赤い惑星への航海

赤い惑星への航海
VOYAGE TO THE RED PLANET
テリー・ビッスン
1990
 火星ものである。政府機関が機関ごとに多国籍企業グループに買収されている21世紀初頭。20世紀末に起きた大恐慌がきっかけで、世界は大きく変わった。20世紀最後の年に、アメリカとソ連が共同ですすめていた火星探査船は知るものもほとんどないまま放置され、準備クルーも離散した。火星探査船の存在と所有権を確認したある企業グループの映画会社が、火星探査船を実際に火星に飛ばし、映画撮影を思い立つ。20年前のクルー2人と人工冬眠の医師、カメラマン、映画俳優2人、それに、若い密航者1名を乗せた火星探査船は、映画会社のプロデューサーとひとりの航行管制を担当する若者を地球との窓口に、火星に向けて18カ月の旅に出発する。
 その後、プロデューサーは資金を集めるため会社を変わり、奔走する。航空管制官は、生活のためのアルバイトを続けながらアルバイト先のコンピュータ時間をあてにしてなんとか航行管制を続ける。
 そして、18カ月後、火星に到着。映画撮影がはじまった。
 調査でも、研究でもない。映画撮影である。一山あてようというプロデューサーの思いつきである。
 どんな動機であれ、宇宙飛行士は、機会が与えられて、それを見逃すはずはない。まして、ふたたび無重力空間に戻り、最初の火星探査船を動かし、誰もまだ行ったことのない火星に降り立つことができるのだ。そういう人種であってほしい。
 真にプロの俳優は、ものごとに動じない。エンターテイメント産業で花形として生きるとは、ものごとに動じないと同義である。頼まれれば、宇宙船の操作だってやれる(はずだ)。みんなが期待しているから。
 カメラマンは、いつもカメラを離さない。理想の光を探し続ける。
 密航者に真の動機はない。星ではなく、スターに会いたいぐらいの気持ちだったのかも知れない。たぶん、退屈で、ドアが開いていたんだろう。
 医者は…、脅迫されてやってきたのだ。しぶしぶ。
 地球で起こっている世俗の出来事、資金集めや企業買収、マスコミの報道を遠くの雑音のように聞きながら、船は進み、赤い大地へ人は立つ。
 出発までの描写と、火星での描写、それから、火星探査船やシャトル、火星着陸船、火星バギーなどの描写はとてもおもしろい。
 残念なことがあるとすれば、1990年以前の知識しかないことである。
 2004年の私たちは、1996年以降火星に都合3台の地上移動探査機を送り出しており、ヴァイキングやマリナーが撮影した1960年代から70年代の火星よりもはるかに火星に近くなっている。
 もうひとつ、これは本書のせいではないが、コロンビア級のシャトルは300回の打ち上げに耐えることはなく、2003年2月に初号スペースシャトルであるコロンビアは28回目のミッションで着陸直前に大破し、ソ連も1991年に崩壊し、20世紀を超えることがなかった。
 近い火星、近い未来を舞台にしているだけに、今読むと、現実とのずれに違和感を持ってしまう。
 それでも、もし火星が好きならば、ひとつ読んでみるとよい。
 なんとかして、人は火星を目指したがるものだから。
(2004.03.09)

幼年期の終わり

幼年期の終わり
CHILDEHOOD’S END
アーサー・C・クラーク
1953
 創元社からは「地球幼年期の終わり」という邦題で出ている。私が読んだのは、早川書房の文庫版で福島正実訳のもの。はじめて読んだのは高校生の頃。当時400円だった。子どもの頃からSFが大好きで、九州の山深い田舎の小さな書店で創元社や早川書房、あるいは当時出ていたサンリオSF文庫のコーナーを行きつ帰りつ、財布の中身とタイトルとあとがきやつりがきを読みながら、真剣に選び、買っていた日々のことである。
 実世界は狭く、窮屈で、どこにむけてよいのか分からないエネルギーと鬱屈した時間と精神は、SFを読むときだけ開放され、どこまでも広い世界に向けて無限の時間を旅することができた。
 それから、25年ほどの時間を渡ってきた。
 あらためて、「幼年期の終わり」を手に取り、「それはちょうど、時という閉ざされた輪の内側を、未来から過去へとまわりまわってひずんだ木霊のようなものだったのだ。これは記憶と呼ぶべきものではない、予感と呼ぶべきものだ」との一文を見いだして、置き去りにしてきた時に対し、後悔でも、憐憫でも、懐かしさでもない、ただその時の記憶と予感に情感を揺さぶられた。
 本書は、異星人とのファーストコンタクトものであり、地球人類が支配管理される侵略ものであり、人類史の終末ものであり、生命と精神の変容(進化?)ものである。それらすべての要素をひとつの物語にまとめ、読者を引き込み、引きずり回し、変異させ、転移させ、そして、突き放す。登場人物のすべてを、読者のすべてを突き放し、かつて人類と呼ばれた生命と精神は、私たちが理解できないものへと昇華していく。それは目的なのか、結果なのか。
 本書では、人類と対比的に、恒星と惑星のすべてを支配する力を持ちながら、それ以上どこにも行くことができない存在、変わることに憧れ続ける存在、幼年期を持たない存在を書いている。幼年期を持つこと、変わることができること、これこそが人類の生命としての強みではないだろうか。
 私たちは変わりゆく。記憶と予感を抱きながら、流転する。
 人類が、変わりゆく存在である限り、SFは存在し、「幼年期の終わり」は、SFが生んだ金字塔として輝き続けるだろう。
 ところで、あなたの幼年期はまだ続いていますか?
(2004.3.8)

ドノヴァンの脳髄

ドノヴァンの脳髄
DONOVAN’S BRAIN
カート・シオドマク
1943
 ロシアの作家・アレクサンドル・ベリャーエフが1925年に出版したのは、「ドウエル教授の首」、こちらは、ドイツ出身のアメリカ作家カート・シオドマクによる「ドノヴァンの脳」である。どちらも、古くから児童SFで訳されていて、本書「ドノヴァンの脳」は、あかね書房から「少年少女 世界推理文学全集」として1965年頃に出された「人工頭脳の怪/ノバ爆発の恐怖」でハインラインとカップリングとなっている。一方、「ドウエル教授の首」は、岩崎書店の「ベリヤーエフ少年空想科学小説選集」(1963年)にはじまり、「合成人間」「合成人間ビルケ」「生きている首」などというタイトルで、児童SF文学の花形となっている。
 どうも、この2冊、10歳前後に両方とも読んでいるようで、頭の中でごっちゃになっている。話も、なんとなく似たようなものである。きっと、「ドウエル」の方が、印象深いのだろう。ふたつのあらすじを読み直してみて、「ドウエル」を読んだときの印象が強い。
 さて、私の手元にあるのは、早川書房のいわゆる銀背の復刊版である。
 「ドウエル」の方は、創元社から出ているが、入手不能だとか。
 本書では、野心あふれる医師が、大金持ちの人間の事故救出現場に立ち会い、その完全には死んでいない脳髄を取り出して、生命を維持し、コミュニケーションをはかるうちに、やがてその脳髄=ドノヴァンに精神を乗っ取られてしまう。
 主人公は、なんとかしてドノヴァンの支配から逃れようとするが…。
 こういう古典を読むと、今のSFの底流を知ることができる。ここでは、脳を栄養液に入れ、精神感応でコミュニケーションしているが、今のSFなら、ヴァーチャル空間にデータをダウンロードし、そこでコミュニケーションしたり、データ空間に脳を連結させてみたり、そこで他人の精神に感染したり…ということになるだろうか。
 時には、こんな古い作品を読んでみるのもおもしろいものだ。
(2004.03.06 読んだのは03年秋)

火星の砂

火星の砂
SANDS OF MARS
アーサー・C・クラーク
1952
 古典である。クラークの第2長編は、今(2004年)から50年以上前に執筆され、それから25年して翻訳されている。
 主人公は、地球きってのSF作家。初の旅客用地球-火星間原子力宇宙船に唯一の民間客として乗船し、旅客宇宙船や火星植民地の実情を見聞する。
 地球から宇宙ステーションまでのロケット航路では、加速度と薬で対処できるはずの宇宙酔いに苦しみ、無重力に感銘を受ける。宇宙ステーションから出発した原子力船に乗り込むと、船長に煙草を勧められ、疑問を呈すると「禁煙にしたら、反乱が起きる」と冗談を言われる。火星への旅は3カ月、地球からの催促に、タイプライターで打った原稿を宇宙船からFAXで電送する。無重力に慣れ、宇宙遊泳も体験し、ビールは水鉄砲で飲む。
植民がはじまったばかりの火星では、多くの科学者らが初代入植者としてドームを建設し、研究と生存のための取り組みを続けていた。もちろん、生活基盤もできつつあり、バーにはちゃんとバーテンがいる。ドームから出るときには、酸素マスクをつける。大気が薄く、酸素も少ないからである。火星には、酸素を火星の赤い砂=酸化鉄から取り出す植物がわずかに生えているだけ…。
 地球は、火星が金のかかるお荷物だと予算を絞り、火星人は自立のために地球に秘密で火星のテラフォーミングに向けた準備をはじめていた。
 1952年に出版されているということは、それ以前に書かれたものである。
 世界初の人工衛星スプートニクをソ連が打ち上げ、世界が驚愕したのは1957年のことである。世界初の商業用原子炉はイギリスで1956年に稼働をはじめた。本書に何度か出てくる「中間子」の理論で、湯川秀樹がノーベル賞を受賞したのが1949年。初のジェット旅客機コメットの試作機がイギリスでつくられたのも1949年。
 誰も、宇宙には行ったことがない。無重力は経験していない。火星は望遠鏡でしか見たことのない、時代。
 その時代の作品である。少し、現代風に読みかえれば、地球と宇宙ステーションを往復する化学燃料のシャトル。宇宙ステーションは、自ら回転して遠心力による疑似重力を生み出し、月や火星などへの基地となっている。火星船は原子力推進。酸素のほとんどない赤い砂の火星ではドームをつくり、生活しながら火星を将来テラフォーミングするための工夫をしている。火星船や火星には、デジタル化された音楽や書籍が積み込まれ、飽きることはない。土星への探査船が、木星を使ったスイングバイを検討していることさえ言及されている。
 現代風に少しだけ書き換えれば、立派に21世紀の作品として読める内容になるだろう。
 これが、アーサー・C・クラークである。そして、1950年代には、20世紀中に火星に人が住んでもおかしくないというSFが多くの人に読まれたのだ。
 もちろん、SFとしてのクラークの想像力では描かれていなかったり、今読めば奇妙なところはある。
 データは、FAX送信されている。電子メールはない。電子データによる音楽や書物についてはふれられているが、コンピュータについての言及はない。
 カラー写真は、まだ、新しく、とても高価だ。もちろん、カラー映像を地球に送るのも技術的に困難とされている。火星に高い山がなく、土星に15の衛星があることになっている。そういう記述があって、違和感を覚えてはじめて、本書が古典であること50年以上前に書かれた本であることに気がつく。
 翻訳は、昭和4年(1929年)生まれの翻訳者によるもので、日本語版が1978年出版である。それによる、語り口の違和感もあろう。
 それにしても、50年前のものとは思えないハードSFである。本書が、それ以降の火星を舞台にしたSFに与えた影響は大きい。本書のパターンは、のちの火星開拓SFでも繰り返し登場する。火星はそれほどまでに魅力的であり、望遠鏡の時代から、火星は人類をとらえてはなさなかった。クラークは、書いていてとても楽しかっただろう。
 2004年3月3日、NASA(アメリカ航空宇宙局)が、現在火星で進行している2台の無人地上探査機の調査結果として、かつて火星に大量の水が液体として存在していることの物的証拠を発見したと発表した。
 その水は、どこに行ったのだろう。そして、火星に生命は誕生したのだろうか。
 私たちは、次に火星で何を見るだろうか。
 楽しみでならない。1917年生まれのクラークもまた、人類の遅い歩みにはらはらしながら、このニュースを聞いただろうか。
(2004.03.06)

時空ドーナツ

時空ドーナツ
SPACETIME DONUTS
ルーディ・ラッカー
1981
 ルーディの処女長編だぜりんりん。なんとアメリカでは絶版だって、もったいないねえ。どうして日本のSF界はルーディが好きなんだろうね。実のところおいらも大好きさ。
 1972年、ロックとドラッグが世界を救うと信じられていた日々、ルーディ・ラッカーは数学者としての道とSF作家としての道を同時に歩もうとしていた。彼が書いた初の長編SFは、本人いわく史上初のサイバーパンク小説である。ルーディに1票。
 ルーディは、次元の概念を語るのがうまい。それは、32歳の年に書き始めた本書でもいかんなく発揮されており、よーくわかる。4次元的存在について知りたければ、本書を読めばいい。難しい解説書なんか捨ててしまえ!
 もちろん、ルーディ・ラッカーの代表作は、「ソフトウェア」「ウェットウェア」などであり、そのぶっとんだ概念とロジックと言葉に、多くの少年少女中年壮年が頭をなぐられてきた。しかし、一方で、彼は数学者であり、人工生命研究や四次元概念の解説などでも知られている。もはや入手困難だと思うが、アスキー出版局からは「人工生命研究室 on WINDOWS」なんて本が出版され、付録の3.5インチフロッピーディスクには、DOSベースの人工生命ソフトウェアが入っていて、私もずいぶんと遊んだものである。
 本書では、人工知能が知性(創造性、意識…)を持つにはどうすればいいのか、が語られる。その方法は、小さくして、すると、大きくなって、そして、また小さくなって、元に戻ると、内側に外側を、外側に内側を抱え込むから、それで意識が発生する、というもの。何を書いているか分からない。うーん、そうだね。本書を読めば分かるよ。分からないことも。
 ところで、わが家には1998年10月15日付け発行の早川SF文庫「時空ドーナツ」が2冊並んでいる。どちらも古本ではなく、新刊として買ったものだ。98年から現在まで私は引っ越しをしていない。だから、同じ本を2冊買う理由が見あたらない。どちらも同じ時期に買ったものだろうか、それともどこかの私が間違って置いていったのだろうか、それとも、増幅したのだろうか。なぜだろう。とりあえず、2回読んだことは間違いないようだ。どちらもページをめくっている。中の早川書房広告がどちらもない。でも、今回読んで、初めて感が強いのはどうしてだろう。本当に、この私が読んだのだろうか。どこの私が読んだのだろう。6年前の私は、どこにいるのだろう。ね。
(2004.3.4)

ブラッド・ミュージック

ブラッド・ミュージック
BLOOD MUSIC
グレッグ・ベア
1985
 私事で恐縮だが、本書の邦訳が早川SF文庫に登場した1987年2月頃(発行日は3月15日)は、大学卒業の直前で、卒論発表も終え、あとは就職を待つばかりの日々だった。グレッグ・ベアの小説は、本書が初邦訳。日本ではサイバーパンクが邦訳され、新井素子、大原まり子が新たな日本SFの世界を切り開いていた頃でもある。時代は、バブルの絶頂で、多くの友人、とりわけ大卒文系の男女がソフトウェアエンジニアとして就職していった。まだ、遺伝子組み換えは一般的な用語でなく、バイオチップの可能性は言われていたが、遠い21世紀の話と思われていた。パソコンは8ビットから16ビットへの移行期で、OSはMS-DOS、ようやくC言語がパソコンに光臨した頃、ISNが実証実験を終え、パソコン通信が勢いをのばしつつあった。
 バイオチップ、イントロンがジャンクではない可能性、大規模感染の驚異、そして、人類の変容…。本書は衝撃であった。あまりにも主題である知性のある生物コンピュータとしての細胞という概念に衝撃を受け、もうひとつの要素である情報素としての宇宙論のことを読み飛ばしていた。
 16年ぶりに本書を読み返し、この間の変化に、今度は現実に対して呆然としてしまった。
 イントロンには、様々な種類と機能があると分かってきている。
 遺伝子組み換え技術は、ダイズ、トウモロコシ、ナタネ、ワタの作物に応用され、世界中の大規模な面積すなわち開放系で商業利用されている。
 バイオチップは研究所で実証されており、最新の宇宙論は我々の想像をはるかに超えた宇宙のありようを示している。
 アフリカの西ナイルウイルスがアメリカ大陸で猛威をふるい、BSE(牛海綿状脳症・狂牛病)は牛に肉骨粉を食べさせた結果拡大し、鳥インフルエンザやSARS(重症急性呼吸器症候群)といった新たな人畜共通感染症におびえている。
 HIV(ヒト免疫不全症候群・エイズ)は、世界人口の抑制原因とさえなりつつあり、貧困と飢餓と紛争を拡大させている。
 大気の二酸化炭素上昇は現実となり、地球温暖化や異常気象が恒常化するという摩訶不思議な世界がある。
 本書に書かれた核兵器の使用を恐れないソ連は、東側という言葉とともに消え、かわって世界の警察を自称するアメリカが帝国として恐怖をまき散らしている。
 2004年に再読した本書は、もはや衝撃ではなく、よくできたバイオハザードSFであり、仮想空間への意識のダウンロードと存在を描いたバーチャルネットワークSFとなっている。
 しかし、「タイムマシン」や「宇宙船ビーグル号」「私はロボット」など、SFの古典が、設定は古くさく、現代的でなくても、SFとは何かを知る上で欠かせない、今も読み継がれているのと同様、本書「ブラッド・ミュージック」は、20世紀終わりに登場した、時代を予感させるSFとして欠かせない一冊である。
 それにしても、べとべとどろどろぐちゃぐちゃした生物体の中でバーチャルな存在として復活し、最後はみんなと一緒に今の宇宙から消えてしまうというのは、今読んでも、やっぱり、うわあ、と、背中がむずむずしてしまう。背中をむずむずさせたい人にも、おすすめ。
(2004.3.3)

ルナ・ゲートの彼方に

ルナ・ゲートの彼方に
TUNNEL IN THE SKY
ロバート・A・ハインライン
1955
ハインラインのジュブナイルである。ハインラインは、子どもに優しく、そして厳しい。高校の外惑星サバイバル授業で最終テストを受ける主人公たち。事故で地球に戻れなくなった少年達は、そこで生きていくしかない。生き残り、仲間を集め、社会を築きながら、生きていく。そして…。
 あとがきで、大森望氏が、ねたばれ承知で的確に論じている。とにかく、ハインラインは、子どもに優しいが、その優しさにはひとりでも生きぬけという厳しいつきはなしが常にある。「宇宙の戦士」は、そのことを衝撃的な状況で描き、その後のSFに大きな影響を与えている。
 さて、「15少年漂流記」をはじめ、子どもたちだけが厳しい環境に取り残され、そこで人間ならではの問題を抱えながら生きていく小説は数限りなくある。たいてい最後には助かるのだが、助けられた子どもは、その後の人生をどう生きるのだろうか。どのように、その時を振り返るのだろうか。助けた人に感謝するだろうか。それとも、そこで生き抜けていたと思うだろうか。
 子どもにとって、あるいは大人にとってもだろうが、現実は小説ほど優しくない。そして、小説の中にだって、現実は侵入しているのだ。小説を通して現実を知る。最後に読者まで突き放す、優しくない小説である。
 もちろん、本書「ルナ・ゲートの彼方に」は手放しで楽しめるエンターテイメント・ジュブナイル小説である。
 さて、本書「ルナ・ゲートの彼方に」の本題とはずれるが、1955年に書かれた本書は、「第一次世界大戦前には、世界は飢餓寸前のところで生きていた。第二次世界大戦前には、地球の人口は毎日5万5千人ずつ増えていた。第三次世界大戦前の一九五四年にはすでに、口と胃袋の増加率は日に十万にまではねあがり、人は一年に三千五百万、多くなっていたものだ…当時のテラの住民数は、テラの耕地が養うことのできる人口を、はるかに上まわっていた」と、まとめている。
 1950年の世界人口が約25.1億人、1960年には約30億人と急増している。1954年の世界は、ソ連が水爆を開発し、アメリカが原子力潜水艦を完成、アメリカ国内では赤狩りが起こり、大量報復戦略を打ち出し、フランスはベトナム人民軍に破れ、世界はいまにも第三次世界大戦に突入しようとしていた。しかし、最後の最後に踏みとどまった人類は、その後も切れ目なく戦争を続けながらも、人口を増やし、60億を超えるところまで来ている。現在、人口は年間7700万人規模で増加している。飢餓人口やスラム人口は増えているが、私たちは地球の許容量を超えてしまったのかどうか。
 ハインライン流に言えば、すでに許容量を超えているのだろう。我が国の憲法にあるように「豊かで文化的な最低限度の生活」を過ごせてはいないわけだから。
 古いSFの未来予想は、たいてい一部が当たり、多くがはずれている。しかし、書かれた当時の社会状況と実際の歴史を振り返ってみるとき、私たちは、その予想から多くのことを学ぶことができる。
 その中でも一番大切なことは、希望を持つということである。ハインラインの小説には多くの希望が詰まっている。ちょっとほろ苦いけれどね。
(2004.2.29)

凍月

凍月
HEADS
グレッグ・ベア
1990
 原題は、「頭たち」である。冷凍された頭をめぐる話…である。内容は、グレッグ・ベアの同シリーズ作品で、本書の後に描かれた「火星転移」と同様に、一方で政治と人間の関わりを描き、一方で量子理論を描いている。語りも1人称であり、政治家の若き日の回想である。「火星転移」では女性だったが、こちらは男性。舞台は月であり、「火星転移」より以前だが、本書を読んでいなくても「火星転移」を読むことに不都合はない。
 著者が、1998年に本書向けに書き下ろした前書きで、本書のテーマ、目的は詳しく書かれている。また、量子コンピュータの可能性についてSFにおいて示唆した最初の本として位置づけている。
「火星転移」と似たような内容であり、そこで言いたいことは書いてしまったので、あまり本書について書くことはない。もちろん、独立したSFとして読めば、「頭たち」のおもしろさに惹かれる。死を前にして、いつか自分の復活を願う。キリスト教のテーマでもあろう。ただ、「頭たち」は、終末の日の再生と復活ではなく、現世、未来への再生と復活を願い、頭を切り取り、特殊な方法で冷凍保存することを望んだ。しかし、100年以上経ち「頭たち」を管理していた団体は財政が困窮し、復活の見通しが立たない「頭たち」はまとめて売りさばかれる。もちろん捨てるわけにはいかない。「頭たち」から情報を取り出せないかと野心を持つ者が、それを買い求めた。そして、月に運ばれ、地球と月との間、月の内部、火星と月の間に大きな騒動を巻き起こす。「頭たち」は、騒動のきっかけにしか過ぎないのだが…。
 冷凍睡眠、冷凍保存、コンピューター空間へのバーチャルな精神保存など、現世での再生はSFの大きなテーマである。人間の原罪としてのテーマかもしれない。死に対する畏れと、再生に対する希求。私は、もし輪廻転生するとしても、今、生きていることに誠意をつくしたい。あとは、あとのこと。
 どうして、この小説が、邦題で「凍月」になったか。もちろん、そこには納得のいく理由がある。もうひとつの柱である量子理論が「凍月」と深く関わる。
 日本人は「月」が好きである。「凍月」という単語には、自然の神秘と情緒が重なり合う。うまくつけたものである。
「女王天使」「火星転移」「斜線都市」を読んで気に入った人は、ぜひご一読を。あるいは、グレッグ・ベアを一度読んでみたい人も、本書は中編で読みやすいので一度いかが? 第28回星雲賞・1996年SFマガジン読者賞。
2004.2.21

火星転移

火星転移
MOVING MARS
グレッグ・ベア
1993
 本書は、グレッグ・ベアの「女王天使」、「凍月」、「斜線都市」と合わせていわゆる「ナノテク・量子論理」シリーズと呼ばれる作品である。「女王天使」と同様にナノテクや遺伝子操作による人体変容、精神拡張があたりまえに行われ、それらの操作を受けていない者はナチュラルと呼ばれている。「女王天使」の最後ではじめて誕生した自意識を持つ人工知能=思考体は、さまざまな場面で人類を補完している。情報の即時公開と交流は新たな集合体としての人類の意識が誕生することをうかがわせる。
 しかし、人類はそう変わらない。
 そして、本書は、「女王天使」のような精神世界を描いたものではない。
 火星という人類の新たな生活空間を舞台に、センス・オブ・ワンダーにあふれた世界が描かれ、人間くさいドラマが展開される。
 火星のリーダー、キャシーア・マジュムーダーが本書の主人公であり、彼女の若き日々、火星激動の時代を描いた回想録・自伝として本書は書かれている。若き女性としての成長と苦悩、恋愛と結婚、政治家として背負った責任の重さと情熱がキャシーアの一人称で描かれている。
 火星は統一された政府、政治体制を持たず、血縁を軸にした産業・経済体ごとに独立した組織(BM)を持ち、経済以外の調整もBMの代表同士によって行われていた。地球は、火星に統一した政治組織を求める。火星に暮らす火星人達もまた統一した政治組織・社会体制の必要を感じていた。地球の求める火星と火星人の求める火星は当然ながらちがう。
 地球にとって物理的な距離を持つ火星は、異物であり、従属者である。
 火星人にとっては、火星はふるさとであり、生活の場である。
 地球の政治体制と火星の生まれつつある政治体制のちがいは、新しいテクノロジーをめぐり、緊張と恐怖となって現れる。地球と火星の距離は相互不信を呼び、誰も望んでいない相互確証破壊に向かってつきすすむ。
 まるで、1962年のキューバ危機である。ソビエトのフルシチョフとアメリカのケネディが核の全面戦争寸前まで行った(明らかにされている)人類史上最大の危機のようである。このときは、唯一の地球の前に両者の恐怖が道を開いたが、地球と火星の場合はぎりぎりのところまで行き、ついに地球が火星の殲滅を決意する。
 キャシーアは、すべての火星人からの責めを負う覚悟を決め、地球と火星が独立したまま共存できる方法、火星転移を実行する。
 SFならではの救済が、そこにある。
 現実の私たちはまだ生存の場として地球しかもたない。私たちはまだ選択の手段を持たない。
 私たちの現実的な可能性として、火星は魅力的な空間である。本書冒頭にも書かれている通り、「火星は、太陽系内で地球についでもっとも住みやすい惑星である」。
 もっとも近い月は、スペースコロニーと同様に長期的・恒久的に生存するには厳しい環境にある。しかし、火星は、水があり、大気があり、技術的にはテラフォーミング可能と言われている。
 2003年夏には火星が大接近し、アメリカ、ヨーロッパ、日本が火星探査計画を実行した。日本の「のぞみ」は地上探査ではなく、火星軌道での探査だったが、軌道に投入することができなかった。また、残念ながらヨーロッパのマーズ・エクスプレス・ミッションは失敗したが、アメリカのマーズ・ローバー・ミッションは成功し、2台のローバーが現在、火星を探査中である。
 このミッションでは、火星に生命の痕跡があるかどうかを探査することになっている。将来の有人探査計画も考えられており、火星は人類の避難所として、巣分かれの場として期待できる。
 火星人として生きるのは、とても厳しいことであろう。しかし、地球でないところに生まれ、育ち、死ぬことは、もうひとつの生として体験したいことである。
 本書の魅力は、政治ドラマ、人間ドラマ、物理学を描いたハードSFだけではない。火星SFとしての本道もみごとに描いている。火星の生命である。水が失われていく冷たく軽く小さい惑星で生命がどのように誕生し生態系を紡いだのか。グレッグ・ベアの答えは、マザー・シスト、ひとつの生命体が生態系のすべての生命態をとる生態系の種である。この火星生命について想像をめぐらせるだけでも本書を読む価値はある。本書を読んで、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」や、光瀬龍の「東キャナル文書」などの年代記、あるいは、P・K・ディックの「火星のタイムスリップ」、K・S・ロビンスンの「レッド・マース」シリーズ、イアン・マクドナルドの「火星夜想曲」などなど、火星のSFを再読したくなり、「レッド・プラネット」「ミッション・トゥ・マース」のような火星映画が再見したくなった。
2004.2.16

女王天使

女王天使
QUEEN OF ANGELS
グレッグ・ベア
1990
 テーマは、意識。殺人がほとんどなくなった社会で起きた8人の連続殺人事件。他星系に送られた機械系と生物系の融合した人工知能が送ってきた他星系での生命の発見。このふたつのできごとを軸に、意識、思考の変容、あり方を考え続ける作品である。
 ブードゥー教のイコンが顕在的に、潜在的に、全体を覆っているが、そもそも、そこのところはよくわからない。しかし、わからなくても問題なく読める。理解度の問題だから。
 ナノ技術によって人体変容をとげた警察官が殺人犯を追う。捕まえた犯人は、セラピストによって治療される。それは一種の人格変容であり、この時代のLAではあたりまえに行われている。セラピーを受けている人口の方が多く、むしろセラピーを受けていない方に問題があるとされる社会。セラピーを受けないまま警官となった健全な精神を持つ彼女の人格と精神のありようがひとつの柱。
 殺人犯は詩人であり、その友人だった男もまた売れない詩人として、この殺人事件を通し、精神の変容を体験する。彼の精神の救済がもうひとつの柱。
 殺人者を追うのは、警察官だけではない。淘汰主義者は、セラピーではなく、懲罰を求める。それは、ヘルクラウンと呼ばれる人工の夢枷。抜けられない悪夢を見せることで人格そのものを破壊する機械。この機械にかけられたものはその内から発する恐怖ゆえに死を望む。警察官は、ヘルクラウンと淘汰主義者を憎む。誰も、地獄の中で生きていたくはないから。
 殺人者は、しかし、別なところにとらえられていた。それは、彼の人格を、殺人の動機を知りたいと願うもの。セラピーでも、夢枷でもなく、知るために、殺人者の精神の「国」に入り、その探索を願うもの。そして、その探索ができる研究者を捜しだす。国で、その研究者が見つけたのは、感染する人格。感染される研究者の人格。
 いまだ人工知能に自意識を持たせることができずにいる研究者たち。通信距離片道4年以上。他星系で人工知能が発見したものは生命の兆候。人工知能は、地球上で別の高次の人工知能によってシミュレートされている。やがて人工知能は、自意識を得る。孤独を知ることで、ゆがんだかたちの自意識を得、その自意識を自らが正し、人格を得なければならなくなる。
 身体の変化によって得る新たな人格。他星系に送られた機械系と生物系の融合した人工知能が、他星系での発見によって得た自意識。その人工知能をシミュレートすることで自意識を得た地球上の人工知能。人格が自ら行う救済と変容。感染する人格。転移する人格。
 人格には、首位人格があり、それがいわゆる意識である。その下に、亜人格や人格とは呼べないまでもさまざまな局面で発生したタレントやエージェントといったルーチンを持つ。この複雑なルーチンシステムこそが脳という計算機のシステムである。そこには、精神の「国」があり、ひとりひとりの国はちがっている。これが、本小説で語られる人格と意識の姿である。
 本書は、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」や、その続編と言われる「海辺のカラス」を彷彿とさせる。本書「QUEEN OF ANGELS」がアメリカで出版されたのは1990年、村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は1985年である。そして、「海辺のカラス」が2003年。いずれも「国」を扱い、私たちはひとりひとりが「国」に生きていることを教えてくれる。
 そして、国は栄えることもあり、荒廃することもある。
 それは、あなたとわたし、かれらとわたし、それらとわたし、わたしとわたしのありようなのだ。
 わたしは、なぜ、このようなわたしであり、わたしは、どうやってわたしを知っているのだろう。わたしは、なぜ、毎日、夢を見るのか。その世界で、なぜわたしは…。
 今日のわたしと、明日のわたしと、昨日のわたしと、10年前のわたしと、10年後のわたしはおなじなのだろうか。どうして同じだと知るのだろうか。だれかが、同じだということを保証してくれるのか。外見だけが類似しているだけで、意識もおなじなのだろうか。ちがうのだろうか。いま、これを書いているわたしと、それを書きながら読んでいるわたし、わたしは、はしたわ…。
 グレッグ・ベアの「女王天使」と村上春樹の「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のどちらかでも読まれた方は、もう一方にも手を伸ばされるとよい。おすすめします。
2004.1.29