ゼロ・ストーン2未踏星域をこえて

ゼロ・ストーン2未踏星域をこえて
UNCHARTED STARS
アンドレ・ノートン
1969
 本書「ゼロ・ストーン2 未踏星域をこえて」は、前作「ゼロ・ストーン」の続編であり、後編である。本作品は、前作品で残った謎であるゼロ・ストーンが産出された場所を探して、主人公の青年マードックと不思議な石を飲んだ猫から生まれた知的生命体のイートが冒険する物語である。前作ではれてパトロールの容疑をむりやりに晴らし、さらには、賠償金までせしめて宇宙船を購入したマードックとイート。ところが、宇宙船を飛ばすには操縦士が欠かせない。しかし、正規の操縦士は見つからないし、海賊ギルドはあいかわらず彼らを捜しているし、メンツをつぶされたパトロールも彼らのことをよく思ってはいない。なんとか探し出した操縦士は、酔っぱらいのジャンキー。それでもいないよりはましと宇宙に飛び出し、宝石商見習いマードックは、まずは、資金稼ぎと未開の惑星に降り立ち、はじめての貿易に挑戦。これがなかなかうまくいかないものだが、なんとか、お金を作りながら、本来の目的であるゼロ・ストーンの謎を探そうとする。しかし、あいかわらず止まらない海賊ギルドの追跡。さらには、誰がしくんだのか、マードックとは正規の商売ができないような通達が各地に届いていた。本来ならば裏街道まっしぐらのマードックだが、そこは、イートがいてくれる。
 イートに依存しすぎる自分を戒めながらも、イートと離れることはなく、目の前に起こる出来事に精一杯対処しながら、成長するしかないマードック。
 大丈夫、最後には驚くべき結末が用意されているから。
 そうか、1960年代の終わりを迎えて、ついにノートンも、こういう結末を出すようになったか。それにしても、最後の数ページは、まったく必然性がないよなあ。
 ということで、気になる人は、「ゼロ・ストーン」を読んだ上で、本書をお読みいただくとよい。なお、一応、本作品の冒頭は、前作品の概要になっているが、やはり、まずは、前作品を読んでからの方がよい。
 最後の結末はともかく、まったくのノートン作品であり、安心して、軽く、気軽に、読んで欲しいSFジュブナイルである。
(2005.5.28)

ゼロ・ストーン

ゼロ・ストーン
THE ZERO STONE
アンドレ・ノートン
1968
 ノートン版「指輪物語」である。遠い未来。人類は他の知的生命体とともに宇宙に共存していた。宇宙では文明が何度も興っては滅び、今は新興の人類が各地に植民地を作っていた。しかし、その人類も植民地によっては変容して存在していた。
 宝石商人の父に育てられ、父が殺された後は、放浪の宝石鑑定師の元で修行を積むマードック・ジャーンは、ある惑星で師匠共々罠にはめられ、師匠は殺され、マードックは、フリートレーダーによって救われたものの、次なる罠にはめられていた。
 父が殺されたのも、師匠が殺され、マードックが狙われるのも、すべて、彼が持つゼロ・ストーンのせいである。先史文明のものであり、宇宙空間で発見された死んだ異星人の宇宙服の上からはめられていた指輪が、ゼロ・ストーンである。それをマードックの父が手に入れ、なんとかその秘密を解き明かそうとしていたが、なさぬままに、彼は殺された。マードックも、また、この指輪の秘密を追い求めていたのだ。
 さて、救出されたはずのフリートレーダー船には1匹の猫が飼われていた。その猫は、あるとき、貿易のため訪れた惑星でマードックが拾った不思議な石を飲み込んでしまう。そして生まれたのがイート。猫のような外見だが、テレパシー能力を持ち、高度に知的な生命体である。マードックとイートは、新たな罠をしかけられたフリートレーダー船から逃げ出し、とほうにくれたところで、ゼロ・ストーンが光り始めたのに気がつく。ゼロ・ストーンは、ある方向を目指してエネルギーを発していた。導かれるままに、マードックとイートがたどり着いたのは、先史文明の宇宙船であった。その宇宙船が導いた惑星には、マードックの持つゼロ・ストーンを狙う海賊ギルドと、海賊ギルドを狙うパトロールがいた。マードックとイートは、ふたつの勢力に挟まれ、苦しめられながら、なんとか苦境を逃れようとする。
 ということで、「指輪」「宝石」が登場する。しかし、ノートンの他の作品同様、本作品にも女っ気はなく、動物っけだけがある。ただし、今回の動物は、外面は動物っぽく、猫から生まれた生命体だが、主人公のマードックにテレパシーでああしろ、こうしろと命令し、都合が悪いと沈黙するしたたかな知的生命体である。マードックは、あるときは、イートを仲間だと思い、あるときは、イートにだまされているのではないかと悩み、あるときは、イートのいうとおりにしておけば安心だと考えてしまう。
 ちょっと関係が複雑になっているが、やはり、動物と一緒の冒険成長譚であることは変わらない。ノートン作品に慣れていると、ほっとしてしまう安心感。軽さである。
 しかも、宇宙には、指輪物語に登場している単語が次々に出てきて、未来なのか、ファンタジー世界なのかわからなくなる。
 女の子を救出したりしない分だけ、スターウォーズ(旧3部作)よりもわかりやすい世界だ。もちろん、酒場あり、戦いあり、陰謀あり。軽く楽しめる作品である。
(2005.5.28)

ビースト・マスター2 雷神の怒り

ビースト・マスター2 雷神の怒り
LORD OF THUNDER
アンドレ・ノートン
1962
 本書は、ビースト・マスターの続編である。発表年では「猫と狐と洗い熊」の間に入る作品であり、ビースト・マスターシリーズは、「鷹とミーアキャットと砂漠ネコ」という感じだろうか。
 前作で死んだミーアキャットは、しかし、生前、相方であるヒングに子を孕ませていたようで、本作品でヒングは子育てに忙しく、ちっとも働いてくれなかった。だから、本作品では、鷹と砂漠ネコだけがビースト・マスターのホースチン・ストームを支えてくれる。
 ここからは、前作品のネタ晴らしになってしまうのだが、前作品で出会った異父兄弟と義理の父のもとで、ストームは新しい暮らしをはじめようとしていた。ところが、現住のノービー族が突然、奇妙な行動をはじめる。争いごとの多いノービー族同士も含め、すべての原住民たちが、いっせいに宗教的行事のため移動をはじめたのだ。なにやら「雷神」に関わることらしい。前作品で発見された、先史宇宙文明の遺跡と関わりがあることだろうか? この動きに緊張を高める入植者たち。折しも、戦後の元兵士たちを輸送する宇宙船が遭難し、彼らの聖地付近に不時着したため、それを救出したいと星系外から権力を持った男がやってきて、捜索の協力を求めた。これができるのは、ノービー族との深い関わりを持つことができるストームたちしかいない。
 しぶしぶ引き受けたストームたち。
 ノービー族と植民者たちの緊張の中、彼の行動如何では全面戦争に発展しかねず、また、彼の行動によっては、緊張を緩和することができるかも知れない。インディオとしての感性で、ノービー族の宗教的価値観を尊重しながら、彼は雷神の秘密をあばき、遭難者を救出することができるのか?
 という物語である。もちろん、今回も女っ気はまったくない。
 どこにもない。
 主人公は、悩み、戦い、疲れ、苦しみ、次々と襲いかかる難題に立ち向かうだけである。たよりになるのは、ノービー族の親友と、鷹と砂漠ネコ。
 ジュブナイルの通過儀礼物語である。
 さらりと読めるのが特徴で、ロールプレイングゲームにすることも簡単そう。
 こういうのをさらりと書くのがノートンのいいところだろう。
 難しいSFに飽きたとき、ちょっと気晴らしになる作品。
(2005.5.28)

ビースト・マスター

ビースト・マスター
THE BEAST MASTER
アンドレ・ノートン
1959
 アンドレ・ノートンの動物感応ものジュブナイルのなかでも古い方の作品である。登場するのは、アフリカン・ブラック・イーグル、ミーアキャット、大型化した砂漠のネコ。感応するのはアメリカ・インディオの末裔で近年終結した異星人との宇宙戦争にコマンド部隊ビースト・マスターとして戦い、生き残った地球生まれの青年ホースチン・ストーム。
 ビースト・マスターとは、動物と交感し、彼らとともにある舞台として、彼らを使い、さまざまな工作活動を行う調獣士のことである。
 地球は戦争の最後の頃、異星人クシックスにより破壊され、多くの地球人コマンドは精神を病み、同盟の植民惑星へと散っていった。しかし、ストームは、そのような精神障害のあとはみられず、無事、動物たちとともに惑星アルゾルへの移住を勝ち得た。
 彼が精神を維持していたのは隠し通した目的があったから。かつて、両親を殺した宿敵を見つけ出し、その罪を購わすこと。
 惑星アルゾルで、馬牧場の調教をしながら、現住のノービー族などと新たな旅に出るストーム。しかし、その惑星には恐るべき秘密があり、そして、見つけたはずのストームの宿敵が、はからずも彼を助けてしまった。混乱する中で、動物たちとともに冒険を続けるストーム。惑星の秘密とは、そして、宿敵の正体は?
 という感じで、ちっとも女っ気のない作品である。まったくといっていいほど女っ気はない。青年、異星人、乱暴な西部の男たち、ストームを無条件に助けてくれる気さくな男たち、未開の異星部族…。青年西部劇であり、青年成長譚である。心の傷、親、敵、親友、友人、未知の世界がそろっている。だけど、そこにはまったく「恋愛」がない。これは女性作家だからだろうか?それとも書かれた時代だからだろうか。
 驚くほどの女性の欠如。ノートンの作品にはそういうのが多い。
 さらにノートン作品の特徴として、動物がいる。動物たちと交感し、仲間として、あるいは耳目や手足として、動物と接する。
 動物好きにはたまらない作品である。もっとミーアキャットなどが活躍して欲しいと思うのだが、残念なことに2匹いたミーアキャットのうちの1匹は途中で退場してしまう。そこが一番残念だが、続編でちょっと嬉しいこともあるので、よしとしよう。
(2005.5.28)

宇宙のランデヴー2

宇宙のランデヴー2
RAMA2
アーサー・C・クラーク&ジェントリー・リー
1989
 1973年に発表された「宇宙のランデヴー」の続編である。本書は、ジェントリー・リーとの合作により生まれた作品で、「2061」の後に発表されている。80年代後半から90年代前半にかけて、クラークは、スリランカの地から世界を眺めつつ、やり残した仕事に手を付けている。
 本書の位置づけは難しい。前作、「宇宙のランデヴー」が名作であったが故に、本作品は、ファンの期待と不安を持って迎えられたことだろう。私自身も、今日まで本書を読まずに来ているし、いまだこの続編である「3」「4」はわが家の本棚に並んでいない。もっとも、「3」「4」は近日入手して読むつもりではある。
 さて、3つを基本単位にするらしい異星人の手による小惑星宇宙船が太陽系内に入り、そして通り過ぎていくわずかな時間、1隻の軍事宇宙船が唯一その小惑星宇宙船に乗り込むことができ、ささやかな調査をとげることとなった。それが前作である。ラーマと名付けられた小惑星の中に、異星人はいなかったが、バイオボットと後に名付けられる有機ロボットがおり、荘厳な都市のような構造物が中空の宇宙船にはあった。
 本書はそれから70年後を舞台にする。ラーマ人が3を基本単位にする以上、同じような小惑星宇宙船は3つあるかも知れない。そう考えた地球では、太陽系外を探査して早期に警戒するシステムを作り上げたものの、その後の経済変動と社会変動によって地球は大混乱と混迷の時代を迎えてしまう。はじまった宇宙時代は、地球社会の変動により、縮小を迫られたが、ようやく最近になって再び宇宙時代を迎えていた。そんなとき、忘れ去られていたふたつめのラーマが本当に到来しつつあることが判明した。今度こそ、きちんとした調査をしたいと考えた地球人たち。軍の考え、科学者の考え、宗教家の考え、社会のあり方を背景にしながら、ふたつめのラーマの調査がはじまる。
 というのが今回の筋立てである。
 前回は、小惑星宇宙船という壮大な人工構造物のふるまいと景観を読者に提示するのが目的のような作品であり、そのねらいはまさにあたって、SF界にひとつの古典を生みだした。
 それに対し、今回は、普通のSFである。くせのある登場人物とその社会背景、サスペンス仕立ての展開、ラブロマンス、殺人、事故…。ラーマを舞台に、人間社会の縮図が展開される。それはそれでおもしろいので、ラーマを舞台にした派生的ストーリーとして読めば楽しい。
 また、上巻の前半には、ラーマ1が2130年代に来てから2200年代に入るまでの70年間の科学、経済、社会、宗教の変化を概観していて、その部分は、近未来予測として楽しく読むことができる。
 もっとも、この近未来予測の必要性は、ラーマ2が太陽系に入ったとき、前作のラーマ1とは極端に科学的背景が変わっていないようにするための工夫とも読めるので、クラークらが、本当にこういう予測をしているということではないだろう。ともあれ、経済変動により、社会が本当に大きな打撃を受け、変革し、再生するというのは、現代的にも身につまされるところがあり、読みがいがある。考えてみると、80年代後半は、こういう近未来予測がさかんであったので、本書の導入部分は、発表当時からみて違和感なく受け入れられたのであろう。この部分は特におすすめ。
 さて、「3」「4」ではどうなるのだろうか。ラーマ人には会えるのか、3つめのラーマは地球に来るのか。そして、ラーマ2と運命をともにした人たちのその後はどうなるのか、この3部作のできばえはどうだったのか。そのあたりを楽しみにしておきたい。
(2005.5.22)

軌道通信

軌道通信
ORBITAL RESONANCE
ジョン・バーンズ
1991
「期待される人間像」をご存じだろうか? 高度成長期を迎えた1966年、当時の文部省中央教育審議会が出した答申の中に含まれている「名言」である。1965年生まれの私は、まさしく「期待される人間像」となるべく育てられたといっても過言ではない。
 当時、すでに怒れる若者が社会問題となり、彼らは社会体制をゆるがすものであり、そのような若者に育てた状況を反省し、社会的に適応した者たちを育てることが必要との認識があったようである。もちろん、期待される人間像をもった人間を育てる教育には具体的なプログラムや心理学、精神医学、行動学、社会学上の分析や手法構築といった背景があったわけではない。もし、そのような背景があれば、「怒れる若者」たちが、実は団塊の世代であり、世代間の人口比も大きな要因であることが分かったであろう。
 いずれにしても、試行錯誤しながら育てられた我々は、人口比率の谷間ということもあり、「三無主義」「五無主義」などと呼ばれ、主体性がないと蔑まれ、怒りを持たず、きちんと体制に順応し、そこそこに「期待される人間像」となったのであるが、それよりも我々の前にいたはずの「怒れる若者」は、大人になるとともに「社会の担い手」になり、怒りを忘れ、バブル経済を生みだし、イチゴ世代をつくり、今や2007年問題とされる大量退職時代に向かって猛進しているではないか。
 今や社会の中核となったはずの「期待される人間像」は、子どもを生むことを嫌がり、社会の継続を無自覚のうちに拒もうとさえしている。
 自覚ある社会への怒りを知ることなく育ってきた者たちの、静かな反抗である。不満があってもそれを社会的な怒りに転化できないから、静かに、おだやかに反抗を続ける。
 さて、この社会はどうなることやら。
 本書の話に入ろう。
 13歳の少女のモノローグである。思春期が訪れ、身体、精神、認識が急激に変わる直前の少女の物語である。異質な社会から来た転校生、まさに大人になろうとする兄、現実を拒否して生きる母親、彼女が住む小さな世界に大きな責任を持つ父親。一足先に大人になった同級生の親友、乱暴だけれど本質は傷つきやすい少年、そして、大勢の顔色をうかがいながら行動するクラスメイトたち。
 特別な彼女の、特別な13歳の1年間を、彼女自身が振り返りながら語りかける。
 それは、もっとも火星に近づく点を近日点とし、もっとも地球に近づく点を遠日点とする変則的な軌道を描く小惑星宇宙船のお話し。
 地球は、変異型のエイズによる大量絶滅に近い死と、その後の戦争によって崩壊し、生き残った企業が運営するいくつかの小惑星宇宙船が生み出す鉱工業生産物によって生きながらえ、そして未来の人類の希望を火星のテラフォーミングにつないでいた。
 だから、彼女が生まれた小惑星宇宙船は、地球人類の命綱。決して切れてはいけない大切なものだった。
 その小惑星宇宙船を担う子どもたちには、特別な教育がほどこされる。
 なぜなら、彼らが地球を思い、小惑星宇宙船を維持し、発展させ、地球に資源を送り、火星のテラフォーミングを助けなければ、人類の将来はありえないから。
 小惑星宇宙船企業に忠実であること、任務に忠実であること、他者に忠実=公共の利益を最優先に物事を考えること…。
 いったい彼女たちはどのように育ったのだろうか。そして、どのように他者をとらえ、地球人をとらえ、生活をとらえているのだろうか。
 彼女たちを育てた大人達は、彼女たちを理解しているのだろうか。
「エンダーのゲーム」(カード)、「サイティーン」(チェリイ)などと共通するものを感じるが、本書にはもうひとつ、私たちの社会、いわゆる日本社会との類似性も感じさせられる。
 集団主義、まわりの動向を見回しながら、ことなかれに、事前に根回しし、調整し、合意を取り付けてから、多数決をとる。ほとんど全員一致になることがあたりまえ。そのことを不思議とも思わない子どもたち。
 因縁めいているが、本書の主人公が生まれた小惑星宇宙船の企業名はニホンアメリカ社である。作者は、日本社会を意識したのだろうか、それは分からないが、身につまされることも多い一冊だった。
 一方で、本書は、小惑星宇宙船の生活をさりげなく描くことで、作品の魅力を高めている。宇宙船が生み出す加速度と小惑星の重力と宇宙船が生み出す重力によって起こる様々な動きを、スポーツや生活のあちらこちらで表現し、楽しませてくれる。
 また、「ガンダム」シリーズのひとつのテーマともなっている、宇宙育ち/地球育ちの認識のありようというものもうまく出していて、このあたりもおもしろさの一端である。
 もっとも、本書は、ちょっとはずかしい気持ちになる作品でもある。
 なんといっても13歳の多感な少女のモノローグなのだ。
 初恋なのだ。性の目覚めなのだ。
 甘酸っぱいではないか。
 そういうのがお好きな方にも。
(2005.5.14)

リメイク

リメイク
REMAKE
コニー・ウィリス
1995
「スターウォーズ」の旧3部作(エピソード4~6)DVDボックスを買った。新3部作(エピソード1~3)が始まる前に、劇場で公開された特別編をさらにリメイクしたものらしく、エピソード6のダースベーダーが顔を出すところでは、顔(フェイス)が差し替えられているようである。1970年代、80年代の技術や当時の予算ではできなかった技術を使い、様々な映像が差し替えられている。
 残念なことにオリジナル版は「ないもの」として扱われており、現在では入手することも見ることもままならない。幸いなことに、ずうっと昔にテレビ放映されていたものの録画が手元にあり、それをDVD化して保存してある。おそらく、今後も表に出されることはないのであろう。
 DVDの時代になり、また、映像加工技術が進んだことで、過去のコンテンツを使って「特別版」や「完全版」が出され、オリジナルがどれなのかさえ分からなくなっている。
 お気に入りの「ブレードランナー」では、オリジナルを映画館で見て、その後、完全版も映画館で見た。そして、近年DVDで最終版とやらを見たが、最後がまったく変わっている。監督が手がけた再編集であり、それにより作品としての完成度は高くなったと思うが、オリジナル版とは遠く離れてしまった。
「デューン」の場合だともっと話は複雑で、オリジナル版をはじめ、監督のリンチが名前を出すことを拒否した版などもはやどれがどれだか分からない。
 SF映画ばかりではない。今、発売されているDVDなどのコンテンツが、オリジナルと同じかどうか、果たして分かるだろうか。
 オリジナルのふりをして、ちょっとずつどこかがいじられていないか? デジタル・リマスターで美しい映像といいながら、実は、必要以上に手が加えられていないか?
 誰かのために、なにかのために…。
 さて、本書の話であるが、ちょっとした未来、まあ、2005年頃の話だ。
 ハリウッドは、リメイクとシリーズの世界。必要なのは、過去のスターの版権と過去のスターのそっくりさん(フェイス)だけ。あとは、ちょっとした映像編集ソフトウェアと、その作業をするまめな技術者。
 世間が煙草や飲酒を害悪だと思えば、古い映画から現代の映画まで、ワンカットずつ、細かく編集していく。ストーリーを変え、動きを変え、登場人物を変え…、ちょっとしたコンピュータとちょっとしたソフトウェアとあとは権利さえあれば、すべての喫煙や飲酒は20世紀になかったような映画だってできあがる。
 もはやカジュアルコピーは許されず、オリジナルは映画制作・配給会社の都合でいくらでも改変され、それがオリジナルとなってしまうエンターテイメントの世界。
 映画出演のダンサーに憧れるひとりの女性が、映画が大好きでしかたがないのにお小遣い稼ぎに映画改変ばかりやっているひとりの男性に出あう。いや、その男性が、その女性に出会う。ボーイ・ミーツ・ガール。
 もはやダンサーの需要はなく、ダンスの先生はいない。
 もはや俳優さえ存在しない。
 なのに彼女は踊りを求めた。
 そして彼は、彼女を求めた。
 彼女は、映画の中に入り込み、そして彼は彼女を映画の中に見つけた。
 映画の中の彼女を追い求める彼。映画とダンスを追い求める彼女。
 そんなどこにでもありがちな小さな物語。
 映画が好きで、映画を愛する者たちが好きな、そんな人に贈られた小さな作品。
 映画ファンで、今のハリウッド映画にちょっとした不安を持っている方にはぜひお勧めしたい作品である。SF読みよりも、SFを読まない映画ファンにこそ、本作を味わって欲しい。
 冒頭で述べたように、本書で描かれた世界はすでに実現可能となっているのだから。
ローカス賞受賞
(2005.5.13)

地球最後の日

地球最後の日
WHEN WORLDS COLLIDE
フィリップ・ワイリー&エドウィン・バーマー
1932
 私がSFを深く心に染みつかせたのは小学校の頃、図書館で借りた「地球さいごの日」だった。小学校に上がる前からSFの絵本や童話などが好きだった私は、小学校で図書館という存在を知り、喜び勇んで本を借りては読んでいた。その頃、小学校1、2年生は直接図書館に入ることが許されず、小学校3年生以上でなければ自分で本を選ぶことも許されなかった。だから、本書を読んだのは小学校3年生以降のことであろう。
 九州の山の中の町に暮らしていた私は、夜、2階の自室のベッドで本書を読みながら、時折遠くに聞こえる長距離トラックのエンジン音に、私を残して地球から人が逃げていなくなっているのではないかと恐怖を覚えたものだ。  思えば、私は何にでも怖がっていた。今も、いろんなことが怖い。
「地球さいごの日」はいったい小学校の頃に何度借りて読んだことだろう。
 記憶の中にしっかりと話は刻み込まれている。
 1998年に、創元SF文庫として本書の完訳版がはじめて登場した。それまで出ていなかったのである。映画「ディープ・インパクト」がなければ、この完訳版を見ることはできなかったであろう。
 完訳版を読んだ後、幸いなことに古書店で集英社のジュニア版・世界のSF「地球さいごの日」(矢野徹訳)を入手することができた。私が読んでいたのは集英社版か、講談社版か、それともどちらも読んだのか、今となっては定かではない。
 しかし、大体において、ジュニア版と完訳版には大きな違いがある。
 それは、社会制度や宗教、金融、恋愛、結婚といったものをジュニア版では描いていないことだ。子どもにはなじみのない部分を大胆にカットすることで、「地球さいごの日」は、子どもにとって深い印象を直接的に与えることができたのだ。
 ジュニア版といえば、他にも、A・A・スミスの「レンズマン」なども印象深かったが、こちらは、シリーズを1冊にまとめる都合上、ずいぶんとストーリーを「創作」してあった。それに比べると、「地球さいごの日」は意外に忠実にストーリーを追いかけていた。それだけ物語としてよくできていたのだろう。
 さて、ストーリーはというと、破滅ものの典型である。地球への直撃軌道をとった放浪惑星を発見した科学者たちは、しばらくの間秘密を守り、ある時期になって発表する。地球がこなごなにくだけるというのだ。しかし、放浪惑星は2つあって、直撃する大きな惑星と、地球サイズの惑星のうち、小さい方は、もしかすると地球軌道に入れ替わるように入るかも知れないというのだ。科学者たちは、秘密裏に原子力ロケットを建造し、少数の男女による人類の生き残り計画を立てる。
 というもの。
 本書は、第二次世界大戦以前に書かれたものであり、そこに出てくる科学技術と科学知識はさすがに古びてしまっている。しかし、本書の凄みは、その崩壊の描き方にある。地球が壊れ、人類が滅び行く様を、「生き残るかどうか分からないけれど、生き残るつもり」の人たちが見つめ続けるのだ。
 そして、かすかな希望である「生き残れるかどうか分からないけれど、生き残るつもり」の人たちが描かれていて、その絶望と希望のないまざった表現が、かえって破滅ものとしての迫真性を増している。
 もちろん、今読むと、本当に古い。また、それゆえに、ご都合主義である。
 それでも、人類や地球が、宇宙的な動きの中ではほんとうにもろく、弱く、淡い存在であることを強く印象づける作品であり、人類と地球の奇跡を心に刻み込ませることに成功している作品でもある。
 ゆえに、本書はSF史に残る傑作である。
 本書は、映画化され、ジュブナイル化され、その後の多くのSFや映画に影響を与え続けている古典である。
 話は古いが、SF読みならば一度は手に触れて欲しい1冊である。
(2005.5.4)

渚にて

渚にて
ON THE BEACH
ネビル・シュート
1957
 本書は、1957年に発表され、1957年に「文藝春秋」で要約が出され、1958年に同社より原著の一部分をカットして単行本化された。1959年にはアメリカで映画化。その後、1965年に東京創元社によって全訳が刊行される。現在まで版を重ねており、核戦争後、人類が滅んでいくまでを書いたディストピア、破滅ものSFの傑作として今も読み継がれている。
 本書の執筆時期は、いわゆる「冷戦」のまっただ中であり、米ソの対立、中ソの対立、中東問題、東欧問題など、第二次世界大戦後に残された大きな国際間の緊張がふたたび高まった時期である。
 と同時に、1945年8月にはじまった「滅びの予感」である核戦争の恐怖が、米ソを中心とする核兵器開発保有国の実戦配備の発表によって現実のものとされ、目に見えない「放射能」への恐怖が世界中に信じられていた。
 映画の方は、テレビでもなんどか放映され、その内容はともかく題名は、SF読者でなくとも耳にしたことがあるのではなかろうか。
 本書では、1960年代に北半球で全面核戦争が勃発する。アメリカ、ソヴィエト、中国、イギリス、フランス、アルジェリア、イスラエル、エジプト…。核を保有する国が、その核兵器をすべてあらゆる国に対して投じたかのような戦争は37日で終結し、少なくとも4700発が「敵」に投下された。おもに「きれいな」水素爆弾が使われただ人が死んだだけで多くの建物などは残った。しかし強い放射能によって北半球の動物は人類を含めてほぼ死に絶えた。それから2年。生き残った南半球にも徐々に放射能が降りてきて最後の日を迎えようとしていた。オーストラリアの人々は、終わりの日に向かってできる限り日常を営もうとする。
 そんな話である。
 まあ、放射能が地球全体を覆うのが2年以上ということや、強い放射能によって3日あるいは10日で下痢などコレラ的な症状で死んでしまうという設定。あるいは、南半球のオーストラリアやアフリカ、南米などが無傷というのは、1950年代当時ならいざ知らず、21世紀の我々には無理な設定である。
 しかし、1945年8月6日に広島で原子爆弾が殺傷と破壊を目的に投じられて以来、人類は今も変わらずに人類を何度殺しても飽き足らないぐらいの殺傷力と強い放射能を持つ核兵器を保有し、それはもはや大国のみならず、小国でも、あるいはちょっとした技術力を持つテロリストでも簡単に持つことができる。
 また、1973年のスリーマイル島や1986年のチェルノブイリ以降、核兵器だけでなく、平和利用の原子力発電所でさえも十分に人々の生活を奪うことを知った。
 そして、人間がなかなか死なないことも。
 本書では、静謐な死が語られる。そこには広島の黒こげの人影も、ただれた皮膚も、その水を求める苦しみの声も、いっさい存在しない。死は、ごく一部の潜水艦兵士が見た遺体であり、それは原子爆弾のせいとは言えない、静かで、見た目には美しい風景でしかなかった。
 生きて、死を見つめる側の南半球でも人々は静かで、風景は美しく、その擬似的な清潔さが、この物語に、迫真を与え、核の恐怖を与えている。
 しかし、核兵器の恐怖は、その程度のものではないことも、また事実である。
 人は誰しも静かな死を望む。たとえ走りながら死ぬのであっても、生と死との間の苦しみはあまり考えない。
 身体の表面を焼かれ、あるいは髪の毛がごっそりと抜け、あるいは神経や感覚器官に恒久的障害が残り、常に体調の変異に苦しみ、生きることそのものが苦痛であるなかで生き続けることの、人が人であることの痛みまでは書かれない。
 きっと、それを書いたならば、本書はこれほどまでに評価され、歴史に残ることはなかったであろう。静かな美しさの中の恐怖、死、絶滅、そして、人類が自ら知る、自らの愚かしさを描いたからこそ、本書は「名著」であり続けるのだ。
 しかし、今、「冷戦」が終わり、「正義」のみがふりかざされる今だからこそ、あえて書こう。
 今もまだ戦争は終わっておらず、核兵器の数が削減されたからといって、60億にも増えてしまった私たちのすべてと、その居場所を奪うに十分以上の核兵器は機能しており、原子力発電所の事故などによるリスクは高まる一方であり、今が10年前、20年前、30年前、40年前以上に美しいわけでも、理性的になったわけでもないということを。
 一見きれいになった空が、一見美しくなった川や海が、ひそやかに、急速に、かつての目に見える形での「きたなさ」よりもずっと「きたなく」なっていることを。
 そして、それらを描き出す時代ではなかった本書に、現代を語るすべはないことを。
 それでも、なおかつ、本書は「名著」であり、冷戦時代に多くの人々に対して「考えろ」とつきつけ、実際に考えさせることができた作品である。
 その価値は今も減じてはいない。
 本書登場から約50年、1945年夏から60年となる今、私たちはやはり核兵器の地上に落ちた太陽ほどの爆発、放射能汚染に対し、どのように対するのか、それを「考えろ」と迫る一冊であることは間違いない。
(2005.4.30)

タフの方舟(1 禍つ星)

タフの方舟(1 禍つ星)
TUF VOYAGING
ジョージ・R・R・マーティン
1986
 ジョージ・R・R・マーティンといえば、どこかで聞いた名だ。えっと、えっと、そうだ、「ワイルドカード」シリーズだ。あのシリーズのまとめ役でないか。そういえば、「ワイルドカード」シリーズの続編はとうとう出ないままだ。内容上不都合があったのか、それとも、訳者のまとめ役、黒丸さんが亡くなったためなのか…。
 ということで、ハヤカワSF文庫の2005年最新作「タフの方舟」である。釣り書きには、「ジュラシック・パーク」や「ハイペリオン」など、SF映画ファンやSFファンを「おや」と思わせる文言が並べられている。どうやら、帯を書いた編集者も、本書の内容に感化されてしまったようである。
 普通であるならば、私も、短編集を取り上げないことにしているし、まして、もう1冊がすぐに出ることとなっているものを途中で取り上げたりはしないものであるが、せっかく読んでしまったことだし、この独特のキャラクターに気おされて、ついつい文を連ねることになった。おそるべし、タフ。
 内容はいたって簡単。
 食いっぱぐれた星間商人で菜食主義で猫好きのタフさんが、1000年以上前の旧連邦帝国時代、人類が星間異星人間戦争を戦っていたときの兵器である「生物戦争用胚種船<方舟>」号を探す旅の運転手にやとわれ、結果的に彼のものになってしまう(1話)。
 タフさんの時代には、こんな船をつくる技術も失われ、その船に集められた地球を含む多種多様な星の生物の胚、自動遺伝子組み換え技術、クローニング、局所的時間コントロール技術などはもはや存在せず、究極の兵器を手に入れたことになる。
 しかし、1000年も放置された船であり、なおかつ、200人の兵士によって操船されていた宇宙船をひとりで動かすのはなかなか大変。そこで、工学技術の高い星のドッグに寄港して、修理とひとりで操船するためのシステムの変更工事を頼んだところ、その星は、人口爆発で崩壊寸前の状態で、なんとか、タフさんの船を買い取ってそれで戦争をしかけ資源を入手しようとするが、タフさんに売る気はない。しかし、ある解決法が…(2話)。
 6星合同の生物見本市を見に行ったタフさん。そこに5星しか出展していなかったことから、もうひとつの星の窮状を知り、「環境エンジニア」として彼らの危機を助けようとする。その星は海の惑星で、植民して100年を過ぎたあたりから急にとてつもない怪物が海からあらわれ住民は食糧、交通手段を失って島ごとに滅んでいた。なんとか原因をつきとめようとするタフさんだが、的はずれなアドバイスに妨害されながらも見事に解決(3話)。
 こうやって書くと、とてもタフさんはいい人に見える。しかも、宇宙を猫とともにひとりで旅をして、各星の危機を救うなんて…、キャプテン・ハーロックか?
 しかし、まあ、このタフさん、丁寧だけど慇懃無礼、親切だけど、実はあこぎ。 裏表紙の内容釣り文には「宇宙一あこぎな商人」と命名されている。それほどあこぎではないけどなあ、やっぱりあこぎかも。
 結局最後はあんたが一番儲けとるやないか、おっさん。けど、おっさんほんまに猫が好きなんやなあ。そりゃあ、おっさんは心の根っこのところはほんま、ええ人なんかもしれんけどな。やっぱ、あくどいんちゃうか。適正価格いうけどなあ、まあ、適正ゆうたら適正かも知れんけど、きっついこと言いなはるわ。まいった。払います、払いますとも。
 と思わず、大阪弁風に書いてしまいたくなるぐらいのことはある。
 さて、SFだった。
 ここには、遺伝子組み換えやクローニング技術を使った動物、植物、細菌が、兵器として、あるいは、危機を救う道具として登場してくる。こういうので遊ぶところがマーティンの特徴かも知れない。
 再三書いているが、私は今の地球で「おぼつかない」知識をものともせずに行われている遺伝子組み換え技術には深い懸念を持っており、とりわけ開放系で使われている作物や動物には潜在的に恐怖感を抱いている。
 だって、地球はひとつだから。
 人類至上主義を唱えるつもりもない。現在の人類のまま停滞すればいいとも思わない。
 替えのきかない「環境」をおもちゃにして遊ばないで欲しいということだ。
 だから、このタフさんが次々につくりだす過去の生物、あるいは、新たな生物工学的生物について、物語として楽しく読んでいる。タフさんの世界には、それで被害を受ける星と人には申し訳ないが、たくさんの星の替えがあり、生物工学技術とその背景となる生物の遺伝や成長や行動、環境影響についての深い知識があることが前提にあるから、私は楽しく読めるのだ。
 この一見荒唐無稽空前絶後抱腹絶倒な小説に比べて、今の現実の方がよっぽど荒唐無稽空前絶後抱腹絶倒な状態である。手探りといきあたりばったりで環境中に生物工学の産物を開放するなんて…。
 だから、私は、本書を読んで笑う。楽しむ。そして、うらやましがる。
 とにかく、別に遺伝子組み換え技術に思うところがあろうとなかろうと構わないから、読んで、楽しめること請け合い。
 タフさんなんていう、いそうで、いなさそうで、やっぱりいるかも、いやあ、こんなのいるわけないと思えるキャラクターはめったにお目にかかれない。
 おすすめ。
(2005.4.29)