銀河帝国の崩壊

銀河帝国の崩壊
AGAINST THE FALL OF NIGHT
アーサー・C・クラーク
1953
 創元推理文庫SF部門定価200円。1964年10月初版発行、1978年4月31版。
 表紙は誰の絵だろう、緑色と赤の空飛ぶ円盤が黄色と赤の光をおびておどろおどろしい惑星の空を飛んでいる。創元のSFのロゴが、手塚治虫の手書きタイトルっぽい感じで実にいい味を出している。
 それにしても、「銀河帝国の崩壊」である。どうしてこの邦題になったのだろう。タイトルで買ってしまうよなあ。70年代の中学生は。本書に書き込まれた25年ほど前の私のメモによると、本書は私が買った文庫SFの16冊目にあたるらしい。
 消費税のないいい時代である。
 家庭にパソコンもゲーム機もビデオもほとんどなかったいい時代である。
 しかし、当時の中学生にとって200円は大きかったのだ。
 買った当時にはすでに「都市と星」がハヤカワSF文庫で出ていたようだが、おそらく田舎の本屋の都合か私の経済力によって本書を買ってしまった。
 今、あらためて「都市と星」を読み、その後に「銀河帝国の崩壊」を読んでみると、ひとりのSF作家が、時代を読みとりながらいかに作品を再構成したかがはっきりとわかる。
 今も表紙は変ったが、本書は創元から、そして、「都市と星」は早川から出続けている。
 SFを書こうと思っていたり、小説家になりたいという人は、この2冊を読み比べるとよい。アイディアのふくらましかたと、それにより小説がどう変るかが読みとれることだろう。
 作品については、「都市と星」の方を読んで欲しいが、本書では「都市と星」にあるような仮想現実やデータ化された人格などは出てこないので、より作品の哲学が凝縮されたものになっている。どんなに閉塞し、保守的で、壁に閉じこもったような社会でも、いつか必ず壁を越える者が登場するのだ。というお話し。
(2005.1.9)

都市と星

都市と星
THE CITY AND THE STARS
アーサー・C・クラーク
1956
 クラークは偉大だ。再読して、あらためてそう思う。何億年も先の地球に唯一残された都市、ダイアスパー。人々は1000年ほど生き、そして、次の眠りにつく。生まれたときからほぼ成人の姿で、最初の20年は子どもとして扱われ、都市に再びなじみ、過去の記憶を思い出すための時間として存在する。個人の情報はすべてメモリー化され、セントラルコンピュータが都市を管理している。
 都市には伝説があった。かつて、地球人類は広大な宇宙に進出し、帝国をなしていたが、異星人によって帝国を崩壊させられ、地球に逃げ戻ったのだ、と。
 だから、ダイアスパーの住民は決して外へ出ようとはしない。外のことを考えるだけで恐怖におびえてしまう。
 地球の、ダイアスパーの外は砂漠が広がっていること以外、誰も外を知ることはない。
 ただ、平和に、暮らしていた。
 時には、仮想現実ゲームに興じながら。
 そこに、今まで一度も誕生させられたことのない、つまり、過去の記憶を持たないユニークな青年アルヴィンが誕生する。物語は彼が20歳を迎えるところからはじまる。
 仮想現実ゲームでは、そのルールをやぶって仲間たちのひんしゅくを買うアルヴィン。
 自分が、他者と違っていることは知っていても、それがどんな意味を持つかはわからない。ただ、ダイアスパーで生きることが息苦しくて、孤独でならない。
 なぜ、彼ははじめた誕生させられたのか?
 当然のことながら、彼は外を希求する。
 そして…。
 1956年発表である。クラークがはしがきに書いている通り、本書は、1953年に発表されたクラークの処女長編「銀河帝国の崩壊」Against the Fall of Night の書き直しだ。クラーク曰く「この物語を思いついて以来20年間に起こった科学の進歩」「とくに情報理論における一定の発展」を受けて書き直したかったという作品であり、イングランドからオーストラリアへの船旅の途中で書き上げられた。
 個人の存在すべての情報化と再生、この場合、仮想空間ではなく、実体化であるが。さらには、登場する仮想現実ゲームや、自分は部屋にいながら仮想存在としてダイアスパーを動き回る様。必要に応じて生成される家具。思考を壁に投影して描かれる絵画は、必要に応じてコンピュータから呼び出すことができる。
 今でこそ、仮想現実ヴァーチャルリアリティやシミュレーション、コンピュータを利用したデータの自由な保存と再生、データからの実体形成などは、SFとして当たり前になっており、また、遠くない未来に実現するテクノロジーとして企業社会では議論され、稚拙ながらも導入されている。が、1956年である。
 真空管コンピュータからトランジスタ使用のコンピュータが登場しはじめた頃の話である。コンピュータの利用について、情報の利用についてここまで小説化することができたクラークは、やはり偉大だ。
 もちろん、それだけではない。さまざまなアイディアに満ちた作品である。
 とはいえ、もちろん古さもある。
 ここに書かれたイメージは、ちょうど、光瀬龍の小説を漫画化した萩尾望都の「百億の昼と千億の夜」や萩尾オリジナルの「スターレッド」を思わせる。私の今回の再読は、どうも頭の中は萩尾望都キャラクターと風景の世界で読んでいたようだ。
 どちらもはじめて読んだのが、同じ頃だったからだろうか。それとも、「百億の昼と千億の夜」は本書に触発されて生み出されたのだろうか。
 さて、せっかく本書を読んだのだから、このおおもとである「銀河帝国の崩壊」を再読してみよう。
(2005.1.7)

パーマー・エルドリッチの三つの聖痕

パーマー・エルドリッチの三つの聖痕
THE THREE STIGMATA OF PALMER ELDRITCH
フィリップ・K・ディック
1964
 本書には、ディックのすべてがつまっていると言っても過言ではない。
 私は、本書が大好きだ。何度読んだかわからない。
 そして、読むごとに、書かれていることが心にすうっと入り込んでくるようになる。
 年を取るごとに、書かれていることが実感される。
 世界が変化しているのか、自分が変化しているのか。それらはどちらも同じことなのか。
 ディックが書いているとおり、本書のすべては本文の前に書かれている一文にある。
「つまりこうなんだ結局。人間が塵から作られたことを、諸君はよく考えてみなくちゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切りぬけられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?」
 時は21世紀初頭。地球は世界的な気温上昇に苦しんでいた。政府は、無作為に他星系や惑星への移民を行っている。火星はそのひとつ。しかし、地球に帰ることの許されない移民たちは、火星でなにもかもがだめになっていくのを無為にながめ、政府からの援助物資にすがって生きていた。そして、キャンDとパーキー・パットの人形セット。パーキー・パットの人形セットを眺めながら違法なキャンDをなめれば、そこにいるすべての男女が、パーキー・パットとそのボーイフレンドに移入し、ぜいたくな地球の暮らしを仮想体験できる。それだけが彼らの楽しみ。もしくは、新興宗教に没頭するほかない。
 キャンDとパーキー・パットの人形セットは、どちらも、PPレイアウト社の商品。表と裏。仕切るのは、医学により未来人に進化したレオ・ビュレロ。決して立派な人間ではない。私利私欲で怒りっぽく、わがまま。冒頭の一文は、彼の言葉である。
 ある日、パーマー・エルドリッチが、プロキシマ星系から帰ってくる。右手は付け替え可能な義肢、歯はステンレスストーンの義歯、目ははめ込み式の顔を横切る人工グラス。彼は、キャンDに代わるチューZを地球にもたらそうとしている。
 ビュレロは、自らの経済基盤が崩れるのを恐れ、パーマー・エルドリッチの殺害も含めて様々なたくらみを講じる。
 しかし、チューZとパーマー・エルドリッチには隠された秘密と目的があった。
 翻弄されるレオ・ビュレロと、主人公のプレコグ(未来予知)者バーニー・メイヤスン。彼は常に名を間違えて呼ばれる男。
 パーマー・エルドリッチの現実に取り込まれ、真実を、現実を見失いながら、そこに真実を、現実をみいだすメイヤスンとビュレロ。ふたりの行動はあまりにも違った。
 真実とは、真理とは、正義とは。
 神性とは?
 疎外と、ぼやけた現実と、絶望というパーマー・エルドリッチがもたらした邪悪な3つの陰性に対し、人は何ができるのか?
 常に、すべての作品を通じて、疎外、ぼやけた現実、絶望と向き合ってきたディックが、もっとも素直に、その3つに対して戦いを挑む人間の存在に真を置いた作品である。
 私は、世界が、人間が信じられなくなったとき、本書を読むことにしている。
 もっとも本書は、ユーモアとSFガジェットにあふれる、ディック的なエンターテイメント作品である。肩の力を抜いて読んで欲しい。
(2005.1.4)

神の目の凱歌

神の目の凱歌
THE GRIPPING HAND
ラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネル
1993
「神の目の小さな塵」の続編である。前作から9年、ニーヴンがちっとも続編に取り組まないジェリー・パーネルにじれてじれて自分で書ける部分を全部書いて、パーネルをせかせてまで書かせ、発表したという作品である。まずは、前作を読んでおもしろかった方、読んでください。本作は、前作から25年後。いよいよ封じ込めた異星人が封鎖線を突破するか、というところからはじまる。前作はファーストコンタクトものだったが、今作は、まさしくスペースオペラ。前作では悪人扱いだった大商人のアラブ人イスラム教徒ホレス・フセイン・ベリー閣下が大活躍する。なんといっても、”アラブは受容されたのだ。もちろん、すべての帝国市民にではない。だが、充分な数の市民に受容されている。しかも、その数は増えていくだろう”とのベリー閣下の科白である。時は、西暦3040年代のことだ。
この科白が、今ならば、どれほどよいことだろう。
本作では、異星人モーティと人類帝国は共存できるか? それとも、モーティと人類の将来の殲滅戦は避けられないのか? がひとつのストーリーになりながら、宇宙戦争と、戦略、権謀術、交渉などを楽しませるエンターテイメント作品である。
前作の登場人物、それから、前作のヒーロー、ヒロインの子どもたちも活躍するあたりが、まっとうな続編という趣で実によい。
それはさておき。本作の下巻巻末には、付録として前作の合作ノートがついている。それによると、前作・本作の宇宙帝国世界は、パーネルがすでに作品として出している未来史に沿ったものだという。唐突な西暦3千年代のファーストコンタクトには理由があったのだ。
前作がおもしろかった方には、この合作ノートを読むだけでも価値がある。
正直なところ、本作は、前作を読まないことにはそのおもしろさが半減するだろう。
本作を読んだからといって、前作の楽しさが減ることもない。
もちろん、どっちが名作かと言えば前作になる。本作は、前作と同じぐらいのボリュームがある超大作だが、それでも駆け足すぎるきらいがある。きっと、もっと時間があれば、じっくり書き込みたかったのだろう。彼はその後どうなった? あの人たちのその後は? なんてことを読み終わった後にどうしても考えてしまう。伏線のまま終わるのはなしにして欲しいのだが、そんなことをいまさら言ってもどうしようもない。その点がちょっと残念でした。
(2004.12.31)

スローターハウス5

スローターハウス5
SLAUGHTERHOUSE-FIVE
カート・ヴォネガット・ジュニア
1969
 本書の主人公、ビリー・ピルグリムは、著者と同じ1922年生まれ。1986年に死亡。”「1986年2月13日に死ぬのであり、常に死んできたし、常に死ぬであろう」”
 この本書を、1986年に広島で私は読んだのであり、常に読んできたし、常に読むであろう。2004年にも読んだのだ。
 1980年代は、フィリップ・K・ディックやカート・ヴォネガット・ジュニアがSFではない人たちにも読まれた時代だった。
 1980年といえば、その年の暮れに、ジョン・レノンが殺された。12月8日、日本がパールハーバーに攻撃を加えてから39年後のことである。
 911以降、ジョン・レノンのイマジンはアメリカの大手メディアで自粛され、流されなかったという。大手メディアは何を想像(イマジン)したのかしらん。
 スローターハウス5とは、屠殺場5号棟というような意味。ドイツのドレスデン1945年に、ビリー・ピルグリムはそこにいた。捕虜として。殺されるためではない。家畜をと殺するところである。もう家畜がいなかったから、使う必要のない屠殺場を有効利用したのだ。ナチスドイツ=虐殺ばかりではない。戦時捕虜は捕虜として扱われるのだ。
 1945年2月13日夜、ドレスデンは激しい空爆にさらされた。もちろん、イギリスとアメリカの戦闘機である。
 ビリー・ピルグリムは生きていたし、カート・ヴォネガット・ジュニアもまた生き残った。
 ドレスデンは壊滅し、13万人以上が死んだ。ある数以上は、人は数えなくなるらしい。20万人という説もある。
 1960年代まで、ドレスデン空爆は隠されていた。
 生き残った人間には、隠されることはない。
 本書はSFである。宇宙人も出てくる。
 トラルファマドール星人には、”人間は長大なヤスデ--「一端には赤んぼうの足があり、他端に老人の足がある」ヤスデのようにみえる”。
 私には、自分の端も、人の端も老人の足の方の端は見ることができない。
 ただ、死んだ人だけは、そこが端だということがわかる。
 たくさんの人が死に、死に続ける。
 ビリー・ピルグリムは、トラルファマドール星にとらえられた時期がある。44歳の頃だ。そこで、子をなしている。
 1948年、ビリー・ピルグリムは、エリオット・ローズウォーターと病院で出会う。ここで彼はカート・ヴォネガット作品に欠かせないSF作家キルゴア・トラウトの作品と出会う。キルゴア・トラウトの作品は、ヴォネガットのようには売れていない。
 1964年、ビリー・ピルグリムは、キルゴア・トラウトとも出会う。18回目の結婚記念パーティーに彼を招待した。
 ビリー・ピルグリムは、地球とトラルファマドール星で結婚し、子どもをなした。
 誰も殺さず、殺された。
 なぜか知らないけれど、わが家には、文庫版の初版で表紙が映画の1シーンになっているものと、1986年2月28日版で和田誠が表紙を書いているものがある。
 何回かは、読んでいるらしい。
 今、また読む。
 トラルファマドール星人にはどう見えるのだろう。ヤスデの数カ所で、同じ本を手に取るのは。
 本は何度も読むことができるが、死ぬのは1度だけである。生まれるのも。
 911以降、世界はややこしくなっているが、これもまた、繰り返しである。
 だからといって、今殺された人間は、はじめて死ぬのであり、それまでは死んでいなかったのだ。
 911以降に、カート・ヴォネガットを読むのはいいことかも知れない。
 本書に出てくるトラルファマドール星人は、その後、テッド・チャンのヘプタポッドになったのかと思わせる。「あなたの人生の物語」は、戦争の話ではないが、読んでみるとよい。
(2004.12.28)

神の目の小さな塵

神の目の小さな塵
THE MOTE IN GODS EYE
ラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネル
1974
異星人とのファーストコンタクトものである。
そこは、ニーヴン。時は3017年。人類は、オルダースン航法により、いくつかの恒星間を瞬時に旅する技術を手にして2020年から宇宙移民を開始していた。2250年に、第一次の人類帝国が誕生するものの、2063年には分離戦争がはじまり、2903年にようやく第二次人類帝国が宣言され、以後110年に渡り、各地の反乱を平定し、帝国に組みこむための宇宙戦争が続いていた。そこに、はじめての異星人である。
なんとまあ。希有壮大な。
人類ばかりの「スターウォーズ」の世界に突然、知的異星文明との接触が行われるのである。しかし、この異星文明はまだオルダースン航法を見いだしてはいなかった。
それ以外は、戦争もない1万年以上もの長きに渡って文明を維持してきている。
はたして、彼らは敵か、味方か。人類と共存できるのか?
今、人類社会と異星文明の将来を背負って、ひとりの青年貴族の海軍将校ロッド・ブレインが旅立つ!
反乱の起きた惑星で長きに渡って拘束されてきた若き貴族の娘で人類学者のサンドラ・ファウラー嬢、その反乱の黒幕と目を付けられている大商人ホレス・フセイン・ベリーら、脇も怠りなし。
どどーん。
ドク・E・E・スミス(レンズマン、スカイラークシリーズ)ばりのスペースオペラである。異星人の生態や社会、宇宙船の航行など随所にハードSFとしての醍醐味があふれている。ゴシック風な筋立てで、しっかり70年代SFを身にまとっているのだ。
ラリー・ニーヴンは本当にSFが好きなんだなあ。
ああ、SFが読みたい。この世のうさを忘れて、宇宙を飛び回り、様々な危機に出会いたい、そんなあなたにこの1冊(いや、日本版だと2冊だが)をお勧めしたい。  頭の中で、映画でさえ追いつかない壮大なドラマをあなたに!
(2004.12.23)

テラプレーン

テラプレーン
TERRAPLANE
ジャック・ウォマック
1992
 2023年、「ヒーザーン」から25年後の未来。「ヒーザーン」ではポストモダン思考と言葉で物語の脇を固めたジェイクも立派なボディーガードに育っている。ロシアは義務消費体制で経済を活性化させ、アメリカをドライコ・コーポレーションが支配するように、ロシアもまた私企業の元に支配されていた。
 そのロシアで、ニコラ・テスラばりの発明があり、ドライコからその秘密を探り、入手すべく主人公の黒人男性ルーサーがジェイクに付き添われて訪れる。
 秘密を奪取したものの、逃げ場を失い、発明者の助手の研究者オクチャブリーナらとともに、装置を作動させた。行き着いたところは、1939年。20世紀になるまで黒人は奴隷のままで、いまだ差別が激しく、フランクリン・ルーズベルトは暗殺され、不況のままに、ヒットラーのみが台頭しつつある「もうひとつの」1939年だった。
 中年黒人男性、白人だが、ポストモダン語しか話せないあやしいボディーガード、ロシア人の女…、この3人を救ったのが、黒人医師のドクだった。ドクは、黒人が迫害されない自由で、希望に満ちた未来を夢見ていた。
 ジェイクとオクチャブリーナのぎこちない恋愛。
 ドクと妻のアリス。
 そして、わたし=ルーサーと、それぞれの人物たちの異質な、異質故の関わり、ふれあい、そして、希望。
「ヒーザーン」に比べれば、わかりやすく、読みやすい話である。そして、とても、せつない。
 2004年の現在、911以降、ふたたび顕在化した大きなシステムによる人々への支配と暴力の構図の中に生きるとき、本書は二重の既視感を与える。主人公ルーサーが見たもうひとつの1939年は、現実世界の悪夢をすこしだけ強調したものにすぎない。
 ルーサーは、その悪夢の中で2023年への帰還を夢見てはばからない。そして、ドライコの庇護を母の恩寵のように願うのだ。「ヒーザーン」で、ドライコ(初期)の中枢にいた主人公ジョアナが、ドライコの庇護に息苦しさを覚えるのとはまったく対照的である。
 その2023年は、冒頭に書いたとおり、超巨大多国籍企業による国家と経済、社会の支配の構図にある。わたしが、いや、19世紀から20世紀前半にかけて、世界中の人々が恐れた独占企業による支配が、より洗練され、徹底されて実現しているのだ。ルーサーと違い、わたしは、その2023年にも恐怖する。
 そして、気がつくのだ、ドライコの2023年と、もうひとつの1939年と、今、わたしが生きる2004年との間に、それほど大きな差はないことを。
 さて、原題である。テラプレーンとは、1930年代にアメリカではやった車のブランド名。よくギャング映画などでお目にかかるあれである。前のエンジン部分が長く突き出すようで、美しいデザインに仕上がっている。
 ハドソン・テラプレーンとか、ハドソン・エセックス・テラプレーンとも呼ばれる。
 アメリカのハドソン社が1932年に発表した6気筒、8気筒の車で、経済的な走りと、丘も楽にのぼる実力、当時のスピードレコードを持つ車だったという。
ちなみに、本書に登場するロバート・ジョンソンが「テラプレーン・ブルース」を歌っているが、これもハドソン社のテラプレーンのボディを女性に見立てたもの。おしゃれな車だったのだ。
 本書もまた、絶版のまま、続編も翻訳されることなく放置されている。
 存在しなかったもののように。
(2004.12.23)

ヒーザーン

ヒーザーン
HEATHERN
ジャック・ウォマック
1990
 ジャック・ウォマックによる、シリーズ6部作の第3作で、日本ではジャック・ウォマックをはじめて紹介した作品。このあと、シリーズ第2作の「テラプレーン」が翻訳され、以後、両作品とも国内では絶版となっている。ヒーザーンが翻訳されたのが1992年で、この時点では6部作のあとの3作品は書かれていない。また、時系列では本書→未訳の第1作、「テラプレーン」という順番になる。それぞれの作品に共通して出てくる主人公や設定はあるが、単独の作品としても読むことができる。その後、翻訳されない事情は分からないが、非常に訳しにくい作品であることは間違いなく、若くして亡くなった翻訳者の黒丸尚氏の力量を持ってはじめて訳すことができたのだと思う。すでに、アメリカでは6作品とも出版され、現代アメリカの小説として高い評価を受けているという。そもそも、本書がSFのカテゴリーに入れられ、ハヤカワ文庫からSFとして出版されているのは、超能力者や時空移動などが設定の中にあること、また、もうひとつの未来を描いていることから来るもので、SFの文法とはずいぶんと趣を異にする。
 さて、ポストモダンである。私は1980年代に大学した。ポストモダンは、最先端のゴシップ。脱構築、メタ言語、人工知性に仮想現実、両義性等、明瞭なしの言葉使いで、思考は近代脱不良の過去。
 ポストモダンを、現実化するとこうなりますよ、という作品である。
 なるほどお、こうなるのか。
 さて、ヒーザーン(異教徒)である。
 今、私は、インドネシアのバリ島にいる。ひとりの同世代人について話をしたい。
 彼女は、幼いころから貧困の中、学校にも行かず、観光客相手の物売りをして働いた。出身の村には観光客は来ない。だから、離れた観光客の来る村まで行って、チケット、おみやげ物などを売っていた。もちろん、それで家族が暮らせるわけではないが、彼女の働きで小学校に行かせるまでになった。
 彼女は、14歳で嫁に行く。観光客の村に暮らす年上の若者であった。若い男は、今も昔も働かない。働いて、家を切り盛りし、金を稼ぎ、家の寺、地区の寺、村の寺、バリの寺のお祭りを、日々の祈り、日々のお供え、祭りのお供えを、作り、買い、捧げるのは女達の仕事である。働かない、暴力を働く夫の元で、彼女は働き、働いた。心臓を壊すまでに。
 ある日、観光客のひとりと出会う。心臓の負担で苦しんでいた彼女を見かねたのだ。
 彼女は英語が話せた。もちろん、独学である。観光客相手の応対で覚えていったのだ、バリ語、インドネシア語ももちろん話す。しかし、文盲である。文字はほとんど読めない。道具としての話し言葉だけである。
 その、アメリカ人観光客は、彼女の境遇に興味を持った。そして、バリに長期滞在を何度も繰り返す男でもあった。彼は、彼女と話し、彼女の家族とも話し合って、ひとつの提案をした。彼女の家族の敷地に、ゲストハウスを作りなさい。そのうちの一部屋は彼のものとして、彼が来たときには、家族として、食事を出し、掃除をし、バイクで案内をしなさい。彼が、ゲストハウスの建築費はすべて払おう。さらに、小さな店を借りるための最初の代金を出してあげよう。代わりに、彼が来たときの滞在は無料にしなさい。それが彼の提案だった。彼は、彼女の苦しみの一端を取り除こうとした。
 そして、彼女に、もうひとつの提案をした。すでに、彼女はバリ島の病院に行っていたが、とうてい治せるような状況ではなかった。そこで、彼は、彼女にアメリカまでの航空運賃を持ち、身元保証をしてくれた。アメリカの医師に見せるためである。そして、アメリカで半年間働きなさい。そうすれば、家族へもお金が送れるし、医療費も払えるようになるだろう。
 それが、彼のもうひとつの提案だった。
 彼女は、過去7年、年に3カ月から半年はアメリカに行き、病院で検査を受け、薬をもらい、そして、働いている。バリ島から送った衣類をフリーマーケットで売る、工事現場で肉体労働をする、お手伝いとして下働きをする。数年前、危篤状態に陥って、アメリカで心臓手術をした。幸い一命はとりとめた。今も、彼女は、バリ島でゲストハウスを切り盛りし、店で観光客に安い衣類を売り、子を育て、早くもできた孫を育て、家族を切り盛りし、アメリカに行っては病院通いと日雇い仕事を続けている。
 バリ・ヒンズー教徒である彼女にとって、いや、バリ・ヒンズー教徒にとって、生活の場を離れることは深刻な自体である。山と海との間に人の暮らす場があり、マンダラのように生活と神の場が入り組み、重層となり、時間も空間も、日々の行為から週、月、年、一生を通じて、生活と神との間に定められた行為を行うことが、命であり、人生であり、喜びであり、悲しみであり、豊かな人生なのだ。そして、女達がその中心軸にいる。なのに、年の半分を家族、土地、空気、水から離れて暮らすのだ。
 異教徒として。
 言葉も、半分しか通じない、半分しか読めない国で。
 彼女は、アメリカでも日々祈る。
 そして、食事は、コリアンマーケットやチャイナ、ベトナムマーケットで食べたり、食材を買ってきて作って食べる。
 安く、なじみのある食材があるからだ。
 異教徒同士が、異教徒の国ですれ違う。
 しかし、彼女には、確固たる信念がある。
 彼女の神は、彼女をすべてを見ている。
 言葉の違う、異教徒の地であっても。
 その話を、異教徒であり、言葉の通じない私が聞く。何年にも渡って、少しずつ聞いてきた。私の英語など、たかが知れており、そして、彼女の英語はとても聞き難いのだ。
 ヒーザーン。異教徒の語がアメリカ南部なまりになって聞こえる語。
 同じアメリカ人同士でも、異教徒は、すれ違うだけ。
 本当の救世主がいても、他の神を、他の信仰を、他の信念を持つ物にとっては、それは、トリックであり、見せ物であり、ちょっとした能力に過ぎない。
 暴力と支配が蔓延した20世紀末(1998年)の世界で、ポストモダン化した支配者達が繰り広げる、ささやかな物語である。
 その語り口に、思考に、驚愕し、異教徒が異教徒であることを知るのだ。
 2001年9月11日以降、本書に示唆されたもうひとつの未来は、私たちの未来と限りなく近づいていることに、決してそのものにはなれないが親近感と憧憬を持つ異教の地で、再読し、あたりを見回して気づくのであった。
 この、神の寵愛を受けているバリの人達でさえ、世界の暴力と経済を語るのだ。
 彼らの日々の暮らしが、それにより脅かされているために。
(2004.12.14)

キリンヤガ

キリンヤガ
KIRINYAGA:A FABLE OF UTOPIA
マイク・レズニック
1998
 2123年4月19日から2137年9月まで、プロローグとエピローグを入れて10の物語でつづられるテラフォーミングされた小惑星キリンヤガの物語。
 キリンヤガに暮らすのは、伝統的キクユ族の生き方を選んだキクユの人々。主人公は、ヨーロッパやアメリカで教育を受け、その後、伝統的なキクユの社会を取り戻すために、キリンヤガの設立認可を勝ち取ったリーダーのひとりで、キリンヤガではムンドゥムグ=祈祷師をつとめるコリバ。彼の一人称で物語は語られる。
 ヨーロッパ的なものをすべて廃し、大地と風と水とサバンナの動物と植物とキクユの人々からなる完結したユートピアは、完結をしたゆえに、ほころびをみせる。
 ひとつひとつの物語が、さまざまな寓話や物語を内包し、読者にいくつもの問いかけをする。それは基層文化・生活文化と科学技術を中心にすえた文明が矛盾してしまった現代社会と、そこに生きる人間に対する問いかけとなる。
 この物語そのものが、私たちの生き方、考え方、暮らしに対して、問いかける。
 正解も回答もない。自問自答するしかない。ただ、問いかけを受け、思うともなく思い、考えるともなく考えることで、次の一歩、次の行動、次の思考がすこしだけ変ることになる。それが、物語のもつ力である。本書には、物語の持つ魔法の力がある。
 最近、「物語消滅論」(大塚英志 2004 角川書店)を読んだ。ここでは、物語不在の今日、物語が単純化され、社会の道具として使われていることへの危惧が語られている。
 物語は、人間社会とともにあり、物語が思考を、社会を、生き方を、顕わし、示し、変えている。
「キリンヤガ」は、そんな物語の限界と可能性を表現した作品である。
 SFに興味がない人でも大丈夫。科学技術の知識もいらない。アフリカの部族社会の知識も不要である。「指輪物語」よりはるかに読みやすい。しかも、長編ではなく、中短編で、ひとつひとつが独立した物語になっている。
 だまされたと思って、読んで欲しい。おもしろいから。
 ちなみに、私は、プロローグ「もうしぶんのない朝を、ジャッカルとともに」、最初の2編「キリンヤガ」「空にふれた少女」、エピローグ「ノドの地」が好きだ。
 ひとつ告白しておく。アフリカのキクユ族とその社会構造については、大学3年の社会人類学教室のゼミで、英語文献読解のテキストになっていたので知っていた。恥ずかしながら、当時は、英語がとても嫌いだったので、そのような専門書、しかも、技術用語ばっかりのテキストに真剣にとりかかる意欲もなく、今思えば残念なことをした。後悔先立たず。
 また、本書を読んだ上で興味が出て、あらためてケニアのイギリスからの独立の歴史と現状について若干ながら調べ、学ぶことができた。本書で書かれている「過去」の歴史は、史実である。決して仮想な民族、社会ではないので、その点は指摘しておきたい。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞ほか受賞
(2004.12.11)

デューンへの道 公家コリノ

デューンへの道 公家コリノ

DUNE HOUSE CORRINO

ブライアン・ハーバート、ケヴィン・J・アンダースン
2001

「デューン」は大河ドラマである。それは、「三国志」「ローマ帝国の興亡」などとも共通する、歴史物語であり、人の物語である。書かれた内容もさることながら、それに携わる作家や訳者の物語も、あるいは読者のそれもまた興味深い。
 本書は、デューンシリーズの続編である。本編「砂の惑星」の主人公であるポウル・アトレイデの父親レト公爵の子ども時代から、ポウルが生まれるまでを描いた、「前史」三部作の最後となる。デューン・シリーズを紹介するのはこれがはじめてになるので、ここで現在までに日本に紹介されている作品をあらためて時系列に並べておこう。
 デューンへの道 公家アトレイデ 1999
 デューンへの道 公家ハルコンネン 2000
 デューンへの道 公家コリノ 2001
 デューン 砂の惑星 1965
 デューン 砂漠の救世主 1969
 デューン 砂丘の子供たち 1976
 デューン 砂漠の神皇帝 1981
 デューン 砂漠の異端者 1984
 デューン 砂漠の大聖堂 

「デューンへの道」3部作は、「デューン」の作者フランク・ハーバートの死後、そのメモを元に、息子であるブライアン・ハーバートと、ケヴィン・J・アンダースンが、プロジェクトを組み、続編を書くための準備として書き表したものである。
「デューン」シリーズも、初期の3部作と後期の3部作はずいぶんと趣を違えている。初期3部作でも、とりわけ本編である「砂の惑星」は、他の作品群と大きく異なる。
 が、実は、このうち、「砂漠の大聖堂」は未読である。
 今も覚えているのだが、ちょうどはじめて就職してバブル経済末期の忙しい日々を送っている頃に出され、本屋に並んでいるのをみて、買おうかと迷ったのだが、その前作までを実家に送っていて、手元になかったため、買うのをやめた。それというのも「砂漠の神皇帝」以降の皇帝レトの話があまりおもしろくなかったからである。今思えば、残念なことをした。なんとかして読みたいものだ。

 さて、なかなか本書に行き着けないが、「砂の惑星」について書いておこう。手元にあるのは、昭和47年発行、昭和54年(1979年)第13刷版である。ちょうど、完結編と言われた「砂丘の子供たち」が翻訳出版されたころで、買ったのが中学3年か高校1年のころ。はまるにはちょうどいい時期だった。表紙・挿絵はもちろん、石森章太郎(当時)。
 本文にある“恐怖は心を殺すもの。恐怖は全面的な忘却をもたらす小さな死。ぼくは自分の恐怖を直視しよう。それがぼくの上にも中にも通過してゆくことを許してやろう。そして通りすぎてしまったあと、ぼくは内なる目をまわして、そいつの通った跡を見るんだ。恐怖が去ってしまえば、そこにはなにもない。ぼくだけが残っていることになるんだ”という、本シリーズでは繰り返し出てくる言葉に、わざわざ線を引いて記憶しているぐらいである。
 なにをやっているんだか。

「砂の惑星」に書かれる惑星アラキスの水がほとんどない環境での生態学、砂虫と香料スパイス(メランジ)の深い関わり、砂漠の民フレーメンの生活、思考、行動などなど、作者フランク・ハーバートが世界を丸ごと生み出した。多くの人が、砂の惑星に入り込み、その背景世界である帝国と皇帝、大公家、宇宙協会、協同公正重商高度推進公社の勢力争い、陰謀の中の陰謀に引き寄せられ、ベネゲセリット(魔女)、メンタート(人間電算機)、武器師範(ソードマスター)ら魅力あふれる異能者たちや、鳥型飛行機(ソプター)や大宇宙船(ハイライナー)、シールド、サスペンサーといった技術の数々に魅惑されたのだ。
 ソプター、サンドウォームは、宮崎アニメに出てくるガジェットを彷彿とさせる。
 宗教や精神、議会や帝国、賢者といったあたりに「スターウォーズ」も感じさせる。
 世界のSF界、文学界、環境生態学などに大きな影響を与えた作品こそ、このデューン「砂の惑星」である。

 その世界が、デューンへの道となって帰ってきた。ハルコンネン男爵がいる。彼は、なぜ、あれほど醜くなってしまったのか? 公爵レト・アトレイデの父ポウルスはどんな男だったのか? レトは、どうして「正義の人」になったのか。皇帝シャッダム・コリノはいかにして皇位についたのか。どのように、「砂の惑星」をとりまく世界が生まれ、社会の緊張が高まったのか? その多くの謎が明らかにされる。
 なつかしい名前が、若くなって帰ってくる。ガーニイ・ハレック、ダンカン・アイダホ。リエト・カインズが生まれ、ジェシカが生まれ、イルーランが、チャニが生まれる、あのモヒアムさえ、若く登場するのだ。
 彼ら、彼女らひとりひとりの物語よ。それこそが、デューンである。主人公だけではないのだ。登場するひとりひとりが、考え、動き、企み、怒り、悲しみ、愛し、憎み、そして、隠された目的を持つのだ。そのひとりひとりが、あまたの宇宙世界とつながっている。
 その意図は、父であるフランク・ハーバートから、息子のブライアン・ハーバートに確実に受け継がれている。そして、ひとりのファンとして、父が残した謎を、ファンとともに解き明かし、広げていくのがブライアンの仕事である。

 さて、本書「ハウス・コリノ」をデューンシリーズの最初に評するのには、ひとつ、大きな理由がある。翻訳者矢野徹の訃報が2004年10月にもたらされた。「デューンへの道」3部作の最終巻である「公家コリノ」3巻が8月に発行されて間もない時であった。
 最初の「砂の惑星」から、「公家コリノ」まで、すべてを、私は矢野徹訳によって楽しませていただいた。先の「恐怖は心を殺すもの」も、矢野訳の名調子である。
 私の少年期、青春期は、矢野徹の窓を通してアメリカのSFを、宇宙を見ることができたのだ。デューンだけではない。さまざまな作品がある。しかし、デューンは、矢野氏の「遺作」となり、かつ、彼が書いてるように足かけ34年のつきあいのある作品なのだ。私もまた、25年間、デューンとつきあい、多くのSFと出会うことができた。そのことを幸いに思い、矢野徹氏への感謝の気持ちがたえない。
 ご冥福をお祈りします。

 2003年12月から、再読を中心に、SF評を書き始めたが、すでに読んでいた本シリーズの中で、ちょうど、この間に出版された「公家コリノ」は読まないままに積んであった。3巻の訳者あとがきで、矢野氏の読者への惜別の辞のようなものは読んでいたものの、まさかこれが最後の訳書になるとは思ってもいなかった。
 訃報を聞き、それでもしばらく考えていたが、やはり、2004年の内に、デューンとハーバート親子と、矢野徹について触れておきたかった。

 デューンシリーズを読むならば、今ならふたつの読み方がある。
 まず、デューンの道を読み、それからデューンに入る道と、先にデューン「砂の惑星」を読み、それから、あとに続くデューンを読むか、デューンの道を楽しむかという道である。道は、いくつもに分かれ、未来は予見できない。
 ならば、自分が信じた道を行くだけである。

(2004.12.8)