グリーン・マーズ

グリーン・マーズ
GREEN MARS
キム・スタンリー・ロビンスン
1994
「レッド・マーズ」に続く、火星三部作の二作目である。前作は、2020年代にはじまり、2061年に火星に住む人たちが地球に対して起こした革命とその失敗をもって終わる。
 本書は、それから数十年後、2100年代初頭の物語であり、2127年、「最初の百人」が火星の到着して1世紀が過ぎたところで幕を閉じる。
 火星は、暫定統治機構と、それを牛耳るトランスナショナル(超国籍企業体)によって支配され、レッド・マーズでやぶれた「最初の百人」の生き残りをはじめ、独立を望む人々は、コロニーを作って隠れ続けていた。火星のテラフォーミングは急速な勢いで進められ、新たな宇宙エレベーターの建設もはじめられていた。  地球もまた、混乱を続けていた。2061年戦争のあと、地球は事実上、超国籍企業体が国家を運営するような事態になったが、超国籍企業体間の紛争、国家間の紛争、地域紛争などは止むことなく、さらに、長命技術を受けられる者に対する、受けられない者=死すべき者の怒りもあり、経済、社会システム全体が破局を迎えつつあった。
 本書は、前作に引き続き、火星という惑星に暮らすとはどういうことかを楽しませてくれる。急速なテラフォーミングの実現と、意外に多くあった火星の水というおまけにより、描写される惑星規模の変化そのものが本書のおもしろさのひとつである。
 一方、本書は、「人が死ななくなったら社会はどうなるか」について、考察する。火星では、最初の百人が長寿化処置を受け、その後、人々は長寿化していく。前作で現役だった者たちは、本作でも現役である。しかも、第二世代、第三世代が育ってくる。単なる高齢社会ではない。高齢者たちが第一線で働き続けるのだ。もちろん、火星では人口はまだ少なく、社会そのものを形成する過程にあるため、世代間のトラブルはまだそれほど顕在化しない。また、長寿化処置とはいえ、老化そのものは進むので、過去を忘れてしまったり、容姿に衰えが出てくるという特殊な条件もある。長寿化処置は一定期間ごとに受け続けなければならない。自殺する者や長寿化処置をそれ以上受けない者も出てくる。
 長寿化処置のある社会はどのように成立し、人の意識はどのように変わるのか。
 そもそもなぜ人は生き続けたいのか。考えさせられる。
 さて、本書で印象的なシーンがふたつある。
 ひとつは、火星で隠れて生活する様々な人たちが集まって火星の独立方法と独立後の社会をめぐって議論を戦わせる会議のシーンである。火星のテラフォーミングのありかたをめぐって存在するレッズとグリーンの対立、文化、思想、宗教の対立、世代の対立…。それらの対立を議論にまとめる1カ月にもおよぶ会議。その議論と調整役の働き。この会議にたっぷりと紙面を費やしている。そして、社会をつくる過程、たとえばアメリカ合衆国などが国として形をなす過程を再現しようとしている。その大変さと、浮かれかげんが読んでいて楽しい。
 もうひとつは、火星を歩くシーンである。大気がずいぶん厚くなった火星では、問題になるのは酸素分圧、二酸化炭素分圧、そして、温度である。本書には多くの火星を歩くシーンが出てくる。なかでも圧巻なのは、最後のところである。20万人の人々が、洪水の危機に歩いてドーム都市を脱出しなければならなくなる。70km、約30時間におよぶ徒歩での避難シーン。その理由や方法については、読んで欲しいので書かないが、描写の美しさには感動すら覚える。まあ、文庫で1000ページ以上読んだ上でのことなので、頭も朦朧としているのだが。
 とにかく、ぐいぐい読めるというたぐいの本ではない。「レッド・マーズ」もそうだが、書かれている景色や状況を頭に思いめぐらし、頭の中で描写するのがとても大変なのだ。なにぶんにも火星の光景である。どうしても、時間がかかってしまう。
 それでも、読み飽きないのは、人と自然の描写対比がうまいからだ。
 そして、最後のシーン。再び起こる革命と、洪水。「レッド・マーズ」と「グリーン・マーズ」の相同と相違。「レッド・マーズ」のもうひとつの答え。それこそ読みたかったものだ。
 早く、「ブルー・マーズ」を翻訳出版して欲しい。私には、これを英語で読む英語力も時間もない。お願いします、東京創元社さん。
 ヒューゴー賞、ローカス賞受賞
(2004.07.31)

レッド・マーズ

レッド・マーズ
RED MARS
キム・スタンリー・ロビンスン
1993
 火星植民地ものである。超長編三部作のはじまり。
 本書をはじめて読んだとき、深く印象に残ったのは宇宙エレベーターが破壊されて、そのケーブルが赤道付近に落ちてくるシーン。直径10メートル、長さ37484キロメートル(往復分)、質量約60億トンのケーブルが、火星の回転に合わせながら、赤道に沿って巻き付きながら落ちてくるのである。燃え、ばらばらになりながら、空から火星と地上にいるあらゆるものが鞭打たれる。その光景は、科学的な記述だが、心底に恐怖した。
 あらすじを追っておこう。
 2026年、人類は火星に100人の科学者・技術者を片道切符で送り出した。「最初の百人」である。9カ月の旅を経て、火星にたどり着き、彼らは後に続く者たちのために、研究し、建設し、そして、テラフォーミングに着手する。
 自然のままの火星は厳しい。しかし、その厳しさを愛するものもいる。
 拙速なテラフォーミングに反対する研究者あり、積極的に自立に向けた取り組みをするものあり、考え込むもの、政治や商売に邁進するもの、他人を鼓舞するもの、籠絡するものあり、さらには101人目、すなわち密航者あり、グループを離れて暮らす放浪者ありと1個の惑星を舞台に物語は進む。
 物語は、七部構成で、第一部が第五部と第六部の間の物語である。先に少しだけ未来を見るのである。第二部は、火星への旅。第三部からは火星での暮らしで、各部それぞれ、「最初の百人」の主要登場人物の視点から描かれる。読者は、彼らの視点を案内役にしながら、火星の表面を旅し、火星の暮らしを体験し、そして、火星の変化を知る。
 テラフォーミングの最初は、ささやかな風車。風を熱に変えていく。そして、GEM。遺伝子組み換えによる微生物たちである。ミラー衛星で太陽光をあて、水でできた小惑星を大気面に接触させる。最大の効果は、人の活動と排熱…。
 やがて、火星に人が集まりはじめる。地球では稀少となった鉱物が見つかる。超多国籍企業が、あまたの国家が、集まってくる。原子炉を動かし、工作機械を据えつけ、掘削をする。モホロビッチ不連続面を貫き、マントルまでかかる穴が掘られ、得られた鉱物は、宇宙エレベーターの完成を待つのだ。火星地表から高軌道まで延びる宇宙エレベーターができれば、安価で低エネルギーのまま地球に物資を送ることができ、多くの物と人も火星に降りることができるようになる。しかし、宇宙エレベーターがなくても、火星には多くの人が降り続け、各地に散り、北半球にも南半球にも町ができた。
 2048年、火星紀元11年(紀元1年は西暦2027年、火星の1年は669日)には、火星の生物工学研究者が、遺伝子工学による長命技術を開発し、「最初の百人」たちは徐々に、その処置を受けはじめた。
 翌冬、10年ぶりの全火星規模の砂嵐が起きる。この嵐は、地球年で3年以上、2火星年も続く。地球人の緑化計画に火星が悲鳴を上げているかのよう。
 その間も、人の動きは止まらない。そして、地球では、火星で開発された長命技術の存在が明らかになり、人口爆発と超国籍企業体による搾取の結果、持てる者と持たざる者の格差は広がり、暴動と局地戦争が、人々の間、国家間、企業体と国家、人々との間で繰り広げられる。
 2059年、火星紀元16年、ついに宇宙エレベーターが完成した。
 それは、終わりのはじまりでもあった。
 荒れる地球がそのまま火星に来た。完成前から、すでに人々は自由を求めて火星に来たはずが、地球以上に隷属させられていることに気づき、不満を高めていた。
 そして、当然のように不満は引火し、革命が起こる。
 いや、革命ではないかも知れない。地球と、地球を代表するもの、国家や企業と、火星の人々との戦争である。
 町は破壊され、人々はあっという間に、あるいは、苦しみながら死に、宇宙エレベーターは破壊され、火星に甚大な被害を与え、そして、火星に究極の変化の時が訪れる。
 これが、本書。わずか35年程度、火星歴で17年程度の激しい記録である。
 刻々と変わる火星。その荒々しくも美しい姿に、そして、人の営みのすごさに開いた口がふさがらない。
 登場人物は熱く活発な人たちばかりだ。とにかく激しい。仕事も、日常も、情愛も。その激しさにちょっとまいってしまう。さらに、日本文化やアラブ文化、あるいは、宗教に対して「ちょっと変な視点」で書かれているため、当の日本文化に暮らしている私としては、そういう表現の時に違和感を覚えて、我に返ってしまうのが残念である。
 それにしても、残酷な作者である。火星と、火星のテラフォーミングという変化を描くために、科学技術の光と影の部分に価値観を加えず書き続ける。
 ただただ火星が書きたかったのだろう。
 地球の人間にとって、火星はもっとも移住に現実味のある惑星であり、そのありようのひとつを描く本書は、シミュレーションSFとして群を抜いている。
 本書は、火星を旅したい人に、おすすめしたいガイドブックである。
 そうそう、火星の1日は地球の1日より39分半長いのだが、本書では、1日を24時間のままにしている。そこで、余った39分半は「火星のタイムスリップ」になるのだ。夜中の0:00:00に時計は表示が止まり、39分半後に0:00:01として時計が再び動き始める。
 この解決法と「火星のタイムスリップ」という言葉を実感するだけでも楽しい。
 個人的には、おとぎ話の「火星夜想曲」(イアン・マクドナルド)の方が、読後感を楽しめたものの、それは趣味の違いというものだ。
 なお、本書には、続編「グリーン・マーズ」「ブルー・マーズ」があり、「ブルー・マーズ」は今日の段階では邦訳出版されていない。期待したい。
ネビュラ賞・英国SF協会賞受賞
(2004.7.20)

宇宙兵ブルース

宇宙兵ブルース
BILL, THE GALACTIC HERO
ハリイ・ハリスン
1965
 戦争SFの代表作に本書を上げるのを忘れていた。「宇宙の戦士」「エンダーのゲーム」などにならぶ戦争SFの代表作である。てか。本書を取り上げてよく言われるのが「宇宙の戦士」(ハインライン)と「銀河帝国の興亡(ファウンデーション)」(アシモフ)のパロディ作品ということ。
 しかし、そんなことは忘れて欲しい。すなおに、独立した1作品として読んでいただきたい。
 古くない、のである。
 どこにも暦を思わせるところはない。今、読んでも、昨年書いたものと言われても、違和感はない。もちろん、翻訳語やもしかすると原文の単語や言い回しが古くなっている節はあるかもしれないが、そこのところをちょいといじれば、新鮮な小説のできあがりである。
 出てくるのは、田舎惑星と新兵訓練施設と宇宙戦闘船と銀河の中心・帝王のいる惑星に、刑務所と最前線の惑星。
 主人公は、ビル。新兵にして銀河の英雄、脱走兵、革命スパイ、市清掃局研究者、囚人、新兵徴募係。
 身体が丈夫であまりものごとにこだわらない主人公ビルの活躍ぶりを、ユーモアあふれる語り口で披露しながら、SFの舞台裏を次々に明かしてくれる。
 なーんだ、そーゆーことか、ふーん、ってなもんだ。
 その中に、ハリスン独特の、いやSFならではの文明批評と警告が込められている。
 戦争のおろかしさ、環境問題、ごみ問題…。
 1500億人を超える帝国惑星の最下層に市清掃局がある。人糞は、肥料にして食料生産惑星に送り返し、喜ばれている。しかし、プラスチックなどのごみたちはゆくえもなく溜まるばかり。物質瞬送機でもよりの恒星に送っていたら、新星化しておおごとに。海に投げ込んだごみのせいで水位は上がりおおごとに。
 そこでビルは考えた。ごみになった皿を箱に入れ、免税の贈呈小包にして銀河系の各植民に郵便で送ってしまえばいい。作業はロボットにやらせればいい。
「すかさずビルはとどめを刺した。
『ロボットの包装費はロハ、宛名もロハ、材料もロハ。それにもう一つ、ここは官庁だから切手もロハとくるんですぜ』」
 さすがである。似たようなことは、すでに現実になりつつあるが、ここまで徹底したごみ対策はない。ハリスンの慧眼には、恐れ入るのである。
 戦争に対しても、ハリスンの筆は冴えわたる。
「『と思うのが大まちがい。戦争でいちばん安全な場所は、軍隊の中なんだぜ。前線の野郎どもは頭をぶちぬかれる。故国の地方人どもは頭をふっとばされる。その真中にいるやつは、まかりまちがってもケガはねえ。前線の一人に補給するためには、三十人から五十人、いやおそらく七十人のやつが、真中に必要なんだ。いったん文書整理係になる手口をおぼえちまえば、気楽なもんよ。文書整理係が射たれたなんて話が、どこの世界にある? おれは優秀な文書整理係なんだ。しかしそいつあ戦争のあいだだけだぜ。平和のときはちがう。やつらがひょんな間違いをして、しばらく平和になったときには、戦闘部隊に入るにかぎる。エサはいい、休暇は長い、仕事もたいしてねえ。それに、ぐっと旅行もできらあ」
「で、戦争がはじまったらどうする?」
「おれは病院へもぐりこむ七百三十五通りの方法をこころえてるよ」』(ハヤカワ文庫版第3刷228ページ)
 ちょっと長い引用になったが、どうだろう。まいっちゃうね。
 ところが、これを言った奴は、ちょっとした書き間違いで、最前線の惑星に送られることになるのだが、それもまた人間がよくやらかすことである。
 とにかくおもしろくて、考えさせられる。パロディの原著のことなんか気にしなくていいから、ぜひ読んで欲しい。なあに数時間あれば読めるような内容だ。絶版なのは残念。
 手元の文庫版第三刷(1989年)の横山えいじ氏ののほんとしたイラストもまたよし。
 ちなみに、本書は、出版から2年後1967年にハヤカワの銀背で出され、1977年に文庫化された。文庫版の最初は藤子不二雄氏のおどろおどろしたイラスト表紙だったようだ。
(2004.7.17)

宇宙のランデヴー

宇宙のランデヴー
RENDEVOUS WITH RAMA
アーサー・C・クラーク
1973
 70年代クラークの代表作である。先日読んだグレッグ・ベア「永劫」と似たような設定だが、もちろん、こちらがオリジナル。2130年頃、小惑星の地球への衝突を防止するスペースガードが発見した直径40kmという巨大な小惑星はラーマは、自転時間4分。宇宙探査船が調べたところ、それは間違いなく人工物だった。太陽系に入り、早いスピードで太陽に接近し、そして去っていく軌道をとっている。接触できる時間は限られていた。ノートン中佐率いる宇宙船エンデヴァー号が唯一、接触可能な宇宙軍艦船であった。かくして、ノートン中佐らは、ラーマ上に着陸、内部の探査をはじめる。そこには、地球の科学力を超えた想像を絶する世界が広がっていた。最初は死んだ世界だと考えられていたが、そこには有機物質で作られたバイオロボットが定められた機能を発揮し、何らかの目的で動いていた。
 小惑星を宇宙船として製造したとき、内側の世界ではどのような物理的事象が起こり、どのような光景が広がり、どのような気象が発生するのか。今や、日本のアニメではおなじみのスペースコロニーの風景を壮大に描いている。異星人、異星文明との出会いというよりも、その世界を描き、提示するための小説である。
 ある意味で、SFらしいSFと言えよう。
 それだけといえば、それだけなのだが。
 本書が書かれたころ、1969年にアポロが月に着陸し、ソ連はソユーズを飛ばし、1972年には火星探査のマリナーが写真撮影を開始しているが、NASAは予算縮小に向かっていた。日本では、大阪万博があり、カシオミニが発売され、というような頃である。
 その頃に、壮大な小惑星宇宙船とその内部を描いているのである。
 クラークの天才ぶりがうかがわれるではないか。
 ところで、本書はその後、80年代終わりからジェントン・リーとの共著で続編がシリーズ化されて書かれている。あいにくそちらは読んでいない。そのうち読んでみたい。
 でも、当時は、謎のまま終わるSFでもよかったのだ。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞
(2004.7.16)

人間がいっぱい

人間がいっぱい
MAKE ROOM! MAKE ROOM!
ハリイ・ハリスン
1966
 舞台は、ニューヨーク。時は、1999年夏からミレニアムまで。主人公は、アンドルー・ラッシュ刑事。殺されたニューヨークの顔役の捜査。顔役の情婦との恋…。
 設定は、ハードボイルド。しかし、ハードボイルド小説ではない。なぜならば、本当の主人公は世界であり、ニューヨークなのだから。
 1999年8月、ニューヨークには3500万人が暮らし、世界人口は70億人となっていた。老人は、過去の暮らしを求めてデモを繰り返し、農民は水を求めて都市への水道橋を破壊し、人々は水と食べものと部屋を求めて争いを続ける、世紀末。石炭も石油もとうに底をつき、高速道路は壊して農地にするほかない。自動車はなく、輪タクが人々を運ぶ。スラム化したニューヨークで、子どもは無制限に生まれ、そして、両親とともに飢えていく。混乱した街の混乱した人々の中で、刑事は日々の事件や警備に追われる。
 人々は、怒り、盗み、暴れ、あきらめ、並び、飢え、あえぐ。
 そして、新しいミレニアムがはじまり、ハルマゲドンは訪れず、「この世界が、またもう千年も、こんな状態で続くのか? こんな状態で?」と、狂った宗教家が叫ぶ。
 世界の環境問題や飢餓などの諸問題の根底にある人口問題を、徹底して突き詰めたのがこの作品である。不幸なことに、映画「ソイレントグリーン」(1973年リチャード・フライシャー監督)が生まれてしまい、その原作ということでずいぶんと誤解されている。
 けれども、考えてみてほしい。1964年当時に、これほどまで、ありうべき現在を予見したSFはなかなかない。
「手放しで過剰生産と過剰消費をやらせた結果、いまでは石油が底をつき、表土は消耗して洗い流され、森は伐り倒され、動物は絶滅し、地球は毒されてしまった。そして、いま七十億の人間が残されたがらくたを奪いあい、みじめな生活を送り--そして、まだ生み放題に子供を生んでいるんだ」(邦訳262ページ)
 幸いなことに、ヨーロッパや日本など先進国といわれる国では、豊かな食生活を営むことができ、子どもはそれほど生まれず、2000年の世界人口は60億5500万人と、本書よりもわずかに少ない。ただし、2010年を過ぎたころには、本書の予測の70億人に達するであろう。そして、慢性的な飢餓状態ともいえる栄養不足人口はすでに8億人を超えている。
 今はまだ笑い話である。しかし、私たちは10年か20年ほど引き延ばしているだけかも知れない。
 さて、少し笑おう。
 本書に登場する食べものを上げてみよう。
 日常食は、海草クラッカー、オートミール。海草クラッカーは、褐色、赤、青緑といろとりどりのものがある。
 新たな政府からの贈り物は、エナーG。ざらざらした茶色の粒には、ビタミン、ミネラル、蛋白質、炭水化物…が含まれ、「ないものは味だけか?」というところ。プランクトンの生成物。オートミールと一緒に煮て召し上がれ。
 ソイレント・ステーキ、ソイレント・バーガーは、セールがあると暴動が起こるようなごちそう。大豆(ソイビーン)と扁豆(レンテイル)のステーキである。
 病人には、ミートフレークを。西アフリカ産の大カタツムリを脱水して、放射線をあて、包装したもの。褐色の木ぎれに煮た肉片。
 闇市場でたいていのものは、高くても買える。ミルクはもちろん、豆乳ミルク。コヒは、コーヒーの代用品。魚はテラピア。肉は、市場では買えない。厳重に警備された闇肉屋には、犬の足から牛肉まで揃っている、もちろん、値段は極上。顔役に牛肉を買いながら、情婦の思いは、肉を焼いたあとの脂でオートミールを炒めたらさぞおいしいだろうということ。
 もちろん、腹を肥やした者たちは、ビール、ウイスキー、スパゲッティを食べることだってできる。極上のフレンチワイン・シャンパン…人工着色料香料甘味料炭酸添加だってある。
 どうだろう。こんなものを食べて生きていたいだろうか。私は、最後に肉がなくなってもかまわないが、ごはんを食べて死にたい。
 すでに、ミレニアムに入ってしまったが、ぜひ、SF史の中に位置づけておきたい一作である。絶版なのが残念。
(2004.7.15)

永劫

永劫
EON
グレッグ・ベア
1985
 1980年台後半のアメリカを中心とする西側陣営のソ連を中心とする東側陣営に対する技術的優位は決定的なものとなり、1993年にいわゆる「小破滅」が起こる。東西両側が導入した宇宙防衛システムは十分に機能せず、数都市が核攻撃にさらされ、400万人が死亡。両陣営ともただちに講和し、第三次世界大戦はのがれた。
 2000年、地球に小惑星が急接近する。その小惑星は中が空洞の宇宙船であり、都市であり、それは、別の時空から来た未来の人類であった。しかし、そこには人類の姿はなく、アメリカを中心とした調査隊は未来の「図書館」を発見。そこには、この時空の地球とほぼ同じ歴史が語られ、その不幸な未来までも記されていた。全面核戦争による大破局と核の冬、そして人類と地球の再生までの長い苦難の歴史。それを知ったアメリカ人数名は、徹底した秘密保持をはかる。まさしく、その未来史通りに現実が動いていたからだ。
 2004年のクリスマス後に、若き女性の天才物理学者パトリシア・ルイーザ・ヴァスケスは、調査隊の一員として小惑星ストーンにおもむく。「n次空間理論における非重力歪曲測地線:超常空間の視覚化と確率集合へのアプローチ」を博士論文として記した彼女は、小惑星ストーンのなぞを解くキーパーソンとして求められたのだ。小惑星ストーンの中には無限とも思える空間が広がっていたのである。
 迫り来る地球での全面核戦争の恐怖、ストーン内部でのアメリカとソ連の緊張と、侵攻をめざすソ連軍、異常な空間とストーンそのものの秘密。そして、異時空の未来人や異星人たち。想像もつかないような光景を、筆者はていねいに書き連ねていく。その光景は、書いてある文章すら理解できないぐらいに壮大稀有である。
 さて、本書が翻訳され、出版されたのは昭和62年7月、1987年。私は広島市内の大学を卒業し、大企業の広島支社に勤務を命じられ、卒業と同時に離れたはずの広島に舞い戻ったばかりだった。会社と新たに借りたアパートとの距離は約1km。会社は市の中心部にあった。私は、毎日アパートを出て、橋を渡り、橋の中央にある平和公園の原爆ドームを横目で見ながら会社勤めをはじめていた。まだ、バブル経済の狂乱にあり、仕事は毎日忙しく、深夜にはとぼとぼと平和公園を抜け、原爆ドームの横を通って狭いアパートへと帰った。
 1945年8月の原爆投下以来、この街は常に核兵器の恐怖を現実のものとしていた。1カ月暮らしてみるといい。テレビでは、被爆者であることを証言する証人探しが今も続けられている。早朝、ふとした街のなんでもないところにしゃがんでお参りをしている人がいる。40年以上たったその頃でさえ、核はこの街に深い傷を残していた。広島に来て5年目。。私は何度となく、核戦争の夢を見た。その後広島を離れたあとも、その夢は忘れた頃に眠りの中の私を襲った。
 本書は、冒頭の「プロローグ 4つのはじまり」の2章において、2002年にソ連軍の士官で宇宙兵士訓練を受けていたミルスキーが小惑星ストーンを見上げながら、いつかストーンをソ連のものにする決意を固め「それまでは、この国がなくなることはないだろう」としている。作者は、この一文で、のちに全面核戦争により、アメリカもソ連も事実上なくなることを暗喩しているのであろう。
 本書は1985年に出版されており、本書が書かれた頃は、1980年から合衆国大統領になったロナルド・レーガンがSDI(戦略防衛構想、スターウォーズ計画)を打ち出し、ソ連を悪の帝国と呼び、緊張が高まった時期であった。世界は、本当に核戦争の恐怖におびえていたのだ。
 しかし、1986年、ソ連にゴルバチョフ書記長が登場し、同じ年、アメリカではスペースシャトルが爆発し、ソ連ではチェルノブイリで原発が事故を起こし、現実の世界でのソ連は1991年末には崩壊してしまった。
 2004年の今、ロシア軍のなどの兵器管理に不安が持たれ、ABC兵器(核兵器、バイオ兵器、化学兵器)は、小国とテロリストの手に渡りつつあるものの、人々は、大破滅を本気で心配はしていない。だから、今、読む本書と、当時読む本書では、ずいぶんと受ける印象が違うことだろう。
 気楽に読めるだけ、幸いである。
 本書には、全面核戦争、無限とも思える空間、パラレルワールドの存在、異星人、未来人、データ化された人々、補助脳など、さまざまなアイディアが湯水のように使われている。のちのベアの作品にも登場するようなアイディアもある。本書の科学的記述をすべて、その空想部分も含めて理解できるほどの頭が私にあればいいのだが、読んでいると少々こちらが混乱してしまうのはくやしい限り。
 そうそう、本書には、続編「久遠」がある。残念ながら、ちょうど、私の人生の混乱期に翻訳出版されたため、いまだに読んでいない。17年ぶりに本書を再読して、むしょうに「久遠」が読みたい。本書の流れを忘れないうちに、古本を探しに行かねばなるまい。
(2004.7.12)

巨人頭脳

巨人頭脳
gigant hirn
ハインリヒ・ハウザー
1962
「ドイツSFの本邦初紹介」だそうだ。書かれたのは1958年で、著者の没年が1960年、出版が1962年、邦訳出版が1965年。翻訳者のあとがきによると、西ドイツではSFの用語があまり使われずユートピア小説、技術小説、未来小説などと呼ばれていたという。著者のハインリヒ・ハウザーにとっては処女SF作品で、死ぬまでの最後の作品となってしまった。そして、何を隠そう、この翻訳者こそ松谷健二氏である。そう、「ペリー・ローダン」シリーズを1971年から翻訳し続け、1998年に亡くなり続けるまで、ペリー・ローダンとともにあった松谷健二氏である。本書が、その釣書通り、「ドイツSFの本邦初紹介」であるならば、本書こそ、松谷氏が訳した最初のSFということにもなる。
 それだけでも感慨深い作品だ。
 さて、中身は、1975年のアメリカが舞台。もう30年前も過去の未来である。
 冷戦の中、軍事的優位を保つため、人間の25000人分もの能力を持つ巨大な人工頭脳を完成させた。軍事使用だけでなく、航空管制や交通管制、通信、機械製造などさまざまな分野を制御下に置く「頭脳」。主人公の生物学者が「頭脳」の自我意識と接触し、知能や進化、人間や神について議論する。やがて、「頭脳」は、人間を下位のものとみなし、自らが生きのびるための戦いをはじめる。それは、人間への敵対であった。
「頭脳」を疑わない科学者、軍人たちのなかで、主人公の生物学者はひるみながらも「頭脳」を破壊するための方策を考える。
 冷戦時、第三次世界大戦が現実のものとして語られていたころの気配が濃厚にただよっている。そして、専制政治に対する忌避感もまた、当時の空気を移している。
 それを除けば、人間をはるかにしのぐ処理能力を持った人工知能、機械の自我意識ものとして基本的な課題と恐れが描かれている。ホーガンの「未来の二つの顔」や映画「ターミネーター」の設定などにも通じる、SFのひとつの古典テーマである。
 真空管でできた機械の神。日本人ならば、手塚治虫の「火の鳥 未来編」などを思い起こすかも知れない。
 書かれた年が1958年であることを忘れれば、古めかしいバロックSFと呼んでもよい。
 でも、話の都合上やむを得ないとはいえ、蟻と白蟻を交配して新たな種を生み出すのは、当時の科学知識から考えてもちょっと無理な設定だと思うけれどな。
(2004.7.8)

猫と狐と洗い熊

猫と狐と洗い熊
CATSEYE
アンドレ・ノートン
1961
 最初、この作者に出会ったとき、名前から男性作家だと思っていた。今や、ノートンといえば、PC界の大物の名前になってしまったが、私にとってノートンは、SF作家のアンドレ・ノートンである。
 本書は絶版になって久しいが、創元推理文庫SFから1973年末に初版が出され、78年3月に4版を数えている。ちなみに、そのときの値段が220円となっている。
 遠い未来、2大勢力が星系間の戦争を続けている時代。暮らしていた牧畜の星を追われた青年は仕事にもことかく二等市民として日々を過ごす。割り当てられたペットショップの下働きの仕事が、彼を自立と誇り、苦痛と喜びに満ちた事件に巻き込んでいく。
 地球産の2匹の猫、2匹の狐、1匹の洗い熊と自然状態で精神感応することができる主人公トロイ・ホーラン。やがて、彼は、人間と動物の立場やあり方について考えることになる。そして、彼らとともに生き抜こうとする。
 おとぎ話である。SF風の。熱線銃や過去再生機なんていうのが出てきたりする。
 精神感応に動物の知能向上である。
 ジュブナイルにしては、ちょっと難しいかも知れない。
 主人公の周りに登場する「敵」のあるものは明らかに悪者だが、あるものは、悪いともいいともつかない。
 しかし、表現されている都市やペットショップや自然環境や異世界の風景はとても写実的で美しく、魅了される。
 そのなかを、猫が、狐が、洗い熊が、そして、人間が走り回り、飛び回る。
 素直な気持ちで読める一冊。
(2004.7.4)

火星のタイム・スリップ

火星のタイム・スリップ
MARTIAN TIME-SLIP
フィリップ・K・ディック
1964
 ディックの作品の中では作品そのものが「つじつま」のあわないことも多い。翻訳者泣かせであろう。本書は、ディック作品の中では「読みやすい」方である。
 何年ぶりなのだろう。読み返したのは。
 はじめて読んだとき、まだ、本書が舞台の1994年は遠かった。もちろん、そんなことはどうだっていいことだ。はじめて読んだとき、何を思ったのだろう。泣いただろうか、恐れただろうか、足下の床が抜けただろうか。
 生まれてから本書に出会うまでと、再読した今とではほぼ同じくらいの時が経っている。約20年ずつだ。
 はじめて読んだころ、僕は今より不安定で、世界は今より安定していた。今、私は安定しているつもりになっていて、世界は不安定さを増しているようだ。
 はじめて読んだころ、僕は現実の中にいただろうか。はじめて読んだ僕と、今の私はひと続きの存在なのだろうか。この本の中身はそのときと同じなのだろうか。いや、この本は黄ばみ、時を超え、私に、おまえはあのときこのページを開いたおまえと同じ者だが同じではない、変わったのは黄ばんだ紙と、おまえであるとささやいている。
 などということを書きたくなるのが、ディックの作品である。
 とりわけ、本書は、ディック初心者にはおすすめの、「怖い」本である。そして、「力強い」本である。疲れたとき、だめになりそうなとき、読むといい。また、20年後に、いやもっと早くに、再会しよう。
 たまには、あらすじを書いておこう。
 1994年8月、火星。火星の原住民ブリークマンは衰退し、地球から火星に移住してきた人間が少しずつ火星の砂と水不足の中を暮らしている。
ジャック・ボーレンは腕利きの修理工。ミスター・イーの下で働き、アーニー・コットに貸し出され、ドリーン・アンダートンに慰められ、マンフレッド・スタイナーを救おうとし、ブリークマンを助け、レオ・ボーレンに困惑し、シルビア・ボーレンの元に戻る。
ノーバート・スタイナーは、火星で唯一の健康食品訪問販売業者。アーニー・コットに闇食品を売り、ボーレン家の隣に住み、オットー・ジッドを雇い、マンフレッド・スタイナーをBGキャンプにあずけ、アン・エスターヘイジーに嫌な話を聞き、ミルトン・クローブ博士と話し、そしてバスに飛び込んで自殺する。
ミルトン・クローブ博士は、精神科の医師。マンフレッド・スタイナーを眺め、ノーバート・スタイナーと話し、アーニー・コットと会い、アン・エスターヘイジーを脅し、アーニー・コットを脅す。
オットー・ジッドは、ノーバートの事業を引き継ぐ。アーニー・コットの怒りを買い、シルビア・ボーレンと密会し、アーニー・コットを殺す。
レオ・スタイナーは山師。地球で火星のFDR山開発計画を知り、事前に土地を投機目的で入手すべく火星に来る。息子を諭し、息子に道徳を説かれても、目的は果たす。
アーニー・コットは、水利労組第四惑星支部組合長。アン・エスターヘイジーと結婚し、離婚し、子どもをなし、へリオというブリークマンで料理人の男と会話し、ドリーン・アンダートンを抱き、アーニー・コットを雇い、ミルトン・クローブ博士に話を聞き、マンフレッド・スタイナーの予知能力を信じ、FDR山開発計画を知るが手遅れになり、過去に戻ろうとし、マンフレッドの世界に飲まれ、再び現実に戻ったことを知らぬうちに死ぬ。
アン・エスターヘイジーは、ギフトショップを経営し、婦人連盟に属し、時事新報を発行し、政治活動に余念がない。アーニー・コットとの間に子どもをなし、ノーバート・スタイナーと話をし、フルートのような楽器を売り、BGキャンプに子どもを預け、アーニー・コットと話をし、ミルトン・クローブ博士に脅され、脅し、話し合い、マンフレッド・スタイナーをBGキャンプに戻すため、アーニー・コットを止めようとする。
ドリーン・アンダートンは、水利組合の会計担当。かつて地球で自殺した弟を持ち、アーニー・コットの愛人で、公認の内にジャック・ボーレンと愛し合い、マンフレッド・スタイナーを恐れ、ジャック・ボーレンと分かれる。
シルビア・ボーレンは、ジャック・ボーレンと結婚し、デイヴィッドを生み、育てる。隣家が嫌いで、友だちとコーヒーを飲みながらうわさ話をし、レオをもてなし、ロマンスを夢見、オットー・ジッドに出会い、招き入れ、友だちに電話をし、ジャック・ボーレンを許す。
マンフレッド・スタイナーは、自閉症で、時間軸が狂い、未来に生き、未来を恐れ、別の時間を手に入れ、ブリークマンとともに生き、かつて助けようとしてくれたジャック・ボーレンと、母親に会うため、あったかも知れない未来から挨拶に来る。
 ガビッシュシュも、ガブルも、ない世界を、マンフレッド・スタイナーは手に入れた。
 同時に、ジャック・ボーレンも、世界を手に入れた。彼は、がんばったのだ。自分を変えずに、信じるものを間違えないように、飲み込まれそうになりながらも、あらゆるものにすがりつきながらも。
 そう。どこでも、いつでも、ガビッシュは降ってくる。ガブルは止まない。
 いつだって、どこだって、気がつけば、ガビッシュに満ち、ガブルに悩まされる。
 避けるのに必要なのは、道徳ではない。神性でもない。
 日々の、ささやかな、ひとつずつの出来事であり、行いなのだ。
 そう、ガビッシュに気をつけたまえ。どこにでもそれはあるから。
 それが、今だから。
(2004.7.3)

星の海のミッキー

星の海のミッキー
BARBARY
ヴォンダ・N・マッキンタイア
1986
 ジュブナイルである。主人公のバーバリ(BARBARY)は、不幸の少女。孤児で、地球上のあちこちの家庭をたらい回しされ、いつもソーシャルワーカーにテストされていた。死んだ母の友人夫婦が宇宙ステーションに彼女を引き取ることになる。しかし、バーバリには誰にも言えない秘密が。地球に置いておけば処分される捨て猫のミッキー。宇宙ステーションまで密輸に成功したものの、新しい妹ヘザーと同室となることが分かって愕然。どうしよう! 一方宇宙ステーションは、異星船を発見し、秘密裏に接触するため、国連やアメリカ大統領などがこぞってやってきていて大混乱。
 もちろん、ご都合主義である。もちろん、最後は、なんとかなる。だから、どきどきしながら、安心して読もう。
 今回、再読で「夢の蛇」と続けて読んだのだが、共通するところも多い。主人公は最後まで努力を続ける。最後の最後に、本人には思いもよらない助けが来る。信頼している動物がいる。信頼できる仲間が同行する。物語のパターンである。
 ま、そういうことはどうでもいい。
 孤児、猫、新しい妹、秘密、大きな事件、大円団。
 いいではないか、いいではないか。
 宇宙ステーションでの生活や移動、感覚などの表現は手抜きしていないので、大人の人も楽しく読んでください。
(2004.6.30)