永劫回帰

永劫回帰
THE PILLAS OF ETERNITY
バリントン・J・ベイリー
1983
 宇宙観、あるいは哲学、あるいは宗教観というものは、人の人生や社会のありようまで大きく変えるものである。
 宇宙の時間はある日どこかで終わり、そして、まったく同じ時間軸で同じ宇宙が再生し、永遠にその繰り返しを続けている。だから、今、私が書いているこの文章も、そのときの私もまた、次の宇宙でまったく同じに再生される。繰り返し、同じ体験をするが、本人はそれを知ることはないはずだ。
 そんな哲学、宇宙観の世界で、ひとりの精神と肉体の機能を人工的に強化された男が、機能のバグゆえに苦しみ、痛みの正のフィードバックに放り込まれ、苦しみ、痛みゆえに死ぬことも失神することもできないまま、救い出されるまで痛みを、ふつうの精神では耐えきれないまでに感じ続けた。彼は救い出され、その機能を与えた組織から、生きるために必要な手段を与えられ、ふたたび自由になる。
 しかし、彼はもはや自由ではなかった。同じ苦しみ、同じ痛みを次の宇宙で自分が再び体験することに耐えられなかったのだ。彼は、宇宙観、哲学、そして、それに基づく物理法則にまでも立ち向かう。時間の流れを、未来の、次の宇宙のありようを変えるのだ。次の宇宙で自分が存在しなくてもかまわない。ただ、あの苦しみ、痛みの再生を終わらせたいのだ。必ず。どんなことをしても。
 進んだ科学力を持つ放浪惑星には、必ずこの宇宙の真理を解き明かす鍵が、時間を超える、宇宙の再生を超える鍵があるはず。
 彼は、ただひたすら、自分の未来、すなわち、自分の過去を変えるために、宇宙観、あるいは哲学、あるいは真理、あるいは物理法則に敢然と立ち向かう。
 そして、究極の喜びと、究極の苦しみと、なにかを得るのだ。
 この作品そのもののありようがよく分からないが、読んでみるとどことなく悲しい物語である。
 究極の痛みが拡大しながら永遠のように続くのって、字面だけでもいやだなあ。
(2004.9.16)

いまひとたびの生

いまひとたびの生
TO LIVE AGEIN
ロバート・シルヴァーバーグ
1969
 先日帰省したときに、実家の本棚に残してあったSFのうち1冊を手に取り、空港までのバスと飛行機と帰りのバスの車内で再読したのが本書である。つい先日、「時間線を遡って」を読んだばかりで、ちょっとシルヴァーバーグ熱がともっていたのだが、なんと、本書と「時間線を遡って」は発表年が同じであった。このころのシルヴァーバーグは多作であったのだ。
 さて、本書は「ドノヴァンの脳髄」(カート・シオドマク 1943)以来、「ハイペリオン」の現在にいたるまでSF、ホラー系の変わらぬテーマである、精神乗っ取りもの。今では、ヴァーチャルリアリティなどを軸にした作品が多くなっているが、本作は、ホストとなる金持ちが、死んでしまった金持ちの人格を自分の脳にデータとしてパーソナ移植し、その智恵や経験、感性を自分の人生に生かす技術である。人格を保存しておきたい金持ちは、最低でも半年に1度、自分の記録を保存する。死んだら最新のデータだけが使われるのである。
 90億人の人口のうち、記録しているのは8千万人。1%未満である。
 中には、2人、3人のパーソナを脳に移植しているつわものもいる。
 ところがどっこい、パーソナの中には、強力な個性、人格を持つ者がいて、ホストを乗っ取ろうとするものもいる。もちろん、ホストの乗っ取りは違法であり、検察官が取り締まり、パーソナを消去してしまう。パーソナによるホストの乗っ取りをディバッグと呼ぶ…。
 今、ひとりの経済界の大物が死んだ。成り上がりの経済人が彼のパーソナを手に入れようとやっきになる。大物の親族は彼のパーソナを成り上がりものの商売敵にだけは手渡すまいとこれまたやっきになる。策謀の中に振り回されつつも、欲望に燃える男たち、女たち。自分の役に立つパーソナを頭に入れたところで、人間の行動はそんなに変わるものではないのだった。
 本書もまた、「時間線を遡って」同様に、現代において読んでも古さを感じさせない作品である。本書は、現代的なテーマである人格と記憶の永久保存と再生について書いているだけに、一歩間違うととたんに古さを感じるはずだが、うまくまとめて、現代的なテーマを際だたせている。
 もちろん、パーソナの保存方法やホストへの移植など、脳の正体と、記憶、感性、経験のともなう智恵については、今を持ってよくわかっていないことが多すぎるので、本書のハードな部分が荒唐無稽であっても、今のところそれほど気にはならないのだが、やがては気になることだろう。
 それにしても、本書は、最先端の技術が結局は人口の1%に満たないものたちのための道具であり、それ以外の多くの人々にとっては、手に届くことのないものであることを見事に書き示している。エンターテイメントと社会批評、あるいは、挿入した技術による社会と人の光と影のバランスのとりかたが優れた作者だったのだ、若い頃のシルヴァーバーグは。
 本書は、すでに入手困難な作品となっている。しかし、現代的なテーマだからこそ、今、読んで欲しい作品でもある。
(2004.9.16)

時間線を遡って

時間線を遡って
UP THE LINE
ロバート・シルヴァーバーグ
1969
 SF界のポルノグラフィティである。
 時間旅行とタイムパラドックスものの古典でもある。
 しかし、やはり、本書は、SFの鬼門、セックスを扱った古典として、私の頭に焼き付いている。
 まだ中学生の頃に買ったのである。もう、どきどきものであった。あふれるセックス描写、遠いご先祖様や女王様との濃厚なセックス、濃密な愛。こんな本を読んでいるなんて知られてはならない、ということで、表紙はないのである。表紙といっても、真鍋博氏によるもので、ささやかなかわいらしい小さな女性のヌードがちょいと載っていたぐらいなのだが。手元にないのがまったくもって残念。
 今読むと、ポルノというほどでもないんだが、それは、今が21世紀になっているからで、当時は1970年代だったのだ。携帯電話もインターネットもない、ビデオゲームがようやく世の中に普及しだした頃のことだ。ヌードだって、ちょっとでも毛が出ていると発禁だったのだ。
 さて、本書の話だが、西暦2060年代、ひとりの若者が、時間サーヴィス公社のガイドに就職する。それでもって、自分のルーツ探しをするうちに、ご先祖様のひとりに惚れ込み、いてもたってもいられなくなり、猪突猛進。ところが、彼の客が勝手に時間旅行をはじめてしまい、別の時間軸でそのご先祖様を自分の妻にしてしまった。主人公は、タイムパラドックスを避けながら、元の時間軸に修復しようとやっきになる。同じ時間サーヴィス公社の警察部門であるタイムパトロールに見つかる前になんとかしなければならない。
 しかし、やればやるほど時間線はこんがらかって…。
 タイムパラドックスの王道をいく作品である。
 私は、この作品で、イスタンブールがかつてコンスタンチノープル、あるいは、ビザンチウムと呼ばれていたことを知り、トルコにずいぶんと憧れたものだ。そして、やがて、その思いは私自身をイスタンブールに運ぶこととなる。古い古い、そして、新しい、混沌とした街でした。
 ところで、本書は、「真の友 アン・マキャフリィに」と、あのマキャフリィに捧げられている。「歌う船」「パーンの竜騎士」など女性に大人気の女性が元気なSFを書く、あのマキャフリィである。たしか、シルヴァーバーグの方が年下だと思うが、おもしろい作品を彼女に捧げているものである。再読しないと見つけられなかった一文であった。
 ちなみに、私がマキャフリィを読み始めたのは、ずいぶんと最近のことで1990年代のことである。
 時間旅行ものでは欠かせない一作としておすすめです。
(2004.9.16)

第五惑星から来た4人

第五惑星から来た4人
FOUR FROM PLANET 5
マレイ・ラインスター
1959
 東京創元社1965年5月初版、1977年7月24版! 当時の価格240円。もちろん消費税など影も形もない。12歳か13歳の頃に買った文庫本の1冊である。当時は、それほどお小遣いもなく、田舎の本屋は3軒で、SFの数はほんのわずか。タイトルと価格と本の厚さを見比べながら、どれを買うか迷った記憶がある。本書は、買ってからおそらく1回読んだだけで、今回再読するまで30年近く放ったままになっていた。
 時は流れる。
 ということで、タイムトラベルものである。
 主人公がタイムトラベルをするのではなく、迎える方である。
 内容としては、「なぞの転校生」(眉村卓)と、「創生期機械」(J.P.ホーガン)を足したようなものを思いっきり50年代風にした感じ…かあな。
 50年代終わりのSFということで、冷戦の世相を強く反映している。
 アメリカ、ロシア、反アメリカ連合の3どもえのにらみ合い。核戦争への恐怖と一触即発の危機。微妙なバランスの中、途方もないエネルギーを発して「宇宙船」が南極に墜落する。
 そこから出てきたのは、現代のどの言葉とも違う言語を話す人間の子ども4人。常温超伝導を使った様々な道具。
 彼らを真っ先に見つけた南極で隕石の軌道計算を行うアメリカの研究者ソームズ君、南極基地を取材に来ていた美人記者のゲイルさんは、彼ら4人を助けようとするとともに、彼らが母星である過去の第五惑星に連絡をつけたら、地球を侵略するに違いないと、彼らの通信手段を破壊する。
 アメリカ軍は、彼らを隠し、技術を手に入れようと試み、ロシアはアメリカを疑い、マスコミは、異様な姿のエイリアンが侵略を開始したと騒ぎ立てる。
 本書は、相互確証破壊の状態で”新しい技術”というひとつの要因がいかに世界を危機に陥れるかというテーマでソームズ君を悩ませ、苦しませる。
 と、同時に、地球規模に広がった商業主義的マスメディアが大衆と政府に与える影響の大きさについて、皮肉を交えながら書き表す。
 このふたつにおいて、本書は今も読む価値がある。
 ただし、ストーリー展開は、ホーガンも真っ青のご都合主義である。
 ソームズ君がゲイルさんへのつのる想いの間に繰り出す、驚異的な推理力と発明力と行動力は驚異的である。ソームズ君は知らず知らずに世界を救うのである。まいっちゃうなあ。
 まさしく、古き良き、50年代、60年代。
 主人公が私事や本当に自分がやっていることが正しいかどうか悩みながらもきっちりと世界を救うあたりに、ウルトラセブンや仮面ライダー、鉄腕アトムなど60年代、70年代前半の日本の特撮、アニメに流れるものと通じるものを感じてしまう。
 絶望と希望が相反しながら同居する時代だったのだ。
(2004.8.30)

タウ・ゼロ

タウ・ゼロ
TAU ZERO
ポール・アンダースン
1970
 もし、加速を続けられる宇宙船があり、減速が困難になり、操舵だけは効くという状況になったら、どんなことになるだろうか。船は、星々から見て、少しずつ光速に近づいていく。船内の人々からみると、宇宙とは切り離され、銀河を、銀河群を、飛ぶように過ぎていくことになる。そして、やがて、宇宙は老いていく。彼らはどこまでいくのか…。
 壮大な物語である。
 ちょっと地球の隣を訪問するつもりが、事故により減速できなくなってしまったがゆえに、時空の放浪者となるのだ。地球に暮らす我々から見れば、永遠を旅する者になってしまった。もちろん、地球に暮らす我々に、彼らがどうなったのか知る余地もない。
 SFにしかできない話である。
 我々の主観による数年で、時空の果てから果てまで旅をするのである。
 愕然である。呆然とする。
 しかも、船の中では、50人の男女が愛憎を繰り広げるのだ。
 簡単に本書「タウ・ゼロ」筋を追うと…
 20世紀末に起こった核戦争後、世界は秩序を取り戻し、スウェーデンを軸とした世界体制が確立、その後、宇宙技術の進歩で、アルファ・ケンタウリ、エリダヌス座イプシロン、タウ・セチ、くじゃく座デルタ星などの有人探査を行ってきた。レオノーラ・クリスティーネ号は、50人の男女を乗せ、最新のバザード・エンジン(恒星間ラムジェット)を使って、おとめ座ベータ星の第三惑星に向かう。この惑星は、これまででもっとも移住に適したと観測されており、彼らは彼らの主観時間で5年かけて旅をし、もし、移住に適しているならば、移住基地建設隊となり、すぐに移住ができないのであれば、ふたたび主観時間5年をかけて地球に戻ることになっている。もちろん、地球の時間では、彼らは31年かけて旅をし、帰りもまた同様の年月が過ぎ去るのであるが。
 男女25人ずつで構成された研究者、航法士、士官、警護官たちは、長い旅の中で様々な人間模様を繰り広げる。しかし、主観時間3年後に事故が起こり、減速装置が破壊されてしまう。バザード・エンジンは生きているが、修理のためエンジンを切れば、宇宙船の保護も切れるため、宇宙にある水素分子などにより宇宙船が破壊されてしまう恐れがある。修理をするためには、物質がまったくといっていいほど存在しない空間まで宇宙船を飛ばすしかない。それは、銀河系と銀河系の間にある空間だった。しかし…、しかし…、しかし…。
 挫折しながらもあきらめない乗組員。確実に言えるのは、その一秒一秒が、すべての人間社会、地球からの断絶を意味すること。宇宙の孤児となったことへの絶望は深まるばかり。希望はあるのだろうか…。
 本書「タウ・ゼロ」は1970年に発表されているが、プロットは、1967年に発表された中編にあるという。つまり、1960年代後半の宇宙論と科学技術の状況を前提にしている。当時の最新の宇宙論が反映されている。2000年代の今となっては否定されている内容ではあるが、それでもおもしろさは減じない。
 本書が翻訳出版されたのが1992年。宇宙論ブームの頃である。その当時に読んでもやはりおもしろかった。今もおもしろい。
 いわゆるハードSFに分類されるもので、ちょっと難しい説明なども出てくるが、読者には「読み飛ばす」という離れ業もある。
 一緒に永遠の先にあるところまで旅をしてみませんか?
(2004.8.28)

ナイトサイド・シティ

ナイトサイド・シティ
NIGHTSIDE CITY
ローレンス・ワット=エヴァンズ
1993
 標準地球歴2365年頃、エータ・カス星系の第三惑星エピメテウス。エータ・カスにはふたつの太陽があり、エピメテウスは、自然のささやかな気まぐれで自転が止まっていた。その夜側は居住可能であり、夜側の広大なクレーターはナイトサイド・シティと呼ばれていた。エピメテウスには、貴重な鉱山があり、ナイトサイド・シティは、鉱夫と観光客を相手にする歓楽街である。
 しかし、100年以上前にエピメテウスの自転は止まっていないことが判明。ナイトサイド・シティは、24時間ごとに138センチメートルずつ、人間が入植してからはじめての朝に向かっている。それは、ナイトサイド・シティの終わりの朝。すでにクレーターの縁は明るい光に満ちている。金のある人間は、開発の進んだ惑星プロメテウスに逃げていく。金のない人間は、シティの終わりを数えながら、最後は鉱山での肉体労働をするしかないとため息をつく。
 カーライル・シン。女性。私立探偵。エピメテウス生まれ。兄ひとり。妹ひとり。両親は、若い頃、子どもたちを捨てた。妹は、すでにエピメテウスを離れ、兄はカジノで働いている。自分の主義は変えない。以前は、シティの中心部で営業していたが、ある事件以降、中心部を追われ、朝に近い西側で客を待っている。安く、どんな仕事でも引き受け、確実にこなす私立探偵。しかし、人の逃げていく惑星で、彼女の仕事は少ない。
 今日も、ルイの店にいくこともままならず、仕事を待っている。
 やってきた仕事は、西はずれのただ同然のクレーター壁そばの居住者。失業者たちが絶望視ながら暮らす町の男。資産価値もない西はずれの土地や建物を何者かが買い占め、家賃をつり上げ、人々を追い出そうとしているという。探偵に払える金は夕食2回分がやっとの金額。カーライル・シンは、それでも仕事を引き受ける。誰が、なぜ、なんの目的で人が住めなくなる直前の土地を買うのか? 興味があった。それに、はした金でも金は金である。
 調べるほどにわからなくなる動機、なぞ。誰も死んではいない。金にもならない。
 ヒュンダイ製の知性体タクシーに乗り、人脈をたどり、ネットにもぐり、大型の銃で脅し、だまされ、殺されかけ、共生体を失い、そしてみつけた真実。
 ハードボイルドである。主人公の一人称である。タフでなければ生きていけないのである。優しくなければ生きる資格がないのである。
 格好いいのである。
 SFが好きで、ハードボイルドが好きならば言うことがない。
 ハードボイルドが好きで、SF的な用語が気にならなければ、読む価値がある。
 さらり、と読めて、にやり、とする。エンターテイメントはこうありたい。
 たまに、重たいSFに疲れると、本書「ナイトサイド・シティ」を読み返したくなる。
 こういうのはハリウッド映画にぴったりだと思うのだが、どうだろう。最近、SFの映画化がはやっているようだし。
(2004.8.25)

メド・シップ 祖父たちの戦争

メド・シップ 祖父たちの戦争
DOCTOR TO THE STARS
マレイ・ラインスター
1964
 遙かなる未来、遙かなる宇宙。人類は様々な星に植民し、版図を広げていた。星間医療局のカルフーンは、宇宙動物トーマルのマーガトロイドとともに、担当の星々を4から5年に1度巡回し、現地の厚生責任者の話を聞き、公衆衛生と個人医療情報を提供する。しかし、非常事態には特別出勤を行う。とはいえ、宇宙は広い。光速を超えるオーヴァードライブ技術をもっても、数カ月かかることがある。
 そして、現地では…。
 カルフーンはただの医者とは呼べない。公衆衛生の専門家の枠を超え、世代間の紛争、経済侵略のための謀略の解決、世界の救済さえも行う。日本の誇るブラック・ジャックも真っ青である。もちろん、公衆衛生の専門家で、手術はしないが。
 ヴァン・ヴォークトの「宇宙船ビーグル号の冒険」に出てくる、ネクシャリスト(情報総合学=ネクシャリズムの専門家)のような活躍ぶりである。
 本シリーズは、短中編シリーズで、本書には3編が掲載されている。表題作「祖父たちの戦争」に、「住民消失惑星の謎」「憎悪病」である。このほか、「惑星封鎖命令」に3編、「禁断の世界」に2編が所収されている。しかし、残念ながら、私は本書を古書店で入手したのみである。
 本書は、1960年代のSFだが、このころの、ジュブナイル的な作品は読んでいてほっとするところがある。宇宙を縦横無尽にかけめぐる主人公。その相棒の異星人や異星生物たち。さまざまな太陽系と、惑星の驚異。自然も生物系もいかしている。登場人物は、裏がなく、白黒はっきりしていて、動機や精神の葛藤なども素朴なものである。80年代以降の複雑かつ文学的なSF作品群に比べれば、同じページ数でも半分以下の時間と集中力で読めてしまう。荒唐無稽な宇宙ではあるが、それでも、たとえば本書では、世代間の考え方の違いの類型化や、集約化、機械化された畜産の問題、医療という権力などについてふと考えさせる力も持っている。
 最近では、スティーブン・グールドの「ジャンパー」や「ワイルドサイド」が、良質のジュブナイルSFとして紹介されているが、そこに出てくる主人公は、現実と非現実の間で悩み、揺れ動き、決して代替不能なヒーローではない。良くも悪くも現代的なのである。
 勧善懲悪がいいとは言わない。しかし、時に、人は最後に解決されるということが分かった状態で、すっきりと終わりを迎えるために読みたいときがあるのだ。
 本シリーズのカルフーンは、超越的なヒーローではない。スーパーマンでもなければ、超能力者でもない。しかし、小型の堅牢な医療宇宙船エスクリプス20に乗り込み、マーガトロイドをおともに、ずばっと惑星の悩み事を解決するあたり、やはりヒーローなのである。
 のこりの2冊も読んでみたいなあ。
(2004.08.17)

フリーウェア

フリーウェア
FREEWARE
ルーディ・ラッカー
1997
「ソフトウェア」「ウェットウェア」に続く、ラッカーの「ウェア」シリーズ第三弾。ついに時代は、2053年までやってきて、3シリーズ共通の登場人物スタアン(ステイ=ハイ)ムーニーは、なんと上院議員様。妻のウェンディのクローン肉は、クローン牛、豚、鶏とならぶ、人気食材の時代。
 カビイこと、特殊な樹脂と地衣類のようなものでできたハッピー外套は、モールディと呼ばれて、地球上でも市民権法で市民としての権利が保障されている時代。ムーニー上院議員の働きかけは絶大だ。
 シリコン製のCPUがおしゃかになった後には、カビイを利用して、モールディのような知性のないDIMがなりかわり、パソコン兼電話兼インターネットはユーヴィとよばれる、生体針のないハッピー外套となって、ほとんどすべての人が利用するインフラとなっている。
 つまり、肉人間とモールディが相互に憎みあいながら生存し、地球では肉人間(われわれだ!)、月ではモールディが強い状態でなんとか存在していた。しかも、そのインフラは、モールディと同じ素材。
 かくして、肉人間とモールディのぬたぬたねとねとりんりん物語が幕を開け、便利さと不愉快さの間で、人々は文句を言ったり、麻薬におぼれたり、遊んだり、働いたり、倒錯したりしながら生きているのであった。
 ところが、ちょっとした変態天才のアイディアで、宇宙の生命の本質を見つけてしまったところで、エイリアン騒動まで勃発。もう、地球圏は人間とモールディでいっぱいだってばさ。どうする、どうする。
 スタアン・ムーニー、今回も、元上院議員なのに…らりらりでなみなみなのだった。
 本書では、前作よりもラッカーの本職である数学的なアイディアとそのSF的援用が行われている。そういうのもおもしろい。
 それにしても、「ウェア」の世界は、わずか50年で、ものすごく変になっている。
 もし、今、ラッカーの50年後の未来にタイムトリップしたら、気が狂いそう。
 50年前、1955年頃に、今にタイムトリップしたら、やっぱり、ものすごく変で、気が狂いそうになるだろうか。パソコン、インターネット、携帯電話、フリース、ペットボトル、冷凍食品、無菌パック、遺伝子組み換え植物、クローン動物、生命医療、HIV、BSE、抗生物質耐性菌、プラスチックと電子機器に取り囲まれた社会と生活…。どうなんだろう。
 さて、本題。フリーウェアって何だ?
 コンピュータを動かしているのは、プログラムなどのソフトウェア。地球生命圏の生物を動かしているのもソフトウェア?
 コンピュータは、シリコンと金属でできたものだからハードウェア。地球生命圏の生命は、水と有機化合物などでできているべちょべちょぬたぬただから、ウェットウェア。
 どこかの天才たちがつくるソフトウェアがフリーウェア。プログラムやデータやコンテンツもフリーウェア。でも、本書に出てくるフリーウェアはそればかりではないようで、フリーウェアな存在ってなんだ?
 答えを探して、本書を開いてみるとおもしろいことになるのは請け合い。
 ところで、すでに、「ウェットウェア」は本書出版(ハヤカワ文庫SF2002年3月刊)の時点で絶版だそうだ。続編の「リアルウェア」もあるのに…。
 みんなで読んで、頭をりんりんにして、早川書房に気持ちを入れ替えてもらおう。
 おっと、真の変態の性生活なんてのも出てくるから、お子さまは要注意。頭に花を咲かせないように…。
(2004.08.13)

ウェットウェア

ウェットウェア
WETWARE
ルーディ・ラッカー
1989
 前作ソフトウェアの世界から10年後、2030年の月世界。知性を持ったロボット”バッパー”は、内戦の間に彼らがつくった月都市を人間に追われ、さらに地下に潜ることとなった。人間はふたたび月の主導権を持ち、バッパーを亜人間として虐げる。しかし、バッパー側も負けてはいない。あるものは、人間の脳に遠隔操作ロボットを入れて肉人形として使う。そして、人間をはるかに凌駕する新しいバッパーの開発をめざす。あるものは、人体を培養し、パーツを販売して利益を得ながら研究を続け、バッパーのソフトウェアと知識を持った人間、マンチャイルを生み出す。しかし、人間は、知性を持つ人間以外の存在を許したくなく、ましてや、人間の姿をし、生殖能力を持つマンチャイルなど許し難いことであった。
 と、あらすじの一部を書くと、すごくまっとうなSF小説のように見えてくるから不思議だ。もちろん、まっとうなのだが、そこはそれ、ぶっとび数学者/SF作家のラッカーである、一筋縄ではいかない。主人公は、年をとってオジン化したスタアン・ムーニーこと前作のぶっとび登場人物ステイ=ハイ。前作の最後でハッピーエンドに迎えたはずが、つい間違えて最愛のウエンディを殺してしまい、月に逃げて私立探偵をやっている。
 今回のだしものは、”マージ”人体を一時的にどろどろに溶かして、融合させることができる麻薬である。ひとりでもふたりでもさんにんでも大丈夫。どろりどろどろ、一緒にバスタブで溶けようぜ。しばらくしたら元に戻るから。
 もうひとつのだしものは、バッパーが開発したマンチャイル。ディックの小説に出てきたことがあるような、美しく生殖能力にたけた、成長がとても早く、環境から学習するより前に、内なる知識とソフトウェアから学ぶ能力を持つ男たち。
 さらに、バッパーを追いつめようと開発された、チップカビ。効果は絶大。さらに、副産物が生まれる。前作でステイ=ハイが大好きだったハッピー外套とチップカビが融合して、”カビイ”になり、あら大変、今度こそ本当に「地球の長い午後」のアミガサタケになっちまう。
 これまでのSFへの不朽の愛と、「すべて」は「ひとつ」というラッカーの、いや、ラッカー世代のサブカルチャーの思想信条をひっさげて、やりたい放題の一冊に仕上がっている。
 書かれていることの本質は、ラブアンドピースである。
 人間とバッパーとマンチャイルとカビイと肉人形とソフトウェア/データの集積体”S-キューブ”…、知性って、生命って何ぞ。
 私たちは、どこまで、分かり合えるのか、どこまで分かり合ったら、存在を許し、認め合えるのか。分かり合い、認め合うことができる存在なのか?
 ラッカーは、問いつめる。
 読む私は、問いつめられながらも、その文体とスピードに酔いしれる。
(2004.8.8)

ソフトウェア

ソフトウェア
SOFTWARE
ルーディ・ラッカー
1982
 数学者、SF作家で、価値観破壊者のラッカーを深く印象づけた作品である。はじめて読んだときには、ぶっとんだ。ちょっと古いが、吾妻ひでおが「不条理日記」を発表し、とり・みきをはじめ、SF界、漫画界に衝撃がはしったときと同じような印象だ。出版されたのは、1989年で、サイバーパンクという言葉が市民権を得たころのことである。もちろん、本書は、サイバーパンクには位置づけられていないが、サイバーパンクとディック的な世界の融合をみせる独自で特異なラッカーというジャンルが存在することを世に示した作品である。
 文体は、りんりん。
 内容は、老人達が住む町に、月から人間そっくりのロボットがやってきて、人間になりかわってみたり、脳みそからデータをすいとってみたりしている。主人公のひとりは、ロボットに突然変異と適者生存を取り入れ、あげくにロボット三原則を解き放ち、自立を達成したロボットのラルフ・ナンバーズを生み出した元科学者のじじい。脳みそをすりつぶされて、ロボットの中に転生する。もうひとりの主人公は、ラリラリの青年。ドラッグ大好きのステイ=ハイで、月の博物館で生まれたてのハッピ外套、明滅被服のハッピー外套を首と頭の回りにまきつけたところ、あらま大変、ロボット達と会話も交わせる、時間も分かる、頭もすっきりしちゃう。結局はハッピー外套が殺されて、またいつものラリラリに後戻り。
 ラルフ・ナンバーズは、ヒューゴー・ガーンズバックの「ラルフ124C41+」からとったものだろう。もっとも、124C41+は人間だが。ハッピー外套は、ブライアン・オールディーズの「地球の長い午後」に出てくるアミガサタケそっくり。「地球の長い午後」のときにも書いたが、この体に巻き付いて針を神経系に入れ、その結果、宿主の知能を向上させるというアイディアはSFの伝統芸になっている。
 このふたつの例に限らず、アジモフのロボット物をはじめ、過去のSFへの愛とオマージュにあふれた作品である。もちろん、お上品な愛とオマージュではない。ラッカー文体と、1970年代ヒッピー文化、サイケデリックのテイストあふれるセックス、アルコール、ドラッグ、暴力に満ちた内容が、ねじくり、こねくりまわしている。
 だから、すうっと楽しめる。
 ディック的な世界なのだが、ラッカーにかかると、重さも暗さもない。
 楽しいぞう。
 ちなみに、本書の舞台は2020年、ロボットが叛乱を起こしたのは2001年である。
 でもって、2020年の世界は、
 ”老人が多すぎる。この連中の人口突出が、四〇年代と五〇年代にはベビー・ブームをもたらしたのだし、六〇年代七十年代には若者革命、八〇年代九〇年代には大量失業を招いた。今や、時間の情け容赦ない蠕動運動によって、この人類の塊が二十一世紀に運ばれ、どんな社会も出会ったことのないような老人の大荷物になっている。
 この連中は、誰も金を持っていない-ギミイは、すでに二〇一〇年には社会保障を使い果たしてしまった。えらい騒ぎだった。新種の高齢市民が現れたのだ。フィーザー-異常爺婆(フリーキー・ギーザー)だ。”(22ページ)。ギミイは政府のようなもの。
 ラッカーは、1946年生まれ。日本でいうところの団塊の世代である。日本でもそうだが、アメリカでも世代の人口突出は問題なのである。日本の団塊の世代は、80年代には落ち着いてしまい、比較的お金のある世代になっているけれどね。社会保障の将来は似たような者になるかも知れない。
 本書の中で、ロボットが破壊されて死に、別の機体にデータやプログラムなどをダウンロードして再生するシーンと、人間が脳みそから記憶をはじめ人間のソフトウエア群を抜き取られて死に、ロボットにダウンロードされて再生するシーンが出てくる。そこでは、再生されると忘れてしまうが、「存在」として生命の個と全体がある。ハードウエアはその入れ物であり、ソフトウエア(プログラムと記憶など)はその表現に過ぎないとラッカーは提示する。「全体はひとつ」である。
 生命のありようについては、多くのSF作家が、その哲学、死生観、宗教観などに沿って様々なものを提示する。SFのいいところは、科学技術や地球とは異なる状況を表すことで、生命の本質について一般の文学よりもわかりやすく、可能性を表現することである。
 あなたは、脳みそをすりつぶされて、機械の体にデータをダウンロードされても、あなたであり続けるだろうか。
(2004.08.01)