ヴォル・ゲーム

ヴォル・ゲーム
THE VOR GAME
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1990
 ネイスミス・シリーズで「戦士志願」に続く物語である。マイルズ・ネイスミスは20歳、士官学校を無事卒業したものの、彼に要求されたのは「上官への服従」。もとより、誰かに服従することができないマイルズ・ヴォルコシガン少尉は極北の歩兵冬期訓練基地に気象観測士官として着任することを求められる。6カ月の勤務を無事にこなせば、予定されている新造宇宙戦艦への転任が保証されている。しかし、もちろんそうはいかない。
 極北の基地でトラブルにみまわれ、次に着任したのはイリヤン機密保安庁配下の大尉の下だった。大尉の下で、緊張関係にある空域にいる、デンダリィ傭兵隊をはじめとする動向調査におもむくことになる。もちろん、マイルズの役割は、大尉の指揮に従って、必要に応じてネイスミス提督の役割をもう一度演じること。
 ところが、ふたたび彼を襲うトラブル、いや、彼が招いたトラブルというか。さらには、もうひとりの「トラブルメーカー」が登場し、ヴォルコシガン少尉/ネイスミス提督/武器商人ヴィクター・ローザである、マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンは、のっぴきならない立場に追い込まれてしまう。
 しまいには、星間戦争一歩寸前まで進んだ緊迫した情勢の中で、彼は守るものを守り、奪うものを奪い、取り返すものを取り返し、そして、上官の命令を聞くことができるのか? 彼が選んだ選択は??
 ということで、展開のはでな作品である。どの作品も展開ははでなのだが、本作品は、新任士官という立場と、行方不明のままだった傭兵隊提督という立場、それに、偽装のための立場、トラブルの結果抱え込んでしまった立場と、マイルズも自分で自分の立場が混乱してしまうような状況を、行き当たりばったり、はったり、口八丁、偶然の切り返しで解決し、さらに大きなトラブルまでもなんとかする、読後感はすっきり爽快な作品である。
 本シリーズでは、遺伝子改変と人間性がテーマになる作品も多いが、本書「ヴォル・ゲーム」にはそのような深いテーマはない。「皇帝であること」「貴族であること」といった、「逃れようのない身分」のありよう、「義務と信念」についての考え方、あるは、「軍の指揮と個人の意志」みたいなものを話の筋におきながら、楽しくマイルズを楽しむことができる。
 SFの要素を抜くと、「軍事スパイもの」作品といってもいいぐらいだ。
 もちろん、宇宙空間で戦艦同士の戦闘など、スペオペ要素もたっぷり入っていて、SFならではの趣向もこらされている。
 主人公たちの丁々発止の会話と、きちんと間に挟まる必然性のある戦闘シーンなど、本書「ヴォル・ゲーム」がヒューゴー賞を受けるのも納得である。
ヒューゴー賞受賞
(2005.10.5)

戦士志願

戦士志願
THE WARRIORS APRENTICE
ロイス・マクマスター・ビジョルド
1986
 エリザベス・ムーンの「栄光への飛翔」を読んだら、久しぶりにマイルズ・ネイスミス提督に会いたくなった。そこで、「戦士志願」をひっぱりだして読み始めた。本書は、ネイスミス・シリーズのマイルズ登場第1冊目であり、彼、または、彼の家族、仲間たちを主人公にした数多くの作品が書かれている。ロイス・マクマスター・ビジョルドの執筆順は、時系列通りではなく、日本の翻訳順もだいたいは時系列に沿っているが必ずしもそうとは言えないし未訳もある。中心人物であるマイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンを中心に年代順に並べると、前後がずいぶんと入れ替わる。しかも長編だけでなく、短編集もあって、短編集は、長編をはさむ時期の話しもありややこしい。私は、創元SF文庫の出版順に読んできたので、時々前後が分からなくなった。それでも一向に構わないのは、ひとつひとつの作品の完成度が高い証拠である。
 なにせ、作者ロイス・マクマスター・ビジョルドはこのシリーズだけでヒューゴー賞を4つ、しかも、長編3、短編1を受賞し、SF史に燦然と輝く記録を打ち立てているのだ。もちろん、ヒューゴー賞だけでなく様々な賞を得ている。
 あらゆる世代の、あらゆる人のツボにはまる作品群なのである。
   しかし、せっかく読み直すのだから、今回は、時系列順に読もうと思う。もっとも、マイルズ・ネイスミスの誕生以前の話については、後で読むことにして、まずはマイルズ・ネイスミスの活躍を楽しみたい。
 本書「戦士志願」がすべてのはじまりである。
 マイルズ・ネイスミス・ヴォルコシガンは17歳。惑星バラヤーの貴族の跡取りである。惑星バラヤーの血塗られた貴族政治社会において、マイルズの父は、第二皇位継承権を持ちながら、前皇帝、現皇帝に仕え、現皇帝が幼い頃は摂政として、今は首相として彼を支え続ける、惑星で最も恐れられる男である。母は、貴族階級などない別の惑星の軍人であったが、今は貴族の妻として、首相夫人として、その地位にある。そして、マイルズ・ネイスミスは、母が妊娠中に暗殺者の手により毒ガスを浴び、全身の麻痺や骨を含む成長がうまくできない障害にみまわれ、ちょっとしたことで骨折をしてしまう小さな身体に、きらきらと輝く目、卓越した頭脳と、喋りすぎる舌を持つ男として育った。
 物語は、マイルズが士官学校に入学できなかった日からはじまる。
 母の惑星に母方の祖母を訪ねる旅は、いつの間にか、廃船寸前の宇宙船をめぐる取引に変わり、飲んだくれの航宙士や、バラヤーの脱走兵などを次々に「救い」ながら、トラブルに巻き込まれ、いつしか傭兵艦隊の提督マイルズ・ネイスミスになるという話である。
 とにかく、マイルズ・ネイスミスの危機回避は、その人に見下される小さな身体と、幼い頃から培った上級貴族としての人心掌握術、さらには、危機を好機に変えるとっさの「弁舌」や「態度」である。つまりは、生まれながらの詐欺師とも言える。だまして、だまして、いつの間にか、誰もが「その気」になっていく。  本書、および本シリーズのおもしろさは、主人公が肉体にハンデを持つ17歳の誇り高き上級貴族の成長期の青年という側面と、一大傭兵艦隊の経営者であり作戦司令者であるマイルズ・ネイスミス提督という側面のアンバランスさ、取りかえっこを自分でやっているところ、さらには、すべての危機を手持ちの能力、人、コミュニケーションだけでなんとかすると思わせる物語のテンポのよさ、そして、登場人物の深みに負うところが大きい。
 このような物語に必ず登場する、無口で過去になにかありそうなボディーガードの軍曹の、その秘められた過去、彼と娘とマイルズの関わりの中の小さなエピソードが、その軍曹の人間を語り、そして過去が明らかになっていく。ささやかなエピソードの集まりなのだが、そこに「人間」を読むことができる。それは、重厚壮大ではないけれども、「人の物語」であり、それが、このスペースオペラに華を添える。
 スペオペなんて子どもだまし、SFなんて大人が読むものではない、あるいは、SFって難しそうという方、ぜひ一度読んでみて欲しい。個人的には、ハリー・ポッターシリーズよりもおもしろいと保証する。(もちろん、ハリー・ポッターも好きだけどね)
(2005.9.30)

栄光への飛翔

栄光への飛翔
TRADING IN DANGER
エリザベス・ムーン
2003
 私はこういうSFが好きです。はっきり言って漫画です。青年の成長譚です。危険がいっぱいです。次から次に主人公に危機的状況が襲います。自分の能力のなさを自覚しながら、自らが招いた危機を後悔しながら、その危機に対処し、さらなる成長を遂げます。
 主人公は、士官学校を無理矢理退学させられた優秀な士官候補生の女性カイ(カイラーラ)・ヴァッタ。同時に彼女は、大きな星間運輸会社ヴァッタ航宙のオーナー一族の娘でもある。カイは、廃船となる輸送船の船長として廃船先の星までベテランクルーとともに片道の輸送航行に出る。しかし、そこで見つけたビジネスのチャンス、そして、マシントラブル、戦争の危機、反乱…。ちょっとお人好しで、それでいてクールな新米船長のお話である。
 登場人物はみなくせがあり、若い女性船長への対応ということで、その人柄が出てくる。士官学校の教官、ヴォッタ一族、船のクルー、各星のステーションの役人、各星にある領事館大使、他の船の船長たち、傭兵会社のスタッフ、アンシブルを取り仕切る星間通信局の社員などなど並べるだけで「なにか」ありそうではないか。
 物語の王道である。
 あとがきでは、「紅の勇者オナー・ハリントン」シリーズ(デイヴィッド・ウェーバー)、「銀河の荒鷲シーフォート」シリーズ(デイヴィッド・ファインタック)の読者におすすめとあるが残念ながら私はこの2シリーズに手を付けていない。もうひとつ、「マイルズ・ヴォルゴシガン」シリーズ(マスター・ビジョルド)との共通点を挙げられていたが、これについては同感である。このシリーズは、身体的なハンデを持つ貴族の青年が士官を目指し、士官学校に入る。陰謀と危機につぐ危機を回避しているうちにいつの間にか、別の大きな傭兵組織のリーダーにもなってしまい、軍(王)、傭兵、貴族(自分の一族)の間でいくつもの顔を持ちながら八面六臂の活躍をしている。その物語のパターン、あるいは、読後の爽快感は同じものを感じる。
 しかし、そこは作者が女性であり、女性からの視点も魅力のひとつである。たとえば、傭兵会社の社長で元将軍の男の元へ、星間通信局の特別顧問の女性がやってくるシーンで、ぽっちゃりとした背の低い、ピンクのスーツを着た女性が元戦士であることに非常に驚き、彼女が「一般的な女性戦士のイメージを壊して申しわけございません、ベッカー将軍。でも、あたくしの故郷では、みな背が低いんです。それに、よほど貧しくないかぎり、みなふくよかです(後略)」と切り返すシーンがある。さりげなく、だが「固定観念の性差」をきれいに否定するシーンである。
 もっとも、このように会話で人間関係や力関係を表現してテンポよく物語を展開するのがこの作者のうまさなのだろう。
 この物語には、特筆する武器があるわけではない。出てくる戦闘シーンといえば、ピストル・ボウにナイフ、小型銃器ぐらいなもの。宇宙戦闘も、破壊工作の爆発の後ぐらいであるが、そうは感じさせない。
 SFとしても、出てくるのは、星間通信手段のSF的伝統であるアンシブルと超光速航宙エンジン、脳内に直接コンピュータ・通信手段などを入れるインプラントに、人体の治療を行う治療ボックス、失った記憶を再生する記憶挿入モジュールぐらいで、新しい道具や価値はない。物語のためのSFガジェットである。
 これで物語を読ませ切るのだから、いかに優れたストーリーテーラーだということが分かるだろう。
 ところでひとつ疑問を残しておきたい。アンシブルとは、「物理的には光速を超えられない」という制約の中で、「情報は光速などの物理属性に従わない」ことにして生まれた、光速でも通信に時間のかかるような2点間の即時通信システムのことであり、女性作家ル・グィンが1950年代に「発明」したものだが、本作品では、超光速航宙エンジン、いわゆるワープがあり、アンシブルは、それよりも早い通信ネットワークという位置づけになっている。このあたり、アンシブルの定義としてはどうなのだろうか。この視点で、他のアンシブル作品も確認してみたいと思う。
(2005.9.25)

マジック・キングダムで落ちぶれて

マジック・キングダムで落ちぶれて
DOWN AND OUT IN THE MAGIC KINGDOM
コリイ・ドクトロウ
2003
 インターネットが生活の中で身近になってはや10年となった。スタンドアローンでOSすらなかったパーソナルコンピュータの時代は通り過ぎ、しだいにネットの中の端末と化しつつある。いい例が、日本の携帯電話であろう。できることは限られているが、そもそも、スタンドアローンでは成立し得ない「電話」というしくみの中にコンピュータの機能が取り込まれ、インターネットとの融合をはじめている。多くの人々はそれを支持し、もはやそれなしには生きられないと感じている。もっと、「それなしには生きられない」というのは常にそのときの気分であって、なかったらなかったで生きられるのが人間のいいところでもある。
 さて、かつてP・K・ディックが描いた、仮想化された社会の中での「疎外」の問題は、今の社会生活の中にどこにでも転がっている普通のことになってしまった。他者とつながっているという幻想を追い求め、仮想化された世界の中に蠢く者たちは、ある時、他者の目が自分に向けられていないことに気づき、絶望する。
 不死と、無限のエネルギーを得て、仮想化された「信用」「評価」「つながり具合」を経済指標にして日常を過ごしているのが、本書の世界である。人々は、身体と同一化した「道具としてのコンピュータ」、もうひとつの感覚器と化した「仮想空間=ネット」の中で、現実を生きていく。とりわけ、マジック・キングダム=信用経済により新たな所有/経営形態となったディズニーランドは、そもそもそこが仮想的な体験の場であったが故に、本書が仮定した世界を象徴する。
 不死は、クローンと記憶の保存/移植によって成立している。誰でも、たとえ殺されても、一定の記憶が失われただけで、新しい肉体を手に入れ地上に立つことができる。現実にたいくつしたら、肉体を殺し、仮想空間の中で、一定の時間、1日でも、1年でも、100年でも、1万年でも、眠った(死んだ)ままでも、時々目覚める形でも存在することができる。そして、復元することも可能だ。
 もちろん、真の死も真の誕生も可能。しかし、真の死は恐れられ、その数は少ない。たとえ宇宙で生活する人が増えていっても、真の誕生が多い以上、地球は人口過剰になっていく。つながった人たちが増えていき、その「信用」の総量は多くなっていく。つまりは、経済的に人類は発展しているわけだ。
 よかったよかった。
 とても21世紀初頭的なSFなのだろう。いい意味でも悪い意味でも、21世紀初頭のアメリカ的なものが薄く広がり、未来的な日常になっている。仮想されている舞台は22世紀後半だと思われる。私にはまだ、このSFが評価できない。おもしろくないと言っているわけではない。テーマは古典的だが、斬新な視点でたぶんとてもおもしろい作品だ。ただ私には、登場人物の心のありようがわからないのだ。それは、私が不死ではないからかも知れない。そして、まだ若い作者は、限りなく不死に近いのかも知れない。そして、ネット上で個人の「信用・評価」を得る(失う)ことに価値を見いだす社会は、不死と無限のエネルギーという本書の前提条件なしには成立しにくいのではないかと思う。
 今のネット社会は、有限の生、有限のエネルギーの中で、他者とのコミュニケーションとともに信用・評価を求めているが、これとは根本的に異なるのではないだろうか。コミュニケーション、信用・評価、あるいはネットへのアクセスを得られない、または、求めない者たちは、この未来の社会に属することはないだろう。もし、属しようとすれば、それは苦痛でしかないはずだ。その状態を「疎外」という。
 そのことは、本作品でも主人公が嫌と言うほど途中で味わっている。もっとも、主人公はその後、きちんと「元に戻って」いるが。
 不死なる者たちの心のありようを少しかいま見たい方にはおすすめだ。
 なお、本書は、クリエイティブ・コモンズのライセンスの下、原著(英語)がウェブサイトで公開されている。ダウンロードして読むことも可能だ。ドクトロウの作品は、同様に彼のウェブサイトで読める。
ローカス賞受賞作品
(2005.09.24)

奇妙な関係

奇妙な関係
STRANGE RELATIONS
フィリップ・ホセ・ファーマー
1960
 フィリップ・ホセ・ファーマーの初期短編集である。本書には、「母」「娘」「父」「息子」「妹の兄」が掲載され、1953年から1959年に発表されたものである。このうち、「母」(原題:MOTHER)と「娘」(DAUGHTER)は、連作になっており、あとの3作品はそれぞれ独立した短編となっている。「母」「娘」は、異星知的生命体と人類のお話し。「父」は、異星生命圏における異星の知的生命体と人類のお話し。「息子」は地球上での人間と人工知性体のお話し、「妹の兄」は火星の生命圏と、異星知的生命体と人類のお話し。「父」を除いて、4作品は、主人公である人類と「異種知性」とがほぼ1対1の閉ざされた状況になっており、その奇妙な関係性を問うている。
 人は、知性は、異種なる他者が存在したときにどのような関係性を見るのか、その生存が他者に極めて高く依存せざるを得ないとき、どのような関係性をもって自らを位置づけ、自らの世界観に当てはめようとするのか。
 私たちは、他者を理解することができるのか、できないのか。
「母」では、病理学者の母と、離婚したばかりの傷ついたオペラ歌手の息子が、異星に不時着し、それぞれ別々に知的生命体の体内に取り込まれてしまう。その知的生命体は、メスのみであり、他種の動物がある行為をすることでオスの役割を果たし、生殖を行う生命体であり、幼年期を過ぎると動かない生命体であった。動くのは「オス」であり、「オス」は知的ではない。それがその知的生命体の生命観である。そこに「オス」として取り込まれたふたりの人間。息子を主人公として物語が語られる。
 そして、「娘」では、母の体内で生まれ育った「娘」が、その体内でともに暮らした「父」である知的な「オス」=人間との奇妙な生活を語り、「娘」がいかにしてその知的生命体の集合体の中で「母」をしのぐような権力を得るにいたったのかを語る。
 この2作品はとりわけおすすめである。
 「父」や「妹の兄」では、人類型の異星人が登場し、コミュニケーションも容易であり、人類的である錯覚が物語の書き手/読み手を支配するが、「母」「娘」では、異星人が実にみごとに描かれ、その繁殖と成長が、異星人の思考を形作っていることを示している。さらに、「母」や「娘」で語られるのは実際の人間同士の親子、とりわけ、母-息子、父-娘間の関係性であり、そこに人間的なというより、むしろ男性的な性欲を持ち込めないが故に、それらの関係性が「奇妙」であることを鋭く描き出している。
 そもそも、ファーマーは、SF界のタブーを破り、生々しい性をSFに導入した作家とされている。しかし、生々しい性には、「関係性」がつきものである。彼はそのことをよく理解した上で、SFという状況をうまく生かして生々しさの中に「関係性」を表現したのだ。
 もちろん、現在にいたっては、そんなタブーなどSF界には存在せず、だからこそ生々しさも減じている。現実の世界でも、秘められていたはずの「関係性の奇妙」さが、インターネットやテレビなどによって、あたりまえに語られるようになり、サブカルチャーとカルチャーの境目が薄れているのだから。  でも、それだからこそ、ファーマーが描き出した、岩のようなものに包まれて動かず、じっと異種のオスを待ち、生と性を内部にて行うメスだけの異星生命体は、象徴として、具象として、今の我々にも迫ってくるものがあるのではなかろうか。
(2005.9.22)

太陽系帝国の危機

太陽系帝国の危機
DOUBLE STAR
ロバート・A・ハインライン
1956
 創元推理文庫SF 1964年初版、1980年25版、定価280円。
 つくづく、今の文庫って高いなあ。当時よりもたくさんの作品が出る分だけ、1冊ごとの発行部数も少なくなっていて、物価の上昇もあって高くなったのだろうか。
 ところで、本書は井上勇氏の訳となるものだが、1994年に同じ創元より森下弓子氏の訳で原題の「ダブルスター」のまま再刊されている。「レンズマン」シリーズなどいくつかの作品が創元で新訳として出されているが、本書もまた、新訳として出されるくらいSF誌に残る名作のひとつなのだろう。
 はたしてこれがSFか、SFでなければならなかったのかどうかは疑問の残るところであるが、50年代までのハインラインしか書けない作品であることは疑う余地もない。
 火星人、ロケットなどが出てくるものの、内容は高名な政治家の代役を行うこととなったひとりの役者の話であり、物語の原型のひとつを忠実にたどった作品である。火星人をある異民族や外国と置き換えてもいいし、ロケットも必ずしも必要はない。本書をSFでない設定で同様に語ることもできるだろう。しかし、50年代SFパルプマガジンの忠実な設定の上で、ハインラインの思想を物語の原型にのせて語りきり、それを、娯楽として息もつかせず、一気に、2時間ほどあれば十分読み終えることができるよう仕立て上げるのがハインラインの力量である。
 ストーリーは、月に皇帝をいだく太陽系の中で、火星では異星人である火星人と地球人の共生が模索されていた。火星人と地球人が同等の権限を持ちつつ、人類は外へ、星の世界へと拡張していくべきという思想をもった党の党首が誘拐され、その代役としてアメリカ人の役者が騒動に巻き込まれる。彼は火星人に異種嫌悪を持ち、政治的な関心を持たない金に困っただけの役者である。しかし、その党首になりきることで、彼はしだいに変わりはじめる。といった、「影武者」ものである。社会のリーダーとその影武者、そして、火星人との儀式、皇帝の役割、誘拐した敵の存在、内からの裏切りと支援、主人公の悩みと成長など、わかりやすい物語である。そして、ハインラインはこのわかりやすさを駆使して、自らの思想を人々に伝える。
 私は彼の思想に共感するものではないけれど、そのエネルギーには驚嘆してしまう。
 なお、本書を現代において読み解くには、ハインラインの思想もさることながら、その時代背景も加味しておく必要がある。第二次世界大戦が終わり、朝鮮戦争が停戦したものの、アメリカでは反共産勢力の嵐が吹き荒れ、冷戦下において「自由」や「国家と個人」が鋭く問われていた時代であり、この頃のハインラインは、社会への義務を持つ徹底した個人主義・自由主義を確固として求めていた。第二次世界大戦という「自由」と「解放」の戦いに勝利したアメリカで、女性やマイノリティが求めた「自由」や「解放」の意志に対し、社会は反発的な差別意識をあらわにした時代でもある。
 その点で、一方で火星人という「日本人」よりも理解できない存在との相互理解と共存を表現するハインラインの徹底の美しさと、個人的行動ではマイノリティの表現にいびつさをみせてしまう時代的表現にとまどうこともあるだろう。
 私はハインラインの「身分は義務を伴う」という言葉に秘められている個人主義の中の選民的思想などには気持ち悪さを感じるが、それでも、ハインラインは娯楽を通して自らを表現できる希有な作家であることは間違いない。
 彼がもし2005年の現在に生きていたら、「身分に義務が伴うこと」を忘れ、欲と身勝手に満ちた権力のありようを見て、どんな娯楽大作を我々に提示しただろうか。
 ああ、そうそう日本にも「わかりやすさ」を表現するに長けた者がいるが、残念ながら彼はSF作家ではなく、政治家であった。この国と国民にとって大変不幸な職業のはき違えであろう。
(ヒューゴー賞受賞)
(2005.9.8)

時空の支配者

時空の支配者
MASTER OF SPACE AND TIME
ルディー・ラッカー
1984
 新潮文庫から吾妻ひでお氏のイラストで登場したのが、R・ラッカーの「時空の支配者」。翻訳はもちろん黒丸尚氏(故人)。昭和62年(1987年)に国内で出版されており、ラッカーの長編初翻訳作品だった。現在は、ハヤカワSF文庫にも収録されている。もちろん黒丸訳のまま。こちらの表紙は横山えいじ氏。個人的には吾妻氏の表現世界とラッカーの文章(黒丸訳)はとても合っていると思うので、もし機会があったら、ぜひ新潮版を探して欲しい。
 さて、ラッカーである。「時空の支配者」と来たものだ。難しく言えば、時間とは、空間とは、世界とは何か? に迫る本格ハードSF、なのだが、そこはラッカーである。とんでもないふたり組が、3つあるいはそれ以上の願い事を叶えられる機会を得たら、何をしでかすか? 世界を救う? とんでもない。彼女や妻の頼み事を聞き、トカゲをゴジラに変身させ、金を手に入れ、思いつくまま、気の向くまま…なんてったって「時空の支配者」なのだから。ところがそうは世界は簡単にいかないもの。別の世界からこの世界に「あれ」が侵入してくる、宗教は起こす、脳みそが背中に乗っかってぐにぐにする、ポークチョップの藪とフリッターの森が世界を浸食する…。そこで、飲んだくれながら、裸の羽根をつけた空飛ぶ美女の背に乗って、男はひとり闘うのだった。世界を救うために!!!!
 SF的アイディアシンプルかつ途方もないもの。それは、プランク定数を「だます」こと。必要なのは、グルーオン。さて、どうなりますことか。
 笑いが必要な方も、宇宙論、時空論が好きな方も、どちらも間違いなくご満足いただけるのがこの作品のいいところ。今こそあなたは真実を知るのだ! 誰が宇宙をつくったのか。
 ところで、もし3つの願い事がかなえられるならば、私は何を願うだろうか?
 人類の力で人類を含む地球の生態系がいくつかの太陽系外惑星に移植され、それぞれのあり方で繁栄する未来。
 そこそこ健康で、そこそこの人生の中に、今も一緒に食べる人との日々の恵まれたご飯。おいしい食材、米、魚、野菜、豆、肉、醤油や酢がいつまでも手に入り、いい水と空気と土と、燃料に恵まれること。
 たくさんのSFとファンタジーに恵まれ、多くの人が、SFとファンタジーの本を読み、出版を願うような状況。
 なんてわがままな願いだろう。でも、まずは、米!かな。
(2005.09.17)

フラクタルの女神

フラクタルの女神
THE NATURE OF SMOKE
アン・ハリス
1996
 原題「煙の性質」が邦題「フラクタルの女神」になり、日本語の読者の前に2005年に登場した。アン・ハリスのデビュー作である。
 原題は、カオス理論の性格を言い表したものだが、邦題の「女神」は主人公の少女マグノリアではなく、マグノリアが愛した分子生物学者シディエラ・アヴォンダ・マーセリーズ(1992年7月3日生まれ、女性、愛称シド)のことであろう。
 さて、この女神は「自分の心という森の中に立って」「自分とあらゆる世界の本質的な結びつきを真に理解した」啓示を受けつつも、現実の日々の生活では「善と悪、男と女、自己の世界と”外”の世界」といった二項対立、二者択一から離れられず、「言葉や階級や家族やそのほか、現実を無関係な単位に分割する細分化にとらわれるあまり、われわれすべてを含む”全体”からまた隔てられてしまった」となげく科学者であり、この壁を壊す道を探し求める求道者であった。
 物語は、カオス/フラクタル/マンデンブロ集合、人工知性、有機ロボット、予測不可能性を持つロボットの可能性、量子の非局所性を援用したミトコンドリアの共鳴、そして、世界を識る能力の獲得をキーワードにしながら、偶然という必然の積み重ねのように繰り広げられていく。悪く言えば「ご都合主義」だが、カオス理論や量子の非局所性を物語に展開するため、「ご都合主義」と切り捨てるのは作者に悪い。
 舞台は21世紀前半、貧富の格差がさらに広がった世界。マグノリアが生まれ育ったのはアメリカの貧民窟。天才的な能力を持ちながらも、教育を受けず、文字も読めない彼女は、限られた中でも才を発揮し、また、驚くべき身体能力の高さを持って危機を逃れてきた。彼女が住む世界は、金とドラッグと暴力とセックスが蠢く「男ども」の世界。
 彼女にとって物理学、生物学、数学を道具に「自分のしたいことだけをして」自らの夢を現実にしようと研究を続けるシドは、自分自身の理想の反映であり、同化の対象であった。シドにとってのマグノリアは世界の一部分であり、必要があればマグノリアを切り捨てることができただろうが、マグノリアにとってシドは彼女自身であり切り捨てることができない存在である。少女の悲しい恋の物語なのかもしれない。
 個人的には、作者が産みだしたバイオロボットや人工知性の物語をもっと読みたいのだが、作者は、「世界観の転換」に重きを置いているため、これらの小道具は次々と後ろに追いやられていく。小道具どころか、何かありそうな登場人物もまた次々と後ろに追いやられていく。そして、すべては、シドとマグノリアの物語に収斂する。
 あとがきにもあったが、たしかに、本書には、「ブラッド・ミュージック」と同様の世界の変容を描いている。しかし、それが女性作家であることなのかどうかは分からないが、新井素子が「ひとめあなたに…」で世界の終わりをひとりの女性としての気持ちにまとめたのと同じく、女性作家であるアン・ハリスはブラッド・ミュージック的世界の変容を予感させつつ、ひとりの女性としての気持ちで取りまとめてしまう。
 ただし、新井素子が「少女」というアイデンティティで世界に対峙したのに対し、アン・ハリスは「少女」を含めた二項対立や世界の細分化と対峙したアイデンティティの確保を目指している。この点は大きく違うところである。
 作品世界観でみれば、本書は吉田秋生の「バナナ・フィッシュ」に近いものを感じる。天才美少年アッシュを軸に、荒廃した80年代アメリカで特殊なドラッグをめぐり金とセックスと暴力が繰り広げられ、巻き込まれた日本人少年・英二との愛にも似た友情が語られる。この女性版だと思えばいいのかもしれない。
 そうか、デビュー作ということで詰め込みすぎなのかもしれない。もし、これが、日本の少女漫画として書かれていれば、詰め込みすぎの部分も「絵」として表現され、それが物語の「含み」になったのかもしれない。ということは、映画向きなのか? もしかして。いっそハリウッドで映画化すればヒットするかも。たとえ作者の意図とは違っても。
 ちなみに女神は女神であるが故に転生するのだが、そこは作品のエンディングと関わるので読者だけのお楽しみである。
(2005.8.26)

遊星よりの昆虫軍X

遊星よりの昆虫軍X
BUGS
ジョン・スラデック
1989
 SF界のひとつのジャンルとしてスラップスティックやギャグ、パロディなどの「笑い」がある。ふつうの「お笑い」と異なるのは、SFというジャンルのコンテクストを理解した上でずらすとか、SFというサブカルチャーの「おたく」的要素をうまくくすぐることで、読者を笑わせるとか、SFならではの設定を用意して、SFのコンテクストをそのまま活かしてどたばたにするなど、読者(読み手、対象)と手法の選択が重要になる。
 日本でもSFコメディやSFパロディ、あるいは、SFギャグなどが作品としてあり、なかでも大原まり子、岬兄悟夫妻が編集している「SFバカ本」は、SFの笑いを軸に、SF界、SF外界の作家に新しい世界を切り開かせ、読者にSFの幅広さを提示しており、決して主流にはなり得ないながらもSFの裾野を広げるために欠かせない重要な取り組みを続けている。出版社がこれに取り組まないのは、読者層がきわめて限られるためであるが、SFの重層性から言えば、笑いに取り組むことは欠かせないはずである。
 さて、本書はタイトルを見れば分かるとおり、「笑い」カテゴリーのSFである。
 リアルタイムに日米で繰り広げられていた80年代後半のAI、プログラマー協奏曲の変奏曲というところか。帯には「AIロボット開発計画が大暴走! 奔馬性ギャグも大爆発! SF最後の奇才の怪作」とある。ちなみに翻訳出版されたのは1992年の秋で、バブルをはさんだ経済狂乱のまっただなかでもある。
 話は、イギリスの売れない作家がアメリカで一旗あげようといさんで来たものの、迎えたのはゴキブリだらけの安アパート。売ってくれるはずのエージェントは消えるし、連れてきた妻は怒って帰るし、テクニカルライターとして面接に行った会社ではプログラマーとして採用されてしまうし、あげくに人工知能ロボットの開発チームに入れられるし、軍は動けばソ連のスパイや日本のスパイはうごめくし…。ということで、帯通りのどたばたである。
 ここからが難しい。
 おもしろくなくはない。いや、まあ、おもしろい。でも、なんとなく奥歯になにかが詰まっている。それは、翻訳不可能性である。
 どうも作者は英語で遊んでいるようなのだ。文章、単語、アメリカ文化、アメリカSF、アメリカSF映画など、さまざまなことで英語を使って遊んでいるところを、訳者は何とか雰囲気だけでも伝えようと努力している。その努力は買う。えらい。よくこんな本を1冊訳した。
 しかし、伝わらないのである。しょうがない。いくらアメリカSFとハリウッド映画に毒されているとは言っても、英語と日本語、その文化的背景までは伝わらないのだ。しかも、80年代テイスト満載であり、80年代のあの空気を理解していなければ分からないはずだ。「笑い」の作品は難しいのである。
 じゃあ、原書を探して読むか? と聞かれると、うーん、どうだろう。
 もし、90年代初頭に、英語が読めて、原書が手元にあり、時間があったらきっと読んでいて、笑っただろう。でも、もしだらけである。残念。
 もし、原書が手に入ったら、比較しながら読んでみたい。翻訳って難しいんだなということを知るには最高の1冊かもしれない。
 もし、この作品が古本屋さんにあったら、やっぱり買って読んで欲しい。そして、訳者の苦労に涙してほしい。それから、もうひとつ、スパムってダイレクトメールでも、電子メールでも、文の組み立てや誘い方(だまし方)って同じだなあ、ということにクスリとしてみたい方は、ぜひ読んで欲しい。
(2005.8.25)

マッカンドルー航宙記

マッカンドルー航宙記
THE McANDREW CHRONICLES
チャールズ・シェフィールド
1983
 1978年から83年にかけて書かれた連作短編5作品をまとめたのが本書である。主人公は「わたし」ことジーニー・ローカー船長である。本書はローカー船長の一人称で語られ、それが適度な短編のテンポの良さとぴったりあって、三人称では考えにくいほどうまく作られている作品群である。彼女は、最初は地球軌道からタイタンまでの定期航路の輸送船船長として登場する。相棒として登場するのはアーサー・モートン・マッカンドルー。実は太陽系最高の頭脳との呼び名も高い天才物理学者で、1年に4カ月休みをとってはローカー船長の船に乗り込み、ささやかな技師としての手伝いをしつつ、天才ならではのブラックホール実験を行ったり、思考実験を繰り返している。
 この時代、地球には100億の人口がおり(実はついこの間まで110億人だったのだが、10億人がひとりの男の狂気によって殺されたばかりなのだ)、太陽系の各地には小惑星などを利用したコロニーがあって、宇宙開発時代を迎えていた。宇宙船のエネルギーには、カーネルことカー・ニューマン・ブラックホールが使用され、それぞれの宇宙船に小さなブラックホールが管理されて搭載されていた。
 2話になると、50Gであっても人間がぺしゃんこにならない宇宙船システムが実験船としてマッカンドルーにより開発され、ローカー船長は、それまでの輸送船船長から、ペンローズ宇宙研究所の実験機パイロットとしてマッカンドルーのもとで仕事をすることになる。それは、なによりもローカーのもつ「危険への敏感な経験」を買ったものだった。  ということで、作者曰く、ハードSFであり、実科学理論とSF科学理論の明確な部分を巻末に作者自ら解説を加えることでより楽しめる作品となっているとのことである。
 ハードSFと聞くと、科学の知識をある程度「以上」持っていなければストーリーが理解できず、途中からちんぷんかんぷんになって、あまつさえ時には数式や公式やなにやら難しい科学理論のページが数ページ続いたりして途中で放り投げ…という方もいることだろう。
 私もどちらかといえば科学理論は苦手で、それでも果敢にチャレンジしてはいつも玉砕している。だからちょっと前書きを読んで引き気味だったのだが、それほどのことでもないので安心して読んで欲しい。おもしろいから。
 どうおもしろいかと言えば、なんだろう、「宇宙船スカイラーク号」(E.E.スミス)のような懐かしのスペースオペラ的な要素満載でありながら、「冷たい方程式」のように、物理ルールに則ったストーリー展開が用意されているところあたりだろうか。また、世代恒星船やオールト雲の生命などこれまでのSFのオマージュともいえるストーリーの出し方もうまい。もっと読みたいところだが、SF専業作家ではなくSFは寡作で、さらに日本ではあまり紹介されていないらしい。私もほとんど読んでいない。もったいないことだ。
(2005.8.25)