フラクタルの女神

フラクタルの女神
THE NATURE OF SMOKE
アン・ハリス
1996
 原題「煙の性質」が邦題「フラクタルの女神」になり、日本語の読者の前に2005年に登場した。アン・ハリスのデビュー作である。
 原題は、カオス理論の性格を言い表したものだが、邦題の「女神」は主人公の少女マグノリアではなく、マグノリアが愛した分子生物学者シディエラ・アヴォンダ・マーセリーズ(1992年7月3日生まれ、女性、愛称シド)のことであろう。
 さて、この女神は「自分の心という森の中に立って」「自分とあらゆる世界の本質的な結びつきを真に理解した」啓示を受けつつも、現実の日々の生活では「善と悪、男と女、自己の世界と”外”の世界」といった二項対立、二者択一から離れられず、「言葉や階級や家族やそのほか、現実を無関係な単位に分割する細分化にとらわれるあまり、われわれすべてを含む”全体”からまた隔てられてしまった」となげく科学者であり、この壁を壊す道を探し求める求道者であった。
 物語は、カオス/フラクタル/マンデンブロ集合、人工知性、有機ロボット、予測不可能性を持つロボットの可能性、量子の非局所性を援用したミトコンドリアの共鳴、そして、世界を識る能力の獲得をキーワードにしながら、偶然という必然の積み重ねのように繰り広げられていく。悪く言えば「ご都合主義」だが、カオス理論や量子の非局所性を物語に展開するため、「ご都合主義」と切り捨てるのは作者に悪い。
 舞台は21世紀前半、貧富の格差がさらに広がった世界。マグノリアが生まれ育ったのはアメリカの貧民窟。天才的な能力を持ちながらも、教育を受けず、文字も読めない彼女は、限られた中でも才を発揮し、また、驚くべき身体能力の高さを持って危機を逃れてきた。彼女が住む世界は、金とドラッグと暴力とセックスが蠢く「男ども」の世界。
 彼女にとって物理学、生物学、数学を道具に「自分のしたいことだけをして」自らの夢を現実にしようと研究を続けるシドは、自分自身の理想の反映であり、同化の対象であった。シドにとってのマグノリアは世界の一部分であり、必要があればマグノリアを切り捨てることができただろうが、マグノリアにとってシドは彼女自身であり切り捨てることができない存在である。少女の悲しい恋の物語なのかもしれない。
 個人的には、作者が産みだしたバイオロボットや人工知性の物語をもっと読みたいのだが、作者は、「世界観の転換」に重きを置いているため、これらの小道具は次々と後ろに追いやられていく。小道具どころか、何かありそうな登場人物もまた次々と後ろに追いやられていく。そして、すべては、シドとマグノリアの物語に収斂する。
 あとがきにもあったが、たしかに、本書には、「ブラッド・ミュージック」と同様の世界の変容を描いている。しかし、それが女性作家であることなのかどうかは分からないが、新井素子が「ひとめあなたに…」で世界の終わりをひとりの女性としての気持ちにまとめたのと同じく、女性作家であるアン・ハリスはブラッド・ミュージック的世界の変容を予感させつつ、ひとりの女性としての気持ちで取りまとめてしまう。
 ただし、新井素子が「少女」というアイデンティティで世界に対峙したのに対し、アン・ハリスは「少女」を含めた二項対立や世界の細分化と対峙したアイデンティティの確保を目指している。この点は大きく違うところである。
 作品世界観でみれば、本書は吉田秋生の「バナナ・フィッシュ」に近いものを感じる。天才美少年アッシュを軸に、荒廃した80年代アメリカで特殊なドラッグをめぐり金とセックスと暴力が繰り広げられ、巻き込まれた日本人少年・英二との愛にも似た友情が語られる。この女性版だと思えばいいのかもしれない。
 そうか、デビュー作ということで詰め込みすぎなのかもしれない。もし、これが、日本の少女漫画として書かれていれば、詰め込みすぎの部分も「絵」として表現され、それが物語の「含み」になったのかもしれない。ということは、映画向きなのか? もしかして。いっそハリウッドで映画化すればヒットするかも。たとえ作者の意図とは違っても。
 ちなみに女神は女神であるが故に転生するのだが、そこは作品のエンディングと関わるので読者だけのお楽しみである。
(2005.8.26)

遊星よりの昆虫軍X

遊星よりの昆虫軍X
BUGS
ジョン・スラデック
1989
 SF界のひとつのジャンルとしてスラップスティックやギャグ、パロディなどの「笑い」がある。ふつうの「お笑い」と異なるのは、SFというジャンルのコンテクストを理解した上でずらすとか、SFというサブカルチャーの「おたく」的要素をうまくくすぐることで、読者を笑わせるとか、SFならではの設定を用意して、SFのコンテクストをそのまま活かしてどたばたにするなど、読者(読み手、対象)と手法の選択が重要になる。
 日本でもSFコメディやSFパロディ、あるいは、SFギャグなどが作品としてあり、なかでも大原まり子、岬兄悟夫妻が編集している「SFバカ本」は、SFの笑いを軸に、SF界、SF外界の作家に新しい世界を切り開かせ、読者にSFの幅広さを提示しており、決して主流にはなり得ないながらもSFの裾野を広げるために欠かせない重要な取り組みを続けている。出版社がこれに取り組まないのは、読者層がきわめて限られるためであるが、SFの重層性から言えば、笑いに取り組むことは欠かせないはずである。
 さて、本書はタイトルを見れば分かるとおり、「笑い」カテゴリーのSFである。
 リアルタイムに日米で繰り広げられていた80年代後半のAI、プログラマー協奏曲の変奏曲というところか。帯には「AIロボット開発計画が大暴走! 奔馬性ギャグも大爆発! SF最後の奇才の怪作」とある。ちなみに翻訳出版されたのは1992年の秋で、バブルをはさんだ経済狂乱のまっただなかでもある。
 話は、イギリスの売れない作家がアメリカで一旗あげようといさんで来たものの、迎えたのはゴキブリだらけの安アパート。売ってくれるはずのエージェントは消えるし、連れてきた妻は怒って帰るし、テクニカルライターとして面接に行った会社ではプログラマーとして採用されてしまうし、あげくに人工知能ロボットの開発チームに入れられるし、軍は動けばソ連のスパイや日本のスパイはうごめくし…。ということで、帯通りのどたばたである。
 ここからが難しい。
 おもしろくなくはない。いや、まあ、おもしろい。でも、なんとなく奥歯になにかが詰まっている。それは、翻訳不可能性である。
 どうも作者は英語で遊んでいるようなのだ。文章、単語、アメリカ文化、アメリカSF、アメリカSF映画など、さまざまなことで英語を使って遊んでいるところを、訳者は何とか雰囲気だけでも伝えようと努力している。その努力は買う。えらい。よくこんな本を1冊訳した。
 しかし、伝わらないのである。しょうがない。いくらアメリカSFとハリウッド映画に毒されているとは言っても、英語と日本語、その文化的背景までは伝わらないのだ。しかも、80年代テイスト満載であり、80年代のあの空気を理解していなければ分からないはずだ。「笑い」の作品は難しいのである。
 じゃあ、原書を探して読むか? と聞かれると、うーん、どうだろう。
 もし、90年代初頭に、英語が読めて、原書が手元にあり、時間があったらきっと読んでいて、笑っただろう。でも、もしだらけである。残念。
 もし、原書が手に入ったら、比較しながら読んでみたい。翻訳って難しいんだなということを知るには最高の1冊かもしれない。
 もし、この作品が古本屋さんにあったら、やっぱり買って読んで欲しい。そして、訳者の苦労に涙してほしい。それから、もうひとつ、スパムってダイレクトメールでも、電子メールでも、文の組み立てや誘い方(だまし方)って同じだなあ、ということにクスリとしてみたい方は、ぜひ読んで欲しい。
(2005.8.25)

マッカンドルー航宙記

マッカンドルー航宙記
THE McANDREW CHRONICLES
チャールズ・シェフィールド
1983
 1978年から83年にかけて書かれた連作短編5作品をまとめたのが本書である。主人公は「わたし」ことジーニー・ローカー船長である。本書はローカー船長の一人称で語られ、それが適度な短編のテンポの良さとぴったりあって、三人称では考えにくいほどうまく作られている作品群である。彼女は、最初は地球軌道からタイタンまでの定期航路の輸送船船長として登場する。相棒として登場するのはアーサー・モートン・マッカンドルー。実は太陽系最高の頭脳との呼び名も高い天才物理学者で、1年に4カ月休みをとってはローカー船長の船に乗り込み、ささやかな技師としての手伝いをしつつ、天才ならではのブラックホール実験を行ったり、思考実験を繰り返している。
 この時代、地球には100億の人口がおり(実はついこの間まで110億人だったのだが、10億人がひとりの男の狂気によって殺されたばかりなのだ)、太陽系の各地には小惑星などを利用したコロニーがあって、宇宙開発時代を迎えていた。宇宙船のエネルギーには、カーネルことカー・ニューマン・ブラックホールが使用され、それぞれの宇宙船に小さなブラックホールが管理されて搭載されていた。
 2話になると、50Gであっても人間がぺしゃんこにならない宇宙船システムが実験船としてマッカンドルーにより開発され、ローカー船長は、それまでの輸送船船長から、ペンローズ宇宙研究所の実験機パイロットとしてマッカンドルーのもとで仕事をすることになる。それは、なによりもローカーのもつ「危険への敏感な経験」を買ったものだった。  ということで、作者曰く、ハードSFであり、実科学理論とSF科学理論の明確な部分を巻末に作者自ら解説を加えることでより楽しめる作品となっているとのことである。
 ハードSFと聞くと、科学の知識をある程度「以上」持っていなければストーリーが理解できず、途中からちんぷんかんぷんになって、あまつさえ時には数式や公式やなにやら難しい科学理論のページが数ページ続いたりして途中で放り投げ…という方もいることだろう。
 私もどちらかといえば科学理論は苦手で、それでも果敢にチャレンジしてはいつも玉砕している。だからちょっと前書きを読んで引き気味だったのだが、それほどのことでもないので安心して読んで欲しい。おもしろいから。
 どうおもしろいかと言えば、なんだろう、「宇宙船スカイラーク号」(E.E.スミス)のような懐かしのスペースオペラ的な要素満載でありながら、「冷たい方程式」のように、物理ルールに則ったストーリー展開が用意されているところあたりだろうか。また、世代恒星船やオールト雲の生命などこれまでのSFのオマージュともいえるストーリーの出し方もうまい。もっと読みたいところだが、SF専業作家ではなくSFは寡作で、さらに日本ではあまり紹介されていないらしい。私もほとんど読んでいない。もったいないことだ。
(2005.8.25)

竜とイルカたち

竜とイルカたち
THE DOLPHINS OF PERN
アン・マキャフリイ
1994
 パーンの竜騎士シリーズ本編9作品目である。第1作「竜の戦士」が1968年に発表され、以来、正編、外伝ともに長い人気を誇っている。最初のうちは科学的裏付けをハードSFのように設定したファンタジーとばかり思っていたのだが、巻を重ねるにつけてだんだんファンタジー的要素が隠されるようになってきた。ついには、ある異世界の惑星に移住し、その後、文明の衰退を迫られた植民者たちが苦難を重ねながら生き続け、ふたたび文明の一端に触れつつ、これまで培った文化や社会を活かしていこうとする物語に変化していった。とりわけ前著「竜の挑戦」は突然いろんなことが起こりすぎ、ファンタジーを期待していた読者は置いていかれて呆然としたかもしれない。本書もまた、前著の流れを受けたストーリーだが、外伝と言ってもいいかもしれない。前著のサイドストーリーであるからだ。
 もちろんマキャフリイのことであり、サイドストーリーも独立した中身の濃い話になっている。今回は海辺の人々がテーマ。そして、隠し球は舟魚である。惑星パーンに移住する際、人類の相棒として連れてこられたイルカたちは知能などが強化され、人語を解するだけでなく発話でき、人類との間に契約関係に近いものをもっていた。イルカたちは、海で活動する人類を守り、海図を作り、天候を示し、魚群に導いた。そして、人類はイルカたちの共生者として、彼らの身体に付く血魚を捕り去り、イルカが傷病を負ったときには彼らを治療した。パーンの人類とパーンのイルカはお互いが必要となると海岸の鐘を鳴らして呼び合っていた。
 しかし、パーンに糸胞がふりはじめ、陸上のすべての生命をむしばみはじめたとき、人類はイルカから離れ北の岩棚の地帯に去ってしまった。イルカたちは以来現在まで人類に教わった言葉と彼らの歴史を口伝で守り続けてきた。そして人類がふたたび呼びかけに応える日をずっと待ち続けていた。
 そして、ついにイルカの言葉に耳を傾ける者があらわれたのだ。
 それは折しも、人工知能アイヴァスがふたたび目覚めさせられ、過去の文明に接したパーンの人々が未来への希望を持って動き始めた時期であった。
 アイヴァスの知識をもとにイルカとのコミュニケーションをはじめたパーンの海の人々。
 イルカたちの「変わった」言葉が実は、言語のオリジナルを維持しており、パーンの言語の純粋性を守ってきたはずの竪琴師たちでさえも長い年月のうちに発音や言葉が変質してきたことをアイヴァスは教えるのであった。
 物語としては、大きな事件が起こるわけではない。また、8巻までを読み、パーンの世界に触れていない人にとってはまったく分からない話が多い。
 イルカと人類の共生について考えるために本書を読みたければ、まずは、人類がバイオ技術でパーンにいた火蜥蜴を改造してつくった「竜」と竜騎士の物語を読むしかなかろう。
 イルカ類(クジラ類)の知性や人類との共生のあり方については、肉食、鯨食など食や食のあり方と漁業産業、全クジラ類を保護すべきか、ある種のクジラ類は漁業の対象にしていいのかなど、議論がかみ合わないままに、反捕鯨派、捕鯨派という形で、国、自然保護団体、動物保護団体、環境団体、市民、マスメディアがどちらかに色分けされてしまっている。そのため、本書のタイトルの時点で、これまで「竜騎士」シリーズを楽しんでいた人が敬遠したり、あるいは、まったく「竜騎士」シリーズを知らない人が本書を手に取ったりすることがあるだろう。
 しかし、そんな議論とは別に、ある種のイルカ類(クジラ類)には、他のほ乳類とは異なるコミュニケーションの楽しさがあるのは確かだし、SFの世界では、チンパンジー、犬に並んで、孤独な人類のパートナーとして存在しているのも確かである。
 だから、「イルカ」の単語に敬遠した「竜騎士」読者は、ぜひ本書を手にとって、竜とは違うコミュニケーションのあり方を楽しみ、考えて欲しい。そして、「竜騎士」を知らずに本書を手に取った「イルカ」好きの方は、ぜひ、まずは、「竜の戦士」を手にとって欲しい。自らが作り出した「竜」と対比し、そして竜と同様に「イルカ」を遊ばせるマキャフリイの視点はどちらの方にも楽しんでいただけるはずだ。
 日本では前著が2001年に翻訳され、私も買って読んだのだが、以来4年経っていてちょっと忘れてしまった。そのうちもう一度最初から読み返しておきたいと思っている。
(2005.8.14)

ウィザード

ウィザード
WIZARD
ジョン・ヴァーリイ
1980
 土星衛星軌道上衛星ティーターンは、生きたリングワールドであり、その名を自称ガイアという。ガイアは衛星の名であり、生態系であり、そしてそれらを統べる神の名であった。21世紀前半、土星探査船リングマスターがガイアを発見し、とらえられ、リングマスターの船長シロッコ・ジョーンズと、乗組員で天文学者のギャビー・ブロージッドのふたりの女性の冒険の結果、地球はガイアの存在を認め、ガイアは地球人を受け入れはじめた。そして、シロッコは、ガイアの独立エージェントである”ウィザード=魔法使い”を引き受けた。
 そこまでが「ティーターン」のお話し。本書は、それから数十年後に幕を開ける。
 ガイアは、奇跡を起こす神として地球人に知られ、お目通りがかなえばかなわぬ望みをかなえてくれる存在と信じられていた。とりわけその人知を超えた生物学的な知識と技能により、難病を治療することができる存在としてあった。
 いま、ふたりの若者がそれぞれの背景と病気での苦しみを抱え、ガイアに接見する。しかし、ガイアは冷たく言い放つ。「ひきかえに、ヒーローになれ」と。
 ウィザードの役目にへきえきしている酔っぱらいシロッコと、ガイアの下請けに甘んじているギャビーは、この若者ふたりと、ガイアでもっとも人間に近い知的生命体ティーターニスたちとともに、ガイアを周回する旅に出る。それぞれの目的と願いを胸に秘めながら。
 ロールプレイングゲームであり、ファンタジーであり、ロードムービーのような成長譚であり、神とは、生きるとは、生殖とは、を、考えるSFである。書かれた時期が1980年という微妙さと、ヴァーリイがライトノベルあるいはファンタジーに手を出したといって騒がれた作品であるが、サイバーパンク運動を経て、映画「マトリックス」で、ヴァーチャルリアリティや電脳化した存在が大衆化した現在において、本書が示唆するテーマは実に興味深い。
 本書では、仮想的空間ではなく、実在としてのガイアであり、その世界はガイアそのもので、かつガイアではコントロールできない部分も存在するという状況として設定されるが、この状況は、仮想空間において、絶対的権限者あるいは創造者の存在が、その仮想空間に影響をふるえる場合と同等の状況である。そして、意志のある絶対的権限者は、その世界に依存する存在を幸せにも不幸にもすることができる。
 ある世界に、絶対的権限を持った存在があり、そのものが意志を持ち、それを発揮できる以上、その世界には真の意味の自立も独立も自由もあり得ないのではないかという疑問を提示する。
 ここで私たちが住む世界における「神」を考えるのは意味がない。「神」の意志とその権限は宗教により異なるからである。
 むしろ、身近な意志であり権限者と、限定された世界について考える機会として考えた方がよいであろう。
 ここにものすごく魅力的で、楽しく、生命をかけてもいいほどの価値を感じられるゲームがあるとする。しかし、そのゲームには、ルールを決める人がゲームプレーヤーとして存在し、ルールを変更し、自由に采配することができる。だから、自分が単なる一プレーヤーであることを常に意識せざるを得ず、そして、絶対的権限者の顔色をいつもうかがっている自分に気がつくことになるだろう。
 そりゃあ、腹も立つ。
「ウィザード」は軽く読み飛ばしてしまえる作品だが、その本質は、あるいは、このようなゲーム的、仮想世界的作品には、権力と意志と存在のありようを解き明かすものが多くある。
 本書の続編は、「Demon」として1984年に発表されている。最初は「ティーターン」探検の船長だったシロッコが、「ウィザード」(魔術師)を経て、「デーモン」(悪魔、守護神)となったシロッコの物語なのか、気になるところである。
 ところで、ウィザードといえば、WINDOWS系OSでは、アプリケーションソフトの導入や操作を簡単にするための対話形式手続きとして知られ、デーモンといえば、UNIX系OSでバックグラウンドでサービスを提供するソフトウェアとして知られている。
 作品が80年代のものであり、意図したものかどうかは知らないが、このあたりの言語感覚はヴァーリイならではのものであろう。
(2005.08.08)

4000億の星の群れ

4000億の星の群れ
FOUR HUNDRED BILLION STARS
ポール・J・マコーリイ
1988
 内容はおもしろいんだが、表紙がなあ。いやイラストを描いている方が嫌いというわけではなくすてきな絵である。が、内容とはあまりにかけ離れたうら若き女性のSF的お姿。最近、外で読むときには汚れ防止のためブックカバーをかけるようになってしまったが、汚れ防止ではなくてもカバーをかけてしまいそうな表紙は勘弁して欲しい。書店でも、一瞬手が止まったもの。逆に、この表紙だから買ったという方もいることだろうが、内容をまったく感じさせない表紙で買った人は、この作品を憎むのではなかろうか。
 SFの作品内容と表紙デザインの乖離は今に始まったことではなく、フィリップ・K・ディックなどは、多くの作品がスペースオペラのような表紙で出版されており、その内容の奥深さとはまったくもって関係がなく、その「ずれ」もまたディック的と後に言われることになったという。そうか、本書は、フィリップ・K・ディック記念賞受賞作品である。そのディックの逸話を正しくとらえようと、日本の出版社はこのような表紙を選んだのだろう。奥が深い…。
 本書「4000億の星の群れ」はイギリスのSFである。イギリスのSF的な雰囲気を持つ作品で、アメリカSFにはない趣がある。登場人物の内面と起きている外部の出来事が共鳴的に描かれる。日本文学でも内面と事象の共鳴はよく描かれるが、同じような文学的香りを持つ。
 人類が宇宙に進出して600年。最初は光速の壁の中で宇宙に植民地をわずかに開き、浪費時代、ロシア帝国とアメリカ帝国の時代、大空位時代を経て、相転移により光速の制約を受けない宇宙の移動方法が開発され、ふたたび人類の行動は活発になる。諸世界の共存共栄のための連盟の時代は地球の大ブラジルが植民星を支配する図式となったが、それでも、大空位時代の植民星の苦痛よりはましだった。しかし、人類はある星域で高度な知性体と接触し、その姿を見ることもないままに相互理解なく戦争状態へと突入する。
 敵の正体は不明であるが、制圧したひとつの惑星アレアで敵の正体を知ることにつながる発見があった。その惑星は、100万年前に改造され、自転を与えられた惑星であり、宇宙のあちらこちらから生命体が集められ、遺伝子操作されていた。そして、そこには知的生命体とおぼしき存在があった。この存在は敵と関わるのかを調べるため、テレパシーのような「能力」を持つ能力者で天文学者の日系人が徴発される。主人公ドーシー・ヨシダである。
 オーストラリアのまずしい捕鯨町の混血日系人として生まれたドーシーは能力のおかげでその町と家族から離れ、自由を得るが、そこでの記憶は彼女の苦悩とトラウマの根源であった。
 基地で能力と行動をうとまれながら、ドーシーは、アレアを旅し、その惑星の秘密、敵の秘密を少しずつ見いだす。それとともに、ドーシーは、自らの過去とも出会うのであった。
 ということで、ひとつの惑星とひとりの女性の物語であり、シェイクスピアの「ソネット」や、ドーシーの出自である日本人の「ウチ/ソト」の感覚、「ツミ」の感覚などを小道具に使いながら、冒険と旅が続く。不思議な生態系と知的生命体の行動などが、彼女の行動とともに読者に提示され、それとともに、人類の宇宙進出の歴史や敵との出会い、終わらない戦争、人類内部の権力闘争などが語られる。
 伏線の詰め込みすぎの感はあるが、期待感の残る作品である。
 そういえば、「地球の長い午後」のブライアン・W・オールディスもイギリスの作家であった。さまざまな生物と旅という共通性をふと感じた。これもイギリスSFの伝統だろうか。
フィリップ・K・ディック記念賞受賞作品
(2005.08.08)

ティーターン

ティーターン
TITAN
ジョン・ヴァーリイ
1979
 SF史に欠かせない作品のひとつである。
 理由の一、ジョン・ヴァーリイの長編作品である。
 理由の二、とてもハードなのにとても剣と魔法だから。
 理由の三、SFを多く読めば読むほど、本書がおもしろくなるから。
 理由の四、驚くべき生態系! 驚くべき生物! 驚愕のファーストコンタクト。
 理由の五、タフな女性が主人公で元気な感じだ。
 などなど。
 NASAが送り出した土星の衛星へ向かう初の有人宇宙船リングマスター号。船長はシロッコ・ジョーンズ。初の女性船長である。乗務員は7人。男性3人、女性4人。うち女性2人は人工子宮生まれのクローン。
 土星で12番目の衛星を発見したリングマスター号は、その衛星が自然にできたものではないことを発見する。自転数が早く、巨大なスペースコロニーか、世代宇宙船でないかと思われる。リングマスター号は、慎重に衛星への上陸を志すが、暴力的な手段でとらえられ、ほぼ裸の状態で衛星内の生態系<ガイア>に放り出されてしまった。彼らはひとりずつばらばらに出現し、ふたたび出会い、その過程でガイアの不思議な生態系と知的生命体に出会うこととなる。しかし、出会った知的生命体は、ガイアを創造した高度な知性ではなかった。
 生き延びることだけではおさまらない船を失った船長のシロッコ。脱出し、地球に帰るためにも、この巨大なリングワールドであるガイアの中枢部にたどり着き、この生態系の「創造主」と会い、コミュニケーションをはかり、この生態系に生きる不思議な知的生命体との約束を果たそうとするのだった。
 この作品の魅力はなんだろう。
 たとえば、無線機やレーダーと同じ機能を提供する植物など、機械にたよらない生物機械で生まれる道具や、飛行船の役割をする動物など、出てくる生き物のおもしろさがある。
 提示されるガイアという世界は、ニーヴンの「リングワールド」より異質で活き活きとした世界であり、世界そのものの秘密が、本書の最後を彩る。そのヴィジョンは壮大で、宇宙を俯瞰するような気持ちさえ芽生えさせる。
 いつもならばネタばれ承知で書くのだが、この心地よいおもしろさはぜひ作品で味わって欲しいので、ここでは書かない。
 もちろん、ニーヴンの「リングワールド」がアイディアとなっているのは間違いないが、それだけではない、生態系SFと言えば、ハーバードの「デューン」であり、「デューン」と言えば、あれである。「あれ」。小説を読んだり、映画やテレビシリーズを見ている人は分かりますね。それも出てくる。
「デューン」だけでなくハインラインの世代間宇宙船SFの傑作「宇宙の孤児」などは作品名まで登場する。
 さらにさらに、SFという言葉がなく、伝説や言い伝えや神話しかなかった時代の、あの伝説の生き物が、あの伝説の生き物と死闘を繰り広げる。
 もう、これ以上は書けない。書くものか! 読め、読むんだ。
 そして、ヴァーリイが提示する「ティーターン」というガイアの魔法に酔いしれるがよい。
(2005.7.18)

サンティアゴ~はるかなる未来の叙事詩

サンティアゴ~はるかなる未来の叙事詩
SANTIAGO: A Myth of the Far Future
マイク・レズニック
1986
 レズニックの自他共に認める傑作短編連作「キリンヤガ」のおかげで絶版になっていた本書が復刊された。本書は1991年に邦訳されている。私はこのころ経済的に苦しくて本を買う余裕も少なかった。また日々の生きていくための時間に追われ、本屋めぐりをすることも少なかったのを記憶している。もしそのときに本書を見かけても、きっと手に取るだけで買うことはなかったであろう。今思えば、残念なことである。
 本書は「暗殺者の惑星」と同様の未来史に属している。本書と「暗殺者の惑星」は時代も背景も異なるが、両編とも強大な力と伝説を持つ殺人者を追い求める作品である。また、詳細は差し障りがあるので明らかにしないが、その終盤の展開もまた似通っているところがある。
 本書の題となっている「サンティアゴ」は、辺境の伝説となっている殺人鬼で犯罪者である。その首にかけられた賞金はうなぎ登りに高く、辺境中の賞金稼ぎがふたり集まれば、その会話は彼、サンティアゴのこととなるに決まっていた。
 今、賞金稼ぎの中でも最高との呼び名が高いエンジェルがサンティアゴを追い始めた。ソングバードと呼ばれる賞金稼ぎもまた、サンティアゴを追いはじめる。そして、多くの人々がエンジェルと、ソングバード、姿を見せないサンティアゴの人生の糸に絡まりはじめる。ある者は、その糸に自ら望んで引き寄せられ、ある者は望まぬままに巻き込まれていく。
 ひとりの詩人が、彼ら辺境に光り輝く人々を伝説に変えていく。
 賞金稼ぎを騙して命を追われる賭博師、美術品に目がない密輸業者、出世欲のみで生きるジャーナリストの女、神の教えを伝え歩く伝道師であり美食の大食漢であり賞金稼ぎの男、異星人に生きた宇宙船と変えられた男、辺境を転々としながら居酒屋の下働きを続ける女…彼らと3人の男達の織りなす辺境の物語。
 そこで描かれるのは、「キリンヤガ」と同じ主題。権力と善と悪と人のありよう。
 そのことを端的に表している一文がある。
……「(略)真に邪悪な存在ではなく、とりわけ腐敗しているわけでもない。たんなるひとつの政府であり、ほかのすべての政府と同様、最大多数に最大の利益をもたらすような決定を下しているにすぎない。彼らや、彼らの後援者たちの観点からすれば、充分に道徳的かつ倫理的な組織なんだ。彼らは<辺境>から略奪してその市民たちの権利を奪うことが当然だと考えている--そしてずっと先になって、彼らが銀河系で勢力を拡大しているとすれば、結局彼らが正しいということにもなりかねない」…(略)…「とはいうものの、こうした権力の濫用に苦しむわれわれは、ぼんやり突っ立って万事うまくいくことを祈っている必要はない(略)」(下巻207ページ 第六部 サンティアゴの書)
 レズニックは、人々の善とも悪ともつかないただそれぞれの人生の綾で選択する善や悪を遠いところから書き連ねる。そして、そのひとつひとつの行為に対する罪と罰の判断を読者にゆだねる。
「キリンヤガ」でも同様だった。そこが物語の魅力であるとともに、読者に賛否の嵐を巻き起こす焦点ともなる。
「平和」な中央でテロが起これば世界は震撼するが、荒れた「辺境」でそれ以上の人々がただむやみに殺されても世界は「そこに住む彼らが選んだ結果だ」と冷静にその事実を言葉として受け止めるだけだ。
 本書は物語であるとともに、現代社会への暗喩である。すでに約20年前の作品であるのだが、今の世界は1980年代後半に起こった世界の延長上にあり、そして、本書は「はるかなる未来の叙情詩」として、今を予感させたのだから。
 だからこそ、本書は、「キリンヤガ」の早かった解題として今だからこそ読んで欲しい作品である。
 著者レズニックも執筆当時「傑作だ」と自賛していた作品であるのだから。
(2005.7.13)

暗殺者の惑星

暗殺者の惑星
WALPURGIS 3
マイク・レズニック
1982
「キリンヤガ」でSF読み以外の人にも名をはせたレズニックの80年代の作品である。
 殺人にまつわるエンターテイメント作品。
 空気を呼吸するように、人を殺すことが自然であたりまえの男がいる。かれはあまたの惑星で数千万以上の人々を殺してきた。名をブラントという。
 依頼を受けた殺人を行うことを、生業とする暗殺者の男がいる。名をジェリコという。
 舞台は、善とは逆の悪を信仰することを選んだ人々が居住する惑星バルプルギス3。魔法使いの惑星である。この星にも、慣習はあり、儀式的ではない許されない殺人があり、犯罪者を追う警察のようなものがあり、刑事がいる。ここに、ひとりの刑事がいる。名をセイブルという。
 悪魔を信仰する星で、ブラントは生きた悪魔であり、それは、神を信仰する星での救世主降臨と同じである。彼はたたえられる。
 ジェリコは、ブラントの暗殺を依頼され、惑星に潜入し、仕事をこなすための殺人をおかしながら、ブラントにせまる。
 セイブルは、ブラントの暗殺者が潜入したことを知り、ブラントを守るための捜査をはじめる。
 そして、ブラントは、彼がかくまわれている都市を皮切りに、この惑星でも多くの人々を虐殺しはじめていた。
 ブラントを追うジェリコ、暗殺者を殺すために都市をすべて破壊するブラント、そして、法を守る男セイブル。3人が絡むとき、そこには死しかない。
 でてくるSF的な要素といえば、テレパシーと「植民惑星」ぐらいである。
 また、本書は、ひとつの実験的な作品である。
 70年代を経てようやく性、人間対人間の暴力的描写に慣れてきたSFという分野で、どこまでの暴力を描けるのか、レズニックは試している。
 悪を信仰する星に降り立った生きた悪と、それを殺そうとする「善ではない」暗殺者が登場人物なのである。その静かな暴力的表現は、静かなゆえにぞっとさせられるものがある。だから、そういう描写がいやな方は読まない方がよい。
 レズニックは、自分の作品のために徹底的に資料を整え、背景を構築する。そのマニアックさが、「キリンヤガ」につながるのだが、本書にも宗教的背景などでその素地は見受けられる。ただ、本書のような作品を読んでいると、レズニックはただ受けを狙って書いているのではないかと、うがった見方をしてしまう。
 その一方で、彼のテーマの中に、「死」を統べるもののありよう、「善と悪」の捉え方についての問いかけがあることを、「キリンヤガ」より初期の作品である本書はより鮮明に示している。
(2005.07.01)

ゴールド・コースト

ゴールド・コースト
THE GOLD COAST
キム・スタンリー・ロビンスン
1988
「レッド・マーズ」「グリーン・マーズ」「BLUE MARS」(未訳)のロビンスンが80年代に書いた作品群のひとつである。舞台は21世紀半ばのアメリカ西海岸オレンジ郡。登場人物は、詩人でパートタイムの英語教師で不動産会社社員のジム・マクファースン。彼の友人、恋人、ドラッグ仲間たち…、反体制活動をするアーサー、救急隊員のエイブ、ドラッグデザイナーで売人のサンディ、サーファーでお金とは無縁の生活をするタケシと、企業の副社長になったエリカのカップル、恋人だったヴァージニアに画家のハナ。
 父親のデニス・マクファースンは防衛産業でソ連のICBMを衛星から落とす開発をしている。上司のレモンとは相性が悪い。
 母親のルーシィは今や数少ないカソリックの教会で活動を続け、父と息子の確執に頭を痛めている。
 そして、トムじいさん。
 それぞれの視点から、それぞれの「今」と「日常」が語られる。そして、「オレンジ郡」の過去から現在がよどみなく語られる。「マーズ」シリーズを予感させる語り口である。
 本書の舞台背景には、80年代のロナルド・レーガン政権とそのSDI構想(スターウォーズ計画、戦略防衛構想、Strategic Defense Initiative)と、当時の冷戦の気分が色濃く反映している。レーガン政権は、長引くアメリカの不況を打開するために、双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)政策をとり、大幅な財政支出と輸入超過(ドル高)によって、生産と支出の双方に刺激を与えた。その生産面に寄与したのが軍事産業であり、ソ連を敵国として強く非難し、ソ連の核兵器を押さえ込むことで世界を平和にするとしたSDI構想を発表。宇宙空間でレーザーにより、ソ連のICBM発射から大気圏外にいる間に弾頭を落としてしまおうという途方もない計画であった。ちなみに、日本は、当時の中曽根政権下、日本列島を「不沈艦空母」と位置づけ、防衛拡大を計画した。
 本書では、この景気拡大策により超高層ビル郡がひとつの都市となり、その間をコンピュータ制御された電気自動車が高速で走り回る豊かなアメリカが描かれ、そのかわり世界中に貧困が広がっていることを予感させている。そして、アジア、アフリカ、南米をはじめ、世界中で小さな代理戦争が続いている。
 本書は1991年に邦訳され、その後絶版している。
 2005年の今日、ロナルド・レーガンの直接の後継者であったジョージ・ブッシュの子どもであるジョージ・ブッシュ2世を大統領としていただくアメリカは、敵国「ソ連」が崩壊したことで、仮想敵国を「中国」にあらためるとともに、現段階での最大の「敵」を、「テロ」という行為にみなし、イラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」として、すでにイラク、アフガニスタンを侵攻、強大な軍事力を誇示している。日本もまた、アフガニスタンではアラビア海に海上自衛隊を派遣し、後方支援として給油にあたり、イラクでは戦後復興として陸上自衛隊を派遣し、ボランティア活動をさせている。ブッシュ政権は、MD構想(ミサイル防衛構想)を打ち出しているが、これは、レーガンのSDIとほぼ同じようなものである。
 作品としての本書は、後の「マーズ」シリーズほどの奥行きはない。また、SFとして何があるわけでもない。ちょっとした未来の一風景という感じである。だからこそ、「ソ連」「ワルシャワ条約機構軍」のようなすでに過去となった単語が生きていることを除けば、おどろくほど「今」と同じにおいがする。社会状況のにおいである。
 結局のところ、我々の現実は、80年代の延長でしかなく、それは、さかのぼれば、ニクソンの70年代の、いや1945年以降の延長でしかないことを意識させることである。
 現実の時間の流れと、80年代のロビンスンが予感した時間の流れのずれと共通感を体験することで、今を強く感じることができるだろう。
 それにしても、「ブル-・マース」の邦訳はまだかなあ。
(2005.06.30)