放浪惑星

放浪惑星
THE WANDERER
フリッツ・ライバー
1964
 アメリカとソヴィエトが月に数名の基地をつくり、月の調査を行うようになったちょっとした未来に、突如、太陽系外から超空間を通じてひとつの惑星が月の軌道そばにあらわれる。月は破壊され、地球もその影響を受けて、地震や津波、火山活動に見舞われる。人類始まって以来の危機は、地球外知的生命体の暴挙によって生まれた。
 月基地にいた男、月探査の広報を行う男、月基地にいる男の恋人、その猫、奔放な自主演劇の女優、ベトナムへの密輸と難破船の宝漁りを続けるマレー人、ひとり乗りの船で旅をする冒険家、大統領を狙う飛行機テロに向かう男、シージャックされた原子力客船の船長、酒飲みの詩人、UFOマニアのグループ…。地球上にいる様々な人たちが、驚き、翻弄され、そして、死に、あるいは生きのびていく。
 宇宙への競争で遅れをとったアメリカにとって、月への一番乗りは悲願であったが、それは1969年まで待たなければならなかった。そんな宇宙開発時代の古き良きSFである。
 今読むと、その科学的な知識は古くさい。おそらく、当時でも、「それは違うんじゃないか」といった指摘があったのではなかろうか。もっとも、本書では、E.E.スミスのレンズマンや、エドガー・ライス・バロウズの火星シリーズなどが直接言及されるなど、1964年当時での「過去のSFのオマージュ」であったのだから、そういうことはあまり気にならなかったのだろう。
 本書「放浪惑星」と同じように、地球に惑星が接近するSFと言えば、「地球最後の日」(フィリップ・ワイリー&エドウィン・バーマー)をすぐに思い出すが、こちらは1932年の作品で、巨大な2つの惑星が地球に接近し、地球が壊れ、代わりにひとつの惑星が地球軌道におさまって、人類はわずかに救われるというものであった。本書でも、2つの惑星が登場するものの、そのふたつの惑星は、地球のすぐそばで惑星間宇宙戦争をはじめてしまい、地球はただの傍観者である。そして、彼らは地球がそばにあることなど気にならなかったように消えていってしまう。そこにはただ、荒れ果てた地球と、生き残って呆然としている地球人と、粉々になった月があるだけだ。本書では、人類は右往左往するだけで、まったく何もなすすべがなかった。ただ、翻弄され、いきさつを見守り、生き残れるものなら、生きのびるための努力をするだけである。
 背景を考えれば、ベトナム戦争当時の「無力感」があるのではなかろうか。そんなことをふと感じてしまう。
 ちなみに、今手元にある本書「放浪惑星」は、創元SF文庫で、1976年の第5版である。初版は1973年。1976年といえば、私は小学生だが、本書を購入したのはそれからずっと後で、おそらく高校か大学に入ってからだろう。すでにカバーもなく、初めて読んだときの記憶さえない。もしかしたら、積ん読だったのかも知れない。内容にほとんど記憶がない。本書「放浪惑星」が世に出てすでに40年。繰り返される「地球破壊」テーマSFの歴史の中の1冊として、記憶と記録に残り続ける作品なのだろう。
 そうだ、本書の中には、いくつかマレー語もしくはインドネシア語と思われる単語が出てくる。とてもわかりやすい単語で、私でも分かってしまった。これを最初に手に取ったときの私では分からなかったことだ。年をとるのも悪いことではない。
ヒューゴー賞受賞
(2005.12.15)  

惑星ゾルの王女

惑星ゾルの王女
ZORA OF THE ZOROMES
SPACE WAR
LABYRINTH
ニール・R・ジョーンズ
1935
 ジェイムスン教授シリーズ第3弾は、「悲恋! 惑星ゾルの王女の巻」「弔合戦 惑星ミュムへの出撃! の巻」「教授危うし! 金属喰い怪物あらわる!」の3編が掲載されている。
 いよいよ機械人たちの母星ゾルに到着し、その生身の王女ゾラと面会した機械化人で人類最後の生き残りであるジェイムスン教授は、その4千万年におよぶ生と冒険をゾラに話すのだった。惑星ゾルには、機械化されていないゾル人が生きている。それは、人口を減らさないための最低限の生身であり、王女もまた生身であることが義務づけられていた。
 宇宙の冒険者ゾル人たちは、はて万能かと思われたが、そのすぐ近くの惑星系で、ゾル人が機械化することを教えたミュム人たちが、ゾル人をたおして宇宙の覇者になろうと野望をたくらみ、戦争状態がはじまっていた。王女の生身の恋人も、この戦いに巻き込まれていく。果敢に立ち上がる王女と、その生身の身体をおもいやる教授。今、惑星系間の宇宙戦争がはじまった! というのが、最初の2作品。
 3作目は、戦争も終わり、ふたたび冒険隊を結成して旅に出た教授とゾル人達。ところが、たどりついたおもしろくもない惑星で、教授と機械化したゾル人たちは、これまでに出会ったこともない危機に襲われる。なんと金属を喰う生命体が登場したのだ。絶体絶命の教授。はたして、生還する道はあるのか!
 てなもんで、表紙とイラストは、藤子不二雄氏。物語は翻訳者野田昌弘氏の例の絶好調口調ですすむ。はたして原文はどんな文章だろうと思わずにいられない「野田昌弘」節で、ジェイムスン教授も思わず口調がなめらかに「なってしまうんだなァ」。
 本書のあとがきによると、邦訳されている4冊12編はアメージング・ストーリーズに掲載されたもので、最後の作品が1938年である。その後、アストニッシングに4編が発表され、これは、1940年から42年。そして、スーパー・サイエンスに5編、1949年から51年にかけて掲載され、合計21編があるという。
 ちなみに、本書「惑星ゾルの王女」は1974年にハヤカワSF文庫から出されている。手元にあるのは、同年6月の第2版。1冊280円の時代であった。古きよき時代であった。
(2005.12.15)

復讐への航路

復讐への航路
MARQUE ANS REPRISAL
エリザベス・ムーン
2004
 21世紀のスペースオペラである。前作「栄光の飛翔」では、宇宙運送会社一族の令嬢カイ・ヴァッタが、惑星宇宙軍士官候補生としての夢を追われ、失意の元で老朽船の片道運送船長として乗り込み、ひょんなことから次々と事件に巻き込まれる中で成長していく姿を描いている。
 本作「復讐への航路」は、前作にほとんど時間差なく幕を開ける。
 彼女と一族を狙ったテロ、無時間差通信のアンシブルシステムを狙った破壊工作が大規模にはじまる。ヴァッタ一族は、主要な血族をほぼ失い、一族としても、宇宙運送会社としても存亡の危機に立たされる。しかも、ヴァッタ航宙と良好な関係にあった惑星スロッター・キーの政府も、ヴァッタ航宙を見放してしまう。
 惑星ベリンタに足止めを食らったカイ・ヴァッタは暗殺や運送船の破壊工作に次々と襲われる。家族の安否を気遣いながらも、生きのび、敵を探し、叩き、ヴァッタ航宙を再建するために立ち上がるカイ。
 そして、そのカイのもとへ、元スロッター・キー宇宙軍の軍曹、ヴァッタ一族の女スパイや天才エンジニアの少年、さらには、過去にいわくありげな中年スパイ、はたまた前作でカイの天才的な対処能力に舌を巻いたマッケンジー傭兵社までが集まりはじめる。
 軽妙な会話、ステーションでの派手な個人アクション、そして、息詰まる宇宙空間での艦隊戦、白兵戦…。
 日本のSFアニメや「マトリックス」のようなSF映画を見ている人なら何の違和感もなく物語に入り込めるだろう。
 本作「復讐への航路」は2004年に原著発表され、2005年に訳出されている。ほぼリアルタイムで翻訳されているので、次回作も出版され次第、翻訳に取りかかられると思われる。
 世界観に特別なものはないが、いつでも若者の成長譚というのはおもしろいものだ。
 なお、作者も自認している通り、本書はミリタリー(軍事)SFであり、(正しい態度の)軍および軍人に対して尊敬の念をもって書かれている。ある意味でとてもアメリカ的な作品である。
 自立意識の高い主人公が、軍とそれに象徴される正当な政府への帰属という考え方に常に理解を示しているあたり、矛盾があるのではないかと思うのだが、なんのくったくもなく両立させている。
 そもそも軍というシステムが嫌いな人には、そのあたりが苦手かも知れない。
 このあたりの矛盾を物語として昇華しているのは、ロイス・マクマスター・ビジョルドの「マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンシリーズ」の方であろう。こちらは、主人公の出自を軍人帰属社会で惑星政府を保持、代表する立場の存在として位置づけ、その上で、自立意識の結果としてデンダリィ傭兵隊という元は架空の部隊を作り、その将軍になるという形に見せている。また、そのクローンの登場や父の若い頃の行動との対比などで、常に、個人と政府、社会、義務と身分といったことへの対比を読者に提示する。
 そういう葛藤が本シリーズでは今後出てくるのだろうか。
 本作「復讐への航路」の中にも、カイに対して、スロッター・キー政府への帰属と、ヴァッタ航宙の再興、さらには、復讐の完遂といった目標に対して、それぞれが矛盾するかも知れないとの指摘が登場人物からなされている。その点は今後の楽しみとしたい。
(2005.11.30)

放浪惑星骸骨の洞窟

放浪惑星骸骨の洞窟
INTO HYDROSPHERE
TIME’S MAUSOLEUM
THE SUNLESS WORLD
ニール・R・ジョーンズ
1933
 金属の箱に入ったサイボーグ・ジェイムスン教授シリーズの第二弾は「水球惑星義勇軍出撃の巻」「教授なつかしの四千万年昔へ戻るの巻」「放浪惑星骸骨の洞窟の怪の巻」の3短編である。脳みそを金属缶の中に入れられ、取り替え可能な4本の足と6本の手、そして360度の視界を持つ目を持つジェイムスン教授が宇宙の時空を超えた大冒険である。
 それぞれに、「ジェイムスン」らしさがでる、古典的スペースオペラであるが、なかでも必見はタイムマシンで過去の地球の歴史をたどる「教授なつかしの四千万年昔へ戻るの巻」であろう。1930年代にはわくわくしたであろう太陽系創生の秘密、人類の誕生などが書かれていて楽しい。
 ちょっとネタバレになるが、太陽系の惑星ははふたつの太陽がすれ違って生まれ、そもそも地球は第四惑星であったのだ。
 人類は紀元前20万年前には群居生活で、家族の形成をはじめていた。
 その頃、すでに火星では知的生命の文明が興り、地球にも宇宙船を飛ばしていたのだった。
 そして、地球にも文明が興り、アトランティス大陸は沈み、その後は歴史に書かれている通りである。
 地球は、20世紀終わりか21世紀になって、宇宙塵の厚い雲に覆われ太陽を見失う。人類は地下に都市を築き、そして100年後、危機が去り再び地上に都市を再建する。23世紀には宇宙に進出し、数百年後には火星、金星などへの植民を行った。人類は太陽系全体に版図を広げ、数百万年に渡って後退と進歩を続けた。しかし、その後、太陽系外からの異種生物侵入により人類は絶滅の危機にさらされる。ようやく侵入者を追い出したが、太陽系文明は崩壊した。そして、数十万年後には、人類の姿が大きく変わりはじめる。平均寿命は1万年近くとなり、衰退する太陽系を脱出し、シリウス星系に移住する計画をすすめていた。そして、太陽系から生命の姿が消えた。1950年代から500万年のできごとである。それからさらに3500万年の間、ジェイムスン教授の遺骸は地球の周りを回り続けたのだ。ゾル人達に発見されるまで。
 どうだろう。なかなか派手な人類の興亡ではないか。
 物理学的、生物学的、あるいは、歴史的不具合は気にするな。
 気持ちを1930年代に戻して、未来を夢見ようではないか!
(2005.11.30)

銀河ヒッチハイク・ガイド

銀河ヒッチハイク・ガイド
THE HITCHHIKER’S GUIDE TO THE GALAXY
ダグラス・アダムス
1979
 2005年公開の映画「銀河ヒッチハイクガイド」の原作。映画が出たため、河出文庫から新訳にて出版されたのを購入した。まず、まだ映画を見ていない。できれば見たいと思っている。同居人が「見たい! 読め!」と言ったので読んだ。そもそも、ラジオドラマの原作者によるノベライズという作品なので触手がのびなかったのだ。そういえば新潮文庫に「銀河ヒッチハイク・ガイド」という作品があったのは覚えている。残念ながら読んでいない。
 あまりSF人間ではない同居人がなぜ本書を読めと迫ったかといえば、同居人が本書「銀河ヒッチハイク・ガイド」ではある哺乳動物が出てくると聞きおよんだからである。同居人はその哺乳動物がことのほかお気に入りで、わが家ではその一族の一種が同居人とともに生息している。
 これを明かすとネタバレというか落ちバレになってしまうので、これ以上は書かない。
 いわゆるコメディSFにあたるもので、イギリスではかような作品といえば、テレビシリーズの「宇宙船レッド・ドワーフ」が思い当たる。NHKで吹き替え放送され、その後DVDとしても販売され、わが家でも購入したが、とにかく笑うための作品であり、英語で見ればより楽しめる作品となっている。残念ながら私はそれほど英語能力が高くないのだが、それでも英語版がおもしろい。もっとも、「レッド・ドワーフ」では、日本語吹き替え版もなかなかうまくできていて、どちらもしっかりと楽しめる。
 海外では、このように古典SFや先端科学、あるいは、時事や歴史的な事象をパロディ化したSFドラマがいくつか見受けられる。日本では、こういうSFドラマが少ない。かつてはNHK少年ドラマシリーズのようなSFドラマがあったが、パロディものは思いつかない。科学やSFが身近なものになっていない証拠だろう。一方で、アニメや漫画では宇宙やロボットあるいはバーチャルリアリティなどが頻繁に登場しており、決して素養がないわけではない。またアニメや漫画にはパロディSFもある。いずれ、こういう作品群が登場して欲しいものだ。
「銀河ヒッチハイク・ガイド」も、英語が分かったり、その文化的・社会的背景が分かっているとより楽しめる作品であり、この作品の魅力を日本語で訳するのはとても難しいことだったろう。今回の映画、それからテレビ版のDVDあたりはちょっと楽しみにしている。なぜなら映像的あるいはラジオドラマ的作品だからだ。
 さて、内容だが、話は簡単。地球は宇宙の道路工事の都合で壊され、たまたま地球に銀河ヒッチハイク・ガイドの現地調査に来ていた実は宇宙人の友人フォード・プリーフェクトによって助けられた地球人唯一の生き残りアーサー・デントのふたりが、次から次に訪れるめちゃくちゃな危機にパニくりながらもなんとか元気に走り回る物語である。なんのこっちゃと言われそうだが、銀河系の大統領や鬱の人工知性ロボットなど登場人物もめちゃくちゃなのでご安心。まずは映画を見て、楽しかったら本書を読もう!
(2005.11.29)

啓示空間

啓示空間
REVELATION SPACE
アレステア・レナルズ
2000
 本文1032ページの文庫本。辞書か弁当箱か…。ハリー・ポッターの5巻(英語版)も弁当箱だったが、文庫でこのサイズとは恐れ入った。重量500g。いつも使っている文庫カバーをまくことができなかった。いつも本屋ではカバーをしてもらわないので、この本もカバーなしで購入したが、本屋さんはこの本をどうやって巻いているのだろうか。いや、巻けるのか?
 10億年前、宇宙では黎明期戦争と呼ばれる戦争があった。そして、この銀河宇宙に知的生命体の痕跡が消え、そして、いくつかの知的生命体が生まれては、消えていった。人類は、宇宙でそんな文明の痕跡を見つけながら、宇宙の謎、知的生命体に出会えない謎を追い求めた。本書「啓示空間」はそんな26世紀の物語である。
 宇宙考古学者のダン・シルベステは、イエローストーン星の有力家の出身。リサーガム星の文明が99万年前に滅んだ理由を探ろうと調査移民をひきつれてやってきたが、その後、妻に調査船ごと奪われてリサーガム星に足止めをくらい、そして、統治をめぐってクーデターが起こり、失脚する。ダン・シルベステの父、カルビンは、人格として認められないベータレベル・シミュレーションとして存在し、ときおりダンの相談相手となっている。
 はるかイエローストーン星では、シルベステ暗殺の計画がはじまっていた。
 いっぽう、近光速で移動することができる巨大な宇宙船ノスタルジア・フォー・インフィニティ号は、機械と生体が混ざり合う融合疫におかされたサイボーグ船長を治療するためにシルベステ親子を捜していた。
 失脚しても、とりつかれたようにリサーガム星の文明崩壊の秘密を探ろうとするシルベステ、そのシルベステの過去を知ろうとする若き女性のパスカル、そして、シルベステを殺そうとするアナ・クーリと、近光速船のイリア・ボリョーワの出会いが、2566年のドラマに向けて動き出す。
 近光速による時間の相対性があるために、主観時間は2460年から2567年に渡っての物語であるが、登場人物はそれぞれの主観時間で動いているので、登場人物が顔を揃える2566年を基点に考えれば、せいぜい15年ほどの物語である。
 スタニスワフ・レムの「ソラリスの海」のような惑星が登場したり、レンズマンシリーズを彷彿とさせる「黎明期戦争」が語られたり、惑星破壊級の自動起動兵器が登場したり、シミュレーション人格、長命技術、機械と生体の融合体、バーチャルリアリティなど、さまざまなSFガジェットが散りばめられている。
 本書「啓示空間」は、スペースオペラであり、ハードSFであり、ミリタリーSFであるかも知れないが、シルベステという主観時間200歳を超えてなお定まらない人生を背負った主人公のドラマでもある。
 おもしろいか、おもしろくないか? とりあえず1000ページを超える作品を一気に読ませるだけのものではある。だが、読み終わって、すっきりするかといえば、そうでもない。
 本書「啓示空間」は、1冊でいろんなSFをしっかりと楽しめる点では傑作なのだろう。
 歯切れが悪い? それは結末のネタばらしができないからだ。ほぼ1000ページ近くにならないと、その結末は見えてこない。だから、すっきりしたい人は、本書「啓示空間」を読んで欲しい。
 なお、個人的な趣味で、主観時間には混乱があるが記述された年号をある程度揃えて並べておく。
23世紀頃?最初のユーロパン無政府民主主義国家
2390年 シルベステ研究所が軌道上にデータを転送する
2427年 軌道上のデータ移動する
2439年頃 レイビッチ家シルベステ研究所のデータコアを破壊、シルベステ、シュラウドから生還
2460年 シルベステ、近光速船で船長を治療
2524年 イエローストーン星アナ・クーリ殺人引き受け
2543年 近光速船でイリア・ボリョーワ、ナゴヌルイを殺す
2546年 イエローストーン星にボリョーワ降り、アナ・クーリをリクルート
2551年 リサーガム星でシルベステ発掘作業
2561年 リサーガム星でシルベステ軟禁
2563年 リサーガム星でシルベステ伝記の取材を受ける
2566年 リサーガム星でシルベステ3度目の結婚、近光速船リサーガム星軌道へ、シルベステ、近光速船乗船
2567年 シルベステ、ケルベロス星内部へ
(2005.11.28) 追記 読者より主人公の名前が間違っていると指摘をいただいたので修正した。 正しくは、ご覧の通り ダン・シルベステであるが、私は「シスベルテ」と18カ所すべて誤記していた。スとルの位置が違っている。とほほ。

黙示録3174年

黙示録3174年
A CANTICLE FOR LEIBOWITZ
ウォルター・ミラー
1959
 1980年代に広島市に住んでいた。2005年の今はどうかわからないが、当時、NHKテレビやラジオをつけていて、広島ローカルの時間になると、「被爆当時、○○町に住んでいた○○○○さんのことを確認できる方を探しています」といった内容の放送がなされていた。被爆者健康手帳申請などのためであるが、1945年から40年経っても原子爆弾による放射線障害をはじめとする傷跡は、原爆ドーム以上の現実として存在していた。8月6日からの数日、広島の町を散策すれば、何も標識のない道ばたや路地にしゃがみこんで祈っている人の姿があった。
 私が広島市を離れてからも15年が経っている。今年は、1945年から60年となる。その年に生まれた人も60歳である。被爆二世も60歳となる。
 冷戦終結後、全面核戦争の脅威は去ったかのように、人々は安心しているが、世界にはいまだに全人類を殺してもあまりある核兵器が配備されている。陸に、海に。そして、ないはずの日本にさえ。
 今や超大国となった某国は、「正義」の鉄槌に、「劣化ウラン弾」というさも通常兵器のようなふりをした、核分裂反応による脅威はなくても、確実に長期的に人々に癌などをもたらす放射性物質をふりまいている。私を含めた人々は、その「正義」の正しさの前に、人々が人により殺されているのをただテレビの前で傍観している。
 どうも、私は「核兵器」のこととなると感情的になるきらいがある。それは、ただ人を殺すだけでなく、人と生命系に崩壊と混乱をもたらすからである。
 さて、本書「黙示録3174年」は、冷戦のさなか、第三次世界大戦や全面核戦争の脅威が現実のものとして感じられた1950年代に発表された、核戦争の後の世界を描く作品のひとつである。同様のテーマの作品としては、「渚にて」(1957 ネビル・シュート)が有名である。「渚にて」では、核戦争直後の世界を描いているが、本書は、大戦後6世紀、12世紀、18世紀後の世界を描いている壮大な物語である。
 本書「黙示録3174年」は、1971年に創元SF文庫として邦訳されている。私は、1979年の第10版を手元に持っている。おそらく、80年か81年頃に購入していて、その頃は熊本県の山の中に住む高校生だった。本書「黙示録3174年」は、光瀬龍の本のタイトルのように年号を後ろにつけたタイトルであり、そのかっこうよさと、核戦争後の世界という釣り書きに惹かれて読んだのだが、内容がキリスト教の話にしか読めなかったため、一度通読はしたものの、流し読み程度で放置していた。今回がはじめての精読である。購入してからはや25年が経っている。
 本書「黙示録3174年」は3部構成になっていて、全面核戦争は、1970年代に起こったことになっている。第一部「人アレ」がそれから6世紀後の2570年頃で、第二部「光アレ」がさらに6世紀後の3174年頃、第三部の「汝ガ意志ノママニ」がそれから6世紀後の3781年頃である。原題は、「リーボウィッツへの詠唱」といったところで、リーボウィッツ修道会の歴史を通じて語られる未来史である。リーボウィッツは、全面核戦争時の科学者で、全面核戦争後、わずかに残った人類の間に焚書運動が起きる中で、知識の保存(文書の保存)のために、キリスト教の一修道会に帰依し、尽力した人の名前である。
 第一部では、リーボウィッツ上人が聖人になる過程、全面核戦争後6世紀を過ぎて、過去の知をすべてなくし、日々を生きる中で、その意味すら分からないままにもリーボウィッツの意志を守る修道会の姿が描かれる。
 第二部では、全面核戦争から12世紀を経て、力を持つ国による世界の統合への試みがはじまり、同時に、知の再発見と科学技術の萌芽がみられた時代を描く。リーボウィッツ修道会に守られている文書が真のものであり、科学の発展に寄与することが、その時代の科学者によって明らかにされる。
 そして、第三部、全面核戦争から18世紀を経て、ふたたび人類は、全面核戦争の時代を迎える。超大国同士が宇宙時代を迎え、互いに覇権を競って究極の我慢比べをはじめ、ついに、同じ結末を迎える。より徹底的に。そして、一握りの宇宙に出て行った人たちが、人類の唯一の希望となり、キリスト教にとっての希望ともなった。
 本書は、宗教または哲学と、科学または権力との対話の物語であり、今も失われつつある人類へのレクイエムでもある。キリスト教の思想や宗教観が分かっていると、この作品のおもしろさ、ユーモア、ブラックユーモアがよりよく理解できるだろうが、残念ながら、そのあたりは想像するしかない。ただ、それが分からなくても、おもしろく、かつ、いろいろと考えさせられる作品であり、今日的な作品価値はまったく減じていない。むしろ、国が大国化し、超大国化していくところ、科学技術が、自らの志向性を持ち、「人のため」「便利さのため」という部分的志向性によって人の存在を破壊していく傾向を持つことなどを、宗教的な対話によって喝破しているあたりは、911以降の今こそ読んでほしい作品である。といっても、別に説教くさくはないからご安心を。
 本書では、SFとしての新しい技術や道具といったものは登場しない。なんといっても物語のはじまりが全面核戦争で文明が崩壊して6世紀後の混乱した社会であるのだから。それでも、未来を積み重ねていく手法は、伝統的なSFそのものである。「渚にて」よりもSF的色彩は強い。「ポストマン」(デヴィッド・ブリン)もいいけれど、本書「黙示録3174年」もぜひ読んで欲しい。
ヒューゴー賞受賞
(2005.11.19)

マッカンドルー航宙記 太陽レンズの彼方へ

マッカンドルー航宙記 太陽レンズの彼方へ
THE McANDREW CHRONICLES2
チャールズ・シェフィールド
2000
 2002年11月に作者シェフィールドが亡くなったそうである。そのため、本書を含む「マッカンドルー航宙記」シリーズは、本書と、前著「マッカンドルー航宙記」(1983年 創元SF文庫)の2短編集となってしまった。残念。
 2005年に15年ぶりの邦訳となった本書「太陽レンズの彼方へ」は、前短編集では収録されなかった作品及び、その後に書かれた作品をまとめたものである。もちろん、本作品も天才物理学者のマッカンドルー博士と女性でマッカンドルーとは長いつきあいの宇宙船船長ジーン・ローカーの名コンビが、いくつかの事件を引き起こし、あるいは巻き込まれていく。前作では、物理学の理論を作品にうまく組み込ませていたが、本作品では、より「ドラマ性」あるいは、「人間への興味」に重点が置かれている。ストーリーとしてのおもしろさを全面に出した作品群である。
 もちろん、SFとしてのおもしろさは抜群である。
 タイトル編ともなっている「太陽レンズの彼方へ」を取り上げてみたい。新たな超新星が誕生し、確認されたため、太陽の重力を利用した焦点位置での観測を試みたところ、その途中で、「方舟」からの救難信号を受信した。「方舟」とは、かつて小惑星を改造して太陽系を離れた移民星であり、さまざまな少数民族や少数の価値観を同じくする集団(宗教集団など)が思い思いの方向に向かっていったのである。その救難確認のために、マッカンドルー博士とローカー船長が宇宙船を出す。ところが、その「方舟」は…。
 というストーリーで、ネタバレになるが、「人工知能」ものである。さらりと「人工知能」の進化の可能性について楽しい読み物に仕立て上げているが、話のキモとなるのは「太陽レンズ」であり、人工知能の方は、ストーリー上のおまけみたいなものである。そのあたりのバランスがよい作家であった。残念。
(2005.11.19)

猫のゆりかご

猫のゆりかご
CAT’S CRADLE
カート・ヴォネガット・ジュニア
1963
 なんとまあ。1963年の作品である。1968年には邦訳され、1979年に文庫化、1983年の第4刷が私の手元にある。18歳の秋であった。本書「猫のゆりかご」はSFである。たぶん。アイスナインという常温で結晶化する氷が登場するから。考えてもみてごらんなさい、常温で水が氷になったらどうなると思います。ねえねえ。どうなると思う。
 たいへんだ。
 だからSFである。
 本書がヴォネガットの名前を一躍有名にしたのは、「アイスナイン」のせいではない。本書のストーリーでもないと思う。本書に出てくる「ボコノン教」という新興宗教のせいである。
 映画「スターウォーズ」で、「フォース」と、「ダークサイド」あるいは、「ジェダイ」といったキーワードをもとに、メジャーな楽しみ方とは別に、新興宗教的取り上げ方をする人たちがいる。文化的文脈で言われるカルト(カルト映画)などとは異なり、明らかに宗教的文脈で「スターウォーズ」を語っている。
 同様に、本書「猫のゆりかご」もまた、書かれている「ボコノン教」により、文化的文脈としてのカルト作家ではなく、宗教的文脈としての扱いをされる場合がある。
 たとえば、インターネットで検索をかけてみるとよい。日本でさえ、いくつもの「ボコノン教徒」サイトがある。あるいは、ボコノン教を名乗るもののサイトがある。
 その是非は問うまい。いろんな理由があろうし、なにより「ボコノンの書」は、「わたしがこれから語ろうとするさまざまな真実の事柄は、みんな真っ赤な嘘である」からはじまっているからだ。
 問うてもしかたがないではないか。
 本書「猫のゆりかご」が世に出たのは、1963年のアメリカであり、1963年のアメリカは、ベトナム戦争をもって語られる。ちょうど、本格的な武力介入に入る頃である。
 人々の気分はその後のアメリカにとってのベトナム戦争をもって知れよう。
 同時に、1963年のアメリカは、ケネディ大統領とその暗殺をもって語られる。
 そして、本書は、「世界が終末をむかえた日」という章をもってはじまり、「あとがき」によれば、あまり売れなかったようである。しかし、その後2年間で、「猫のゆりかご」の評価はカルト的に高まったという。
 みんな何かが嫌だったのだ。
 そういう作品である。
 ちなみに、作品の前半の主題となっているのが、原爆の父のひとりフィーリクス・ハニカー博士が、1945年8月6日の広島原爆投下の日に何をしていたか、を、3人の子どもをはじめ様々な人に主人公が取材するという形で進む。もちろん、フィーリクス・ハニカー博士など、存在していない。ボコノン教だけでなく、「本書には真実はいっさいない」のだ。1945年8月6日に広島に原爆は投下されたけれども、残念ながら、それは真実だ。「真実はいっさいない」本書に真実が書かれていても、それは、真実ではない。真実の扱いは難しいのだ。
 ヴォネガットは、あらゆる形の「戦争」に対して、作品を書く。そのためか、SFなのか、文学作品なのかわからないものが多い。幸い? 日本では、ほとんどがハヤカワからSFとして出されており、われら日本のSF読みは安心してヴォネガットの作品に手を出せる。こういう作品は、SF免疫があった方がよい。ついついだまされるから。ちゃんと、「真実はいっさいない」と作者が書いているのにかかわらず、人は、そこから真実を読み取ろうとするのだ。くわばらくわばら。
 それが人間というものかも知れない。
 だから、本書の中で、ときどき、ハニカー博士の末っ子で、「こびと」のニュートが作者に言わされている。「猫、いますか?」「ゆりかご、ありますか?」と。
 本書のタイトルでもある「猫のゆりかご」とは、あやとりのこと。毛糸で大きめの輪をつくって、それを両手の指でああしてこうしてそうする、あのあやとりである。アメリカでは、「猫のゆりかご」という名前の付いた形があるらしい。「猫、いますか?」「ゆりかご、ありますか?」
(2005.11.11)

ホーカス・ポーカス

ホーカス・ポーカス
HOCUS POCUS
カート・ヴォネガット
1990
 1990年に発表され1998年に邦訳文庫化されたカート・ヴォネガット後期の長編作品である。1922年生まれの作者だが、2005年現在、まだご健在のようである。
 本書「ホーカス・ポーカス」は、2001年に書かれたユージーン・デブズ・ハートキの自伝的著書として書かれ、カート・ヴォネガットは編者ということになっている。ハートキは1940年に生まれ、80万冊の蔵書を誇る刑務所の図書館で裁判を待ちながら本書を書き連ねている。
 彼は、大学入学直前に陸軍士官学校に入るはめになり、そのままベトナムへ。ベトナム戦争の終結を受けて帰国し、ある学校の教職につく。教職を追われ、刑務所の教員となり、最後は、その刑務所の大脱走の責任を問われて、今に至る。
 彼は、図書館で過去のもつれを紐解きながら、その半生をふりかえる。
 舞台はアメリカである。経済的に日本に占領されたアメリカといってもいい。刑務所の運営も日本人がやっていたからだ。
 ヴォネガットらしさがいっぱいの作品である。なかでも私が気に入ったのは、作中に出てきて、あらすじだけが書かれるベトナム戦争従軍中に友人の別の兵士が誕生祝いに送ってくれた「黒いガーターベルト」というポルノ雑誌に掲載されていたSF「トラルファマドールの長老の議定書」である。宇宙の超知性体が、「寿命の限られた自己増殖のある生物を、全宇宙にばらま」くために、地球の人間に目をつけ「彼らの脳が細菌のための恐怖の生存テストを発明できるかどうか」を検討し、人間にそれをゆだねたのだ。だから、人間は、究極かつ宇宙に飛び出す細菌を生み出そうと努力を続けているのだった。
 まさしく、ヴォネガットである。
 80年代に書かれているため、当時の世相をよく反映している。
「アメリカの支配階級は、自国の公共資産と企業資産を略奪し、自国の産業をうすのろどもの手に預けました」と彼はいった。「それから、自国の政府に日本から巨額の借金をさせたので、われわれはビジネススーツを着た占領軍を派遣するしか選択の道がなくなった。ある国の支配階級が、彼らの富に含まれるすべての責任を他国に押しつけ、しかも、貪欲の夢さえおよびつかないほどの富豪でいられる方法を発見した例は、これがはじめてです! 彼らが昏睡状態のロナルド・レーガンを偉大な大統領だと考えたのもふしぎではない!」(ハヤカワ文庫版314ページ)
 80年代は、ちょうどレーガンの双子の赤字政策によって、円高ドル安、アメリカの貿易赤字=日本の貿易黒字で貿易戦争と言われた時代である。日本は、それもひとつのきっかけとしてバブル経済に突入するのだが、アメリカでは、すべての資産を日本が買っていくと言って騒いだものだ。おお、今はまた逆になっている。アメリカ(外資)が日本の資産を買っていくと、こっちが騒いでいる。個々人にとっては大きなことだが、大きな視点で見れば、親会社アメリカ、子会社日本の連結決算上でのやりとりと言えなくもない。
 これまた、作品ではなく、現実がヴォネガット的。
 こんなのもあった。
「1,000,000,000人の中国人が、まもなく共産主義のくびきを投げ捨てるのだから、と彼はいった。かなぐり捨てたあと、中国人ぜんぶが自動車とタイヤとガソリンとその他もろもろを欲しがるだろう、と。」(同244ページ)
 当時からアメリカでは中国台頭論が出ていて、2005年の今、まさに、そういう問題が起こりつつある。ただ、人口はもっと多くて2001年現在、1億2千700万人とされている。共産主義のくびきは投げ捨てなくても、いつのまにか自由主義の経済システムにしっかりのっかっているあたり、これもヴォネガット的かもしれない。
 もうひとつ、引用ついでに、ちょっと長いが引用する。「彼が相続した会社の1つは、石綿を原料に各種の製品を作っていたが、その粉塵は既知のどの物質より発ガン性が強いことがわかった。それを上まわるのは、エポキシ接着剤と、過って核兵器工場や原子力発電所の周囲の大気や帯水層に放出されたある種の放射性物質だけだった。(中略)
 彼はその会社を2束3文で売り払った。あるシンガポール企業が、機械設備と建物、アメリカ国内では売れない莫大な量の在庫商品も含めてその会社を買った上に、すべての訴訟の処理を引き受けてくれたからである。そのシンガポール企業は、エドその人が逆立ちしてもやれないことをやってのけた。石綿を使った床タイルや屋根ふき材をアフリカの新興独立国へ売りつけたのだ」(同194ページ)
 こういう文が書かれている作品を今年読むのも、ヴォネガット的である。
 2005年、日本では突然、石綿(アスベスト)由来の中皮腫(ガン)が社会問題化し、アスベスト製品の処理対策が大問題になった。もっとも、この問題は、60年代に知られ、80年代後半、まさに本書「ホーカス・ポーカス」が書かれた頃に社会問題となり、一部対応されたもので、今突然に起きたことではない。ただ、当時言われていた危険性(中皮腫)が現実になったために、以前よりも大騒ぎしているだけだ。騒ぐ時を間違えたのである。
 なんとヴォネガット的。
 ところで、ホーカス・ポーカスとは、でたらめな呪文やいんちきな言葉(嘘など)のこと。奇術師が言うまじないせりふなども「ホーカス・ポーカス」というそうだ。
(2005.11.11)