AGENT OF TERRA
ジョン・ブラナー
1962
 1978年にハヤカワ文庫SFで出ている「テラの秘密調査官」は、私が持っている唯一のジョン・ブラナー作品である。おそらく中学生の頃に買ったもので、一度読んだっきりになっていた。当時は、あまりおもしろいとは思わなかったのだが、不思議なものである、以来25年以上経って読み返してみると、意外とおもしろかった。
 ストーリーはこうである。750年前、人類の移民星のひとつツァラトゥストラの太陽がノヴァ化した。植民者達はあわてて近隣の星系に避難したが、生き残ったのは1星系に逃れた避難民だけと考えられていた。しかし、120年ほど前、人類文明の守護者である銀河連盟軍団はいくつもの惑星にツァラトゥストラからの避難民が生きのびていることを発見した。人類文明は、文化的・文明的に変わり果て、独自の発展をしようとしているこれらの避難星に干渉せず、その発展を見守ることとした。それは、彼らのためではなく、人類文明とは違う発展のしかたから、新たな発見ができるのではないかと期待したからである。しかし、なかには、これら非文明人たちを高度な軍事力で征服し、奴隷として利用しようとする犯罪者もいる。そこで銀河連盟軍団は、秘密調査員をそれらの惑星に潜入させていた。そんなツァラトゥストラ避難民惑星第十四号(ZRP14)では、惑星に住む翼竜を王とする王政がしかれていた。毎年一度、選ばれた氏族の勇者が王殺しに挑み、王が殺されれば、殺した氏族が王の代理人として首都を統べる。もし、王が生き続ければ、その氏族は支配者で居続けることができるのだ。それぞれの氏族はトーテムをもち、この18年は翼竜パラダイルをトーテムとする氏族が栄華を誇っていた。その年も、新たな「王殺し」の季節がやってきたが、南国から来たひとりの男が「王殺し」参加の権利を申し立てる。それは認められ、その男は稲妻のような魔法を使って王たる翼竜を殺し、支配者の座についてしまう。それは、不幸のはじまりであった。
 もちろん、その新支配者は異星人であり、秘密調査官は彼らの陰謀をあばき、その惑星の人々に気づかれないように彼らを排除し、現状に復旧しようとする。しかし、それ以前に秘密調査官のひとりは殺されており、かわりに、軍団に入って2年目で、問題児の美貌の女性が捨て駒として送られることになったのだ。
 といった具合である。
 本書「テラの秘密調査官」が私にとって「意外と」おもしろかった理由は、ZRP14の社会が、文化人類学の教科書のような設定をしてあったことである。「王殺し」「氏族とトーテム」などが、短い作品の中で書き込まれていて、学生時代にちょっくら文化人類学をかじった人間にとっては心地よい設定だったのだ。これに、「銀河連盟軍団」などというレンズマンのような集団が登場し、それほど能力のない秘密調査官が出て、いつの間にか事件は解決されるのだが、初期設定に対して、展開があまりにもあっけなく、そのあたりがちょっとものたりない。ただ、この作品が出された当時の状況を考えると、現在のような1冊1000ページを超す作品はなかなか受け入れられず、200~300ページがせいぜいだったのだからやむを得ないのかも知れない。もし、これが破綻のない大長編だったらもっと楽しめたのでは、とも思う。ただ、このくらいの長さの作品だと、起こったであろう「間の出来事」を想像して補完することができる。それはそれで楽しいものだ。
 本書「テラの秘密調査官」は、設定が設定だけに、今読んでもそれほど古さを感じさせない作品である。入手困難な作品であるが、中世的設定が好きな方は読んでみてはいかが。
(2006.1.7)

百万年後の世界

百万年後の世界
ACROSS TIME
デヴィッド・グリンネル
1957
 100万年後、人類はどうなっているだろうか。100万年後、地球はどうなっているだろうか。その途方もない未来にSF作家たちは想像の限りをつくす。
 本書「百万年後の世界」は1957年に書かれた未来世界のSFである。主人公は、20世紀中葉のアメリカ人。100万年後の未来に放り込まれ、同時に未来に投げ込まれた兄と兄の妻でかつては自分の恋人だった女を救い出すべく行動を開始する。
 その100万年後の未来。人類は宇宙に広がり、ふたつの勢力が存在していた。いずれの存在も、ほとんど物質に依存しない存在だが、ひとつの大きな勢力は個々の自由を尊重し、その後に生まれた生命体や他の星の生命体には干渉しない道を選んだ。もうひとつの勢力は、個々の頭脳をエネルギー的に連結したひとつの大きな存在になるべく、勢力範囲の星系にいる肉体を持つ人類の末裔などを従えていた。
 主人公は、個々の自由を尊重する主勢力の影響下にある100万年後の地球に降り立つ。そこは、かつての類人猿が進化した文明社会であった。その文明は、ちょうど20世紀の中葉とほぼ同じであるが、以前の人類文明のなごりはまったく存在しなかった。ただ、石油などの地下資源の不在が、かつての文明の存在をうかがわせるだけであった。地下資源のない社会で、次の人類は、蒸気機関の文明をつくりだし、ちょうど、原子力の活用に目覚め、核戦争の恐怖を感じ始めた時代、すなわち、20世紀中葉の冷戦の時代と類似していた。
 主人公は、この勢力下に保護され、やがて本当の人類の末裔であるエネルギー体生命と出会う。そして、兄夫婦が別の勢力の支配下に置かれていることを知り、彼らを救い出すべく、博物惑星にあった地球年237,109年建造の最後の物質的戦艦宇宙船を与えられ、大宇宙に乗り出す。
 21世紀の今に読めば、スチームパンクな文明社会であったり、自立型人工知能ロボットが登場する宇宙船であったりと、なかなか楽しいガジェットが登場する。また、その人類史も興味深い。
 もっともストーリーの柱となっている兄弟の確執と、ひとりの女性をめぐる行動については、おいしくないデザートみたいなもので、三文芝居と思って気にしないことである。
 SFとしてのガジェットにあふれている本書「百万年後の世界」であるが、その背景を考えると、発表された1957年頃といえば、米ソ冷戦から第三次世界大戦への発展が現実のものとして恐れられており、核戦争が真の恐怖だった時代である。未来のエネルギー体となった人類の2大勢力についても、ひとつが個人主義、自由主義社会を反映し、ひとつが、当時のソ連を思わせる社会主義的、一極集中的社会を反映している。さらに、次の人類である100万年後の地球社会は、そのまま当時の社会状況であり、戦争の恐怖と人間の愚かしさを描いている。そのような社会的背景の上に本書「百万年後の世界」が成立しており、その文脈から本書が逃れることはできない。ある種のSFの役割であり、宿命でもある。
 さて、100万年後の人類といえば、ドゥーガル・ディクソンの「マンアフターマン」(1990)が1993年に日本で発行されている。イラストで、200年後~500万年後の人類史を描いている。水中に適応したもの、砂漠に適応したもの、宇宙に出て行ったものなど様々なものたちが、自然に、あるいは、遺伝子改変により、さらには遺伝子改変の後の進化によって変化していく様を描いている。
 ああ、人類よ。地球よ。どうなっていくのだろうか。
 私に知るよしもないが、幸多からんことを。
(2006.1.2)