ゲイトウエイ3 ヒーチー・ランデヴー

ゲイトウエイ3 ヒーチー・ランデヴー
HEECHEE RENDEZVOUS
フレデリック・ポール
1984
 ようやく異星人、先進文明、ヒーチーの登場。物語は急展開を見せ、る、はずだが、そこはそれ、ゲイトウエイシリーズである。
 議論ばっかりやっていて物事を前に進めるのが苦手な「自分は罪悪感をもっているんだぞ」ロビネット・ブロードヘッド氏も、いよいよ人生の佳境。
「ゲイトウエイ」では、若きブロードヘッドのひとりごとと、コンピュータ精神医との対話で、華々しき物語が繰り広げられた。
「ゲイトウエイ2」では、プログラム・シミュレーション人格のアルバート・アインシュタインと中年ブロードヘッドのくりごとを聞いているうちに、ヒーチーの存在にまでたどり着くのであった。
 そして、今回の語り手もまた、ブロードヘッドである。ただのブロードヘッドではない。死んだブロードヘッドである。そう。未読の方には申し訳ない。今回、ブロードヘッドは死ぬのである。その死はドラマティックでもなんでもない。
 ただ、移植した臓器の不全で死ぬのだ。
 せっかく、「ゲイトウエイ」で凄絶な別れをして、物語のほぼすべて、彼の罪悪感のほぼすべてであったクララと再会することができたのに、死んでしまう。
 あーあ。
 そこで出てくるのが、「2」で不完全なままに仮想化されたデッドメンのその後である。そう。伏線は明示されていた。
 ブロードヘッドは、コンピュータのバーチャルリアリティ空間に再生される。いや、転生する。
 物語は、彼の広範囲な視点、仮想化されたブロードヘッドが過去を振り返りながら現在を語るというややこしい語り口で語られる。
 そして、語るブロードヘッドを第三者として語るのが、ちょっと進化した人工知能の仮想人格アルバート・アインシュタインである。彼は、ブロードヘッドに語られながら語るのである。
 ゲイトウエイシリーズのおもしろさは、語り口、語り手そのものが「SFとして当たり前の存在」であることだ。プログラム精神医との対話、人口爆発で行き詰まり、異星文明との接触によって急速に変化しつつある中に生まれた普通の人間の視点、仮想人格をまとった人工知能、仮想化された人格など、「ふつうの語り手」ではなく、「SFならではの話者」であることで、物語に重層性を生む。それを意識的に毎回変化させていくことで、ゲイトウエイシリーズは、そのベースとなる物語を超えて新たな世界を生み出すことになる。
 それぞれの、SFとしての筋立てやガジェットがおもしろいか、奇抜かというと、そうでもない。SFが好きな人にはなじみのある流れであり小物である。それを物語としておもしろがらせてくれるのが、フレデリック・ポールのすごさだろう。これは編集者としてのすごさと共通するのだろうか。
「ゲイトウエイ2」以降の評価についてはいろいろ分かれているようだが、すなおに楽しめるSFであることは間違いない。長編シリーズ物としては例のないほど「うっとうしい」大金持ちブロードヘッドの魅力は、なかなか言葉で説明しがたいものがある。
 まあ、遠くで見ていて魅力のある人物も、近くによると、どうにもこうにもということは、現実の世界でもよくあることだ。
(2005.2.25)

ゲイトウエイ2 蒼き事象の水平線の彼方

ゲイトウエイ2 蒼き事象の水平線の彼方
BEYOND THE BLUE EVENT HORIZON
フレデリック・ポール
1980
 悩める青年ロビネット・ブロードヘッドは、いまや地球の大金持ちの中年男である。美人でコンピュータプログラミングの天才科学者を妻に持ち、彼女が生みだした科学アシスタントプログラムのアルバート・アインシュタインと、いまだ不在の異星人ヒーチーの謎やブラックホールをはじめ、宇宙の成り立ちについて終わりなき議論を続けている。
 かつてのヒーチー船による旅は、その後の調査で、より安全性が高まってきたが、いまだにヒーチーの遺体はおろか、その詳しい情報がまったく得られていなかったのだ。
 一方の宇宙。彗星の巣・オールト雲で発見されたヒーチーのCHON食料工場の探査に選ばれた1家族4人が、遅い地球の船で3年半の旅を続けてきた。地球の食糧難を解決するために、彼らは往復8年の旅を選んだのだ。もちろん、成功すれば彼らには計り知れない富が約束される。
 一方の地球。人間をはじめ、少しでも知性や理性のある生命体は過去10年に渡って130日症候群に悩まされていた。およそ130日に一度、人間は突然すべての人類が同時に悪夢と狂気に襲われ、その衝動ゆえに経済活動が止まり、さまざまな事故が発生し、人命と経済を失ってきた。その原因は分からない。
 一方の食料工場。ウワンと呼ばれる少年が、食料工場と巨大なヒーチー船との間を行き来しながらひとりだけで生きていた。彼は人間であり、情報体となったデッド・メン(死者)とオールド・ワンズ(古代人)との間で生きのびてきたのだ。なぜ、彼はそこにいるのか? 彼は何者なのか? デッド・メンとは? オールド・ワンズとは?
 あいかわらずの主人公ブロードヘッドは、130日症候群による経済損失への復旧に追われ、いたるところで起こる訴訟に悩まされ、妻が事故に巻き込まれて瀕死の状態になったことで動揺し、探査船から来る間欠的な情報、しかも光速でも50日かかるのだ! に一喜一憂し、できることと、やるべきことと、やりたいことの間で、またも、悩みながら、ヒーチーの不在と絶望する人類の行く末をおもいやるのだった。
 基本的には前作の謎解きの一部であるが、本書でもまだ異星人ヒーチーは出てこない。
 ただ、もしかしたらヒーチーがやろうとしているかも知れないこと、ヒーチーがいるかも知れないところ、そして、その目的について、本書は70年代のホーキング理論を提示しながら大胆に予測する。
 まあ、予測すると言っても、作者が自らの作品の予測をしているわけだから、続編にはその答えが出てくるわけだが、本書は、前作の謎のいくつかを解決するとともに、より大きな謎をいくつか生みだして、読者を放り投げる。
 さあ、次を読め! ということだ。
 ところで、アルバート・アインシュタイン・プログラムを構成しているのは、約600億ギガビットの情報だそうです。600億ギガビット! やるねえ。1980年代に、これくらいのことをふくらませるあたりが、老練なSF作家フレデリック・ポールの真骨頂である。
 SFなんだから、未来なんだから、ヒーチー技術を援用しているのだから、これくらい大きくいかないとね。同時期のSFに出てくるコンピュータに比べて、なんと立派な数字でしょう。まいった!
(2005.2.19)

ゲイトウエイ

ゲイトウエイ
GATEWAY
フレデリック・ポール
1977
 これぞSF! ああ、こうでなくっちゃ。
 太陽系で発見された異星人の遺跡。彼らはヒーチー人と名付けられる。彼らが使っていた小惑星が発見されるも、ヒーチー人はおろか、その死体や文字、記録さえ残されてはいなかった。いくつかのまだ使える道具と、光速を超えてどこかに行き、そして戻ってくることができる放置されたたくさんの宇宙船が見つかる。それは、人類の新たな時代の幕開けともなった。
 その技術的根拠や理論は分からないまでも、彼らの道具や落とし物は、人類に新たな技術をもたらした。
 地球は、その資源をほぼ絞りつくし、アメリカ大陸の頁石からない油を搾り取っては、イーストとバクテリアに食わせ、250億人にもなった栄養不良の人類に食わせている。
 人類は、地球と、金星の地中、そして、火星にようやく根付きはじめたばかりで、新しい星、新しい食料を求めているのだ。
 ヒーチー人の小惑星宇宙基地は、ゲイトウエイと名付けられ、チャンスをつかんだ山師たちが、片道切符かも知れないヒーチー船に乗り込んでは、新たな発見を求めて旅に出る。
 ヒーチー船は操作ができない。いやできるのだが、下手に触ると、目的地にたどり着いてもゲイトウエイに自動的に帰ってくることができなくなるのだ。
 そして、目的地は選べない。惑星があるのか、超新星が待っているのか、その惑星にはヒーチー人がいるのか? 生命はあるのか? 危険なのか? 安全なのか? それは誰にも分からない。ただ、たどり着き、そこで人類に役立つ知識か道具を持ち帰ったものは、巨額の富を約束されている。生存帰還率は高くない。
 それでも、富と名声をもとめてゲイトウエイに行きたがる者は多い。
 だれが、地球で苦労を続けたいものか!
 ゲイトウエイは、その存在の重要性ゆえに、世界が管理している。世界とは、宇宙に戦艦を出せるアメリカ合衆国、ソビエト連邦、ブラジル合衆国、金星連邦、新しい人民のアジアの各政府である。
 本書の主人公は、ロビネット・ブロードヘッド。物語は、ブロードヘッドがゲイトウエイで調査員として成功して大金持ちになり、快楽をつくしながらも地球でコンピュータの精神医と対話して心の悩みを探る物語と、彼がはじめてゲイトウエイに行き、成功するまでの物語が交互に語られ、その間を、ゲイトウエイで流される広告が間を埋めていく。
 宝くじに当たり、地球の鉱山から抜け出してゲイトウエイに行くことができた主人公。しかし、生きて帰る可能性の低さに、彼は、ヒーチー船に乗ることを恐れる。ゲイトウエイは働かない者をとどめることはない。いずれは死か、追放か、ヒーチー船への乗船を選ぶ他はない。おびえながらもヒーチー船に乗り込む主人公。1回目の旅、そして、2回目、そして…。
 絶望ゆえの愛、恐怖ゆえのセックス。
 本書の主人公は、決してヒーローではない。むしろ、アンチヒーローである。人間のくずみたいな書かれ方をしている。それでも愛することはあり、愛されることもある。
 ディストピアのアンチヒーローの物語なのに、なぜこんなにわくわくし、ページを一気に読み進めるのだろう。
 それは、本書が物語だからだ。
 はるか昔からの口述の物語、おとぎばなし、伝説、言い伝え。私たちの世界観を反映し、人を導こうとする物語の力が、本書にも存在している。世界を再構成する力、物語の本質を、本書もまた持つのだ。
 ああ、しかし、そういうことはどうだっていい。
 私もまた、ゲイトウエイでヒーチー船を前にしてたちすくみ、友だちや見ず知らずの男たち、女たちがヒーチー船に乗り込み、あるものは帰らず、あるものは空振りで帰り、あるものは富を得て来るのを見つめながら、自分にあの船に乗り、飛び出す勇気があるかどうか、自分の時間と手持ちの金があるうちに足を踏み出せるかを自問自答し、できるだけ回答をおくらせようと強がり、無関心を装い、心を引き裂いている一人なのだから。
ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞受賞
(2005.2.15)

無限アセンブラ

無限アセンブラ
ASSEMBLERS OF INFINITY
ケヴィン・J・アンダースン&ダグ・ビースン
1993
 究極のナノテクを、ファーストコンタクトと組み合わせることで、現代に描き出した作品。本書でも作品中になんどか名前が登場するエリック・ドレクスラー博士が、「創造する機械-ナノテクノロジー」(Engines of Creation 邦訳はパーソナルメディア刊 2001年)を発表したのが1986年。究極の微小機械によってボトムアップ式にアセンブルされる、なんでも生み出せる魔法の技術の未来を提示し、さまざまな分野に影響を与え、今日ではちっともナノではないのに「ナノテク」や「ナノ」を名乗る企業まで出てきて、ちょっとしたナノブームになっている。最近の「日経サイエンス」でおちょくっていたけれど、「.com」企業ブームも笑えるが、「ナノ」を社名に付けるのはいかがなものか? そんな「極微」な会社に人は投資するのだろうか? 不思議な時代である。
 さて、本書は1993年に発表されたナノテクSFである。時代は、ちょっと先の未来。だから当然ナノテクなどまだ夢の話で、南極の隔離された研究所で2人の研究者がようやく実験体を自己増殖に導くところまでたどり着いた頃の話である。
 一方、月は開発がはじまり、火星への長期滞在型の有人探査に向けて準備がはじめられていた。
 国連はやや力を強め、核兵器は、一部国連管理下で抑止力として保持され、残りはすべて廃棄された、そんなちょっと先の未来。
 月の裏側、宇宙観測用の超長波アンテナが設置されたダイダロス・クレーターに異変が起こった。突然機能を停止したのだ。修理に向かう3人がそこで見たものは、欠けたアンテナと大きな穴、そして見たことのない構造物。彼らは近づきすぎ、全員が死亡する。
 この事故と異変を受けて調査に乗り出すが、やがてそれは、地球外のナノマシンの活動であることが判明する。急きょ、南極から人付き合いの悪い女性研究者のエリカ・トレイスが月に派遣される。しかし、できる限りの防疫対策をしていたのに、彼女をはじめ、月基地の全員がナノマシンに汚染されてしまった。
 なぜ、彼女たちは死なないのか、ナノマシンの目的は? 誰がナノマシンをつくったのか? どこから、どうやって来たのか? 地球にもしナノマシンが侵入したら、人類はどうなるのか?
 危機管理にうろたえる地球、封鎖され地球に帰ることさえ許されずにいらつく月基地、そして、ひとり残されたナノマシン研究の大家であるジョーダン・パーヴ博士が発見した驚愕の事実。
 ナノテクの恐ろしさと可能性を素直に書き連ねた合作である。
 ハードSFとして押してみたいのだが、ちょっとおどろおどろしくSFホラーっぽく書こうとしたところも見受けられ、その点からどっちつかずの感を生みだしている。それはそれとして、軽くナノテクテーマの作品が読めることはうれしいことだ。
 ところで、共作者のひとり、ケヴィン・J・アンダースンの名前を最近どっかで見たのだが、どうにも思い出せなかった。今、自分の論評集の作家別リストを見ていたら、彼の名前があった。なんと、「デューンへの道」でブライアン・ハーバートと共著しているのがアンダースンではないか。
 そうか、彼か。なるほど、なるほど。なにがなるほどなのかは、「デューンへの道」と本書を両方読んでみて欲しい。きっと、アンダースンの指向がわかることだろう。
(2005.2.15)

時の仮面

時の仮面
THE MASKS OF TIME
ロバート・シルヴァーバーグ
1968
ねたばれします。ご注意を!
 20世紀末、ミレニアムを目前にした地球では、世界が終わることを信じる終末教徒の乱痴気騒ぎが世界各地で繰り広げられ、暴動が頻発していた。
 ヴォーナン19がローマの空中に現われ、地に降りたったのは、1998年12月25日。彼は神の子なのか? 新たな予言者か?
 彼は、2999年から観光に来たと自称する。本当に、ただの観光客なのか?
 世界中の注目を集めながら、ヴォーナン19は、行く先々で混乱とトラブルを巻き起こしながら、よってくる女を漁り、時には男も漁り、権力者や実力者を悩まし、そして、アメリカに来ることとなった。
 しかし、各国の政府は、終末教徒の暴動に辟易しており、人類が1000年先の未来も存在していることを示す自称「未来人」を「本物」にすることで、終末教徒の勢力を削ごうと、彼の希望する観光を受け入れることにした。
 アメリカ政府の依頼を受けて、アメリカを案内することになったのは6人の科学者たち。そこに、主人公のレオ・ガーフィールドもいた。彼は物理学者で時間逆行の理論に取り組んでいる。彼に加え、心理学、人類学などの学者たちが、ヴォーナン19を案内し、彼の不思議な言動の数々に、自我の崩壊に近い衝撃を受ける。だが、やめるわけにもいかない。
 レオにとっては、ヴォーナン19が本物ならば、彼の時間理論がいつかは本物になることを意味していたし、もうひとつ隠された大きな目的があったからだ。
 レオのかつての教え子で友人の元天才物理学者ジャックの依頼である。ジャックは、かつてレオの下で核分裂のような激しい反応を起こさなくても原子からエネルギーをとりだすことになる基礎理論を生みだしつつあった。レオは、それがエネルギー革命をもたらし、社会に多大な影響を及ぼす理論になることを知っていたが、ジャックが気づかない限り、その研究の社会的倫理的問題を伝えないと決心していた。
ジャックはそのことに気がついたのか、研究を完全に放棄し、美しき妻のシャーリィとともに田舎でひっそりと暮らしていた。
 ヴォーナン19が時折もらす未来の情報には、2000年代のいつか、そう遠くない時期に「一掃の時代」があり、彼の時代にはアメリカすら存在していないという。そして、限りないエネルギー源があり、金融や経済すらなく、必要なものは望めば得られる社会になっているとも言っている。「一掃の時代」とは、ジャックの研究の結果なのか? 悩めるジャックを救うため、レオは、その未来の真実を知ろうと決心する。
 しかし、未来人ヴォーナン19は、彼にとって遠い過去の出来事にまったく関心がない。
 レオをはじめ、世界中を混乱に陥れながら、ヴォーナン19は次第に、自らの20世紀末に与える影響に気づき、その影響力を行使しようとしはじめた。
 というようなストーリーである。
 書かれたのが、1968年。今から37年前。まだ、アメリカの建国二百年祭(1976年)さえ開かれていない。そんな時代に、30年後の「現代」を描き、そして、1030年後をかいま見せる。それを再読しているのが今、2005年である。以前に読んだのは1980年代。ややこしい。
 子どもの頃、1999年は、「ノストラダムスの大予言」だった。「恐怖の大王」である。
 学生の頃、2000年前後にはどんな世界の祭りが行われるのか楽しみだった。あと、15年ほど先の未来だったのだ。
 もう、それさえも20年前の過去である。
 それゆえに、本書は忘れ去られていくのかも知れない。
 しかし、ロバート・シルヴァーバーグはもっと今日的に評価されてもいい作家ではなかろうか?
 本物かどうかわからない、未来人により起こる狂想曲は、「火星人ゴーホーム」を思わせるところもある。純粋なエンターテイメント小説でありながら、人間社会や科学、宗教、権力、技術が持つ、「今」と「未来」のいかがわしさを床の一枚下からぺろりとかいま見せる。SFらしいSFなのだ。シルヴァーバーグは、過去や未来をたくみにあやつることで、人々に、現実を見せつける。それはすでに過去となった現実だが、現実となった現実と読み比べることで、気がつくこともあるのだ。
 もし、古本店などで眠っている本書をみかけたら、その長いタイムスリップからよみがえらせて欲しい。
 さて、以上で感想文はおわりだが、個人的な目的で、以下、本書に出てきた1999年をメモしておく。
 1999年、40億人の人口。
 車は電気自動車で、主要幹線はオートパイロットとなっている。
 都市でないところでは、住宅の地下に小型の原子炉が配置され、電力を供給している。
 自動調理器は、パンチするだけでブラック・コーヒーやトースト、本物のオレンジジュースを出してくる。すんだ食器は、皿洗器に入れるだけでよい。
 数年前にはやった自動酒場では、自動調理器のように飲み物をパンチし、クレジット・カードをスロットに差し込み決済する。
 コンピュータ端末は、すりガラスのスクリーン。緑色の光点が入力した文字を写しだしていく。完成した原稿はスロットからタイプされ、綴じられて出てくる。
 ブルーポイント種の牡蠣を最後に食べたのは、1976年の二百年祭が最後。その後に絶滅し、今では小粒なオリンピア種。
 繰り返すが、1968年から見た未来のひとつの姿である。
(2005.2.15)

ハッカーと蟻

ハッカーと蟻
THE HACKER AND THE ANTS
ルーディ・ラッカー
1994
 ネット社会、テレビのデジタル化、ITバブル、カーナビ、自己増殖するワーム、グローブと追随可能なモニターによる仮想現実(バーチャルリアリティー)の実現、遠隔操作と自律型のロボットの実用化…書かれている内容はさほど「未来的」ではない。
「ソフトウェア」などのぶっとびもない。
 それだけに、堅実に読むことができる。普通の近未来小説として読んでもよい。
 ルーディ・ラッカーが1994年に発表し、日本では、1996年秋に邦訳された作品である。
 この手の小説は、それがいつ発表されたか、によって、評価が決まると思う。
 私は、1995年をひとつの指標にしている。好き嫌いはともかく、マイクロソフト社がWINDOWS95を発表し、本格的なインターネット時代とITバブルを引き起こしたのがこの頃からであるからだ。INTEL社のPENTIUMプロセッサと、MICROSOFT社のWINDOWSから、WINTELと呼ばれたCPUとOSの2社独占時代が生まれたのもこの頃からである。
 日本では牛柄のパソコンが安く売られ、本格的な自作パソコン時代ともなった。
 私もずいぶん秋葉原詣でを行ったものだ。メモリの増設、CPUの交換をはじめ、ソフト、ハード面をいじる楽しい時期でもあった。
 あれから約10年である。
 日本でもテレビのデジタル放送化がはじまり、2011年にはアナログ放送がなくなる予定となっている。すでに1M強のブロードバンドはあたりまえで、占有100Mの光ファイバさえ安価に家庭で導入することが可能になっている。  パソコンの能力は、すでに家庭での必要不可欠をはるかに超え、次のステップにどうすすむか先が見えないままに周辺機器だけが短期的に進化しては落ち着きを見せている。
 もうデジカメも液晶パネルも価格が崩壊しつつある。
 自己増殖するワームはあいかわらずネットのトラフィックを食いつぶしているが、みんなインターネットはそんなものだと考え、セキュリティ会社に金をとられることが当たり前になっている。
 自分ではフリーソフトのセキュリティソフトをかけておきながらも、人に聞かれれば、「信頼ある大手のソフトにしておきなよ」と大人の意見を述べておく。メンテナンスが面倒くさいから。
 そう、メンテナンスは面倒くさい。
 メンテナンスなんてしたくない。
 人間の欲望に切りはなく、制約もない。
 だから、インターネットと端末は進化し続けるしかない。
 たとえロボットが実用化されても、また人間の欲望の中に進化をせまられるしかないのだろう。
 ロボットは、その名前の通り、人間に隷属するしかないのだろうか?
 人間は、ネットを使いこなしているのだろうか、それとも隷属しているのだろうか?
 そもそも書くことがないから思いつくままに文を書き連ねているのだが、それができるのが人間のおもしろさで、言葉と道具があるからこそ、これができる。ネットとパソコンに、そしてそれを開発し、メンテナンスしているIT技術者と経営者に感謝。たとえ、生き方が違ったとしても。
 本書が駄作ではない。とっても好きでおもしろいのだ。しかし、あらすじや感想を書きたい作品というわけではない。読んでいるその時間が楽しい。
 こんな未来ってすぐそばだよなあ。え、来てる?
(2005.2.7)

一千億の針

一千億の針
THROUGH THE EYE OF A NEEDLE
ハル・クレメント
1978
 名作「20億の針」の続編である。前著が1950年に発表され、それから28年後に発表された。訳者あとがきによると、もともと前著ではある程度の未来を想定していたが、その中の設定が時代の変化に追いついていなかったため、結果的に前著の設定を1947年と位置づけ、本書を7年後の1954年の設定で執筆することにしたそうだ。つまり、本書は、1978年に発表された、過去を振り向いたSFなのである。
 もちろん、本書は、前著の続編であり、地球人の主人公と彼の共生体となって彼の体の中で暮らすアメーバ状の知的異星人の物語であることに変わりなく、タイムトラベルものではない。そこで、作者は過去を未来と想定して執筆しているのだ。なかなかできることではないが、それだけ人気の高かった前著を大切に扱っているということなのだろう。
 前著ほどの名作ではないが、前著を読んだ人には軽く楽しめる作品に仕上がっている。
 筋書きは、大学を卒業し、島に就職するため帰ってきた主人公。しかし、本当の目的はもうひとつあった。近頃、体調に異変が起きているのだ。共生体のおかげで病気や怪我などからは守られているはずなのに、彼の身体が、共生体では対処できないなにかの原因で不調を来たし、このままでは死ぬかも知れない。主人公が死んでも共生体は他の宿主を探せばいいので困りはしないが、すでに7年に渡って地球人と異星人として秘密を共有し、友情をつちかってきただけに、なんとかしたいものだ。
 そこで、彼らの秘密を知る医師と家族の協力を得て、現在遭難状態にある共生体(異星人)を探しに来るであろう共生体の仲間を捜し、主人公の不調の原因をつきとめ、治療したいと新たな探索を開始する。
 しかし、島に待っていたのは、「ホシ」の影だった。前著で追いつめ、殺したはずの異星人犯罪者「ホシ」がもしかしたら生きているのかも知れない。では、誰の中にいるのか? 島は7年間で人口も増加している。主人公の友だちたちも、もうみな立派な青年だ。
 主人公の青年と共生体は、「ホシ」の影と、体調不良に苦しみながら、同年代の女性など新たな仲間を得て、この難局の解決に向かう。
 そういう筋だ。
 前著でも、共生体を抱えることで、宿主となった人間は、自分の病気や怪我に対して無頓着になる傾向があり、それを共生体は人類の特徴として恐れ、繰り返し主人公に、自分の身を危険にさらすのはよくないと説得する。それでも、「共生体が守ってくれる」と自覚したり、その自覚がなくても「自分は怪我をしにくいらしい」ということを身体が覚えると人間は行動が乱暴になるのだ。
 たしかにそう言われると思い当たる節がある。いや、私には共生体はいないのだが、慣れるという感覚は恐ろしいものだというのは、日常にもあるだろう。私は虫に刺されにくい、風邪にかかりにくい、少々傷んだものを食べても大丈夫…そんな油断が大病を招いたりするのだ。
 本書では、その人間の特性「慣れる」ことについても、多面的に考察する。そのあたりが本書のひとつの魅力である。
 本書も前著同様、推理小説、あるいはミステリー仕立てになっているが、前著の続編としてすなおに楽しみたい。真面目で基本的に無口な共生体「捕り手=ハンター」のとぼけた語り口もよい。新たに登場する少女たちの、やや定型的とはいえ個性的な行動は、本書の魅力を深めてくれる。
 前著を読んで、機会があったら、本書も手にとって欲しい。
(2005.2.5)

20億の針

20億の針
NEEDLS
ハル・クレメント
1950
 第二次世界大戦が終わってわずかに5年後発表された作品である。世界人口が20億人を超えたのは1930年頃で、1950年には25億人強と想定されている。
 本書の邦題20億の針とは、つまり、当時の世界人口を反映した数字である。
 生物(知的生物を含む)を宿主として、その身体に入り込み生きるアメーバ状の知的生命体。彼らは、宿主との関係をきわめて大切に考える。宿主の健康を維持し、病原体を排除し、怪我したときの血液の流出さえ止めてしまう。しかし、中には、宿主のことを考えずに行動する異常体があり、彼らは犯罪者として、彼らの警察官に追われることとなる。
 宇宙船で逃走中の犯罪者「ホシ」を追跡していた警察官「捕り手」は、ホシを追って地球に墜落する。捕り手は、地球人の少年に寄生し、正体を明かして、少年とともにホシを追う。ホシもおそらくは地球人に寄生しているであろう。島にいる人口は160人ほど。おそらくこのなかにホシがいるはずだ。少年はときおり、捕り手こそがホシではないかと疑いながらも、捕り手に協力し、行動していく。
 宇宙人との共生。共生による(若干だが)超人的能力の獲得。宇宙人の犯罪者を追いつめる行為。どこかで聞いた話ではないか?
 本書は、その後のSFなどに多大な影響を与えた作品である。
 大原まり子の「エイリアン刑事」(1991年・朝日ソノラマノベルス)には、冒頭に本書に謝意が表され、本書の和訳で出てきた犯人の呼称「ホシ」をそのまま使っている。
 ゆうきまさみが現在セルフリメイクしている「鉄腕バーディ」もまた、似たような設定を用いている。
 古くは、1966年に放送が開始された「ウルトラマン」も、宇宙の警察であるウルトラマンが、地球人ハヤタ隊員と共生して怪獣を倒していく話である(ちなみに、本書の文庫初版は1963年となっている)。
 大原まり子の「エイリアン刑事」を除けば、本書に触発されたものかどうかは不明だが、似たような設定は探せばいくらでも出てきそうな気がする。
 もっとも、本書の場合、ほとんどアクションはなく、むしろ、推理小説のような理詰めの犯人探しが軸になっている。秘密を抱えた少年探偵の物語と言ってもよかろう。
 書かれたのが半世紀以上前であり、設定に古さはあるものの、今読んでも、そのおもしろさは少しも減じない。
 後日談として、本書発表から28年後の1978年には続編も書かれている。
 アメリカでも衰えない人気があったのだろう。
 古典SF必読の一冊としたい。
(2005.2.5)

ブレーン・マシーン

ブレーン・マシーン
THE BRAIN MACHINE(THE FORTH “R”)
ジョージ・O・スミス
1959
 中高生の頃、お気に入りだった1冊。
 話は簡単で、科学者の夫婦が画期的な教育機械を開発。機械にかかって一度本を読むだけで、その内容を記憶することができるのだ。夫婦は、この機械の実証を行うために、子どもをもうけ、慎重に育てる。5歳にして高等教育に匹敵する知識をもった主人公ジェームズ・ホールデンは、その誕生日に、両親がもっとも信頼する男が、両親を殺害するのを目撃した。男は、教育機械を独占しようと目論んだのだ。しかも、男はジェームズの後見人に指名されていた人物である。彼は、なんとか自らの命を救い、男の野望をうち砕き、その犯罪を明らかにするため、後見人の男から逃げ出し、自立の道を探る。
 しかし、幼い少年にとって、どんなにすぐれた知能と高い知識をもってしても、大人の世界で生きるのは一筋縄でいくものではなかった。犯罪組織の一員として働き、あるいは、隠遁した作家を装って収入を得ていくジェームズ。
 作者は、主人公ジェームズ・ホールデンの視点を軸にし、両親を殺した後見人からの逃走と復讐という正義を与えて話を進めつつ、一方で知識だけが先に立ってしまった主人公のかたよった理解や判断を残酷に書き連ね、それでも、主人公を魅力ある存在にしようと書き連ねる。
 そんな前半は、主人公のサバイバルゲームであり、なかなかに読み応えがある。
 しかし、物語の後半から終盤になると、安直な大人の論理が登場し、楽天的な未来を演出して物語を終えてしまう。「教育機械が開発された美しきよき未来」という安易さが、まさしく50年代SFらしい。
 早熟な少年が、子どもに対する大人の扱いに自尊心を傷つけられ、しかも生き抜いていかなければならないのだが、社会からあからさまな迫害を受けているわけではないので、ミュータント/超能力テーマとは一線を画す。
 近年では、オースン・スコット・カードの「エンダーズ・シャドウ」における、遺伝子操作された天才児ビーンが生き残るための物語が本書に近いかも知れない。
 ただ、本書は原題にあるとおり、「頭脳機械」=教育を向上させる機械による、「第四の革命」-THE FORTH “R”のRは、Revolution(革命、革新)のRだと考えられる-が、テーマであり、主人公の苦悩やドラマは、その機械が導入されたことによる社会の問題点や輝かしい未来を描くためのものにすぎない。その点で、本書は、「子どもの」物語ではない。50年代の空想科学小説なのだ。
 とはいえ、この冒険譚と成長記は、少年期の私にとってとても魅力的なものであった。作者の大人としての皮相な指摘を読み飛ばし、主人公の気持ちから本書を読んでいたものだ。その性の目覚めも含めて、楽しんでいた。とうに青年期を過ぎてしまった今、子どもの視点と大人の視点両方から本書を読み、人間が人間として成長するのは本当に難しいことなのだなと、思わずにいられない。
 日々、是、精進、である。
(2005.2.1)

優しい侵略者

優しい侵略者
THE MONITIORS
キース・ローマー
1966
 ある日忽然と黄色い制服を着たハンサムな男たちが空から大きな輸送船で運ばれ、降りてくる。その直前には、すべてのテレビ、ラジオ、スピーカーから、政府などの行為を中止させ、管理を引き継いだとの「征服宣言」が行われる。
 彼らは、何の混乱もなく、完璧に秩序があり、個人に超越的な方法で知識を授け、能力を向上させ、生活を、労働を向上させた、「自由な」管理された社会を築こうとする。
 彼らの名は、モニター。原題である。
 ここに、ひとりの男がいる。仕事を失ったパイロットだ。そもそもフリーランスで、企業や政府に属するのはいやな、普通のアメリカ人である。
 彼は、人に何かを指図されるのが大嫌い。ただ、それだけだった。
 モニターたちが降り立ったとき、彼は、アメリカ魂を発揮し、彼らに対抗する勢力に合流しようとする。それが政府でも、民間でも構わない。
 モニターは、そんな彼の動機にとまどう。彼ばかりではない、モニターの「提案」に反発したり拒否する「狭い」考えの持ち主が多いことにとまどうばかりである。
 なんとか、彼を懐柔しようとするモニター。
 いっぽう、モニターに反旗を翻す側と接触することができた主人公だが、どうにもこうにも、信頼できるのかできないのか分からないような状態。それでも、彼なりの信義と正義感を持って立ち向かうのだが…。
 と書くと、この21世紀初頭の世界情勢を反映したシニカルな政治SFのようであるが、書かれたのは1966年で、書いたのはキース・ローマーである。どたばたSFである。
 しかも、落ちない。
 はっきり言おう。落ちてない。落としていない。どうするんだというところで、そんな終わり方はないだろう、という終わり方をしている。ページ数が決まっていて、前半で遊びすぎ、最後はばたばたで、まさしくスラップスティックなんだけれど、小説なんだから、そりゃあないだろう。ちゃんと落としてよ。ここまで読んできたのに、という気分。
 途中に、モニターたちの弱点を示した伏線が書かれているにもかかわらず、それはどこかに消えてしまった。おーい。
 しかたがないので、1966年に発表された小説で1976年に翻訳出版された本だから、あげつらうところはいくらもある。興味深いところだけ抜き出しておこう。
 女性が羽織っていた毛皮のコートは狼の皮だった。
 まだ、黒人の人権があたりまえに侵害されていた。言葉の上でも。
 耳栓式のテープ自動演奏装置、重さは2g、かけかえなしでぶっつづけ9時間演奏…これはたいしたもんだ。まだ、ウォークマンもない時代の未来予測。もちろん、2gには恐れ入るが。
 それから、レタスを翻訳するのに「きくぢしゃ」はないと思うなあ。こういう「訳しすぎ」って古いSFでは多いですね。辞書が古いからか。
 ま、そういうことで、侵略テーマのユーモアSFというくくりになると思う。
(2005.1.30)