シャドウ・パペッツ

シャドウ・パペッツ
SHADOW PUPPETS
オースン・スコット・カード
2002
「エンダーズ・シャドウ」「シャドウ・オブ・ヘゲモン」に続く、「エンダーのゲーム」のサイドストーリーシリーズ第三弾である。つい先日、早川SF文庫から邦訳が出されたばかりの作品だ。このサイトではできるだけ古い作品から再読し、感想や紹介を書いているのだが、シリーズものは取り扱いが難しい。読むならば一気に読んでしまいたいが、時間の都合や、本書のように、まだシリーズとして続いているものもあるからだ。
たまには、最新作の書評もよいだろう。
本書は、2001.9.11以降に書かれた作品であり、著者自身があとがきにあたる「謝辞」の中でそのことに触れている。先のこととは言え、国際政治を舞台に据えた作品だけに、現実の国際社会のあり方が本書と関わりを持つことは否定できない。
一方で、エンダーの腹心であり、真の天才であったビーンをはじめ、「子どもたち」は少年少女の時期をすぎ、思春期を迎え、大人となりつつある。すでに大人社会の中で、戦争を指揮し、国際政治の裏舞台にいた彼らが、地球の政治、宗教、社会のリーダーとして表舞台に登場する。そのいきさつを描いたのが本書である。
おおまかに言って、中国がインド、パキスタン、タイ、ミャンマーを含むアジア大陸中南部を支配し、世界最大の勢力となっていた。イスラム諸国は、イスラエルとの関係を修復し、イスラムの宗教世界と現実世界の大統一へ向けて静かにその準備を整えつつあった。ロシアは中国を恐れながらもにらみつつあり、ヨーロッパ、アメリカは世界の中での主導的力を失いつつあった。エンダーの舞台となった異星人戦争のために生まれた汎地球政府である、覇権政府は、事実上の権力を失い、中国の拡張主義に正面切って対立するとの一点において中国を恐れる国々の支持を得ている。その微妙なバランスの中で、彼ら主人公たちが立ち回り、世界を変えるのだ。
国際政治シミュレーションゲームである。
シリーズを通しての主人公であるビーンは、成長し続ける知能と引き換えに、止まらない身体の成長と限られた寿命を持つ。その余命はあと1年か、2年か、あるいは数年か。すでに巨人となっており、同時に思春期を迎え、そばにいるペトラとの新しい関係がはじまろうとしている。一方の主人公であるヘゲモン=ロック=ピーターは、そばにいる父母との関わりを深め、新たな家族関係をむすびはじめる。このふたつの「家族」を軸に、親子関係や家族関係が語られる。
結局は、宗教と、家族と、コミュニティの話になっていく。それが、オースン・スコット・カードである。
もう慣れたけど。
もうひとつ、本書の特徴に、アメリカ社会、キリスト教世界の中にいる作者が、その視点と、「敵を知るには、愛するほどに、敵の考え方、見方、感性など敵そのものにならなければならない」という、「エンダーのゲーム」で提示された「敵への愛」をあらためて表現していることである。これもまた、現実世界への敬虔な家族人であり、宗教人でもある、作者の答えなのだろう。
ということで、前作までついてきた人ならば、読むのになんの抵抗もないだろう。複雑な国際政治もすうっと身体に入っていくに違いない。
本作だけを読むような独立した作品ではない。あくまでもシリーズの途中なのだ。この作品だけを読めばいいというおすすめはできない。「エンダー」シリーズの中で、単独で読んでもおもしろいのは、「エンダーのゲーム」と「死者の代弁者」「エンダーズ・シャドウ」の3作品だけである。あとの作品群は、やはり、どうしても、おまけなのだ。
(2004.10.26)

リングワールド

リングワールド
RINGWORLD
ラリイ・ニーヴン
1970
 今読んでも傑作である。
 ルイス・ウー200歳。冒険家。話から読みとると、時は28世紀、かな? 地球上で移動手段としての転移ボックスができて3世紀半になる。人類は、肉食の虎型異星人クジン人と出会い、星間戦争がはじまった。アウトサイダー人が、人類の星のひとつウイ・メイド・イット星に漂着し、ハイパードライブ装置を彼らにもたらすことで、クジン人との戦争に勝ち、その後、植物食の蹄を持つ二頭型異星人パペッティア人に出会い、他の異星人とも出会うこととなった。
 パペッティア人ネサスの誘いで、ルイス・ウーは、クジン人スピーカー・トウ・アニマル(獣への話し手)、20歳の地球人ティーラ・ブラウンとともに、不思議な星系リングワールドへの冒険旅行に出かける。
 リングワールド-地球の公転軌道を考えて欲しい。太陽を回る地球が描く線のことだ。この線が幅160万kmのリボンだとする。ちなみに、地球をぐるっと一周回ると4万kmだ。
 このリボンの太陽を向いた面の面積は地球の表面積の300万倍。つまり、300万個の惑星が同じ軌道上を一緒に回っていると考えればよい。陸続きの地球より300万倍の平たい世界がそこにある。地球の各地を1年で探検したり旅行するとして、どのくらい見て回ることができるだろう。それが300万倍である。3000000年かけても、ざあっとしかこの世界を知ることができないのだ。想像つきますか?
 そして、そこから見上げる空の光景…。
 たとえ、地球の人口許容量が100億人であっても、リングワールドならばその300万倍の許容量となるのだ。それがひとつの世界なんて。
 SFのおもしろさは、見たこともない世界を見ることだ。旅をしても、旅をしても、旅をしても、いきつけないリングの端。そして、リングには終わりはない。
 誰がつくったのか? どうして、放棄したのか?
 そんなことさえも、どうでもよくなってしまうほどに不思議で巨大な人工の世界。
 4人は、リングワールドに到着し、そして、不時着する。
 幸運を運命づけられた女性ティーラ・ブラウンとともに…。
 典型的な珍道中記であり、4人の性格、関係性、関わりが、物語に奥行きと楽しさと深みと、擬似的な体験を与える。
 ロードストーリーとしての「リングワールド」の展開は、その後、ダン・シモンズの「ハイペリオン」シリーズにも色濃く反映している。同じようなおもしろさが得られるだろう。「ハイペリオン」を読んで気に入った人は、ぜひ、「リングワールド」も読んでみて欲しい。
 今読んでも、そして、同じ宇宙を描いたノウンスペース・シリーズの他の作品を知らなくても、本書は、SFの傑作であり、色あせることはない。
(2004.10.26)

マーシャン・インカ

マーシャン・インカ
THE MARTIAN INCA
イアン・ワトスン
1977
 今はなきサンリオSF文庫である。大学生のときに購入したのだが、実は今の今まで放置してあった。どうも、ディックなど一部の作家の作品を除いて、サンリオSF文庫の作品は取っつきにくいのだ。なぜかは分からない。それでも、いくつかの作品は、表紙に惹かれたり、釣り書きに引っかかって購入し、読まないままに本棚に眠っていた。本書もまたその一冊で、広島-熊本-東京を20年かけて旅をして、ようやくこのたび私の目に触れることとなった。
 アメリカは、有人火星探査機を送っているところで、3人の宇宙飛行士が探査とテラフォーミングのために火星に向かう途上にあった。
 一方の大国ソヴィエトは、金星をテラフォーミングするための準備をすすめていたが、アメリカの火星探査に先駆けようと火星に無人探査機を送り、火星の砂を積んで地球に帰ってきたが、パラシュートがきちんと開かずに、ボリビアの山中に落ちてしまう。
 ボリビアは、ソヴィエトともアメリカとも国交を持たず独自の革命路線を歩んでいた。
 火星の探査機が落ち、砂がこぼれ落ちたのは、かつてのインカ人がケチュア語を守りながら暮らしていた集落であった。砂に接触したものは、しばらくすると身体が硬直し、高熱の中意識を失う。しかし、治療をほどこされなかった者はやがて独力で回復し、二重意識を持つにいたる。
 今、ふたりのインカ人が、自らの意識に目覚め、インカ帝国の再興をめざして立ち上がる。
 一方、アメリカの有人火星探査機では、常に3人のうち2人が起きて当直につき、ローテーションを組んでいる。3通りの組み合わせ。ひとりは常に別のふたりに対し、別の性格、行動をみせる。それが人間関係というものだ。閉鎖された空間での微妙な関係…。ひとりのときの意識、ふたりのときの意識、そして、火星が近づき、3人が同時に接するときの意識、行動は違ったものになる。
 ボリビアの情報を求めるアメリカの情報局と火星探査当局…、その情報は、細切れになって火星探査船にも伝えられていく。
 やがて火星に到着した探査船。そして、ふたりのインカ人の「革命」。その行方は…。
 そして、火星の生命とは。
 ということで、イギリスというより、ヨーロッパ、東欧的なSFの感じがする。スタニスワフ・レムのような作品といったらよいか。
 ハリウッド映画と、かつてのフランス映画の違いだ。
 別に火星でなくても、インカでなくてもいいのだ。
 砂でなくてもいいのだ。
 ただ、火星とインカは遠くて近いと、イアン・ワトスンは感じ、意識について想いをはせたのだ。
 うーん、難しい。ニュー・アカデミズムだ。80年代だ。
 スタニスワフ・レムの作品が好きな方にはおすすめしたい。
 ヨーロッパ映画は小難しすぎる、エンターテイメントがいいよ、という方には、おすすめできない。
(2004.10.19)

タイム・パトロール 時間線の迷路

タイム・パトロール 時間線の迷路
THE SHIELD OF TIME
ポール・アンダースン
1990
 日本に紹介された「タイム・パトロール」が1960年発表の1冊。本書「タイム・パトロール 時間線の迷路」は、シリーズ第4冊目をまとめたものである。その間、30年の歳月が経っている。しかし、主人公は変わらず、1924年生まれのマンス・エヴァラード。もはや実年齢は分からない。長命化措置を受けているので、年を取るのも遅いのだ。本シリーズでは、1965年生まれ、初登場当時21歳のワンダ・タンバーリィが登場する。どうやら彼女は、この直前の、つまり未訳の巻で時間犯罪者”称揚主義者”に誘拐され、それをマンス・エヴァラードが救出、その後、彼女はタイム・パトロールにスカウトされたようである。
 本書では、1987年・88年のアメリカ、1985年のアフガニスタン、紀元前209年のバクトリア王国、紀元前976年のエーゲ海、1902年のパリ、紀元前31275389年のアメリカ大陸、紀元前13212年~13210年のアメリカ大陸、1965年のアメリカ、1990年のアメリカ、1137年のシチリア、紀元前1765年、紀元前15926年、紀元前18244年、1146年、それに、ありえなかった時間軸の日々…をめまぐるしく動き回る大きく3編の作品からなっている。そのいずれも、マンス・エヴァラードとワンダ・タンバーリィの年の離れた二人の活躍があり、二人のささやかな愛のはぐくみが薬味を添える。
 そして、彼らを導く上位のタイム・パトロールの存在、無任所員としてのマンスの活躍、専門職としてのワンダと他のタイム・パトロールとの葛藤、多くのタイム・パトロールとの邂逅と協力関係…、何かに似ている。前作とは違う何かのにおいがする。
 そうだ。この組織と、このヒーロー、ヒロインは…レンズマンだ。
 ドク・E・E・スミスが生んだ永遠のスペースオペラ「レンズマン」シリーズのレンズマンという組織、そして、それを生み出した上位の存在、自由でありながらも軍隊的であり、ヒーローは無任所員的な扱い”グレーレンズマン”で、まったく別の部署であるヒロインと接しながら、いつか、ヒロインも重要な役回りとなり、活躍する。そして、他の隊員たちが、彼らを支え、その姿が物語を盛り上げる。
 そうか。タイム・パトロールシリーズは、いつしか時間SFのレンズマンになっていたのか。
 そう思うと、楽しく読めるぞ。
 もちろん、行ったことのない歴史との遭遇、人類の創生期の姿、もしかしたらあり得たかも知れない世界など、時間SFには欠かせない要素が今回もみっちり詰め込まれている。
 気兼ねなく楽しんで欲しい。そして、ヨーロッパの古い歴史に関心を寄せてみるのもいいだろう。
(2004.10.19)

幻惑の極微機械

幻惑の極微機械
DECEPTION WELL
リンダ・ナガタ
1997
 遠い未来。遠い宇宙のどこか。滅び去った異星人文明が残したものは、他の異星生命や機械を破壊する自動兵器。人類はその版図を広げ、生存していた。人類として。
「極微機械ボーア・メイカー」と同じ宇宙を描いた作品である。前作は、地球でのナノテクと宇宙エレベーター都市を描いた、ちょっとした未来の作品だったが、本作は、遠い遠い未来の物語である。本作もまた、メイカー=ナノ・マシンと宇宙エレベーター都市、そして、宇宙エレベーター都市とつながる惑星が舞台となる。主人公も、偉大な父への想いと反発、信頼と懐疑に満ちた、ある意味での成長譚であり、同じ主題で主役を変えた変奏曲という感じだ。
 しかし、前作よりも洗練され、物語として楽しむことができる。
 ひとりひとりの人間の思考や行動と集団としての人間の思考や行動は異なる。集団意識や群集心理などとも呼ばれる。そのとき、焦点となる人や存在があれば、それはカリスマとなり、あるいは神の代弁者となる。独裁政治が生まれ、宗教が起こる。たとえ、その焦点となる者がそれを望んでいなくても、集団が、群衆が、その属性を与えるのだ。
 それは、運命でも、必然でもない。本来は。本書では、それを運命として、必然として、生まれついた少年が主人公となる。彼は、その力ゆえに、人を引きつけ、恐れさせる。彼は、自分が存在する目的と自分が生きのびるという生命故の動機との間で考え、行動する。
 その彼の前に繰り返し登場する、どこからともなく現われる蠅と毛氈苔。蠅は毛氈苔の魅力にかなわず、毛氈苔は蠅をとらえ、消化していく。同化していく。
 宇宙エレベーターがつながる惑星は、陥穽星と呼ばれる。宇宙エレベーター都市「絹市」の人口は650万人。そして、陥穽星の人口は0人。陥穽星には、コミュニオンという生命系生命があり、そこに行けば、人はコミュニオンに取り込まれ、同化し、その中で永遠の存在として生きられるという。しかし、絹市の人々はそれを信じない。外の星系から、少年の父によって連れられてきた難民たちだけがコミュニオンの存在を信じ、そこへの同化を望んでいる。
 果たして、コミュニオンは存在するのか。人は、その姿を捨てて永遠に生きることができるのか? それとも、それはただの生命体を殺すための罠なのか? いったい、誰がコミュニオンを知っているのか? 惑星=重力井戸と、宇宙エレベーター都市=重力から解き放たれ、しかし、重力によってつなぎ止められた存在の対比。宇宙を自由に飛び、かつては人間だった知性を持つ「生きた宇宙船」と、惑星系に縛られた人々の対比。
 さまざまな対比を繰り広げながら、ひとりの少年を軸に物語は進む。ナノテクも、宇宙エレベーターも、自動兵器も、舞台設定にすぎない。
 物語は、読み手がその質をつくる。おとぎ話として楽しく読むもよい。生命の本質とか、宗教について考えるもよい。書かれていない世界について想像を豊かにするもよい。父と子、親子関係について教訓を得るもよい。大人と子どもの視点の違いを納得するもよい。物語は、読み手によって書き変わる。テキストは不変であっても。
 だから、楽しいSF作品である。
(2004.10.13)

タイム・パトロール

タイム・パトロール
GURDIANS OF TIME
ポール・アンダースン
1960
 ポール・アンダースンの「タイム・パトロール」シリーズ邦訳第一冊である。本書には、4作品が掲載されており、1955年から60年にかけて発表されたものである。
 1924年生まれのアメリカ人、マンス・エヴァラードは30歳。1954年にタイム・パトロール隊の一員になる。1894年のロンドンで5世紀に起きた時間犯罪を解決し、紀元前6世紀のペルシャで歴史の歯車に誤って取り込まれた未来人を救い出し、13世紀のアメリカ大陸では、あるべき未来を守るために中国「元」の探検隊を失敗に導き、2万年前のヨーロッパで遊んでいるうちに誰かの手により変えられ、紀元前3世紀以降のパトロール隊さえ存在しなくなったすべての未来の歴史を元に戻すため、時間を飛び回って活躍する
。  難しいことを言ってはいけない。タイム・パラドックスもまあだいたいなところだ。
 気にするな。
 X-MENやスーパーマンのようなアメコミの世界だ。ただ違うのは、実在の、あるいは、伝説の歴史上の人物たちが次々と登場することだ。タイムトラベルものは、歴史の「もし=If」を楽しむための道具である。歴史は次々に書き変わり、そして、元に戻され、あるいは、そのままになる。主人公は、普通の人間でも、舞台がすごいのだ。
 楽しめ。
 作者も楽しみながら書いている。これをきっかけに、歴史に関心を持つもよい。ちょっと、歴史書を読んだり、歴史の教科書を読むのが楽しくなる。  頭の中で、世界が変わる、広がる。
 歴史を遊べ。伝説を歩け。
 なお、本書の続編が、なぜか知らぬが1990年になって邦訳されている。しかし、邦訳2冊の間にも、「タイム・パトロール」シリーズは続いている。どうして、第4冊目だけが邦訳されるにいたったのか、謎である。誰かの時間的いたずらか?
(2004.10.13)

人間以上

人間以上
MORE THAN HUMAN
シオドア・スタージョン
1953
「スラン」「オッド・ジョン」「アトムの子ら」など、新人類テーマの一冊。同じように、「新人類」アニメがブームとなる前後の1978年にハヤカワSF文庫化している。発表年は「アトムの子ら」と同じ年である。
 しかし、本書は他の作品とはずいぶんと趣を異にしている。
 本書に登場する新人類は、ホモ・ゲシュタルト「集合人」である。瞬間移動ができる者、念動力が使える者、テレパシー、超常的な計算能力、それらをつなぎ合わせる能力を持つ者…、彼らひとりひとりは、生活能力がなく、白痴であったり、発育不全であったり、捨てられた子どもであったりする。しかし、彼らが出会い、お互いを「自分」として認識することでホモ・ゲシュタルトになるのだ。まったく違った思考体系、行動体系。しかし、生存し、繁栄したいという生命の本質は彼らも同様に持っている。
 ひとりひとり=部分が生き残るため、ゲシュタルト(形態)として存在し続けるために、彼らは彼らができることを続ける。
 本書は、3部構成になっており、ゲシュタルトの形成まで、ゲシュタルトの危機、そして、人類とゲシュタルトの接点を描く。一貫してスタージョンが描くのは孤独と他者との関わりである。
 誰かに自分の存在を認めて欲しい。誰かに触られたい。誰かとコミュニケートしたい。誰かと関わりを持ちたい。関わりを持った過去を大切にしたい。  孤独の寂しさを知らないことは、孤独を知ったあとで味わう寂しさよりも不幸なことだ。
 実に切ない話である。
 きっとSFでなくてもよいのだろうが、SFだからこそ、ホモ・ゲシュタルトとしての人類を描くことができ、その孤独を通して、孤独の意味を知ることができるのだ。
 寂しいときに読むとよい大人向きの作品である。
 ちなみに、手元にあるハヤカワSF文庫の表紙は、赤ん坊の顔が破られたような野中昇氏の作品で、ちょっとホラーっぽい。私はホラー作品が実に苦手である。たしかに、映画にしたらホラー作品になるかも知れない。しかし、内容は決してホラーではない。
国際幻想文学賞受賞
(2004.10.4)

アトムの子ら

アトムの子ら
CHILDREN OF THE ATOM
ウィルマー・H・シラス
1953
 1981年にハヤカワSF文庫となった「アトムの子ら」は「スラン」「オッド・ジョン」などの新人類テーマものである。本書の舞台は、1973年。本書が発表されてから20年先の未来。私がいる今から30年も前の未来である。
 1958年、原子力研究所で起こった爆発事故。当初は死者が少なかったものの、2年の内にはほとんどが死ぬか危篤の状態となった。その中で生まれた子どもたちは、すぐれた頭脳を持つ天才児であった。14歳前後を迎えた彼らは、あるものは精神病患者として扱われ、あるものは自らの能力を隠しておとなしく暮らし、ペンネームを使って文筆活動、設計などの活動を続けていた。
 高度な頭脳と認識力を持ちながらも、「わかってくれる」仲間が見あたらないことによる孤独感、社会への経験不足など、不安定な成長を起こしかけていた。
 主人公の少年ティモシー(ティム)・ポールと精神病医のピーター・ウエルズの出会いが、この状況に変化をもたらす。ティムの能力と問題を察知したウエルズはティムに協力し、仲間を捜し、彼らがのびのびと精神と能力を成長させるための新たな学校を開くまでとなった。しかし…。
 子どもであるがゆえに才能を認められず、隠さなければならない、あるいは迫害される。オースン・スコット・カードの「エンダーズ・シャドウ」シリーズを思い起こす。天才児と現実社会の接点を描く作品は、いかに子どもの視点、行動を表現するかが正否を左右する。天才でありながら、子どもであること。そのいらだち、不安、あせり。そのあたりが本書の魅力である。
 高い認識力と理解力によって、精神的、感情的成長をとげることができるか?
 作者は、それを新人類=これからの人々に願っていた。
 以来半世紀、私たちは少しでもそれに近づくことができただろうか。
 ひとつだけ本書で残念なのは、放射能によって、生まれた2世が新人類になるということ。第二次世界大戦後の作品としていかがなものだろう。
(2004.09.30)

スラン

スラン
SLAN
A・E・ヴァン・ヴォークト
1940
 海外ではどうか知らないが、日本において超能力SFの代表作・古典を問われれば、今もって本書「スラン」が挙げられるに違いない。
「スランだ!殺せ!」
 なんといっても、竹宮恵子の漫画「地球へ」をはじめ、萩尾望都の初期作品群など多くの漫画・アニメに影響を与えた作品であることは間違いない。
 超能力者、異能者は殺さなければならない。迫害しなければならない。そうでなければ、自分たちがやられるのだから。迫害され、殺されるものは、なぜ自分たちが狩られなければならないのか、理解できない。人間と違う能力を持っているのは自然なことではないか。人間となぜ共存できないのか。迫害されるものの悲哀。狩られるものの正義。
 こういうところが心をくすぐるのだ。
 もちろん、萩尾望都の初期作品群をはじめ「ポーの一族」、竹宮恵子の「オルフェの遺言」などのシリーズ「地球へ」など、迫害されるものたちの世界を漫画化した彼女らの作品群に中学生のころしっかりとはまったひとりとして、本書は懐かしく安心して読める作品である。
 スランは、読心能力や天才的な知覚力を持った新人類である。西暦2070年、サミュエル・ラン博士が発見した新人類たちは、その後確実に数を増やす。しかし、現人類は異常出産を続け、人間は狂気に陥り、戦争が起き、スランはすべての災厄の元凶として狩られる。500年続いた狂気のスラン狩りのあと、スランたちは社会の表舞台から姿を消し、散発的に狩られるにとどまっていた。それから1000年ののち。すべては伝説となりながらも、スランを狩り、人間を管理する専制的な社会ができていた。ジョミーことジョン・トマス・クロスは、そんな社会に生まれたスランの子ども。天才科学者の父を殺され、今また、母を殺された。彼は生き残り、様々な現実に出会う。読心能力を持つ純スランだけでなく、スランを特徴づける頭の触毛を持たず読心能力もない、そして人間社会には知られていない無触毛スランの存在。無触毛スランの純スランへの憎しみ。人間のスランへの憎しみ。無触毛スランの人間への憎しみ。そして、探しても探しても見つからないほかの純スラン。
 ジョミーは成長しながら、なんとかこの狂気の連鎖を止めたいと願う。父が残した科学技術を武器に、彼はひとり、全世界を相手に無謀な戦いを終わらせる戦いに挑む。
 ね。どこかで聞いたことのあるような筋書きでしょう。
 すべては「スラン」から始まったのだ。「スラン」があり、萩尾望都や竹宮恵子の70年代作品があって、日本のSFアニメ界は花開いたのだ。言い過ぎですか?
 すくなくとも、迫害者テーマ、超能力者テーマの古典として、「スラン」ははずせない1冊である。
 ちなみに本書はA・E・ヴァン・ヴォークト(ハヤカワSF文庫ではA・E・ヴァン・ヴォクトとなっている)の処女長編だ。このあと、彼は「武器製造業者」「宇宙船ヴィーグル号」「非Aの世界」など、名作を次々と発表する。
 余談続きだが、本書が発表されたのは1940年。本書では、おおよそ西暦3500年以上先の未来と西暦2070年の過去の歴史を扱っている。その戦乱の果ての遠い未来の人口は約40億人。なかなかいいところをついていると感心した。
(2004.09.30)
追記 2012年10月、読者より
竹宮恵子氏がマンガ少年に「地球へ…」を連載していた頃、何度もインタビューでスランとの類似性を指摘されていました。1979年くらいかな?
竹宮恵子氏は、
「確かに似ていることは、人に言われて読んでみて驚いたが、スランはそれまで読んだことはなかった」
と、当時、雑誌にも読者にも再三答えています。
とのご指摘をいただきました。ありがとうございます。
「地球へ…」との前後関係は、私の勘違いだったようです。原文はそのままにしておきますが、竹宮恵子氏と読者にお詫びして訂正いたします。

オッド・ジョン

オッド・ジョン
ODD JOHN
オラフ・ステープルドン
1934
 本書は、ハヤカワ文庫SFにて1977年発行。購入したのはおそらく1980年頃のことだろう。竹宮恵子の漫画「地球へ」が星雲賞をとったのが1978年。アニメ映画化が1980年である。ここからしばらく、「地球へ」の下敷きになった「スラン」(A・E・ヴァン・ヴォークト)をはじめ、「人間以上」(シオドア・スタージョン)、「アトムの子ら」(ウィルマー・I・H・シラス)など、迫害される超能力者や超人類(新人類)を描いた作品が人気を集めた。TVアニメ「機動戦士ガンダム」は1979年より放映され、1980年以降の再放送で人気を集めた。「ニュータイプ」という言葉がはやったのもこの頃である。
 もし、この頃に、同様のテーマが社会現象にならなければ、本書が訳されることはなかったのかも知れない。そして、ちょうど、中高生だった私はきちんと流行に巻き込まれ、これらの作品を読みあさったのである。
 本書は、1934年に発表されたイギリスSFであり、超能力者や人間を超えるものを扱った最初の作品として知られている。また、人間を超えるものの視点から、人間の精神や社会、文明のありようについて鋭くとらえる手法を得た作品でもある。
 オッド・ジョン(奇妙なジョン)は、1910年に生まれ、1933年にその短くも深遠な生を終える。本書は、普通の人間であるジョンの両親の友人であるジャーナリストがジョンの生涯を人間の目から伝記的に書き記すという形式でほぼ順を追って語られる。
 異形で成長が遅く、4歳になってはじめて発した言葉は文法的に正しい言語で、高等数学をあやつり、その成長とともに必要に応じて肉体を鍛え、数々の発明品を通じて金を稼ぎ、旅をし、仲間を捜し、そして、彼らだけの植民地をつくろうとする。しかし、彼らだけの植民地は結局は人間の手によって滅ぼされるのだ。
 彼らの心の動き、感情の動き、動機のありようについて、語り手はとまどいながらも、人間とは違う、より高次の存在としてジョンとその仲間と接し続ける。その最後の日まで。
 本書が書かれたのは、1934年である。世界恐慌が置き、ナチスがドイツで台頭し、第二次世界大戦に向かって世界中が不安の中にあった。本書からは、その当時の不安と絶望と人類への希望を読みとることができる。
 ドイツの混乱、避けられない第二次世界大戦と、破滅的な相互破壊の予感。それは的確な時代認識である。その時代に、結果的には滅ぼされてしまう人間を超えるものを登場させることで、人間が失いかけているものを明らかにする。
 もちろん、人間を超えるものは、反道徳的であり、非倫理的である。だが…それがどうしたというのだ。彼らは人間を超えるものなのだ。彼らの論理、彼らの精神、彼らの動機を我ら人間が何を語れようか。しかし、だからといって、人間と人間を超えるものは対立軸であったり、どちらかが滅ばなければどちらかが生き残れないというものでもない。
 その問いかけを残したまま、オッド・ジョンは死んでいく。
 このテーマは、SFの定番であり、永遠のテーマであろう。
 人間が、人間を超えるもの、あるいは、人間と対置する人間ではないものに出会うまで。
 それにしても、「現在この惑星を支配している16億もの不格好な動物」(67ページ)だったのだ、この当時は。今や64億人である。まだ、100年も経っていない…。
(2004.9.29)