親愛なるクローン

親愛なるクローン
BROTHERS IN ARMS
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1989
 ネイスミスシリーズとしての時系列長編第4弾が本書「親愛なるクローン」である。日本で出版されたのは、長編2作品目で、「戦士志願」の後に出されている。本書の、主人公マイルズ・ネイスミスは、27歳。デンダリィ傭兵隊の提督として、艦隊の修理のため地球に現れる。中編集「無限の境界」のタイトル作品でバラヤーの機密保安庁から請け負った作戦を終えた後、セタガンダの艦隊や秘密部隊に追われ、バラヤーの軍部と接触ができないまま地球に来てしまったというのが実情だ。だから、マイルズ・ネイスミス提督は、デンダリィ傭兵隊の資金繰りに困ってしまう。地球では、バラヤー大使館付きの大佐にかけあうものの、資金はいつまで経っても送られてこない。しかも、彼は地球に滞在中、バラヤーの有力貴族として、マイルズ・ヴォルコシガン中尉としてのふるまいも行わなければならない。
 ここにはじめて、マイルズ・ネイスミス提督とマイルズ・ヴォルコシガン中尉が同じ星にいて公衆の目にさらされるという状況が生まれてしまう。どちらがばれても大変な問題になるどころか、セタガンダは、ネイスミス提督の暗殺を目論んでいるのだ。もし、マイルズが殺されるようなことがあったら、バラヤーとセタガンダの緊張関係は極端に高まる、それどころか、デンダリィ傭兵隊とバラヤーの関係が発覚することも危険きわまりない状況である。
 そこで、マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンが思いついたのは、「クローン」。一人二役の理由をクローンに仕立てたのだ。もちろん、クローンなのは、マイルズ・ネイスミス提督。本物はバラヤーの皇位継承権を持つマイルズ・ヴォルコシガンである。
 マイルズは、この冴えたアイディアを活用して危機を乗り越えようとするが、ところが…。
 というのが、本書「親愛なるクローン」の入口である。古き惑星地球の姿、バラヤーがかつて併合したコマールの反体制革命家、コマールとバラヤーの融和の証であるバラヤー軍のコマール人大佐、ネイスミス提督をつけねらうセタガンダの軍、バラヤーとセタガンダの緊張、ふたつの顔を持つマイルズをはさんで、多くの陰謀がうずまき、マイルズを危機また危機に陥れる作品だ。
 ここからはネタバレである。
 それで、嘘が嘘でなくなる。実は、本当にマイルズのクローンが違法に作られ、今のマイルズに成り代わるために育てられ、教育されてきた。もちろん、身体的な不具合は、マイルズの状態をスパイし、それに合わせて健康な身体を手術して変形させてきたのだ。道具としての生きて知性を持った存在。
 バラヤー貴族でありながらも、母が先進惑星であるベータ星の出身であることからバラヤーらしからぬ考え方にも慣れているマイルズにとって、彼のクローンは彼の弟であり、真の敵であってはならない。ましてや、道具として知性を利用することに対し、マイルズはそのことに怒りを隠さない。そして、マイルズを狙う道具としての存在と、弟として、「被害者」としての存在はマイルズにジレンマをもたらす。
 そのジレンマと、マイルズのようには育てられていないもうひとりのマイルズの登場で、前作まで時にはマイルズのもうひとりのトリックスターとして登場していたイワン・ヴォルバトリの位置づけがちょっと変化をみせる。
 それにしても、ここで主人公的な存在をもうひとり増やしてしまったことで、このシリーズは「なんでもできる」状態になった。
 そこで、次作「ミラーダンス」では、このクローンとマイルズが登場し、ついにマイルズが死んでしまうのである。さてさて、いよいよ目が離せない。
 ところで、地球の人口は90億人で安定しているらしい。これだけ植民惑星があれば、ちょうどいいのかも知れない。
(2005.10.12)

無限の境界

無限の境界
BORDERS OF INFINITY
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1989
 長編で構成されているネイスミスシリーズの中編集である。3編がおさめられていて、入院中のマイルズがイリヤン機密保安庁長官との会話の中から回想したり、彼に語り聞かせるという形で1冊につないである。
「喪の山」は、マイルズ20歳の物語。マイルズは、士官学校卒業直前の休暇中にヴォルコシガン卿の領地にある別荘を訪ねていた。領地内の小さな村からひとりの女がマイルズの父である国守ヴォルコシガン卿に裁定を求めに来る。殺人の告発であった。小さな先天的奇形を持つ娘が殺されたというのである。他星系から長く隔絶していた帝国バラヤーを他の先進国並みに引き上げたいと願うヴォルコシガン国守は、マイルズに代理として裁定を下すよう命じる。せっかくの休みをふいにされそうなマイルズは、手っ取り早く解決しようとその村に入るが、そこで見たのは、無知と貧困、彼が責任を負わなければならない庶民の現実であった。自らも、「ミューティ」と呼ばれ、奇形を許さないバラヤーの風土の中で育ってきたマイルズは、次期領主として、ひとりの人間として、村人の閉鎖的な社会に入り込み、その窓を開かなければならない。
 とても静かな作品である。そして、まったく同じ問題は、この日本で、あるいは、世界中いたるところで大なり小なり起こっている問題である。長編でないからこそ、その物語のエッセンスが光り、マイルズ・ヴォルコシガンという主人公の性格故に、この物語は陰湿にならず、破綻もしない。本作品は、ヒューゴー賞・ネビュラ賞の両賞をとっている。SF的な要素を抜いても成立するようなこの作品が両賞をとったことは、少々の驚きであるが、この作品が人の心に静かな波紋を広げたことは間違いない。
「迷宮」は、マイルズ23歳。デンダリィ傭兵隊のネイスミス提督本領発揮の作品である。作品中には人間の遺伝子に動物の遺伝子を組み込んだ実験体で「狼女」のような「ナイン」が出てくる。実験体の体内に隠された実験試料を入手するために、実験体を殺すためジャクソン統一惑星の商館のひとつに潜入したマイルズ・ネイスミス提督は「狼女」が知性を持った存在であることに気がつき、彼女を作った者、殺すことを指示した者に対して深い憤りを持つ。そして…。
 ビジョルドがよくテーマとする「遺伝子改変」を率直に取り上げた作品だが、なかでもこの短い作品は知性や人間性について語りかける物語となっている。
 さらには、ネイスミスシリーズと同じ宇宙史に属しつつも、より古い物語である「自由軌道」で登場した新人類クァディーのひとりも登場し、この物語のテーマである「遺伝子改変」にもうひとつの視点を加えている。「自由軌道」のファンにもおすすめ。
 タイトル作品である「無限の境界」は、マイルズ24歳の物語で、そのまま長編「親愛なるクローン」に続く物語である。セタガンダの捕虜収容所に閉じこめられた1万人を超す捕虜たち。そのひとりを救出するためにバラヤー帝国機密保安庁から命令を受けたマイルズは、収容所に自ら捕虜として入り込む。物語はもうひとつの「戦士志願」である。マイルズならではの才覚で1万人の人間たちをまとめあげ、そして、大脱走をなしとげる。しかし、マイルズはそこで多くのものを失う。信義を受けたものたちの死は、彼にとって成功の代償としては大きすぎるものだったのだ。
 3作品とも、テンポよく物語はすすみ、マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンならではの行動、会話、事件が語られる。長編だけでなく、もっとこういう小さなエピソードも読んでみたいと思わせる。シリーズの特徴がよく出ている作品集なので、長編が苦手な方は、ここからとりかかるのもいいかもしれない。でも、やはり、まずは、「戦士志願」から入って欲しいものである。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞
(2005.10.5)

天空の遺産

天空の遺産
CETAGANDA
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1996
 ネイスミスシリーズとして、時系列では長編3冊目に当たるのが本書「天空の遺産」である。本書では、デンダリィ傭兵隊も、ネイスミス提督も出てこない。マイルズ・ヴォルコシガン卿として、皇位継承権を持つ皇帝陛下の代理人としての登場である。舞台は、マイルズの祖国であるバラヤー帝国にかつて侵攻し、敗退したセタガンダ帝国の母惑星エータ・セタ第四惑星。セタガンダ帝国の皇太后の国葬に出席するために、いとこで幼なじみのイワン・ヴォルパトリル卿を従えやってきたのだ。マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンは22歳。機密保安庁付きの中尉である。
 セタガンダ帝国は、人間の遺伝子改変と選別・選択によって、ふたつの支配階級による複雑な統治が行われている。真の支配階級であるホート貴族と、軍人階級であり、実際にバラヤーにも侵攻したゲム貴族である。ゲム貴族は、その勇猛な攻撃性で他星系にも知られているが、ホート貴族については、星系外に出ることも少ないためほとんど知られることはない。さらに、ホート貴族の女性についてはベールに包まれ、見ることさえもあたわなかった。
 マイルズとイワンは、到着早々から知られざるホート貴族の根幹に関わるようなトラブルに見舞われる。早々に上司への報告をすすめるイワンを尻目に、マイルズはどっぷりとトラブルの深みにはまりながら、すべての解決に向けて探偵ばりの行動をはじめる。それもこれも、見ることの許されないホート貴族の女性を一目見てしまったために…。
 ハンサムで女たらしのイワンを横目にみながら、ホート貴族の女性への思いをつのらせ、格好いいところを見せるためにがんばってしまうマイルズ。彼の属するバラヤーのために働いているのか、それとも、宿敵セタガンダのために働いているのか、時折自問自答しながらも、彼はトラブルと謎に惹きつけられ、その解決に向けて行動する。
 翻訳者のあとがきにもあるが、本書「天空の遺産」は、日本の平安朝の宮廷を下敷きにして書かれているという。ホート貴族は平安の貴族であり、ゲム貴族は武士であると考えればよい。平安の貴族社会のように、女性は決して表に出ない。ホート貴族は女性の子どもを皇帝の跡継ぎの男性に嫁がせることで、外戚として権力をふるうことができる。切ることのない長い黒髪、姿を見せずに会話する姿、十二単のような重ね着など、細かく「平安」の物語を取り入れつつ、ビジョルドらしいトリックと、女性像、さらには、遺伝子改変された人類の姿を描き出す。
 日本文化を取り入れた海外SFを読むと、その小さな間違いや違和感に気がついて、物語に入り込めないことがある。しかし、本書「天空の遺産」では、読んでいる間に、日本文化的な影を感じるものの違和感はない。気づかなくても不思議ではない。そのくらい、きれいに「下敷き」にしてある。
「外交とはなべて、他の手段による戦争の継続である」と、周恩来の言葉からはじまる今回のマイルズのゲーム、果たしてマイルズはどっぷりとはまりこんだセタガンダ帝国の深層からどうやって抜け出すことができるのか? そして、彼が最後に見たもの、得たものとは? 残念ながらネイスミス提督は出てこないが、マイルズの才覚がいかんなく発揮され、いとこであるイワンとの掛け合い、対比もうまく、同じシリーズの別のおもしろさを感じることができる。
(2005.10.5)

ヴォル・ゲーム

ヴォル・ゲーム
THE VOR GAME
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1990
 ネイスミス・シリーズで「戦士志願」に続く物語である。マイルズ・ネイスミスは20歳、士官学校を無事卒業したものの、彼に要求されたのは「上官への服従」。もとより、誰かに服従することができないマイルズ・ヴォルコシガン少尉は極北の歩兵冬期訓練基地に気象観測士官として着任することを求められる。6カ月の勤務を無事にこなせば、予定されている新造宇宙戦艦への転任が保証されている。しかし、もちろんそうはいかない。
 極北の基地でトラブルにみまわれ、次に着任したのはイリヤン機密保安庁配下の大尉の下だった。大尉の下で、緊張関係にある空域にいる、デンダリィ傭兵隊をはじめとする動向調査におもむくことになる。もちろん、マイルズの役割は、大尉の指揮に従って、必要に応じてネイスミス提督の役割をもう一度演じること。
 ところが、ふたたび彼を襲うトラブル、いや、彼が招いたトラブルというか。さらには、もうひとりの「トラブルメーカー」が登場し、ヴォルコシガン少尉/ネイスミス提督/武器商人ヴィクター・ローザである、マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンは、のっぴきならない立場に追い込まれてしまう。
 しまいには、星間戦争一歩寸前まで進んだ緊迫した情勢の中で、彼は守るものを守り、奪うものを奪い、取り返すものを取り返し、そして、上官の命令を聞くことができるのか? 彼が選んだ選択は??
 ということで、展開のはでな作品である。どの作品も展開ははでなのだが、本作品は、新任士官という立場と、行方不明のままだった傭兵隊提督という立場、それに、偽装のための立場、トラブルの結果抱え込んでしまった立場と、マイルズも自分で自分の立場が混乱してしまうような状況を、行き当たりばったり、はったり、口八丁、偶然の切り返しで解決し、さらに大きなトラブルまでもなんとかする、読後感はすっきり爽快な作品である。
 本シリーズでは、遺伝子改変と人間性がテーマになる作品も多いが、本書「ヴォル・ゲーム」にはそのような深いテーマはない。「皇帝であること」「貴族であること」といった、「逃れようのない身分」のありよう、「義務と信念」についての考え方、あるは、「軍の指揮と個人の意志」みたいなものを話の筋におきながら、楽しくマイルズを楽しむことができる。
 SFの要素を抜くと、「軍事スパイもの」作品といってもいいぐらいだ。
 もちろん、宇宙空間で戦艦同士の戦闘など、スペオペ要素もたっぷり入っていて、SFならではの趣向もこらされている。
 主人公たちの丁々発止の会話と、きちんと間に挟まる必然性のある戦闘シーンなど、本書「ヴォル・ゲーム」がヒューゴー賞を受けるのも納得である。
ヒューゴー賞受賞
(2005.10.5)

戦士志願

戦士志願
THE WARRIORS APRENTICE
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1986
 エリザベス・ムーンの「栄光への飛翔」を読んだら、久しぶりにマイルズ・ネイスミス提督に会いたくなった。そこで、「戦士志願」をひっぱりだして読み始めた。本書は、ネイスミス・シリーズのマイルズ登場第1冊目であり、彼、または、彼の家族、仲間たちを主人公にした数多くの作品が書かれている。ロイス・マクマスター・ビジョルドの執筆順は、時系列通りではなく、日本の翻訳順もだいたいは時系列に沿っているが必ずしもそうとは言えないし未訳もある。中心人物であるマイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンを中心に年代順に並べると、前後がずいぶんと入れ替わる。しかも長編だけでなく、短編集もあって、短編集は、長編をはさむ時期の話しもありややこしい。私は、創元SF文庫の出版順に読んできたので、時々前後が分からなくなった。それでも一向に構わないのは、ひとつひとつの作品の完成度が高い証拠である。
 なにせ、作者ロイス・マクマスター・ビジョルドはこのシリーズだけでヒューゴー賞を4つ、しかも、長編3、短編1を受賞し、SF史に燦然と輝く記録を打ち立てているのだ。もちろん、ヒューゴー賞だけでなく様々な賞を得ている。
 あらゆる世代の、あらゆる人のツボにはまる作品群なのである。
   しかし、せっかく読み直すのだから、今回は、時系列順に読もうと思う。もっとも、マイルズ・ネイスミスの誕生以前の話については、後で読むことにして、まずはマイルズ・ネイスミスの活躍を楽しみたい。
 本書「戦士志願」がすべてのはじまりである。
 マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンは17歳。惑星バラヤーの貴族の跡取りである。惑星バラヤーの血塗られた貴族政治社会において、マイルズの父は、第二皇位継承権を持ちながら、前皇帝、現皇帝に仕え、現皇帝が幼い頃は摂政として、今は首相として彼を支え続ける、惑星で最も恐れられる男である。母は、貴族階級などない別の惑星の軍人であったが、今は貴族の妻として、首相夫人として、その地位にある。そして、マイルズ・ネイスミスは、母が妊娠中に暗殺者の手により毒ガスを浴び、全身の麻痺や骨を含む成長がうまくできない障害にみまわれ、ちょっとしたことで骨折をしてしまう小さな身体に、きらきらと輝く目、卓越した頭脳と、喋りすぎる舌を持つ男として育った。
 物語は、マイルズが士官学校に入学できなかった日からはじまる。
 母の惑星に母方の祖母を訪ねる旅は、いつの間にか、廃船寸前の宇宙船をめぐる取引に変わり、飲んだくれの航宙士や、バラヤーの脱走兵などを次々に「救い」ながら、トラブルに巻き込まれ、いつしか傭兵艦隊の提督マイルズ・ネイスミスになるという話である。
 とにかく、マイルズ・ネイスミスの危機回避は、その人に見下される小さな身体と、幼い頃から培った上級貴族としての人心掌握術、さらには、危機を好機に変えるとっさの「弁舌」や「態度」である。つまりは、生まれながらの詐欺師とも言える。だまして、だまして、いつの間にか、誰もが「その気」になっていく。  本書、および本シリーズのおもしろさは、主人公が肉体にハンデを持つ17歳の誇り高き上級貴族の成長期の青年という側面と、一大傭兵艦隊の経営者であり作戦司令者であるマイルズ・ネイスミス提督という側面のアンバランスさ、取りかえっこを自分でやっているところ、さらには、すべての危機を手持ちの能力、人、コミュニケーションだけでなんとかすると思わせる物語のテンポのよさ、そして、登場人物の深みに負うところが大きい。
 このような物語に必ず登場する、無口で過去になにかありそうなボディーガードの軍曹の、その秘められた過去、彼と娘とマイルズの関わりの中の小さなエピソードが、その軍曹の人間を語り、そして過去が明らかになっていく。ささやかなエピソードの集まりなのだが、そこに「人間」を読むことができる。それは、重厚壮大ではないけれども、「人の物語」であり、それが、このスペースオペラに華を添える。
 スペオペなんて子どもだまし、SFなんて大人が読むものではない、あるいは、SFって難しそうという方、ぜひ一度読んでみて欲しい。個人的には、ハリー・ポッターシリーズよりもおもしろいと保証する。(もちろん、ハリー・ポッターも好きだけどね)
(2005.9.30)

栄光への飛翔

栄光への飛翔
TRADING IN DANGER
エリザベス・ムーン
2003
 私はこういうSFが好きです。はっきり言って漫画です。青年の成長譚です。危険がいっぱいです。次から次に主人公に危機的状況が襲います。自分の能力のなさを自覚しながら、自らが招いた危機を後悔しながら、その危機に対処し、さらなる成長を遂げます。
 主人公は、士官学校を無理矢理退学させられた優秀な士官候補生の女性カイ(カイラーラ)・ヴァッタ。同時に彼女は、大きな星間運輸会社ヴァッタ航宙のオーナー一族の娘でもある。カイは、廃船となる輸送船の船長として廃船先の星までベテランクルーとともに片道の輸送航行に出る。しかし、そこで見つけたビジネスのチャンス、そして、マシントラブル、戦争の危機、反乱…。ちょっとお人好しで、それでいてクールな新米船長のお話である。
 登場人物はみなくせがあり、若い女性船長への対応ということで、その人柄が出てくる。士官学校の教官、ヴォッタ一族、船のクルー、各星のステーションの役人、各星にある領事館大使、他の船の船長たち、傭兵会社のスタッフ、アンシブルを取り仕切る星間通信局の社員などなど並べるだけで「なにか」ありそうではないか。
 物語の王道である。
 あとがきでは、「紅の勇者オナー・ハリントン」シリーズ(デイヴィッド・ウェーバー)、「銀河の荒鷲シーフォート」シリーズ(デイヴィッド・ファインタック)の読者におすすめとあるが残念ながら私はこの2シリーズに手を付けていない。もうひとつ、「マイルズ・ヴォルゴシガン」シリーズ(マスター・ビジョルド)との共通点を挙げられていたが、これについては同感である。このシリーズは、身体的なハンデを持つ貴族の青年が士官を目指し、士官学校に入る。陰謀と危機につぐ危機を回避しているうちにいつの間にか、別の大きな傭兵組織のリーダーにもなってしまい、軍(王)、傭兵、貴族(自分の一族)の間でいくつもの顔を持ちながら八面六臂の活躍をしている。その物語のパターン、あるいは、読後の爽快感は同じものを感じる。
 しかし、そこは作者が女性であり、女性からの視点も魅力のひとつである。たとえば、傭兵会社の社長で元将軍の男の元へ、星間通信局の特別顧問の女性がやってくるシーンで、ぽっちゃりとした背の低い、ピンクのスーツを着た女性が元戦士であることに非常に驚き、彼女が「一般的な女性戦士のイメージを壊して申しわけございません、ベッカー将軍。でも、あたくしの故郷では、みな背が低いんです。それに、よほど貧しくないかぎり、みなふくよかです(後略)」と切り返すシーンがある。さりげなく、だが「固定観念の性差」をきれいに否定するシーンである。
 もっとも、このように会話で人間関係や力関係を表現してテンポよく物語を展開するのがこの作者のうまさなのだろう。
 この物語には、特筆する武器があるわけではない。出てくる戦闘シーンといえば、ピストル・ボウにナイフ、小型銃器ぐらいなもの。宇宙戦闘も、破壊工作の爆発の後ぐらいであるが、そうは感じさせない。
 SFとしても、出てくるのは、星間通信手段のSF的伝統であるアンシブルと超光速航宙エンジン、脳内に直接コンピュータ・通信手段などを入れるインプラントに、人体の治療を行う治療ボックス、失った記憶を再生する記憶挿入モジュールぐらいで、新しい道具や価値はない。物語のためのSFガジェットである。
 これで物語を読ませ切るのだから、いかに優れたストーリーテーラーだということが分かるだろう。
 ところでひとつ疑問を残しておきたい。アンシブルとは、「物理的には光速を超えられない」という制約の中で、「情報は光速などの物理属性に従わない」ことにして生まれた、光速でも通信に時間のかかるような2点間の即時通信システムのことであり、女性作家ル・グィンが1950年代に「発明」したものだが、本作品では、超光速航宙エンジン、いわゆるワープがあり、アンシブルは、それよりも早い通信ネットワークという位置づけになっている。このあたり、アンシブルの定義としてはどうなのだろうか。この視点で、他のアンシブル作品も確認してみたいと思う。
(2005.9.25)

マジック・キングダムで落ちぶれて

マジック・キングダムで落ちぶれて
DOWN AND OUT IN THE MAGIC KINGDOM
コリイ・ドクトロウ
2003
 インターネットが生活の中で身近になってはや10年となった。スタンドアローンでOSすらなかったパーソナルコンピュータの時代は通り過ぎ、しだいにネットの中の端末と化しつつある。いい例が、日本の携帯電話であろう。できることは限られているが、そもそも、スタンドアローンでは成立し得ない「電話」というしくみの中にコンピュータの機能が取り込まれ、インターネットとの融合をはじめている。多くの人々はそれを支持し、もはやそれなしには生きられないと感じている。もっと、「それなしには生きられない」というのは常にそのときの気分であって、なかったらなかったで生きられるのが人間のいいところでもある。
 さて、かつてP・K・ディックが描いた、仮想化された社会の中での「疎外」の問題は、今の社会生活の中にどこにでも転がっている普通のことになってしまった。他者とつながっているという幻想を追い求め、仮想化された世界の中に蠢く者たちは、ある時、他者の目が自分に向けられていないことに気づき、絶望する。
 不死と、無限のエネルギーを得て、仮想化された「信用」「評価」「つながり具合」を経済指標にして日常を過ごしているのが、本書の世界である。人々は、身体と同一化した「道具としてのコンピュータ」、もうひとつの感覚器と化した「仮想空間=ネット」の中で、現実を生きていく。とりわけ、マジック・キングダム=信用経済により新たな所有/経営形態となったディズニーランドは、そもそもそこが仮想的な体験の場であったが故に、本書が仮定した世界を象徴する。
 不死は、クローンと記憶の保存/移植によって成立している。誰でも、たとえ殺されても、一定の記憶が失われただけで、新しい肉体を手に入れ地上に立つことができる。現実にたいくつしたら、肉体を殺し、仮想空間の中で、一定の時間、1日でも、1年でも、100年でも、1万年でも、眠った(死んだ)ままでも、時々目覚める形でも存在することができる。そして、復元することも可能だ。
 もちろん、真の死も真の誕生も可能。しかし、真の死は恐れられ、その数は少ない。たとえ宇宙で生活する人が増えていっても、真の誕生が多い以上、地球は人口過剰になっていく。つながった人たちが増えていき、その「信用」の総量は多くなっていく。つまりは、経済的に人類は発展しているわけだ。
 よかったよかった。
 とても21世紀初頭的なSFなのだろう。いい意味でも悪い意味でも、21世紀初頭のアメリカ的なものが薄く広がり、未来的な日常になっている。仮想されている舞台は22世紀後半だと思われる。私にはまだ、このSFが評価できない。おもしろくないと言っているわけではない。テーマは古典的だが、斬新な視点でたぶんとてもおもしろい作品だ。ただ私には、登場人物の心のありようがわからないのだ。それは、私が不死ではないからかも知れない。そして、まだ若い作者は、限りなく不死に近いのかも知れない。そして、ネット上で個人の「信用・評価」を得る(失う)ことに価値を見いだす社会は、不死と無限のエネルギーという本書の前提条件なしには成立しにくいのではないかと思う。
 今のネット社会は、有限の生、有限のエネルギーの中で、他者とのコミュニケーションとともに信用・評価を求めているが、これとは根本的に異なるのではないだろうか。コミュニケーション、信用・評価、あるいはネットへのアクセスを得られない、または、求めない者たちは、この未来の社会に属することはないだろう。もし、属しようとすれば、それは苦痛でしかないはずだ。その状態を「疎外」という。
 そのことは、本作品でも主人公が嫌と言うほど途中で味わっている。もっとも、主人公はその後、きちんと「元に戻って」いるが。
 不死なる者たちの心のありようを少しかいま見たい方にはおすすめだ。
 なお、本書は、クリエイティブ・コモンズのライセンスの下、原著(英語)がウェブサイトで公開されている。ダウンロードして読むことも可能だ。ドクトロウの作品は、同様に彼のウェブサイトで読める。
ローカス賞受賞作品
(2005.09.24)

奇妙な関係

奇妙な関係
STRANGE RELATIONS
フィリップ・ホセ・ファーマー
1960
 フィリップ・ホセ・ファーマーの初期短編集である。本書には、「母」「娘」「父」「息子」「妹の兄」が掲載され、1953年から1959年に発表されたものである。このうち、「母」(原題:MOTHER)と「娘」(DAUGHTER)は、連作になっており、あとの3作品はそれぞれ独立した短編となっている。「母」「娘」は、異星知的生命体と人類のお話し。「父」は、異星生命圏における異星の知的生命体と人類のお話し。「息子」は地球上での人間と人工知性体のお話し、「妹の兄」は火星の生命圏と、異星知的生命体と人類のお話し。「父」を除いて、4作品は、主人公である人類と「異種知性」とがほぼ1対1の閉ざされた状況になっており、その奇妙な関係性を問うている。
 人は、知性は、異種なる他者が存在したときにどのような関係性を見るのか、その生存が他者に極めて高く依存せざるを得ないとき、どのような関係性をもって自らを位置づけ、自らの世界観に当てはめようとするのか。
 私たちは、他者を理解することができるのか、できないのか。
「母」では、病理学者の母と、離婚したばかりの傷ついたオペラ歌手の息子が、異星に不時着し、それぞれ別々に知的生命体の体内に取り込まれてしまう。その知的生命体は、メスのみであり、他種の動物がある行為をすることでオスの役割を果たし、生殖を行う生命体であり、幼年期を過ぎると動かない生命体であった。動くのは「オス」であり、「オス」は知的ではない。それがその知的生命体の生命観である。そこに「オス」として取り込まれたふたりの人間。息子を主人公として物語が語られる。
 そして、「娘」では、母の体内で生まれ育った「娘」が、その体内でともに暮らした「父」である知的な「オス」=人間との奇妙な生活を語り、「娘」がいかにしてその知的生命体の集合体の中で「母」をしのぐような権力を得るにいたったのかを語る。
 この2作品はとりわけおすすめである。
 「父」や「妹の兄」では、人類型の異星人が登場し、コミュニケーションも容易であり、人類的である錯覚が物語の書き手/読み手を支配するが、「母」「娘」では、異星人が実にみごとに描かれ、その繁殖と成長が、異星人の思考を形作っていることを示している。さらに、「母」や「娘」で語られるのは実際の人間同士の親子、とりわけ、母-息子、父-娘間の関係性であり、そこに人間的なというより、むしろ男性的な性欲を持ち込めないが故に、それらの関係性が「奇妙」であることを鋭く描き出している。
 そもそも、ファーマーは、SF界のタブーを破り、生々しい性をSFに導入した作家とされている。しかし、生々しい性には、「関係性」がつきものである。彼はそのことをよく理解した上で、SFという状況をうまく生かして生々しさの中に「関係性」を表現したのだ。
 もちろん、現在にいたっては、そんなタブーなどSF界には存在せず、だからこそ生々しさも減じている。現実の世界でも、秘められていたはずの「関係性の奇妙」さが、インターネットやテレビなどによって、あたりまえに語られるようになり、サブカルチャーとカルチャーの境目が薄れているのだから。  でも、それだからこそ、ファーマーが描き出した、岩のようなものに包まれて動かず、じっと異種のオスを待ち、生と性を内部にて行うメスだけの異星生命体は、象徴として、具象として、今の我々にも迫ってくるものがあるのではなかろうか。
(2005.9.22)

太陽系帝国の危機

太陽系帝国の危機
DOUBLE STAR
ロバート・A・ハインライン
1956
 創元推理文庫SF 1964年初版、1980年25版、定価280円。
 つくづく、今の文庫って高いなあ。当時よりもたくさんの作品が出る分だけ、1冊ごとの発行部数も少なくなっていて、物価の上昇もあって高くなったのだろうか。
 ところで、本書は井上勇氏の訳となるものだが、1994年に同じ創元より森下弓子氏の訳で原題の「ダブルスター」のまま再刊されている。「レンズマン」シリーズなどいくつかの作品が創元で新訳として出されているが、本書もまた、新訳として出されるくらいSF誌に残る名作のひとつなのだろう。
 はたしてこれがSFか、SFでなければならなかったのかどうかは疑問の残るところであるが、50年代までのハインラインしか書けない作品であることは疑う余地もない。
 火星人、ロケットなどが出てくるものの、内容は高名な政治家の代役を行うこととなったひとりの役者の話であり、物語の原型のひとつを忠実にたどった作品である。火星人をある異民族や外国と置き換えてもいいし、ロケットも必ずしも必要はない。本書をSFでない設定で同様に語ることもできるだろう。しかし、50年代SFパルプマガジンの忠実な設定の上で、ハインラインの思想を物語の原型にのせて語りきり、それを、娯楽として息もつかせず、一気に、2時間ほどあれば十分読み終えることができるよう仕立て上げるのがハインラインの力量である。
 ストーリーは、月に皇帝をいだく太陽系の中で、火星では異星人である火星人と地球人の共生が模索されていた。火星人と地球人が同等の権限を持ちつつ、人類は外へ、星の世界へと拡張していくべきという思想をもった党の党首が誘拐され、その代役としてアメリカ人の役者が騒動に巻き込まれる。彼は火星人に異種嫌悪を持ち、政治的な関心を持たない金に困っただけの役者である。しかし、その党首になりきることで、彼はしだいに変わりはじめる。といった、「影武者」ものである。社会のリーダーとその影武者、そして、火星人との儀式、皇帝の役割、誘拐した敵の存在、内からの裏切りと支援、主人公の悩みと成長など、わかりやすい物語である。そして、ハインラインはこのわかりやすさを駆使して、自らの思想を人々に伝える。
 私は彼の思想に共感するものではないけれど、そのエネルギーには驚嘆してしまう。
 なお、本書を現代において読み解くには、ハインラインの思想もさることながら、その時代背景も加味しておく必要がある。第二次世界大戦が終わり、朝鮮戦争が停戦したものの、アメリカでは反共産勢力の嵐が吹き荒れ、冷戦下において「自由」や「国家と個人」が鋭く問われていた時代であり、この頃のハインラインは、社会への義務を持つ徹底した個人主義・自由主義を確固として求めていた。第二次世界大戦という「自由」と「解放」の戦いに勝利したアメリカで、女性やマイノリティが求めた「自由」や「解放」の意志に対し、社会は反発的な差別意識をあらわにした時代でもある。
 その点で、一方で火星人という「日本人」よりも理解できない存在との相互理解と共存を表現するハインラインの徹底の美しさと、個人的行動ではマイノリティの表現にいびつさをみせてしまう時代的表現にとまどうこともあるだろう。
 私はハインラインの「身分は義務を伴う」という言葉に秘められている個人主義の中の選民的思想などには気持ち悪さを感じるが、それでも、ハインラインは娯楽を通して自らを表現できる希有な作家であることは間違いない。
 彼がもし2005年の現在に生きていたら、「身分に義務が伴うこと」を忘れ、欲と身勝手に満ちた権力のありようを見て、どんな娯楽大作を我々に提示しただろうか。
 ああ、そうそう日本にも「わかりやすさ」を表現するに長けた者がいるが、残念ながら彼はSF作家ではなく、政治家であった。この国と国民にとって大変不幸な職業のはき違えであろう。
(ヒューゴー賞受賞)
(2005.9.8)

時空の支配者

時空の支配者
MASTER OF SPACE AND TIME
ルディー・ラッカー
1984
 新潮文庫から吾妻ひでお氏のイラストで登場したのが、R・ラッカーの「時空の支配者」。翻訳はもちろん黒丸尚氏(故人)。昭和62年(1987年)に国内で出版されており、ラッカーの長編初翻訳作品だった。現在は、ハヤカワSF文庫にも収録されている。もちろん黒丸訳のまま。こちらの表紙は横山えいじ氏。個人的には吾妻氏の表現世界とラッカーの文章(黒丸訳)はとても合っていると思うので、もし機会があったら、ぜひ新潮版を探して欲しい。
 さて、ラッカーである。「時空の支配者」と来たものだ。難しく言えば、時間とは、空間とは、世界とは何か? に迫る本格ハードSF、なのだが、そこはラッカーである。とんでもないふたり組が、3つあるいはそれ以上の願い事を叶えられる機会を得たら、何をしでかすか? 世界を救う? とんでもない。彼女や妻の頼み事を聞き、トカゲをゴジラに変身させ、金を手に入れ、思いつくまま、気の向くまま…なんてったって「時空の支配者」なのだから。ところがそうは世界は簡単にいかないもの。別の世界からこの世界に「あれ」が侵入してくる、宗教は起こす、脳みそが背中に乗っかってぐにぐにする、ポークチョップの藪とフリッターの森が世界を浸食する…。そこで、飲んだくれながら、裸の羽根をつけた空飛ぶ美女の背に乗って、男はひとり闘うのだった。世界を救うために!!!!
 SF的アイディアシンプルかつ途方もないもの。それは、プランク定数を「だます」こと。必要なのは、グルーオン。さて、どうなりますことか。
 笑いが必要な方も、宇宙論、時空論が好きな方も、どちらも間違いなくご満足いただけるのがこの作品のいいところ。今こそあなたは真実を知るのだ! 誰が宇宙をつくったのか。
 ところで、もし3つの願い事がかなえられるならば、私は何を願うだろうか?
 人類の力で人類を含む地球の生態系がいくつかの太陽系外惑星に移植され、それぞれのあり方で繁栄する未来。
 そこそこ健康で、そこそこの人生の中に、今も一緒に食べる人との日々の恵まれたご飯。おいしい食材、米、魚、野菜、豆、肉、醤油や酢がいつまでも手に入り、いい水と空気と土と、燃料に恵まれること。
 たくさんのSFとファンタジーに恵まれ、多くの人が、SFとファンタジーの本を読み、出版を願うような状況。
 なんてわがままな願いだろう。でも、まずは、米!かな。
(2005.09.17)