一千億の針

一千億の針
THROUGH THE EYE OF A NEEDLE
ハル・クレメント
1978
 名作「20億の針」の続編である。前著が1950年に発表され、それから28年後に発表された。訳者あとがきによると、もともと前著ではある程度の未来を想定していたが、その中の設定が時代の変化に追いついていなかったため、結果的に前著の設定を1947年と位置づけ、本書を7年後の1954年の設定で執筆することにしたそうだ。つまり、本書は、1978年に発表された、過去を振り向いたSFなのである。
 もちろん、本書は、前著の続編であり、地球人の主人公と彼の共生体となって彼の体の中で暮らすアメーバ状の知的異星人の物語であることに変わりなく、タイムトラベルものではない。そこで、作者は過去を未来と想定して執筆しているのだ。なかなかできることではないが、それだけ人気の高かった前著を大切に扱っているということなのだろう。
 前著ほどの名作ではないが、前著を読んだ人には軽く楽しめる作品に仕上がっている。
 筋書きは、大学を卒業し、島に就職するため帰ってきた主人公。しかし、本当の目的はもうひとつあった。近頃、体調に異変が起きているのだ。共生体のおかげで病気や怪我などからは守られているはずなのに、彼の身体が、共生体では対処できないなにかの原因で不調を来たし、このままでは死ぬかも知れない。主人公が死んでも共生体は他の宿主を探せばいいので困りはしないが、すでに7年に渡って地球人と異星人として秘密を共有し、友情をつちかってきただけに、なんとかしたいものだ。
 そこで、彼らの秘密を知る医師と家族の協力を得て、現在遭難状態にある共生体(異星人)を探しに来るであろう共生体の仲間を捜し、主人公の不調の原因をつきとめ、治療したいと新たな探索を開始する。
 しかし、島に待っていたのは、「ホシ」の影だった。前著で追いつめ、殺したはずの異星人犯罪者「ホシ」がもしかしたら生きているのかも知れない。では、誰の中にいるのか? 島は7年間で人口も増加している。主人公の友だちたちも、もうみな立派な青年だ。
 主人公の青年と共生体は、「ホシ」の影と、体調不良に苦しみながら、同年代の女性など新たな仲間を得て、この難局の解決に向かう。
 そういう筋だ。
 前著でも、共生体を抱えることで、宿主となった人間は、自分の病気や怪我に対して無頓着になる傾向があり、それを共生体は人類の特徴として恐れ、繰り返し主人公に、自分の身を危険にさらすのはよくないと説得する。それでも、「共生体が守ってくれる」と自覚したり、その自覚がなくても「自分は怪我をしにくいらしい」ということを身体が覚えると人間は行動が乱暴になるのだ。
 たしかにそう言われると思い当たる節がある。いや、私には共生体はいないのだが、慣れるという感覚は恐ろしいものだというのは、日常にもあるだろう。私は虫に刺されにくい、風邪にかかりにくい、少々傷んだものを食べても大丈夫…そんな油断が大病を招いたりするのだ。
 本書では、その人間の特性「慣れる」ことについても、多面的に考察する。そのあたりが本書のひとつの魅力である。
 本書も前著同様、推理小説、あるいはミステリー仕立てになっているが、前著の続編としてすなおに楽しみたい。真面目で基本的に無口な共生体「捕り手=ハンター」のとぼけた語り口もよい。新たに登場する少女たちの、やや定型的とはいえ個性的な行動は、本書の魅力を深めてくれる。
 前著を読んで、機会があったら、本書も手にとって欲しい。
(2005.2.5)

20億の針

20億の針
NEEDLS
ハル・クレメント
1950
 第二次世界大戦が終わってわずかに5年後発表された作品である。世界人口が20億人を超えたのは1930年頃で、1950年には25億人強と想定されている。
 本書の邦題20億の針とは、つまり、当時の世界人口を反映した数字である。
 生物(知的生物を含む)を宿主として、その身体に入り込み生きるアメーバ状の知的生命体。彼らは、宿主との関係をきわめて大切に考える。宿主の健康を維持し、病原体を排除し、怪我したときの血液の流出さえ止めてしまう。しかし、中には、宿主のことを考えずに行動する異常体があり、彼らは犯罪者として、彼らの警察官に追われることとなる。
 宇宙船で逃走中の犯罪者「ホシ」を追跡していた警察官「捕り手」は、ホシを追って地球に墜落する。捕り手は、地球人の少年に寄生し、正体を明かして、少年とともにホシを追う。ホシもおそらくは地球人に寄生しているであろう。島にいる人口は160人ほど。おそらくこのなかにホシがいるはずだ。少年はときおり、捕り手こそがホシではないかと疑いながらも、捕り手に協力し、行動していく。
 宇宙人との共生。共生による(若干だが)超人的能力の獲得。宇宙人の犯罪者を追いつめる行為。どこかで聞いた話ではないか?
 本書は、その後のSFなどに多大な影響を与えた作品である。
 大原まり子の「エイリアン刑事」(1991年・朝日ソノラマノベルス)には、冒頭に本書に謝意が表され、本書の和訳で出てきた犯人の呼称「ホシ」をそのまま使っている。
 ゆうきまさみが現在セルフリメイクしている「鉄腕バーディ」もまた、似たような設定を用いている。
 古くは、1966年に放送が開始された「ウルトラマン」も、宇宙の警察であるウルトラマンが、地球人ハヤタ隊員と共生して怪獣を倒していく話である(ちなみに、本書の文庫初版は1963年となっている)。
 大原まり子の「エイリアン刑事」を除けば、本書に触発されたものかどうかは不明だが、似たような設定は探せばいくらでも出てきそうな気がする。
 もっとも、本書の場合、ほとんどアクションはなく、むしろ、推理小説のような理詰めの犯人探しが軸になっている。秘密を抱えた少年探偵の物語と言ってもよかろう。
 書かれたのが半世紀以上前であり、設定に古さはあるものの、今読んでも、そのおもしろさは少しも減じない。
 後日談として、本書発表から28年後の1978年には続編も書かれている。
 アメリカでも衰えない人気があったのだろう。
 古典SF必読の一冊としたい。
(2005.2.5)

ブレーン・マシーン

ブレーン・マシーン
THE BRAIN MACHINE(THE FORTH “R”)
ジョージ・O・スミス
1959
 中高生の頃、お気に入りだった1冊。
 話は簡単で、科学者の夫婦が画期的な教育機械を開発。機械にかかって一度本を読むだけで、その内容を記憶することができるのだ。夫婦は、この機械の実証を行うために、子どもをもうけ、慎重に育てる。5歳にして高等教育に匹敵する知識をもった主人公ジェームズ・ホールデンは、その誕生日に、両親がもっとも信頼する男が、両親を殺害するのを目撃した。男は、教育機械を独占しようと目論んだのだ。しかも、男はジェームズの後見人に指名されていた人物である。彼は、なんとか自らの命を救い、男の野望をうち砕き、その犯罪を明らかにするため、後見人の男から逃げ出し、自立の道を探る。
 しかし、幼い少年にとって、どんなにすぐれた知能と高い知識をもってしても、大人の世界で生きるのは一筋縄でいくものではなかった。犯罪組織の一員として働き、あるいは、隠遁した作家を装って収入を得ていくジェームズ。
 作者は、主人公ジェームズ・ホールデンの視点を軸にし、両親を殺した後見人からの逃走と復讐という正義を与えて話を進めつつ、一方で知識だけが先に立ってしまった主人公のかたよった理解や判断を残酷に書き連ね、それでも、主人公を魅力ある存在にしようと書き連ねる。
 そんな前半は、主人公のサバイバルゲームであり、なかなかに読み応えがある。
 しかし、物語の後半から終盤になると、安直な大人の論理が登場し、楽天的な未来を演出して物語を終えてしまう。「教育機械が開発された美しきよき未来」という安易さが、まさしく50年代SFらしい。
 早熟な少年が、子どもに対する大人の扱いに自尊心を傷つけられ、しかも生き抜いていかなければならないのだが、社会からあからさまな迫害を受けているわけではないので、ミュータント/超能力テーマとは一線を画す。
 近年では、オースン・スコット・カードの「エンダーズ・シャドウ」における、遺伝子操作された天才児ビーンが生き残るための物語が本書に近いかも知れない。
 ただ、本書は原題にあるとおり、「頭脳機械」=教育を向上させる機械による、「第四の革命」-THE FORTH “R”のRは、Revolution(革命、革新)のRだと考えられる-が、テーマであり、主人公の苦悩やドラマは、その機械が導入されたことによる社会の問題点や輝かしい未来を描くためのものにすぎない。その点で、本書は、「子どもの」物語ではない。50年代の空想科学小説なのだ。
 とはいえ、この冒険譚と成長記は、少年期の私にとってとても魅力的なものであった。作者の大人としての皮相な指摘を読み飛ばし、主人公の気持ちから本書を読んでいたものだ。その性の目覚めも含めて、楽しんでいた。とうに青年期を過ぎてしまった今、子どもの視点と大人の視点両方から本書を読み、人間が人間として成長するのは本当に難しいことなのだなと、思わずにいられない。
 日々、是、精進、である。
(2005.2.1)

優しい侵略者

優しい侵略者
THE MONITIORS
キース・ローマー
1966
 ある日忽然と黄色い制服を着たハンサムな男たちが空から大きな輸送船で運ばれ、降りてくる。その直前には、すべてのテレビ、ラジオ、スピーカーから、政府などの行為を中止させ、管理を引き継いだとの「征服宣言」が行われる。
 彼らは、何の混乱もなく、完璧に秩序があり、個人に超越的な方法で知識を授け、能力を向上させ、生活を、労働を向上させた、「自由な」管理された社会を築こうとする。
 彼らの名は、モニター。原題である。
 ここに、ひとりの男がいる。仕事を失ったパイロットだ。そもそもフリーランスで、企業や政府に属するのはいやな、普通のアメリカ人である。
 彼は、人に何かを指図されるのが大嫌い。ただ、それだけだった。
 モニターたちが降り立ったとき、彼は、アメリカ魂を発揮し、彼らに対抗する勢力に合流しようとする。それが政府でも、民間でも構わない。
 モニターは、そんな彼の動機にとまどう。彼ばかりではない、モニターの「提案」に反発したり拒否する「狭い」考えの持ち主が多いことにとまどうばかりである。
 なんとか、彼を懐柔しようとするモニター。
 いっぽう、モニターに反旗を翻す側と接触することができた主人公だが、どうにもこうにも、信頼できるのかできないのか分からないような状態。それでも、彼なりの信義と正義感を持って立ち向かうのだが…。
 と書くと、この21世紀初頭の世界情勢を反映したシニカルな政治SFのようであるが、書かれたのは1966年で、書いたのはキース・ローマーである。どたばたSFである。
 しかも、落ちない。
 はっきり言おう。落ちてない。落としていない。どうするんだというところで、そんな終わり方はないだろう、という終わり方をしている。ページ数が決まっていて、前半で遊びすぎ、最後はばたばたで、まさしくスラップスティックなんだけれど、小説なんだから、そりゃあないだろう。ちゃんと落としてよ。ここまで読んできたのに、という気分。
 途中に、モニターたちの弱点を示した伏線が書かれているにもかかわらず、それはどこかに消えてしまった。おーい。
 しかたがないので、1966年に発表された小説で1976年に翻訳出版された本だから、あげつらうところはいくらもある。興味深いところだけ抜き出しておこう。
 女性が羽織っていた毛皮のコートは狼の皮だった。
 まだ、黒人の人権があたりまえに侵害されていた。言葉の上でも。
 耳栓式のテープ自動演奏装置、重さは2g、かけかえなしでぶっつづけ9時間演奏…これはたいしたもんだ。まだ、ウォークマンもない時代の未来予測。もちろん、2gには恐れ入るが。
 それから、レタスを翻訳するのに「きくぢしゃ」はないと思うなあ。こういう「訳しすぎ」って古いSFでは多いですね。辞書が古いからか。
 ま、そういうことで、侵略テーマのユーモアSFというくくりになると思う。
(2005.1.30)

時の罠

時の罠
THE TIME TRAP
キース・ローマー
1970
 スラップスティックSFって好きだなあ。どたばたSF。
 言葉遊びと大胆な設定で、主人公を走り回らせ、混乱させ、そして、最後には大団円が待っている。安心して、何も考えずに、楽しく読める作品である。とりわけ、キース・ローマーは言葉遊びがおもしろい。原題も、TTTだし。
 なぜか知らないが、ある空間・時間が一定範囲・24時間で固定されてしまった。家を出て、まっすぐ歩いていくと、家の裏に着いてしまう。朝ごはんを食べ、昼も、夜も食べ、寝て、起きると、食べたはずの食材が元に戻っている。殺されても、夜を超えると、生き返ってしまう。
 時の罠にとらえられてしまった人たち。
 同じ状況が、人類以前の歴史から、遠い未来までで起こっている。
 しかし、時の罠には割れ目があった。1970年代に生きる主人公ロジャー・タイソンは、2249年の未来から割れ目を抜けて来た女性ク・ネルを事故死させてしまい、その死の直前に彼女と接触したことで、割れ目の存在を知り、さまざまな時代を旅していく。そして、時の罠の存在を知り、時の罠をしかけた高次元人の存在に気がつくのであった。
 タイムパラドックスなど知ったことではない、こちらは、高次元的存在である。時間の外の世界である。なんでも起こるのである。
 なぜ、時の罠はあるのか? 博物館なのか? 実験なのか? はたまた…。
 奇想天外な設定、奇想天外な解決。
 思わず大きな声で、「これでいいのだあ」と叫びたくなる。
 ちなみに、2019年には強制的統一というものがあり、世界は一変するらしい。ク・ネルやス・ラントなど、名前も「未来っぽい」し、言葉も全然今の言語とはかけはなれた「未来語」になるらしい。
「謎の転校生」みたいな未来人のイメージがある。もうすぐだ、楽しみだなあ。
 そうそう、あまり日本のSFについて書かないが、ほどほどには読んでいる。私は横田順弥や火浦功をこの分野に入れたいのだが、まあ異論はあろう。
(2005.1.24)

マイクロチップの魔術師

マイクロチップの魔術師
TRUE NAMES
ヴァーナー・ヴィンジ
1982
 新潮文庫のSF作品として1989年に登場したインターネット空間のバーチャルリアリティを小説化した作品で、1981年に書かれている(出版は82年)。
 コンピュータ・ネットワークの中のハッキングコミュニティ「魔窟」で魔術師として活動する主人公のロジャー・ポラック。ネットに入れば、ヴァーチャルリアリティな存在になってデータ空間を行動できる。
 しかし、ひとたび、真の名前を敵や仲間たちに知られれば、その個人情報は名を知った者に容易に知られることとなり、結果的に彼らの言うままに行動せざるを得なくなる。
 彼は、政府機関に名を知られ、彼らのスパイとして行動することを迫られる。
 政府機関は、魔窟の魔術師のひとりが、政府機関のデータベースに侵入し、破壊工作をしたため、ロジャーに内部調査を命じる。
 やむなく行動をはじめたロジャー。しかし、調べていくうちに世界や人類全体の破滅につながりかねない陰謀の存在に気づき、政府に真の名を知られた者として、自分の身を守りながら、陰謀に立ち向かっていくことになる。もちろん、仮想空間で…。
 1980年代に入ったばかりの早い時期に、ヴァーチャルリアリティでの存在や生活について書いた作品である。また、今のキーボード・マウス、CRTといった、聴視覚・言語的インターフェイスから、脳波を利用した双方向的インターフェイスに変ることで質的にネット空間やデータ処理のあり方が変ることを示唆した作品でもある。
 その歴史的な意味において、本書は一読の価値がある。
 また、文庫で200ページに満たない本書で、訳者解説の数ページのほかに、約30ページにおよぶマーヴィン・ミンスキーの解説が掲載されており、作品以上に興味深い内容が書かれているのも特徴である。M・ミンスキーといえば人工知能研究の第一人者で、彼が、本書の出版に際して解説した一文である。その後の、ヴァーチャルリアリティ世界を題材とした作品群の誕生を予感させる一文であり、本書以上に読み応えがあった。
 もちろん、作品中では、データ電送速度は50kだし、すこし古さを感じさせる表現もある。が、まあそのあたりはうまいこと読みかえればよい。
 絶版になって久しく、私も古書店で長いこと探し回って、ようやくこのたび一読することができた。
 インターネット社会となり、映画「マトリックス」のヒットによってヴァーチャルリアリティがお茶の間でも理解できうる内容になった現在、早川か創元でこの手の作品をまとめてみてはどうだろうか。
(2005.1.24)

電脳砂漠

電脳砂漠
THE EXILE KISS
ジョージ・アレック・エフィンジャー
1991
「重力が衰えるとき」「太陽の炎」に続くマリード・オードラーンが主人公の快楽と悪徳の街ブーダイーンを舞台にしたイスラム圏ハードボイルドSFの3作目。そして、残念ながら作者が2002年に亡くなったため、第4作は完成を見ることがなかった。
 本作品では、マリード・オードラーンとパパ・フリートレンダー・ベイが警官殺人の汚名を着せられ、アラビア砂漠の中でも”空白の区域ルブー・アルハーリー”に水筒ひとつで放り出される。彼らは砂漠の民に救い出され、マリードは砂漠とともに暮らすムスリムの生き方を知る。
 3作品の中でもっともイスラム圏を感じさせる作品。そして、プロットも一番しっかりしており、砂漠での殺人事件とブーダイーンでの殺人事件の対比、マリードとパパの砂漠とブーダイーンでの行動の対比が小説としてのおもしろさを形作っている。
 しかも、ハードボイルドの様式に沿っていて、そしてSFなのだ。
“なぜ、殺人が問題の解決になると考える人が多いのだろうか? 人口過密の都会でも、この過疎地の砂漠でも、われわれの生活は、だれかが死ねばもっとらくになるという考えが生まれるほど耐えにくいものだろうか? それとも、人間は心の奥底で、他人の命が自分の命とおなじ価値があると、本気で信じていないだろうか” と、マリードは自問自答する。しかし、そのマリードとて、その権力と名誉のために、他者に殺人を指示し、そのことに動揺していない自分に気がつく。
 パパはマリードが命を救ってくれたことに感謝しながら、彼がドラッグから離れようとしないことに怒り、彼を痛めつける。
 人生は楽ではない。人は一面的ではない。物事の解決の方法は、それぞれの社会、価値観などによって違う。あるものはそれを妥協といい、あるものはそれをずるさと呼ぶ。あるものは、それを賢者の知恵といい、あるものは非人道的だとも、非民主主義だともいう。
「キリンヤガ」(マイク・レズニック)でも、同様に、社会が選択した解決方法、価値観が選択した解決方法が出てくる。
 それを単純な正義、単純な悪として割り切ることはできない。
 割り切ったときに、理解の断絶と、疎外と、そして、一方的な支配がはじまるのだから。
 それにしても、作者がなくなったのは残念。
 4巻は書かれていないが、その一部となる短編は発表されており、マリードとパパがメッカに巡礼する前祝いをしているようだ。ということは、メッカ巡礼が書かれていたのかも知れない。ジョージ・アレック・エフィンジャーの手によるメッカ巡礼を読みたかったものだ。ああ、残念。
(2005.1.16)

太陽の炎

太陽の炎
A FIRE IN THE SUN
ジョージ・アレック・エフィンジャー
1989
「重力が衰えるとき」の続編。パパ・フリートレンダー・ベイは、イスラム圏の大都市の歓楽と犯罪の街ブーダイーンの真の支配者。しかし、それだけではなく、世界経済が崩壊し、大国が存在しなくなり、小国が次々と生まれては崩壊する世にあって、イスラム世界の半分を経済・情報的に支配する男でもあった。前作ではいちおう自由人だった主人公マリード・オードラーンも、いまやパパの配下にあり、パパの邸宅で暮らし、パパの意向を受けて警察署に出勤する。ブーダイーンの友人たちは、そんな彼をもはや仲間とは見なさない。マリードの影にパパあり、だ。
 マリードの母親が登場し、マリードの頭を痛める。
 パパの娘と名乗る女が登場し、やはりマリードの頭を痛める。
 パパがくれたプレゼントは、数少ないブーダイーンの友人が経営していたクラブの経営権。マリードは頭を痛める。
 パパがマリードの世話をさせるためにつけた奴隷は、マリードの言うことを聞いてくれない。マリードは頭を痛める。
 頭は痛くても、ベテラン警官と一緒にパトロールに出かけなければならない。
 遊びは遊び、仕事は仕事。それがこの街の定めだから。
 たとえ警官になっても、マリードは、マリード。ドラッグと人格モジュールと酒の力に頼りきりながら、萎える心に時々鞭打って、やるべきことをやろうとする。彼なりの誠意を持って。
 本書に出てくる登場人物には、必ず表と裏がある。愛のすぐそばに憎しみが、信頼の隣に裏切りが、親愛の右に暴力が、冷静さは発作的な怒りに変り、情熱が冷酷と同居する。マリードしかり、パパしかり。人間には必ず二面性があり、そのどちらかに揺れ動きながら進むもの。
 前作の最後に、何もかもを奪われたマリードは、与えられた状態に満足と不満足をみつけ、奪われたなにがしかをとりかえそうとあがく。人間の弱さに満ちたマリードは、それでいて魅力あふれる主人公である。
 次作、「電脳砂漠」は、本シリーズの長編最後となる傑作であり、本作品は、「重力が衰えるとき」と「電脳砂漠」にはさまれた佳作となっているが、「電脳砂漠」を読むためにも、本作をはずすことはできない。
 異文化の魅力あふれるハードボイルドSFを、あなたの本棚に。
(2005.1.16)

重力が衰えるとき

重力が衰えるとき
WHEN GRAVITY FAILS
ジョージ・アレック・エフィンジャー
1987
 ハードボイルドとSFの相性はいい。舞台は、イスラム圏の都市の一街区ブーダイーン。歓楽とドラッグと暴力の街である。主人公はマリード・オードラーン。この街で唯一武器を持たずに歩き回ることを知られている何でも屋であり私立探偵。あらゆるドラッグに浸されていないと1日も過ごせない寂しがりや。脳に人格モジュールなどを差し込むソケットをつけることが大嫌いな男。
 登場人物は、バーのマダム、踊り子、街の真のボス、警官、暗殺者、小ボスなどなどひとくせもふたくせもある男たち、女たち、性を変えた者たち、性を変える途中のものたち。
 アザーンの響き、引用されるコーラン、アラビア語の数々。
 退廃と暴力に満ちたハードボイルドに欠かせない空間で、美しく魅力あふれるイスラムの会話が交わされる。
 ここに書かれている近未来のイスラム圏の思考、文化、社会、言語が、はたして、今のイスラム圏の延長として読めるかどうかはわからない。
 サイバーパンク小説には、日本や日本語がずいぶん出てきて、なかにはまっとうに読めるものもあるが、そのほとんどは、西洋から見た不思議なアジアの日本で、芸者ガールが実はニンジャだったりする世界である。
 それと似たようなものかも知れないし、作者がアラブ系アメリカ人ということらしいので、もっとまっとうなものかも知れない。それは分からないが、イスラム圏を舞台にしたSFはとても少ないので、その意味でも貴重。
 ただ、そういうことを抜きにして、人間の弱さとたくましさ、優しさと怖さ、つながりと孤独を表現するハードボイルド小説の王道みたいな作品である。
 ただ、そういうことを抜きにして、近未来の退廃した社会と、日常化した科学技術の前に変質した価値観、それでも変らない人間性を描いたサイバーパンクの王道みたいな作品である。
 書評を書いている場合でも、書評を読んでいる場合でもない。本書が未読の方は、ぜひ読んで欲しい。楽しめること請け合い。
(2005.1.13)

宇宙船ビーグル号の冒険

宇宙船ビーグル号の冒険
THE VOYAGE OF THE SPACE BEAGLE
A・E・ヴァン・ヴォークト
1950
 宇宙船ビーグル号は銀河から銀河に旅をする探査船。1000人以上が乗り組み、その多くが科学者で、あとは警備のための軍人である。数学、物理、化学、天文、地質、考古、心理、生物、植物、冶金、社会など、さまざまな分野の科学者が、広大な宇宙を旅しながら、そこに出会ったものを収集、分析していく。はずであった。ビーグル号には、若きエリオット・グローヴナーが唯一の総合科学部長として乗り込んでいた。総合科学は若き学問で、部長といっても部下の研究者がいるわけではない。総合科学について、他の科学者は何も知らない。いったい何をする学問か! 若造が! ってなもんである。
 ところが、異星の惑星、宇宙空間などで出会う様々な事件と生命体からの攻撃に対し、最終的に適切な対処を編み出すのは、いつもグローヴナー君の頭からであった。  すべてのできごとを様々な科学的角度から分析し、予測、判断し、行動を導き出すことができる、それが総合科学=ネクシャリズムであり、その知識と技能をもった科学者が総合科学者=ネクシャリストである。
 ど、どーん。
 すいません。ちゃかしています。
 理由があります。
 実は私、「総合科学部」出身である。
 某国立大学は、大学紛争後に教養学部を改組して、総合科学部総合科学科という学部をこしらえた。私は、第10期入学生であり、その前後を見ていると、毎年のように入試の方法やカリキュラムのしくみが変っている。
 学部生よりも教官、講座の数の方が多い学部であった。
 ここは、ネクシャリズムではなく、「科学と技芸の統合」という英語の学部名がついていたので、本書とはあまり関係がないのだが、高校までに本書を読んだことのある人間がこの学部にはそこそこいるのである。まあ、そうだろうとも。
 私の時には、入試も変っていて、二次試験では、理科系入試(数学と科学4つのうち1つ)、文科系入試(英語、小論文 等)があり、二次試験で理科系を選ぶと、共通一次試験の文科系科目が傾斜配点で1.5倍され、二次試験で文科系を選ぶと、共通一次試験の理科系科目が1.5倍された。つまり、どっちもできるのが欲しいということである。
 その2年後には、一般の学部入試同様、二次の理科系選択者は一次の理科系科目が傾斜配点されたので、我々の学年と2年後の学年ではずいぶん傾向の違う学生が入ってきたようである。
 さらに、入試は入試であり、入学後は、理科系の選考でも文科系の選考でも自由であった。しかも、義務として、他分野の専門をある程度とらなければならないことになっていた。
 そもそも、ひとつのことに集中するのがまったくできない私には、天国のようなところで、あっちで心理学を、こっちで情報理論を、はたまた人類学や法学などをつまみ食いしているうちに、なんとなく卒業の運びとなったのである。
 実は、本書をはじめてきちんと読んだのは、大学を卒業してからである。
 ちょっと、気恥ずかしかったのだもの。
 読んでみると、ええー! である。
 たしかに、科学はその膨大な知識のため細分化し、専門性が求められるようになっている。一方で、さまざまな要素をそろえ、多角的に分析、判断することも求められているが、それを学問として育てる体系はなかなか育っていない。いわゆるコーディネート能力というやつであるが、どうもビジネス分野に偏っているようである。
 本来、学問の分野にこそ、統合調整能力が求められるべきではなかろうか。
 私の出た総合科学部総合科学科は、当時それをやるには力不足であった。今はどうか知らないが、社会の必要からできた学部だということは、今も信じている。
 その意味で、本書に出てくる若き学問である総合科学は、ちょっとやりすぎだよなあ。
(2005.1.12)