死者の代弁者

死者の代弁者
SPEAKER FOR DEAD
オースン・スコット・カード
1986
「エンダーのゲーム」の続編であり、2年連続ヒューゴー賞・ネビュラ賞を同じシリーズで獲得したと鳴り物入りで紹介された本である。
 日本で出版されたのは1990年夏のこと。ちょうど私が放浪していた頃のことであり、住所不定ゆえに、出てすぐは買っていない。今、再読してみると、手元にあるのは2冊400円の古本で、上巻には、桜や野菊のような押し花がいくつもいくつも入っていた。場所を動かした形跡はない。再読なのだが、この古本を読んでいないのか? それとも、まさか私が押し花をしたとでも? いや、それはあるまい。となると、以前読んだ本はどうしたのだろうか? わからない。人の記憶とはおぼつかないものだ。それが自分の記憶であっても。
 さて、本書は、「エンダーのゲーム」から3千年後の未来。しかし、エンダーが過ごした実時間は35年であり、彼は35歳にしかすぎない。今の私より若いのである。「較べるな!やつは天才だ」と、前著を読んだ方におしかりを受けそうである。
「エンダー」の名はゼノサイド(異類皆殺し)の別名となり、「死者の代弁者」は歴とした社会的地位を持ち、職業の名称となっている。「窩巣女王」「覇者」は伝説の書となり、初代死者の代弁者は伝説の人となる。
 伝説の影で、ひとりの「死者の代弁者」たるアンドリュー・ウィッギンは、最後の窩巣女王が誕生し、種としてのバガーが再生する場所を求めてさまよい続けている。
 物語は、新たな異類との出会いではじまる。
 カトリック系の新植民星には、バガーに続く人類とは異なる知性、二足歩行の豚に似たピギーがいた。そして、ひとりの異類学者の死。
 エンダーは、それまで同行してきた姉と別れ、その惑星に向かう。
 もうひとつの知性。それは、窩巣女王。エンダーだけが知る、バガーの生き残りは請い願う。早く、星を与えよと。
 さらにもうひとつの知性ジェイン。それは、即時通信システム・アンシブルで生まれた人工知性。彼女もまた、エンダーとの関わりで自我を形成し、エンダーのみが知る存在。
 エンダーという個性と歴史を負う存在に多くの異類が関わり、関係を求めていく。
 アーシュラ・K・ル・グィンが処女長編「ロカノンの世界」で生み出した即時通信システム・アンシブルと、現実の異星間航行で生まれるウラシマ効果による時間と空間の旅のしくみが、そのエンダーを生かし、苦しめ、物語を進ませる。
 ヨーロッパのファンタジーにおいて、1000年生きた王が、王国の危機に帰ってくるという話がある。まさしく、エンダーは3000年の時を超え、伝説として登場する。
 そんな物語である。
 しかし、同時に、エンダーは、独身の子どももいない、20年前の罪を背負って生きる一人の人間に過ぎない。ただ、他者との共感、他者の理解が深いひとりの男に過ぎない。
 目の前には、異類と人類の、人類と人類の、家族と個人の、コミュニティと個人の壁があり、誤解があり、無知があり、無理解があり、コミュニケーションが欠け、危機ばかりが広がっている。
 エンダーは、介在し、ときほぐし、関わり、交わっていく。
 それが、彼にも、他者にも必要なことだから。
 そして、彼は、寄って立つ場所を得る。それがこの物語である。
 本書には、カードの宗教観、価値観が色濃く反映されており、好き嫌いもあるだろう。「エンダー」シリーズに共通するテーマは、コミュニケーションである。コミュニケーション不足は、必ず対話により解決できる。解決する。これが、80年代終わりのひとりのアメリカに住む男によって書かれ、多くのアメリカに住む人たちが賞賛したSFである。
 2004年の今日、日本に住む我々も含めて成り立つアメリカというシステムが、コミュニケーションを破壊し、人間を狂わせ、他者への無理解と誤解を強要し、同じでないからと蔑視し、虐げ、殺す。
 本書を愛読した者の中にも、このシステムに身を捧げた者がいるかも知れない。一方で、本書を読み、このシステムの恐ろしさに気づいた者がいるかも知れない。
 今でこそ、「エンダーのゲーム」と「死者の代弁者」は読まれて欲しい作品である。
 もちろん、本書は、現代社会の暗喩を目的とした、巡礼と癒しの堅苦しい話ではない。
 カードは、子どもを含む「成長」についての話を書く。これもまた、そういう話である。
 カードの作品に、真なる悪は出てこない。それゆえに「死者の代弁者」が成り立つ。
 惑星ルジタニアという、きわめて種類の少ない生物群でできた奇妙な生態系の話でもある。その惑星の小さなコミュニティの成長物語でもある。
 なにより、前著を生き延びた「エンダー」と、姉「デモステネス」ヴァレンタインの後日談である。
 そして、希望と期待を残しながら、続編「ゼノサイド(異類皆殺し)」へと続く。
ヒューゴー賞・ネビュラ賞受賞
(2004.6.9)

エンダーのゲーム

エンダーのゲーム
ENDER’S GAME
オースン・スコット・カード
1977,1985
1977年に発表された短編「エンダーのゲーム」を長編化した作品である。主人公は短編も長編も同じであり、基本的なプロットは同じだが、短編で語られていることと長編で語られていることはずいぶん異なっている。短編は、「無伴奏ソナタ」(ハヤカワ)に掲載されている。好き好きはあるが、漫画家の吉野朔美氏は連作短編集「瞳子」(小学館)の中で、「エンダー」も、「アルジャーノン」も、短編より長編の方がよいと主人公に言わしめている。
 先に読むならば、長編をおすすめする。ということで、長編の評である。
 いつものことながら、結末に関わる評をするので、未読の方は、ここから先、読まれない方がよい。とはいえ本作が出た当時に較べれば、結末の驚きは少ないであろう。
 天才少年・少女を集めて軍人として育て上げ、司令官を養成するバトルスクール。
 敵は、バガー。昆虫型の異星人である。
 ハインラインの「宇宙の戦士」、ジョー・ホールドマンの「終わりなき戦争」とも似た世界。違うのは、あまりにも主人公が子どもであることだ。
 主人公のアンドリュー・エンダー(終わらせるもの)・ウィッギンは、6歳でバトルスクールに入る。彼は、産児制限の厳しいこの世界で許されざる「サード」3番目の子どもであり、それは、上2人の子どもと両親の天才性から生まれた例外である。幼少の頃から、思考や行動までモニターする装置をとりつけられ、エンダーこそが戦争を終わらせる司令官になりうると考えられた。
 訓練と模擬戦、昇進。ふたたび訓練と模擬戦。やがて10歳、11歳となり、エンダーのゲームがはじまる。エンダーは知らない。それが真の戦争であることを。知らないままに、彼はゲームを戦い、勝ち抜いていく。敵と戦う司令官になるために。そして、戦争が終わる。エンダーは、終わらせるものになった。
 彼の物語は終わり、そして、彼の物語がはじまる。本書には、続編があり、サイドストーリーがある。そして、それは今も著者により作られている。
ここでは、「エンダー」のみについて語ろう。
 さて、本書で驚くべきは、本筋のエンダーのストーリーもさることながら、インターネット社会について明確かつ正確に予測していることである。1985年当時、インターネットは黎明期であり、パソコン通信がようやく耳目を集めた頃であった。
 本書では、エンダーの兄姉が、さまざまなニュースグループにハンドル名で投稿し、そのバーチャルな地位を高め、有料かつ著名なニュースグループに招待され、寄稿し、社会に対する影響力を高め、資金も集め、人脈を広げ、情報源を得、国際政治に影響を与えるまでになっていく様子を描いている。
 そこまでの天才は2004年のインターネット界に登場していないが、インターネットで注目され、影響力を与え続けている個人、グループ、ニュースグループやメーリングリスト、メールマガジンは確実に増えている。
 韓国では、ネチズンが現実の政治を動かすまでになっており、アメリカは公式には認めていないがエシュロンという通信傍受ネットワークを稼働している。
 当時から見れば近づいたインターネット社会を鮮やかに描いているという点も、本書の特徴である。
 余談だが、即時通信システムに「アンシブル」と命名するあたり、人物を書くことにこだわるカードらしい選択である。傾向はまったく異なるが、アンシブルの生みの親・アーシュラ・K・ル・グィンもまた、子どもに注目し、人物を書くことに傾注する作家である。アンシブルつながりで、ル・グィンを読まれてはいかが?
 ついでにもうひとつ余談。ちょうどアーケードでのテレビゲームがはやっていた頃、テレビゲームのコンテストを各地で行って、地区予選、全国大会とすすみ、名人を選ぶというのが行われていた。そのころ、私は、これを裏で軍が主催し、最終戦が実は本当の戦争となっていて、戦わせるとか、優勝者には特別ゲームを別室でさせて、実はそれが本当の戦争だというストーリーを頭の中で考えては遊んでいた。きっとそのころ、そういうストーリーを考えた人は多かったことだろう。
ヒューゴー賞、ネビュラ賞受賞
(2004.06.03)

宇宙の戦士

宇宙の戦士
STARSHIP TROOPERS
ロバート・A・ハインライン
1959
 強化防護服パワード・スーツを装着した機動歩兵がポッドで射出され、惑星に降下し、クモ型の異星人と果てしない戦争を行う。学校を卒業し、市民権を得るためには2年間の志願兵になるほかはない。市民権を得なくても、人は問題なく生きていくことができる。市民権とは参政権であり、実際の行政は軍により行われる。軍人には参政権はない。
 小さなきっかけで入隊したジュリアン・ジョニー・リコは、機動歩兵に配属され、軍人として教育され、戦い、そして、自らが寄って立つ位置を得ていく。
 戦争SFとして、日本やアメリカで人気を博し、同時に議論を生んだ作品である。日本では、1966年に翻訳出版されて以来、ベトナム戦争・日米安保闘争という時代状況もあって、本書をめぐって訳者、SF評論家、読者らが議論をし、それがさらに文庫版のあとがきで再構成されるほどの問題作でもある。
 また、パワード・スーツの概念は、その後、大きなロボットを乗りこなすアニメーションを経て、身体と同様に動かすモビルスーツという概念を導入した「機動戦士ガンダム」などにも影響を与えたと言われている。
 アメリカのSFでも、ジョー・ホールドマンの「終わりなき戦争」、オースン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」は、「宇宙の戦士」の状況を色濃く反映した作品となっている。この3作品は「敵」の性質が似通っている。「終わりなき戦争」のトーランは、すべてがクローンであり個人という概念を持たない。「エンダーのゲーム」のバガーは、シロアリやハチ、アリのような社会昆虫型であり、唯一女王が意志を持ち、他の個体は、我々の細胞と同様のものに過ぎない。女王が死ねば、すべて生存できないのである。「宇宙の戦士」のクモは、頭脳グモ、女王グモ、戦闘グモなどの機能分化した社会昆虫型である。いずれも、昆虫型であり、どの戦争も、コミュニケーションが成立しないことで起こっている。
 詳細な戦いと訓練のシーン。軍というシステムの描き方。後続の「終わりなき戦争」「エンダーのゲーム」が、本書に影響を受けていることは明らかである。
 だからといって、ホールドマンやカードがハインラインの同様の哲学を持っているというわけでもない。
 日本で本書を語るとき、作品の内容のみならず、作者の立場や哲学を探るということになってしまう。
 反戦の意志が強かった70年代はもとより、自衛隊をイラン戦争に出兵させ、軍という「正しい」呼称に変え、憲法を変えるという議論が違和感なく繰り広げられる現在においても、本書は、単なるフィクションを超えた迫り方をしてくるのだ。
 それゆえ、作品それ自体ではなく、作者についても考えてしまうのであろう。
 ハインラインは、筋金入りの自由主義者であるとされる。政府も、国家も、なにもかも、個人の意志と身の律し方、道徳や宗教に依拠し、そこから帰属や自由を考える。同時に、現実主義者、たぐいまれなエンターテイナーでもある。
 アメリカ人が理想とするアメリカ人を体現しようとする作者である。
 それゆえに評価され、人気を博し、同時に唾棄される。
 強い意志をもったハリウッド映画のようなものである。
 だから、本書を単に楽しむのもよいし、戦争と平和、個人と国家、社会、自由と規制について考えるのもよい。  その点では、村上龍の「5分後の未来」も同様の作品であろう。
 本書が書かれてから半世紀、いま、アメリカは覇権国家となり、「テロとの戦い」という不明瞭な戦争の中で、国内、国外に威圧を与えている。個人と国家の関係はゆらぎ、再構成を迫られつつある。
 他者との関わりにおいて、戦争=組織化された暴力というコミュニケーション方法しか知らないというのは、不幸である。
 ところで、私が持っている版(1976年の14刷、ハヤカワSF文庫)では、スタジオぬえが表紙やイラストを描いている。このパワード・スーツ・イラストの影響力は大きかった。SFアニメ興隆期だねえ。
ヒューゴー賞受賞
(2004.5.31)

火星年代記

火星年代記
THE MARTAN CHRONICLES
レイ・ブラッドベリ
1946
 本書は、レイ・ブラッドベリの代表作である。幻想的な修辞に彩られた「もうひとつの火星」。はじめて読んだのは中学の終わりか高校のはじめの頃だった。小笠原豊樹氏の手になる美しい翻訳に感銘し、美しくも恐ろしい未来をかくも描ききることに驚愕した。
 萩尾望都の世界、本書ののちに知った内田善美の世界とも共通する世界を識る力を持つ作家である。
 年代記として、西暦をつけた短編の連作でつづられた本書でも、とりわけ忘れられないのは、冒頭の「一九九九年一月 ロケットの夏」最後の2作「二〇二六年八月 優しく雨ぞ降りしきる」「二〇二六年一〇月 百万年ピクニック」であった。「ロケットの夏」の鮮やかな光景は、物語を期待に満ちたものにした。「優しく雨ぞ降りしきる」の核戦争後の風景は、当然のようにヒロシマを思い出させ、その美しさと静かな恐怖は、70年代、80年代を通じて、私の脳裏に焼き付いた。
 今回、ずいぶんと久しぶりに読み返してみて、ちょうど本書が記した年代に生きていることに驚いてしまった。もちろん、こちらの年代記には、火星人もいなければ、彼らを疫病で絶滅にも追いやっておらず、アメリカは自由に満ちておらず、最終戦争の準備は進んでいない。戦争は続いているが。
 今回、とりわけ印象に残ったのは、「空のあなたの道へ」「第二のアッシャー邸」「オフ・シーズン」である。
「空のあなたの道へ」は、2003年6月に、黒人たちが一斉に仕事を放棄し、自由を求めて火星に旅立ってしまう物語である。本書が出版されたのは第二次世界大戦直後の1946年のことである。それでも、黒人は真の意味で解放されないことを、ブラッドベリは喝破している。
「第二のアッシャー邸」は、ブラッドベリの本領発揮である。幻想や文学を許されない社会で生み出された火星の「アッシャー邸」。現実と幻想が交差し、科学に使われるものと科学を使うものが交差する。ポーの詩が美しく生きている。
「オフ・シーズン」は、火星のホットドッグ屋の話である。「二つの世界を通じて、いちばん上等のホットドッグ! ホットドッグスタンドの一番乗り! 最上の玉葱と、唐辛子と、芥子!」を用意して、火星に来る客を待つ男の話である。おいしそうではないか。話はなんとも寂しい限りなのだが、結局誰も食べることのなかったこのホットドッグ、ぜひ食べてみたいものである。
 さて、細部の気に入った情景ばかりを書き連ねているが、本書は、多くの「火星」文学に影響を与えてきた作品である。書かれた当時として考えても、科学考証は浅いが、科学技術と人間のありようについては的確に危惧し、指摘し、幻想の力を発揮する。
 テレパシーを持ち、優しく、静かに滅んでいく火星人と、核戦争で滅んでいく地球人の対比は、時代を超えて、私たちのありようについて問いかける。
 だからこそ、科学技術=合理的だと誤った等式に頭を縛られている人たちは、本書を嫌うのであろう。人間がそもそも不合理である以上、この等式は成立しないのである。
 もちろん、本書は、書かれた時代に縛られる。核戦争の恐怖、アメリカの光と影。さらに、たとえば、「第二のアッシャー邸」では、その世界を生み出すために、周囲にDDTを1トン使って、昆虫などを抹殺するのだが、これは、DDTが安全な万能殺虫剤だったころの表現である。テレビではなく、ラジオの時代。2005年でも、地球の人口は20億人にしか過ぎず、建材は木材中心であったりする。
 古きよき、そして、今も続く恐ろしき時代を知る1冊である。
 ところで、私の手元にある本書は、ハヤカワ文庫NVである。このころ、P・K・ディックの短編集もNVだったりした。NVはノベルである。ハヤカワの不思議な時代である。
(2004.5.26)

火星夜想曲

火星夜想曲
DESOLATION ROAD
イアン・マクドナルド
1988
 原題を直訳するならば、「荒涼街道」なのである、しかし、「火星年代記」を思わせるような「火星夜想曲」というタイトルにした気持ちは分からないでもない。
 今より800年ほども未来の火星。テラフォーミングがすすみ、人が住めるようになって地球時間で3世紀弱、記号論理学のアリマンタンド博士が「緑の人」に誘われるようにたどり着いた地に腰を落ち着けた。殺人者に追われるもの、新天地を求めるもの、偶然、必然、「楽園の一駅まえの場所」に人々が集まりはじまる。やがて、町には鉄道が止まるようになり、ホテルができる。殺人事件が起こり、墓がつくられ、裁判が起こされる。アリマンタンド博士は、時間を巻き戻し、町の破滅を逃れる。滅ぶはずの滅ばなかった町では、機械の神に啓示を受けたものが生まれ、天才ハスラーが生まれ、「会社」の重役にのし上がり、やがては町を破壊するものが生まれ、労働運動家が現れ、政治家で軍の将軍になるものと対峙する破壊者が育ち、それを見つめ続けるものがあり、そして彼らは兄弟であり、親子であり、隣人であり、元恋人であり、裏切り者であり、裏切られたものであり、因縁であった。
 町は急速に育ち、大きく変容し、そして、消えていく。
 火星の新たな歴史の中で、「荒涼街道」の消長は、歴史にもならない歴史であり、最後にその歴史を記したタペストリーだけが残り、そのひ孫によって「惑星火星の北西四半球の大砂漠のまんなかにある小さな町の物語」として本書となるのであった。
 本書はリミックス手法で書かれているという。つまり、過去の様々なSFをオマージュし、そこに作者のテーマを乗せ、登場人物を泳がせ、渡らせ、歌わせるのだ。同様の手法は、ダン・シモンズの名作「ハイペリオン」シリーズにもあらわれる。本書と同様に、ひとつひとつの章に登場するひとつひとつの物語と登場人物が複雑にからみあい、混ざり合い、物語は静かに、かつ、大きく動く。
 時に読みにくく、時にうんざりするが、読み終えたとき、ひとつの歴史、多くの人生につきあってきたことに気づかされる。
 もうひとつの時間軸で、私もまた、ひとりの住民として、火星の町に暮らし、そして、去っていくのだ。
 本書には様々な寓意、含意がある。数年後発表された作者あとがきの中では、本書に込められる寓意の一部が作者によって明示されている。もちろん、テーマは重要であり、作品の意義は高い。しかし、それはすべて登場人物の人生そのものなのだ。だから、あらためて寓意、含意には触れないでおく。
 もちろん、本書には多くの遊びがある。ひとつだけ紹介しておこう。
「これは古代の宇宙船です。この世界が生命を維持するのにふさわしいかどうかを見積もるための人類の最初の試みとして、およそ八百年前にここに着陸したんです。宇宙船の名前は--ほらここに書かれています--マンデラさん、北方の船乗りを意味しています。あるいは、逐語的に訳せば、”入り江のフィヨルドに住まうもの”です。船はずいぶん、それはずいぶんまえから、ここにいたんです。この砂漠の中心に。砂漠の中心であるここでは、砂の力はとても強い」
 何を意味するかはおわかりであろう。おわかりにならなければ、火星探査の歴史をちょっとひもとけばよい。
 私の好きな作品である。
ローカス賞処女長編部門賞受賞
(2004.5.25)

極微機械ボーア・メイカー

極微機械ボーア・メイカー
THE BOHA MAKER
リンダ・ナガタ
1995
 ナノテクの魔法物語である。
 あまりにも高度な科学技術は、魔法と変わらない。
 スプレーするだけで、どんな虫も死んでしまう殺虫剤は、昔の人にとっては強力な魔法だろう。
 テレビしかり、電話しかり、電子レンジや冷蔵庫だって、ガスレンジでさえ、いや、電灯も、レトルト食品も、無菌パックの食品さえ、魔法としか見えまい。
 これは、未来の魔法のものがたりである。
 ナノテクの実用化と、ナノテクによる人体、地球、生活の改変。しかし、人の本質は変わらない。持てる者、持たざる者がいる。
 持たざる者にとって、静止軌道に軌道エレベーターでつながった天界都市は、天国というおとぎ話である。
 頭の中に、仮想人格が入り、相互訪問し、あるいは、奴隷化する「枢房」は、恐ろしい魔法である。
 魔法にかけられた人を救い、魔法を恐れ、魔法を敬いながら、生きていくしかない。
 持てる者にとって、魔法はただの技術であり、法を管理する者にとっては、規制の対象でしかない。あるいは、規制の裏をかき、自己の欲望や、自己の生存をかけて入手し、使用する道具に過ぎない。
 ハワイの作家、リンダ・ナガタ(日系人ではない)が描き出す、ナノテクが実用化された未来は、現在の延長にある。
 道具を作り、食べものをつくり、服を作り、道路を作り、病気を治すのは簡単になった未来。しかし、ものごとには表と裏がある。合法的なナノマシン=分子機械=メイカーとは、「低次知能を与えられたプログラム可能な分子機械」であり、便利な道具である。しかし、違法な者は、殺人の道具として人を溶かし、快楽のために奇形化させ、様々な悪用をされる。さらに、一度だけガイア主義者のテロリストであるリアンダー・ボーアが自律した知能をもったメイカー=ボーア・メイカーは、地球と人間を完全に変異させかねない恐るべき分子機械であった。
 地球の各国家は、連邦をつくり、生物関連、技術関連の法律を統合し、その管理を、強大な権力を持つ警察組織にゆだねた。連邦に属さない国に対しても、警察はいとも簡単に侵入し、その権力をふるう。危険なテクノロジーは、国境を選ばないからだ。科学技術による変化の波はそれによりゆるやかになったが、それでも違法なメイカーは流通し続ける。しかし、警察も、世界に影響を与えるようなもの以外は、それほどきびしく取り締まりはしない。連邦外ならばなおのことである。なぜなら、連邦外の国々は、連邦に入らない/入れないがゆえに、後進国であり、持たざる者であるからだ。
 ナノテクは、地球そのものも拡張した。軌道エレベーターのワイヤーにより、静止軌道に位置する天界都市ができあがり、持てる者たちは、この軌道上で暮らしていた。
 通常の他者との顔を合わせたコミュニケーションは、「枢房」で行われる。
 メイカーによってつくられた脳の中の組織「枢房」に招かれれば、その枢房に入り、「訪問」することができる。訪問者と仮想人格は、それぞれ、その経験を実体験のあるものとして受け止める。「枢房」はまた、世界中の情報ネットワークをむすび、所有者の情報を管理し、運用する拡張された頭脳であり、コンピュータでもある。「枢房」を訪問した仮想人格は、やがて本物の人格に戻り、その間の実在/仮想のそれぞれの記憶を融合させる。複合化された時間軸、複線化された人生が営まれる。
 もし、必要に迫られて別の天界都市に行くならば、手っ取り早い方法は、「ハードコピー」することである。自身を凍結させ、行き先の都市においてあるもうひとつの身体に、自己をダウンロードさせるのである。身体=ハードが同時に二重に起動していることは法律で許されていない。もちろん、「幽霊」すなわち「枢房」を訪ねる仮想人格ならばいくついても違法ではない。
 かつて、実験として身体改変され、宇宙空間に適応する身体をもって生まれてきたニッコーは、定められた実験期間の終了の時が、自身の身体をむしばみはじめたことに焦り、生きようと画策する。
 その弟で、天界都市で育ち、違法なメイカーの存在や、日々の食にも困る持たざる者たちの存在さえ知らなかったサンドル。
 ひょんなことから、ボーア・メイカーのホストとなり、自身が魔法使いに変わったのだと自覚する文盲の元売春婦フォージタ。
 彼らを追いつめる警察長官。
 それぞれが、自分が生き延びること、他者と自分の関係に左右されながら、物語は次第に変容を迎えていく。
 とても腑に落ちる作品だが、冒頭に書いたとおり、それは、現実の延長にしか過ぎないからだ。持てる者/持たざる者の断絶は、ここでも変わることなく続いている。  しかし、最後に、作者はひとつの問いかけを出して終わる。
 私たちは、いや、私は、私という存在とは、何を差すのだろうか。
 この身体か? 他者からの認知か? 精神か? 記憶か?
 あと、30年後に本作を読んだとき、私はどう思うのだろうか。
 本作が書かれてから10年。まだ、本作の未来は訪れていない。
ローカス賞処女長編賞受賞
(2004.5.13)

終わりなき平和

終わりなき平和
FOREVER PEACE
ジョー・ホールドマン
1997
「終わりなき戦争」の続編のようなタイトルだが、続編ではない。1974年に書かれた「戦争」は、星間戦争であり異星人との戦いであるが、「平和」の方は、地球人同士の戦争である。時代は21世紀半ば。アメリカを中心とした連合軍は、ナノ鍛造機により、強大な軍事力、経済力を誇っていたが、「反乱勢力」のゆるやかな同盟ングミ軍との間で終わりなき戦争を続けている。
 本書で出てくる第一の技術は、ナノ鍛造機である。
 ナノ鍛造機は、兵器、機械、食品、ダイヤモンドなどの奢侈品など、あらゆるものを製造できる。しかし、ナノ鍛造機の製造と管理は厳しい管理下におかれ、アメリカを中心とした連合国の経済と統合の鍵となっていた。
 そして、ナノ鍛造機の生産を制約することで政府は統制をとっていた。アメリカなどの社会は、”戦時下”におかれており、軍人以外はポイント制による厳しい配給制が敷かれていた。情報は統制され、政府は調べようと思えば、衛星や監視カメラを使って人の行動をトレースしたり、メールなどを差し押さえることができる。そして、政府は軍の実質的支配下におかれていた。豊かで「自由」な管理社会である。
 そこには新興宗教もはびこる。”人類はもうすぐ神によって破滅させられると信じて”いる終末信徒である。その中でも、神の鉄槌派は、「自分たちはそれを手助けするために呼び集められた」と信じており、大学など様々なセクターに潜んでいる。
 この戦争を、ホールドマンは次のように定義している。
“自動機械にささえられた経済を経済を享受する”持てる者”と自動的に生み出される富などもたない”持たざる者”との経済戦争という面もある。また黒人人種と褐色人種と一部の黄色人種が構成するグループと、白色人種とその他の黄色人種が構成するグループによる人種戦争という面もある。””思想的戦争という側面もあった--民主主義の守護者と、反乱勢力の強権的カリスマ的指導者の戦いか。あるいは資本主義に染まった土地の収奪者と、人民の保護者の戦いか。どちらの見方も成り立つだろう”。
“しかしこの戦争に明確な終結はありえない”。
 つまり、終わりなき戦争である。
 ここまで書いて、現実の21世紀初頭の世界がどうしてもだぶってしまう。
 911、テロへの戦い・アフガン軍事行動、イラク戦争、アメリカの愛国法、報道規制、宗教・産業・軍が一体になったかのようなアメリカ政府。各地で起こる作られた紛争。日本国内でも、軍のイラク派遣に対して反対のチラシを軍の居住エリアに撒いたことで、不法侵入に問われて裁判まで拘留され続ける市民、NGOメンバーがイラクで誘拐され、犯人ではなく、被害者が激しい非難にさらされる情報操作。世界中で煽られる対立と憎しみ。
 そして、アメリカや日本の日常の豊かな快楽と平和。
 本書は、1997年に出版されたものであり、あたりまえだが、このような状況はすでに存在していた。そのわずかな延長上の物語である。
 もうひとつの技術は、頭蓋ジャックによるヴァーチャルリアリティと精神の共有。頭蓋に穴をあけて、ジャックで接続する。ヴァーチャルリアリティ空間にいることができる。そして、全感覚、知覚を仮想空間で体験できる。複数の人間が同じように接続されると、その記憶、体験、精神までも共有される。
 この技術は、正規には軍で使われている。徴兵された「機械士」は頭蓋ジャック手術を受ける。機械士は、頭蓋に取り付けたジャックを通して、遠隔歩兵戦闘体ソルジャーボーイというマシンを操作する。ソルジャーボーイは、人体型の兵器で、これを遠隔操作するのだ。いや遠隔操作ではなく、ソルジャーボーイに乗り移る。
 さらに、機械士は、10人が1個小隊で、彼らはそれぞれのポッドの中でジャックインするたびに、全精神を共有する。”完全な精神移入状態では、おれたちは二十本の腕、二十本の足、十個の脳、五つのペニス、五つのヴァギナをもつ生きものになる”。
 個々のソルジャーボーイであると同時に、10人の共有精神体であり、小隊長は上司とつながり、他の小隊とも”浅い”精神移入でつながっている。  これが、連合軍の究極の兵器である。
 主人公のジュリアン・クラスは、ブラボー中隊の中の小隊長。10日間は連続してソルジャーボーイになる。その前後を含めた当直期間がすぎると、大学に戻り、物理学博士として研究や授業を行い、15歳年上の元指導教官をセックスフレンド兼親友にしている。
 大学周辺では自転車を乗り回す、普通の暮らし。軍では、究極の兵士として前線に出て、アメリカにいながら、10人の共有精神となり、コスタリカで敵兵を殺し、村長を誘拐し、作戦を実行する。機械士も死んだり、発狂したり、また、攻撃を受ければ痛みや苦しみを味わう。脳と肉体には激しい負荷がかかっているのだ。
 さて、物理学界は大変な興奮状態にあった。木星の軌道上にナノ鍛造機を使って粒子加速器をつくり、大離散(ビッグバン)直後の状況を再現しようというジュピター計画が進んでいた。それが、まもなく完成し、始動するのだ。
 ところが、ここから事件が起こる。それは、戦争とは関わりなく、このジュピター計画に潜む宇宙全体に影響を与える可能性であった。
 ジュピター計画を止めるためには、その危険性を無理矢理に認識させなければならない。そのために主人公を取り囲む科学者らが考えついた作戦は、戦争を終わらせ、そして、人類を変容させるものになっていく。その作戦をホールドマンは、究極の共感を持つ者として、”人間化”という言葉をあてている。
 それが皮肉なのか、彼の願いなのか。それともどちらでもあるのか。
 本書は、ナノテク、ヴァーチャルリアリティ、現代の戦争を描きながら、「幼年期の終わり」(アーサー・C・クラーク 1953)「ブラッド・ミュージック」(グレッグ・ベア 1985)年のような人類の変容までを描こうとした作品である。
 はたして、ふたつの名著と並ぶものになるかどうかは分からない。
 また、一人称と三人称による視点の使い分けで構成されており、その読みにくさは、意図的とはいえ、人によっては読む意欲を損なうかも知れない。あまりにも1冊に詰め込みすぎていて、どれも中途半端な感じを受けている。だから、論も長くなってしまった。
 すでに21世紀初頭にいる私にとって、「締まった」物語ではないのだろう。
 ちなみに、「終わりなき戦争」はハヤカワ、本書は創元から出版されている。
 ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ジョン・W・キャンベル記念賞受賞。
(2004.5.9)

終わりなき戦い

終わりなき戦い
THE FOREVER WAR
ジョー・ホールドマン
1974
「宇宙の戦士」(ロバート・A・ハインライン 1959)、「エンダーのゲーム」(オースン・スコット・カード 1977,1985)とならぶ、戦争SFの名著である。この3作品に共通するのは、少年だったり若い兵士が、厳しい訓練を経て異星人との宇宙戦争を生き抜くという設定である。3作品ともヒューゴー賞をとっており、今も読み継がれている。アメリカには間違いなく戦争SFというカテゴリーがあり、アメリカ中心主義だったり、愛国心だったり、反戦だったり、厭戦だったり、さまざまな含意を持っているが、エンターテイメント作品として厳しい戦いにさらされている。そのなかで、この3作品が与えた影響は戦争SFというカテゴリを超えて大きい。
 本作は、ハヤカワ文庫SFの「日本語版への序文」で、著者本人が書いているとおり、著者が従軍し、負傷したヴェトナム戦争がきっかけで書かれている。本作が、戦争についての何を言おうとしているのか、それについては多くの人が論じている。それは、著者がこの序文で書いているとおり、結果として、戦争終結前に書かれたものであるが、「われわれはいかにしてヴェトナムに進出したのか、あの戦争はわれわれになにをしたのか、もし撤兵しなかったら、最終的にわたしたちはどうなっていたのか」を説明したものになっている。だからといって、ヴェトナム戦争を念頭に置いて読む必要はない。2004年の今もまた、正義は人を殺し続けているのだから。  本作品は、時空を超えた恋愛ドラマであり、コミュニケーションの物語である。すべての物語はコミュニケーションについて語っているのだが、本作は、戦争が=平和が、コミュニケーションの問題であることを喝破している。
 1975年生まれのウィリアム・マンデラは、物理学者となるべく大学進学中の1997年にエリート徴兵法により、国連探検軍に徴兵され、初の星間戦争戦に臨む。コラプサー・ジャンプ航法と、相対論的加速度により時空を超え、ファイティング・スーツという強化戦闘服に身を包み、人類の住まない遠い星系の惑星にある基地をめぐって敵であるトーランと戦う。2回目の戦闘は移動する宇宙船の中で経験。主観時間で軍属2年後、地球時間で10年後の2007年。それから約1年後、地球時間で26年後の2023年に一度地球に帰還するが、地球のあまりに変貌していた。2024年、再び作戦に参加し負傷。惑星ヘブンで治療を受けるが、地球を出てから主観時間で1年後、地球年で2189年となっていた。おおよそ、20歳台終わりである。主観時間で5年後、地球年で2458年、少佐として部隊を率い、4度目の作戦行動へ。それは、もっとも遠い星系であり、相対論的時間移動、すなわち浦島効果も大きかった。作戦行動を終え、戻ってきたとき、主観時間で約2年後、地球年で3138年後となっていた。戦争はすでに集結して、彼らは最後の帰還兵となっていた。
 1997年から3138年、地球時間で1141年。主観時間ではおおよそ7年に渡るマンデラの戦いである。それは、マンデラがコミュニケーションを失い続ける物語でもある。相対論的時間旅行を経て出会う部下であり、彼にとっての未来人たちとのコミュニケーションは、次第に難しくなっていく。背景とする社会や文化の違い、言葉の変容…。異星人であるトーランとはもちろんコミュニケーションがとれない。彼らと地球人は戦うというコミュニケーション手段しか持ち得ていなかった。
 そして、唯一、本当のコミュニケーション相手である恋人との相対論的別離。
 そこに、なぜ、はない。軍人として徴兵されているのだから、戦うしかない、失うしかない、そして、生き残るしかない。軍とマンデラとの間に、そもそもコミュニケーションなどありえない。彼は、たまたま宇宙船にペットとして乗せられた去勢された猫に何よりも、誰よりも共感を覚えるほど、コミュニケーションを失ったのだ。あるのはただ、命令とコントロール。
 ややこしく書いているが、本作は、戦争SFエンターテイメント作品であり、時空を超えた恋愛ドラマである。何も気にせず読んでいても楽しい。
 最後に、本筋とは離れるが、「濃縮高蛋白質完全消化大豆牛肉風味」なんていうものを食べさせられ、「二年間、循環処理の糞尿ばかり」を食べてきたマンデラは、地球にはじめて帰還したとき、「チキン・サラダのサンドウィッチ」に言葉を失うのだった。そして、「米の上にのせられた、焼いた大きなフエダイ」というちゃんとした食事を恋人と食べるのである。どれほどおいしかったことだろう。その快感は想像もつかない。
 ヒューゴー賞、ネビュラ賞受賞
(2004.5.5)

重力の影

重力の影
TWISTOR
ジョン・クレイマー
1989
 ワシントン大学の物理学者ジョン・クレイマーの処女長編である。ハードSFで物理学者といえば、ロバート・L・フォワードが有名なところだが、フォワードよりも、「ゴム製科学」で遊んでいる分読みやすい。「ゴム製科学」とは、クレイマーいわく、本物のようにみせかけたSFのために伸び縮みさせた科学のことである。そして、さすが物理学者だけあって、付録に、どこがゴム製なのかを解説するページが用意されている。
 本書は、1993年の秋、ワシントン大学の物理学部が最初の舞台である。物理学の実験屋ポスドク=ポスト・ドクターである主人公と、同じ教室の大学院生で赤毛の美人が実験中にひょんなことから発見したツイスター場は、別の宇宙の窓口だった。
 1984年にブライアン・グリーンらが提唱し一度盛り上がった超ひも理論は、これが書かれた当時最新の物理学トピックス。ここからアイディアを引っ張り出して、この時空と平行する宇宙を生み出し、この時空との相互関係を生み出すことで、新しい魅力あふれる「もうひとつの地球」が誕生した。
 もうひとつの地球、人間がおらず、手つかずの大地というアイディアといえば、理論的背景なしにジュブナイルSFとして書かれた「ワイルドサイド」(1996 スティーヴン・グールド)を思い出す。もし、このもうひとつの地球や宇宙が、誰かの手に独占されたら、どんなことになるか。本書の主人公たちも、さんざんなトラブルに巻き込まれ、なんとか、まっとうな科学者として秘密を秘密ではなくするために奮闘する。
 最後は、自分たちが発見した装置を使って危機を脱却し、めでたしめでたし、のストーリーであるが、フォワードよりは人間が書けており、読み応えはある。
 しかし、もうひとつ、おもしろい読み方がある。赤毛の美女大学院生の弟は、一度補導歴のあるハッカー。コンピュータのアクセスを禁止されているものの、姉のマッキントッシュ3を無断借用し、4800bpsでビットネットにアクセスし、姉と主人公の指導教授の個人データをハッキングする。「まったく、このギブスンってやつ、帯域幅や送信速度限界のことなんか聞いたこともないにきまっている。ちっぽけな阿呆頭に電線をつなぐだけで瞬時に全宇宙をダウンロードできるなんて思ってんのさ。いつか暇ができたら、四千八百ボーの通信線に二、三メガバイトをダウンロードしてみてほしいもんだね」と、高校の授業で出てきたウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」(1984)をこきおろしている。舞台が1993年だから、4800bpsでも、まあ遅いとはいえいいけれど、たしか、そのころには、1.4Kのモデムが出ていたなあ。もう少し通信速度を速くしておけばよかったのに。この点では、物理学者クレイマーは、コンピュータ/通信産業の長足の進歩を予感できなかったようである。ちなみに、主人公のパソコンも登場している。「フラット・マック」である。「高解像度平面カラースクリーンを蓋に組みこんだこの小さなブリーフケース型マシン」が登場している。ラップトップ(ノート)パソコンである。マッキントッシュばかり出てくるのは、その当時だからしょうがないが、1993年のラップトップといえば、高かったなあ。NECの98ノートはモノクロ画面だったし、OSはDOSだった。94年に当時勤めていた会社にDOS/V版WINDOWS3.1搭載の初号機としてIBMのThinkPad330を1台導入し、私が使っていた。トラックポイントがなくて、まだマウスがついていた時代だ。パソコンについては、まあ、悪くはないというところかも。
 実際、近未来を予測すると、こういうことが起こる。過去から近未来を予想した本を、それより未来になってから読むのはなかなかおもしろい。著者には申し訳ないが、未来にいる読者の特権である。
 さて、話があちらこちらにいくが、本書では、「ニューロマンサー」だけでなく、いろんなSFやSF作家が登場する。「火星年代記」(1946 レイ・ブラッドベリ)は、「科学的事象に対する気ままなアプローチ」で気に入らないし、「終わりなき戦い」(1974 ジョー・ホールドマン)のあとでは、「宇宙の戦士」(1959 ロバート・A・ハインライン)もかすんでしまう。主人公の書棚にあり、ハッカーの少年が読むSF作家は、ニーヴン、ベンフォード、ブリン、ベア、ホーガン、さらにウルフの「拷問者の影」…。
 うーん、物理学者好みの、ハードSFだったり、科学者が活躍するちょっと私の嫌いな「科学万能思想」の作者群だったりするなあ。もちろん、ウルフをのぞいて、私は邦訳されているこれらの作家のほとんどを読んでいるわけで、こういう楽屋落ち的な名前の羅列も嫌いではないけれど。
 ハードSFだが、カテゴリーとしては、「もうひとつの地球」「もうひとつの宇宙」「平行世界」ものか。
 なお、超ひも理論の方は、一時静かになったものの、1990年代終わりから再び盛り上がり、2004年の今も、生き続けている。詳しくは、ブライアン・グリーンの「エレガントな宇宙」(1999原著 邦訳2001年草思社)を読まれるとよい。こちらは、SFでなく超ひも理論の提唱者が一般向けに書いた科学書である。読み応えはあるし、よく分からないところも当然素人にはあるが、それでも、わくわくする1冊だ。っと、何の書評だったっけ。
(2004.5.4)

内なる宇宙

内なる宇宙
ENTOVERSE
ジェイムズ・P・ホーガン
1991
 本書は、「星を継ぐもの」「ガニメデの優しい巨人」「巨人たちの星」三部作から10年後に出版された、続編である。時間的にも、「巨人たちの星」からそれほど経っておらず、主人公も同じである。しかし、個人的には、三部作+1作品だと思っている。
 さて、「巨人たちの星」で、地球人の同類であり異系列であるジェヴレン人の策謀を未然に防ぐことができた、地球人とテューリアン人、そして、テューリアン人の祖先であるガニメアンであるが、戦後統治は、惑星ジェヴレンの人工知能ネットワークシステム・ジェヴェックスを実質的に停止した状態でガニメアンを中心に行われていた。地球人は、ガニメアンを補佐するかたちでジェヴレンに入っていたが、その中には、政府関係者だけでなく、ホテル、闇の売人など様々な人種が混ざっていた。ジェヴレン人のおおかたは無気力になり、そして、ふたつの宗教勢力が力を発揮して、社会は次第に混乱に陥った。そこで、ガニメアンのリーダー・ガルースは、旧知の物理学者、ヴィクター・ハント博士に力を貸してくれと頼むのだった。
 ここからは、種明かしが含まれます。読んでいない方は、ご容赦を。
 本書も、前著に続き、ヴァーチャルリアリティと人工知能の存在がクローズアップされる。本書では、全人格、知覚型のヴァーチャルリアリティに入り込み、かつ、それをコントロールする人工知能が、その人の無意識領域までを実体化できるとなると、人間(地球人、ジェヴレン人)は、妄想の世界を構築し、そこに麻薬のような依存性を持ってしまうことを示唆する。これについては、ビデオゲームやネットゲームなどの進化過程で、さかんに言われていることであり、本書が書かれた80年代末から90年代頭にかけて、人工知能論、ヴァーチャルリアリティ論は、最初の盛り上がりを見せていたから、その中から生まれてきた発想であろう。
 さらに、そのような、全惑星的人工知能とネットワークシステムを維持するには、きわめて大きなコンピュータシステムが必要であり、そのシステムのマトリックスで励起した演算素子を基本粒子とした新たな宇宙が誕生し、マトリックスで進行する計算とは別に、世界の中で生命が誕生し、進化し、知性を持つ。内なる宇宙であり、エント人である。エント人は、マトリックスにおける演算素子の流れ=データフローを見ることができ、やがて、ヴァーチャルリアリティに入るため全人格的につながっている別の知性=ジェヴレン人に転移することを覚えていく。
 転移した世界すなわちジェヴレン人の中で、ヴァーチャルリアリティにいた人格は消え、エント人がジェヴレン人の体を乗っ取る。その多くは適応できず、狐つきのような状態で狂ってしまう。しかし、何人かは正気を保ち、この世界と折り合いをつけていく。
 エント人の世界でも、2つの勢力の争いがあり、それが、ジェヴレン人のふたつの宗教勢力の争いであった。ひとつの勢力は、混乱が続く中、この世界での権力をとり、自勢力のエント人を、この世界に多数引き入れようとする。そのためには、切断されているネットワークシステム、ジェヴェックスの完全起動が不可欠である。
 ということで、内なる宇宙の謎解きと、ジェヴェックスの再稼働をめぐり、さまざまな物語が進行する。
 実は、私は、これが邦訳で出版された1993年にハード・カバーで本書を買っている。2冊である。一度読んだっきり、忘れてしまっていた。
 久しぶりに、「星を継ぐもの」三部作を読み返し、書評を書き、何か忘れているような気がして、調べてみると「内なる宇宙」という続編に行き当たり、それがわが家の本棚に並んでいたという次第である。そこで、ふたたびほんしょを取りだし、再読し始めたのだが、正直なところ苦痛であった。
 1993年当時、まだ、インターネットは日常化されておらず、せいぜい、パソコン通信の時代である。WINDOWS3.1が登場した頃で、まだまだ、NEC9801+MS-DOSが現役の時代である。
 すでに、人工知能論やヴァーチャルリアリティ論は出尽くした感があったものの、現実感はなく、それは未来の話であった。だから、そのときはきっと、それほど苦痛でなく読めたのである。
 しかし、2004年の現在、本書を読むと、構成は違うし、内なる宇宙ではなく、マトリックスの中の独立した機械人格と人工知能人格ではあるが、映画「マトリックス」三部作の中で、同じような世界は描かれている。
 また、本書は、前著までのような、1冊ごとのテーマ性も少ない。
 一応、本シリーズは、謎解き的な展開になっているが、謎解きの必然性も薄い。
 さらにいえば、このヴァーチャルリアリティと内なる宇宙の誕生というテーマは、別に「星を継ぐもの」三部作の世界でなくても構築できる。後日談としてのおもしろ味にも欠ける。
 もともと、人間描写のおもしろくないホーガンが、さらに人間をたくさん書いているのだから、ますますつまらない。
 ということで、すっかり私の頭から追い出してしまっていた作品である。
 それでも、「星を継ぐもの」三部作の続編が読みたいという方には、おすすめする。
 それから、ヴァーチャルリアリティの問題点や、マトリックスシステムの中の知性といったテーマに興味があり、そういう内容について漏らさず読んでおきたいという方にはおすすめである。
 仮説として、正当性があるかどうかは分からないが、コンピュータシステム、しかも、今、我々が現実に使用しているようなハードなシステムの中で生まれる宇宙という概念はおもしろいかも知れないし、それを生み出すホーガンの力量は否定できないのだから。
(2004.4.28)