宇宙のランデヴー2

宇宙のランデヴー2
RAMA2
アーサー・C・クラーク&ジェントリー・リー
1989
 1973年に発表された「宇宙のランデヴー」の続編である。本書は、ジェントリー・リーとの合作により生まれた作品で、「2061」の後に発表されている。80年代後半から90年代前半にかけて、クラークは、スリランカの地から世界を眺めつつ、やり残した仕事に手を付けている。
 本書の位置づけは難しい。前作、「宇宙のランデヴー」が名作であったが故に、本作品は、ファンの期待と不安を持って迎えられたことだろう。私自身も、今日まで本書を読まずに来ているし、いまだこの続編である「3」「4」はわが家の本棚に並んでいない。もっとも、「3」「4」は近日入手して読むつもりではある。
 さて、3つを基本単位にするらしい異星人の手による小惑星宇宙船が太陽系内に入り、そして通り過ぎていくわずかな時間、1隻の軍事宇宙船が唯一その小惑星宇宙船に乗り込むことができ、ささやかな調査をとげることとなった。それが前作である。ラーマと名付けられた小惑星の中に、異星人はいなかったが、バイオボットと後に名付けられる有機ロボットがおり、荘厳な都市のような構造物が中空の宇宙船にはあった。
 本書はそれから70年後を舞台にする。ラーマ人が3を基本単位にする以上、同じような小惑星宇宙船は3つあるかも知れない。そう考えた地球では、太陽系外を探査して早期に警戒するシステムを作り上げたものの、その後の経済変動と社会変動によって地球は大混乱と混迷の時代を迎えてしまう。はじまった宇宙時代は、地球社会の変動により、縮小を迫られたが、ようやく最近になって再び宇宙時代を迎えていた。そんなとき、忘れ去られていたふたつめのラーマが本当に到来しつつあることが判明した。今度こそ、きちんとした調査をしたいと考えた地球人たち。軍の考え、科学者の考え、宗教家の考え、社会のあり方を背景にしながら、ふたつめのラーマの調査がはじまる。
 というのが今回の筋立てである。
 前回は、小惑星宇宙船という壮大な人工構造物のふるまいと景観を読者に提示するのが目的のような作品であり、そのねらいはまさにあたって、SF界にひとつの古典を生みだした。
 それに対し、今回は、普通のSFである。くせのある登場人物とその社会背景、サスペンス仕立ての展開、ラブロマンス、殺人、事故…。ラーマを舞台に、人間社会の縮図が展開される。それはそれでおもしろいので、ラーマを舞台にした派生的ストーリーとして読めば楽しい。
 また、上巻の前半には、ラーマ1が2130年代に来てから2200年代に入るまでの70年間の科学、経済、社会、宗教の変化を概観していて、その部分は、近未来予測として楽しく読むことができる。
 もっとも、この近未来予測の必要性は、ラーマ2が太陽系に入ったとき、前作のラーマ1とは極端に科学的背景が変わっていないようにするための工夫とも読めるので、クラークらが、本当にこういう予測をしているということではないだろう。ともあれ、経済変動により、社会が本当に大きな打撃を受け、変革し、再生するというのは、現代的にも身につまされるところがあり、読みがいがある。考えてみると、80年代後半は、こういう近未来予測がさかんであったので、本書の導入部分は、発表当時からみて違和感なく受け入れられたのであろう。この部分は特におすすめ。
 さて、「3」「4」ではどうなるのだろうか。ラーマ人には会えるのか、3つめのラーマは地球に来るのか。そして、ラーマ2と運命をともにした人たちのその後はどうなるのか、この3部作のできばえはどうだったのか。そのあたりを楽しみにしておきたい。
(2005.5.22)

軌道通信

軌道通信
ORBITAL RESONANCE
ジョン・バーンズ
1991
「期待される人間像」をご存じだろうか? 高度成長期を迎えた1966年、当時の文部省中央教育審議会が出した答申の中に含まれている「名言」である。1965年生まれの私は、まさしく「期待される人間像」となるべく育てられたといっても過言ではない。
 当時、すでに怒れる若者が社会問題となり、彼らは社会体制をゆるがすものであり、そのような若者に育てた状況を反省し、社会的に適応した者たちを育てることが必要との認識があったようである。もちろん、期待される人間像をもった人間を育てる教育には具体的なプログラムや心理学、精神医学、行動学、社会学上の分析や手法構築といった背景があったわけではない。もし、そのような背景があれば、「怒れる若者」たちが、実は団塊の世代であり、世代間の人口比も大きな要因であることが分かったであろう。
 いずれにしても、試行錯誤しながら育てられた我々は、人口比率の谷間ということもあり、「三無主義」「五無主義」などと呼ばれ、主体性がないと蔑まれ、怒りを持たず、きちんと体制に順応し、そこそこに「期待される人間像」となったのであるが、それよりも我々の前にいたはずの「怒れる若者」は、大人になるとともに「社会の担い手」になり、怒りを忘れ、バブル経済を生みだし、イチゴ世代をつくり、今や2007年問題とされる大量退職時代に向かって猛進しているではないか。
 今や社会の中核となったはずの「期待される人間像」は、子どもを生むことを嫌がり、社会の継続を無自覚のうちに拒もうとさえしている。
 自覚ある社会への怒りを知ることなく育ってきた者たちの、静かな反抗である。不満があってもそれを社会的な怒りに転化できないから、静かに、おだやかに反抗を続ける。
 さて、この社会はどうなることやら。
 本書の話に入ろう。
 13歳の少女のモノローグである。思春期が訪れ、身体、精神、認識が急激に変わる直前の少女の物語である。異質な社会から来た転校生、まさに大人になろうとする兄、現実を拒否して生きる母親、彼女が住む小さな世界に大きな責任を持つ父親。一足先に大人になった同級生の親友、乱暴だけれど本質は傷つきやすい少年、そして、大勢の顔色をうかがいながら行動するクラスメイトたち。
 特別な彼女の、特別な13歳の1年間を、彼女自身が振り返りながら語りかける。
 それは、もっとも火星に近づく点を近日点とし、もっとも地球に近づく点を遠日点とする変則的な軌道を描く小惑星宇宙船のお話し。
 地球は、変異型のエイズによる大量絶滅に近い死と、その後の戦争によって崩壊し、生き残った企業が運営するいくつかの小惑星宇宙船が生み出す鉱工業生産物によって生きながらえ、そして未来の人類の希望を火星のテラフォーミングにつないでいた。
 だから、彼女が生まれた小惑星宇宙船は、地球人類の命綱。決して切れてはいけない大切なものだった。
 その小惑星宇宙船を担う子どもたちには、特別な教育がほどこされる。
 なぜなら、彼らが地球を思い、小惑星宇宙船を維持し、発展させ、地球に資源を送り、火星のテラフォーミングを助けなければ、人類の将来はありえないから。
 小惑星宇宙船企業に忠実であること、任務に忠実であること、他者に忠実=公共の利益を最優先に物事を考えること…。
 いったい彼女たちはどのように育ったのだろうか。そして、どのように他者をとらえ、地球人をとらえ、生活をとらえているのだろうか。
 彼女たちを育てた大人達は、彼女たちを理解しているのだろうか。
「エンダーのゲーム」(カード)、「サイティーン」(チェリイ)などと共通するものを感じるが、本書にはもうひとつ、私たちの社会、いわゆる日本社会との類似性も感じさせられる。
 集団主義、まわりの動向を見回しながら、ことなかれに、事前に根回しし、調整し、合意を取り付けてから、多数決をとる。ほとんど全員一致になることがあたりまえ。そのことを不思議とも思わない子どもたち。
 因縁めいているが、本書の主人公が生まれた小惑星宇宙船の企業名はニホンアメリカ社である。作者は、日本社会を意識したのだろうか、それは分からないが、身につまされることも多い一冊だった。
 一方で、本書は、小惑星宇宙船の生活をさりげなく描くことで、作品の魅力を高めている。宇宙船が生み出す加速度と小惑星の重力と宇宙船が生み出す重力によって起こる様々な動きを、スポーツや生活のあちらこちらで表現し、楽しませてくれる。
 また、「ガンダム」シリーズのひとつのテーマともなっている、宇宙育ち/地球育ちの認識のありようというものもうまく出していて、このあたりもおもしろさの一端である。
 もっとも、本書は、ちょっとはずかしい気持ちになる作品でもある。
 なんといっても13歳の多感な少女のモノローグなのだ。
 初恋なのだ。性の目覚めなのだ。
 甘酸っぱいではないか。
 そういうのがお好きな方にも。
(2005.5.14)

リメイク

リメイク
REMAKE
コニー・ウィリス
1995
「スターウォーズ」の旧3部作(エピソード4~6)DVDボックスを買った。新3部作(エピソード1~3)が始まる前に、劇場で公開された特別編をさらにリメイクしたものらしく、エピソード6のダースベーダーが顔を出すところでは、顔(フェイス)が差し替えられているようである。1970年代、80年代の技術や当時の予算ではできなかった技術を使い、様々な映像が差し替えられている。
 残念なことにオリジナル版は「ないもの」として扱われており、現在では入手することも見ることもままならない。幸いなことに、ずうっと昔にテレビ放映されていたものの録画が手元にあり、それをDVD化して保存してある。おそらく、今後も表に出されることはないのであろう。
 DVDの時代になり、また、映像加工技術が進んだことで、過去のコンテンツを使って「特別版」や「完全版」が出され、オリジナルがどれなのかさえ分からなくなっている。
 お気に入りの「ブレードランナー」では、オリジナルを映画館で見て、その後、完全版も映画館で見た。そして、近年DVDで最終版とやらを見たが、最後がまったく変わっている。監督が手がけた再編集であり、それにより作品としての完成度は高くなったと思うが、オリジナル版とは遠く離れてしまった。
「デューン」の場合だともっと話は複雑で、オリジナル版をはじめ、監督のリンチが名前を出すことを拒否した版などもはやどれがどれだか分からない。
 SF映画ばかりではない。今、発売されているDVDなどのコンテンツが、オリジナルと同じかどうか、果たして分かるだろうか。
 オリジナルのふりをして、ちょっとずつどこかがいじられていないか? デジタル・リマスターで美しい映像といいながら、実は、必要以上に手が加えられていないか?
 誰かのために、なにかのために…。
 さて、本書の話であるが、ちょっとした未来、まあ、2005年頃の話だ。
 ハリウッドは、リメイクとシリーズの世界。必要なのは、過去のスターの版権と過去のスターのそっくりさん(フェイス)だけ。あとは、ちょっとした映像編集ソフトウェアと、その作業をするまめな技術者。
 世間が煙草や飲酒を害悪だと思えば、古い映画から現代の映画まで、ワンカットずつ、細かく編集していく。ストーリーを変え、動きを変え、登場人物を変え…、ちょっとしたコンピュータとちょっとしたソフトウェアとあとは権利さえあれば、すべての喫煙や飲酒は20世紀になかったような映画だってできあがる。
 もはやカジュアルコピーは許されず、オリジナルは映画制作・配給会社の都合でいくらでも改変され、それがオリジナルとなってしまうエンターテイメントの世界。
 映画出演のダンサーに憧れるひとりの女性が、映画が大好きでしかたがないのにお小遣い稼ぎに映画改変ばかりやっているひとりの男性に出あう。いや、その男性が、その女性に出会う。ボーイ・ミーツ・ガール。
 もはやダンサーの需要はなく、ダンスの先生はいない。
 もはや俳優さえ存在しない。
 なのに彼女は踊りを求めた。
 そして彼は、彼女を求めた。
 彼女は、映画の中に入り込み、そして彼は彼女を映画の中に見つけた。
 映画の中の彼女を追い求める彼。映画とダンスを追い求める彼女。
 そんなどこにでもありがちな小さな物語。
 映画が好きで、映画を愛する者たちが好きな、そんな人に贈られた小さな作品。
 映画ファンで、今のハリウッド映画にちょっとした不安を持っている方にはぜひお勧めしたい作品である。SF読みよりも、SFを読まない映画ファンにこそ、本作を味わって欲しい。
 冒頭で述べたように、本書で描かれた世界はすでに実現可能となっているのだから。
ローカス賞受賞
(2005.5.13)

地球最後の日

地球最後の日
WHEN WORLDS COLLIDE
フィリップ・ワイリー&エドウィン・バーマー
1932
 私がSFを深く心に染みつかせたのは小学校の頃、図書館で借りた「地球さいごの日」だった。小学校に上がる前からSFの絵本や童話などが好きだった私は、小学校で図書館という存在を知り、喜び勇んで本を借りては読んでいた。その頃、小学校1、2年生は直接図書館に入ることが許されず、小学校3年生以上でなければ自分で本を選ぶことも許されなかった。だから、本書を読んだのは小学校3年生以降のことであろう。
 九州の山の中の町に暮らしていた私は、夜、2階の自室のベッドで本書を読みながら、時折遠くに聞こえる長距離トラックのエンジン音に、私を残して地球から人が逃げていなくなっているのではないかと恐怖を覚えたものだ。  思えば、私は何にでも怖がっていた。今も、いろんなことが怖い。
「地球さいごの日」はいったい小学校の頃に何度借りて読んだことだろう。
 記憶の中にしっかりと話は刻み込まれている。
 1998年に、創元SF文庫として本書の完訳版がはじめて登場した。それまで出ていなかったのである。映画「ディープ・インパクト」がなければ、この完訳版を見ることはできなかったであろう。
 完訳版を読んだ後、幸いなことに古書店で集英社のジュニア版・世界のSF「地球さいごの日」(矢野徹訳)を入手することができた。私が読んでいたのは集英社版か、講談社版か、それともどちらも読んだのか、今となっては定かではない。
 しかし、大体において、ジュニア版と完訳版には大きな違いがある。
 それは、社会制度や宗教、金融、恋愛、結婚といったものをジュニア版では描いていないことだ。子どもにはなじみのない部分を大胆にカットすることで、「地球さいごの日」は、子どもにとって深い印象を直接的に与えることができたのだ。
 ジュニア版といえば、他にも、A・A・スミスの「レンズマン」なども印象深かったが、こちらは、シリーズを1冊にまとめる都合上、ずいぶんとストーリーを「創作」してあった。それに比べると、「地球さいごの日」は意外に忠実にストーリーを追いかけていた。それだけ物語としてよくできていたのだろう。
 さて、ストーリーはというと、破滅ものの典型である。地球への直撃軌道をとった放浪惑星を発見した科学者たちは、しばらくの間秘密を守り、ある時期になって発表する。地球がこなごなにくだけるというのだ。しかし、放浪惑星は2つあって、直撃する大きな惑星と、地球サイズの惑星のうち、小さい方は、もしかすると地球軌道に入れ替わるように入るかも知れないというのだ。科学者たちは、秘密裏に原子力ロケットを建造し、少数の男女による人類の生き残り計画を立てる。
 というもの。
 本書は、第二次世界大戦以前に書かれたものであり、そこに出てくる科学技術と科学知識はさすがに古びてしまっている。しかし、本書の凄みは、その崩壊の描き方にある。地球が壊れ、人類が滅び行く様を、「生き残るかどうか分からないけれど、生き残るつもり」の人たちが見つめ続けるのだ。
 そして、かすかな希望である「生き残れるかどうか分からないけれど、生き残るつもり」の人たちが描かれていて、その絶望と希望のないまざった表現が、かえって破滅ものとしての迫真性を増している。
 もちろん、今読むと、本当に古い。また、それゆえに、ご都合主義である。
 それでも、人類や地球が、宇宙的な動きの中ではほんとうにもろく、弱く、淡い存在であることを強く印象づける作品であり、人類と地球の奇跡を心に刻み込ませることに成功している作品でもある。
 ゆえに、本書はSF史に残る傑作である。
 本書は、映画化され、ジュブナイル化され、その後の多くのSFや映画に影響を与え続けている古典である。
 話は古いが、SF読みならば一度は手に触れて欲しい1冊である。
(2005.5.4)

渚にて

渚にて
ON THE BEACH
ネビル・シュート
1957
 本書は、1957年に発表され、1957年に「文藝春秋」で要約が出され、1958年に同社より原著の一部分をカットして単行本化された。1959年にはアメリカで映画化。その後、1965年に東京創元社によって全訳が刊行される。現在まで版を重ねており、核戦争後、人類が滅んでいくまでを書いたディストピア、破滅ものSFの傑作として今も読み継がれている。
 本書の執筆時期は、いわゆる「冷戦」のまっただ中であり、米ソの対立、中ソの対立、中東問題、東欧問題など、第二次世界大戦後に残された大きな国際間の緊張がふたたび高まった時期である。
 と同時に、1945年8月にはじまった「滅びの予感」である核戦争の恐怖が、米ソを中心とする核兵器開発保有国の実戦配備の発表によって現実のものとされ、目に見えない「放射能」への恐怖が世界中に信じられていた。
 映画の方は、テレビでもなんどか放映され、その内容はともかく題名は、SF読者でなくとも耳にしたことがあるのではなかろうか。
 本書では、1960年代に北半球で全面核戦争が勃発する。アメリカ、ソヴィエト、中国、イギリス、フランス、アルジェリア、イスラエル、エジプト…。核を保有する国が、その核兵器をすべてあらゆる国に対して投じたかのような戦争は37日で終結し、少なくとも4700発が「敵」に投下された。おもに「きれいな」水素爆弾が使われただ人が死んだだけで多くの建物などは残った。しかし強い放射能によって北半球の動物は人類を含めてほぼ死に絶えた。それから2年。生き残った南半球にも徐々に放射能が降りてきて最後の日を迎えようとしていた。オーストラリアの人々は、終わりの日に向かってできる限り日常を営もうとする。
 そんな話である。
 まあ、放射能が地球全体を覆うのが2年以上ということや、強い放射能によって3日あるいは10日で下痢などコレラ的な症状で死んでしまうという設定。あるいは、南半球のオーストラリアやアフリカ、南米などが無傷というのは、1950年代当時ならいざ知らず、21世紀の我々には無理な設定である。
 しかし、1945年8月6日に広島で原子爆弾が殺傷と破壊を目的に投じられて以来、人類は今も変わらずに人類を何度殺しても飽き足らないぐらいの殺傷力と強い放射能を持つ核兵器を保有し、それはもはや大国のみならず、小国でも、あるいはちょっとした技術力を持つテロリストでも簡単に持つことができる。
 また、1973年のスリーマイル島や1986年のチェルノブイリ以降、核兵器だけでなく、平和利用の原子力発電所でさえも十分に人々の生活を奪うことを知った。
 そして、人間がなかなか死なないことも。
 本書では、静謐な死が語られる。そこには広島の黒こげの人影も、ただれた皮膚も、その水を求める苦しみの声も、いっさい存在しない。死は、ごく一部の潜水艦兵士が見た遺体であり、それは原子爆弾のせいとは言えない、静かで、見た目には美しい風景でしかなかった。
 生きて、死を見つめる側の南半球でも人々は静かで、風景は美しく、その擬似的な清潔さが、この物語に、迫真を与え、核の恐怖を与えている。
 しかし、核兵器の恐怖は、その程度のものではないことも、また事実である。
 人は誰しも静かな死を望む。たとえ走りながら死ぬのであっても、生と死との間の苦しみはあまり考えない。
 身体の表面を焼かれ、あるいは髪の毛がごっそりと抜け、あるいは神経や感覚器官に恒久的障害が残り、常に体調の変異に苦しみ、生きることそのものが苦痛であるなかで生き続けることの、人が人であることの痛みまでは書かれない。
 きっと、それを書いたならば、本書はこれほどまでに評価され、歴史に残ることはなかったであろう。静かな美しさの中の恐怖、死、絶滅、そして、人類が自ら知る、自らの愚かしさを描いたからこそ、本書は「名著」であり続けるのだ。
 しかし、今、「冷戦」が終わり、「正義」のみがふりかざされる今だからこそ、あえて書こう。
 今もまだ戦争は終わっておらず、核兵器の数が削減されたからといって、60億にも増えてしまった私たちのすべてと、その居場所を奪うに十分以上の核兵器は機能しており、原子力発電所の事故などによるリスクは高まる一方であり、今が10年前、20年前、30年前、40年前以上に美しいわけでも、理性的になったわけでもないということを。
 一見きれいになった空が、一見美しくなった川や海が、ひそやかに、急速に、かつての目に見える形での「きたなさ」よりもずっと「きたなく」なっていることを。
 そして、それらを描き出す時代ではなかった本書に、現代を語るすべはないことを。
 それでも、なおかつ、本書は「名著」であり、冷戦時代に多くの人々に対して「考えろ」とつきつけ、実際に考えさせることができた作品である。
 その価値は今も減じてはいない。
 本書登場から約50年、1945年夏から60年となる今、私たちはやはり核兵器の地上に落ちた太陽ほどの爆発、放射能汚染に対し、どのように対するのか、それを「考えろ」と迫る一冊であることは間違いない。
(2005.4.30)

タフの方舟(1 禍つ星)

タフの方舟(1 禍つ星)
TUF VOYAGING
ジョージ・R・R・マーティン
1986
 ジョージ・R・R・マーティンといえば、どこかで聞いた名だ。えっと、えっと、そうだ、「ワイルドカード」シリーズだ。あのシリーズのまとめ役でないか。そういえば、「ワイルドカード」シリーズの続編はとうとう出ないままだ。内容上不都合があったのか、それとも、訳者のまとめ役、黒丸さんが亡くなったためなのか…。
 ということで、ハヤカワSF文庫の2005年最新作「タフの方舟」である。釣り書きには、「ジュラシック・パーク」や「ハイペリオン」など、SF映画ファンやSFファンを「おや」と思わせる文言が並べられている。どうやら、帯を書いた編集者も、本書の内容に感化されてしまったようである。
 普通であるならば、私も、短編集を取り上げないことにしているし、まして、もう1冊がすぐに出ることとなっているものを途中で取り上げたりはしないものであるが、せっかく読んでしまったことだし、この独特のキャラクターに気おされて、ついつい文を連ねることになった。おそるべし、タフ。
 内容はいたって簡単。
 食いっぱぐれた星間商人で菜食主義で猫好きのタフさんが、1000年以上前の旧連邦帝国時代、人類が星間異星人間戦争を戦っていたときの兵器である「生物戦争用胚種船<方舟>」号を探す旅の運転手にやとわれ、結果的に彼のものになってしまう(1話)。
 タフさんの時代には、こんな船をつくる技術も失われ、その船に集められた地球を含む多種多様な星の生物の胚、自動遺伝子組み換え技術、クローニング、局所的時間コントロール技術などはもはや存在せず、究極の兵器を手に入れたことになる。
 しかし、1000年も放置された船であり、なおかつ、200人の兵士によって操船されていた宇宙船をひとりで動かすのはなかなか大変。そこで、工学技術の高い星のドッグに寄港して、修理とひとりで操船するためのシステムの変更工事を頼んだところ、その星は、人口爆発で崩壊寸前の状態で、なんとか、タフさんの船を買い取ってそれで戦争をしかけ資源を入手しようとするが、タフさんに売る気はない。しかし、ある解決法が…(2話)。
 6星合同の生物見本市を見に行ったタフさん。そこに5星しか出展していなかったことから、もうひとつの星の窮状を知り、「環境エンジニア」として彼らの危機を助けようとする。その星は海の惑星で、植民して100年を過ぎたあたりから急にとてつもない怪物が海からあらわれ住民は食糧、交通手段を失って島ごとに滅んでいた。なんとか原因をつきとめようとするタフさんだが、的はずれなアドバイスに妨害されながらも見事に解決(3話)。
 こうやって書くと、とてもタフさんはいい人に見える。しかも、宇宙を猫とともにひとりで旅をして、各星の危機を救うなんて…、キャプテン・ハーロックか?
 しかし、まあ、このタフさん、丁寧だけど慇懃無礼、親切だけど、実はあこぎ。 裏表紙の内容釣り文には「宇宙一あこぎな商人」と命名されている。それほどあこぎではないけどなあ、やっぱりあこぎかも。
 結局最後はあんたが一番儲けとるやないか、おっさん。けど、おっさんほんまに猫が好きなんやなあ。そりゃあ、おっさんは心の根っこのところはほんま、ええ人なんかもしれんけどな。やっぱ、あくどいんちゃうか。適正価格いうけどなあ、まあ、適正ゆうたら適正かも知れんけど、きっついこと言いなはるわ。まいった。払います、払いますとも。
 と思わず、大阪弁風に書いてしまいたくなるぐらいのことはある。
 さて、SFだった。
 ここには、遺伝子組み換えやクローニング技術を使った動物、植物、細菌が、兵器として、あるいは、危機を救う道具として登場してくる。こういうので遊ぶところがマーティンの特徴かも知れない。
 再三書いているが、私は今の地球で「おぼつかない」知識をものともせずに行われている遺伝子組み換え技術には深い懸念を持っており、とりわけ開放系で使われている作物や動物には潜在的に恐怖感を抱いている。
 だって、地球はひとつだから。
 人類至上主義を唱えるつもりもない。現在の人類のまま停滞すればいいとも思わない。
 替えのきかない「環境」をおもちゃにして遊ばないで欲しいということだ。
 だから、このタフさんが次々につくりだす過去の生物、あるいは、新たな生物工学的生物について、物語として楽しく読んでいる。タフさんの世界には、それで被害を受ける星と人には申し訳ないが、たくさんの星の替えがあり、生物工学技術とその背景となる生物の遺伝や成長や行動、環境影響についての深い知識があることが前提にあるから、私は楽しく読めるのだ。
 この一見荒唐無稽空前絶後抱腹絶倒な小説に比べて、今の現実の方がよっぽど荒唐無稽空前絶後抱腹絶倒な状態である。手探りといきあたりばったりで環境中に生物工学の産物を開放するなんて…。
 だから、私は、本書を読んで笑う。楽しむ。そして、うらやましがる。
 とにかく、別に遺伝子組み換え技術に思うところがあろうとなかろうと構わないから、読んで、楽しめること請け合い。
 タフさんなんていう、いそうで、いなさそうで、やっぱりいるかも、いやあ、こんなのいるわけないと思えるキャラクターはめったにお目にかかれない。
 おすすめ。
(2005.4.29)

われら顔を選ぶとき

われら顔を選ぶとき
TODAY WE CHOOSE FACES
ロジャー・ゼラズニイ
1973
 本書は盟友「電気羊使い フィリップ・K・ディック」に捧げられている。ディックの初期の長編は、わかりやすそうなSF的小間物(テレパシーとか、宇宙船とか、火星とか、タイムトラベルとか)で、わかりやすそうな感じの話なのだが、実は、読者も、あるいは、ディック自身も裏切って、論理的な破綻を引き換えに、その小説に関わる者が「自己とは」「存在とは」「現実とは」という、疑う必要のないことを疑いはじめるようにしむけていく。当然、小説の主人公たちもそれを疑うことになり、悲惨な目に遭いながら、なんとか小説の主人公や登場人物としてふるまうのである。
 その小説の中の登場人物と世界に、読み手である読者は自らの存在や現実までが引き込まれ、解体されるような気持ちになってしまうのだ。
 一方、本書の作者であるロジャー・ゼラズニイは、まったく違う。彼は、きわめて冷静に、数学的に、あるいは、きわめて計算された文学的に小説を書き、読者に提示する。
 だから、よく分からないままに小説世界には入り、読み終わり、一巡して、頭に戻り、そうして、ようやくタイトルの意味に気がつき、その小説世界の混沌と論理にはたと気がつくのである。
 だから、読者は解体され、破壊され、再構築される必要を感じない。
 まあ、たいていのSFはそうである。
 ディックの方が特殊なのだ。
 では、どうしてゼラズニイに対してだけこういうことを書いているかというと、本書の3年後にディックとゼラズニイは共著でSF「怒りの神」(サンリオSF文庫)を発表している。このサンリオ版の解説を読むと、ディックが「怒りの神」を書き始めていたが、神学の知識の不足を感じて、1968年にゼラズニイと会い、協力を依頼、以後、ふたりで交互に書き、12年をかけている作品である。
 ちょうど、本書は、「怒りの神」が完成に向かいつつあり、なおかつ、ディックが、彼の後期である神学的体験を小説化しはじめた頃の作品なのである。しかも、ディックに捧げられている。
 であれば、ゼラズニイは、他のすべてのSF作家の中でもっともディックに近い者として、ディックとの本質的な違いを語られることはいたしかたない。
 もちろん、ゼラズニイは、作品中で「不死」「死と転生」「人類の成長と、外部的要因(上位にある異星人等の存在)との対決」「善と悪の対置」をテーマとして選び、提示することが多い。本書もまた、これらのテーマを料理した作品であり、完成度が高く、それゆえに、読みにくい作品でもある。手元にある本書の文庫初版、昭和60年(1985年)の帯には「傑作アクションSF! 未来を賭した死闘!」とある。嘘ではないが、そんなにドラマ性は高くない。とにかく、全部読んで、もう一回振り返って、なるほど、こういう作品だったか、と膝を打つような作品である。80年代だからこそ翻訳された作品という言い方もできる。この頃は、ディックの作品も次々と邦訳されていたのだ。
 ストーリーを振り返ると、
 1970年代、ファミリーのボスであり殺し屋だった男は、コールドスリープによって未来に再生した。宇宙時代を迎え、ファミリーは合法的な大企業グループに成長していたのだ。しかし、そこでも彼が目覚めさせられたのは、彼の能力を買ってのこと。他の惑星にいるライバル企業の代表者が邪魔だったからだ。ライバル企業の代表者は、違法な方法で自らを機械と連結させ、その高い能力でファミリーの事業を妨害していた。
 男は、敵を叩くために、その惑星に出向く。
 しかし、その間に、地球は戦争となり、人類はいくつかの惑星系にいる者たちをのぞいてほぼ壊滅状態になってしまった。
 さらに未来。人類は、閉鎖された広大な「家」の中に閉じこもり、勢力を拡張することも、星を追い求めることもなく、安穏と生きていた。死ぬと精神を「ファミリー」に転移することで不死的な存在となった一族が、その人類を見守り、再び競い合い、お互いを滅ぼすことのないように注意深く見つめていた。
 だが、その「ファミリー」がひとり、またひとりと殺されていく。
 「敵」のねらいは? 「敵」の存在意義は?
 といったところか。
 人類は、誤解や間違いを起こし、戦争や破滅的な行為をするかもしれないが、誰かに管理されたり、牙を抜かれて競争や進取の精神を失うようでは人類とは言えない。星へ、未来へ、生へと突き動かされたように生きることで、人類は種として広がり、成長するのだ、という、すべてのSFが前提として持っているようなことを、ゼラズニイは本書で、意識して再構築し、読者に提示しているのだ。
 そういう意味では、SFのひとつの形として、本書はうまくまとまった1冊かも知れない。
PS 翻訳者は故・黒丸尚さん。お得意の漢字の横にカタカナでルビがあふれていて、とてもすてき。英語文化圏背景がないと読みにくい小説をできるだけ読みやすくしようとしている故・黒丸さんの翻訳文の一作品である。
(2005.4.27)

燃えつきた橋

燃えつきた橋
BRIDGE OF ASHES
ロジャー・ゼラズニイ
1976
 日米の1970年代後半は、「公害」の時代であった。急速に進む工業化と自然破壊はスモッグ、公害病など工業の環境破壊が目に見える形で展開していた。すでに1962年にはレイチェル・カーソンが「沈黙の春」で化学物質の無制限な放出による危機を訴えている。日本でも、1971年にゴジラはヘドラとの戦いを通して公害のひどさを訴え、1974年に有吉佐和子が「複合汚染」の新聞連載を開始した。
 21世紀初頭の今日は「環境」の時代である。「公害」の言葉は影をひそめ、「持続可能性」が言われる時代になった。しかし、今も化学物質の大量放出は行われ、工業をふくめたすべての人間活動で自然環境の破壊は進んでいる。
 1970年代、「公害」が目に見えた時代に、SF作家のゼラズニイが人類と地球への希望を込めて描いたのが本書「燃えつきた橋」である。
 地球人類は、異星人の影響を受けながら進化してきた。異星人は、遠大な計画をもって地球を高度な工業化によって亜硫酸ガスに汚染された星に変えようとしていたのだ。彼らは、数が少なく、自ら地球環境を変える力を持たないが、彼らは亜硫酸ガスに満ちた大気のある星を欲していた。そのためには、知的生命体を育て、彼らが工業化して自らの大気を汚し、自らも滅んでくれればよい。時に、人類の進化に手を加えながら、彼らの計画は着々と進行し、20世紀を経て21世紀には成功の道筋が見えたかのようであった。
 一方、「敵」がいることに気がついていた人間もいた。ゼラズニイお得意の「不死」の男と女である。彼は、人類創生期から、「敵」に気がつき、「敵」と戦い続けてきた。彼の存在理由はただひとつ、人類と地球を「敵」から開放すること。そのためには、人類は20世紀のような存在から進化しなければならない。
 今回のSFのガジェットとして取り上げられたのは、1968年の「ネイチャー」誌に掲載され、生物学に大きな衝撃を与えた木村資生氏の進化の「中立説」である。自然淘汰ではなく、変異そのものは分子レベルで無目的に起こり、それが定着するかどうかはきわめて偶然的なものであるとの考え方で、決定論を完全に否定するものであった。
 そして、この中立説の申し子であるテレパシー能力を持つ者が登場する。ふたりのテレパシー能力者の間に生まれた子どもは、その潜在能力の高さから生まれたときから周囲の集団の意識にさらされてしまい、自我を確立できないままに肉体のみが成長を続けていた。時折、他者の断片的知覚と思考、自我を拾うだけで、まったくの植物人間状態と言ってもよい状態であった。
 彼の自我を確立させ、目覚めさせようと試みるテレパシー能力を持った療法士。その治療の効果なのか、ある日、彼はひとりの男の自我を自分のものとしてしまう。
 それは、自然保護テロリスト集団「チルドレン・オブ・アース」の狙撃者の精神だった。
 ダムを破壊し、原子力発電所を破壊する彼らと共感してしまう少年。しかし、その共感が切れると、彼はまた、植物人間に戻ってしまう。
 幾人かの人間たちと合一してしまう彼に、ついに、療法士は彼を月に送ることにした。
 月ほどに距離が離れていれば、簡単な合一は起こらないであろう。
 しかし、彼は、その予想を超えた合一を起こし、ついには自我を確立するにいたったのだ。彼の存在と、「不死」の男の存在が、地球の希望となる。
 ゼラズニイは、自然保護テロリストの言葉を借りて、語る。
「田園を支持することは、即、都会を拒否することじゃない。いっさいを投げ捨てて、時計の針を逆もどりさせることはできない相談なのさ。おれたちがダムを爆破したり、公害発生源の息の根を止めたりしているときでも、世のなかのあらゆる科学技術を放棄せよと主張しているわけじゃない。ただその性質に関してもうちょっと賢明であれと言っているだけ、できればそれに代わるべきものを研究史、開発せよとうながしているだけなんだ」(225ページ)
 人類が変化し、進化し、発展するのは、息をすることと同じこと。それは、生命としての本能なのだ。しかし、その背景にある自然、田園を支持することは、変化、進化、発展と反することではないはずだ。それを尊重し、慈しみながら変化できることが、人類の希望であり、力ではないか。そう、ゼラズニイは語りかける。
 中立説にあるとおり、未来は、人類の変化、進化は決定論的なものではない。今のこの公害に滅びを予感し、絶望する必要はない。
 アルキメデス、ルソー、ダ・ヴィンチなど、古くからの思索者の声を借りながら、「敵」である異星人と、人類自らのくびきを逃れようと、最後の戦いが今、はじまる。
 それにしても、ゼラズニイの著作には癖がある。
 西洋の宗教的思想が背景にあるため、どうしても読みづらいのだ。
 本書「燃えつきた橋」を購入し、読んでから20年余、ようやく、本書がSF作品であることに気がついた。
 さっぱりストーリーとして理解できなかったのだ。高校生の頃の私には。それは、高校生という若さと、80年代初頭という、あまりに本書「燃えつきた橋」が書かれた70年代後半に近い時代のせいだったのかも知れない。
(2005.4.24)

わが名はコンラッド

わが名はコンラッド
THIS IMMORTAL
ロジャー・ゼラズニイ
1966
 原題は、「この不死なるもの」か「ここにおわす神々」って感じかな。中編では「わが名はコンラッド」のままである。
 これも高校生の時に買っている。表紙は角田純男さんので海岸にオリーブの輪をかぶったはだかの子どもが4人にて、海に巨大な透明の球が浮かんでいる、全体に青いイメージだ。
 地球は最終核戦争「三日戦争」によって壊滅してしまった。現在地球には400万人程度しか生存しておらず、突然変異によってまるで神話世界のような様々な形態の人間、一部の動物が暮らしていた。
 三日戦争以前、人類は、宇宙に進出していたが、三日戦争によってすべての植民地で人類は生存の危機に立たされた。それを救ったのが、異星人ベガ人たちである。彼らは植民地や地球の生命を救い、地球外の人類には生活の場所を提供した。これまでもベガ人はさまざまな異星人たちを吸収してきたのだ。
 しかし、地球では200年以上に渡ってベガ人の介入を拒み、地球外の人類に帰還を呼びかける帰還主義者たちがいた。彼らは、人類が人類のまま地球で暮らすことを求めたのだ。
 ここに、ひとりのベガ人が本を書くために地球の各地を回るという名目で地球に降り立った。案内役に選ばれたのは、突然変異により事実上の不死となったコンラッドである。彼は、名前を変えながら様々な生を過ごし、現在では地球美術遺蹟史料保存局局長の職にあった。彼は醜く、力強く、そして、天才であった。
 ベガ人の案内として選ばれたコンラッドのほか、案内役やボディーガードとしてかつてコンラッドがよく知っていた帰還主義者や暗殺者、生物学者、妻や愛人が同行することとなった。
 ベガ人の真の目的は本当にただ本を書くためだけなのか、それとも噂されているベガ人が地球を買収するための下調べなのか、それとも別の目的があるのか?
 荒廃し、異様な生物や社会を旅しながら、それぞれの思惑が展開する。
 そして、旅の過程を通して、コンラッドの人と歴史が少しずつ明らかになっていく。
 たぶん、高校生の頃、おもしろくなかったのだろうなあ。ちょうど、日本ではニュー・ウェーブSFが盛んに紹介され、出そろったころである。ニュー・ウェーブってちょっくら小難しいんだ。たんなる冒険がなんか人生や精神、人間のありようを比喩的に、暗喩的に描いていることになっているから、小難しいんだ。それがおもしろいところでもあるんだが、背伸びをしたがる小難しいことを言いたがる若造には、かえってその小難しさの後ろにある単純なおもしろさがつかめなかったりするんだろう。
 今、素直に「わが名はコンラッド」を読んだら、素直におもしろかった。
 そういう小難しさを忘れて、ただ、ストーリーを追いかける。
 ああ、書き方/読み方によっては、「わが名はコンラッド」はハードボイルド作品だ。ただ、ハードボイルドの主人公が貧乏な私立探偵ではなくて「地球美術遺蹟史料保存局局長」なんていう地球の要職にあるから惑わされるだけなんだ。
 そう思って読むと、本書「わが名はコンラッド」はおもしろい作品だ。
 ところで、以下はネタ晴らしです。え、目にはいるって?
 すいません。どうしても言いたい。
 テーマは、星を継ぐもの! だ。
 ネタ、ばれてないってか。
 ヒューゴー賞受賞!(ニュー・ウェーブの時代だ)
(2005.4.20)

アグレッサー・シックス

アグレッサー・シックス
AGGRESSOR SIX
ウィル・マッカーシイ
1994
「バベル-17」(サミュエル・R・ディレーニイ)を再読して、本書に臨む。なぜかといえば、解説に「宇宙の戦士」(ロバート・A・ハインライン)、「エンダーのゲーム」「死者の代弁者」(オースン・スコット・カード)の世界に通じ、本書の後半では「バベル-17」を彷彿とさせるとあったからである。他の3冊はすでに再読していたが、「バベル-17」は本書のために読み直したようなものだ。
 それはさておき、宇宙戦争である。西暦でいうところの3380年のことだ。人類は、光速に制限されない即時通信システム「アンシブル」を使ったいくつもの星系での人類社会ネットワークを築きつつあった。しかし、植民地時代、長期の帝政を経て、人類の経済社会は衰退を迎え新たな開発意欲さえ失われつつあった。
 そこに、人類世界を圧倒的な武力で攻撃するウエスターが植民地星系を襲いはじめた。彼らは太陽系星系にまさに迫ろうとしている。降伏も、抵抗も意味をなさず、コミュニケーションすらとれない。ただ、彼らが人類社会を破壊し尽くそうとしていることだけは間違いない。
 人類社会は通常の社会生活をすべて停止し、絶望を持ってただひたすら戦い、人類がどこかの星系でいつか生きのびることだけを願って最後の戦いに挑もうとしていた。
 その戦いのひとつの試みとして結成されたのが、アグレッサー・シックス、すなわち敵情調査班6である。6とは、6つの生命体のこと。わずかにとらえることができたウエスターから得られたのは、ウエスターがひとりのクイーン、ひとりのドッグ(メスの小型の生命体)、ワーカー2人(オス)、ドローン2人(オス)を1セットとして成り立っていることであった。彼らの言語を解析し、彼らの見え方、考え方を通して、彼らの行動原理をつかみ、降伏による攻撃中止か、彼らを攻撃するための有効な手段を考えるため、アグレッサー・シックスが結成された。
 軍内部の硬直したシステムに悩まされるメンバー、ドローンのひとりになったケネス・ジョンソン海兵隊伍長はもっともウエスターの精神になりきり、そして、同時に精神を病んでいた。はたして、ジョンソンの思考は、ウエスターをなぞっているのか、それとも、先に敵戦艦に特攻的に乗り込み激しい戦闘を体験したことから生まれた精神異常による妄想なのか?
 絶望的な状況下で、追い込まれた人々が、あがきつづける。いったい、何が真実で、誰を信じればいいのか? その前に人類は絶滅させられるのか?
 90年代のSFである。
「バベル-17」は、60年代、70年代のニュー・ウェーブSFの申し子のような作品であった。テーマをはっきりさせ、そのテーマを陰に陽に浮きだたせながら物語をすすめ、読者にたとえそれが荒唐無稽であっても新たなパラダイムを提示する。そんな力を持っていた。
 それに対して、本書は、90年代である。もう、みんな驚くことがなくなってしまったのだ。パラダイムは提示されるものではなく、好き勝手に選び取るものとなり、コミュニケーションが頻繁になるとともに言葉は互いに通じなくなっていくという言語と関係の解体がすすむなか、物語の力が復興するための力を発揮するには至っていない頃である。
 ぶっちゃけて言えば、軽く、気持ちよく、読んでおきなよ、だ。
 設定はきちんとしている。難しく読むことだってできる。いろんなSFの影を感じる。
 SFファンには楽しい作品だ。悪くない。SFのおもしろさを、純粋に楽しめるのが90年代SFのよさである。近年のハリウッドSF作品にも通じる軽さが心地よい。
 メモ:本書でも出てくるアンシブルは、光速の制限をもつSFに使われることが多い。なんらかの手段で、情報の双方向通信だけは光速の制限を超えるため、情報だけは遠くの星系間でやりとりすることができる。ただし、たいていの場合、両方に送受信装置を設置する必要があり、たとえば、20光年離れたところにアンシブルを設置するためには、機械なり人間なりが20光年物理的に(光速の制限を受けながら)旅をしなければならない。
 アンシブルを開発したのは、アーシュラ・K・ル・グインである。すでに多くの作者に使われ、即時通信システムの代名詞ともなっている。
(2005.04.20)