アリアドニの遁走曲

アリアドニの遁走曲(アリアドニのフーガ)
LIGHT RAID
コニー・ウィリス&シンシア・フェリス
1989
 コニー・ウィリスとの出会いはあまりいいものでなかった。本書である。だから、まだ、「ドゥームズデイ・ブック」も、「航路」も、もちろん「犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎」さえ読んでいない。入手すらしていない。
 コニー・ウィリスを語ることができないような気がする。それらを読んでから、本書について評する方がいいのだろうが、読んでいないものは仕方がない。
 ちょっと反省している。そのうち読みます。
 だから、コニー・ウィリスに詳しい方、すいません。最初から謝っておきます。
 本書は、ジュブナイルである。
 声を大にして言う。ジュブナイルだ!
 若い男の子が読んでもいいし、女性作家たちによる、若い女性に向けたSFだから、もちろん若い女性向きでいい。日本でたくさん出版されているライトノベルのコーナーに並べてもいい。その方が売れるのではないかな?
 主人公が主人公は17歳の少女アリアドニ。舞台は未来のアメリカ大陸。北と南で戦争をしている。SF小ネタは、遺伝子操作により生み出されたヒドラによる環境改変と、バイオチップ。兵器は、衛星からのレーザー攻撃(光襲)。
 疎開先で父母が心配になった若き生物学者のアリアドニは、父母と自分の所属する会社ヒドラ社に戻るべく、疎開先を脱走する。帰ってみると、家は壊滅。ヒドラ社は、連邦の若きハンサムな王子と、その従者で態度のでかい若造ジョスが仕切っている。
 母はスパイの嫌疑がかかり彼らに拘束されたまま、保安責任者の父は失意で飲んだくれ状態。いちいちジョスのやることなすことに腹を立てながらも、母を助けるため、アリアドニは孤軍奮闘する。
 物語は、二転三転しながらどたばたの色を深め、惹かれあうジョスとアリアドニの思いも錯綜して一気に結末まで進む。
 機転の効いた活発な少女の一人称ですすむ、冒険と白馬の王子様物語である。
 本来まだるっこしくなる一人称なのに、多少の設定の難を忘れることができるほどのスピード感がある。
 その構成力は、まだ読んでいないけれど、コニー・ウィリスが高く評価されているひとつの要素なのだろう。
 この作品、宮崎アニメのキャラクターや絵で想像しながら読むといいかも知れないと、読後に思った次第。
(2004.12.5)

順列都市

順列都市
PERMUTATION CITY
グレッグ・イーガン
1994
「宇宙消失」「万物理論」とならぶ、量子物理学を背景にした観察者の宇宙論SF。この3冊の中では一番読みやすい。再読だからか? いや、そうではあるまい。本書の設定の根幹をなすバーチャルリアリティの中で生きる人格という概念が難しくなくなったからだろう。もちろん、2004年現在、「意識」をもった人工知性や、バーチャルリアリティ空間への意識や人格のダウンロードはできていないものの、漫画、映画、小説では当たり前の設定になりつつある。
 その概念の一般化に寄与したのは、映画「マトリックス」。監督のウォシャウスキー兄弟はアメリカ人だが、オーストラリアとの縁も深い。本書も読んでいた可能性はあろう。
 ヴァーチャルリアリティでの人格を引き合いに出しながら、イーガンは、意識とはなにか? 認識とはなにか? を、読者に迫る。迫る、迫る。迫られているうちに、トリックに引っかかる。そんなばかな! と思っているうちに、自分がとんでもないところにいると気がつく。ここ、どこ? わたし、なぜ?
 しかし、イーガンにとって、ヴァーチャルリアリティはあくまでも設定に過ぎない。イーガンのすごいところは、世界の枠組みを提示するところである。「宇宙消失」や「万物理論」よりもわかりやすいのは、単に、本書の中では現実世界(リアリティ)は対峙されたヴァーチャルリアリティとの間で確固として存在する。読者によりどころがあるから、わかりやすいだけだ。やはり、本書でも観察者問題が出てくる。これが、中心テーマである。
 3冊の中で、最初に読むのをおすすめするのが本書だ。
 さて、では、私はイーガンが好きなのか。小説はおもしろい。エンターテイメントとして楽しく、かつ、多くの示唆が得られる。しかし、イーガンの描く世界観は、嫌いだ。彼は、徹底して神を否定する。神の存在を無に陥れる。
 私は無宗教者であり、海外に行くときは、宗教を聞かれると、とりあえず仏教と言っておく。新興宗教は嫌いだし、3大宗教も、近代において国家や政治の枠組みの中に配列されてしまったことを嫌悪する。宗教の負の側面がもたらす真理の探究への障害もあろう。だからといって、多くの人が神を抱くことを、否定しない。人類は、神を生み出し、地獄を生み出し、世界を再構築した。その思考世界の曖昧さと豊かさは、神の概念によって生み出されたものだ。科学の真理探究という目的にとって、神の概念を導入しないことは必須であろう。そこに神を持ち出されると思考停止に陥るのも、間違いない。しかし、神との断絶は、真理の探究まででよい。その探究の結果生み出された知識を使うのは、神の概念を抱く人であっても、神の概念を持たない人であっても構わないのだ。そこに明確な違いがある。
 真理は真理であるが、真理と日々の生活の折り合いをつけるのも人間のおもしろさである。真理が社会のあり方、人間のあり方のすべてではないのだ。
キャンベル記念賞受賞
(2004.12.2)

月は地獄だ!

月は地獄だ!
THE MOON IS HELL!
ジョン・W・キャンベル Jr.
1950
キャンベル賞のキャンベルである。現代SFの中興の人。アメリカSFを科学に先んじるセンス・オブ・ワンダーに満ちたものに変えた原動力のひとり。編集者であり、そのアイディアは、アジモフ、ハインラインをはじめ多くのSF作家を育て上げた。
 そのキャンベルの作品である。月にはじめて人類が到着したのが1975年。月の表側はアメリカの領土となった。その5年後、15人の男たちが月の裏側に降り立ち、アメリカ国旗を立て、アメリカ領土を宣言した。月はアメリカの領土となった。
 15人の男たちは、これから1年11カ月に渡って地球との交信もできない月の裏側に暮らし、月の裏側やその地質を探査するのだ。大量の食料、水、空気を送り込むため、彼らは片道切符の宇宙船でやってきた。1年11カ月後、地球から迎えの船が来て、1カ月滞在し、それからともに帰るはずであった。
 しかし、約束の日、宇宙船は着陸に失敗してしまう。
 水、空気は残り少ない。食料もそう長くはもたない。バッテリーの劣化も起こる。電力も必要だ。なにより、地球に、救援を求めなければならない。資金、宇宙船建設、パイロットも足りないだろう。それまで生き抜かなければ!
 なにもない月で、知恵と工夫と、そして、今であれば「そりゃないよ」と思う地質的幸運に恵まれ、彼らは電力を、水を、酸素を、副産物として水素を生み出し、そして、生きのびた。たったひとつの不足を除いて…。
 アイディアだけで書いたような勢いのある作品で、日記形式の作品だが、今読んでもおもしろい。今ならば、火星や土星の衛星タイタン(ティタン)など、呼吸はできなくても大気のある星が舞台になるか。読みたいなあ、そんな作品。
 そうか、映画「ミッション・トゥ・マース」は生き残ったのがひとりだけど、ちょっと近いかも知れない。
 1950年の科学知識を活かして、センス・オブ・ワンダーに満ちた作品に仕上がっている。こんなSFをキャンベルはたくさん読みたかったのだ。きっと。
(2004.12.2)

ボシイの時代

ボシイの時代
THEY’D RATHER BE RIGHT
M・クリフトン&F・ライリイ
1957
 ヒューゴー賞第二回受賞作品で、発表当時、アメリカSF界では非常に人気が高かった作品である。テレパシー(新人類)、人工知能、不老不死の三題噺。日本に翻訳されたのは、1981年、創元推理文庫SFである。おそらく、入手困難な作品。
 原爆投下から40年、つまり1985年頃か。管理社会のアメリカで、ボシイと呼ばれる人工知性(コンピュータ)が開発された。ミサイルの誘導システムとして開発されたはずのボシイは、善悪の判断ができる人工知性体であった。政府は、ボシイを開発した研究者と、ボシイそのものを害悪として追いつめた。大衆はメディアにより政府に自由にコントロールされていた。
 実はボシイの開発と、研究者の逃亡の成功には、知られざる唯一のテレパシストの存在があった。彼は、ボシイに社会学、心理学的解決を求めることで、人間を新たな段階、柔軟なストレスのない生命体に発達させ(治療し)、その結果テレパシー能力を持つ仲間ができないかと期待していたのだ。期待に違わぬ能力を発揮したボシイ。ボシイの心理学的治療を受けた、元々柔軟な思考を持つ素養のあるものは、その治療により、すべての細胞が活性化され、若返りと同じ効果を得て、不老不死さえも得ることができたのだ。
 政府は、人々は、権力者は、そのボシイの能力に気づき、一騒ぎを起こす。
 彼らは、人類を善なるものへ、次なるものへ進化させ、ボシイとともに歩ませるために、新たな一計を案じるのであった。
 最後の落ちを除くと、だいたいそんなところである。
 話は古くさく、教条主義的かつ、科学の正義という夢にあふれ、人類のパートナーとなる人工知性は何でも解決してくれる。輝かしき50年代である。しかし、そこに書かれている社会はメディアが大衆を操作し、政府がなにもかもを管理する暗澹たる世界である。
 とても、今に、似ている。
 情報を即座に、求める者には与える人と人との間のネットワークシステムはあるが、善と悪は混乱し、融合し、腐敗し、澱のように人々の心の奥に沈殿している。
 あるものたちは、世界を自らの道具として狭く考え、すべてを手にしようと望む。
 あるものは、そのことに気づきながらも、大きな力の前に沈黙を保つ。
 あるものは、そのことに怒り、刃を向いて立ち向かう。
 どこにも、ボシイはいない。
 まあ、善悪を判断する機械など、いて欲しくもないが。
 そうそう、世界を正そうという野望を持った大実業家で、政治力もある男が出てくる。ハワード・ケネディという。ジョン・F・ケネディは、1952年に上院議員になり、その後闘病生活に入り、ピューリッツァ賞を受賞したノンフィクション「勇気ある人々」を出版したのち、1955年に38歳で上院議員として返り咲いた。ハワード・ケネディは、JFKをモデルにしているのだろうか。そんなにおいもある。
ヒューゴー賞受賞
(2004.11.29)

宇宙消失

宇宙消失
QUARANTINE
グレッグ・イーガン
1992
 2034年に太陽系外の星空が消え、その存在すら確認できなくなった。人々はパニックを起こし、新たな宗教が起こり、科学者は頭を抱えた。それから33年、人々は夜に星がないことに慣れて生きている。
 モッド…ナノマシンで脳の神経などとAIをはじめとするツールを生化学的に結線したもの。たとえば暗号機能付きの寝ているときだけ有効なメッセージ処理装置「夜間交換機」、たとえばアバターとして様々なことを処理してくれる「暗号書記」、人体の神経系、ホルモン系を意志的に制御可能にする「ボス」、地図と観光案内が一緒になったような「デジャヴュ」、そして警官など職業ごとに入れることがある強化モッド。これがあることで、退屈せずに張り込みしたり、危機的な状況で自動起動して、情動に流されずに状況に対処することができる。もちろんそれだけではない。
 いつもハッピーになることもできるだろうし、自分の信念さえも規定することができるだろう。生命の本質、人間の本質、意志の本質…堅苦しいこと言わないでくれ。
 本書でおもちゃにされるのは、この人間の意志と、量子論で必ず出てくる観察者問題である。
 観察者問題で有名なのは「シュレーディンガーの猫」である。生きている状態と死んでいる状態の両者でいる猫である。「エンディミオンの覚醒」で登場人物がおかれた状態もこれに近いものがある。観察者がいないから。
 グレッグ・イーガンは問いかける。どの時点で「観察した」ということになるのか?
 そうして、本書で遊ぶ。読者はグレッグ・イーガンの遊びにはまってしまい、ずぶずぶと現実を見失っていく。
 作者は遊ばさせている読者の目の前で、悠然と宇宙のあり方と人間の意志についての考察をナノテク=モッドと量子論という両極から行っていく。
 なんだか分かったような気になるのが危ない。ちっとも分かっていないのだ。私は。
 ちなみに原題の直訳は「隔離」。読み終わると、なんてストレートな題だろうと思った。
 「万物理論」も原題がずいぶんストーリーの伏線になっていたが、こちらも、タイトルだけで伏線になっている。
(2004.11.24)

辺境の惑星

辺境の惑星
PLANET OF EXILE
アーシュラ・K・ル・グィン
1966
 ル・グィンのハイニッシュ・ユニバースに属する作品。わが家には、竹宮恵子が表紙を書いたサンリオSF文庫版と、岡野玲子が書いたハヤカワSF文庫版がある。竹宮版はこの作品の「動」の面を描き、岡野版は「静」の面を描いている。
 作品に触れる前に、周辺ばかり書きたがるのは悪い癖だが、もうひとつ、サンリオ版と早川版には大きな違いがある。訳者はどちらも脇明子の手になり、後で出された早川版は訳者曰く訳をあらためたとしている。その訳者のあとがきはまったく内容が違っている。その理由は、サンリオ版には著者による「1978年版への序文 女性解放イデオロギーと私」が巻末に掲載されているからである。
 ル・グィンといえば、常に、SF作家としてフェミニズムに向き合ってきた作者である。いや、そう言われている。実際に「女性の」作家としてフェミニズムをとらえ、解釈し、発言し、また、責められてきた。初期の作品に対し、初期の作家である自分に対し、ル・グィンは1978年に何かを書く必要に迫られたわけだ。それが、この作品の印象を大きく変えている。早川版では、この「序文」はつけられておらず、素直な気持ちで、本書を読むことができる。
 エルタニン第三惑星は、自転周期が地球でいう400日=ほぼ1年。公転周期が24000日=ほぼ65年。この惑星の原住知的生命体はほぼ人類と同じであるが、一生の後半を冬に過ごし、死んでいく。この星に200年前に置き去りとされた人類の末裔は不妊に悩み、残りわずかとなっていた。やがて冬が訪れようという時、それまで群れをなすことのなかった蛮族が軍隊のようになって定住性の現地人類と数少ない人類の居留地を襲ってくる。ふたつの人類は手を結び、蛮族に対峙しようとするが…。
 お互いに自らを「人間」と呼ぶふたつの種族が協力しあうことは可能なのか? その扉は、恋愛によって開かれるのか? 信義によって? 契約によって?
 まあ、そう、むつかしい話ではない。
 SFファンタジーと考えてもいい。
 すなおに、楽しく、さらりと読むもよい。
 ただ、その後のル・グィンのテーマともなる異なる者同士の理解、異人とのコミュニケーションの萌芽がここにはある。そこに、男女、恋愛がからんだものだから、「序文」が必要な事態になったのだろうが、その答えは、後の作品で十分だったのだ。
(2004.11.24)

万物理論

万物理論
DISTRESS
グレッグ・イーガン
1995
 上梓されたのは1995年だが、2004年に翻訳されたばかりのぴかぴかの新作を読んだ。グレッグ・イーガンの「万物理論」である。
 時は2055年、主人公は番組作成ディレクター。片目にAI付きのカメラを仕込み、複数の人工知性体を使いこなしてデータの海を泳いでいるが、いまひとつ人とのつきあい方が苦手な男。
 場所はステートレス。無政府主義者の人工島。バイオテクノロジーを使って作られ海に浮かぶ島。100万人が、生命特許も、特定の権力体制も認めずに暮らしている。バイテク企業の圧力から世界中の政府にボイコットされている島。入り口は、東ティモール空港を経由するしかない。
 はじまるのは、国際理論物理学会。ここに3つの万物理論が提示されるという。
 科学者たちが集まり、そして、理論物理学さえも忌避する反科学の様々な立場のカルト集団も集まってくる。
 カルトと科学者の間で、主人公は次第に大きな出来事に巻き込まれていく…。
 といった話である。
 ハードSFのふれこみだが、たしかに、理論物理学の説明がたくさん出てくるので、ハードと言えばハードかも知れない。でも、あんまりハードではないかも。ストーリーの柱に関わってくるのが理論物理学なので、その点ではハードだけど…。何がハードかという議論もあろうが、最初からハードSFだと構える必要はなさそう。
 1995年の話なので、最新の理論物理学から考えるとちょっと古いかなという感じもする。まあ、最新の理論物理学の何が分かっているのかといわれると、正直まったく分かっていないわけで、せいぜい1999年に上梓された「エレガントな宇宙」(ブライアン・グリーン)を何とか読んだり、「日経サイエンス」で最近の話題に目を通しては、ぼんやりと理解の周辺にいるぐらいだ。そんな奴が、ハードなのかどうか、話をする資格もないものだ。
 社会情勢は、東ティモールが苦難の末独立するのが2040年になっており、実際には2002年に独立してしまったわけで、そのあたり、近未来物として、残念でしたという感じだ。1990年代前半は、東ティモールの独立運動に対し、世界中が注目していた時期でもあり、この点はやむを得ないところであろうが、翻訳が今年ということもあって、このあたりの国際情勢を知っていると、おや、と思ってしまう。まあ、重箱の隅です。
 今から50年後の未来。バイテク企業の飯の種である生物特許は世界中に力を及ぼし、遺伝子組み換え作物、薬剤、素材、エネルギーなどがバイテクの力で作られている。しかし、富める者、持たざる者の差は変ることなく、飢える者もまた存在し続けるのであった。
 ジェンダーへの向かい方は、その究極に行き着き、男性、女性、転男性、転女性、強化男性、強化女性、微化男性、微化女性という性のほかに、汎性という性からの脱却を成し遂げた人々たちも社会に類型されている。
 そんな社会で主人公が悩むのは、他者との距離と、自己認識、他者認識のありよう。どうやって人と接したらいいのか分からないのだ。インタビューはできる。番組にまとめることもできる。でも、本当に、他者とどう向き合えばいいのかは、分からないまま。
 現代的な悩みである。
 バイテク企業が生命特許をもって世界中に力を及ぼしているというのは、今の延長線上で十分考えられることで、だから、生命特許をなくせば、バイオテクノロジーを野放しにしていいということではないと思う。バイオテクノロジーのあり方について、いや、科学技術の使い方について、社会的な合意が必要ではなかろうか。
 おっと、SF評論から政治的主張に変りはじめた。このあたりでやめておこう。
(2004.11.17)

中性子星

中性子星
NEUTRON STAR
ラリイ・ニーヴン
1968
 ノウンスペースシリーズの短編集であり、表題作はヒューゴー賞受賞作。
 食い詰めた宇宙船乗り、誰もいない惑星で滅んだ支配種族の遺物を探す異星生物学者、パペッティア人の秘密を握った海賊、たいくつのあげく未知の危険を求めるフラットランダー、ふとした自然の気まぐれから宇宙の果てまで逃げることになった男…。
 ヒーローのいないスペースオペラである。「リングワールド」を読んだら、ぜひ、本書にも手を出して欲しい。いくつかの「なぜ」が解き明かされることだろう。
 どれも楽しんで読んだが、「リングワールド」とは直接関係のない「狂気の倫理」「恵まれざるもの」をおすすめの2作品としてあげておきたい。
「狂気の倫理」は、「タウ・ゼロ」(ポール・アンダースン)と同様に、止まれなくなった宇宙船の話である。追う船、追われる船に乗っているのはそれぞれひとり。ただ50年間宇宙船で逃げ続けた男の物語である。ひとりの男の心理描写だけで宇宙を描くのは作者の力量が問われるところだ。そのブラックユーモアな落ちも含めて楽しんで欲しい。
「恵まれざるもの」は、砂漠の中でまったく動かない生物なのに、脳が非常に大きく知的生物であると考えられているグロッグという毛むくじゃらの異星人とフラットランダー(地球人)の商売人の話である。コミュニケーションのとれない異星人とどうやってコンタクトし、何を売りつけるのか? その代償は? 動きのない異星生命を相手にした話である。これも、なんと特殊な条件での作品だろうか。ぜひ読んでみて欲しい。
ヒューゴー賞受賞
(2004.11.17)

地球からの贈り物

地球からの贈り物
A GIFT FROM EARTH
ラリイ・ニーヴン
1968
 ノウンスペースシリーズの長編。
 支配階級と被支配階級が確立された人類社会であるマウント・ルッキッザット星。「病院」「統治警察」という管理機構が、被支配階級を飴と鞭の政策をもってコントロールする。支配階級は、放蕩貴族と化している、臓器移植と長命技術と富を思うままに享受していた。被支配階級には、ほとんど力を持たない反政府革命勢力がいる。彼らは平等を求めて秘密結社を組織している。
 そこに、地球から、彼らの権力構造、社会構造を大きく変える技術が贈られてきた。
 安定していた社会が突然動乱に見舞われる。
 革命の物語である。社会変革の物語である。
 しかし、そんな単純な構図では、ノウンスペースシリーズとならない。
 ここに特異な能力を持つ主人公が登場する。
 彼が思うだけで、人々が彼のことを見えなく感じてしまう能力。
 まるで目に盲点があり、いつも彼が願えば、彼の存在が盲点に隠れてしまうようなひとりの男。革命にも、社会変革にも興味はなく、自分の能力にさえ自覚しないただの男。
 彼が、ノウンスペースシリーズならではの「能力者」なのだ。
 そうして、この主人公の行為をめぐりながら、マウント・ルッキッザット星という特異な植民星と、その植民者たちの特異で、かつありがちな社会が淡々と描かれれる。
 本書に政治的なメッセージはない。
 独裁者に見える人間も、強権者に見える人間も、人間には違いないということぐらいである。いや、追いつめられた空間だからこそ、独裁者も、強権者も、革命者も、支配階級者も、被支配階級者も、中間の者たちも、常に、現状をある程度受け入れているのだ。人間のなんと柔軟なことよ、というのが、メッセージだろうか。
 解説によれば、ひとつの科学技術によって社会や倫理がいとも簡単に変わるということをニーヴンは書いているのだという。なるほど、そういうものかもしれない。
 しかし、結局は、リングワールド同様に、マウント・ルッキッザット星の特異な環境を楽しめばよいのだ。それが、私のラリイ・ニーヴンの読み方だ。
(2004.11.5)

リングワールドふたたび

リングワールドふたたび
THE RINGWORLD ENGINEERS
ラリイ・ニーヴン
1980
 ニーヴンという作者は、本当にSFが好きで、自らも熱烈なSFファンであり、SFファンを大切にする作者である。
 私のようなSFが読めればなんでもいいというファンと違い、SF界には、その設定が科学的に成立するかどうかを検証する人たちがいる。彼らのおかげでSFは科学とフィクションの境目を自由に旅しているのだが、時として、作品の穴をその評価が定まった後に見つけるときがある。名著”リングワールド”もまた、その特異な宇宙構造に関心が集まり、人工のものであれ、その構造を維持することが実に難しいことを解き明かす人たちがいた。彼らの多くの指摘と声を受けて、終止符を打ったはずの”ノウンスペースシリーズ”の、しかも、集大成と言える”リングワールド”の続編が、前著から10年後に出されることとなった。
 これもひとえに、熱烈なSFファンと、それに応えるニーヴンという作者の人柄のゆえんである。
 前著では、あきれんばかりに広大なリングワールドのほんのわずかな領域を旅しただけであったが、今回は、もっと広い範囲を旅し、そこに生きる、人類と同じ祖先を持つものたちの様々な社会、生態と出会うこととなる。
 主人公は、前著と同じ地球人ルイス・ウー、クジン人スピーカー(話し手)あらためハイミー、それに、パペッティア人のネサスの配偶者となったハインドモースト。
 ルイスとハイミーを誘拐同然で旅に連れ出したハインドモーストの目的は?
 軌道がずれはじめたリングワールドの謎とは?
 そして、リングワールドにいる30兆人の知性を持つ人々の運命は?
 今回も、リングワールドの驚くべき光景が広がる。しかし、前作ほどに驚きはない。当たり前である。きつい書き方をすれば、あとから理屈をつけた前作の謎解きにすぎないからだ。意外性も、おもしろさも、前作を超えてはいない。では、つまらないかというとそんなことはない。並のSFには引けを取らないであろう。  なにぶんにもリングワールドは、地球300万個分の広さがあるのだ。それだけの広さと、30兆の知性生命が暮らす陸続きに、今、立っていて、危機にさらされていて、それを何とかするために旅をしている。そう考えただけで、ふるえが来ないか? この設定ゆえに、リングワールドはSFファンを惹きつけてやまないのである。
(2004.11.5)