火星人ゴーホーム

火星人ゴーホーム
MARTIANS, GO HOME
フレドリック・ブラウン
1955
 いきなり私事で恐縮だが、私は1965年1月生まれである。
 本書は、1955年に出版されたが、物語は1964年を回想する形ですすむ。火星人を自称する、緑色の、小さな、無毛の、口と鼻が大きく、目と耳が小さく、頭は球形で、手足はひょろながく、胴は短め、頭は大きめの、指は6本ついている、声は聞こえるのに、体は実体がなく、なのにしっかり見えて、透明でも、映像でもない、写真に撮れて、録音はでき、触れない、透過してしまう、クイムという技が使え、消えて、現れて、悪口で、いさかいを起こすのが大好きで、人間をばかにして、どんな言語でもすぐに学び、大騒ぎして、消えた、やつと、人間の話である。
 やつらは、1964年の3月26日木曜日に、30億の人類の前に、10億も現れ、1964年の8月19日水曜日に、消えるまで、国連事務総長の自殺をはじめ多くの人を苦しめ、狂わせ、自殺や事故死に追い込み、個人から国家までのあらゆる秘密をあばき、戦争をやめさせ、冷戦を終わらせ、経済を破綻させ、出生率を下げさせた。
 やつらは、人類の繁殖の営みにことのほか興味をよせ、しかも、壁があろうが、暗闇だろうが、見通し、聞ける能力を持っていた…ため、1964年3月26日からほぼ1週間の間に受精を完了させることができた人類は、ほとんどいなかった。アメリカでは、1965年1月の出生率が平年の3%となり、しかも、月頭に集中しているため、3月26日以前の受胎か出産が遅れたためとみられている。イギリスでは壊滅状態、フランスでさえ18%だったという。しかし、2月になると、出生率はふたたび上昇し、アメリカで平年の30%、イギリスで22%、フランスでは平年の49%となり、3月になると、いずれの国も平年の80%、フランスでは137%と平年を大きく上回った。もちろん、やつらは、4カ月半以上地球にいて、つきぬことない興味をしめしていたのだから、人類は、わずか1カ月ほどで、やつらに見聞きされていても、人類の夜の営みをしっかりと行っていたのである。
 本書曰く、「火星人はいざ知らず、人間はやはり人間だった」
 で、フレドリック・ブラウンの、本書の世界では9カ月と1週間を受精から出産までの期間としている。この世界のルールに従うと、1965年1月のやや終わり頃に生まれた私は、「火星人ベビー」だということになる。いや、我が両親には悪いのだが、この世界の話ということで…。
 本書は、日本人に長く愛されている作品のひとつである。それは、原題の「MARTIANS, GO HOME」が、戦後日本の反米闘争スローガンである「ヤンキース、ゴーホーム」に由来しているからではない。ユーモアの中に込められた、皮肉と、形而上学的論理展開は、筒井康隆や星新一などにも色濃く見られる。漫画を含めさまざまな作品に、「●●、ゴーホーム」は使われているが、その多くが「ヤンキース…」の方ではなく、本書に源を置いている。ぜひ、古典として読んで欲しい。
 ばかばかしいが、おもしろいから。
 ところで、私の手元にあるのは早川文庫SFの稲葉明雄訳、1976年発行で、1978年の第3刷版だが、現在では使えなくなった単語がいくつも登場している。絶版にはなっていないようだし、翻訳者も同じ方になっているが、このあたりはそのままなのだろうか。
 言葉の問題はとても難しいことだが、翻訳の妙もあるので、翻訳者が同じであるなら、そのままの表現であって欲しいと思う。
(2004.3.18)

脳波

脳波
BRAIN WAVE
ポール・アンダースン
1954
 1990年、トルコ・イスタンブールの動物園に行った。ハゲワシが、飼育係の動きをじっと見つめ、簡単なかんぬきをはずそうと、くちばしでつついたり、棒を加えて引いたり、そして、自分は何をしているんだろう、何かがしたいんだというような顔をしながら、考え込んでいた。もう少しではずせそうな様子が不気味であり、愛らしくもあった。
 現在、わが家にはスナネズミがいる。毎日眺めていると、中には、紙筒や素焼きの土管を半日かけて連結して巣までのトンネルをつくったり、紙筒を自分の望む形に噛み切り、決めた場所に必ず置くやつがいたりする。メス同士、オス同士、2匹がいっしょに暮らしていると、時々けんかもするが、なかなか楽しく過ごしている。片方が病気などで死ぬと、生き残ったもう片方は、何もかもやる気をなくしたという態度で、食欲を失い、じっとへたりこんだりする。
 東京のカラスは、おいしいものがどこにあるかを知っている。何を警戒すればいいかも知っている。単独行動もするし、集団行動もする。とても賢い。
 トルコのハゲワシ、わが家のスナネズミ、東京のカラス、脳はとても小さい。しかし、単に環境に反応しているだけではなく、あるもので工夫もすれば、所作の好き嫌いもあり、感情も見受けられ、時には考えているのではないかというような気にさせられる。
 知性ってなんだろう。
 地球上で、人間だけがもつ性質なのだろうか?
 感情ってなんだろう。
 これは人間だけではない。
 本書は、地球がある日、それまでの長期にかけて存在していた宇宙のある場から抜け出したために起きた現象からスタートする。それは、物理法則の一部を変えるものであり、生物、とりわけ、複雑な脳を持つ生物にとっては大きな影響を与えた。それまで、物理法則の異常により、知性の発達を抑え込んでいた場から抜け出たため、知性が急激に向上したのだ。人間だけではない。ウサギ、馬、豚、鳥、羊、犬、象、チンパンジー…。
 ほとんどの人間は、知性の向上によるそれまでの文化や文明の急激な崩壊と変化、自分自身の変化、周囲の変化に適応し、新たな存在として生まれ変わっていく。しかし、もちろん、その変化に適応できないもの、もともと知能が低く、急激な向上によっても、それまでの人間並みにしかならなかったもの、そして、知性を得た動物は、新たな存在になるわけではない。そこには大きな断絶がある。
 たとえ愛し合い、理解し合っていた夫婦であっても、その断絶は乗り越えられない。
 もはや、風景すら違って見え、感情のありようも、愛という単語の意味も違ってしまったのだから。
 もし、明日、あなたとあなたの周囲のすべての人たちが、天才的な発想、ひらめき、論理展開、知識欲、理解力を持ったら、この世の中はどうなるでしょうか。
「できること? それは、生きるということさ。毎日毎日生きていくことだ。だれだって、それよりほかにしようがないじゃないか」
 もともと知能が低く、農場で動物の世話をしていた男に、農場を離れると告げた知性が向上した農場管理人が、異常な行動を見せる動物にとまどい、農場をまかせられることにとまどう男に対して言う科白である。
 本書は、ポール・アンダースンをSF作家として位置づけ、古典作品として知られる。1954年に出版されたものであり、同年代に出版されたアシモフ、クラーク、ハインラインらの作品と比べても、その科学知識の古さや技術の古さには現代人としてとまどいを覚える。古いSFの中には、どうしても、そういう科学知識、技術の変化、社会の変化の結果、古さ、時代の違和感を感じるものが多くなる。そういう古さを感じさせるものは、絶版となり、重要な古典的作品であっても消えていく。
 知性の向上、人間の変容による社会の急激な変容というテーマは、しかし、一向に古くない。ウイルス、細菌、自然災害、人為的災害、戦争、新技術の登場、あらたな思想や行動規範…私たちの文化、文明、生存や価値観は、常に変容にさらされている。変容は、今、その幅が大きくなっている。私たちは、変容の中を日々生きていくしかない。
 そして、変容に備え、乗り越え、流され、守り、捨て続けなければならない。
 変容の先に、どんな人間、どんな社会、どんな文化を確立するのか。
「変容」こそ、SF小説に課せられた重要なテーマなのである。
(2004.3.18)

ロカノンの世界

ロカノンの世界
ROCANNON’S WORLD
アーシュラ・K・ル・グィン
1966
 ル・グィンが手にしたはじめての長編であり、ハイニッシュ・ユニバース年代記のひとつである。この世界では、アンシブルという即時通信システムがあり、超光速を使った機械船の移動は可能である。しかし、人の移動は光速の壁を超えることができない。
 人が動くには、長い時を置き去りにするしかない。
 ロカノンは、フォーマルハウト第二惑星から来たひとりの未開異星人に興味を引かれ、人類学者として調査に入る。調査隊は不明宇宙艦隊により全滅し、ロカノンは、数人の惑星人たちとともに、敵艦隊の惑星基地にあるであろうアンシブルを使って危機を連盟最高幹部に伝えるため、未踏の地への旅に出る。
 旅は、ロカノンを変え、出会う未開の知られざる知的生命体達に影響を与えていく。
 ロカノンに与えられた苦悩、運命は、「受難」である。「受難」はロカノン自らの救済であると同時に、周囲の世界の精神的・物的な救済である。
 ル・グィンが描く異世界と異世界の出会いは、静的なものではない。物語は静かに流れるが、旅は静かではあり得ない。
 旅は出会いであり獲得であると同時に、失い続けるものでもある。そのせつなさを、ル・グィンは書き続ける。
 私たちは失い続ける。前に進むために。
「ハイペリオン」シリーズや「指輪物語」と同じく、前に進むため、時に立ち止まりたいときに読むとよい本である。
 現在絶版の本書、サンリオSF文庫の表紙は竹宮恵子、その後早川に移り、萩尾望都が表紙を書いている。このふたりが同じ本の表紙を書いていることも興味深い。手元にあるのは早川版。
と書いたところで、本屋に行ったら、早川版が復刊されていた。
(2004.3.18)

はだかの太陽

はだかの太陽
THE NAKED SUN
アイザック・アシモフ
1957
地球人刑事イライジャ・ベイリと、ロボット・ダニール・オリヴォーのコンビが「鋼鉄都市」に続いて再登場。前作は、鋼鉄都市=地球での宇宙人(地球外惑星に居住する人類)殺人事件だったが、本作は、はだかの太陽がある地=惑星ソラリアで起きた殺人事件の捜査に、イライジャ・ベイリが招かれる。地球人と宇宙人がたもとを分かってから、はじめての宇宙旅行者となる。そして、彼には宇宙連合の大国・惑星オーロラから捜査員として、ダニール・オリヴォーが付き添うこととなった。
 ダニール・オリヴォーは、ロボットであることをあえて明らかにしない。惑星ソラリアは、高品質のロボットを生産輸出する星として知られているのだ。
 ソラリアの人口はわずかに2万人、ひとりひとりが広大な土地に多くのロボットを働かせ、他の人間を「見る」ことはほとんどない。用事があれば「眺める」だけだ。「見る」とは、直接会うことを意味し、「眺める」は、立体映像である。ソラリア人が「見る」のは、子ども時代の子ども同士と、夫婦の最低限の義務のみ。殺人事件はおろか、警察組織すらない星である。イライジャ・ベイリが捜査をはじめたとたん、第2の殺人が起こり、彼すらも命を狙われる…。
 前作で、イライジャ・ベイリは、人口過剰となった鋼鉄都市=地球の閉塞した運命を実感し、ふたたび星を目指すことの必要性を感じた。本作では、自らの精神的障壁である広場恐怖症、外気、太陽、外の風景、壁のない場所に対する恐怖を克服しようとする。まるで、自分に課せられた義務であるかのように。そして、地球とは正反対のように誰とも会わないようにしているソラリアもまた、閉塞した社会、滅びの運命にあることに気づく。地球とソラリアは人類の運命の袋小路に向かっているのだ。しかし、他の惑星は違うかも知れない。彼は、「鋼鉄都市」で感じた宇宙への道を、本書を通して確信に変える。
 もともと、本作は、アシモフのロボットシリーズの中で、「鋼鉄都市」とならび、ロボット三原則を切り口にしたミステリーとSFの融合をめざしたものと位置づけられていた。そして、前作と異なり、本作ではロボット三原則の矛盾と限界をついた作品となっている。それは、アシモフが自ら課してきたロボット三原則に対する挑戦であり、ロボット三原則の虚構性と必要性を両義的に表すものともなった。  本文中ふたつの発言を引用しよう。
 イライジャ・ベイリは、ソラリアのロボット専門家に対して、
「第一条はただしくはこう改訂されるべきなんだ。ロボットは”自覚的に”人間に危害をあたえてはならない。また、その危険を”故意に”看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない」
 と、指摘する。
 そして、ロボットを使って殺人をおかすためのいくつかのトリックが本書で示される。
 そこには、ロボットの身体の一体性、類推する論理性が語られる。ロボットは、陽電子頭脳のみではなく、身体の一体性を備えていたのだ。人間と同様に、自己同一性を持ち、頭脳だけが自己同一性ではなく、そのすべてのパーツの複合体をもってロボットとして認識しているのである。もちろん、パーツは交換可能であり、修理可能である。しかし、一体として機能し始めたとたんに、自己同一性を持つのだ。
 もうひとつ、イライジャ・ベイリがソラリアの家事ロボットにダニール・オリヴォーがロボットであることを明らかにし、拘束を命じた後、ダニールと会話を交わす。
「たとえぼくが危険のなかに踏み込んでいくとしたって、そいつは実際はちがうんだ」(略)
「そいつはただのぼくの仕事なのさ。そのためにぼくは給料をもらっているんだ。きみの仕事は、ひとりの人間に危害が及ぶのを防ぐことだが、ぼくの仕事は人類全体に対する危害を防ぐことなんだよ。わかるかい?」
「わかりません、パートナー・イライジャ」
「それじゃ、それはきみがわかるように造られていないからさ。ぼくの言葉をそのまま信用してくれ。きみがもし人間なら、きみにもきっとわかる」
 ダニールがゆっくりと、大きくうなずいた。
 これは、本書がロボットシリーズとして読まれていた当時にはさほど大きな意味を持たなかったかも知れない。しかし、この会話こそが、80年代のファウンデーション/ロボットシリーズの融合を実現させ、ダニール・オリヴォーが最重要な登場人物となり、ロボット三原則に第零条を加えさせたのである。
 本書が登場したとき、すでにファウンデーション・シリーズの初期三部作もロボット・シリーズの初期作品群もすでに出版されている。アシモフが、本書を執筆するにあたってどのような未来を考えていたかはうかがい知れないが、本書こそ、アシモフのふたつのシリーズ作品の結節点であり特異点であることは間違いない。
 もちろん、単独の作品としても、まさにSFとミステリーの融合として高い評価を受け続けてきたものであり、その作品展開も、探偵(刑事)が、事件とからみながら、容疑者と次々に会い、最後に関係者を一同に介して犯人を追いつめ、犯人自らが墓穴を掘るようにしむけるという、ミステリー作品の王道である。多数のロボットの動きと表現は、まさにアシモフのロボット・シリーズである。
 アシモフ・シリーズ作品の結節点・特異点になってしまったが故に、単独の作品としてそのおもしろさが減じるわけではない。たとえ、アシモフのファウンデーション・シリーズや80年代以降の作品群が気に入らないとしても、本書を読む価値は大いにある。
 SF魂あふれる作品なのだから。
(2004.03.14)

鋼鉄都市

鋼鉄都市
THE CAVES OF STEEL
アイザック・アシモフ
1953
 はるか未来。地球上の人口は、限界の80億人に達していた。人々は、それぞれ平均して1千万人を擁する鋼鉄とコンクリートの洞窟都市シティで厳格な階層社会をつくり生活していた。1000年ほど前に地球の植民地であった惑星国家群は、もはや地球からの移民を受け入れることはなく、50の独立した惑星国家として地球人とは別の道を歩み、地球人は彼らを宇宙人と呼んだ。宇宙人は、地球人に圧力をかけ、ロボットとの共生を迫る。一方、地球人は、広場恐怖症ともいえる状況で、現状が未来永劫に続くと信じて生きている。
 そんななか、地球における治外法権エリアである宇宙市で殺人事件が発生。地球人の刑事イライジャ・ベイリは、人間そっくりに作られたR(ロボット)・ダニール・オリヴォーとともに、事件の解決を求められる。ロボットへの反感と嫌悪、恐怖を秘めながらも、正義感あふれるベイリは、試行錯誤しながら、犯人像を追い求める。
 ダニール・オリヴォーがはじめて歴史に登場する作品である。
 本書は世に出た1953年から1980年代はじめまでと、80年代中盤以降で大きくその位置づけを変えている。
 そもそも、本書はアシモフのロボットものの傑作であり、初の長編ロボットものであり、ロボット三原則を前提に、SFとミステリーが両立することを示した歴史的な作品である。
 いま読んでも、そのいくつかの設定に無理があるとしても、ロボット三原則を受け入れるならば、とてもおもしろい小説である。
 しかし、現在において、本作品はまったく別な意味を持つ。
 ダニール・オリヴォーが誕生し、イライジャ・ベイリとはじめて接した、大きなストーリーの原点として位置づけられてしまった。
 それは、80年代にアシモフが、読者と出版社の長年に渡る絶え間ない要求に対し、ついに答えを出したことによって起こった。ファウンデーション・シリーズの続編である。
 本書と同じ1953年に第三作が出版されたファウンデーション・シリーズは、ロボットの出てこない遠い未来の物語であり、ハリ・セルダンが生み出した「心理歴史学」は、たとえば私の大学の同級生のひとりは、大学の進路を決める動機に「心理歴史学」をあげたぐらいに大きな影響を与えた。なつかしの80年代初頭よ! ファウンデーション・シリーズの続編は長く書かれることがなく、読者のほとんど、私も含めて、その続編はあきらめていた。ところが、80年代に入り、アシモフの頭の中のスイッチが切り替わった。ファウンデーション・シリーズはふたたび歩き始める。そして、アシモフの2大シリーズであるロボットものとの融合が起こったのだ。
 その中心に、ダニール・オリヴォーがいた。そして、ダニール・オリヴォーの友人であり、人間のありようを教えたイライジャ・ベイリの影が…。
 80年代から1992年にアシモフが没すまでに書いた小説群と、グレゴリイ・ベンフォード、グレッグ・ベア、デイヴィッド・ブリンという現代アメリカを代表するSF作家が書き上げたもうひとつのファウンデーション・シリーズにより、本書の「はじめの1冊」としての重要性は高まった。
 そして、これら多くの小説群を読んだ上で、あらためて、福島正実訳の「鋼鉄都市」を読むと、なんと未来を予感させることか。未来が過去を作り、過去が未来を作るのである。
 さて、本書の話に戻るが、ベイリが生まれてはじめてシティ外の自然の空気を吸い、シティに戻ったとき、彼は、大きな発見をする。「シティには臭気がある!」
 地球最大の2千万人が生む臭気に、彼は、外の世界を発見する。宇宙には、50の惑星国家以外にもたくさんの星があるのだ。そして、人間は、外に行くことができるのだ。
 彼の心の中に生まれた、この動機こそ、アシモフが書きたかったことに違いない。
(2004.3.11)

マン・プラス

マン・プラス
MAN PLUS
フレデリック・ポール
1976
 1919年生まれの作家である。本書の出版が、57歳の時である。1952年からSF作家をやり、編集者をやっているのである。超人である。
 さて、本書「マン・プラス」は、火星ものである。地球人口は80億人を超え、世界は緊張が高まり一発触発の危機にさらされている。人類は、火星に生存の基盤をつくらなければならない。しかも、ただちに。そこで、火星で自由に行動できる人間、脳や神経系をのぞき、できる限り機械化され、コンピュータと接続された人間/機械のサイボーグをつくり、火星開発の足がかりにしよう。というのが、本書の筋書き。そして、サイボーグになった男と、その妻、周りの研究者、政治家のさまざまな思惑と体験を地球から火星までで描く。
 人口増加などの内圧によって、社会的な動機として他の生存空間を目指す人類というのは、私がもっとも愛好するテーマである。しかし、本書は、それを、サイボーグにされた男の心情、そして、情報入力と処理の間に「もうひとつの処理」を入れることによって起こる齟齬と出力への影響に力点が置かれている。情報の入力とは、人間であれば、音を鼓膜で拾い、光を目で拾い、化学物質を主に鼻や舌で拾い、その情報が神経から脳に伝わって処理され、知覚となり判断や行動を決定する。サイボーグの場合、知覚判断系の脳はそのままなのに、情報入力装置である目などが改造され、拡張されるため、過剰な情報入力に処理しきれないということになる。そこで、対策として、情報入力から脳への情報伝達の間に処理コンピュータを入れて、そこで脳に対処可能な情報として加工しようというものだ。本書では、繰り返し、脳に届いた情報が、現実に起こっていることと同じとは言えないのではないか、とりわけ、途中で加工されてしまうと、現実すら分からなくなるのではないかと、読者にささやく。
 実は、これが、注意深く読めば分かる、本書の種明かしである。
 ここからは、本書の種明かしになってしまうかもしれない、読んでいない人はご容赦を。
 もしかしたら、サイボーグだけでなく、現実さえも情報は入力と認識の間に、我々が知らない処理があるのかも知れない。人間はもともと、現実を脳の中で再構成しているに過ぎないのだから。もし、処理をする存在が、我々とは別に何らかの目的を持っていたら。
 本書には、その後、80年代のサイバーパンク運動に通じるいくつもの要素が込められている。身体と精神の変容、人工知性、コンピュータネットワークとハッキング、現実と情報処理の間にある溝…。しかし、本書は、まぎれもなく70年代に書かれた、60年代、50年代を彷彿とさせるSFでもある。
 フレデリック・ポールの歴史が、本書を書かせた。いや、SFの歴史が、フレデリック・ポールに本書を書かせたのかも知れない。
 古くさいけれど、80年代を予感させる、人類+の小説である。
 書かれている内容は、現代的にはちょっと古くさいかも知れないが、そこは70年代のSFである。頭の中で読みかえてみたり、火星ものや人工知性もの、身体改変ものの歴史として読むのも悪くない。
 余談だが、サイボーグにされていく過程で、サイボーグ実験が失敗しかねない最大の危機は、本人に伝えないまま陰茎を除去したことであった。セックスへの考え方がストーリーに大きく関わるのも本書の特徴かも知れない。
 もうひとつ、マン・プラスの火星には、植物らしきものが存在した。火星への期待は21世紀になってもまだ裏切られていない。
 ネビュラ賞受賞作
(2004.3.11)

赤い惑星への航海

赤い惑星への航海
VOYAGE TO THE RED PLANET
テリー・ビッスン
1990
 火星ものである。政府機関が機関ごとに多国籍企業グループに買収されている21世紀初頭。20世紀末に起きた大恐慌がきっかけで、世界は大きく変わった。20世紀最後の年に、アメリカとソ連が共同ですすめていた火星探査船は知るものもほとんどないまま放置され、準備クルーも離散した。火星探査船の存在と所有権を確認したある企業グループの映画会社が、火星探査船を実際に火星に飛ばし、映画撮影を思い立つ。20年前のクルー2人と人工冬眠の医師、カメラマン、映画俳優2人、それに、若い密航者1名を乗せた火星探査船は、映画会社のプロデューサーとひとりの航行管制を担当する若者を地球との窓口に、火星に向けて18カ月の旅に出発する。
 その後、プロデューサーは資金を集めるため会社を変わり、奔走する。航空管制官は、生活のためのアルバイトを続けながらアルバイト先のコンピュータ時間をあてにしてなんとか航行管制を続ける。
 そして、18カ月後、火星に到着。映画撮影がはじまった。
 調査でも、研究でもない。映画撮影である。一山あてようというプロデューサーの思いつきである。
 どんな動機であれ、宇宙飛行士は、機会が与えられて、それを見逃すはずはない。まして、ふたたび無重力空間に戻り、最初の火星探査船を動かし、誰もまだ行ったことのない火星に降り立つことができるのだ。そういう人種であってほしい。
 真にプロの俳優は、ものごとに動じない。エンターテイメント産業で花形として生きるとは、ものごとに動じないと同義である。頼まれれば、宇宙船の操作だってやれる(はずだ)。みんなが期待しているから。
 カメラマンは、いつもカメラを離さない。理想の光を探し続ける。
 密航者に真の動機はない。星ではなく、スターに会いたいぐらいの気持ちだったのかも知れない。たぶん、退屈で、ドアが開いていたんだろう。
 医者は…、脅迫されてやってきたのだ。しぶしぶ。
 地球で起こっている世俗の出来事、資金集めや企業買収、マスコミの報道を遠くの雑音のように聞きながら、船は進み、赤い大地へ人は立つ。
 出発までの描写と、火星での描写、それから、火星探査船やシャトル、火星着陸船、火星バギーなどの描写はとてもおもしろい。
 残念なことがあるとすれば、1990年以前の知識しかないことである。
 2004年の私たちは、1996年以降火星に都合3台の地上移動探査機を送り出しており、ヴァイキングやマリナーが撮影した1960年代から70年代の火星よりもはるかに火星に近くなっている。
 もうひとつ、これは本書のせいではないが、コロンビア級のシャトルは300回の打ち上げに耐えることはなく、2003年2月に初号スペースシャトルであるコロンビアは28回目のミッションで着陸直前に大破し、ソ連も1991年に崩壊し、20世紀を超えることがなかった。
 近い火星、近い未来を舞台にしているだけに、今読むと、現実とのずれに違和感を持ってしまう。
 それでも、もし火星が好きならば、ひとつ読んでみるとよい。
 なんとかして、人は火星を目指したがるものだから。
(2004.03.09)

幼年期の終わり

幼年期の終わり
CHILDEHOOD’S END
アーサー・C・クラーク
1953
 創元社からは「地球幼年期の終わり」という邦題で出ている。私が読んだのは、早川書房の文庫版で福島正実訳のもの。はじめて読んだのは高校生の頃。当時400円だった。子どもの頃からSFが大好きで、九州の山深い田舎の小さな書店で創元社や早川書房、あるいは当時出ていたサンリオSF文庫のコーナーを行きつ帰りつ、財布の中身とタイトルとあとがきやつりがきを読みながら、真剣に選び、買っていた日々のことである。
 実世界は狭く、窮屈で、どこにむけてよいのか分からないエネルギーと鬱屈した時間と精神は、SFを読むときだけ開放され、どこまでも広い世界に向けて無限の時間を旅することができた。
 それから、25年ほどの時間を渡ってきた。
 あらためて、「幼年期の終わり」を手に取り、「それはちょうど、時という閉ざされた輪の内側を、未来から過去へとまわりまわってひずんだ木霊のようなものだったのだ。これは記憶と呼ぶべきものではない、予感と呼ぶべきものだ」との一文を見いだして、置き去りにしてきた時に対し、後悔でも、憐憫でも、懐かしさでもない、ただその時の記憶と予感に情感を揺さぶられた。
 本書は、異星人とのファーストコンタクトものであり、地球人類が支配管理される侵略ものであり、人類史の終末ものであり、生命と精神の変容(進化?)ものである。それらすべての要素をひとつの物語にまとめ、読者を引き込み、引きずり回し、変異させ、転移させ、そして、突き放す。登場人物のすべてを、読者のすべてを突き放し、かつて人類と呼ばれた生命と精神は、私たちが理解できないものへと昇華していく。それは目的なのか、結果なのか。
 本書では、人類と対比的に、恒星と惑星のすべてを支配する力を持ちながら、それ以上どこにも行くことができない存在、変わることに憧れ続ける存在、幼年期を持たない存在を書いている。幼年期を持つこと、変わることができること、これこそが人類の生命としての強みではないだろうか。
 私たちは変わりゆく。記憶と予感を抱きながら、流転する。
 人類が、変わりゆく存在である限り、SFは存在し、「幼年期の終わり」は、SFが生んだ金字塔として輝き続けるだろう。
 ところで、あなたの幼年期はまだ続いていますか?
(2004.3.8)

ドノヴァンの脳髄

ドノヴァンの脳髄
DONOVAN’S BRAIN
カート・シオドマク
1943
 ロシアの作家・アレクサンドル・ベリャーエフが1925年に出版したのは、「ドウエル教授の首」、こちらは、ドイツ出身のアメリカ作家カート・シオドマクによる「ドノヴァンの脳」である。どちらも、古くから児童SFで訳されていて、本書「ドノヴァンの脳」は、あかね書房から「少年少女 世界推理文学全集」として1965年頃に出された「人工頭脳の怪/ノバ爆発の恐怖」でハインラインとカップリングとなっている。一方、「ドウエル教授の首」は、岩崎書店の「ベリヤーエフ少年空想科学小説選集」(1963年)にはじまり、「合成人間」「合成人間ビルケ」「生きている首」などというタイトルで、児童SF文学の花形となっている。
 どうも、この2冊、10歳前後に両方とも読んでいるようで、頭の中でごっちゃになっている。話も、なんとなく似たようなものである。きっと、「ドウエル」の方が、印象深いのだろう。ふたつのあらすじを読み直してみて、「ドウエル」を読んだときの印象が強い。
 さて、私の手元にあるのは、早川書房のいわゆる銀背の復刊版である。
 「ドウエル」の方は、創元社から出ているが、入手不能だとか。
 本書では、野心あふれる医師が、大金持ちの人間の事故救出現場に立ち会い、その完全には死んでいない脳髄を取り出して、生命を維持し、コミュニケーションをはかるうちに、やがてその脳髄=ドノヴァンに精神を乗っ取られてしまう。
 主人公は、なんとかしてドノヴァンの支配から逃れようとするが…。
 こういう古典を読むと、今のSFの底流を知ることができる。ここでは、脳を栄養液に入れ、精神感応でコミュニケーションしているが、今のSFなら、ヴァーチャル空間にデータをダウンロードし、そこでコミュニケーションしたり、データ空間に脳を連結させてみたり、そこで他人の精神に感染したり…ということになるだろうか。
 時には、こんな古い作品を読んでみるのもおもしろいものだ。
(2004.03.06 読んだのは03年秋)

火星の砂

火星の砂
SANDS OF MARS
アーサー・C・クラーク
1952
 古典である。クラークの第2長編は、今(2004年)から50年以上前に執筆され、それから25年して翻訳されている。
 主人公は、地球きってのSF作家。初の旅客用地球-火星間原子力宇宙船に唯一の民間客として乗船し、旅客宇宙船や火星植民地の実情を見聞する。
 地球から宇宙ステーションまでのロケット航路では、加速度と薬で対処できるはずの宇宙酔いに苦しみ、無重力に感銘を受ける。宇宙ステーションから出発した原子力船に乗り込むと、船長に煙草を勧められ、疑問を呈すると「禁煙にしたら、反乱が起きる」と冗談を言われる。火星への旅は3カ月、地球からの催促に、タイプライターで打った原稿を宇宙船からFAXで電送する。無重力に慣れ、宇宙遊泳も体験し、ビールは水鉄砲で飲む。
植民がはじまったばかりの火星では、多くの科学者らが初代入植者としてドームを建設し、研究と生存のための取り組みを続けていた。もちろん、生活基盤もできつつあり、バーにはちゃんとバーテンがいる。ドームから出るときには、酸素マスクをつける。大気が薄く、酸素も少ないからである。火星には、酸素を火星の赤い砂=酸化鉄から取り出す植物がわずかに生えているだけ…。
 地球は、火星が金のかかるお荷物だと予算を絞り、火星人は自立のために地球に秘密で火星のテラフォーミングに向けた準備をはじめていた。
 1952年に出版されているということは、それ以前に書かれたものである。
 世界初の人工衛星スプートニクをソ連が打ち上げ、世界が驚愕したのは1957年のことである。世界初の商業用原子炉はイギリスで1956年に稼働をはじめた。本書に何度か出てくる「中間子」の理論で、湯川秀樹がノーベル賞を受賞したのが1949年。初のジェット旅客機コメットの試作機がイギリスでつくられたのも1949年。
 誰も、宇宙には行ったことがない。無重力は経験していない。火星は望遠鏡でしか見たことのない、時代。
 その時代の作品である。少し、現代風に読みかえれば、地球と宇宙ステーションを往復する化学燃料のシャトル。宇宙ステーションは、自ら回転して遠心力による疑似重力を生み出し、月や火星などへの基地となっている。火星船は原子力推進。酸素のほとんどない赤い砂の火星ではドームをつくり、生活しながら火星を将来テラフォーミングするための工夫をしている。火星船や火星には、デジタル化された音楽や書籍が積み込まれ、飽きることはない。土星への探査船が、木星を使ったスイングバイを検討していることさえ言及されている。
 現代風に少しだけ書き換えれば、立派に21世紀の作品として読める内容になるだろう。
 これが、アーサー・C・クラークである。そして、1950年代には、20世紀中に火星に人が住んでもおかしくないというSFが多くの人に読まれたのだ。
 もちろん、SFとしてのクラークの想像力では描かれていなかったり、今読めば奇妙なところはある。
 データは、FAX送信されている。電子メールはない。電子データによる音楽や書物についてはふれられているが、コンピュータについての言及はない。
 カラー写真は、まだ、新しく、とても高価だ。もちろん、カラー映像を地球に送るのも技術的に困難とされている。火星に高い山がなく、土星に15の衛星があることになっている。そういう記述があって、違和感を覚えてはじめて、本書が古典であること50年以上前に書かれた本であることに気がつく。
 翻訳は、昭和4年(1929年)生まれの翻訳者によるもので、日本語版が1978年出版である。それによる、語り口の違和感もあろう。
 それにしても、50年前のものとは思えないハードSFである。本書が、それ以降の火星を舞台にしたSFに与えた影響は大きい。本書のパターンは、のちの火星開拓SFでも繰り返し登場する。火星はそれほどまでに魅力的であり、望遠鏡の時代から、火星は人類をとらえてはなさなかった。クラークは、書いていてとても楽しかっただろう。
 2004年3月3日、NASA(アメリカ航空宇宙局)が、現在火星で進行している2台の無人地上探査機の調査結果として、かつて火星に大量の水が液体として存在していることの物的証拠を発見したと発表した。
 その水は、どこに行ったのだろう。そして、火星に生命は誕生したのだろうか。
 私たちは、次に火星で何を見るだろうか。
 楽しみでならない。1917年生まれのクラークもまた、人類の遅い歩みにはらはらしながら、このニュースを聞いただろうか。
(2004.03.06)