マッカンドルー航宙記 太陽レンズの彼方へ

マッカンドルー航宙記 太陽レンズの彼方へ
THE McANDREW CHRONICLES2
チャールズ・シェフィールド
2000
 2002年11月に作者シェフィールドが亡くなったそうである。そのため、本書を含む「マッカンドルー航宙記」シリーズは、本書と、前著「マッカンドルー航宙記」(1983年 創元SF文庫)の2短編集となってしまった。残念。
 2005年に15年ぶりの邦訳となった本書「太陽レンズの彼方へ」は、前短編集では収録されなかった作品及び、その後に書かれた作品をまとめたものである。もちろん、本作品も天才物理学者のマッカンドルー博士と女性でマッカンドルーとは長いつきあいの宇宙船船長ジーン・ローカーの名コンビが、いくつかの事件を引き起こし、あるいは巻き込まれていく。前作では、物理学の理論を作品にうまく組み込ませていたが、本作品では、より「ドラマ性」あるいは、「人間への興味」に重点が置かれている。ストーリーとしてのおもしろさを全面に出した作品群である。
 もちろん、SFとしてのおもしろさは抜群である。
 タイトル編ともなっている「太陽レンズの彼方へ」を取り上げてみたい。新たな超新星が誕生し、確認されたため、太陽の重力を利用した焦点位置での観測を試みたところ、その途中で、「方舟」からの救難信号を受信した。「方舟」とは、かつて小惑星を改造して太陽系を離れた移民星であり、さまざまな少数民族や少数の価値観を同じくする集団(宗教集団など)が思い思いの方向に向かっていったのである。その救難確認のために、マッカンドルー博士とローカー船長が宇宙船を出す。ところが、その「方舟」は…。
 というストーリーで、ネタバレになるが、「人工知能」ものである。さらりと「人工知能」の進化の可能性について楽しい読み物に仕立て上げているが、話のキモとなるのは「太陽レンズ」であり、人工知能の方は、ストーリー上のおまけみたいなものである。そのあたりのバランスがよい作家であった。残念。
(2005.11.19)

猫のゆりかご

猫のゆりかご
CAT’S CRADLE
カート・ヴォネガット・ジュニア
1963
 なんとまあ。1963年の作品である。1968年には邦訳され、1979年に文庫化、1983年の第4刷が私の手元にある。18歳の秋であった。本書「猫のゆりかご」はSFである。たぶん。アイスナインという常温で結晶化する氷が登場するから。考えてもみてごらんなさい、常温で水が氷になったらどうなると思います。ねえねえ。どうなると思う。
 たいへんだ。
 だからSFである。
 本書がヴォネガットの名前を一躍有名にしたのは、「アイスナイン」のせいではない。本書のストーリーでもないと思う。本書に出てくる「ボコノン教」という新興宗教のせいである。
 映画「スターウォーズ」で、「フォース」と、「ダークサイド」あるいは、「ジェダイ」といったキーワードをもとに、メジャーな楽しみ方とは別に、新興宗教的取り上げ方をする人たちがいる。文化的文脈で言われるカルト(カルト映画)などとは異なり、明らかに宗教的文脈で「スターウォーズ」を語っている。
 同様に、本書「猫のゆりかご」もまた、書かれている「ボコノン教」により、文化的文脈としてのカルト作家ではなく、宗教的文脈としての扱いをされる場合がある。
 たとえば、インターネットで検索をかけてみるとよい。日本でさえ、いくつもの「ボコノン教徒」サイトがある。あるいは、ボコノン教を名乗るもののサイトがある。
 その是非は問うまい。いろんな理由があろうし、なにより「ボコノンの書」は、「わたしがこれから語ろうとするさまざまな真実の事柄は、みんな真っ赤な嘘である」からはじまっているからだ。
 問うてもしかたがないではないか。
 本書「猫のゆりかご」が世に出たのは、1963年のアメリカであり、1963年のアメリカは、ベトナム戦争をもって語られる。ちょうど、本格的な武力介入に入る頃である。
 人々の気分はその後のアメリカにとってのベトナム戦争をもって知れよう。
 同時に、1963年のアメリカは、ケネディ大統領とその暗殺をもって語られる。
 そして、本書は、「世界が終末をむかえた日」という章をもってはじまり、「あとがき」によれば、あまり売れなかったようである。しかし、その後2年間で、「猫のゆりかご」の評価はカルト的に高まったという。
 みんな何かが嫌だったのだ。
 そういう作品である。
 ちなみに、作品の前半の主題となっているのが、原爆の父のひとりフィーリクス・ハニカー博士が、1945年8月6日の広島原爆投下の日に何をしていたか、を、3人の子どもをはじめ様々な人に主人公が取材するという形で進む。もちろん、フィーリクス・ハニカー博士など、存在していない。ボコノン教だけでなく、「本書には真実はいっさいない」のだ。1945年8月6日に広島に原爆は投下されたけれども、残念ながら、それは真実だ。「真実はいっさいない」本書に真実が書かれていても、それは、真実ではない。真実の扱いは難しいのだ。
 ヴォネガットは、あらゆる形の「戦争」に対して、作品を書く。そのためか、SFなのか、文学作品なのかわからないものが多い。幸い? 日本では、ほとんどがハヤカワからSFとして出されており、われら日本のSF読みは安心してヴォネガットの作品に手を出せる。こういう作品は、SF免疫があった方がよい。ついついだまされるから。ちゃんと、「真実はいっさいない」と作者が書いているのにかかわらず、人は、そこから真実を読み取ろうとするのだ。くわばらくわばら。
 それが人間というものかも知れない。
 だから、本書の中で、ときどき、ハニカー博士の末っ子で、「こびと」のニュートが作者に言わされている。「猫、いますか?」「ゆりかご、ありますか?」と。
 本書のタイトルでもある「猫のゆりかご」とは、あやとりのこと。毛糸で大きめの輪をつくって、それを両手の指でああしてこうしてそうする、あのあやとりである。アメリカでは、「猫のゆりかご」という名前の付いた形があるらしい。「猫、いますか?」「ゆりかご、ありますか?」
(2005.11.11)

ホーカス・ポーカス

ホーカス・ポーカス
HOCUS POCUS
カート・ヴォネガット
1990
 1990年に発表され1998年に邦訳文庫化されたカート・ヴォネガット後期の長編作品である。1922年生まれの作者だが、2005年現在、まだご健在のようである。
 本書「ホーカス・ポーカス」は、2001年に書かれたユージーン・デブズ・ハートキの自伝的著書として書かれ、カート・ヴォネガットは編者ということになっている。ハートキは1940年に生まれ、80万冊の蔵書を誇る刑務所の図書館で裁判を待ちながら本書を書き連ねている。
 彼は、大学入学直前に陸軍士官学校に入るはめになり、そのままベトナムへ。ベトナム戦争の終結を受けて帰国し、ある学校の教職につく。教職を追われ、刑務所の教員となり、最後は、その刑務所の大脱走の責任を問われて、今に至る。
 彼は、図書館で過去のもつれを紐解きながら、その半生をふりかえる。
 舞台はアメリカである。経済的に日本に占領されたアメリカといってもいい。刑務所の運営も日本人がやっていたからだ。
 ヴォネガットらしさがいっぱいの作品である。なかでも私が気に入ったのは、作中に出てきて、あらすじだけが書かれるベトナム戦争従軍中に友人の別の兵士が誕生祝いに送ってくれた「黒いガーターベルト」というポルノ雑誌に掲載されていたSF「トラルファマドールの長老の議定書」である。宇宙の超知性体が、「寿命の限られた自己増殖のある生物を、全宇宙にばらま」くために、地球の人間に目をつけ「彼らの脳が細菌のための恐怖の生存テストを発明できるかどうか」を検討し、人間にそれをゆだねたのだ。だから、人間は、究極かつ宇宙に飛び出す細菌を生み出そうと努力を続けているのだった。
 まさしく、ヴォネガットである。
 80年代に書かれているため、当時の世相をよく反映している。
「アメリカの支配階級は、自国の公共資産と企業資産を略奪し、自国の産業をうすのろどもの手に預けました」と彼はいった。「それから、自国の政府に日本から巨額の借金をさせたので、われわれはビジネススーツを着た占領軍を派遣するしか選択の道がなくなった。ある国の支配階級が、彼らの富に含まれるすべての責任を他国に押しつけ、しかも、貪欲の夢さえおよびつかないほどの富豪でいられる方法を発見した例は、これがはじめてです! 彼らが昏睡状態のロナルド・レーガンを偉大な大統領だと考えたのもふしぎではない!」(ハヤカワ文庫版314ページ)
 80年代は、ちょうどレーガンの双子の赤字政策によって、円高ドル安、アメリカの貿易赤字=日本の貿易黒字で貿易戦争と言われた時代である。日本は、それもひとつのきっかけとしてバブル経済に突入するのだが、アメリカでは、すべての資産を日本が買っていくと言って騒いだものだ。おお、今はまた逆になっている。アメリカ(外資)が日本の資産を買っていくと、こっちが騒いでいる。個々人にとっては大きなことだが、大きな視点で見れば、親会社アメリカ、子会社日本の連結決算上でのやりとりと言えなくもない。
 これまた、作品ではなく、現実がヴォネガット的。
 こんなのもあった。
「1,000,000,000人の中国人が、まもなく共産主義のくびきを投げ捨てるのだから、と彼はいった。かなぐり捨てたあと、中国人ぜんぶが自動車とタイヤとガソリンとその他もろもろを欲しがるだろう、と。」(同244ページ)
 当時からアメリカでは中国台頭論が出ていて、2005年の今、まさに、そういう問題が起こりつつある。ただ、人口はもっと多くて2001年現在、1億2千700万人とされている。共産主義のくびきは投げ捨てなくても、いつのまにか自由主義の経済システムにしっかりのっかっているあたり、これもヴォネガット的かもしれない。
 もうひとつ、引用ついでに、ちょっと長いが引用する。「彼が相続した会社の1つは、石綿を原料に各種の製品を作っていたが、その粉塵は既知のどの物質より発ガン性が強いことがわかった。それを上まわるのは、エポキシ接着剤と、過って核兵器工場や原子力発電所の周囲の大気や帯水層に放出されたある種の放射性物質だけだった。(中略)
 彼はその会社を2束3文で売り払った。あるシンガポール企業が、機械設備と建物、アメリカ国内では売れない莫大な量の在庫商品も含めてその会社を買った上に、すべての訴訟の処理を引き受けてくれたからである。そのシンガポール企業は、エドその人が逆立ちしてもやれないことをやってのけた。石綿を使った床タイルや屋根ふき材をアフリカの新興独立国へ売りつけたのだ」(同194ページ)
 こういう文が書かれている作品を今年読むのも、ヴォネガット的である。
 2005年、日本では突然、石綿(アスベスト)由来の中皮腫(ガン)が社会問題化し、アスベスト製品の処理対策が大問題になった。もっとも、この問題は、60年代に知られ、80年代後半、まさに本書「ホーカス・ポーカス」が書かれた頃に社会問題となり、一部対応されたもので、今突然に起きたことではない。ただ、当時言われていた危険性(中皮腫)が現実になったために、以前よりも大騒ぎしているだけだ。騒ぐ時を間違えたのである。
 なんとヴォネガット的。
 ところで、ホーカス・ポーカスとは、でたらめな呪文やいんちきな言葉(嘘など)のこと。奇術師が言うまじないせりふなども「ホーカス・ポーカス」というそうだ。
(2005.11.11)

シリウス

シリウス
SIRIUS
オラフ・ステープルドン
1944
 知性の向上をテーマにしたSF作品には悲しい結末のものが多い。そういってまず思いつくのが、「アルジャーノンに花束を」(ダニエル・キイス 1959,1966)であろう。人とネズミのせつない物語であった。
 本書は、それをさかのぼること20年。いまだ第二次世界大戦が終結していないイギリスで発表された「知性の向上」テーマの傑作である。ここで知性を向上させられるのがシリウスという名の犬。
 舞台は、第二次世界大戦直前のイギリスにはじまり、大戦中に終わる。本書は、そのシリウスの生涯を振り返る形で書かれている。人嫌いな生物学者は、長年、知性向上の研究を続け、「超牧羊犬」を生みだした。それは、人の命令を的確に判断するぐらいの能力を持った犬である。もちろん、生物学者にとってのそれは実験過程であり、研究費や生活費をかせぐための便利な犬に過ぎなかった。その知性は遺伝的なものではなく、「超牧羊犬」の子は普通の犬であった。しかし、生物学者はついに人間並みかそれ以上の知性を持つ可能性のある犬をつくりだす。彼はシリウスと名付けられ、ちょうど同じ頃に生まれた生物学者の末娘プラクシーと一緒に、ほぼ人間と同様に育てられた。やがて、シリウスは知性を獲得し、生物学者とその妻により、愛情深く育てられる。シリウスは、学び、聞き取りにくいが英語を話し、そして、美しい歌をつくり、歌った。牧羊犬としての体験や、大学での研究対象/研究者としての生活を体験し、シリウスは生まれ故郷に帰る。シリウスは知る。彼は犬であると同時に人間以上のものであり、シリウスとプラクシーは心の絆で結びついていても、彼らは種が異なり、それぞれの生き方がある存在であることを。シリウスの心はふたつに分断され、彼は苦悩する。
 やがて、物語は必然としての終わりを告げる。
 生命は、生命のあるがままにしか生きられないのだ。
 知性とはなにか?
 知性を持って生きるとはどういうことか。
 なんのための知性か。なんのための生か。
 シリウスは、彼を作り出した人間に対し、愛と憎悪を深める。
 シリウスは、彼の内に潜む獣性と獲得した知性の間で苦悩する。
 難しい話ではない。それは、ジキルとハイドの、フランケンシュタインの苦悩であり、異形、異能、あるいは異種として人間社会にいるものの苦悩であり、つまりはすべての人間の苦悩そのものである。
 本書は、戦争に直面したイギリス人の心の動き、あるいは、戦争や人間社会のあり方や行為の不思議さを、人間以上の知性を持った犬という視点から描き出す。そういう意味では、社会分析、社会批評的な作品でもある。
 作者のオラフ・ステープルドンは、哲学者であったという。
 だからといって難しくあるわけではない。
 だれもが抱えることを、すべてシリウスという犬に顕在化させ、彼に、苦悩の中の喜びを、喜びの中の苦悩を表現する。
 その美しいこと。
(2005.11.11)

ディアスポラ

ディアスポラ
DIASPORA
グレッグ・イーガン
1997
 イーガンの小説は、書かれてから10年ほど経って読むと、ようやくついていけるようになる。そのくらい彼は現実の科学技術の最先端をSFとして解釈し、さらにその先をイメージしてみせる。しかも、そうでなくても読ませる力量を持っている。
 つい先日、フィリピンのマニラ空港で本書を読み始め、読み終わってしまった。12時間も空港にいて、ほかにすることもなかったのである。もちろん、それは航空会社の責任でなく、私がたまたま空港で時間待ちをするほかなくなったからだ。フィリピンといえば、70年代は世界の最貧国である。今はマニラを中心に都市化が進んでいるが、農村部は電気、ガス、水道などのインフラがまったくないところも多い。人は歩き、水牛に乗り、戦時中のトラックを改造して使い続けている。それでも、彼らが望むと望まざるとに関わらず、世界は確実に彼らとつながっている。それは決して優しくなく、暴力的に彼らに変化を迫る。安い輸入野菜によって、彼らの限られた現金収入がなくなっていく。農村の電気もないところから人たちが集まり、WTOやGMO、あるいは京都議定書(KYOTO PROTOCOL)といった単語が飛び交っていた。
 世界はいやおうなくつながっている。
 本書「ディアスポラ」は、壮大な物語であり、同時にひとりの人のささやかな物語である。
 まるで「銀河帝国の崩壊」(A・C・クラーク)を思わせるような物語の導入部分は、生命と人工生命についての含蓄深い描写が続く。
 ヴァーチャルリアリティ社会で、ひとりの「孤児」が誕生する。
 その社会は、まったくの仮想空間社会であり、彼らは純粋な知的ソフトウェア群として人格を持つ人であり、その環境と社会はソフトウェア群によって構築されている。人々はそこで生まれ、育ち、ときには死んでいく。
 一方、地球という物質世界で生まれ、育ち、死んでいく者もいる。ある者たちは、自らの内側を変容させ、ある者は、あるものは姿形や存在のありようさえも変容させる。しかし、彼らもまた人であり、知的存在であった。
 さらに、広く宇宙という物質世界では、機械の身体を持った人に由来する知的存在がその存在の望む道を探して生きていた。
 やがてすべての存在を脅威にさらす宇宙的な出来事が起こる。
 生存の保証を求め、宇宙の真理を求めて、彼らは時と空間を超えた離散の旅に出る。
 仮想空間で流れる時間、実時間と物理世界が要求する時間の流れという物理的制約が、人々に物語をもたらす。
 宇宙の果てを描くSF作品は古今東西に限りなくある。本書「ディアスポラ」もまた、宇宙の究極の姿を描くひとつの名作として残るのではなかろうか。
 本書が発表された1997年の前後にも、ヴァーナー・ヴィンジが「遠き神々の炎」(1992)、「最果ての銀河星団」(1999)で宇宙の究極の姿を変わった形で描き出している。
 本書「ディアスポラ」は、宇宙のありよう、生命のありようを、できる限りにつきつめて我々の前に提示する。そこには、SF読みに許された静かな感動が横たわっている。この喜びについては、本書のあとがきで大森望氏がせつせつと書いているので、これ以上は書かない。
 そして、同時に、SF読みに対するきびしい挑戦でもある。人工知能、認識論、ヴァーチャルリアリティ、数学、宇宙論(量子力学)などの1997年当時の最先端がぎっしりとつめこまれ、平気な顔をして物語に登場してくる。きっと私は半分も本書の面白さが理解できなかったに違いない。それでも、どんなに高い山でも、その人の能力に応じて登る余地を残すのが、SFのいいところである。実際の科学であればとても手に負えず、仰ぎ見ることもできない頂上を、SFはどんな読み手にもかいま見せてくれる。それは、読み手の力量によってはっきりとしたり、ぼんやりとしてはいるが、あとはその人の知的好奇心次第である。もし、山の頂上をはっきり見たいのであれば、巻末に書かれた参考書の理解を目標にひたすら科学の世界に首を突っ込むしかない。それもまたSFのひとつの役割である。
 マニラ空港(ニノイ・アキノ国際空港)では、今、多くのアジア人が来て、そして、去っていく。フィリピン人、中国人、台湾人、韓国人、ベトナム人、マレーシア人、インドネシア人、タイ人…そして、日本人。各国の言葉が飛び交う。ちょっと前までは、行き交う多くの人たちは非アジア人種の人たちであったが、今はその姿はまばらである。その多くが携帯電話を持ち、ある者は、ラップトップパソコンを広げて仕事をしている。わずか10年でも世界は簡単に姿を変える。
 もし、今年の冬、懸念されている鳥インフルエンザの人感染性への変異と流行が起これば、この姿は一変するだろう。世界はふたたび閉ざされたものになるかも知れない。
 未来は不確定だが、不確定故に未来であり、そこにSFの存在する余地が常にある。
 どんなに世界が変わっても、知的好奇心があり、人々がその好奇心を満たそうと物事を体系化して考えるところに科学があり、そこから道具が生まれ、社会がそれによって影響を受ける。その逆もある。社会が変わり、必要とする道具が生まれ、そして、そのための知識の集積が起こり、流行の科学が生まれる。そのどちらの狭間にも、それを空想する人たちがおり、彼らの多くがSFに巡り会い、彼らの内あるものがSFという世界を切り開く。
 そして、SFと世界は絡み合いながら未来を紡ぐ。
 未来の多くの窓の一つを、グレッグ・イーガンは本書「ディアスポラ」を通して提示する。
(2005.10.31)

バラヤー内乱

バラヤー内乱
BARRAYAR
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1991
 マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガン誕生前夜、バラヤーにて。
 彼女は、バラヤーの摂政妃であり、跡継ぎを懐妊し、幼帝と帝母の話し相手であり、社交界にデビューしたての注目の女性だった。同時に彼女は先進惑星から来た異星人であり、元軍人であり、母星の英雄であるとともに母星を追われた逃亡者であり、冷静な観察者でもあった。
 バラヤーに生きることを「選択」した彼女、コーネリア・ヴォルコシガン卿夫人の目で、バラヤー軍人貴族社会が語られる。それは、彼女を主人公とした戦いであり、彼女を通した人間としての価値の物語である。
 本書「バラヤー内乱」は、「バラヤー」という特殊な社会状況を設定し、彼女を含めた4人の女性を通じて、母なるものであることの意味、母なる者にとっての子の存在について、母性と社会の関係を描き出す。
 男権社会であるバラヤーのいびつさは、そのまま現代のどんな社会にも存在する過去からの人類の遺産である。前作の「名誉のかけら」で、それはバラヤーのみならず、彼女の出身星であるベータでも変形した形で存在しており、そのことから、バラヤー社会は特別な存在ではなくどこにでもあり得る社会であることがすでに示されていた。
 彼女、コーネリアは、その母の象徴として、人間個人に重きをおかないすべての体制、状況に対し、怒りを持つ。彼女の「名誉」は人間個人の価値に重きを置くことだからだ。
 彼女はそのために闘う。彼女を通して、彼女以外の3人の女性の母性と価値が語られる。それは、おそらく女性である作者の持つ願いである。
 本書「バラヤー内乱」は、安定した政治状況を維持していた先帝が逝去し、幼帝-摂政による新たな政治体制がはじまった直後の不安定な時期に起きたクーデターを、コーネリアの目から語る物語である。のちの作品群で登場するマイルズ、イワン、グレゴール帝、エレーナらはまだ生まれていないか、とても幼い。
 それゆえに、他のどの作品よりも、作者であるロイス・マクマスター・ビジョルドの母なるものとしての姿が率直に語られているようだ。
 しかし、もちろん、物語巧者であり、すぐれたエンターテナーであるロイス・マクマスター・ビジョルドの手にかかると、それは手に汗握る冒険へと姿を変える。
 ある時は言葉で闘い、あるときは知略をめぐらし、あるときは自ら武器をかかえ、あるときは、信頼する部下を死地に送り込む。その姿には、夫であるアラール・ヴォルコシガン卿をはじめ、あらゆる人たちが刮目し、沈黙し、そして、影響を受けて変わっていく。
 阿修羅そのものである。
 大いに楽しみたい。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞
 現在のところ邦訳されているのは本書までであるので、執筆順・邦訳順・宇宙史順に整理しておく。
(執筆順)
「名誉のかけら」1986
「戦士志願」1986
「遺伝子の使命」1986
「自由軌道」1988
「親愛なるクローン」1988
「無限の境界」1989
「ヴォル・ゲーム」1990
「バラヤー内乱」1991
「ミラー・ダンス」1994
「天空の遺産」1996
(邦訳順)
「戦士志願」1991
「自由軌道」1991
「親愛なるクローン」1993
「無限の境界」1994
「ヴォル・ゲーム」1996
「名誉のかけら」1997
「バラヤー内乱」2000
「天空の遺産」2001
「ミラー・ダンス」2002
「遺伝子の使命」2003
(宇宙史順)
「自由軌道」1988
「名誉のかけら」1986
「バラヤー内乱」1991
「戦士志願」1986
「ヴォル・ゲーム」1990
「天空の遺産」1996
「遺伝子の使命」1986
「無限の境界」1989
「親愛なるクローン」1988
「ミラー・ダンス」1994

名誉のかけら

名誉のかけら
SHARDS OF HONOR
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1986
 ヴォルコシガン・シリーズの一番最初に位置するのが本書「名誉のかけら」である。本編マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガン・シリーズの主人公であるマイルズの父と母の出会いが語られる。主人公は、ベータ植民星の科学者士官であるコーデリア・ネイスミス中佐。本シリーズで、本書「名誉のかけら」と、その続編となる「バラヤー内乱」はマイルズの母コーデリアの視点から描かれている。
 本作品では、ほとんど全編を通してコーデリアはベータ人である。ベータ植民星は早くから技術大国であり、バイオテクノロジーを含むすべての科学技術によって大いに栄えていた。しかし、ベータ植民星そのものは厳しい惑星であり、人々が野外に出ることはほとんどなく、外界とは隔絶した世界で生きていた。 両性は平等であり、クローンも、ごく一部いる両性者も含め、性や出自が社会の指標になることはないいわゆる民主主義国家であった。
 一方のバラヤーは、とあることで植民初期に他星系から物理的に隔絶してしまい、技術は後退し、独自の発展を遂げた。それは、ヴォルと呼ばれる軍人貴族制度が中心の封建的男性優位の帝政国家であった。バラヤーは「再発見」されると同時に他の惑星国家に侵略を受け、それをはねのけて軍事大国化し、他星系への窓口となるワームホールを支配する惑星コマールを侵略したばかりであった。惑星コマールの侵略により、バラヤーは悪名高き好戦的惑星国家として知られるようになった。
 ベータ軍の科学者士官で探検隊隊長としてのコーデリア・ネイスミスが、調査中の惑星でバラヤー軍に襲われ取り残される。一方、のちにマイルズの父となるバラヤー軍人たるアラール・ヴォルコシガン大佐もまた、艦の反乱によって艦長でありながらその惑星に取り残される。アラールの捕虜となったコーデリアは、アラールとともに生存をかけた冒険を余儀なくされる。
 はじめは、悪名高き軍人アラール・ヴォルコシガンをにくにくしく感じていたコーデリアだったが、その名誉を重んじる素顔に次第に惹かれていく。アラールもまた、女性でありながら軍人であり、泣き言を言わず、信義に篤いコーデリアに惹かれていく。
 しかし、双方の軍の作戦により互いは別々の道を行くが、再び、コーデリアがバラヤー軍の手によって危機に陥ったとき、アラールが姿を見せる…。
 ベータ人女性の視点から、野蛮で封建的な男性優位の軍事国家バラヤーの姿を描き、マイルズや他のバラヤー人のふるまいの背景を理解できる作品となっている。
 もちろん、本書「名誉のかけら」は、マイルズのサイドストーリーではなく、独立した一冊のSFであり、冒険活劇である。他の作品と同様、ビジョルドの作品はタイトルにテーマが込められている。邦題は原題の直訳であり、本書はまさに「名誉」がテーマとなっている。技術大国の女性も、後進封建国の男性も、その人間性を問う「名誉」の価値観だけは同じだと、ビジョルドは書き描く。
 暮らしている時代や状況のせいではなく、個人のよって立つ人間性こそが常に問われるのだと描いている。
 Honor=名誉 を辞書で引いてみれば、名誉、光栄、特典のほか、名声、面目、対面、信用、自尊心、道義心、節操、貞節、敬意などが上げられている。
 本書「名誉のかけら」でいう名誉には、自尊心や道義心、節操いった意味も込められていることに注目しておきたい。
 そして、ビジョルドの作品すべてに共通するのが、この Honor なのかも知れない。どの作品の主人公も、このために行動し、このために苦しむ。
 それは物語の王道であり、それゆえに、多くの人に愛される物語となるのだ。
(2005.10.23)

遺伝子の使命

遺伝子の使命
ETHSN OF ATHOS
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1986
 ヴォルコシガン(ネイスミス)・シリーズの番外編であり、僻地の植民星アトスの生殖医師であるイーサン・アークハート博士を主人公にした物語である。だから、原題は「アトスのイーサン」である。シリーズの主要登場人物で、本書「遺伝子の使命」に登場するのは、戦闘で顔を失い、高度な医療技術で美貌を得たデンダリィ自由傭兵隊のエリ・クイン中佐のみ。もちろん、シリーズで登場する惑星や、関わる出来事もあるが、基本的に本書を読んでいなくても、シリーズそのものが分からなくなることはない。
 もっとも、シリーズのどの作品をとっても独立した物語になっているのが、ビジョルドのおもしろさである。
 さて、本書「遺伝子の使命」に出てくるアトスは、男だけの惑星である。どういう理由かは分からないが、女性を危険で悪のような存在と信じる者たちが、200年前に男の楽園をこしらえた。そこでは、女性は入ることが認められず、男性の移民の受け入れと、生殖センターでの人工出産のみで、人口を保ち、増やしている。もちろん、生まれてくるのは男だけである。
 彼らの創始者たちは、彼らがどの植民星からも遠く、交通の要所にもならない場所でひっそりと暮らしていた。彼ら自身も鎖国を望み、そして、多くの他の植民星や軌道空間、宇宙船で暮らす者たちにとって、アトスは関心外の世界であった。
 アトスは男性の移民を受け入れていたが、彼らが思うように移民の数は増えなかった。そして、今、彼らの人口増加と子どもをつくるための命綱である培養卵巣が次々と機能不全に陥った。その危機を回避するためにジャクソン統一惑星の商館から卵巣を購入したはずが、中身はただの廃物だった。
 アトスには、人口調査船が年に1回訪れるだけである。そこで、アトスはイーサン・アークハート博士を全権大使としてこの船に乗せ、なんとか失った金を取り戻し、あるいは、卵巣を手に入れて買ってくるよう派遣された。
 女性を見たこともない、男性は女性に虐げられていると固く信じているイーサンが、連結宇宙の大きなジャンクションであるクライン・ステーションで出会ったのは、エリ・クイン。そこから彼は大きな事件に巻き込まれていく…。
 というのが本書のストーリーである。
 「遺伝子の使命」では、男性だけの社会、そこでの生活や考え方、その社会外が見る「男性だけの社会」、女性に対する認識。そういうものを「男性だけの社会」を構築することではっきりと読者に提示している。だからといって小難しくはない。はじめて女性のいる社会に入り込んだイーサンのとまどいと女性や他の男性への接し方の変化などが軌道ステーションでの生活の描写とあわせておもしろおかしく描かれている。もちろん、エリ・クインは大活躍でスパイアクションSFと言ってもいい。
 さらに、本編の落ちともからむので、ここでは書かないが、SFのジャンルでは欠かせない特殊な「能力」が、「遺伝子の使命」をさらにおもしろくする。
 それにしても「男だけの社会」ってどんなところだろう。
 ビジョルドは、意外とおとなしく、静かな社会を描いているが、実際のところ、どうなるだろうか。宗教関係では、男だけ、女だけの社会があり、それを描いた作品もあるが、このように大きな人口が隔絶した社会を作った場合、その社会のありようは男性と女性が混ざり合った社会と本質的に異なってくるだろうか。ビジョルドは、あまり異ならないと見ているようだ。本シリーズを読む限り、性よりも、歴史的要素、あるいは、資源などの制約要素から起こる差異の方が大きいということなのだろう。
 はたして、どうだろう。いつかゆっくり考えてみたい。
 ところで、本書「遺伝子の使命」には、こういう設定には多い性描写が少なく、また、のぞき見趣味的な書き方ではないので、子どもであっても考える材料、あるいは、単に楽しめる作品として読むことができる。
(2005.10.23)

ミラー・ダンス

ミラー・ダンス
MIRROR DANCE
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1994
ネイスミスシリーズの時系列に並べた長編第5弾である。文庫のあとがきには、ヴォルコシガンシリーズとして、マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンの両親が出会い、そして、マイルズが生れてしばらくを描いた作品や、同じ世界の過去を描いた作品を含めて時系列に並べている。
マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンが活躍するようになっての長編として5冊目である。
1 戦士志願(17歳)
2 ヴォル・ゲーム(20歳)
3 天空の遺産(22歳)
4 親愛なるクローン(24歳)
5 ミラー・ダンス(28歳)
となっている。
前作、「親愛なるクローン」で登場したマイルズのクローンの存在は、ストーリーに新たな縦糸を導入することとなった。もともと、このシリーズでは、マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンという特異な背景を持つ青年の2重の生活が柱となっている。宇宙のネットワークから長期間隔絶されてしまった植民星バラヤーは独自の貴族=軍人制度を軸とした社会を築いていたが、宇宙の植民星ネットワークに復帰したとたんに別の植民星に侵攻されなんとか侵略軍を追い出し、他の星系と同様の技術力を持つまでに発展しつつあった。しかし、その過程で、社会は変化を求められるが、変化を望まない人々も多い。さらに、元々の軍事帝国的性格から外星に敵の多い「遅れた田舎惑星」なのである。
この中で、マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンの父は、皇帝が幼い日の摂政であり、その後は首相として政権を支える、第一皇位継承者であった。つまり、マイルズは、第二皇位継承権を持つ貴族の子として生まれた。しかし、彼は母が妊娠中に父を狙った毒ガス攻撃によって骨がもろく育ちにくいという身体的不具合を持って生まれることとなった。遅れたバラヤーでは、身体的不具合はいかなる理由であっても突然変異とみなされ、死と差別の対象となってきた。マイルズの母は、先進の技術大国の軍人としてマイルズの父と出会い、嫁いできた女であり、クローン、人工子宮などを社会の中に位置づけており、マイルズは、その父と母によって大切に育てられてきた。
しかし、マイルズにとって、生来の地位や権力は、彼の身体的不具合に対する貴族社会、軍人社会、一般社会の差別の中で、改めて実質として勝ち取らなければいけないものとなっていた。
彼は、帝国軍に入ることを拒まれ、「父のようになりたい」という願望、帝国に仕えたいという願望、「自由に生きたい」という願望がないまぜになったまま、天性の知性と機転と情熱とエネルギー、それに詐欺師のような言葉と、貴族として育てられた故に持つ人心操作術をもって、デンダリィ自由傭兵隊という大軍事勢力を手に持つことができ、マイルズ・ネイスミス提督という新たな顔を生み出すことができた。しかし、その一方で、彼は、マイルズ・ヴォルコシガン卿であり、バラヤー軍中尉であり、皇帝の幼なじみであり、第二皇位継承者でもあった。ふたつの顔を持つマイルズ。そこに、さらに、マイルズに成り代わるためにテロリストによって育てられたクローンの兄弟が登場する。このクローンの兄弟は、マイルズにすり替わるための教育を受け、同時に暗殺の教育を受けていた存在である。それ以外に目的は与えられず、テロリストの道具として成長したものの、マイルズにすり替わるためには、マイルズの思考、行動、発言を追いかけなければならない。それは、すなわちマイルズと同様の知恵と機転を持ち、マイルズへの憎しみと同時に、超えなければならない存在として知らず知らずに大きな影響を受けてきた。
前作、「親愛なるクローン」ではじめてマイルズと接触し、マイルズによって自由を与えられたクローンの兄弟が、それから4年後、デンダリィ自由傭兵隊に「マイルズ」として侵入し、その1特殊部隊をだまして彼の出生の地である違法クローン育成場を破壊し、そこで育てられている「脳を除くパーツ」としての子どもたちを救出しようとする。
それは、マイルズに対する憧れと、「認められたい」という青年の自我が起こした無謀な作戦だった。
本作では、「もうひとりのマイルズ」であるクローンの兄弟がマイルズに扮する。それだけではない、マイルズが「死に」、マイルズの弟としてバラヤーに連れてこられる。彼は、「そうであったかも知れないマイルズ」を読者に提示する。
天才で、機転が利いて、ネイスミス提督という特異なヒーローとしてのマイルズが、実は、バラヤー社会の中で逃れようのない苦しみを受け、その反映と逃避、バランスとしてネイスミス提督を生みだしていることが描かれる。
そして、もうひとりのマイルズ(クローンの兄弟)の存在は、多くの人たちに、マイルズとは何者で、マイルズと自分の関係がどのようなものかを問うことになる。
人は誰でも、自らが属する社会、あるいはその下部構造としての会社や、学校や、家族や組織の中で、その社会に求められ、与えられ、あるいは、選び出したペルソナとして行動し、表層の思考をおこなう。社会や下部構造での居場所が変われば、ペルソナも変わり、行動や思考も変化する。しかし、その人の奥底にある自我は、ペルソナとは異なる。だから、ペルソナと自我のバランスがとれなければ、人は悩み、苦しむのだ。
前作で、マイルズははじめてバラヤー人としての自分と、自由傭兵隊提督としての自分が同時に存在したとき、多いに混乱した。
今回は、この社会とペルソナと自我の関係について、クローンの存在を提示することで掘り下げていく。そういう物語を内に秘めた、SF冒険活劇である。
SFは、他の文学以上に、こういった社会と個人、ペルソナと自我のようなひとつの仮説を物語として思考実験するのに向いている。たとえば、本書では、クローンの兄弟をそれぞれの視点から語り下ろす。また、クローンのみでできた小さな集団のペルソナと自我について(浅いながらも)提示する。さらに、クローンを育て、それを自らの老いた身体の代わりとして使う人の視点、使われる道具としてのクローンの視点も提示され、それらを見る人、関わる人の視点さえ、物語に組み込まれていく。
これがSFのひとつの文学的役割であるとも言える。
そして、本書は、それを達成した上で、一エンターテイメント作品として完成している希有な例である。
タイトルの「ミラー・ダンス」は、本書の中ではクローンの兄弟が、マイルズの弟・マーク卿として正式に認められ、社交界で女性とダンスをするときのそのダンスの名前としてあげられている。もちろん、それだけではなく、マイルズとマーク、ネイスミス提督とヴォルコシガン中尉などが演じるミラー・ダンスを見ることができる。本書の中には幾層にもこのような写し鏡が登場する。それもまた、この物語のおもしろさと深みにつながっている。
それゆえに、本書は、同じシリーズでありながら、ふたたび、みたび、ヒューゴー賞、ローカス賞を与えられ、多くの人々に評価されているのである。
残念ながら、本書だけを読めば、本シリーズの面白さが分かるというものではない。
本書の前に、せめて、「戦士志願」「親愛なるクローン」ぐらいは読んでおいてほしい。何倍もおもしろいはずだから。できれば、時系列で、先に挙げた4冊と、中編集「無限の境界」も事前に読まれておくとよいだろう。
ヒューゴー賞・ローカス賞受賞
(2005.10.17)

自由軌道

自由軌道
FALLING FREE
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1988
 ワームホールを利用したジャンプと呼ばれる移動手段によって人類は版図を広げることに成功した。いくつかのジャンプポイントを発見し、それらをつなげていくことで、連結宙域とよばれる点で結ばれた植民惑星ネットワークができたのだ。
 惑星ロデオは、植民星というよりもエネルギー生産拠点といった方がいい惑星である。その軌道上で、大企業のギャラク・テク社は、地球や地球軌道上、あるいは、植民星上ではできない秘密プロジェクトプロジェクトをおこなっていた。無重力環境下での建設等の作業に人間を使わず、低コストでおこなうためのプロジェクト、ケイ・プロジェクトは、胎児後実験組織培養体を1000体軌道上で「育て」「訓練」していた。彼らは、その形状から「クァディー」と呼ばれていた。ギャラク・テク社の天才的熟練技師であるレオ・グラフは30代後半。技術教育担当として惑星ロデオに招かれ、軌道上の人工居住衛星に入る。そこで、彼は真実を知る。
「クァディー」とは、遺伝子改造により人間の手足の代わりに4本の手を持ち、厳しい宇宙空間の放射線や無重力状況でも生きて、活動し、繁殖もできるように作られた子どもたちのことだったのだ。子を産み、働きはじめていた彼らは、ギャラク・テク社の所有物として、ギャラク・テク社に忠誠を尽くすよう教育されていた。
 会社が、クァディーの人間としての権利や尊厳を認めない方法に疑問を抱きながらも、レオ・グラフはクァディーの年長の技術者たちに彼の技術を教えはじめる。彼もまた、ひとりの組織人として、自身の将来が心配だったからだ。
 しかし、会社の上層部から、プロジェクトの中止と実験体の廃棄の指令が下る。その意味に気がついたレオ・グラフは、クァディーたちとともに、彼らが自由に生きる道を求めはじめた。
 ネイスミス(ヴォルコシガン)・シリーズで絶大な人気を誇るロイス・マクマスター・ビジョルドが同じ連結宙域(ネクサススペース)を舞台に、独立した物語として描いた初期の長編である。本書「自由軌道」では、ネイスミス・シリーズの貴族社会や軍事戦略といった華々しさはない。しかし、技術者が、その知恵と技術、工夫で危機を乗り越えていくというよくできたSFの美しさがある。職人かたぎの主人公は、時に組織への忠誠を思い、時に人間としての尊厳を考え、時に美しいクァディーへの恋心に揺れる普通の人物として描かれるが、その技術と工夫の才覚故に、本書は「すてきでかっこういい」物語となっている。
 本書「自由軌道」を、ジュブナイルと見る人も多いらしいが、そのテーマ性(人間とは、人権とは、命とは)、あるいは、ふつうの「技術者」への尊敬を込めた表現力、緻密な設定などは、子ども向けではない。もちろん、青少年であっても心躍り、わくわくする物語であろう。しかし、むしろ、大人にこそ読んで欲しい作品である。
 日本放送協会の「プロジェクトX」(の初期)やそれに先立つ「電子立国ニッポン」のような番組で、日本の技術者の知恵と工夫がドキュメンタリーとして語られてきたが、それと同じように、どんな小さな仕事でも、きちんとこなし、工夫を続けていると、その知恵と知識、技術はいくらでも応用が効くようになり、そこで問われるのはその知恵や知識、技術を使う人の人間性であることを、本書はフィクションとして教えてくれる。そして、「手仕事」の大切さを教える。
 それに対比するように、人間性に欠けた「知識欲」や「出世欲」(認められたい)によって、クァディーは生み出される。この行為自体は決して許されるものではないと私は思う。しかし、生み出され、自律して行きはじめた者に、その責任はない。また、彼らは彼らとして「生命」であり、「人間」である。故に、彼らは生きることを選ぶ。それは当然のことだと私は思う。
 生命とは自律するものであり、誰かが「生みだした」としても、「支配」することはできない。このことは、現代の様々な生命をめぐる問題についても同様である。
 ネイスミス(ヴォルコシガン)・シリーズでも、「生」の力について多く語られるが、単独の物語として、本書「自由軌道」は読み応えのある作品である。
ネビュラ賞受賞
(2005.10.17)