漫画 星の時計のLiddell

漫画 星の時計のLiddell (あるいは遅くなったラブレター)

内田善美
1986

 内田善美の作品と出会ってからもうまもなく40年になる。「星の時計のLiddell」は大学生時代の後半に出会い、その知性と感性に衝撃を受けた。社会に出て右往左往、好き勝手と言えば好き勝手、風まかせと言えば風まかせ、親には「何をしている人と言えばいいのか?」と問われることしばし、それでもそれなりに生きてきたが、辛いとき、判断に迷うとき、喪ったとき、支えてくれたのがこの作品である。
 数年ぶりにページをゆっくりとめくり、そこに1980年代の未来への希望と絶望のないまぜになった世界のありようと「予感」をあらためて見つけ、いまの自分の立ち位置と、ここからの未来と過去の光円錐を思い描くことができた。
 歳を重ねてよいことは、老眼も進み、ゆっくり、じっくり絵を見つめ、ページをめくるようになったことだ。若い頃は絵は全体で把握し、言葉を流し、読みながら、その世界に入り込みつつも自分の頭の中の思考を転がすのに忙しかった気がする。性格的なものだろう。一枚一枚の絵に描かれた風景、情景、表情、動き。絵と絵の間の動き、言葉の間、そういうものを気にするようになった。そうすることで物語にさらなる深みが増し、心に満ちていく気がする。そして気がつく。まだまだこの作品を読めていない、と。

 さて、絶盤になり、再版の見通しもない作品故、ネットではあらすじが紹介され、おおまかなことは書かれている。一言で言えば、幽霊になった男と、幽霊になった友が幽霊になるまでを見つめる、心に穴の空いた男の話である。舞台は1980年代初頭。レーガンが暗殺されかけ、スペースシャトルが2回目のフライトを行なうそんな時代。風と湖の町シカゴにユーリ・ウラジーミルが2年ぶりに帰ってくる。親友のヒューと再会し、ヒューが時折睡眠中に呼吸も心臓も動いていないことに気がつく。ヒューは夢を見ているだけだという。古いヴィクトリアンハウスとそこにいる少女、金木犀、バラ園。ヒューの「夢」が気がかりになり調べ始めるユーリ。シカゴで少し変わった知的なグループと出会い、彼らとの会話をくり返す。人間のありよう、世界のありよう、この先の未来と人類のありよう。人口増加、戦争、自然破壊、人間の欲望と適応能力、不安と悲しみ。それはユーリの探している答えの方向ではなかったが、にいくつもの示唆を与えてくれる。やがてヒューは「夢」の「家」を探して全米を旅することを決める。ユーリは黙ってそれに同行する。ふたりの旅がはじまる。そして「家」が見つかり…。
 帝政ロシアの時代にロシアを離れた旧ロシア貴族の孫であるユーリは、心の中に「存在しないロシアという故郷」をはじめから喪っていた。喪失感だけをかかえて生きていた。人と深く関わらず、心の赴くまま、知的好奇心のままに世界を旅して生きてきたユーリが、はじめて深く人と関わり、友としたヒュー。ユーリにはヒューの心の動き、ありようはずっと分からずにいた。それ故にユーリはヒューに惹かれたのだろうか。ヒューが見ていた先、それは時空のはるか遠くにあったのだ。

 21世紀、人口まもなく80億人のいまとなって読めば、いくつかの内容的な粗も出てくる。たとえば日本語ネイティブの脳と非日本語ネイティブの脳では音の捉え方が違うとかいう記述はあるが、確かに80年代にはそういう学者がいたし、ブームがあった。作者がそれを採用したとしても何も問題はないだろう。
 一方で、後半に向かって示唆される人類と地球の行き詰まり感についての登場人物の議論は形而上的ではあるが今日においても必要な議論だと思う。当時から言われたことだが、40年経って、この作者の問いかけはますます重要だ。
 もちろん、本作はファンタジーである。なにより登場人物が幽霊になるのだから。それでも時代を反映し、先読みし、希望と絶望を内に秘めながらも、一枚一枚の絵に込められた思いと願いの美しさは深く心を打つ。

 物語の最後の方で、この「家」ヴィクトリアンハウスに暮らしていた老婦人が初対面のユーリ対し「この世のものの美しさをみんな愛することができた私どものために…、私どもはこの世のものでないものさえも愛することができました。あなたは父の幸福な生涯を真に幸福なものにしてくださいましたわ。父はあなたにお会いできたのですもの」と語る。
 家が見せてくれた美しい夢=幽霊と、その幽霊が待ち望んでいたウラジーミルの訪問。こうして夢は結実する。
 私は、この老婦人の台詞を内田善美に対して言いたい。もちろん、この作品だけがすべてではないが、この作品があったからこそ、私は私の内側の醜さを自覚し、世界を美しく見るための目を養い、これまで心折れずに生きてこれたのだと。自分が幸福であるための鍵のようなものがこの作品の中に込められていたのだと。

 40年近く遅くなったけれども、内田善美氏と、内田善美作品を教えてくれた友人には感謝しても感謝しきれない。ありがとう。私が死ぬまでずっと感謝しています。

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量子魔術師

THE QUANTUM MAGICIAN

デレク・クンスケン
2018

 超未来を舞台にした「ミッション・インポシブル」だ!
 ワームホールで拡がった人類世界。人類よりはるか以前に宇宙にワームホールネットワークを築いた先駆者たちがいた。人類世界はこのワームホールを利用し、版図を広げていた。ワームホールを持つ政治体制をパトロン(国家)、それを利用するだけの政治体制をクライアント(国家)と呼び、その力関係は絶対的である。
 出自たる地球の政治体制、経済体制の延長上に世界は組み上がり、拡がっていた。
 そんな世界で、新人類ホモ・クアントゥスのベリサリウス・アルホーナは、サブ=サハラ同盟のアイェン・エカンジカ少佐を通じて仕事の依頼を受けることになった。それは絶対に不可能な仕事であり、政体を相手にした軍事的詐欺行為である。ベリサリウスは、この仕事を成功させるために人類とその親族ともいえる複数の改変された新人類種族のプロを集めて「しかけ」にかかるのだ。

 ことのおこりはこうだ。40年前、パトロン国家の金星コングリゲートがクライアント国家のサブ=サハラ同盟に対し、中華王国領への武装偵察ミッションを指示した。その生還は想定されておらず、言ってしまえば大国間のちょっかいのかけあいでしかなかった。
 そのサブ=サハラ同盟の第六次遠征隊は作戦中に新たな宇宙航行機構技術を見いだし、深宇宙に隠れて新ドライブ機構を設計、戦闘船団に搭載した。このドライブ機構があればコングリゲートから独立することが可能になる。そこで第六次遠征隊はサブ=サハラ同盟に秘密裏に戻るため、パペット神政国家連盟のパペット・ワームホールを通過しようとしたが、パペット神政国家連盟側は、その戦闘船団の半分を通過費用として要求したため、第六次遠征隊は詐欺師のベリサリウスにそれなりの報酬をみせてうまく通過させるための詐欺的仕事を依頼したのである。
 この難題を引き受けたベリサリウスは自身とエカンジカ少佐を含め9人のチームを組むことにした。
 彼らを紹介しよう。
 まず、登場する新人類は3種族。

 ホモ・クアントゥスは、アングロ=スパニッシュ金権国にある銀行の計画により生み出された新人類。超天才的な数学能力をもち、一時的に自己を量子知性体に変容させる量子フーガと呼ぶ能力を持つ。

 ホモ・エリダヌスは、自らをモングレル(雑種)族と称し、水圧の高い深海でしか生きられない新人類。その特殊能力からコングリゲート航宙軍の準傭兵パイロットとして高度な反射運動能力を発揮する。

 ホモ・ブーバは、通常パペット族と呼ばれる。創造主であるヌーメンを崇拝するように生化学的につくられた奴隷種族であり、ヌーメンによる人類の最悪の犯罪の結果である。ヌーメンは奴隷種族を恐れ、ミニチュアサイズの新人類としてパペットを設計した。パペット属はヌーメンなしには生きられないが、反乱を起こし、ヌーメンを支配下に置き、パペット神政国家連盟となった。なお、ヌーメン自体はパペット族が感応するフェロモンを出すほかはオリジナルの人類と変わらない。

ベリサリウス・アルホーナ 新人類ホモ・クアントゥス、詐欺師。量子フーガ状態を持続できずクアントゥスとしては能力が不安定。他の同属よりも社会性を持つ故に故郷を離れ、ひとり暮らしていた。

カサンドラ・メヒア ホモ・クアントゥス。ベリサリウスの幼なじみ。他の同属と同じく計画の拠点である小惑星ギャレットから離れずに暮らしていた。

ウィリアム・ガンダー 人類。65歳ぐらいの詐欺師。ベリサリウスの師匠である。現在犯罪で収監中。治療不能の病気で余命わずか。娘の将来のためにベリサリウスの依頼を引き受ける。

マンフレッド・ゲイツ=15 ホモ・ブーバ。生理的にヌーメンの神格性を認識できないがゆえにパペット世界から追放されて生活しているホモ・ブーバ。

セント・マシュー アレフ級と呼ばれる超一級のAIのひとり(ひとつ)。自律行動可能なロボット態。アングロ=スパニッシュ金権国の銀行が開発したが自らを転生した聖マタイだと考え、業務に使えないため幽閉されていた。ベリサリウスを雇って自らを解放させた過去があり、現在はキリスト教会を運営している。

アントニオ・デル・カサル 違法天才遺伝学者。ギャンブルと金に目のないマッド・サイエンティスト。

ヴィンセント・スティルス ホモ・エリダヌスのトップパイロット。トップの深海ダイヴァーとして他者に勝ち続けている。

マリー・フォーカス コングリゲートの元航宙軍下士官、現在収監中の爆発物のプロ。かつてベリサリウスとともに仕事をした。

 それぞれの能力を発揮し、ミッション・インポシブルを成功に導けるのか、信頼、反目、裏切り、そして、彼らを追うコングリゲートの秘密組織…。二重三重のだまし合い。最後に笑うのは? そして、泣くのは?

 物語の書き出しはこうだ。
「おそらく、ベリサリウス・アルホーナは詐欺の計画と量子世界に類似性を認めたこの世でただ一人の詐欺師だろう」

 ハードSF、サスペンスSF、アクションSF、ミリタリーSF…。ザッツエンターテイメント。取っつき悪そうだけど、おもしろい作品だ。

漫画「プリニウス」

PLINIVS

ヤマザキマリ&とり・みき

 10年全12巻にわたり連載されていた「プリニウス」が完結した。
 プリニウスとは、後のキリスト歴(西暦)79年のヴェスヴィオ火山噴火によるポンペイ壊滅で亡くなったことが知られている古代ローマの博物学者、軍人、政治家であり「博物誌」を記したことで知られるガイウス・プリニウス・セクンドゥスのことである。
 世界史などでその名は知っていたし、澁澤龍彦の「私のプリニウス」など80年代後半にちょっとしたブームにもなっていたが、自然科学と伝承や伝奇がまざった博学の人といった程度の知識しかなかった。
 そこに登場したのが、古代ローマを舞台にあるときはコミカルに、あるときは人間の欲や真理にするどく切り込む漫画家ヤマザキマリと、基本はギャグ漫画家でありつつも時に「はずかしい」作品を発表、希代の映像収集家であり、吹き替え研究家であり、伝奇物語も得意とする異能の漫画家とり・みきの共作による漫画「プリニウス」である。
「博物誌」を編纂するために世界の万物事象を収集するプリニウスと同時代の「暴君」ネロを中心に、さまざまな人物が登場する。プリニウスの周辺にはプリニウスが「博物誌」に再録している摩訶不思議な動物、植物、異種族の姿もある。
 本作の「プリニウス」が旅する世界は、「博物誌」の世界であり、ネロを中心とした歴史物語の世界でもある。そのどちらにも虚実がまざりあい、世界の奥深さ、人間の業の深さが描かれる。
 本作はヤマザキマリがとり・みきに声をかけてはじまったそうだが、人物はヤマザキマリ、背景はとり・みきを基本にしつつ、ストーリー、台詞、コマ割りなど時に役割を変わりながらまさしく「合作」として融合した作品となっている。たしかに、細かく見ていけば、ここはとり・みき、ここはヤマザキマリと明らかにタッチが異なったり、得意不得意が出てくる場面はあるが、そもそもとり・みきは若い頃に「○○先生風」漫画を書くなど器用なところがあるのでほんとうのところは分からない。むしろ、「ヤマザキマリ&とり・みき」という複雑な精神を持った作家がいると思って読んだ方が良いかも知れない。

 さて、物語であるが、第1巻の冒頭で79年のクライマックス直前、大噴火が起き地震活動が活発に起きている場面にはじまる。そして一旦暴君ネロの治世に戻り、ポンペイからローマ、アフリカ、中東と旅するプリニウスが描かれる。並行して時の世界の支配者である古代ローマ帝国の若き帝王ネロとローマの姿が対比的に描かれる。ローマから見た世界の周辺でプリニウスと、その筆記者であるエウクレス、護衛のフェリクスの3人の一行はあたかもテレビドラマの水戸黄門一行のような珍道中を続け、半魚人、象、大蛸、古代遺跡、頭部がなく胴に顔のある人種などに出会ったり、出会わなかったりすう。ときにプリニウスはネロに呼びつけられ、空気が悪く自然の少ない大都会ローマに帰っては、持病のぜんそくを悪化させ、ローマの政治、人間関係の業と欲に辟易としてローマを脱出するのである。すべては79年のクライマックスに向かって。物語は、ネロの死をもって一段落し、一度プリニウスの子ども時代、青年期を描いた上で、最後のシーンへと向かう。
 なんということだろう。この物語ははじまったときから最後が決まっていたとも言えるのだ。そう、プリニウスの死に向かってすすむ物語だったのである。
 しかし、その終わり方はいかようにも描ける。
 なんといっても2000年ほど前の歴史なのだから。

 各巻にはふたりの作者の対談が載せられている。ちょっとした種明かしでもあるし、楽屋話でもある。最終巻では、最後のシーンに向かって、ヤマザキマリの中にいるプリニウスととり・みきの中にいるプリニウスの姿がずいぶん違ったことを明らかにしている。そこでも述べられているが、それこそがまさしくプリニウスの多面的な姿の表れでもあったのだろう。フィールドを歩く研究者であり、軍人であり、政治家でもあるのだ。そう聞くと三國志の「曹操」を思い出すが、曹操がまず政治家であり軍人であったのに対し、プリニウスはなにより研究者であり、古代ローマの市民の義務として政治家、軍人であったに過ぎない。ただ万能であっただけである。
 著者らも述べているが、日本で19世紀から20世紀にかけてフィールドを駆け回り、万物を収集せんとした南方熊楠がもっともイメージ的には近いのだろう。ただ、熊楠よりもコミュニケーション能力は高かったようであるが。

 物語に印象的なシーン、台詞はたくさんあるが、最終巻に掲載されているなかでは「17年かけて元通りにしてきたのに」という水道技師の一言のコマが心に残った。
 これはプリニウス一行がこの物語での旅の最初の頃にポンペイの大地震に遭遇するのだが、その地震のあと水道設備を修理するためにローマから派遣された技師の台詞である。
 この一言で、プリニウス一行の旅、すなわちこの物語が17年の長さであったことをあらためて読者に感じさせるとともに、技師として17年かけてようやく完全復興を遂げた新たな水道施設が、最後の大噴火で壊滅を避けられないと悟ったときの絶望の一言でもある。
 本作は啓蒙的な作品ではないが、人間が時の欲のままに自然を破壊し、未知を既知として自然のありさまを蹂躙することについてときおり描いている。同時に、時間の流れが、人間がくみ上げたものをいとも簡単に無に帰すことも描いている。
 そんな人間の相克のようなものを人間サイドに立って語ったのが上記の水道技師の一言である。この台詞に魂が籠もるためには、その間のネロの治世の時代があり、プリニウスの旅の時間が必要だったのである。なんとまあよくできた作品である。

 とり・みきは、いまや幻となったデビュー作以来のファンとして、ほぼすべての単行本を所有し、ときに繰り返し読んでいるが、80年代以降の作品の多様さはもっと注目を集めてもいいと思う。本書にも通じる「石神伝説」は未完であり、どこかの出版社にはあらためて執筆を求めてくれないものだろうか。
 

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映画「金星怪獣の襲撃 新・原始惑星への旅」


VOYAGE TO THE PLANET OF THE PREHISTORIC WOMEN
1968

 ついつい見ちゃった。1968年公開のアメリカ映画、なのだけど、ちょっと調べてみたらいろいろあった。元ネタは旧ソ連のSF映画「火を噴く惑星」(1962)で、それをアメリカで再構成、再編集、追加撮影、吹き替え等々でアメリカ映画にしちゃった作品。しかも、1965年に一度「原始惑星への旅」として公開したものを、再々編集したのが本作「金星怪獣の襲撃 新・原始惑星への旅」。1965年版はロジャー・コーマン総指揮、1968年版は ピーター・ボグダノヴィッチ監督作品。

 話は当時よくあるB級宇宙怪物、美女映画。舞台は未知の惑星・金星。人類未到の惑星を2人の男が初探査する。そのうちのひとりが開発製作したロボットも一緒だ。金星につくなり金星のテラノドンのような怪鳥に襲われ宇宙船は海の底に落ちてしまう。このふたりを救出するために3人の男たちが金星に向かう。到着すると、人食い植物に襲われたり、古代文明を発見したりするが、実は金星には超能力をもった女性たちが生きていた。女性たちはテレパシーを使い、テラノドンを神としてあがめている。テラノドンを襲った宇宙人(彼女らの視点)を攻撃するため、豪雨や噴火などを超能力で起こすが…。
 女性たちは海際と海の中で暮らし、大きなホタテ貝のようなもので胸を隠している。

 SFが馬鹿にされていた時代だね。ベム(恐ろしい宇宙人、宇宙怪物)と美女を出しておけばいいと思っている時代。

 それにしても、それにしても、冷戦下の米ソ、赤狩りが一段落していたとはいえ、いったいどんな契機でソ連SF映画がハリウッド映画に変わったのだろう。
 これは、「火を噴く惑星」も見てみなければ。ロシア語わかんないけど。
 お、youtubeにあるぞ。
https://youtu.be/pd2RlatmNRk

映画「ラ・ジュテ」

La Jetee

1962

 フランスのSF?短編映画。クリス・マルケル監督・脚本・撮影。フランスのヌーベルバーグ(革新的映画運動)のひとつだね。モノクロ映画でほぼすべてスチール写真の連続で構成されている映画だ。第三次世界大戦後のパリ。過去と未来に希望をよせる支配階級が奴隷階級を使って時間旅行の実験を繰り返す。そのひとりが過去への旅の能力を開花させる。それは、子どもの頃にみたオルリー空港での女性の強い印象によるものだった。過去に旅をして女性と出会い、交流する主人公。実験は次の段階に進み、未来にも旅をさせることに成功する。現在の世界を救うため、未来人を説得しようとする主人公。はたして成功するのか。そして過去の女性との関係は? ちょっとしたタイムパラドックスを含んだベタなタイムトラベル映画ともいえる。

英語字幕版

星は人類のもの連盟

THE LONG RESULT

ジョン・ブラナー
1965

 長年の課題作をようやく手に入れて読めた。嬉しい。タイトルがすごいよね「星は人類のもの連盟」だよ。1965年発表で1975年に邦訳出版された。なんと初版を手に入れてしまった。状態もきれい。コレクターってすごい。
 原題は「THE LONG RESULT」。意味深。「時の流れの果てに」みたいな感じかなあ。これを「星は人類のもの連盟」としたところが邦題のすばらしさだね。
 舞台は未来の地球。地球は亜光速飛行技術を手に入れいくつかの星系に人類は植民を果たした。人類の植民星はそれぞれに文化的、科学技術的に地球とは違う発展を遂げた。そしていくつかの異星文明に遭遇し平和裏に交流するようになった。恒星間航行技術を持つ異星文明はなく、地球は人類の外惑星世界と異星文明世界の盟主を自負する存在であったが、もちろん侵略的思惑はなく言ってみればまあ「態度がでかい」ぐらいであった。地球には宇宙港があり、外惑星世界や異星文明と地球の交流の窓口となる「文化交流局」が設置されていた。
 主人公のロアール・ヴィンセントは若くして文化交流局の幹部となったエリートのひとりであるが、仕事はそつなくこなし、プライベートを充実させたいと若くして老成したような性格の持ち主である。すでに人類は1、2世代の間に長寿を確立し、100歳を超えても現役で働くことは当たり前の社会となっていたのだ。その時間の長さから何ごとも慌てない性格が出てきてもおかしくはない。
 ところがそのロアールに災難がふりかかる。人類の外惑星であるスターホームがはじめて独自に開発した恒星船で地球に到着するのだが、その直前になって新しく出会ったトー・セティ星人の一行を乗せており、人類との交流のための交渉を求めてきたのだ。どうもスターホーム側ではトー・セティ星人をうまくお世話できなかったようである。
 この事態に、肝心の交流チームの主要メンバーが不在であり、「暇なはず」のロアールに急きょ対応するよう交流局長からの指示が下ったのだ。
 ロアールは結婚まで考えているガールフレンドのパトリシアとの食事を諦め、宇宙港に向かうのだが、そこで事件が起きた…。
 異星人を狙うテロが発生したのである。犯行は「星は人類のもの連盟」によるものと考えられた。この団体は古くからあり、宇宙は人類が支配すべきというものだが、組織規模、資金面からもたいしたことのないグループと見なされていたが、ここにきて事態は変わってきた。
 はたして「星は人類のもの連盟」の狙いは何か?その背後には何があるのか?
 そこには地球と人類の未来を左右するできごとが待っているのだった。

 さてさて、原題にあるような 長い長い時の果ての結果はどうなるのだろう。

 1965年の作品なので女性を軽視するなど、当時の価値観や行動が含まれていることは指摘しておくが、同時に、ジョン・ブラナーの未来予測のいくつかはさすがである。
 自動衝突回避技術を持つ自動運転自動車、嘘発見器の活用、長寿による労働環境、生活意識の変化などはうまく書かれている。また異星人・外惑星人フォビアに対して、多様性を前提とした共生社会を模索し、紛争を回避する思想などはきわめて今日的なものであり、1965年という地域紛争と冷戦と人種差別の時期を考えれば、現実の社会の変容を志向、提起した作品であるとも言える。

 本書から10年後に発表された「衝撃波を乗り切れ」(The Shockwave Rider 1975)もいつか読んでみたいなあ。

ラット・ランナーズ

ラット・ランナーズ
RAT RUNNERS

オシーン・マッギャン
2013

 すごく読みやすいヤング・アダルト近未来SF。舞台はロンドン。警察国家、超監視社会、格差社会の未来都市では、すべての人が監視対象となっている。町中の監視カメラ、監視塔、さらに顔もすっぽりと隠して様々なデバイスを身につけた「安全監視員」がウォッチワールドからの指令を受けながら公道、私邸を問わずプライバシーを侵しながら不法・違法行為を探している。その中には、たとえばブラッドベリの「華氏451度」のような危険思想の本の摘発も含まれている。
 ただし子どもの成長を考え16歳になるまでは厳しい監視を免除されている。
 裏社会のボスたちは、だからこの少年少女たちをうまく使い、監視の目を逃れながら様々な犯罪行為を行なってきた。様々な理由から少年少女たちもまた裏社会に依存して生きてきたとも言える。彼らは町の屋根裏などを走り回るネズミ、すなわちラット・ランナーと呼ばれていた。

 15歳の少年ニモはそんなロンドンでさまざまな知恵と技を使って一人で生き抜いてきた少年。事件はひとつの殺人事件からはじまる。ホームレスだったニモに部屋を貸してくれている科学者のワトソン・ブランドルが何者かに殺された。ブランドルは殺される直前に隣室に住むニモに「安全監視員から隠して欲しい」と小さなケースを渡していた。
 このケースをめぐって裏社会が動き出す。
 ニモは、裏社会のボスに呼び出されブランドルのケースを探すよう命令される。裏社会ではニモがブランドルの隣室の少年だとは知られていないのだ。その場でケースを渡すこともできたが、ニモはブランドルの殺人犯とその動機を追及したいと考え、ボスには自分のことを黙ることにした。
 ニモは、変装がとくいな少女マニキンとコンピュータハッキングを得意とするFXの兄妹、それにボスの秘蔵っ子でコンピュータをはじめバイオ技術、化学技術に精通する少女スコープとともに「ケースを探す」ミッションを開始する。
 それぞれにボスに弱みを持つ4人の少年少女がお互いに疑心暗鬼をいだきながらも専門知識と技能を活かしながら複雑にからみあった状況に対応していく。

 ヤング・アダルト小説にありがちな恋愛要素なしである。そんなところで読ませないぜ、という作者の矜持を感じる。
 この4人のラット・ランナーズのそれぞれの視点で書かれているので、いわゆるハードボイルド小説とまではならないが、十分にスリルのある作品に仕上がっている。

 近未来小説なので使われている技術自体はさほど新しいものはなく、インプラントデバイスがあったりするがRFIDのような小さなデバイスが多く登場して諜報活動に使われる。位置情報、盗聴、監視…。それは現在のほんの先の技術であり、これを権力と併せれば簡単に監視国家は完成する。この「ロンドン」では警察官の数はどんどん減って安全監視員ばかりになっていく。そういえば日本のアニメーションの「PSYCHO-PASS サイコパス」では「厚生省」が警察に代わって人の内面を「犯罪計数」で判定するシステムを完成させていたが、同じような方向性である。
 今日の技術の悪い方向に使われた世界が書かれた作品のひとつでもある。

荒れた岸辺

THE WILD SHORE

キム・スタンリー・ロビンスン
1984

 核戦争後の物語はSFのひとつの定番である。破滅SF、終末SFとも呼ばれたジャンルで翻訳物としては古くは「黙示録3174」(ウォルター・ミラー 1959)や映画化された「渚にて」(ネビル・シュート 1957)が有名である。映画化といえば「ポストマン」(デイヴィッド・ブリン 1985)は本書「荒れた岸辺」と同じく核戦争後のアメリカを描いていた。
 本書の舞台はアメリカ西部カリフォルニア海岸のオレンジ郡にある小さな村。ちょっとだけ南の方のサンディエゴも登場する。
 背景としては本書が発表された1984年にアメリカ国内でたくさんの中性子爆弾が炸裂し、アメリカ合衆国は壊滅した。しかし、全面核戦争にはならず、国連を中心に世界はアメリカを残して繁栄を続けていた。アメリカは国連により内部からの脱出と外部からの侵入を許さない封鎖状態にあり、カリフォルニア海岸周辺は日本が海域監視を行なっていた。
 それから60年ほどの年月が流れた。
 オレンジ郡のサンオノファーでは少数の生き残った人々が身を寄せ合い、助け合いながら自分達の暮らしを立てていた。残された廃物で家をこしらえ服を仕立て、近海で魚を捕り、作物を細々と育て、パンを焼き、ときに少し遠出をして交換市で情報を仕入れ、手に入らないものを手に入れる。病気や怪我で簡単に死ぬが、子どもも生まれる。
 主人公の少年ヘンリーは毎日の仕事を終えると悪友のスティーヴや仲間たちとともに様々な計画を練ったり、遊んだりしていた。長老のトムじいさんは先の「破局」の生き残りで、トムじいさんから本を読むことや世界の歴史や芸術などを少しずつ教わっていた。
 ヘンリーにとっての世界は小さな村であるサンオノファーがすべてであり、そこからほんの少し外に出ただけで、それは命がけの大冒険であった。
 そんなサンオノファーのもとに南部の「都市」サンディエゴから使者がやってくる。
 それはヘンリーにとっての新たな冒険であり、そして少年から大人へのほろ苦い成長の旅でもあった。

 ちょっと特殊な設定である。地球規模の破局ではなくアメリカだけの破滅、そのなかでも都市ではなく漁村の小さな集団の物語を軸としている。そのなかで、ほんの少し都会のサンディエゴや海の向こうの「世界」をヘンリーという少年の目を通して垣間見るだけである。本当のところアメリカはなぜ世界から嫌われたのか、誰が、どこの国がアメリカを破壊しつくしたのか、世界はそれによりどう変化したのか、生き残った人たちはどのようにして生きてきたのか、ヘンリーとサンオノファーの視界からは見えてこないことばかりである。
 しかし、その小さな世界には、濃密な人の関わり合い、人間の人間らしい勇敢さ、勇気や優しさ、誠実さと、それと同じくらいの醜さ、汚さ、愚かしさが同居している。それぞれの登場人物の清濁は複雑に絡み合う。このあたりの濃密な描写はキム・スタンリー・ロビンスンならではである。
 のちの「火星三部作」での群像劇を彷彿とさせる。
 いまでは手に入れるのが困難な作品だが、機会があれば読んで欲しい作品だ。

永遠なる天空の調

THE MEMORY OF WHITENESS

キム・スタンリー・ロビンスン
1985

「レッド・マーズ」「グリーン・マーズ」「ブルー・マーズ」の火星三部作の著者キム・スタンリー・ロビンスンの初期の長編作品である。解説では「ある意味ではデビュー作」と紹介されていて、作者がデビュー前から執筆、構想を温めていた作品であることは間違いない。
 なるほど。
 たしかに後の火星三部作や2012年に発表された「2312 太陽系動乱」での太陽系のあり方を彷彿とさせる。作者は火星のオリュンポス火山がことのほかお好きであり、水星の周回軌道(移動)都市のアイディアもずいぶんお気に入りのようである。読者である私も大好きだ。
 キム・スタンリー・ロビンスンの作品は読みやすい部分と読みにくい部分があって、情景描写が非常に細かく、それが心象描写ともつながっているので読み進めるのが難しい。とくに本書「永遠なる天空の調(とわなるてんくうのしらべ)」は、その設定から難しいのである。
 中心的な登場人物であるヨハネス・ライトは天才的な音楽家であり、「オーケストラ」マスターである。西暦3229年における「オーケストラ」とは我々の知るオーケストラとは根本的に異なるひとつの「楽器」である。それは音楽を奏でる楽器とコンピュータの複合構成物であり、その時代に唯一選ばれたひとりのマスターが演奏する太陽系で唯一の存在である。

 人類は2052年に最初に火星に入植をはじめる。その後太陽系に拡張をはじめたが300年ほど前、天才数学者・物理学者のホリウェルキンが「変化の十形式」と呼ばれる論文を発表。それは大統一理論を含むものであり、その理論を応用して太陽からエネルギーを直接的に獲得する技術が開発された。また重力の制御についての理解も進み太陽系には重力1Gで太陽の光とエネルギーに照らされたコロニーが次々と建設されていった。
 3229年とはそんな時代である。ホリウェルキンは「変化の十形式」の理論を通じて宇宙の法則が「音楽」と密接につながりをもつことを伝えるために自ら「オーケストラ」を設計した。きわめて複雑な「オーケストラ」の演奏は、人と人、人と宇宙を革新させる力を持つと考えられ、その演奏は太陽系中の関心事項ともなった。
 いま、ヨハネス・ライト8代目のマスターとして外惑星型から火星を経て地球に向かうコンサートツアーの途にあった。ヨハネスと彼の「オーケストラ」と運営や保安、照明などのスタッフを乗せた宇宙船とツアーを追っかけるファンたち、さらにはそれぞれのコロニーや惑星での観客。話の回し手は音楽ジャーナリストのデント・アイオスが相務める、長く壮大な物語。
 物語の影にはグレイ派とよばれる宗教団の存在と音楽協会の役員会議長にして秘密結社を組織しグレイ派ともつながりを持つエルンスト・エイカーンの陰謀が。

 この物語をなんといったらいいのだろう。
 まるで壮大な歴史小説を読んでいるかのような気持ちになるのだ。
 主人公たちは外惑星型から天王星、冥王星(当時はまだ惑星の位置づけだった)のコロニー星系を経て火星、そして地球に旅をする。ヨハネスはホリウェルキンの「変化の十形式」がもつ宇宙の法則と音楽の関わりの真実を明かそうと苦悩しつつ作曲と演奏を続ける。ホリウェルキンの真実に関わる知識を持つと自負し、ヨハネスを殺そうとするグレイ派とそれを止めようとするグレイ派の反主流派、グレイ派と関わりながらヨハネスの地位を奪おうと考えているエイカーン。それにそれぞれの惑星やコロニーの人々や行政のあり方。
 太陽系ロードムービー的小説である。
 すごく冒険があるわけでもないが、ヨハネスのあるところに事件も起こり、死もあり、混乱も、群衆の興奮もうまれる。主人公たちが動くことで物語は展開し、花開く。
 このオーケストラなる楽器と音楽、聞いてみたいね。

TVアニメ 七つの海のティコ


1994
全39話

公式の第1話配信(youtube)

 1994年に放送された「世界名作劇場」第20作である。世界名作劇場は、カルピス漫画劇場として1969年の「どろろ」にはじまり、「ムーミン」「山ねずみロッキーチャック」「アルプスの少女ハイジ」「フランダースの犬」「母をたずねて三千里」あたりはほぼ欠かさず見ていた記憶がある。「あらいぐまラスカル」が1977年なので12歳、小学校から中学校に上がるころなので、途中からは飛び飛びになっているし、その後はおそらくほとんど目にしたことはなかった。
 サブスク配信時代、こういう古いアニメーションも見ることができるようになった。いつか見ようと思っていた「七つの海のティコ」、意外と面白かった。
「意外と」というのは失礼な話で、海の冒険物語といえば「海のトリトン」にはじまり、「未来少年コナン」「ムーの白鯨」「宝島」「不思議の海のナディア」などなかなかの名作揃いであり、比較的新しい作品ということもあってそれほど期待していなかったのだ。流し見でいいかな、ぐらいである。
「設定協力」や後半の「絵コンテ」に「この世界の片隅で」で有名になった片渕須直監督の名前があるのをみつけ、ちょっと気になったので見終わってからウエブ情報をみてみると、「コナン」や「ナディア」との類似性とその制作上の背景などの記述もあり、興味深く拝見した。

 物語は「世界名作劇場」では異例の「現代」、しかも「原作なしのオリジナル作品」で、なおかつ主人公が日系アメリカ人で日本を訪問する回もある。
 タイトルの「ティコ」は主人公のナナミ・シンプソンと深い絆でつながれたシャチの名前。生まれたときからティコと一緒に育ったようなナナミは、ティコとコミュニケーションがとれ、また海に深く長く潜り泳げる特殊能力をもつ11歳の少女。父で海洋生物学者のスコット、イタリア系のエンジニアであるアルフォンゾ(アル)とともにおんぼろ調査船ペペロンチーノ号で海洋生物調査の旅を続けている。物語はサンフランシスコにはじまり、南米からアフリカ大陸、地中海からぐるりと回って北海、北極まで北上。その後ベーリング海を経て日本に何か、そこからさらに太平洋を南下してオーストラリアをへて南極まで、地球をぐるりと旅をする。
 早い時期にペペロンチーノ号にはシェリル・クリスティーナ・メルビルという富豪の一人娘とその執事ジェームスが乗り込み、続いて、かつてナナミの父スコットの研究同窓であったルコント博士の息子、トーマスが冒険の仲間に加わる。
 スコットは冷静な野外研究者であり人格の良い船長でもある。アルは機械いじりの天才、トーマスは様々なプログラムを書けるコンピューター少年。そこにお騒がせな「お嬢様」といつも紅茶を用意することを心得ている執事の鑑のジェームスが加わり、まるで昭和のロボットアニメのチームのような様相である。このあたりが「コナン」や「ナディア」を彷彿とさせるのだろうか。
 スコットは「ひかりクジラ」の伝説を収集し、その実在を信じて野生生物の研究を在野で続けていた。
 一方、巨大企業GMCは海洋中の「トロンチウム」という生物由来物質の探査をもくろみ、ルコット博士を雇って海洋調査を行なっていた。やがてトロンチウムとひかりクジラに関連があることがわかり、収集の目的でひかりクジラを追うことになる。
 企業の利益のために野生生物を捕獲しようと手段を選ばないGMCに対し、ペペロンチーノ号は生物や環境とともに生きる道を模索していた。そのふたつの道の違いがドラマを生む。

 まあとにかく大企業GMCは悪い。ルコント博士とともにGMCの調査船に乗り込んでいたゴロワは実に悪かったが、ゴロワがいなくなった後に調査船を指揮する幹部のナターリャはさらに悪い。企業利益のためなら何でもやる悪人中の悪人である。

 物語としては、ナナミの潜水能力は人間の可能性を超えているし、アルがこしらえた潜水艇の潜水能力も飛び抜けている。「現代」を舞台にしているだけに、ちょっと荒唐無稽がすぎるのだが、「コナン」や「ナディア」を思えば、まあ物語として大目にみましょう。
 それにしても途中まで少女の海の冒険物語だと気楽に見ていたが、タイトルにもなっている「ティコ」が途中で舞台から退場してしまったり、悪人が爆死したり、実は生命創生にも関わる壮大なSFだったりと驚き桃の木である。でも「ナディア」もそんなところあったよね。よいよい。
 そういう荒唐無稽さを受け入れてしまえば気持ちよい作品だ。
 それにしても、1994年の日本、山手線の混雑半端なかったよね。ぎゅうぎゅうのなかで押されて詰め込まれたりしたもの。あと、秋葉原は電気街だったよね。パーツ屋さんとか電気屋さん元気だった。見ていて、そんなことを感じましたとさ。

 それから…スコット役は池田秀一さんが声を当てているのだけど、どうしても大人になったシャアという印象をまぬがれない。しかたないことだが。