トリフィド時代

トリフィド時代
THE DAY OF THE TRIFFIDS
ジョン・ウィンダム
1951
 あかね書房の少年少女世界SF文学全集「怪奇植物トリフィドの侵略」は1973年に出版されている。これは読んだ記憶がある。
 映画「トリフィドの日」(人類SOS)は1962年の映画で、テレビで70年代に何度か放映されているはずで、私も見ていると思う。
 本を読んでいなくても、映画を覚えていなくても、「トリフィド」という食人植物の名前は何となく知っている人が多いと思う。
 私の記憶は、どうも映画を下敷きにしているようで、緑色の流星群の光で人類のほとんどが失明し、宇宙植物トリフィドが光を失った人類を次々と襲っていくという話のつもりだった。
 が、もちろん、大まちがいである。
 今回、きちんと原著の翻訳を読んだ。創元SF文庫版で1963年に初版が出ている。私の手元にあるのは1994年の23版。現在でも入手可能だそうだ。
 アメリカとソヴィエトの冷戦のさなか、人類の95%は豊かな社会を築いていた。自分で移動することができる食肉植物トリフィドはソヴィエトが開発したらしい新品種で、良質の油をとることができたため、世界中で栽培されていた。
 ある火曜日の夜、緑色の流星群が世界中の夜を明るく染めた。人々は歓声を上げ、空を見上げたが、その翌日には光を浴びた人たちすべてが失明していた。
 失明から逃れたのは、地下にいたり、病院で目に包帯を巻いていたりしたわずかな人たちだけ。彼らの生き残るための戦いが始まった。
 しかし、それは、人類の文明のサバイバルだけではなく、人類そのもののサバイバルともなった。トリフィドたちは、公園から、庭から、そして栽培農場から逃げ出し、人類を襲いはじめたのだ。数を増やしながら人類を一人ずつ追いつめるトリフィド。失いつつある人類文明の遺産を費やしながらも、新たな人類社会の可能性を期待して集まる人々。違う理想の議論や自暴自棄の争い。
 破滅テーマではあるが、「一度ないことにして、もう一度やりなおそう」というテーマでもある。
 読んで驚いたのは、生き残り、失明から免れた主人公が、緑色の流星群について語るところである。地球の周囲には、様々な国が兵器衛星を上げていて、核、生物、化学兵器が積まれている。その中のひとつが爆発したか、機能したのではないか。そうでなければ、流星の日のあと、あまりにも急速にチフスではない疫病が広がり、人々が死んでいったことの説明がつかない…。
 トリフィドが、人類の生み出したものであったこと、緑の流星群さえも、兵器であった可能性など、驚くことばかりである。
 本書には、1行だけだが、広島の原爆のことも触れられている。
 冷戦が本格化していく中で、社会の背景にあった「終わりの日」への恐怖が、本書に写し込まれている。それ故に、本書は長く読み継がれるのであろう。
 もちろん、不思議な移動食人植物トリフィドの魅力はいうまでもない。
 ぱたぱた。
(2004.09.25)

メトセラの子ら

メトセラの子ら
METHUSELAH’S CHILDREN
ロバート・A・ハインライン
1958
 ラザルス・ロング登場である。「愛に時間を」の主人公である。
 長生きの冒険野郎である。
 本書は、人類の一部が計画的に発生させた長命族と短命な普通の人類の間に起こる確執をテーマにした「迫害される新人類」ものである。それと同時に、太陽系を超えた大宇宙を縦横無尽に旅して移住の土地を探す、開拓ものでもある。
 時は2136年。地球は人口増大の続く中、個人の自由を尊重しながらも徹底した管理社会になっていた。19世紀にはじまった長命族を生み出す計画は順調にいっていたものの、長命者たちは、その存在をひた隠しにせざるを得なかった。ひとたび、彼らの存在が明らかになれば、短命な人々は、その秘密をめぐって彼らに何をするか分からないからである。しかし、長命族の中には、管理社会が厳しくなる中で、秘密を保つことは難しく、地球社会の一員として早めにその存在を知らしめたほうがよいと考えるものもいた。人類は成長し、彼ら長命族を受け入れることはできると信じたのだ。
 しかし、一度彼らの存在が明らかになると、人々は、彼らが長命を保つ「秘密」を独り占めしていると怒り、そのような秘密はないにもかかわらず、歴史的に影を潜めていた暴力さえ起こるようになってしまった。
 このままでは長命族のファミリーは人権を制約され、あるいは殺されてしまうだろう。
 やむなく、彼らは宇宙への道を選ぶ。
 そこから、現代では読むことのできない異星人たちが登場して、楽しくなるのだが、それはこれから読む人たちのお楽しみということで…。
 本書が発表されたのは、「宇宙の孤児」と同じ1941年である。そのため、「宇宙の孤児」のあとがきに書いてあるとおり、本書と「宇宙の孤児」にはささやかなつながりがある。しかしそれ以外は、まったく別のSFである。
 この長命族を超能力者に変えてもよい。魔法使いでも、人狼でも、吸血鬼でもよい。
 常なるものと違う能力を持つ者は、迫害され、その能力を持ちながらも、社会の影でおびえて暮らすのだ。迫害するものこそ、「ふつうの人たち」であり、「よき隣人」であるのである。SFのひとつのテーマに、「人間性」がある。はたして、人間とは何か? 他者をどこまで認めるのか? 突き詰めて、読者=よき隣人に問いかける。
 もちろん、たかがエンターテイメントである。たかがSFである。難しく読む必要はない。読んでいくうちに、自分ならどうするだろう。狩るものとして、狩られるものとして、どのような想いを互いに抱くのだろうと無意識に考えさせる。
 それがSFの文学としての可能性である。
 おっと、「宇宙の孤児」でも、ふつうの人たちとミュータントという狩るもの/狩られるものの接点があったなあ。「宇宙の戦士」にもそういう側面があるぞ。
 ハインラインのひとつの側面である。
(2004.09.25)

宇宙の孤児

宇宙の孤児
ORPHANS OF THE SKY
ロバート・A・ハインライン
1963
 小学生のころ、図書委員をしていた。ねらいは、すでに表の本棚に出なくなった古い本を読むためだ。背のほつれたSFや推理小説を探しては、読んでいた。
 本書は、矢野徹訳の「のろわれた宇宙船」として、1967年に偕成社のSF(科学小説)名作シリーズで登場し、1972年に福島正実訳の「さまよう都市宇宙船」として、あかね書房の少年少女世界SF文学全集に登場している。
 どっちを読んだのか、どちらとも読んだのか、今となってははっきりしないが、強く印象に残っている作品である。
 その後、1978年にハヤカワ文庫SFで「宇宙の孤児」として出ており、高校生のころ、この文庫版を購入し、記憶を新たにしたものだ。
 遠い昔に反乱があり、パイロットのいなくなった巨大な宇宙移民船。誰も操縦するものがなく、宇宙船はさまよっている。そこが宇宙船であることを知らない人々は自給自足の生活を続ける。世界は限られており、外に星があることも知らない。重力の弱い階上に暮らす双頭のミュータントとの争い。
 竹宮恵子の「エデン2185」が本作とつながるかどうか分からないが、巨大な宇宙船の中で暮らす人々というアイディアは多くの人を魅了した。惑星の周りを回るスペースコロニーではなく、移民船であり、旅をしていることと、乗客たちが広大な閉じた空間で暮らすという不思議なバランスが見当識喪失のような不思議な感覚を読むものに与える。
 宇宙船の中で、主人公は旅をし、ミュータントと交流し、外を発見し、世界を見いだす。
 あまりにも予定調和の大団円だが、ジュブナイルは潔くあってよいと思う。
 ちなみに、本書が雑誌で発表されたのは1941年。第二次世界大戦の頃であった。
 その頃に、遠い宇宙を書いていたのだ、この御大は。
(2004.09.25)

バーチャライズド・マン

バーチャライズド・マン
THE SILICON MAN
チャールズ・プラット
1991
 2030年代。先立つ経済混乱ののち、アメリカ合衆国政府がほとんどの企業を支配し、政府の直轄下においた時代。ひとりのFBI捜査官が違法な武器の製造・流通ルートを探っていたところ、ある軍関係の研究会社の研究室に行き当たる。そこでは、人間などの脳をコンピュータ上の人工環境に置き換えて存在させ、人的損失のない軍の兵器の頭脳部分として機能するためのライフスキャン技術の開発研究が続けられていた。このアイディアは、もともと1970年代のラディカルな自由主義、反政府主義思想を持つひとりの天才科学者が生み出したもので、この研究室のスタッフもまた、彼の手の内の者たちであった。
 コンピュータ下の完全なシミュレーション状況の中に、すべての記憶、人格、感情、生理的反応、感覚を再現させ、バーチャルな状況で生きられる状態をつくること。それにより、永遠の生命を手にすること。そして、もうひとつ、その天才科学者には隠された目的があった。
 捜査を続けるうちに、研究者たちに拉致されてしまう捜査官。そして、その後を受けてひとり状況を追い続ける妻。そして研究者と天才科学者の娘。
 ストーリーとしては、単純である。
 映画「マトリックス」の仮想世界の誕生物語のようなものである。世界にはじめて、仮想世界が誕生し、その中で生きることになったら、どんなことが起きるのか? 「マトリックス」とは違い、現実の人間社会が今の延長上にある中で、現実とバーチャルな世界との接点はどうするのか。その時間軸は?
 コンピュータネットワークが出てきたり、電気自動車が出てきたりするものの、古さを感じてしまうのは、1991年と1995年以降の現実に起きたパソコン&インターネット社会の違いであろう。たとえば、本書では光ケーブルネットワークが完成しているが、そこで「ひとりの人間の心を構成するデータをそっくり送っても、たった45分しかかから」ず、2、3ギガバイトの空き容量である程度人格を持つウイルスクローンをインストールできるのである。たしかに、2、3ギガバイトのウイルスといえばものすごいことができるだろう。しかし、今や、2、3ギガバイトという単位は、ああ、DVD1枚に収まるデータだね、というぐらいのものである。当時、ギガといえば途方もなかったのだ。わずか10年ほど前のできごとである。2030年には、2ギガはどの程度の感覚で受け止められるのだろうか。
 そういう古さを感じるところが、この手のSFの難しさだ。
 しかし、バーチャル人格での永遠の生というテーマを追いかけるつもりならば、本書もまた、その一群の作品の中に残されるものである。
 ちなみに、出てくる食べものはもちろん、「人間がいっぱい」(ハリイ・ハリスン 1966)以来の伝統、大豆(ソイ)ステーキである。
(2004.9.16)

永劫回帰

永劫回帰
THE PILLAS OF ETERNITY
バリントン・J・ベイリー
1983
 宇宙観、あるいは哲学、あるいは宗教観というものは、人の人生や社会のありようまで大きく変えるものである。
 宇宙の時間はある日どこかで終わり、そして、まったく同じ時間軸で同じ宇宙が再生し、永遠にその繰り返しを続けている。だから、今、私が書いているこの文章も、そのときの私もまた、次の宇宙でまったく同じに再生される。繰り返し、同じ体験をするが、本人はそれを知ることはないはずだ。
 そんな哲学、宇宙観の世界で、ひとりの精神と肉体の機能を人工的に強化された男が、機能のバグゆえに苦しみ、痛みの正のフィードバックに放り込まれ、苦しみ、痛みゆえに死ぬことも失神することもできないまま、救い出されるまで痛みを、ふつうの精神では耐えきれないまでに感じ続けた。彼は救い出され、その機能を与えた組織から、生きるために必要な手段を与えられ、ふたたび自由になる。
 しかし、彼はもはや自由ではなかった。同じ苦しみ、同じ痛みを次の宇宙で自分が再び体験することに耐えられなかったのだ。彼は、宇宙観、哲学、そして、それに基づく物理法則にまでも立ち向かう。時間の流れを、未来の、次の宇宙のありようを変えるのだ。次の宇宙で自分が存在しなくてもかまわない。ただ、あの苦しみ、痛みの再生を終わらせたいのだ。必ず。どんなことをしても。
 進んだ科学力を持つ放浪惑星には、必ずこの宇宙の真理を解き明かす鍵が、時間を超える、宇宙の再生を超える鍵があるはず。
 彼は、ただひたすら、自分の未来、すなわち、自分の過去を変えるために、宇宙観、あるいは哲学、あるいは真理、あるいは物理法則に敢然と立ち向かう。
 そして、究極の喜びと、究極の苦しみと、なにかを得るのだ。
 この作品そのもののありようがよく分からないが、読んでみるとどことなく悲しい物語である。
 究極の痛みが拡大しながら永遠のように続くのって、字面だけでもいやだなあ。
(2004.9.16)

いまひとたびの生

いまひとたびの生
TO LIVE AGEIN
ロバート・シルヴァーバーグ
1969
 先日帰省したときに、実家の本棚に残してあったSFのうち1冊を手に取り、空港までのバスと飛行機と帰りのバスの車内で再読したのが本書である。つい先日、「時間線を遡って」を読んだばかりで、ちょっとシルヴァーバーグ熱がともっていたのだが、なんと、本書と「時間線を遡って」は発表年が同じであった。このころのシルヴァーバーグは多作であったのだ。
 さて、本書は「ドノヴァンの脳髄」(カート・シオドマク 1943)以来、「ハイペリオン」の現在にいたるまでSF、ホラー系の変わらぬテーマである、精神乗っ取りもの。今では、ヴァーチャルリアリティなどを軸にした作品が多くなっているが、本作は、ホストとなる金持ちが、死んでしまった金持ちの人格を自分の脳にデータとしてパーソナ移植し、その智恵や経験、感性を自分の人生に生かす技術である。人格を保存しておきたい金持ちは、最低でも半年に1度、自分の記録を保存する。死んだら最新のデータだけが使われるのである。
 90億人の人口のうち、記録しているのは8千万人。1%未満である。
 中には、2人、3人のパーソナを脳に移植しているつわものもいる。
 ところがどっこい、パーソナの中には、強力な個性、人格を持つ者がいて、ホストを乗っ取ろうとするものもいる。もちろん、ホストの乗っ取りは違法であり、検察官が取り締まり、パーソナを消去してしまう。パーソナによるホストの乗っ取りをディバッグと呼ぶ…。
 今、ひとりの経済界の大物が死んだ。成り上がりの経済人が彼のパーソナを手に入れようとやっきになる。大物の親族は彼のパーソナを成り上がりものの商売敵にだけは手渡すまいとこれまたやっきになる。策謀の中に振り回されつつも、欲望に燃える男たち、女たち。自分の役に立つパーソナを頭に入れたところで、人間の行動はそんなに変わるものではないのだった。
 本書もまた、「時間線を遡って」同様に、現代において読んでも古さを感じさせない作品である。本書は、現代的なテーマである人格と記憶の永久保存と再生について書いているだけに、一歩間違うととたんに古さを感じるはずだが、うまくまとめて、現代的なテーマを際だたせている。
 もちろん、パーソナの保存方法やホストへの移植など、脳の正体と、記憶、感性、経験のともなう智恵については、今を持ってよくわかっていないことが多すぎるので、本書のハードな部分が荒唐無稽であっても、今のところそれほど気にはならないのだが、やがては気になることだろう。
 それにしても、本書は、最先端の技術が結局は人口の1%に満たないものたちのための道具であり、それ以外の多くの人々にとっては、手に届くことのないものであることを見事に書き示している。エンターテイメントと社会批評、あるいは、挿入した技術による社会と人の光と影のバランスのとりかたが優れた作者だったのだ、若い頃のシルヴァーバーグは。
 本書は、すでに入手困難な作品となっている。しかし、現代的なテーマだからこそ、今、読んで欲しい作品でもある。
(2004.9.16)

時間線を遡って

時間線を遡って
UP THE LINE
ロバート・シルヴァーバーグ
1969
 SF界のポルノグラフィティである。
 時間旅行とタイムパラドックスものの古典でもある。
 しかし、やはり、本書は、SFの鬼門、セックスを扱った古典として、私の頭に焼き付いている。
 まだ中学生の頃に買ったのである。もう、どきどきものであった。あふれるセックス描写、遠いご先祖様や女王様との濃厚なセックス、濃密な愛。こんな本を読んでいるなんて知られてはならない、ということで、表紙はないのである。表紙といっても、真鍋博氏によるもので、ささやかなかわいらしい小さな女性のヌードがちょいと載っていたぐらいなのだが。手元にないのがまったくもって残念。
 今読むと、ポルノというほどでもないんだが、それは、今が21世紀になっているからで、当時は1970年代だったのだ。携帯電話もインターネットもない、ビデオゲームがようやく世の中に普及しだした頃のことだ。ヌードだって、ちょっとでも毛が出ていると発禁だったのだ。
 さて、本書の話だが、西暦2060年代、ひとりの若者が、時間サーヴィス公社のガイドに就職する。それでもって、自分のルーツ探しをするうちに、ご先祖様のひとりに惚れ込み、いてもたってもいられなくなり、猪突猛進。ところが、彼の客が勝手に時間旅行をはじめてしまい、別の時間軸でそのご先祖様を自分の妻にしてしまった。主人公は、タイムパラドックスを避けながら、元の時間軸に修復しようとやっきになる。同じ時間サーヴィス公社の警察部門であるタイムパトロールに見つかる前になんとかしなければならない。
 しかし、やればやるほど時間線はこんがらかって…。
 タイムパラドックスの王道をいく作品である。
 私は、この作品で、イスタンブールがかつてコンスタンチノープル、あるいは、ビザンチウムと呼ばれていたことを知り、トルコにずいぶんと憧れたものだ。そして、やがて、その思いは私自身をイスタンブールに運ぶこととなる。古い古い、そして、新しい、混沌とした街でした。
 ところで、本書は、「真の友 アン・マキャフリィに」と、あのマキャフリィに捧げられている。「歌う船」「パーンの竜騎士」など女性に大人気の女性が元気なSFを書く、あのマキャフリィである。たしか、シルヴァーバーグの方が年下だと思うが、おもしろい作品を彼女に捧げているものである。再読しないと見つけられなかった一文であった。
 ちなみに、私がマキャフリィを読み始めたのは、ずいぶんと最近のことで1990年代のことである。
 時間旅行ものでは欠かせない一作としておすすめです。
(2004.9.16)

第五惑星から来た4人

第五惑星から来た4人
FOUR FROM PLANET 5
マレイ・ラインスター
1959
 東京創元社1965年5月初版、1977年7月24版! 当時の価格240円。もちろん消費税など影も形もない。12歳か13歳の頃に買った文庫本の1冊である。当時は、それほどお小遣いもなく、田舎の本屋は3軒で、SFの数はほんのわずか。タイトルと価格と本の厚さを見比べながら、どれを買うか迷った記憶がある。本書は、買ってからおそらく1回読んだだけで、今回再読するまで30年近く放ったままになっていた。
 時は流れる。
 ということで、タイムトラベルものである。
 主人公がタイムトラベルをするのではなく、迎える方である。
 内容としては、「なぞの転校生」(眉村卓)と、「創生期機械」(J.P.ホーガン)を足したようなものを思いっきり50年代風にした感じ…かあな。
 50年代終わりのSFということで、冷戦の世相を強く反映している。
 アメリカ、ロシア、反アメリカ連合の3どもえのにらみ合い。核戦争への恐怖と一触即発の危機。微妙なバランスの中、途方もないエネルギーを発して「宇宙船」が南極に墜落する。
 そこから出てきたのは、現代のどの言葉とも違う言語を話す人間の子ども4人。常温超伝導を使った様々な道具。
 彼らを真っ先に見つけた南極で隕石の軌道計算を行うアメリカの研究者ソームズ君、南極基地を取材に来ていた美人記者のゲイルさんは、彼ら4人を助けようとするとともに、彼らが母星である過去の第五惑星に連絡をつけたら、地球を侵略するに違いないと、彼らの通信手段を破壊する。
 アメリカ軍は、彼らを隠し、技術を手に入れようと試み、ロシアはアメリカを疑い、マスコミは、異様な姿のエイリアンが侵略を開始したと騒ぎ立てる。
 本書は、相互確証破壊の状態で”新しい技術”というひとつの要因がいかに世界を危機に陥れるかというテーマでソームズ君を悩ませ、苦しませる。
 と、同時に、地球規模に広がった商業主義的マスメディアが大衆と政府に与える影響の大きさについて、皮肉を交えながら書き表す。
 このふたつにおいて、本書は今も読む価値がある。
 ただし、ストーリー展開は、ホーガンも真っ青のご都合主義である。
 ソームズ君がゲイルさんへのつのる想いの間に繰り出す、驚異的な推理力と発明力と行動力は驚異的である。ソームズ君は知らず知らずに世界を救うのである。まいっちゃうなあ。
 まさしく、古き良き、50年代、60年代。
 主人公が私事や本当に自分がやっていることが正しいかどうか悩みながらもきっちりと世界を救うあたりに、ウルトラセブンや仮面ライダー、鉄腕アトムなど60年代、70年代前半の日本の特撮、アニメに流れるものと通じるものを感じてしまう。
 絶望と希望が相反しながら同居する時代だったのだ。
(2004.8.30)

タウ・ゼロ

タウ・ゼロ
TAU ZERO
ポール・アンダースン
1970
 もし、加速を続けられる宇宙船があり、減速が困難になり、操舵だけは効くという状況になったら、どんなことになるだろうか。船は、星々から見て、少しずつ光速に近づいていく。船内の人々からみると、宇宙とは切り離され、銀河を、銀河群を、飛ぶように過ぎていくことになる。そして、やがて、宇宙は老いていく。彼らはどこまでいくのか…。
 壮大な物語である。
 ちょっと地球の隣を訪問するつもりが、事故により減速できなくなってしまったがゆえに、時空の放浪者となるのだ。地球に暮らす我々から見れば、永遠を旅する者になってしまった。もちろん、地球に暮らす我々に、彼らがどうなったのか知る余地もない。
 SFにしかできない話である。
 我々の主観による数年で、時空の果てから果てまで旅をするのである。
 愕然である。呆然とする。
 しかも、船の中では、50人の男女が愛憎を繰り広げるのだ。
 簡単に本書「タウ・ゼロ」筋を追うと…
 20世紀末に起こった核戦争後、世界は秩序を取り戻し、スウェーデンを軸とした世界体制が確立、その後、宇宙技術の進歩で、アルファ・ケンタウリ、エリダヌス座イプシロン、タウ・セチ、くじゃく座デルタ星などの有人探査を行ってきた。レオノーラ・クリスティーネ号は、50人の男女を乗せ、最新のバザード・エンジン(恒星間ラムジェット)を使って、おとめ座ベータ星の第三惑星に向かう。この惑星は、これまででもっとも移住に適したと観測されており、彼らは彼らの主観時間で5年かけて旅をし、もし、移住に適しているならば、移住基地建設隊となり、すぐに移住ができないのであれば、ふたたび主観時間5年をかけて地球に戻ることになっている。もちろん、地球の時間では、彼らは31年かけて旅をし、帰りもまた同様の年月が過ぎ去るのであるが。
 男女25人ずつで構成された研究者、航法士、士官、警護官たちは、長い旅の中で様々な人間模様を繰り広げる。しかし、主観時間3年後に事故が起こり、減速装置が破壊されてしまう。バザード・エンジンは生きているが、修理のためエンジンを切れば、宇宙船の保護も切れるため、宇宙にある水素分子などにより宇宙船が破壊されてしまう恐れがある。修理をするためには、物質がまったくといっていいほど存在しない空間まで宇宙船を飛ばすしかない。それは、銀河系と銀河系の間にある空間だった。しかし…、しかし…、しかし…。
 挫折しながらもあきらめない乗組員。確実に言えるのは、その一秒一秒が、すべての人間社会、地球からの断絶を意味すること。宇宙の孤児となったことへの絶望は深まるばかり。希望はあるのだろうか…。
 本書「タウ・ゼロ」は1970年に発表されているが、プロットは、1967年に発表された中編にあるという。つまり、1960年代後半の宇宙論と科学技術の状況を前提にしている。当時の最新の宇宙論が反映されている。2000年代の今となっては否定されている内容ではあるが、それでもおもしろさは減じない。
 本書が翻訳出版されたのが1992年。宇宙論ブームの頃である。その当時に読んでもやはりおもしろかった。今もおもしろい。
 いわゆるハードSFに分類されるもので、ちょっと難しい説明なども出てくるが、読者には「読み飛ばす」という離れ業もある。
 一緒に永遠の先にあるところまで旅をしてみませんか?
(2004.8.28)

ナイトサイド・シティ

ナイトサイド・シティ
NIGHTSIDE CITY
ローレンス・ワット=エヴァンズ
1993
 標準地球歴2365年頃、エータ・カス星系の第三惑星エピメテウス。エータ・カスにはふたつの太陽があり、エピメテウスは、自然のささやかな気まぐれで自転が止まっていた。その夜側は居住可能であり、夜側の広大なクレーターはナイトサイド・シティと呼ばれていた。エピメテウスには、貴重な鉱山があり、ナイトサイド・シティは、鉱夫と観光客を相手にする歓楽街である。
 しかし、100年以上前にエピメテウスの自転は止まっていないことが判明。ナイトサイド・シティは、24時間ごとに138センチメートルずつ、人間が入植してからはじめての朝に向かっている。それは、ナイトサイド・シティの終わりの朝。すでにクレーターの縁は明るい光に満ちている。金のある人間は、開発の進んだ惑星プロメテウスに逃げていく。金のない人間は、シティの終わりを数えながら、最後は鉱山での肉体労働をするしかないとため息をつく。
 カーライル・シン。女性。私立探偵。エピメテウス生まれ。兄ひとり。妹ひとり。両親は、若い頃、子どもたちを捨てた。妹は、すでにエピメテウスを離れ、兄はカジノで働いている。自分の主義は変えない。以前は、シティの中心部で営業していたが、ある事件以降、中心部を追われ、朝に近い西側で客を待っている。安く、どんな仕事でも引き受け、確実にこなす私立探偵。しかし、人の逃げていく惑星で、彼女の仕事は少ない。
 今日も、ルイの店にいくこともままならず、仕事を待っている。
 やってきた仕事は、西はずれのただ同然のクレーター壁そばの居住者。失業者たちが絶望視ながら暮らす町の男。資産価値もない西はずれの土地や建物を何者かが買い占め、家賃をつり上げ、人々を追い出そうとしているという。探偵に払える金は夕食2回分がやっとの金額。カーライル・シンは、それでも仕事を引き受ける。誰が、なぜ、なんの目的で人が住めなくなる直前の土地を買うのか? 興味があった。それに、はした金でも金は金である。
 調べるほどにわからなくなる動機、なぞ。誰も死んではいない。金にもならない。
 ヒュンダイ製の知性体タクシーに乗り、人脈をたどり、ネットにもぐり、大型の銃で脅し、だまされ、殺されかけ、共生体を失い、そしてみつけた真実。
 ハードボイルドである。主人公の一人称である。タフでなければ生きていけないのである。優しくなければ生きる資格がないのである。
 格好いいのである。
 SFが好きで、ハードボイルドが好きならば言うことがない。
 ハードボイルドが好きで、SF的な用語が気にならなければ、読む価値がある。
 さらり、と読めて、にやり、とする。エンターテイメントはこうありたい。
 たまに、重たいSFに疲れると、本書「ナイトサイド・シティ」を読み返したくなる。
 こういうのはハリウッド映画にぴったりだと思うのだが、どうだろう。最近、SFの映画化がはやっているようだし。
(2004.8.25)