宇宙からの訪問者

宇宙からの訪問者
THE VISITORS
クリフォード・D・シマック
1980
 スタニスワフ・レムは「ソラリスの陽のもとに」などの作品群で、知性は持つものの人類とは意思疎通ができない異星生命体を描いた。人類はわざわざ異星に行き、そこで、自分たちには理解できないものに出会うのだ。
 本書でシマックは、地球にやってきた人類とは意思の疎通が難しい異星生命体を描き、かれらを前にした人類の様子をシマック流に書き記す。
 黒い巨大な物体が空から降りてくる。重力をコントロールする力を持ち、明らかに「生きて」いる。木を「食べ」、セルロースのかたまりを「出し」、小さな子を「産み」、生まれた子はセルロースの固まりを食べて「成長」する。
 彼らは敵なのか、味方なのか、役に立つのか、迷惑なのか? すべては接する人のありようにまかされる。
 彼らは、彼らでしかない。あまりにも異質なのだ。
「火星人ゴーホーム」でフレドリック・ブラウンは、ブラックユーモアあふれる人型をした理解可能なようにみえて、まったく理解不可能な存在を描いた。
 本書に出てくる訪問者は、ソラリスの海のようでもあり、ブラウンの火星人のようでもある。
 状況としては、ブラウンの方に近いのだろう。小松左京の「物体O」などにも似ている。「ソラリス」の場合は、わざわざそこに出かけて研究しているのだが、ブラウンの火星人も、本書の訪問者も、向こうから来て、一般の人たちに影響を与えているのだから。
 シマックは、この訪問者を迎えた人類、とりわけ当事者となったアメリカ社会が、ふつうの人々は日常を送りながらも、経済は大混乱に陥り、政治家が動揺する様を描く。
 そして、最後の数ページで、彼らからの贈り物と、その可能性について読者に投げかけて幕を閉じる。
 彼らは地球にとどまるのだ。そして、人類は彼らと共存するしかないのだ。
 それは、何を私たちにもたらすだろう。
 異質で、圧倒的な力を持ち、しかも、それを力とは思っていない存在。
 コミュニケーションを交わせない力。
 それを前にして、私たちの社会は、そのままであり得るだろうか?
 シマックは、アメリカ原住民とアメリカの「訪問者」であった西洋人との関係を何度も繰り返すことによって、アメリカ社会のありようを問いかける。
 牧歌的と言われるシマックだが、決して「優しい」だけの作者ではない。
(2005.3.16)

夏への扉

夏への扉
THE DOOR INTO SUMMER
ロバート・A・ハインライン
1957
 本書「夏への扉」は、タイムトラベルものの名著であり、SF古典として必読の書の一冊である。
 ストーリーをおぼろげにしか覚えていなくても、猫の護民官ピートのことは頭の片隅にこびりついているものだ。
 冷凍睡眠とタイムトラベルを組み合わせ、時間を超えた冒険と恋愛を描く。
 内容については、読んで欲しい。何も付け加えることはない。
 ハインラインの好き嫌いはあろうし、時代とハインラインの性格が生んだ男性、女性のステレオタイプ的な表現方法には辟易するところもあるが、ストーリーの軽妙さは今読んでもうならされる。さすが巨匠なのだ。
 さて、舞台は1970年と2000年。1957年頃に見た、ハインラインの10年後、40年後の未来世界である。
 1970年、コミュニズムは没落し、世界的経済恐慌を乗り越え、人工衛星が打ち上げられ、すべての動力源が原子力に変わった社会。冷凍睡眠は、生命保険会社の収益のひとつとなっている。全財産を長期にわたって顧客の心変わりなしに管理できるのだし、顧客に万が一のことがあれば、その財産の一部を手にすることもできる。いいことずくめの契約なのだ。
 主人公が開発したのは、文化女中器(ハイヤード・ガール)。家事を自動化する知性のない、メモリーだけはたっぷり入ったロボットに近い存在。究極の目的は家庭内の仕事という仕事はなんでもできるようになる「機械」を開発したいと思っている。
 主人公が思いつくのは、電気タイプライターの要領で操作する製図器。まあ、マウスとキーボードで操作する製図専用コンピュータみたいなものか。
 2000年、異例の暖冬異変。月には定期便が飛び、静止宇宙ステーションが軌道にいる。ジャイアンツは健在で、新聞は多色刷り。肉もあるが、イーストをベーコンのように加工しても食べられる。イギリスはカナダの1州で、インドとパキスタンはあいかわらず紛争中で、アジアは大共和国になっている。1987年に経済大恐慌が起こり、金本位制が崩れ、金は貴金属としての価値を失っていた。重力制御法が実用化されており、まだまだ発展している。主人公が開発した文化女中器は立派に進歩していたし、彼が思いついた自動製図器もあちこちで活用されていた。服装は、スティックタイト繊維により身体に密着したものとなる。
 でも、コンピュータはない。だから、主人公は、自動秘書機(オートマチック・セクレタリ)を思いつく。文書補助機能付きワープロに住所録、事務手続き補助、コピー機能がついたようなものだ。
 もっともっと、1950年代に見た未来が描かれている。
 なるほど、と思うところもあれば、なんとまあと思うところもある、2005年、作者が夢見てからほぼ50年後の未来での読み方だ。
 本書をはじめて手に取ったのは、文庫化された1979年から過ぎること1年。1980年のことであった。高校1年生である。純情な田舎育ちの少年は、時を超える不思議な恋愛に胸をときめかしたものだが、よく考えてみると、恋愛に関してはほとんど主人好の思いこみでできている作品である。これを冷凍睡眠やタイムトラベルのない現実世界でやったら、ただの変態かストーカーだ。やれやれ。
 そんな少年も、遠い2000年を漠然と夢見ていたが、コンピュータを自宅で数台稼働させ、コンピュータとネットワークを使って情報を集め、整理し、文章を書き、それをもって仕事としているなんてことは想像もしなかった。
 そして、個人的には電気釜を捨て、土鍋でご飯を炊き、伝統的な食材を集め、料理をすることになろうとも思っていなかった。
 未来は予測のつかないもので、書かれていることを言葉通りにとれば、まったく未来予測ははずれているのだ。
 そうであっても、本書の価値が減じるわけではない。なぜならば、護民官ピート氏の猫としての生き方に、SF者はみな心を打たれるだろうから。  そうそう、忘れるところであった。本書の邦題「夏への扉」は、原題の直訳である。このタイトルの美しさ。ハインラインは「地球の緑の丘」など、そのタイトルの美しさにも定評がある。だまされちゃんだよなあ。タイトルに。そして、タイトルを裏切らないんだよなあ。このタイトル、はたしてハインラインが付けたのだろうか?それとも編集者がつけたのだろうか。いずれであってもタイトルって大切だ。
(2005.3.14)

大魔王作戦

大魔王作戦
OPERATION CHAOS
ポール・アンダースン
1971
 もし、魔法が科学として解明され、準自然力に基づくものとして科学的技術的に用いられるようになったら。もし、天国や地獄などの存在とありようについて科学的に研究されたら。もし、人狼などの存在が科学的に解明され、彼らが特殊能力を持った人間として遇されるようになったら。
 その世界の戦争はどうなるのだろう。その世界の移動のための道具は内燃機関の自動車ではなく、箒や絨毯になるのだろうか。
 まだ未完の「ハリー・ポッター」シリーズでは、魔法は魔法のままであり、現実社会は現実社会のままで、魔法使いは同じ世界に住みながらも、世界を現実とはへだてて生きている。しかし、現実社会の変化には対応しなければならず、主人公は、現実社会と魔法社会の行き来を繰り返している。ハリー・ポッターの魔法世界は、純粋な魔法使い、魔法能力をもたない人間の中から生まれた魔法使い、人間や人間ではない存在との間に生まれた魔法使い、魔法能力を持っていない魔法使い生まれ、そして、魔法社会の存在を伝えてはならない人間があり、繰り返し否定されながらも、その能力と生まれのふたつにより階層化されている。民主主義化された階級社会を戯画化しているかのようだ。
 一方、1970年代の幕開けにアメリカで書かれた本書では、魔法はひとつの技能であり、才能である。元々才能を持つ者は、その才を活かすもよし、活かさなくてもかまわない。才能や勝ち得た技能を使う者がいれば、はなから魔法を「使わない」ことを宗教的、信念的に選ぶことだって可能だ。
 魔法という技能は、武器にもなれば、平和利用も可能。生活にも使えるが、商品ともなりうる。技能を持つものは、その活かし方によって尊敬されることもあり、また、この社会で技能を使わずして地位を得るものもいる。ただ、やはり、技能を持つ者は、持つ故のおごりもある。しかし、それは他のスポーツや芸術などの技能についても同様なところがあろう。
「ハリー・ポッター」の中でのハリーは、ヒーローであると同時にアンチヒーローである。何より、「子どもの成長」がテーマになっている故に成長期の醜さは見事に表現されている。
 一方、本書に出てくる「ぼく」こと人狼のスティーブン・マチュチェックと、その恋人であり後の妻である魔女のヴァージニア・グレイロックは、大人であり、ヒーローである。ヒーローは、危機を乗り越えなければならない。最後は勝たなければならない。でも、主人公、ヒーローである限り、最後は勝つに違いない。それを安心の材料に、明るく読み進めることができる。
 悩みがあっても、読者が暗くなることはない。
 それが、ポール・アンダースンの力量である。
「ハリー・ポッター」には、その魔法世界があり、本書には本書の魔法世界がある。しかし、ハリー・ポッターはSFではなく、本書はSFだと思う。
 魔法にもルールはあるが、魔法のルールだけではなく、魔法の背景に自然的、科学的な理由付けを「あるかのごとく」表現すれば、それはSFなのだ。
 魔法をSFすると、本書のようになるか、ナノテクを使ったり、ヴァーチャルリアリティを使うことになる。
 もちろん、SFでないから、ハリー・ポッターをはじめとするファンタジーが劣っていたり、おもしろくないことはない。どちらも楽しいではないか。
 魔法好きの方には一度読んでいただきたい。
 こういう小道具系で言えば、アン・マキャフィリィの「パーンの竜騎士」シリーズなども、竜はどうして火を噴くのか、なかなかおもしろい設定をしている。
 本書の作者、ポール・アンダースンは、SFを使って遊ぶことができる作者である。そして、猫などの小動物が大好きだ。だから、彼らが必ず活躍する。小動物好きにはたまらない作者でもある。魔法SFと小動物は、これまた相性がいいのだ。
(2005.3.9)

ゲイトウエイ4 ヒーチー年代記

ゲイトウエイ4 ヒーチー年代記
THE ANNALES OF THE HEECHEE
フレデリック・ポール
1987
 えええええ。
 ゲイトウエイ4。ゲイトウエイシリーズもいよいよ幕を閉じる。起承転結の結である。主人公ロビネット・ブロードヘッドは、機械貯蔵の知性として存在することに慣れ、その生活を楽しんでいるかと言えば、そんなことはなく、生身の頃のブロードヘッドと同様に、自分の罪悪感をすべてに拡張して、純粋なプログラムのアルバート・アインシュタインと終わりなき議論を続けるのであった。そして、宇宙の成り立ち、宇宙の謎について、アルバート・アインシュタインの仮説を聞き続ける。
 彼らは拡張された時間を持つ。生身のリアルタイムに比べれば、そのミリセコンド、ミリセコンドは十分に考え、行動を起こすに必要な時間となる。生身の存在との会話は長い時間の無駄であり、代理人格「ドッペル」にその役割を果たさせながら、また別のことをする。ドッペルを呼び戻すもよし、そのまま存在させるもよし、消すもよし。まあ、複数の自分がいると面倒なので、そのまま存在させることはない。
 ということで、仮想人格、機械知性、バーチャルリアリティ空間、拡張された人生といった、現代SFのひとつのジャンルがまるごと本書に込められる。
 もちろん、ヒーチーと人類にとっての「敵」は健在だ。宇宙のありようを変え、すべての物質的生命を破壊し続ける、純粋なエネルギー知性対である「敵」を前にして、ヒーチーと人類は手を携え、「敵」を監視し、「敵」がふたたび、出現するときに備えている。
 しかし、しかし。なんということだろう。
「敵」は、地球にいたのだ。ヒーチーと人間の子どもが、はからずも「敵」のスパイの役目を担ってしまった。
 どうやって「敵」は彼らをスパイに仕立てたのか? そもそも「敵」は何を考えているのか? 何を狙っているのか? ヒーチーと人類は敵にとっての「敵」なのか?
 本書のテーマは、仮想人格、機械知性の究極とは何か? ということである。
 知性は、生身と仮想人格では異なるのか? 生身の生を機械に移植した仮想人格と、人格があるようにプログラムされた機械知性は、本質的に違うのか? エネルギー生命体の「敵」と、仮想人格とは異なるのか?
 データとして、プログラムとして、存在することの意味とは?
 バーチャルリアリティをテーマにした作品は数多くあれど、その生の意味をつきつめた作品はそれほど多くない。
 そして、そこにフレデリック・ポールは神性を見る。
 ああ、神である。
 ついに、神である。
 もちろん、「敵」は神ではない。
 神がでちゃうとなあ。シリーズは終わるしかないよなあ。
 本シリーズは、書かれた当時での最新の宇宙論、ブラックホール理論などを楽しく、わかりやすく解説してくれる。シリーズの前半は、その舞台となったブラックホールについて多く語られ、後半は、宇宙の成り立ちや存在について、ひも宇宙論を使って教えてくれる。現在、ひも宇宙論では宇宙が11次元であろうとされているが、この当時には9次元と考えられていたので、9次元の宇宙論が語られるが、それでも宇宙論としてはとても参考になるので、一読の価値がある。
 宇宙論と仮想空間、仮想知性の出会いが、本書のSFとしてのおもしろさであり、それを、宇宙論やバーチャルリアリティなどについて興味や関心がなくても読ませてしまうところに、作者の力量がある。
 そして、いきついたところは、神性であった。
「神はサイコロを振らない」というのは、本物のアルバート・アインシュタインの言葉。
 本シリーズの2刊以降は、プログラム・アインシュタインとブロードヘッドの対話が中心を占めるが、本物のアインシュタイン同様に、このプログラム・アインシュタインもまた、本物のアインシュタインと同化するために「神」を追い続けていたのかも知れない。
(2005.2.27)

ゲイトウエイ3 ヒーチー・ランデヴー

ゲイトウエイ3 ヒーチー・ランデヴー
HEECHEE RENDEZVOUS
フレデリック・ポール
1984
 ようやく異星人、先進文明、ヒーチーの登場。物語は急展開を見せ、る、はずだが、そこはそれ、ゲイトウエイシリーズである。
 議論ばっかりやっていて物事を前に進めるのが苦手な「自分は罪悪感をもっているんだぞ」ロビネット・ブロードヘッド氏も、いよいよ人生の佳境。
「ゲイトウエイ」では、若きブロードヘッドのひとりごとと、コンピュータ精神医との対話で、華々しき物語が繰り広げられた。
「ゲイトウエイ2」では、プログラム・シミュレーション人格のアルバート・アインシュタインと中年ブロードヘッドのくりごとを聞いているうちに、ヒーチーの存在にまでたどり着くのであった。
 そして、今回の語り手もまた、ブロードヘッドである。ただのブロードヘッドではない。死んだブロードヘッドである。そう。未読の方には申し訳ない。今回、ブロードヘッドは死ぬのである。その死はドラマティックでもなんでもない。
 ただ、移植した臓器の不全で死ぬのだ。
 せっかく、「ゲイトウエイ」で凄絶な別れをして、物語のほぼすべて、彼の罪悪感のほぼすべてであったクララと再会することができたのに、死んでしまう。
 あーあ。
 そこで出てくるのが、「2」で不完全なままに仮想化されたデッドメンのその後である。そう。伏線は明示されていた。
 ブロードヘッドは、コンピュータのバーチャルリアリティ空間に再生される。いや、転生する。
 物語は、彼の広範囲な視点、仮想化されたブロードヘッドが過去を振り返りながら現在を語るというややこしい語り口で語られる。
 そして、語るブロードヘッドを第三者として語るのが、ちょっと進化した人工知能の仮想人格アルバート・アインシュタインである。彼は、ブロードヘッドに語られながら語るのである。
 ゲイトウエイシリーズのおもしろさは、語り口、語り手そのものが「SFとして当たり前の存在」であることだ。プログラム精神医との対話、人口爆発で行き詰まり、異星文明との接触によって急速に変化しつつある中に生まれた普通の人間の視点、仮想人格をまとった人工知能、仮想化された人格など、「ふつうの語り手」ではなく、「SFならではの話者」であることで、物語に重層性を生む。それを意識的に毎回変化させていくことで、ゲイトウエイシリーズは、そのベースとなる物語を超えて新たな世界を生み出すことになる。
 それぞれの、SFとしての筋立てやガジェットがおもしろいか、奇抜かというと、そうでもない。SFが好きな人にはなじみのある流れであり小物である。それを物語としておもしろがらせてくれるのが、フレデリック・ポールのすごさだろう。これは編集者としてのすごさと共通するのだろうか。
「ゲイトウエイ2」以降の評価についてはいろいろ分かれているようだが、すなおに楽しめるSFであることは間違いない。長編シリーズ物としては例のないほど「うっとうしい」大金持ちブロードヘッドの魅力は、なかなか言葉で説明しがたいものがある。
 まあ、遠くで見ていて魅力のある人物も、近くによると、どうにもこうにもということは、現実の世界でもよくあることだ。
(2005.2.25)

ゲイトウエイ2 蒼き事象の水平線の彼方

ゲイトウエイ2 蒼き事象の水平線の彼方
BEYOND THE BLUE EVENT HORIZON
フレデリック・ポール
1980
 悩める青年ロビネット・ブロードヘッドは、いまや地球の大金持ちの中年男である。美人でコンピュータプログラミングの天才科学者を妻に持ち、彼女が生みだした科学アシスタントプログラムのアルバート・アインシュタインと、いまだ不在の異星人ヒーチーの謎やブラックホールをはじめ、宇宙の成り立ちについて終わりなき議論を続けている。
 かつてのヒーチー船による旅は、その後の調査で、より安全性が高まってきたが、いまだにヒーチーの遺体はおろか、その詳しい情報がまったく得られていなかったのだ。
 一方の宇宙。彗星の巣・オールト雲で発見されたヒーチーのCHON食料工場の探査に選ばれた1家族4人が、遅い地球の船で3年半の旅を続けてきた。地球の食糧難を解決するために、彼らは往復8年の旅を選んだのだ。もちろん、成功すれば彼らには計り知れない富が約束される。
 一方の地球。人間をはじめ、少しでも知性や理性のある生命体は過去10年に渡って130日症候群に悩まされていた。およそ130日に一度、人間は突然すべての人類が同時に悪夢と狂気に襲われ、その衝動ゆえに経済活動が止まり、さまざまな事故が発生し、人命と経済を失ってきた。その原因は分からない。
 一方の食料工場。ウワンと呼ばれる少年が、食料工場と巨大なヒーチー船との間を行き来しながらひとりだけで生きていた。彼は人間であり、情報体となったデッド・メン(死者)とオールド・ワンズ(古代人)との間で生きのびてきたのだ。なぜ、彼はそこにいるのか? 彼は何者なのか? デッド・メンとは? オールド・ワンズとは?
 あいかわらずの主人公ブロードヘッドは、130日症候群による経済損失への復旧に追われ、いたるところで起こる訴訟に悩まされ、妻が事故に巻き込まれて瀕死の状態になったことで動揺し、探査船から来る間欠的な情報、しかも光速でも50日かかるのだ! に一喜一憂し、できることと、やるべきことと、やりたいことの間で、またも、悩みながら、ヒーチーの不在と絶望する人類の行く末をおもいやるのだった。
 基本的には前作の謎解きの一部であるが、本書でもまだ異星人ヒーチーは出てこない。
 ただ、もしかしたらヒーチーがやろうとしているかも知れないこと、ヒーチーがいるかも知れないところ、そして、その目的について、本書は70年代のホーキング理論を提示しながら大胆に予測する。
 まあ、予測すると言っても、作者が自らの作品の予測をしているわけだから、続編にはその答えが出てくるわけだが、本書は、前作の謎のいくつかを解決するとともに、より大きな謎をいくつか生みだして、読者を放り投げる。
 さあ、次を読め! ということだ。
 ところで、アルバート・アインシュタイン・プログラムを構成しているのは、約600億ギガビットの情報だそうです。600億ギガビット! やるねえ。1980年代に、これくらいのことをふくらませるあたりが、老練なSF作家フレデリック・ポールの真骨頂である。
 SFなんだから、未来なんだから、ヒーチー技術を援用しているのだから、これくらい大きくいかないとね。同時期のSFに出てくるコンピュータに比べて、なんと立派な数字でしょう。まいった!
(2005.2.19)

ゲイトウエイ

ゲイトウエイ
GATEWAY
フレデリック・ポール
1977
 これぞSF! ああ、こうでなくっちゃ。
 太陽系で発見された異星人の遺跡。彼らはヒーチー人と名付けられる。彼らが使っていた小惑星が発見されるも、ヒーチー人はおろか、その死体や文字、記録さえ残されてはいなかった。いくつかのまだ使える道具と、光速を超えてどこかに行き、そして戻ってくることができる放置されたたくさんの宇宙船が見つかる。それは、人類の新たな時代の幕開けともなった。
 その技術的根拠や理論は分からないまでも、彼らの道具や落とし物は、人類に新たな技術をもたらした。
 地球は、その資源をほぼ絞りつくし、アメリカ大陸の頁石からない油を搾り取っては、イーストとバクテリアに食わせ、250億人にもなった栄養不良の人類に食わせている。
 人類は、地球と、金星の地中、そして、火星にようやく根付きはじめたばかりで、新しい星、新しい食料を求めているのだ。
 ヒーチー人の小惑星宇宙基地は、ゲイトウエイと名付けられ、チャンスをつかんだ山師たちが、片道切符かも知れないヒーチー船に乗り込んでは、新たな発見を求めて旅に出る。
 ヒーチー船は操作ができない。いやできるのだが、下手に触ると、目的地にたどり着いてもゲイトウエイに自動的に帰ってくることができなくなるのだ。
 そして、目的地は選べない。惑星があるのか、超新星が待っているのか、その惑星にはヒーチー人がいるのか? 生命はあるのか? 危険なのか? 安全なのか? それは誰にも分からない。ただ、たどり着き、そこで人類に役立つ知識か道具を持ち帰ったものは、巨額の富を約束されている。生存帰還率は高くない。
 それでも、富と名声をもとめてゲイトウエイに行きたがる者は多い。
 だれが、地球で苦労を続けたいものか!
 ゲイトウエイは、その存在の重要性ゆえに、世界が管理している。世界とは、宇宙に戦艦を出せるアメリカ合衆国、ソビエト連邦、ブラジル合衆国、金星連邦、新しい人民のアジアの各政府である。
 本書の主人公は、ロビネット・ブロードヘッド。物語は、ブロードヘッドがゲイトウエイで調査員として成功して大金持ちになり、快楽をつくしながらも地球でコンピュータの精神医と対話して心の悩みを探る物語と、彼がはじめてゲイトウエイに行き、成功するまでの物語が交互に語られ、その間を、ゲイトウエイで流される広告が間を埋めていく。
 宝くじに当たり、地球の鉱山から抜け出してゲイトウエイに行くことができた主人公。しかし、生きて帰る可能性の低さに、彼は、ヒーチー船に乗ることを恐れる。ゲイトウエイは働かない者をとどめることはない。いずれは死か、追放か、ヒーチー船への乗船を選ぶ他はない。おびえながらもヒーチー船に乗り込む主人公。1回目の旅、そして、2回目、そして…。
 絶望ゆえの愛、恐怖ゆえのセックス。
 本書の主人公は、決してヒーローではない。むしろ、アンチヒーローである。人間のくずみたいな書かれ方をしている。それでも愛することはあり、愛されることもある。
 ディストピアのアンチヒーローの物語なのに、なぜこんなにわくわくし、ページを一気に読み進めるのだろう。
 それは、本書が物語だからだ。
 はるか昔からの口述の物語、おとぎばなし、伝説、言い伝え。私たちの世界観を反映し、人を導こうとする物語の力が、本書にも存在している。世界を再構成する力、物語の本質を、本書もまた持つのだ。
 ああ、しかし、そういうことはどうだっていい。
 私もまた、ゲイトウエイでヒーチー船を前にしてたちすくみ、友だちや見ず知らずの男たち、女たちがヒーチー船に乗り込み、あるものは帰らず、あるものは空振りで帰り、あるものは富を得て来るのを見つめながら、自分にあの船に乗り、飛び出す勇気があるかどうか、自分の時間と手持ちの金があるうちに足を踏み出せるかを自問自答し、できるだけ回答をおくらせようと強がり、無関心を装い、心を引き裂いている一人なのだから。
ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞受賞
(2005.2.15)

無限アセンブラ

無限アセンブラ
ASSEMBLERS OF INFINITY
ケヴィン・J・アンダースン&ダグ・ビースン
1993
 究極のナノテクを、ファーストコンタクトと組み合わせることで、現代に描き出した作品。本書でも作品中になんどか名前が登場するエリック・ドレクスラー博士が、「創造する機械-ナノテクノロジー」(Engines of Creation 邦訳はパーソナルメディア刊 2001年)を発表したのが1986年。究極の微小機械によってボトムアップ式にアセンブルされる、なんでも生み出せる魔法の技術の未来を提示し、さまざまな分野に影響を与え、今日ではちっともナノではないのに「ナノテク」や「ナノ」を名乗る企業まで出てきて、ちょっとしたナノブームになっている。最近の「日経サイエンス」でおちょくっていたけれど、「.com」企業ブームも笑えるが、「ナノ」を社名に付けるのはいかがなものか? そんな「極微」な会社に人は投資するのだろうか? 不思議な時代である。
 さて、本書は1993年に発表されたナノテクSFである。時代は、ちょっと先の未来。だから当然ナノテクなどまだ夢の話で、南極の隔離された研究所で2人の研究者がようやく実験体を自己増殖に導くところまでたどり着いた頃の話である。
 一方、月は開発がはじまり、火星への長期滞在型の有人探査に向けて準備がはじめられていた。
 国連はやや力を強め、核兵器は、一部国連管理下で抑止力として保持され、残りはすべて廃棄された、そんなちょっと先の未来。
 月の裏側、宇宙観測用の超長波アンテナが設置されたダイダロス・クレーターに異変が起こった。突然機能を停止したのだ。修理に向かう3人がそこで見たものは、欠けたアンテナと大きな穴、そして見たことのない構造物。彼らは近づきすぎ、全員が死亡する。
 この事故と異変を受けて調査に乗り出すが、やがてそれは、地球外のナノマシンの活動であることが判明する。急きょ、南極から人付き合いの悪い女性研究者のエリカ・トレイスが月に派遣される。しかし、できる限りの防疫対策をしていたのに、彼女をはじめ、月基地の全員がナノマシンに汚染されてしまった。
 なぜ、彼女たちは死なないのか、ナノマシンの目的は? 誰がナノマシンをつくったのか? どこから、どうやって来たのか? 地球にもしナノマシンが侵入したら、人類はどうなるのか?
 危機管理にうろたえる地球、封鎖され地球に帰ることさえ許されずにいらつく月基地、そして、ひとり残されたナノマシン研究の大家であるジョーダン・パーヴ博士が発見した驚愕の事実。
 ナノテクの恐ろしさと可能性を素直に書き連ねた合作である。
 ハードSFとして押してみたいのだが、ちょっとおどろおどろしくSFホラーっぽく書こうとしたところも見受けられ、その点からどっちつかずの感を生みだしている。それはそれとして、軽くナノテクテーマの作品が読めることはうれしいことだ。
 ところで、共作者のひとり、ケヴィン・J・アンダースンの名前を最近どっかで見たのだが、どうにも思い出せなかった。今、自分の論評集の作家別リストを見ていたら、彼の名前があった。なんと、「デューンへの道」でブライアン・ハーバートと共著しているのがアンダースンではないか。
 そうか、彼か。なるほど、なるほど。なにがなるほどなのかは、「デューンへの道」と本書を両方読んでみて欲しい。きっと、アンダースンの指向がわかることだろう。
(2005.2.15)

時の仮面

時の仮面
THE MASKS OF TIME
ロバート・シルヴァーバーグ
1968
ねたばれします。ご注意を!
 20世紀末、ミレニアムを目前にした地球では、世界が終わることを信じる終末教徒の乱痴気騒ぎが世界各地で繰り広げられ、暴動が頻発していた。
 ヴォーナン19がローマの空中に現われ、地に降りたったのは、1998年12月25日。彼は神の子なのか? 新たな予言者か?
 彼は、2999年から観光に来たと自称する。本当に、ただの観光客なのか?
 世界中の注目を集めながら、ヴォーナン19は、行く先々で混乱とトラブルを巻き起こしながら、よってくる女を漁り、時には男も漁り、権力者や実力者を悩まし、そして、アメリカに来ることとなった。
 しかし、各国の政府は、終末教徒の暴動に辟易しており、人類が1000年先の未来も存在していることを示す自称「未来人」を「本物」にすることで、終末教徒の勢力を削ごうと、彼の希望する観光を受け入れることにした。
 アメリカ政府の依頼を受けて、アメリカを案内することになったのは6人の科学者たち。そこに、主人公のレオ・ガーフィールドもいた。彼は物理学者で時間逆行の理論に取り組んでいる。彼に加え、心理学、人類学などの学者たちが、ヴォーナン19を案内し、彼の不思議な言動の数々に、自我の崩壊に近い衝撃を受ける。だが、やめるわけにもいかない。
 レオにとっては、ヴォーナン19が本物ならば、彼の時間理論がいつかは本物になることを意味していたし、もうひとつ隠された大きな目的があったからだ。
 レオのかつての教え子で友人の元天才物理学者ジャックの依頼である。ジャックは、かつてレオの下で核分裂のような激しい反応を起こさなくても原子からエネルギーをとりだすことになる基礎理論を生みだしつつあった。レオは、それがエネルギー革命をもたらし、社会に多大な影響を及ぼす理論になることを知っていたが、ジャックが気づかない限り、その研究の社会的倫理的問題を伝えないと決心していた。
ジャックはそのことに気がついたのか、研究を完全に放棄し、美しき妻のシャーリィとともに田舎でひっそりと暮らしていた。
 ヴォーナン19が時折もらす未来の情報には、2000年代のいつか、そう遠くない時期に「一掃の時代」があり、彼の時代にはアメリカすら存在していないという。そして、限りないエネルギー源があり、金融や経済すらなく、必要なものは望めば得られる社会になっているとも言っている。「一掃の時代」とは、ジャックの研究の結果なのか? 悩めるジャックを救うため、レオは、その未来の真実を知ろうと決心する。
 しかし、未来人ヴォーナン19は、彼にとって遠い過去の出来事にまったく関心がない。
 レオをはじめ、世界中を混乱に陥れながら、ヴォーナン19は次第に、自らの20世紀末に与える影響に気づき、その影響力を行使しようとしはじめた。
 というようなストーリーである。
 書かれたのが、1968年。今から37年前。まだ、アメリカの建国二百年祭(1976年)さえ開かれていない。そんな時代に、30年後の「現代」を描き、そして、1030年後をかいま見せる。それを再読しているのが今、2005年である。以前に読んだのは1980年代。ややこしい。
 子どもの頃、1999年は、「ノストラダムスの大予言」だった。「恐怖の大王」である。
 学生の頃、2000年前後にはどんな世界の祭りが行われるのか楽しみだった。あと、15年ほど先の未来だったのだ。
 もう、それさえも20年前の過去である。
 それゆえに、本書は忘れ去られていくのかも知れない。
 しかし、ロバート・シルヴァーバーグはもっと今日的に評価されてもいい作家ではなかろうか?
 本物かどうかわからない、未来人により起こる狂想曲は、「火星人ゴーホーム」を思わせるところもある。純粋なエンターテイメント小説でありながら、人間社会や科学、宗教、権力、技術が持つ、「今」と「未来」のいかがわしさを床の一枚下からぺろりとかいま見せる。SFらしいSFなのだ。シルヴァーバーグは、過去や未来をたくみにあやつることで、人々に、現実を見せつける。それはすでに過去となった現実だが、現実となった現実と読み比べることで、気がつくこともあるのだ。
 もし、古本店などで眠っている本書をみかけたら、その長いタイムスリップからよみがえらせて欲しい。
 さて、以上で感想文はおわりだが、個人的な目的で、以下、本書に出てきた1999年をメモしておく。
 1999年、40億人の人口。
 車は電気自動車で、主要幹線はオートパイロットとなっている。
 都市でないところでは、住宅の地下に小型の原子炉が配置され、電力を供給している。
 自動調理器は、パンチするだけでブラック・コーヒーやトースト、本物のオレンジジュースを出してくる。すんだ食器は、皿洗器に入れるだけでよい。
 数年前にはやった自動酒場では、自動調理器のように飲み物をパンチし、クレジット・カードをスロットに差し込み決済する。
 コンピュータ端末は、すりガラスのスクリーン。緑色の光点が入力した文字を写しだしていく。完成した原稿はスロットからタイプされ、綴じられて出てくる。
 ブルーポイント種の牡蠣を最後に食べたのは、1976年の二百年祭が最後。その後に絶滅し、今では小粒なオリンピア種。
 繰り返すが、1968年から見た未来のひとつの姿である。
(2005.2.15)

ハッカーと蟻

ハッカーと蟻
THE HACKER AND THE ANTS
ルーディ・ラッカー
1994
 ネット社会、テレビのデジタル化、ITバブル、カーナビ、自己増殖するワーム、グローブと追随可能なモニターによる仮想現実(バーチャルリアリティー)の実現、遠隔操作と自律型のロボットの実用化…書かれている内容はさほど「未来的」ではない。
「ソフトウェア」などのぶっとびもない。
 それだけに、堅実に読むことができる。普通の近未来小説として読んでもよい。
 ルーディ・ラッカーが1994年に発表し、日本では、1996年秋に邦訳された作品である。
 この手の小説は、それがいつ発表されたか、によって、評価が決まると思う。
 私は、1995年をひとつの指標にしている。好き嫌いはともかく、マイクロソフト社がWINDOWS95を発表し、本格的なインターネット時代とITバブルを引き起こしたのがこの頃からであるからだ。INTEL社のPENTIUMプロセッサと、MICROSOFT社のWINDOWSから、WINTELと呼ばれたCPUとOSの2社独占時代が生まれたのもこの頃からである。
 日本では牛柄のパソコンが安く売られ、本格的な自作パソコン時代ともなった。
 私もずいぶん秋葉原詣でを行ったものだ。メモリの増設、CPUの交換をはじめ、ソフト、ハード面をいじる楽しい時期でもあった。
 あれから約10年である。
 日本でもテレビのデジタル放送化がはじまり、2011年にはアナログ放送がなくなる予定となっている。すでに1M強のブロードバンドはあたりまえで、占有100Mの光ファイバさえ安価に家庭で導入することが可能になっている。  パソコンの能力は、すでに家庭での必要不可欠をはるかに超え、次のステップにどうすすむか先が見えないままに周辺機器だけが短期的に進化しては落ち着きを見せている。
 もうデジカメも液晶パネルも価格が崩壊しつつある。
 自己増殖するワームはあいかわらずネットのトラフィックを食いつぶしているが、みんなインターネットはそんなものだと考え、セキュリティ会社に金をとられることが当たり前になっている。
 自分ではフリーソフトのセキュリティソフトをかけておきながらも、人に聞かれれば、「信頼ある大手のソフトにしておきなよ」と大人の意見を述べておく。メンテナンスが面倒くさいから。
 そう、メンテナンスは面倒くさい。
 メンテナンスなんてしたくない。
 人間の欲望に切りはなく、制約もない。
 だから、インターネットと端末は進化し続けるしかない。
 たとえロボットが実用化されても、また人間の欲望の中に進化をせまられるしかないのだろう。
 ロボットは、その名前の通り、人間に隷属するしかないのだろうか?
 人間は、ネットを使いこなしているのだろうか、それとも隷属しているのだろうか?
 そもそも書くことがないから思いつくままに文を書き連ねているのだが、それができるのが人間のおもしろさで、言葉と道具があるからこそ、これができる。ネットとパソコンに、そしてそれを開発し、メンテナンスしているIT技術者と経営者に感謝。たとえ、生き方が違ったとしても。
 本書が駄作ではない。とっても好きでおもしろいのだ。しかし、あらすじや感想を書きたい作品というわけではない。読んでいるその時間が楽しい。
 こんな未来ってすぐそばだよなあ。え、来てる?
(2005.2.7)