月を売った男

月を売った男
THE MAN WHO SOLD THE MOON
ロバート・A・ハインライン
1953
 名作である。創元推理文庫SFから1964年に翻訳が出され、私は1980年の第12版を買っている。早川からも未来史シリーズの短編集に掲載されている。ハインラインの未来史シリーズであり、表題作の「月を売った男」(1950)と、後日談「鎮魂歌」(Requiem/1940)は、SFならではの叙情詩である。
 月に行きたいという思いだけで経済界を生き抜いてきた男。その経済力とビジネスセンスとはったりで、なんとか月に行こうとする。切手を月に持っていき、持って帰ってマニアに売ったとき、もっとも経済効果の高い枚数は? 月に広告を打ちたがる飲料会社の存在をほのめかし、ライバル会社から資金を引き出し、小国のプライドを持ち上げ、大国の意地を引き出し、大衆には宣伝とキャンペーンを張り、月開発は人類にとって必要不可欠だと誤解させる。各国にたくさんの会社を作り、組織を作り、月の権利を独占し、独占することで誰にも支配されない月=新天地を用意しようとする。すべては、自分が月に行きたいから。私はずっと「月を買った男」だと誤解していたが、彼は月を売った男であった。月を月にまつわる幻影のすべてを売り、そして、月を買ったのだ。
 月面開発を実現させるまでが「月を売った男」そして、その男が生涯をかけた夢を実現するのが「鎮魂歌」である。
「鎮魂歌」を読むだけでも泣けるが、ここはひとつ、じっくりと「月を売った男」を読み、そして、「鎮魂歌」で泣こう。その幸せな生涯を。
 私にとって、きっと絶対に怖くてたまらないだろうけれど、憧れている死に方のひとつに、カプセルかなにかで宇宙空間に放り投げられて、どこまでも進むというのがある。死んでからなら怖くはないが、生きていて、片道切符でも、どこかが見られるならいいなと思う。
 もっとも、閉所恐怖症で暗闇も怖くて、ひとりは寂しいから、たとえそれが今可能であっても、なかなか実際にやろうとはしないだろうけれど、だからこそ憧れである。
 憧れを思い起こさせる素直でせつないSFである。ハインラインの好みは分かれるが、SF古典の定石としてぜひ一読しておきたい。
(2004.4.1)

もし星が神ならば

もし星が神ならば
IF THE STARS ARE GODS
グレゴリイ・ベンフォード/ゴードン・エクランド
1977
 本書は、1992年の火星生命探査で幕を開け、2017年に月に到着した太陽生命を探査する異星人との接触を経て、2052年に異星からのデータ通信を受け、2060年に木星、2061年にタイタンをたどる、ブラッドリイ・レナルズの巡礼の物語である。
 それぞれの場所で、人間と人間ではないなにかに出会える旅である。魅力あふれる/魅力のない人間。意志のある/意志があるかどうかわからない「なにか」。出会いながら、レナルズは、ただ自らの動機を追い求める。
 本書には、火星の微生物、遺伝子改変された超人と人類の確執、箱に入れられて育てられた超人の失敗作、太陽こそが生命であり神であることを確信する異星人、木星の生命とおぼしき存在、タイタンにある生命を予感させる結晶体など魅力あふれる存在が登場し、レナルズの巡礼を彩る。巡礼というのは、もちろん比喩であり、本書がレナルズを巡礼者として明記しているわけではない。私には、巡礼としか読めなかっただけだ。
 今、本書を見ながら計算したのだが、レナルズは1992年に27歳であり、ということは、1965年生まれで、私と同い年ではないか。1992年に天文学者として火星に行き、最初の有人火星生命探査チームの唯一の生き残りになる。そして、2061年、すなわち、レナルズは96歳で現世から姿を消す。
 彼が生涯を通じて求めたのは、遠くに行くことと、見知らぬ生命に出会い、なぜ自分が他の生命を求め続けるのか、自問自答すること。SFを書く人/読む人が求める動機そのものである。彼は、実にすばらしい生涯を送った同世代人であった。
 過ぎ去りし未来で、私たちは火星を知らない。しかし、ずいぶん遅れたが、ようやく今年、火星に水があり、生命があってもおかしくないことを知った。2061年までまだ57年もある。何が起きるかわからないではないか。
「もし星が神ならば」…それは詩的な表現である。
 もし星が神であるとしても…私たちは、神を追い求めているわけではない。星に願い、星を求めているだけである。星はまだ遠い。まずは、手近の惑星から歩きたい。
 はやく、月へふたたび。火星へ。そして、もっと遠くへ。
 ネビュラ賞受賞。
(2004.3.31)

天の光はすべて星

天の光はすべて星
THE LIGHTS IN THE SKY ARE STARS
フレドリック・ブラウン
1953
 ……ものを読めるほどの年頃になってからというもの、わたしはやたらにSFというやつに読みふけるようになったのだ。
 ……その作者たちは、夢をもっていた。そして、その夢をわたしたちにも分けてくれたんだ。その連中が書くものの中には、星屑がいっぱいちりばめられていて、それがわたしの目の中にとびこんできたんだ。(早川文庫版188ページ)
 4歳の時、そう、1969年のことだ。蒸気機関車、白黒テレビ、真空ラジオが現役だった九州の片田舎。電話も電子レンジもなく、もちろん、テレビゲームも、パソコンもない。父が私を呼んだ。7時のニュースだったと思う。テレビにぼんやりと白い宇宙服を着た人が写っていた。アポロ11号が人類初の月面着陸を行った日だった。宇宙は目の前に広がっていた。そのときの気持ちがよみがえる。
 本書は、1997年から2001年までの物語である。1960年代の華々しい月、火星、金星の探査計画実現後、冷え込んだ宇宙開発熱…。月と火星の植民地をやっとのことで維持しながらも、それさえ税金の無駄遣いとののしられる始末。
 もっと遠くへ! 宇宙熱にとりつかれた星屑たちが、木星への探査計画実現をめざす。
 21世紀は、目の前にある。
 ……未来。未来という時。わたしはいつでも紀元二〇〇〇年を念頭において考えたものだった。一九五〇年代、まだ十代の少年だったころ、それは信じられないほど遠い未来の、あまり遠くの先のほうにあって、本当にあるのかどうかわからないくらいだった。(同251ページ)
 1960年代生まれ、10代を70年代から80年代にかけて過ごした私もまた、21世紀を遠いものと考え、物心ついて出会ったSFとともに遠い未来を夢見ていた。そこには、月があり、火星があり、星々があった。
 しかし、70年代に計画されていたスペースシャトル計画は延期につぐ延期で、ようやく80年代になって宇宙空間に飛んだ。国際宇宙ステーション計画は、いまだ3割しか完成せず、2003年のスペースシャトル・コロンビア空中爆発事故により、さらに計画の遅れが起きている。
 我々から一番遠いところにいる人工物は、1977年に打ち上げられた宇宙探査機ボイジャーである。
 すでに21世紀は到来してしまった。月は遠く、火星はさらに遠い。
 50年代のSFには、星への希求がある。それは、渇望や羨望といってもよい。このせつなく、悲しいほどの願いは、しかし、寂しさではなく、喜びであり、希望である。
 未来は必ずくる。その未来は、自ら切り開くことができる。
 フレドリック・ブラウンがSFへの愛と宇宙への素直な願いを込めて書いた本書「天の光はすべて星」は、SF史に残る名作であり、疲れ切り、希望を失いそうなときに、耳元にささやいてくれる本である。
 なにより、タイトルがすばらしいではないか。
 そう、「天の光はすべて星」なのだ。
 今は、人工衛星もあるけれどね。
(2004.3.29)

ノービットの冒険 ゆきて帰りし物語

ノービットの冒険 ゆきて帰りし物語
There and Back Again
パット・マーフィー
1999
 正直に告白すると、本書を読むまで、トルーキンの「ホビットの冒険」も「指輪物語」も読んでいなかった。SFは読んでいても、ファンタジー分野はほとんど手を出してこなかったからである。昔の創元推理文庫SFの中に、剣と魔法ものがSFとして紛れていたりしたので、そういうのを読んだことはあるが、「ハリー・ポッター」が登場するまで、ファンタジーは鬼門であった。ゲームでも、RPGには手を出さずにいた。本書を読んだ後、ちょうど、映画「ロード・オブ・ザ・リング」が話題になり、まずは、岩波少年文庫の「ホビットの冒険」を読み、そして、「指輪物語」を読了した。映画の「ロード・オブ・ザ・リング」も、そろそろと見始めたところである。  本書との関係では、「ノービットの冒険」→「ホビットの冒険」→「指輪物語」→「ノービットの冒険」となる。
 最初は本書を本家の知識なしに読んだわけなので、すなおに本書だけでおもしろがり、2回目に読んだときには、本家の知識を受けて、どう本書では本家を料理しているのかを楽しむことができた。
 どちらを先に読んでもいいと思う。SFが好きで、ファンタジーが苦手なら、本書を先に読むのもよかろう。もちろん、「ホビットの冒険」が好きでSFは苦手という方も、一度本書を手に取られるといい。きっと楽しめることだろう。
 主人公ベイリーの願いは、お家であるM型小惑星にいて、1日5回のおいしい食事をとり、時々、親類や友人らと楽しい時間を過ごすこと。ちょっとした親切心から、とんでもない冒険に巻き込まれ、ワームホールを抜けて時空を超えたとんでもない彼方へ、前へと進むはめになる。冒険を楽しみながらも、願いはひとつ、家に帰りたい。ベイリーの魅力、本書や「ホビットの冒険」の魅力は、主人公の願いにある。帰りたい、戻りたいという強い願いと、日々、なすべきことをなそうとする強い意志。意志を発揮するたびに、願いは遠のいていく。それは明らかに矛盾しているが、つながっている唯一の道である。
 話は変わるが、ゆきて帰りし者は、ゆき、帰る間に、変化し続ける。けっして出たときと、帰ったときの存在は同じではない。しかし、そこにいつづける者は、ゆきて帰りし者の変化を知ることはない。だから、帰りし者をゆきし者と同じと見る。そこに認識のずれが生まれる。そのずれは、帰りし者には時としてつらい。
 それが、人間の性である。それでも、人はゆきて、そして時に帰るのである。
(2004.3.23)

火星人ゴーホーム

火星人ゴーホーム
MARTIANS, GO HOME
フレドリック・ブラウン
1955
 いきなり私事で恐縮だが、私は1965年1月生まれである。
 本書は、1955年に出版されたが、物語は1964年を回想する形ですすむ。火星人を自称する、緑色の、小さな、無毛の、口と鼻が大きく、目と耳が小さく、頭は球形で、手足はひょろながく、胴は短め、頭は大きめの、指は6本ついている、声は聞こえるのに、体は実体がなく、なのにしっかり見えて、透明でも、映像でもない、写真に撮れて、録音はでき、触れない、透過してしまう、クイムという技が使え、消えて、現れて、悪口で、いさかいを起こすのが大好きで、人間をばかにして、どんな言語でもすぐに学び、大騒ぎして、消えた、やつと、人間の話である。
 やつらは、1964年の3月26日木曜日に、30億の人類の前に、10億も現れ、1964年の8月19日水曜日に、消えるまで、国連事務総長の自殺をはじめ多くの人を苦しめ、狂わせ、自殺や事故死に追い込み、個人から国家までのあらゆる秘密をあばき、戦争をやめさせ、冷戦を終わらせ、経済を破綻させ、出生率を下げさせた。
 やつらは、人類の繁殖の営みにことのほか興味をよせ、しかも、壁があろうが、暗闇だろうが、見通し、聞ける能力を持っていた…ため、1964年3月26日からほぼ1週間の間に受精を完了させることができた人類は、ほとんどいなかった。アメリカでは、1965年1月の出生率が平年の3%となり、しかも、月頭に集中しているため、3月26日以前の受胎か出産が遅れたためとみられている。イギリスでは壊滅状態、フランスでさえ18%だったという。しかし、2月になると、出生率はふたたび上昇し、アメリカで平年の30%、イギリスで22%、フランスでは平年の49%となり、3月になると、いずれの国も平年の80%、フランスでは137%と平年を大きく上回った。もちろん、やつらは、4カ月半以上地球にいて、つきぬことない興味をしめしていたのだから、人類は、わずか1カ月ほどで、やつらに見聞きされていても、人類の夜の営みをしっかりと行っていたのである。
 本書曰く、「火星人はいざ知らず、人間はやはり人間だった」
 で、フレドリック・ブラウンの、本書の世界では9カ月と1週間を受精から出産までの期間としている。この世界のルールに従うと、1965年1月のやや終わり頃に生まれた私は、「火星人ベビー」だということになる。いや、我が両親には悪いのだが、この世界の話ということで…。
 本書は、日本人に長く愛されている作品のひとつである。それは、原題の「MARTIANS, GO HOME」が、戦後日本の反米闘争スローガンである「ヤンキース、ゴーホーム」に由来しているからではない。ユーモアの中に込められた、皮肉と、形而上学的論理展開は、筒井康隆や星新一などにも色濃く見られる。漫画を含めさまざまな作品に、「●●、ゴーホーム」は使われているが、その多くが「ヤンキース…」の方ではなく、本書に源を置いている。ぜひ、古典として読んで欲しい。
 ばかばかしいが、おもしろいから。
 ところで、私の手元にあるのは早川文庫SFの稲葉明雄訳、1976年発行で、1978年の第3刷版だが、現在では使えなくなった単語がいくつも登場している。絶版にはなっていないようだし、翻訳者も同じ方になっているが、このあたりはそのままなのだろうか。
 言葉の問題はとても難しいことだが、翻訳の妙もあるので、翻訳者が同じであるなら、そのままの表現であって欲しいと思う。
(2004.3.18)

脳波

脳波
BRAIN WAVE
ポール・アンダースン
1954
 1990年、トルコ・イスタンブールの動物園に行った。ハゲワシが、飼育係の動きをじっと見つめ、簡単なかんぬきをはずそうと、くちばしでつついたり、棒を加えて引いたり、そして、自分は何をしているんだろう、何かがしたいんだというような顔をしながら、考え込んでいた。もう少しではずせそうな様子が不気味であり、愛らしくもあった。
 現在、わが家にはスナネズミがいる。毎日眺めていると、中には、紙筒や素焼きの土管を半日かけて連結して巣までのトンネルをつくったり、紙筒を自分の望む形に噛み切り、決めた場所に必ず置くやつがいたりする。メス同士、オス同士、2匹がいっしょに暮らしていると、時々けんかもするが、なかなか楽しく過ごしている。片方が病気などで死ぬと、生き残ったもう片方は、何もかもやる気をなくしたという態度で、食欲を失い、じっとへたりこんだりする。
 東京のカラスは、おいしいものがどこにあるかを知っている。何を警戒すればいいかも知っている。単独行動もするし、集団行動もする。とても賢い。
 トルコのハゲワシ、わが家のスナネズミ、東京のカラス、脳はとても小さい。しかし、単に環境に反応しているだけではなく、あるもので工夫もすれば、所作の好き嫌いもあり、感情も見受けられ、時には考えているのではないかというような気にさせられる。
 知性ってなんだろう。
 地球上で、人間だけがもつ性質なのだろうか?
 感情ってなんだろう。
 これは人間だけではない。
 本書は、地球がある日、それまでの長期にかけて存在していた宇宙のある場から抜け出したために起きた現象からスタートする。それは、物理法則の一部を変えるものであり、生物、とりわけ、複雑な脳を持つ生物にとっては大きな影響を与えた。それまで、物理法則の異常により、知性の発達を抑え込んでいた場から抜け出たため、知性が急激に向上したのだ。人間だけではない。ウサギ、馬、豚、鳥、羊、犬、象、チンパンジー…。
 ほとんどの人間は、知性の向上によるそれまでの文化や文明の急激な崩壊と変化、自分自身の変化、周囲の変化に適応し、新たな存在として生まれ変わっていく。しかし、もちろん、その変化に適応できないもの、もともと知能が低く、急激な向上によっても、それまでの人間並みにしかならなかったもの、そして、知性を得た動物は、新たな存在になるわけではない。そこには大きな断絶がある。
 たとえ愛し合い、理解し合っていた夫婦であっても、その断絶は乗り越えられない。
 もはや、風景すら違って見え、感情のありようも、愛という単語の意味も違ってしまったのだから。
 もし、明日、あなたとあなたの周囲のすべての人たちが、天才的な発想、ひらめき、論理展開、知識欲、理解力を持ったら、この世の中はどうなるでしょうか。
「できること? それは、生きるということさ。毎日毎日生きていくことだ。だれだって、それよりほかにしようがないじゃないか」
 もともと知能が低く、農場で動物の世話をしていた男に、農場を離れると告げた知性が向上した農場管理人が、異常な行動を見せる動物にとまどい、農場をまかせられることにとまどう男に対して言う科白である。
 本書は、ポール・アンダースンをSF作家として位置づけ、古典作品として知られる。1954年に出版されたものであり、同年代に出版されたアシモフ、クラーク、ハインラインらの作品と比べても、その科学知識の古さや技術の古さには現代人としてとまどいを覚える。古いSFの中には、どうしても、そういう科学知識、技術の変化、社会の変化の結果、古さ、時代の違和感を感じるものが多くなる。そういう古さを感じさせるものは、絶版となり、重要な古典的作品であっても消えていく。
 知性の向上、人間の変容による社会の急激な変容というテーマは、しかし、一向に古くない。ウイルス、細菌、自然災害、人為的災害、戦争、新技術の登場、あらたな思想や行動規範…私たちの文化、文明、生存や価値観は、常に変容にさらされている。変容は、今、その幅が大きくなっている。私たちは、変容の中を日々生きていくしかない。
 そして、変容に備え、乗り越え、流され、守り、捨て続けなければならない。
 変容の先に、どんな人間、どんな社会、どんな文化を確立するのか。
「変容」こそ、SF小説に課せられた重要なテーマなのである。
(2004.3.18)

ロカノンの世界

ロカノンの世界
ROCANNON’S WORLD
アーシュラ・K・ル・グィン
1966
 ル・グィンが手にしたはじめての長編であり、ハイニッシュ・ユニバース年代記のひとつである。この世界では、アンシブルという即時通信システムがあり、超光速を使った機械船の移動は可能である。しかし、人の移動は光速の壁を超えることができない。
 人が動くには、長い時を置き去りにするしかない。
 ロカノンは、フォーマルハウト第二惑星から来たひとりの未開異星人に興味を引かれ、人類学者として調査に入る。調査隊は不明宇宙艦隊により全滅し、ロカノンは、数人の惑星人たちとともに、敵艦隊の惑星基地にあるであろうアンシブルを使って危機を連盟最高幹部に伝えるため、未踏の地への旅に出る。
 旅は、ロカノンを変え、出会う未開の知られざる知的生命体達に影響を与えていく。
 ロカノンに与えられた苦悩、運命は、「受難」である。「受難」はロカノン自らの救済であると同時に、周囲の世界の精神的・物的な救済である。
 ル・グィンが描く異世界と異世界の出会いは、静的なものではない。物語は静かに流れるが、旅は静かではあり得ない。
 旅は出会いであり獲得であると同時に、失い続けるものでもある。そのせつなさを、ル・グィンは書き続ける。
 私たちは失い続ける。前に進むために。
「ハイペリオン」シリーズや「指輪物語」と同じく、前に進むため、時に立ち止まりたいときに読むとよい本である。
 現在絶版の本書、サンリオSF文庫の表紙は竹宮恵子、その後早川に移り、萩尾望都が表紙を書いている。このふたりが同じ本の表紙を書いていることも興味深い。手元にあるのは早川版。
と書いたところで、本屋に行ったら、早川版が復刊されていた。
(2004.3.18)

はだかの太陽

はだかの太陽
THE NAKED SUN
アイザック・アシモフ
1957
地球人刑事イライジャ・ベイリと、ロボット・ダニール・オリヴォーのコンビが「鋼鉄都市」に続いて再登場。前作は、鋼鉄都市=地球での宇宙人(地球外惑星に居住する人類)殺人事件だったが、本作は、はだかの太陽がある地=惑星ソラリアで起きた殺人事件の捜査に、イライジャ・ベイリが招かれる。地球人と宇宙人がたもとを分かってから、はじめての宇宙旅行者となる。そして、彼には宇宙連合の大国・惑星オーロラから捜査員として、ダニール・オリヴォーが付き添うこととなった。
 ダニール・オリヴォーは、ロボットであることをあえて明らかにしない。惑星ソラリアは、高品質のロボットを生産輸出する星として知られているのだ。
 ソラリアの人口はわずかに2万人、ひとりひとりが広大な土地に多くのロボットを働かせ、他の人間を「見る」ことはほとんどない。用事があれば「眺める」だけだ。「見る」とは、直接会うことを意味し、「眺める」は、立体映像である。ソラリア人が「見る」のは、子ども時代の子ども同士と、夫婦の最低限の義務のみ。殺人事件はおろか、警察組織すらない星である。イライジャ・ベイリが捜査をはじめたとたん、第2の殺人が起こり、彼すらも命を狙われる…。
 前作で、イライジャ・ベイリは、人口過剰となった鋼鉄都市=地球の閉塞した運命を実感し、ふたたび星を目指すことの必要性を感じた。本作では、自らの精神的障壁である広場恐怖症、外気、太陽、外の風景、壁のない場所に対する恐怖を克服しようとする。まるで、自分に課せられた義務であるかのように。そして、地球とは正反対のように誰とも会わないようにしているソラリアもまた、閉塞した社会、滅びの運命にあることに気づく。地球とソラリアは人類の運命の袋小路に向かっているのだ。しかし、他の惑星は違うかも知れない。彼は、「鋼鉄都市」で感じた宇宙への道を、本書を通して確信に変える。
 もともと、本作は、アシモフのロボットシリーズの中で、「鋼鉄都市」とならび、ロボット三原則を切り口にしたミステリーとSFの融合をめざしたものと位置づけられていた。そして、前作と異なり、本作ではロボット三原則の矛盾と限界をついた作品となっている。それは、アシモフが自ら課してきたロボット三原則に対する挑戦であり、ロボット三原則の虚構性と必要性を両義的に表すものともなった。  本文中ふたつの発言を引用しよう。
 イライジャ・ベイリは、ソラリアのロボット専門家に対して、
「第一条はただしくはこう改訂されるべきなんだ。ロボットは”自覚的に”人間に危害をあたえてはならない。また、その危険を”故意に”看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない」
 と、指摘する。
 そして、ロボットを使って殺人をおかすためのいくつかのトリックが本書で示される。
 そこには、ロボットの身体の一体性、類推する論理性が語られる。ロボットは、陽電子頭脳のみではなく、身体の一体性を備えていたのだ。人間と同様に、自己同一性を持ち、頭脳だけが自己同一性ではなく、そのすべてのパーツの複合体をもってロボットとして認識しているのである。もちろん、パーツは交換可能であり、修理可能である。しかし、一体として機能し始めたとたんに、自己同一性を持つのだ。
 もうひとつ、イライジャ・ベイリがソラリアの家事ロボットにダニール・オリヴォーがロボットであることを明らかにし、拘束を命じた後、ダニールと会話を交わす。
「たとえぼくが危険のなかに踏み込んでいくとしたって、そいつは実際はちがうんだ」(略)
「そいつはただのぼくの仕事なのさ。そのためにぼくは給料をもらっているんだ。きみの仕事は、ひとりの人間に危害が及ぶのを防ぐことだが、ぼくの仕事は人類全体に対する危害を防ぐことなんだよ。わかるかい?」
「わかりません、パートナー・イライジャ」
「それじゃ、それはきみがわかるように造られていないからさ。ぼくの言葉をそのまま信用してくれ。きみがもし人間なら、きみにもきっとわかる」
 ダニールがゆっくりと、大きくうなずいた。
 これは、本書がロボットシリーズとして読まれていた当時にはさほど大きな意味を持たなかったかも知れない。しかし、この会話こそが、80年代のファウンデーション/ロボットシリーズの融合を実現させ、ダニール・オリヴォーが最重要な登場人物となり、ロボット三原則に第零条を加えさせたのである。
 本書が登場したとき、すでにファウンデーション・シリーズの初期三部作もロボット・シリーズの初期作品群もすでに出版されている。アシモフが、本書を執筆するにあたってどのような未来を考えていたかはうかがい知れないが、本書こそ、アシモフのふたつのシリーズ作品の結節点であり特異点であることは間違いない。
 もちろん、単独の作品としても、まさにSFとミステリーの融合として高い評価を受け続けてきたものであり、その作品展開も、探偵(刑事)が、事件とからみながら、容疑者と次々に会い、最後に関係者を一同に介して犯人を追いつめ、犯人自らが墓穴を掘るようにしむけるという、ミステリー作品の王道である。多数のロボットの動きと表現は、まさにアシモフのロボット・シリーズである。
 アシモフ・シリーズ作品の結節点・特異点になってしまったが故に、単独の作品としてそのおもしろさが減じるわけではない。たとえ、アシモフのファウンデーション・シリーズや80年代以降の作品群が気に入らないとしても、本書を読む価値は大いにある。
 SF魂あふれる作品なのだから。
(2004.03.14)

鋼鉄都市

鋼鉄都市
THE CAVES OF STEEL
アイザック・アシモフ
1953
 はるか未来。地球上の人口は、限界の80億人に達していた。人々は、それぞれ平均して1千万人を擁する鋼鉄とコンクリートの洞窟都市シティで厳格な階層社会をつくり生活していた。1000年ほど前に地球の植民地であった惑星国家群は、もはや地球からの移民を受け入れることはなく、50の独立した惑星国家として地球人とは別の道を歩み、地球人は彼らを宇宙人と呼んだ。宇宙人は、地球人に圧力をかけ、ロボットとの共生を迫る。一方、地球人は、広場恐怖症ともいえる状況で、現状が未来永劫に続くと信じて生きている。
 そんななか、地球における治外法権エリアである宇宙市で殺人事件が発生。地球人の刑事イライジャ・ベイリは、人間そっくりに作られたR(ロボット)・ダニール・オリヴォーとともに、事件の解決を求められる。ロボットへの反感と嫌悪、恐怖を秘めながらも、正義感あふれるベイリは、試行錯誤しながら、犯人像を追い求める。
 ダニール・オリヴォーがはじめて歴史に登場する作品である。
 本書は世に出た1953年から1980年代はじめまでと、80年代中盤以降で大きくその位置づけを変えている。
 そもそも、本書はアシモフのロボットものの傑作であり、初の長編ロボットものであり、ロボット三原則を前提に、SFとミステリーが両立することを示した歴史的な作品である。
 いま読んでも、そのいくつかの設定に無理があるとしても、ロボット三原則を受け入れるならば、とてもおもしろい小説である。
 しかし、現在において、本作品はまったく別な意味を持つ。
 ダニール・オリヴォーが誕生し、イライジャ・ベイリとはじめて接した、大きなストーリーの原点として位置づけられてしまった。
 それは、80年代にアシモフが、読者と出版社の長年に渡る絶え間ない要求に対し、ついに答えを出したことによって起こった。ファウンデーション・シリーズの続編である。
 本書と同じ1953年に第三作が出版されたファウンデーション・シリーズは、ロボットの出てこない遠い未来の物語であり、ハリ・セルダンが生み出した「心理歴史学」は、たとえば私の大学の同級生のひとりは、大学の進路を決める動機に「心理歴史学」をあげたぐらいに大きな影響を与えた。なつかしの80年代初頭よ! ファウンデーション・シリーズの続編は長く書かれることがなく、読者のほとんど、私も含めて、その続編はあきらめていた。ところが、80年代に入り、アシモフの頭の中のスイッチが切り替わった。ファウンデーション・シリーズはふたたび歩き始める。そして、アシモフの2大シリーズであるロボットものとの融合が起こったのだ。
 その中心に、ダニール・オリヴォーがいた。そして、ダニール・オリヴォーの友人であり、人間のありようを教えたイライジャ・ベイリの影が…。
 80年代から1992年にアシモフが没すまでに書いた小説群と、グレゴリイ・ベンフォード、グレッグ・ベア、デイヴィッド・ブリンという現代アメリカを代表するSF作家が書き上げたもうひとつのファウンデーション・シリーズにより、本書の「はじめの1冊」としての重要性は高まった。
 そして、これら多くの小説群を読んだ上で、あらためて、福島正実訳の「鋼鉄都市」を読むと、なんと未来を予感させることか。未来が過去を作り、過去が未来を作るのである。
 さて、本書の話に戻るが、ベイリが生まれてはじめてシティ外の自然の空気を吸い、シティに戻ったとき、彼は、大きな発見をする。「シティには臭気がある!」
 地球最大の2千万人が生む臭気に、彼は、外の世界を発見する。宇宙には、50の惑星国家以外にもたくさんの星があるのだ。そして、人間は、外に行くことができるのだ。
 彼の心の中に生まれた、この動機こそ、アシモフが書きたかったことに違いない。
(2004.3.11)

マン・プラス

マン・プラス
MAN PLUS
フレデリック・ポール
1976
 1919年生まれの作家である。本書の出版が、57歳の時である。1952年からSF作家をやり、編集者をやっているのである。超人である。
 さて、本書「マン・プラス」は、火星ものである。地球人口は80億人を超え、世界は緊張が高まり一発触発の危機にさらされている。人類は、火星に生存の基盤をつくらなければならない。しかも、ただちに。そこで、火星で自由に行動できる人間、脳や神経系をのぞき、できる限り機械化され、コンピュータと接続された人間/機械のサイボーグをつくり、火星開発の足がかりにしよう。というのが、本書の筋書き。そして、サイボーグになった男と、その妻、周りの研究者、政治家のさまざまな思惑と体験を地球から火星までで描く。
 人口増加などの内圧によって、社会的な動機として他の生存空間を目指す人類というのは、私がもっとも愛好するテーマである。しかし、本書は、それを、サイボーグにされた男の心情、そして、情報入力と処理の間に「もうひとつの処理」を入れることによって起こる齟齬と出力への影響に力点が置かれている。情報の入力とは、人間であれば、音を鼓膜で拾い、光を目で拾い、化学物質を主に鼻や舌で拾い、その情報が神経から脳に伝わって処理され、知覚となり判断や行動を決定する。サイボーグの場合、知覚判断系の脳はそのままなのに、情報入力装置である目などが改造され、拡張されるため、過剰な情報入力に処理しきれないということになる。そこで、対策として、情報入力から脳への情報伝達の間に処理コンピュータを入れて、そこで脳に対処可能な情報として加工しようというものだ。本書では、繰り返し、脳に届いた情報が、現実に起こっていることと同じとは言えないのではないか、とりわけ、途中で加工されてしまうと、現実すら分からなくなるのではないかと、読者にささやく。
 実は、これが、注意深く読めば分かる、本書の種明かしである。
 ここからは、本書の種明かしになってしまうかもしれない、読んでいない人はご容赦を。
 もしかしたら、サイボーグだけでなく、現実さえも情報は入力と認識の間に、我々が知らない処理があるのかも知れない。人間はもともと、現実を脳の中で再構成しているに過ぎないのだから。もし、処理をする存在が、我々とは別に何らかの目的を持っていたら。
 本書には、その後、80年代のサイバーパンク運動に通じるいくつもの要素が込められている。身体と精神の変容、人工知性、コンピュータネットワークとハッキング、現実と情報処理の間にある溝…。しかし、本書は、まぎれもなく70年代に書かれた、60年代、50年代を彷彿とさせるSFでもある。
 フレデリック・ポールの歴史が、本書を書かせた。いや、SFの歴史が、フレデリック・ポールに本書を書かせたのかも知れない。
 古くさいけれど、80年代を予感させる、人類+の小説である。
 書かれている内容は、現代的にはちょっと古くさいかも知れないが、そこは70年代のSFである。頭の中で読みかえてみたり、火星ものや人工知性もの、身体改変ものの歴史として読むのも悪くない。
 余談だが、サイボーグにされていく過程で、サイボーグ実験が失敗しかねない最大の危機は、本人に伝えないまま陰茎を除去したことであった。セックスへの考え方がストーリーに大きく関わるのも本書の特徴かも知れない。
 もうひとつ、マン・プラスの火星には、植物らしきものが存在した。火星への期待は21世紀になってもまだ裏切られていない。
 ネビュラ賞受賞作
(2004.3.11)