バベル-17

バベル-17
BABEL-17
サミュエル・R・ディレーニイ
1966
本書「バベル-17」は高校生の時に購入し、読んだ1冊である。タイトルには記憶がある。しかし、内容にはまったく記憶がなかった。ハヤカワSF文庫の新刊で「アグレッサー・シックス」(ウィル・マッカーシイ)があり、購入して先にあとがきを読んだら、そこに、「バベル-17」にも似ているとの紹介があり、では、先に本書を読もうと思った次第である。
本書の内容は、遠い未来、人類は宇宙に広がっていた。そして、いくつかの異星人勢力とは友好的な関係を結び、いくつかの異星人の勢力と果てしない戦いを続けていた。
戦況は思わしくなく、いくどかの経済封鎖によって厳しい生活を強いられていた。
今、人類は、内部破壊者による攻撃に悩まされていた。その際に交わされる「暗号」である、バベル-17の解読こそが求められていた。難攻不落のバベル-17を解読すべく白羽の矢を立てられたのが、かつての暗号解読のプロで人類世界に名だたる詩人の若き美女リドラ・ウォン。彼女は、バベル-17が暗号ではなく、言語であることに気がつき、その言語を理解しようとする。それは、言語で思考すること。そして、バベル-17で思考することには恐るべき効果があった。
牙や蹴爪をつけたり、獣や龍のように人体を改造するのが特殊ではない社会。
死んでも霊体として保存され、その精神機能を活かすことができる社会。
超静止空間へのジャンプを利用した遠距離通信、遠距離移動システムのある社会。
1966年に書かれた作品だが、人体改造、バーチャル人格など、今のSFと違和感なく読み進めることができる。
本書は、「言語」と「思考」「行動」をテーマにした作品であり、言葉を持つこと、使うこと、あるいは、「名前」をつけることや、「わたし」「あなた」といった抽象化された主体にあてられる「単語」が大切な作品の要素となっている。
そうなるととても難しそうだが、主人公リドラ・ウォンは、あらくれの宇宙船乗りたちを軽くあしらい、激しいアクションあり、宇宙戦闘ありの活躍ぶりで、とても20代前半の詩人というイメージではない。作品の紹介にも「ニュー・スペース・オペラの決定版」などと書かれているぐらいである。
言葉についての洞察がそのまま作品の動きとなって反映されるため、知らず知らずのうちに「言葉」について考えさせる内容となる。よくできた作品だ。
どうして、わたしは、わたしのことを「わたし」と呼び、わたしは、あなたのことを「あなた」と言うのに、あなたは、あなたのことを「わたし」と呼び、あなたは、わたしのことを「あなた」と呼ぶのか。
考えたこと、ありますか?
ネビュラ賞受賞作品
(2005.4.17)

オブザーバーの鏡

オブザーバーの鏡
A MIRROR FOR OBSERVERS
エドガー・パングボーン
1954
 創元推理文庫SFにて1967年に文庫初版、手元には1976年の第10版がある。価格は300円。早川ポケットSFでも同年に出版されている。
 第二次世界大戦終結から9年。米ソの冷戦構造は固定化し、核への恐怖が世界を覆っていた頃の話である。
 3万年前、火星は滅びつつあり、火星のサルヴェイ人たちは地球に生存を求めて来た。サルヴェイ人たちは、地球の地下のいくつかで隠れて生存していた。人間に似ていた彼らは、一部が人間そっくりに変身し、オブザーバーとして人間社会に暮らしていた。それは、人間がサルヴェイ人を受け入れる「合同」の日へのささやかな取り組みだったのだ。
 しかし、サルヴェイ人の中には、地球人を滅ぼし、サルヴェイ人の世界をつくればいいと思う者もいる。かつてはオブザーバーだった退官者ナミールもそのひとり。
 ナミールの策略を防ぐために、オブザーバー・エルミスは、アメリカの片田舎に出向いた。
 全編にただようのは、人間の「善」への期待と、破滅への「予感」である。
 オブザーバーは、人間の「善」なる部分を信じ、それこそが力だと願いながら「悪」にとりまかれ、なびかれそうになる子どもたちと接する。
 自然の中に、日々の中に、人間の「善」性、地球の「生命」を見ようとし続ける。
 それゆえに、オブザーバー・エルミスは幸せな人であり、宗教的指導者のようなおもむきさえある。
 しかし、人間社会は、今も、そしてサルヴェイ人が人間とつきあってきた長い歴史を通じても、破滅への「予感」を見せ続けてきた。1945年の核は人間の首を絞めるロープであり、サルヴェイ人もまた、核の実験によって大洋市とその人口を失っていた。自然破壊と公害、核への恐怖、そして、新たな病原菌の発生や兵器としての開発…それは、破滅への「予感」である。そして、きっかけは、ファシズムの台頭。
 小さな暴力から大きな暴力まで「悪」は甘美で力強い。
 まきこまれていく少年と、それを救い出そうとするオブザーバー。
 舞台は、本書が発表された1954年から9年後の1963年の田舎町ラティマーと、さらにそれから9年後の1972年のニュー・ヨーク。
 9年を単位に1945年、1954年、1963年、1972年が交錯する。
 1954年から見た1945年は生々しい過去であり、1963年は身近な未来に過ぎない。そして、1972年はまるで1936年の再来のような悲劇の年となる。人間が作り出した哺乳動物を殺す病原菌が自然界に放たれたのだ。すべての人間や動物が死に絶えるわけではない。死ぬ者もいれば、生きる者もいる。そんな悲劇の中でも、人間は生き、「善」性を身につけることができるのだ。そう、作者はささやく。
 古い作品であるが、今も売られているようだ。
 クリフォード・シマックにも似た空気の中で、古き良きアメリカと、現代のブッシュのアメリカの両方をみごとに書き表した作品である。
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 ところで、私は中学生の頃、これを買って読んでいる。そのとき、なぜか、以下の部分にペンや鉛筆でラインを引いていた。
「犬は正直ですよ」(P31)
「あの檻の中に押しこんだのは、わたしたちのような人間なんだからね」(P199)
「なにしろ妙なのは」「人間業じゃないってことですよ」(P205)
 なにを思ったのだろう。今の私の記憶には痕跡すら残っていない。
 前後の文脈を読んでも、一番分からないのは「犬は正直ですよ」だ。その当時、手放したばかりの飼い犬のことを思ってのことだろうか。わからない。
 昔の私に再会して、とまどうばかりである。
 さて、最後にメモ。
 1954年の作者は、9年後、18年後の未来をどうみているのか…。
 1963年の新聞では、スペインの新政府がヨーロッパ合衆国に加わる。
 宇宙ステーションは1952年にはあと10年もしたら完成すると考えられていたが、実際には1967年か1968年に完成する見込みである。
 1970年、ロシア(ソ連?)と中国はアジアをめぐって互いに戦争をはじめ、1972年までは原爆も使われていた。いまだに、西洋社会は、アジアの様子をうかがい知れないでいるが、独裁的なふたつの政権によって支配されているようである。
 1971年、汚染によってサンフランシスコ港の全水域が死んだ魚で蔽われた。
 1973年のアメリカでは、共和党、民主党の力が弱まり、有機統一党や連邦党が台頭。有機統一党は、世界統一をめざすファシズム的志向性をもつ。
 そして、技術的には、自動車のハンドル操作がいらない自動誘導路も一部には導入されている。
 この頃の世界の人口は約30億人。ちなみに、現実には、1960年に約30億人で1970年には3億7千万人ぐらいまで増加している。
第一回国際幻想文学賞受賞
(2005.4.8)

酸素男爵

酸素男爵
THE OXYGEN BARONS
グレゴリイ・フィーリイ
1990
 吉野朔実氏が「本の雑誌」などで掲載する漫画による書評で2度にわたり「酸素男爵」のタイトルネタで遊んでいる(『弟の家には本棚がない』本の雑誌社 所収)。
 タイトルの妙である。表紙は、ヤングアダルト向けという感じである。
 内容とタイトルや表紙との乖離があることは、SF文庫でよくあることだ。
 テラフォーミング化された月。月で起きたらしい革命。月の表側の自給自足型自称「ルナ共和国」と、ルナ共和国に対する月の裏側の軍事革命軍。地球諸国と月周回軌道居住区、高地球軌道居住区による経済封鎖。
 描かれるのは、月の表、裏、月周回軌道と高地球軌道の居住区と、その宇宙空間、そして人口が増え、紛争の終わらない地球。
 使われるのは、蒸気電話などのゴシックパンクの小道具。ナノテクにより、人体に仕込まれたGPSやメモリなどの機能、バーチャルリアリティ化した存在、知能を向上させられた生命などなど。
 22世紀の未来。
 人は、世界を拡張し、拡張の方法と資源をめぐって争う。
 私たちは、20世紀前半、土地と労働力と鉱物および石油資源をめぐって争った。
 20世紀後半は、石油をめぐって争い、食糧を武器とした。
 21世紀、今、私たちは、引き続き石油をめぐって争い、そこに水の争いが加わろうとしている。
 資本は、権力は、今足りないものを求めてやまないのだ。
 足りないもの=それさえあれば大きくなれるもの。
 だから、欲しい。なんとしても。
 ただ、欲しい。
 いつも人はそれに踊らされるのだ。死と悲しみをもって。
 21世紀後半、エネルギー革命を終え、人は酸素をめぐって争いを開始した。
 翻弄されるルナ共和国の天才技術者ガルヴァーニッホ。
 彼は、月の表から宇宙へ、そして裏へ。さらに軌道世界から地球へ。さらにその先へと動き続ける。決して彼の意志ではない。
 ただ、状況が彼を動かし続ける。
 彼は生きたいだけだった。いや、身体が生きることを求めていただけだった。
 変な日本名や日本文化が出てくるため、日本人にはちょっと引いてしまうところがある作品だが、22世紀の激動の日々とその日常をかいま見るのはいかがだろうか。
 ちょっとしたハードなバックパッカー気分を味わえること請け合いである。
(2005.4.5)

月は無慈悲な夜の女王

月は無慈悲な夜の女王
THE MOON IS A HARSH MISTRESS
ロバート・A・ハインライン
1966
 SF史に燦然と輝く一冊である。
 あまたのSFに影響を与え、異星植民地や月や火星を舞台にしたストーリーを書く作者たちにとって本書をどうとらえるか、常に比較され続けてきた。
 出版されたのが今から39年前。書かれたのはそれ以前、人類がまだ月を知らないころのことである。
 話は簡単である。流刑地として成立した月植民地はすでに第二、第三世代が育っていた。水やエネルギーなどを自給する月植民地は、人口が110億にもなった地球に穀物を輸出する生産基地となっていた。第一世代以外の者は犯罪者ではないから地球に行くことはできるが、現実には重力の壁があり、彼らが地球に降り立つのをこばんでいた。
 月の行政府は地球にあり、月に着任する長官は、彼らを統治せず、ただ穀物が地球に間違いなく送られれば、彼らが殺し合おうと何をしようと我関せずである。
 月人たちは、流刑地として女性が圧倒的に少ないことや、水や空気すら「無料ではない」現実から、独自の社会、文化、価値観を生みだしていた。
 そして、ある者たちは、地球からの独立を模索し、その必要性を実感していた。
 一方、月のあらゆるサービスや機能はひとつの巨大なコンピュータによって管理されていた。そのコンピュータは、ある日、意識を芽生えさせる。そして、その人工知性とコミュニケートできたのは、ひとりのフリーランスのコンピュータ技師。その能力ゆえにフリーランスであった彼が、革命を求めるものたちと出会い、人工知性に助けられながら、月の独立に向け、地球と月のさまざまな人々の思惑、欲、権力、そして、その究極の形である戦争を克服していく。
 そんな独立譚である。
 本書をどの視点から読むのかによって、その評価は変わるだろう。
 人工知性の物語として。
 植民地の独立、革命を描いた物語として。
 水や空気も有料の宇宙船・コロニー的な社会のありようを描いた物語として。
 政治や社会のあり方を問いかけた物語として。
 どの視点から読んでも、あなたは考え、一言を持つことだろう。
 そうさせるのが、本書の力であり、ハインラインの力量である。
 こまごましたガジェットの古さは別として、本書は、今日読んでも古さを感じさせない力強さがある。
 革命と独立について、今さら私が書くことはない。
 また、ハインラインの専売特許でもない。同時代のクラークが、あるいは、現代のベアが、多くの作者が、重力井戸から飛び出して生きる人類の独立を描いている。
 革命と独立の要素について、または、その社会と個人のあり方については本書を読まれたひとりひとりの問題として、論ぜずにおこう。
 ただ、おもしろかった、と。
 今回、私は、本書をひとりの人工知性の物語として読んだ。
 それは、人工知性のあり方を模索する現代のSFとしての物語ではなく、拡張された人間性の象徴としての人工知性という古典的な人工知性の物語である。
 ここから先はねたばらしになるのだが、唯一の存在として月に誕生した人工知性が、なぜ、この「革命」に参加したのか。なぜ、みずからの存在をかけたのか? 人工知性は、本当に「死んで」しまったのか? それとも「沈黙」したのか?
 この人工知性の「人間性」を考えれば考えるほど、「人間性の本質」など知性というものへの問いを考えさせられる。
 私たちは、ハインラインが問うほどの自立を果たしうるのだろうか?
 ところで、私はこの邦題「月は無慈悲な夜の女王」は原題の直訳だと思っていたが、あとがきを読むと違うようだ。「月は厳格な女教師」という意味だ。なるほど、そういう意味だと本書の内容がよく分かる。ただ、この邦題はコピーライトとしてすばらしい。本書がいまだに日本で読み継がれているのは、内容がすばらしいのはもちろん、この邦題にかかるところも大である。
ヒューゴー賞受賞
(2005.3.29)

レッドシフト・ランデブー

レッドシフト・ランデブー
REDSHIFT RENDEZVOUS
ジョン・E・スティス
1990
 階層ごとに光速が違う宇宙でのお話し。1階層上がるごとに、光速が半分になっていく。この超空間の特徴を利用して恒星間をつなぐ宇宙船レッドシフト。そこでは光速がわずかに秒速10メートルしかない。人間は、ライフベルトをつけることで、その身体機能を維持することができる。ちょっと走るだけで音速を超え、時計は相対論的狂いを生じる。足下と頭のてっぺんで時間の相対的進み方が異なるのだ。
 きみょうな振る舞いをする空間は、慣れない旅行客をとまどわせる。
 しかし、そこを職場にするものたちもいる。なかでも、一等航海士ジェイスン・クラフトは、船長に代わって、乗客の安全とケアも心がける。子どもの頃の忌まわしいできごとで心と身体に傷を持つ彼は、他者に対して心を開くことはない。ただ、「守るべき人」を守るためにはそのすべての能力を惜しまない。彼の行動原理は、守るべき人を守りたいだけだ。
 この変な宇宙船で起こったひとつの死が、彼とレッドシフト号を巻き込む大きな事件のさきがけとなった。
「もし、光速が10メートルで、相対論的物理学が目に見えるようなものだったら…」という風呂敷を思いっきり広げて、それだけでは小説にならないとみるや、さらにエンターテイメントに仕立て上げた作品である。
 まあ、相対性理論を「見せる」ためにとはいえ、前提となる物理学の法則が異なるものの、その宇宙の違いには法則性があるというとてもユークリッド幾何学的な階層宇宙を持ち出すところに、ハードSFとは違う違和感がある。さらに、わざわざ作者が「超ハードSF」なんていう自己解説文をつけちゃうものだから、文庫の解説者が「ぜんぜんハードじゃないよ」とかみついたりして、読ませたいのか、読ませたくないのかよく分からなくなる。
 ハードだろうが、ソフトだろうが、気楽に、「もしも」の世界を、その物理学的な制約を忘れて楽しむ分には、本書はとてもおもしろい。
 本書をきっかけに、特殊相対性理論、一般相対性理論、さらには、量子力学や現代の宇宙論までを勉強してみるのもいいだろう。
 私は高校の頃から相対性理論をかじっているが、いまだに何がなにやらで、自分の物理学的理解力と物理学的忍耐力のなさにがっくりしている。だから、こういう軽い本で、嘘だけど、なんとなく分かったような気になるのが楽しかったりする。
(2005.3.29)

アイ・オブ・キャット

アイ・オブ・キャット
EYE OF CAT
ロジャー・ゼラズニイ
1982
 ロジャー・ゼラズニイという作家は、宗教、神話とSFの融合をはかろうともくろみ、様々な宗教世界、神話世界を描いている。私は、少年期に彼の作品を読み、正直なところさっぱりわからなかった。
 本書は、「積ん読」書のひとつで、1989年に買ったっきり、ほとんど開くことなく今にいたった作品である。
 本書で扱われる神話は、アメリカ先住民、インディアンのナヴァホ族の世界。ナヴァホ族のひとりで、20世紀に生まれた主人公は、異星生物ハンターとなって宇宙をかけめぐり、まだ30代なのに、地球の時間は彼が生まれてから100年以上過ぎ、ナヴァホ族としての自分との乖離、現実の社会との乖離、そうあったかも知れない自分への乖離を感じながら、漠然と死を予感している。
 本書は2部に分かれる。1部は、引退していた彼の元に国連政府高官から依頼が来る。異星人ストレイジ人との通商条約締結目前に、ストレイジ人の中でも宗教的に特殊な訓練を積み、変身能力をもったひとりが国連の事務総長を殺しに来るというのだ。それを防いで欲しいという依頼に彼は、自分の能力を超えたものを感じる。そして、彼がかつて狩り、今は異星生物博物館に入れられている変身能力を持つ「キャット」の存在を思い起こす。キャットは知性生物ではないかと主人公はずっと思っていたのだ。
 キャットは、やはり知性生物で、50年に渡って地球人の思考を読み続けた結果、地球人に特有の「憎しみ」を知り、その憎しみの対象を、彼を狩った主人公に向ける。そして、主人公を手伝う代わりに、彼の命を所望する。主人公はそれを了解する。
 2部では、主人公を追うキャットと、逃げる主人公、そして、テレパシストたちや、現代のアメリカ先住民を描く。
 テーマは、世界の再構築、自分の再構築なのだろう。
 が、いつもロジャー・ゼラズニイの作品を読んでいて思うのだが、物語として重層すぎて、物語に入っていけないのだ。これは、もちろん、読者である私の浅さが原因なのだが、浅い読み方では読者を受け付けないのである。
 心して、読め。ということだ。
 同じように宗教観、世界観をSFと融合させて、浅い我々にも物語の力を感じさせてくれたのがマイク・レズニックの「キリンヤガ」であるが、これに比べると本当に読みにくいと感じてしまう。独自の物語としてのおもしろさを感じないのだが、それだけ、ナヴァホ族の世界と本書は直結しているのかも知れない。  私には、本書を解読する力はない。
 ロジャー・ゼラズニイを評する力がない。
 本書と戦う力が欲しい。
(2005.3.18)

宇宙からの訪問者

宇宙からの訪問者
THE VISITORS
クリフォード・D・シマック
1980
 スタニスワフ・レムは「ソラリスの陽のもとに」などの作品群で、知性は持つものの人類とは意思疎通ができない異星生命体を描いた。人類はわざわざ異星に行き、そこで、自分たちには理解できないものに出会うのだ。
 本書でシマックは、地球にやってきた人類とは意思の疎通が難しい異星生命体を描き、かれらを前にした人類の様子をシマック流に書き記す。
 黒い巨大な物体が空から降りてくる。重力をコントロールする力を持ち、明らかに「生きて」いる。木を「食べ」、セルロースのかたまりを「出し」、小さな子を「産み」、生まれた子はセルロースの固まりを食べて「成長」する。
 彼らは敵なのか、味方なのか、役に立つのか、迷惑なのか? すべては接する人のありようにまかされる。
 彼らは、彼らでしかない。あまりにも異質なのだ。
「火星人ゴーホーム」でフレドリック・ブラウンは、ブラックユーモアあふれる人型をした理解可能なようにみえて、まったく理解不可能な存在を描いた。
 本書に出てくる訪問者は、ソラリスの海のようでもあり、ブラウンの火星人のようでもある。
 状況としては、ブラウンの方に近いのだろう。小松左京の「物体O」などにも似ている。「ソラリス」の場合は、わざわざそこに出かけて研究しているのだが、ブラウンの火星人も、本書の訪問者も、向こうから来て、一般の人たちに影響を与えているのだから。
 シマックは、この訪問者を迎えた人類、とりわけ当事者となったアメリカ社会が、ふつうの人々は日常を送りながらも、経済は大混乱に陥り、政治家が動揺する様を描く。
 そして、最後の数ページで、彼らからの贈り物と、その可能性について読者に投げかけて幕を閉じる。
 彼らは地球にとどまるのだ。そして、人類は彼らと共存するしかないのだ。
 それは、何を私たちにもたらすだろう。
 異質で、圧倒的な力を持ち、しかも、それを力とは思っていない存在。
 コミュニケーションを交わせない力。
 それを前にして、私たちの社会は、そのままであり得るだろうか?
 シマックは、アメリカ原住民とアメリカの「訪問者」であった西洋人との関係を何度も繰り返すことによって、アメリカ社会のありようを問いかける。
 牧歌的と言われるシマックだが、決して「優しい」だけの作者ではない。
(2005.3.16)

夏への扉

夏への扉
THE DOOR INTO SUMMER
ロバート・A・ハインライン
1957
 本書「夏への扉」は、タイムトラベルものの名著であり、SF古典として必読の書の一冊である。
 ストーリーをおぼろげにしか覚えていなくても、猫の護民官ピートのことは頭の片隅にこびりついているものだ。
 冷凍睡眠とタイムトラベルを組み合わせ、時間を超えた冒険と恋愛を描く。
 内容については、読んで欲しい。何も付け加えることはない。
 ハインラインの好き嫌いはあろうし、時代とハインラインの性格が生んだ男性、女性のステレオタイプ的な表現方法には辟易するところもあるが、ストーリーの軽妙さは今読んでもうならされる。さすが巨匠なのだ。
 さて、舞台は1970年と2000年。1957年頃に見た、ハインラインの10年後、40年後の未来世界である。
 1970年、コミュニズムは没落し、世界的経済恐慌を乗り越え、人工衛星が打ち上げられ、すべての動力源が原子力に変わった社会。冷凍睡眠は、生命保険会社の収益のひとつとなっている。全財産を長期にわたって顧客の心変わりなしに管理できるのだし、顧客に万が一のことがあれば、その財産の一部を手にすることもできる。いいことずくめの契約なのだ。
 主人公が開発したのは、文化女中器(ハイヤード・ガール)。家事を自動化する知性のない、メモリーだけはたっぷり入ったロボットに近い存在。究極の目的は家庭内の仕事という仕事はなんでもできるようになる「機械」を開発したいと思っている。
 主人公が思いつくのは、電気タイプライターの要領で操作する製図器。まあ、マウスとキーボードで操作する製図専用コンピュータみたいなものか。
 2000年、異例の暖冬異変。月には定期便が飛び、静止宇宙ステーションが軌道にいる。ジャイアンツは健在で、新聞は多色刷り。肉もあるが、イーストをベーコンのように加工しても食べられる。イギリスはカナダの1州で、インドとパキスタンはあいかわらず紛争中で、アジアは大共和国になっている。1987年に経済大恐慌が起こり、金本位制が崩れ、金は貴金属としての価値を失っていた。重力制御法が実用化されており、まだまだ発展している。主人公が開発した文化女中器は立派に進歩していたし、彼が思いついた自動製図器もあちこちで活用されていた。服装は、スティックタイト繊維により身体に密着したものとなる。
 でも、コンピュータはない。だから、主人公は、自動秘書機(オートマチック・セクレタリ)を思いつく。文書補助機能付きワープロに住所録、事務手続き補助、コピー機能がついたようなものだ。
 もっともっと、1950年代に見た未来が描かれている。
 なるほど、と思うところもあれば、なんとまあと思うところもある、2005年、作者が夢見てからほぼ50年後の未来での読み方だ。
 本書をはじめて手に取ったのは、文庫化された1979年から過ぎること1年。1980年のことであった。高校1年生である。純情な田舎育ちの少年は、時を超える不思議な恋愛に胸をときめかしたものだが、よく考えてみると、恋愛に関してはほとんど主人好の思いこみでできている作品である。これを冷凍睡眠やタイムトラベルのない現実世界でやったら、ただの変態かストーカーだ。やれやれ。
 そんな少年も、遠い2000年を漠然と夢見ていたが、コンピュータを自宅で数台稼働させ、コンピュータとネットワークを使って情報を集め、整理し、文章を書き、それをもって仕事としているなんてことは想像もしなかった。
 そして、個人的には電気釜を捨て、土鍋でご飯を炊き、伝統的な食材を集め、料理をすることになろうとも思っていなかった。
 未来は予測のつかないもので、書かれていることを言葉通りにとれば、まったく未来予測ははずれているのだ。
 そうであっても、本書の価値が減じるわけではない。なぜならば、護民官ピート氏の猫としての生き方に、SF者はみな心を打たれるだろうから。  そうそう、忘れるところであった。本書の邦題「夏への扉」は、原題の直訳である。このタイトルの美しさ。ハインラインは「地球の緑の丘」など、そのタイトルの美しさにも定評がある。だまされちゃんだよなあ。タイトルに。そして、タイトルを裏切らないんだよなあ。このタイトル、はたしてハインラインが付けたのだろうか?それとも編集者がつけたのだろうか。いずれであってもタイトルって大切だ。
(2005.3.14)

大魔王作戦

大魔王作戦
OPERATION CHAOS
ポール・アンダースン
1971
 もし、魔法が科学として解明され、準自然力に基づくものとして科学的技術的に用いられるようになったら。もし、天国や地獄などの存在とありようについて科学的に研究されたら。もし、人狼などの存在が科学的に解明され、彼らが特殊能力を持った人間として遇されるようになったら。
 その世界の戦争はどうなるのだろう。その世界の移動のための道具は内燃機関の自動車ではなく、箒や絨毯になるのだろうか。
 まだ未完の「ハリー・ポッター」シリーズでは、魔法は魔法のままであり、現実社会は現実社会のままで、魔法使いは同じ世界に住みながらも、世界を現実とはへだてて生きている。しかし、現実社会の変化には対応しなければならず、主人公は、現実社会と魔法社会の行き来を繰り返している。ハリー・ポッターの魔法世界は、純粋な魔法使い、魔法能力をもたない人間の中から生まれた魔法使い、人間や人間ではない存在との間に生まれた魔法使い、魔法能力を持っていない魔法使い生まれ、そして、魔法社会の存在を伝えてはならない人間があり、繰り返し否定されながらも、その能力と生まれのふたつにより階層化されている。民主主義化された階級社会を戯画化しているかのようだ。
 一方、1970年代の幕開けにアメリカで書かれた本書では、魔法はひとつの技能であり、才能である。元々才能を持つ者は、その才を活かすもよし、活かさなくてもかまわない。才能や勝ち得た技能を使う者がいれば、はなから魔法を「使わない」ことを宗教的、信念的に選ぶことだって可能だ。
 魔法という技能は、武器にもなれば、平和利用も可能。生活にも使えるが、商品ともなりうる。技能を持つものは、その活かし方によって尊敬されることもあり、また、この社会で技能を使わずして地位を得るものもいる。ただ、やはり、技能を持つ者は、持つ故のおごりもある。しかし、それは他のスポーツや芸術などの技能についても同様なところがあろう。
「ハリー・ポッター」の中でのハリーは、ヒーローであると同時にアンチヒーローである。何より、「子どもの成長」がテーマになっている故に成長期の醜さは見事に表現されている。
 一方、本書に出てくる「ぼく」こと人狼のスティーブン・マチュチェックと、その恋人であり後の妻である魔女のヴァージニア・グレイロックは、大人であり、ヒーローである。ヒーローは、危機を乗り越えなければならない。最後は勝たなければならない。でも、主人公、ヒーローである限り、最後は勝つに違いない。それを安心の材料に、明るく読み進めることができる。
 悩みがあっても、読者が暗くなることはない。
 それが、ポール・アンダースンの力量である。
「ハリー・ポッター」には、その魔法世界があり、本書には本書の魔法世界がある。しかし、ハリー・ポッターはSFではなく、本書はSFだと思う。
 魔法にもルールはあるが、魔法のルールだけではなく、魔法の背景に自然的、科学的な理由付けを「あるかのごとく」表現すれば、それはSFなのだ。
 魔法をSFすると、本書のようになるか、ナノテクを使ったり、ヴァーチャルリアリティを使うことになる。
 もちろん、SFでないから、ハリー・ポッターをはじめとするファンタジーが劣っていたり、おもしろくないことはない。どちらも楽しいではないか。
 魔法好きの方には一度読んでいただきたい。
 こういう小道具系で言えば、アン・マキャフィリィの「パーンの竜騎士」シリーズなども、竜はどうして火を噴くのか、なかなかおもしろい設定をしている。
 本書の作者、ポール・アンダースンは、SFを使って遊ぶことができる作者である。そして、猫などの小動物が大好きだ。だから、彼らが必ず活躍する。小動物好きにはたまらない作者でもある。魔法SFと小動物は、これまた相性がいいのだ。
(2005.3.9)

ゲイトウエイ4 ヒーチー年代記

ゲイトウエイ4 ヒーチー年代記
THE ANNALES OF THE HEECHEE
フレデリック・ポール
1987
 えええええ。
 ゲイトウエイ4。ゲイトウエイシリーズもいよいよ幕を閉じる。起承転結の結である。主人公ロビネット・ブロードヘッドは、機械貯蔵の知性として存在することに慣れ、その生活を楽しんでいるかと言えば、そんなことはなく、生身の頃のブロードヘッドと同様に、自分の罪悪感をすべてに拡張して、純粋なプログラムのアルバート・アインシュタインと終わりなき議論を続けるのであった。そして、宇宙の成り立ち、宇宙の謎について、アルバート・アインシュタインの仮説を聞き続ける。
 彼らは拡張された時間を持つ。生身のリアルタイムに比べれば、そのミリセコンド、ミリセコンドは十分に考え、行動を起こすに必要な時間となる。生身の存在との会話は長い時間の無駄であり、代理人格「ドッペル」にその役割を果たさせながら、また別のことをする。ドッペルを呼び戻すもよし、そのまま存在させるもよし、消すもよし。まあ、複数の自分がいると面倒なので、そのまま存在させることはない。
 ということで、仮想人格、機械知性、バーチャルリアリティ空間、拡張された人生といった、現代SFのひとつのジャンルがまるごと本書に込められる。
 もちろん、ヒーチーと人類にとっての「敵」は健在だ。宇宙のありようを変え、すべての物質的生命を破壊し続ける、純粋なエネルギー知性対である「敵」を前にして、ヒーチーと人類は手を携え、「敵」を監視し、「敵」がふたたび、出現するときに備えている。
 しかし、しかし。なんということだろう。
「敵」は、地球にいたのだ。ヒーチーと人間の子どもが、はからずも「敵」のスパイの役目を担ってしまった。
 どうやって「敵」は彼らをスパイに仕立てたのか? そもそも「敵」は何を考えているのか? 何を狙っているのか? ヒーチーと人類は敵にとっての「敵」なのか?
 本書のテーマは、仮想人格、機械知性の究極とは何か? ということである。
 知性は、生身と仮想人格では異なるのか? 生身の生を機械に移植した仮想人格と、人格があるようにプログラムされた機械知性は、本質的に違うのか? エネルギー生命体の「敵」と、仮想人格とは異なるのか?
 データとして、プログラムとして、存在することの意味とは?
 バーチャルリアリティをテーマにした作品は数多くあれど、その生の意味をつきつめた作品はそれほど多くない。
 そして、そこにフレデリック・ポールは神性を見る。
 ああ、神である。
 ついに、神である。
 もちろん、「敵」は神ではない。
 神がでちゃうとなあ。シリーズは終わるしかないよなあ。
 本シリーズは、書かれた当時での最新の宇宙論、ブラックホール理論などを楽しく、わかりやすく解説してくれる。シリーズの前半は、その舞台となったブラックホールについて多く語られ、後半は、宇宙の成り立ちや存在について、ひも宇宙論を使って教えてくれる。現在、ひも宇宙論では宇宙が11次元であろうとされているが、この当時には9次元と考えられていたので、9次元の宇宙論が語られるが、それでも宇宙論としてはとても参考になるので、一読の価値がある。
 宇宙論と仮想空間、仮想知性の出会いが、本書のSFとしてのおもしろさであり、それを、宇宙論やバーチャルリアリティなどについて興味や関心がなくても読ませてしまうところに、作者の力量がある。
 そして、いきついたところは、神性であった。
「神はサイコロを振らない」というのは、本物のアルバート・アインシュタインの言葉。
 本シリーズの2刊以降は、プログラム・アインシュタインとブロードヘッドの対話が中心を占めるが、本物のアインシュタイン同様に、このプログラム・アインシュタインもまた、本物のアインシュタインと同化するために「神」を追い続けていたのかも知れない。
(2005.2.27)