火星夜想曲

火星夜想曲
DESOLATION ROAD
イアン・マクドナルド
1988
 原題を直訳するならば、「荒涼街道」なのである、しかし、「火星年代記」を思わせるような「火星夜想曲」というタイトルにした気持ちは分からないでもない。
 今より800年ほども未来の火星。テラフォーミングがすすみ、人が住めるようになって地球時間で3世紀弱、記号論理学のアリマンタンド博士が「緑の人」に誘われるようにたどり着いた地に腰を落ち着けた。殺人者に追われるもの、新天地を求めるもの、偶然、必然、「楽園の一駅まえの場所」に人々が集まりはじまる。やがて、町には鉄道が止まるようになり、ホテルができる。殺人事件が起こり、墓がつくられ、裁判が起こされる。アリマンタンド博士は、時間を巻き戻し、町の破滅を逃れる。滅ぶはずの滅ばなかった町では、機械の神に啓示を受けたものが生まれ、天才ハスラーが生まれ、「会社」の重役にのし上がり、やがては町を破壊するものが生まれ、労働運動家が現れ、政治家で軍の将軍になるものと対峙する破壊者が育ち、それを見つめ続けるものがあり、そして彼らは兄弟であり、親子であり、隣人であり、元恋人であり、裏切り者であり、裏切られたものであり、因縁であった。
 町は急速に育ち、大きく変容し、そして、消えていく。
 火星の新たな歴史の中で、「荒涼街道」の消長は、歴史にもならない歴史であり、最後にその歴史を記したタペストリーだけが残り、そのひ孫によって「惑星火星の北西四半球の大砂漠のまんなかにある小さな町の物語」として本書となるのであった。
 本書はリミックス手法で書かれているという。つまり、過去の様々なSFをオマージュし、そこに作者のテーマを乗せ、登場人物を泳がせ、渡らせ、歌わせるのだ。同様の手法は、ダン・シモンズの名作「ハイペリオン」シリーズにもあらわれる。本書と同様に、ひとつひとつの章に登場するひとつひとつの物語と登場人物が複雑にからみあい、混ざり合い、物語は静かに、かつ、大きく動く。
 時に読みにくく、時にうんざりするが、読み終えたとき、ひとつの歴史、多くの人生につきあってきたことに気づかされる。
 もうひとつの時間軸で、私もまた、ひとりの住民として、火星の町に暮らし、そして、去っていくのだ。
 本書には様々な寓意、含意がある。数年後発表された作者あとがきの中では、本書に込められる寓意の一部が作者によって明示されている。もちろん、テーマは重要であり、作品の意義は高い。しかし、それはすべて登場人物の人生そのものなのだ。だから、あらためて寓意、含意には触れないでおく。
 もちろん、本書には多くの遊びがある。ひとつだけ紹介しておこう。
「これは古代の宇宙船です。この世界が生命を維持するのにふさわしいかどうかを見積もるための人類の最初の試みとして、およそ八百年前にここに着陸したんです。宇宙船の名前は--ほらここに書かれています--マンデラさん、北方の船乗りを意味しています。あるいは、逐語的に訳せば、”入り江のフィヨルドに住まうもの”です。船はずいぶん、それはずいぶんまえから、ここにいたんです。この砂漠の中心に。砂漠の中心であるここでは、砂の力はとても強い」
 何を意味するかはおわかりであろう。おわかりにならなければ、火星探査の歴史をちょっとひもとけばよい。
 私の好きな作品である。
ローカス賞処女長編部門賞受賞
(2004.5.25)

極微機械ボーア・メイカー

極微機械ボーア・メイカー
THE BOHA MAKER
リンダ・ナガタ
1995
 ナノテクの魔法物語である。
 あまりにも高度な科学技術は、魔法と変わらない。
 スプレーするだけで、どんな虫も死んでしまう殺虫剤は、昔の人にとっては強力な魔法だろう。
 テレビしかり、電話しかり、電子レンジや冷蔵庫だって、ガスレンジでさえ、いや、電灯も、レトルト食品も、無菌パックの食品さえ、魔法としか見えまい。
 これは、未来の魔法のものがたりである。
 ナノテクの実用化と、ナノテクによる人体、地球、生活の改変。しかし、人の本質は変わらない。持てる者、持たざる者がいる。
 持たざる者にとって、静止軌道に軌道エレベーターでつながった天界都市は、天国というおとぎ話である。
 頭の中に、仮想人格が入り、相互訪問し、あるいは、奴隷化する「枢房」は、恐ろしい魔法である。
 魔法にかけられた人を救い、魔法を恐れ、魔法を敬いながら、生きていくしかない。
 持てる者にとって、魔法はただの技術であり、法を管理する者にとっては、規制の対象でしかない。あるいは、規制の裏をかき、自己の欲望や、自己の生存をかけて入手し、使用する道具に過ぎない。
 ハワイの作家、リンダ・ナガタ(日系人ではない)が描き出す、ナノテクが実用化された未来は、現在の延長にある。
 道具を作り、食べものをつくり、服を作り、道路を作り、病気を治すのは簡単になった未来。しかし、ものごとには表と裏がある。合法的なナノマシン=分子機械=メイカーとは、「低次知能を与えられたプログラム可能な分子機械」であり、便利な道具である。しかし、違法な者は、殺人の道具として人を溶かし、快楽のために奇形化させ、様々な悪用をされる。さらに、一度だけガイア主義者のテロリストであるリアンダー・ボーアが自律した知能をもったメイカー=ボーア・メイカーは、地球と人間を完全に変異させかねない恐るべき分子機械であった。
 地球の各国家は、連邦をつくり、生物関連、技術関連の法律を統合し、その管理を、強大な権力を持つ警察組織にゆだねた。連邦に属さない国に対しても、警察はいとも簡単に侵入し、その権力をふるう。危険なテクノロジーは、国境を選ばないからだ。科学技術による変化の波はそれによりゆるやかになったが、それでも違法なメイカーは流通し続ける。しかし、警察も、世界に影響を与えるようなもの以外は、それほどきびしく取り締まりはしない。連邦外ならばなおのことである。なぜなら、連邦外の国々は、連邦に入らない/入れないがゆえに、後進国であり、持たざる者であるからだ。
 ナノテクは、地球そのものも拡張した。軌道エレベーターのワイヤーにより、静止軌道に位置する天界都市ができあがり、持てる者たちは、この軌道上で暮らしていた。
 通常の他者との顔を合わせたコミュニケーションは、「枢房」で行われる。
 メイカーによってつくられた脳の中の組織「枢房」に招かれれば、その枢房に入り、「訪問」することができる。訪問者と仮想人格は、それぞれ、その経験を実体験のあるものとして受け止める。「枢房」はまた、世界中の情報ネットワークをむすび、所有者の情報を管理し、運用する拡張された頭脳であり、コンピュータでもある。「枢房」を訪問した仮想人格は、やがて本物の人格に戻り、その間の実在/仮想のそれぞれの記憶を融合させる。複合化された時間軸、複線化された人生が営まれる。
 もし、必要に迫られて別の天界都市に行くならば、手っ取り早い方法は、「ハードコピー」することである。自身を凍結させ、行き先の都市においてあるもうひとつの身体に、自己をダウンロードさせるのである。身体=ハードが同時に二重に起動していることは法律で許されていない。もちろん、「幽霊」すなわち「枢房」を訪ねる仮想人格ならばいくついても違法ではない。
 かつて、実験として身体改変され、宇宙空間に適応する身体をもって生まれてきたニッコーは、定められた実験期間の終了の時が、自身の身体をむしばみはじめたことに焦り、生きようと画策する。
 その弟で、天界都市で育ち、違法なメイカーの存在や、日々の食にも困る持たざる者たちの存在さえ知らなかったサンドル。
 ひょんなことから、ボーア・メイカーのホストとなり、自身が魔法使いに変わったのだと自覚する文盲の元売春婦フォージタ。
 彼らを追いつめる警察長官。
 それぞれが、自分が生き延びること、他者と自分の関係に左右されながら、物語は次第に変容を迎えていく。
 とても腑に落ちる作品だが、冒頭に書いたとおり、それは、現実の延長にしか過ぎないからだ。持てる者/持たざる者の断絶は、ここでも変わることなく続いている。  しかし、最後に、作者はひとつの問いかけを出して終わる。
 私たちは、いや、私は、私という存在とは、何を差すのだろうか。
 この身体か? 他者からの認知か? 精神か? 記憶か?
 あと、30年後に本作を読んだとき、私はどう思うのだろうか。
 本作が書かれてから10年。まだ、本作の未来は訪れていない。
ローカス賞処女長編賞受賞
(2004.5.13)

終わりなき平和

終わりなき平和
FOREVER PEACE
ジョー・ホールドマン
1997
「終わりなき戦争」の続編のようなタイトルだが、続編ではない。1974年に書かれた「戦争」は、星間戦争であり異星人との戦いであるが、「平和」の方は、地球人同士の戦争である。時代は21世紀半ば。アメリカを中心とした連合軍は、ナノ鍛造機により、強大な軍事力、経済力を誇っていたが、「反乱勢力」のゆるやかな同盟ングミ軍との間で終わりなき戦争を続けている。
 本書で出てくる第一の技術は、ナノ鍛造機である。
 ナノ鍛造機は、兵器、機械、食品、ダイヤモンドなどの奢侈品など、あらゆるものを製造できる。しかし、ナノ鍛造機の製造と管理は厳しい管理下におかれ、アメリカを中心とした連合国の経済と統合の鍵となっていた。
 そして、ナノ鍛造機の生産を制約することで政府は統制をとっていた。アメリカなどの社会は、”戦時下”におかれており、軍人以外はポイント制による厳しい配給制が敷かれていた。情報は統制され、政府は調べようと思えば、衛星や監視カメラを使って人の行動をトレースしたり、メールなどを差し押さえることができる。そして、政府は軍の実質的支配下におかれていた。豊かで「自由」な管理社会である。
 そこには新興宗教もはびこる。”人類はもうすぐ神によって破滅させられると信じて”いる終末信徒である。その中でも、神の鉄槌派は、「自分たちはそれを手助けするために呼び集められた」と信じており、大学など様々なセクターに潜んでいる。
 この戦争を、ホールドマンは次のように定義している。
“自動機械にささえられた経済を経済を享受する”持てる者”と自動的に生み出される富などもたない”持たざる者”との経済戦争という面もある。また黒人人種と褐色人種と一部の黄色人種が構成するグループと、白色人種とその他の黄色人種が構成するグループによる人種戦争という面もある。””思想的戦争という側面もあった--民主主義の守護者と、反乱勢力の強権的カリスマ的指導者の戦いか。あるいは資本主義に染まった土地の収奪者と、人民の保護者の戦いか。どちらの見方も成り立つだろう”。
“しかしこの戦争に明確な終結はありえない”。
 つまり、終わりなき戦争である。
 ここまで書いて、現実の21世紀初頭の世界がどうしてもだぶってしまう。
 911、テロへの戦い・アフガン軍事行動、イラク戦争、アメリカの愛国法、報道規制、宗教・産業・軍が一体になったかのようなアメリカ政府。各地で起こる作られた紛争。日本国内でも、軍のイラク派遣に対して反対のチラシを軍の居住エリアに撒いたことで、不法侵入に問われて裁判まで拘留され続ける市民、NGOメンバーがイラクで誘拐され、犯人ではなく、被害者が激しい非難にさらされる情報操作。世界中で煽られる対立と憎しみ。
 そして、アメリカや日本の日常の豊かな快楽と平和。
 本書は、1997年に出版されたものであり、あたりまえだが、このような状況はすでに存在していた。そのわずかな延長上の物語である。
 もうひとつの技術は、頭蓋ジャックによるヴァーチャルリアリティと精神の共有。頭蓋に穴をあけて、ジャックで接続する。ヴァーチャルリアリティ空間にいることができる。そして、全感覚、知覚を仮想空間で体験できる。複数の人間が同じように接続されると、その記憶、体験、精神までも共有される。
 この技術は、正規には軍で使われている。徴兵された「機械士」は頭蓋ジャック手術を受ける。機械士は、頭蓋に取り付けたジャックを通して、遠隔歩兵戦闘体ソルジャーボーイというマシンを操作する。ソルジャーボーイは、人体型の兵器で、これを遠隔操作するのだ。いや遠隔操作ではなく、ソルジャーボーイに乗り移る。
 さらに、機械士は、10人が1個小隊で、彼らはそれぞれのポッドの中でジャックインするたびに、全精神を共有する。”完全な精神移入状態では、おれたちは二十本の腕、二十本の足、十個の脳、五つのペニス、五つのヴァギナをもつ生きものになる”。
 個々のソルジャーボーイであると同時に、10人の共有精神体であり、小隊長は上司とつながり、他の小隊とも”浅い”精神移入でつながっている。  これが、連合軍の究極の兵器である。
 主人公のジュリアン・クラスは、ブラボー中隊の中の小隊長。10日間は連続してソルジャーボーイになる。その前後を含めた当直期間がすぎると、大学に戻り、物理学博士として研究や授業を行い、15歳年上の元指導教官をセックスフレンド兼親友にしている。
 大学周辺では自転車を乗り回す、普通の暮らし。軍では、究極の兵士として前線に出て、アメリカにいながら、10人の共有精神となり、コスタリカで敵兵を殺し、村長を誘拐し、作戦を実行する。機械士も死んだり、発狂したり、また、攻撃を受ければ痛みや苦しみを味わう。脳と肉体には激しい負荷がかかっているのだ。
 さて、物理学界は大変な興奮状態にあった。木星の軌道上にナノ鍛造機を使って粒子加速器をつくり、大離散(ビッグバン)直後の状況を再現しようというジュピター計画が進んでいた。それが、まもなく完成し、始動するのだ。
 ところが、ここから事件が起こる。それは、戦争とは関わりなく、このジュピター計画に潜む宇宙全体に影響を与える可能性であった。
 ジュピター計画を止めるためには、その危険性を無理矢理に認識させなければならない。そのために主人公を取り囲む科学者らが考えついた作戦は、戦争を終わらせ、そして、人類を変容させるものになっていく。その作戦をホールドマンは、究極の共感を持つ者として、”人間化”という言葉をあてている。
 それが皮肉なのか、彼の願いなのか。それともどちらでもあるのか。
 本書は、ナノテク、ヴァーチャルリアリティ、現代の戦争を描きながら、「幼年期の終わり」(アーサー・C・クラーク 1953)「ブラッド・ミュージック」(グレッグ・ベア 1985)年のような人類の変容までを描こうとした作品である。
 はたして、ふたつの名著と並ぶものになるかどうかは分からない。
 また、一人称と三人称による視点の使い分けで構成されており、その読みにくさは、意図的とはいえ、人によっては読む意欲を損なうかも知れない。あまりにも1冊に詰め込みすぎていて、どれも中途半端な感じを受けている。だから、論も長くなってしまった。
 すでに21世紀初頭にいる私にとって、「締まった」物語ではないのだろう。
 ちなみに、「終わりなき戦争」はハヤカワ、本書は創元から出版されている。
 ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ジョン・W・キャンベル記念賞受賞。
(2004.5.9)

終わりなき戦い

終わりなき戦い
THE FOREVER WAR
ジョー・ホールドマン
1974
「宇宙の戦士」(ロバート・A・ハインライン 1959)、「エンダーのゲーム」(オースン・スコット・カード 1977,1985)とならぶ、戦争SFの名著である。この3作品に共通するのは、少年だったり若い兵士が、厳しい訓練を経て異星人との宇宙戦争を生き抜くという設定である。3作品ともヒューゴー賞をとっており、今も読み継がれている。アメリカには間違いなく戦争SFというカテゴリーがあり、アメリカ中心主義だったり、愛国心だったり、反戦だったり、厭戦だったり、さまざまな含意を持っているが、エンターテイメント作品として厳しい戦いにさらされている。そのなかで、この3作品が与えた影響は戦争SFというカテゴリを超えて大きい。
 本作は、ハヤカワ文庫SFの「日本語版への序文」で、著者本人が書いているとおり、著者が従軍し、負傷したヴェトナム戦争がきっかけで書かれている。本作が、戦争についての何を言おうとしているのか、それについては多くの人が論じている。それは、著者がこの序文で書いているとおり、結果として、戦争終結前に書かれたものであるが、「われわれはいかにしてヴェトナムに進出したのか、あの戦争はわれわれになにをしたのか、もし撤兵しなかったら、最終的にわたしたちはどうなっていたのか」を説明したものになっている。だからといって、ヴェトナム戦争を念頭に置いて読む必要はない。2004年の今もまた、正義は人を殺し続けているのだから。  本作品は、時空を超えた恋愛ドラマであり、コミュニケーションの物語である。すべての物語はコミュニケーションについて語っているのだが、本作は、戦争が=平和が、コミュニケーションの問題であることを喝破している。
 1975年生まれのウィリアム・マンデラは、物理学者となるべく大学進学中の1997年にエリート徴兵法により、国連探検軍に徴兵され、初の星間戦争戦に臨む。コラプサー・ジャンプ航法と、相対論的加速度により時空を超え、ファイティング・スーツという強化戦闘服に身を包み、人類の住まない遠い星系の惑星にある基地をめぐって敵であるトーランと戦う。2回目の戦闘は移動する宇宙船の中で経験。主観時間で軍属2年後、地球時間で10年後の2007年。それから約1年後、地球時間で26年後の2023年に一度地球に帰還するが、地球のあまりに変貌していた。2024年、再び作戦に参加し負傷。惑星ヘブンで治療を受けるが、地球を出てから主観時間で1年後、地球年で2189年となっていた。おおよそ、20歳台終わりである。主観時間で5年後、地球年で2458年、少佐として部隊を率い、4度目の作戦行動へ。それは、もっとも遠い星系であり、相対論的時間移動、すなわち浦島効果も大きかった。作戦行動を終え、戻ってきたとき、主観時間で約2年後、地球年で3138年後となっていた。戦争はすでに集結して、彼らは最後の帰還兵となっていた。
 1997年から3138年、地球時間で1141年。主観時間ではおおよそ7年に渡るマンデラの戦いである。それは、マンデラがコミュニケーションを失い続ける物語でもある。相対論的時間旅行を経て出会う部下であり、彼にとっての未来人たちとのコミュニケーションは、次第に難しくなっていく。背景とする社会や文化の違い、言葉の変容…。異星人であるトーランとはもちろんコミュニケーションがとれない。彼らと地球人は戦うというコミュニケーション手段しか持ち得ていなかった。
 そして、唯一、本当のコミュニケーション相手である恋人との相対論的別離。
 そこに、なぜ、はない。軍人として徴兵されているのだから、戦うしかない、失うしかない、そして、生き残るしかない。軍とマンデラとの間に、そもそもコミュニケーションなどありえない。彼は、たまたま宇宙船にペットとして乗せられた去勢された猫に何よりも、誰よりも共感を覚えるほど、コミュニケーションを失ったのだ。あるのはただ、命令とコントロール。
 ややこしく書いているが、本作は、戦争SFエンターテイメント作品であり、時空を超えた恋愛ドラマである。何も気にせず読んでいても楽しい。
 最後に、本筋とは離れるが、「濃縮高蛋白質完全消化大豆牛肉風味」なんていうものを食べさせられ、「二年間、循環処理の糞尿ばかり」を食べてきたマンデラは、地球にはじめて帰還したとき、「チキン・サラダのサンドウィッチ」に言葉を失うのだった。そして、「米の上にのせられた、焼いた大きなフエダイ」というちゃんとした食事を恋人と食べるのである。どれほどおいしかったことだろう。その快感は想像もつかない。
 ヒューゴー賞、ネビュラ賞受賞
(2004.5.5)

重力の影

重力の影
TWISTOR
ジョン・クレイマー
1989
 ワシントン大学の物理学者ジョン・クレイマーの処女長編である。ハードSFで物理学者といえば、ロバート・L・フォワードが有名なところだが、フォワードよりも、「ゴム製科学」で遊んでいる分読みやすい。「ゴム製科学」とは、クレイマーいわく、本物のようにみせかけたSFのために伸び縮みさせた科学のことである。そして、さすが物理学者だけあって、付録に、どこがゴム製なのかを解説するページが用意されている。
 本書は、1993年の秋、ワシントン大学の物理学部が最初の舞台である。物理学の実験屋ポスドク=ポスト・ドクターである主人公と、同じ教室の大学院生で赤毛の美人が実験中にひょんなことから発見したツイスター場は、別の宇宙の窓口だった。
 1984年にブライアン・グリーンらが提唱し一度盛り上がった超ひも理論は、これが書かれた当時最新の物理学トピックス。ここからアイディアを引っ張り出して、この時空と平行する宇宙を生み出し、この時空との相互関係を生み出すことで、新しい魅力あふれる「もうひとつの地球」が誕生した。
 もうひとつの地球、人間がおらず、手つかずの大地というアイディアといえば、理論的背景なしにジュブナイルSFとして書かれた「ワイルドサイド」(1996 スティーヴン・グールド)を思い出す。もし、このもうひとつの地球や宇宙が、誰かの手に独占されたら、どんなことになるか。本書の主人公たちも、さんざんなトラブルに巻き込まれ、なんとか、まっとうな科学者として秘密を秘密ではなくするために奮闘する。
 最後は、自分たちが発見した装置を使って危機を脱却し、めでたしめでたし、のストーリーであるが、フォワードよりは人間が書けており、読み応えはある。
 しかし、もうひとつ、おもしろい読み方がある。赤毛の美女大学院生の弟は、一度補導歴のあるハッカー。コンピュータのアクセスを禁止されているものの、姉のマッキントッシュ3を無断借用し、4800bpsでビットネットにアクセスし、姉と主人公の指導教授の個人データをハッキングする。「まったく、このギブスンってやつ、帯域幅や送信速度限界のことなんか聞いたこともないにきまっている。ちっぽけな阿呆頭に電線をつなぐだけで瞬時に全宇宙をダウンロードできるなんて思ってんのさ。いつか暇ができたら、四千八百ボーの通信線に二、三メガバイトをダウンロードしてみてほしいもんだね」と、高校の授業で出てきたウィリアム・ギブスンの「ニューロマンサー」(1984)をこきおろしている。舞台が1993年だから、4800bpsでも、まあ遅いとはいえいいけれど、たしか、そのころには、1.4Kのモデムが出ていたなあ。もう少し通信速度を速くしておけばよかったのに。この点では、物理学者クレイマーは、コンピュータ/通信産業の長足の進歩を予感できなかったようである。ちなみに、主人公のパソコンも登場している。「フラット・マック」である。「高解像度平面カラースクリーンを蓋に組みこんだこの小さなブリーフケース型マシン」が登場している。ラップトップ(ノート)パソコンである。マッキントッシュばかり出てくるのは、その当時だからしょうがないが、1993年のラップトップといえば、高かったなあ。NECの98ノートはモノクロ画面だったし、OSはDOSだった。94年に当時勤めていた会社にDOS/V版WINDOWS3.1搭載の初号機としてIBMのThinkPad330を1台導入し、私が使っていた。トラックポイントがなくて、まだマウスがついていた時代だ。パソコンについては、まあ、悪くはないというところかも。
 実際、近未来を予測すると、こういうことが起こる。過去から近未来を予想した本を、それより未来になってから読むのはなかなかおもしろい。著者には申し訳ないが、未来にいる読者の特権である。
 さて、話があちらこちらにいくが、本書では、「ニューロマンサー」だけでなく、いろんなSFやSF作家が登場する。「火星年代記」(1946 レイ・ブラッドベリ)は、「科学的事象に対する気ままなアプローチ」で気に入らないし、「終わりなき戦い」(1974 ジョー・ホールドマン)のあとでは、「宇宙の戦士」(1959 ロバート・A・ハインライン)もかすんでしまう。主人公の書棚にあり、ハッカーの少年が読むSF作家は、ニーヴン、ベンフォード、ブリン、ベア、ホーガン、さらにウルフの「拷問者の影」…。
 うーん、物理学者好みの、ハードSFだったり、科学者が活躍するちょっと私の嫌いな「科学万能思想」の作者群だったりするなあ。もちろん、ウルフをのぞいて、私は邦訳されているこれらの作家のほとんどを読んでいるわけで、こういう楽屋落ち的な名前の羅列も嫌いではないけれど。
 ハードSFだが、カテゴリーとしては、「もうひとつの地球」「もうひとつの宇宙」「平行世界」ものか。
 なお、超ひも理論の方は、一時静かになったものの、1990年代終わりから再び盛り上がり、2004年の今も、生き続けている。詳しくは、ブライアン・グリーンの「エレガントな宇宙」(1999原著 邦訳2001年草思社)を読まれるとよい。こちらは、SFでなく超ひも理論の提唱者が一般向けに書いた科学書である。読み応えはあるし、よく分からないところも当然素人にはあるが、それでも、わくわくする1冊だ。っと、何の書評だったっけ。
(2004.5.4)

内なる宇宙

内なる宇宙
ENTOVERSE
ジェイムズ・P・ホーガン
1991
 本書は、「星を継ぐもの」「ガニメデの優しい巨人」「巨人たちの星」三部作から10年後に出版された、続編である。時間的にも、「巨人たちの星」からそれほど経っておらず、主人公も同じである。しかし、個人的には、三部作+1作品だと思っている。
 さて、「巨人たちの星」で、地球人の同類であり異系列であるジェヴレン人の策謀を未然に防ぐことができた、地球人とテューリアン人、そして、テューリアン人の祖先であるガニメアンであるが、戦後統治は、惑星ジェヴレンの人工知能ネットワークシステム・ジェヴェックスを実質的に停止した状態でガニメアンを中心に行われていた。地球人は、ガニメアンを補佐するかたちでジェヴレンに入っていたが、その中には、政府関係者だけでなく、ホテル、闇の売人など様々な人種が混ざっていた。ジェヴレン人のおおかたは無気力になり、そして、ふたつの宗教勢力が力を発揮して、社会は次第に混乱に陥った。そこで、ガニメアンのリーダー・ガルースは、旧知の物理学者、ヴィクター・ハント博士に力を貸してくれと頼むのだった。
 ここからは、種明かしが含まれます。読んでいない方は、ご容赦を。
 本書も、前著に続き、ヴァーチャルリアリティと人工知能の存在がクローズアップされる。本書では、全人格、知覚型のヴァーチャルリアリティに入り込み、かつ、それをコントロールする人工知能が、その人の無意識領域までを実体化できるとなると、人間(地球人、ジェヴレン人)は、妄想の世界を構築し、そこに麻薬のような依存性を持ってしまうことを示唆する。これについては、ビデオゲームやネットゲームなどの進化過程で、さかんに言われていることであり、本書が書かれた80年代末から90年代頭にかけて、人工知能論、ヴァーチャルリアリティ論は、最初の盛り上がりを見せていたから、その中から生まれてきた発想であろう。
 さらに、そのような、全惑星的人工知能とネットワークシステムを維持するには、きわめて大きなコンピュータシステムが必要であり、そのシステムのマトリックスで励起した演算素子を基本粒子とした新たな宇宙が誕生し、マトリックスで進行する計算とは別に、世界の中で生命が誕生し、進化し、知性を持つ。内なる宇宙であり、エント人である。エント人は、マトリックスにおける演算素子の流れ=データフローを見ることができ、やがて、ヴァーチャルリアリティに入るため全人格的につながっている別の知性=ジェヴレン人に転移することを覚えていく。
 転移した世界すなわちジェヴレン人の中で、ヴァーチャルリアリティにいた人格は消え、エント人がジェヴレン人の体を乗っ取る。その多くは適応できず、狐つきのような状態で狂ってしまう。しかし、何人かは正気を保ち、この世界と折り合いをつけていく。
 エント人の世界でも、2つの勢力の争いがあり、それが、ジェヴレン人のふたつの宗教勢力の争いであった。ひとつの勢力は、混乱が続く中、この世界での権力をとり、自勢力のエント人を、この世界に多数引き入れようとする。そのためには、切断されているネットワークシステム、ジェヴェックスの完全起動が不可欠である。
 ということで、内なる宇宙の謎解きと、ジェヴェックスの再稼働をめぐり、さまざまな物語が進行する。
 実は、私は、これが邦訳で出版された1993年にハード・カバーで本書を買っている。2冊である。一度読んだっきり、忘れてしまっていた。
 久しぶりに、「星を継ぐもの」三部作を読み返し、書評を書き、何か忘れているような気がして、調べてみると「内なる宇宙」という続編に行き当たり、それがわが家の本棚に並んでいたという次第である。そこで、ふたたびほんしょを取りだし、再読し始めたのだが、正直なところ苦痛であった。
 1993年当時、まだ、インターネットは日常化されておらず、せいぜい、パソコン通信の時代である。WINDOWS3.1が登場した頃で、まだまだ、NEC9801+MS-DOSが現役の時代である。
 すでに、人工知能論やヴァーチャルリアリティ論は出尽くした感があったものの、現実感はなく、それは未来の話であった。だから、そのときはきっと、それほど苦痛でなく読めたのである。
 しかし、2004年の現在、本書を読むと、構成は違うし、内なる宇宙ではなく、マトリックスの中の独立した機械人格と人工知能人格ではあるが、映画「マトリックス」三部作の中で、同じような世界は描かれている。
 また、本書は、前著までのような、1冊ごとのテーマ性も少ない。
 一応、本シリーズは、謎解き的な展開になっているが、謎解きの必然性も薄い。
 さらにいえば、このヴァーチャルリアリティと内なる宇宙の誕生というテーマは、別に「星を継ぐもの」三部作の世界でなくても構築できる。後日談としてのおもしろ味にも欠ける。
 もともと、人間描写のおもしろくないホーガンが、さらに人間をたくさん書いているのだから、ますますつまらない。
 ということで、すっかり私の頭から追い出してしまっていた作品である。
 それでも、「星を継ぐもの」三部作の続編が読みたいという方には、おすすめする。
 それから、ヴァーチャルリアリティの問題点や、マトリックスシステムの中の知性といったテーマに興味があり、そういう内容について漏らさず読んでおきたいという方にはおすすめである。
 仮説として、正当性があるかどうかは分からないが、コンピュータシステム、しかも、今、我々が現実に使用しているようなハードなシステムの中で生まれる宇宙という概念はおもしろいかも知れないし、それを生み出すホーガンの力量は否定できないのだから。
(2004.4.28)

火星の虹

火星の虹
MARTIAN RAINBOW
ロバート・L・フォワード
1991
 2038年、火星。火星には水があり、すでにロシアのネオコミュニストによる基地があり、研究、資源開発がはじめられていた。新国連を牛耳るアメリカを中心とした軍が火星の制圧に乗り出し、成功を収める。新国連軍を指揮するのはアメリカのアレクサンダー・アームストロング将軍、最高指揮官は惑星物理学者のオーガスタス(ガス)・アームストロング博士。一卵性双生児である。みごと奇襲作戦を成功させ、アレクサンダー将軍は地球へ凱旋。一方のガスは、アメリカの火星研究開発機関であるセーガン火星協会の初代会長として、火星で指揮をとる。反ネオコミュニストのアレクサンダー将軍は、帰還途中に火星のネオコミュニスト人民委員を殺害したため、軍から事実上の降格を命じられ、アメリカ議会で、ネオコミュニストを殲滅させるべきだと激した上、将軍を辞任、そして、集金マシンとして勢力を拡大していた合一教の影の支配者と出会い、新たな合一教の「神」としてカリスマ性をあらわにする。やがて、アレクサンダーはアメリカ大統領になり、世界は彼の恐怖の下に統一させられていく。
 火星は、アメリカ管理下の新国連自治領となり、ガスがセーガン火星協会の会長、自治政府としてクリス・ストーカーが火星長官となり、アメリカ人を中心に、ロシア人、EEC(ヨーロッパ)、日本などが協力して円満に運営されていた。しかし、アレクサンダーの影響は火星にもおよびはじめ、火星は自立をめざして静かな戦いをはじめる。
 こう書くと、火星の独立ものの人間ドラマかと思うのだが、物理学者のフォワード博士が書くSFである。人間と人間関係、性格、行動のつじつまが合わない。ステレオタイプな性格と行動…。このあたりは中だるみしてしまう。
 しかし、本書は、それまでに得られた火星の知識をたっぷりと詰め込んだ、火星探査ガイドブックでもある。火星の地形、風景、生きるために必要な道具や工夫がたっぷりと書き込まれていて、火星を実体験することができる。
 人間にとって火星を住みやすくするためにはテラフォーミングが必要だが、そのために必要な方法や可能性についてもきちんと述べた上で、SFとして短期間にテラフォーミングをする離れ業を紹介している。
 それが、火星生命体ラインアップ。あいかわらず、人間以外のものについてはおもしろく書けるフォワード博士。しかし、読み終えて気がつかされるのは、このラインアップが登場する意義である。つまり、火星のテラフォーミングを短期間で行うために、ラインアップを登場させずにはいられず、火星でラインアップのような存在が成立するためにはさらに、別の要素を登場させざるを得なかったのだ。読み終えてみると、無理があるのだが、読んでいるときは、まあいいかという気にさせられる。それは、人間の書き込みが荒唐無稽なだけに、ラインアップの存在に無理を感じなくなるからだ。火星の特性やSFとして登場させた生命体に命を吹き込むため、人間を下手に書くという、フォワード博士の深遠な計画なのだろうか。
 さらに、フォワード博士の楽天思想は、統一された地球がふたたび小さな独立自治を果たす過程で武力放棄、紛争の除去などが達成されたと読ませる。お気楽である。SFだからそれでいいのだ、ということか。
 本書は、1991年に出版された。本書の中でも、それから前書きの中でも紹介されているが、ロバート・A・ハインラインの「月は無慈悲な夜の女王」の火星版であり、「動乱2100」以降にハインライン自らが「書かれざる物語」と読んだ作品のプロットを小説化したものである。宗教と強大な軍事力を持つ恐怖政治が地球を支配し、人々を苦しめ、火星などの植民地は自立に向けた戦いをするという物語である。しかし、根っからのSF馬鹿大将であるハインラインが書く強烈な個性的キャラクターをまねするには、フォワード博士は人が書けない。その点は残念。もし、ハインラインが人を書き、フォワード博士が科学部分を書き込んだら、もっとおもしろいのに。
 付録に火星自治領の第二代長官であるモーリー・ピックフォードによる「新版火星開拓者ガイド」(西暦2047年、火星歴025刊)がついている。本書を読んだ後、この火星開拓ガイドで火星生活を夢見るのは楽しいかも。
PS
実は、J・P・ホーガンの「星を継ぐもの」3部作+1を再読しつつ、本書の再読にとりかかったのだが、物理的なトリックを書き込むおもしろさと、人間記述の下手さ、さらに、法外な楽天性や科学万能性あたり、ホーガンとフォワードはよく似ているのではなかろうか。
2004.4.26

斜線都市

斜線都市
SLANT
グレッグ・ベア
1997
「女王天使」「凍月」「火星転移」と同じ世界の物語である。「女王天使」が2047年、「斜線都市」本書は8年後の2055年が舞台となり、「女王天使」の登場人物が新たな役割を持って登場する。
 テーマは、なんだろう。
 家族? 同族意識? 存在・意識がどこかに所属することの意味? 原著名は、「/」。日本語ではスラッシュと呼ぶ、あれである。男/女、精神/身体、個人/社会、切り離すもの/切り離されるもの、つなぐ/つながれる。「/」は、言語学や人類学でよく使われる記号である。「する/される」関係であったり、何かを区分するのに使われる。それは、分けるものであり、つなぐものでもある。
 自意識を持ったはじめての人工知能「思考体」に接してきた、似ているが異質な別の思考体。その異質さゆえに、おびえ、かつ惹かれる思考体ジル。新たな思考体は、バクテリアや社会性昆虫などのネットワークを、神経系としてとらえると、コンピュータおよびネットワークとして利用できるという仮説から生まれた存在。スズメバチ、アリ、バクテリア、土壌微生物のかもしだすコンピュータであり、思考体となる。
 セラピーによる神経系の改変、再統合が当たり前の社会。医療ナノによる身体治療と身体改変が行われる社会。視覚や聴覚だけでなく、感覚系や運動系にまでインプットを与えることで、疑似体験が可能なYOXにおぼれる社会。それは、リアルなセックスよりも刺激的な体験。過去の有名人は、シム(シミュラクラ)として復元され、パーティの余興に使われる。金持ちは、死体を冷凍し、仮想存在として「存在」を続け、死にかけた死体は、ナノの海でネットワークと接続し、長い夢を見る。
 シアトルに移ったマリア・チョイは、その美しい漆黒の改変した身体を徐々に元に戻そうとしている。シアトルの警察に受け入れられているか、受け入れられていないか、自分の立場に自信を失いながら。不安定な身体、不安定な社会的位置づけ。
 会社社長のジョナサンは、妻や子どもとの関係が崩れかけていることに恐れながら、誘われるままに秘密結社の戸をたたく。本当の自分を求めて。
 テロリストのギフィは、謎の存在。自分の謎にすら気づかない、ペルソナ。
 人々は生まれ、家族や仕事を持ち、他者と関わり、受け入れられ、拒絶され、死んでいく。そこに確かにある。苦しみも、悲しみも、喜びも、救いも、慰めも。
 セラピーやナノによる「松葉杖」をすべて取り除く病原体をつくり、人々に感染させ、社会を崩壊に導こうとする秘密結社の試み。その悲劇。
 ここにあるのはP・K・ディックとは似ているが違うかたちの慰めと希望の物語。
 保護された感覚ポルノ女優のアリスのいる自宅に、すべてを終えて帰ってきたマリアが帰宅する。そこで交わされるささやかな会話と情景。
 すべてを終え、失って帰ってきたジョナサンと、すべてが変わった妻、そして子どもたち。その再会のささやかな情景。
 すべてを失い、すべてを得て帰ってきた思考体ジルとそれを迎えるスタッフのささやかな会話と情景。
 そして、すべてを失い、なくし、何かを残した男は、なすべきことを覚えていた。
 その結語の意味を知るために、本書を通読する価値はある。
 もちろん、ナノテク、人工知性などに興味がある人にもおすすめ。
2004.4.20

巨人たちの星

巨人たちの星
GIANTS’STAR
ジェイムズ・P・ホーガン
1981
「星を継ぐもの」「ガニメデの優しい巨人」に続く、三部作最終編である。
「星を継ぐもの」はSFであり、ミステリーなので、続編には前編の種明かしがつまっている。「星を継ぐもの」を読んでいない人は、本評を読まないことをおすすめしておく。
 こちらは、政治サスペンス風になっている。地球では、国連、アメリカ、ソヴィエトの三極に、得体の知れない暗躍組織の影があり、様々な綱引きが行われている。
 巨人たちの星の星系には、移住したガニメアン=テューリアン人のみならず、5万年前のミネルヴァの崩壊に際し助けたジェヴレン人がテューリアン人の導きを受けながら自立と勢力拡大への道をたどっていた。
 テューリアン人は、2500万年前の人工知能ゾラックのはるかな上を行く人工知能ヴィザーによるネットワークと、究極のヴァーチャルリアリティにより、身体を移動させなくても、その入出力装置とネットワーク端末さえあれば完璧な身体感覚とともにどこにでも行き、人と会うしくみをととのえていた。交通、知識、都市管理、生産、個人生活などすべてにわたって、ヴィザーが管理している社会であった。
 5万年前に保護されたジェヴレン人は、やがて自立とヴィザーのような独自の人工知能ジェヴェックスを求め、テューリアン人からそれを得る。
 地球人=ルナリアン=実はミネルヴァのジェヴレン人とは対立していたセリアンの末裔は、テューリアン人によって歴史を見守られていた。しかし、テューリアン人に対し、好戦性をなくしたと信じ込ませたジェヴレン人は、地球人の「監視」を自ら引き受けることを要求し、それを得ていた。地球人に対する誤った情報が、ジェヴレン人/ジェヴェックスを通じ、テューリアン人/ヴィザーに流され続けてきた。
 そんなときである。
 2500万年前からガニメアン人がガニメデに到着し、地球人と友好的に接触、そして、巨人たちの星を目指して出発したのは…。
 地球人=仇敵セリアンと、テューリアン人を抑え込み、自らを銀河の後継者として立ちたいジェヴレン人は、ガニメアン人の船を破壊しようともくろむ。
 地球内部の政治と、これらの勢力の綱引きが本書を貫く。
 さらには、地球の歴史、宗教、非科学的なすべての行為の背景に、恐るべき陰謀があったことを暴き出す。反核運動もまた、科学の進歩を妨げる妨害工作であった…。
 ヴィクター・ハント博士が、またまた大活躍。
 今回は、特定の彼女もできたし、上司のコールドウェルや、国務省、ソヴィエト軍情報部あがりの国連代表部など、たくさんの登場人物も待っている。
 SF的な要素として見るべきところは、ヴァーチャルリアリティと人工知能であろうか。ブラックホール推進やタイムパラドックスなど、そのほかにもいろいろ出てくるが、ヴァーチャルリアリティの表現は、なかなか堂に入ったものである。
 それにしても、この楽天的な作家は、究極の悪として悪意を吹き込まれた人工知能を登場させることで、人間の性善説を引き出している。本書で、いかに人間が好戦的か、それがいかに遺伝子に刷り込まれているかを盛んに喧伝しながらも、やっぱりいい人ばっかりになってしまう。
 そして、本作は、前作にもまして、科学技術万歳思想に満ちている。科学の進歩こそが、人類の様々な問題を解決し、優れた、よりよい、安全で、平和な世界を作ると確信している。そんなわけないって。
 科学=知識も、技術=道具も、使うもの次第である。
 そして、人は、常にとんでもない使い道を思いつくのだ。
 いいこともあれば、信じられないようなことにも使う。
 そして、使いたがるのだ。
 核だって、放射線、放射性物質の管理やその被害、影響の大きさ、封じ込め方、将来の処理などを考えずに、技術を使いたいがために、原子力発電所などを作ってしまう。使ってしまう。爆発させて、「実験」してしまう。
 それを、進歩の過程の失敗と軽く片づけることはできない。
 その下で、人が苦しみ、死ぬのだから。
 と、時々、この楽観主義、科学万能主義に腹を立てつつも、やはり、ホーガンは読んでしまう。たとえ、さらに、とんでもないご都合設定があったとしても、だ。
 それが、ホーガンの作家としての力量なのだろう。
 あいかわらず人間を書くのは下手であり、読んでいて顔が赤くなったりもするが、この人に、科学を語らせたら、拝科学主義者であるだけに、いっぱしのことはある。
 人工知能については、この後、ホーガンが「未来のふたつの顔」で人工知能そのものをテーマにしている。今回は、人工知能の意志や人工知能に頼り切った社会のもろさも描かれている。魅力ある人工知能の知性は、人間よりよく書けているかもしれない。
 しかし、こういう人工知能にすべてをまかせた社会って、もろくないか。
 私も、気を付けよう。
 あらすじ解説みたいな前作の評同様、今回もとりとめなくなってしまったが、ご容赦を。三部作終了である。
 おっと。それで、解決されないままに放り投げられたタイムパラドックスは、どうなってしまったのだろう。
 ところで、三部作終了と書いたが、実は続編が出ている。1991年に出版された「内なる宇宙」。10年後に書かれた続編ですが、私は個人的に三部作+1だと思っている。それについては、「内なる宇宙」の論評で。
(2004.4.13)

ガニメデの優しい巨人

ガニメデの優しい巨人
THE GENTLE GIANTS OF GANYMEDE
ジェイムズ・P・ホーガン
1978
「星を継ぐもの」の続編である。「星を継ぐもの」はSFであり、ミステリーなので、続編には前編の種明かしがつまっている。「星を継ぐもの」を読んでいない人は、本評を読まないことをおすすめしておく。
 前作に続き、高校の頃に読んだのだが、前作と違い、あまり記憶と印象がない。
 さて、太陽系第五惑星ミネルヴァでは、後に人類がガニメアンと名付ける知性生命体が進化し、現在の人類よりはるかに進んだ科学文明を築いていた。2500万年前、ミネルヴァの長期的な環境変化はガニメアンの生命をおびやかすものとなり、ガニメアンは第三惑星地球の動物を収拾して、その機能を取り込む実験を開始する。しかし、実験は失敗したらしく、ガニメアンは姿を消し、かわりにミネルヴァの環境に適応した地球生まれの動物がミネルヴァの生態系に位置する。そして、そこで人類は進化し、戦い、5万年前に、ついに、惑星そのものを破壊するような戦争を迎えてしまう。ミネルヴァはアステロイドベルトと化し、ミネルヴァの月は、太陽に引かれ、やがて衛星を持たなかった第三惑星の軌道に落ち着く。そして、ミネルヴァの月に生き残ったミネルヴァ生まれの人間は、地球に降り立ち、進化しつつあった人類ネアンダール人を滅ぼし、新たな歴史を生み出した。
 そして、2027年、月で、宇宙服を着た死体を発見し、ルナリアンと命名。5万年前の死体をめぐって、謎を解き明かすのが前作「星を継ぐもの」であった。
「星を継ぐもの」では、木星の衛星ガニメデの氷の中から、巨大な宇宙船を発見する。2500万年前のもので、そこには、当時の地球の動物たちと、巨大な異星人ガニメアンの死体があった。ガニメアンの死体から、ガニメアンはミネルヴァで進化した生命であり、ガニメアンが地球の動物をミネルヴァに運んでいたことが推理さた。
 主人公のヴィクター・ハント博士が、ガニメデで調査研究を続けている、まさにそのとき、実験的に起動させた宇宙船の装置が発した信号により、巨大な宇宙船がガニメデに接近。それは、生きたガニメアンであった。
 当初、ミネルヴァを捨て、遠い恒星に旅立ったガニメアンかと思われたが、実は彼らは、2500万年前、ミネルヴァの危機を回避するために別の恒星系で実験をしていた科学者たちであった。実験中のトラブルで、恒星系を緊急離脱することとなったが、修理中の宇宙船での緊急離脱だったため、ミネルヴァに戻るまで船内時間で20年、そして、太陽系の実時間では2500万年の時を経ていたのだ。
 奇しくも、まさに人類が、ルナリアンとガニメアンを発見し、太陽系第五惑星の謎を解き、人類の不思議な進化について驚きをみせた、その時に、2500万年の時空を経て、生きたガニメアンに会うのである。
 うーむ。ものすごいご都合主義である。ここまですごいと、かえって文句が言えなくなる。この「偶然」を導入することで、新たな謎解きが始まる。なぜならば、帰ってきたガニメアン達は、地球の動物をミネルヴァに運んだ事実を知らなかった。それは、彼らが行ったあとの出来事だったのだ。
 ガニメアン達と人類は、お互いに協力しながら、欠けた輪をつなごうとする。ミネルヴァはどうなったのか。ガニメアン達はどこにいったのか。人類はどうやってミネルヴァで進化したのか。なぜ、ガニメアンは、地球の動物をミネルヴァに運んだのか? そして、ミネルヴァ産の動物と、地球産の動物に見られるひとつの酵素の違いの意味は?
 そうして、新たな謎解きがはじまった。
 本書では、ガニメアンが自らに遺伝子操作をしていることが明らかにされ、そのことに地球人達は驚きを隠さない。生命の改変までいとわない態度に驚嘆する。
…地球人は遺伝子組み換えにはおよび腰である。(本文306ページ:創元推理文庫SF)
 本書が書かれた当時、すでに遺伝子組み換えやクローンの可能性は現実のものとして受け止められ、その倫理性について議論がはじまっていた。まだ、実験段階のものであったが、生命の本質に手を付けることに、文化的、宗教的、社会的忌避と、科学的な懐疑が上げられていたのである。
 残念ながら、その後、遺伝子組み換えもクローンも実用化され、遺伝子組み換えにいたっては、商業商品作物として、大規模に栽培されている。
 科学技術万歳主義のホーガンであっても、地球人の未来の態度について「および腰」と書いたほどであったのだから、もっと議論をすべきであった。
 もちろん、今でも遅くない。
 おっと、失礼。話が横道にそれてしまった。
 本書のは、ファーストコンタクト小説でもある。前作では、生きた異星人に会うことはなかったが、本作では、生きたガニメアンと人類との接触が話の中心である。ガニメデでの科学者・軍人とのざっくらばらんな出会いと交流。地球から届く、形式張った指令。地球の熱狂的な興奮、地球でのセレモニー、交歓。
 本当に、ホーガンが書く人間には毒がない。せいぜい、国連を舞台にした国同士の綱引きが少しだけ語られるだけである。陰謀も、暗殺も、異星人に対する恐怖も、忌避も、パニックも書かれない。ほのぼのとしたファーストコンタクトである。
 さりげなく、ガニメアン側に人工知能が出てきたりもする。それにより、言葉の壁や情報の壁がいとも簡単に取り除かれる。ホーガンらしい。このあたりは、現実離れしているが、もともと、最初の設定が設定だけに、気にしないことだ。それに、現実のファーストコンタクトがどうなるか、誰も分からないのだから。それでも、小説として成り立っているのが、ホーガンのホーガンたるゆえんである。
 さて、ガニメアンの科学者とハント博士ら地球人の科学者はそれぞれに、真の秘密に気がついてしまう。地球人もまた、遺伝子操作を受けていたのだ。
 ガニメアンは、地球人=ルナリアンが経てきた苦難の歴史を思い、彼らが地球に居続けることで起こる衝突を避けるため、地球を離れ、ルナリアンが言い伝えてきた「巨人の星」に向かって再び旅をはじめた。
 「巨人の星」である。もちろん、あの「巨人の星」ではない。星君。巨人軍は永遠に不滅なのだ。ではなく、実は「巨人たちの星」であった。ということで、続編であり、三部作の最後を飾るのは「巨人たちの星」である。
 ということで、さらなるご都合を用意し、もうひとひねりの謎を加え、第三部へ続くのだ。
(2004.4.13)