エデン

エデン
EDEN
スタニスワフ・レム
1959
 本作「エデン」と、それに続く、「ソラリスの海」「砂漠の惑星」はいわゆるレムの三部作と呼ばれ、今も高い評価を受けている。それは、この三部作において、人類とは思考も、生命形態もまったく異なり、コミュニケーションがとれない「異星人」を描いているからである。いずれの三作品とも人類がその惑星に行き、そこにいる生命体によって苦労させられるという話である。
「ソラリス」と「砂漠の惑星」では、その存在と人類はまったくコミュニケーションがとれないが、「エデン」では、最初まったくコミュニケーションがとれないが、最後になって、成立しているとは言えないまでもコミュニケーションがひとりの異星人との間で行われており、三部作の中でも位置づけが少々異なっている。本書についていた吉川昭三氏の解説によれば、初期の科学技術万能主義的、楽観主義的作品からの転換点にあたる作品であると位置づけている。なるほどそうかもしれない。
 さて、惑星エデンに不時着した宇宙船には、6人の搭乗者がいた。技師、物理学者、化学者、サイバネティシスト、ドクター、そして、コーディネーターである。彼らは、呼吸可能な異質の惑星に降り立った最初の人類となってしまった。不時着した宇宙船の一部は放射能で汚染され、電力の回復が困難であったし、水の確保が問題となっていた。宇宙船の復旧とともに、この惑星エデンの生態や知的生命体との邂逅をめざして、6人は好奇心にも燃えていた。
 遅々として進まない復旧の合間をぬって行う探検の途中で、彼らは廃棄されたが今も稼働する生物工場を発見する。その後、身体の様子がおかしいたくさんの生命体やその死骸、あるいは、知的生命体の活動とみられる痕跡を発見する。そして、生きた生命体にも出会うが、彼らが知性を持っているのか、かつて持っていて、今は持ち得ていないのか、生物工場は単なる痕跡なのか分からないままに、彼らなりに危険を感じて攻撃を行ってしまったり、あるいは攻撃的なものを受けたりする。
 その行為の解釈をめぐって、6人は人間的解釈を行ったり、あるいは、人間的解釈であってはならないと戒めながら、エデンの住人の行為を判ずる。しかし、その答えはでない。
 やがて、ひとりの異星人とのコミュニケーションが成立するものの、それは、両者にとって新たな発展に結びつくことではなく、結果的に地球人6人は、修理した宇宙船で帰還する道を選択する。そのことの内容や解釈については、読者ひとりひとりに委ねられているだろう。
 しかし、本書では、レムが実に率直に社会批判や問題提起を行っている。以下、その部分についていくつかの引用をしたい。
「われわれは人間だから、地球式に連想を働かせ、判断を下している。その結果、異質の外見をわれわれの真実として受けとめる。つまり、ある事実を地球から持ちこんだパターンもはめこむことによって、重大な誤謬を犯さないともかぎらない」(ハヤカワ文庫版145ページ)
 少々長くなるが、911以降の我々、あるいは、繰り返している歴史に対して耳にいたい会話の一部である。
「よかろう。いいかね。どこかの高度に発達した種族が、数百年前、宗教戦争の時代の地球にやってきて、紛争に介入しようとした……弱者の側についてだ……と考えてみたまえ。その強大な力をもとに、異端者の火あぶりや異教徒迫害等々を禁じたとしよう。彼らの合理主義を地球上に普及させることができたと思うかね。当時の人類はほとんど全員が信仰を持っていたのじゃないかね。その宇宙から来た種族は、人類を最後のひとりになるまで、つぎつぎと殺さなくてはならなくなるにちがいない。そして彼らだけが、その合理主義の理想とともに残るということになるだろうね」(349-350ページ)
「援助ねえ。やれやれ、援助とは一体どういうことかね。ここで起きていること、ここでわれわれが目にしていることは、一定の社会構造の所産なんだ。それを打破して、新しい、より良い構造を作り出すことが必要になってくるんだ……それをわれわれがどうやろうと言うのかね。われわれとは異なる生理や心理、歴史をもった生物じゃないかね。われわれの文明のモデルをここで実現させることなどできはしないよ。」(350ページ)
「きみたちが、高邁な精神に駆られて、ここに”秩序”を確立しようなどと考えるようになるのが恐かったのさ。それを実行に移せば、テロを意味することになるからね」(350ページ)
 ポーランドという、19世紀、20世紀のヨーロッパにおいて常に他者によって何かを押しつけられ続けた国、その中で生きていくしたたかさを身につけなければならなかった人々の歴史が、レムというひとりの作家を生みだしたのは間違いない。そのレムが初期に書いた作品として、SFとしての内容は古くたよりなく感じられても、作品の意味と価値は減ずることなく、むしろ今だからこそ、率直な意思表明に新しさを感じる。
「ソラリス」「砂漠の惑星」などを読んだ上で、本書に取りかかるとよいのではなかろうか。
(2005.06.15)

恐怖の疫病宇宙船

恐怖の疫病宇宙船
PLAGUE SHIP
アンドレ・ノートン
1955
 太陽の女王号シリーズ第2弾である。翻訳されているのはここまで。本書も前作「大宇宙の墓場」に続いて、松本零士氏の表紙、イラストである。前作品は、イラストと内容がかなりマッチしていたのだが、本作品は、表紙からして内容とかけ離れている。アンドレ・ノートン作品に女性は出てこない。本書にも出てこない。なのに、表紙には横たわる女性の姿が。たしかに、今回は、太陽の女王号の若手4人を除いて船長以下、船医も含めて病気になり、死なないまでもみんな半睡眠状態に陥ってしまうのだからあながちイラストも間違いではないが、太陽の女王号には女性は乗っていないぞお。
 と、表紙につっこんだところで。
 インターネット時代はすごいなあ。本書を読み終え、その中途半端な終わり方に、続編があるのではないかと思って検索したら、太陽の女王号シリーズのファンサイトがあり、日本語で、全シリーズの紹介が行われていた(文末にサイトリンク)。それによると、本書のあと、1959年、69年に続編が出されており、その後、20年以上を経て、93年に1冊、97年に2冊、同シリーズが別の2人の著者との共著で出されている。この新シリーズでは、女性が登場し、ロマンスまであるらしい。なんと時代の変化か、共著者のせいなのか。
 びっくりである。
 話を、本書「恐怖の疫病宇宙船」に戻そう。前作品で新たな惑星の開発権を得た太陽の女王号が向かった惑星には、権利を持たない大企業が交易を開始しようとしていた。彼らの不当な介入に対抗しながら、現住の知的生命体との間で信頼と交易を取り結ぶ太陽の女王号のメンバー。交易は最高のできばえだったが、最後に、彼らから先渡しで期限を切られた契約を求められる。独立した自由貿易船にとって、先渡し契約や期限を切られることはあまり嬉しい仕事ではない。宇宙では予定や日程のずれがあたりまえだからだ。だから、そのような契約は不幸を呼ぶと嫌われている。
 案の定、出発した太陽の女王号を疫病が襲う。乗員が次々と倒れていくのだ。無事なのは、現住の知的生命体たちから無理矢理にまずい飲料を飲ませられた若手4人だけ。
 商売を邪魔された大企業の策略と疫病の発生で、太陽の女王号は宇宙のお尋ね者となり、星間パトロールからいつ攻撃されてもおかしくない船となってしまった。
 この危機を見習い4人は回避できるのか? できなければ不名誉な死が待ちかまえている。
 彼らは、手助けしてくれる医師を捜すため、かつて大規模な核戦争が起こり、今や誰も近寄ろうとはしない地球の大焦土地帯の中心に降りることとした。そして、彼らの疑惑を晴らすための大活躍がはじまった。
 というような話である。
 今回の後半は若手の4人ががんばる話である。前作や今作の前半のように、先任たちがかっこよく危機を次々と回避するのをあこがれて眺めるだけでなく、若手が自らの力で危機を回避しなければならない。まあ、そのために乗員が病気で眠りにつかなければならなかったのだが。
 本作「恐怖の疫病宇宙船」では、ノートン作品らしく、猫や猫型知的生命体、それに、船長のペットで、なにかわからないが怖い感じのペットが大活躍する。そうでなくっちゃあ。動物が活躍するシーンになるとノートンの筆が冴える。
 猫に囲まれて暮らしていたノートンならではである。
 ちなみに、先のファンサイトによると、2005年3月17日、93歳にて本名アリス・メアリー・ノートンことアンドレ・ノートンが亡くなったそうである。今頃、彼女と暮らしていたたくさんの猫たちが彼女を迎えていることであろう。
 私の手元にあるノートン作品も現在のところここまでである。
 たしか、「魔法の世界のエストカープ」がどこかにあったかも知れないが、今のところ見つかっていない。機会があれば、読んで感想を書いてみたい。
参考ウエブサイト:BROUNのかけら
http://www.geocities.jp/color_kakera12/brown.html
(2005.6.10)

大宇宙の墓場

大宇宙の墓場
SARGASSO OF SPACE
アンドレ・ノートン
1955
 太陽の女王号シリーズで邦訳されているのは2冊のみ。本書「大宇宙の墓場」と「恐怖の疫病宇宙船」である。本書は昭和47年、1972年に初版が出ており、私は第8版1979年発行のものを手元にもっている。この2冊のイラストは、表紙、見開き、挿絵のすべてを松本零士氏が書いている。
 本書は、アンドレ・ノートンの作品の中ではめずらしく最初から動物が活躍するわけでもなく、主人公のパートナーでもない。主人公は、通商員(トレーダー)の訓練所を出たばかりの青年。職種と乗務する船の乗組員との相性から自動的に勤務先を選択する「サイコ」によって、大企業船ではなく独立した自由貿易船「太陽の女王号」に乗り込むこととなったデイン・ソーソンである。
 だから、舞台は「大」宇宙と、人類が植民していたり、植民はしていないが知的生命体がいる惑星。自由貿易船は、ある惑星や航路への通商権を得ては、惑星から惑星へモノを仕入れ、モノを売り歩くのだ。通商員は、船の中での仕事はあまりないが、一歩惑星に降りたら、自由貿易船の最大の利益を引き出すべく、その惑星の知的生命体と交渉し、宝を見つけ、利益を獲得しなければならない。そこに求められるのは冷静な判断力と交渉力、そして、危険と利益を見分けられる知恵と知識と経験である。
 比較的初期の松本零士氏のキャプテン・ハーロック的なイラストとあいまって、少年の私はわくわくしながら読んだのであった。
 今読み返してみると、まさしくジュブナイル冒険活劇である。科学的な根拠のことは忘れていい。そんなものはこのスペース・オペラ、宇宙の西部劇の前にはどうでもよくなるのだ。
 古き、よき時代のSFである。いい時代だったのだ。
 本書は、題名にあるとおり、宇宙船の墓場、宇宙船が難破し、失踪する宇宙のサルガッソー惑星の話である。調査局のオークションで競り落とした安い惑星の通商権。ところがその惑星は、かつて惑星規模の戦争によって焦土となっており、ほとんど無価値な惑星であった。失望する太陽の女王号のメンバー。そこに、「先史文明」調査のために惑星まで太陽の女王号をチャーターしたいという考古学者が登場する。
 惑星には秘密があったのだ。「先史文明」の遺蹟の中に生きているシステムがあった。それは、惑星に近づいた宇宙船を不時着させ、あるいは、飛び立てなくする驚くべきマシンであった。
 その秘密を利用して海賊行為を働くものたちと、惑星の権利を持つ太陽の女王号のメンバー、さらには、星間パトロールまで登場し、「先史文明」の遺蹟をめぐって戦いがはじまる、というような話だ。
 今やなかなか手に入らない作品だが、松本零士ファンにはおすすめのイラスト満載。
(2005.6.10)

ゲイトウエイへの旅

ゲイトウエイへの旅
THE GATEWAY TRIP
フレデリック・ポール
1990
 ゲイトウエイ総集編である。正シリーズである4冊の主人公ブロードヘッドはまったく出てこないが、彼と後に関わる数人や、正シリーズでエピソードとして語られる人たち、出来事が短編連作として1冊にまとめられている。
 ブロードヘッドの視点ではなく、ゲイトウエイ世界を淡々と語る者の視点であり、いつも混乱していたブロードヘッドとは違って、とても整理され、読みやすい。ゲイトウエイ世界はこんなところだったのだということが、思い出され、そして、その美しさ、人類の限りない欲などを楽しむことができる。
 本書を読めば、ゲイトウエイ世界と、人類がヒーチー遺蹟に出会い、ゲイトウエイを発見し、人口問題を解決、ヒーチーそのものに出会う直前までのおおまかなストーリーを知ることはできる。そして、ゲイトウエイの調査船に乗り、宇宙の様々な姿をともに歩くことができる。どこにいくか分からないがどこかには行って、そして生きて帰れるかどうか分からないが、だいたいにおいて帰ってくることができて、もしかすると宝物を手に入れることができるかもしれない旅。その魅力は本書でも存分に書かれている。本書を読んで、ゲイトウエイ正シリーズに入るのもよいだろう。しかし、ゲイトウエイシリーズのおもしろさ、特異さは、ブロードヘッドという主人公の性質によるところが大きいので、できれば、正シリーズを先に読んで欲しい。もっとも、ブロードヘッドの性格や行動が嫌いで、途中で正シリーズを放り投げた人は、本書をお薦めする。ブロードヘッドが出ていないゲイトウエイ世界を楽しめるのだから。
 なお、ゲイトウエイについては、このほか、「SFの殿堂 遙かなる地平2」(ロバート・シルヴァーバーグ編)の中に、1作品が掲載されている。こちらは、シリーズ後半とうまく連動した作品で、実に読み応えのあるゲイトウエイジュブナイルになっている。気になる方はぜひ。
(2005.6.6)

竜を駆る種族

竜を駆る種族
THE DRAGON MASTER
ジャック・ヴァンス
1962
「タフの方舟2」(ジョージ・R・R・マーティン)の解説に、本書の名前が出ていたので、書棚の奥から取り出してきたのが「竜を駆る種族」である。昭和51年の発行日(文庫初版)と250円の価格が古さを物語る。中学か高校の時に買って読んだ本の1冊であろう。
 中身についてまったく記憶はなく、今回、あらためて読んで、本書が後の「ドラゴン」作品に与えた影響について考えさせられた。
 宇宙に散っていた人類はいつしか衰退の時を迎え、辺境の惑星エーリスでも細々と生きていた。彼らは、かつて彼らを襲った卵生爬虫類的な宇宙種族ベーシックの攻撃を受け、それをなんとか退けることができた。そして、捕らえた者たちを品種改良し、知性を持った兵士として人類種族同士の勢力争いに使っていた。それが、竜である。
 一方、かつて彼らを襲ったベーシックは、それ以前から人類を品種改良し、兵士をはじめ様々な用途に使ってきた。
 2つの勢力の間で戦争を繰り広げる惑星エーリスの人類。しかし、惑星エーリスには、もうひとつ、波羅門(ばらもん)と呼ばれる人類種族がいて、彼らは、世俗とは離れ、超越的な世界観を有していた。
 そこにふたたび、ベーシックが、人類を狩り、滅ぼすためにやってきた。
 いまここに、人類が使うベーシックを改変した竜と、ベーシックが使う人類を改変した敵兵が、はじめて相まみえる時が来た。生き残るのはどちらだ!
 というようなおおよその話である。
 宇宙での竜を使ったファンタジー的物語といえば、アン・マキャフリーの「パーンの竜騎士」シリーズを思い浮かべる。これが、1968年初出ということになっているらしい(というのは、今、人にパーンシリーズを貸し出していて、確認がとれない)ので、ヴァンスの品種改良竜の方が先ということになるだろう。
 マキャフリーの流れるような物語もたまらないが、ジャック・ヴァンスの場面展開と異質な世界観を軽々と描き出す世界もまた魅力的である。これが中編で終わっていることは実にもったいない。
 私は、ほとんどファンタジーや「剣と魔法」ものを読まないが、竜(ドラゴン)にはついつい惹かれてしまう。洋の東西を問わず、竜というのは人を魅了してやまない存在なのだ。
 竜好きのSFファン、ファンタジーファン、あるいは、せっかく「タフの方舟」で竜に出会った人たちや、「パーンの竜騎士」シリーズで、竜はファンタジーのためだけのものではないことを知った人たちには、ぜひ読んで欲しい作品である。また、最近、「フューチャー・イズ・ワイルド」のテレビと本で話題となったドゥーガル・ディクソンがかつて書いた未来の人類の変容「マンアフターマン」や、恐竜が絶滅しなかった世界を書いた「新恐竜」の迫力ある異様な絵が好きな人にもお勧めしたい。
 なにより、執筆後40年以上経っているのに、決して古くないのだ。
 むしろ、アニメやゲームにできそうな完成度である。
 古き懐かしき、素直なSFだが、その素直さこそ、まだまだ学ぶべきところは多い。
ヒューゴー賞受賞
(2005.5.30)

タフの方舟(2天の果実)

タフの方舟(2 天の果実)
TUF VOYAGING
ジョージ・R・R・マーティン
1986
 承前である。本来は1冊にまとめられた連作短編集を日本で分冊にしてあるのだから、特に評することもないのだが、前作を読んだ段階で一度評してしまったため、後編も少しだけ語ることにしよう。
 本書には、後半4話が載せられており、うち2話が新しく1985年に発表されたもので、2話が1976年、78年の初期作品である。初期作品2作を読むと、主人公のタフさんがいかにあこぎか、ていねいに、しつこく描かれており、素直に楽しめる。
 新しい2話は前作の第2話と同じ惑星を描いており、テーマは人口問題である。
 新たな食料供給手段を提供しても、人口抑制措置をとらない限り増え続ける惑星の人口。すでに、農業や工業的食料増産手段も限界を迎えつつあったが、産めよ増やせよ地に満ちよという宗教観、世界観の前にはなすすべがなかった。
 タフさんは、タフさんなりの合理的精神と今生きているものの生命は尊重するという価値観からある解決策を思い立ち、それを提示する。周辺5惑星との全面戦争の道か、間近に迫る飢餓と暴動と文明崩壊の道か、それともタフさんの提示を受け取るのか、選択できるいずれの道も茨の道である。この選択は、もはや人の選択ではなく、「神」のしかも思いっきり「禍つ神」の選択である。あなたなら、どんな選択をするだろうか。
 10年以上前に私に向かって冷たい目の人がこう言い放った。「つまるところ環境問題の最大の問題とは人口爆発である」と。エネルギー問題も、食糧問題も、自然破壊も、資源の乱獲も、地球温暖化(当時はまだこの表現ではなかったが)も、結局のところ、増え続ける地球人口によって発生しあるいは抑制が困難になっているのは事実である。また、今日的問題である水不足、国際紛争の多発、エイズの蔓延、新たな伝染病なども、土地や食料や資源の再分配に係る問題であったり、都市機能が流入人口によって麻痺したり、新たな農地開拓による生態系の擾乱によるものであったりしている。個別問題としての環境問題や食糧問題、エネルギー問題に対しては、それぞれに当面の対応策と方向性、それに向けた世界観、価値観の変更が示されているものの、人口爆発に対しては、これといった対策がとられていない。  世界でも例のないほど急速な高齢化と少子化を迎えている日本だが、この背景には、移民を決して認めないという変わらない閉鎖社会があることは、今もまだ発展途上国的な人口構造をみせるアメリカをみれば明かであり、ヨーロッパ諸国との対比でも差を認めることができる。今や日本という国家にとっては、日本民族を増やすことが政策課題になっているが、これはとても視野の狭い見方であると言えよう。それでも、子どもを増やす=産み、育てるという実際の行動をとらなくても、この世界観を共有するものが多いのは、我々が日本という世界観を共有しているからである。だから、視野が狭いのだが。同語反復に陥るだけだ。
 世界全体に目を向けてみれば、人口爆発は予想よりゆるやかであっても引き続き起こっている。そもそも、現在に至るまで人類は一度たりとも食料や資源の再分配を適正に行ってきたことはなく、常に一方に飽食と傲慢なほどの貪欲を抱え、片方には貧困と飢餓を抱えてきた。現在でさえ、食料は全人類を十分に生かすだけの量を持つが、分配は偏在している。そして、人口は増え続け、食料をはじめとする資源の地球上での生産には限界を感じている。
 あと、どれくらいの時間を持つのだろう。
 あと、どれくらいの人口を養えるのだろう。
 養えないとすれば、誰が飢え、誰が死ぬのだろう。
 それを選ぶのは誰だろう。
 誰にならば、残酷な選択をまかせられるのだろう。
 それとも、それは誰かにまかせることではないのだろうか。
 10年以上前に私に「人口問題」を本質と語った人は、その解決について何も語らなかった。いや語る言葉を持たなかったのだ。指摘するだけならば、誰でもできる。
 では、人口問題を解決するために、何をすべきか、何ができるのか。
 タフの方舟は、ささやかでユーモアに満ちた作品であるが故に、わずかなページで、私たちが抱えながらも、ささやかな対処しかできない大きな問題に対し、選択をつきつけることができる。
 それは、この本を読んで笑うことができる余裕すら持たない人たちにも影響を与える選択であり、しかも、現段階で、彼らを私たちと同様に「余裕」を持たせる「余裕」を私たちは持たない。その失礼さ、酷薄さを、私たちは無意識に持っている。
 だから、本書の最後のテーマはあまりに重い。
 しかし、避けることもまたできない。
 私はタフさんではない。世界は、今のところ地球しかない。
 だから、もって回って考え、行動するしかない。
 何をすべきか、何ができるのか、自分もひとつの存在として、他者も同様の存在としてタフさんとは違って、私も他者も同じ立場において、何が選択できるのかを。
 ちなみに、最終話以外は、前半同様軽く、楽しく読めることうけあい。
 最終話だって、軽く読めなくはないので、ご安心を。
 帯には「イーガン、チャンがわからなくても、この本の面白さはわかります」とあるが、まったくもってその通り。1986年発表の本書だが、今もまだ旬である。
(2005.5.29)

ゼロ・ストーン2未踏星域をこえて

ゼロ・ストーン2未踏星域をこえて
UNCHARTED STARS
アンドレ・ノートン
1969
 本書「ゼロ・ストーン2 未踏星域をこえて」は、前作「ゼロ・ストーン」の続編であり、後編である。本作品は、前作品で残った謎であるゼロ・ストーンが産出された場所を探して、主人公の青年マードックと不思議な石を飲んだ猫から生まれた知的生命体のイートが冒険する物語である。前作ではれてパトロールの容疑をむりやりに晴らし、さらには、賠償金までせしめて宇宙船を購入したマードックとイート。ところが、宇宙船を飛ばすには操縦士が欠かせない。しかし、正規の操縦士は見つからないし、海賊ギルドはあいかわらず彼らを捜しているし、メンツをつぶされたパトロールも彼らのことをよく思ってはいない。なんとか探し出した操縦士は、酔っぱらいのジャンキー。それでもいないよりはましと宇宙に飛び出し、宝石商見習いマードックは、まずは、資金稼ぎと未開の惑星に降り立ち、はじめての貿易に挑戦。これがなかなかうまくいかないものだが、なんとか、お金を作りながら、本来の目的であるゼロ・ストーンの謎を探そうとする。しかし、あいかわらず止まらない海賊ギルドの追跡。さらには、誰がしくんだのか、マードックとは正規の商売ができないような通達が各地に届いていた。本来ならば裏街道まっしぐらのマードックだが、そこは、イートがいてくれる。
 イートに依存しすぎる自分を戒めながらも、イートと離れることはなく、目の前に起こる出来事に精一杯対処しながら、成長するしかないマードック。
 大丈夫、最後には驚くべき結末が用意されているから。
 そうか、1960年代の終わりを迎えて、ついにノートンも、こういう結末を出すようになったか。それにしても、最後の数ページは、まったく必然性がないよなあ。
 ということで、気になる人は、「ゼロ・ストーン」を読んだ上で、本書をお読みいただくとよい。なお、一応、本作品の冒頭は、前作品の概要になっているが、やはり、まずは、前作品を読んでからの方がよい。
 最後の結末はともかく、まったくのノートン作品であり、安心して、軽く、気軽に、読んで欲しいSFジュブナイルである。
(2005.5.28)

ゼロ・ストーン

ゼロ・ストーン
THE ZERO STONE
アンドレ・ノートン
1968
 ノートン版「指輪物語」である。遠い未来。人類は他の知的生命体とともに宇宙に共存していた。宇宙では文明が何度も興っては滅び、今は新興の人類が各地に植民地を作っていた。しかし、その人類も植民地によっては変容して存在していた。
 宝石商人の父に育てられ、父が殺された後は、放浪の宝石鑑定師の元で修行を積むマードック・ジャーンは、ある惑星で師匠共々罠にはめられ、師匠は殺され、マードックは、フリートレーダーによって救われたものの、次なる罠にはめられていた。
 父が殺されたのも、師匠が殺され、マードックが狙われるのも、すべて、彼が持つゼロ・ストーンのせいである。先史文明のものであり、宇宙空間で発見された死んだ異星人の宇宙服の上からはめられていた指輪が、ゼロ・ストーンである。それをマードックの父が手に入れ、なんとかその秘密を解き明かそうとしていたが、なさぬままに、彼は殺された。マードックも、また、この指輪の秘密を追い求めていたのだ。
 さて、救出されたはずのフリートレーダー船には1匹の猫が飼われていた。その猫は、あるとき、貿易のため訪れた惑星でマードックが拾った不思議な石を飲み込んでしまう。そして生まれたのがイート。猫のような外見だが、テレパシー能力を持ち、高度に知的な生命体である。マードックとイートは、新たな罠をしかけられたフリートレーダー船から逃げ出し、とほうにくれたところで、ゼロ・ストーンが光り始めたのに気がつく。ゼロ・ストーンは、ある方向を目指してエネルギーを発していた。導かれるままに、マードックとイートがたどり着いたのは、先史文明の宇宙船であった。その宇宙船が導いた惑星には、マードックの持つゼロ・ストーンを狙う海賊ギルドと、海賊ギルドを狙うパトロールがいた。マードックとイートは、ふたつの勢力に挟まれ、苦しめられながら、なんとか苦境を逃れようとする。
 ということで、「指輪」「宝石」が登場する。しかし、ノートンの他の作品同様、本作品にも女っ気はなく、動物っけだけがある。ただし、今回の動物は、外面は動物っぽく、猫から生まれた生命体だが、主人公のマードックにテレパシーでああしろ、こうしろと命令し、都合が悪いと沈黙するしたたかな知的生命体である。マードックは、あるときは、イートを仲間だと思い、あるときは、イートにだまされているのではないかと悩み、あるときは、イートのいうとおりにしておけば安心だと考えてしまう。
 ちょっと関係が複雑になっているが、やはり、動物と一緒の冒険成長譚であることは変わらない。ノートン作品に慣れていると、ほっとしてしまう安心感。軽さである。
 しかも、宇宙には、指輪物語に登場している単語が次々に出てきて、未来なのか、ファンタジー世界なのかわからなくなる。
 女の子を救出したりしない分だけ、スターウォーズ(旧3部作)よりもわかりやすい世界だ。もちろん、酒場あり、戦いあり、陰謀あり。軽く楽しめる作品である。
(2005.5.28)

ビースト・マスター2 雷神の怒り

ビースト・マスター2 雷神の怒り
LORD OF THUNDER
アンドレ・ノートン
1962
 本書は、ビースト・マスターの続編である。発表年では「猫と狐と洗い熊」の間に入る作品であり、ビースト・マスターシリーズは、「鷹とミーアキャットと砂漠ネコ」という感じだろうか。
 前作で死んだミーアキャットは、しかし、生前、相方であるヒングに子を孕ませていたようで、本作品でヒングは子育てに忙しく、ちっとも働いてくれなかった。だから、本作品では、鷹と砂漠ネコだけがビースト・マスターのホースチン・ストームを支えてくれる。
 ここからは、前作品のネタ晴らしになってしまうのだが、前作品で出会った異父兄弟と義理の父のもとで、ストームは新しい暮らしをはじめようとしていた。ところが、現住のノービー族が突然、奇妙な行動をはじめる。争いごとの多いノービー族同士も含め、すべての原住民たちが、いっせいに宗教的行事のため移動をはじめたのだ。なにやら「雷神」に関わることらしい。前作品で発見された、先史宇宙文明の遺跡と関わりがあることだろうか? この動きに緊張を高める入植者たち。折しも、戦後の元兵士たちを輸送する宇宙船が遭難し、彼らの聖地付近に不時着したため、それを救出したいと星系外から権力を持った男がやってきて、捜索の協力を求めた。これができるのは、ノービー族との深い関わりを持つことができるストームたちしかいない。
 しぶしぶ引き受けたストームたち。
 ノービー族と植民者たちの緊張の中、彼の行動如何では全面戦争に発展しかねず、また、彼の行動によっては、緊張を緩和することができるかも知れない。インディオとしての感性で、ノービー族の宗教的価値観を尊重しながら、彼は雷神の秘密をあばき、遭難者を救出することができるのか?
 という物語である。もちろん、今回も女っ気はまったくない。
 どこにもない。
 主人公は、悩み、戦い、疲れ、苦しみ、次々と襲いかかる難題に立ち向かうだけである。たよりになるのは、ノービー族の親友と、鷹と砂漠ネコ。
 ジュブナイルの通過儀礼物語である。
 さらりと読めるのが特徴で、ロールプレイングゲームにすることも簡単そう。
 こういうのをさらりと書くのがノートンのいいところだろう。
 難しいSFに飽きたとき、ちょっと気晴らしになる作品。
(2005.5.28)

ビースト・マスター

ビースト・マスター
THE BEAST MASTER
アンドレ・ノートン
1959
 アンドレ・ノートンの動物感応ものジュブナイルのなかでも古い方の作品である。登場するのは、アフリカン・ブラック・イーグル、ミーアキャット、大型化した砂漠のネコ。感応するのはアメリカ・インディオの末裔で近年終結した異星人との宇宙戦争にコマンド部隊ビースト・マスターとして戦い、生き残った地球生まれの青年ホースチン・ストーム。
 ビースト・マスターとは、動物と交感し、彼らとともにある舞台として、彼らを使い、さまざまな工作活動を行う調獣士のことである。
 地球は戦争の最後の頃、異星人クシックスにより破壊され、多くの地球人コマンドは精神を病み、同盟の植民惑星へと散っていった。しかし、ストームは、そのような精神障害のあとはみられず、無事、動物たちとともに惑星アルゾルへの移住を勝ち得た。
 彼が精神を維持していたのは隠し通した目的があったから。かつて、両親を殺した宿敵を見つけ出し、その罪を購わすこと。
 惑星アルゾルで、馬牧場の調教をしながら、現住のノービー族などと新たな旅に出るストーム。しかし、その惑星には恐るべき秘密があり、そして、見つけたはずのストームの宿敵が、はからずも彼を助けてしまった。混乱する中で、動物たちとともに冒険を続けるストーム。惑星の秘密とは、そして、宿敵の正体は?
 という感じで、ちっとも女っ気のない作品である。まったくといっていいほど女っ気はない。青年、異星人、乱暴な西部の男たち、ストームを無条件に助けてくれる気さくな男たち、未開の異星部族…。青年西部劇であり、青年成長譚である。心の傷、親、敵、親友、友人、未知の世界がそろっている。だけど、そこにはまったく「恋愛」がない。これは女性作家だからだろうか?それとも書かれた時代だからだろうか。
 驚くほどの女性の欠如。ノートンの作品にはそういうのが多い。
 さらにノートン作品の特徴として、動物がいる。動物たちと交感し、仲間として、あるいは耳目や手足として、動物と接する。
 動物好きにはたまらない作品である。もっとミーアキャットなどが活躍して欲しいと思うのだが、残念なことに2匹いたミーアキャットのうちの1匹は途中で退場してしまう。そこが一番残念だが、続編でちょっと嬉しいこともあるので、よしとしよう。
(2005.5.28)