星を継ぐもの

星を継ぐもの
INHERIT THE STARS
ジェイムズ・P・ホーガン
1977
 専門化した科学知識を組み合わせ、統合して新しい発見・知見を得るというのは、私の夢であった。高校生の頃、あこがれた職業は、そういう立場の者になることだった。
「宇宙船ビーグル号」の総合科学、「ファウンデーション」の心理歴史学、そして、本書に出てくるヴィクター・ハント博士…、そういう仕事がきっとあると思っていた。
 大人になって気がついたのだが、そんな仕事は、どこにでも転がっていて、どんなことでもあてはまることだった。門外のことにアンテナを張り巡らせ、自説や常識にこだわらず、組み合わせ、直感を大切にする。それだけのことだ。料理だって、データ収集・分析だって、商売だって同じことだった。
 ただ、そういう能力の開発が日本の教育課程の中で評価されにくいことだけは、高校生の私にも分かっていた。  だから、本書は夢であり、希望の話だった。
 さまざまな断片を組み合わせ、新しい情報を生み、それが、新たな動きと、新たな自分の役割を作っていく。拡大循環的で双方向の動きに心を大きく動かした。
 世間知らずな若者の無鉄砲なあこがれだったが、今もそれは変わっていない。
 私は科学者ではない。しかし、本書は、私が今の私を選ぶための動機を与えた一冊である。
「星を継ぐもの」は、ジェイムズ・P・ホーガンの長編第一作であり、「ガニメデの優しい巨人」「巨人たちの星」の三部作第一作である。
 2027年、月の土木調査中に、赤い宇宙服を着た死体が発見された。それは、人間の男だったが、調べてみると5万年前に死んでいた。この男はどこから来たのか? 人類との関わりは? どこで進化したのか? 地球上だとすれば、文明の痕跡はどこへ行ったのか?
 様々な研究が進めば進むほど、相反する証拠ばかりが出てくる。
 地球の生態系とは明らかに異なる進化をした魚、やがて発見される異星人の死体。
 本当の答えは?
 最後は、あっという、そしてなるほどという答えを用意している。
 答えを知って読むと、興ざめてしまうので、ここではねたばれを避けておくが、初出当時、ミステリ誌でも評価された作品である。70年代を代表するSFであり、上質のミステリーとして、ホーガンの名を世界に知らしめた作品である。
 ホーガンが書く初期の作品には、科学や技術の発展に対しての懐疑はない。むしろ、科学や技術の発展を突き詰めていくうちに、今ある問題は必ず解決できるはずだという楽観的な立場をとっている。それは、人間に対する楽観主義でもある。楽観しすぎるところもあるが、本作品では、人間の精神の動きはあまり重要な要素を持たず、ただただ謎ときだけなので、読むのに苦痛はない。
 なぜか知らないが、最近になってあちこちの大型書店で平積みされ、手書きのPOPで紹介されている。初版が1980年、私が買ったとき1982年で12判を数えていた。それから20年余。すでに、書かれている科学的知識のいくつかはその後発見された事実により覆されている。また、インターネットやコンピュータ社会についても、本書はそこそこ適切な未来を描いているが、やはり古さを感じてしまう。なのに、SF以外の人たちに多く読み継がれているのは不思議なことだ。  上質なミステリーなのだろう。
 願わくば、これをきっかけに、最近のSFにも手を出してみて欲しい。
 グレッグ・ベアあたり、読みやすいかもしれない。
(2004.4.13)

地球の長い午後

地球の長い午後
HOTHOUSE
ブライアン・W・オールディス
1962
 オールディスはイギリスの作家である。イギリスでは「温室HOTHOUSE」という原題だったが、アメリカでのペーパーバックでは、「THE LONG AFTERNOON OF EARTH」となっていて、これを直訳したのが邦題になっている。美しい邦題である。
 たしか中学の終わりか高校に入った頃に本書を読んでいる。以来読んでいなかったのだが、私の頭の中では、人間の若く美しい女が主人公で、緑色をした植物と融合した人間と、巨大な林檎のような中に暮らしていて、その実をまるで芋虫のように食べながら過ごし、やがてこの緑色の植物人間が何かのきっかけで悲しむ女を慰めているうちに、そのままセックスにいたるというシーンがあったと記憶していた。
 そして、異星人が地球の生命の収穫に来るのだ。
 違った。
 たしかに、緑色の植物人間が悲しむ女を慰めているうちに調子にのってセックスにいたるシーンはある。しかし、林檎の実の中ではない。主要人物だが、主人公でもない。異星人なんて出てきやしない。
 ありゃあ。記憶の罠である。
 とにかく、変な名前の変な植物がたくさんでてくる。動物がほとんどいなくなった世界で動くことを覚えた植物である。中でも、人間や他の植物、動物にとりついて、知性を使ってそれらをコントロールするアミガサタケには圧倒される。
 いろんな漫画や小説にオマージュされている。
 どうして、私はこちらを覚えていないのだろう。
 若かったからな。なんかセックス的なものに心が奪われていたのだろう。
 アミガサタケは、その後、本書を離れ、知能や身体能力を強化する「外套」として、いろんなSFに登場していくこととなる。
 もちろん、人体に融合して乗っ取る生命体というのは、それ以前にもあったことだろうが、このアミガサタケほど印象深いものはなかなかいない。それは、本書に出てくる世界の中でアミガサタケの存在感が生きているということでもある。
 ツナワタリ、ダンマリ、ヒツボ、スナタコ、ジゴクヤナギ、アシタカ…そして、ハガネシロアリ、トラバチ、ポンポン、トンガリ、ウミツキ、それぞれが奇妙で、それでいていてもおかしくない説得力を持っている。そんな世界だからこそ、アミガサタケは本書を超えて生きているのだ。
 地球の自転が止まっていて地球の片面だけが熱っしているのに、気候が比較的安定しているとか、設定の不思議さは忘れよう。
 本書は、一級のファンタジーであり、人間の想像力の豊かさを示す好例なのだから。
 ちなみに、椎名誠が1980年代の終わりに書き、1990年の日本SF大賞作となった「アド・バード」は、本書のオマージュである。こちらを読んで楽しんだ方は、ぜひ、オリジナルである「地球の長い午後」を一読されることをおすすめする。おもしろいよ。
 ヒューゴー賞受賞
(2004.4.11)

ホログラム街の女

ホログラム街の女
DYDEETOWN WORLD
F・ポール・ウィルスン
1989
 SFとハードボイルドは意外と相性がいい。くたびれた開拓星のバー、荒廃した未来の下町、やさぐれた男、町になじまない女…。どんな設定でもいい。心根は優しいのに、斜に構えてしまった男や女、あるいは出口をなくしてしまった男や女が生きる場所を見つけさえすれば。
 市民権の与えられないクローン。昔の俳優や女優を快楽の道具、商売の道具として再生する街。
 存在の否定された落とし子達。厳格な出産制限で違法出産された子どもは、生まれた直後から親と離れ、市民権を持たずに闇の中で生きるしかない。市民権はなくても社会的に認知されたクローンよりも下の存在。
 そして、市民、真民。太陽系外世界に行くことができる唯一の存在。管理された社会が嫌なもの達は自由世界に向かって行く。残されたもの達は、管理された偽りの社会を生きる。
 ここに私立探偵がいる。妻が子どもを連れて外の星に行ってしまった。男を見捨てて。男は、頭に穴をあけ、バーチャルなセックスにおぼれる日々。もちろん、金はない。仕事もない。
 久々の依頼人はクローンの女。以前、しぶしぶながらクローンの女の依頼を引き受けたのが評判になっているらしい。クローンは嫌いだと、首を振る私立探偵。
 しかし、最後は仕事を引き受けてしまう。おそらく金のため。おそらく好奇心。おそらく女を追い払うのが面倒になったから。おそらく男に騙されているのにまったく気づかない女に少しだけ同情を覚え、騙した男に少しだけ怒りを覚えたから。たいした理由ではない。
 管理されたデータネット。ニュースも管理され、クレジットカードですべての動きは把握される。金貨は足の付かない裏の金。身分をごまかすならばホログラムスーツを身にまとえばよい。全身が別人のように見える。ニュースネットをハッキングして真実をかいまみせる者。データベースに侵入して、金をかせぐ者。クスリを売る者。クスリを買うもの。
 小さなガジェットでつづられる、あるかもしれない未来。いるかもしれない男。
 小説の「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」ではなく、映画の「ブレードランナー」の世界。映画「JM」の世界。つまりは軽い読み物。
 人を見下すシステムに対する怒りのお話。ひとりひとりの人間の存在など気にしない権力やありように対する怒りのお話。どこにでもある話。だから、ついつい読んでしまう。
 ただ、ねたばれになりそうな話は書けない。
(2004.4.8)

砂漠の惑星

砂漠の惑星
NIEZWYCIEZONY
スタニスワフ・レム
1964
 遭難した探査船を探し、原因を突き止めるため、レギス第三惑星に100名を超すスタッフを乗せたロケット「無敵号」が到着した。海にしか生命が存在しない、陸上は動物も植物もない砂漠の惑星で、なぜ、探査船は遭難したのか? そこで出会った存在は、意志の疎通などとりようのない「存在」であった。「無敵号」とスタッフを襲う「存在」。
「ソラリスの陽のもとに」で知られるポーランドのSF作家スタニスワフ・レムが、「ソラリス」と同じテーマ、すなわち人類とは本質的に異質な存在との接触について書いた作品である。
 自律ロボットが長い年月の中で多様な進化を果たし、唯一勝ち残った形態のみが存在する世界。最小のパーツがそれぞれに自律し、かつ、集合することで高度な機能を発揮する存在。蟻や蜂の社会にも似たシステムを持つが、中心核や機能分化はない。ただ続くだけの存在。その存在意義を問う意味があるのか?
 擬人化し、意志があるもののように振る舞うスタッフが多い中で、主人公のロハンは考える。
…重要なことは、単に人間に似ているような生物を探し出すことでもなければ、そのような生物の存在だけを理解することでもない。さらに人間に関係のないようなことがらには干渉しないという心の広さが必要なのだ。干渉したところで、得るものは何もない。当たり前の話だ……現実に存在しているものに対して攻撃を加えてはいけない。数百万年のあいだに、自然法則以外の何ものにも支配されない独自の安定状態をつくり出して活動している存在に対して、攻撃を加えてはならない。それらの存在は、われわれが動物あるいは人間と呼んでいる蛋白質的化合物の存在に較べて、決して勝るものではないにしても、しかし、決して劣るものではないのだ。(早川文庫SF版212ページ)
 嵐と戦うものはいないのだ。
 意志の疎通ができる宇宙人ではない。侵略など意志を持った行為を行う宇宙人でもない。無視すれば通り過ぎる存在でもない。そこに生命や機械が降り立ち、存在と行き会えば存在はただ反応するだけだ。その反応は、人の記憶を消去し、通信を遮断し、結果として破壊する。そこに意味も、意志もない。ただ、そこに行った人類の意志が反映し反応されるだけだ。なんという存在、なんという宇宙。なんという冷たい関係。
 人類は、その存在に関わるつもりならば、自らの概念を再構築するほかない。
 それにしても、この存在はコントロールができれば兵器になりうる。それが誰にもコントロールされず、コントロールできないところに、存在の恐ろしさがある。恐ろしいと感じることは、つまり、自らの概念の再構築ができていないということだ。
 スタニスワフ・レムは、存在に対峙する人間を描くことで、固定した概念、確固とした枠組みとしての概念を否定し、再構築を迫る。それは、SFがもつひとつの役割でもある。
 ソ連(ロシア)やポーランドなど、過去において東側と呼ばれ、東欧文化であり、社会主義であったところにもSFは存在し、そして、すばらしい作品が数多くある。SFは、西欧の文化でも資本主義の文化でもなく、物語と科学のあるところに存在する普遍的なものである。
(2004.4.5)

夜明けのロボット

夜明けのロボット
THE ROBOTS OF DAWN
アイザック・アシモフ
1983
「鋼鉄都市」「はだかの太陽」に続く、SFミステリ3部作、3作目である。地球人イライジャ・ベイリと、人間とみためが同じロボット、ダニール・オリヴォーのコンビによるSF推理小説である。本作は、1957年に「はだかの太陽」が出版されてから26年後に出版されている。アシモフいわく、一度取りかかったものの失敗したためおいてあったということだが、本作の位置づけは、「はだかの太陽」の続編だけではなくなってしまった。
 アシモフのもうひとつの人気シリーズであり、50年代に書かれた「ファウンデーション」3部作の続編を1980年代になって書き始める。そして、そこに、ロボットシリーズとファウンデーション・シリーズの統一がアシモフの頭の中で成立してしまう。このふたつのシリーズをつなぐミッシングリングとして、本作は位置づけを変えてしまう。
 なぜ、長命のスペーサー(宇宙人)ではなく、短命の地球人がその後銀河帝国を築くようになったのか? なぜ、銀河帝国にはロボットがいないのか? その要因が、未来への推察として登場する。そして、本書の中で語られる未来への推察は「心理歴史学」さえも登場させる。もちろん、アシモフの歴史であり、その過去を書いているのだから、このあたりはいかような将来の伏線も書けるわけだ。ずるい。しかし、ファンはそれを許すであろう。なぜならば、60年代、70年代を通じ、アシモフにはファウンデーション・シリーズの続編を求め、ロボット・シリーズの続編を求めていたのである。そして、ファンは、80年代のアシモフを大歓迎した。だから、もはや本作を単独の作品として評するのは難しい。  しかし、単純に「鋼鉄都市」「はだかの太陽」「夜明けのロボット」として考えてみよう。地球上で起きた宇宙人殺人事件、惑星ソラリアで起きた殺人事件、惑星オーロラで起きた人間そっくりロボット殺害事件の解決である。殺人事件ではない、ロボット破壊事件である。その結果、ソラリア内部の権力闘争が激しくなり、地球とソラリアの関係が悪化しているため、解決を迫られるのである。ダニール・オリヴォーの弟分である人間そっくりロボットのジャンダー・パネルはなぜ機能停止したのか? 偶然? それとも故意? その原因と故意であるならば、動機と方法を探る過程で、イライジャ・ベイリは、「人間そっくり」であることの意味について考えさせられる。アシモフは本書の中で「人間そっくり」というような表現は使っていない。「ヒューマンフォームロボット」と書いている。
 私があえて「人間そっくり」という表現をしているのは、P・K・ディックを意識してのことである。ディックは、1928年生まれでアシモフより8歳若い。1982年に早すぎる死を迎えている。本書はちょうどディックが死んだ頃に書かれている。ディックについては論を別にしたいが、「人間そっくり」の「人間ではないもの」や、現実そっくりの現実でないものなどをテーマに、精神や存在のあり方を追い求め続けた作家である。そして、「人間そっくり」でも「人間ではないもの」などが容易に、我々の世界に入り込み、我々はその関係に惑うことを明らかにする。一方、アシモフの現実は、しっかりとした現実である。突然現実が崩れたりはしない。ロボットが実は人間でしたとか、作品の中で世界観が崩れるようなことはしない。一定のルールの中に世界を押し込める。SFの王道をゆく。奇抜なトリックには、必ず読者が納得せざるを得ないような伏線を用意する。本書でも、地球人は忘れてしまい、スペーサーには伝説となっているロボット工学者スーザン・キャルヴィンのエピソードを何度も繰り返し、伏線にしている。そのエピソードは初期のロボットシリーズそのままである。だから、読者は安心してその世界観を受け入れる。そうでなければ、SFミステリは成立しない。ディックではミステリにはならない。
 そうであるにかかわらず、本書では「人間そっくり」が与える影響についてディック的な世界をかいま見せる瞬間がある。人間と人間そっくりなロボットと人間とは見た目が違うロボットとの間の認識や関係性のずれを描いている。50年代、60年代のアシモフにはなく、50年代からディックが書き続けてきた世界である。
 アシモフとディックにそれほど接点があったとは考えられないが、80年代は世界が過去のアシモフ的な確固としたものではなく、ディック的な不確かなものであることに気づきはじめた時期である。アシモフは、本書に意識するしないにかかわらず、時代を感じ取り、彼の対局にあるディック的な要素を取り入れている。
 アシモフらしい作品でありながら、わずかに残る違和感、ディックの小説をこよなく愛する私にとってはなじみ深い違和感があることに、アシモフの奥深さを感じずにいられない。
(2004.4.4)

中継ステーション

中継ステーション
WAY STATION
クリフォード・D・シマック
1963
 1840年4月22日生まれ。124歳。現在、1964年アメリカ・ウィスコンシン州。鳥がさえずり、花が咲きほころび、土のかおり、季節のかおり豊かなさびれた田舎町に、見た目は30歳代のイノック・ウォーレスが暮らしていた。地球は、核戦争の恐怖が高まり、今にも人類文明は崩壊の危機にある。1日1時間、ウォーレスは家を出て散歩をし、郵便夫から郵便や新聞、雑誌、時には日用品を受け取る。彼の存在に気づき、見張るCIAのエージェント。しかし、彼が何をしているのか、なぜ若いままなのかは分からない。
 イノック・ウォーレスは、中継ステーションの管理人。銀河宇宙文明が星から星に旅をするための中継ステーション。さまざまな異星人が訪れ、目的地に向かって去っていく。地球はまだ銀河宇宙の一員としては受け入れられず、ただ、そこが中継点として必要だったからできただけの通過駅に過ぎない。地球で途中下車することはできず、管理人であるイノック・ウォーレスだけと接しては去っていく。彼は、さびれた宿場町のひとつだけの宿屋兼バーの雇われマスターといったところである。さびれた宿場町=地球のことを気にしながらも、旅人=異星人の話や世界を楽しんでいる。地球人に対して話すことができないといううしろめたさを持ちながらも。
 静かに、静かに話は進む。まだプラスチッキィでも、テレビ的でもない、開拓が終わって静かになったアメリカの里山の、自然豊かで静かな閉鎖した町の静かなちょっと変わった男の話である。しかし、そこには、滅びの予感がある。核戦争の恐怖、失われていくものへの恐れ。1963年という時代が、シマックの美しい世界に影を落とす。
 そして、シマックは未来への希望を込めて解決策を提示する。それは、現実的な解決策ではない。しかし、もっとも現実的な解決策でもある。物語の力。伝説が、ファンタジーが、文学が伝え続けてきた希望と共感である。
 高校生の頃、はじめて本書を読んだ。日本のさびれた山奥の閉塞した田舎町で、早くここを出たいと願いながらも、同じような場所に居続ける男の静謐な物語に感動した。20年以上経って本書を再読し、やはり静かなシマックの世界に落ち着いた気持ちを持つことができた。
 鳥の声が消え、緑が失われ、核戦争の恐怖という明確な形がないままに、恐怖の未来しか描けない現在に、せつなさと懐かしさと、持続する恐怖の源を教えてくれる1冊である。
 SFの形をしたおとぎ話なのかも知れない。
ヒューゴー賞受賞
(2004.4.4)

月を売った男

月を売った男
THE MAN WHO SOLD THE MOON
ロバート・A・ハインライン
1953
 名作である。創元推理文庫SFから1964年に翻訳が出され、私は1980年の第12版を買っている。早川からも未来史シリーズの短編集に掲載されている。ハインラインの未来史シリーズであり、表題作の「月を売った男」(1950)と、後日談「鎮魂歌」(Requiem/1940)は、SFならではの叙情詩である。
 月に行きたいという思いだけで経済界を生き抜いてきた男。その経済力とビジネスセンスとはったりで、なんとか月に行こうとする。切手を月に持っていき、持って帰ってマニアに売ったとき、もっとも経済効果の高い枚数は? 月に広告を打ちたがる飲料会社の存在をほのめかし、ライバル会社から資金を引き出し、小国のプライドを持ち上げ、大国の意地を引き出し、大衆には宣伝とキャンペーンを張り、月開発は人類にとって必要不可欠だと誤解させる。各国にたくさんの会社を作り、組織を作り、月の権利を独占し、独占することで誰にも支配されない月=新天地を用意しようとする。すべては、自分が月に行きたいから。私はずっと「月を買った男」だと誤解していたが、彼は月を売った男であった。月を月にまつわる幻影のすべてを売り、そして、月を買ったのだ。
 月面開発を実現させるまでが「月を売った男」そして、その男が生涯をかけた夢を実現するのが「鎮魂歌」である。
「鎮魂歌」を読むだけでも泣けるが、ここはひとつ、じっくりと「月を売った男」を読み、そして、「鎮魂歌」で泣こう。その幸せな生涯を。
 私にとって、きっと絶対に怖くてたまらないだろうけれど、憧れている死に方のひとつに、カプセルかなにかで宇宙空間に放り投げられて、どこまでも進むというのがある。死んでからなら怖くはないが、生きていて、片道切符でも、どこかが見られるならいいなと思う。
 もっとも、閉所恐怖症で暗闇も怖くて、ひとりは寂しいから、たとえそれが今可能であっても、なかなか実際にやろうとはしないだろうけれど、だからこそ憧れである。
 憧れを思い起こさせる素直でせつないSFである。ハインラインの好みは分かれるが、SF古典の定石としてぜひ一読しておきたい。
(2004.4.1)

もし星が神ならば

もし星が神ならば
IF THE STARS ARE GODS
グレゴリイ・ベンフォード/ゴードン・エクランド
1977
 本書は、1992年の火星生命探査で幕を開け、2017年に月に到着した太陽生命を探査する異星人との接触を経て、2052年に異星からのデータ通信を受け、2060年に木星、2061年にタイタンをたどる、ブラッドリイ・レナルズの巡礼の物語である。
 それぞれの場所で、人間と人間ではないなにかに出会える旅である。魅力あふれる/魅力のない人間。意志のある/意志があるかどうかわからない「なにか」。出会いながら、レナルズは、ただ自らの動機を追い求める。
 本書には、火星の微生物、遺伝子改変された超人と人類の確執、箱に入れられて育てられた超人の失敗作、太陽こそが生命であり神であることを確信する異星人、木星の生命とおぼしき存在、タイタンにある生命を予感させる結晶体など魅力あふれる存在が登場し、レナルズの巡礼を彩る。巡礼というのは、もちろん比喩であり、本書がレナルズを巡礼者として明記しているわけではない。私には、巡礼としか読めなかっただけだ。
 今、本書を見ながら計算したのだが、レナルズは1992年に27歳であり、ということは、1965年生まれで、私と同い年ではないか。1992年に天文学者として火星に行き、最初の有人火星生命探査チームの唯一の生き残りになる。そして、2061年、すなわち、レナルズは96歳で現世から姿を消す。
 彼が生涯を通じて求めたのは、遠くに行くことと、見知らぬ生命に出会い、なぜ自分が他の生命を求め続けるのか、自問自答すること。SFを書く人/読む人が求める動機そのものである。彼は、実にすばらしい生涯を送った同世代人であった。
 過ぎ去りし未来で、私たちは火星を知らない。しかし、ずいぶん遅れたが、ようやく今年、火星に水があり、生命があってもおかしくないことを知った。2061年までまだ57年もある。何が起きるかわからないではないか。
「もし星が神ならば」…それは詩的な表現である。
 もし星が神であるとしても…私たちは、神を追い求めているわけではない。星に願い、星を求めているだけである。星はまだ遠い。まずは、手近の惑星から歩きたい。
 はやく、月へふたたび。火星へ。そして、もっと遠くへ。
 ネビュラ賞受賞。
(2004.3.31)

天の光はすべて星

天の光はすべて星
THE LIGHTS IN THE SKY ARE STARS
フレドリック・ブラウン
1953
 ……ものを読めるほどの年頃になってからというもの、わたしはやたらにSFというやつに読みふけるようになったのだ。
 ……その作者たちは、夢をもっていた。そして、その夢をわたしたちにも分けてくれたんだ。その連中が書くものの中には、星屑がいっぱいちりばめられていて、それがわたしの目の中にとびこんできたんだ。(早川文庫版188ページ)
 4歳の時、そう、1969年のことだ。蒸気機関車、白黒テレビ、真空ラジオが現役だった九州の片田舎。電話も電子レンジもなく、もちろん、テレビゲームも、パソコンもない。父が私を呼んだ。7時のニュースだったと思う。テレビにぼんやりと白い宇宙服を着た人が写っていた。アポロ11号が人類初の月面着陸を行った日だった。宇宙は目の前に広がっていた。そのときの気持ちがよみがえる。
 本書は、1997年から2001年までの物語である。1960年代の華々しい月、火星、金星の探査計画実現後、冷え込んだ宇宙開発熱…。月と火星の植民地をやっとのことで維持しながらも、それさえ税金の無駄遣いとののしられる始末。
 もっと遠くへ! 宇宙熱にとりつかれた星屑たちが、木星への探査計画実現をめざす。
 21世紀は、目の前にある。
 ……未来。未来という時。わたしはいつでも紀元二〇〇〇年を念頭において考えたものだった。一九五〇年代、まだ十代の少年だったころ、それは信じられないほど遠い未来の、あまり遠くの先のほうにあって、本当にあるのかどうかわからないくらいだった。(同251ページ)
 1960年代生まれ、10代を70年代から80年代にかけて過ごした私もまた、21世紀を遠いものと考え、物心ついて出会ったSFとともに遠い未来を夢見ていた。そこには、月があり、火星があり、星々があった。
 しかし、70年代に計画されていたスペースシャトル計画は延期につぐ延期で、ようやく80年代になって宇宙空間に飛んだ。国際宇宙ステーション計画は、いまだ3割しか完成せず、2003年のスペースシャトル・コロンビア空中爆発事故により、さらに計画の遅れが起きている。
 我々から一番遠いところにいる人工物は、1977年に打ち上げられた宇宙探査機ボイジャーである。
 すでに21世紀は到来してしまった。月は遠く、火星はさらに遠い。
 50年代のSFには、星への希求がある。それは、渇望や羨望といってもよい。このせつなく、悲しいほどの願いは、しかし、寂しさではなく、喜びであり、希望である。
 未来は必ずくる。その未来は、自ら切り開くことができる。
 フレドリック・ブラウンがSFへの愛と宇宙への素直な願いを込めて書いた本書「天の光はすべて星」は、SF史に残る名作であり、疲れ切り、希望を失いそうなときに、耳元にささやいてくれる本である。
 なにより、タイトルがすばらしいではないか。
 そう、「天の光はすべて星」なのだ。
 今は、人工衛星もあるけれどね。
(2004.3.29)

ノービットの冒険 ゆきて帰りし物語

ノービットの冒険 ゆきて帰りし物語
There and Back Again
パット・マーフィー
1999
 正直に告白すると、本書を読むまで、トルーキンの「ホビットの冒険」も「指輪物語」も読んでいなかった。SFは読んでいても、ファンタジー分野はほとんど手を出してこなかったからである。昔の創元推理文庫SFの中に、剣と魔法ものがSFとして紛れていたりしたので、そういうのを読んだことはあるが、「ハリー・ポッター」が登場するまで、ファンタジーは鬼門であった。ゲームでも、RPGには手を出さずにいた。本書を読んだ後、ちょうど、映画「ロード・オブ・ザ・リング」が話題になり、まずは、岩波少年文庫の「ホビットの冒険」を読み、そして、「指輪物語」を読了した。映画の「ロード・オブ・ザ・リング」も、そろそろと見始めたところである。  本書との関係では、「ノービットの冒険」→「ホビットの冒険」→「指輪物語」→「ノービットの冒険」となる。
 最初は本書を本家の知識なしに読んだわけなので、すなおに本書だけでおもしろがり、2回目に読んだときには、本家の知識を受けて、どう本書では本家を料理しているのかを楽しむことができた。
 どちらを先に読んでもいいと思う。SFが好きで、ファンタジーが苦手なら、本書を先に読むのもよかろう。もちろん、「ホビットの冒険」が好きでSFは苦手という方も、一度本書を手に取られるといい。きっと楽しめることだろう。
 主人公ベイリーの願いは、お家であるM型小惑星にいて、1日5回のおいしい食事をとり、時々、親類や友人らと楽しい時間を過ごすこと。ちょっとした親切心から、とんでもない冒険に巻き込まれ、ワームホールを抜けて時空を超えたとんでもない彼方へ、前へと進むはめになる。冒険を楽しみながらも、願いはひとつ、家に帰りたい。ベイリーの魅力、本書や「ホビットの冒険」の魅力は、主人公の願いにある。帰りたい、戻りたいという強い願いと、日々、なすべきことをなそうとする強い意志。意志を発揮するたびに、願いは遠のいていく。それは明らかに矛盾しているが、つながっている唯一の道である。
 話は変わるが、ゆきて帰りし者は、ゆき、帰る間に、変化し続ける。けっして出たときと、帰ったときの存在は同じではない。しかし、そこにいつづける者は、ゆきて帰りし者の変化を知ることはない。だから、帰りし者をゆきし者と同じと見る。そこに認識のずれが生まれる。そのずれは、帰りし者には時としてつらい。
 それが、人間の性である。それでも、人はゆきて、そして時に帰るのである。
(2004.3.23)