巨人頭脳

巨人頭脳
gigant hirn
ハインリヒ・ハウザー
1962
「ドイツSFの本邦初紹介」だそうだ。書かれたのは1958年で、著者の没年が1960年、出版が1962年、邦訳出版が1965年。翻訳者のあとがきによると、西ドイツではSFの用語があまり使われずユートピア小説、技術小説、未来小説などと呼ばれていたという。著者のハインリヒ・ハウザーにとっては処女SF作品で、死ぬまでの最後の作品となってしまった。そして、何を隠そう、この翻訳者こそ松谷健二氏である。そう、「ペリー・ローダン」シリーズを1971年から翻訳し続け、1998年に亡くなり続けるまで、ペリー・ローダンとともにあった松谷健二氏である。本書が、その釣書通り、「ドイツSFの本邦初紹介」であるならば、本書こそ、松谷氏が訳した最初のSFということにもなる。
 それだけでも感慨深い作品だ。
 さて、中身は、1975年のアメリカが舞台。もう30年前も過去の未来である。
 冷戦の中、軍事的優位を保つため、人間の25000人分もの能力を持つ巨大な人工頭脳を完成させた。軍事使用だけでなく、航空管制や交通管制、通信、機械製造などさまざまな分野を制御下に置く「頭脳」。主人公の生物学者が「頭脳」の自我意識と接触し、知能や進化、人間や神について議論する。やがて、「頭脳」は、人間を下位のものとみなし、自らが生きのびるための戦いをはじめる。それは、人間への敵対であった。
「頭脳」を疑わない科学者、軍人たちのなかで、主人公の生物学者はひるみながらも「頭脳」を破壊するための方策を考える。
 冷戦時、第三次世界大戦が現実のものとして語られていたころの気配が濃厚にただよっている。そして、専制政治に対する忌避感もまた、当時の空気を移している。
 それを除けば、人間をはるかにしのぐ処理能力を持った人工知能、機械の自我意識ものとして基本的な課題と恐れが描かれている。ホーガンの「未来の二つの顔」や映画「ターミネーター」の設定などにも通じる、SFのひとつの古典テーマである。
 真空管でできた機械の神。日本人ならば、手塚治虫の「火の鳥 未来編」などを思い起こすかも知れない。
 書かれた年が1958年であることを忘れれば、古めかしいバロックSFと呼んでもよい。
 でも、話の都合上やむを得ないとはいえ、蟻と白蟻を交配して新たな種を生み出すのは、当時の科学知識から考えてもちょっと無理な設定だと思うけれどな。
(2004.7.8)

猫と狐と洗い熊

猫と狐と洗い熊
CATSEYE
アンドレ・ノートン
1961
 最初、この作者に出会ったとき、名前から男性作家だと思っていた。今や、ノートンといえば、PC界の大物の名前になってしまったが、私にとってノートンは、SF作家のアンドレ・ノートンである。
 本書は絶版になって久しいが、創元推理文庫SFから1973年末に初版が出され、78年3月に4版を数えている。ちなみに、そのときの値段が220円となっている。
 遠い未来、2大勢力が星系間の戦争を続けている時代。暮らしていた牧畜の星を追われた青年は仕事にもことかく二等市民として日々を過ごす。割り当てられたペットショップの下働きの仕事が、彼を自立と誇り、苦痛と喜びに満ちた事件に巻き込んでいく。
 地球産の2匹の猫、2匹の狐、1匹の洗い熊と自然状態で精神感応することができる主人公トロイ・ホーラン。やがて、彼は、人間と動物の立場やあり方について考えることになる。そして、彼らとともに生き抜こうとする。
 おとぎ話である。SF風の。熱線銃や過去再生機なんていうのが出てきたりする。
 精神感応に動物の知能向上である。
 ジュブナイルにしては、ちょっと難しいかも知れない。
 主人公の周りに登場する「敵」のあるものは明らかに悪者だが、あるものは、悪いともいいともつかない。
 しかし、表現されている都市やペットショップや自然環境や異世界の風景はとても写実的で美しく、魅了される。
 そのなかを、猫が、狐が、洗い熊が、そして、人間が走り回り、飛び回る。
 素直な気持ちで読める一冊。
(2004.7.4)

火星のタイム・スリップ

火星のタイム・スリップ
MARTIAN TIME-SLIP
フィリップ・K・ディック
1964
 ディックの作品の中では作品そのものが「つじつま」のあわないことも多い。翻訳者泣かせであろう。本書は、ディック作品の中では「読みやすい」方である。
 何年ぶりなのだろう。読み返したのは。
 はじめて読んだとき、まだ、本書が舞台の1994年は遠かった。もちろん、そんなことはどうだっていいことだ。はじめて読んだとき、何を思ったのだろう。泣いただろうか、恐れただろうか、足下の床が抜けただろうか。
 生まれてから本書に出会うまでと、再読した今とではほぼ同じくらいの時が経っている。約20年ずつだ。
 はじめて読んだころ、僕は今より不安定で、世界は今より安定していた。今、私は安定しているつもりになっていて、世界は不安定さを増しているようだ。
 はじめて読んだころ、僕は現実の中にいただろうか。はじめて読んだ僕と、今の私はひと続きの存在なのだろうか。この本の中身はそのときと同じなのだろうか。いや、この本は黄ばみ、時を超え、私に、おまえはあのときこのページを開いたおまえと同じ者だが同じではない、変わったのは黄ばんだ紙と、おまえであるとささやいている。
 などということを書きたくなるのが、ディックの作品である。
 とりわけ、本書は、ディック初心者にはおすすめの、「怖い」本である。そして、「力強い」本である。疲れたとき、だめになりそうなとき、読むといい。また、20年後に、いやもっと早くに、再会しよう。
 たまには、あらすじを書いておこう。
 1994年8月、火星。火星の原住民ブリークマンは衰退し、地球から火星に移住してきた人間が少しずつ火星の砂と水不足の中を暮らしている。
ジャック・ボーレンは腕利きの修理工。ミスター・イーの下で働き、アーニー・コットに貸し出され、ドリーン・アンダートンに慰められ、マンフレッド・スタイナーを救おうとし、ブリークマンを助け、レオ・ボーレンに困惑し、シルビア・ボーレンの元に戻る。
ノーバート・スタイナーは、火星で唯一の健康食品訪問販売業者。アーニー・コットに闇食品を売り、ボーレン家の隣に住み、オットー・ジッドを雇い、マンフレッド・スタイナーをBGキャンプにあずけ、アン・エスターヘイジーに嫌な話を聞き、ミルトン・クローブ博士と話し、そしてバスに飛び込んで自殺する。
ミルトン・クローブ博士は、精神科の医師。マンフレッド・スタイナーを眺め、ノーバート・スタイナーと話し、アーニー・コットと会い、アン・エスターヘイジーを脅し、アーニー・コットを脅す。
オットー・ジッドは、ノーバートの事業を引き継ぐ。アーニー・コットの怒りを買い、シルビア・ボーレンと密会し、アーニー・コットを殺す。
レオ・スタイナーは山師。地球で火星のFDR山開発計画を知り、事前に土地を投機目的で入手すべく火星に来る。息子を諭し、息子に道徳を説かれても、目的は果たす。
アーニー・コットは、水利労組第四惑星支部組合長。アン・エスターヘイジーと結婚し、離婚し、子どもをなし、へリオというブリークマンで料理人の男と会話し、ドリーン・アンダートンを抱き、アーニー・コットを雇い、ミルトン・クローブ博士に話を聞き、マンフレッド・スタイナーの予知能力を信じ、FDR山開発計画を知るが手遅れになり、過去に戻ろうとし、マンフレッドの世界に飲まれ、再び現実に戻ったことを知らぬうちに死ぬ。
アン・エスターヘイジーは、ギフトショップを経営し、婦人連盟に属し、時事新報を発行し、政治活動に余念がない。アーニー・コットとの間に子どもをなし、ノーバート・スタイナーと話をし、フルートのような楽器を売り、BGキャンプに子どもを預け、アーニー・コットと話をし、ミルトン・クローブ博士に脅され、脅し、話し合い、マンフレッド・スタイナーをBGキャンプに戻すため、アーニー・コットを止めようとする。
ドリーン・アンダートンは、水利組合の会計担当。かつて地球で自殺した弟を持ち、アーニー・コットの愛人で、公認の内にジャック・ボーレンと愛し合い、マンフレッド・スタイナーを恐れ、ジャック・ボーレンと分かれる。
シルビア・ボーレンは、ジャック・ボーレンと結婚し、デイヴィッドを生み、育てる。隣家が嫌いで、友だちとコーヒーを飲みながらうわさ話をし、レオをもてなし、ロマンスを夢見、オットー・ジッドに出会い、招き入れ、友だちに電話をし、ジャック・ボーレンを許す。
マンフレッド・スタイナーは、自閉症で、時間軸が狂い、未来に生き、未来を恐れ、別の時間を手に入れ、ブリークマンとともに生き、かつて助けようとしてくれたジャック・ボーレンと、母親に会うため、あったかも知れない未来から挨拶に来る。
 ガビッシュシュも、ガブルも、ない世界を、マンフレッド・スタイナーは手に入れた。
 同時に、ジャック・ボーレンも、世界を手に入れた。彼は、がんばったのだ。自分を変えずに、信じるものを間違えないように、飲み込まれそうになりながらも、あらゆるものにすがりつきながらも。
 そう。どこでも、いつでも、ガビッシュは降ってくる。ガブルは止まない。
 いつだって、どこだって、気がつけば、ガビッシュに満ち、ガブルに悩まされる。
 避けるのに必要なのは、道徳ではない。神性でもない。
 日々の、ささやかな、ひとつずつの出来事であり、行いなのだ。
 そう、ガビッシュに気をつけたまえ。どこにでもそれはあるから。
 それが、今だから。
(2004.7.3)

星の海のミッキー

星の海のミッキー
BARBARY
ヴォンダ・N・マッキンタイア
1986
 ジュブナイルである。主人公のバーバリ(BARBARY)は、不幸の少女。孤児で、地球上のあちこちの家庭をたらい回しされ、いつもソーシャルワーカーにテストされていた。死んだ母の友人夫婦が宇宙ステーションに彼女を引き取ることになる。しかし、バーバリには誰にも言えない秘密が。地球に置いておけば処分される捨て猫のミッキー。宇宙ステーションまで密輸に成功したものの、新しい妹ヘザーと同室となることが分かって愕然。どうしよう! 一方宇宙ステーションは、異星船を発見し、秘密裏に接触するため、国連やアメリカ大統領などがこぞってやってきていて大混乱。
 もちろん、ご都合主義である。もちろん、最後は、なんとかなる。だから、どきどきしながら、安心して読もう。
 今回、再読で「夢の蛇」と続けて読んだのだが、共通するところも多い。主人公は最後まで努力を続ける。最後の最後に、本人には思いもよらない助けが来る。信頼している動物がいる。信頼できる仲間が同行する。物語のパターンである。
 ま、そういうことはどうでもいい。
 孤児、猫、新しい妹、秘密、大きな事件、大円団。
 いいではないか、いいではないか。
 宇宙ステーションでの生活や移動、感覚などの表現は手抜きしていないので、大人の人も楽しく読んでください。
(2004.6.30)

夢の蛇

夢の蛇
DREAMSNAKE
ヴォンダ・N・マッキンタイア
1978
 旅と成長の物語である。時は未来。場所は地球。核戦争が起こってずっと後の世。異星人がドーム都市「中央」に住む地球人と接触している時代。生命科学をほそぼそと守り、研究し、治療師を養成する田園地帯。治療師は3種の蛇を連れる。蛇は生きた化学工場として解毒、治療、そして、苦しむ人に夢を見させる。「スネーク」という象徴的な名を与えられた若き治療師は、砂漠地帯まで人々の治療に出向き、夢の蛇を失い、すべてを失い、希望を取り戻し、未来を希求し、夢の蛇とその秘密を取り戻すため、時々は苦しみの中に自分を見失いそうになりながらも、その時々に彼女を求め、彼女に信を寄せる人たちから希望を受け取り、前に進む。
 それは、旅の物語である。砂漠地帯、採掘地帯、山腹地帯、田園地帯、都市「中央」、破壊されたドーム…。夏から冬へ。見慣れぬ植物、違う文化の人々との出会い。傷ついた者たち、傷つけた者たち。
 それは、成長の物語である。人を救うことができるという自信。人を救うことができなくなったという絶望。人に信頼されるという苦しみ。彼女の一歩一歩が、彼女自身の軌跡であり、成長である。
 設定はありふれたものだ。小道具だってありふれている。それほど大きな事件が起こるわけでもない。世界の説明さえ、ない。ご都合主義かも知れない。
 科学は、人が使うものだ。知識は伝えなければ、生きることはない。
 このふたつだけを柱に、静かに治療師の旅が続く。
 短編でも十分な話だが、長編になってこそ、その長い旅に人々は感動する。
 ところで、本書を読んでいるうちに、キャラクターや風景が萩尾望都の漫画になってしまった。萩尾望都が書いたと言っても通じるような話なのである。
 萩尾望都の書く「スター・レッド」や「マージナル」などが好きな人には、特におすすめする。
ヒューゴー賞/ネビュラ賞受賞
(2004.6.28)

シャドウ・オブ・ヘゲモン

シャドウ・オブ・ヘゲモン
SHADOW OF HEGEMON
オースン・スコット・カード
2000
「エンダーズ・シャドウ」の続編。主人公は、エンダーの部下・ビーン、ペトラと、エンダーの兄ピーター・ウィッギン。前作「エンダーズ・シャドウ」はビーンの物語であった。舞台は主にバトル・スクールであり、ビーンのみが、子どもでありながら大人の社会を知り、大人と交渉し、生き抜くことを考え続けていた。ビーンは、異星人との戦争が終わった後、人類社会がふたたび分裂し、戦争につながる権力争いがはじまることを予見していた。ビーンはまた、バトル・スクールをはじめ少年将校として集められ、教育されていた戦略の天才児たちが、その国際政治に巻き込まれるであろうことも予見していた。
 それゆえにエンダーは、姉ヴァレンタインとともに、植民船に乗り、現代の地球から隔離される。
 本書は、ビーン、ペトラ、ピーターという子どもたちが、大人社会で子どもという「差別」を受けながら、社会に対峙し、対応し、生き延び、そして、自らの成長と、社会への関わりを深めていく話である。
 同時に、現在の国際政治の延長にある権力闘争ゲームでもある。著者があとがきで書いているとおり、「三国志」ゲームに似ている小説なのだ。
 主人公たちの成長はそのまま社会への関わりであり、権力闘争でもある。もちろん、そこに大人達の権力闘争があり、主人公たちは、その権力闘争に介入し、物語を成り立たせる。まさしく「三国志」である。
 近未来の話であり、ロシア、中国、インド、パキスタン、タイ、フィリピン、ブラジルなど現在の延長にある国家が実名で出てくる。だから、現在の、現実の紛争や国際政治との対比をどうしても考えてしまう。もちろん、著者も考えてのことだろう。
 著者であるカードは、アメリカに住んでいる。しかし、アメリカは、風景としてしか登場しない。アメリカへの皮肉は混ざっているが、本書を未来予測として考えるのは無理があろう。
 SFとして本書がおもしろいかどうか。それは、分からない。
「エンダーのゲーム」を読み、その結果、「エンダーズ・シャドウ」を読み、出ているから、本書を読んだのである。この続編はあと2冊用意されているという。出れば読むのだろう。しかし、本書が傑作であるとは思えない。「エンダーのゲーム」を読んだ人への著者からのささやかなプレゼントだと思えばいいのではないか?
(2004.6.22)

エンダーズ・シャドウ

エンダーズ・シャドウ
ENDER’S SHADOW
オースン・スコット・カード
1999
「エンダーのゲーム」の主人公は、エンダー・ウィッギン。非情な天才の兄と、心優しい天才の姉を持つがゆえに、本来許されざる3人目の子・サードとして生まれ出た天才児。期待通りに、天才であり、兄の完璧な攻撃性に加え、他者への真の理解・共感を持つ二重性のある存在として育ち、究極の兵士として育てられ、異星人との戦争を終わらせる指揮官となった少年。
 本書「エンダーズ・シャドウ」は、「エンダーのゲーム」に出てくるもうひとりの天才児であり、エンダーにもうひとりのエンダーとなる少年と見られ、それでもなおかつささやかな脇役であったエンダーより年下の少年ビーンの物語である。
 ビーンはエンダーの対極として語られる。いや、ビーンの視点で物語は進む。それは、「エンダーのゲーム」の謎解きであり、楽屋話である。わずかな情報から全体を構成し、推論し、理解するビーンゆえに、「エンダーのゲーム」の舞台は解体され、再構成されていく。「エンダーのゲーム」の読者にはたまらない物語である。
 この解体、再構成ゆえに、「死者の代弁者」からはじまる3000年先の未来シリーズとは別に、来世紀の国際政治を描く「シャドウ」シリーズが幕を開ける。
 異星人との戦争という事態にとりあえずの協調を果たした人類社会。しかし、その戦争は、エンダーらによって終わりを迎える。それは、同時に紛争と陰謀、欲望と私利に満ちた国際政治の再開でもあった。エンダーが、エンダーゆえに現実社会とは隔離され、姉のヴァレンタインとともに近未来歴史から離れたのに対し、ビーンは、もうひとりのエンダーとして、もうひとりのエンダーであるエンダーの兄ピーター・ウィッギンとの関わりを深めていく。おっと、これは、「シャドウ・オブ・ヘゲモン」の話であった。
 話を本書に戻そう。ビーンはスラム街で生まれ、飢えを知り、死を友にしながら、生き延びてきた。尼僧に救われ、エンダーと同じ国際艦隊に入隊することとなる。
 他者の愛を理解できないビーンと、他者の愛を教えようとする尼僧。
 物語の終盤、エンダーが異星人バガーを滅ぼすために次々と人類の乗った艦船を破壊していく中、それがゲームではなく、本当に人々が乗っていることを知るビーンはそれゆえの苦悩を知る。そこに聖書の一節が出てきて、あらためてカードが宗教社会の人であることを思い知らされる。カードは、モルモン教徒である。
 近年の作品には、初期の作品以上に宗教的愛や価値観が明確に語られる。
 それが、読みにくさになっているが、一方で、客観的に他者の倫理観、宗教観について理解することができるのもカードの特徴である。
 カードの宗教観、倫理観について、それを前提に読めば、語られている物語のおもしろさを減じることはない。カードはそういう部分を持つのだ。部分をもって全体を語る必要もない。もちろん部分は大切であり、私は常々「細部に神が宿る」と思っているので、カードの近年の作品に違和感はある。違和感を超えて言おう。カードはおもしろい物語を書く。そして、それは、現実の社会を理解するときに役立つ視点となる。
「子ども」「社会」「政治」「紛争」「倫理」といった、今、「壊れている」とされていることについて、カードは物語を書く。物語は、現実を解体し、再構成する力を持っている。カードがそのことを認識しているのは間違いない。
 なにやらややこしいことを書いてしまった。
 とにかく、「エンダーのゲーム」を読んだ後、「エンダーズ・シャドウ」を読むと、2倍楽しめることは間違いない。それ以外の、エンダーシリーズは無視しても、「エンダーのゲーム」を読んだ方には、一読をおすすめする。
(2004.6.20)

プタヴの世界

プタヴの世界
WORLD OF PTAVVS
ラリイ・ニーヴン
1966

「リングワールド」を代表作とする「ノウンスペース」シリーズであり、ニーヴンの処女長編である。22世紀初頭の地球。人口は180億人となり、小惑星帯には80万人の人口があり、地球社会とは独立し対立の関係にある。人類は太陽系外にも進出し、シリウスAの第三惑星ジンクスには、植民都市シリウス・メイタができていた。
 イルカには知能があることがわかり、テレパシー能力をもつ者との間でコミュニケーションがはかられつつあった。
 宇宙の支配者であったスリント人のクザノールは、宇宙船の故障により、宇宙服内部の時間を停止できる停滞フィールドの宇宙服を着て食糧惑星までの300年の旅を行い、救助を待つことにした。
 しかし、救助は行われず、15億年の時がたった。
 彼が埋まっていた星は地球。人類は、時間遅延のフィールドを発明し、クザノールとの出会いを果たす。
 惑星ジンクスには、巨大なプロントザウルスに似た単細胞生物バンダースナッチがいた。
 彼らは知性を持っていたが、クザノールの時代、それは食糧惑星のホワイトフードとして知性がないもののはずであった。
 なぜ、彼らは知性を持っているのか?
 スリント人はどこに行ったのか?
 そして、地球人とは?
 地球人はクザノールに支配されるのか?
 地球と小惑星帯の緊張は戦争になるのか?
 まだ、ノウンスペース・シリーズが構想されないまま、ニーヴンの処女長編は、なぞがなぞを呼ぶ形で進む。
 基本はエイリアンが地球にやってきて、地球人を支配しようとし、それに対抗するというエイリアンSFの王道である。しかし、そこに描かれる宇宙に人々はひかれ、作者もひかれ、複雑な宇宙が登場する。
「リングワールド」にむけて、今、世界が広がる。
 それにしても180億人かあ。大変だ。
(2004.6.15)

2022年12月再読
 遠い過去に地球に訪れていた異星人クザノールを目ざめさせてしまった。人々を支配する力を持つクザノールと、クザノールの精神に触れたことで自分がクザノールだと信じ込んでしまったテレパスのラリイ・グリーンバーグは、遠い昔にクザノールが隠した秘密兵器を求めて地球から宇宙船を持ち出して海王星をめざしはじめた。その2隻を追うのは、国連科学警察の無任所要員170歳のルーカス・ガーナー
 地球から届けのない宇宙船が飛び出したことで、小惑星帯の政治リーダーは危機を覚える。ルーカス・ガーナーは、人類を滅ぼしかねない力を持つクザノールを抑え、ベルターと地球の戦争を回避できるのか?
 そういう物語でもあった。

 古代遺跡として海の底で発見された不思議なゴブリン像。それは実は内部の時間を停止する停滞フィールドに入った宇宙人であった。生きているのか、死んでいるのかは分からないが、もし停滞フィールドが稼働したままであれば、中の宇宙人と接触できるかも知れない。
 この古代の遺跡から人類を超える力を持った何者かが登場・再生し、人類に混乱をもたらす、というのは物語のパターンである。SFであれば、高度な知性を持った異星人、未来人、過去の文明人、破壊的なロボットや異星生物、疫病等々。SFでなければ、神、天使、悪魔等々。
 そこからどのように物語を展開するのか?
 本筋の物語だけでなく、小惑星帯人が子供を無事に産むために開発した「出産小惑星」と、それに伴う社会のありよう、地球での限られた長寿人の生活など、異星人との大きな物語を背景にして描かれる太陽系時代の人々の物語がノウンスペースシリーズの魅力なのであろう。

エンダーの子どもたち

エンダーの子どもたち
CHILDREN OF THE MIND
オースン・スコット・カード
1996
「エンダーのゲーム」にはじまるエンダーシリーズのうち、エンダー本人のいる3千年後の世界を描いた「死者の代弁者」シリーズの第3部であり、「ゼノサイド」の後半と言ってもよい。邦題は「エンダーの子どもたち」であるが、原題は「心の子どもたち」という感じだろうか。
 ところで、「ゼノサイド」が出版されたのは、1991年で、邦訳が1994年。
 本書は、1996年に出され、邦訳は2001年。
 ちなみに、「エンダーのゲーム」の同時代続編となる「エンダーズ・シャドウ」は、1999年に出され、2001年に邦訳。「シャドウ・オブ・ヘゲモン」が、2000年出版で、2003年邦訳。
 ん?
 どうして、「ゼノサイド」の後編である本書の邦訳は、「エンダーズ・シャドウ」の後なのだ?
 勝手に想像してみよう。
「ゼノサイド」はあまり評判がよくなかった。しかも、本書は日本社会の影響を受けた惑星ディヴァイン・ウインド(神風)が登場し、登場人物には、ツツミ・ヨシアキ=セイジ氏などという固有名詞もある。第二次世界大戦や原爆への記述、著者謝辞やあとがきには、大江健三郎、あるいは遠藤周作の「赤い河」への記述があり、オボロ・ヒカリという名の哲学者が登場し、「あいまいな光」と名を持つではないかと指摘されている。
 日本文化や日本の宗教観について書かれた海外SFはたいていひどくけなされている。
 ゆえに、本書を出版しても、商業的にも、評判としてもうまみはないだろう。
 ところが、「エンダーズ・シャドウ」が上梓された。なかなかおもしろく、評価されている。シリーズ化されるようでもある。エンダーシリーズが続くならば、本書だけを翻訳しないわけにもいくまい。
 ということで、「シャドウ」シリーズが出たゆえに、翻訳されたのではなかろうか?
 ありがたいことである。
 そして、皮肉なことである。
 本書には、前出の惑星ディヴァイン・ウインドでの日本宗教文化とポリネシア文化惑星パシフィカのサモア宗教文化が登場する。周辺国家、中心国家の概念について語っている。物語に、これら「周辺国家」が大きく関わる。前3作に較べて、現実社会がわかりやすく投影されている。
 本書には著者あとがきがある。この文章が日本語版のためにつけられたのか、原著にあるのか不明である。著者はあとがきの中で、第二次世界大戦の日本について触れ、周辺国家、中心国家についての概念を整理し、アメリカについて考察する。そして、その考えが正しいかどうか未来にならないと分からないとする。
 本書邦訳が出版されたのは2001年2月。それから半年ほどのち、911が起こり、アメリカはその正体をあらわした。同時に、日本もその正体をあらわしつつある。
 本書の書くような日本は存在しない。
 本書は、そのタイミングとあとがきゆえに苦笑を持って迎えられる。
 SFが現実との接点を持ち、未来を語る限り、そのリスクは存在する。
 著者あとがきをつけなければよかったのに。
 と、物語について書くのを忘れた。死と再生の物語であり、エンダー・ウィッギンの3千年に及ぶ旅は死を赦されて終わりを告げる。
(2004.6.15)

ゼノサイド

ゼノサイド
XENOCIDE
オースン・スコット・カード
1991
「エンダーのゲーム」「死者の代弁者」の続編が本書「ゼノサイド」。直接には、「死者の代弁者」の続編にあたる。前作で、エンダーは「死者の代弁者」として惑星ルジタニアに降り立ち、ペケニーノ(ピギー)と人類の対話をとりもつ。さらに、エンダーが3千年探し求めたバガーの定住地として、ルジタニアを選ぶ。惑星ルジタニアには、すべての生命体を変異させうるウイルス・デスコラーデがあり、人類社会は、惑星ルジタニアを完全に破壊すべく、かつてエンダーが使用して以来使われたことのない究極兵器を積んだ艦隊を発進させる。それは、30年以上かけて惑星ルジタニアに訪れるであろう。そして、エンダーの姉、ヴァレンタインもまた、この新たなゼノサイド(異類皆殺し)の危機に、惑星ルジタニアを目指した。
 ということで、前作から30年後の物語。
 惑星ルジタニアのキリスト教社会。窩巣女王と、ペケニーノの第3の生にいるヒューマンとの対話。中国文化の影響を受け「道」を求める人々の社会である惑星パスのハン・フェイツー(韓非子)、ハン・チンジャオ(李清照)、シー・ワンム(西王母)の神をめぐる対話。
 神とは何か? 宗教とは何か?
 ゼノサイドを目前にした人々が、その生と死と存在を賭けて対話し、模索する。
 それは、苦しみであり、苦しみに過ぎない。
 苦しめ、苦しめ、苦しめ。神の前で苦しめ。
 その先にこそ赦しがある…そうだ。
 惑星パスの神は完膚無きまでに否定され、それゆえに、新たな神が生まれる。
 それにしても、ゆるぎなきキリスト教の神よ。
 異教徒にはついていけない神である。
 ついていけないがゆえに異教徒でもあるのだが。
 もうひとつ、変わらないテーマがある。
 権力と人である。本書と、続編「エンダーの子どもたち」があまりに宗教くさく、かつ、それがキリスト教と道教や神道を語るがゆえに見逃しがちであるが、「エンダーのゲーム」以来変わらないのが、権力と人のありかた、暴力と人のありかたへの問いかけである。
 これを見逃すと、読む気が失せる。
 これがあるゆえに、読むのである。
 権力が人をゆるがし、人が権力をつくる。
 そのことへの問いかけがある。
 対話ができない相手は殺しますか?
 殺されるならば、殺しますか?
 さて、本書「ゼノサイド」で、カードは、「フィロト」を提示する。それは神ではない。存在でもない。外側にあり、この宇宙(内側)に入って形となり、生命となり、意志となるものである。生命と生命を絡み合わせ、つなげるものである。
 手塚治虫が「火の鳥」で提示したコスモゾーンそのものである。
 フィロトゆえに、アンシブルが成立し、生命が誕生し、知性が知性と対話する。
 即時移動もまた、すべての本質がフィロトであることを利用し、内側を記憶し、外側を経由して、もう一度内側に再構成させることで可能になった。
 フィロトは神の本質か? それはわからない。
 かすかに、「ハイペリオン」シリーズの「エンディミオンの覚醒」のにおいがする。
 そして、エンダーは、エンダーであるゆえに、3つの肉体を生み出してしまう。
「エンダーの子どもたち」に続く。
(2004.6.15)