三体X 観想之宙

THE REDEMPTION OF TIME

リ・ジュン
2011

 人間の世界は不思議と偶然と必然と熱意に満ちている。リウ・ツーシンの「三体」の公式二次創作作品である。もちろん「公式」になったのは発表された後、出版が検討されてからのことである。著者リ・ジュンは1980年生まれ。「三体Ⅲ 死神永生」が中国で出版された2010年10月にベルギーの大学院留学中だったが、友人が全ページを画像にしてメールで送ってくれたという。SFファン同士、ネットで語り合いながら、読了2日後には二次創作を執筆することを決意したというのだ。そしてすぐにネットで発表した作品はオリジナル発表後1週間後にはすでに多くの読者を魅了し、3週間後のクリスマスイブの夜には本書の元となる物語を書き終えたという。
 本書は「三体」では語られなかったいくつかの「謎」や「顛末」について無数にある可能性のひとつを提示する作品である。リ・ジュンも書いている通り、「三体」の二次創作はたくさんあるが、これほど注目を集めた作品はない。内容もタイミングも最適だったのだろう。そして、オリジナル著者であるリウ・ツーシンの許可を得て出版されることになった。英訳され、日本でもオリジナル作品と同じ体制で翻訳されるに至る。
 それだけでもすごいことである。
 そして、本書をきっかけにSF作家としての道を歩むことになる。

 若い作者であり、英米のSFにも造詣が深いSFファンでもある。それゆえの遊びや大胆な表現もあって、「三体」とは違った印象を受けるところもあるが、総じて「なるほどね、そういうことだったのか」となかば強引ながらも納得いく展開を見せてくれる。
 だいたい書き始めが(日本語訳だけど)
「むかしむかし、もうひとつの銀河で…」なのである。
 もう、これだけで読むしかないじゃないか。

 作品はプロローグなども合わせると6部からなっている。
 プロローグ
 第一部 時の内側の過去
 第二部 茶の湯会談
 第三部 天萼
 終章(コーダ) プロヴァンス
 コーダ以後 新宇宙に関するノート

 である。登場人物のほとんどは「三体Ⅲ」の主人公たち。
 第一部は雲天明とアイAAの物語。
 第二部は雲天明と智子の物語。
 第三部以降は内緒。
 だけど、最後の「コーダ以後」のタイトル裏に書かれている引用文だけは紹介しておこう。
伝説が終わり、歴史が始まる。 –田中芳樹『銀河英雄伝説』

 ロマンあふれる宇宙史である。
 そうそう、もうひとつ、これもネタバレになるのでヒントだけ。
 私たちの宇宙の現実に存在している日本人がひとり登場します。思わぬ形で。
 二次創作なんだから遊び心溢れていいんです。

 そして、忘れてはいけないのは「二次創作」の答えはひとつではないということ。
 実際に公式出版されるのはこのようにごくごくわずかだし、それ以外だとプロによる「シェアワールド」としての二次創作になってしまうけれど、ひとつの世界が提示され、そこに二次創作という形での無数の枝分かれする世界が登場することは決して悪いことではない。オリジナルはすべてだけれど、二次創作は無限の可能性を持つ。
 それは、新たな創造のきっかけにもなるのである。
 すくなくともオリジナルを尊重し、貶めず、その世界観を共有しうる作品である限り、二次創作は(もちろん、それで利益を得るのならば著作権者の権利が守られることは言うまでもなく)想像の世界を広げるのである。
 たとえあなたや私の頭の中にしか存在しないものであっても。

リウ・ツーシンの「三体」感想はこちら

太陽系辺境空域

TALES OF KNOWN SPACE

ラリイ・ニーヴン
1975

 ニーヴンのノウンスペースものに位置づけられている短編集。ニーヴンのプロ第1作から収録されている。巻末には「リングワールド」までの年表もついており、いくつかの作品にはニーヴンによる解説?言い訳?ひとこと?もついている。
 この作品集はニーヴン自身がまとめたもので、1964年発表作品から1975年発表作までがノウンスペースの年代順に編集されている。
 年表によると、この短編集には1975年、2000年、2100年、2300年、2600年、2800年、3100年の物語が掲載されており、いくつかの短編は他の長編の外伝的エピソードにもなっている。
 作者自身も書いているが、古い作品には太陽系の科学的知識からみて間違っている、古いものもある。書いているそばから新たな発見があり否定されたりもしている。それだけではなく、社会的に21世紀の今日において許されない差別的表現もある。本書が出された時期には許されていたとしても、今日において一部の作品はそのままでの再版は難しいだろう。古い作品には、後の価値観の変化、進化によって作品自体が否定されるべきものもある。そのような作品は、「価値観が変化している」ことを理解できる読者でなければ間違った理解を与えるものになりかねない。注釈をいれるという方法もあるが、扱いには注意が必要だろう。
 古い作品を読むときの、古い作品を紹介するときのちょっとした難しさだ。

 それから、本短編集はノウンスペースの長編を一通り読んでから読んだ方がおもしろいかもかも。

いちばん寒い場所…水星の話。人間であるエリックの脳が収納されている宇宙船とハーウィーのお話。古い水星は自転していなかったりする。

地獄で立ち往生…金星の話。エリックとハーウィーが熱い金星で。

待ちぼうけ…冥王星の話。古い水星と並んで寒い冥王星には。

並行進化…火星の火星人の話。「プロテクター」に直接つながっていく。

英雄たちの死…こちらも火星の火星人話。本作品は差別的表現にあふれているので注意が必要。火星の基地にいるジョン・カーターが出てくるあたりはパロディなのだが。

ジグソー・マン…21世紀終わり、いまだ地球では長命のための臓器銀行が欠かせず、そのためには死刑となる罪人が必要不可欠だった。いま、ワレン・ルイス・ノウルズは監房で死刑判決を待つ身となっていた。

穴の底の記録…地球人(フラットランダー)のルーカス・ガーナーが小惑星帯人(ベルター)を訪ねた。2112年、地球(国連)が所有する火星にベルターがひとり不時着を余儀なくされ、古く放棄された基地(英雄たちの死で登場した基地)に向かい、そして火星人と出会うことになる。その記録をみるために。

詐欺計画罪…ルーカス・ガーナーは174歳になっていた。レストランでロボット給仕のサービスを受けようとしていた。そして連れの若い部下に対してロボット給仕をめぐるはるか昔のひとつの事件を話し始めたのだった。

無政府公園にて…アメリカの交通の象徴であるフリー・ウェイはもはや本来の目的では使われていない。すべてフリー・パークとなっていた。「暴力禁止」それ以外はなにをやっても自由。それがフリー・パーク。そして、それを担保しているのは警察本部と無線でつながる無数のドローン。カメラと音波銃を備えている。いま、フリー・パークで事件が起きた。無秩序の誕生である。

戦士たち…クジン族との出会い。冥王星から植民星ウイ・メイド・イット星までの中間で宇宙船エンゼルズ・ペンシル号は異星船と遭遇した。平和的な接触を信じて疑わない人類、はなから侵略以外考えていないクジン族。ジム・デイヴィズは学ぶのだった。

太陽系辺境空域…べーオウルフ・シェイファーが主人公の5番目の物語。高重力のジンクス星でルイス・ウーの父親カルロス・ウーと再開する。そして宇宙船失踪事件について異星局のジグムント・アウスファウラーの依頼を受けて太陽系へ向かう偽装船に乗り込むのであった。

退き潮…2830年ごろ、太陽から約40光年の世界に180歳のルイス・ウーがたまたま立ち寄った。15億年前に銀河系内の知性種族をほぼ一掃した戦争において一方の側であるスレイヴァー側は時間の経過を止めるステイシス・ボックスに貴重品を入れて未来に備えた。特別に大きなステイシス・ボックスを見つけたルイス・ウー。しかし同時に別の異星人も同じステイシス・ボックスを見つけたのであった。どちらも譲る気はない。そして…。

安全欠陥車…3100年。「強運」のティーラ・ブラウン遺伝子が拡がった人類世界は黄金時代にあった。開発途中の植民星マーグレイブで起きた自動車事故のちょっとした顛末。

 簡単に紹介すると以上のような感じである。「プロテクター」でも感じたが、重力井戸の底である地球人(フラットランダー)と、小惑星帯をベースに太陽系外にまで進出しようとするベルター(小惑星帯人)との対立構図は、後のアニメ「機動戦士ガンダム」にも通じるところがある。また、最近では小説・ドラマとなった「エクスパンス」でも地球人とベルターの考え方の違いなどが焦点になっていたりする。そういう点ではニーヴンの目の付け所はさすがである。
 また、最初の2作は1964年のデビュー作で「生きた脳の宇宙船」が登場しているが、アン・マキャフリイが「歌う船」を発表したのが1961年だから、こちらはマキャフリイをインスパイアしたものか、それともはやっていたのか。
 いずれにしても、SF大好きニーヴンらしい作品集である。

プロテクター

ラリイ・ニーヴン
1973

 ノウンスペース・シリーズの1冊。「フスツポク」「ヴァンダーヴェッケン」「プロテクター」の3章からなる長編である。ノウンスペースといえば「リングワールド」につきるのだが、本書「プロテクター」にはちょっとした思い入れがある。初版が翻訳されのは1979年で、たぶん高校生になった頃に本書を読んでいる。若干難解だったので、読後感はさほどでもなく社会人になってから一度手放したのだが、表紙の記憶は鮮明で、いつか読み直したいと思っていた。還暦間近になって、ようやくプロテクターの魅力が分かってきたのだ。
 ノウンスペース・シリーズはニーヴンの未来史シリーズで、その名の通り「既知宇宙」をベースにしたドラマである。本書はその初期にあたる時期、人類がはじめてアウトサイダー、すなわち地球外の高度に科学力を持った知的生命体と遭遇する物語を描いている。
 実はニーヴンのノウンスペースは太陽系からはじまるのだが、古い科学知識や未知の情報をもとにしながら古典SFにも触発されつつ描かれているため、初期の作品群には古さもある。ニーヴン自身もそれは認めていて、書き直してもややこしくなるだけだからそのままにしてある。たとえば、火星には火星人がいて、人型をしており、かつては科学文明をもっていたようだがすっかり退行してしまっており、なおかつ、水と反応して燃えてしまうという性質を持つ。どう考えても古いSFになってしまうので、この長編「プロテクター」で火星人は払拭されてしまうのだ。

 さて、はじまりは太陽系のベルター。小惑星帯に生きる人たちのことである。ベルターは太陽系内の資源を探索し、居住エリアを増やし、将来より広い宇宙に出ることと、おそらく最初にアウトサイダーに遭遇することを思いながら、人類の未来を切り開いていた。すでに人類は太陽系外のいくつかの星系で入植を果たしており、それぞれが自立の道も模索していたが、まだ人類の中心はあくまでも太陽系だったのだ。
 さてベルターのひとり、資源収集家のジャック・ブレナンが太陽系に入ってきたアウトサイダーにもっとも近いところを航行していた。このアウトサイダーこそ銀河の中心エリアに近いパク星系から来たパク人の名前をフスツポクというプロテクターであった。プロテクターとはパク人の最終形態でもっとも知性が高く、自分の若い血縁族の保護者である。そして、血縁族をもたないプロテクターは生きる目標を他に持たなければ食欲を失い死んでしまう存在である。フスツポクは、かつてパク星を飛び出していった過去の歴史を調べ、記録から宇宙船を復活させ、その航跡を追って太陽系までたどり着いたのである。
 そしていま近づいてきたベルターの船に乗っていたジャック・ブレナンをとらえ火星に進路を取った…。
 一方、地球の長命人であり、かつてARM(国際連合警察)のトップのひとりだったルーカス・ガーナーは、ベルターのリーダーのひとりニコラス(ニック)・ブルウスター・ソールからアウトサイダーの動向と国連が管理している火星への進入許可を求められ、高速の宇宙船を提供しともに火星に向かうことにした。地球人にとっても、ベルターにとっても、いや人類すべてにとってアウトサイダーとの接触は大事件なのだから。

 最初の接触のあった2120年ごろから約220年が過ぎた。フスツポクは死にそのアウトサイダーの宇宙船には捉えられたはずのジャック・ブレナンが乗って太陽系をふたたび離れ、目的地とみられた人類の植民星ヴンダーランドにも寄らずさらに遠くまで旅を続けているのが確認されていた。
 この2世紀で、植民星のジンクス星、プラトー星、ヴンダーランド星、ウィ・メイド・イット星、ホーム星はそれぞれ紆余曲折はありながら人口を増やし独自の発展を遂げていた。小惑星帯も地球もまた平穏な時期を迎えていた。
 そんな2340年にふたたびプロテクターをめぐる事件が地球を起点に動き出す。それはエルロイ(ロイ)・トルーズデイルの身に起きた不思議な出来事である。地球の自然公園で山登りをしていたはずが目が覚めると4カ月が過ぎ、記憶もないままに自分の声で録音されたテープにメッセージが残っていたのである。それは、全人類とパク人をまきこむ大きな歴史の幕開けでもあった。

 これ以上は書かないし、書けない。読むしかない。
 ただ、プロテクターと人類の関係についてはネタバレになるが、ちょっとネットをたぐれば読んでなくてもいろいろ出てくるので少しだけ解説しておく。
 パク人は、生まれて青年期までは事実上知能をほぼ持たない。青年期に繁殖し、繁殖期が終わると第三の成長期を迎え、ある種の植物を節食することでプロテクターになっていく。身体の節々にメロンのようなこぶができ、皮膚は硬化し、性器は失われ、知能は急速に向上し、そして、自分の血族、子孫を保護し守ろうという本能的な意識にとりつかれる。
 それは人類からみるとまるで老人そのもののようであった。
 そして、人類とは、パク人の亜種であり、おそらくかつてパク人が太陽系に入植したあと、プロテクターになるための植物が育たず、プロテクターを失ったあとになんとか生き残った若いパク人たちが幼生成長することで進化した結果生まれた存在だったのである。
 つまり、人類の老化とはプロテクターになろうにもなれなかった姿なのだ。

 そう、いま、私はプロテクターのなりそこねになりかかっている。すなわち老化だ。
 これを初めて読んだ頃は、第二次性徴の終わり頃、青年期にさしかかっていた。
 そして40数年後のいま、私は老化をはじめている。
 プロテクターにはなれないし、なろうとも思わないが、視点が変わっていく。
 諸君、時は確実に過ぎていくのだ。
 この先に、いつになるか分からないが死が訪れる。
 その前に、老化は進む。理解力は落ちる、読むことが辛くなる。
 その前に、それより前に、1冊でも多くの本を読みたいものだ。それが再読であっても。

映画 エスパイ

1974

 小松左京原作、福田純監督の日本映画である。日本SF界の巨人・小松左京が1964年から「週刊漫画サンデー」で連載した作品を原作にしている。
 wikiによると本作は山口百恵初主演映画「伊豆の踊子」の併映作品だったらしい。この当時、映画と言えば2本立て。併映は当たり前だった。考えてみればすごい話である「伊豆の踊子」とSFアクション映画「エスパイ」の併映。「伊豆の踊子」といえば、山口百恵三浦友和が初のコンビとなった映画である。wikiをみるといろいろいきさつはあるようだが、今考えるとすごい2本立てである。
 だって、「エスパイ」の方は、藤岡弘、由美かおる、草刈正雄が主役級、さらに加山雄三や若山富三郎まで出てる。藤岡弘は「仮面ライダー」が終わった頃。由美かおるはアクションもでき、ヌードシーンもやりはじめた頃。一方、草刈正雄は俳優に転向したばかりの頃で同年に東宝専属になったばかりの頃であった。それに、山口百恵と三浦友和だよ。最高じゃないか。
 当時この2本立てを見た人は、両作品の若い俳優たちのその後の活躍ぶりを見て、とてもいい思い出になったのではなかろうか。

 さて「エスパイ」とはエスパーのスパイ、超能力を持った秘密工作員の名称である。国際機関に属しその日本支部に藤岡弘や由美かおるがおり、テストドライバーをしていた草刈正雄の特殊能力をみて、日本支部のメンバーに加えたところから物語ははじまる。
 第二次世界大戦後、世界は冷戦下にあった。米ソ対立は各地に代理戦争にような紛争や緊張が生まれている。いま、東欧のバルトニアが世界大戦勃発の鍵を握っていた。国連の調停委員会は国際列車の中で逆エスパイのスナイパーに暗殺されてしまう。アメリカとバルトニア首相の会談が戦争回避には欠かせない。ソ連もこの会合を支持しているが、逆エスパイ組織はバルトニア首相の暗殺を試みる。果たしてエスパイの3人はこの危機を回避できるのか? そして、逆エスパイ組織とは、その真の目的は?
 ヨーロッパの国際特急、トルコ・イスタンブールなど、海外ロケも充実。とくにイスタンブールの往年の風景は1990年に行った頃とあまり変わっていなくてちょっと懐かしい感じがして個人的には嬉しかった。

 東宝は前年に小松左京の「日本沈没」で当てているのだが、本作は超能力ものということもあり、その表現には苦労が多かったようで、相当なB級映画感がただよう。ストーリーも予算と時間の枠に収めるための無理矢理感が強い。そういう映画ってあるよね。
 でも、草刈正雄と藤岡弘は足が長くて存在感があり、由美かおるはそれに負けていない。
立ち居振る舞いがかっこいい3人なのだ。まるでマンガみたい。
 なかでも、草刈正雄はしゅっとしていて、影があって、熱い男・藤岡弘と対照的にクールで、このひとと松田優作を並べた映画があればよかったのに、と思う。
 そして、化繊のパンタロンが由美かおるには実に似合うのだった。
 話がそれたが、この若き3人のふるまいを見るだけでも価値はある。

映画 リトル・ショップ・オブ・ホラーズ

1960
The Little Shop of Horrors

 1986年、映画「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」が公開される。日本での公開は翌1987年。日本ではバブル経済のまっただ中、カルト映画やB級ホラー映画はサブカルチャーブームの一翼として人気を博していた。映画「ロッキー・ホラー・ショー」でカルトムービーのおもしろさを知った私は、その流れでこの映画をみることになる。
 1986年版の映画は、1982年から上演されたミュージカルの映画化であった。しかし私は知らなかったのだ。このミュージカルにもオリジナルがあったということを。
 それが、この1960年版映画「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」である。白黒フィルムで撮影されたB級ホラー映画。日本では未公開。ロジャー・コーマン監督作品。現在はパブリックドメインになっているそうだ。そこで、21世紀の「サブスクリプション配信サービス」に乗りやすいのだろう。コストかかんないしね。
 wikiなどによると撮影期間2日間だったらしい。もっとも造形のための制作準備には結構時間はかかっていると思うが、これはまったくのオリジナル脚本だったのだろうか。
 それがのちにミュージカル作品になり、映画化され、その映画をもとにミュージカルの内容も変わり、アメリカでも日本でも定番のミュージカル作品になっていくなんて。
 すごいことじゃないか。

 ストーリーは、B級ホラーだけあってどたばたコメディ基調。売れない花屋の店主マシュニク氏のもとで店員としてやとわれている、相当ドジなシーモア君。今日もマシュニク氏に怒られている。シーモア君はマシュニク氏の娘オードリーに憧れていて、なのにマシュニク氏から店に役立たないと首にすると言われてしまう。
 シーモア君、お家では薬物&病院マニアの母と二人暮らし。楽しみは食虫植物の変異種を育てることぐらい。オードリージュニアと名付けたそれを花屋に持参し、これで人集めになるのではと期待する。しかし、元気のないオードリージュニア、これを生き生きとさせたら考えるという店主。考えたけど、水も、肥料もたっぷりやっている。どうすればいいんだろう。ドジなシーモア君はいろいろするうちに手を切ってしまう。血がオードリージュニアにたらり。するととたんに元気になる植物。指を次々に切っては育てていくシーモア君。ある日ついに血が足りなくなった。するとオードリージュニアは「腹が減った!何か食わせろ!」と言葉をしゃべり、シーモア君を脅すのだった…。

 ということで、舞台は花屋、町、花屋の常連客の歯医者の病院、シーモア君のおうち、レストラン、あとは警察ぐらい。造形は次々に成長していく怪奇植物オードリージュニア。登場人物もそれほど多くない。それなのに展開がいいのでおもしろい。ドタバタコメディホラー映画なのだ。
 まるで「8時だよ全員集合」でのドリフターズのシチュエーションコントをみているかのよう。
 しかし、この映画を見て、20年後にミュージカルにしようとした人はすごいと思う。
 そして、そのミュージカルを映画にした人たちも(具体的にはスターウォーズのヨーダ様ことフランク・オズ監督なのだが)。
 機会があったらぜひ見て欲しい。意外とおもしろいよ。

映画 宇宙戦争

1953
The War of the Worlds

 なんといっても「宇宙戦争」である。H・G・ウェルズである。「宇宙戦争」といえば1938年のアメリカでオーソン・ウェルズのラジオドラマが放送され、「火星人襲来」を事実と信じてパニックが発生したという話は1970年代の子供たちはみんな知っていた。少年誌などでくり返されたネタだから。でも、実際にはパニックそのものはなくて「パニックが起きた」という虚報がオーソン・ウェルズを名(声)優として世に知らしめるきっかけになり、そして、たとえば日本ではオーソン・ウェルズの英語教材が新聞広告通販でくり返し宣伝されることになったのだった。
 H・G・ウェルズの原作は1898年に発表されている。19世紀の終わりなのだ。しかし、その後繰り返し映画化やパロディ作品、三本足の機械兵器などをモチーフにした作品など、本作の影響は計り知れない。古典中の古典なのである。

 この原作をベースに1953年カラー映画化されたのが本作「宇宙戦争」である。日本では1970年代から何度となく吹き替え版が放映されている。だっておもしろいもん。
 特撮映画としては群を抜いてよくできている。1953年。日本で本格的な特撮によるSFや怪獣映画となると翌年のモノクロ映画ゴジラが最初であろう。そういう時期的なことを考えると本作の仕上がりはすごいとしか言い様がない。アカデミー賞の特殊効果賞や編集賞、録音賞をとっていたり、SF界では輝けるヒューゴー賞の映像部門賞をとっているのもうなづける話である。

 監督バイロン・ハスキン、製作ジョージ・パル。ジョージ・パルは「地球最後の日」の制作もしており、ほかにも「月世界征服」「宇宙征服」「タイムマシン」などSF映画史に残る映画プロデューサーである。

 さて、本作の舞台は20世紀第二次世界大戦後のアメリカ。テレビ放送も原爆もある冷戦下の現実を反映したアメリカである。カリフォルニアに隕石が落下、その隕石は実は火星人の侵略宇宙船で、中から空飛ぶ戦闘兵器が登場する。時同じくして世界中の都市に戦闘兵器が舞い降り、殺戮をくり返していく。原爆を使っても殺戮兵器1つ壊せない無力感が漂う。果たして人類は生き残るとができるのか。そして、人類を救ったものとは…。
 主人公はたまたまカリフォルニアに釣りに来ていた科学研究所のクレイトン・フォレスター博士と、コリンズ牧師に育てられ研究者として大学に通うシルヴィア・ヴァン・ビューレン嬢。ふたりの出会いからの活躍も見逃せないぞ。
 本作で特筆すべきは、原作の三本足の機械兵器を光の三原色のカメラアイ兼光線発射装置を持つ空飛ぶ円盤型機械兵器に変更したことである。人より少しだけ大きいサイズにすることで静かにしのびよることもできる恐怖感を煽ることに成功している。このあたりが映画を映画としておもしろくしたポイントだろう。
 今見てもおもしろいぞ。

映画 地球最後の日

When Worlds Collide
1951

 ルドルフ・マテ監督作品、制作ジョージ・パル、配給パラマウント。SF映画の古典のひとつである。原作はフィリップ・ワイリー&エドウィン・バーマーが1932年に発表した同名のSF。
 こちらについては、
https://inawara.sakura.ne.jp/halm/2005/05/04/when-worlds-collide/
に詳しく書いている。

 原作が戦前、映画も戦後すぐであるが科学的考証については、1950年当時からしても荒唐無稽なものである。それをおして映画作りを楽しんでいる制作陣の熱のようなものを感じる。

 ストーリーはこんな感じ。
 地球に巨大な放浪惑星ベラスと地球と同じぐらいの惑星ザイラが急速に近づいていることを天文学者が発見する。ベラスが地球への衝突コースであることを研究者たちは検証し、惑星ザイラに移住し人類が生き残れるわずかな可能性にかけて世界中でロケットをつくるよう提言するが、衝突しないという科学者もあり、対応は遅れてしまう。
 しかし、一部の研究者と支援者がロケット製造に乗り出す。地球最後の日までの残された時間は短い。そして、本当にザイラで生き残れるかどうかさえ分からない。わずかな人数のために大勢の人間がプロジェクトに関わる。ロケットに乗れるかどうかは最後の最後にくじで発表される。わずかな希望、かすかな希望。そしてロケットは破滅直前に地球から脱出するのだった。
 極限状態に置かれたとき、人はどのようにふるまうのか。愛を見つけるのか、個の生存本能のままに動くのか、それとも未来の希望のために自己犠牲を厭わないのか…。
 滅亡パニックものの定番である。
 のちの多くの映画や特撮ドラマの原型ともいえよう。
 なかでも「ロケット」は、20世紀前半のSF造形の典型のような形である。金色に光り輝く涙滴型にで先端は鋭く尖り、後端はイルカを思わせる尾翼(着陸翼)。射出レールに乗ってすべるように打ち出される「未来美」である。
 あこがれの未来。来なかった未来でもあるのだが。

 21世紀の今となっては突っ込みどころ満載である。
 ひとつずつ科学的に突っ込みながら見るのも楽しいかも知れない。

映画 地球の静止する日

1952
The Day the Earth Stood Still

 古典SF映画の名作である。リメイクされた作品は見ていないのだが、これはオリジナル。70年以上前の作品である。監督ロバート・ワイズ。
 空飛ぶ円盤飛来! 巨大人型ロボット! 人型の宇宙人のファーストコンタクト!
 全部揃っているが、ストーリーは冷戦時、核戦争の恐怖におびえる世界を描いている。

 話はこうだ。世界中で空飛ぶ円盤の飛行が目撃された。その円盤はアメリカの首都に着陸した。あわてて警戒し、戦車をはじめ軍が円盤を取り囲む。その周りにはたくさんの野次馬となった人々の姿がある。円盤からは、銀色の服を着た人間そっくりの男が降り立った。円盤を降り、近づいてきて英語を話し始める宇宙人クラトゥ。しかし、動揺したひとりの兵士が彼を撃ってしまう。そして、円盤からは巨大なロボットが登場し、武器や兵器を破壊しはじめる。クラトゥはロボットを制止し、地球の病院に運ばれていく。
 病院で驚くべき回復力を見せるクラトゥ。彼は「この国の責任者との面会」を要求する。そして、全世界の国家指導者を一堂に集め、そこで来訪の目的を語るという。その願いが叶えられなければ地球はたいへんな危機に陥るというのだ。
 しかし、冷戦下の不信に満ちた世界で、たとえ国連があっても国家指導者が一堂に集まることはなかった。
 クラトゥは地球人の考え方を知るため、病院から逃げだし、宿に泊まることにした…。

 第二次世界大戦は、アメリカが日本に原爆をふたつ落としたことで終結した。アメリカは核を持つことで世界の覇権をにぎることになった。しかし、東西に分かれた世界で、その覇権は長く続かない。ソビエトもまたその国力の元で核兵器を開発し、ふたつの超大国が互いに核ミサイルを向け合って、どちらが最終兵器を先に使うのかと不信と不安に満ちた時代を迎えていた。
 冷戦とは、最終戦争、核戦争の危機を日々過ごすことだったのだ。
 そんな時代の映画である。

 絶望の中に人は外からの圧力を求める。「オーバーロード」ものである。SFには圧倒的に進んだ地球外文明が人類の指導者として登場するジャンルがある。この映画もまた、そんなオーバーロードの作品である。
「もはや自分達だけではこの危機を乗り越えられないのでは?」という不安がそれ望むのだろうか。
 70年前の作品を見ながら、70年後にふたたび訪れた核戦争の危機を感じつつ、オーバーロードなしに乗り越えるしかないと思うのであった。

映画 最後にして最初の人類

last and first men
2020

 2018年に急逝した音楽家ヨハン・ヨハンソンが監督した映画作品である。
 そして、オラフ・ステーブルドンの小説「最後にして最初の人類」が原作である。いつか読まなければいけないと思っている1930年!に書かれた20億年未来の人類から現代の人類に送るメッセージの物語である。
 オラフ・ステーブルドンといえば、「オッド・ジョン」「シリウス」ぐらいしか読んでいない。ほぼ戦前の作家である。しかし、「最後にして最初の人類」が後のSFや様々な芸術、科学に与えた影響は大きいと聞く。偉大なる小説家なのだ。

 この映画はヨハン・ヨハンソンが急逝したことで完成は遅れたが、遺作として仕上げられた。
 見終わって最初に感じたのは映画監督アンドレイ・タルコフスキーのことである。「サクリファイス」「ノスタルジア」といった静かな時間の中に流れる人の物語、それに「惑星ソラリス」や「ストーカー」といったSF作品に描かれる人の物語。それと同じものを感じる。と同時に、同様にたぶん夢うつつになってしまう映画だ。

 本作品に人間は映像としては登場しない。はでなCGもない。モノトーンでいくつかの建造物とその風景がヨハンソンの音楽に乗って流れていくだけである。そして、ときおり女性の声で20億年の人類の物語が語られていく。

 音楽と、映像と、ティルダ・スウィントンの声。
 たったそれだけなのに、宇宙の広大さ、時間と空間のなかに刹那に存在する生命のはかなさ、せつなさ、かなしみ、希望、喜び、可能性、そういったものが心の奥底に響いてくる。
 我々が存在する宇宙が誕生して137億年、太陽系が誕生して46億年、地球に生命が誕生して35億年、「我々」現生人類が登場して20万年。太陽の寿命はあとおよそ50億年ほど。しかし地球の寿命は太陽のふるまいによって変わる。それでもあと5~10億年程度と見積もられている。
 20億年後、仮に人類の末裔が存在するとしても、すでに地球を離れ、ひょっとすると太陽系を離れているかも知れない。姿も、思考も、なにもかもが変化しているだろう。20億年あればひとつの方向だけではないかもしれない。
 それでも、タイトルにあるように「最後の」人類からのメッセージが届く。
 それはどのようなものなのだろうか。

公式サイト https://synca.jp/johannsson/

映画 サリュート7

Salyut-7
2016

 クリム・シペンコ監督のロシア映画。吹き替えで見た。なんというか、アメリカの「アポロ13」のロシア版という感じだろうか。この映画を見ると、ハリウッドの同様の映画が「アメリカ万歳!」をやっているなあと感じてしまう。つまり、ロシア万歳!なのだな。
 そういうのって日本の映画でもあると思う。プロパガンダ臭。でも、見ちゃうんだよね、こういう科学人間ドラマって。
 ストーリーは「アポロ13」同様に、実話に基づいている。ロシアの宇宙ステーション・サリュート7号は、1982年に打ち上げられ、何度も有人運用されていたが、1984年7月に無人となっていた。1985年2月、サリュート7号は突然電源喪失、制御不能に陥る。このままでは制御できないままに大気圏に落下する可能性もあることから、復旧のためにふたりの宇宙飛行士がソユーズT-13でサリュート7に向かう。手動ドッキングを成功させ、いくつもの困難を乗り越えて修理ミッションを行なう。
 この機能停止からの修理ミッションを描くのが、映画「サリュート7」である。
 今日の映像技術は、別にハリウッドだけのものではない。宇宙空間と宇宙から見た地球、1985年という40年近く前の風景や技術シーンが丹念に描かれている。それを見るだけでも心躍る映画である。
 1985年、それはロシア連邦らがまだソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)と呼ばれていた頃のことである。米ソ冷戦は続いており、宇宙開発競争は冷戦のひとつの形態でもあった。秘密主義、官僚主義、それはアメリカにもソビエトにも言えたのである。
 そのような条件下で、実現困難と思われた修理ミッションに挑むふたりの男。サリュート計画に初期から関わりシステムを知り尽くす男ビクトル。彼には若い妻がおり、初めての子の出産を間際に迎えていた。もうひとりは、ベテラン宇宙飛行士のウラジミール。サリュートへの長期滞在経験があり、操船技術にも長けてはいたが、心理的問題があるとして現役からはずされ退役者として妻や子と静かな生活を送っていた。
 彼らがこの困難なミッションに行くのはなぜか。それは要請を受けたから。そして、自分達ならできると信じているから。家族の不安をよそに状況も分からないスペースステーションを復旧させるべく、ふたりはソユーズに乗り込むのだった。
 時をほぼ同じくして、アメリカのスペースシャトル「チャレンジャー」が打ち上げられることになっていた。しかも、チャレンジャーのカーゴスペースは偶然にもサリュートを収容可能なぎりぎりの容積を持っていた。アメリカのソビエトの宇宙技術を盗られるわけにはいかない。ミッションが不調に終われば、ソビエトはサリュートをミサイルで破壊することも決めていたのである。ふたりは無事にミッションを達成し、地球に生還することができるのだろうか?

 そうか、チャレンジャーか。チャレンジャーが爆発事故を起こすのは1986年のことである。1985年は科学技術の勝利の年だったのだ。そういえばつくば万博が開かれたのも1985年のことだった。電電公社がNTTに変わった年。3Dのパビリオン、INSによる先進通信網、テレビ電話、キャプテン。それらはすべて来たるべき未来だった。
 1985年は希望の年だったのだ。
 その年に、サリュート7のことはどのくらい大きく報じられたのだろうか。
 日本を含む西側諸国はどうみていたのだろう。まったく記憶にない。
 それくらい冷戦だったのだ。

 いま、ロシアはウクライナに侵攻し、まるで20世紀が戻ってきたかのように深刻な世界戦争の危機にある。それは核戦争の危機だ。ふたつの核の危機だ。核兵器と原発破壊と。
 人類はいつまでこのようなことをくり返すのだろう。
 宇宙は広大で、人類はまだその入口にさえたどり着いていないというのに。

 映画「サリュート7」がどのくらい史実で、どのくらいフィクションなのか、ネットで軽く検索しても分からない。しかし、無人となっていたサリュート7が地上からの制御不能に陥り、それを復旧させるためにミッションが組まれ、不安定な手動ドッキングに成功し、修理ミッションを行なったのは事実である。そのひとつひとつに人間の知恵と勇気と他者への信頼が込められている。
 ちょっと調べれば最終的にどうなったかは分かるのだが、それは映画を見てからのお楽しみだ。
 最近ならば「ゼロ・グラビティ」を見て、楽しんだ人にはぜひお勧めしたい。