幻惑の極微機械

幻惑の極微機械
DECEPTION WELL
リンダ・ナガタ
1997
 遠い未来。遠い宇宙のどこか。滅び去った異星人文明が残したものは、他の異星生命や機械を破壊する自動兵器。人類はその版図を広げ、生存していた。人類として。
「極微機械ボーア・メイカー」と同じ宇宙を描いた作品である。前作は、地球でのナノテクと宇宙エレベーター都市を描いた、ちょっとした未来の作品だったが、本作は、遠い遠い未来の物語である。本作もまた、メイカー=ナノ・マシンと宇宙エレベーター都市、そして、宇宙エレベーター都市とつながる惑星が舞台となる。主人公も、偉大な父への想いと反発、信頼と懐疑に満ちた、ある意味での成長譚であり、同じ主題で主役を変えた変奏曲という感じだ。
 しかし、前作よりも洗練され、物語として楽しむことができる。
 ひとりひとりの人間の思考や行動と集団としての人間の思考や行動は異なる。集団意識や群集心理などとも呼ばれる。そのとき、焦点となる人や存在があれば、それはカリスマとなり、あるいは神の代弁者となる。独裁政治が生まれ、宗教が起こる。たとえ、その焦点となる者がそれを望んでいなくても、集団が、群衆が、その属性を与えるのだ。
 それは、運命でも、必然でもない。本来は。本書では、それを運命として、必然として、生まれついた少年が主人公となる。彼は、その力ゆえに、人を引きつけ、恐れさせる。彼は、自分が存在する目的と自分が生きのびるという生命故の動機との間で考え、行動する。
 その彼の前に繰り返し登場する、どこからともなく現われる蠅と毛氈苔。蠅は毛氈苔の魅力にかなわず、毛氈苔は蠅をとらえ、消化していく。同化していく。
 宇宙エレベーターがつながる惑星は、陥穽星と呼ばれる。宇宙エレベーター都市「絹市」の人口は650万人。そして、陥穽星の人口は0人。陥穽星には、コミュニオンという生命系生命があり、そこに行けば、人はコミュニオンに取り込まれ、同化し、その中で永遠の存在として生きられるという。しかし、絹市の人々はそれを信じない。外の星系から、少年の父によって連れられてきた難民たちだけがコミュニオンの存在を信じ、そこへの同化を望んでいる。
 果たして、コミュニオンは存在するのか。人は、その姿を捨てて永遠に生きることができるのか? それとも、それはただの生命体を殺すための罠なのか? いったい、誰がコミュニオンを知っているのか? 惑星=重力井戸と、宇宙エレベーター都市=重力から解き放たれ、しかし、重力によってつなぎ止められた存在の対比。宇宙を自由に飛び、かつては人間だった知性を持つ「生きた宇宙船」と、惑星系に縛られた人々の対比。
 さまざまな対比を繰り広げながら、ひとりの少年を軸に物語は進む。ナノテクも、宇宙エレベーターも、自動兵器も、舞台設定にすぎない。
 物語は、読み手がその質をつくる。おとぎ話として楽しく読むもよい。生命の本質とか、宗教について考えるもよい。書かれていない世界について想像を豊かにするもよい。父と子、親子関係について教訓を得るもよい。大人と子どもの視点の違いを納得するもよい。物語は、読み手によって書き変わる。テキストは不変であっても。
 だから、楽しいSF作品である。
(2004.10.13)

タイム・パトロール

タイム・パトロール
GURDIANS OF TIME
ポール・アンダースン
1960
 ポール・アンダースンの「タイム・パトロール」シリーズ邦訳第一冊である。本書には、4作品が掲載されており、1955年から60年にかけて発表されたものである。
 1924年生まれのアメリカ人、マンス・エヴァラードは30歳。1954年にタイム・パトロール隊の一員になる。1894年のロンドンで5世紀に起きた時間犯罪を解決し、紀元前6世紀のペルシャで歴史の歯車に誤って取り込まれた未来人を救い出し、13世紀のアメリカ大陸では、あるべき未来を守るために中国「元」の探検隊を失敗に導き、2万年前のヨーロッパで遊んでいるうちに誰かの手により変えられ、紀元前3世紀以降のパトロール隊さえ存在しなくなったすべての未来の歴史を元に戻すため、時間を飛び回って活躍する
。  難しいことを言ってはいけない。タイム・パラドックスもまあだいたいなところだ。
 気にするな。
 X-MENやスーパーマンのようなアメコミの世界だ。ただ違うのは、実在の、あるいは、伝説の歴史上の人物たちが次々と登場することだ。タイムトラベルものは、歴史の「もし=If」を楽しむための道具である。歴史は次々に書き変わり、そして、元に戻され、あるいは、そのままになる。主人公は、普通の人間でも、舞台がすごいのだ。
 楽しめ。
 作者も楽しみながら書いている。これをきっかけに、歴史に関心を持つもよい。ちょっと、歴史書を読んだり、歴史の教科書を読むのが楽しくなる。  頭の中で、世界が変わる、広がる。
 歴史を遊べ。伝説を歩け。
 なお、本書の続編が、なぜか知らぬが1990年になって邦訳されている。しかし、邦訳2冊の間にも、「タイム・パトロール」シリーズは続いている。どうして、第4冊目だけが邦訳されるにいたったのか、謎である。誰かの時間的いたずらか?
(2004.10.13)

人間以上

人間以上
MORE THAN HUMAN
シオドア・スタージョン
1953
「スラン」「オッド・ジョン」「アトムの子ら」など、新人類テーマの一冊。同じように、「新人類」アニメがブームとなる前後の1978年にハヤカワSF文庫化している。発表年は「アトムの子ら」と同じ年である。
 しかし、本書は他の作品とはずいぶんと趣を異にしている。
 本書に登場する新人類は、ホモ・ゲシュタルト「集合人」である。瞬間移動ができる者、念動力が使える者、テレパシー、超常的な計算能力、それらをつなぎ合わせる能力を持つ者…、彼らひとりひとりは、生活能力がなく、白痴であったり、発育不全であったり、捨てられた子どもであったりする。しかし、彼らが出会い、お互いを「自分」として認識することでホモ・ゲシュタルトになるのだ。まったく違った思考体系、行動体系。しかし、生存し、繁栄したいという生命の本質は彼らも同様に持っている。
 ひとりひとり=部分が生き残るため、ゲシュタルト(形態)として存在し続けるために、彼らは彼らができることを続ける。
 本書は、3部構成になっており、ゲシュタルトの形成まで、ゲシュタルトの危機、そして、人類とゲシュタルトの接点を描く。一貫してスタージョンが描くのは孤独と他者との関わりである。
 誰かに自分の存在を認めて欲しい。誰かに触られたい。誰かとコミュニケートしたい。誰かと関わりを持ちたい。関わりを持った過去を大切にしたい。  孤独の寂しさを知らないことは、孤独を知ったあとで味わう寂しさよりも不幸なことだ。
 実に切ない話である。
 きっとSFでなくてもよいのだろうが、SFだからこそ、ホモ・ゲシュタルトとしての人類を描くことができ、その孤独を通して、孤独の意味を知ることができるのだ。
 寂しいときに読むとよい大人向きの作品である。
 ちなみに、手元にあるハヤカワSF文庫の表紙は、赤ん坊の顔が破られたような野中昇氏の作品で、ちょっとホラーっぽい。私はホラー作品が実に苦手である。たしかに、映画にしたらホラー作品になるかも知れない。しかし、内容は決してホラーではない。
国際幻想文学賞受賞
(2004.10.4)

アトムの子ら

アトムの子ら
CHILDREN OF THE ATOM
ウィルマー・H・シラス
1953
 1981年にハヤカワSF文庫となった「アトムの子ら」は「スラン」「オッド・ジョン」などの新人類テーマものである。本書の舞台は、1973年。本書が発表されてから20年先の未来。私がいる今から30年も前の未来である。
 1958年、原子力研究所で起こった爆発事故。当初は死者が少なかったものの、2年の内にはほとんどが死ぬか危篤の状態となった。その中で生まれた子どもたちは、すぐれた頭脳を持つ天才児であった。14歳前後を迎えた彼らは、あるものは精神病患者として扱われ、あるものは自らの能力を隠しておとなしく暮らし、ペンネームを使って文筆活動、設計などの活動を続けていた。
 高度な頭脳と認識力を持ちながらも、「わかってくれる」仲間が見あたらないことによる孤独感、社会への経験不足など、不安定な成長を起こしかけていた。
 主人公の少年ティモシー(ティム)・ポールと精神病医のピーター・ウエルズの出会いが、この状況に変化をもたらす。ティムの能力と問題を察知したウエルズはティムに協力し、仲間を捜し、彼らがのびのびと精神と能力を成長させるための新たな学校を開くまでとなった。しかし…。
 子どもであるがゆえに才能を認められず、隠さなければならない、あるいは迫害される。オースン・スコット・カードの「エンダーズ・シャドウ」シリーズを思い起こす。天才児と現実社会の接点を描く作品は、いかに子どもの視点、行動を表現するかが正否を左右する。天才でありながら、子どもであること。そのいらだち、不安、あせり。そのあたりが本書の魅力である。
 高い認識力と理解力によって、精神的、感情的成長をとげることができるか?
 作者は、それを新人類=これからの人々に願っていた。
 以来半世紀、私たちは少しでもそれに近づくことができただろうか。
 ひとつだけ本書で残念なのは、放射能によって、生まれた2世が新人類になるということ。第二次世界大戦後の作品としていかがなものだろう。
(2004.09.30)

スラン

スラン
SLAN
A・E・ヴァン・ヴォークト
1940
 海外ではどうか知らないが、日本において超能力SFの代表作・古典を問われれば、今もって本書「スラン」が挙げられるに違いない。
「スランだ!殺せ!」
 なんといっても、竹宮恵子の漫画「地球へ」をはじめ、萩尾望都の初期作品群など多くの漫画・アニメに影響を与えた作品であることは間違いない。
 超能力者、異能者は殺さなければならない。迫害しなければならない。そうでなければ、自分たちがやられるのだから。迫害され、殺されるものは、なぜ自分たちが狩られなければならないのか、理解できない。人間と違う能力を持っているのは自然なことではないか。人間となぜ共存できないのか。迫害されるものの悲哀。狩られるものの正義。
 こういうところが心をくすぐるのだ。
 もちろん、萩尾望都の初期作品群をはじめ「ポーの一族」、竹宮恵子の「オルフェの遺言」などのシリーズ「地球へ」など、迫害されるものたちの世界を漫画化した彼女らの作品群に中学生のころしっかりとはまったひとりとして、本書は懐かしく安心して読める作品である。
 スランは、読心能力や天才的な知覚力を持った新人類である。西暦2070年、サミュエル・ラン博士が発見した新人類たちは、その後確実に数を増やす。しかし、現人類は異常出産を続け、人間は狂気に陥り、戦争が起き、スランはすべての災厄の元凶として狩られる。500年続いた狂気のスラン狩りのあと、スランたちは社会の表舞台から姿を消し、散発的に狩られるにとどまっていた。それから1000年ののち。すべては伝説となりながらも、スランを狩り、人間を管理する専制的な社会ができていた。ジョミーことジョン・トマス・クロスは、そんな社会に生まれたスランの子ども。天才科学者の父を殺され、今また、母を殺された。彼は生き残り、様々な現実に出会う。読心能力を持つ純スランだけでなく、スランを特徴づける頭の触毛を持たず読心能力もない、そして人間社会には知られていない無触毛スランの存在。無触毛スランの純スランへの憎しみ。人間のスランへの憎しみ。無触毛スランの人間への憎しみ。そして、探しても探しても見つからないほかの純スラン。
 ジョミーは成長しながら、なんとかこの狂気の連鎖を止めたいと願う。父が残した科学技術を武器に、彼はひとり、全世界を相手に無謀な戦いを終わらせる戦いに挑む。
 ね。どこかで聞いたことのあるような筋書きでしょう。
 すべては「スラン」から始まったのだ。「スラン」があり、萩尾望都や竹宮恵子の70年代作品があって、日本のSFアニメ界は花開いたのだ。言い過ぎですか?
 すくなくとも、迫害者テーマ、超能力者テーマの古典として、「スラン」ははずせない1冊である。
 ちなみに本書はA・E・ヴァン・ヴォークト(ハヤカワSF文庫ではA・E・ヴァン・ヴォクトとなっている)の処女長編だ。このあと、彼は「武器製造業者」「宇宙船ヴィーグル号」「非Aの世界」など、名作を次々と発表する。
 余談続きだが、本書が発表されたのは1940年。本書では、おおよそ西暦3500年以上先の未来と西暦2070年の過去の歴史を扱っている。その戦乱の果ての遠い未来の人口は約40億人。なかなかいいところをついていると感心した。
(2004.09.30)
追記 2012年10月、読者より
竹宮恵子氏がマンガ少年に「地球へ…」を連載していた頃、何度もインタビューでスランとの類似性を指摘されていました。1979年くらいかな?
竹宮恵子氏は、
「確かに似ていることは、人に言われて読んでみて驚いたが、スランはそれまで読んだことはなかった」
と、当時、雑誌にも読者にも再三答えています。
とのご指摘をいただきました。ありがとうございます。
「地球へ…」との前後関係は、私の勘違いだったようです。原文はそのままにしておきますが、竹宮恵子氏と読者にお詫びして訂正いたします。

オッド・ジョン

オッド・ジョン
ODD JOHN
オラフ・ステープルドン
1934
 本書は、ハヤカワ文庫SFにて1977年発行。購入したのはおそらく1980年頃のことだろう。竹宮恵子の漫画「地球へ」が星雲賞をとったのが1978年。アニメ映画化が1980年である。ここからしばらく、「地球へ」の下敷きになった「スラン」(A・E・ヴァン・ヴォークト)をはじめ、「人間以上」(シオドア・スタージョン)、「アトムの子ら」(ウィルマー・I・H・シラス)など、迫害される超能力者や超人類(新人類)を描いた作品が人気を集めた。TVアニメ「機動戦士ガンダム」は1979年より放映され、1980年以降の再放送で人気を集めた。「ニュータイプ」という言葉がはやったのもこの頃である。
 もし、この頃に、同様のテーマが社会現象にならなければ、本書が訳されることはなかったのかも知れない。そして、ちょうど、中高生だった私はきちんと流行に巻き込まれ、これらの作品を読みあさったのである。
 本書は、1934年に発表されたイギリスSFであり、超能力者や人間を超えるものを扱った最初の作品として知られている。また、人間を超えるものの視点から、人間の精神や社会、文明のありようについて鋭くとらえる手法を得た作品でもある。
 オッド・ジョン(奇妙なジョン)は、1910年に生まれ、1933年にその短くも深遠な生を終える。本書は、普通の人間であるジョンの両親の友人であるジャーナリストがジョンの生涯を人間の目から伝記的に書き記すという形式でほぼ順を追って語られる。
 異形で成長が遅く、4歳になってはじめて発した言葉は文法的に正しい言語で、高等数学をあやつり、その成長とともに必要に応じて肉体を鍛え、数々の発明品を通じて金を稼ぎ、旅をし、仲間を捜し、そして、彼らだけの植民地をつくろうとする。しかし、彼らだけの植民地は結局は人間の手によって滅ぼされるのだ。
 彼らの心の動き、感情の動き、動機のありようについて、語り手はとまどいながらも、人間とは違う、より高次の存在としてジョンとその仲間と接し続ける。その最後の日まで。
 本書が書かれたのは、1934年である。世界恐慌が置き、ナチスがドイツで台頭し、第二次世界大戦に向かって世界中が不安の中にあった。本書からは、その当時の不安と絶望と人類への希望を読みとることができる。
 ドイツの混乱、避けられない第二次世界大戦と、破滅的な相互破壊の予感。それは的確な時代認識である。その時代に、結果的には滅ぼされてしまう人間を超えるものを登場させることで、人間が失いかけているものを明らかにする。
 もちろん、人間を超えるものは、反道徳的であり、非倫理的である。だが…それがどうしたというのだ。彼らは人間を超えるものなのだ。彼らの論理、彼らの精神、彼らの動機を我ら人間が何を語れようか。しかし、だからといって、人間と人間を超えるものは対立軸であったり、どちらかが滅ばなければどちらかが生き残れないというものでもない。
 その問いかけを残したまま、オッド・ジョンは死んでいく。
 このテーマは、SFの定番であり、永遠のテーマであろう。
 人間が、人間を超えるもの、あるいは、人間と対置する人間ではないものに出会うまで。
 それにしても、「現在この惑星を支配している16億もの不格好な動物」(67ページ)だったのだ、この当時は。今や64億人である。まだ、100年も経っていない…。
(2004.9.29)

トリフィド時代

トリフィド時代
THE DAY OF THE TRIFFIDS
ジョン・ウィンダム
1951
 あかね書房の少年少女世界SF文学全集「怪奇植物トリフィドの侵略」は1973年に出版されている。これは読んだ記憶がある。
 映画「トリフィドの日」(人類SOS)は1962年の映画で、テレビで70年代に何度か放映されているはずで、私も見ていると思う。
 本を読んでいなくても、映画を覚えていなくても、「トリフィド」という食人植物の名前は何となく知っている人が多いと思う。
 私の記憶は、どうも映画を下敷きにしているようで、緑色の流星群の光で人類のほとんどが失明し、宇宙植物トリフィドが光を失った人類を次々と襲っていくという話のつもりだった。
 が、もちろん、大まちがいである。
 今回、きちんと原著の翻訳を読んだ。創元SF文庫版で1963年に初版が出ている。私の手元にあるのは1994年の23版。現在でも入手可能だそうだ。
 アメリカとソヴィエトの冷戦のさなか、人類の95%は豊かな社会を築いていた。自分で移動することができる食肉植物トリフィドはソヴィエトが開発したらしい新品種で、良質の油をとることができたため、世界中で栽培されていた。
 ある火曜日の夜、緑色の流星群が世界中の夜を明るく染めた。人々は歓声を上げ、空を見上げたが、その翌日には光を浴びた人たちすべてが失明していた。
 失明から逃れたのは、地下にいたり、病院で目に包帯を巻いていたりしたわずかな人たちだけ。彼らの生き残るための戦いが始まった。
 しかし、それは、人類の文明のサバイバルだけではなく、人類そのもののサバイバルともなった。トリフィドたちは、公園から、庭から、そして栽培農場から逃げ出し、人類を襲いはじめたのだ。数を増やしながら人類を一人ずつ追いつめるトリフィド。失いつつある人類文明の遺産を費やしながらも、新たな人類社会の可能性を期待して集まる人々。違う理想の議論や自暴自棄の争い。
 破滅テーマではあるが、「一度ないことにして、もう一度やりなおそう」というテーマでもある。
 読んで驚いたのは、生き残り、失明から免れた主人公が、緑色の流星群について語るところである。地球の周囲には、様々な国が兵器衛星を上げていて、核、生物、化学兵器が積まれている。その中のひとつが爆発したか、機能したのではないか。そうでなければ、流星の日のあと、あまりにも急速にチフスではない疫病が広がり、人々が死んでいったことの説明がつかない…。
 トリフィドが、人類の生み出したものであったこと、緑の流星群さえも、兵器であった可能性など、驚くことばかりである。
 本書には、1行だけだが、広島の原爆のことも触れられている。
 冷戦が本格化していく中で、社会の背景にあった「終わりの日」への恐怖が、本書に写し込まれている。それ故に、本書は長く読み継がれるのであろう。
 もちろん、不思議な移動食人植物トリフィドの魅力はいうまでもない。
 ぱたぱた。
(2004.09.25)

メトセラの子ら

メトセラの子ら
METHUSELAH’S CHILDREN
ロバート・A・ハインライン
1958
 ラザルス・ロング登場である。「愛に時間を」の主人公である。
 長生きの冒険野郎である。
 本書は、人類の一部が計画的に発生させた長命族と短命な普通の人類の間に起こる確執をテーマにした「迫害される新人類」ものである。それと同時に、太陽系を超えた大宇宙を縦横無尽に旅して移住の土地を探す、開拓ものでもある。
 時は2136年。地球は人口増大の続く中、個人の自由を尊重しながらも徹底した管理社会になっていた。19世紀にはじまった長命族を生み出す計画は順調にいっていたものの、長命者たちは、その存在をひた隠しにせざるを得なかった。ひとたび、彼らの存在が明らかになれば、短命な人々は、その秘密をめぐって彼らに何をするか分からないからである。しかし、長命族の中には、管理社会が厳しくなる中で、秘密を保つことは難しく、地球社会の一員として早めにその存在を知らしめたほうがよいと考えるものもいた。人類は成長し、彼ら長命族を受け入れることはできると信じたのだ。
 しかし、一度彼らの存在が明らかになると、人々は、彼らが長命を保つ「秘密」を独り占めしていると怒り、そのような秘密はないにもかかわらず、歴史的に影を潜めていた暴力さえ起こるようになってしまった。
 このままでは長命族のファミリーは人権を制約され、あるいは殺されてしまうだろう。
 やむなく、彼らは宇宙への道を選ぶ。
 そこから、現代では読むことのできない異星人たちが登場して、楽しくなるのだが、それはこれから読む人たちのお楽しみということで…。
 本書が発表されたのは、「宇宙の孤児」と同じ1941年である。そのため、「宇宙の孤児」のあとがきに書いてあるとおり、本書と「宇宙の孤児」にはささやかなつながりがある。しかしそれ以外は、まったく別のSFである。
 この長命族を超能力者に変えてもよい。魔法使いでも、人狼でも、吸血鬼でもよい。
 常なるものと違う能力を持つ者は、迫害され、その能力を持ちながらも、社会の影でおびえて暮らすのだ。迫害するものこそ、「ふつうの人たち」であり、「よき隣人」であるのである。SFのひとつのテーマに、「人間性」がある。はたして、人間とは何か? 他者をどこまで認めるのか? 突き詰めて、読者=よき隣人に問いかける。
 もちろん、たかがエンターテイメントである。たかがSFである。難しく読む必要はない。読んでいくうちに、自分ならどうするだろう。狩るものとして、狩られるものとして、どのような想いを互いに抱くのだろうと無意識に考えさせる。
 それがSFの文学としての可能性である。
 おっと、「宇宙の孤児」でも、ふつうの人たちとミュータントという狩るもの/狩られるものの接点があったなあ。「宇宙の戦士」にもそういう側面があるぞ。
 ハインラインのひとつの側面である。
(2004.09.25)

宇宙の孤児

宇宙の孤児
ORPHANS OF THE SKY
ロバート・A・ハインライン
1963
 小学生のころ、図書委員をしていた。ねらいは、すでに表の本棚に出なくなった古い本を読むためだ。背のほつれたSFや推理小説を探しては、読んでいた。
 本書は、矢野徹訳の「のろわれた宇宙船」として、1967年に偕成社のSF(科学小説)名作シリーズで登場し、1972年に福島正実訳の「さまよう都市宇宙船」として、あかね書房の少年少女世界SF文学全集に登場している。
 どっちを読んだのか、どちらとも読んだのか、今となってははっきりしないが、強く印象に残っている作品である。
 その後、1978年にハヤカワ文庫SFで「宇宙の孤児」として出ており、高校生のころ、この文庫版を購入し、記憶を新たにしたものだ。
 遠い昔に反乱があり、パイロットのいなくなった巨大な宇宙移民船。誰も操縦するものがなく、宇宙船はさまよっている。そこが宇宙船であることを知らない人々は自給自足の生活を続ける。世界は限られており、外に星があることも知らない。重力の弱い階上に暮らす双頭のミュータントとの争い。
 竹宮恵子の「エデン2185」が本作とつながるかどうか分からないが、巨大な宇宙船の中で暮らす人々というアイディアは多くの人を魅了した。惑星の周りを回るスペースコロニーではなく、移民船であり、旅をしていることと、乗客たちが広大な閉じた空間で暮らすという不思議なバランスが見当識喪失のような不思議な感覚を読むものに与える。
 宇宙船の中で、主人公は旅をし、ミュータントと交流し、外を発見し、世界を見いだす。
 あまりにも予定調和の大団円だが、ジュブナイルは潔くあってよいと思う。
 ちなみに、本書が雑誌で発表されたのは1941年。第二次世界大戦の頃であった。
 その頃に、遠い宇宙を書いていたのだ、この御大は。
(2004.09.25)

バーチャライズド・マン

バーチャライズド・マン
THE SILICON MAN
チャールズ・プラット
1991
 2030年代。先立つ経済混乱ののち、アメリカ合衆国政府がほとんどの企業を支配し、政府の直轄下においた時代。ひとりのFBI捜査官が違法な武器の製造・流通ルートを探っていたところ、ある軍関係の研究会社の研究室に行き当たる。そこでは、人間などの脳をコンピュータ上の人工環境に置き換えて存在させ、人的損失のない軍の兵器の頭脳部分として機能するためのライフスキャン技術の開発研究が続けられていた。このアイディアは、もともと1970年代のラディカルな自由主義、反政府主義思想を持つひとりの天才科学者が生み出したもので、この研究室のスタッフもまた、彼の手の内の者たちであった。
 コンピュータ下の完全なシミュレーション状況の中に、すべての記憶、人格、感情、生理的反応、感覚を再現させ、バーチャルな状況で生きられる状態をつくること。それにより、永遠の生命を手にすること。そして、もうひとつ、その天才科学者には隠された目的があった。
 捜査を続けるうちに、研究者たちに拉致されてしまう捜査官。そして、その後を受けてひとり状況を追い続ける妻。そして研究者と天才科学者の娘。
 ストーリーとしては、単純である。
 映画「マトリックス」の仮想世界の誕生物語のようなものである。世界にはじめて、仮想世界が誕生し、その中で生きることになったら、どんなことが起きるのか? 「マトリックス」とは違い、現実の人間社会が今の延長上にある中で、現実とバーチャルな世界との接点はどうするのか。その時間軸は?
 コンピュータネットワークが出てきたり、電気自動車が出てきたりするものの、古さを感じてしまうのは、1991年と1995年以降の現実に起きたパソコン&インターネット社会の違いであろう。たとえば、本書では光ケーブルネットワークが完成しているが、そこで「ひとりの人間の心を構成するデータをそっくり送っても、たった45分しかかから」ず、2、3ギガバイトの空き容量である程度人格を持つウイルスクローンをインストールできるのである。たしかに、2、3ギガバイトのウイルスといえばものすごいことができるだろう。しかし、今や、2、3ギガバイトという単位は、ああ、DVD1枚に収まるデータだね、というぐらいのものである。当時、ギガといえば途方もなかったのだ。わずか10年ほど前のできごとである。2030年には、2ギガはどの程度の感覚で受け止められるのだろうか。
 そういう古さを感じるところが、この手のSFの難しさだ。
 しかし、バーチャル人格での永遠の生というテーマを追いかけるつもりならば、本書もまた、その一群の作品の中に残されるものである。
 ちなみに、出てくる食べものはもちろん、「人間がいっぱい」(ハリイ・ハリスン 1966)以来の伝統、大豆(ソイ)ステーキである。
(2004.9.16)