アイヴォリー


IVORY

マイク・レズニック
1988

 邦題として「ある象牙の物語」と副題がつけられている「象牙」の物語である。その象牙とは1898年にタンザニアのザンジバルで競売にかけられ英国自然史博物館の地下倉庫に収められた「キリマンジャロ・エレファント」のことである。この世界に現存している世界最大のアフリカ象の象牙である。
 銀河歴6303年、民間の調査会社ウィルフォード・ブラクストンの調査員ダンカン・ロハスのもとに「最後のマサイ族」ブコバ・マンダカが高額の報酬で私的調査を依頼する。3千年前を最後に手がかりを失ったキリマンジャロ・エレファントの象牙を探し出して欲しいというのだ。「最後のマサイ族」として義務を果たすためにどうしても必要なのだという。
 ダンカンは、対話型コンピュータの検索能力をフルに活かしながら象牙の行方と、その物語を探していく。それは西暦1885年から今日まで続く地球の、銀河系の、人類の、銀河系種族の歴史であり、孤高の象をめぐる旅となった。

 マイク・レズニックはケニアのキクユ族を中心に据えた連作SF「キリンヤガ」を1998年に発表している。「キリンヤガ」では22世紀の地球からテラフォーミングされた小惑星キリンヤガでの物語であった。それより10年前に書かれた本書「アイヴォリー」はダンカンが調査し、コンピュータが探し出した物語として19世紀から銀河歴6300年(銀河歴は30世紀に制定)の7000年に渡る物語である。
 象牙は巨大な孤高の象の力の象徴であり、あるものにとっては権威、あるものにとっては政争の材料、あるものにとっては芸術の鍵、あるものにとっては盗むべきお宝、あるものにとっては戦争の口実、あるものにとっては苦しみの根源となる。

 さらに本書を読むにあたってはふたつの要素が見逃せない。
 ひとつは「象牙」である。「象牙」は主に東アジアにとっては権威の象徴であり、日本では印鑑の材料として使われている。象牙の取引が原則禁止されているが「持続可能な合法的取引」はいまだ認められている。
 そして、アフリカ象の密猟は止んでいない。
 アフリカ象に限らず、人類は種の保存を言いながらも、大量絶滅を招き続けている。そうして、絶滅が避けられなくなると「保護」を言い出す。
 本書「アイヴォリー」で、人類の故郷である地球に脊椎動物はほぼいない。陸上で見られる大きさの動物といえば昆虫ぐらいである。人類が絶滅を招いたのだ。
 そして、他の惑星でも現住の生物たちは滅ぼされていく。

 もうひとつは「マサイ族」である。今日では「マーサイ族」と表現されるアフリカの民族であり、遊牧民として知られる。
 作者のマイク・レズニックはアフリカの歴史や文化に造詣が深く、それをモチーフにした作品をいくつも出している。本書もそのひとつであるし、そこに差別的要素はない。マサイ族は現在も国境を持たず定住を求めぬ伝統的な生き方をしている人たちも多いと聞く。一方で都市型の生き方を選択した人たちもいるようである。
 伝統的な生き方の中には、現代の人類社会の価値観とは相容れないものもある。そういった相克はいまも、これからも起きるであろう。それは個人と生まれ育った社会との間の問題であり、可能性の問題でもある。
 本書「アイヴォリー」のなかでも、この問題は物語全体の基層となって流れており、それが結末まで続く。
 ひとことで答えを出せる問題ではない。

 本書の物語は壮大であり、他のいくつかの作品と未来史(宇宙史)を共有するものとなっている。第一にエンターテイメント作品であり、そのところどころに考える材料が転がっている、そう思うことにしている。

 2023年、最初に読んだSFであり本であった。「新しい戦前」なんていう言葉が世に放たれた年でもある。新型コロナウイルス感染症パンデミックは勢いを収めていない。大国ロシアは旧ソヴィエト連邦のひとつウクライナへの侵攻を続けており、それが第三次世界大戦の口火とならないことを祈るだけである。
 21世紀、まだ宇宙世紀ではない。

レイヴンの奸計

RAVEN STRATAGEM

ユーン・ハ・リー
2017

ナイン・フォックスの覚醒」の続編である。原題を直訳すると「カラスの戦略」とか「カラスの奸計」といった感じにもなる。
 この世界は「暦法」によって数理、物理法則が決まる。この「暦法」こそが世界秩序の源泉となっている。小さな民族は違う暦法を使っていても大きな世界に影響を与えないが、世界は星間専制国家六連合によって支配されており、その暦法こそが主流である。しかし、六連合の世界に接する異世界では異なる暦法が使われており、それは六連合にとっては「異端」である。異端の暦法が拡がれば世界のあり方は変わる。世界の争いは、自らの暦法を守る闘いでもある。
 グレッグ・イーガンの「シルトの梯子」みたいなものだが、イーガンはハードSFとして描き、リーはスペースオペラとして描いている。作者のユーン・ハ・リーもイーガンと同様数学を大学で専攻した人であるが、イーガンとは異なるファンタジックな世界をうまく描いている。前作「ナイン・フォックスの覚醒」はその世界を説明するのに難解さがどうしてもつきまとい、またスペースオペラというよりはミリタリーSFであったが、本作では「スペースオペラ」といえるようなスケール感を醸し出している。

 ところで、原題がどういう意味かつかみかねていたので、「カラス 数学」で検索してみると「ヘンペルのカラス」なるものが出てきた。「カラスのパラドックス」とも呼ばれる「帰納法の問題」のことであるという。
 「すべて」のカラスは黒い
 という命題の証明にかかわり、命題「AならばBである」の対偶「BでないものはAでない」の真偽と同値であるから、
「すべて」の黒くないものはカラスでない
 を証明すればよい。しかし…、
 ということで、調べてください。

 さて、本作にはカラスは出てこない。しかし、華々しい宇宙ドラマの背景につきまとう帰納法的な疑問。前作の主人公アジュエン・チェリスと、チェリスを錨体としてチェリスに人格を憑依させ、その後チェリスの人格を完全に乗っ取ったシュオス・ジェダオが物語の中心にいる。チェリスの肉体をもったジェダオの精神である。
 ジェダオに指揮権を乗っ取られた宇宙戦闘軍団の司令官キルエヴ、その参謀であったがジェダオの指揮権に従えなかった故に逃げ出したブレザン、それに六連合のリーダーと補佐官たち。物語を展開するのは彼らであり、実は主人公たるジェダオ=チェリスの意図は最後になるまで見えてこない。みなひたすらジェダオの意図を図りかね、その周囲で動くしかないのである。
 ジェダオならば敵である。ジェダオならば大量殺戮する。ジェダオならば…。
 誰も真実を見極めることはできない。

 物語としては、前作よりファンタジー&魔法感が薄れ、人間関係が権力、親族、恋愛など複雑にからみあっていく。また、戦闘もより分かりやすくなっており、前作を読み通してさえいれば読みやすい。
 読後感は、爽快とはいかないが、とても21世紀的だ。
 とくに死生観、ジェンダーの多様性の表現などは、単なるエンターテイメント作品とはいえない深みがある。
 第三部、どうなるのか? 翻訳されるのか? それから読み直してみたい。
 それにしても、SFが高度になってきているのを感じる。
 巻末の大森望さんの解説がとてもよい。読み終えて良かったという気持ちにさせてくれる。すぐれた解説者、万歳!である。

TVアニメ まんが日本史

 1983年~84年にかけて日本テレビ系で放映された全52話のテレビアニメ。日本の旧石器時代からはじまり明治時代の入口までを紹介するアニメーションである。アニメとしては声優は豪華だが絵作りや効果音などは低予算が否めない。各時代ごとのエピソードを主に時の権力者に焦点をあて、ときどき文化や民衆の暮らしなども織り交ぜながら日本の歴史を駆け足で描いた作品である。
 エンディングには現代に戻って裕子おねえさんが男の子と女の子の兄妹にちょっとした解説や兄妹からの質問に答える形でまとめをしている。その後、同時代の世界史から主に中国、ヨーロッパ、中東から南アジアのエピソードを2つぐらい紹介する構成となっている。
 wikiなどによると、2014年にHDリマスターされ、その際に、一部の史実的な補足、修正をナレーションや画面で行なっているという。しかし、ほとんどは制作当時のままとみられる。
 日本史の勉強としてはざっくりしたものだし、デフォルメもされているので、そのままを受け止めることはできないけれど、歴史の復習や日本史のおおまかな流れを把握するにはよい学習漫画であった。
 なにより楽しかったのは裕子おねえさん無双である。教科書的な本筋の日本史は権力者が権力につき、やがて別の権力者に代わることを描くわけだが、まあみごとなほどに「権力を握るものは権力にとりつかれる」ことについて時の権力者が登場し、なにかことを起こすたびに、それを一言で切りまくり、結局、農民をはじめとする「民(たみ)」が苦しむということを、アニメの無表情な絵柄で他人事のように語るのである。
 その一言が聞きたくて最後まで見てしまった。

 このアニメは日本テレビ系で地上波放送されたようだが、当時はバブル経済初期、第一次中曽根政権のころである。それまでの日本の総理大臣と違って、「大統領的」な総理大臣と言われ、行政改革、民間活力、アメリカとの軍事関係などに力を振るっていた時代である。ジャパンアズナンバーワンの時代である。そのような中で、このアニメでは、繰り返し「権力を持ったものは、最初はどんなに善い動機であっても、それに固執し、腐敗し、人々を苦しめる」ことを表現するのである。
 果たしていま同じように日本史をアニメーションでやったらどうなるだろうか?
 長引く不況と政治経済の面で国際的な地位の低下が起きている中で、メディアには「日本はすごい」論調があふれ、ナショナリズムが高まっているいま、同じように日本史を語ることができるだろうか。
 そういう感慨にかられてしまうほどに裕子おねえさん無双は強烈だった。
 ちなみに裕子おねえさんの声は、杉山佳寿子さんである。

ロボット・イン・ザ・ガーデン

A ROBOT IN THE GARDEN

デボラ・インストール
2015

「庭にロボットがいる」妻が言った。
 この一文からはじまるのが本書「ロボット・イン・ザ・ガーデン」である。直訳である。
 その通り、ある日若い夫婦の家の庭にロボットが座っていた。
 よくいる家庭用のアンドロイドではない「ロボット」だ。アンドロイドとロボットの定義を議論し始めたらきりはないが、この世界では家庭用ならば掃除、食事、子供の送迎までできたりする人型ロボットを「アンドロイド」と呼び、とても人型と言えないロボットを「ロボット」と呼ぶ。そして、庭にいるのはおんぼろのロボットだった。
 ロボットを最初に見つけた「妻」はエイミー・チェンバーズ、法廷弁護士である。そして、この家の所有者であり現在無職の夫が主人公のベン・チェンバーズである。両親を事故でなくし、姉で妻と同じく弁護士のブライオニーと遺産を分け合い、家もあり、財産もそこそこあるので働かなくても暮らすことはできるし、仕事も慌てることはないとちょっと引きこもり状態の男である。
 エイミーが言外に言ったのは「庭の(薄汚い)ロボットをなんとかしろ」である。エイミーはちょっと見栄っ張りなのだ。しかたなくベンはロボットに話しかける。
 それが物語の始まり。

 知能は備わっているらしい。そして所有者の痕跡もある。さらに胸部には黄色い液体の入った瓶がついていて、ひびが入っている。どうやってここに来たのか、そして、修理はできるのか、片言の会話を続けるうちにベンはロボットが気になるようになる。もしかするとこの液体がなくなるとロボットは死んでしまうのかも知れない。心配になる。
 一方のエイミーはそれも含めてベンにほとほと愛想が尽き、家を出てしまう。
 ベンはロボット、自称アグリッド・タングを連れて、製造元や元の所有者を探して旅に出ることにした。

 という物語。大人のジュブナイルである。
 SFであるがファンタジーでもある。
 ヤングアダルトの成長譚といってもいい。
 なんなら迷子で記憶喪失の少年を連れたロードムービー的なストーリーと言ってもいい。

 読みながら、ずっと子供の頃に読んでいた絵本「ぽんこつロボット」(古田足日絵・田畑精一文)を思い出していた。こちらはガラクタロボットを少年がつくる話だが、やはり旅をするのだ。
 青少年と壊れかけのロボットには旅をさせるとよいのだ。
 そういえばまだ見ていないけれど、映画「ロン 僕のぽんこつ・ボット Ron’s Gone Wrong」(2011)というのもあるな。こちらはどうなのだろう。

 そして、旅というのは生きて帰りし物語というのが筋が良いとされている。
 ぽんこつロボット・タングの運命は。そして、ベンは大人として成長することができるのか? 刮目して見よ。

 続編も翻訳されているらしい。

三体X 観想之宙

THE REDEMPTION OF TIME

リ・ジュン
2011

 人間の世界は不思議と偶然と必然と熱意に満ちている。リウ・ツーシンの「三体」の公式二次創作作品である。もちろん「公式」になったのは発表された後、出版が検討されてからのことである。著者リ・ジュンは1980年生まれ。「三体Ⅲ 死神永生」が中国で出版された2010年10月にベルギーの大学院留学中だったが、友人が全ページを画像にしてメールで送ってくれたという。SFファン同士、ネットで語り合いながら、読了2日後には二次創作を執筆することを決意したというのだ。そしてすぐにネットで発表した作品はオリジナル発表後1週間後にはすでに多くの読者を魅了し、3週間後のクリスマスイブの夜には本書の元となる物語を書き終えたという。
 本書は「三体」では語られなかったいくつかの「謎」や「顛末」について無数にある可能性のひとつを提示する作品である。リ・ジュンも書いている通り、「三体」の二次創作はたくさんあるが、これほど注目を集めた作品はない。内容もタイミングも最適だったのだろう。そして、オリジナル著者であるリウ・ツーシンの許可を得て出版されることになった。英訳され、日本でもオリジナル作品と同じ体制で翻訳されるに至る。
 それだけでもすごいことである。
 そして、本書をきっかけにSF作家としての道を歩むことになる。

 若い作者であり、英米のSFにも造詣が深いSFファンでもある。それゆえの遊びや大胆な表現もあって、「三体」とは違った印象を受けるところもあるが、総じて「なるほどね、そういうことだったのか」となかば強引ながらも納得いく展開を見せてくれる。
 だいたい書き始めが(日本語訳だけど)
「むかしむかし、もうひとつの銀河で…」なのである。
 もう、これだけで読むしかないじゃないか。

 作品はプロローグなども合わせると6部からなっている。
 プロローグ
 第一部 時の内側の過去
 第二部 茶の湯会談
 第三部 天萼
 終章(コーダ) プロヴァンス
 コーダ以後 新宇宙に関するノート

 である。登場人物のほとんどは「三体Ⅲ」の主人公たち。
 第一部は雲天明とアイAAの物語。
 第二部は雲天明と智子の物語。
 第三部以降は内緒。
 だけど、最後の「コーダ以後」のタイトル裏に書かれている引用文だけは紹介しておこう。
伝説が終わり、歴史が始まる。 –田中芳樹『銀河英雄伝説』

 ロマンあふれる宇宙史である。
 そうそう、もうひとつ、これもネタバレになるのでヒントだけ。
 私たちの宇宙の現実に存在している日本人がひとり登場します。思わぬ形で。
 二次創作なんだから遊び心溢れていいんです。

 そして、忘れてはいけないのは「二次創作」の答えはひとつではないということ。
 実際に公式出版されるのはこのようにごくごくわずかだし、それ以外だとプロによる「シェアワールド」としての二次創作になってしまうけれど、ひとつの世界が提示され、そこに二次創作という形での無数の枝分かれする世界が登場することは決して悪いことではない。オリジナルはすべてだけれど、二次創作は無限の可能性を持つ。
 それは、新たな創造のきっかけにもなるのである。
 すくなくともオリジナルを尊重し、貶めず、その世界観を共有しうる作品である限り、二次創作は(もちろん、それで利益を得るのならば著作権者の権利が守られることは言うまでもなく)想像の世界を広げるのである。
 たとえあなたや私の頭の中にしか存在しないものであっても。

リウ・ツーシンの「三体」感想はこちら

太陽系辺境空域

TALES OF KNOWN SPACE

ラリイ・ニーヴン
1975

 ニーヴンのノウンスペースものに位置づけられている短編集。ニーヴンのプロ第1作から収録されている。巻末には「リングワールド」までの年表もついており、いくつかの作品にはニーヴンによる解説?言い訳?ひとこと?もついている。
 この作品集はニーヴン自身がまとめたもので、1964年発表作品から1975年発表作までがノウンスペースの年代順に編集されている。
 年表によると、この短編集には1975年、2000年、2100年、2300年、2600年、2800年、3100年の物語が掲載されており、いくつかの短編は他の長編の外伝的エピソードにもなっている。
 作者自身も書いているが、古い作品には太陽系の科学的知識からみて間違っている、古いものもある。書いているそばから新たな発見があり否定されたりもしている。それだけではなく、社会的に21世紀の今日において許されない差別的表現もある。本書が出された時期には許されていたとしても、今日において一部の作品はそのままでの再版は難しいだろう。古い作品には、後の価値観の変化、進化によって作品自体が否定されるべきものもある。そのような作品は、「価値観が変化している」ことを理解できる読者でなければ間違った理解を与えるものになりかねない。注釈をいれるという方法もあるが、扱いには注意が必要だろう。
 古い作品を読むときの、古い作品を紹介するときのちょっとした難しさだ。

 それから、本短編集はノウンスペースの長編を一通り読んでから読んだ方がおもしろいかもかも。

いちばん寒い場所…水星の話。人間であるエリックの脳が収納されている宇宙船とハーウィーのお話。古い水星は自転していなかったりする。

地獄で立ち往生…金星の話。エリックとハーウィーが熱い金星で。

待ちぼうけ…冥王星の話。古い水星と並んで寒い冥王星には。

並行進化…火星の火星人の話。「プロテクター」に直接つながっていく。

英雄たちの死…こちらも火星の火星人話。本作品は差別的表現にあふれているので注意が必要。火星の基地にいるジョン・カーターが出てくるあたりはパロディなのだが。

ジグソー・マン…21世紀終わり、いまだ地球では長命のための臓器銀行が欠かせず、そのためには死刑となる罪人が必要不可欠だった。いま、ワレン・ルイス・ノウルズは監房で死刑判決を待つ身となっていた。

穴の底の記録…地球人(フラットランダー)のルーカス・ガーナーが小惑星帯人(ベルター)を訪ねた。2112年、地球(国連)が所有する火星にベルターがひとり不時着を余儀なくされ、古く放棄された基地(英雄たちの死で登場した基地)に向かい、そして火星人と出会うことになる。その記録をみるために。

詐欺計画罪…ルーカス・ガーナーは174歳になっていた。レストランでロボット給仕のサービスを受けようとしていた。そして連れの若い部下に対してロボット給仕をめぐるはるか昔のひとつの事件を話し始めたのだった。

無政府公園にて…アメリカの交通の象徴であるフリー・ウェイはもはや本来の目的では使われていない。すべてフリー・パークとなっていた。「暴力禁止」それ以外はなにをやっても自由。それがフリー・パーク。そして、それを担保しているのは警察本部と無線でつながる無数のドローン。カメラと音波銃を備えている。いま、フリー・パークで事件が起きた。無秩序の誕生である。

戦士たち…クジン族との出会い。冥王星から植民星ウイ・メイド・イット星までの中間で宇宙船エンゼルズ・ペンシル号は異星船と遭遇した。平和的な接触を信じて疑わない人類、はなから侵略以外考えていないクジン族。ジム・デイヴィズは学ぶのだった。

太陽系辺境空域…べーオウルフ・シェイファーが主人公の5番目の物語。高重力のジンクス星でルイス・ウーの父親カルロス・ウーと再開する。そして宇宙船失踪事件について異星局のジグムント・アウスファウラーの依頼を受けて太陽系へ向かう偽装船に乗り込むのであった。

退き潮…2830年ごろ、太陽から約40光年の世界に180歳のルイス・ウーがたまたま立ち寄った。15億年前に銀河系内の知性種族をほぼ一掃した戦争において一方の側であるスレイヴァー側は時間の経過を止めるステイシス・ボックスに貴重品を入れて未来に備えた。特別に大きなステイシス・ボックスを見つけたルイス・ウー。しかし同時に別の異星人も同じステイシス・ボックスを見つけたのであった。どちらも譲る気はない。そして…。

安全欠陥車…3100年。「強運」のティーラ・ブラウン遺伝子が拡がった人類世界は黄金時代にあった。開発途中の植民星マーグレイブで起きた自動車事故のちょっとした顛末。

 簡単に紹介すると以上のような感じである。「プロテクター」でも感じたが、重力井戸の底である地球人(フラットランダー)と、小惑星帯をベースに太陽系外にまで進出しようとするベルター(小惑星帯人)との対立構図は、後のアニメ「機動戦士ガンダム」にも通じるところがある。また、最近では小説・ドラマとなった「エクスパンス」でも地球人とベルターの考え方の違いなどが焦点になっていたりする。そういう点ではニーヴンの目の付け所はさすがである。
 また、最初の2作は1964年のデビュー作で「生きた脳の宇宙船」が登場しているが、アン・マキャフリイが「歌う船」を発表したのが1961年だから、こちらはマキャフリイをインスパイアしたものか、それともはやっていたのか。
 いずれにしても、SF大好きニーヴンらしい作品集である。

プロテクター

ラリイ・ニーヴン
1973

 ノウンスペース・シリーズの1冊。「フスツポク」「ヴァンダーヴェッケン」「プロテクター」の3章からなる長編である。ノウンスペースといえば「リングワールド」につきるのだが、本書「プロテクター」にはちょっとした思い入れがある。初版が翻訳されのは1979年で、たぶん高校生になった頃に本書を読んでいる。若干難解だったので、読後感はさほどでもなく社会人になってから一度手放したのだが、表紙の記憶は鮮明で、いつか読み直したいと思っていた。還暦間近になって、ようやくプロテクターの魅力が分かってきたのだ。
 ノウンスペース・シリーズはニーヴンの未来史シリーズで、その名の通り「既知宇宙」をベースにしたドラマである。本書はその初期にあたる時期、人類がはじめてアウトサイダー、すなわち地球外の高度に科学力を持った知的生命体と遭遇する物語を描いている。
 実はニーヴンのノウンスペースは太陽系からはじまるのだが、古い科学知識や未知の情報をもとにしながら古典SFにも触発されつつ描かれているため、初期の作品群には古さもある。ニーヴン自身もそれは認めていて、書き直してもややこしくなるだけだからそのままにしてある。たとえば、火星には火星人がいて、人型をしており、かつては科学文明をもっていたようだがすっかり退行してしまっており、なおかつ、水と反応して燃えてしまうという性質を持つ。どう考えても古いSFになってしまうので、この長編「プロテクター」で火星人は払拭されてしまうのだ。

 さて、はじまりは太陽系のベルター。小惑星帯に生きる人たちのことである。ベルターは太陽系内の資源を探索し、居住エリアを増やし、将来より広い宇宙に出ることと、おそらく最初にアウトサイダーに遭遇することを思いながら、人類の未来を切り開いていた。すでに人類は太陽系外のいくつかの星系で入植を果たしており、それぞれが自立の道も模索していたが、まだ人類の中心はあくまでも太陽系だったのだ。
 さてベルターのひとり、資源収集家のジャック・ブレナンが太陽系に入ってきたアウトサイダーにもっとも近いところを航行していた。このアウトサイダーこそ銀河の中心エリアに近いパク星系から来たパク人の名前をフスツポクというプロテクターであった。プロテクターとはパク人の最終形態でもっとも知性が高く、自分の若い血縁族の保護者である。そして、血縁族をもたないプロテクターは生きる目標を他に持たなければ食欲を失い死んでしまう存在である。フスツポクは、かつてパク星を飛び出していった過去の歴史を調べ、記録から宇宙船を復活させ、その航跡を追って太陽系までたどり着いたのである。
 そしていま近づいてきたベルターの船に乗っていたジャック・ブレナンをとらえ火星に進路を取った…。
 一方、地球の長命人であり、かつてARM(国際連合警察)のトップのひとりだったルーカス・ガーナーは、ベルターのリーダーのひとりニコラス(ニック)・ブルウスター・ソールからアウトサイダーの動向と国連が管理している火星への進入許可を求められ、高速の宇宙船を提供しともに火星に向かうことにした。地球人にとっても、ベルターにとっても、いや人類すべてにとってアウトサイダーとの接触は大事件なのだから。

 最初の接触のあった2120年ごろから約220年が過ぎた。フスツポクは死にそのアウトサイダーの宇宙船には捉えられたはずのジャック・ブレナンが乗って太陽系をふたたび離れ、目的地とみられた人類の植民星ヴンダーランドにも寄らずさらに遠くまで旅を続けているのが確認されていた。
 この2世紀で、植民星のジンクス星、プラトー星、ヴンダーランド星、ウィ・メイド・イット星、ホーム星はそれぞれ紆余曲折はありながら人口を増やし独自の発展を遂げていた。小惑星帯も地球もまた平穏な時期を迎えていた。
 そんな2340年にふたたびプロテクターをめぐる事件が地球を起点に動き出す。それはエルロイ(ロイ)・トルーズデイルの身に起きた不思議な出来事である。地球の自然公園で山登りをしていたはずが目が覚めると4カ月が過ぎ、記憶もないままに自分の声で録音されたテープにメッセージが残っていたのである。それは、全人類とパク人をまきこむ大きな歴史の幕開けでもあった。

 これ以上は書かないし、書けない。読むしかない。
 ただ、プロテクターと人類の関係についてはネタバレになるが、ちょっとネットをたぐれば読んでなくてもいろいろ出てくるので少しだけ解説しておく。
 パク人は、生まれて青年期までは事実上知能をほぼ持たない。青年期に繁殖し、繁殖期が終わると第三の成長期を迎え、ある種の植物を節食することでプロテクターになっていく。身体の節々にメロンのようなこぶができ、皮膚は硬化し、性器は失われ、知能は急速に向上し、そして、自分の血族、子孫を保護し守ろうという本能的な意識にとりつかれる。
 それは人類からみるとまるで老人そのもののようであった。
 そして、人類とは、パク人の亜種であり、おそらくかつてパク人が太陽系に入植したあと、プロテクターになるための植物が育たず、プロテクターを失ったあとになんとか生き残った若いパク人たちが幼生成長することで進化した結果生まれた存在だったのである。
 つまり、人類の老化とはプロテクターになろうにもなれなかった姿なのだ。

 そう、いま、私はプロテクターのなりそこねになりかかっている。すなわち老化だ。
 これを初めて読んだ頃は、第二次性徴の終わり頃、青年期にさしかかっていた。
 そして40数年後のいま、私は老化をはじめている。
 プロテクターにはなれないし、なろうとも思わないが、視点が変わっていく。
 諸君、時は確実に過ぎていくのだ。
 この先に、いつになるか分からないが死が訪れる。
 その前に、老化は進む。理解力は落ちる、読むことが辛くなる。
 その前に、それより前に、1冊でも多くの本を読みたいものだ。それが再読であっても。

映画 エスパイ

1974

 小松左京原作、福田純監督の日本映画である。日本SF界の巨人・小松左京が1964年から「週刊漫画サンデー」で連載した作品を原作にしている。
 wikiによると本作は山口百恵初主演映画「伊豆の踊子」の併映作品だったらしい。この当時、映画と言えば2本立て。併映は当たり前だった。考えてみればすごい話である「伊豆の踊子」とSFアクション映画「エスパイ」の併映。「伊豆の踊子」といえば、山口百恵三浦友和が初のコンビとなった映画である。wikiをみるといろいろいきさつはあるようだが、今考えるとすごい2本立てである。
 だって、「エスパイ」の方は、藤岡弘、由美かおる、草刈正雄が主役級、さらに加山雄三や若山富三郎まで出てる。藤岡弘は「仮面ライダー」が終わった頃。由美かおるはアクションもでき、ヌードシーンもやりはじめた頃。一方、草刈正雄は俳優に転向したばかりの頃で同年に東宝専属になったばかりの頃であった。それに、山口百恵と三浦友和だよ。最高じゃないか。
 当時この2本立てを見た人は、両作品の若い俳優たちのその後の活躍ぶりを見て、とてもいい思い出になったのではなかろうか。

 さて「エスパイ」とはエスパーのスパイ、超能力を持った秘密工作員の名称である。国際機関に属しその日本支部に藤岡弘や由美かおるがおり、テストドライバーをしていた草刈正雄の特殊能力をみて、日本支部のメンバーに加えたところから物語ははじまる。
 第二次世界大戦後、世界は冷戦下にあった。米ソ対立は各地に代理戦争にような紛争や緊張が生まれている。いま、東欧のバルトニアが世界大戦勃発の鍵を握っていた。国連の調停委員会は国際列車の中で逆エスパイのスナイパーに暗殺されてしまう。アメリカとバルトニア首相の会談が戦争回避には欠かせない。ソ連もこの会合を支持しているが、逆エスパイ組織はバルトニア首相の暗殺を試みる。果たしてエスパイの3人はこの危機を回避できるのか? そして、逆エスパイ組織とは、その真の目的は?
 ヨーロッパの国際特急、トルコ・イスタンブールなど、海外ロケも充実。とくにイスタンブールの往年の風景は1990年に行った頃とあまり変わっていなくてちょっと懐かしい感じがして個人的には嬉しかった。

 東宝は前年に小松左京の「日本沈没」で当てているのだが、本作は超能力ものということもあり、その表現には苦労が多かったようで、相当なB級映画感がただよう。ストーリーも予算と時間の枠に収めるための無理矢理感が強い。そういう映画ってあるよね。
 でも、草刈正雄と藤岡弘は足が長くて存在感があり、由美かおるはそれに負けていない。
立ち居振る舞いがかっこいい3人なのだ。まるでマンガみたい。
 なかでも、草刈正雄はしゅっとしていて、影があって、熱い男・藤岡弘と対照的にクールで、このひとと松田優作を並べた映画があればよかったのに、と思う。
 そして、化繊のパンタロンが由美かおるには実に似合うのだった。
 話がそれたが、この若き3人のふるまいを見るだけでも価値はある。

映画 リトル・ショップ・オブ・ホラーズ

1960
The Little Shop of Horrors

 1986年、映画「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」が公開される。日本での公開は翌1987年。日本ではバブル経済のまっただ中、カルト映画やB級ホラー映画はサブカルチャーブームの一翼として人気を博していた。映画「ロッキー・ホラー・ショー」でカルトムービーのおもしろさを知った私は、その流れでこの映画をみることになる。
 1986年版の映画は、1982年から上演されたミュージカルの映画化であった。しかし私は知らなかったのだ。このミュージカルにもオリジナルがあったということを。
 それが、この1960年版映画「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」である。白黒フィルムで撮影されたB級ホラー映画。日本では未公開。ロジャー・コーマン監督作品。現在はパブリックドメインになっているそうだ。そこで、21世紀の「サブスクリプション配信サービス」に乗りやすいのだろう。コストかかんないしね。
 wikiなどによると撮影期間2日間だったらしい。もっとも造形のための制作準備には結構時間はかかっていると思うが、これはまったくのオリジナル脚本だったのだろうか。
 それがのちにミュージカル作品になり、映画化され、その映画をもとにミュージカルの内容も変わり、アメリカでも日本でも定番のミュージカル作品になっていくなんて。
 すごいことじゃないか。

 ストーリーは、B級ホラーだけあってどたばたコメディ基調。売れない花屋の店主マシュニク氏のもとで店員としてやとわれている、相当ドジなシーモア君。今日もマシュニク氏に怒られている。シーモア君はマシュニク氏の娘オードリーに憧れていて、なのにマシュニク氏から店に役立たないと首にすると言われてしまう。
 シーモア君、お家では薬物&病院マニアの母と二人暮らし。楽しみは食虫植物の変異種を育てることぐらい。オードリージュニアと名付けたそれを花屋に持参し、これで人集めになるのではと期待する。しかし、元気のないオードリージュニア、これを生き生きとさせたら考えるという店主。考えたけど、水も、肥料もたっぷりやっている。どうすればいいんだろう。ドジなシーモア君はいろいろするうちに手を切ってしまう。血がオードリージュニアにたらり。するととたんに元気になる植物。指を次々に切っては育てていくシーモア君。ある日ついに血が足りなくなった。するとオードリージュニアは「腹が減った!何か食わせろ!」と言葉をしゃべり、シーモア君を脅すのだった…。

 ということで、舞台は花屋、町、花屋の常連客の歯医者の病院、シーモア君のおうち、レストラン、あとは警察ぐらい。造形は次々に成長していく怪奇植物オードリージュニア。登場人物もそれほど多くない。それなのに展開がいいのでおもしろい。ドタバタコメディホラー映画なのだ。
 まるで「8時だよ全員集合」でのドリフターズのシチュエーションコントをみているかのよう。
 しかし、この映画を見て、20年後にミュージカルにしようとした人はすごいと思う。
 そして、そのミュージカルを映画にした人たちも(具体的にはスターウォーズのヨーダ様ことフランク・オズ監督なのだが)。
 機会があったらぜひ見て欲しい。意外とおもしろいよ。

映画 宇宙戦争

1953
The War of the Worlds

 なんといっても「宇宙戦争」である。H・G・ウェルズである。「宇宙戦争」といえば1938年のアメリカでオーソン・ウェルズのラジオドラマが放送され、「火星人襲来」を事実と信じてパニックが発生したという話は1970年代の子供たちはみんな知っていた。少年誌などでくり返されたネタだから。でも、実際にはパニックそのものはなくて「パニックが起きた」という虚報がオーソン・ウェルズを名(声)優として世に知らしめるきっかけになり、そして、たとえば日本ではオーソン・ウェルズの英語教材が新聞広告通販でくり返し宣伝されることになったのだった。
 H・G・ウェルズの原作は1898年に発表されている。19世紀の終わりなのだ。しかし、その後繰り返し映画化やパロディ作品、三本足の機械兵器などをモチーフにした作品など、本作の影響は計り知れない。古典中の古典なのである。

 この原作をベースに1953年カラー映画化されたのが本作「宇宙戦争」である。日本では1970年代から何度となく吹き替え版が放映されている。だっておもしろいもん。
 特撮映画としては群を抜いてよくできている。1953年。日本で本格的な特撮によるSFや怪獣映画となると翌年のモノクロ映画ゴジラが最初であろう。そういう時期的なことを考えると本作の仕上がりはすごいとしか言い様がない。アカデミー賞の特殊効果賞や編集賞、録音賞をとっていたり、SF界では輝けるヒューゴー賞の映像部門賞をとっているのもうなづける話である。

 監督バイロン・ハスキン、製作ジョージ・パル。ジョージ・パルは「地球最後の日」の制作もしており、ほかにも「月世界征服」「宇宙征服」「タイムマシン」などSF映画史に残る映画プロデューサーである。

 さて、本作の舞台は20世紀第二次世界大戦後のアメリカ。テレビ放送も原爆もある冷戦下の現実を反映したアメリカである。カリフォルニアに隕石が落下、その隕石は実は火星人の侵略宇宙船で、中から空飛ぶ戦闘兵器が登場する。時同じくして世界中の都市に戦闘兵器が舞い降り、殺戮をくり返していく。原爆を使っても殺戮兵器1つ壊せない無力感が漂う。果たして人類は生き残るとができるのか。そして、人類を救ったものとは…。
 主人公はたまたまカリフォルニアに釣りに来ていた科学研究所のクレイトン・フォレスター博士と、コリンズ牧師に育てられ研究者として大学に通うシルヴィア・ヴァン・ビューレン嬢。ふたりの出会いからの活躍も見逃せないぞ。
 本作で特筆すべきは、原作の三本足の機械兵器を光の三原色のカメラアイ兼光線発射装置を持つ空飛ぶ円盤型機械兵器に変更したことである。人より少しだけ大きいサイズにすることで静かにしのびよることもできる恐怖感を煽ることに成功している。このあたりが映画を映画としておもしろくしたポイントだろう。
 今見てもおもしろいぞ。