われら顔を選ぶとき

われら顔を選ぶとき
TODAY WE CHOOSE FACES
ロジャー・ゼラズニイ
1973
 本書は盟友「電気羊使い フィリップ・K・ディック」に捧げられている。ディックの初期の長編は、わかりやすそうなSF的小間物(テレパシーとか、宇宙船とか、火星とか、タイムトラベルとか)で、わかりやすそうな感じの話なのだが、実は、読者も、あるいは、ディック自身も裏切って、論理的な破綻を引き換えに、その小説に関わる者が「自己とは」「存在とは」「現実とは」という、疑う必要のないことを疑いはじめるようにしむけていく。当然、小説の主人公たちもそれを疑うことになり、悲惨な目に遭いながら、なんとか小説の主人公や登場人物としてふるまうのである。
 その小説の中の登場人物と世界に、読み手である読者は自らの存在や現実までが引き込まれ、解体されるような気持ちになってしまうのだ。
 一方、本書の作者であるロジャー・ゼラズニイは、まったく違う。彼は、きわめて冷静に、数学的に、あるいは、きわめて計算された文学的に小説を書き、読者に提示する。
 だから、よく分からないままに小説世界には入り、読み終わり、一巡して、頭に戻り、そうして、ようやくタイトルの意味に気がつき、その小説世界の混沌と論理にはたと気がつくのである。
 だから、読者は解体され、破壊され、再構築される必要を感じない。
 まあ、たいていのSFはそうである。
 ディックの方が特殊なのだ。
 では、どうしてゼラズニイに対してだけこういうことを書いているかというと、本書の3年後にディックとゼラズニイは共著でSF「怒りの神」(サンリオSF文庫)を発表している。このサンリオ版の解説を読むと、ディックが「怒りの神」を書き始めていたが、神学の知識の不足を感じて、1968年にゼラズニイと会い、協力を依頼、以後、ふたりで交互に書き、12年をかけている作品である。
 ちょうど、本書は、「怒りの神」が完成に向かいつつあり、なおかつ、ディックが、彼の後期である神学的体験を小説化しはじめた頃の作品なのである。しかも、ディックに捧げられている。
 であれば、ゼラズニイは、他のすべてのSF作家の中でもっともディックに近い者として、ディックとの本質的な違いを語られることはいたしかたない。
 もちろん、ゼラズニイは、作品中で「不死」「死と転生」「人類の成長と、外部的要因(上位にある異星人等の存在)との対決」「善と悪の対置」をテーマとして選び、提示することが多い。本書もまた、これらのテーマを料理した作品であり、完成度が高く、それゆえに、読みにくい作品でもある。手元にある本書の文庫初版、昭和60年(1985年)の帯には「傑作アクションSF! 未来を賭した死闘!」とある。嘘ではないが、そんなにドラマ性は高くない。とにかく、全部読んで、もう一回振り返って、なるほど、こういう作品だったか、と膝を打つような作品である。80年代だからこそ翻訳された作品という言い方もできる。この頃は、ディックの作品も次々と邦訳されていたのだ。
 ストーリーを振り返ると、
 1970年代、ファミリーのボスであり殺し屋だった男は、コールドスリープによって未来に再生した。宇宙時代を迎え、ファミリーは合法的な大企業グループに成長していたのだ。しかし、そこでも彼が目覚めさせられたのは、彼の能力を買ってのこと。他の惑星にいるライバル企業の代表者が邪魔だったからだ。ライバル企業の代表者は、違法な方法で自らを機械と連結させ、その高い能力でファミリーの事業を妨害していた。
 男は、敵を叩くために、その惑星に出向く。
 しかし、その間に、地球は戦争となり、人類はいくつかの惑星系にいる者たちをのぞいてほぼ壊滅状態になってしまった。
 さらに未来。人類は、閉鎖された広大な「家」の中に閉じこもり、勢力を拡張することも、星を追い求めることもなく、安穏と生きていた。死ぬと精神を「ファミリー」に転移することで不死的な存在となった一族が、その人類を見守り、再び競い合い、お互いを滅ぼすことのないように注意深く見つめていた。
 だが、その「ファミリー」がひとり、またひとりと殺されていく。
 「敵」のねらいは? 「敵」の存在意義は?
 といったところか。
 人類は、誤解や間違いを起こし、戦争や破滅的な行為をするかもしれないが、誰かに管理されたり、牙を抜かれて競争や進取の精神を失うようでは人類とは言えない。星へ、未来へ、生へと突き動かされたように生きることで、人類は種として広がり、成長するのだ、という、すべてのSFが前提として持っているようなことを、ゼラズニイは本書で、意識して再構築し、読者に提示しているのだ。
 そういう意味では、SFのひとつの形として、本書はうまくまとまった1冊かも知れない。
PS 翻訳者は故・黒丸尚さん。お得意の漢字の横にカタカナでルビがあふれていて、とてもすてき。英語文化圏背景がないと読みにくい小説をできるだけ読みやすくしようとしている故・黒丸さんの翻訳文の一作品である。
(2005.4.27)

燃えつきた橋

燃えつきた橋
BRIDGE OF ASHES
ロジャー・ゼラズニイ
1976
 日米の1970年代後半は、「公害」の時代であった。急速に進む工業化と自然破壊はスモッグ、公害病など工業の環境破壊が目に見える形で展開していた。すでに1962年にはレイチェル・カーソンが「沈黙の春」で化学物質の無制限な放出による危機を訴えている。日本でも、1971年にゴジラはヘドラとの戦いを通して公害のひどさを訴え、1974年に有吉佐和子が「複合汚染」の新聞連載を開始した。
 21世紀初頭の今日は「環境」の時代である。「公害」の言葉は影をひそめ、「持続可能性」が言われる時代になった。しかし、今も化学物質の大量放出は行われ、工業をふくめたすべての人間活動で自然環境の破壊は進んでいる。
 1970年代、「公害」が目に見えた時代に、SF作家のゼラズニイが人類と地球への希望を込めて描いたのが本書「燃えつきた橋」である。
 地球人類は、異星人の影響を受けながら進化してきた。異星人は、遠大な計画をもって地球を高度な工業化によって亜硫酸ガスに汚染された星に変えようとしていたのだ。彼らは、数が少なく、自ら地球環境を変える力を持たないが、彼らは亜硫酸ガスに満ちた大気のある星を欲していた。そのためには、知的生命体を育て、彼らが工業化して自らの大気を汚し、自らも滅んでくれればよい。時に、人類の進化に手を加えながら、彼らの計画は着々と進行し、20世紀を経て21世紀には成功の道筋が見えたかのようであった。
 一方、「敵」がいることに気がついていた人間もいた。ゼラズニイお得意の「不死」の男と女である。彼は、人類創生期から、「敵」に気がつき、「敵」と戦い続けてきた。彼の存在理由はただひとつ、人類と地球を「敵」から開放すること。そのためには、人類は20世紀のような存在から進化しなければならない。
 今回のSFのガジェットとして取り上げられたのは、1968年の「ネイチャー」誌に掲載され、生物学に大きな衝撃を与えた木村資生氏の進化の「中立説」である。自然淘汰ではなく、変異そのものは分子レベルで無目的に起こり、それが定着するかどうかはきわめて偶然的なものであるとの考え方で、決定論を完全に否定するものであった。
 そして、この中立説の申し子であるテレパシー能力を持つ者が登場する。ふたりのテレパシー能力者の間に生まれた子どもは、その潜在能力の高さから生まれたときから周囲の集団の意識にさらされてしまい、自我を確立できないままに肉体のみが成長を続けていた。時折、他者の断片的知覚と思考、自我を拾うだけで、まったくの植物人間状態と言ってもよい状態であった。
 彼の自我を確立させ、目覚めさせようと試みるテレパシー能力を持った療法士。その治療の効果なのか、ある日、彼はひとりの男の自我を自分のものとしてしまう。
 それは、自然保護テロリスト集団「チルドレン・オブ・アース」の狙撃者の精神だった。
 ダムを破壊し、原子力発電所を破壊する彼らと共感してしまう少年。しかし、その共感が切れると、彼はまた、植物人間に戻ってしまう。
 幾人かの人間たちと合一してしまう彼に、ついに、療法士は彼を月に送ることにした。
 月ほどに距離が離れていれば、簡単な合一は起こらないであろう。
 しかし、彼は、その予想を超えた合一を起こし、ついには自我を確立するにいたったのだ。彼の存在と、「不死」の男の存在が、地球の希望となる。
 ゼラズニイは、自然保護テロリストの言葉を借りて、語る。
「田園を支持することは、即、都会を拒否することじゃない。いっさいを投げ捨てて、時計の針を逆もどりさせることはできない相談なのさ。おれたちがダムを爆破したり、公害発生源の息の根を止めたりしているときでも、世のなかのあらゆる科学技術を放棄せよと主張しているわけじゃない。ただその性質に関してもうちょっと賢明であれと言っているだけ、できればそれに代わるべきものを研究史、開発せよとうながしているだけなんだ」(225ページ)
 人類が変化し、進化し、発展するのは、息をすることと同じこと。それは、生命としての本能なのだ。しかし、その背景にある自然、田園を支持することは、変化、進化、発展と反することではないはずだ。それを尊重し、慈しみながら変化できることが、人類の希望であり、力ではないか。そう、ゼラズニイは語りかける。
 中立説にあるとおり、未来は、人類の変化、進化は決定論的なものではない。今のこの公害に滅びを予感し、絶望する必要はない。
 アルキメデス、ルソー、ダ・ヴィンチなど、古くからの思索者の声を借りながら、「敵」である異星人と、人類自らのくびきを逃れようと、最後の戦いが今、はじまる。
 それにしても、ゼラズニイの著作には癖がある。
 西洋の宗教的思想が背景にあるため、どうしても読みづらいのだ。
 本書「燃えつきた橋」を購入し、読んでから20年余、ようやく、本書がSF作品であることに気がついた。
 さっぱりストーリーとして理解できなかったのだ。高校生の頃の私には。それは、高校生という若さと、80年代初頭という、あまりに本書「燃えつきた橋」が書かれた70年代後半に近い時代のせいだったのかも知れない。
(2005.4.24)

わが名はコンラッド

わが名はコンラッド
THIS IMMORTAL
ロジャー・ゼラズニイ
1966
 原題は、「この不死なるもの」か「ここにおわす神々」って感じかな。中編では「わが名はコンラッド」のままである。
 これも高校生の時に買っている。表紙は角田純男さんので海岸にオリーブの輪をかぶったはだかの子どもが4人にて、海に巨大な透明の球が浮かんでいる、全体に青いイメージだ。
 地球は最終核戦争「三日戦争」によって壊滅してしまった。現在地球には400万人程度しか生存しておらず、突然変異によってまるで神話世界のような様々な形態の人間、一部の動物が暮らしていた。
 三日戦争以前、人類は、宇宙に進出していたが、三日戦争によってすべての植民地で人類は生存の危機に立たされた。それを救ったのが、異星人ベガ人たちである。彼らは植民地や地球の生命を救い、地球外の人類には生活の場所を提供した。これまでもベガ人はさまざまな異星人たちを吸収してきたのだ。
 しかし、地球では200年以上に渡ってベガ人の介入を拒み、地球外の人類に帰還を呼びかける帰還主義者たちがいた。彼らは、人類が人類のまま地球で暮らすことを求めたのだ。
 ここに、ひとりのベガ人が本を書くために地球の各地を回るという名目で地球に降り立った。案内役に選ばれたのは、突然変異により事実上の不死となったコンラッドである。彼は、名前を変えながら様々な生を過ごし、現在では地球美術遺蹟史料保存局局長の職にあった。彼は醜く、力強く、そして、天才であった。
 ベガ人の案内として選ばれたコンラッドのほか、案内役やボディーガードとしてかつてコンラッドがよく知っていた帰還主義者や暗殺者、生物学者、妻や愛人が同行することとなった。
 ベガ人の真の目的は本当にただ本を書くためだけなのか、それとも噂されているベガ人が地球を買収するための下調べなのか、それとも別の目的があるのか?
 荒廃し、異様な生物や社会を旅しながら、それぞれの思惑が展開する。
 そして、旅の過程を通して、コンラッドの人と歴史が少しずつ明らかになっていく。
 たぶん、高校生の頃、おもしろくなかったのだろうなあ。ちょうど、日本ではニュー・ウェーブSFが盛んに紹介され、出そろったころである。ニュー・ウェーブってちょっくら小難しいんだ。たんなる冒険がなんか人生や精神、人間のありようを比喩的に、暗喩的に描いていることになっているから、小難しいんだ。それがおもしろいところでもあるんだが、背伸びをしたがる小難しいことを言いたがる若造には、かえってその小難しさの後ろにある単純なおもしろさがつかめなかったりするんだろう。
 今、素直に「わが名はコンラッド」を読んだら、素直におもしろかった。
 そういう小難しさを忘れて、ただ、ストーリーを追いかける。
 ああ、書き方/読み方によっては、「わが名はコンラッド」はハードボイルド作品だ。ただ、ハードボイルドの主人公が貧乏な私立探偵ではなくて「地球美術遺蹟史料保存局局長」なんていう地球の要職にあるから惑わされるだけなんだ。
 そう思って読むと、本書「わが名はコンラッド」はおもしろい作品だ。
 ところで、以下はネタ晴らしです。え、目にはいるって?
 すいません。どうしても言いたい。
 テーマは、星を継ぐもの! だ。
 ネタ、ばれてないってか。
 ヒューゴー賞受賞!(ニュー・ウェーブの時代だ)
(2005.4.20)

アグレッサー・シックス

アグレッサー・シックス
AGGRESSOR SIX
ウィル・マッカーシイ
1994
「バベル-17」(サミュエル・R・ディレーニイ)を再読して、本書に臨む。なぜかといえば、解説に「宇宙の戦士」(ロバート・A・ハインライン)、「エンダーのゲーム」「死者の代弁者」(オースン・スコット・カード)の世界に通じ、本書の後半では「バベル-17」を彷彿とさせるとあったからである。他の3冊はすでに再読していたが、「バベル-17」は本書のために読み直したようなものだ。
 それはさておき、宇宙戦争である。西暦でいうところの3380年のことだ。人類は、光速に制限されない即時通信システム「アンシブル」を使ったいくつもの星系での人類社会ネットワークを築きつつあった。しかし、植民地時代、長期の帝政を経て、人類の経済社会は衰退を迎え新たな開発意欲さえ失われつつあった。
 そこに、人類世界を圧倒的な武力で攻撃するウエスターが植民地星系を襲いはじめた。彼らは太陽系星系にまさに迫ろうとしている。降伏も、抵抗も意味をなさず、コミュニケーションすらとれない。ただ、彼らが人類社会を破壊し尽くそうとしていることだけは間違いない。
 人類社会は通常の社会生活をすべて停止し、絶望を持ってただひたすら戦い、人類がどこかの星系でいつか生きのびることだけを願って最後の戦いに挑もうとしていた。
 その戦いのひとつの試みとして結成されたのが、アグレッサー・シックス、すなわち敵情調査班6である。6とは、6つの生命体のこと。わずかにとらえることができたウエスターから得られたのは、ウエスターがひとりのクイーン、ひとりのドッグ(メスの小型の生命体)、ワーカー2人(オス)、ドローン2人(オス)を1セットとして成り立っていることであった。彼らの言語を解析し、彼らの見え方、考え方を通して、彼らの行動原理をつかみ、降伏による攻撃中止か、彼らを攻撃するための有効な手段を考えるため、アグレッサー・シックスが結成された。
 軍内部の硬直したシステムに悩まされるメンバー、ドローンのひとりになったケネス・ジョンソン海兵隊伍長はもっともウエスターの精神になりきり、そして、同時に精神を病んでいた。はたして、ジョンソンの思考は、ウエスターをなぞっているのか、それとも、先に敵戦艦に特攻的に乗り込み激しい戦闘を体験したことから生まれた精神異常による妄想なのか?
 絶望的な状況下で、追い込まれた人々が、あがきつづける。いったい、何が真実で、誰を信じればいいのか? その前に人類は絶滅させられるのか?
 90年代のSFである。
「バベル-17」は、60年代、70年代のニュー・ウェーブSFの申し子のような作品であった。テーマをはっきりさせ、そのテーマを陰に陽に浮きだたせながら物語をすすめ、読者にたとえそれが荒唐無稽であっても新たなパラダイムを提示する。そんな力を持っていた。
 それに対して、本書は、90年代である。もう、みんな驚くことがなくなってしまったのだ。パラダイムは提示されるものではなく、好き勝手に選び取るものとなり、コミュニケーションが頻繁になるとともに言葉は互いに通じなくなっていくという言語と関係の解体がすすむなか、物語の力が復興するための力を発揮するには至っていない頃である。
 ぶっちゃけて言えば、軽く、気持ちよく、読んでおきなよ、だ。
 設定はきちんとしている。難しく読むことだってできる。いろんなSFの影を感じる。
 SFファンには楽しい作品だ。悪くない。SFのおもしろさを、純粋に楽しめるのが90年代SFのよさである。近年のハリウッドSF作品にも通じる軽さが心地よい。
 メモ:本書でも出てくるアンシブルは、光速の制限をもつSFに使われることが多い。なんらかの手段で、情報の双方向通信だけは光速の制限を超えるため、情報だけは遠くの星系間でやりとりすることができる。ただし、たいていの場合、両方に送受信装置を設置する必要があり、たとえば、20光年離れたところにアンシブルを設置するためには、機械なり人間なりが20光年物理的に(光速の制限を受けながら)旅をしなければならない。
 アンシブルを開発したのは、アーシュラ・K・ル・グインである。すでに多くの作者に使われ、即時通信システムの代名詞ともなっている。
(2005.04.20)

バベル-17

バベル-17
BABEL-17
サミュエル・R・ディレーニイ
1966
本書「バベル-17」は高校生の時に購入し、読んだ1冊である。タイトルには記憶がある。しかし、内容にはまったく記憶がなかった。ハヤカワSF文庫の新刊で「アグレッサー・シックス」(ウィル・マッカーシイ)があり、購入して先にあとがきを読んだら、そこに、「バベル-17」にも似ているとの紹介があり、では、先に本書を読もうと思った次第である。
本書の内容は、遠い未来、人類は宇宙に広がっていた。そして、いくつかの異星人勢力とは友好的な関係を結び、いくつかの異星人の勢力と果てしない戦いを続けていた。
戦況は思わしくなく、いくどかの経済封鎖によって厳しい生活を強いられていた。
今、人類は、内部破壊者による攻撃に悩まされていた。その際に交わされる「暗号」である、バベル-17の解読こそが求められていた。難攻不落のバベル-17を解読すべく白羽の矢を立てられたのが、かつての暗号解読のプロで人類世界に名だたる詩人の若き美女リドラ・ウォン。彼女は、バベル-17が暗号ではなく、言語であることに気がつき、その言語を理解しようとする。それは、言語で思考すること。そして、バベル-17で思考することには恐るべき効果があった。
牙や蹴爪をつけたり、獣や龍のように人体を改造するのが特殊ではない社会。
死んでも霊体として保存され、その精神機能を活かすことができる社会。
超静止空間へのジャンプを利用した遠距離通信、遠距離移動システムのある社会。
1966年に書かれた作品だが、人体改造、バーチャル人格など、今のSFと違和感なく読み進めることができる。
本書は、「言語」と「思考」「行動」をテーマにした作品であり、言葉を持つこと、使うこと、あるいは、「名前」をつけることや、「わたし」「あなた」といった抽象化された主体にあてられる「単語」が大切な作品の要素となっている。
そうなるととても難しそうだが、主人公リドラ・ウォンは、あらくれの宇宙船乗りたちを軽くあしらい、激しいアクションあり、宇宙戦闘ありの活躍ぶりで、とても20代前半の詩人というイメージではない。作品の紹介にも「ニュー・スペース・オペラの決定版」などと書かれているぐらいである。
言葉についての洞察がそのまま作品の動きとなって反映されるため、知らず知らずのうちに「言葉」について考えさせる内容となる。よくできた作品だ。
どうして、わたしは、わたしのことを「わたし」と呼び、わたしは、あなたのことを「あなた」と言うのに、あなたは、あなたのことを「わたし」と呼び、あなたは、わたしのことを「あなた」と呼ぶのか。
考えたこと、ありますか?
ネビュラ賞受賞作品
(2005.4.17)

オブザーバーの鏡

オブザーバーの鏡
A MIRROR FOR OBSERVERS
エドガー・パングボーン
1954
 創元推理文庫SFにて1967年に文庫初版、手元には1976年の第10版がある。価格は300円。早川ポケットSFでも同年に出版されている。
 第二次世界大戦終結から9年。米ソの冷戦構造は固定化し、核への恐怖が世界を覆っていた頃の話である。
 3万年前、火星は滅びつつあり、火星のサルヴェイ人たちは地球に生存を求めて来た。サルヴェイ人たちは、地球の地下のいくつかで隠れて生存していた。人間に似ていた彼らは、一部が人間そっくりに変身し、オブザーバーとして人間社会に暮らしていた。それは、人間がサルヴェイ人を受け入れる「合同」の日へのささやかな取り組みだったのだ。
 しかし、サルヴェイ人の中には、地球人を滅ぼし、サルヴェイ人の世界をつくればいいと思う者もいる。かつてはオブザーバーだった退官者ナミールもそのひとり。
 ナミールの策略を防ぐために、オブザーバー・エルミスは、アメリカの片田舎に出向いた。
 全編にただようのは、人間の「善」への期待と、破滅への「予感」である。
 オブザーバーは、人間の「善」なる部分を信じ、それこそが力だと願いながら「悪」にとりまかれ、なびかれそうになる子どもたちと接する。
 自然の中に、日々の中に、人間の「善」性、地球の「生命」を見ようとし続ける。
 それゆえに、オブザーバー・エルミスは幸せな人であり、宗教的指導者のようなおもむきさえある。
 しかし、人間社会は、今も、そしてサルヴェイ人が人間とつきあってきた長い歴史を通じても、破滅への「予感」を見せ続けてきた。1945年の核は人間の首を絞めるロープであり、サルヴェイ人もまた、核の実験によって大洋市とその人口を失っていた。自然破壊と公害、核への恐怖、そして、新たな病原菌の発生や兵器としての開発…それは、破滅への「予感」である。そして、きっかけは、ファシズムの台頭。
 小さな暴力から大きな暴力まで「悪」は甘美で力強い。
 まきこまれていく少年と、それを救い出そうとするオブザーバー。
 舞台は、本書が発表された1954年から9年後の1963年の田舎町ラティマーと、さらにそれから9年後の1972年のニュー・ヨーク。
 9年を単位に1945年、1954年、1963年、1972年が交錯する。
 1954年から見た1945年は生々しい過去であり、1963年は身近な未来に過ぎない。そして、1972年はまるで1936年の再来のような悲劇の年となる。人間が作り出した哺乳動物を殺す病原菌が自然界に放たれたのだ。すべての人間や動物が死に絶えるわけではない。死ぬ者もいれば、生きる者もいる。そんな悲劇の中でも、人間は生き、「善」性を身につけることができるのだ。そう、作者はささやく。
 古い作品であるが、今も売られているようだ。
 クリフォード・シマックにも似た空気の中で、古き良きアメリカと、現代のブッシュのアメリカの両方をみごとに書き表した作品である。
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 ところで、私は中学生の頃、これを買って読んでいる。そのとき、なぜか、以下の部分にペンや鉛筆でラインを引いていた。
「犬は正直ですよ」(P31)
「あの檻の中に押しこんだのは、わたしたちのような人間なんだからね」(P199)
「なにしろ妙なのは」「人間業じゃないってことですよ」(P205)
 なにを思ったのだろう。今の私の記憶には痕跡すら残っていない。
 前後の文脈を読んでも、一番分からないのは「犬は正直ですよ」だ。その当時、手放したばかりの飼い犬のことを思ってのことだろうか。わからない。
 昔の私に再会して、とまどうばかりである。
 さて、最後にメモ。
 1954年の作者は、9年後、18年後の未来をどうみているのか…。
 1963年の新聞では、スペインの新政府がヨーロッパ合衆国に加わる。
 宇宙ステーションは1952年にはあと10年もしたら完成すると考えられていたが、実際には1967年か1968年に完成する見込みである。
 1970年、ロシア(ソ連?)と中国はアジアをめぐって互いに戦争をはじめ、1972年までは原爆も使われていた。いまだに、西洋社会は、アジアの様子をうかがい知れないでいるが、独裁的なふたつの政権によって支配されているようである。
 1971年、汚染によってサンフランシスコ港の全水域が死んだ魚で蔽われた。
 1973年のアメリカでは、共和党、民主党の力が弱まり、有機統一党や連邦党が台頭。有機統一党は、世界統一をめざすファシズム的志向性をもつ。
 そして、技術的には、自動車のハンドル操作がいらない自動誘導路も一部には導入されている。
 この頃の世界の人口は約30億人。ちなみに、現実には、1960年に約30億人で1970年には3億7千万人ぐらいまで増加している。
第一回国際幻想文学賞受賞
(2005.4.8)

酸素男爵

酸素男爵
THE OXYGEN BARONS
グレゴリイ・フィーリイ
1990
 吉野朔実氏が「本の雑誌」などで掲載する漫画による書評で2度にわたり「酸素男爵」のタイトルネタで遊んでいる(『弟の家には本棚がない』本の雑誌社 所収)。
 タイトルの妙である。表紙は、ヤングアダルト向けという感じである。
 内容とタイトルや表紙との乖離があることは、SF文庫でよくあることだ。
 テラフォーミング化された月。月で起きたらしい革命。月の表側の自給自足型自称「ルナ共和国」と、ルナ共和国に対する月の裏側の軍事革命軍。地球諸国と月周回軌道居住区、高地球軌道居住区による経済封鎖。
 描かれるのは、月の表、裏、月周回軌道と高地球軌道の居住区と、その宇宙空間、そして人口が増え、紛争の終わらない地球。
 使われるのは、蒸気電話などのゴシックパンクの小道具。ナノテクにより、人体に仕込まれたGPSやメモリなどの機能、バーチャルリアリティ化した存在、知能を向上させられた生命などなど。
 22世紀の未来。
 人は、世界を拡張し、拡張の方法と資源をめぐって争う。
 私たちは、20世紀前半、土地と労働力と鉱物および石油資源をめぐって争った。
 20世紀後半は、石油をめぐって争い、食糧を武器とした。
 21世紀、今、私たちは、引き続き石油をめぐって争い、そこに水の争いが加わろうとしている。
 資本は、権力は、今足りないものを求めてやまないのだ。
 足りないもの=それさえあれば大きくなれるもの。
 だから、欲しい。なんとしても。
 ただ、欲しい。
 いつも人はそれに踊らされるのだ。死と悲しみをもって。
 21世紀後半、エネルギー革命を終え、人は酸素をめぐって争いを開始した。
 翻弄されるルナ共和国の天才技術者ガルヴァーニッホ。
 彼は、月の表から宇宙へ、そして裏へ。さらに軌道世界から地球へ。さらにその先へと動き続ける。決して彼の意志ではない。
 ただ、状況が彼を動かし続ける。
 彼は生きたいだけだった。いや、身体が生きることを求めていただけだった。
 変な日本名や日本文化が出てくるため、日本人にはちょっと引いてしまうところがある作品だが、22世紀の激動の日々とその日常をかいま見るのはいかがだろうか。
 ちょっとしたハードなバックパッカー気分を味わえること請け合いである。
(2005.4.5)

月は無慈悲な夜の女王

月は無慈悲な夜の女王
THE MOON IS A HARSH MISTRESS
ロバート・A・ハインライン
1966
 SF史に燦然と輝く一冊である。
 あまたのSFに影響を与え、異星植民地や月や火星を舞台にしたストーリーを書く作者たちにとって本書をどうとらえるか、常に比較され続けてきた。
 出版されたのが今から39年前。書かれたのはそれ以前、人類がまだ月を知らないころのことである。
 話は簡単である。流刑地として成立した月植民地はすでに第二、第三世代が育っていた。水やエネルギーなどを自給する月植民地は、人口が110億にもなった地球に穀物を輸出する生産基地となっていた。第一世代以外の者は犯罪者ではないから地球に行くことはできるが、現実には重力の壁があり、彼らが地球に降り立つのをこばんでいた。
 月の行政府は地球にあり、月に着任する長官は、彼らを統治せず、ただ穀物が地球に間違いなく送られれば、彼らが殺し合おうと何をしようと我関せずである。
 月人たちは、流刑地として女性が圧倒的に少ないことや、水や空気すら「無料ではない」現実から、独自の社会、文化、価値観を生みだしていた。
 そして、ある者たちは、地球からの独立を模索し、その必要性を実感していた。
 一方、月のあらゆるサービスや機能はひとつの巨大なコンピュータによって管理されていた。そのコンピュータは、ある日、意識を芽生えさせる。そして、その人工知性とコミュニケートできたのは、ひとりのフリーランスのコンピュータ技師。その能力ゆえにフリーランスであった彼が、革命を求めるものたちと出会い、人工知性に助けられながら、月の独立に向け、地球と月のさまざまな人々の思惑、欲、権力、そして、その究極の形である戦争を克服していく。
 そんな独立譚である。
 本書をどの視点から読むのかによって、その評価は変わるだろう。
 人工知性の物語として。
 植民地の独立、革命を描いた物語として。
 水や空気も有料の宇宙船・コロニー的な社会のありようを描いた物語として。
 政治や社会のあり方を問いかけた物語として。
 どの視点から読んでも、あなたは考え、一言を持つことだろう。
 そうさせるのが、本書の力であり、ハインラインの力量である。
 こまごましたガジェットの古さは別として、本書は、今日読んでも古さを感じさせない力強さがある。
 革命と独立について、今さら私が書くことはない。
 また、ハインラインの専売特許でもない。同時代のクラークが、あるいは、現代のベアが、多くの作者が、重力井戸から飛び出して生きる人類の独立を描いている。
 革命と独立の要素について、または、その社会と個人のあり方については本書を読まれたひとりひとりの問題として、論ぜずにおこう。
 ただ、おもしろかった、と。
 今回、私は、本書をひとりの人工知性の物語として読んだ。
 それは、人工知性のあり方を模索する現代のSFとしての物語ではなく、拡張された人間性の象徴としての人工知性という古典的な人工知性の物語である。
 ここから先はねたばらしになるのだが、唯一の存在として月に誕生した人工知性が、なぜ、この「革命」に参加したのか。なぜ、みずからの存在をかけたのか? 人工知性は、本当に「死んで」しまったのか? それとも「沈黙」したのか?
 この人工知性の「人間性」を考えれば考えるほど、「人間性の本質」など知性というものへの問いを考えさせられる。
 私たちは、ハインラインが問うほどの自立を果たしうるのだろうか?
 ところで、私はこの邦題「月は無慈悲な夜の女王」は原題の直訳だと思っていたが、あとがきを読むと違うようだ。「月は厳格な女教師」という意味だ。なるほど、そういう意味だと本書の内容がよく分かる。ただ、この邦題はコピーライトとしてすばらしい。本書がいまだに日本で読み継がれているのは、内容がすばらしいのはもちろん、この邦題にかかるところも大である。
ヒューゴー賞受賞
(2005.3.29)

レッドシフト・ランデブー

レッドシフト・ランデブー
REDSHIFT RENDEZVOUS
ジョン・E・スティス
1990
 階層ごとに光速が違う宇宙でのお話し。1階層上がるごとに、光速が半分になっていく。この超空間の特徴を利用して恒星間をつなぐ宇宙船レッドシフト。そこでは光速がわずかに秒速10メートルしかない。人間は、ライフベルトをつけることで、その身体機能を維持することができる。ちょっと走るだけで音速を超え、時計は相対論的狂いを生じる。足下と頭のてっぺんで時間の相対的進み方が異なるのだ。
 きみょうな振る舞いをする空間は、慣れない旅行客をとまどわせる。
 しかし、そこを職場にするものたちもいる。なかでも、一等航海士ジェイスン・クラフトは、船長に代わって、乗客の安全とケアも心がける。子どもの頃の忌まわしいできごとで心と身体に傷を持つ彼は、他者に対して心を開くことはない。ただ、「守るべき人」を守るためにはそのすべての能力を惜しまない。彼の行動原理は、守るべき人を守りたいだけだ。
 この変な宇宙船で起こったひとつの死が、彼とレッドシフト号を巻き込む大きな事件のさきがけとなった。
「もし、光速が10メートルで、相対論的物理学が目に見えるようなものだったら…」という風呂敷を思いっきり広げて、それだけでは小説にならないとみるや、さらにエンターテイメントに仕立て上げた作品である。
 まあ、相対性理論を「見せる」ためにとはいえ、前提となる物理学の法則が異なるものの、その宇宙の違いには法則性があるというとてもユークリッド幾何学的な階層宇宙を持ち出すところに、ハードSFとは違う違和感がある。さらに、わざわざ作者が「超ハードSF」なんていう自己解説文をつけちゃうものだから、文庫の解説者が「ぜんぜんハードじゃないよ」とかみついたりして、読ませたいのか、読ませたくないのかよく分からなくなる。
 ハードだろうが、ソフトだろうが、気楽に、「もしも」の世界を、その物理学的な制約を忘れて楽しむ分には、本書はとてもおもしろい。
 本書をきっかけに、特殊相対性理論、一般相対性理論、さらには、量子力学や現代の宇宙論までを勉強してみるのもいいだろう。
 私は高校の頃から相対性理論をかじっているが、いまだに何がなにやらで、自分の物理学的理解力と物理学的忍耐力のなさにがっくりしている。だから、こういう軽い本で、嘘だけど、なんとなく分かったような気になるのが楽しかったりする。
(2005.3.29)

アイ・オブ・キャット

アイ・オブ・キャット
EYE OF CAT
ロジャー・ゼラズニイ
1982
 ロジャー・ゼラズニイという作家は、宗教、神話とSFの融合をはかろうともくろみ、様々な宗教世界、神話世界を描いている。私は、少年期に彼の作品を読み、正直なところさっぱりわからなかった。
 本書は、「積ん読」書のひとつで、1989年に買ったっきり、ほとんど開くことなく今にいたった作品である。
 本書で扱われる神話は、アメリカ先住民、インディアンのナヴァホ族の世界。ナヴァホ族のひとりで、20世紀に生まれた主人公は、異星生物ハンターとなって宇宙をかけめぐり、まだ30代なのに、地球の時間は彼が生まれてから100年以上過ぎ、ナヴァホ族としての自分との乖離、現実の社会との乖離、そうあったかも知れない自分への乖離を感じながら、漠然と死を予感している。
 本書は2部に分かれる。1部は、引退していた彼の元に国連政府高官から依頼が来る。異星人ストレイジ人との通商条約締結目前に、ストレイジ人の中でも宗教的に特殊な訓練を積み、変身能力をもったひとりが国連の事務総長を殺しに来るというのだ。それを防いで欲しいという依頼に彼は、自分の能力を超えたものを感じる。そして、彼がかつて狩り、今は異星生物博物館に入れられている変身能力を持つ「キャット」の存在を思い起こす。キャットは知性生物ではないかと主人公はずっと思っていたのだ。
 キャットは、やはり知性生物で、50年に渡って地球人の思考を読み続けた結果、地球人に特有の「憎しみ」を知り、その憎しみの対象を、彼を狩った主人公に向ける。そして、主人公を手伝う代わりに、彼の命を所望する。主人公はそれを了解する。
 2部では、主人公を追うキャットと、逃げる主人公、そして、テレパシストたちや、現代のアメリカ先住民を描く。
 テーマは、世界の再構築、自分の再構築なのだろう。
 が、いつもロジャー・ゼラズニイの作品を読んでいて思うのだが、物語として重層すぎて、物語に入っていけないのだ。これは、もちろん、読者である私の浅さが原因なのだが、浅い読み方では読者を受け付けないのである。
 心して、読め。ということだ。
 同じように宗教観、世界観をSFと融合させて、浅い我々にも物語の力を感じさせてくれたのがマイク・レズニックの「キリンヤガ」であるが、これに比べると本当に読みにくいと感じてしまう。独自の物語としてのおもしろさを感じないのだが、それだけ、ナヴァホ族の世界と本書は直結しているのかも知れない。  私には、本書を解読する力はない。
 ロジャー・ゼラズニイを評する力がない。
 本書と戦う力が欲しい。
(2005.3.18)