ゴールド・コースト

ゴールド・コースト
THE GOLD COAST
キム・スタンリー・ロビンスン
1988
「レッド・マーズ」「グリーン・マーズ」「BLUE MARS」(未訳)のロビンスンが80年代に書いた作品群のひとつである。舞台は21世紀半ばのアメリカ西海岸オレンジ郡。登場人物は、詩人でパートタイムの英語教師で不動産会社社員のジム・マクファースン。彼の友人、恋人、ドラッグ仲間たち…、反体制活動をするアーサー、救急隊員のエイブ、ドラッグデザイナーで売人のサンディ、サーファーでお金とは無縁の生活をするタケシと、企業の副社長になったエリカのカップル、恋人だったヴァージニアに画家のハナ。
 父親のデニス・マクファースンは防衛産業でソ連のICBMを衛星から落とす開発をしている。上司のレモンとは相性が悪い。
 母親のルーシィは今や数少ないカソリックの教会で活動を続け、父と息子の確執に頭を痛めている。
 そして、トムじいさん。
 それぞれの視点から、それぞれの「今」と「日常」が語られる。そして、「オレンジ郡」の過去から現在がよどみなく語られる。「マーズ」シリーズを予感させる語り口である。
 本書の舞台背景には、80年代のロナルド・レーガン政権とそのSDI構想(スターウォーズ計画、戦略防衛構想、Strategic Defense Initiative)と、当時の冷戦の気分が色濃く反映している。レーガン政権は、長引くアメリカの不況を打開するために、双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)政策をとり、大幅な財政支出と輸入超過(ドル高)によって、生産と支出の双方に刺激を与えた。その生産面に寄与したのが軍事産業であり、ソ連を敵国として強く非難し、ソ連の核兵器を押さえ込むことで世界を平和にするとしたSDI構想を発表。宇宙空間でレーザーにより、ソ連のICBM発射から大気圏外にいる間に弾頭を落としてしまおうという途方もない計画であった。ちなみに、日本は、当時の中曽根政権下、日本列島を「不沈艦空母」と位置づけ、防衛拡大を計画した。
 本書では、この景気拡大策により超高層ビル郡がひとつの都市となり、その間をコンピュータ制御された電気自動車が高速で走り回る豊かなアメリカが描かれ、そのかわり世界中に貧困が広がっていることを予感させている。そして、アジア、アフリカ、南米をはじめ、世界中で小さな代理戦争が続いている。
 本書は1991年に邦訳され、その後絶版している。
 2005年の今日、ロナルド・レーガンの直接の後継者であったジョージ・ブッシュの子どもであるジョージ・ブッシュ2世を大統領としていただくアメリカは、敵国「ソ連」が崩壊したことで、仮想敵国を「中国」にあらためるとともに、現段階での最大の「敵」を、「テロ」という行為にみなし、イラン、イラク、北朝鮮を「悪の枢軸」として、すでにイラク、アフガニスタンを侵攻、強大な軍事力を誇示している。日本もまた、アフガニスタンではアラビア海に海上自衛隊を派遣し、後方支援として給油にあたり、イラクでは戦後復興として陸上自衛隊を派遣し、ボランティア活動をさせている。ブッシュ政権は、MD構想(ミサイル防衛構想)を打ち出しているが、これは、レーガンのSDIとほぼ同じようなものである。
 作品としての本書は、後の「マーズ」シリーズほどの奥行きはない。また、SFとして何があるわけでもない。ちょっとした未来の一風景という感じである。だからこそ、「ソ連」「ワルシャワ条約機構軍」のようなすでに過去となった単語が生きていることを除けば、おどろくほど「今」と同じにおいがする。社会状況のにおいである。
 結局のところ、我々の現実は、80年代の延長でしかなく、それは、さかのぼれば、ニクソンの70年代の、いや1945年以降の延長でしかないことを意識させることである。
 現実の時間の流れと、80年代のロビンスンが予感した時間の流れのずれと共通感を体験することで、今を強く感じることができるだろう。
 それにしても、「ブル-・マース」の邦訳はまだかなあ。
(2005.06.30)

スチール・ビーチ

スチール・ビーチ
STEEL BEACH
ジョン・ヴァーリイ
1992
 SFはひとつの文化体系である。ときおりそのことを強く感じさせる作品に出会う。過去のSF作品をオマージュしながら、独自の拡張と解釈を加え、新たな視点を提示して、読者を喜ばせ、考えさせる。一歩間違うと二番煎じと呼ばれ駄作となる。しかし、ひとたび受け入れられれば、それは不朽の名作となる。
「ハイペリオン」がいい例であろう。本書「スチール・ビーチ」もまた、同様に評価されてもいい作品だと思うのだが、残念なことに、絶版となっており、再版が望まれる。
 本書「スチール・ビーチ」は、ジョン・ヴァーリイが70年代に構築した「八世界シリーズ」とほぼ同じ未来の歴史的、社会的状況で描かれている。登場人物にも同じ姓名がいる(ようだ)。しかし、作者があとがきに書いたように、本書は「八世界シリーズ」のようであるが、そこに属してはいない。言ってみれば、ヴァーリイが生みだした「八世界」という未来の「もうひとつの世界=平行世界」である。つまり、ヴァーリイは、面倒くさいという一言で、人気あるひとつの未来史のもうひとつの世界を軽々と描いたのだ。その微妙な世界の違いが本家を知るものに、微妙なずれを感じさせる。もちろん、本書ではじめてヴァーリイや「八世界」に触れる人は、その「ずれ」を感じることはないが、それで本書の魅力が減じるわけではない。古くからのSFファンならば、随所にハインラインの影と、ハインラインに対するヴァーリイならではの回答を見つけることができる。
 本書の舞台は、月世界である。地球はインベーダーに侵略され、月に生きていた人たちだけがなんとか生きのびた。そして、太陽系内の惑星や衛星に新しい世界を開いていった。インベーダーに侵略されて200年を迎えようとする月社会。主人公は敏腕ゴシップジャーナリストのヒルディ。ふだんの彼はルナの芸能社会を飛び回り、ゴシップやささやかな事件をセンセーショナルな記事に変え、休みともなると17世紀後半のテキサス通りの生活ができる西テキサス・ディズニーランドで丸太を切り、パブでカードゲームを楽しむ生活。しかし、彼は突発的な自殺癖があり、そのたびにCC(セントラル・コンピュータ)によって命を救われ、自殺した事実をヒルディからも隠していた。
 酸素や水をはじめ資源の限られたルナ社会で、CCは彼らの電話であり、ネットであり、命綱であり、日常は意識しない心臓や内臓のようなものであった。ナノテクノロジーのおかげで、ルナの人々すべてがCCにリンクしており、CCもまた、本体の装置部分を超えて、すべての人々をリソースや、メモリとして利用し、自らを拡張していたのだ。
 ヒルディは何度目かの自殺の後、CCが作り出したヴァーチャルリアリティ空間に置き去りにされ、主観時間1年を過ごし、その後、CCと哲学的な会話を交わす。愛とは、生きるとは、人生とは、そして、なぜ自殺が増えているのか…。CCは告白する。「私も自殺願望にとりつかれている」と。
 そんなある日、ヒルディはちょっとした記事が高く売れたためそのお金で気分転換に25年ぶりに女性になる。旧知のデザイナーに身体をいじってもらい、変身! 妊娠も出産もできる生物としての女性である。名前はそのまま「ヒルディ」。
 記者も休業して、テキサスに引っ込み、女教師をはじめたヒルディ。しかし、狂いかけたCCと昔の仲間たちはほっておいてくれない。
 ルナに何がおきているのか? CCに何が起きているのか? そして悲劇と希望が幕を開けた。
 自意識を持ったセントラル・コンピュータ、ナノテク、長命技術、性転換、男/女/中性、ルナという洞穴社会が人々の考え方、行動を変え、新しい社会様式を(好むと好まざるとにかかわらず)生みだしていく。
 暴力、セックス、ドラッグ、恋愛…人間社会のありきたりなできごとをつらねながら、環境条件と社会、技術と人間の関わりをエンターテイメントとして問いかける好著である。
 とにかくおもしろい。古本屋でさがしてでも読む価値あり。
(2005.06.27)

クリスタル・シンガー

クリスタル・シンガー
CRTSTAL SINGER
アン・マキャフィリイ
1982
マキャフィリイほど、テーマのはっきりした作者はいない。テーマは、主人公は女性。ヒーローは女性、だ。知性、機転、美貌、女性の武器を持ちながらもあまたのドラマで、男性の後塵を拝していたり、アシスタント的な役割だった女性を、主人公に、ヒーローにすること。決して男性と同じではない。なぜなら女性だから。でも、女性だって権力欲はあるし、性欲も、名誉欲もある。男性と違って、欲が満たされないからといってそれに固執しないけれど、やっぱりくやしい。そして、また別の道を見つけ、見事に成功してみせる。
辛いことだってたくさんある。悲しいことだって、落ち込んだり、挫折したり。でも、そんなことを読みたいの? 違うでしょ。あくまでも前へ、前へ。だって、未来は私のものだから。
音に反応して、エネルギーを発するクリスタル。星間通信、宇宙船などのエネルギー源、コントローラー、メモリーとして欠かせない存在であるクリスタルを産出する星は、その星を管理するギルドによってきわめて厳しい情報制限、人の移動制限がとられていた。
このクリスタルを採掘できるのは、絶対音感に優れ、声をコントロールできる数少ない人間たちだけ。声楽家のリーダーになる夢をたたれた主人公キラシャンドラ・リーは、その挫折の直後、クリスタル・シンガーという職業の存在を知る。キラシャンドラは、クリスタル・シンガーこそ、自分が望んでいる職業に違いないと、秘密のベールに包まれた惑星ボーリィブランに向かうのだった。
主人公ははっきりしている。目的もはっきりしている。クリスタル・シンガーの秘密、惑星ボーリィブランの秘密を小出しにしながら、キラシャンドラがクリスタル・シンガーになるまでの過程を描く。
それだけだ。
とにかくストーリーを一気に読み通して、すかっとしよう。
あとがきを読むと、本書の訳者は、このキラシャンドラのサクセスストーリーがお気に召さないらしい。たしかに、今風の言葉で言えば「ありえねえ」話である。
だが、本当にありえないだろうか。
こんな風にすいすいと自分のやりたいことを実現させていく若者は、現実の中にも必ずいる。「こんな風になってみたい」そんな願望を素直に昇華させてくれるのも、読書のひとつの楽しみである。
(2005.3.13)
追記(一部削除)
最初に書いたときには、「続編がない」などと馬鹿なことを言っていたが、本書もまた、マキャフィリイの他の主人公同様にシリーズ化され、続編が出ていた。邦訳されているのは「キラシャンドラ」のみであるが、海外ではその続編もある。
お詫びして訂正します。(2005.6.20))

へびつかい座ホットライン

へびつかい座ホットライン
THE OPHIUCHI HOT LINE
ジョン・ヴァーリイ
1977
 ひさしぶりにヴァーリイを読み返したが、すうっと心地よく読める。それは、SFというジャンルのコンテクストに忠実だからであろう。多くのSF作家が、ある未来史を描き、それに沿った世界を構築し、読者に提示する。その中に使われる技術の由来やそれによっておこる文化、社会、宗教、生活などを描きながら、物語を進めていく。その手法のよしあしが、「心地よさ」につながる。その心地よさは、認めうる未来であろうと認めたくない未来であろうと関わりなく存在する。そんな作家のひとりである。
 さて、本書「へびつかい座ホットライン」もまたひとつの未来史を描いている。八世界シリーズと呼ばれる。2050年、異星人により地球はあっけなく侵略され、人類が地球上に築き上げた文明はすべて崩壊させられる。そして、地球ではインベーダーに対してなんの抵抗もできないままに100億人が餓死した。その後、月基地に残っていた人々の子孫が水星、金星、月、火星、タイタン、オベロン、トリトン、冥王星の8つの太陽系内の惑星、衛星に居を移し、新たな人類社会を築いていた。それが八世界である。本書は、八世界シリーズの唯一の長編であり、八世界の姿と、その過去と未来を予感させる作品である。
 本書は、同時にヴァーリイの初の長編であり、後にSF界を一変させたサイバーパンク運動の訪れを感じさせる作品でもある。
 地球侵略から5世紀を過ぎ、クローンと記憶移転技術、性転換や人体改造によって、人々は地球外での厳しい環境を彼らなりに楽な環境に変え、そして、その技術の導入によって、生活や文化、価値観や行動がずいぶんと変わっていった。
 ほとんどの人たちは、地球を遠くに見ながら、それはもはや手に届かないものとしてあきらめていた。インベーダーは、木星型の惑星に進化した生命らしく、時間と空間を生まれながらに操作するすべを持っていた。太陽系には、木星に彼らと同類の生命体が進化しており、また、地球にも鯨類の一部がそれと同様の進化を見せていた。彼らにとって、人類は異質であり、知性を持つものとは見なされなかったのだ。それでも、彼らは人類が迷惑なだけであり、滅ぼす意志を持っていたわけではない。それゆえに、八世界は成立し続けたのだ。
 さて、八世界はどのようにして発展することができたのか。その答えは、「ホットライン」にあった。へびつかい座方面から届き続ける信号に、人類にとって役に立つ情報が含まれていたのだ。それは、生命科学や工学などの技術であり、人類の遺伝子に関する情報であり、解読不能な情報でもあった。このへびつかい座ホットラインからの情報によって、人類は八世界に広がったのだ。
 侵略された母なる星を目の前にしての発展は、人類にいくつかのタブーをつくった。生命科学が花開いたにもかかわらず、人類社会において最大の犯罪は遺伝子を改変することとなる。外見を変え、環境に適応することは構わないが、人類の設計図に手を染めることは人類への犯罪と規定された。この犯罪を犯したものは、クローンとしてよみがえることの許されない完全死が与えられる。
 主人公のリロ(主に女性)は、生命工学の科学者であり、その遺伝子改変の研究によって人類の犯罪者となった。死刑直前のリロを違法なクローン・リロを誕生させることで助け出したのは、地球解放主義者で元大統領のトイード。彼はリロを利用し、リロをはじめ、医師のマリ、暗殺者のヴァッファ、元教師のキャセイらの記憶付きクローンを次々と作っては、彼の目的のために利用した。リロはトイードから逃れようとして何度も殺されてはクローンとして再生されていく。
 本書は、そんなリロの死と再生の物語でもある。最初、死刑囚として登場したリロは、何度も死を迎え、再生する。そして、最後には3人のリロとなり、それぞれが、それぞれの場所で何かを見つけていく。リロをとりまく人々もまた興味深い。先述のクローンたちや、土星周辺の宇宙空間で共生体シンブと融合して存在するリンガーであるパラメーター/ソルスティス、地球生まれのブラックホールハンターであり、宇宙空間に適応した身体を作り上げ、古いSF誌のイラストからデザインしたような宇宙船に乗るジャヴリンなどなど。彼らとのふれあいにより、リロは影響を受け、変わり、変わらない。
 3人のリロの終わりなき旅をもって、本書は終わる。まるでこれから新しい世界をテーマにした物語がはじまるかのような予感を持って。
 本書は不思議な終わり方をする。まるでこれからはじまるかのようなのである。しかし、本書に続く八世界シリーズは存在しない。その物足りなさが、ヴァーリイの面白さでもある。だから、ヴァーリイの短編には高い評価が集まるのだ。
 ところで余談だが、本書では、人類の犯罪者であるリロが行動の自由を確保する必要に迫られ、切符を買ったりするのに必要な生体認証のために、一度腕を切り落として人の腕を一時的に付けたり、培養した皮膚を貼りつけて生体認証を通過したりしている。
 近年、生体認証が本格的に導入され、銀行では静脈認証を行ったり、オフィスでは指紋認証や網膜認証が行われている。私は、あまり生体認証を喜んではいない。それにより、知恵と資本のない犯罪者の犯罪は防ぐことができるだろう。しかし、知恵と少々の資本と、陰惨な行為を行う覚悟があれば、生体認証などたいしたことではなくなるのだ。
 マスメディアで悲惨なニュースが流れる日も遠くあるまい。
 同じような手口は、多くのSFやSF映画、アクション映画で見ることができる。しかし、ふと本書を読みながらそのことを思ったので、書き記しておく。そんなことを思わせるのも、ヴァーリイの特徴かも知れない。
(2005.06.18)

エデン

エデン
EDEN
スタニスワフ・レム
1959
 本作「エデン」と、それに続く、「ソラリスの海」「砂漠の惑星」はいわゆるレムの三部作と呼ばれ、今も高い評価を受けている。それは、この三部作において、人類とは思考も、生命形態もまったく異なり、コミュニケーションがとれない「異星人」を描いているからである。いずれの三作品とも人類がその惑星に行き、そこにいる生命体によって苦労させられるという話である。
「ソラリス」と「砂漠の惑星」では、その存在と人類はまったくコミュニケーションがとれないが、「エデン」では、最初まったくコミュニケーションがとれないが、最後になって、成立しているとは言えないまでもコミュニケーションがひとりの異星人との間で行われており、三部作の中でも位置づけが少々異なっている。本書についていた吉川昭三氏の解説によれば、初期の科学技術万能主義的、楽観主義的作品からの転換点にあたる作品であると位置づけている。なるほどそうかもしれない。
 さて、惑星エデンに不時着した宇宙船には、6人の搭乗者がいた。技師、物理学者、化学者、サイバネティシスト、ドクター、そして、コーディネーターである。彼らは、呼吸可能な異質の惑星に降り立った最初の人類となってしまった。不時着した宇宙船の一部は放射能で汚染され、電力の回復が困難であったし、水の確保が問題となっていた。宇宙船の復旧とともに、この惑星エデンの生態や知的生命体との邂逅をめざして、6人は好奇心にも燃えていた。
 遅々として進まない復旧の合間をぬって行う探検の途中で、彼らは廃棄されたが今も稼働する生物工場を発見する。その後、身体の様子がおかしいたくさんの生命体やその死骸、あるいは、知的生命体の活動とみられる痕跡を発見する。そして、生きた生命体にも出会うが、彼らが知性を持っているのか、かつて持っていて、今は持ち得ていないのか、生物工場は単なる痕跡なのか分からないままに、彼らなりに危険を感じて攻撃を行ってしまったり、あるいは攻撃的なものを受けたりする。
 その行為の解釈をめぐって、6人は人間的解釈を行ったり、あるいは、人間的解釈であってはならないと戒めながら、エデンの住人の行為を判ずる。しかし、その答えはでない。
 やがて、ひとりの異星人とのコミュニケーションが成立するものの、それは、両者にとって新たな発展に結びつくことではなく、結果的に地球人6人は、修理した宇宙船で帰還する道を選択する。そのことの内容や解釈については、読者ひとりひとりに委ねられているだろう。
 しかし、本書では、レムが実に率直に社会批判や問題提起を行っている。以下、その部分についていくつかの引用をしたい。
「われわれは人間だから、地球式に連想を働かせ、判断を下している。その結果、異質の外見をわれわれの真実として受けとめる。つまり、ある事実を地球から持ちこんだパターンもはめこむことによって、重大な誤謬を犯さないともかぎらない」(ハヤカワ文庫版145ページ)
 少々長くなるが、911以降の我々、あるいは、繰り返している歴史に対して耳にいたい会話の一部である。
「よかろう。いいかね。どこかの高度に発達した種族が、数百年前、宗教戦争の時代の地球にやってきて、紛争に介入しようとした……弱者の側についてだ……と考えてみたまえ。その強大な力をもとに、異端者の火あぶりや異教徒迫害等々を禁じたとしよう。彼らの合理主義を地球上に普及させることができたと思うかね。当時の人類はほとんど全員が信仰を持っていたのじゃないかね。その宇宙から来た種族は、人類を最後のひとりになるまで、つぎつぎと殺さなくてはならなくなるにちがいない。そして彼らだけが、その合理主義の理想とともに残るということになるだろうね」(349-350ページ)
「援助ねえ。やれやれ、援助とは一体どういうことかね。ここで起きていること、ここでわれわれが目にしていることは、一定の社会構造の所産なんだ。それを打破して、新しい、より良い構造を作り出すことが必要になってくるんだ……それをわれわれがどうやろうと言うのかね。われわれとは異なる生理や心理、歴史をもった生物じゃないかね。われわれの文明のモデルをここで実現させることなどできはしないよ。」(350ページ)
「きみたちが、高邁な精神に駆られて、ここに”秩序”を確立しようなどと考えるようになるのが恐かったのさ。それを実行に移せば、テロを意味することになるからね」(350ページ)
 ポーランドという、19世紀、20世紀のヨーロッパにおいて常に他者によって何かを押しつけられ続けた国、その中で生きていくしたたかさを身につけなければならなかった人々の歴史が、レムというひとりの作家を生みだしたのは間違いない。そのレムが初期に書いた作品として、SFとしての内容は古くたよりなく感じられても、作品の意味と価値は減ずることなく、むしろ今だからこそ、率直な意思表明に新しさを感じる。
「ソラリス」「砂漠の惑星」などを読んだ上で、本書に取りかかるとよいのではなかろうか。
(2005.06.15)

恐怖の疫病宇宙船

恐怖の疫病宇宙船
PLAGUE SHIP
アンドレ・ノートン
1955
 太陽の女王号シリーズ第2弾である。翻訳されているのはここまで。本書も前作「大宇宙の墓場」に続いて、松本零士氏の表紙、イラストである。前作品は、イラストと内容がかなりマッチしていたのだが、本作品は、表紙からして内容とかけ離れている。アンドレ・ノートン作品に女性は出てこない。本書にも出てこない。なのに、表紙には横たわる女性の姿が。たしかに、今回は、太陽の女王号の若手4人を除いて船長以下、船医も含めて病気になり、死なないまでもみんな半睡眠状態に陥ってしまうのだからあながちイラストも間違いではないが、太陽の女王号には女性は乗っていないぞお。
 と、表紙につっこんだところで。
 インターネット時代はすごいなあ。本書を読み終え、その中途半端な終わり方に、続編があるのではないかと思って検索したら、太陽の女王号シリーズのファンサイトがあり、日本語で、全シリーズの紹介が行われていた(文末にサイトリンク)。それによると、本書のあと、1959年、69年に続編が出されており、その後、20年以上を経て、93年に1冊、97年に2冊、同シリーズが別の2人の著者との共著で出されている。この新シリーズでは、女性が登場し、ロマンスまであるらしい。なんと時代の変化か、共著者のせいなのか。
 びっくりである。
 話を、本書「恐怖の疫病宇宙船」に戻そう。前作品で新たな惑星の開発権を得た太陽の女王号が向かった惑星には、権利を持たない大企業が交易を開始しようとしていた。彼らの不当な介入に対抗しながら、現住の知的生命体との間で信頼と交易を取り結ぶ太陽の女王号のメンバー。交易は最高のできばえだったが、最後に、彼らから先渡しで期限を切られた契約を求められる。独立した自由貿易船にとって、先渡し契約や期限を切られることはあまり嬉しい仕事ではない。宇宙では予定や日程のずれがあたりまえだからだ。だから、そのような契約は不幸を呼ぶと嫌われている。
 案の定、出発した太陽の女王号を疫病が襲う。乗員が次々と倒れていくのだ。無事なのは、現住の知的生命体たちから無理矢理にまずい飲料を飲ませられた若手4人だけ。
 商売を邪魔された大企業の策略と疫病の発生で、太陽の女王号は宇宙のお尋ね者となり、星間パトロールからいつ攻撃されてもおかしくない船となってしまった。
 この危機を見習い4人は回避できるのか? できなければ不名誉な死が待ちかまえている。
 彼らは、手助けしてくれる医師を捜すため、かつて大規模な核戦争が起こり、今や誰も近寄ろうとはしない地球の大焦土地帯の中心に降りることとした。そして、彼らの疑惑を晴らすための大活躍がはじまった。
 というような話である。
 今回の後半は若手の4人ががんばる話である。前作や今作の前半のように、先任たちがかっこよく危機を次々と回避するのをあこがれて眺めるだけでなく、若手が自らの力で危機を回避しなければならない。まあ、そのために乗員が病気で眠りにつかなければならなかったのだが。
 本作「恐怖の疫病宇宙船」では、ノートン作品らしく、猫や猫型知的生命体、それに、船長のペットで、なにかわからないが怖い感じのペットが大活躍する。そうでなくっちゃあ。動物が活躍するシーンになるとノートンの筆が冴える。
 猫に囲まれて暮らしていたノートンならではである。
 ちなみに、先のファンサイトによると、2005年3月17日、93歳にて本名アリス・メアリー・ノートンことアンドレ・ノートンが亡くなったそうである。今頃、彼女と暮らしていたたくさんの猫たちが彼女を迎えていることであろう。
 私の手元にあるノートン作品も現在のところここまでである。
 たしか、「魔法の世界のエストカープ」がどこかにあったかも知れないが、今のところ見つかっていない。機会があれば、読んで感想を書いてみたい。
参考ウエブサイト:BROUNのかけら
http://www.geocities.jp/color_kakera12/brown.html
(2005.6.10)

大宇宙の墓場

大宇宙の墓場
SARGASSO OF SPACE
アンドレ・ノートン
1955
 太陽の女王号シリーズで邦訳されているのは2冊のみ。本書「大宇宙の墓場」と「恐怖の疫病宇宙船」である。本書は昭和47年、1972年に初版が出ており、私は第8版1979年発行のものを手元にもっている。この2冊のイラストは、表紙、見開き、挿絵のすべてを松本零士氏が書いている。
 本書は、アンドレ・ノートンの作品の中ではめずらしく最初から動物が活躍するわけでもなく、主人公のパートナーでもない。主人公は、通商員(トレーダー)の訓練所を出たばかりの青年。職種と乗務する船の乗組員との相性から自動的に勤務先を選択する「サイコ」によって、大企業船ではなく独立した自由貿易船「太陽の女王号」に乗り込むこととなったデイン・ソーソンである。
 だから、舞台は「大」宇宙と、人類が植民していたり、植民はしていないが知的生命体がいる惑星。自由貿易船は、ある惑星や航路への通商権を得ては、惑星から惑星へモノを仕入れ、モノを売り歩くのだ。通商員は、船の中での仕事はあまりないが、一歩惑星に降りたら、自由貿易船の最大の利益を引き出すべく、その惑星の知的生命体と交渉し、宝を見つけ、利益を獲得しなければならない。そこに求められるのは冷静な判断力と交渉力、そして、危険と利益を見分けられる知恵と知識と経験である。
 比較的初期の松本零士氏のキャプテン・ハーロック的なイラストとあいまって、少年の私はわくわくしながら読んだのであった。
 今読み返してみると、まさしくジュブナイル冒険活劇である。科学的な根拠のことは忘れていい。そんなものはこのスペース・オペラ、宇宙の西部劇の前にはどうでもよくなるのだ。
 古き、よき時代のSFである。いい時代だったのだ。
 本書は、題名にあるとおり、宇宙船の墓場、宇宙船が難破し、失踪する宇宙のサルガッソー惑星の話である。調査局のオークションで競り落とした安い惑星の通商権。ところがその惑星は、かつて惑星規模の戦争によって焦土となっており、ほとんど無価値な惑星であった。失望する太陽の女王号のメンバー。そこに、「先史文明」調査のために惑星まで太陽の女王号をチャーターしたいという考古学者が登場する。
 惑星には秘密があったのだ。「先史文明」の遺蹟の中に生きているシステムがあった。それは、惑星に近づいた宇宙船を不時着させ、あるいは、飛び立てなくする驚くべきマシンであった。
 その秘密を利用して海賊行為を働くものたちと、惑星の権利を持つ太陽の女王号のメンバー、さらには、星間パトロールまで登場し、「先史文明」の遺蹟をめぐって戦いがはじまる、というような話だ。
 今やなかなか手に入らない作品だが、松本零士ファンにはおすすめのイラスト満載。
(2005.6.10)

ゲイトウエイへの旅

ゲイトウエイへの旅
THE GATEWAY TRIP
フレデリック・ポール
1990
 ゲイトウエイ総集編である。正シリーズである4冊の主人公ブロードヘッドはまったく出てこないが、彼と後に関わる数人や、正シリーズでエピソードとして語られる人たち、出来事が短編連作として1冊にまとめられている。
 ブロードヘッドの視点ではなく、ゲイトウエイ世界を淡々と語る者の視点であり、いつも混乱していたブロードヘッドとは違って、とても整理され、読みやすい。ゲイトウエイ世界はこんなところだったのだということが、思い出され、そして、その美しさ、人類の限りない欲などを楽しむことができる。
 本書を読めば、ゲイトウエイ世界と、人類がヒーチー遺蹟に出会い、ゲイトウエイを発見し、人口問題を解決、ヒーチーそのものに出会う直前までのおおまかなストーリーを知ることはできる。そして、ゲイトウエイの調査船に乗り、宇宙の様々な姿をともに歩くことができる。どこにいくか分からないがどこかには行って、そして生きて帰れるかどうか分からないが、だいたいにおいて帰ってくることができて、もしかすると宝物を手に入れることができるかもしれない旅。その魅力は本書でも存分に書かれている。本書を読んで、ゲイトウエイ正シリーズに入るのもよいだろう。しかし、ゲイトウエイシリーズのおもしろさ、特異さは、ブロードヘッドという主人公の性質によるところが大きいので、できれば、正シリーズを先に読んで欲しい。もっとも、ブロードヘッドの性格や行動が嫌いで、途中で正シリーズを放り投げた人は、本書をお薦めする。ブロードヘッドが出ていないゲイトウエイ世界を楽しめるのだから。
 なお、ゲイトウエイについては、このほか、「SFの殿堂 遙かなる地平2」(ロバート・シルヴァーバーグ編)の中に、1作品が掲載されている。こちらは、シリーズ後半とうまく連動した作品で、実に読み応えのあるゲイトウエイジュブナイルになっている。気になる方はぜひ。
(2005.6.6)

竜を駆る種族

竜を駆る種族
THE DRAGON MASTER
ジャック・ヴァンス
1962
「タフの方舟2」(ジョージ・R・R・マーティン)の解説に、本書の名前が出ていたので、書棚の奥から取り出してきたのが「竜を駆る種族」である。昭和51年の発行日(文庫初版)と250円の価格が古さを物語る。中学か高校の時に買って読んだ本の1冊であろう。
 中身についてまったく記憶はなく、今回、あらためて読んで、本書が後の「ドラゴン」作品に与えた影響について考えさせられた。
 宇宙に散っていた人類はいつしか衰退の時を迎え、辺境の惑星エーリスでも細々と生きていた。彼らは、かつて彼らを襲った卵生爬虫類的な宇宙種族ベーシックの攻撃を受け、それをなんとか退けることができた。そして、捕らえた者たちを品種改良し、知性を持った兵士として人類種族同士の勢力争いに使っていた。それが、竜である。
 一方、かつて彼らを襲ったベーシックは、それ以前から人類を品種改良し、兵士をはじめ様々な用途に使ってきた。
 2つの勢力の間で戦争を繰り広げる惑星エーリスの人類。しかし、惑星エーリスには、もうひとつ、波羅門(ばらもん)と呼ばれる人類種族がいて、彼らは、世俗とは離れ、超越的な世界観を有していた。
 そこにふたたび、ベーシックが、人類を狩り、滅ぼすためにやってきた。
 いまここに、人類が使うベーシックを改変した竜と、ベーシックが使う人類を改変した敵兵が、はじめて相まみえる時が来た。生き残るのはどちらだ!
 というようなおおよその話である。
 宇宙での竜を使ったファンタジー的物語といえば、アン・マキャフリーの「パーンの竜騎士」シリーズを思い浮かべる。これが、1968年初出ということになっているらしい(というのは、今、人にパーンシリーズを貸し出していて、確認がとれない)ので、ヴァンスの品種改良竜の方が先ということになるだろう。
 マキャフリーの流れるような物語もたまらないが、ジャック・ヴァンスの場面展開と異質な世界観を軽々と描き出す世界もまた魅力的である。これが中編で終わっていることは実にもったいない。
 私は、ほとんどファンタジーや「剣と魔法」ものを読まないが、竜(ドラゴン)にはついつい惹かれてしまう。洋の東西を問わず、竜というのは人を魅了してやまない存在なのだ。
 竜好きのSFファン、ファンタジーファン、あるいは、せっかく「タフの方舟」で竜に出会った人たちや、「パーンの竜騎士」シリーズで、竜はファンタジーのためだけのものではないことを知った人たちには、ぜひ読んで欲しい作品である。また、最近、「フューチャー・イズ・ワイルド」のテレビと本で話題となったドゥーガル・ディクソンがかつて書いた未来の人類の変容「マンアフターマン」や、恐竜が絶滅しなかった世界を書いた「新恐竜」の迫力ある異様な絵が好きな人にもお勧めしたい。
 なにより、執筆後40年以上経っているのに、決して古くないのだ。
 むしろ、アニメやゲームにできそうな完成度である。
 古き懐かしき、素直なSFだが、その素直さこそ、まだまだ学ぶべきところは多い。
ヒューゴー賞受賞
(2005.5.30)

タフの方舟(2天の果実)

タフの方舟(2 天の果実)
TUF VOYAGING
ジョージ・R・R・マーティン
1986
 承前である。本来は1冊にまとめられた連作短編集を日本で分冊にしてあるのだから、特に評することもないのだが、前作を読んだ段階で一度評してしまったため、後編も少しだけ語ることにしよう。
 本書には、後半4話が載せられており、うち2話が新しく1985年に発表されたもので、2話が1976年、78年の初期作品である。初期作品2作を読むと、主人公のタフさんがいかにあこぎか、ていねいに、しつこく描かれており、素直に楽しめる。
 新しい2話は前作の第2話と同じ惑星を描いており、テーマは人口問題である。
 新たな食料供給手段を提供しても、人口抑制措置をとらない限り増え続ける惑星の人口。すでに、農業や工業的食料増産手段も限界を迎えつつあったが、産めよ増やせよ地に満ちよという宗教観、世界観の前にはなすすべがなかった。
 タフさんは、タフさんなりの合理的精神と今生きているものの生命は尊重するという価値観からある解決策を思い立ち、それを提示する。周辺5惑星との全面戦争の道か、間近に迫る飢餓と暴動と文明崩壊の道か、それともタフさんの提示を受け取るのか、選択できるいずれの道も茨の道である。この選択は、もはや人の選択ではなく、「神」のしかも思いっきり「禍つ神」の選択である。あなたなら、どんな選択をするだろうか。
 10年以上前に私に向かって冷たい目の人がこう言い放った。「つまるところ環境問題の最大の問題とは人口爆発である」と。エネルギー問題も、食糧問題も、自然破壊も、資源の乱獲も、地球温暖化(当時はまだこの表現ではなかったが)も、結局のところ、増え続ける地球人口によって発生しあるいは抑制が困難になっているのは事実である。また、今日的問題である水不足、国際紛争の多発、エイズの蔓延、新たな伝染病なども、土地や食料や資源の再分配に係る問題であったり、都市機能が流入人口によって麻痺したり、新たな農地開拓による生態系の擾乱によるものであったりしている。個別問題としての環境問題や食糧問題、エネルギー問題に対しては、それぞれに当面の対応策と方向性、それに向けた世界観、価値観の変更が示されているものの、人口爆発に対しては、これといった対策がとられていない。  世界でも例のないほど急速な高齢化と少子化を迎えている日本だが、この背景には、移民を決して認めないという変わらない閉鎖社会があることは、今もまだ発展途上国的な人口構造をみせるアメリカをみれば明かであり、ヨーロッパ諸国との対比でも差を認めることができる。今や日本という国家にとっては、日本民族を増やすことが政策課題になっているが、これはとても視野の狭い見方であると言えよう。それでも、子どもを増やす=産み、育てるという実際の行動をとらなくても、この世界観を共有するものが多いのは、我々が日本という世界観を共有しているからである。だから、視野が狭いのだが。同語反復に陥るだけだ。
 世界全体に目を向けてみれば、人口爆発は予想よりゆるやかであっても引き続き起こっている。そもそも、現在に至るまで人類は一度たりとも食料や資源の再分配を適正に行ってきたことはなく、常に一方に飽食と傲慢なほどの貪欲を抱え、片方には貧困と飢餓を抱えてきた。現在でさえ、食料は全人類を十分に生かすだけの量を持つが、分配は偏在している。そして、人口は増え続け、食料をはじめとする資源の地球上での生産には限界を感じている。
 あと、どれくらいの時間を持つのだろう。
 あと、どれくらいの人口を養えるのだろう。
 養えないとすれば、誰が飢え、誰が死ぬのだろう。
 それを選ぶのは誰だろう。
 誰にならば、残酷な選択をまかせられるのだろう。
 それとも、それは誰かにまかせることではないのだろうか。
 10年以上前に私に「人口問題」を本質と語った人は、その解決について何も語らなかった。いや語る言葉を持たなかったのだ。指摘するだけならば、誰でもできる。
 では、人口問題を解決するために、何をすべきか、何ができるのか。
 タフの方舟は、ささやかでユーモアに満ちた作品であるが故に、わずかなページで、私たちが抱えながらも、ささやかな対処しかできない大きな問題に対し、選択をつきつけることができる。
 それは、この本を読んで笑うことができる余裕すら持たない人たちにも影響を与える選択であり、しかも、現段階で、彼らを私たちと同様に「余裕」を持たせる「余裕」を私たちは持たない。その失礼さ、酷薄さを、私たちは無意識に持っている。
 だから、本書の最後のテーマはあまりに重い。
 しかし、避けることもまたできない。
 私はタフさんではない。世界は、今のところ地球しかない。
 だから、もって回って考え、行動するしかない。
 何をすべきか、何ができるのか、自分もひとつの存在として、他者も同様の存在としてタフさんとは違って、私も他者も同じ立場において、何が選択できるのかを。
 ちなみに、最終話以外は、前半同様軽く、楽しく読めることうけあい。
 最終話だって、軽く読めなくはないので、ご安心を。
 帯には「イーガン、チャンがわからなくても、この本の面白さはわかります」とあるが、まったくもってその通り。1986年発表の本書だが、今もまだ旬である。
(2005.5.29)