火星の虹

火星の虹
MARTIAN RAINBOW
ロバート・L・フォワード
1991
 2038年、火星。火星には水があり、すでにロシアのネオコミュニストによる基地があり、研究、資源開発がはじめられていた。新国連を牛耳るアメリカを中心とした軍が火星の制圧に乗り出し、成功を収める。新国連軍を指揮するのはアメリカのアレクサンダー・アームストロング将軍、最高指揮官は惑星物理学者のオーガスタス(ガス)・アームストロング博士。一卵性双生児である。みごと奇襲作戦を成功させ、アレクサンダー将軍は地球へ凱旋。一方のガスは、アメリカの火星研究開発機関であるセーガン火星協会の初代会長として、火星で指揮をとる。反ネオコミュニストのアレクサンダー将軍は、帰還途中に火星のネオコミュニスト人民委員を殺害したため、軍から事実上の降格を命じられ、アメリカ議会で、ネオコミュニストを殲滅させるべきだと激した上、将軍を辞任、そして、集金マシンとして勢力を拡大していた合一教の影の支配者と出会い、新たな合一教の「神」としてカリスマ性をあらわにする。やがて、アレクサンダーはアメリカ大統領になり、世界は彼の恐怖の下に統一させられていく。
 火星は、アメリカ管理下の新国連自治領となり、ガスがセーガン火星協会の会長、自治政府としてクリス・ストーカーが火星長官となり、アメリカ人を中心に、ロシア人、EEC(ヨーロッパ)、日本などが協力して円満に運営されていた。しかし、アレクサンダーの影響は火星にもおよびはじめ、火星は自立をめざして静かな戦いをはじめる。
 こう書くと、火星の独立ものの人間ドラマかと思うのだが、物理学者のフォワード博士が書くSFである。人間と人間関係、性格、行動のつじつまが合わない。ステレオタイプな性格と行動…。このあたりは中だるみしてしまう。
 しかし、本書は、それまでに得られた火星の知識をたっぷりと詰め込んだ、火星探査ガイドブックでもある。火星の地形、風景、生きるために必要な道具や工夫がたっぷりと書き込まれていて、火星を実体験することができる。
 人間にとって火星を住みやすくするためにはテラフォーミングが必要だが、そのために必要な方法や可能性についてもきちんと述べた上で、SFとして短期間にテラフォーミングをする離れ業を紹介している。
 それが、火星生命体ラインアップ。あいかわらず、人間以外のものについてはおもしろく書けるフォワード博士。しかし、読み終えて気がつかされるのは、このラインアップが登場する意義である。つまり、火星のテラフォーミングを短期間で行うために、ラインアップを登場させずにはいられず、火星でラインアップのような存在が成立するためにはさらに、別の要素を登場させざるを得なかったのだ。読み終えてみると、無理があるのだが、読んでいるときは、まあいいかという気にさせられる。それは、人間の書き込みが荒唐無稽なだけに、ラインアップの存在に無理を感じなくなるからだ。火星の特性やSFとして登場させた生命体に命を吹き込むため、人間を下手に書くという、フォワード博士の深遠な計画なのだろうか。
 さらに、フォワード博士の楽天思想は、統一された地球がふたたび小さな独立自治を果たす過程で武力放棄、紛争の除去などが達成されたと読ませる。お気楽である。SFだからそれでいいのだ、ということか。
 本書は、1991年に出版された。本書の中でも、それから前書きの中でも紹介されているが、ロバート・A・ハインラインの「月は無慈悲な夜の女王」の火星版であり、「動乱2100」以降にハインライン自らが「書かれざる物語」と読んだ作品のプロットを小説化したものである。宗教と強大な軍事力を持つ恐怖政治が地球を支配し、人々を苦しめ、火星などの植民地は自立に向けた戦いをするという物語である。しかし、根っからのSF馬鹿大将であるハインラインが書く強烈な個性的キャラクターをまねするには、フォワード博士は人が書けない。その点は残念。もし、ハインラインが人を書き、フォワード博士が科学部分を書き込んだら、もっとおもしろいのに。
 付録に火星自治領の第二代長官であるモーリー・ピックフォードによる「新版火星開拓者ガイド」(西暦2047年、火星歴025刊)がついている。本書を読んだ後、この火星開拓ガイドで火星生活を夢見るのは楽しいかも。
PS
実は、J・P・ホーガンの「星を継ぐもの」3部作+1を再読しつつ、本書の再読にとりかかったのだが、物理的なトリックを書き込むおもしろさと、人間記述の下手さ、さらに、法外な楽天性や科学万能性あたり、ホーガンとフォワードはよく似ているのではなかろうか。
2004.4.26

斜線都市

斜線都市
SLANT
グレッグ・ベア
1997
「女王天使」「凍月」「火星転移」と同じ世界の物語である。「女王天使」が2047年、「斜線都市」本書は8年後の2055年が舞台となり、「女王天使」の登場人物が新たな役割を持って登場する。
 テーマは、なんだろう。
 家族? 同族意識? 存在・意識がどこかに所属することの意味? 原著名は、「/」。日本語ではスラッシュと呼ぶ、あれである。男/女、精神/身体、個人/社会、切り離すもの/切り離されるもの、つなぐ/つながれる。「/」は、言語学や人類学でよく使われる記号である。「する/される」関係であったり、何かを区分するのに使われる。それは、分けるものであり、つなぐものでもある。
 自意識を持ったはじめての人工知能「思考体」に接してきた、似ているが異質な別の思考体。その異質さゆえに、おびえ、かつ惹かれる思考体ジル。新たな思考体は、バクテリアや社会性昆虫などのネットワークを、神経系としてとらえると、コンピュータおよびネットワークとして利用できるという仮説から生まれた存在。スズメバチ、アリ、バクテリア、土壌微生物のかもしだすコンピュータであり、思考体となる。
 セラピーによる神経系の改変、再統合が当たり前の社会。医療ナノによる身体治療と身体改変が行われる社会。視覚や聴覚だけでなく、感覚系や運動系にまでインプットを与えることで、疑似体験が可能なYOXにおぼれる社会。それは、リアルなセックスよりも刺激的な体験。過去の有名人は、シム(シミュラクラ)として復元され、パーティの余興に使われる。金持ちは、死体を冷凍し、仮想存在として「存在」を続け、死にかけた死体は、ナノの海でネットワークと接続し、長い夢を見る。
 シアトルに移ったマリア・チョイは、その美しい漆黒の改変した身体を徐々に元に戻そうとしている。シアトルの警察に受け入れられているか、受け入れられていないか、自分の立場に自信を失いながら。不安定な身体、不安定な社会的位置づけ。
 会社社長のジョナサンは、妻や子どもとの関係が崩れかけていることに恐れながら、誘われるままに秘密結社の戸をたたく。本当の自分を求めて。
 テロリストのギフィは、謎の存在。自分の謎にすら気づかない、ペルソナ。
 人々は生まれ、家族や仕事を持ち、他者と関わり、受け入れられ、拒絶され、死んでいく。そこに確かにある。苦しみも、悲しみも、喜びも、救いも、慰めも。
 セラピーやナノによる「松葉杖」をすべて取り除く病原体をつくり、人々に感染させ、社会を崩壊に導こうとする秘密結社の試み。その悲劇。
 ここにあるのはP・K・ディックとは似ているが違うかたちの慰めと希望の物語。
 保護された感覚ポルノ女優のアリスのいる自宅に、すべてを終えて帰ってきたマリアが帰宅する。そこで交わされるささやかな会話と情景。
 すべてを終え、失って帰ってきたジョナサンと、すべてが変わった妻、そして子どもたち。その再会のささやかな情景。
 すべてを失い、すべてを得て帰ってきた思考体ジルとそれを迎えるスタッフのささやかな会話と情景。
 そして、すべてを失い、なくし、何かを残した男は、なすべきことを覚えていた。
 その結語の意味を知るために、本書を通読する価値はある。
 もちろん、ナノテク、人工知性などに興味がある人にもおすすめ。
2004.4.20

巨人たちの星

巨人たちの星
GIANTS’STAR
ジェイムズ・P・ホーガン
1981
「星を継ぐもの」「ガニメデの優しい巨人」に続く、三部作最終編である。
「星を継ぐもの」はSFであり、ミステリーなので、続編には前編の種明かしがつまっている。「星を継ぐもの」を読んでいない人は、本評を読まないことをおすすめしておく。
 こちらは、政治サスペンス風になっている。地球では、国連、アメリカ、ソヴィエトの三極に、得体の知れない暗躍組織の影があり、様々な綱引きが行われている。
 巨人たちの星の星系には、移住したガニメアン=テューリアン人のみならず、5万年前のミネルヴァの崩壊に際し助けたジェヴレン人がテューリアン人の導きを受けながら自立と勢力拡大への道をたどっていた。
 テューリアン人は、2500万年前の人工知能ゾラックのはるかな上を行く人工知能ヴィザーによるネットワークと、究極のヴァーチャルリアリティにより、身体を移動させなくても、その入出力装置とネットワーク端末さえあれば完璧な身体感覚とともにどこにでも行き、人と会うしくみをととのえていた。交通、知識、都市管理、生産、個人生活などすべてにわたって、ヴィザーが管理している社会であった。
 5万年前に保護されたジェヴレン人は、やがて自立とヴィザーのような独自の人工知能ジェヴェックスを求め、テューリアン人からそれを得る。
 地球人=ルナリアン=実はミネルヴァのジェヴレン人とは対立していたセリアンの末裔は、テューリアン人によって歴史を見守られていた。しかし、テューリアン人に対し、好戦性をなくしたと信じ込ませたジェヴレン人は、地球人の「監視」を自ら引き受けることを要求し、それを得ていた。地球人に対する誤った情報が、ジェヴレン人/ジェヴェックスを通じ、テューリアン人/ヴィザーに流され続けてきた。
 そんなときである。
 2500万年前からガニメアン人がガニメデに到着し、地球人と友好的に接触、そして、巨人たちの星を目指して出発したのは…。
 地球人=仇敵セリアンと、テューリアン人を抑え込み、自らを銀河の後継者として立ちたいジェヴレン人は、ガニメアン人の船を破壊しようともくろむ。
 地球内部の政治と、これらの勢力の綱引きが本書を貫く。
 さらには、地球の歴史、宗教、非科学的なすべての行為の背景に、恐るべき陰謀があったことを暴き出す。反核運動もまた、科学の進歩を妨げる妨害工作であった…。
 ヴィクター・ハント博士が、またまた大活躍。
 今回は、特定の彼女もできたし、上司のコールドウェルや、国務省、ソヴィエト軍情報部あがりの国連代表部など、たくさんの登場人物も待っている。
 SF的な要素として見るべきところは、ヴァーチャルリアリティと人工知能であろうか。ブラックホール推進やタイムパラドックスなど、そのほかにもいろいろ出てくるが、ヴァーチャルリアリティの表現は、なかなか堂に入ったものである。
 それにしても、この楽天的な作家は、究極の悪として悪意を吹き込まれた人工知能を登場させることで、人間の性善説を引き出している。本書で、いかに人間が好戦的か、それがいかに遺伝子に刷り込まれているかを盛んに喧伝しながらも、やっぱりいい人ばっかりになってしまう。
 そして、本作は、前作にもまして、科学技術万歳思想に満ちている。科学の進歩こそが、人類の様々な問題を解決し、優れた、よりよい、安全で、平和な世界を作ると確信している。そんなわけないって。
 科学=知識も、技術=道具も、使うもの次第である。
 そして、人は、常にとんでもない使い道を思いつくのだ。
 いいこともあれば、信じられないようなことにも使う。
 そして、使いたがるのだ。
 核だって、放射線、放射性物質の管理やその被害、影響の大きさ、封じ込め方、将来の処理などを考えずに、技術を使いたいがために、原子力発電所などを作ってしまう。使ってしまう。爆発させて、「実験」してしまう。
 それを、進歩の過程の失敗と軽く片づけることはできない。
 その下で、人が苦しみ、死ぬのだから。
 と、時々、この楽観主義、科学万能主義に腹を立てつつも、やはり、ホーガンは読んでしまう。たとえ、さらに、とんでもないご都合設定があったとしても、だ。
 それが、ホーガンの作家としての力量なのだろう。
 あいかわらず人間を書くのは下手であり、読んでいて顔が赤くなったりもするが、この人に、科学を語らせたら、拝科学主義者であるだけに、いっぱしのことはある。
 人工知能については、この後、ホーガンが「未来のふたつの顔」で人工知能そのものをテーマにしている。今回は、人工知能の意志や人工知能に頼り切った社会のもろさも描かれている。魅力ある人工知能の知性は、人間よりよく書けているかもしれない。
 しかし、こういう人工知能にすべてをまかせた社会って、もろくないか。
 私も、気を付けよう。
 あらすじ解説みたいな前作の評同様、今回もとりとめなくなってしまったが、ご容赦を。三部作終了である。
 おっと。それで、解決されないままに放り投げられたタイムパラドックスは、どうなってしまったのだろう。
 ところで、三部作終了と書いたが、実は続編が出ている。1991年に出版された「内なる宇宙」。10年後に書かれた続編ですが、私は個人的に三部作+1だと思っている。それについては、「内なる宇宙」の論評で。
(2004.4.13)

ガニメデの優しい巨人

ガニメデの優しい巨人
THE GENTLE GIANTS OF GANYMEDE
ジェイムズ・P・ホーガン
1978
「星を継ぐもの」の続編である。「星を継ぐもの」はSFであり、ミステリーなので、続編には前編の種明かしがつまっている。「星を継ぐもの」を読んでいない人は、本評を読まないことをおすすめしておく。
 前作に続き、高校の頃に読んだのだが、前作と違い、あまり記憶と印象がない。
 さて、太陽系第五惑星ミネルヴァでは、後に人類がガニメアンと名付ける知性生命体が進化し、現在の人類よりはるかに進んだ科学文明を築いていた。2500万年前、ミネルヴァの長期的な環境変化はガニメアンの生命をおびやかすものとなり、ガニメアンは第三惑星地球の動物を収拾して、その機能を取り込む実験を開始する。しかし、実験は失敗したらしく、ガニメアンは姿を消し、かわりにミネルヴァの環境に適応した地球生まれの動物がミネルヴァの生態系に位置する。そして、そこで人類は進化し、戦い、5万年前に、ついに、惑星そのものを破壊するような戦争を迎えてしまう。ミネルヴァはアステロイドベルトと化し、ミネルヴァの月は、太陽に引かれ、やがて衛星を持たなかった第三惑星の軌道に落ち着く。そして、ミネルヴァの月に生き残ったミネルヴァ生まれの人間は、地球に降り立ち、進化しつつあった人類ネアンダール人を滅ぼし、新たな歴史を生み出した。
 そして、2027年、月で、宇宙服を着た死体を発見し、ルナリアンと命名。5万年前の死体をめぐって、謎を解き明かすのが前作「星を継ぐもの」であった。
「星を継ぐもの」では、木星の衛星ガニメデの氷の中から、巨大な宇宙船を発見する。2500万年前のもので、そこには、当時の地球の動物たちと、巨大な異星人ガニメアンの死体があった。ガニメアンの死体から、ガニメアンはミネルヴァで進化した生命であり、ガニメアンが地球の動物をミネルヴァに運んでいたことが推理さた。
 主人公のヴィクター・ハント博士が、ガニメデで調査研究を続けている、まさにそのとき、実験的に起動させた宇宙船の装置が発した信号により、巨大な宇宙船がガニメデに接近。それは、生きたガニメアンであった。
 当初、ミネルヴァを捨て、遠い恒星に旅立ったガニメアンかと思われたが、実は彼らは、2500万年前、ミネルヴァの危機を回避するために別の恒星系で実験をしていた科学者たちであった。実験中のトラブルで、恒星系を緊急離脱することとなったが、修理中の宇宙船での緊急離脱だったため、ミネルヴァに戻るまで船内時間で20年、そして、太陽系の実時間では2500万年の時を経ていたのだ。
 奇しくも、まさに人類が、ルナリアンとガニメアンを発見し、太陽系第五惑星の謎を解き、人類の不思議な進化について驚きをみせた、その時に、2500万年の時空を経て、生きたガニメアンに会うのである。
 うーむ。ものすごいご都合主義である。ここまですごいと、かえって文句が言えなくなる。この「偶然」を導入することで、新たな謎解きが始まる。なぜならば、帰ってきたガニメアン達は、地球の動物をミネルヴァに運んだ事実を知らなかった。それは、彼らが行ったあとの出来事だったのだ。
 ガニメアン達と人類は、お互いに協力しながら、欠けた輪をつなごうとする。ミネルヴァはどうなったのか。ガニメアン達はどこにいったのか。人類はどうやってミネルヴァで進化したのか。なぜ、ガニメアンは、地球の動物をミネルヴァに運んだのか? そして、ミネルヴァ産の動物と、地球産の動物に見られるひとつの酵素の違いの意味は?
 そうして、新たな謎解きがはじまった。
 本書では、ガニメアンが自らに遺伝子操作をしていることが明らかにされ、そのことに地球人達は驚きを隠さない。生命の改変までいとわない態度に驚嘆する。
…地球人は遺伝子組み換えにはおよび腰である。(本文306ページ:創元推理文庫SF)
 本書が書かれた当時、すでに遺伝子組み換えやクローンの可能性は現実のものとして受け止められ、その倫理性について議論がはじまっていた。まだ、実験段階のものであったが、生命の本質に手を付けることに、文化的、宗教的、社会的忌避と、科学的な懐疑が上げられていたのである。
 残念ながら、その後、遺伝子組み換えもクローンも実用化され、遺伝子組み換えにいたっては、商業商品作物として、大規模に栽培されている。
 科学技術万歳主義のホーガンであっても、地球人の未来の態度について「および腰」と書いたほどであったのだから、もっと議論をすべきであった。
 もちろん、今でも遅くない。
 おっと、失礼。話が横道にそれてしまった。
 本書のは、ファーストコンタクト小説でもある。前作では、生きた異星人に会うことはなかったが、本作では、生きたガニメアンと人類との接触が話の中心である。ガニメデでの科学者・軍人とのざっくらばらんな出会いと交流。地球から届く、形式張った指令。地球の熱狂的な興奮、地球でのセレモニー、交歓。
 本当に、ホーガンが書く人間には毒がない。せいぜい、国連を舞台にした国同士の綱引きが少しだけ語られるだけである。陰謀も、暗殺も、異星人に対する恐怖も、忌避も、パニックも書かれない。ほのぼのとしたファーストコンタクトである。
 さりげなく、ガニメアン側に人工知能が出てきたりもする。それにより、言葉の壁や情報の壁がいとも簡単に取り除かれる。ホーガンらしい。このあたりは、現実離れしているが、もともと、最初の設定が設定だけに、気にしないことだ。それに、現実のファーストコンタクトがどうなるか、誰も分からないのだから。それでも、小説として成り立っているのが、ホーガンのホーガンたるゆえんである。
 さて、ガニメアンの科学者とハント博士ら地球人の科学者はそれぞれに、真の秘密に気がついてしまう。地球人もまた、遺伝子操作を受けていたのだ。
 ガニメアンは、地球人=ルナリアンが経てきた苦難の歴史を思い、彼らが地球に居続けることで起こる衝突を避けるため、地球を離れ、ルナリアンが言い伝えてきた「巨人の星」に向かって再び旅をはじめた。
 「巨人の星」である。もちろん、あの「巨人の星」ではない。星君。巨人軍は永遠に不滅なのだ。ではなく、実は「巨人たちの星」であった。ということで、続編であり、三部作の最後を飾るのは「巨人たちの星」である。
 ということで、さらなるご都合を用意し、もうひとひねりの謎を加え、第三部へ続くのだ。
(2004.4.13)

星を継ぐもの

星を継ぐもの
INHERIT THE STARS
ジェイムズ・P・ホーガン
1977
 専門化した科学知識を組み合わせ、統合して新しい発見・知見を得るというのは、私の夢であった。高校生の頃、あこがれた職業は、そういう立場の者になることだった。
「宇宙船ビーグル号」の総合科学、「ファウンデーション」の心理歴史学、そして、本書に出てくるヴィクター・ハント博士…、そういう仕事がきっとあると思っていた。
 大人になって気がついたのだが、そんな仕事は、どこにでも転がっていて、どんなことでもあてはまることだった。門外のことにアンテナを張り巡らせ、自説や常識にこだわらず、組み合わせ、直感を大切にする。それだけのことだ。料理だって、データ収集・分析だって、商売だって同じことだった。
 ただ、そういう能力の開発が日本の教育課程の中で評価されにくいことだけは、高校生の私にも分かっていた。  だから、本書は夢であり、希望の話だった。
 さまざまな断片を組み合わせ、新しい情報を生み、それが、新たな動きと、新たな自分の役割を作っていく。拡大循環的で双方向の動きに心を大きく動かした。
 世間知らずな若者の無鉄砲なあこがれだったが、今もそれは変わっていない。
 私は科学者ではない。しかし、本書は、私が今の私を選ぶための動機を与えた一冊である。
「星を継ぐもの」は、ジェイムズ・P・ホーガンの長編第一作であり、「ガニメデの優しい巨人」「巨人たちの星」の三部作第一作である。
 2027年、月の土木調査中に、赤い宇宙服を着た死体が発見された。それは、人間の男だったが、調べてみると5万年前に死んでいた。この男はどこから来たのか? 人類との関わりは? どこで進化したのか? 地球上だとすれば、文明の痕跡はどこへ行ったのか?
 様々な研究が進めば進むほど、相反する証拠ばかりが出てくる。
 地球の生態系とは明らかに異なる進化をした魚、やがて発見される異星人の死体。
 本当の答えは?
 最後は、あっという、そしてなるほどという答えを用意している。
 答えを知って読むと、興ざめてしまうので、ここではねたばれを避けておくが、初出当時、ミステリ誌でも評価された作品である。70年代を代表するSFであり、上質のミステリーとして、ホーガンの名を世界に知らしめた作品である。
 ホーガンが書く初期の作品には、科学や技術の発展に対しての懐疑はない。むしろ、科学や技術の発展を突き詰めていくうちに、今ある問題は必ず解決できるはずだという楽観的な立場をとっている。それは、人間に対する楽観主義でもある。楽観しすぎるところもあるが、本作品では、人間の精神の動きはあまり重要な要素を持たず、ただただ謎ときだけなので、読むのに苦痛はない。
 なぜか知らないが、最近になってあちこちの大型書店で平積みされ、手書きのPOPで紹介されている。初版が1980年、私が買ったとき1982年で12判を数えていた。それから20年余。すでに、書かれている科学的知識のいくつかはその後発見された事実により覆されている。また、インターネットやコンピュータ社会についても、本書はそこそこ適切な未来を描いているが、やはり古さを感じてしまう。なのに、SF以外の人たちに多く読み継がれているのは不思議なことだ。  上質なミステリーなのだろう。
 願わくば、これをきっかけに、最近のSFにも手を出してみて欲しい。
 グレッグ・ベアあたり、読みやすいかもしれない。
(2004.4.13)

地球の長い午後

地球の長い午後
HOTHOUSE
ブライアン・W・オールディス
1962
 オールディスはイギリスの作家である。イギリスでは「温室HOTHOUSE」という原題だったが、アメリカでのペーパーバックでは、「THE LONG AFTERNOON OF EARTH」となっていて、これを直訳したのが邦題になっている。美しい邦題である。
 たしか中学の終わりか高校に入った頃に本書を読んでいる。以来読んでいなかったのだが、私の頭の中では、人間の若く美しい女が主人公で、緑色をした植物と融合した人間と、巨大な林檎のような中に暮らしていて、その実をまるで芋虫のように食べながら過ごし、やがてこの緑色の植物人間が何かのきっかけで悲しむ女を慰めているうちに、そのままセックスにいたるというシーンがあったと記憶していた。
 そして、異星人が地球の生命の収穫に来るのだ。
 違った。
 たしかに、緑色の植物人間が悲しむ女を慰めているうちに調子にのってセックスにいたるシーンはある。しかし、林檎の実の中ではない。主要人物だが、主人公でもない。異星人なんて出てきやしない。
 ありゃあ。記憶の罠である。
 とにかく、変な名前の変な植物がたくさんでてくる。動物がほとんどいなくなった世界で動くことを覚えた植物である。中でも、人間や他の植物、動物にとりついて、知性を使ってそれらをコントロールするアミガサタケには圧倒される。
 いろんな漫画や小説にオマージュされている。
 どうして、私はこちらを覚えていないのだろう。
 若かったからな。なんかセックス的なものに心が奪われていたのだろう。
 アミガサタケは、その後、本書を離れ、知能や身体能力を強化する「外套」として、いろんなSFに登場していくこととなる。
 もちろん、人体に融合して乗っ取る生命体というのは、それ以前にもあったことだろうが、このアミガサタケほど印象深いものはなかなかいない。それは、本書に出てくる世界の中でアミガサタケの存在感が生きているということでもある。
 ツナワタリ、ダンマリ、ヒツボ、スナタコ、ジゴクヤナギ、アシタカ…そして、ハガネシロアリ、トラバチ、ポンポン、トンガリ、ウミツキ、それぞれが奇妙で、それでいていてもおかしくない説得力を持っている。そんな世界だからこそ、アミガサタケは本書を超えて生きているのだ。
 地球の自転が止まっていて地球の片面だけが熱っしているのに、気候が比較的安定しているとか、設定の不思議さは忘れよう。
 本書は、一級のファンタジーであり、人間の想像力の豊かさを示す好例なのだから。
 ちなみに、椎名誠が1980年代の終わりに書き、1990年の日本SF大賞作となった「アド・バード」は、本書のオマージュである。こちらを読んで楽しんだ方は、ぜひ、オリジナルである「地球の長い午後」を一読されることをおすすめする。おもしろいよ。
 ヒューゴー賞受賞
(2004.4.11)

ホログラム街の女

ホログラム街の女
DYDEETOWN WORLD
F・ポール・ウィルスン
1989
 SFとハードボイルドは意外と相性がいい。くたびれた開拓星のバー、荒廃した未来の下町、やさぐれた男、町になじまない女…。どんな設定でもいい。心根は優しいのに、斜に構えてしまった男や女、あるいは出口をなくしてしまった男や女が生きる場所を見つけさえすれば。
 市民権の与えられないクローン。昔の俳優や女優を快楽の道具、商売の道具として再生する街。
 存在の否定された落とし子達。厳格な出産制限で違法出産された子どもは、生まれた直後から親と離れ、市民権を持たずに闇の中で生きるしかない。市民権はなくても社会的に認知されたクローンよりも下の存在。
 そして、市民、真民。太陽系外世界に行くことができる唯一の存在。管理された社会が嫌なもの達は自由世界に向かって行く。残されたもの達は、管理された偽りの社会を生きる。
 ここに私立探偵がいる。妻が子どもを連れて外の星に行ってしまった。男を見捨てて。男は、頭に穴をあけ、バーチャルなセックスにおぼれる日々。もちろん、金はない。仕事もない。
 久々の依頼人はクローンの女。以前、しぶしぶながらクローンの女の依頼を引き受けたのが評判になっているらしい。クローンは嫌いだと、首を振る私立探偵。
 しかし、最後は仕事を引き受けてしまう。おそらく金のため。おそらく好奇心。おそらく女を追い払うのが面倒になったから。おそらく男に騙されているのにまったく気づかない女に少しだけ同情を覚え、騙した男に少しだけ怒りを覚えたから。たいした理由ではない。
 管理されたデータネット。ニュースも管理され、クレジットカードですべての動きは把握される。金貨は足の付かない裏の金。身分をごまかすならばホログラムスーツを身にまとえばよい。全身が別人のように見える。ニュースネットをハッキングして真実をかいまみせる者。データベースに侵入して、金をかせぐ者。クスリを売る者。クスリを買うもの。
 小さなガジェットでつづられる、あるかもしれない未来。いるかもしれない男。
 小説の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」ではなく、映画の「ブレードランナー」の世界。映画「JM」の世界。つまりは軽い読み物。
 人を見下すシステムに対する怒りのお話。ひとりひとりの人間の存在など気にしない権力やありように対する怒りのお話。どこにでもある話。だから、ついつい読んでしまう。
 ただ、ねたばれになりそうな話は書けない。
(2004.4.8)

砂漠の惑星

砂漠の惑星
NIEZWYCIEZONY
スタニスワフ・レム
1964
 遭難した探査船を探し、原因を突き止めるため、レギス第三惑星に100名を超すスタッフを乗せたロケット「無敵号」が到着した。海にしか生命が存在しない、陸上は動物も植物もない砂漠の惑星で、なぜ、探査船は遭難したのか? そこで出会った存在は、意志の疎通などとりようのない「存在」であった。「無敵号」とスタッフを襲う「存在」。
「ソラリスの陽のもとに」で知られるポーランドのSF作家スタニスワフ・レムが、「ソラリス」と同じテーマ、すなわち人類とは本質的に異質な存在との接触について書いた作品である。
 自律ロボットが長い年月の中で多様な進化を果たし、唯一勝ち残った形態のみが存在する世界。最小のパーツがそれぞれに自律し、かつ、集合することで高度な機能を発揮する存在。蟻や蜂の社会にも似たシステムを持つが、中心核や機能分化はない。ただ続くだけの存在。その存在意義を問う意味があるのか?
 擬人化し、意志があるもののように振る舞うスタッフが多い中で、主人公のロハンは考える。
…重要なことは、単に人間に似ているような生物を探し出すことでもなければ、そのような生物の存在だけを理解することでもない。さらに人間に関係のないようなことがらには干渉しないという心の広さが必要なのだ。干渉したところで、得るものは何もない。当たり前の話だ……現実に存在しているものに対して攻撃を加えてはいけない。数百万年のあいだに、自然法則以外の何ものにも支配されない独自の安定状態をつくり出して活動している存在に対して、攻撃を加えてはならない。それらの存在は、われわれが動物あるいは人間と呼んでいる蛋白質的化合物の存在に較べて、決して勝るものではないにしても、しかし、決して劣るものではないのだ。(早川文庫SF版212ページ)
 嵐と戦うものはいないのだ。
 意志の疎通ができる宇宙人ではない。侵略など意志を持った行為を行う宇宙人でもない。無視すれば通り過ぎる存在でもない。そこに生命や機械が降り立ち、存在と行き会えば存在はただ反応するだけだ。その反応は、人の記憶を消去し、通信を遮断し、結果として破壊する。そこに意味も、意志もない。ただ、そこに行った人類の意志が反映し反応されるだけだ。なんという存在、なんという宇宙。なんという冷たい関係。
 人類は、その存在に関わるつもりならば、自らの概念を再構築するほかない。
 それにしても、この存在はコントロールができれば兵器になりうる。それが誰にもコントロールされず、コントロールできないところに、存在の恐ろしさがある。恐ろしいと感じることは、つまり、自らの概念の再構築ができていないということだ。
 スタニスワフ・レムは、存在に対峙する人間を描くことで、固定した概念、確固とした枠組みとしての概念を否定し、再構築を迫る。それは、SFがもつひとつの役割でもある。
 ソ連(ロシア)やポーランドなど、過去において東側と呼ばれ、東欧文化であり、社会主義であったところにもSFは存在し、そして、すばらしい作品が数多くある。SFは、西欧の文化でも資本主義の文化でもなく、物語と科学のあるところに存在する普遍的なものである。
(2004.4.5)

夜明けのロボット

夜明けのロボット
THE ROBOTS OF DAWN
アイザック・アシモフ
1983
「鋼鉄都市」「はだかの太陽」に続く、SFミステリ3部作、3作目である。地球人イライジャ・ベイリと、人間とみためが同じロボット、ダニール・オリヴォーのコンビによるSF推理小説である。本作は、1957年に「はだかの太陽」が出版されてから26年後に出版されている。アシモフいわく、一度取りかかったものの失敗したためおいてあったということだが、本作の位置づけは、「はだかの太陽」の続編だけではなくなってしまった。
 アシモフのもうひとつの人気シリーズであり、50年代に書かれた「ファウンデーション」3部作の続編を1980年代になって書き始める。そして、そこに、ロボットシリーズとファウンデーション・シリーズの統一がアシモフの頭の中で成立してしまう。このふたつのシリーズをつなぐミッシングリングとして、本作は位置づけを変えてしまう。
 なぜ、長命のスペーサー(宇宙人)ではなく、短命の地球人がその後銀河帝国を築くようになったのか? なぜ、銀河帝国にはロボットがいないのか? その要因が、未来への推察として登場する。そして、本書の中で語られる未来への推察は「心理歴史学」さえも登場させる。もちろん、アシモフの歴史であり、その過去を書いているのだから、このあたりはいかような将来の伏線も書けるわけだ。ずるい。しかし、ファンはそれを許すであろう。なぜならば、60年代、70年代を通じ、アシモフにはファウンデーション・シリーズの続編を求め、ロボット・シリーズの続編を求めていたのである。そして、ファンは、80年代のアシモフを大歓迎した。だから、もはや本作を単独の作品として評するのは難しい。  しかし、単純に「鋼鉄都市」「はだかの太陽」「夜明けのロボット」として考えてみよう。地球上で起きた宇宙人殺人事件、惑星ソラリアで起きた殺人事件、惑星オーロラで起きた人間そっくりロボット殺害事件の解決である。殺人事件ではない、ロボット破壊事件である。その結果、ソラリア内部の権力闘争が激しくなり、地球とソラリアの関係が悪化しているため、解決を迫られるのである。ダニール・オリヴォーの弟分である人間そっくりロボットのジャンダー・パネルはなぜ機能停止したのか? 偶然? それとも故意? その原因と故意であるならば、動機と方法を探る過程で、イライジャ・ベイリは、「人間そっくり」であることの意味について考えさせられる。アシモフは本書の中で「人間そっくり」というような表現は使っていない。「ヒューマンフォームロボット」と書いている。
 私があえて「人間そっくり」という表現をしているのは、P・K・ディックを意識してのことである。ディックは、1928年生まれでアシモフより8歳若い。1982年に早すぎる死を迎えている。本書はちょうどディックが死んだ頃に書かれている。ディックについては論を別にしたいが、「人間そっくり」の「人間ではないもの」や、現実そっくりの現実でないものなどをテーマに、精神や存在のあり方を追い求め続けた作家である。そして、「人間そっくり」でも「人間ではないもの」などが容易に、我々の世界に入り込み、我々はその関係に惑うことを明らかにする。一方、アシモフの現実は、しっかりとした現実である。突然現実が崩れたりはしない。ロボットが実は人間でしたとか、作品の中で世界観が崩れるようなことはしない。一定のルールの中に世界を押し込める。SFの王道をゆく。奇抜なトリックには、必ず読者が納得せざるを得ないような伏線を用意する。本書でも、地球人は忘れてしまい、スペーサーには伝説となっているロボット工学者スーザン・キャルヴィンのエピソードを何度も繰り返し、伏線にしている。そのエピソードは初期のロボットシリーズそのままである。だから、読者は安心してその世界観を受け入れる。そうでなければ、SFミステリは成立しない。ディックではミステリにはならない。
 そうであるにかかわらず、本書では「人間そっくり」が与える影響についてディック的な世界をかいま見せる瞬間がある。人間と人間そっくりなロボットと人間とは見た目が違うロボットとの間の認識や関係性のずれを描いている。50年代、60年代のアシモフにはなく、50年代からディックが書き続けてきた世界である。
 アシモフとディックにそれほど接点があったとは考えられないが、80年代は世界が過去のアシモフ的な確固としたものではなく、ディック的な不確かなものであることに気づきはじめた時期である。アシモフは、本書に意識するしないにかかわらず、時代を感じ取り、彼の対局にあるディック的な要素を取り入れている。
 アシモフらしい作品でありながら、わずかに残る違和感、ディックの小説をこよなく愛する私にとってはなじみ深い違和感があることに、アシモフの奥深さを感じずにいられない。
(2004.4.4)

中継ステーション

中継ステーション
WAY STATION
クリフォード・D・シマック
1963
 1840年4月22日生まれ。124歳。現在、1964年アメリカ・ウィスコンシン州。鳥がさえずり、花が咲きほころび、土のかおり、季節のかおり豊かなさびれた田舎町に、見た目は30歳代のイノック・ウォーレスが暮らしていた。地球は、核戦争の恐怖が高まり、今にも人類文明は崩壊の危機にある。1日1時間、ウォーレスは家を出て散歩をし、郵便夫から郵便や新聞、雑誌、時には日用品を受け取る。彼の存在に気づき、見張るCIAのエージェント。しかし、彼が何をしているのか、なぜ若いままなのかは分からない。
 イノック・ウォーレスは、中継ステーションの管理人。銀河宇宙文明が星から星に旅をするための中継ステーション。さまざまな異星人が訪れ、目的地に向かって去っていく。地球はまだ銀河宇宙の一員としては受け入れられず、ただ、そこが中継点として必要だったからできただけの通過駅に過ぎない。地球で途中下車することはできず、管理人であるイノック・ウォーレスだけと接しては去っていく。彼は、さびれた宿場町のひとつだけの宿屋兼バーの雇われマスターといったところである。さびれた宿場町=地球のことを気にしながらも、旅人=異星人の話や世界を楽しんでいる。地球人に対して話すことができないといううしろめたさを持ちながらも。
 静かに、静かに話は進む。まだプラスチッキィでも、テレビ的でもない、開拓が終わって静かになったアメリカの里山の、自然豊かで静かな閉鎖した町の静かなちょっと変わった男の話である。しかし、そこには、滅びの予感がある。核戦争の恐怖、失われていくものへの恐れ。1963年という時代が、シマックの美しい世界に影を落とす。
 そして、シマックは未来への希望を込めて解決策を提示する。それは、現実的な解決策ではない。しかし、もっとも現実的な解決策でもある。物語の力。伝説が、ファンタジーが、文学が伝え続けてきた希望と共感である。
 高校生の頃、はじめて本書を読んだ。日本のさびれた山奥の閉塞した田舎町で、早くここを出たいと願いながらも、同じような場所に居続ける男の静謐な物語に感動した。20年以上経って本書を再読し、やはり静かなシマックの世界に落ち着いた気持ちを持つことができた。
 鳥の声が消え、緑が失われ、核戦争の恐怖という明確な形がないままに、恐怖の未来しか描けない現在に、せつなさと懐かしさと、持続する恐怖の源を教えてくれる1冊である。
 SFの形をしたおとぎ話なのかも知れない。
ヒューゴー賞受賞
(2004.4.4)