時の罠

時の罠
THE TIME TRAP
キース・ローマー
1970
 スラップスティックSFって好きだなあ。どたばたSF。
 言葉遊びと大胆な設定で、主人公を走り回らせ、混乱させ、そして、最後には大団円が待っている。安心して、何も考えずに、楽しく読める作品である。とりわけ、キース・ローマーは言葉遊びがおもしろい。原題も、TTTだし。
 なぜか知らないが、ある空間・時間が一定範囲・24時間で固定されてしまった。家を出て、まっすぐ歩いていくと、家の裏に着いてしまう。朝ごはんを食べ、昼も、夜も食べ、寝て、起きると、食べたはずの食材が元に戻っている。殺されても、夜を超えると、生き返ってしまう。
 時の罠にとらえられてしまった人たち。
 同じ状況が、人類以前の歴史から、遠い未来までで起こっている。
 しかし、時の罠には割れ目があった。1970年代に生きる主人公ロジャー・タイソンは、2249年の未来から割れ目を抜けて来た女性ク・ネルを事故死させてしまい、その死の直前に彼女と接触したことで、割れ目の存在を知り、さまざまな時代を旅していく。そして、時の罠の存在を知り、時の罠をしかけた高次元人の存在に気がつくのであった。
 タイムパラドックスなど知ったことではない、こちらは、高次元的存在である。時間の外の世界である。なんでも起こるのである。
 なぜ、時の罠はあるのか? 博物館なのか? 実験なのか? はたまた…。
 奇想天外な設定、奇想天外な解決。
 思わず大きな声で、「これでいいのだあ」と叫びたくなる。
 ちなみに、2019年には強制的統一というものがあり、世界は一変するらしい。ク・ネルやス・ラントなど、名前も「未来っぽい」し、言葉も全然今の言語とはかけはなれた「未来語」になるらしい。
「謎の転校生」みたいな未来人のイメージがある。もうすぐだ、楽しみだなあ。
 そうそう、あまり日本のSFについて書かないが、ほどほどには読んでいる。私は横田順弥や火浦功をこの分野に入れたいのだが、まあ異論はあろう。
(2005.1.24)

マイクロチップの魔術師

マイクロチップの魔術師
TRUE NAMES
ヴァーナー・ヴィンジ
1982
 新潮文庫のSF作品として1989年に登場したインターネット空間のバーチャルリアリティを小説化した作品で、1981年に書かれている(出版は82年)。
 コンピュータ・ネットワークの中のハッキングコミュニティ「魔窟」で魔術師として活動する主人公のロジャー・ポラック。ネットに入れば、ヴァーチャルリアリティな存在になってデータ空間を行動できる。
 しかし、ひとたび、真の名前を敵や仲間たちに知られれば、その個人情報は名を知った者に容易に知られることとなり、結果的に彼らの言うままに行動せざるを得なくなる。
 彼は、政府機関に名を知られ、彼らのスパイとして行動することを迫られる。
 政府機関は、魔窟の魔術師のひとりが、政府機関のデータベースに侵入し、破壊工作をしたため、ロジャーに内部調査を命じる。
 やむなく行動をはじめたロジャー。しかし、調べていくうちに世界や人類全体の破滅につながりかねない陰謀の存在に気づき、政府に真の名を知られた者として、自分の身を守りながら、陰謀に立ち向かっていくことになる。もちろん、仮想空間で…。
 1980年代に入ったばかりの早い時期に、ヴァーチャルリアリティでの存在や生活について書いた作品である。また、今のキーボード・マウス、CRTといった、聴視覚・言語的インターフェイスから、脳波を利用した双方向的インターフェイスに変ることで質的にネット空間やデータ処理のあり方が変ることを示唆した作品でもある。
 その歴史的な意味において、本書は一読の価値がある。
 また、文庫で200ページに満たない本書で、訳者解説の数ページのほかに、約30ページにおよぶマーヴィン・ミンスキーの解説が掲載されており、作品以上に興味深い内容が書かれているのも特徴である。M・ミンスキーといえば人工知能研究の第一人者で、彼が、本書の出版に際して解説した一文である。その後の、ヴァーチャルリアリティ世界を題材とした作品群の誕生を予感させる一文であり、本書以上に読み応えがあった。
 もちろん、作品中では、データ電送速度は50kだし、すこし古さを感じさせる表現もある。が、まあそのあたりはうまいこと読みかえればよい。
 絶版になって久しく、私も古書店で長いこと探し回って、ようやくこのたび一読することができた。
 インターネット社会となり、映画「マトリックス」のヒットによってヴァーチャルリアリティがお茶の間でも理解できうる内容になった現在、早川か創元でこの手の作品をまとめてみてはどうだろうか。
(2005.1.24)

電脳砂漠

電脳砂漠
THE EXILE KISS
ジョージ・アレック・エフィンジャー
1991
「重力が衰えるとき」「太陽の炎」に続くマリード・オードラーンが主人公の快楽と悪徳の街ブーダイーンを舞台にしたイスラム圏ハードボイルドSFの3作目。そして、残念ながら作者が2002年に亡くなったため、第4作は完成を見ることがなかった。
 本作品では、マリード・オードラーンとパパ・フリートレンダー・ベイが警官殺人の汚名を着せられ、アラビア砂漠の中でも”空白の区域ルブー・アルハーリー”に水筒ひとつで放り出される。彼らは砂漠の民に救い出され、マリードは砂漠とともに暮らすムスリムの生き方を知る。
 3作品の中でもっともイスラム圏を感じさせる作品。そして、プロットも一番しっかりしており、砂漠での殺人事件とブーダイーンでの殺人事件の対比、マリードとパパの砂漠とブーダイーンでの行動の対比が小説としてのおもしろさを形作っている。
 しかも、ハードボイルドの様式に沿っていて、そしてSFなのだ。
“なぜ、殺人が問題の解決になると考える人が多いのだろうか? 人口過密の都会でも、この過疎地の砂漠でも、われわれの生活は、だれかが死ねばもっとらくになるという考えが生まれるほど耐えにくいものだろうか? それとも、人間は心の奥底で、他人の命が自分の命とおなじ価値があると、本気で信じていないだろうか” と、マリードは自問自答する。しかし、そのマリードとて、その権力と名誉のために、他者に殺人を指示し、そのことに動揺していない自分に気がつく。
 パパはマリードが命を救ってくれたことに感謝しながら、彼がドラッグから離れようとしないことに怒り、彼を痛めつける。
 人生は楽ではない。人は一面的ではない。物事の解決の方法は、それぞれの社会、価値観などによって違う。あるものはそれを妥協といい、あるものはそれをずるさと呼ぶ。あるものは、それを賢者の知恵といい、あるものは非人道的だとも、非民主主義だともいう。
「キリンヤガ」(マイク・レズニック)でも、同様に、社会が選択した解決方法、価値観が選択した解決方法が出てくる。
 それを単純な正義、単純な悪として割り切ることはできない。
 割り切ったときに、理解の断絶と、疎外と、そして、一方的な支配がはじまるのだから。
 それにしても、作者がなくなったのは残念。
 4巻は書かれていないが、その一部となる短編は発表されており、マリードとパパがメッカに巡礼する前祝いをしているようだ。ということは、メッカ巡礼が書かれていたのかも知れない。ジョージ・アレック・エフィンジャーの手によるメッカ巡礼を読みたかったものだ。ああ、残念。
(2005.1.16)

太陽の炎

太陽の炎
A FIRE IN THE SUN
ジョージ・アレック・エフィンジャー
1989
「重力が衰えるとき」の続編。パパ・フリートレンダー・ベイは、イスラム圏の大都市の歓楽と犯罪の街ブーダイーンの真の支配者。しかし、それだけではなく、世界経済が崩壊し、大国が存在しなくなり、小国が次々と生まれては崩壊する世にあって、イスラム世界の半分を経済・情報的に支配する男でもあった。前作ではいちおう自由人だった主人公マリード・オードラーンも、いまやパパの配下にあり、パパの邸宅で暮らし、パパの意向を受けて警察署に出勤する。ブーダイーンの友人たちは、そんな彼をもはや仲間とは見なさない。マリードの影にパパあり、だ。
 マリードの母親が登場し、マリードの頭を痛める。
 パパの娘と名乗る女が登場し、やはりマリードの頭を痛める。
 パパがくれたプレゼントは、数少ないブーダイーンの友人が経営していたクラブの経営権。マリードは頭を痛める。
 パパがマリードの世話をさせるためにつけた奴隷は、マリードの言うことを聞いてくれない。マリードは頭を痛める。
 頭は痛くても、ベテラン警官と一緒にパトロールに出かけなければならない。
 遊びは遊び、仕事は仕事。それがこの街の定めだから。
 たとえ警官になっても、マリードは、マリード。ドラッグと人格モジュールと酒の力に頼りきりながら、萎える心に時々鞭打って、やるべきことをやろうとする。彼なりの誠意を持って。
 本書に出てくる登場人物には、必ず表と裏がある。愛のすぐそばに憎しみが、信頼の隣に裏切りが、親愛の右に暴力が、冷静さは発作的な怒りに変り、情熱が冷酷と同居する。マリードしかり、パパしかり。人間には必ず二面性があり、そのどちらかに揺れ動きながら進むもの。
 前作の最後に、何もかもを奪われたマリードは、与えられた状態に満足と不満足をみつけ、奪われたなにがしかをとりかえそうとあがく。人間の弱さに満ちたマリードは、それでいて魅力あふれる主人公である。
 次作、「電脳砂漠」は、本シリーズの長編最後となる傑作であり、本作品は、「重力が衰えるとき」と「電脳砂漠」にはさまれた佳作となっているが、「電脳砂漠」を読むためにも、本作をはずすことはできない。
 異文化の魅力あふれるハードボイルドSFを、あなたの本棚に。
(2005.1.16)

重力が衰えるとき

重力が衰えるとき
WHEN GRAVITY FAILS
ジョージ・アレック・エフィンジャー
1987
 ハードボイルドとSFの相性はいい。舞台は、イスラム圏の都市の一街区ブーダイーン。歓楽とドラッグと暴力の街である。主人公はマリード・オードラーン。この街で唯一武器を持たずに歩き回ることを知られている何でも屋であり私立探偵。あらゆるドラッグに浸されていないと1日も過ごせない寂しがりや。脳に人格モジュールなどを差し込むソケットをつけることが大嫌いな男。
 登場人物は、バーのマダム、踊り子、街の真のボス、警官、暗殺者、小ボスなどなどひとくせもふたくせもある男たち、女たち、性を変えた者たち、性を変える途中のものたち。
 アザーンの響き、引用されるコーラン、アラビア語の数々。
 退廃と暴力に満ちたハードボイルドに欠かせない空間で、美しく魅力あふれるイスラムの会話が交わされる。
 ここに書かれている近未来のイスラム圏の思考、文化、社会、言語が、はたして、今のイスラム圏の延長として読めるかどうかはわからない。
 サイバーパンク小説には、日本や日本語がずいぶん出てきて、なかにはまっとうに読めるものもあるが、そのほとんどは、西洋から見た不思議なアジアの日本で、芸者ガールが実はニンジャだったりする世界である。
 それと似たようなものかも知れないし、作者がアラブ系アメリカ人ということらしいので、もっとまっとうなものかも知れない。それは分からないが、イスラム圏を舞台にしたSFはとても少ないので、その意味でも貴重。
 ただ、そういうことを抜きにして、人間の弱さとたくましさ、優しさと怖さ、つながりと孤独を表現するハードボイルド小説の王道みたいな作品である。
 ただ、そういうことを抜きにして、近未来の退廃した社会と、日常化した科学技術の前に変質した価値観、それでも変らない人間性を描いたサイバーパンクの王道みたいな作品である。
 書評を書いている場合でも、書評を読んでいる場合でもない。本書が未読の方は、ぜひ読んで欲しい。楽しめること請け合い。
(2005.1.13)

宇宙船ビーグル号の冒険

宇宙船ビーグル号の冒険
THE VOYAGE OF THE SPACE BEAGLE
A・E・ヴァン・ヴォークト
1950
 宇宙船ビーグル号は銀河から銀河に旅をする探査船。1000人以上が乗り組み、その多くが科学者で、あとは警備のための軍人である。数学、物理、化学、天文、地質、考古、心理、生物、植物、冶金、社会など、さまざまな分野の科学者が、広大な宇宙を旅しながら、そこに出会ったものを収集、分析していく。はずであった。ビーグル号には、若きエリオット・グローヴナーが唯一の総合科学部長として乗り込んでいた。総合科学は若き学問で、部長といっても部下の研究者がいるわけではない。総合科学について、他の科学者は何も知らない。いったい何をする学問か! 若造が! ってなもんである。
 ところが、異星の惑星、宇宙空間などで出会う様々な事件と生命体からの攻撃に対し、最終的に適切な対処を編み出すのは、いつもグローヴナー君の頭からであった。  すべてのできごとを様々な科学的角度から分析し、予測、判断し、行動を導き出すことができる、それが総合科学=ネクシャリズムであり、その知識と技能をもった科学者が総合科学者=ネクシャリストである。
 ど、どーん。
 すいません。ちゃかしています。
 理由があります。
 実は私、「総合科学部」出身である。
 某国立大学は、大学紛争後に教養学部を改組して、総合科学部総合科学科という学部をこしらえた。私は、第10期入学生であり、その前後を見ていると、毎年のように入試の方法やカリキュラムのしくみが変っている。
 学部生よりも教官、講座の数の方が多い学部であった。
 ここは、ネクシャリズムではなく、「科学と技芸の統合」という英語の学部名がついていたので、本書とはあまり関係がないのだが、高校までに本書を読んだことのある人間がこの学部にはそこそこいるのである。まあ、そうだろうとも。
 私の時には、入試も変っていて、二次試験では、理科系入試(数学と科学4つのうち1つ)、文科系入試(英語、小論文 等)があり、二次試験で理科系を選ぶと、共通一次試験の文科系科目が傾斜配点で1.5倍され、二次試験で文科系を選ぶと、共通一次試験の理科系科目が1.5倍された。つまり、どっちもできるのが欲しいということである。
 その2年後には、一般の学部入試同様、二次の理科系選択者は一次の理科系科目が傾斜配点されたので、我々の学年と2年後の学年ではずいぶん傾向の違う学生が入ってきたようである。
 さらに、入試は入試であり、入学後は、理科系の選考でも文科系の選考でも自由であった。しかも、義務として、他分野の専門をある程度とらなければならないことになっていた。
 そもそも、ひとつのことに集中するのがまったくできない私には、天国のようなところで、あっちで心理学を、こっちで情報理論を、はたまた人類学や法学などをつまみ食いしているうちに、なんとなく卒業の運びとなったのである。
 実は、本書をはじめてきちんと読んだのは、大学を卒業してからである。
 ちょっと、気恥ずかしかったのだもの。
 読んでみると、ええー! である。
 たしかに、科学はその膨大な知識のため細分化し、専門性が求められるようになっている。一方で、さまざまな要素をそろえ、多角的に分析、判断することも求められているが、それを学問として育てる体系はなかなか育っていない。いわゆるコーディネート能力というやつであるが、どうもビジネス分野に偏っているようである。
 本来、学問の分野にこそ、統合調整能力が求められるべきではなかろうか。
 私の出た総合科学部総合科学科は、当時それをやるには力不足であった。今はどうか知らないが、社会の必要からできた学部だということは、今も信じている。
 その意味で、本書に出てくる若き学問である総合科学は、ちょっとやりすぎだよなあ。
(2005.1.12)

銀河帝国の崩壊

銀河帝国の崩壊
AGAINST THE FALL OF NIGHT
アーサー・C・クラーク
1953
 創元推理文庫SF部門定価200円。1964年10月初版発行、1978年4月31版。
 表紙は誰の絵だろう、緑色と赤の空飛ぶ円盤が黄色と赤の光をおびておどろおどろしい惑星の空を飛んでいる。創元のSFのロゴが、手塚治虫の手書きタイトルっぽい感じで実にいい味を出している。
 それにしても、「銀河帝国の崩壊」である。どうしてこの邦題になったのだろう。タイトルで買ってしまうよなあ。70年代の中学生は。本書に書き込まれた25年ほど前の私のメモによると、本書は私が買った文庫SFの16冊目にあたるらしい。
 消費税のないいい時代である。
 家庭にパソコンもゲーム機もビデオもほとんどなかったいい時代である。
 しかし、当時の中学生にとって200円は大きかったのだ。
 買った当時にはすでに「都市と星」がハヤカワSF文庫で出ていたようだが、おそらく田舎の本屋の都合か私の経済力によって本書を買ってしまった。
 今、あらためて「都市と星」を読み、その後に「銀河帝国の崩壊」を読んでみると、ひとりのSF作家が、時代を読みとりながらいかに作品を再構成したかがはっきりとわかる。
 今も表紙は変ったが、本書は創元から、そして、「都市と星」は早川から出続けている。
 SFを書こうと思っていたり、小説家になりたいという人は、この2冊を読み比べるとよい。アイディアのふくらましかたと、それにより小説がどう変るかが読みとれることだろう。
 作品については、「都市と星」の方を読んで欲しいが、本書では「都市と星」にあるような仮想現実やデータ化された人格などは出てこないので、より作品の哲学が凝縮されたものになっている。どんなに閉塞し、保守的で、壁に閉じこもったような社会でも、いつか必ず壁を越える者が登場するのだ。というお話し。
(2005.1.9)

都市と星

都市と星
THE CITY AND THE STARS
アーサー・C・クラーク
1956
 クラークは偉大だ。再読して、あらためてそう思う。何億年も先の地球に唯一残された都市、ダイアスパー。人々は1000年ほど生き、そして、次の眠りにつく。生まれたときからほぼ成人の姿で、最初の20年は子どもとして扱われ、都市に再びなじみ、過去の記憶を思い出すための時間として存在する。個人の情報はすべてメモリー化され、セントラルコンピュータが都市を管理している。
 都市には伝説があった。かつて、地球人類は広大な宇宙に進出し、帝国をなしていたが、異星人によって帝国を崩壊させられ、地球に逃げ戻ったのだ、と。
 だから、ダイアスパーの住民は決して外へ出ようとはしない。外のことを考えるだけで恐怖におびえてしまう。
 地球の、ダイアスパーの外は砂漠が広がっていること以外、誰も外を知ることはない。
 ただ、平和に、暮らしていた。
 時には、仮想現実ゲームに興じながら。
 そこに、今まで一度も誕生させられたことのない、つまり、過去の記憶を持たないユニークな青年アルヴィンが誕生する。物語は彼が20歳を迎えるところからはじまる。
 仮想現実ゲームでは、そのルールをやぶって仲間たちのひんしゅくを買うアルヴィン。
 自分が、他者と違っていることは知っていても、それがどんな意味を持つかはわからない。ただ、ダイアスパーで生きることが息苦しくて、孤独でならない。
 なぜ、彼ははじめた誕生させられたのか?
 当然のことながら、彼は外を希求する。
 そして…。
 1956年発表である。クラークがはしがきに書いている通り、本書は、1953年に発表されたクラークの処女長編「銀河帝国の崩壊」Against the Fall of Night の書き直しだ。クラーク曰く「この物語を思いついて以来20年間に起こった科学の進歩」「とくに情報理論における一定の発展」を受けて書き直したかったという作品であり、イングランドからオーストラリアへの船旅の途中で書き上げられた。
 個人の存在すべての情報化と再生、この場合、仮想空間ではなく、実体化であるが。さらには、登場する仮想現実ゲームや、自分は部屋にいながら仮想存在としてダイアスパーを動き回る様。必要に応じて生成される家具。思考を壁に投影して描かれる絵画は、必要に応じてコンピュータから呼び出すことができる。
 今でこそ、仮想現実ヴァーチャルリアリティやシミュレーション、コンピュータを利用したデータの自由な保存と再生、データからの実体形成などは、SFとして当たり前になっており、また、遠くない未来に実現するテクノロジーとして企業社会では議論され、稚拙ながらも導入されている。が、1956年である。
 真空管コンピュータからトランジスタ使用のコンピュータが登場しはじめた頃の話である。コンピュータの利用について、情報の利用についてここまで小説化することができたクラークは、やはり偉大だ。
 もちろん、それだけではない。さまざまなアイディアに満ちた作品である。
 とはいえ、もちろん古さもある。
 ここに書かれたイメージは、ちょうど、光瀬龍の小説を漫画化した萩尾望都の「百億の昼と千億の夜」や萩尾オリジナルの「スターレッド」を思わせる。私の今回の再読は、どうも頭の中は萩尾望都キャラクターと風景の世界で読んでいたようだ。
 どちらもはじめて読んだのが、同じ頃だったからだろうか。それとも、「百億の昼と千億の夜」は本書に触発されて生み出されたのだろうか。
 さて、せっかく本書を読んだのだから、このおおもとである「銀河帝国の崩壊」を再読してみよう。
(2005.1.7)

パーマー・エルドリッチの三つの聖痕

パーマー・エルドリッチの三つの聖痕
THE THREE STIGMATA OF PALMER ELDRITCH
フィリップ・K・ディック
1964
 本書には、ディックのすべてがつまっていると言っても過言ではない。
 私は、本書が大好きだ。何度読んだかわからない。
 そして、読むごとに、書かれていることが心にすうっと入り込んでくるようになる。
 年を取るごとに、書かれていることが実感される。
 世界が変化しているのか、自分が変化しているのか。それらはどちらも同じことなのか。
 ディックが書いているとおり、本書のすべては本文の前に書かれている一文にある。
「つまりこうなんだ結局。人間が塵から作られたことを、諸君はよく考えてみなくちゃいかん。たしかに、元がこれではたかが知れとるし、それを忘れるべきじゃない。しかしだな、そんなみじめな出だしのわりに、人間はまずまずうまくやってきたじゃないか。だから、われわれがいま直面しているこのひどい状況も、きっと切りぬけられるというのが、わたしの個人的信念だ。わかるか?」
 時は21世紀初頭。地球は世界的な気温上昇に苦しんでいた。政府は、無作為に他星系や惑星への移民を行っている。火星はそのひとつ。しかし、地球に帰ることの許されない移民たちは、火星でなにもかもがだめになっていくのを無為にながめ、政府からの援助物資にすがって生きていた。そして、キャンDとパーキー・パットの人形セット。パーキー・パットの人形セットを眺めながら違法なキャンDをなめれば、そこにいるすべての男女が、パーキー・パットとそのボーイフレンドに移入し、ぜいたくな地球の暮らしを仮想体験できる。それだけが彼らの楽しみ。もしくは、新興宗教に没頭するほかない。
 キャンDとパーキー・パットの人形セットは、どちらも、PPレイアウト社の商品。表と裏。仕切るのは、医学により未来人に進化したレオ・ビュレロ。決して立派な人間ではない。私利私欲で怒りっぽく、わがまま。冒頭の一文は、彼の言葉である。
 ある日、パーマー・エルドリッチが、プロキシマ星系から帰ってくる。右手は付け替え可能な義肢、歯はステンレスストーンの義歯、目ははめ込み式の顔を横切る人工グラス。彼は、キャンDに代わるチューZを地球にもたらそうとしている。
 ビュレロは、自らの経済基盤が崩れるのを恐れ、パーマー・エルドリッチの殺害も含めて様々なたくらみを講じる。
 しかし、チューZとパーマー・エルドリッチには隠された秘密と目的があった。
 翻弄されるレオ・ビュレロと、主人公のプレコグ(未来予知)者バーニー・メイヤスン。彼は常に名を間違えて呼ばれる男。
 パーマー・エルドリッチの現実に取り込まれ、真実を、現実を見失いながら、そこに真実を、現実をみいだすメイヤスンとビュレロ。ふたりの行動はあまりにも違った。
 真実とは、真理とは、正義とは。
 神性とは?
 疎外と、ぼやけた現実と、絶望というパーマー・エルドリッチがもたらした邪悪な3つの陰性に対し、人は何ができるのか?
 常に、すべての作品を通じて、疎外、ぼやけた現実、絶望と向き合ってきたディックが、もっとも素直に、その3つに対して戦いを挑む人間の存在に真を置いた作品である。
 私は、世界が、人間が信じられなくなったとき、本書を読むことにしている。
 もっとも本書は、ユーモアとSFガジェットにあふれる、ディック的なエンターテイメント作品である。肩の力を抜いて読んで欲しい。
(2005.1.4)

神の目の凱歌

神の目の凱歌
THE GRIPPING HAND
ラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネル
1993
「神の目の小さな塵」の続編である。前作から9年、ニーヴンがちっとも続編に取り組まないジェリー・パーネルにじれてじれて自分で書ける部分を全部書いて、パーネルをせかせてまで書かせ、発表したという作品である。まずは、前作を読んでおもしろかった方、読んでください。本作は、前作から25年後。いよいよ封じ込めた異星人が封鎖線を突破するか、というところからはじまる。前作はファーストコンタクトものだったが、今作は、まさしくスペースオペラ。前作では悪人扱いだった大商人のアラブ人イスラム教徒ホレス・フセイン・ベリー閣下が大活躍する。なんといっても、”アラブは受容されたのだ。もちろん、すべての帝国市民にではない。だが、充分な数の市民に受容されている。しかも、その数は増えていくだろう”とのベリー閣下の科白である。時は、西暦3040年代のことだ。
この科白が、今ならば、どれほどよいことだろう。
本作では、異星人モーティと人類帝国は共存できるか? それとも、モーティと人類の将来の殲滅戦は避けられないのか? がひとつのストーリーになりながら、宇宙戦争と、戦略、権謀術、交渉などを楽しませるエンターテイメント作品である。
前作の登場人物、それから、前作のヒーロー、ヒロインの子どもたちも活躍するあたりが、まっとうな続編という趣で実によい。
それはさておき。本作の下巻巻末には、付録として前作の合作ノートがついている。それによると、前作・本作の宇宙帝国世界は、パーネルがすでに作品として出している未来史に沿ったものだという。唐突な西暦3千年代のファーストコンタクトには理由があったのだ。
前作がおもしろかった方には、この合作ノートを読むだけでも価値がある。
正直なところ、本作は、前作を読まないことにはそのおもしろさが半減するだろう。
本作を読んだからといって、前作の楽しさが減ることもない。
もちろん、どっちが名作かと言えば前作になる。本作は、前作と同じぐらいのボリュームがある超大作だが、それでも駆け足すぎるきらいがある。きっと、もっと時間があれば、じっくり書き込みたかったのだろう。彼はその後どうなった? あの人たちのその後は? なんてことを読み終わった後にどうしても考えてしまう。伏線のまま終わるのはなしにして欲しいのだが、そんなことをいまさら言ってもどうしようもない。その点がちょっと残念でした。
(2004.12.31)