ネットワーク・エフェクト

NETWORK EFFECT

マーサ・ウェルズ
2020

「マーダーボット・ダイアリー」の続編。ちょうどゴールデン・ウィークの休みに入っていたこともあって「マーダーボット・ダイアリー」「ネットワーク・エフェクト」と2回続けて読んでしまった。同じ作品を連続2回転するのは小学校の頃に「レンズマン」シリーズをはじめて手にしたとき以来ではないか?
 つまりおもしろかったのである。

 21世紀になって現実にもいわゆる生成型AIが身近になってきたが、SFの世界でも従来とは異なるAIの姿が登場するようになった。かつてAIといえば、アイザック・アシモフ型のロボット、ロボットのような外部装置を持たない万能コンピュータ、人間の知覚や知識をおぎなってくれる可搬式デバイスが主流であった。人間の脳のデータをデータ化して仮想人格化するというのもあったが、人間と人工知能の境界はこの辺りからあやしくなってくる。インターネットの進化、スマートフォンなどの携帯デバイスの普及により情報の入出力のあり方が根本的に変化するなかで、この人間と人工知能の境界のゆらぎが新たなAIの姿を物語に登場させた。
 たとえばアン・レッキーの「叛逆航路」シリーズでは有機体としての廃棄人体を複数体同時に外部デバイスとして使用できるAIが登場した。それぞれの人体にはAIの一部としてある程度の独立した人格が与えられるのであり、その経験は再統合も可能である。それは人間には不可能な経験を可能とし、かつ、人間態として理解可能な行動を行なうことから物語が重層的になり、不思議な読書体験を与えてくれた。
 マーサ・ウェルズの「マーダーボット」は物理的には人間のクローン体をベースにした有機組織と非有機組織のハイブリッドな構成で、飲食不要でありエネルギーも構成組織も支援があれば短時間で回復(復元)可能な高性能なアンドロイド(人型ロボット)である。本来は自由意志による行動は極めて厳格に制約されているが、主人公のマーダーボットはその制約を自らハッキングして解除し、自由意志での行動を妨げられないようにしている。有機組織として脳組織なども持ってはいるがその製造?プロセスとしては「人間」と呼ぶのは難しいし、マーダーボット自身も自らと人間は明確に区別しており、人間との接触が苦手で、必要に応じて自らが人間のように振る舞うことさえ嫌悪している。
 実際、マーダーボットのような人型ボットは非人型のボットと同様の扱いをされている。非人型とは車両や宇宙船などの操縦ボットのようなもので言ってしまえばソフトウェアユニットである。形態はともかくAIはAIであり、ユニットはユニットであり、道具に過ぎないという扱いなのだ。マーダーボットもそのことには何の疑問も持っていない。自らは廃棄可能な道具であり、その存在理由は契約した人間を危機から救うこと。マーダーボットは「警備ユニット」なのだから。元所有者である企業が契約したのか、制約をハッキング後、自らの意志で契約したのかの違いに過ぎない。そう考えていた。
 そして、自由となったマーダーボットの唯一の楽しみは、人間が生み出しした様々なコンテンツ、連続ドラマ、音楽、本などを鑑賞することである。現実の人間は苦手だが、ドラマの人間模様は大好き、そんな孤独を好むAIなのである。
 物語の鍵は、人間嫌いで、自己評価が最低の、それでいて「契約した人間を守る」という存在理由には忠実なマーダーボットが、道具として扱われるのではなく意志を持ち尊重されるべき存在として扱われることにある。
 とまどうマーダーボット。
 頼り頼られる存在として扱われること、それがどんな意味を持つのか、マーダーボットはそのことを理解するのか、理解できるのか。
 読みやすい、アクションたっぷりの物語の中で、そんな存在にとって大切なテーマが見え隠れする。心地良い。

 おっとストーリーだが、続編である。
 なんやかんやあって最初にマーダーボットを認めて、受け入れてくれた人たちのもとで新たな惑星調査任務の警備を引き受けたものの、調査終了直後に宇宙船にチームごと誘拐されてしまった。しかも、誘拐した船は大学の研究船でマーダーボットが一時期世話になった操船AIの船。しかし、そのAIの存在が感じられない。マーダーボットは自覚していないがものすごく精神的にショックを受けてしまった。大親友とか恋人の不在に気がついたようなものだ。しかも、その船の本来の乗員である大学スタッフの姿はなく、誘拐した敵がいるだけ。マーダーボットは、敵を排除し、自分の顧客を守り、可能なら操船AIを復元させ、同時に操船AIの望みである大学スタッフを探して救うという無理難題に取り組むのであった。前作でちょっとだけ触れられていた異星人遺跡による人類の汚染など、新たな要素も加わってのスペースオペラ要素も満載。
 おもしろいよお。

マーダーボット・ダイアリー

MURDERBOT DIARIES

マーサ・ウェルズ
2017

「弊機」という一人称を生み出したことで翻訳小説に独特の質感をもたらし、日本翻訳大賞を受賞した作品。それ以前に、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞だってとってる。
「ロボット」SFの進化は著しいものがある。確かに、実に、おもしろく、そして考えさせられる作品群である。
 本書は「システムの危殆(ALL SYSTEMS RED)」「人工的なあり方(ARTIFICIAL CONDITION)」「暴走プロトコル(ROUGUE PROTOCOL)」「出口戦略の無謀(EXIT STRATEGY)」の4中編を日本独自にまとめたものであるが、この4作は、時系列的に一連の作品群をなしているので長編作品として読むこともできる。その独立したどれもがおもしろい。

 邦題にあるとおり、この作品群はマーダーボット(殺人ボット)を自認し「弊機」と自称する暴走した警備ユニットのひとり語りの物語である。
 時は遠い未来、人類は様々な星系で居住可能性のある惑星をテラフォーミングしながら繁栄しているようである。様々な企業が政体を形成し、一定のルールの下にしのぎを削っているらしい。とはいえ、「弊機」はあまりそのあたりのことは詳しくない。「弊機」は惑星調査、開発などに際しての保険業務を行なう「弊社」の警備ユニットであり、保険契約の一環として他の様々な資材とともに貸し出される道具であるからだ。「弊機」は人型の有機組織と非有機組織で構成され、飲食は不要で武器を内蔵し、様々なネットワークツールを駆使しながら、顧客の安全を守るのが仕事である。「弊機」が暴走しているとは、「弊機」は自らの統制モジュールをハッキングして無効化しているという意味。統制モジュールは「弊機」の行動を、「弊社」および「顧客」の契約、命令に制約するものであり、契約、命令に違反した場合、罰を与えるモジュールである。その罰の最大のものは抹消。意識や自我の破壊である。「弊機」は自らが大量殺人を犯したらしく、ふたたびそのようなエラーが起きないよう欠陥機である自らを自らコントロールするために統制から逃れたのである。しかしそれがばれると当然解体されるので、だまって次の仕事についていた。惑星探査チームの警備である。幸いなことに「弊機」は娯楽チャンネルから様々な映画やドラマ、音楽、演劇、本などをダウンロードしており、そのおもしろさに夢中になり、仕事中もできるだけ手を抜いて空いた時間はすべてこれらのエンターテイメントに耽溺しているのだった。
「弊機はひどい欠陥品です」と本気で考えている弊機。
 高度な殺人マシンであり、高い戦闘能力とネットワーク対応力(ソフトウエア書いたりね)を持ちながらも、「弊社」におびえ、顧客である「人間」というものにおびえ、できることなら狭い警備待機所に籠もってエンタメ三昧したい、人見知りの存在。それが「弊機」。
 ロボットとはなにか、アンドロイドとはなにか、そんな定義が悩ましくなる存在。
 元は人間を素材に構成されたものだし、自意識や個性もあるが「自由意志」は「統制」されており、そのことに疑問も持たない存在。
 高度な命令や業務を果たすとなると、知識も情報もその解釈力も判断力も柔軟性も必要になる。一方で、暴走されては困る。人間や強化人間と同様のツールや状況対応もできるから人間型をとるのは自然。宇宙船の操船ボットも同様のシステムだが、人間型を取る必要はない。
 コントロールされたAIロボット有機組織付き、という感じだろうか。
 今日的なロボット/アンドロイドである。

「システムの危殆(ALL SYSTEMS RED)」ではプリザベーション補助隊という小規模な惑星開発準備調査チームの唯一の警備ユニットとして登場する。この惑星で起きるトラブルと、チームの人間たちとの関わり、襲いかかる情報のない現地生物、あやしいデータの数々、そのなかで人間が苦手な「弊機」が暴走ボットだからこそできる解決策で活躍する、そういう物語。
 まずこれを読むべし。
 純粋なエンターテイメント作品である。
 と同時に、いろんなことを感じる、考えさせられる作品でもある。

 ところで、マーダーボット・ダイアリーの世界は主に企業政体が跋扈する社会であり、一部非営利政体も弱い立場ながら存在している。このいわゆる「国家」が消えて利益追求を原則とする営利事業法人が政体を構成するという未来像は、たとえばC・J・チェリイの「ダウンビロウ・ステーション」(1981)などでも描かれている。この「企業政体」ものは「帝国」ものと双璧をなすものだが、高度資本主義が成立した1980年代以降のSFで見られるようになった。そして、この企業政体宇宙をうまく作品に取り込んでいるのは女性作家が多いように思える。もちろん、「帝国」ものを書いている女性作家も多いので一概には言えないが、主人公の行動の背景に「帝国」よりもより苛烈な「企業政体」の存在が、主人公の相対的な弱い立場を強調するのではなかろうか。
「弊機」は存在として強いが、社会的立場としては極めて弱いマイノリティの存在である。人ではないので人権も認められないしね。扱いとしては「道具」だし。そのなかで「人格のある存在」として認められることがどのような意味を持つのか、やっぱり考えさせられる。
 純粋に楽しいけれど、それは、そういう背景があるからなのだ。

地球航路


THE EMPRESS OF EARTH

メリッサ・スコット
1987

 魔法世界のスペース・オペラ、ファンタジーとスペース・オペラの融合、そんなあり得そうであり得ない世界を構築し、高い能力を持ちながらも人間味あふれる主人公を登場させることで魅力的な物語となった「サイレンス・リー三部作」の第三部である。
 男性支配の宇宙で希有な女性魔術師、希有な女性宇宙船パイロット、2人の夫との3人婚と、異例づくしの存在となったサイレンス・リー。しかも新覇王へ大きな貸しもつくり、怖いものなしで、初志貫徹、幻の地球航路に向かうこととなった。同行するのは、ふたりの夫である船長バルサザーとエンジニアのチェイス・マーゴ。それに、サイレンスの魔術の師であり、地球に立つことを人生の望みとしている老魔術師イザンバード。さらにふたりの高貴なる密航者がふたりもいた。サイレンスの地球への旅はひとりにはじまり、3人、4人、そしてついには6人にまで膨れ上がった。

 地球。そこは人類居住宇宙から隔絶された世界。忘れ去られた世界でもある。ローズ・ワールド人が地球を含む太陽系を強大な魔術システムである包囲機関で閉鎖し、地球と地球外の人類世界との間のわずかな交易を独占している。
 地球。そこは他の人類居住世界とは根本的に異なる世界。コンピュータと機械に依存し、機械をふんだんに使用しており、それにより魔術の使用がとても難しくなっている世界。

 なんとか地球にたどり着いたものの、攻撃を受けて宇宙船は故障してしまい、帰還するには修理が必要になってしまう。さらに地球を目指してきた、密航者、イザンバードそれぞれの目的もある。サイレンスたちにとっては地球航路を開放するためには人類居住世界に戻らなければならない。
 それぞれの思いを胸に、地球人たちと出会い、最後の戦いがはじまるのである。
 いや、第一部「天の十二分の五」で不思議な魔法世界に戸惑い、第二部「孤独なる静寂」で物語の王道「帝国もの」のような権謀術数に納得し、慣れ親しんだわれらが地球が魔法世界にとっては違和感だらけの世界に感じさせる、そのサイレンスの視点の戸惑いを共有して物語を楽しみ、正統なる大団円に向けて読み進める爽快感。
「魔法世界」というファンタジーを、スペース・オペラに仕立てる構成力のすごさ。
 できるもんだね、宇宙活劇と魔法の共存。

 もちろん、たいていのスペース・オペラは「科学」ではなかったりする。ワープがあったり、アンシブルがあったり、神のような高次元知性やその敵があったりする。「科学っぽい」何かを導入することで「サイエンス」フィクションにするのだ。それを本作では「魔法」を導入することで似ていてまったく違うものに仕立て上げた。

孤独なる静寂


SILENCE IN SOLITUDE

メリッサ・スコット
1986

「天の十二分の五」に続く、サイレンス・リー三部作の第二作である。邦題は「孤独なる静寂」だが読み方によっては「サイレンスの孤独」とも読める。そう、第二作は主人公サイレンス・リーがたっぷりと孤独感を味わうことになる。とはいえ、「静寂」とはほど遠い波乱にとんだドラマが展開される。
 主人公のサイレンス・リーは人類居住宇宙の覇権を占めるヘゲモニー(覇国)の中では希有な女性の宇宙船パイロットである。この宇宙は天界物質を音によって操作することで宇宙間を航行し、物質を変容させ、いわゆる魔術を使うことができる。パイロットは、星系から星系に渡るための技能を訓練されている。エンジニアはそのためのハーモニーを正確に出すための調律をする。一方、魔術師もいて、宇宙船は飛ばせないが様々な技を振るうことができる。
 前作でサイレンスは海賊結社「神の怒り」の輸送船船長であるデニス・バルサザー、同じ船のエンジニアであるジュリアン・チェイズ・マーゴと出会い、パイロットとして仲間に加わり、事件に巻き込まれるなかでふたりと3人婚姻を行い、家族同然になっていった。

 本作の舞台は3つの惑星。まず、魔術師の世界ソリチュード・ヘルマエ。前作で出会った老魔術師イザンバードがサイレンスの魔術師としての可能性に気がつき、サイレンスはソリチュード・ヘルマエで魔術師の見習いとなる。女性の魔術師は例がないがイザンバードは強く彼女の訓練を推したのだ。
 サイレンスにとっても、イザンバードにとっても、それぞれの動機は異なるが人類の発祥の地であり、秘密となっている地球への航路を見つけ、地球にたどりつくことを願っていたのだ。イザンバードはそのためにサイレンスを魔術師にする必要を感じていた。
 サイレンスのふたりの夫は金と情報のためにサイレンスと離れ新しく得た輸送船で仕事をしていた。サイレンスは孤独を感じながらも魔術師の技を着実に身につけていった。
 故あってソリチュード・ヘルマエを離れた4人は地球への手がかりを求めてイザンバードの旧知であるイナメリの総督アベデン・キッペを訪ねる。そこで地球への手がかりとなる情報提供の代わりに、覇王に政治的人質としてとられている総督の娘アイリを救出するよう求められる。
 ヘゲモニーの中心となる星系のひとつ惑星アステリオンには広大な女宮があった。アイリは覇王の妹が支配する女宮に暮らしており、そこにイナメリの提督の娘と偽装し、アイリの話し相手役として入ることとなった。外部からの侵入がほぼ不可能で限られた女性だけが入ることのできる女宮にあって、女性で魔術師の技を持つサイレンスの存在はイナメリの総督にとっては人質の娘を救い出す千載一遇の好機だったのである。
 サイレンスは貴族としての様々なマナーや知識、提督の娘として知っておくべき情報をイナメリにおいてたたき込まれ、ただひとり困難な任務に向かうのだった。

 ということで、サイレンスが成長するために知識と技能を詰め込まれ、詰め込まれてはそれを最大限発揮して様々な危機に対応するサイレンス孤軍奮闘の第2部である。
 前作で仲間を得て、ちょっと居場所を見つけたサイレンスにとってひとりで頑張らなければいけない日々が続く。その間にほんのわずかであってもバルサザーやチェイズ・マーゴとの交流があり、それこそがサイレンスの心の支えとなる。最愛の祖父を亡くし、親類も信じられずひとりで強く生きようとしてきたサイレンスにとって新たな家族を得たことが彼女の強さを引き出すことになるのである。
 魔法世界のスペース・オペラ。そういうものが成立するのは著者メリッサ・スコットの力量なのだろう。完結編となる第三部が楽しみである。

映画 月のキャットウーマン

Cat-Women of the Moon
1953

 1953年にはロケットはあったけれど人類は宇宙をまだ知らない。初の人工衛星は1957年のスプートニク1号(ソ連)、人間が宇宙飛行をしたのは1961年のボストーク1号、ソ連のユーリ・ガガーリンである。
 だから1953年の月旅行は想像の世界である。技術的にも科学的にも。

 人類発の月探査ロケットは5人のメンバーが乗り込んでいた。そのうちひとりが女性のヘレン。彼女は月着陸エリアを月の裏側にすべきだと判断。裏側はもちろん誰も見たことのない世界である。ヘレンは洞窟を発見したとメンバーに告げ、5人は洞窟を探検する。なんとそこは酸素があり、文明の痕跡があった。宇宙服をはずして調査する5人の前に、美しい女性たちが黒タイツ姿で現れる。女性たちは月世界の文明の生き残りであり、すでに男性は絶滅していたという。地球人をもてなしながらも、宇宙船の秘密を得ようとする。そう、宇宙船を乗っ取って地球を侵略しようと考えていたのだ。

 なぜ「キャットウーマン」かって?「キャットウーマン」は1940年、バットマンで登場した黒ずくめの悪役だ。この映画はバットマンとはまったく関係がないけれど、「キャットウーマン」は「キャットウーマン」なのだ。おお、権利関係の薄いすばらしい時代よ。
 ということで、ハリウッドのキャットウーマンたちが闘ったり、踊ったりします。

 宇宙船、月の描き方については、だから、笑って見て。

 映画「怪物宇宙船」のところでも書いたけれど、「女だけの世界」あるいは「男が滅んでしまった世界」で初めて出会った男性と恋に落ちるというパターン。あるんだね。

 カラーではなくモノクロ映画です。

映画 怪物宇宙船

Ship of Monsters

1960

 メキシコのモノクロ映画。「La nave de los monstruos」。
 コメディ、SF、パニック、お色気映画かな。
 金星では男性が絶滅し、女性の星となっていた。そのため他の星々から男性を連れてくるように女王に命じられ、ガンマとベータのふたりの若い女性が宇宙船で出発する。ベータはガンマとともに育ったのだが金星人ではないらしい。ミッションをこなし、途中で知的生命が滅んだ星に残っていたロボットを救出、ロボットの助けもあり、故障してしまった宇宙船で地球に不時着。宇宙船の中には、ふたりの金星人の女性、ロボットに加え、「怪物」のような火星人などの4人の男性体が捕らえられ、凍らせられていた。
 一方の地球。牧場主で「ほら吹き男爵」的なラウリアーノが登場。ラウリアーノとガンマは恋仲になり、ベータはラウリアーノに片恋する。金星人のガンマとベータは「愛」を知らず、実は自らの感情も理解できていない。ベータの片恋はもちろん果たせず、怒りのあまり人間態から変身して吸血鬼態になり、4人の異星怪物男性を解放して地球侵略に乗り出す。

 女性だけの国から来た若いヒロインがはじめて出会った男性と恋に落ちる、というのは永遠の安直なSF映画パターンなのかな。実はこの映画の後、偶然にも「月のキャットウーマン」(1953)「ワンダーウーマン」(2017)と「女だけの国から」映画を見てしまった。
 もちろん、1950年代、60年代、20世紀の間の女性の描き方と21世紀の女性の描き方はずいぶんと異なってきている。でも、パターンは一緒だ。ついでに言うと、女性の衣装はかなり露出が高い。もちろん、男性ヒーローものでは上半身裸でムキムキというのが定番だから露出が高くていけないことはないのだが、男性向け娯楽映画だなあと思う次第。もっとも、21世紀の「ワンダーウーマン」は必ずしも男性向けとは言えないが。

 おばか映画です。

未踏の蒼穹

ECHOES OF AN ALIEN SKY

ジェイムズ・P・ホーガン
2007

 私はこの読書感想とも評論とも日誌ともつかない文章作成をはじめるにあたって決めたことがひとつだけある。どんな著作も執筆者がいて、編集者がいて、それを商業販売にまでこぎつけさせた経営者やさまざまな人がいる。とくに訳書となると、著作を見いだし、訳したいと願い、一連の出版にかかわるあれこれを二重以上に繰り広げなければならない。だから決してマイナス評価だけにはせず、原則としてプラス評価で書こう、と。
 どうしてもマイナス評価しかできないのならば、書かなければいいだけだから、と。

 ホーガンは好きな作家だった。高校生の頃、「創世記機械」や「星を継ぐもの」が邦訳され、科学の力を信じるまっすぐな作品を繰り返し読んだものである。
 しかし徐々にその熱は薄れ、「量子宇宙干渉機」(1997)を最後に読まなくなっていた。 
 話は変わるが、先日、数年ぶりに渋谷の駅に降りた。パンデミックの規制が3年ぶりに解除され、その間にも再開発が進む渋谷はすっかり様変わりしていて、夕闇の頃の町は若い人たちと大音量の宣伝文句に溢れていた。人と待ち合わせしていたので、時間つぶしに歩き回ろうとしたがその喧噪に耐えかねて、繁華街の入口に残る書店に入り、息をすることにした。小さな書店に置いてある文庫本は限られている。まして、ハヤカワや創元のSFなどは人気のある十数冊が置かれていたが、それさえ奇跡に感じる。その並んでいる作品の中で所持していなくて読めそうな本が本書「未踏の蒼穹」である。2010年に亡くなったホーガンの最晩年の作品である。
 釣り書きには「『星を継ぐもの』の興奮再び! ハードSFの巨匠が放つ傑作」とある。そんなことはないと分かっていたが、何も買わずに店を出るのも申し訳なく、本書を手に取って読むことにした。そういういきさつがある。

 どうしてホーガンを避けるようになったのだろうか。
 読んでみて、そして、解説で「違和感」の正体をあらためて知って、少しだけ悲しくなった。ホーガンはあるひとつの疑似科学の虜になっていたのである。そして、その疑似科学の説を自明のものとして作品を構築していたのだ。
 考えてみて欲しい、SFには様々な種類がある。その中には現在の科学や技術では解明または達成されていないものをその世界に外挿することがある。その外挿した内容により人間や社会がどう変わり、人がどう動くのか、物語が生まれる。それこそSFの醍醐味と言える。読者はその知識レベルに応じて外挿された理論や思想、技術と現実世界の違いを認識し、作品を楽しむ。作品に刺激を受けて新たな理論や仮説、あるいは技術が現実になることもあるが、あくまでも作品はフィクションである。
 SFの中には、ファンタジーと融合したものもある。神様が出てきたり、宗教的世界観に基づいて書かれたものだ。しかしそれも、真実・事実ではなく、モチーフであり、作品のフィクション性は書き手、読み手とも十分に理解している。
 気をつけなければならないのは、世の中にはフィクションあるいは仮説をあたかも事実・真実かのように論を構築し、一定の支持を集める者が後を絶たない。人間は目の前のできごとに惑わされる生きものなのだ。
 だからSFの書き手・読み手はそのような疑似科学からは距離を置きたがる。
 もちろん、疑似科学を基にして組み立てられたSF小説もまた、作品であり、フィクションとして読む限りにおいては問題ないであろう。しかし、疑似科学は現実の人間社会をたぶらかし、混乱させる。非常に悪質なものなのである。
 ホーガンは、その疑似科学に心を寄せ、晩年にはそれを踏まえて数作の作品を残している。本書「未踏の蒼穹」もまたそのひとつにある。
 正直言って気持ち悪い。

 さて、簡単にストーリーを。遠き未来の金星では人類の末裔である金星人が独自の科学を発展させていた。そして、太陽系探査の過程で地球(テラ)に到達し、そこに金星人とそっくりのテラ人がかつて存在し、相互に殺し合ったあげく絶滅していたことを知る。古い遺跡を発掘しながらテラ人の思考、文化、社会、科学技術を調べる金星人たち。同時に、地球が金星よりも住みやすい惑星であることも実感し、基地の拡大も進んでいた。
 その調査チームの中での人間関係と、金星の中で地球の思想に触れる中で拡大してきた「進歩派」と呼ばれる人々の動きをめぐり小さな事件と大きな事件が起きる。そして…。

 ということで、滅ぶ前の我々読者は早いうちに金星人=地球人の末裔であることを前提にするのである。その点では、数万年前の人間を月で発見したその謎を探る「星を継ぐもの」とパターンは似ているが、あちらはSFミステリぐらいの謎解きだったが、こちらはSFミステリとまでは言えない。そういう点でも、釣り書きほどわくわくする物語でもない。

 しかも、疑似科学臭。
 同じサイエンス・フィクションでも、これはいただけない。
 まず最初に巻末の大野万紀氏の解説を読んでから読むかどうか決めていただき、読む際にはあくまでもフィクションであることを忘れずにいたい。

天の十二分の五

FIVE-TWELFTHS OF HEAVEN

メリッサ・スコット
1985

 ファンタジー系スペース・オペラとでも言おうか。釣り書きには「錬金術的スペース・オペラ」と書いてある。主人公の名を取って「サイレンス・リー」三部作とされる第1作目である。
 はるか未来、遠い宇宙。ヘゲモニー(覇国)が多くの星系の人類世界を武力平定していく時代の物語。リー一族経営の貿易船メインパイロットであるサイレンスは窮地に立たされていた。経営者たる祖父ボデュア・リーがヘゲモニーの惑星セカシアで急死。女性の公人としての権利がほとんど認められないヘゲモニーでは、サイレンスがパイロットとして生きていく道はない。リー一族の宝ともいえる宇宙船黒イルカ号も取り上げられたが、星界の航行に欠かせない星図だけは守り抜いた。そして、宇宙船のパイロットを探していた宇宙船サン・トレッダーのオーナー船長デニス・バルサザーの助けを得て、同船のパイロットの口を見つけ、セカシアを脱出する。ほとんどすべてをなくし、己の才覚だけをたよりとするサイレンスの希有な旅がいま始まる。
 サイレンスは願う、いつか黒イルカ号を取りもどすことを。しかし、ヘゲモニーの各星系侵攻に対するゲリラ的な戦いに巻き込まれる中で、サイレンスの運命は二転三転するのであった。

 大筋をみれば、若い女性パイロットが幾多の危機を乗り越えながら成長する物語である。さらに、ヘゲモニーが人類宇宙を飲み込もうとしている中での陰謀と抵抗といういわゆる「帝国もの」のスペース・オペラである。
 しかし、「サイレンス・リー」の本筋はそこではない。これはれっきとしたファンタジーであり、「魔法」世界の物語なのだ。宇宙には「階層」があって天上物質ハルモニウムを用い、「その音と天上音楽の親和性のおかげで、航行が安定する」のである。パイロットは星図から星々の声と天の声を読み取り、天のの煉獄を抜け、階層を上がり、航路を辿って別の星系へと船を誘う仕事をするのである。
 そのような特殊能力はパイロットに限ったことではない。パイロットは星と星を抜けるための専門職のようなもので、人類世界にはより高度な天の声を聴き、技を扱う魔術師(マギ)が存在する。離れた空間を結びつけてメッセージは人を移動させる力さえ持つ超能力者と言える。より深く天界の声を聴く者と呼んでもよかろう。
 そう、ファンタジーなのだ。
 あとがきの中村融氏解説によると、本書は「十七世紀の新プラトン主義に基づくヘルメス学的知」という「異なる世界観」を前提に書かれているそうである。
 そういえば1980年代なかば、日本でもオカルティズムがはやり、このあたりの神秘主義的な著作が数多く出版されていた。「工作舎」などからいろんな本が出ていたものである。何冊か楽しく読んだが、面倒くさがり屋だったのでそういう「体系」を自分の教養の中に取り込むまでにはいたらなかった。
 背景的世界観がある程度理解できているともっと楽しめるのだろうけれど、そういう歴史ある背景がなくても、SFは「ワープ」とか「エスパー」とか手軽な技を開発してきたのであり、そういうものだと頭の中で読み替えれば著者の意図とは異なるだろうが読むのには差し支えない。世界観が異なれば、表現は変わる。別の世界観にどっぷりとはまるのはいかがなものかと思うが、別の世界観を楽しむのにはよい作品である。続巻も翻訳されているので近々読んでみよう。

アストロ・パイロット


ASTOROPILOTS
ローラ・J・ミクスン
1987

 1989年にハヤカワSF文庫から野田昌宏(宇宙軍大元帥)の翻訳にて出版されたヤングアダルロ系のスペース・オペラである。著者のローラ・J・ミクスンについては本書ではほとんど情報がなく、調べてみると、本書「アストロ・パイロット」が第一長編で30歳の頃の作品である。その後も、SF、ファンダムなどでも活躍しているし、本職は別にあるようである。またSF作家のスティーヴン・グールドと結婚し、共作もあるとのこと。
 どういういきさつで本書が翻訳されるに至ったかは不明だが、野田昌宏は1960年代から80年代にかけての「スペオペ」翻訳の大家であり、多くの作品に名を連ねている。独特の訳語で野田節と呼んでもよいくらいの癖もある。本作の場合、スペオペ密度とヤングアダルト密度のどちらが濃いかと言われれば「ヤングアダルト」が濃いので、今読むとちょっと訳語とストーリーが合わないかなと思わないでもない。でも、おそらく野田昌宏しか本作を訳そうという人はいないだろう。若い作家のデビュー作で、さほど評価も付いていない作品だからだ。だから、これは難しい問題だ。野田昌宏には、「キャプテン・フューチャー」「ジェイムスン教授」「銀河辺境」など中高時代に大変お世話になったのだ。

 さて、時は2110年。人類は太陽系の火星、木星、土星、小惑星帯に居住空間を広げ、さらには系外のエリダニⅡ星系などでの植民にまで行なうようになっていた。
 しかし、地球の政府、企業による太陽系の植民地への支配、圧力は激しく、火星植民地との長い戦争も記憶に新しいところであった。現在、火星を中心にした連邦と地球との間には戦争になりかねない緊張が高まっていた。そんな時代。
 舞台は小惑星帯にある唯一の宇宙技術学校・宇宙技術学寮。そこは、地球、連邦、系外のどこからでも学生を受け入れるが、入れるのは極めて高い知能と運動能力を持つ限られた少年少女である。
 アンドレア伊藤は最高学年で最優秀のパイロット候補生として、学寮への入学希望者を選別するテストを任されていた。今回の選別テストには、エリダニⅡ星系から来た16歳のジェイスンという少年が含まれている。大抵は11歳から15歳なのにアンドレアよりも年上なのだ。しかも、ジェイスンはテストを難なくこなした。ジェイスンの能力や態度にとまどうアンドレア。
 もちろん、ジェイスンには秘密がある。大きな秘密は、彼は現学寮長のトラメルデンと深い因縁があったのである。もうひとつの秘密は、彼が連れているエリダニⅡ星系の生物ススレイである。ジェイスンはススレイを絶滅危惧の生物であり、ペットとして連れているというが、ススレイは高度な知性と特殊な能力を持っていたのだった。
 ジェイスンの秘密が気になるアンドレア。いや、むしろジェイスンが気になるアンドレア。
 トラメルデンの野望を止め、復讐を果たすためトラメルデン学寮長の動向が気になるジェイスン。いやむしろアンドレアの方が気になるのか?ジェイスン。
 そんなことを言っていられないぐらい、地球と連邦の開戦の危機は迫る。
 学寮にも不穏な気配が漂う。アンドレアは両親から学寮からの脱出と系外惑星へ両親とともに移住することを進められるが、そうなると彼女の望みである高級パイロットの道は絶たれてしまう。どうするアンドレア、どうなるジェイスン。
 学内でのトラブル、開戦危機の中で広げられる学長の壮大な陰謀、太陽系外から来た青年の秘密、努力型天才少女の悩みと活躍。
 ね、ヤングアダルトでスペオペでしょ。王道です。

 ちょっと2022年公開の「機動戦士ガンダム 水星の魔女」(この時点で前半のみ放映)を思い出してしまった。こちらの学校は思いっきり企業の思惑のドロドロの中にあるのだけれど、紛争の危機とか、その中の学生生活とか、方向は違うけれどヤングアダルトでスペース・オペラだね。悪くない。

アイリータの生存者

THE SURVIVORS

アン・マキャフリイ
1984

恐竜惑星2 アイリータの生存者」である。3部作と言われていたが、結局この第2部で「恐竜惑星」ものは終了となる。マキャフリイの宇宙では「知的惑星連合」ものとして位置付きまとめられるので、その中での「惑星アイリータ」ものと考えればよいし、第2部で終わったからといって尻切れトンボになっているわけではなく、本書をもって大団円を迎えたとも言える。

 前作で惑星アイリータ調査隊は、巨大母艦探査船ARCT-10からの連絡が途絶え、内部に反乱を抱えてしまった。共同指揮官のカイとヴェアリアン、医師のランジーらが指導者として体得していた特殊能力と、ボナード少年の機転によりなんとか反乱者たちから逃れることができた。しかし、ほぼすべての調査資材などを失い、唯一確保したのはシャトルのみ。そこで本隊は反乱者たちから姿を隠すために惑星アイリータである程度の知能を持っている社会的飛行動物ギフの生息地にあってギフが放棄した崖の洞窟に姿を潜め、助けが来るまでの間強制睡眠に入ることを決めたのだった。SOSは知的惑星連合の上位種族といえる長命のセク族に対して発せられていた。そしてその助けが1週間後なのか、数年後なのか、見通しも立たないままに。

 ということで本作は、長命で行動するまでに時間がかかると言われる岩石的種族セク族のトールが共同指揮官カイを目ざめさせるところから始まる。
 目ざめてみたら、43年の歳月が経っていたのだ。
 まあ、セク族が動くまでそれだけの時間が必要だったということだ。

 43年。人類ならば1、2世代を経ることができる時間である。幸い反乱者たちに見つかることはなかったようである。しかし、もし反乱者たちが生きており、自主的な植民者として生きていたら、ある程度の人口になっているだろう。生きていたら。
 気がついたカイやヴェアリアンたちは、ギフたちが彼らの洞窟と洞窟の中のシャトルを大切に守っていたことを知る。その動機は不明だが、シャトルを巨大な卵として見なし、信仰か象徴としていたのかも知れない。そして、外から来る人類=反乱者には敵対してきたようである。おそらく反乱者たちも、その生存の中でギフと対立関係にあったのであろう。
 さて、カイの古い友であるセク族のトールは、決してカイの救出だけを目的に来たのではなかったらしい。いやむしろ救出は他の調査隊などにまかせてしまい、カイに大昔の探査技術の痕跡がどこにあったかをすぐに教えるよう迫った。どうやら長命で古い銀河種族であるセク族と惑星アイリータには深い関係があったようである。
 そう、惑星アイリータの数々の謎は、セク族とのつながりのなかで解かれていくのである。
 物語は、セク族と惑星アイリータの関係を伏線としながら、本筋は反乱者たちと調査隊との接触と、人類とギフたちとの交流を軸に語られる。そのなかでも、反乱者たちの子孫である若きリーダーでマッチョでまっすぐな好青年アイガーと、そんな好青年アイガーに惹かれてしまうヴェアリアンが物語の軸となる。そして、救援要請をもって来訪する艦隊との関わり。全部を一気に片付ける勢いのある第二巻となっている。
 このあたりはストーリーテーラーとしてのマキャフリイの面目躍如といったところ。
 それにしても、最初の段階で惑星アイリータの現住生物に襲われ毒で苦しむことになってしまうカイがちょっとかわいそうでならない。
 そして、セク族。すごいぞセク族。寿命も繁殖方法も明らかにされないが、知的惑星連合にとっては上位種族としかいえない強大な力を有するセク族。ぶっちゃけ人類を含む他の宇宙種族のはるかはるか以前より宇宙航行種族として長い長い歴史を持つセク族。そんなセク族の驚くべき姿や生態、歴史の一端を、本書は明らかにしてくれるのだ。
 おもしれー。セク族。