リムランナーズ

リムランナーズ
RIMRUNNERS
C・J・チェリイ
1989
 本書は、「ダウンビロウ・ステーション」「サイティーン」に続く「会社戦争」シリーズである。時期は、「ダウンビロウ・ステーション」の直後。勢力は、「同盟」「連合」が中心となり、「地球会社」や「艦隊」の力はきわめて弱くなっていた。
 リムランナーズの主人公エリザベス・イェーガーは元艦隊軍人で、「連合」に属する見捨てられつつあるスール・ステーションに身を隠し、何とかして宇宙船のスタッフとして乗船し、ステーションを離れ、かつての仲間に合うことを望んでいた。拾われたマーチャンター船「ロキ」で、エンジニア見習いとして元軍人の身分を隠しながら、なんとか折り合いをつけ身の置き所を探す彼女。やがて、彼女は「ロキ」で出会った人たちを仲間と感じ、艦隊の崩壊とともに失った「自分がどこかに属している」という実感を得るのであった。
 チェリイはエリザベス・イェーガーを意志が強く、タフだが社会生活には不適応な生まれつきの軍人タイプとして描く。そして、人間が意志を持ち続けること、希望を失わないことの美しさを描く。さらに、エリザベスの行動や考え方の背景に、彼女が一度自分の真の家族であり仲間であり共同体である「艦隊仲間」を失ったことが大きく影響していること、そして、その救いは以前の仲間に再会することではなく、新たに「どこかに属している」という家族意識、仲間意識、共同体意識を得ることでしか得られないことを描く。
 描かれる場所は、人が次々に逃げていくスール・ステーションのさびれた様子であり、辺境船という潜水艦にも似た閉鎖された共同体における生活と人間関係である。「ダウンビロウ・ステーション」では、リーダーや管理者の視点から描かれた様子が、30過ぎの、何の権限もない、少々くたびれた、偏屈の女性の目を通して改めて語られる。
 理不尽な命令、不明瞭な上司たちの関係、同僚らのいじめなど、まるで日本の会社の縮図でもあ。そんな中で、自分を貫くエリザベスの姿こそチェリイが書きたかったものではなかろうか。
2003.12.2

ダウンビロウ・ステーション

ダウンビロウ・ステーション
DOWNBELOW STATION
C・J・チェリイ
1981
 宇宙の三国志である。とはいえ、三極にカリスマがいるわけではない。さまざまな政治的、軍事的策謀の中で、主人公たちは、それぞれの立場、力関係から迷い、うごめき、苦しみ、希望を求める。一言で言えば、そういう物語である。
 地球とソル・ステーションを中心とした「地球会社」の影響力は、辺境のステーションによる「同盟」の前に弱体化していた。地球の政治体制は分裂し、「地球会社」が「同盟」に圧力をかけるために派遣した「会社艦隊」は地球の「会社」の援助が届かなくなり、次第に孤立する。「会社艦隊」の生き残りは、自分たちの存続をかけて「同盟」と対峙するが、「同盟」と「地球会社」の狭間のステーションや真の辺境を旅して商売を続ける「マーチャンター」や「同盟」ほど辺境ではなくてもソル・ステーション群よりは遠い「後背星」のステーション群にとって、「艦隊」は略奪者と同じであった。さりとて、「マーチャンター」や「後背星ステーション」としても考え方が異質な「同盟」とは与したくない。「同盟」は、人口を増やすためにクローン技術とテープ学習により均質化して育て、兵士や技術者として使っている。その社会体制に不気味さを感じている。一方の「地球会社」は、辺境の自立意識や開拓精神を理解せず、人間中心主義、地球中心主義に固執するばかりである。もちろん、「地球会社」側と心中する気もない。
 さらには、「後背星ステーション」のある惑星に住む知的生命体の存在。
 かくして、「会社艦隊」「地球会社」「同盟」「マーチャンター」「後背星ステーション」に属する様々な人間たち、避難民、艦隊艦長、捕虜、外交官、政治家、商売人、スパイらが、自分たちの動機を持ちながらも、運命に翻弄される。多くの人が命が奪われ、多くの別れを迫られる。
 個人の運命は、大きな政治的、社会的動きに左右される。とりわけ、戦争や革命、政治体制の変化のときに、個人の運命は激しく動く。
 引き金は、いくらでもある。技術的革新、宗教的熱情、資源の欠乏、人口の増加…、そして、時に大きな災厄となる。
 21世紀初頭にあたらめて読み直せば、911以降のアメリカを中心にした世界の変動は、まさしく今、個人の運命がゆさぶられる激しい時であることを思い知らされる。
 私には、今の変動の終わりが見えない。もちろん、911がはじまりではなく、911はひとつの特異点に過ぎない。次の特異点はどこで、いつ、だろう。そのことに気がつくだろうか。
 そして、5年後、10年後の私や私を取り巻く人々は、何をしているだろうか。
 少なくとも、希望だけは捨てないこと、自分の信じる「よい道」を探すこと、これは続けなくては。希望を捨てたところに、救いはないのだから。
2003.12.2

サイティーン

サイティーン
CYTEEN
C・J・チェリイ
1988
 地球から遙か離れた辺境の惑星とステーション群。クローン技術、遺伝子組み換え、人工子宮、テープ学習による人間製造技術により、人口が不足していたこれら辺境で、いとも簡単に軍人や技術者などを生み、増やすことが可能となった。意識と知識、経験をもたらすテープをはじめ、これらの科学技術に辺境の社会が大きく頼るため、この辺境は、科学者のリーダーが事実上の政治責任を担っていた。
 これら技術と政治の中心である女性天才科学者アリアン・エモリーは、自らの寿命をこれ以上延ばすことができないと悟り、改良された自分のクローンを誕生させ、成長段階で自分と同様の経験を与えつつ、オリジナル・エモリーの知識や経験、行動パターンを成長段階に応じてテープやオリジナル・エモリーの投影である人工知能によって強化し、その強大な権限を引き継がせる人間をつくる計画を立てる。しかし、不慮の事故あるいは事件により、計画の初期段階でオリジナル・エモリーは死んでしまう。
 周囲の科学技術者と政治家により、計画はそのまま実行され、オリジナル・エモリーと、クローン・エモリーの空白期間に生じた長い政治的混乱を乗り越えようとする。
 ふたりのアリアン・エモリーの間で翻弄される青年と、その父。周囲の人々。
 政治的空白につけいる策謀。政治家、軍、科学技術者。
 そして、人間をつくる社会のありよう。人間には、公民とエイジィがあり、エイジィと人間は育てられ方、経験、能力、意識も異なる。エイジィの一部は、年をとり経験を積むことで自意識が確立し、公民として独立することもあるが、ほとんどは公民に所有される。
 公民でなく、作られた意識しかなくても、彼らもまた、その社会を構成する人類である。
 チェリイお得意の政治的動機と策謀と数々に個人としての悩みや希望、欲望がからみあうストーリー展開を通して、我々が知らない社会のありようが淡々と描かれる。
 私は、現実の遺伝子組み換え作物や動物、クローン技術、あるいは、生殖医療技術について反対の立場をとっている。遺伝子の仕組み、生殖の仕組みさえ満足に理解していないのにかかわらず、応用を前提とした研究ばかりが行われ、生態系への影響や社会のありようを検討しないまま商業化しているからである。「サイティーン」の舞台となる社会は、いくつものほぼ孤立した人間社会を持つ。平たく言うと、地球がいくつもある。
 それに対して、我々は地球をひとつしかもたず、今のところ、ここでしか住む場所はない。ひとつの生命系しか持たず、ひとつの生態系に依存している。そして、大きな意味でひとつの社会で生きている。放射性物質、人工化学物質の大量放出に加え、さらなる生態的混乱を招く遺伝子組み換え生物の安易な放出、そして、小さな意味でのそれぞれの社会が持つ死生観を乗り越え、踏みつけていく生殖医療と延命医療技術に対して、不快と怒りを持っている。
 その上で、この「サイティーン」は実におもしろい小説である。
 大きな意味での異質な社会、異質な生態系、異質な人間を感じさせてくれる。
 そして、その中でも変わらない人間の業と欲。希望と絶望。
 科学技術と人間社会のあり方について考える人には、ひとつ読んでみて欲しい小説のひとつである。
2003.12.2