メド・シップ 祖父たちの戦争

メド・シップ 祖父たちの戦争
DOCTOR TO THE STARS
マレイ・ラインスター
1964
 遙かなる未来、遙かなる宇宙。人類は様々な星に植民し、版図を広げていた。星間医療局のカルフーンは、宇宙動物トーマルのマーガトロイドとともに、担当の星々を4から5年に1度巡回し、現地の厚生責任者の話を聞き、公衆衛生と個人医療情報を提供する。しかし、非常事態には特別出勤を行う。とはいえ、宇宙は広い。光速を超えるオーヴァードライブ技術をもっても、数カ月かかることがある。
 そして、現地では…。
 カルフーンはただの医者とは呼べない。公衆衛生の専門家の枠を超え、世代間の紛争、経済侵略のための謀略の解決、世界の救済さえも行う。日本の誇るブラック・ジャックも真っ青である。もちろん、公衆衛生の専門家で、手術はしないが。
 ヴァン・ヴォークトの「宇宙船ビーグル号の冒険」に出てくる、ネクシャリスト(情報総合学=ネクシャリズムの専門家)のような活躍ぶりである。
 本シリーズは、短中編シリーズで、本書には3編が掲載されている。表題作「祖父たちの戦争」に、「住民消失惑星の謎」「憎悪病」である。このほか、「惑星封鎖命令」に3編、「禁断の世界」に2編が所収されている。しかし、残念ながら、私は本書を古書店で入手したのみである。
 本書は、1960年代のSFだが、このころの、ジュブナイル的な作品は読んでいてほっとするところがある。宇宙を縦横無尽にかけめぐる主人公。その相棒の異星人や異星生物たち。さまざまな太陽系と、惑星の驚異。自然も生物系もいかしている。登場人物は、裏がなく、白黒はっきりしていて、動機や精神の葛藤なども素朴なものである。80年代以降の複雑かつ文学的なSF作品群に比べれば、同じページ数でも半分以下の時間と集中力で読めてしまう。荒唐無稽な宇宙ではあるが、それでも、たとえば本書では、世代間の考え方の違いの類型化や、集約化、機械化された畜産の問題、医療という権力などについてふと考えさせる力も持っている。
 最近では、スティーブン・グールドの「ジャンパー」や「ワイルドサイド」が、良質のジュブナイルSFとして紹介されているが、そこに出てくる主人公は、現実と非現実の間で悩み、揺れ動き、決して代替不能なヒーローではない。良くも悪くも現代的なのである。
 勧善懲悪がいいとは言わない。しかし、時に、人は最後に解決されるということが分かった状態で、すっきりと終わりを迎えるために読みたいときがあるのだ。
 本シリーズのカルフーンは、超越的なヒーローではない。スーパーマンでもなければ、超能力者でもない。しかし、小型の堅牢な医療宇宙船エスクリプス20に乗り込み、マーガトロイドをおともに、ずばっと惑星の悩み事を解決するあたり、やはりヒーローなのである。
 のこりの2冊も読んでみたいなあ。
(2004.08.17)

フリーウェア

フリーウェア
FREEWARE
ルーディ・ラッカー
1997
「ソフトウェア」「ウェットウェア」に続く、ラッカーの「ウェア」シリーズ第三弾。ついに時代は、2053年までやってきて、3シリーズ共通の登場人物スタアン(ステイ=ハイ)ムーニーは、なんと上院議員様。妻のウェンディのクローン肉は、クローン牛、豚、鶏とならぶ、人気食材の時代。
 カビイこと、特殊な樹脂と地衣類のようなものでできたハッピー外套は、モールディと呼ばれて、地球上でも市民権法で市民としての権利が保障されている時代。ムーニー上院議員の働きかけは絶大だ。
 シリコン製のCPUがおしゃかになった後には、カビイを利用して、モールディのような知性のないDIMがなりかわり、パソコン兼電話兼インターネットはユーヴィとよばれる、生体針のないハッピー外套となって、ほとんどすべての人が利用するインフラとなっている。
 つまり、肉人間とモールディが相互に憎みあいながら生存し、地球では肉人間(われわれだ!)、月ではモールディが強い状態でなんとか存在していた。しかも、そのインフラは、モールディと同じ素材。
 かくして、肉人間とモールディのぬたぬたねとねとりんりん物語が幕を開け、便利さと不愉快さの間で、人々は文句を言ったり、麻薬におぼれたり、遊んだり、働いたり、倒錯したりしながら生きているのであった。
 ところが、ちょっとした変態天才のアイディアで、宇宙の生命の本質を見つけてしまったところで、エイリアン騒動まで勃発。もう、地球圏は人間とモールディでいっぱいだってばさ。どうする、どうする。
 スタアン・ムーニー、今回も、元上院議員なのに…らりらりでなみなみなのだった。
 本書では、前作よりもラッカーの本職である数学的なアイディアとそのSF的援用が行われている。そういうのもおもしろい。
 それにしても、「ウェア」の世界は、わずか50年で、ものすごく変になっている。
 もし、今、ラッカーの50年後の未来にタイムトリップしたら、気が狂いそう。
 50年前、1955年頃に、今にタイムトリップしたら、やっぱり、ものすごく変で、気が狂いそうになるだろうか。パソコン、インターネット、携帯電話、フリース、ペットボトル、冷凍食品、無菌パック、遺伝子組み換え植物、クローン動物、生命医療、HIV、BSE、抗生物質耐性菌、プラスチックと電子機器に取り囲まれた社会と生活…。どうなんだろう。
 さて、本題。フリーウェアって何だ?
 コンピュータを動かしているのは、プログラムなどのソフトウェア。地球生命圏の生物を動かしているのもソフトウェア?
 コンピュータは、シリコンと金属でできたものだからハードウェア。地球生命圏の生命は、水と有機化合物などでできているべちょべちょぬたぬただから、ウェットウェア。
 どこかの天才たちがつくるソフトウェアがフリーウェア。プログラムやデータやコンテンツもフリーウェア。でも、本書に出てくるフリーウェアはそればかりではないようで、フリーウェアな存在ってなんだ?
 答えを探して、本書を開いてみるとおもしろいことになるのは請け合い。
 ところで、すでに、「ウェットウェア」は本書出版(ハヤカワ文庫SF2002年3月刊)の時点で絶版だそうだ。続編の「リアルウェア」もあるのに…。
 みんなで読んで、頭をりんりんにして、早川書房に気持ちを入れ替えてもらおう。
 おっと、真の変態の性生活なんてのも出てくるから、お子さまは要注意。頭に花を咲かせないように…。
(2004.08.13)

ウェットウェア

ウェットウェア
WETWARE
ルーディ・ラッカー
1989
 前作ソフトウェアの世界から10年後、2030年の月世界。知性を持ったロボット”バッパー”は、内戦の間に彼らがつくった月都市を人間に追われ、さらに地下に潜ることとなった。人間はふたたび月の主導権を持ち、バッパーを亜人間として虐げる。しかし、バッパー側も負けてはいない。あるものは、人間の脳に遠隔操作ロボットを入れて肉人形として使う。そして、人間をはるかに凌駕する新しいバッパーの開発をめざす。あるものは、人体を培養し、パーツを販売して利益を得ながら研究を続け、バッパーのソフトウェアと知識を持った人間、マンチャイルを生み出す。しかし、人間は、知性を持つ人間以外の存在を許したくなく、ましてや、人間の姿をし、生殖能力を持つマンチャイルなど許し難いことであった。
 と、あらすじの一部を書くと、すごくまっとうなSF小説のように見えてくるから不思議だ。もちろん、まっとうなのだが、そこはそれ、ぶっとび数学者/SF作家のラッカーである、一筋縄ではいかない。主人公は、年をとってオジン化したスタアン・ムーニーこと前作のぶっとび登場人物ステイ=ハイ。前作の最後でハッピーエンドに迎えたはずが、つい間違えて最愛のウエンディを殺してしまい、月に逃げて私立探偵をやっている。
 今回のだしものは、”マージ”人体を一時的にどろどろに溶かして、融合させることができる麻薬である。ひとりでもふたりでもさんにんでも大丈夫。どろりどろどろ、一緒にバスタブで溶けようぜ。しばらくしたら元に戻るから。
 もうひとつのだしものは、バッパーが開発したマンチャイル。ディックの小説に出てきたことがあるような、美しく生殖能力にたけた、成長がとても早く、環境から学習するより前に、内なる知識とソフトウェアから学ぶ能力を持つ男たち。
 さらに、バッパーを追いつめようと開発された、チップカビ。効果は絶大。さらに、副産物が生まれる。前作でステイ=ハイが大好きだったハッピー外套とチップカビが融合して、”カビイ”になり、あら大変、今度こそ本当に「地球の長い午後」のアミガサタケになっちまう。
 これまでのSFへの不朽の愛と、「すべて」は「ひとつ」というラッカーの、いや、ラッカー世代のサブカルチャーの思想信条をひっさげて、やりたい放題の一冊に仕上がっている。
 書かれていることの本質は、ラブアンドピースである。
 人間とバッパーとマンチャイルとカビイと肉人形とソフトウェア/データの集積体”S-キューブ”…、知性って、生命って何ぞ。
 私たちは、どこまで、分かり合えるのか、どこまで分かり合ったら、存在を許し、認め合えるのか。分かり合い、認め合うことができる存在なのか?
 ラッカーは、問いつめる。
 読む私は、問いつめられながらも、その文体とスピードに酔いしれる。
(2004.8.8)

ソフトウェア

ソフトウェア
SOFTWARE
ルーディ・ラッカー
1982
 数学者、SF作家で、価値観破壊者のラッカーを深く印象づけた作品である。はじめて読んだときには、ぶっとんだ。ちょっと古いが、吾妻ひでおが「不条理日記」を発表し、とり・みきをはじめ、SF界、漫画界に衝撃がはしったときと同じような印象だ。出版されたのは、1989年で、サイバーパンクという言葉が市民権を得たころのことである。もちろん、本書は、サイバーパンクには位置づけられていないが、サイバーパンクとディック的な世界の融合をみせる独自で特異なラッカーというジャンルが存在することを世に示した作品である。
 文体は、りんりん。
 内容は、老人達が住む町に、月から人間そっくりのロボットがやってきて、人間になりかわってみたり、脳みそからデータをすいとってみたりしている。主人公のひとりは、ロボットに突然変異と適者生存を取り入れ、あげくにロボット三原則を解き放ち、自立を達成したロボットのラルフ・ナンバーズを生み出した元科学者のじじい。脳みそをすりつぶされて、ロボットの中に転生する。もうひとりの主人公は、ラリラリの青年。ドラッグ大好きのステイ=ハイで、月の博物館で生まれたてのハッピ外套、明滅被服のハッピー外套を首と頭の回りにまきつけたところ、あらま大変、ロボット達と会話も交わせる、時間も分かる、頭もすっきりしちゃう。結局はハッピー外套が殺されて、またいつものラリラリに後戻り。
 ラルフ・ナンバーズは、ヒューゴー・ガーンズバックの「ラルフ124C41+」からとったものだろう。もっとも、124C41+は人間だが。ハッピー外套は、ブライアン・オールディーズの「地球の長い午後」に出てくるアミガサタケそっくり。「地球の長い午後」のときにも書いたが、この体に巻き付いて針を神経系に入れ、その結果、宿主の知能を向上させるというアイディアはSFの伝統芸になっている。
 このふたつの例に限らず、アジモフのロボット物をはじめ、過去のSFへの愛とオマージュにあふれた作品である。もちろん、お上品な愛とオマージュではない。ラッカー文体と、1970年代ヒッピー文化、サイケデリックのテイストあふれるセックス、アルコール、ドラッグ、暴力に満ちた内容が、ねじくり、こねくりまわしている。
 だから、すうっと楽しめる。
 ディック的な世界なのだが、ラッカーにかかると、重さも暗さもない。
 楽しいぞう。
 ちなみに、本書の舞台は2020年、ロボットが叛乱を起こしたのは2001年である。
 でもって、2020年の世界は、
 ”老人が多すぎる。この連中の人口突出が、四〇年代と五〇年代にはベビー・ブームをもたらしたのだし、六〇年代七十年代には若者革命、八〇年代九〇年代には大量失業を招いた。今や、時間の情け容赦ない蠕動運動によって、この人類の塊が二十一世紀に運ばれ、どんな社会も出会ったことのないような老人の大荷物になっている。
 この連中は、誰も金を持っていない-ギミイは、すでに二〇一〇年には社会保障を使い果たしてしまった。えらい騒ぎだった。新種の高齢市民が現れたのだ。フィーザー-異常爺婆(フリーキー・ギーザー)だ。”(22ページ)。ギミイは政府のようなもの。
 ラッカーは、1946年生まれ。日本でいうところの団塊の世代である。日本でもそうだが、アメリカでも世代の人口突出は問題なのである。日本の団塊の世代は、80年代には落ち着いてしまい、比較的お金のある世代になっているけれどね。社会保障の将来は似たような者になるかも知れない。
 本書の中で、ロボットが破壊されて死に、別の機体にデータやプログラムなどをダウンロードして再生するシーンと、人間が脳みそから記憶をはじめ人間のソフトウエア群を抜き取られて死に、ロボットにダウンロードされて再生するシーンが出てくる。そこでは、再生されると忘れてしまうが、「存在」として生命の個と全体がある。ハードウエアはその入れ物であり、ソフトウエア(プログラムと記憶など)はその表現に過ぎないとラッカーは提示する。「全体はひとつ」である。
 生命のありようについては、多くのSF作家が、その哲学、死生観、宗教観などに沿って様々なものを提示する。SFのいいところは、科学技術や地球とは異なる状況を表すことで、生命の本質について一般の文学よりもわかりやすく、可能性を表現することである。
 あなたは、脳みそをすりつぶされて、機械の体にデータをダウンロードされても、あなたであり続けるだろうか。
(2004.08.01)

グリーン・マーズ

グリーン・マーズ
GREEN MARS
キム・スタンリー・ロビンスン
1994
「レッド・マーズ」に続く、火星三部作の二作目である。前作は、2020年代にはじまり、2061年に火星に住む人たちが地球に対して起こした革命とその失敗をもって終わる。
 本書は、それから数十年後、2100年代初頭の物語であり、2127年、「最初の百人」が火星の到着して1世紀が過ぎたところで幕を閉じる。
 火星は、暫定統治機構と、それを牛耳るトランスナショナル(超国籍企業体)によって支配され、レッド・マーズでやぶれた「最初の百人」の生き残りをはじめ、独立を望む人々は、コロニーを作って隠れ続けていた。火星のテラフォーミングは急速な勢いで進められ、新たな宇宙エレベーターの建設もはじめられていた。  地球もまた、混乱を続けていた。2061年戦争のあと、地球は事実上、超国籍企業体が国家を運営するような事態になったが、超国籍企業体間の紛争、国家間の紛争、地域紛争などは止むことなく、さらに、長命技術を受けられる者に対する、受けられない者=死すべき者の怒りもあり、経済、社会システム全体が破局を迎えつつあった。
 本書は、前作に引き続き、火星という惑星に暮らすとはどういうことかを楽しませてくれる。急速なテラフォーミングの実現と、意外に多くあった火星の水というおまけにより、描写される惑星規模の変化そのものが本書のおもしろさのひとつである。
 一方、本書は、「人が死ななくなったら社会はどうなるか」について、考察する。火星では、最初の百人が長寿化処置を受け、その後、人々は長寿化していく。前作で現役だった者たちは、本作でも現役である。しかも、第二世代、第三世代が育ってくる。単なる高齢社会ではない。高齢者たちが第一線で働き続けるのだ。もちろん、火星では人口はまだ少なく、社会そのものを形成する過程にあるため、世代間のトラブルはまだそれほど顕在化しない。また、長寿化処置とはいえ、老化そのものは進むので、過去を忘れてしまったり、容姿に衰えが出てくるという特殊な条件もある。長寿化処置は一定期間ごとに受け続けなければならない。自殺する者や長寿化処置をそれ以上受けない者も出てくる。
 長寿化処置のある社会はどのように成立し、人の意識はどのように変わるのか。
 そもそもなぜ人は生き続けたいのか。考えさせられる。
 さて、本書で印象的なシーンがふたつある。
 ひとつは、火星で隠れて生活する様々な人たちが集まって火星の独立方法と独立後の社会をめぐって議論を戦わせる会議のシーンである。火星のテラフォーミングのありかたをめぐって存在するレッズとグリーンの対立、文化、思想、宗教の対立、世代の対立…。それらの対立を議論にまとめる1カ月にもおよぶ会議。その議論と調整役の働き。この会議にたっぷりと紙面を費やしている。そして、社会をつくる過程、たとえばアメリカ合衆国などが国として形をなす過程を再現しようとしている。その大変さと、浮かれかげんが読んでいて楽しい。
 もうひとつは、火星を歩くシーンである。大気がずいぶん厚くなった火星では、問題になるのは酸素分圧、二酸化炭素分圧、そして、温度である。本書には多くの火星を歩くシーンが出てくる。なかでも圧巻なのは、最後のところである。20万人の人々が、洪水の危機に歩いてドーム都市を脱出しなければならなくなる。70km、約30時間におよぶ徒歩での避難シーン。その理由や方法については、読んで欲しいので書かないが、描写の美しさには感動すら覚える。まあ、文庫で1000ページ以上読んだ上でのことなので、頭も朦朧としているのだが。
 とにかく、ぐいぐい読めるというたぐいの本ではない。「レッド・マーズ」もそうだが、書かれている景色や状況を頭に思いめぐらし、頭の中で描写するのがとても大変なのだ。なにぶんにも火星の光景である。どうしても、時間がかかってしまう。
 それでも、読み飽きないのは、人と自然の描写対比がうまいからだ。
 そして、最後のシーン。再び起こる革命と、洪水。「レッド・マーズ」と「グリーン・マーズ」の相同と相違。「レッド・マーズ」のもうひとつの答え。それこそ読みたかったものだ。
 早く、「ブルー・マーズ」を翻訳出版して欲しい。私には、これを英語で読む英語力も時間もない。お願いします、東京創元社さん。
 ヒューゴー賞、ローカス賞受賞
(2004.07.31)

レッド・マーズ

レッド・マーズ
RED MARS
キム・スタンリー・ロビンスン
1993
 火星植民地ものである。超長編三部作のはじまり。
 本書をはじめて読んだとき、深く印象に残ったのは宇宙エレベーターが破壊されて、そのケーブルが赤道付近に落ちてくるシーン。直径10メートル、長さ37484キロメートル(往復分)、質量約60億トンのケーブルが、火星の回転に合わせながら、赤道に沿って巻き付きながら落ちてくるのである。燃え、ばらばらになりながら、空から火星と地上にいるあらゆるものが鞭打たれる。その光景は、科学的な記述だが、心底に恐怖した。
 あらすじを追っておこう。
 2026年、人類は火星に100人の科学者・技術者を片道切符で送り出した。「最初の百人」である。9カ月の旅を経て、火星にたどり着き、彼らは後に続く者たちのために、研究し、建設し、そして、テラフォーミングに着手する。
 自然のままの火星は厳しい。しかし、その厳しさを愛するものもいる。
 拙速なテラフォーミングに反対する研究者あり、積極的に自立に向けた取り組みをするものあり、考え込むもの、政治や商売に邁進するもの、他人を鼓舞するもの、籠絡するものあり、さらには101人目、すなわち密航者あり、グループを離れて暮らす放浪者ありと1個の惑星を舞台に物語は進む。
 物語は、七部構成で、第一部が第五部と第六部の間の物語である。先に少しだけ未来を見るのである。第二部は、火星への旅。第三部からは火星での暮らしで、各部それぞれ、「最初の百人」の主要登場人物の視点から描かれる。読者は、彼らの視点を案内役にしながら、火星の表面を旅し、火星の暮らしを体験し、そして、火星の変化を知る。
 テラフォーミングの最初は、ささやかな風車。風を熱に変えていく。そして、GEM。遺伝子組み換えによる微生物たちである。ミラー衛星で太陽光をあて、水でできた小惑星を大気面に接触させる。最大の効果は、人の活動と排熱…。
 やがて、火星に人が集まりはじめる。地球では稀少となった鉱物が見つかる。超多国籍企業が、あまたの国家が、集まってくる。原子炉を動かし、工作機械を据えつけ、掘削をする。モホロビッチ不連続面を貫き、マントルまでかかる穴が掘られ、得られた鉱物は、宇宙エレベーターの完成を待つのだ。火星地表から高軌道まで延びる宇宙エレベーターができれば、安価で低エネルギーのまま地球に物資を送ることができ、多くの物と人も火星に降りることができるようになる。しかし、宇宙エレベーターがなくても、火星には多くの人が降り続け、各地に散り、北半球にも南半球にも町ができた。
 2048年、火星紀元11年(紀元1年は西暦2027年、火星の1年は669日)には、火星の生物工学研究者が、遺伝子工学による長命技術を開発し、「最初の百人」たちは徐々に、その処置を受けはじめた。
 翌冬、10年ぶりの全火星規模の砂嵐が起きる。この嵐は、地球年で3年以上、2火星年も続く。地球人の緑化計画に火星が悲鳴を上げているかのよう。
 その間も、人の動きは止まらない。そして、地球では、火星で開発された長命技術の存在が明らかになり、人口爆発と超国籍企業体による搾取の結果、持てる者と持たざる者の格差は広がり、暴動と局地戦争が、人々の間、国家間、企業体と国家、人々との間で繰り広げられる。
 2059年、火星紀元16年、ついに宇宙エレベーターが完成した。
 それは、終わりのはじまりでもあった。
 荒れる地球がそのまま火星に来た。完成前から、すでに人々は自由を求めて火星に来たはずが、地球以上に隷属させられていることに気づき、不満を高めていた。
 そして、当然のように不満は引火し、革命が起こる。
 いや、革命ではないかも知れない。地球と、地球を代表するもの、国家や企業と、火星の人々との戦争である。
 町は破壊され、人々はあっという間に、あるいは、苦しみながら死に、宇宙エレベーターは破壊され、火星に甚大な被害を与え、そして、火星に究極の変化の時が訪れる。
 これが、本書。わずか35年程度、火星歴で17年程度の激しい記録である。
 刻々と変わる火星。その荒々しくも美しい姿に、そして、人の営みのすごさに開いた口がふさがらない。
 登場人物は熱く活発な人たちばかりだ。とにかく激しい。仕事も、日常も、情愛も。その激しさにちょっとまいってしまう。さらに、日本文化やアラブ文化、あるいは、宗教に対して「ちょっと変な視点」で書かれているため、当の日本文化に暮らしている私としては、そういう表現の時に違和感を覚えて、我に返ってしまうのが残念である。
 それにしても、残酷な作者である。火星と、火星のテラフォーミングという変化を描くために、科学技術の光と影の部分に価値観を加えず書き続ける。
 ただただ火星が書きたかったのだろう。
 地球の人間にとって、火星はもっとも移住に現実味のある惑星であり、そのありようのひとつを描く本書は、シミュレーションSFとして群を抜いている。
 本書は、火星を旅したい人に、おすすめしたいガイドブックである。
 そうそう、火星の1日は地球の1日より39分半長いのだが、本書では、1日を24時間のままにしている。そこで、余った39分半は「火星のタイムスリップ」になるのだ。夜中の0:00:00に時計は表示が止まり、39分半後に0:00:01として時計が再び動き始める。
 この解決法と「火星のタイムスリップ」という言葉を実感するだけでも楽しい。
 個人的には、おとぎ話の「火星夜想曲」(イアン・マクドナルド)の方が、読後感を楽しめたものの、それは趣味の違いというものだ。
 なお、本書には、続編「グリーン・マーズ」「ブルー・マーズ」があり、「ブルー・マーズ」は今日の段階では邦訳出版されていない。期待したい。
ネビュラ賞・英国SF協会賞受賞
(2004.7.20)

宇宙兵ブルース

宇宙兵ブルース
BILL, THE GALACTIC HERO
ハリイ・ハリスン
1965
 戦争SFの代表作に本書を上げるのを忘れていた。「宇宙の戦士」「エンダーのゲーム」などにならぶ戦争SFの代表作である。てか。本書を取り上げてよく言われるのが「宇宙の戦士」(ハインライン)と「銀河帝国の興亡(ファウンデーション)」(アシモフ)のパロディ作品ということ。
 しかし、そんなことは忘れて欲しい。すなおに、独立した1作品として読んでいただきたい。
 古くない、のである。
 どこにも暦を思わせるところはない。今、読んでも、昨年書いたものと言われても、違和感はない。もちろん、翻訳語やもしかすると原文の単語や言い回しが古くなっている節はあるかもしれないが、そこのところをちょいといじれば、新鮮な小説のできあがりである。
 出てくるのは、田舎惑星と新兵訓練施設と宇宙戦闘船と銀河の中心・帝王のいる惑星に、刑務所と最前線の惑星。
 主人公は、ビル。新兵にして銀河の英雄、脱走兵、革命スパイ、市清掃局研究者、囚人、新兵徴募係。
 身体が丈夫であまりものごとにこだわらない主人公ビルの活躍ぶりを、ユーモアあふれる語り口で披露しながら、SFの舞台裏を次々に明かしてくれる。
 なーんだ、そーゆーことか、ふーん、ってなもんだ。
 その中に、ハリスン独特の、いやSFならではの文明批評と警告が込められている。
 戦争のおろかしさ、環境問題、ごみ問題…。
 1500億人を超える帝国惑星の最下層に市清掃局がある。人糞は、肥料にして食料生産惑星に送り返し、喜ばれている。しかし、プラスチックなどのごみたちはゆくえもなく溜まるばかり。物質瞬送機でもよりの恒星に送っていたら、新星化しておおごとに。海に投げ込んだごみのせいで水位は上がりおおごとに。
 そこでビルは考えた。ごみになった皿を箱に入れ、免税の贈呈小包にして銀河系の各植民に郵便で送ってしまえばいい。作業はロボットにやらせればいい。
「すかさずビルはとどめを刺した。
『ロボットの包装費はロハ、宛名もロハ、材料もロハ。それにもう一つ、ここは官庁だから切手もロハとくるんですぜ』」
 さすがである。似たようなことは、すでに現実になりつつあるが、ここまで徹底したごみ対策はない。ハリスンの慧眼には、恐れ入るのである。
 戦争に対しても、ハリスンの筆は冴えわたる。
「『と思うのが大まちがい。戦争でいちばん安全な場所は、軍隊の中なんだぜ。前線の野郎どもは頭をぶちぬかれる。故国の地方人どもは頭をふっとばされる。その真中にいるやつは、まかりまちがってもケガはねえ。前線の一人に補給するためには、三十人から五十人、いやおそらく七十人のやつが、真中に必要なんだ。いったん文書整理係になる手口をおぼえちまえば、気楽なもんよ。文書整理係が射たれたなんて話が、どこの世界にある? おれは優秀な文書整理係なんだ。しかしそいつあ戦争のあいだだけだぜ。平和のときはちがう。やつらがひょんな間違いをして、しばらく平和になったときには、戦闘部隊に入るにかぎる。エサはいい、休暇は長い、仕事もたいしてねえ。それに、ぐっと旅行もできらあ」
「で、戦争がはじまったらどうする?」
「おれは病院へもぐりこむ七百三十五通りの方法をこころえてるよ」』(ハヤカワ文庫版第3刷228ページ)
 ちょっと長い引用になったが、どうだろう。まいっちゃうね。
 ところが、これを言った奴は、ちょっとした書き間違いで、最前線の惑星に送られることになるのだが、それもまた人間がよくやらかすことである。
 とにかくおもしろくて、考えさせられる。パロディの原著のことなんか気にしなくていいから、ぜひ読んで欲しい。なあに数時間あれば読めるような内容だ。絶版なのは残念。
 手元の文庫版第三刷(1989年)の横山えいじ氏ののほんとしたイラストもまたよし。
 ちなみに、本書は、出版から2年後1967年にハヤカワの銀背で出され、1977年に文庫化された。文庫版の最初は藤子不二雄氏のおどろおどろしたイラスト表紙だったようだ。
(2004.7.17)

宇宙のランデヴー

宇宙のランデヴー
RENDEVOUS WITH RAMA
アーサー・C・クラーク
1973
 70年代クラークの代表作である。先日読んだグレッグ・ベア「永劫」と似たような設定だが、もちろん、こちらがオリジナル。2130年頃、小惑星の地球への衝突を防止するスペースガードが発見した直径40kmという巨大な小惑星はラーマは、自転時間4分。宇宙探査船が調べたところ、それは間違いなく人工物だった。太陽系に入り、早いスピードで太陽に接近し、そして去っていく軌道をとっている。接触できる時間は限られていた。ノートン中佐率いる宇宙船エンデヴァー号が唯一、接触可能な宇宙軍艦船であった。かくして、ノートン中佐らは、ラーマ上に着陸、内部の探査をはじめる。そこには、地球の科学力を超えた想像を絶する世界が広がっていた。最初は死んだ世界だと考えられていたが、そこには有機物質で作られたバイオロボットが定められた機能を発揮し、何らかの目的で動いていた。
 小惑星を宇宙船として製造したとき、内側の世界ではどのような物理的事象が起こり、どのような光景が広がり、どのような気象が発生するのか。今や、日本のアニメではおなじみのスペースコロニーの風景を壮大に描いている。異星人、異星文明との出会いというよりも、その世界を描き、提示するための小説である。
 ある意味で、SFらしいSFと言えよう。
 それだけといえば、それだけなのだが。
 本書が書かれたころ、1969年にアポロが月に着陸し、ソ連はソユーズを飛ばし、1972年には火星探査のマリナーが写真撮影を開始しているが、NASAは予算縮小に向かっていた。日本では、大阪万博があり、カシオミニが発売され、というような頃である。
 その頃に、壮大な小惑星宇宙船とその内部を描いているのである。
 クラークの天才ぶりがうかがわれるではないか。
 ところで、本書はその後、80年代終わりからジェントン・リーとの共著で続編がシリーズ化されて書かれている。あいにくそちらは読んでいない。そのうち読んでみたい。
 でも、当時は、謎のまま終わるSFでもよかったのだ。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞
(2004.7.16)

人間がいっぱい

人間がいっぱい
MAKE ROOM! MAKE ROOM!
ハリイ・ハリスン
1966
 舞台は、ニューヨーク。時は、1999年夏からミレニアムまで。主人公は、アンドルー・ラッシュ刑事。殺されたニューヨークの顔役の捜査。顔役の情婦との恋…。
 設定は、ハードボイルド。しかし、ハードボイルド小説ではない。なぜならば、本当の主人公は世界であり、ニューヨークなのだから。
 1999年8月、ニューヨークには3500万人が暮らし、世界人口は70億人となっていた。老人は、過去の暮らしを求めてデモを繰り返し、農民は水を求めて都市への水道橋を破壊し、人々は水と食べものと部屋を求めて争いを続ける、世紀末。石炭も石油もとうに底をつき、高速道路は壊して農地にするほかない。自動車はなく、輪タクが人々を運ぶ。スラム化したニューヨークで、子どもは無制限に生まれ、そして、両親とともに飢えていく。混乱した街の混乱した人々の中で、刑事は日々の事件や警備に追われる。
 人々は、怒り、盗み、暴れ、あきらめ、並び、飢え、あえぐ。
 そして、新しいミレニアムがはじまり、ハルマゲドンは訪れず、「この世界が、またもう千年も、こんな状態で続くのか? こんな状態で?」と、狂った宗教家が叫ぶ。
 世界の環境問題や飢餓などの諸問題の根底にある人口問題を、徹底して突き詰めたのがこの作品である。不幸なことに、映画「ソイレントグリーン」(1973年リチャード・フライシャー監督)が生まれてしまい、その原作ということでずいぶんと誤解されている。
 けれども、考えてみてほしい。1964年当時に、これほどまで、ありうべき現在を予見したSFはなかなかない。
「手放しで過剰生産と過剰消費をやらせた結果、いまでは石油が底をつき、表土は消耗して洗い流され、森は伐り倒され、動物は絶滅し、地球は毒されてしまった。そして、いま七十億の人間が残されたがらくたを奪いあい、みじめな生活を送り--そして、まだ生み放題に子供を生んでいるんだ」(邦訳262ページ)
 幸いなことに、ヨーロッパや日本など先進国といわれる国では、豊かな食生活を営むことができ、子どもはそれほど生まれず、2000年の世界人口は60億5500万人と、本書よりもわずかに少ない。ただし、2010年を過ぎたころには、本書の予測の70億人に達するであろう。そして、慢性的な飢餓状態ともいえる栄養不足人口はすでに8億人を超えている。
 今はまだ笑い話である。しかし、私たちは10年か20年ほど引き延ばしているだけかも知れない。
 さて、少し笑おう。
 本書に登場する食べものを上げてみよう。
 日常食は、海草クラッカー、オートミール。海草クラッカーは、褐色、赤、青緑といろとりどりのものがある。
 新たな政府からの贈り物は、エナーG。ざらざらした茶色の粒には、ビタミン、ミネラル、蛋白質、炭水化物…が含まれ、「ないものは味だけか?」というところ。プランクトンの生成物。オートミールと一緒に煮て召し上がれ。
 ソイレント・ステーキ、ソイレント・バーガーは、セールがあると暴動が起こるようなごちそう。大豆(ソイビーン)と扁豆(レンテイル)のステーキである。
 病人には、ミートフレークを。西アフリカ産の大カタツムリを脱水して、放射線をあて、包装したもの。褐色の木ぎれに煮た肉片。
 闇市場でたいていのものは、高くても買える。ミルクはもちろん、豆乳ミルク。コヒは、コーヒーの代用品。魚はテラピア。肉は、市場では買えない。厳重に警備された闇肉屋には、犬の足から牛肉まで揃っている、もちろん、値段は極上。顔役に牛肉を買いながら、情婦の思いは、肉を焼いたあとの脂でオートミールを炒めたらさぞおいしいだろうということ。
 もちろん、腹を肥やした者たちは、ビール、ウイスキー、スパゲッティを食べることだってできる。極上のフレンチワイン・シャンパン…人工着色料香料甘味料炭酸添加だってある。
 どうだろう。こんなものを食べて生きていたいだろうか。私は、最後に肉がなくなってもかまわないが、ごはんを食べて死にたい。
 すでに、ミレニアムに入ってしまったが、ぜひ、SF史の中に位置づけておきたい一作である。絶版なのが残念。
(2004.7.15)

永劫

永劫
EON
グレッグ・ベア
1985
 1980年台後半のアメリカを中心とする西側陣営のソ連を中心とする東側陣営に対する技術的優位は決定的なものとなり、1993年にいわゆる「小破滅」が起こる。東西両側が導入した宇宙防衛システムは十分に機能せず、数都市が核攻撃にさらされ、400万人が死亡。両陣営ともただちに講和し、第三次世界大戦はのがれた。
 2000年、地球に小惑星が急接近する。その小惑星は中が空洞の宇宙船であり、都市であり、それは、別の時空から来た未来の人類であった。しかし、そこには人類の姿はなく、アメリカを中心とした調査隊は未来の「図書館」を発見。そこには、この時空の地球とほぼ同じ歴史が語られ、その不幸な未来までも記されていた。全面核戦争による大破局と核の冬、そして人類と地球の再生までの長い苦難の歴史。それを知ったアメリカ人数名は、徹底した秘密保持をはかる。まさしく、その未来史通りに現実が動いていたからだ。
 2004年のクリスマス後に、若き女性の天才物理学者パトリシア・ルイーザ・ヴァスケスは、調査隊の一員として小惑星ストーンにおもむく。「n次空間理論における非重力歪曲測地線:超常空間の視覚化と確率集合へのアプローチ」を博士論文として記した彼女は、小惑星ストーンのなぞを解くキーパーソンとして求められたのだ。小惑星ストーンの中には無限とも思える空間が広がっていたのである。
 迫り来る地球での全面核戦争の恐怖、ストーン内部でのアメリカとソ連の緊張と、侵攻をめざすソ連軍、異常な空間とストーンそのものの秘密。そして、異時空の未来人や異星人たち。想像もつかないような光景を、筆者はていねいに書き連ねていく。その光景は、書いてある文章すら理解できないぐらいに壮大稀有である。
 さて、本書が翻訳され、出版されたのは昭和62年7月、1987年。私は広島市内の大学を卒業し、大企業の広島支社に勤務を命じられ、卒業と同時に離れたはずの広島に舞い戻ったばかりだった。会社と新たに借りたアパートとの距離は約1km。会社は市の中心部にあった。私は、毎日アパートを出て、橋を渡り、橋の中央にある平和公園の原爆ドームを横目で見ながら会社勤めをはじめていた。まだ、バブル経済の狂乱にあり、仕事は毎日忙しく、深夜にはとぼとぼと平和公園を抜け、原爆ドームの横を通って狭いアパートへと帰った。
 1945年8月の原爆投下以来、この街は常に核兵器の恐怖を現実のものとしていた。1カ月暮らしてみるといい。テレビでは、被爆者であることを証言する証人探しが今も続けられている。早朝、ふとした街のなんでもないところにしゃがんでお参りをしている人がいる。40年以上たったその頃でさえ、核はこの街に深い傷を残していた。広島に来て5年目。。私は何度となく、核戦争の夢を見た。その後広島を離れたあとも、その夢は忘れた頃に眠りの中の私を襲った。
 本書は、冒頭の「プロローグ 4つのはじまり」の2章において、2002年にソ連軍の士官で宇宙兵士訓練を受けていたミルスキーが小惑星ストーンを見上げながら、いつかストーンをソ連のものにする決意を固め「それまでは、この国がなくなることはないだろう」としている。作者は、この一文で、のちに全面核戦争により、アメリカもソ連も事実上なくなることを暗喩しているのであろう。
 本書は1985年に出版されており、本書が書かれた頃は、1980年から合衆国大統領になったロナルド・レーガンがSDI(戦略防衛構想、スターウォーズ計画)を打ち出し、ソ連を悪の帝国と呼び、緊張が高まった時期であった。世界は、本当に核戦争の恐怖におびえていたのだ。
 しかし、1986年、ソ連にゴルバチョフ書記長が登場し、同じ年、アメリカではスペースシャトルが爆発し、ソ連ではチェルノブイリで原発が事故を起こし、現実の世界でのソ連は1991年末には崩壊してしまった。
 2004年の今、ロシア軍のなどの兵器管理に不安が持たれ、ABC兵器(核兵器、バイオ兵器、化学兵器)は、小国とテロリストの手に渡りつつあるものの、人々は、大破滅を本気で心配はしていない。だから、今、読む本書と、当時読む本書では、ずいぶんと受ける印象が違うことだろう。
 気楽に読めるだけ、幸いである。
 本書には、全面核戦争、無限とも思える空間、パラレルワールドの存在、異星人、未来人、データ化された人々、補助脳など、さまざまなアイディアが湯水のように使われている。のちのベアの作品にも登場するようなアイディアもある。本書の科学的記述をすべて、その空想部分も含めて理解できるほどの頭が私にあればいいのだが、読んでいると少々こちらが混乱してしまうのはくやしい限り。
 そうそう、本書には、続編「久遠」がある。残念ながら、ちょうど、私の人生の混乱期に翻訳出版されたため、いまだに読んでいない。17年ぶりに本書を再読して、むしょうに「久遠」が読みたい。本書の流れを忘れないうちに、古本を探しに行かねばなるまい。
(2004.7.12)