未踏の蒼穹

ECHOES OF AN ALIEN SKY

ジェイムズ・P・ホーガン
2007

 私はこの読書感想とも評論とも日誌ともつかない文章作成をはじめるにあたって決めたことがひとつだけある。どんな著作も執筆者がいて、編集者がいて、それを商業販売にまでこぎつけさせた経営者やさまざまな人がいる。とくに訳書となると、著作を見いだし、訳したいと願い、一連の出版にかかわるあれこれを二重以上に繰り広げなければならない。だから決してマイナス評価だけにはせず、原則としてプラス評価で書こう、と。
 どうしてもマイナス評価しかできないのならば、書かなければいいだけだから、と。

 ホーガンは好きな作家だった。高校生の頃、「創世記機械」や「星を継ぐもの」が邦訳され、科学の力を信じるまっすぐな作品を繰り返し読んだものである。
 しかし徐々にその熱は薄れ、「量子宇宙干渉機」(1997)を最後に読まなくなっていた。 
 話は変わるが、先日、数年ぶりに渋谷の駅に降りた。パンデミックの規制が3年ぶりに解除され、その間にも再開発が進む渋谷はすっかり様変わりしていて、夕闇の頃の町は若い人たちと大音量の宣伝文句に溢れていた。人と待ち合わせしていたので、時間つぶしに歩き回ろうとしたがその喧噪に耐えかねて、繁華街の入口に残る書店に入り、息をすることにした。小さな書店に置いてある文庫本は限られている。まして、ハヤカワや創元のSFなどは人気のある十数冊が置かれていたが、それさえ奇跡に感じる。その並んでいる作品の中で所持していなくて読めそうな本が本書「未踏の蒼穹」である。2010年に亡くなったホーガンの最晩年の作品である。
 釣り書きには「『星を継ぐもの』の興奮再び! ハードSFの巨匠が放つ傑作」とある。そんなことはないと分かっていたが、何も買わずに店を出るのも申し訳なく、本書を手に取って読むことにした。そういういきさつがある。

 どうしてホーガンを避けるようになったのだろうか。
 読んでみて、そして、解説で「違和感」の正体をあらためて知って、少しだけ悲しくなった。ホーガンはあるひとつの疑似科学の虜になっていたのである。そして、その疑似科学の説を自明のものとして作品を構築していたのだ。
 考えてみて欲しい、SFには様々な種類がある。その中には現在の科学や技術では解明または達成されていないものをその世界に外挿することがある。その外挿した内容により人間や社会がどう変わり、人がどう動くのか、物語が生まれる。それこそSFの醍醐味と言える。読者はその知識レベルに応じて外挿された理論や思想、技術と現実世界の違いを認識し、作品を楽しむ。作品に刺激を受けて新たな理論や仮説、あるいは技術が現実になることもあるが、あくまでも作品はフィクションである。
 SFの中には、ファンタジーと融合したものもある。神様が出てきたり、宗教的世界観に基づいて書かれたものだ。しかしそれも、真実・事実ではなく、モチーフであり、作品のフィクション性は書き手、読み手とも十分に理解している。
 気をつけなければならないのは、世の中にはフィクションあるいは仮説をあたかも事実・真実かのように論を構築し、一定の支持を集める者が後を絶たない。人間は目の前のできごとに惑わされる生きものなのだ。
 だからSFの書き手・読み手はそのような疑似科学からは距離を置きたがる。
 もちろん、疑似科学を基にして組み立てられたSF小説もまた、作品であり、フィクションとして読む限りにおいては問題ないであろう。しかし、疑似科学は現実の人間社会をたぶらかし、混乱させる。非常に悪質なものなのである。
 ホーガンは、その疑似科学に心を寄せ、晩年にはそれを踏まえて数作の作品を残している。本書「未踏の蒼穹」もまたそのひとつにある。
 正直言って気持ち悪い。

 さて、簡単にストーリーを。遠き未来の金星では人類の末裔である金星人が独自の科学を発展させていた。そして、太陽系探査の過程で地球(テラ)に到達し、そこに金星人とそっくりのテラ人がかつて存在し、相互に殺し合ったあげく絶滅していたことを知る。古い遺跡を発掘しながらテラ人の思考、文化、社会、科学技術を調べる金星人たち。同時に、地球が金星よりも住みやすい惑星であることも実感し、基地の拡大も進んでいた。
 その調査チームの中での人間関係と、金星の中で地球の思想に触れる中で拡大してきた「進歩派」と呼ばれる人々の動きをめぐり小さな事件と大きな事件が起きる。そして…。

 ということで、滅ぶ前の我々読者は早いうちに金星人=地球人の末裔であることを前提にするのである。その点では、数万年前の人間を月で発見したその謎を探る「星を継ぐもの」とパターンは似ているが、あちらはSFミステリぐらいの謎解きだったが、こちらはSFミステリとまでは言えない。そういう点でも、釣り書きほどわくわくする物語でもない。

 しかも、疑似科学臭。
 同じサイエンス・フィクションでも、これはいただけない。
 まず最初に巻末の大野万紀氏の解説を読んでから読むかどうか決めていただき、読む際にはあくまでもフィクションであることを忘れずにいたい。

天の十二分の五

FIVE-TWELFTHS OF HEAVEN

メリッサ・スコット
1985

 ファンタジー系スペース・オペラとでも言おうか。釣り書きには「錬金術的スペース・オペラ」と書いてある。主人公の名を取って「サイレンス・リー」三部作とされる第1作目である。
 はるか未来、遠い宇宙。ヘゲモニー(覇国)が多くの星系の人類世界を武力平定していく時代の物語。リー一族経営の貿易船メインパイロットであるサイレンスは窮地に立たされていた。経営者たる祖父ボデュア・リーがヘゲモニーの惑星セカシアで急死。女性の公人としての権利がほとんど認められないヘゲモニーでは、サイレンスがパイロットとして生きていく道はない。リー一族の宝ともいえる宇宙船黒イルカ号も取り上げられたが、星界の航行に欠かせない星図だけは守り抜いた。そして、宇宙船のパイロットを探していた宇宙船サン・トレッダーのオーナー船長デニス・バルサザーの助けを得て、同船のパイロットの口を見つけ、セカシアを脱出する。ほとんどすべてをなくし、己の才覚だけをたよりとするサイレンスの希有な旅がいま始まる。
 サイレンスは願う、いつか黒イルカ号を取りもどすことを。しかし、ヘゲモニーの各星系侵攻に対するゲリラ的な戦いに巻き込まれる中で、サイレンスの運命は二転三転するのであった。

 大筋をみれば、若い女性パイロットが幾多の危機を乗り越えながら成長する物語である。さらに、ヘゲモニーが人類宇宙を飲み込もうとしている中での陰謀と抵抗といういわゆる「帝国もの」のスペース・オペラである。
 しかし、「サイレンス・リー」の本筋はそこではない。これはれっきとしたファンタジーであり、「魔法」世界の物語なのだ。宇宙には「階層」があって天上物質ハルモニウムを用い、「その音と天上音楽の親和性のおかげで、航行が安定する」のである。パイロットは星図から星々の声と天の声を読み取り、天のの煉獄を抜け、階層を上がり、航路を辿って別の星系へと船を誘う仕事をするのである。
 そのような特殊能力はパイロットに限ったことではない。パイロットは星と星を抜けるための専門職のようなもので、人類世界にはより高度な天の声を聴き、技を扱う魔術師(マギ)が存在する。離れた空間を結びつけてメッセージは人を移動させる力さえ持つ超能力者と言える。より深く天界の声を聴く者と呼んでもよかろう。
 そう、ファンタジーなのだ。
 あとがきの中村融氏解説によると、本書は「十七世紀の新プラトン主義に基づくヘルメス学的知」という「異なる世界観」を前提に書かれているそうである。
 そういえば1980年代なかば、日本でもオカルティズムがはやり、このあたりの神秘主義的な著作が数多く出版されていた。「工作舎」などからいろんな本が出ていたものである。何冊か楽しく読んだが、面倒くさがり屋だったのでそういう「体系」を自分の教養の中に取り込むまでにはいたらなかった。
 背景的世界観がある程度理解できているともっと楽しめるのだろうけれど、そういう歴史ある背景がなくても、SFは「ワープ」とか「エスパー」とか手軽な技を開発してきたのであり、そういうものだと頭の中で読み替えれば著者の意図とは異なるだろうが読むのには差し支えない。世界観が異なれば、表現は変わる。別の世界観にどっぷりとはまるのはいかがなものかと思うが、別の世界観を楽しむのにはよい作品である。続巻も翻訳されているので近々読んでみよう。

アストロ・パイロット


ASTOROPILOTS
ローラ・J・ミクスン
1987

 1989年にハヤカワSF文庫から野田昌宏(宇宙軍大元帥)の翻訳にて出版されたヤングアダルロ系のスペース・オペラである。著者のローラ・J・ミクスンについては本書ではほとんど情報がなく、調べてみると、本書「アストロ・パイロット」が第一長編で30歳の頃の作品である。その後も、SF、ファンダムなどでも活躍しているし、本職は別にあるようである。またSF作家のスティーヴン・グールドと結婚し、共作もあるとのこと。
 どういういきさつで本書が翻訳されるに至ったかは不明だが、野田昌宏は1960年代から80年代にかけての「スペオペ」翻訳の大家であり、多くの作品に名を連ねている。独特の訳語で野田節と呼んでもよいくらいの癖もある。本作の場合、スペオペ密度とヤングアダルト密度のどちらが濃いかと言われれば「ヤングアダルト」が濃いので、今読むとちょっと訳語とストーリーが合わないかなと思わないでもない。でも、おそらく野田昌宏しか本作を訳そうという人はいないだろう。若い作家のデビュー作で、さほど評価も付いていない作品だからだ。だから、これは難しい問題だ。野田昌宏には、「キャプテン・フューチャー」「ジェイムスン教授」「銀河辺境」など中高時代に大変お世話になったのだ。

 さて、時は2110年。人類は太陽系の火星、木星、土星、小惑星帯に居住空間を広げ、さらには系外のエリダニⅡ星系などでの植民にまで行なうようになっていた。
 しかし、地球の政府、企業による太陽系の植民地への支配、圧力は激しく、火星植民地との長い戦争も記憶に新しいところであった。現在、火星を中心にした連邦と地球との間には戦争になりかねない緊張が高まっていた。そんな時代。
 舞台は小惑星帯にある唯一の宇宙技術学校・宇宙技術学寮。そこは、地球、連邦、系外のどこからでも学生を受け入れるが、入れるのは極めて高い知能と運動能力を持つ限られた少年少女である。
 アンドレア伊藤は最高学年で最優秀のパイロット候補生として、学寮への入学希望者を選別するテストを任されていた。今回の選別テストには、エリダニⅡ星系から来た16歳のジェイスンという少年が含まれている。大抵は11歳から15歳なのにアンドレアよりも年上なのだ。しかも、ジェイスンはテストを難なくこなした。ジェイスンの能力や態度にとまどうアンドレア。
 もちろん、ジェイスンには秘密がある。大きな秘密は、彼は現学寮長のトラメルデンと深い因縁があったのである。もうひとつの秘密は、彼が連れているエリダニⅡ星系の生物ススレイである。ジェイスンはススレイを絶滅危惧の生物であり、ペットとして連れているというが、ススレイは高度な知性と特殊な能力を持っていたのだった。
 ジェイスンの秘密が気になるアンドレア。いや、むしろジェイスンが気になるアンドレア。
 トラメルデンの野望を止め、復讐を果たすためトラメルデン学寮長の動向が気になるジェイスン。いやむしろアンドレアの方が気になるのか?ジェイスン。
 そんなことを言っていられないぐらい、地球と連邦の開戦の危機は迫る。
 学寮にも不穏な気配が漂う。アンドレアは両親から学寮からの脱出と系外惑星へ両親とともに移住することを進められるが、そうなると彼女の望みである高級パイロットの道は絶たれてしまう。どうするアンドレア、どうなるジェイスン。
 学内でのトラブル、開戦危機の中で広げられる学長の壮大な陰謀、太陽系外から来た青年の秘密、努力型天才少女の悩みと活躍。
 ね、ヤングアダルトでスペオペでしょ。王道です。

 ちょっと2022年公開の「機動戦士ガンダム 水星の魔女」(この時点で前半のみ放映)を思い出してしまった。こちらの学校は思いっきり企業の思惑のドロドロの中にあるのだけれど、紛争の危機とか、その中の学生生活とか、方向は違うけれどヤングアダルトでスペース・オペラだね。悪くない。

アイリータの生存者

THE SURVIVORS

アン・マキャフリイ
1984

恐竜惑星2 アイリータの生存者」である。3部作と言われていたが、結局この第2部で「恐竜惑星」ものは終了となる。マキャフリイの宇宙では「知的惑星連合」ものとして位置付きまとめられるので、その中での「惑星アイリータ」ものと考えればよいし、第2部で終わったからといって尻切れトンボになっているわけではなく、本書をもって大団円を迎えたとも言える。

 前作で惑星アイリータ調査隊は、巨大母艦探査船ARCT-10からの連絡が途絶え、内部に反乱を抱えてしまった。共同指揮官のカイとヴェアリアン、医師のランジーらが指導者として体得していた特殊能力と、ボナード少年の機転によりなんとか反乱者たちから逃れることができた。しかし、ほぼすべての調査資材などを失い、唯一確保したのはシャトルのみ。そこで本隊は反乱者たちから姿を隠すために惑星アイリータである程度の知能を持っている社会的飛行動物ギフの生息地にあってギフが放棄した崖の洞窟に姿を潜め、助けが来るまでの間強制睡眠に入ることを決めたのだった。SOSは知的惑星連合の上位種族といえる長命のセク族に対して発せられていた。そしてその助けが1週間後なのか、数年後なのか、見通しも立たないままに。

 ということで本作は、長命で行動するまでに時間がかかると言われる岩石的種族セク族のトールが共同指揮官カイを目ざめさせるところから始まる。
 目ざめてみたら、43年の歳月が経っていたのだ。
 まあ、セク族が動くまでそれだけの時間が必要だったということだ。

 43年。人類ならば1、2世代を経ることができる時間である。幸い反乱者たちに見つかることはなかったようである。しかし、もし反乱者たちが生きており、自主的な植民者として生きていたら、ある程度の人口になっているだろう。生きていたら。
 気がついたカイやヴェアリアンたちは、ギフたちが彼らの洞窟と洞窟の中のシャトルを大切に守っていたことを知る。その動機は不明だが、シャトルを巨大な卵として見なし、信仰か象徴としていたのかも知れない。そして、外から来る人類=反乱者には敵対してきたようである。おそらく反乱者たちも、その生存の中でギフと対立関係にあったのであろう。
 さて、カイの古い友であるセク族のトールは、決してカイの救出だけを目的に来たのではなかったらしい。いやむしろ救出は他の調査隊などにまかせてしまい、カイに大昔の探査技術の痕跡がどこにあったかをすぐに教えるよう迫った。どうやら長命で古い銀河種族であるセク族と惑星アイリータには深い関係があったようである。
 そう、惑星アイリータの数々の謎は、セク族とのつながりのなかで解かれていくのである。
 物語は、セク族と惑星アイリータの関係を伏線としながら、本筋は反乱者たちと調査隊との接触と、人類とギフたちとの交流を軸に語られる。そのなかでも、反乱者たちの子孫である若きリーダーでマッチョでまっすぐな好青年アイガーと、そんな好青年アイガーに惹かれてしまうヴェアリアンが物語の軸となる。そして、救援要請をもって来訪する艦隊との関わり。全部を一気に片付ける勢いのある第二巻となっている。
 このあたりはストーリーテーラーとしてのマキャフリイの面目躍如といったところ。
 それにしても、最初の段階で惑星アイリータの現住生物に襲われ毒で苦しむことになってしまうカイがちょっとかわいそうでならない。
 そして、セク族。すごいぞセク族。寿命も繁殖方法も明らかにされないが、知的惑星連合にとっては上位種族としかいえない強大な力を有するセク族。ぶっちゃけ人類を含む他の宇宙種族のはるかはるか以前より宇宙航行種族として長い長い歴史を持つセク族。そんなセク族の驚くべき姿や生態、歴史の一端を、本書は明らかにしてくれるのだ。
 おもしれー。セク族。

惑星アイリータ調査隊


DINOSAUR PLANET

アン・マキャフリイ
1978

 書かれていない作品を最初から三部作と位置づけてしまったことで書かれなかった第三部を待っているうちに作者が亡くなってしまい、決して書かれなくなることはよくあることだ。作者が亡くなったのだから、あきらめはつく。それよりももっと多いのは、書かれたのに日本語には翻訳されなかったシリーズの後編というやつである。これは泣くに泣けない。最近は、紙の本の出版が減ったこと、海外SFの需要が減ってきたのかもしれないが、第一部だけが翻訳されてそのままということもある。寂しい限りである。どうしても読みたければ原書を調達して読み解くしかない。がんばれ、私。

 さて、本書「恐竜惑星1 惑星アイリータ調査隊」は1978年に発表され、日本では1986年12月に翻訳出版されている。続編の「恐竜惑星2 アイリータの生存者」は1984年に書かれ、1989年に翻訳出版された。創元社から出されているのだが、当時、創元社からは「歌う船」だけが出されていて「パーンの竜騎士」シリーズなどはハヤカワからであった。「歌う船」シリーズは、1969年に初出だが、シリーズ化されたのは1990年代以降である。ということで、SFブームの1980年代後半、創元社が手にしたマキャフリイの作品として期待されたのだ。当初三部作が予定されていたため最初から釣り書きにも「三部作」と明記してある。しかし残念ながらこのシリーズは次巻第二部を持ってその後が書かれることはなかった。マキャフリイは惑星アイリータを第一部、第二部で描ききることでちょっと満足してしまったのかも知れない。

 では、惑星アイリータと知的惑星連合の調査隊について。
 人類および人類の変化種である高重力人、いくつかの異星人種からなる「知的惑星連合」というものが存在する遠い未来の世界の話。どの知的種族にも必要とする希少元素を探索するため「探検評価隊」が組まれていた。そのひとつ探査船ARCT-10は恒星アルータンの3つの惑星の調査を開始する。それぞれの惑星条件に合わせて探査隊は組織、派遣されるため、惑星アイリータには人類種族のみの調査隊が入ることになった。共同指揮官のカイはARCT-10育ちの男性であり、もうひとりの指揮官ヴェアリアンは惑星育ちの女性で異星生物学者である。ふたりとも初の指揮官であり、惑星アイリータの探査隊は比較的経験の浅いメンバーと、ARCT-10の4人の子供たちから構成されていた。また、メンバーの中にはその身体機能の必要から力の強い高重力人も加わっているのであった。
 調査開始からまもなく、母艦であるARCT-10との連絡がとれなくなってしまう。彼らの中には、彼らが「調査隊」としてではなく「植民者」として置き去りにされたのではないかと懸念する者も出てくる。
 さらに、惑星アイリータにははるか大昔に現在の知的惑星連合と同じ装置を用いて地質調査をした痕跡が残っていた。未踏の惑星のはずなのに。
 さらに、さらに、惑星アイリータにはふたつの起源をもつ生態系が存在しており、そのひとつは人類と同じように赤い血を持つ動物群を頂点にしていた。その姿は人類の母星地球でかつて栄えた動物たちにあまりに似ていたのである。
 この不思議な惑星アイリータで、いま、調査隊の中に反乱の危機が迫る

 という物語である。惑星アイリータとは何か?なぜ知的惑星連合の星図では未踏のはずなのに、同じ技術の痕跡があるのか?地質学的時間が推移しているがその時間経過は?誰が?なぜ? この動物たちは? そして、自分達は本当に強制的植民者として置き去りにされたのか?いくつもの謎の中で、若いふたりの共同指揮官が活躍するのである。

 もちろん、マキャフリイであるから、若き女性指揮官ヴェアリアンの活躍がメインとなる。なんといっても本職が異星生物学者、タイトルにあるとおり「恐竜惑星」の謎を解明するのに彼女ほどうってつけの存在はいない。そして、出自文化の異なる共同指揮官カイとの関係。マキャフリイ節炸裂である。
 とはいえ、マキャフリイが書きたかったのはこの惑星アイリータと、その生態系そのものだったように思う。馬を愛し、竜を愛するマキャフリイが、「竜」だけでは描ききれない生態系そのものを描き出すことを楽しんだ、そんな作品なのだろう。

無常の月

ALL THE MYRIAD WAYS

ラリイ・ニーヴン
1971

 中学生の頃、限られたお小遣いを持って、田舎の本屋に並べられた文庫本の中から値段と内容とを吟味し、悩んで買った1冊。表紙もかっこいいし、「スーパーマンの子孫存続に関する考察」とか「タイム・トラベルの理論と実際」とか目次のタイトルにも、中学生にはたまらないものがあったのだ。
 読んでみると、頭の中には???が並んだりもした。だいたい当時は「レンズマン」とか「キャプテン・フューチャー」とか「火星の大元帥カーター」とかを読んでいたので、それからするとちょっと大人すぎな内容の作品が多かったのだ。
 それでも、とても心に残る短編が多いのも本当。よかったよ、中学生の時に読めて。

 短編集として初期の様々な作品が並べられており、ノウンスペースシリーズの中に位置づけられる「待ちぼうけ」「ジグソー・マン」「地獄で立ち往生」も収録されている。
 また、多元宇宙を扱った「時は分かれて果てもなく」「霧ふかい夜のために」や、高次の存在を扱った「路傍の神」などはウイットの効いた作品でテレビなどで人気の「怪奇現象ドラマ」の原作といっても良い感じである。というより、こういうのに触発されてそういうドラマができるんだろうな。ちょっと毒のあるブラッドベリかも。
 こういった作品は分かりやすくてなじみが良い。

 異色の作品と言えば「マンホールのふたに塗られたチョコレートについてきみには何が言えるのか?」である。マンホールの蓋に塗られたチョコレートについて、あなたは何か言えますか? 私はそれが清潔でおいしかったら食べますね。
 物語は正統なSF作品である。あるパーティでひとりの男が言った「やあ、すべてのアダムとイヴ伝説は、すべて本当のことだと思うかい?」この一言からSFを紡ぎ出してみてください。

 日本語版のタイトルとなった「無常の月」はニーヴン版「地球最後の日」。夜、気がつくと突然月がものすごく明るくなっている。その原因は?主人公は原因に思い立ち、寝ている恋人のところに電話をかける。天体マニアの彼女は、月の明かりを見て…。
 短編はアイディア勝負だから、これ以上は説明しないけれど、どうです、月が突然明るくなる原因分かりますか?

 という質問を投げかけたところで、この短編集の要の作品を紹介。ニーヴンがいかにSFを愛していて、オタクで、SFファンを愛しているか、という作品である。
 そして、中学生の私には「スーパーマン」の下ネタを除いてさっぱりわからなかった作品でもある。

「スーパーマンの子孫存続に関する考察」は、タイトル通り。例の青い服を着て、胸にSマークをつけている人間そっくりの宇宙人は果たして子孫を残せるのか?という深遠なテーマを深掘りしてみると。なにせ母星はなくなり、同族はほぼいないなかで、ふだんは地球人として生き、地球人の恋人がいるのである。そこには難題に次ぐ難題が。

「脳細胞の体操-テレポーテーションの理論と実際-」こちらは、実際の講演をもとにして書き上げられたもの。表題通りで、テレポーテーションの定義、歴史、類別(超能力式、機械式)、その理論と実際。とりわけ機械式の場合の方法を仮定し、その可能性を検証するもの。過去のSF作品などを引用しながら新たな可能性にも迫るのである。

「タイム・トラベルの理論と実際」こちらも同様であるが、ニーヴンはタイムトラベルについては厳しい態度をとっている。親切に過去へのタイムトラベル、未来へのトラベル、パラドックスなどを解きほぐし、その小説としての歴史も辿った上で、なぜタイムトラベルの作品が書き続けられるのかという大問題にも迫る。これを読む限り、ニーヴンはタイムトラベルをSF作品として書くことはあり得ないはずだ。

 最後に、エラリー・クイーンの超短い推理小説をしのぐニーヴンの超短いSFをふたつ。それが「未完成短編 一番」と「未完成短編 二番」である。大人になって老齢にさしかかってようやくこの作品のおもしろさが分かってきた。遅いか。

中性子星(再読)

中性子星(再読)
NEUTRON STAR
ラリイ・ニーヴン
1968

「地球からの贈り物」に続き、2004年に読んだノウンスペースシリーズの短編集である。2004年のときの感想はこちら。
https://inawara.sakura.ne.jp/halm/2004/11/17/neutron-star/
 簡潔にまとめていた。
 約20年経つと、見方も変わる。そもそも1968年、45年前の作品である。人間の価値観や社会観は急速に変化している。おおよそは良い方向だが、一方で揺り戻しもあり、多様性を認めない古い価値観が亡霊のように湧き上がる。
 文学、小説は、古い作品は古い価値観が反映する。未来を書いたSFであっても同じである。しかし、SFに限らず、古い作品であっても当時の価値観に抗して人類のめざすべき方向、新たな価値観をもって書き上げられている作品もある。そういう作品が提示する価値観や思想こそが新たな世界を作ってきたとも言える。
 ニーヴンは、良い意味でも悪い意味でも大衆的なSF作家である。SFがとても大好きで、同時代のみんなを驚かせたくて、そして万人に受け入れられたいという素直な気持ちで独自の世界を描いている。だから、ニーブンの作品を21世紀に読み継ぐ上では、そのセンス・オブ・ワンダーに思考を広げるとともに、人類の負の一面を考えていく必要もあるだろう。

中性子星
ベーオウルフ・シェイファーが主人公の作品のひとつ。27世紀初頭、元ナカムラ宙航パイロットのシェイファーは、ウィ・メイド・イット星の片隅で非人類のパペッティア人ゼネラル・プロダクト社支社長から高報酬の仕事を誘われた。パペッティア人はゼネラル・プロダクト社製の宇宙船船殻を製造販売している。宇宙船の95%はこの船殻を使う。強固でどんな力も通さない船殻だからだ。しかし、中性子星に近づいたとき中の調査員が死んでしまった。その原因を調査するために行って欲しいというのだ。金欠のシェイファーは死も覚悟してこの仕事を請け負うしかなかった。そこでみつけたものが、パペッティア人の秘密と大きく関わるのだった。

帝国の遺物
鯨座ミラTの惑星でウンダーランド星出身のリチャード・ハーヴェイ・シュルツ=マン博士は15億年前に滅んだスレイヴァー帝国の「遺物」である生物を調査していた。そこにジンクス人の海賊キャプテン・キッドが降り立つ。ウンダーランドもジンクスも人類の植民星であり、それぞれの環境に順応した人類たちである。キッドは非人類であるパペッティア人が完全に秘匿してきたパペッティア星系を発見したのだという。その発見がキッドを海賊にし、そしていま人類の警察から追われている。捉えられたマン博士には、しかし、キッドを出し抜くすべを知っていた。それは「帝国の遺物」である…。

銀河の<核>へ
金を使い果たした頃、べーオルフ・シェイファーのもとにパペッティア人が現れる。ここはジンクス星。ウィ・メイド・イット星とはかけ離れた場所だ。ジンクス星のゼネラル・プロダクト社支社長は、シェイファーに対して超光速の宇宙船を提示し、その性能の誇示のために銀河の中心まで行って撮影してきて欲しいと高額の謝礼をもって提示してきた。銀河核には何があるのか、どうなっているのか。ノウンスペースの種族の誰もが知り得ない現象を初めて確認するのである。その結果は、パペッティア人を驚愕させ、彼らをして驚くべき行動を取らせるのであった。

ソフト・ウェポン
ジェイスン・パパンドローは宇宙船カート・ジェスター号の船長。いま、彼の妻アン=マリーと、臆病と慎重さが特徴の草食非人類種族パペッティア人としては異質な躁鬱気質のネサスとともにジンクス星への帰路の途中にあった。ネサスが異星種族アウトサイダー人との交渉のために船を借り切っていたのだ。しかも、途中でノウンスペースにおける過去のお宝箱ともいえる「停滞ボックス」を発見し、足取りも軽かった。そこでパパンドローはハイパースペースから通常空間に降りて琴座ベータ星周辺宙域を訪ねることにした。かつて異星種族クジン人と人類の戦争のさなかにみた美しい星の光景をマリーに見せたかったのだ。そこでクジン人の秘密工作船に拿捕され、停滞ボックスを強奪されてしまう。そこから出てきたのはかつて見つけられたことのない特殊な武器であった。これがクジン人の手に渡れば再度クジン人が人類に戦争をしかけてくることは間違いない。なんとかして、この窮地を逃れなければ。

フラットランダー
ウィ・メイド・イット人のベーオウルフ・シェイファーはジンクス星から地球への航路にあった。宇宙船レンズマン号でのアバンチュールに敗れ、船内のバーで知り合ったのは地球人のエレファント。地球ではぜひ連絡して欲しいとナンバーを渡されたが、シェイファーは地球を満喫するつもりだった。しかし、人口過剰の地球に到着する早々掏摸の洗礼を受け、エレファントを頼ることになった。彼はとてつもない資産家で、これまでにない体験を求めていた。シェイファーは提案する。アウトサイダー人に会いに行って、(対価を払って)聞けばよい、と。そして、エレファントとシェイファーたちはアウトサイダー人から究極の体験ができる場所の情報を手に入れる。しかし、アウトサイダー人はシェイファーらがゼネラル・プロダクト社製の船殻で装甲しているにも関わらず、慎重な言い回しでリスクを匂わせる。あたかも死に場所を求めるかのように突っ込むエレファントと、アウトサイダー人のふるまいに慎重さを捨てきれないシェイファー。彼らが遭遇したものとは。宇宙にはまだまだ秘密がある。

狂気の倫理
精神障害とその治療や社会的な対応、価値観については常に変化を続けている。人間にはさまざまな精神的な成長や発達の違いがあり、それが属性として「犯罪性向」を持つわけではない。起きた犯罪の原因を精神障害に起因するものとするかどうかは、今日においてきわめて慎重に検討されている。だから、1960年代のざっくりとした書きぶりはともすると差別的な表現や視点とも読める。そういう点は留意して読まないといけないのだが、作品全体のプロットや柱となるセンス・オブ・ワンダーはさすがである。
主人公のダグラス・フッカーは「偏執病」の遺伝的傾向(注:今日において遺伝関与の指摘もあるが明らかではない)があり、自動医療器による自動的・定期的な体内の化学反応調整によってその傾向は抑えられていた(注:現在のところ薬物療法についても定見はない)。
地球で生まれ育ったフッカーは、地球で宇宙船開発の企業を経営していた。しかし、あるときから自動医療器の故障により彼の薬物投与が行なわれなくなってしまう。その結果、彼は妄執に駆られ、地球で犯罪を犯し、マウント・ルッキッドザット星でも犯罪を犯したが治療を受け病から脱することができた。そしていま、フッカーは犯罪被害者の家族であるダグラス・レフラーに再開する恐怖から、ウンダーランド星に逃れようと自らが開発したラムスクープ船にのって脱出をはかるのであった。
そして…事態は時を超えて動き出す。

恵まれざる者
ここで書かれる「恵まれざる者」とは、知性を持っているのにそれに見合う身体機能をもっていない生物というものである。ノウンスペースシリーズではイルカは知性を持つ存在として認識されており、必要に応じて「義肢」を装着し道具を操作することができる。ここで登場するのはグロッグ。成長するにつれ岩に定着し動かなくなるのに大きな脳髄を持つダウン星の現住生物である。彼らに必要な道具を開発し売りつけるためにやってきた地球人のガーヴェイは、はたしてグロッグの知性と必要を見つけることができるのか?

グレンデル
舞台はダウン星からガミジイ星に向かう客船アルゴス号。乗っていた異星人クダトリノ人のルルービーが誘拐される。同じ船に乗っていたのは例のベーオウルフ・シェイファー。そしてルルービーをめぐり、ベーオウルフ・シェイファーの最後?の闘いがはじまる。そして、シェイファーと「ルイス・ウー」の関係が語られるのであった。

 27世紀のパイロットべーオルフ・シェイファーを中心に、ノウンスペースの中心、周辺、辺境、外側での様々な出来事が語られる一冊。中性子星、銀河の核、不思議な惑星、スターシードやグロッグ、アウトサイダー人、パペッティア人…。ノウンスペースの魅力がたっぷりとつまった作品群である。再度書くが、1960年代の作品であり表現には今日的には問題があったり違和感があったりする。だから時代背景は踏まえておいた方がいい。それでも、宇宙に憧れ、人類の拡散を夢見るニーヴンが描く宇宙は人間くさくて、そして、人類を超越していてそのバランスが実によい。

 ところで、2004年の際には「リングワールド」に直接関係のない「狂気の倫理」「恵まれざる者」をお勧めしていた。ところが、今回読むと、この2作品がもっとも違和感を感じた作品になった。時代や経験、考え方が変わるとこうも変わるものらしい。読み返しは大事だ。

地球からの贈り物(再)

A GIFT FROM EARTH

ラリイ・ニーヴン
1968

 2004年に記録がある。再読であるが、20年近く前のことだから忘れている。
地球からの贈り物 2004感想
 ノウンスペースシリーズの長編である。人類の初期の植民星のひとつ、鯨座タウ星系のマウント・ルッキッザット(Mt.Look It That)に入植がはじまり300年後のお話し
 極端な惑星で、生存可能圏は惑星に1カ所、極端に高い山の山頂平原(プラトー)のみ。崖の下は地獄。恒星間ラムスクープロボット探査船がみつけた「生存可能」な惑星の正体。
 第一陣と第二陣の植民船は、その実態も知らずに入植する。
 土地も資源も限られた世界で、人々は死に物狂いで働き、子を育て、人口を増やしていった。そして極端な惑星に極端な階級社会が誕生した。ふたつの植民船は核融合によるエネルギー源、それをつなぐ形で建設された「病院」は長命を保証する臓器移植の要であり、すなわち「臓器」の元となる人体を解体する場所であり、すなわち死刑宣告をする場であり、そこは「統治府」と呼ばれていた。統治府は、植民星乗組員の血筋からなるエリートが警察機構ともども管理していた。乗員は最上階級であり、その子孫は純血階級として病院と同じ最上部の「アルファ」で優雅な生活を送っていた。そして、その下の「ベータ」以降の地では、睡眠状態で運ばれた移民の子孫たちが生きるのもやっとの生活を続けていた。もし、少しでも小さな犯罪をおかせば、彼らは「臓器」となる。いや、「臓器」が不足すれば、彼らは実質的に狩られるのだ。しかし、ほとんどの移民たちは、その暮らしに異議を唱えることもなく、日々の暮らしを続けていた。この状況を変えたいと、秘密結社「地球の子ら」は非公然活動を計画し、統治府に狙われていた。
 そこに地球からラムロボットによる「贈り物」が届けられる
 落下した贈り物を最初に見つけたのは「地球の子ら」のひとりであった。

 主人公のマシュー(マット)・ケラーはごくふつうの目立たない青年。子どもの頃からいじめられることもなく、恋人もできないまま、鉱物を採取するための特殊なミミズを管理する仕事に就いていた。ある日、学校時代の友人からパーティに誘われる。それは「地球の子ら」が集会の隠れ蓑にするために開くパーティーであった。そして、統治府は、このパーティーをかぎつけていた。
 物語は、マシュー・ケラーが特殊能力を自覚なく発揮するところからはじまる。
 彼の能力は「幸運」、実際には相手の目を見ることで、相手の瞳孔を収縮させ、彼を見えなくするとともに一時的に前後の記憶を失わせるというもの。
 よくわからないけど、姿を消せる能力はすごいね。
 この能力が「地球の子ら」を助け、「統治府」を混乱の渦に巻き込み、「贈り物」をめぐっての大きな社会変革につながるのであった。

 そういう物語。冒険譚でもある。

 初期のニーヴンの設定に臓器移植が健康と長命にとって欠かせない技術となった社会というのがある。誰もが臓器移植を望み、健康と長命を望む。そのためには「臓器」が必要で、「臓器」のためには犯罪者を死刑にするのが手っ取り早い。殺人などの重罪だけではとうてい臓器は足りないから、地球では軽微な交通違反でも「死刑」となるようになった。そして、人々はそれを支持した。
 この前提が崩れるのは、人工臓器や臓器再生など移植によらない健康と長命の医療技術である。では、そういう新しい医療技術が開発され、社会に導入されるとなったら、果たして「死刑」や「犯罪」の扱いはどうなるだろうか?
 すなわち社会はどう変わるのか。
 ひとつの科学技術の導入が、社会を一気に変えることがある。
 荒唐無稽な設定の中に、ニーヴンは仮説をくり返す。

 人間は柔軟だけど、でもさあ、「自分が簡単に犯罪者=死刑になるかもしれない」って相当なストレスだと思うんだよ。とてもいやな社会だと思う。

映画 原爆下のアメリカ

1952

Invasion U.S.A

字幕なしの全編。

 アルフレッド・E・グリーン監督、製作アメリカン・ピクチャーズ、配給コロンビア・ピクチャーズ。アメリカ公開1952年12月10日、日本での公開は1953年4月23日。

 微妙な時期のアメリカにおける国威発揚映画である。
 第二次世界大戦後、映画が公開された1952年より少し未来の好景気に沸くニューヨークのとあるバー。牧場主は政府の規制が厳しく税金が高いと文句を言い、トラクター製造会社の社長は米軍が戦車の修理をやれと言うが儲からないので断ったと自慢、上院議員は軍備縮小のモンロー主義者、テレビ記者は戦争の脅威をネタとして使い、若い女性客はファッションにしか興味がない。
 そこに、アラスカに未確認の共産主義勢力による戦闘機爆撃がはじまったとの報道が入る。やがてそれは核攻撃となり、アメリカは敵の攻撃にさらされていく。
 ついにはニューヨークにも原爆が投下される。
 もし、市民や事業者が務めを果たし、戦争の脅威、共産主義の脅威に耳を傾け、税を納め、軍事費を惜しまず、戦車を修理し、備えていたならば…。
 
 というお話し。
 ドラマ部分はともかく、戦闘部分や原爆映像は、主に第二次世界大戦時の記録映像をリミックスして使われている。詳しい人が見れば矛盾だらけだが、その映像に描かれている戦闘とその映像からは直接見ることのできない「死」は本物である。
 どうしてこういう映画がつくられ、日本でも公開されたのか。
 ちょっと歴史を振り返っておこう。

 2023年の今日に至るまでアメリカ合衆国はその建国・独立以降他国に本土を攻撃されたことはない。1940年にハワイ島を攻撃した大日本帝国軍(パールハーバー)がもっとも直接的な軍事攻撃である。アメリカ本土への直接攻撃でもっとも大きかったのは2001年9月11日の同時多発テロ事件であろう。
 また、本土攻撃の可能性にもっとも近かったのは、1962年のキューバ危機であろう。これは、核戦争、第三次世界大戦にもっとも近かった出来事でもあった。
 しかし、くり返すが、アメリカは本土攻撃を受けたことがない
 そして、1945年の第二次世界大戦終結、勝利後、一時的に経済成長は止まったがヨーロッパの復興需要などもあり好景気となる。 

 映画は主に1952年に製作されたものであろう。
 その7年前、第二次世界大戦は1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏したことで終結した。しかしその頃には、第二次世界大戦後の世界の覇権をめぐってアメリカとソ連(ソヴィエト連邦)との間で「冷戦」がはじまっていた。アメリカおよび西側諸国はソ連を中心とした社会主義国家による共産化を恐れた。
 アメリカはすでに核兵器を開発し、1945年8月に日本で実戦使用していた。広島と長崎に対する原爆投下である。その被害の大きさと放射線の影響についてはアメリカにおいても報道が規制され、また、広島と長崎ではアメリカによる調査が長く続いていた。
 一方、ソ連も1949年9月には原爆実験を成功。ここより世界は核開発競争と核戦争への脅威にさらされることになった。アメリカも核開発を急ぎ、ネバダに核実験場を建設、1952年には水爆も完成された。
 冷戦というが、代理戦争ははじめられている。
 ソ連と同じく社会主義国となった中国の後ろ盾を受けて北朝鮮が韓国を攻撃、韓国及び連合国との間で朝鮮戦争が勃発した。1950年6月のことである。
 当時、日本は実質的にアメリカの占領化にあり、朝鮮戦争の後方基地の役割を担っていた。日本は再独立に向けて憲法をはじめ政治体制、社会体制の再構築をはじめていたが、アメリカ側は日本の軍事的無力化と長期的な占領も考慮していたと思われる。しかし、朝鮮戦争をはじめ、冷戦が進行することで、日本を再独立させ西側諸国に組み入れることが優先される。1950年にはGHQにより準軍事組織として警察予備隊が設置された。
 そうしてサンフランシスコ平和条約が1952年4月28日発効。形の上で再独立を果たした。
 アメリカにおいてマッカーシズム(共産党およびシンパの排除)がはじまったのは1948年頃からで、1954年頃までハリウッドでもその嵐は吹き荒れた。
 多くの監督や俳優、関係者が共産主義者として指弾され、追放された。
 その頃の映画である。
 監督のグリーンは1889年生まれ、1952年には63歳ぐらい。1916年には映画監督としてデビューしており本作は映画監督としては晩年の作品となる。20世紀前半を映画監督として生き、名作もB級映画も合わせて60本以上を世に出している。わりとコメディタッチが多いようで、大戦中には戦争物もあるが、これほどまでに直接的な戦争映画はなさそうである。どんな気持ちで、どんなオファーでこの映画を撮ったのだろう。

 ちなみに、最後はジョージ・ワシントンの言葉
 To be prepared for war is one of the most effectual means of preserving peace.
 で締められる。
 平和を守る最も有効な手段は戦争への備えである。

 アメリカらしい考え方だ。

帝国という名の記憶

帝国という名の記憶
A MEMORY CALLED EMPIRE

アーカディ・マーティーン
2019

 遠き未来、辺境の地ルスエル・ステーションは偉大なるテイクスカラアン帝国版図の域外にあり、鉱石採掘惑星のためのコロニー国家として存在していた。同時にルスエル・ステーションは外世界へのジャンプゲートを持つ重要なエリアでもあった。
 いま、ルスエル・ステーションは帝国に取り込まれる可能性と、外世界のコミュニケーション不能な非人類種族の侵略可能性のはざまにあった。そこに帝国の艦隊が突如立ち寄り、「新たな大使」を早急に派遣するよう要求してきたのである。
 詩をはじめ、帝国の高度に洗練された文化にあこがれ、帝国への派遣を願っていた若きマヒート・ドズマーレは、その新任大使に選ばれ、本来ならできたはずの準備もそぞろに、帝国の艦艇で帝国の中心に運ばれることになったのである。

 きらびやかな帝国のシティでは、スリー・シーグラスというやはり若き二級貴族がマヒートの文化案内役として待っていた。スリー・シーグラスなしに、マヒートは必要なドアさえ開けられないのである。「野蛮人」として辺境の大使に着任したマヒートは、すぐに帝国にうずまく様々な陰謀、謀略、奸計に巻き込まれる。
 まずは、前任者であるイスカンダー・アガーヴン大使の死体と対面することになった。果たして事故死なのか、殺人なのか。長きにわたってルスエル・ステーションの大使としてルスエルのために働いていたはずのイスカンダーは、しかし、帝国内で皇帝をはじめ多くの有力者と交流を持ち、帝国内でも大きな力を持っていたらしい。
 いま、帝国では高齢となった皇帝の後継者をめぐって一触即発の危機が起きていた。
 そのため、マヒートには大きな期待と何か分からないが「役割」が求められる。
 帝国をめぐる壮大な宮廷劇が幕を開ける

 本作で登場するSFガジェットはつきつめればひとつ。ルスエル・ステーションが開発したイマゴである。過去の記憶と人格を持ったユニットを脳と結線することでホストと統合を果たし、包括した新たな人格として過去の記憶と経験を持つ存在になるという技術である。イマゴのホストとユニット内の最終人格との統合には相性があり、慎重に組み合わせた上で、心理的適合が行なわれるまでの期間、心理的なサポートが必要とされている。
 主人公のマヒートは、前任者のイスカンダーがほとんど帰国してこなかったために15年前のイスカンダーのイマゴを導入された。統合期間をほとんどとれないままに着任のため帝国の艦船に乗ることとなり、心理的にも不安定な状況に置かれていた。しかも、イスカンダーが死んでいることは着任まで知らなかったのである。

 この「過去の記憶と人格を導入する」というのは、SFの分野でも、クローンやAIによる仮想人格を利用して扱われることがある。しかし古くはファンタジーの分野でたとえば魔法使いが師匠の記憶と人格を取り込んだり、あるいは乗っ取られたりというのもよくある話である。
 それに加えて、AIでコントロールされた都市、装着デバイスでのコミュニケーション、コロニーならではの政治体制など未来要素もしっかり加わっている。

 帝国、侵略をおびえる辺境国の大使、帝国の後継争いと陰謀、帝国外の脅威、きらびやかな帝国文化、貴族、上流階級の生活と下層階級の不満、軍人と商人。こんなキーワードを並べ、そこに「魔法使い」要素を取り入れれば、壮大な宮廷の物語となる。ローマ、トルコ、インド、中国、アステカ…。帝国の興亡はまさしく華々しい物語となる。
 宇宙の帝国の物語といえばアシモフの「ファウンデーション」、ハーバートの「デューン」など古典作品も壮大である。最近なら(本書でも解説で語られているが)アン・レッキーの「ラドチ」も捨てがたい。
 本書もまた、宇宙戦闘ではない帝国・宮廷もののスペース・オペラとして歴史に残りそうな作品である。

 作品の魅力は、若き主人公マヒート・ドズマーレとスリー・シーグラスのふたりの正反対のバディの人間関係につきる。マヒートにとってみればあこがれの帝国文化であり本来なら帝国に大使として着任したことに浮かれたいところだが、大使という職責、イスカンダーの死の背景と取り組んでいたことの調査、イマゴというルスエル・ステーションの最大の秘密の存在が守られているのかという疑問、さらには本来統合されるはずだった15年前のイスカンダーの不調というトラブルも抱えている。頼れるのはスリー・シーグラスのみ。スリー・シーグラスは、聡明であるが文化的背景の違う存在、異質な存在に惹かれる傾向をもつ真面目な諜報員といったところ。それゆえ文化案内人として、大使マヒートと帝国の間を大使側に立って仕えるというの職責は願ってもなく、「野蛮人」マヒートのふるまいに驚きながらも、その異質な人間性と同質性に信頼を深めていく。マヒートもまた、スリー・シーグラスの視点や行動にとまどいつつも公正であろうとするシーグラスの人間性に信頼を深めていく。
 宮廷にうごめく陰謀に翻弄されながらも、異質なふたりだからこそ、困難を克服し、帝国最大の危機に立ち向かう姿が物語のおもしろさだ。
 つまり、皇帝や中心的貴族、軍人といったそもそも権力を持つ者たちが主人公なのでなく、辺境の若き大使とその案内役(お目付役)が主人公なところにこの物語の鍵がある。能力や経験があればより高い地位となりうるが、若さと未経験故に「わからない」ことが多すぎる。その「わからなさ」の強調がテイクスカラアン帝国とルスエル・ステーションというふたつの政体の姿を読者に時間を追いながら紹介していくことになる。そういう世界の真の姿が徐々に明らかになるという物語の組み立ては、おもしろい。個人的には大好きな構成だ。

 現代の小説らしく、ジェンダーや社会的公正についていまの世界が求めている価値観が当たり前に描かれている。その辺も読みどころだ。
 続編の翻訳が楽しみだ。