スローターハウス5

スローターハウス5
SLAUGHTERHOUSE-FIVE
カート・ヴォネガット・ジュニア
1969
 本書の主人公、ビリー・ピルグリムは、著者と同じ1922年生まれ。1986年に死亡。”「1986年2月13日に死ぬのであり、常に死んできたし、常に死ぬであろう」”
 この本書を、1986年に広島で私は読んだのであり、常に読んできたし、常に読むであろう。2004年にも読んだのだ。
 1980年代は、フィリップ・K・ディックやカート・ヴォネガット・ジュニアがSFではない人たちにも読まれた時代だった。
 1980年といえば、その年の暮れに、ジョン・レノンが殺された。12月8日、日本がパールハーバーに攻撃を加えてから39年後のことである。
 911以降、ジョン・レノンのイマジンはアメリカの大手メディアで自粛され、流されなかったという。大手メディアは何を想像(イマジン)したのかしらん。
 スローターハウス5とは、屠殺場5号棟というような意味。ドイツのドレスデン1945年に、ビリー・ピルグリムはそこにいた。捕虜として。殺されるためではない。家畜をと殺するところである。もう家畜がいなかったから、使う必要のない屠殺場を有効利用したのだ。ナチスドイツ=虐殺ばかりではない。戦時捕虜は捕虜として扱われるのだ。
 1945年2月13日夜、ドレスデンは激しい空爆にさらされた。もちろん、イギリスとアメリカの戦闘機である。
 ビリー・ピルグリムは生きていたし、カート・ヴォネガット・ジュニアもまた生き残った。
 ドレスデンは壊滅し、13万人以上が死んだ。ある数以上は、人は数えなくなるらしい。20万人という説もある。
 1960年代まで、ドレスデン空爆は隠されていた。
 生き残った人間には、隠されることはない。
 本書はSFである。宇宙人も出てくる。
 トラルファマドール星人には、”人間は長大なヤスデ--「一端には赤んぼうの足があり、他端に老人の足がある」ヤスデのようにみえる”。
 私には、自分の端も、人の端も老人の足の方の端は見ることができない。
 ただ、死んだ人だけは、そこが端だということがわかる。
 たくさんの人が死に、死に続ける。
 ビリー・ピルグリムは、トラルファマドール星にとらえられた時期がある。44歳の頃だ。そこで、子をなしている。
 1948年、ビリー・ピルグリムは、エリオット・ローズウォーターと病院で出会う。ここで彼はカート・ヴォネガット作品に欠かせないSF作家キルゴア・トラウトの作品と出会う。キルゴア・トラウトの作品は、ヴォネガットのようには売れていない。
 1964年、ビリー・ピルグリムは、キルゴア・トラウトとも出会う。18回目の結婚記念パーティーに彼を招待した。
 ビリー・ピルグリムは、地球とトラルファマドール星で結婚し、子どもをなした。
 誰も殺さず、殺された。
 なぜか知らないけれど、わが家には、文庫版の初版で表紙が映画の1シーンになっているものと、1986年2月28日版で和田誠が表紙を書いているものがある。
 何回かは、読んでいるらしい。
 今、また読む。
 トラルファマドール星人にはどう見えるのだろう。ヤスデの数カ所で、同じ本を手に取るのは。
 本は何度も読むことができるが、死ぬのは1度だけである。生まれるのも。
 911以降、世界はややこしくなっているが、これもまた、繰り返しである。
 だからといって、今殺された人間は、はじめて死ぬのであり、それまでは死んでいなかったのだ。
 911以降に、カート・ヴォネガットを読むのはいいことかも知れない。
 本書に出てくるトラルファマドール星人は、その後、テッド・チャンのヘプタポッドになったのかと思わせる。「あなたの人生の物語」は、戦争の話ではないが、読んでみるとよい。
(2004.12.28)

神の目の小さな塵

神の目の小さな塵
THE MOTE IN GODS EYE
ラリー・ニーヴン&ジェリー・パーネル
1974
異星人とのファーストコンタクトものである。
そこは、ニーヴン。時は3017年。人類は、オルダースン航法により、いくつかの恒星間を瞬時に旅する技術を手にして2020年から宇宙移民を開始していた。2250年に、第一次の人類帝国が誕生するものの、2063年には分離戦争がはじまり、2903年にようやく第二次人類帝国が宣言され、以後110年に渡り、各地の反乱を平定し、帝国に組みこむための宇宙戦争が続いていた。そこに、はじめての異星人である。
なんとまあ。希有壮大な。
人類ばかりの「スターウォーズ」の世界に突然、知的異星文明との接触が行われるのである。しかし、この異星文明はまだオルダースン航法を見いだしてはいなかった。
それ以外は、戦争もない1万年以上もの長きに渡って文明を維持してきている。
はたして、彼らは敵か、味方か。人類と共存できるのか?
今、人類社会と異星文明の将来を背負って、ひとりの青年貴族の海軍将校ロッド・ブレインが旅立つ!
反乱の起きた惑星で長きに渡って拘束されてきた若き貴族の娘で人類学者のサンドラ・ファウラー嬢、その反乱の黒幕と目を付けられている大商人ホレス・フセイン・ベリーら、脇も怠りなし。
どどーん。
ドク・E・E・スミス(レンズマン、スカイラークシリーズ)ばりのスペースオペラである。異星人の生態や社会、宇宙船の航行など随所にハードSFとしての醍醐味があふれている。ゴシック風な筋立てで、しっかり70年代SFを身にまとっているのだ。
ラリー・ニーヴンは本当にSFが好きなんだなあ。
ああ、SFが読みたい。この世のうさを忘れて、宇宙を飛び回り、様々な危機に出会いたい、そんなあなたにこの1冊(いや、日本版だと2冊だが)をお勧めしたい。  頭の中で、映画でさえ追いつかない壮大なドラマをあなたに!
(2004.12.23)

テラプレーン

テラプレーン
TERRAPLANE
ジャック・ウォマック
1992
 2023年、「ヒーザーン」から25年後の未来。「ヒーザーン」ではポストモダン思考と言葉で物語の脇を固めたジェイクも立派なボディーガードに育っている。ロシアは義務消費体制で経済を活性化させ、アメリカをドライコ・コーポレーションが支配するように、ロシアもまた私企業の元に支配されていた。
 そのロシアで、ニコラ・テスラばりの発明があり、ドライコからその秘密を探り、入手すべく主人公の黒人男性ルーサーがジェイクに付き添われて訪れる。
 秘密を奪取したものの、逃げ場を失い、発明者の助手の研究者オクチャブリーナらとともに、装置を作動させた。行き着いたところは、1939年。20世紀になるまで黒人は奴隷のままで、いまだ差別が激しく、フランクリン・ルーズベルトは暗殺され、不況のままに、ヒットラーのみが台頭しつつある「もうひとつの」1939年だった。
 中年黒人男性、白人だが、ポストモダン語しか話せないあやしいボディーガード、ロシア人の女…、この3人を救ったのが、黒人医師のドクだった。ドクは、黒人が迫害されない自由で、希望に満ちた未来を夢見ていた。
 ジェイクとオクチャブリーナのぎこちない恋愛。
 ドクと妻のアリス。
 そして、わたし=ルーサーと、それぞれの人物たちの異質な、異質故の関わり、ふれあい、そして、希望。
「ヒーザーン」に比べれば、わかりやすく、読みやすい話である。そして、とても、せつない。
 2004年の現在、911以降、ふたたび顕在化した大きなシステムによる人々への支配と暴力の構図の中に生きるとき、本書は二重の既視感を与える。主人公ルーサーが見たもうひとつの1939年は、現実世界の悪夢をすこしだけ強調したものにすぎない。
 ルーサーは、その悪夢の中で2023年への帰還を夢見てはばからない。そして、ドライコの庇護を母の恩寵のように願うのだ。「ヒーザーン」で、ドライコ(初期)の中枢にいた主人公ジョアナが、ドライコの庇護に息苦しさを覚えるのとはまったく対照的である。
 その2023年は、冒頭に書いたとおり、超巨大多国籍企業による国家と経済、社会の支配の構図にある。わたしが、いや、19世紀から20世紀前半にかけて、世界中の人々が恐れた独占企業による支配が、より洗練され、徹底されて実現しているのだ。ルーサーと違い、わたしは、その2023年にも恐怖する。
 そして、気がつくのだ、ドライコの2023年と、もうひとつの1939年と、今、わたしが生きる2004年との間に、それほど大きな差はないことを。
 さて、原題である。テラプレーンとは、1930年代にアメリカではやった車のブランド名。よくギャング映画などでお目にかかるあれである。前のエンジン部分が長く突き出すようで、美しいデザインに仕上がっている。
 ハドソン・テラプレーンとか、ハドソン・エセックス・テラプレーンとも呼ばれる。
 アメリカのハドソン社が1932年に発表した6気筒、8気筒の車で、経済的な走りと、丘も楽にのぼる実力、当時のスピードレコードを持つ車だったという。
ちなみに、本書に登場するロバート・ジョンソンが「テラプレーン・ブルース」を歌っているが、これもハドソン社のテラプレーンのボディを女性に見立てたもの。おしゃれな車だったのだ。
 本書もまた、絶版のまま、続編も翻訳されることなく放置されている。
 存在しなかったもののように。
(2004.12.23)

ヒーザーン

ヒーザーン
HEATHERN
ジャック・ウォマック
1990
 ジャック・ウォマックによる、シリーズ6部作の第3作で、日本ではジャック・ウォマックをはじめて紹介した作品。このあと、シリーズ第2作の「テラプレーン」が翻訳され、以後、両作品とも国内では絶版となっている。ヒーザーンが翻訳されたのが1992年で、この時点では6部作のあとの3作品は書かれていない。また、時系列では本書→未訳の第1作、「テラプレーン」という順番になる。それぞれの作品に共通して出てくる主人公や設定はあるが、単独の作品としても読むことができる。その後、翻訳されない事情は分からないが、非常に訳しにくい作品であることは間違いなく、若くして亡くなった翻訳者の黒丸尚氏の力量を持ってはじめて訳すことができたのだと思う。すでに、アメリカでは6作品とも出版され、現代アメリカの小説として高い評価を受けているという。そもそも、本書がSFのカテゴリーに入れられ、ハヤカワ文庫からSFとして出版されているのは、超能力者や時空移動などが設定の中にあること、また、もうひとつの未来を描いていることから来るもので、SFの文法とはずいぶんと趣を異にする。
 さて、ポストモダンである。私は1980年代に大学した。ポストモダンは、最先端のゴシップ。脱構築、メタ言語、人工知性に仮想現実、両義性等、明瞭なしの言葉使いで、思考は近代脱不良の過去。
 ポストモダンを、現実化するとこうなりますよ、という作品である。
 なるほどお、こうなるのか。
 さて、ヒーザーン(異教徒)である。
 今、私は、インドネシアのバリ島にいる。ひとりの同世代人について話をしたい。
 彼女は、幼いころから貧困の中、学校にも行かず、観光客相手の物売りをして働いた。出身の村には観光客は来ない。だから、離れた観光客の来る村まで行って、チケット、おみやげ物などを売っていた。もちろん、それで家族が暮らせるわけではないが、彼女の働きで小学校に行かせるまでになった。
 彼女は、14歳で嫁に行く。観光客の村に暮らす年上の若者であった。若い男は、今も昔も働かない。働いて、家を切り盛りし、金を稼ぎ、家の寺、地区の寺、村の寺、バリの寺のお祭りを、日々の祈り、日々のお供え、祭りのお供えを、作り、買い、捧げるのは女達の仕事である。働かない、暴力を働く夫の元で、彼女は働き、働いた。心臓を壊すまでに。
 ある日、観光客のひとりと出会う。心臓の負担で苦しんでいた彼女を見かねたのだ。
 彼女は英語が話せた。もちろん、独学である。観光客相手の応対で覚えていったのだ、バリ語、インドネシア語ももちろん話す。しかし、文盲である。文字はほとんど読めない。道具としての話し言葉だけである。
 その、アメリカ人観光客は、彼女の境遇に興味を持った。そして、バリに長期滞在を何度も繰り返す男でもあった。彼は、彼女と話し、彼女の家族とも話し合って、ひとつの提案をした。彼女の家族の敷地に、ゲストハウスを作りなさい。そのうちの一部屋は彼のものとして、彼が来たときには、家族として、食事を出し、掃除をし、バイクで案内をしなさい。彼が、ゲストハウスの建築費はすべて払おう。さらに、小さな店を借りるための最初の代金を出してあげよう。代わりに、彼が来たときの滞在は無料にしなさい。それが彼の提案だった。彼は、彼女の苦しみの一端を取り除こうとした。
 そして、彼女に、もうひとつの提案をした。すでに、彼女はバリ島の病院に行っていたが、とうてい治せるような状況ではなかった。そこで、彼は、彼女にアメリカまでの航空運賃を持ち、身元保証をしてくれた。アメリカの医師に見せるためである。そして、アメリカで半年間働きなさい。そうすれば、家族へもお金が送れるし、医療費も払えるようになるだろう。
 それが、彼のもうひとつの提案だった。
 彼女は、過去7年、年に3カ月から半年はアメリカに行き、病院で検査を受け、薬をもらい、そして、働いている。バリ島から送った衣類をフリーマーケットで売る、工事現場で肉体労働をする、お手伝いとして下働きをする。数年前、危篤状態に陥って、アメリカで心臓手術をした。幸い一命はとりとめた。今も、彼女は、バリ島でゲストハウスを切り盛りし、店で観光客に安い衣類を売り、子を育て、早くもできた孫を育て、家族を切り盛りし、アメリカに行っては病院通いと日雇い仕事を続けている。
 バリ・ヒンズー教徒である彼女にとって、いや、バリ・ヒンズー教徒にとって、生活の場を離れることは深刻な自体である。山と海との間に人の暮らす場があり、マンダラのように生活と神の場が入り組み、重層となり、時間も空間も、日々の行為から週、月、年、一生を通じて、生活と神との間に定められた行為を行うことが、命であり、人生であり、喜びであり、悲しみであり、豊かな人生なのだ。そして、女達がその中心軸にいる。なのに、年の半分を家族、土地、空気、水から離れて暮らすのだ。
 異教徒として。
 言葉も、半分しか通じない、半分しか読めない国で。
 彼女は、アメリカでも日々祈る。
 そして、食事は、コリアンマーケットやチャイナ、ベトナムマーケットで食べたり、食材を買ってきて作って食べる。
 安く、なじみのある食材があるからだ。
 異教徒同士が、異教徒の国ですれ違う。
 しかし、彼女には、確固たる信念がある。
 彼女の神は、彼女をすべてを見ている。
 言葉の違う、異教徒の地であっても。
 その話を、異教徒であり、言葉の通じない私が聞く。何年にも渡って、少しずつ聞いてきた。私の英語など、たかが知れており、そして、彼女の英語はとても聞き難いのだ。
 ヒーザーン。異教徒の語がアメリカ南部なまりになって聞こえる語。
 同じアメリカ人同士でも、異教徒は、すれ違うだけ。
 本当の救世主がいても、他の神を、他の信仰を、他の信念を持つ物にとっては、それは、トリックであり、見せ物であり、ちょっとした能力に過ぎない。
 暴力と支配が蔓延した20世紀末(1998年)の世界で、ポストモダン化した支配者達が繰り広げる、ささやかな物語である。
 その語り口に、思考に、驚愕し、異教徒が異教徒であることを知るのだ。
 2001年9月11日以降、本書に示唆されたもうひとつの未来は、私たちの未来と限りなく近づいていることに、決してそのものにはなれないが親近感と憧憬を持つ異教の地で、再読し、あたりを見回して気づくのであった。
 この、神の寵愛を受けているバリの人達でさえ、世界の暴力と経済を語るのだ。
 彼らの日々の暮らしが、それにより脅かされているために。
(2004.12.14)

キリンヤガ

キリンヤガ
KIRINYAGA:A FABLE OF UTOPIA
マイク・レズニック
1998
 2123年4月19日から2137年9月まで、プロローグとエピローグを入れて10の物語でつづられるテラフォーミングされた小惑星キリンヤガの物語。
 キリンヤガに暮らすのは、伝統的キクユ族の生き方を選んだキクユの人々。主人公は、ヨーロッパやアメリカで教育を受け、その後、伝統的なキクユの社会を取り戻すために、キリンヤガの設立認可を勝ち取ったリーダーのひとりで、キリンヤガではムンドゥムグ=祈祷師をつとめるコリバ。彼の一人称で物語は語られる。
 ヨーロッパ的なものをすべて廃し、大地と風と水とサバンナの動物と植物とキクユの人々からなる完結したユートピアは、完結をしたゆえに、ほころびをみせる。
 ひとつひとつの物語が、さまざまな寓話や物語を内包し、読者にいくつもの問いかけをする。それは基層文化・生活文化と科学技術を中心にすえた文明が矛盾してしまった現代社会と、そこに生きる人間に対する問いかけとなる。
 この物語そのものが、私たちの生き方、考え方、暮らしに対して、問いかける。
 正解も回答もない。自問自答するしかない。ただ、問いかけを受け、思うともなく思い、考えるともなく考えることで、次の一歩、次の行動、次の思考がすこしだけ変ることになる。それが、物語のもつ力である。本書には、物語の持つ魔法の力がある。
 最近、「物語消滅論」(大塚英志 2004 角川書店)を読んだ。ここでは、物語不在の今日、物語が単純化され、社会の道具として使われていることへの危惧が語られている。
 物語は、人間社会とともにあり、物語が思考を、社会を、生き方を、顕わし、示し、変えている。
「キリンヤガ」は、そんな物語の限界と可能性を表現した作品である。
 SFに興味がない人でも大丈夫。科学技術の知識もいらない。アフリカの部族社会の知識も不要である。「指輪物語」よりはるかに読みやすい。しかも、長編ではなく、中短編で、ひとつひとつが独立した物語になっている。
 だまされたと思って、読んで欲しい。おもしろいから。
 ちなみに、私は、プロローグ「もうしぶんのない朝を、ジャッカルとともに」、最初の2編「キリンヤガ」「空にふれた少女」、エピローグ「ノドの地」が好きだ。
 ひとつ告白しておく。アフリカのキクユ族とその社会構造については、大学3年の社会人類学教室のゼミで、英語文献読解のテキストになっていたので知っていた。恥ずかしながら、当時は、英語がとても嫌いだったので、そのような専門書、しかも、技術用語ばっかりのテキストに真剣にとりかかる意欲もなく、今思えば残念なことをした。後悔先立たず。
 また、本書を読んだ上で興味が出て、あらためてケニアのイギリスからの独立の歴史と現状について若干ながら調べ、学ぶことができた。本書で書かれている「過去」の歴史は、史実である。決して仮想な民族、社会ではないので、その点は指摘しておきたい。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞ほか受賞
(2004.12.11)

デューンへの道 公家コリノ

デューンへの道 公家コリノ

DUNE HOUSE CORRINO

ブライアン・ハーバート、ケヴィン・J・アンダースン
2001

「デューン」は大河ドラマである。それは、「三国志」「ローマ帝国の興亡」などとも共通する、歴史物語であり、人の物語である。書かれた内容もさることながら、それに携わる作家や訳者の物語も、あるいは読者のそれもまた興味深い。
 本書は、デューンシリーズの続編である。本編「砂の惑星」の主人公であるポウル・アトレイデの父親レト公爵の子ども時代から、ポウルが生まれるまでを描いた、「前史」三部作の最後となる。デューン・シリーズを紹介するのはこれがはじめてになるので、ここで現在までに日本に紹介されている作品をあらためて時系列に並べておこう。
 デューンへの道 公家アトレイデ 1999
 デューンへの道 公家ハルコンネン 2000
 デューンへの道 公家コリノ 2001
 デューン 砂の惑星 1965
 デューン 砂漠の救世主 1969
 デューン 砂丘の子供たち 1976
 デューン 砂漠の神皇帝 1981
 デューン 砂漠の異端者 1984
 デューン 砂漠の大聖堂 

「デューンへの道」3部作は、「デューン」の作者フランク・ハーバートの死後、そのメモを元に、息子であるブライアン・ハーバートと、ケヴィン・J・アンダースンが、プロジェクトを組み、続編を書くための準備として書き表したものである。
「デューン」シリーズも、初期の3部作と後期の3部作はずいぶんと趣を違えている。初期3部作でも、とりわけ本編である「砂の惑星」は、他の作品群と大きく異なる。
 が、実は、このうち、「砂漠の大聖堂」は未読である。
 今も覚えているのだが、ちょうどはじめて就職してバブル経済末期の忙しい日々を送っている頃に出され、本屋に並んでいるのをみて、買おうかと迷ったのだが、その前作までを実家に送っていて、手元になかったため、買うのをやめた。それというのも「砂漠の神皇帝」以降の皇帝レトの話があまりおもしろくなかったからである。今思えば、残念なことをした。なんとかして読みたいものだ。

 さて、なかなか本書に行き着けないが、「砂の惑星」について書いておこう。手元にあるのは、昭和47年発行、昭和54年(1979年)第13刷版である。ちょうど、完結編と言われた「砂丘の子供たち」が翻訳出版されたころで、買ったのが中学3年か高校1年のころ。はまるにはちょうどいい時期だった。表紙・挿絵はもちろん、石森章太郎(当時)。
 本文にある“恐怖は心を殺すもの。恐怖は全面的な忘却をもたらす小さな死。ぼくは自分の恐怖を直視しよう。それがぼくの上にも中にも通過してゆくことを許してやろう。そして通りすぎてしまったあと、ぼくは内なる目をまわして、そいつの通った跡を見るんだ。恐怖が去ってしまえば、そこにはなにもない。ぼくだけが残っていることになるんだ”という、本シリーズでは繰り返し出てくる言葉に、わざわざ線を引いて記憶しているぐらいである。
 なにをやっているんだか。

「砂の惑星」に書かれる惑星アラキスの水がほとんどない環境での生態学、砂虫と香料スパイス(メランジ)の深い関わり、砂漠の民フレーメンの生活、思考、行動などなど、作者フランク・ハーバートが世界を丸ごと生み出した。多くの人が、砂の惑星に入り込み、その背景世界である帝国と皇帝、大公家、宇宙協会、協同公正重商高度推進公社の勢力争い、陰謀の中の陰謀に引き寄せられ、ベネゲセリット(魔女)、メンタート(人間電算機)、武器師範(ソードマスター)ら魅力あふれる異能者たちや、鳥型飛行機(ソプター)や大宇宙船(ハイライナー)、シールド、サスペンサーといった技術の数々に魅惑されたのだ。
 ソプター、サンドウォームは、宮崎アニメに出てくるガジェットを彷彿とさせる。
 宗教や精神、議会や帝国、賢者といったあたりに「スターウォーズ」も感じさせる。
 世界のSF界、文学界、環境生態学などに大きな影響を与えた作品こそ、このデューン「砂の惑星」である。

 その世界が、デューンへの道となって帰ってきた。ハルコンネン男爵がいる。彼は、なぜ、あれほど醜くなってしまったのか? 公爵レト・アトレイデの父ポウルスはどんな男だったのか? レトは、どうして「正義の人」になったのか。皇帝シャッダム・コリノはいかにして皇位についたのか。どのように、「砂の惑星」をとりまく世界が生まれ、社会の緊張が高まったのか? その多くの謎が明らかにされる。
 なつかしい名前が、若くなって帰ってくる。ガーニイ・ハレック、ダンカン・アイダホ。リエト・カインズが生まれ、ジェシカが生まれ、イルーランが、チャニが生まれる、あのモヒアムさえ、若く登場するのだ。
 彼ら、彼女らひとりひとりの物語よ。それこそが、デューンである。主人公だけではないのだ。登場するひとりひとりが、考え、動き、企み、怒り、悲しみ、愛し、憎み、そして、隠された目的を持つのだ。そのひとりひとりが、あまたの宇宙世界とつながっている。
 その意図は、父であるフランク・ハーバートから、息子のブライアン・ハーバートに確実に受け継がれている。そして、ひとりのファンとして、父が残した謎を、ファンとともに解き明かし、広げていくのがブライアンの仕事である。

 さて、本書「ハウス・コリノ」をデューンシリーズの最初に評するのには、ひとつ、大きな理由がある。翻訳者矢野徹の訃報が2004年10月にもたらされた。「デューンへの道」3部作の最終巻である「公家コリノ」3巻が8月に発行されて間もない時であった。
 最初の「砂の惑星」から、「公家コリノ」まで、すべてを、私は矢野徹訳によって楽しませていただいた。先の「恐怖は心を殺すもの」も、矢野訳の名調子である。
 私の少年期、青春期は、矢野徹の窓を通してアメリカのSFを、宇宙を見ることができたのだ。デューンだけではない。さまざまな作品がある。しかし、デューンは、矢野氏の「遺作」となり、かつ、彼が書いてるように足かけ34年のつきあいのある作品なのだ。私もまた、25年間、デューンとつきあい、多くのSFと出会うことができた。そのことを幸いに思い、矢野徹氏への感謝の気持ちがたえない。
 ご冥福をお祈りします。

 2003年12月から、再読を中心に、SF評を書き始めたが、すでに読んでいた本シリーズの中で、ちょうど、この間に出版された「公家コリノ」は読まないままに積んであった。3巻の訳者あとがきで、矢野氏の読者への惜別の辞のようなものは読んでいたものの、まさかこれが最後の訳書になるとは思ってもいなかった。
 訃報を聞き、それでもしばらく考えていたが、やはり、2004年の内に、デューンとハーバート親子と、矢野徹について触れておきたかった。

 デューンシリーズを読むならば、今ならふたつの読み方がある。
 まず、デューンの道を読み、それからデューンに入る道と、先にデューン「砂の惑星」を読み、それから、あとに続くデューンを読むか、デューンの道を楽しむかという道である。道は、いくつもに分かれ、未来は予見できない。
 ならば、自分が信じた道を行くだけである。

(2004.12.8)

アリアドニの遁走曲

アリアドニの遁走曲(アリアドニのフーガ)
LIGHT RAID
コニー・ウィリス&シンシア・フェリス
1989
 コニー・ウィリスとの出会いはあまりいいものでなかった。本書である。だから、まだ、「ドゥームズデイ・ブック」も、「航路」も、もちろん「犬は勘定に入れません あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎」さえ読んでいない。入手すらしていない。
 コニー・ウィリスを語ることができないような気がする。それらを読んでから、本書について評する方がいいのだろうが、読んでいないものは仕方がない。
 ちょっと反省している。そのうち読みます。
 だから、コニー・ウィリスに詳しい方、すいません。最初から謝っておきます。
 本書は、ジュブナイルである。
 声を大にして言う。ジュブナイルだ!
 若い男の子が読んでもいいし、女性作家たちによる、若い女性に向けたSFだから、もちろん若い女性向きでいい。日本でたくさん出版されているライトノベルのコーナーに並べてもいい。その方が売れるのではないかな?
 主人公が主人公は17歳の少女アリアドニ。舞台は未来のアメリカ大陸。北と南で戦争をしている。SF小ネタは、遺伝子操作により生み出されたヒドラによる環境改変と、バイオチップ。兵器は、衛星からのレーザー攻撃(光襲)。
 疎開先で父母が心配になった若き生物学者のアリアドニは、父母と自分の所属する会社ヒドラ社に戻るべく、疎開先を脱走する。帰ってみると、家は壊滅。ヒドラ社は、連邦の若きハンサムな王子と、その従者で態度のでかい若造ジョスが仕切っている。
 母はスパイの嫌疑がかかり彼らに拘束されたまま、保安責任者の父は失意で飲んだくれ状態。いちいちジョスのやることなすことに腹を立てながらも、母を助けるため、アリアドニは孤軍奮闘する。
 物語は、二転三転しながらどたばたの色を深め、惹かれあうジョスとアリアドニの思いも錯綜して一気に結末まで進む。
 機転の効いた活発な少女の一人称ですすむ、冒険と白馬の王子様物語である。
 本来まだるっこしくなる一人称なのに、多少の設定の難を忘れることができるほどのスピード感がある。
 その構成力は、まだ読んでいないけれど、コニー・ウィリスが高く評価されているひとつの要素なのだろう。
 この作品、宮崎アニメのキャラクターや絵で想像しながら読むといいかも知れないと、読後に思った次第。
(2004.12.5)

順列都市

順列都市
PERMUTATION CITY
グレッグ・イーガン
1994
「宇宙消失」「万物理論」とならぶ、量子物理学を背景にした観察者の宇宙論SF。この3冊の中では一番読みやすい。再読だからか? いや、そうではあるまい。本書の設定の根幹をなすバーチャルリアリティの中で生きる人格という概念が難しくなくなったからだろう。もちろん、2004年現在、「意識」をもった人工知性や、バーチャルリアリティ空間への意識や人格のダウンロードはできていないものの、漫画、映画、小説では当たり前の設定になりつつある。
 その概念の一般化に寄与したのは、映画「マトリックス」。監督のウォシャウスキー兄弟はアメリカ人だが、オーストラリアとの縁も深い。本書も読んでいた可能性はあろう。
 ヴァーチャルリアリティでの人格を引き合いに出しながら、イーガンは、意識とはなにか? 認識とはなにか? を、読者に迫る。迫る、迫る。迫られているうちに、トリックに引っかかる。そんなばかな! と思っているうちに、自分がとんでもないところにいると気がつく。ここ、どこ? わたし、なぜ?
 しかし、イーガンにとって、ヴァーチャルリアリティはあくまでも設定に過ぎない。イーガンのすごいところは、世界の枠組みを提示するところである。「宇宙消失」や「万物理論」よりもわかりやすいのは、単に、本書の中では現実世界(リアリティ)は対峙されたヴァーチャルリアリティとの間で確固として存在する。読者によりどころがあるから、わかりやすいだけだ。やはり、本書でも観察者問題が出てくる。これが、中心テーマである。
 3冊の中で、最初に読むのをおすすめするのが本書だ。
 さて、では、私はイーガンが好きなのか。小説はおもしろい。エンターテイメントとして楽しく、かつ、多くの示唆が得られる。しかし、イーガンの描く世界観は、嫌いだ。彼は、徹底して神を否定する。神の存在を無に陥れる。
 私は無宗教者であり、海外に行くときは、宗教を聞かれると、とりあえず仏教と言っておく。新興宗教は嫌いだし、3大宗教も、近代において国家や政治の枠組みの中に配列されてしまったことを嫌悪する。宗教の負の側面がもたらす真理の探究への障害もあろう。だからといって、多くの人が神を抱くことを、否定しない。人類は、神を生み出し、地獄を生み出し、世界を再構築した。その思考世界の曖昧さと豊かさは、神の概念によって生み出されたものだ。科学の真理探究という目的にとって、神の概念を導入しないことは必須であろう。そこに神を持ち出されると思考停止に陥るのも、間違いない。しかし、神との断絶は、真理の探究まででよい。その探究の結果生み出された知識を使うのは、神の概念を抱く人であっても、神の概念を持たない人であっても構わないのだ。そこに明確な違いがある。
 真理は真理であるが、真理と日々の生活の折り合いをつけるのも人間のおもしろさである。真理が社会のあり方、人間のあり方のすべてではないのだ。
キャンベル記念賞受賞
(2004.12.2)

月は地獄だ!

月は地獄だ!
THE MOON IS HELL!
ジョン・W・キャンベル Jr.
1950
キャンベル賞のキャンベルである。現代SFの中興の人。アメリカSFを科学に先んじるセンス・オブ・ワンダーに満ちたものに変えた原動力のひとり。編集者であり、そのアイディアは、アジモフ、ハインラインをはじめ多くのSF作家を育て上げた。
 そのキャンベルの作品である。月にはじめて人類が到着したのが1975年。月の表側はアメリカの領土となった。その5年後、15人の男たちが月の裏側に降り立ち、アメリカ国旗を立て、アメリカ領土を宣言した。月はアメリカの領土となった。
 15人の男たちは、これから1年11カ月に渡って地球との交信もできない月の裏側に暮らし、月の裏側やその地質を探査するのだ。大量の食料、水、空気を送り込むため、彼らは片道切符の宇宙船でやってきた。1年11カ月後、地球から迎えの船が来て、1カ月滞在し、それからともに帰るはずであった。
 しかし、約束の日、宇宙船は着陸に失敗してしまう。
 水、空気は残り少ない。食料もそう長くはもたない。バッテリーの劣化も起こる。電力も必要だ。なにより、地球に、救援を求めなければならない。資金、宇宙船建設、パイロットも足りないだろう。それまで生き抜かなければ!
 なにもない月で、知恵と工夫と、そして、今であれば「そりゃないよ」と思う地質的幸運に恵まれ、彼らは電力を、水を、酸素を、副産物として水素を生み出し、そして、生きのびた。たったひとつの不足を除いて…。
 アイディアだけで書いたような勢いのある作品で、日記形式の作品だが、今読んでもおもしろい。今ならば、火星や土星の衛星タイタン(ティタン)など、呼吸はできなくても大気のある星が舞台になるか。読みたいなあ、そんな作品。
 そうか、映画「ミッション・トゥ・マース」は生き残ったのがひとりだけど、ちょっと近いかも知れない。
 1950年の科学知識を活かして、センス・オブ・ワンダーに満ちた作品に仕上がっている。こんなSFをキャンベルはたくさん読みたかったのだ。きっと。
(2004.12.2)

ボシイの時代

ボシイの時代
THEY’D RATHER BE RIGHT
M・クリフトン&F・ライリイ
1957
 ヒューゴー賞第二回受賞作品で、発表当時、アメリカSF界では非常に人気が高かった作品である。テレパシー(新人類)、人工知能、不老不死の三題噺。日本に翻訳されたのは、1981年、創元推理文庫SFである。おそらく、入手困難な作品。
 原爆投下から40年、つまり1985年頃か。管理社会のアメリカで、ボシイと呼ばれる人工知性(コンピュータ)が開発された。ミサイルの誘導システムとして開発されたはずのボシイは、善悪の判断ができる人工知性体であった。政府は、ボシイを開発した研究者と、ボシイそのものを害悪として追いつめた。大衆はメディアにより政府に自由にコントロールされていた。
 実はボシイの開発と、研究者の逃亡の成功には、知られざる唯一のテレパシストの存在があった。彼は、ボシイに社会学、心理学的解決を求めることで、人間を新たな段階、柔軟なストレスのない生命体に発達させ(治療し)、その結果テレパシー能力を持つ仲間ができないかと期待していたのだ。期待に違わぬ能力を発揮したボシイ。ボシイの心理学的治療を受けた、元々柔軟な思考を持つ素養のあるものは、その治療により、すべての細胞が活性化され、若返りと同じ効果を得て、不老不死さえも得ることができたのだ。
 政府は、人々は、権力者は、そのボシイの能力に気づき、一騒ぎを起こす。
 彼らは、人類を善なるものへ、次なるものへ進化させ、ボシイとともに歩ませるために、新たな一計を案じるのであった。
 最後の落ちを除くと、だいたいそんなところである。
 話は古くさく、教条主義的かつ、科学の正義という夢にあふれ、人類のパートナーとなる人工知性は何でも解決してくれる。輝かしき50年代である。しかし、そこに書かれている社会はメディアが大衆を操作し、政府がなにもかもを管理する暗澹たる世界である。
 とても、今に、似ている。
 情報を即座に、求める者には与える人と人との間のネットワークシステムはあるが、善と悪は混乱し、融合し、腐敗し、澱のように人々の心の奥に沈殿している。
 あるものたちは、世界を自らの道具として狭く考え、すべてを手にしようと望む。
 あるものは、そのことに気づきながらも、大きな力の前に沈黙を保つ。
 あるものは、そのことに怒り、刃を向いて立ち向かう。
 どこにも、ボシイはいない。
 まあ、善悪を判断する機械など、いて欲しくもないが。
 そうそう、世界を正そうという野望を持った大実業家で、政治力もある男が出てくる。ハワード・ケネディという。ジョン・F・ケネディは、1952年に上院議員になり、その後闘病生活に入り、ピューリッツァ賞を受賞したノンフィクション「勇気ある人々」を出版したのち、1955年に38歳で上院議員として返り咲いた。ハワード・ケネディは、JFKをモデルにしているのだろうか。そんなにおいもある。
ヒューゴー賞受賞
(2004.11.29)